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デリケートな内容です。読みたくない方はここで引き返してください。

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出生前診断についての話は、このブログを読みに来てくださっている方の中では、もうお腹いっぱいかもしれない。

が、このところ興味深い本を読んだので、それについて書いておこうと思う。

「選べなかった命ー出生前診断の誤診で生まれた子」 河合香織著・文藝春秋)


2011年、出生前診断(この場合、羊水検査)でダウン症という診断が出ていたにもかかわらず、医師がミスにより「異常なし」と親に誤って伝えてしまい、妊娠を継続したところ、生まれた赤ちゃんはダウン症児だった。

そして多くの合併症をもっていて3カ月で亡くなった。

診断を誤って伝えられたことで妊娠を継続するかどうか自己決定する機会を奪われたことと、生まれてこなければ苦痛を味わわずに済んだ息子の苦しみへの慰謝料として1000万円の訴訟を起こし、1000万円が支払われた(勝訴)という事件があった。


この件について、克明に丁寧に取材した本である。

この訴訟の件はニュースにもなったし知っていたが、ダウン症のある子どもを育てる親として、報道された当時この親に対する私の印象はあまりいいものではなかった。
(身勝手な親のイメージ)
が、本書のインタビューなどを読んで印象がガラっと変わった

なんでもそうだが、報道というのはたくさんの事実の中のごく一部を切り取って伝えているに過ぎない。

どんな風にイメージが変わったのかは、この本を読んでもらえればきっとわかってもらえると思う。
この親御さんにはお子さんへの愛もある。
「誤診に対する思いと我が子への思いはそれぞれ心の居場所が違います」と言っている。

亡くなった息子さんに対しても
「天ちゃん、もう一回会いたい。まっさらな気持ちで、我が子として抱っこしたい。いたわってあげたい。撫でてあげたい。本当にいたんです。あの子は実在していたんです。抱っこできたのは一回だけ。それでも触れられた。どんなに重い障害を持っていても、生きているからあの子はあたたかかった」
そして最終的に、「やっぱり会えてよかった」と言っている。

ただ、悩み苦しんだ親の姿がそこにあった、という印象である。

この「悩み苦しんだ」という部分が、この本のかなめなのではないかと思っている。

なぜこの母親は悩み苦しみ、また今も多くの親が悩み苦しまなければならないのかということを考えざるを得なかった。



●法のはざま


この母親は、ミスをした医師に対して、自分たちと苦しんだ我が子に「ただ謝ってほしかった」、と言っている。
そのための訴訟だと。
(詳しいことは省くが、訴訟を起こすこと自体はなんとミスをした医師自身から勧められたのだった)

しかし母親の意図とは別に、この裁判は障害のある子どもの「命の選別」について問うたものとなった。

というのも、医師側は、妊婦が中絶する権利は、法的に認められたものではないと主張してきたからだ。
認められていない以上、告知ミスによって妊婦が被った損害は、心の準備をする機会を奪われたというその一点のみであるというのが医師側の主張である。

・現在の日本の法律


ここでちょっと法律のことを。

日本の法律で、中絶は堕胎罪という刑法に該当する。

堕胎罪では、刑法212条で、妊娠中の女子が堕胎した場合、一年以下の懲役に処せられるとある。
また、その妊婦さんの依頼を受けて堕胎させた医師や助産師など医療関係者は、3か月以上5年以下の懲役に処せられるとある。


これは、妊娠の週数に関係なくあてはまるのだ。
この堕胎罪自体、もしかして知らない人がいるのではないだろうか。

それほどに形骸化していて、日本で年間20万人前後もの中絶が行われているのにほぼ罪に問われることがないのである。
(堕胎罪によって検挙されるのは年に数件程度だそうだ)

それはもちろん、母体保護法の存在があるからである。

母体保護法では、以下のどちらかの場合のみ中絶ができるとしている。

一 妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著し
く害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によってまたは抵抗若しくは拒絶することができない間
に姦淫されて妊娠したもの


注目すべきは、胎児の障害を理由とした中絶は認められていないことだ。

が実際は、「経済的理由」を拡大解釈して中絶をしているのが現状である。
中絶手術を受けるときは、経済的な理由ではなくても「経済的理由」と書類に書かなければ刑法の堕胎罪に抵触し、違法行為になってしまうのだ。

・「経済的理由」が加えられた本当の理由


では、「経済的理由」というのはなんなのだろう。

「経済的理由」は悪名高き優生保護法の時代、1949年の改正で盛り込まれた文言のようだ。

優生保護法というのはご存知の通り、国家繁栄のために、劣った人間が生まれることを防止する目的で戦後に作られたものだ。
この法律を根拠に、強制不妊手術が行われたという悪法である。

