2019年07月23日

能登珀琳寺伝世の研磨双耳壺

山岳信仰を習合する過程で珠洲陶器は宗教的美意識を受け継いでいった。四百年の間、技術面ではほとんど進化が見られず、技術的では新しい展開が見られない。それゆえに珠洲は須恵器が停滞したかのような存在として扱われている。仕上げの方法も厚板で胎土を叩き締める成形が基本であるため、須恵器の技法を受け継いでいるとされる。

しかしながら研磨大壺や研磨四耳壺、双耳壺では叩き締め後、器面を箆で磨き上げる点で、須恵器とは大きく異なる。本器は畠山氏ゆかりの中能登町金丸の珀琳寺に伝世した研磨双耳壺であるが、これも丁寧に箆磨きされている。この種の宗教具は、石動山の神仏習合とも関係する。珀琳寺は石動山の麓に位置し、中世修験とも関係していたと考えられる。

 石動山の稜線は珠洲岬まで伸び、修験ルートを形成しており、珠洲陶がこのルートを経て伝播した、と考えられる。石動山を中心とする鹿島地域は穀倉地帯である邑知地溝帯と重なり、珠洲陶の発掘例も多い。また中世の薬師信仰とも関係し、農耕具以外の宗教具としての珠洲陶の需要は多かった。

縁起によれば、1500年前後に高野山正覚院で修行した西教が金丸七坊に入ったと伝わる。珀琳寺は南北朝時代に能登の守護職を務めた畠山の支配下にあり、畠山家とは密接な関係にあった。関係は長く続き、畠山即翁が七尾城を訪れた際に寺で茶会を開いている。即翁の先祖は七尾城主であった。

四耳壺は能登地域にのみ発見される遺物だが、研磨双耳壺は初見である。肩に二つの鰭耳をもつ研磨壺は歴代住職の蔵骨器として伝世したものと聞く。両耳は四耳壺の耳よりもやや小さく、四耳壺の耳が退化した印象である。厚板で叩き締めた後、丁寧な研磨調整が施され、器表には暗緑色の自然釉がかかり、火前に置かれたことがわかる。

完成度は高く室町中期の精品である。なお、畠山家は十五世紀半ばから、家督争いから急速に衰え、荘園制度の衰退とともに消滅している。中央の文化を能登にもたらした畠山家だが九代で廃絶している。

つぼ
研磨双耳壺 室町(15世紀) 器高34


2019年06月28日

第7回ベルカント・ガラ・コンサートを終えて

6月22日(土)に第7回ベルカント・ガラ・コンサートを開催、盛会のうちに終えることができました。ベルカントは、色彩やニュアンスを多面的に表現する技法ですが、日本では音楽大学でも指導されることはありません。インターネットで検索すると、多くの記述がありますが、本質的なベルカントは皆無に近く、ドイツ歌唱法をベルカントに置き換えただけ記述もあります。

近年ベルカント歌手は減少し、日本ではベルカントの体系的な教育は遅れています。当研究所では消滅したベルカントの復活を目指して、第7回ベルカント・ガラ・コンサートの開催に至りました。来場者は「とてもよく響いて、クリアな声に驚いた」「曲目は演奏者の声に合って感動した」などの声が寄せられました。

日本歌曲は、男声で「富士山見たら(橋本國彦)」「樽の唄(清瀬保二)」を皮切りに、「平城山(平井康三郎)」「白月(本居長世)」、「野の羊(服部正)」、「かごかき(貴志康一)」を唱いました。

第二部では.フィザルモニカの弾き唱いで「広場(大中恩)」を、独唱で「松島音頭(山田耕作)」、ゴンドラの唄(中山晋平)、「浜千鳥(弘田龍太郎)」を唱いました。アリアは以下の9曲です。表現者の心構えが問われる曲ですから、稽古量が問われます。今回はあえてヴェリズモ・オペラから選曲しています。
                   
1. 歌劇『トスカ』より「妙なる調和」(プッチーニ)
2. 歌劇『リナルド』より「私を泣かせて」(ヘンデル)
3.歌劇『マクベス』より「哀れも誉も愛も…」(ヴェルディ)
4.歌劇『道化師』より「衣裳を着けろ」(レオンカヴァルロ) 
5.歌劇『トスカ』より「星は光りぬ」(プッチーニ)     
6.歌劇『トロバトーレ』より「静かな夜」(ヴェルディ)   
7.歌劇『道化師』より「プロローグ」(レオンカヴァルロ)
8.オペレッタ微笑みの国』より「君こそわが心のすべて」(レハール)
9、歌劇『トロバトーレ』より「静かな夜」(ヴェルディ)    


