平城京左京三条五坊から

ある古代史研究者のひとりごと・・・・

2014年03月

『史聚』第47号が発刊

 『史聚』第47号が発刊になりました。1月25日のブログでも書きましたね。年度末で忙しかったようですが、神戸の印刷所ががんばって予定より早めに仕上げてくれました。『史聚』は、掲載論文の抜刷をつくらないのが原則ですが、今回は直木先生の論文と奥様のエッセイもありましたので、お二人のをあわせて1冊の抜刷を特別につくりました。よい記念になればと思います。印刷所ではサービスでつくってくれました。
 さっそく、きょう先生にお届けにまいりました。いつもは自転車で平城宮跡をぬけて行くのですが、きょうは大雨でしたので、タクシーで行きました。
 先生は、お元気でした。この『史聚』に寄稿してくださった論文をも収めた論文集を塙書房から公刊される予定です。4月にはいると、原稿をお渡しするとのことでした。11月には刊行したいとおしゃっておられました。
 その論文ですが、当初は「日本古代史は応神天皇朝に転換する」とのタイトルでしたが、再校時にちょっと長いということで、「応神天皇朝で変わる日本古代史」と改題されました。11月に刊行される著書のタイトルを聞き忘れましたが、楽しみですね。
   
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我が家の「陽光桜」が咲きました。

 宝亀4年(773)12月に、藤原種継が坂本朝臣松麻呂を奉写一切経所で行なっていた写経事業の校生として貢進しています。その旨の文書が残っていて、そこには『種嗣』との自署がみえています。
 しかし、『続日本紀』の30ヶ所ほどの記事は、すべて「種継」で統一されていますから、教科書や書籍・論文などの表記は「種嗣」ではなく、原則「種継」と記述されているようです。種継の従兄弟である「オツグ」は、『続日本紀』でも、「緒嗣」と「緒継」と混用していますから、思いのほか「継・嗣」は厳密に区別されていなかったような気がします。
 ところで、なぜ種継が校生を貢進したのでしょうか。時の光仁天皇は親仏的であったという研究成果もありますので、その影響もあったのか。種継自身が崇仏者であったのか、奉写一切経所の写経事業に関心があったのか、そこに人的なつながりがあったのか、どうも浅学・菲才の小生にはわかりません。ご賢察を俟ちたいと思います。
 
 さて、下の写真のように我が家の「陽光桜」が下の方から咲きはじめました。満開になるのは1週間後くらいでしょうが、楽しみですね。南から撮った写真ですが、背景にみえている窓が小生の勉強部屋の窓です。

 そうそう、古代史ゼミOGの方々、今秋の「古代史ゼミタテコン」は、9月20日(土)~21日(日)に、1泊2日で実施することになりました。20日午前中に上野駅に集合、移動して夕方に世田谷区桜上水(京王線)の日本大学文理学部での勉強会、梶川先生がお話してくださると思います。翌日の21日の日程はまだ決まっていませんが、どこか博物館・遺跡を見学できればと考えています。
 しかし、20日夜の宿泊所が決まっていません。これから考えなくてはなりません。ゼミOB揃って泊ることのできるホテルが京王沿線でどこかにあればいいのですが…。

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「史学は危機」か?

 2~3日前に、ある日本史の月刊誌が届きました。巻頭のS氏の論文に、小生の論文が2か所肯定的に引用されていました。素直に嬉しいことですね。

 ところで、この雑誌の末尾のところに、何人かの近況や思うところを掲載する短文のコーナーがあります。今月号には、上記のS氏とは別人のSさんのコメントがのっています。
 こちらの別人のSさんは、「私は本籍歴史地理学であるが、近年の現住所は、本籍から離れたのではないかと思うこともある。だが史学者とは名のらない。あえて歴史文化論としているが、みなさまの認知をうけていない。その立場から近年の史学者の動向をみると、一字一句にこだわり、発掘の手柄を誇示し、哲学を語る人は、皆無に近い。史学の危機に気づいていない」とコメントしている。なにを言いたいのか、よくわかりませんが。

 近年の史学者は、一字一句にこだわり、発掘の手柄を誇示するという。古代史研究者が、一字一句にこだわるのは、少ない史料という制約のなかから一字一句の後ろに隠された真実を探りだそうとしているからであって、一字一句のみにこだわっているわけでない。Sさんは、古代史の緻密な研究方法論を応用しての研究をしたことがないのかナ。また、私は発掘の手柄を誇示している人なんかみたことないし、いないような気がする。そんな人いるのですかね。
 別人のSさんは、自分の本来の研究分野は「歴史地理学」といっている。でも、近年はそこから離れていると自分でも思うこともあるので、歴史文化論だといっているのですね。

 そうでしょうな。あなたは、平城京遷都1300年になると、歴史地理学とはかけ離れた奈良時代史の書籍を刊行し、古事記編纂1300年になると、古事記関係の図書を公刊するなどしていますよね。
 わたくしは、自分本来の研究分野の歴史地理学ではないのに、時流にのって専門分野でもない古事記に関する一般人対象の図書を刊行して、そのことを歴史文化論だと自分で主張している、「あなた」こそ、まさに哲学を語るにふさわしくない人だと思いますけど。そのような「あなた」が「史学の危機」を心配するには及びません。近年の史学は、「あなた」が思うような危機的な状況にはありません。いまの若い史学者たち、わたくしは「史学者」なんて言葉は好きではないのですが、若い日本史研究者たちは才能豊かで、何にもこだわることなく、素晴らしい研究成果を蓄積しつつあります。
 いつの世も、年長者は若い人たちの豊かな才能とその成果に期待すべき存在であるべきだと思うのですがね。
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道真は中上で及第だが…