そして、1949年の改正では、この優生保護法で「経済的理由」による中絶が認められることになる。
経済的理由によって中絶が認められたのは世界で初めてだったという。

なぜ「経済的理由」が認められたのか。
驚くことに、その背景には「生活能力がない者が子孫を残さないように」という、ある議員の思いがあったようである。

その議員は優生保護法を作った中心人物である谷口弥三郎という人で、産婦人科医でもある。

この人がかなりヤバい思想(強い優生思想)の持主で、「社会的階級の低い者や貧困者ほど避妊せずぼこぼこ子供を産んでしまう、そうなったら日本はそんなヤカラの子孫だらけになって大変なことになる」的なことを言って、その人たちの中絶をおしすすめようとした。
そこでこの人が「経済的理由」の文言を盛り込んだのだった。1)

つまり、お金がないと子供を育てるのは大変だから、特別に中絶を許可しますよ、という話ではなかったのである。
子孫を残さないでほしい(断種すべき)対象として、貧困者を含めたかったからなのだ。
そしてその当時「経済的理由」には「生活保護を受けているもの」などが該当していたようだ。

その後、一度は改正案で削除されそうになった「経済的理由」も、女性団体からの反対により今現在まで残っていることになる。
貧困層の遺伝子を増やさないようにとの当初の思いとはまったく違った方向で、女性の自己決定権として重宝され、拡大解釈されているわけだ。

胎児に障害があったら中絶してもよいという案も一度は出たものの、障害者人権の観点から条項に含まれることはなかった。

・法律のグレーゾーン


現在は、ご存知のようにこの堕胎罪も母体保護法も形骸化している。
しかしひとたび裁判となると、今回の件にあるように、障害を理由にした中絶は法で認められていないと医師側が主張する根拠になるのである。

医師は、違法とわかっていながら、決定権は女性にあるために、中絶を行わざるを得ない。いわば汚れ役をかって出ている。
後に書くように、このことについて葛藤を抱く医師もいる。

これは難しい問題であるために、誰も法について議論したがらない。
しかし、法があいまいなために、そのしわ寄せ(苦しさ)が全部当事者(親や医療関係者)にくるという現実もある。

性別・障害の有無を理由とした中絶を禁止している州もアメリカにはある。(ペンシルベニア州とか)
日本も、今後こうした性別・障害の有無を理由とした中絶を禁止するなり、あるいは逆に中絶してもよいとして範囲を明確にするなりした方がいい。
とにかく、法律がこのままではよくないことは確かなのである。

ちなみに、誤診により生まれたこのダウン症のある赤ちゃんの判決はどうなったのかというと、親に対し慰謝料は払われはした。
ただそれは、医療の告知ミスにより、赤ちゃんを産むかどうかの決断をし、産むならその準備をする機会を奪われたことに対してであり、中絶できなかったことに対してではなかった。
羊水検査でダウン症が確定したからといって、そのことと中絶に対する因果関係はないとしたのである。

つまり、赤ちゃんにダウン症があるからといって、中絶するかどうかは、倫理的道徳的な苦悩をも伴う極めて苦しい決断であり、個人の価値観に基づくものであって、社会で中絶する人が多いからといったことは、因果関係の判断材料にならないということなのだ。

これは、読んでいて、うまいな!!と思ってしまった。
中絶できたのに、という理由で慰謝料を払うなら、それは法的に矛盾を生じるし、障害者側への配慮などいろいろな問題がある。
また、出生前診断はダウン症かどうかはわかるけど、合併症まではわからない。
大した合併症もなく元気に暮らしている人がほとんどなのだから、生まれてからの赤ちゃんの苦しみに、告知ミスは関係ないという部分も、個人的に納得がいった。

●医療関係者の苦悩


これは本書を読んで気づかされた視点である。

出生前診断を語るときに、ほぼまったく話題にもならないのがこの部分だ。

私たちは、死刑制度を語るときに、死刑執行人の苦しみをまったく考慮に入れないのと同様、中絶を語るときに、中絶を行う医療者の苦しみもまったく考慮に入れていない

本書第十一章「医師と助産婦の立場から」では、この部分に焦点をあてている。

羊水検査でダウン症が確定して中絶をする場合、妊娠中期の中絶となる。
中期中絶は手術ではなく、「お産」をすることになる。
陣痛の痛みも同じ。
ただ、痛みの後に楽しみは待っていない。死なせるための苦しみである。
お産のあと母乳が出ることも多いという。
費用も出産と同様にかかるため、中絶の場合も出産一時金が出るらしい。

さらに、役所への死亡届も火葬も必要になる。

本書によると、中絶のためのお産をしたあと、赤ちゃんが10分から20分くらいは心臓が動いていることは少なくないそうだ。
医療スタッフは、命を救いたいという動機をもって日々働いているため、生まれた命をそのまま救わずに看取ることについては、極めて強いストレスを感じるという。
(中にはやめていく人もいるそう)