2019年06月19日

第7回ベルカント・ガラ・コンサートのご案内

第7回ベルカント・ガラ・コンサート

2019年6月22日(土) 開場13:40 開演14:00
会場 雑司ケ谷音楽堂  入場無料(全席自由)

[出演者]
井上 諒子 上島 光雄 中野 桃子 田野 敦久 松 奈央子 松 宏紀 
ピアノ伴奏 阿部 一真  小圷 愛  企画・指導 谷川 須佐雄

[演奏予定曲]
君と旅立とう  私を泣かせて下さい  寂しい部屋で  朝の歌  
セレナータ  松島音頭  かごかき  平城山  浜千鳥  ゴンドラの唄  
白月  樽の唄  富士山見たら  野の羊  歌劇『トロヴァトーレ』より)
「静かな夜」(ヴェルディ) オペレッタ『微笑みの国』より「君はわが心のすべて」
(レハール) 歌劇『道化師』より「プロローグ」&「衣装を着けろ」(レオンカヴァルロ)
歌劇『トスカ』より「妙なる調和」「星は光りぬ」(レオンカヴァルロ)
フィザルモニカ弾き唱い「広場」 ピアノ独奏/エレジー(ババジャニアン)
フルート独奏/メロディ(ババジャニアン)他

主催:プロメッサ総合研究所 
お問い合せ先:03⁻3230⁻1525  E-mail:susaotanikawa77@gmail.com


map2



2018年08月14日

教育者山本良吉の実像 3 ―「野球害毒論」と野球を禁じた校則 

旧制七年制武蔵高等学校が設立されたおり、教頭の山本良吉は一学年八十人での少数精鋭教育を掲げ、厳格な教育をおこなった。そのために大量の退学者が出て、卒業生が半数以下になる年もあった。この件では各方面から批判されたが、それ以上に校則で野球を禁じたことは大事件だった。社会背景に選手らの素行不良があったらしく、他校でも野球禁止措置があった。このことで頑固で偏屈、直情的な良吉の教育者像が定まった感がある。

「野球害毒論」は、明治四十四(1911)年に東京朝日新聞が展開した「野球と其害毒」全二十二回の連載が発端だった。今年は高校野球100年を記念する大会が開催されているが、主催元が「野球害毒論」を連載した朝日新聞であることを私は奇異に思っている。当時はあれほど反対したのにである。

山本良吉は静岡県尋常中学校に野球部が創部されたおり、野球部長として浜松中学校との公式戦第一戦、二戦とも審判を務めている。その山本が「野球害毒論」から十年以上経て武蔵高等学校で野球を禁じた。それ以前の明治三十九年九月版『教育学術界』「学生元気問題」に野球について述べている。

かのベースボール、ボートの如きは体格を強くして元気を盛にする外此意味(自己活動)にても元気を盛にする基となる。然れども此等は生徒全体が従事し得る者にあらず。生徒の一部元気盛なりとも、生徒全体の元気には関せず。且つ此種遊戯に一部生徒のみ熱心する時は、往々種々の悪風を生ずることあれば、之を非常に奨励するの可否は余には尚一疑問なり

山本の親友である西田幾多郎も野球に限定しないまでも、『読書』で過ぎた運動の害について述べている。西田は哲学者であるが、サッカーに似たフートボールを好み、運動の効能は十分理解していた。その点では山本良吉とも共通する。

運動にのみ趣味を有するものは思想は粗苯となり、感情は遅鈍となり、到底精細なる理を考へ、深遠なる情を味ふことができず、少しく複雑にして深遠なる問題に撞着すれば、忽ち進取の氣象を失うて、勇氣沮喪し、強ひて少しく勉むれば遂に神経衰弱に陥るに至る、余は運動家なるものが試験前に最も神経衰弱に陥ると思ふ。真に強固なる意志は却つて奮つて難解の書をよみ、進んで難問題を考へ、何處までも徹底的に解決せざれば巳まざる氣力によって養成し得ると思ふ。

なお良吉は森五郎教授にドイツにおける野球事情調査を依頼し、ベルリン独乙高等体育専門学校のドクトル・ディーム(代理ドクトル・ホルツ)氏から「ドイツでは現在のスポーツで十分で、あえて野球を加える必要を認めない、かといって野球に害毒があるとも考えない。各学校に野球道具を備えることは費用面からも難しい」との報告を受けている。

