働く主婦の独り言

自閉症合併のダウン症(DS-ASD)の娘を育てています。

就園・就学に向けて

支援員という仕事

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【追記】ちょっと追記しました。

この4月から、公立小学校の特別支援教育支援員として働き始めた。

特別教育支援員(以下支援員)という仕事について、少し紹介したいと思う。



<支援員の仕事>



支援員はどんなことをするのか。どんなことをしてくれるのか。

少し前に、女優の奥〇さんのお子さんが普通学級に入るということで話題になったが、当時おむつがはずれていないというそのお子さんのおむつは誰が変えるのか?と疑問に思った人もいたようだ。

実はそれが支援員の仕事である。

支援員の仕事は
・着替えができない子の着替えを手伝う(あくまで、できない部分だけ)
・おむつの外れていないお子さんのおむつを替える(排泄の手伝い)
・ひとりでごはんが食べられないお子さんに介助を行う
・ひとりで移動ができない車いすのお子さんなどの移動を手伝う
・教室を飛び出したり自傷や他害のあるお子さんや周りの安全確保を行う。
・読みが困難なお子さんのために、黒板の字を読みあげる
・書くことが困難なお子さんのために、テストの代筆を行う
・聞くことが困難なお子さんのために、先生の話を繰り返し伝える
・周囲の子供たちに障害についての理解を促す。


ちなみに、支援員は勉強を教えることはできない。(学習支援は行わない)。

これは私が驚いたことだった。
以前私がもっていたイメージでは、たとえば知的障害のあるお子さんが普通学級に入ったりした場合に、授業をする先生のほかにもうひとり支援員が教室内を巡回して、わからないところを個別に丁寧に教えてあげる、というものだったのだが、だいぶイメージと違った。(笑)

勉強は教えてはいけないのである。

ここはたぶん、私と同じように一般の人が誤解しやすいところではないかと思う。

具体的な支援員の仕事については、文科省がパンフレットを発行している。(ネットでも見れます)1)

<支援員に資格はいらない>



学習指導は行わないため、支援員に教員免許は必要ない
もちろん、特別支援学校教諭の免許も必要ない。
(私はとりました。その方が採用されやすいかと思って、笑)

(ちなみに、支援学級の先生は、特別支援学校教諭の免許は、まずもっていないと考えた方がいいです。)

ただ、先日支援員の新任者研修に行ってきたが、そこに集まった方々を見ると、実際は元教員だった方など、教員免許をもっている支援員もぽつぽついらっしゃる。
一方で、教育に携わるのははじめて、という、まったくの素人の方もけっこういらっしゃる。

じゃあ教員免許をもった人なら、支援員でも学習指導をしてもいいかというと、そんなことはない。
というのも、教える人としては採用されていないからだ。
(そのため、講師などと比べ時給がとても安い)

時給はどれくらいかというと、これは地域によって異なる。
関西の方では最低賃金を割っている地域もあるようだ。

たとえば一部地域では、教員免許をもっていることが条件になっているにもかかわらず、時給700円である。同じ地域の最低賃金を130円くらい割っている!
そういうところの支援員は、感覚としては一種のボランティアなのだろうか

一方で、時給1500円で募集し、学習指導可の地域も一部あるようだ。

(うちの地域では、時給は安いですが最低賃金は割っていません、念のため。でも学習指導は不可。)

<支援員の労働時間は短い>



支援員の労働時間も、地域により異なるが上限が決まっている。

基本パートタイムなので、限られた時間帯しか学校にいられない
(うちの地域は一日につき4時間までの人が多いと思う。多く働くと扶養から外れ損をするので)

上の文科省のパンフレットの事例を見ると、生徒ひとりにつく支援の時間が週6時間とか週9時間とか、そんな感じである。

それだと登校から下校までの間に、支援員がつく時間が一日1〜2時間だけということになる。

・・・以上の採用条件から何が言えるかというと、支援員の先生がついたとしても、過大な期待はしない方がいいということだ。

特別支援に関する専門知識があるかもとか、個々に勉強を教えてもらえるとか、そういうことはないということ(たとえ小学校レベルの勉強であっても。介助はしてもらえるけど)。
(支援学級の担任の先生ですら、免許があって専門知識のある人は少ない。支援学校の免許保持率は8割弱だが、支援学級の先生は3割ほどだそう。私の周囲では3割もいるかな?という印象)

一日中つくわけではなく、短い時間のみであること。

また、基本、支援会議に支援員は出席しないと思っていた方がいい
これは、通常支援会議は支援員の短い勤務時間内には行われないからである。
それどころか、支援学級の先生と打ち合わせをする時間もとるのが難しい状況がある。
(4時間勤務の方は特に)

支援員の時給が地域により700円だったりすれば、いるだけでラッキーと思うべきで、「資質」の部分は問えないだろう。

生徒のいる時間だけが勤務時間なので夏休みは収入ゼロだし、休みの多い月も収入が少なくなる。
4時間以上の勤務(週に20時間以上勤務)だと厚生年金に入るが収入がないのに健康保険と年金が引かれ赤字の月もあるだろう。
そして公務員のため副業は禁止である
契約も一年契約で、来年の保証はない。

・・・このような条件で資質を問うのは無理だろう。(笑)

ということで、教員免許を持っている人は、支援員を経験してもやめて講師などに移っていく人が多いのではないかと思う。
(時給が3倍くらいになる)

ちなみに、私は大変満足していますけどね。
やりがいがあるし、子供と接するのは楽しい。

これまで娘の送迎のため10時ー14時でしか働けなかったりして、ブラック企業でもっと悪い労働条件できつい仕事をしたりしていたので。
世の中にはもっと安い時給でもっと厳しい労働環境できつい仕事をしている人がたくさんいるのだということが経験できたことはよかったと思う。

<支援員から見た支援級の先生>



支援員としての立場から見ていて、学校の先生はとにかく忙しそうだ。

4月だからということもあるかもしれないが、やらなければならないことが山ほどある。
山ほどの雑用や書類作成に加え、生徒ひとりひとりに連絡帳を書き、それぞれに別々の宿題を用意したり、授業も別々の教材を用意しなければならない。(それも教えてる時間外に)

正直、自作教材など作っている時間はなさそうだ。

なので、支援学級の先生も支援学校の先生もだいたい、ネットの無料教材(ちびむすとか)をダウンロードして使っていると思う。

しかしそれは特別支援用教材とはいえない。

特別支援用教材を配布しているサイトも一部あるが、私もこれからは少し特別支援教育で使えそうな教材というものも意識して作ってみようかと思ったのだった。
(うちの娘用に作っているものなので、基本学年とかは全然意識していないし)

それから、年間予算がとても少ないので、自腹の持ち出しが多い仕事だと見ていて思う。
もちろんiPadやタブレットなど支給されるはずもなく、先生の私物である。
(支援学校には一台くらい支給されたのがあったかな?)
豊かな自治体では、小学生ひとりに一台配っているところもあるそうだが。

その他教室周りで使うもの、なんでも自腹である。
その上、こどもに自前の高価なものを壊されたりもする。
それでも、弁償を請求できないという。(心情的に)
なんとも、先生の心、生徒知らずであることよ。(笑)

<支援の難しさ>



「特別支援」という言葉にみなさんはどんな印象を持っているだろうか。
私は、特別支援はありがたいものというイメージである。
娘には手厚い支援がほしいと思ったので、支援学校に入れた。

しかし、親御さんの中には、特別支援というものに拒否反応をもつ人もいるようだ。

わが子は支援などなくてもやっていける。と、わが子の障害を認めない人もいるだろうし、
支援はほしいけれど、特別扱いはされたくない、という矛盾した気持ちを抱えている人もいるだろうし、大人ではなくクラスメートの手を借りたいんだ、という人もいるだろう。
単純に、みんなと一緒に授業を受けさせたいだけ(分けられたくないだけ)の人もいるだろう。

