治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話)お勧め順

◎ 俳句紀行中での話題などを掲載しています。(不定期)

2015年01月

お銚子と徳利の違い

◎「お銚子と徳利の違い」 《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その五十五)》

● 平成二十七年二月一日 日曜日 熱燗
○ 十二月日々折々 その十八

忘年会お銚子を手に酒を注ぐ
熱燗の徳利を手に酒を注ぐ
忘年会お銚子二本追加して      飯島 治蝶

(十二月中旬 忘年会②)

 お銚子と徳利 2つの違い、ご存じですか? 
 お銚子と徳利は、普段同じようなものとして扱われることが多いのですが、実は、全くの別モノなんです。
 たとえば、酒場で「お銚子2本ね」と言ったときに出てくるのは徳利。その昔、人々が水筒代わりにひょうたんを使っていたことから、ひょうたんの形をモデルにして作られた陶器の器です。いわゆる燗徳利は、江戸時代の終わり頃に登場しました。
 ちなみに、徳利の語源は、「『トクトク』と注ぐことから」、ではなく、「朝鮮語の容器=トックルが徳利になったから」とのこと。
 一方、銚子はその字面から見ても分かるように、金物の器のことを指します。もともとは長い柄と注ぎ口のついた鉄製の酒器で、分かりやすく言えば、おひなさまの三人官女の一人が持っているアレ。昔は銚子を使って直火でお燗をしていましたが、湯せんでのお燗のほうが風味が良いと徳利が普及するようになり、いつの間にか混同したようです。
 今ではすっかり徳利の独壇場になってしまったため、銚子は、その姿はほとんど見かけられず、「名前だけが一人歩きしている状態」なのです。
 とは言ってもまぁ、今さら酒場で「徳利2本追加ね」なんて言うのもしっくりこないもの。2つが別モノだという事実はさておき、酒場ではやっぱり、「お銚子2本…」でいきたいものですネ。(酒の雑学大事典より転載)

江戸城本丸天守台の歴史

◎ 「江戸城本丸天守台の歴史」 《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その五十四)》

● 平成二十七年一月十九日 月曜日 冬紅葉
○ 十二月日々折々 その五

江戸城址広場の木立冬紅葉
冬の晴天守閣跡すぐ前に
冬日浴ぶ江戸城本丸天守台
江戸城址天守台より冬紅葉
冬の晴眼下に北の丸公園 
冬の晴眼下に日本武道館
冬晴や天守台にある御殿の図
江戸城址本丸御殿図冬日浴び
冬の晴眼下の広場を眺め見る
天守台眼下の広場に枯芝生
冬晴れの広場に御殿図当てはめて
冬の晴昔の大奥あの辺り
冬の晴御鈴廊下はあの辺り
冬の晴松の廊下はあの辺り     治蝶

〈十二月上旬 「皇居・乾通りの一般公開」⑤ (乾通り~蓮池濠~西桔橋~狐坂~天守台)〉


 江戸城本丸天守台・・・江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。
 元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。
 この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。
 なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。(千代田区観光協会HPより転載)

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