欧米では、医療者にも自分の良心に基づいて中絶の処置を拒否することができる権利が認められているところも多くあるそうだ。
日本ではそのような例はあまり聞かないが、たとえばキリスト教系の病院では産婦人科が人工妊娠中絶を扱わないといった状況はあるようだ。

生まれる前だけではない。

生まれてきた赤ちゃんに障害があった場合、今は救命するかどうかを親に尋ねるようになってきたそうだ。(障害がなくてもだけど)
インフォームドコンセントの時代だからね。
親に治療を拒否された場合、たとえ生命力があっても、見殺しにするしかないという。

救命のための手術に同意しない親に対して、親権停止を求め、親権代行者の同意を得て手術が行われることも、過去には実際にあったようだ。
ただ緊急の場合、親権停止が間に合わないこともある。

漫画「コウノドリ」の2巻に、産科医のコウノドリ先生のセリフが出てくる。
「喜んで中絶を行う産科医はいないんです」
「ぼくら(産科医)は中絶を行う時 これは患者とその家族が幸せになるための選択だと そう自分に言いきかせて行います。でも本当はいまだに慣れません。ボクは赤ちゃんが好きですから」

これも考えさせられる問題である。

●当事者だけに任せていていいのか


この本では、出生前診断をいいとも悪いとも主張していない。

よく、この手の話題で「正解はない。当事者に任せるべき」といった発言を見かける。
私も、これまで(本当は赤ちゃんはみな助かってほしいけれど)少なくとも夫婦が決めること。他人が口を出すべきことではない(親戚等も含め)、という意見をもっていた。

しかし、本書を読んでそれが少し変わった。
夫婦だけの問題にしてはいけないのではないか。
むしろ「苦しい選択を全部当事者任せにするな」と言いたい気持ちになってくる。

というのも、お腹の子に障害があるとわかって、産むか産まないかの決断をしなければならないというのは、「倫理的道徳的な苦悩をも伴う極めて苦しい決断」だからだ。
この母親も、「崖に落とされそうになって指一本でつかまっているギリギリのところで判断する」と語っている。
つまり、どんな子でも産もうと思っている親でも、陽性が出たら大きく動揺することもあるし、障害のある子はどうしたって育てられないとして検査を受けた親でも、最後の最後にやっぱり産むことに決める人もいるからだ。

アメリカでは毎年約5500人のダウン症のある赤ちゃんが生まれているが、そのうち約625人は、出生前診断を受けて産むと決めた母親から生まれているそうだ。

中絶自体を避けたいのなら、避妊をすることが望ましい。
望まない妊娠をした親は、二度と同じ過ちを繰り返さないように注意するだろう。

しかし障害児の中絶はそれとは違う。
子どもは欲しいけれど障害児は欲しくない、となると、避妊のように予防することはできないのだ。

だから結局のところ、妊娠してからの検査→中絶、となる。
命が宿ってからの決断だから、当事者は、相当に苦しんだ上で結論を出す。
安易に結論を出す人はそんなにいないと思う。

「だから、その決断について、外部の人間が非難することはできない」というのだが、それだけでは足りない。

産まない理由でよく聞くのは、自分が死んだらこの子はどうなるのか、とか、
きょうだいに迷惑がかからないだろうか、とか、将来の心配が主である。

つまり、ダウン症児が出生前診断のターゲットになるのは、玉井邦夫先生(日本ダウン症協会理事長)が言う通り、ダウン症があまり重い疾患ではなく、立派に長生きするからであると言える。

医学的に見て重い疾患とは言えないから生まれない方がいいというのはどういうことか。
それは社会のシステムに不安があるからではないのだろうか。

だったら、堕胎を選ばなくてもよい社会を作ること、またそんな情報も提供していくこと、これに尽きるのではないかと思う。

まず、親が死んでも大丈夫、きょうだいに将来寄り掛からなくても大丈夫なシステムがちゃんとあるべきこと。
また、そのシステムがあるんだよということについて勉強し、発信していくこと。知ってもらうこと。
ダウン症のある子がどのように暮らしているのか、また実際に親の亡くなっている、(普通の)ダウン症成人がどのように暮らしているのか、知ってもらうこと。

そういう情報もなしに、また法整備もグレーなまま、決断のすべてを夫婦に負わせるからこんな現状になっていると思うのだ。

もし障害のある子どもが生まれても大丈夫だと思える社会なら、安心して産み育てる親が増えるかもしれない。
それでも「障害児を育てるのは嫌だ」という人もいるかもしれないが、その場合、里親制度や養子縁組が活発になれば、中絶したという苦しみを避けるため、そちらを選ぶ人も出てくるだろう。