また中には、特別支援を受けるお子さんは、そうでないお子さんより、「格が低い」という偏見をもっている人もいるかもしれない。

親御さんだけではない。

〇〇学級という(学校によって名称は違う)、特別支援学級にいる子供たちを格下だと思っているお子さんもいるのである。

だからこそ(支援学級に)分けてほしくないのだ、という考えの人もいるのだろう。

しかしよくないのは、普通学級と支援学級を分けること自体ではなく、支援学級の子供を格下だと考えるその偏見の方であると私は思う。

支援学級のお子さんも、成長につれ、自分が周りとは違うことを意識するようになる。

そのとき、周りの子供たちや大人が支援学級を格下だと考えていると、自分が支援学級のメンバーであると思われたくないという気持ちが働くようになる

なので、本当は必要な支援を断ったり、無理してでも普通学級にいることにこだわるようになり、限界がきて二次障害を起こすこともある。

そういうお子さんにとって、支援員はいわば邪魔な存在である。
支援員がつくこと=みんなに自分は支援の必要な存在だとみられてしまう=格下だってことになる、という考えからだ。
(つまり、ついてきてほしくない)

支援を拒否するようになった子供たちをどうするか。
全体を見ているふりをしてさりげなくクラスのひとりとして接するしかないが、ここは、大きくなるにつれ、自分の障害(特性)の理解や、周りの子供たちにも支援学級というものの理解を正しくしてもらう必要があると思う。
(私たち障害児の親も同様である。)

他人との違い、自分の障害理解の部分は「分けなければ解決する」というようなものでは決してないと思う。
(むしろ健常児と一緒にいるからこそ感じるようになる部分だと思う)

そんなときは、やはり自分と同様、障害をもった仲間の存在が大きくなると思う。
障害児親が感じているように、子供も普通小学校の中では、「アウェイ」感があるのだと思う。

また、落ち着かない子供が教室を飛び出したり、授業の妨害をしたりすれば、他の子供たちの学習権が阻害される。
支援学級でも起こりうることだが。

本人および周囲の子供たちの学習権が阻害されないようにすることもまた、支援員の仕事のひとつであり、これは本人に嫌がられてもしなければならない。

<教育にお金をかけよう>



つい最近もYahoo!ニュースで学校の常勤講師の問題についてやっていた。
正規の教員に比べ給料も安く、士気があがらないという話である。2)

その常勤講師も、非常勤講師からすれば非常に待遇が良い。
その非常勤講師も、支援員の時給の三倍である。(笑)

でも子供から見ても保護者から見ても、みんな同じ「先生」なのよね

この先生は正規の教員じゃないからやる気がなくてもまあしょうがないか、などとは思ったりしない。

時給700円の地域の支援員さんも、正規の教員と同じ対応を要求されると思う。

だからもちろん私は全力であたるつもりでいる。
勉強を直接教えることはできないけど、担任の先生と情報交換して、「こんな教材がありますよ」とかいろいろ意見は言わせてもらっている。
(先生も、どんどん意見を言って、と聞き入れてくれるタイプ)

支援学級の先生も研修に出ているので、点の部分では、いろんなワザをご存知であるが(こんなグッズを使うとか)、その点と点をつなぐ根本にある線の部分(理論の部分)はご存知でない場合があるのではないかと思うし。

ともあれ、上のyahooニュースと同様、支援員も人件費を安く手を増やすという目的で設けられているものだと思う。

こうしてみると、やはり教育にはお金をかけないと、親の願うような支援を受けるのはなかなか難しいものがあると思う。

支援員の先生には生活的な介助はしてもらえるけど勉強は教えてもらえない。
だったら一部地域のように学習支援的なこともできるよう、教員免許の保持を義務付けるとか。
(それにはもうちょっとお金をかけて時給をアップしないと、なり手がいなくなるだろう)
勤務時間数を増やして支援会議に出たり職員間の打ち合わせができるようにするとか。

ほったらかしの子にもうちょっと手が行き届くように支援員の数を増やすとか。
(現行の支援学級の生徒8人に先生1人というのは無理すぎる。
ひとりがどこかに行っちゃったら、のこりの7人は全然授業にならない。
そもそも支援級にどっかいっちゃう子がひとりだけということはない。
そのために支援員がいるのだが、勤務時間上いるときもあれば、いないときもある。)

支援学級ですらそうなら、現時点では、普通学級を選ぶということはそれなりの覚悟がいることになる。

そのあたりのシステムを、親御さんもある程度理解している必要があろうと思う。
普通学級でマンツーマンの支援を常につけてもらって・・・というのは、今は現実的でないのだ。
(それだと支援学校より手厚くなる。支援学校もマンツーマンではない)

インクルージョンの考え方でいうなら、普通学級のお子さんにも支援員がつくようにするには、支援員の数がもっと増えないといけない。
アメリカのように各学年1クラスだけに障害児を集めてインクルーシブクラスとし、そこに支援員をひとりつけたとしても最低6人は必要である。
1クラスに集めるなどということは実際にはカオスとなり現実的ではないと思うが。^^;
とするとやはり、ここもお金をかけてもらわないと困る部分である。

追記:そして個人的には、知的障害のない自閉症のあるお子さんのための支援学校も必要ではないかと思っている。学習権を保障し、行事が少なく、毎日が同じ日課の繰り返しでストレス少なく、という学習環境であれば、学校に来られる不登校のお子さんもたくさんいるのではないかと思う。
IQのみで就学先を分けることをやめるべきではないか(たとえお金がかかっても)、と思っている)

<私が感じていること>



さっきから安い安いと書いているが(笑)、私は上に書いたように支援員の仕事に満足しているし、やりがいを感じている。

子供たちと日々触れ合えるのは楽しい。

ただ一年の契約が切れて来年はどうかな?・・と考えると、こちらにも生活があるのでね。上の子の進学とか。

教員免許をもっている方はやはりやめて違う仕事(デイサービスとか講師とか)に移る人が多いのではないかと思う。
本当は、教員と同じく、支援員さんもお子さんにとっては「先生」なのだから毎年コロコロ変わるのではなく同じところに何年か務めた方がいいと思うのだけどね。

旦那が定年に達するまでは、教科を教えるよりは安くても特別支援にかかわる仕事がしたいと思ったり、生活のためには講師の方がいいのかもと思ったり。

まあ一年かけてじっくり考えよう。

<注>



1)「特別支援教育支援員」を活用するために
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/002.pdf

2)(たぶんじきリンク切れになる)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180422-00000007-pseven-soci&p=3

アメリカのインクルーシブ教育(長文)

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私は、アメリカのインクルーシブ教育に興味がある。
日本とどう違うのか、どのような工夫をしているのか、それを日本にも取り入れられそうなのか・・・。
いろいろなヒントがあるような気がするからだ。

アメリカはインクルーシブ教育がすすんでいて、素晴らしい!!というイメージがあるが、アメリカの報道番組や本などを見るに、アメリカの義務教育もいろいろと大変な問題を抱えていることがわかる。

日本には日本の問題があるように、アメリカにもアメリカの問題があるのだ。
まさに「隣の芝生は青く見える」のである。

しかし、中には先進的な取り組みをしている学校もあり、そこから学べることもありそうだ。

<アメリカの教育が抱えている問題点>
アメリカのテレビ番組で次のようなテーマのことをやっていた。(放送3回分)

,發里垢瓦ざチ荼桐を公立学校に持ち込んでいる1)

20世紀の終わりごろ、アメリカの子供たちの学力は国際比較で底辺に近かった。

これを受け、「ひとりの落ちこぼれも出すな(No Child Left Behind Act)」という政策ができた。(ブッシュ大統領のころ)

アメリカは合理主義の国だ。
予算をつけるなら結果を出すことが求められる。
全国統一テストを受けさせ、結果が出ない学校にはテコ入れがされる。
それでも成果が出ないなら学校のとりつぶしだ。

また、生徒の成績があがったら教師の給料もあがり、下がったら給料も下がったりする。

一見合理的なシステムではあるものの、思わぬ副作用が出ているようだ。

テストに振り回される教師と子供。
今やアメリカはかつて受験地獄と言われた日本よりも勉強、勉強になっており、幼稚園でも遊ぶ暇もないくらいなんだそうだ。(幼稚園から勉強させる)

