2020年09月29日

珠洲叩打文壺に魅せられて

もう四十年以上前のことだが、私は当時鳳至郡穴水町に住んだことがある。雪の積もったある日、一人の古老から黒々とした古い壺を見せられた。この壺は昭和三十六年に珠洲焼と命名され、一部の専門家には知られていたが、まだ全貌を知る者はなかった。そこで私は状況のおりに古陶磁研究家の岡田宗叡氏を訪ねることにした。

昭和三十年代に打痕のある壺を発見し、金沢でも巴文の印刻をもつ大壺を見たこと、能登の中野練次郎、間谷庄太郎氏らと窯跡を調査したという話だった。まだ名もなき窯を見て、二人から「能登焼と呼びたい」と告げられたという。だが、岡田氏は「窯跡は珠洲市内に群在している。珠洲という名は万葉集にもあって語感も美しい。珠洲窯としたらどうか」と提案し、珠洲古窯と命名されたという。

ところで珠洲窯は十二世紀に開窯し、灰黒色を帯びた大甕、擂鉢、壷などを生産しながら十五世紀中葉には消滅している。考古学界での認知度は低く、六古窯(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)に準ずる程度の認識だった。珠洲窯の還元焔燻焼法は独特である。そんな好奇心から昭和四十九年から三年間にわたって、私は奥能登の山村をくまなく歩き、古老から話を聞いた。

伝世品から発掘品、陶片まで相当数収集したが、古老は「珠洲ぁ、越前やら信楽とは別のもんや…」、と語る。珠洲古陶は無機質で、ほのぼのとした土味はなく、冷え冷えとして静謐感を漂わせる。写真の珠洲壺もその例に漏れない。もう手元に何十年もあるが、一瞥ごとに心の深いところに語りかけてくれる。見て心地よい一品である。

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珠洲叩打文壺  13世紀 器高31.5  口径11.6   出土地未詳

2020年09月07日

ベルカント歌手を目指そう癸粥歐祐峇愀犬任倭蠎蠅寮爾帽腓錣擦茲

ベルカント歌手を目指すには人間関係が大切です。とくに仕事の声では相手の声に合わせて、状況によって変えましょう。仕事で声を戦略的に使い分けるには、相手を説得する強い声と、関係を良好にする快活で明るい声を使い分けましょう。声を出すときは軽く手を握ったり、開いたりすることで高低や声の調子をコントロールします。円滑なコミュニケーションのためにも、相手の声を観察し、自分の声を相手と“おあいこ”になるような声を選択します。

品格ある声を目指し、雑な声は避けましょう。コミュニケーションでは相手の声を観察することが大切です。では3つの声を使い分けましょう。

1.グー(閉じた声)
手を閉じて、普段よりゆっくりトーンを抑えて声を出す。相手を説得するのに効果がある強い声です。少しくぐもった声になりますが実行しましょう。ただし、しっかりと腹圧をかけないとボソボソ声になり、貧弱になりますから、鼻から息を深く吸って落ち着いて声を発しましょう。

2.パー(開いた声)
手を少し開いて、普段より声を高めにしてハッキリと話しましょう。明るく快活に響く声で少し高音になります。口が横開きにならないようにします。くれぐれもキャンキャン声にならないように注意しましょう。口角を上げると口が横開きになりますからキャンキャン声になりますから、口角を上げてはいけません。ヴォイス・トレーナーやマナー講師は正しいとは限りませんから…。

3.チョキ(尖った声)
唇を突き出すようにして発声する鋭い声。いわゆる「キンキン声」で強い主張には向きますが品格を感じさせないため、この発声する人は意識して使用しないことです。総じて高音で話す人に多く見られますから、鼻から深く息を吸ってゆっくり話すことで改善しましょう。口角泡を飛ばす激しい声です。



2020年05月31日

個人レッスンを再開します!

新型コロナ感染症の拡大にともない、3月28日(土)から5月30日(土)
まで研究活動を自粛していましたが、このたび東京都の休業要請第2段階の
緩和措置を受けて個人レッスンを再開いたします。

6月4日(木)のレッスンから予約をお受けしますので、Emailもしくは
電話にてご連絡ください。なお東京都へは「ベルカント発声法に基づく歌唱
法の指導並びに交渉力の強化、危機管理力の強化に関する研究機関」として
届けております。

               プロメッサ総合研究所 代表 谷川須佐雄


2020年05月24日

合鹿平盃を懐かしむ

この平盃は能登の柳田村に伝わったものですが、製法や塗の詳細は不明です。

合鹿椀は旧柳田村文化財保護審議会が昭和六十三年から調査を開始し、平成五年に調査結果を著書『合鹿椀』にまとめ、椀一式を村文化財に指定されています。柳田村からは珠洲古陶も発見され、柳田村が能登内陸の中世仏教信仰の拠点だったことが窺がえます。