「生徒の品性、健康に与える影響への質問」には、有害なる影響は認められない理由を挙げている。「投球、補球、打球、走行等ニヨリ身体ノ練磨ヲ促スモノナレバ、又、時宜ニ応ジ、打球スベキカ否カヲ決スルハ、決断力ノ養成ニ妙ナランカト存知候ヘバ、身体ノ運動限度トシテハ、生徒ニ取リテモ、完全ニ危険ヲ伴ハザルモノト思惟イタシ候」等報告は野球に対して否定的なものではなかった。

ドイツの野球事情を知った後、良吉は慎重に野球を禁じた様子が窺える。報告書は『晁水遺稿集續篇』に掲載されている。森五郎教授は私が大学1,2年にドイツ語を習った先生だった。もう50年も前のことである。

逆に野球の効能を説く天野貞祐(独協大学学長)の主張もあった。天野は西田幾多郎の門人で良吉にも近い存在だが、『學生に與ふる書』「スポーツと人生」で野球を推奨している。この書を入学直後に読んだが、野球が苦手だった私には共感しがたく、その意味では良吉の考えに近かった。天野は野球を例にして西田の「多即一、一即多」を説明するが、私には説得力は感じられなかった。とはいえ、天野貞祐は日本野球に貢献した偉大な哲学者でもある。



2018年08月05日

ベルカント歌手を目指そう 第2号 ―正しい姿勢で声を開放する

正しい姿勢で声を開放するには、スタンディングの基本を学ぶ必要があります。表現者にとってスタンディングはウォーキングと同様、とても大切な基本動作です。まず、10センチほど利き足を正面へ出して、反対の足を握りこぶし一つ分後ろへ下げて軸足とします(60°外側へ開く)。後ろ足は固定した後、少しゆるめて膝をクッションにしながら立つ(この立ち姿勢を30回繰り返す)→美しい立ち姿勢が確保できたら、足をそろえてしゃがむ。

このとき目線は遠くへ向ける。以上の「立って、しゃがむ」を40回ほど繰り返します。慣れないうちは結構、厳しいと思いますが、立つという単純な行為が横隔膜や大腿筋、臀筋の強化に貢献します。スタンディングは演奏家がステージでとる立ち方ですが、欧米では講演や講義でも推奨されています。長時間の本番でのスタンディングでは軸足を10回ごとに変えましょう。

ところで最近の接客やコミュニケーション研修では、両手を身体の前で組むよう指導されます。謙虚と従順を示すための姿勢との説明ですが、説明する指導者の美しい姿も声も見ません。発声・発語をともなう姿勢としては手を組むことは誤りなのです。足を組むのと同様、身体の前に手を組むことは相手のメッセージを拒否する無意識の態度・しぐさなのです。自己開示を避け、双方向のコミュニケーションを妨げますから、手を組む癖がある方や顔や上体を揺らす方は直ちに改善しましょう。

接客に際しても組み手は胃部のあたりに置かれますから、どうしても肘を張る姿勢になって拒否的に見えます。丁寧にも謙虚にも見えませんし、手を組んで深いお辞儀をすることもできません。場合によっては慇懃無礼にも見えますから注意しましょう。手を組むことはコミュニケーションが苦手でレッスンを希望する方に共通する特徴です。組み手を解き、手を開いただけで一気に声が開放されます。開いた手は親指を上向きにすると、より効果が得られます。

* 棒立ちにならないように利き足と軸足の位置を確認する
* 両足が揃わないようにし、「気をつけ」や「逆ハの字」の姿勢は避ける
* 前肩や猫背を避けるために身体の前で手を組まないこと。両手を開き、胸
郭を開きましょう


2018年07月20日

表現者は局面ごとに適切な言葉を選択する

表現者を目指す人は、芸術を志す人以外にもビジネスマンも含んでい
ます。つまりこの世に生きる者は誰であっても、もっと言葉にデリケー
トで なければならないのです。しかしながら、現代はテレビやマスコミ
に登場するタレントが社会の言葉をリードする傾向があり、私はこの傾
向をいつも苦 々しく思っています。

これからも改善されることはないでしょうが、とりわけスポーツ関係者
の言葉は、不自然で不適切だと思っています。たとえば、「ヒットを撃
つ」「シュートを撃つ」などは、同じ意味をもつ二つの意味が重なって
い て気持ち悪く感じます。

またビジネス界で常套句になっている「ご迷惑とご心配をおかけして申
し訳ありません」も不思議な言葉です。人が死んで関係者にも社会的に
も大きな損害を与えた事実に対しても、「ご迷惑」と「ご心配」で済ま
すのは滑稽にすら見えます。頭をわざとらしく下げ続け、抽象的かつ情
緒的な表現に終始する姿に私はいつも困惑して失笑してしまいます。