しょっちゅう試験を受けさせられる子どもたちのプレッシャーは大変なもので、小学生など、試験中にテスト用紙に吐いてしまう子供たちも少なくなく、子供が吐いたときの試験監督用マニュアルまであるそうだ。

⊃夕鏈絞未班鷲戮虜垢激しい2)
アメリカに人種差別は、いまだにある。
そして「インクルーシブ教育」という言葉とはうらはらに、白人とそれ以外(黒人やヒスパニック系の子)の学校の分離化が進んでいる。

全校生徒に白人の比率が1%未満(つまりほぼ黒人やヒスパニック系だけの学校)がここ20年間の間に倍増、7000校近くが同じ人種だけで固まっているそうだ。

まず人種で学校が分けられているのである。

それも南部アメリカの話ではなく、一番ひどいのはニューヨークなんだそう。

さらにひどいことには、白人のいない学校には予算もあまりつかず、設備が全然違う。白人の子が転入してくると急に予算が増えて学校の設備が整う、というギャグのようなこともあるそうだ。

3惺惨屬砲盒チ荼桐が持ち込まれている3)
アメリカにはチャータースクールという、公費で建てて民間で運営している学校があり、25年前に初登場して以来、その数が爆発的に増えている(42州にあるそうだ)。
授業料はタダであり、親は子供を行かせたい学校を選べることになっている。

学校の教育の質を向上させるには、学校同士を競争させればいい、という発想である。

「あるピザ屋がまずくて、サービスも悪かったら、もう一軒近くにピザ屋を建てればいい。そうすれば最初のピザ屋もましなピザを出すようになるだろう」

・・・というわけなのである。(笑)

しかし実際は、とりこぼしを出さないよう教育の質をあげるどころか、学力の低い子供をやめさせるようにもっていく傾向があるらしい。
そうなると貧困の家庭などはいい学校から押し出されて学校を選ぶ自由がなくなり、結局できない子が集まる学校ができ、学校間格差がますます広がる、ということが起きているのだそうだ。

これは、日本の予備校や学習塾が、成績の良い子を優遇し、成績の悪い子をほったらかしにするのと似ているかもしれない。
〇〇大学に何名入った、というのがその塾の宣伝になるからだ。
ほったらかしならまだマシで、もしも塾ごとの平均スコアを出して公表する、なんてことになったら、学力の低い子は塾に入れてもらえなくなるだろう。

学校もビジネス化しているのである。
ちなみにチャータースクールはある日突然「倒産」することもあるそうだ。フロリダ州では2008年以来119校が閉校しており、うち14校は開校して一年ももたなかったそうだ。

・・・つまり、教育が直接の成果を求められ、ビジネス化していった結果、学校間格差がひどくなったということである。
これは、日本の学校でいうところの地域差、なんてレベルでは全然ないらしい。
(集まる生徒の学力、貧富の差、学校予算の偏り、教師の質の偏りまである)

<インクルーシブ教育・成功例と失敗例>
このようにいろいろな問題をはらんでいるアメリカの義務教育であるが、インクルーシブ教育はどのようになっているのだろうか。

こんな面白い本を読んだ。
アメリカの教室に入ってみたー貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで』
(赤木和重/ひとなる書房)



ベストセラーになっているし、著者の人柄だろうが、とても面白く堅苦しくなく読める本で、おすすめである。

やはりここでも、ひと口にインクルーシブ教育といってもその実態は学校によってかなり違うことがわかる。この本ではうまくいっていない学校とうまくいっているように見える学校を紹介している。

●全然インクルーシブじゃない例
まず、上に書いたようにチャータースクールでは、自分の学校のレベルを上げるため、成績の悪い子をやめさせる方向にもっていくということがあるようだ。
健常児でもそうなら、ましてや障害児をや、である。
なんやかやと理由をつけて障害児を受け入れてくれないのだそうだ。
学校を自由競争原理のビジネスとした結果、障害児を受け入れると学校全体の成績のレベルが下がるし、コストもかかるから、学校としては望ましくない存在なのだろう。

●インクルーシブだけどうまくいっていない例
公立小学校の例があがっていた。
インクルーシブ教育が進んでいて、支援学校もない地域で、学校には支援学級もなく、障害児も含め全員が普通学級で学んでいる。

これだけみると「素晴らしい!」となるのだが、その実態は・・・。

読んでいて非常にお粗末なものという印象だった。
日本にもありがちな、「ダンピング」が起こっているのである。(ただ普通学級に投げ入れるだけ)

この公立小学校は、たとえば一学年に3クラスあるとすると、そのうち一クラスを「インクルーシブクラス」とし、そこに障害児を集める。つまり一クラスだけが健常児と障害児の混合クラス、残りの2クラスは健常児のみである。
そしてインクルーシブクラスには支援員をつけて手厚くする。
ここでは24人学級のうち障害児が4人。ただし学習障害の子ばかり。
(知的障害の子はどこにいるんだろう?)

インクルーシブクラスの健常児の親御さんは文句を言わないのかな?と思ったのだが(たとえば他のクラスより進度が遅れる、とか)どうもその心配はなさそうだ。

というのも、全然障害児に合わせた授業をしていないからである。

著者が見たインクルーシブクラスでは、障害児たちは授業に参加せず、突っ伏したりしており、完全に授業から取り残されていた。
「ただいるだけ」のインクルーシブである。

途中で20分ほどの取り出し授業のため、4人が教室から連れ出されるが、あっという間に時間終了でまた普通クラスに戻ってくる。

先生は、障害のある子にもっと丁寧に時間をかけて教えてあげたいけど時間がない、とジレンマを抱えている。

著者も書いているが、この場合、インクルーシブの名のもとに個々の子供たちの学習の権利が奪われているといった感じだった。
(理念ありきで、個々の子供たちのことが考えられていない)

予算をかけたくない都合もあるのでは、とも書かれていた。

さらに、障害児がクラスにいても、子供同士の交流はほとんどないそうだ。
アメリカはよくも悪くも個人主義。
たとえば授業中騒ぐ子がいたとして、他の子が「〇〇くん、静かにしようよ」などと声をかけようものなら、先生から「あなたは自分のことをしなさい」と言われてしまうのだそうだ。
だから、これまた良くも悪くも「お世話係」というような子はいない。
それぞれ自分の勉強をすればいいのである。

騒いだ子や迷惑行為をした子には、大人が対処する。
治安の悪いところなどは、警備員や警官も配置されていて、問題を起こした子が連れだされる。

これを読むと、とてもインクルーシブ教育がうまくいっているとは言えない。
日本のインクルーシブ教育が目指すのは「共生社会」だと思うが、ここのアメリカの例は学力や発達が保障されないばかりか、子どもたち同士の交流もないので共生ですらないのだ。
「いるだけ(形だけ)インクルーシブ」と言えるのではないかと思う。

こういう学校も少なくないのだろう。

●うまくいっている例4)
うまくいっている例で載っていたのは、私立小学校だった。

これはなかなか目からウロコで、なるほど、こういうやり方ならインクルーシブが可能かもね、と思わせられるものだった。

小中合わせて約30名の小さな学校で、小学1年生から中学生までの全員が同じ教室で学ぶ。
まるで寺子屋である。
何学年という意識もない。学年の枠というものがなく、個々に時間割が違い、課題も違う。
親も自分の子が何年生なのかすぐ言えないくらいだ。(笑)
何歳から何歳までこの学校にいて、あとはひとりひとり個々のペースで学ぶという感じなのだろう。
個別学習の時間もあれば、集団で活動する時間、数人で学ぶ時間などもあり、子供たち同士のコミュニケーションの機会も大事にしている。

全校生徒30名のうち、障害のある子の割合は四分の一だそうだ。
だが、授業をみてもどの子に障害があるのかはわからないという。

一番の違いはそこである。(うまくいってない例では障害児が完全にクラスから取り残され、浮いていた)