合鹿椀の存在は昭和三十年代には一部の数寄者に知られていましたが、私が奥能登に住んだ昭和四十九年にはもう見ることはなく、昭和五十一年早春、塗師職人の蔵で見たのが初めてです。

火の気のない薄暗い塗師蔵で、わずか四客の椀が裸電球の下で妖しい光を放っていました。もう半世紀も前のことですが、この日から私の合鹿椀探求の旅が始まったのです。春を迎えるたびに懐かしく思い出します。

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2020年04月25日

ベルカント歌手を目指そう癸魁欷腔の衰えを改善しよう

ベルカント歌手を目指そう癸魁欷腔の衰えを改善しよう

「オーラルフレイル」は、口腔内の力の低下や食の偏りなどを含む、身体の衰え
の一つで、健康と機能障害との中間にあります。発語力の低下や食べこぼし、むせる、
噛めない食品が増える、口内の乾燥ど小さな症状が特徴です。


皆さんには小さなことですが、私のベルカント発声法のレッスンでは20歳代でも
見られる現象で、ここ10年ほどの間に増えています。それは大学の授業やゼミなど
でも長時間話す機会がないこと。社内外でメールのやりとりが増えて電話での会話が
減っていることも原因です。

人とのつながりや生活の広がり、共食といった「社会性」を維持することは、健康分野
にも関係します。健康分野には歯や口腔機能の健康も含まれており、これらの機能の低下
はオーラルフレイルとも関連します。

歯周病やむし歯などで歯を失った際には適切な処置を受けることはもちろん、定期的に
歯や口の健康状態を歯科医に診てもらいましょう。放置すると食が細くなって筋力が落ち
たり、話しにくさから対人関係能力も低下することもありますのでようちゅういです。

中には閉じこもりから健康寿命を左右することもあります。大きく口を開けて「アー、エー、
イー、オー、ウー」と5回、口をすぼめて「ウ、イ、エ、オ、ア」と順番を変えて5回ずつ
発語練習し、口輪筋を鍛え、呑み込む力をつけましょう。舌や唇を使わないと難しい「パ」
「タ」「カ」などの発音練習も繰り返しましょう。



2019年10月09日

クメール祭器 黒褐釉四脚象型壺

南海古陶のうちクメールの製品は少なく、蒐集家にとって入手することは難しいが、丹念に現地や国内市場に目を配っていると、ふと目にすることがある。以下の祭器はロッブリ窯の最盛期の作で、祭器として丁寧に焼成された様子がうかがえる。

ロッブリ窯では象や兎などの動物を象った黒褐釉陶が知られており、タイ陶磁との深いつながりを示している。最初の作品は青磁の双耳があり、手が込んでいる。二点目の作品は頭部に像使いが乗り、側面には13人の人物が張り付く。人物はいずれも動きがあり、表情は豊かで軽快、稀少な作品である。

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【時代】12〜13世紀
【出土地】カンボジア
【特徴】青磁耳付き球胴の象型壺 
【寸法】(cm)縦:16.0 横:15.0 口径:3.8 重量:11.9





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【時代】12〜13世紀 【出土地】タイ・オムコイ
【特徴】象型壺に像使いと人物13人。端正で精巧な大型作品。
【寸法】(cm)縦:19.6 横:16.8 口径:8.4 高さ:17.9



2019年07月23日

能登珀琳寺伝世の研磨双耳壺

山岳信仰を習合する過程で珠洲陶器は宗教的美意識を受け継いでいった。四百年の間、技術面ではほとんど進化が見られず、技術的では新しい展開が見られない。それゆえに珠洲は須恵器が停滞したかのような存在として扱われている。仕上げの方法も厚板で胎土を叩き締める成形が基本であるため、須恵器の技法を受け継いでいるとされる。

しかしながら研磨大壺や研磨四耳壺、双耳壺では叩き締め後、器面を箆で磨き上げる点で、須恵器とは大きく異なる。本器は畠山氏ゆかりの中能登町金丸の珀琳寺に伝世した研磨双耳壺であるが、これも丁寧に箆磨きされている。この種の宗教具は、石動山の神仏習合とも関係する。珀琳寺は石動山の麓に位置し、中世修験とも関係していたと考えられる。