●私がダウン症のある娘を産んであまり落ち込まなかった理由


ところで、本書には里親も登場している。

ある母親の事例が出てきた。
羊水検査を受けたいと医師に言ったけれど、医師の方からその後何も言われず、そのまま堕胎可能な期間を過ぎてしまったケースだ。
生まれた赤ちゃんにはダウン症があり、親は、「私には育てられません。この子を殺してください」と言い、医師は「それはできない」と言った。

結局、その子は里親が育てることになった。

里親は実子も多く、ダウン症のあるその男の子もとてもかわいがって家族みんなで育てた。

里親は言うのだ。
「もしこのダウン症の男の子を自分の子供として産んでいたら、今のように100%の愛情をかけて育てることができただろうか」
「自分の子だったらきっと嘆きの方が大きかったでしょう。母だったら普通に産んであげられなくてわが子に悪いと思い、苦しい、苦しいと自分ばかりせめていたかもしれません。私は、里親という立場だからこそ、嘆きからではなく、全力投球で子育てができたのでしょう。ありがたいことです」

これを読んで、なるほど!と思ったのだ。
私の場合、子どもの障害がわかってもあまり落ち込んだ期間がなかったのだが、その理由が分かった気がした。

私の中には、子どもは神が授けるものという考えがあった。

だから、ある意味、私の子供たちは神様から預けられたものであって、自分のものではない。
生まれてくる子供の指一本、自分で作ったわけではないし、その赤ちゃんに障害があるかどうかに対して自分に責任はない。
そういう意味で、私はもしかして、自分の子供たちに対してある種の「里親感覚」があるのかもしれない。
この子たちを神様から預かり、精一杯育ててやがてまた神様に返す、という意味で。
(江原さんは、「子育ては期間限定のボランティア」と言ってますね)

だから、普通に産んであげられなくてごめんねというような思いはこれっぽっちも持ったことがないのである。
すべては神がしたこと。
だから、神から預かったものに、いいも悪いもあるわけがないというのが、最初に障害を知ったときに自分が結論づけたことだった。

子どもの障害が自分の責任であると自分を責める人の苦しみはいかばかりだろうか。

そういう苦しみは、私には到底わからない。
だから、同じダウン症児の親であったとしても、私は、相当に苦しんだ親御さんと、同じ体験をしているとは言えないのかもしれない。

ましてや、生まれる前にわかって、その子の一生や、きょうだいの人生や、今後の生活や家族の在り方などすべてがかかってくるその選択の重さ、苦しさなど、私にはわからないだろう。
(わかって産むことへの批判も世の中にある中で)

なぜなら、私はクリスチャンだから、生まれる前にわかったとしても産むかどうかで悩むことはなかっただろうから。

●選択を迫られるお母さんはかわいそう


この「決断の苦しみ」というのが、本書を流れているテーマのような気がする。

生まれた後に障害がわかった場合、育てるしかないとほとんどの親が思うのは、それが(法的に)正しいとわかっているからである。

過去記事にも書いたが、生まれる前(堕胎可能な期間)と生まれた後では、障害児を育てる親のキャパシティは何ら変わらない。
であれば、育てる根拠は、最初の最初は「それしかないから」であることになる。
(もちろん、実際に赤ちゃんの顔を見、抱っこすることで、お腹の中にいたときとは違った感情を抱くことはあると思うが)

そういう意味で、「正解はない。あなたが決めていいんだよ」というのは、辛く苦しい、酷なことでもあると思う。

医師側が訴訟を起こされないように、羊水検査等のこともすべてあらかじめ患者に伝え、本人の判断に任せるようにしているという現実もある。

だから、上に書いたように障害者が生きやすい社会が整うのと同様に、法が整備されて今のようなグレーゾーンではなく白黒はっきりすることで(それがどちらに転んだとしても)、親や医療関係者の苦悩が少しは減るかもしれないと思う。

ダウン症のある成人である岩元綾さんは本書でこう言っている。
「赤ちゃんがかわいそう。そして一番かわいそうなのは、赤ちゃんを亡くしたお母さんです。検査を受けざるを得ないことがかわいそう。苦渋の選択を迫られるお母さんはかわいそう」

これは、この本に書かれていることの本質をついている言葉だと思う。

また、あるお母さんの言葉。
「選択できなかったからこそ、生まれた命がある。今はこの子がいない人生なんて考えられない。この子がいなかったらと考えると人生終わったと思えるほどです。・・・だからこそ、選ばねばならないお母さんが気の毒に思います。」

そういう言葉は私の周囲でも多く聞かれる。
もし検査していたら、どうなっていたかわからない。
この子は産まれなかったかもしれない。
だから、選ばせられなくてよかった、ということである。

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ダウン症のある子の母を10年以上やってきて、出生前診断についての意見はたいてい読んできたと思っていた私にも、新しい情報があったし、考えさせられる一冊であった。