しかしここでは、学年という概念もなく、ひとりひとりが個別の課題をやっているので、知的障害のある5年生の子が2年生の課題をやっていたとしても、全然目立たないのである。

さらに、全体に非常に「ゆるい」雰囲気
先生の話を聞くとき、寝そべっていても怒られない。
逆に「一律に同じことをさせることになんの意味が?」と言われてしまう。
「どの姿勢がリラックスして聞けるのかを自分で決めることが大事」なんだそうだ。

ひとりひとり違っていてもいい、という雰囲気なので、非常に安心感があるのだそう。
子どもたち同士の思いやりも頻繁に見られる。
まさに理想的なインクルーシブ教育だと読んでいて思った。

<日本の学校に取り入れられるのか?>

さて、読んでいて、なにかのデジャブ感があった。

私が知っている、これに一番近い雰囲気の日本の学校といえば・・・「娘の学校だ!」と思ったのだ。(笑)

特別支援学校だから、健常児こそはいないが、ひとりひとり違っていて当たり前という雰囲気の中、全員が一律に行動することを求められない。
上の学校と同じく、ゆるい雰囲気である。
中学生はいないが、小1から小6までが同じ教室で学んでいる。
個別のそれぞれの課題もあるし、全体やペアなどで活動することもある。
同じ学年だからといっても、それぞれの課題は全然違うし、「何年生だからこれをやる」という縛りもない。
だからひとりひとりが浮いたり取り残されたりということがない。

だからこその安心感なのだと思った。

上のアメリカの学校では、英語のわからない著者の娘さんが、安心できる雰囲気の学校の中で少しずつ心を開いていく様子が描かれていた。
うちの娘も、支援学校の安心できる雰囲気の中で心のシャッターをあげ、とても人懐こい子供に成長している。

普通小学校でしんどい思いをした子供たちが、この学校に来る。

なぜ普通小学校がしんどいのか。
一番大きいのは、日本の普通小学校は、みんなが一律に同じことをすることに、非常に重点を置いているからだと思う。

同じことをすることを強調しすぎ、列からはみ出すものを注意してもとに戻そうとするから、障害児が目立ち、目立つだけならよいが、自己肯定感が下がったり、周りの子に厄介者と見られることも出てきてしまう。

うちの上の子たちも、健常児であっても、人と違って浮いてしまうことの恐怖という息苦しさをずっと感じて過ごしてきたと思う。

中学生にもなって、下駄箱の上履きの置く位置までビシッと統一されていることを、中学の先生が誇らしげに説明していたけれど、アメリカの上の学校の先生が見たら卒倒するだろう。

本当に「それになんの意味が?」である。

卒業式だって思い思いの自由な服で参加するアメリカの学校。
絶対に目立った制服の着方をしないよう、何週間も前から厳重な指導を重ねる日本の中学・高校。(当日朝も張っていて、気崩した生徒や華美なデザインに変えてきた者には門前払いをし、着替えてこさせる)

どこかの高校で、地毛が茶色の高校生が黒く染めさせられたというニュースもあったな。
(外国人であっても、黒く染めさせますと学校が言っていたとか・・・)

日本の学校のそういう姿勢は、それだけにとどまらず、子供たちの、「異質なものを排除しよう」という心の形成にもつながっていく

ただ、学校だけがそうなのではない。社会がそうなっているから、学校もそういう指導にせざるを得ない面があると思う。

そもそも、アメリカと日本では文化が違いすぎるのだ。

どっちがよくてどっちがダメということはないが、「みんな違って、みんないい」のインクルーシブ教育には日本は向かない風土(向かないと言って悪ければ、厳しい風土)なんだ、ということは、この本を読んでわかった気がする。

インクルーシブ教育は、障害児を普通学級に入れて支援員をつけるだけじゃだめなんだなー

もっと根本的なところ、「みんなが同じことをしなくてはいけない」というところを変えていかないと。

まあ、2年生なら2年生がみんな同じ教科書で学ぶことをやめて、算数ができる子は算数だけもっと先の勉強、苦手な子は算数だけ一年生の勉強でもいいというようなことをして、それを恥ずかしく思わなくてもいいように、人は人、自分は自分とみんなが思えるように・・・となればいいけれど、そういうことも日本では厳しいだろう。

先々の受験のこともあるし、「みんながやっているのと同じ進度で勉強するのが大事なこと」だという意識があると思う。

そこが変わらないと、障害児本人だけが全体についていく努力を強いられることになり、つらくなるんだけどね。

せめて、違いを許さない日本の「生活指導」的な部分を改めないと、と思う。
これが子供たちのいづらさ、しいては障害児のいづらさに関連しているのは、見えてきたような気がするからだ。

たとえば・・・

制服は着ても着なくてもいいことにしたり、頭髪検査やスカートの丈をはかったりすることをやめたり、人に迷惑をかけなければ授業中楽な姿勢をしていてもいいとしたり(頬杖をついているだけでよくしかられたものだ)、あまりにも「同じ」にしなければ気が済まない今の学校の姿勢をゆるめていくことなら、少しずつできるのではないか

人種的にもあまりにも統一感がありすぎ、それゆえにささいな違いをつつき合って息苦しくなっている日本の学校で、このあたりを変えていくには・・・日本もアメリカのように、もっと難民を受け入れていくべきじゃないのか?というやや飛躍した感想をもった。(笑)5)

インクルーシブの本来の意味は、すべてを包み込むという意味のはずだ。
本当の意味で日本がインクルーシブな社会になるには、同じ民族だけで固まっていては限界があるのではないかと思う。
アメリカはいろんな人種と長年接してきた歴史があるが、日本はその面ではまだ赤ちゃんだからなあ・・・。
<注>
1)Standardized Testing: Last Week Tonight with John Oliver (HBO)
https://youtu.be/J6lyURyVz7k

2)School Segregation: Last Week Tonight with John Oliver (HBO)
https://youtu.be/o8yiYCHMAlM

3)Charter Schools: Last Week Tonight with John Oliver (HBO)
https://youtu.be/l_htSPGAY7I

4)私立小学校はいろんな面で恵まれた環境もあるかもしれない。
授業料は毎年100万円(200万のところもある)くらいなので、貧困層の子は入れず、ほぼ白人で占められているし、貧困層がいないから「てめえ死ね!」なんて言葉も教室に飛び交わないし、警察も常駐しなくてもいい。
お坊ちゃんお嬢ちゃんの学校なので、教師も強硬手段に出る必要もない。
(日本の高校も、いわゆる学力の低い高校ほど、教師が強硬手段に出ざるを得ない部分がある)

それから、中度・重度の知的障害児がいないみたいだった。
一体その子たちはどこにいるのだろう?

5)日本の難民受け入れ数は、諸外国と比べあまりにも少ない。
https://www.refugee.or.jp/jar/report/2017/06/09-0001.shtml

インクルーシブ教育の誤解?(問題点)(長文)

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インクルーシブ教育について書きたいと思っていた。
年末ぎりぎりになってしまったが、この記事をアップして今年の更新は終わりにしようと思う。
(また来年度のご挨拶の記事で、クリスマスのことなど書こうと思います。みなさんよいお年を)

*          *         *

ネットで検索すると、「インクルーシブ教育=すべての障害児が普通学級で学ぶこと」という文が多く出てくる。

これを見るたび、「ええっ??」という驚きの気持ちを禁じえなかった。(笑)

というのは、私はこのほど通信制大学で学んで特別支援学校の教員免許をとったのだが、もちろんテキストには「インクルーシブ教育」についての項は出てくる。

が、そこには「インクルーシブ教育とは、すべての障害児が普通学級で学ぶことである」なんてことはひとつも書かれていないからである!