 石動山の稜線は珠洲岬まで伸び、修験ルートを形成しており、珠洲陶がこのルートを経て伝播した、と考えられる。石動山を中心とする鹿島地域は穀倉地帯である邑知地溝帯と重なり、珠洲陶の発掘例も多い。また中世の薬師信仰とも関係し、農耕具以外の宗教具としての珠洲陶の需要は多かった。

縁起によれば、1500年前後に高野山正覚院で修行した西教が金丸七坊に入ったと伝わる。珀琳寺は南北朝時代に能登の守護職を務めた畠山の支配下にあり、畠山家とは密接な関係にあった。関係は長く続き、畠山即翁が七尾城を訪れた際に寺で茶会を開いている。即翁の先祖は七尾城主であった。

四耳壺は能登地域にのみ発見される遺物だが、研磨双耳壺は初見である。肩に二つの鰭耳をもつ研磨壺は歴代住職の蔵骨器として伝世したものと聞く。両耳は四耳壺の耳よりもやや小さく、四耳壺の耳が退化した印象である。厚板で叩き締めた後、丁寧な研磨調整が施され、器表には暗緑色の自然釉がかかり、火前に置かれたことがわかる。

完成度は高く室町中期の精品である。なお、畠山家は十五世紀半ばから、家督争いから急速に衰え、荘園制度の衰退とともに消滅している。中央の文化を能登にもたらした畠山家だが九代で廃絶している。

つぼ
研磨双耳壺 室町(15世紀) 器高34


2019年06月28日

第7回ベルカント・ガラ・コンサートを終えて

6月22日(土)に第7回ベルカント・ガラ・コンサートを開催、盛会のうちに終えることができました。ベルカントは、色彩やニュアンスを多面的に表現する技法ですが、日本では音楽大学でも指導されることはありません。インターネットで検索すると、多くの記述がありますが、本質的なベルカントは皆無に近く、ドイツ歌唱法をベルカントに置き換えただけ記述もあります。

近年ベルカント歌手は減少し、日本ではベルカントの体系的な教育は遅れています。当研究所では消滅したベルカントの復活を目指して、第7回ベルカント・ガラ・コンサートの開催に至りました。来場者は「とてもよく響いて、クリアな声に驚いた」「曲目は演奏者の声に合って感動した」などの声が寄せられました。

日本歌曲は、男声で「富士山見たら(橋本國彦)」「樽の唄(清瀬保二)」を皮切りに、「平城山(平井康三郎)」「白月(本居長世)」、「野の羊(服部正)」、「かごかき(貴志康一)」を唱いました。

第二部では.フィザルモニカの弾き唱いで「広場(大中恩)」を、独唱で「松島音頭(山田耕作)」、ゴンドラの唄(中山晋平)、「浜千鳥(弘田龍太郎)」を唱いました。アリアは以下の9曲です。表現者の心構えが問われる曲ですから、稽古量が問われます。今回はあえてヴェリズモ・オペラから選曲しています。
                   
1. 歌劇『トスカ』より「妙なる調和」(プッチーニ)
2. 歌劇『リナルド』より「私を泣かせて」(ヘンデル)
3.歌劇『マクベス』より「哀れも誉も愛も…」(ヴェルディ)
4.歌劇『道化師』より「衣裳を着けろ」(レオンカヴァルロ) 
5.歌劇『トスカ』より「星は光りぬ」(プッチーニ)     
6.歌劇『トロバトーレ』より「静かな夜」(ヴェルディ)   
7.歌劇『道化師』より「プロローグ」(レオンカヴァルロ)
8.オペレッタ微笑みの国』より「君こそわが心のすべて」(レハール)
9、歌劇『トロバトーレ』より「静かな夜」(ヴェルディ)    


2019年06月19日

第7回ベルカント・ガラ・コンサートのご案内

第7回ベルカント・ガラ・コンサート

2019年6月22日(土) 開場13:40 開演14:00
会場 雑司ケ谷音楽堂  入場無料(全席自由)

[出演者]
井上 諒子 上島 光雄 中野 桃子 田野 敦久 松 奈央子 松 宏紀 
ピアノ伴奏 阿部 一真  小圷 愛  企画・指導 谷川 須佐雄

[演奏予定曲]
君と旅立とう  私を泣かせて下さい  寂しい部屋で  朝の歌  
セレナータ  松島音頭  かごかき  平城山  浜千鳥  ゴンドラの唄  
白月  樽の唄  富士山見たら  野の羊  歌劇『トロヴァトーレ』より)
「静かな夜」(ヴェルディ) オペレッタ『微笑みの国』より「君はわが心のすべて」
(レハール) 歌劇『道化師』より「プロローグ」&「衣装を着けろ」(レオンカヴァルロ)
歌劇『トスカ』より「妙なる調和」「星は光りぬ」(レオンカヴァルロ)
フィザルモニカ弾き唱い「広場」 ピアノ独奏/エレジー(ババジャニアン)
フルート独奏/メロディ(ババジャニアン)他

