裁判の証拠として、最近は、DNA鑑定の結果が、とても重要でかつ決定的な証拠になることが多いです。
 このDNAというのは、ご存じのように、人の遺伝子をつかさどる物質なのですが、A・G・C・Tの四つの塩基の組合せからなっているため、個人個人によって多様性に富んでおり、このDNAの組合せによって、何億人に一人の確率で、そのDNAを持つ人間を特定できるのです。
 だから、犯行現場に残した血液のDNAと、被告人のDNAの型が一致すれば、とても重要な、そして場合によっては、決定的な証拠になりうることは、良く知られていると思います。
 この原理は、民事裁判でもよく使われます。子供から父親への認知請求や、逆に親子関係不存在確認請求でも、重要かつ決定的な証拠になります。

 と、簡単に書きましたが、どうしてそんなにDNAの型が、多様なのでしょうか?実は、このようなDNA鑑定の場合、全部のDNAを調べるわけではなく、せいぜい10個程度の要素(ローカスと言います。)を調べて、その組み合わせの一致状況を確認するだけなのです。
 人間の遺伝子情報の中で、人間が人間として生きていくために必要な遺伝子情報は、全遺伝情報の(ヒトゲノム)の約1.5%にすぎないのです。それ以外の98.5%は、ジャンクと言って、ほとんど情報としては役に立っていない、つまり、遺伝子がどう変化しても人間には影響のない部分らしいのです。この部分では、同じような塩基の配列が何度も重複して現れて、例えばATGC,ATGC,ATGC・・・とか、これが何回繰り返されようとも遺伝情報としては何の意味もないので、人によって繰り返される回数が、たとえば、7回、8回、9回とばらばらになっているそうなのです。DNAのいくつかの部分のこの繰り返しの回数を組み合わせることによって、何億分の一みたいな計算が可能になるのです。

 その一方で、ほとんど個人で違いのないDNA要素もあります。その代表が、ミトコンドリアDNAとY染色体DNAに含まれる要素です。ミトコンドリアDNAは、女性にしか存在しません。Y染色体は男性にしか存在しません。これが何を意味するのかと言いますと、一般的には、子供の遺伝子は、母親と父親の両方からそれぞれ受け継ぐので、その組合せはとても多様になります(これをとらえたのが、メンデルの法則です)。しかし、女性にしかない遺伝子や、男性にしかないこれらの遺伝子は、このような組合せにはならず、母親の遺伝子をそのまま、娘が、孫娘が、また、父親の遺伝子は、そのまま息子が、孫の男性が、受け継ぐことになるのです。つまり、母と娘、さらには、祖母、孫娘、みんなミトコンドリアのDNAは、まったく一緒なのです。
 この事実は、大変重要です。例えば、親子鑑定では、Y-STR法など、父親と子供のY染色体のDNAを比べることで、父親と息子の確認ができることになるのです。もちろん、母親と娘の確認も、ミトコンドリアのDNAを比べることでできますが、母親の場合、出産を経ていますので、病院での赤ちゃんの取り違えなど稀なケースでしか、確認の必要性がないかもしれません。
 このように、女性のミトコンドリアや男性のY染色体の遺伝子の文字は、ほとんど変化せずに、母親から娘へ、父親から息子へと引き継がれます。その遺伝子の文字に突然変異が発生するのは、約1000世代に一回の割合と計算されています。約1000世代とは、時間で言えば約一万年に相当します。日本に日本人が存在したのは、約数万年前ですから、日本人の女性、男性は、祖先での混血の確率を考慮に入れても、多くの共通した遺伝子を共有していることになるのです。
 この性質を利用すれば、女性のミトコンドリアDNAや、男性のY染色体DNAの全世界の人間の系統樹を作成することができるのです。そして、そのDNAを有する人間の分布とDNAの共通部分を解析していけば、人間のルーツをはっきりと浮かびあがらせることが可能になるのです。

 1988年にニューズウィーク誌が、アダムとイヴの物語として、現在の人間のすべての人の共通の母親として約20万年前、現在のすべての共通の父親として、約10万年前のアフリカに存在した人間であることが判明したとの特集記事を組んだことは有名です。
 その後も、この研究は続き、コンピューター技術の発達と数多くの研究者の熱意によって、約12万年前にアフリカを出発した現在の人類が、2,3万年かけてアラビア半島に到達し、その後インドを通って、今から約6万5千年前に、オーストラリアに到達したことが分かりました。これは、ネアンデルタール人のいたヨーロッパへの人類の到達よりも早い時期だったのです。そして、インドから北に向かった一団は、約4万年前に日本にもたどり着いたとされています。その後も、北に向かった人々は、約2万年前にベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸を縦断、そしてなんと1万2千年前には、南米のチリにまで到達していたのです。

 ホント、人間ってすごいですね。10万年かけて世界中を制覇した我々の祖先もすごいですが、そんな祖先の足跡を、人間の体の中にある小さな小さな遺伝子を調べて計算するだけで、見つけてしまう人間もすごいです。知らない地方に行ってみようという好奇心と挑戦心、知らないことを調べて新しいことを知ろうとする好奇心と想像力、ほんとに素晴らしいと感激せざるを得ません。

 私も、どんなに年をとっても、この好奇心、想像力、挑戦心を忘れずにいたいと願っています。
 最後に書いた内容を、もっと正確に詳しく知りたい方は、
草思社 「人類の足跡・10万年全史」
スティーヴン・オッペンハイマー著 仲村明子訳
をご参照下さい。