つまり、いいか悪いかは別として、世間一般で言っているインクルーシブ教育と、教員が学んでいる(つまり文科省が言っている)インクルーシブ教育というのは、別物であるということだ。

これでは、親が「インクルーシブ教育!!」と言っても、学校側にピンとくるわけがない。

<インクルーシブ教育とは?>
それでは、日本の特別支援学校の教員志望者のためのテキストには、インクルーシブ教育とはどういうものだと書かれているのだろうか。

●障害児だけのものではない


まず、前提として、インクルーシブ教育というのは、障害児だけを対象としたものではないとある。

つまり、障害の有無にかかわらず、すべての者を包み込むという意味なのである。
これには貧しい家庭の子や、難民、政治亡命者、親が外国の人で母語が不自由な子供、マイノリティ(たとえば宗教の違う子供など)も含まれる。
障害児だけではなく、特別な教育的ニーズを持つ子供全体のインクルージョンなのである。

実際、アメリカでは支援学級に相当するクラスは、障害児のためだけのものではない。
確か以前読んだ本には、籍は固定制ではなく、どの子も苦手な教科があれば支援学級に行って個別に指導してもらい、また普通学級に戻っていく、というように、流動的に使われていると書かれていた。
つまり「障害児は支援学級(支援学校)へ」ではなく、すべての子供の発達や学力をできる限り保障するために、ニーズのある子どもはすべて支援学級に出入りして必要な支援を受けることができる、ということだったと思う。

日本でも、実際には不登校の子など、普通学級で学ぶのが苦痛な子は支援学級に出入りして学んでいるという使われ方もしていることから、そのようなケースはあると思うが。

●一般的な義務教育制度から排除されないこと


よくインクルーシブ教育の根拠として引用されるのが、障害者権利条約である。1)
2006年12月に国連総会で採択され、翌年9月に日本は書名し、世界で141番目に2013年に批准したとある。

詳しい部分は注にまわすが、内容としては障害のある子どもが障害があるからといって一般的な教育制度から排除されないこと。また必要な合理的配慮がなされること、また「学問的および社会的な発達を最大にする環境において、完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられること。」
とある。

つまり、「普通学級で学ぶこと」とは書いてない。

同じくよく引用される、1994年スペインのサラマンカで行われた「特別支援教育世界会議」で採択された「サラマンカ声明」でも、2)

「特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず、」とあり、
「個人差もしくは個別の困難さがあろうと、すべての子どもたちを含めることを可能にするよう教育システムを改善することに、高度の政治的・予算的優先性を与えること、
 別のようにおこなうといった競合する理由がないかぎり、通常の学校内にすべての子どもたちを受け入れるという、インクルーシブ教育の原則を法的問題もしくは政治的問題として取り上げること、」とあるが、

やはり、「普通学級で学ぶこと」とは書いてない。

どうも、「すべての障害児を普通学級へ!」という志向をもつ人々が、この文面を拡大解釈しているようである。

●現在の日本のインクルーシブ教育のとらえ方


日本ではこうした世界での流れも受けて、平成24年(2012年)中央教育審議会初等中等教育分科会報告で、「障害のある子どもは特別支援学校に原則就学するという従来の就学先決定の仕組みを改め」連続性のある多様な学びの場を用意するという立場をとることになった。

つまり、これまで「障害児は原則支援学校へ」と指導されていた従来の仕組みを改め、親の意向も確認しながら、その子に合ったいろいろな学びの場を用意する、という立場。

これが、日本のインクルーシブ教育なのである。
(注:それが正解とは言ってません)

この、「一般的な教育システムから排除されないこと」という定義は、日本の障害児教育の歴史を振り返ってみれば納得できることである。

<障害児教育の流れ>
ものすごく大雑把に流れを振り返ると、もともと、日本には(世界的にも)障害児のための学校などというものはなかった。

健常児と同じ学校に通っていたのではなく、学校そのものに通えなかったのである。

障害児教育は、やはり知的には遅れのないろう者・盲者の教育からスタートし、知的障害児の教育は一番後回しだった。

1923年 ろう学校・盲学校の設置義務化
1947年 学校教育法公布 義務教育について定める
1948年 ろう児・盲児の就学義務化
1979年 知的障害児の就学義務化


・・・あらら、30年以上も遅れている

一応学校教育法で全員が義務教育の対象にはなったのである。
が、通う学校がない。
そこで、その間どうしていたかというと、知的障害児の親に「うちの子の就学を猶予してください。(免除してください)」とお願いさせ、許可するという形をとっていたのである。
実際は通える学校がなかっただけなのにもかかわらず・・・。

なので、少し前までは、親の中には「就学猶予」という形で我が子の就学を遅らせ、その子の発達を待って普通学級に入れるというやり方を選ぶ人がいたが、文科省側からすると黒歴史である就学猶予などという形はなるべくとらせたくないのが本音である。
(もともとは就学猶予=その子の教育の権利を奪う、という図式だったので)

つまり、養護学校(現在の特別支援学校)の設置は、そもそも健常児と分けるためではなく、障害児にも教育の権利を保障するためにスタートしたものだということである。

<インクルーシブ教育の問題点>

●問題その‐祿音コミュニティの大切さ


とある本によると3)、北欧でノーマライゼーションの普及に活躍したウォルフェンスバーガーという人は、こんなことを言っている。
(私のことばに変えています。)

「普通じゃない人たちが一緒に行動したりお互いに交流すると、ますます普通っぽくなくなって(障害者っぽくなって)、適応行動が減り、発達どころか社会に出られなくなる。」


うわ〜、こんなこと言っちゃっていいのかなという感じである。
すごい差別意識。
これに同意する人は、「障害が個性」なんてホントは全然思っていないことは明白である。

が、実際にこういうことを言っている有名な先生もいるし(私もじかに話を聞いたことがある)、普通学級を希望する人の中には、インクルージョンの思想全然関係なく、この理由で目指す人も一定数いるのではないかと思う。

スウェーデンのニイリエは、このウォルフェンスバーガーの考えを批判して次のような意見を述べている。
(これまた言葉を置き換えていますが)
「自分と同じ障害をもつ人々と交流することで、自分を主張してそれが受け入れられる経験ができる。またアイデンティティを感じることができる。こうした交流の中で、自分と同じ気持ちや同じニーズをもっている人を見出し、共感し、その気持ちを表現し、そして自分たちに何が必要なのかも明確になる。」
「誰しも、自分と同じ悩みや共通の困難をもった人たちの集団に参加することを望んでいる」


私も同じ意見である。

これまでも何度も書いてきたことであるが、ダウン症のある子が生まれた親はダウン症の親の会への参加を望む。
きょうだい児は、きょうだい児同士でしかわからない気持ちを共有し合うニーズがあるのできょうだい児の会も必要である。
であれば、障害児も、当然、障害児同士で気持ちを共有し合うニーズがあるのではないかということである。

個人的には、健常児と障害児、どちらの交流も大事なのではないか、むしろ親は健常児との交流しか頭にないことが多いので、障害児との交流こそ、意識して作っていかなければならないのではないかと思う。

●問題その発達を促す教育は否定?



かつて、養護学校を全国に設置してほしいという運動が親や教員の間で盛んだったころ、一方で養護学校設置に反対する運動もあったようだ。

それが「すべての障害児を普通学級へ」という運動である。

この方たちは「障害は個性である」として、「その個性をあるがままに認めるべき」という考えから、障害を軽減するための専門的な治療や訓練を否定、さらにはその子の発達を促すための教育そのものも否定する人たちもいたようだ。

今現在も、同じ理由で支援学校や支援学級に対して否定的な先生はいらっしゃる。

私個人は、障害のあるなしにかかわらず、成長は必要で、したがって教育も必要という考えである。
できることが増えれば、本人の自由度も人生の選択の幅も広がる。

また、我が子が保育園でいろいろとやる気を失っているところを見ていたので(笑)、必要な支援を受けて活動に積極的になれたらいいと思っていた。(勉強に限らず)
将来に向けての身辺自立や社会で生活するための訓練もしてくれる。

その子に合わせて丁寧に教えればわかるような勉強も、一斉授業の中にいたら取り残される。
私は今塾でバイトしているが、健常児でも取り残された子たちがたくさんいる。
やる気を失い、勉強が嫌いになっている子たち。でも個別に丁寧に教えれば「できる!」「わかった!」が増えていく。