主催:プロメッサ総合研究所 
お問い合せ先:03⁻3230⁻1525  E-mail:susaotanikawa77@gmail.com


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2018年08月14日

教育者山本良吉の実像 3 ―「野球害毒論」と野球を禁じた校則 

旧制七年制武蔵高等学校が設立されたおり、教頭の山本良吉は一学年八十人での少数精鋭教育を掲げ、厳格な教育をおこなった。そのために大量の退学者が出て、卒業生が半数以下になる年もあった。この件では各方面から批判されたが、それ以上に校則で野球を禁じたことは大事件だった。社会背景に選手らの素行不良があったらしく、他校でも野球禁止措置があった。このことで頑固で偏屈、直情的な良吉の教育者像が定まった感がある。

「野球害毒論」は、明治四十四(1911)年に東京朝日新聞が展開した「野球と其害毒」全二十二回の連載が発端だった。今年は高校野球100年を記念する大会が開催されているが、主催元が「野球害毒論」を連載した朝日新聞であることを私は奇異に思っている。当時はあれほど反対したのにである。

山本良吉は静岡県尋常中学校に野球部が創部されたおり、野球部長として浜松中学校との公式戦第一戦、二戦とも審判を務めている。その山本が「野球害毒論」から十年以上経て武蔵高等学校で野球を禁じた。それ以前の明治三十九年九月版『教育学術界』「学生元気問題」に野球について述べている。

かのベースボール、ボートの如きは体格を強くして元気を盛にする外此意味(自己活動)にても元気を盛にする基となる。然れども此等は生徒全体が従事し得る者にあらず。生徒の一部元気盛なりとも、生徒全体の元気には関せず。且つ此種遊戯に一部生徒のみ熱心する時は、往々種々の悪風を生ずることあれば、之を非常に奨励するの可否は余には尚一疑問なり

山本の親友である西田幾多郎も野球に限定しないまでも、『読書』で過ぎた運動の害について述べている。西田は哲学者であるが、サッカーに似たフートボールを好み、運動の効能は十分理解していた。その点では山本良吉とも共通する。

運動にのみ趣味を有するものは思想は粗苯となり、感情は遅鈍となり、到底精細なる理を考へ、深遠なる情を味ふことができず、少しく複雑にして深遠なる問題に撞着すれば、忽ち進取の氣象を失うて、勇氣沮喪し、強ひて少しく勉むれば遂に神経衰弱に陥るに至る、余は運動家なるものが試験前に最も神経衰弱に陥ると思ふ。真に強固なる意志は却つて奮つて難解の書をよみ、進んで難問題を考へ、何處までも徹底的に解決せざれば巳まざる氣力によって養成し得ると思ふ。

なお良吉は森五郎教授にドイツにおける野球事情調査を依頼し、ベルリン独乙高等体育専門学校のドクトル・ディーム(代理ドクトル・ホルツ)氏から「ドイツでは現在のスポーツで十分で、あえて野球を加える必要を認めない、かといって野球に害毒があるとも考えない。各学校に野球道具を備えることは費用面からも難しい」との報告を受けている。

「生徒の品性、健康に与える影響への質問」には、有害なる影響は認められない理由を挙げている。「投球、補球、打球、走行等ニヨリ身体ノ練磨ヲ促スモノナレバ、又、時宜ニ応ジ、打球スベキカ否カヲ決スルハ、決断力ノ養成ニ妙ナランカト存知候ヘバ、身体ノ運動限度トシテハ、生徒ニ取リテモ、完全ニ危険ヲ伴ハザルモノト思惟イタシ候」等報告は野球に対して否定的なものではなかった。

ドイツの野球事情を知った後、良吉は慎重に野球を禁じた様子が窺える。報告書は『晁水遺稿集續篇』に掲載されている。森五郎教授は私が大学1,2年にドイツ語を習った先生だった。もう50年も前のことである。

逆に野球の効能を説く天野貞祐(独協大学学長)の主張もあった。天野は西田幾多郎の門人で良吉にも近い存在だが、『學生に與ふる書』「スポーツと人生」で野球を推奨している。この書を入学直後に読んだが、野球が苦手だった私には共感しがたく、その意味では良吉の考えに近かった。天野は野球を例にして西田の「多即一、一即多」を説明するが、私には説得力は感じられなかった。とはいえ、天野貞祐は日本野球に貢献した偉大な哲学者でもある。