損害や危機に対して「ご迷惑」も、「ご心配」もないのです。ご心配と
は誰が、何に対して心配を与えたのか、心配は個人個人が心情的に感ず
る情緒であるから、これを企業や関係者が謝罪に用いることは、極めて
異常といわざるを得ないのです。もう心のこもらない形式的な謝罪は止
めにしましょう。

「ご指摘の件についてはお詫びしなければならないと思います」に対し
てマスコミの突込みが皆無なのも不思議です。それどころか謝罪した、
と報道するくらいですから異常事態です。「謝罪しなければならない」
は感想を述べたにすぎず、「…と思います」は思うだけであって謝罪で
はないのです。政治家の言語能力は極めて低いのだと実感しています。



2018年06月22日

アコーディオンでオペラを弾き唱う    

ここ十年ほどはアコーディオンによる「弾き唱い」がテーマです。イタリアのPIGINI社の中型器を愛用していますが、よく目にする鍵盤式ではなく右側のメロディ部はボタンで構成されています。しかも立って弾き、唱いますから私には至難の業です。何しろ重いのです。

重量は10.5キロですが、音量と音質を重視すると、これ以上軽量化することもできず2時間も練習すると肩、腰、膝、臀筋が痛みます。「楽器を軽くすることを考える暇があるなら身体を鍛えよ」とは調律師の言葉。毎朝、10.5キロを抱えてスクワットをしますが、40回がやっとです。

本番は6月24日、新宿角筈区民センターで終えました。小さな会ですが、それでも吟遊詩人を目指す私には、貴重な機会でした。楽器の演奏はともかく、歌唱の方はまずまずだったと思います。声はベルカント歌手としての音量もあり、会場からブラヴォーの声もあり励みになりました。

演奏曲は、歌劇『ラ・ファヴォリータ』 第二幕より 「さあ、レオノーラよ、そなたの足許に」です。立って弾き、かつ唱う演奏スタイルを徹底していますが、相当なエネルギーを使うことになります。5分の曲ですが、終えてみると精魂を使い果たした感があります。

肉体的な損耗ではなく、右手でメロディを弾き左手でコードを弾く、そして空気を送るべローイングという操作は精神に強いストレスを加えます。演奏中は、楽器のほかにメロディやリズム音程、表現を考えて唱わねばならないので、頭は混乱します。精神錯乱状態での演奏をご理解いただけると思います。

原題の「吟遊詩人」を目指す活動ですが、道半ばといったところです。9月にはこの曲を再演奏するつもりです。このときはピアノ伴奏を加えてより重厚な演奏にしたいと考えています。それまでは新曲とともに稽古を続行しなければと決意しています。練習ではなく、あえて稽古という言葉を使っています。

Youtubeで「Vien Leonora」と検索すれば、世界の名歌手の演奏を聴くことができます。是非お試しください。



2018年03月21日

第6回ベルカント・ガラ・コンサートご案内

このたび第6回ベルカント・ガラ・コンサート開催の運びとなりました。当研究所では18世紀にイタリアで完成した「ベルカント発声法」を多面的に研究し、今回イタリア声楽曲を中心に、日本歌曲、ピアノとフルート独奏、フィザルモニカによる演奏を加え、難易度の高い曲を通してべルカント歌唱法に習熟することを目標に全26曲のプログラムを構成いたしました。演奏者としては未完成ですが、日々自己研鑽に取り組む研究員にご温かいご声援をお願い申し上げます。

プロメッサ総合研究所 代表 谷川須佐雄

第6回ベルカント・ガラ・コンサート

2018年3月24日(土) 開場13:30 開演14:00
会場 雑司ケ谷音楽堂  入場無料(全席自由)

[出演者]
井上諒子 上島光雄 田野敦久 松奈央子 松 宏紀 
ピアノ伴奏:阿部一真 小圷愛 企画・指導:谷川須佐雄

[演奏予定曲]
  君と旅立とう 愛のカンツォーネ 帰れソレントへ ラ・スパニョーラ(スペイン娘) 懐かしい面影 カルーゾ 天使の糧 グラナダ 沙上 松島音頭 夢見たものは
秋の月 木兎 浜辺の歌 歌劇『ラ・ファヴォリータ』より)「さあ、レオノーラよ、汝の足許に」 歌劇『椿姫』より「ああ、そは彼の人か〜花から花へ」 歌劇ノルマより「清き女神」 フィザルモニカ弾き唱い/ゆく春 さくら横ちょう ピアノ独奏/ソナタ1.2(パサリブ曲)フルート独奏/アリア、メロディ(ババジャニアン曲) 他