支援もない状態でその子を教室に放り込むことはダンピング(投げ入れ)と言われるものである。

いいか悪いかはともかく、現状では、支援学級は生徒8人に先生一人、普通学級は支援はつかないことになっているので、誰かボランティアか親が付き添うかしないと、このダンピングが起こり、「発達の保障」の部分が危ういのかな、と思う。

●問題その:教育に予算をかけない言い訳にされないか



おそらく、「すべての障害児を普通学級へ」という人々が考えるインクルーシブ教育を最も実践できているのは、皮肉なことに、それまで障害児が教育を受けるという発想もなかった発展途上国だろう。

それはつまり、もともと障害児教育に予算などかけていなかったので支援学校のようなものはない。だから障害児を学校に行かせるとしたら普通学級に入れるしかないからである。

娘は支援学校に通わせてもらっている。先生の数も支援も手厚い。

が、娘くらいの障害だと(3歳でオムツは外れていたし、入学時には本も読めた)支援学校に入れてくれない地域もあるようだ。
インクルーシブ教育推進派?の方からすると理想的な地域かもしれないが、うちの支援学校からそちらの地域へ引っ越した人など、全然基準にあてはまらなくてまた支援学校に入れてもらうのには大変苦労したりするらしい。

教育にお金をかけない言い訳にされるのは困るのだ。

日本のインクルーシブ教育は、支援学校や支援学級の存在を認めている。
注意力散漫や聴覚過敏、その他で、大勢の中で学ぶことが物理的に困難な子供たちもいる。

「こうでなければならない」ではなく、選べる自由があることが大事である。

そういう意味では、もちろん身辺自立してなくて障害が重度でも普通学級を選択する親御さんがいてもいいし(ただしだれか付き添いの人を用意するなら)、ある程度学習ができる子でも、大勢の中での学習が苦手なら支援学級や支援学校に行けるようになることが理想なのではないかと思う。

<注>


1)障害者の権利に関する条約
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000018093.pdf

第二十四条に「教育」がある。
「締約国は、教育についての障害者の権利を認める。締約国は、この権利を差別なしに、かつ機会の均等を基礎として実現するため、障害者を包容するあらゆる段階の教育制度および生涯学習を確保する。」

「障害者が障害に基づいて一般的な教育制度から排除されないこと及び障害のある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育または中等教育から排除されないこと」
「個人に必要とされる合理的配慮が提供されること」
「障害者が、その効果的な教育を容易にするために必要な支援を一般的な教育制度の下で受けること。」
「学問的および社会的な発達を最大にする環境において、完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられること。」
「締約国は、障害者が、差別なしに、かつ、他の者との平等を基礎として、一般的な高等教育、職業訓練、成人教育及び生涯学習を享受することができることを確保する。このため、締約国は、合理的配慮が障害者に提供されることを確保する。」

2)サラマンカ声明
http://www.nise.go.jp/blog/2000/05/b1_h060600_01.html
 すべての子どもは誰であれ、教育を受ける基本的権利をもち、また、受容できる学習レベルに到達し、かつ維持する機会が与えられなければならず、
 すべての子どもは、ユニークな特性、関心、能力および学習のニーズをもっており、
 教育システムはきわめて多様なこうした特性やニーズを考慮にいれて計画・立案され、教育計画が実施されなければならず、
 特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず、
 このインクルーシブ志向をもつ通常の学校こそ、差別的態度と戦い、すべての人を喜んで受け入れる地域社会をつくり上げ、インクルーシブ社会を築き上げ、万人のための教育を達成する最も効果的な手段であり、さらにそれらは、大多数の子どもたちに効果的な教育を提供し、全教育システムの効率を高め、ついには費用対効果の高いものとする。

 個人差もしくは個別の困難さがあろうと、すべての子どもたちを含めることを可能にするよう教育システムを改善することに、高度の政治的・予算的優先性を与えること、
 別のようにおこなうといった競合する理由がないかぎり、通常の学校内にすべての子どもたちを受け入れるという、インクルーシブ教育の原則を法的問題もしくは政治的問題として取り上げること、(以下略)

3) 『障害は個性か』茂木俊彦 大月書店

特別支援学校高等部を見学してきました

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親の会のイベントで、地元特別支援学校(名前は養護学校)の高等部(と中学部もちょっと)を見学してきた。
娘が今通っている支援学校は分校で小学部しかないため、将来はここに通うことになる可能性が高い。

生徒数は、全体で200名弱、それに対して先生の数が160名以上。
今の娘の学校は全校生徒10名ちょいなので、中学部で急に大きな学校に移ることになり、それも心配のひとつである。^^;

でも見学してみて、けっこうここに入るのが(母は)楽しみになったかな

まあ生徒数のうち、半数以上が高等部だそうだが。
生徒数の半分が高等部というのは、どこの支援学校もだいたい同じらしい。

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通学方法は、高等部では半分が付き添いなしの自力通学、寄宿舎から通う生徒もいて、残りは親が送り迎えだそうだ。(スクールバスは小学部中心。余分があれば中学部も乗せてくれる)

高等部では、やはり卒業後のことを考え、働く学習が多くなる。
うちの支援学校では6つの班(作業班)に分かれており、製品を作り、販売活動をしたり(農協や文化祭などで)それで得たお金でお楽しみ会など楽しいことをする、ということになっている。
(日課的には、週3日間の午前中が作業学習にあてられている)
イメージ図。
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(気になる教科学習時間だが、青い部分が個々に合わせた課題学習の時間である。
国語・社会・数学・理科・英語・情報等各教科、自立活動の内容を合わせた授業を保護者と相談の上取り入れているということで、生徒さんによって学習時間に差があるということだった。)

また、実際の会社に行って働く「現場実習」は高等部の大事な活動で、6月と11月にそれぞれ3週間ずつ、1年生は校内、2・3年生は実際の会社で働く。

障害の程度により、事業所での生活体験をする人もいるようだ。
そして3年生の三学期には特別現場実習といって、4月から行くところに行って働く実習もあるということだ。

今回は、作業学習の様子を見せてもらった。

<作業学習の見学>


学校によっていろいろだと思うが、うちの学校には農耕園芸班、木工班、紙すき班、手芸班、陶芸班、クッキー班の6つの班がある。

農耕園芸班は校外でやっているため見られなかったが、その他は見学できた。

全体的な感想としては、支援学校だからな〜、と想像していたのとは違い、どこもレベルが高かった
実際にホテルやカフェで使うものを注文を受けて販売しており、生産が注文においつかない、というものまであった。
高度な技術を要するものもあり、その技術を指導できる先生もいるようだ。

また代表の生徒さんが説明してくれたのだが、みなしっかりしていて説明もうまく、「何か質問はありますか?」と聞かれたのでこちらから質問するとちゃんと答えが返ってきた。
(もちろん、できるお子さんなのだろうけど)

なんというか、黙々と目の前の作業に集中している生徒さんたちの姿は、高校教員の経験がある私から見ても、ちゃらんぽらんで授業なんか聞いておらず、むしろ妨害ばかりする高校生たちのお手本にさせたいくらいで(笑)まさに「職人の卵」といった風情であった。
(先生たちはそばに張り付いておらず、みな自分のやるべきことがわかっていて黙々とやっていた)

見学したのは小学部のお子さんの親がほとんどだったが、「あと6年後にうちの子がこうなるのか心配だ」と言い合ったくらいであった。(笑)

(まあ中学部でも、高等部に向けての作業学習を開始するようだが)

私たちだったら、一週間交代くらいで別の班を渡り歩きたいと思ってしまうのだが、この生徒さんたちは一度選んだものを卒業まで極めることになるのだ。
「飽きないの?」と思ってしまうのだが、やはり黙々と単純作業を根気よくできるのが知的障害のある方の強みなのだろう。

うちも確かに「飽きない」という特性があるが、それは動物園や水族館での話で(笑)(同じ生き物をずーーーーっと見ていても飽きない)この特性が、作業などにも生かされるとよいのだが、と思う。
(あと娘はほとんとしゃべらないので、「黙々と」という部分だけは今もできていると思うが、(爆)