 また朝日新聞の夕刊記事で、ちょっと思ったことですが。野呂雅之さんが、26歳の道真は貞観12年(870)に「方略試」という試験をうけたが、「出題者の都良香は物足りなさを感じたのか、判定は中の上。合格ではあったが、秀才の誉れ高き道真はさぞ悔しかったに違いない」と書かれています。
 たしかに『日本三代実録』貞観12年9月11日庚申条には、「文章得業生正六位下菅原朝臣道真に一階を加へ叙す。対策に中上の第を得るを以てなり」とあります。そして続いて「すべからくは格の旨に依って三階を加へ進むべきを、しかるに本位は正六位下、よって一階を叙す」とあります。この記事からは、確かに上上~下下の9段階の4階目で、合格の最低第。しかし、それでも対策に合格するのは極少ないですから、叙位にあずかる名誉を得たわけです。道真は若い時には、あまり勉強ができなかったということではなく、若い時からもよく学問ができたが、その道真でさえも「中上」のすれすれの合格だったほど、対策は難しい試験だったと考えたほうが良いように思いますが、どうでしょうか。

 ところで、きょうはちょっとした用件で京都に行ったのですが、JRの桃山駅構内の桜がもう3~4分咲き、この桜は見ていると、毎年早いんですよね」。
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平城京大極殿前の旗ざお穴

 随分とブログをお休みしました。ご覧になるために開いていてくださった方、「きょうも更新してないやっ…」ということ、お詫び申し上げます。とくに何があったということではないのですが。季節の変わり目は、なぜか「やる気がなくなるんですよね」。

 ところで、前の話になりますが、3月7日の大阪朝日新聞の朝刊に、復原の大極殿前の西宮跡から朝賀の時の旗ざおの穴跡が2列みつかったとの報道がありました。1つは、天平神護元年(765)の称徳天皇が朝賀を受けた際のもので、もう1つは、神護景雲3年(769)正月3日に、道鏡が西宮の前殿で大臣以下の「賀拝」を受け、自ら寿詞を告したことが『続日本紀』同月壬申条にみえているので、この時のものだった可能性があると記されていました。
 これについて、西本昌弘関西大学教授(日本古代史)、山中章三重大学名誉教授(考古学)、そして瀧浪貞子京都女子大学名誉教授(歴史学)3人のコメントが載っておりました。
 西本さんは、「天皇と同じ儀式をすることで、天皇と同等か、それに次ぐ権力を示したのでは」と言っています。至極当然な理解ですが、あまりにも当たり前すぎますね。
 山中さんは、歴代天皇と同じ儀式をすることで正当性を示して政権基盤をつくり、新たな政策を実行するつもりだったのではないかと理解しています。前年の同2年9月には、宇佐八幡大神の「道鏡を即位させれば天下太平になる」との託宣によって、道鏡は天皇位を期待して深く喜んだにも関わらず、和気清麻呂の「日嗣は必ず皇緒を立てよ」との再度の託宣の報告によって、その企てが挫折したことから、公卿官人らの離反は激しく、その信頼は無くなってきていたといってもよい現状でした。そのことからすると、道鏡が法王となって以降も行なわなかった「賀拝」をここにきて行なっているのは、凋落にむかう事態に抗する意味で、その焦燥心から改めて自分への忠義を求めるために行なった儀式だったでのはないかと思います。
 つまり道鏡には全盛期では考えもしなかった儀式ですが、凋落にむかう時だからこそ天皇と同等の儀式をする必要があったわけです。

 ところで、理解に苦しむのが瀧浪さんのコメントです。瀧浪さんは「道鏡は、称徳天皇に付き従い宗教的に導いた。史書に権力の横暴の記録はなく、」と述べています。瀧浪さんの発言がそのままのかたちでコメントとして掲載されたのかは記者に聞かなければなりませんが、「史書に道鏡の権力の横暴の記録はない」というのは、瀧浪さんの理解不足です。
 『続日本紀』宝亀元年8月丙午(17日)条には、以下のように記されています。
  「道鏡、権を擅にし、軽しく力役を興し、務めて伽藍を繕ふ。公私に彫喪して、国用足らず。政刑日に峻しくして、殺戮妄に加へき。故に後の事を言ふ者、頗るその冤を称ふ」。
 奈良時代史研究の一等史料である『続日本紀』に、 「権力を専断にして、国費を乱用し、妄りに殺戮も加えた」とあります。そして、この編纂責任者の藤原継縄は、当時は44歳、従四位下、参議に外衛大将・越前守を兼任しており、称徳の大葬には御後次第司長官を務めています。継縄は、道鏡の政治を伝聞などではなく、身近に実見しているのです。これは道鏡の権力横暴の確かな記録だと思いますがね。ねっ、瀧浪さん


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