主催:プロメッサ総合研究所 


map2


2017年11月27日

教育者山本良吉の実像―最初の挫折 癸

第四高等学校から東京帝国大学文科大学選科へ
                
明治四年十月十日、山本良吉は加賀藩の下級武士の子として生まれ、小学校卒業後は石川県専門学校に入学するが、明治十九(1886)年に諸学校令が発布され、学校は第四高等中学校に改組された。初代校長に元鹿児島県議会会長柏田盛文が就任し、学校は薩摩出身者で固められて藩校以来の伝統はすっかり消えてしまった。

このことを憂えた良吉らは校長の教育方針に反発、校長排斥運動の先頭に立ち、その結果、旧加賀藩出身の教師はみな更迭された。恩師北条時敬も校長と対立し、第一高等学校に転じることとなった。

予科一級の成績簿では、鈴木大拙は学年試験を受けずに退学、山本良吉は第一学期に「科業ヲ休マントシテ教員ヲ欺ク」の行状により退学、さらに西田幾多郎は、無届け欠席・欠課が多く、行状も悪いために進級できなかった。

学校への抵抗運動による退学処分は、良吉の最初の挫折であり、教育界に進む遠因ともなっている。この事件を契機として良吉は教育への道を見出したのであろう。四高を退学した良吉は、明治二十三(1890)年に石川県共立尋常中学校の教務嘱託となり、生来の病弱と貧しさから金沢に留まっていた。

やがて恩師北条時敬や友人らの支援を受けて、東京帝国大学法科大学政治学科選科に入学、先に入学した西田幾多郎や東京専門学校から転校してきた鈴木大拙とも机を並べたが、政治学科への不満から哲学科に転科するのである。

良吉の教育研究は哲学科選科時代に始まり、論文集『史海』にルソー小伝「ジャン・ジャク・ルソー」を書き、『教育時論』に「ルソーの教育説」を三回にわたって発表している。



2017年10月26日

教育者山本良吉の実像―武蔵大学三理想の淵源 癸院

教育者山本良吉を知る

これまで私は母校の成り立ちには無関心だったが、単科大学時代最後の卒業生として設立当時のことを想うことがある。西田幾多郎の『善の研究』や『絶対矛盾的自己同一』を読んでも理解できず、もっぱら書簡集や日記、随筆、歌集に逃避していた若き日への郷愁からだが、もう半世紀も前のことになる。

卒業して就職後の異動先奥能登で、孤独に耐えていた私は石川県尋常中学七尾分校で懊悩する西田に自分を重ねていた。そのことを『対話5号』に寄稿しようと思い立ち、櫻井先生にご相談したところ、先生は「西田より先に山本良吉を書いたらどうか…」と助言され、同時に山本良吉の再評価の必要について語られた。母校の教育基盤を築いた教育者の実像を知ることは、自分自身を知ることでもある。そう考えて私はこの小評伝を書くことを決意したのである。

山本良吉は同郷の親友西田幾多郎や鈴木大拙ほど著名ではなく、今や歴史から消えつつある存在だが、『教育時論』『教育学術界』『教育界』『公民教育』に数々の論考を発表し、中等教育の改革に貢献した偉大な人物である。その理念は暗記主義、管理主義を排し、自力で自らの可能性を見出すこと、模倣ではなく、主体的に新たな価値を創造するというものだった。国家有意の人材を育成することを目標とした三理想は、今も武蔵大学の理念として受け継がれている。私が在籍した昭和四十年代、正田建次郎学長は以下の『武蔵の教育理想』を述べられ、以来、私はこの言葉を活動の指針として生きているのである。

国際的な感覚と知識を身につけた人材を生み出す。身につけるためには自主的に調べ、考えなくてはならない。これが武蔵大学の建学以来の理念であり方針である。……大学では自己を社会との関連に於いて確立し、併せて社会の一員として役立つ専門の知識技能を身につけること、それ自体を目的として専念すべきである。ともすると知識、あるいは実学を偏重するきらいがある。知識はそれが働かされて初めて効能があるので、そのためには感覚にまで深められていることが望ましい。自ら調べ自ら考えるという、本学の教育方針はそのためのものであり、知識の切り売り的な、書物を読んで事足りるような教育は本学の取らざるところである。