●クッキー班
正直、娘は(自分で選ばせたら)クッキー班一択だろうな、と思い(笑)、毎日クッキー食べてたら太るから、別のことにも興味を向けないと、と思って手芸なども家でやらせはじめていたところだ。
が、けっこう想像していたのとは違った。

まず調理実習などとは違い、自分たちが食べられるのではなかった。(笑)
材料を量って生地を作って型作り、冷凍するまでの作業をするのだ。
(パウンドケーキのみ、焼いてから冷凍していた)
分担制の流れ作業ではなく担当者は最初から最後まで自分で作る。
また当然ながら、ここでは非常に衛生面に気を遣っているということだった。

●紙すき班
紙すき班は牛乳パックを使って紙を作ってプレスし、ハガキや名刺・封筒用の紙を作っていた。(色もつける)
プレスするときれいな紙になる。
プレス機などの機器があるのが他の高校にはない支援学校高等部の特徴だと思う。

(そういえば娘の小学部でも図工の時間に紙すきの作業は何度かしたことがあり、娘も喜んでやっていた)

●手芸班
手芸班はミシンを使うところ、ビーズや皮細工をするところ、さをり織りをするところ、など分かれており、ピアスなどはすごくセンスがよくてほしい!との声がお母さんたちからあがっていた。
(私はこういうもののセンスはさっぱりわからないが、よくできているということだけはわかった)
先生がデザインしてひとつひとつ指示しているのか、と思ったらそうではなくて、自分たちで考えるそうだ。ネットを参考にもするが同じものは作らず、お客さんを想定して作るという。
ただ手先の作業がとても細かい。
鉛筆もちゃんと持てない娘にはどうかな・・・これも向き不向きがあるだろう。

●陶芸班
すごく味のある食器を作っていた。
陶芸は委託販売しているということで、実際にホテルやカフェに納品しているとのことだった。
大きな窯もあり、微妙な調整が必要なものらしいが生徒さんがやっていた。
器の底をやすりで平らにしている生徒さんもいた。

●木工班
これも大型の機器があり、椅子などの大きな家具を作る人から、木片をくりぬいて根気よくやすりで磨き、スプーンやフォーク、バターナイフなどの木製カトラリーを作っている生徒さんもいた。
触るととってもなめらかで、くまのプーさんに出てくるようなかわいいものである。
気が遠くなるような作業だが、生徒さんたちはコツコツとやっていた。

<卒業後の進路>



ちなみに高等部卒業の進路だが、
去年はだいたいこんな感じだったようだ。
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一般企業にはパートも含まれている。
進学はゼロ。

一番多いのが就労移行支援で、一般企業に入る生徒さんも生活介護の生徒さんも同じくらいいた。
要は、障害の程度はさまざまで、個々に合った進路を選んでいるということだろう。

*          *       *

特別支援学校のいいところは、普通学校ではチャンスの少なかった生徒さんたちが、リーダーシップをとったり責任ある立場になったりという経験ができるところだと思う。

娘も意外なことに当番になりたがり屋で(笑)はりきってみんなの前で朝の会の進行をしたりもするらしい。(←言う言葉は決まっているけど)

高等部は生徒会活動などもやっており、保険給食委員会、エコ委員会、整美委員会、放送委員会、体育委員会、図書委員会、代表委員会の7つがあるそうだ。

生徒会長や委員長などの仕事も、普通学校ではチャンスがもてなかった生徒さんたちが、自信と誇りをもって取り組めるだろう。

きっとどの作業班のお子さんも、自分の作った製品を誇りをもって売っているのだろうと思う。

あと生活に即した授業も行っており、たとえば18歳で選挙権が得られるようになってからは、模擬投票や、補助投票体験(障害者は投票のとき補助をしてもらえるが、どこまで補助してもらえるかを体験する)などのこともやっているそうだ。

特別支援学校は、まあ言ってみれば小中高一貫のエスカレーター式の学校である。
文化祭では小学部のうちは中高生のお兄さんお姉さんにもてなしてもらう側。
中学部からは模擬店などでの参加が始まる。
いろいろと学ぶのに時間のかかる子であるが、小学部から中学部・高等部の生徒さんたちの姿に触れ、それを目標に学校生活を積み重ねていけばいつかああなれるのかな(?)

娘には学習面でも学び続けてほしいとは思っているけれど、早く社会に出した方がいいとも思っている(過去記事
働くことの姿勢、仕事で求められること、上の子たちは全然身についておらずきっとこれから苦労するだろう。^^;
娘には、働くことを早くから意識して、その喜びを知ってほしいなあ、と思う。

余談だが、授業を見て生徒さんの姿にはひたすら感心したのだけど、校舎はすごく老朽化していた
壁ははがれ、今どき鉄枠の重い窓(昔の建物によくあった)で網戸もなく、夏は閉めきりか虫にさされるかの二択である。

娘は蚊に刺されるとかなり腫れてしまうのよね。
県知事さん、まずは網戸を入れてください
よろしくお願いします。(笑)←毎年お願いしても買ってもらえないらしい

特別支援教育の問題点(長文)

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特別支援教育について調べてみると、娘の入学時には知らなかったことがいろいろあった

なぜ、普通学級のお子さんはことばの教室に通えるのに、支援学級・支援学校のお子さんは通えないのか。
(見捨てられているのではないか?)
どうして特別支援学級では、ホットケーキばかり作っていて勉強しないのか。(笑)
どうして特別支援学校では、水遊び・砂遊びばかりしていて勉強をしないのか。
(もっと鉛筆を持たせてくれればいいのに)


・・・などなど(もちろん学校によって違いは大きいが)、親が持ついろいろな疑問について、「あー、だからなのか」と思うことがいくつかあった。
「そんな前提なの!?」と驚く部分もあったりした。

こうしたこと(カリキュラムの違いとか、教育目標の違いとか)は、教師だけでなく親こそが知る必要のある情報だと思う。
なぜなら、現在のしくみでは、就学先を決める最終的な決定権は親にあるからだ。
カリキュラムの違いも、その目指すところも知らないで、どうやって就学先を決めるというのだろう。^^;

そこで、現在の教育制度における知的障害児教育について、私が初めて知ったこと、また問題と思う点などについて書いてみたいと思う。

<知的障害児教育は他の障害児教育とは全く違う!>


まず驚いたのは、肢体不自由・聴覚障害・視覚障害・情緒障害・自閉症・病弱児などいくつかある障害児教育の中で、知的障害児教育だけが別枠になっているということだ。

というのも、他の障害の場合は、たとえ特別支援学校であっても、そこで学ぶ内容は普通小学校で学ぶ内容と同じなのである。ただ、そこには障害特有の配慮がいるというだけの話だ。
(目の不自由な子に普通に板書しても見えないし、耳の不自由な子にぺらぺらしゃべるだけの授業ではわからないから、そこは工夫が必要。でも学ぶ内容は同じ)

特別支援学校の場合、そこに「自立活動」つまり、障害に応じた療育の時間が加わることになる。

聴覚障害のお子さんだったら発音の訓練や言語指導、視覚障害のお子さんだったら白い杖で歩行する練習や感覚の訓練、肢体不自由のお子さんなら体の緊張をほぐすことや身体機能を向上させる訓練や電動車いすを自分で動かせるようにする練習、自閉症のあるお子さんなら人との関わりやコミュニケーション力の向上などを目指す時間などがそれにあたる。

知的障害児教育だけが、まったく別個に、独自のカリキュラムが作られているのである。
これは、知的障害の場合、各教科を学ぶということそのものに困難があるために、そこを独自に作らなければならないということだろう。
また知的障害児教育の場合、上の「自立活動(障害に応じた療育の時間)」は、たとえば知能検査などを行ってその子の苦手部分を知り、認知を高めたり言語を伸ばしたりコミュニケーション力を高める学習をしたりということになるのだろう。
後に述べるが「日常生活の指導」などで身辺自立や社会的ルールを学んだりする学習も障害に応じた療育という意味では自立活動のひとつといえるかもしれない。
(着替え、トイレ、食事、お風呂、日常動作、あいさつ、掃除、片付け、買い物、公共交通機関の利用、公衆浴場の利用、公共施設の利用など)

<知的障害児が勉強を教えてもらえない理由!?>


「入学して数か月経つのに学校では全然鉛筆を握っていない」
これは、特別支援学校や特別支援学級に通っているお子さんの親から聞くことのある不満である。
(ちなみに娘の支援学校では入学してすぐに鉛筆は握っていました。学校による違いがあるのは前提として)

支援学校と支援学級のカリキュラムはどう違うのかというと、実際は違いはないと言っていいと思う。

知的障害児の特別支援学級用のカリキュラムというものはない(特別支援学級の学習指導要領というのはない)。普通学級のカリキュラムと支援学校のカリキュラムがあるだけだ。そこで知的障害児の支援学級では、特別な教育課程を作っていいことになっているが、その際特別支援学校のカリキュラムを参考にすることになっている。よって、特別支援学級だけれどもやっていることは特別支援学校と同じという学校はたくさんある。
(この「特別に作っていい」を自由に解釈して、しまじろうのビデオばかり見せられている学級もあったり、この子には算数は無理として絵ばかり描いていたりと、要するに受け持った先生の自由裁量が過ぎる例が耳に入ってくるのだが。支援学級は先生ひとりが受け持っていて他の先生によるチェック機能がなかったり、そもそも個別の指導計画が義務化されていないため、計画もなしにテキトーになるリスクもあるにはある)

で、なぜ「鉛筆を握らないのか」ということだが、これには、知的障害児教育に対する基本的な考え方があるためだろうと思う。

まず、知的障害児の教育は、「生活の自立と社会参加」を大きな目標に据えているということ。

それを踏まえた上で、知的障害児の特徴として(ことばは私の表現に変えていますが)、
・プリント学習などをしてもそのプリントが解けるようになるだけで実生活で応用できにくい
(たとえば、1から100まで言えるようになったとしても、「58個とって」と言われてもできない。「3+4」がプリントで解けても300円のものと400円のものを買って1000円で足りるかどうかが判断できない、など)
・ひとりで外に遊びに行く、バスに乗ってでかける、などの体験が少ないので生活経験が不足しがち
・「できた!」「わかった!」の成功体験が少ないために、活動全般に自分から進んで意欲的に参加する気持ちが育ちにくい


ということをあげている。

このようなことから、机上で計算プリントや漢字の書き取りを何枚やるよりも、実際に店に行ってお金を払って買い物をする練習をしたり、運賃を払ってバスや電車に乗る練習をするなど、具体的・実際的な活動の方が効果があるし本人も「主体的」に取り組める、ということなのである。
(かなり「主体的」という点を重視しています)

そこで、知的障害児教育では国語や算数や理科などの教科は、こうした実際的な活動の中に「溶け込んで」いることになっている。

たとえば、学校の勉強は全然興味がないけれど電車がものすごく好きな子がいたとする。
その子は電車の到着時刻を知ることから時計が読めるようになり、停車駅の名前を知ることから文字が読めるようになり、どこにどんな電車が走っているのか調べることで地理の勉強になり・・・といった具合に、「電車」を軸に各教科を合わせて学ぶことは可能である。
そっちからなら、勉強の入っていく子はいるのである。

健常の子が通う学校でも、大学付属小学校などでは、教科書をいっさい使わず、あることをテーマに1年から6年まで各教科を合わせて学ぶ実験的な授業をしているところもある。(まあ親は、「これじゃ心配」と塾などに通わせていたけれど、笑)

これがすなわち「生活単元学習」というものである。
うちの学校だったら、カフェを開く、などがそれに当たるのだろう。
カフェで出すお菓子を作る、何個ずつ袋につめる、招待状を書く、接客用のセリフを書いて覚える、お店の準備をする、チケットを作る、飾りつけを作る、など(詳しくはわからないけど)いろいろな活動が含まれているようだ。

一方で、知的障害児の特別支援学校のカリキュラムでも、国語や算数の時間を設けてもいいことにはなっている。ただその場合も、「実際の生活に役立つ学習にすること」を大前提としている。
学んだら、学んだことを実際に使える場面を用意するようになっているのである。
(たとえば、お金を学んだら、実際に買い物学習で使うなど)

この他にも、知的障害児用のカリキュラムには
・将来の就労を見据えた学習(「作業学習」と呼ばれるもの。働く意欲を培うことも含め)
・身辺自立の指導(「日常生活の指導」と呼ばれるもの。これは学校生活の流れの中で行われる)
・遊びの指導(将来の余暇活動にもつながるもの。知的障害のある子は同じ遊びばかりしたり発展しにくかったりするので、遊びを通して体を鍛え、仲間とかかわり、心身の発達を育み、生活を充実させることを目指すのである。娘も学校でかくれんぼや劇ごっこなどいろいろなことをやっていただいている)
・・・などがある。

<日本と諸外国との知的障害児教育の違い>


アメリカやイギリスと、日本の知的障害児教育は大きく違いがあるようだ。

日本の知的障害児教育は、歴史上、言葉は悪いが「この子たちには勉強(教科学習)は無理。勉強より自立を」とする方向に動いてきたため(笑)、下の学年の勉強を(つまりレベルを下げた教科学習を)教えるだけの授業は「水増し教育」(ごまかすだけの教育みたいな意味で)と言われて批判されていたそうだ。

実際は、くもんに通っている知的障害の子は多く、下の学年の内容であっても、その子に合ったレベルの勉強をしてもらいたいと思う親は多いのだが。

しかし日本では、知的障害児には健常児の勉強をレベルを下げてやらせるのではなく、知的障害児独自の自立のための特別な授業を別個に作るべき、という思想が強かったものと思われる。

一方アメリカやイギリスは、日本と異なり、「(知的障害があろうとなかろうと)すべての子供が共通の教育カリキュラムで学ぶ権利を保障されるべき」という思想をもっている。

これはくもんの考え方と似ていると思う。(年齢や学年に関わらず、自分に合ったレベルの学習を行う。到達目標に達したら次に進む、という)

●イギリス


イギリスでは、全国共通のカリキュラム(ナショナル・カリキュラム)があり、義務教育全体を学年別にステージ1〜ステージ4に大まかに分けている。
到達目標レベルはレベル1〜レベル8まであり、義務教育の終わる16歳までにレベル8まで到達することを目指し、国語(英語のこと)、数学、科学に関しては各ステージの終わりに全国統一テストのようなものを受け、どこまで到達したかが問われる。
ひとつの教室の中でグループに分かれ、それぞれ別のレベルの学習を行っているそうだ。
つまり、年齢ではなく、その子のレベルに応じた学習をするのである。

知的障害のある子でレベル1まで到達していない子はどうするかというと、レベル1の前段階のレベルが用意されていて(P-Scales(Performance Scales)というもの)、P1〜P8までの到達基準がある。
たとえば、P1なら「突然の音や動きに驚くかどうか」P2なら「人に興味を示す、手を伸ばす」とか。P4なら「本をめくるなど正しく扱う(投げたりしないで)」、P5は「ことばと絵やシンボルのマッチング」、P7が「文字に興味をもつ」などである。

●アメリカ


アメリカも障害者教育法(IDEA:Individuals with Disabilities Education Act)により、障害のある子も全員が通常教育カリキュラムを学び、評価を受けることになっている
最重度の子(全児童の1%)はテストの代わりの評価(教師の観察による)が認められているが、それも国語、算数、理科に関するものでなければならないとされている。

ここでは、「将来に向けて必要なスキル」ではなく、「通常教育カリキュラムを学ぶために必要なスキル」を重視する傾向がある。
ただし、重度知的障害のある子供には個別のカリキュラムを用意することもできるということだ。

このように、英米ではこれまでの自立に向けたカリキュラムから教科学習のカリキュラムに移行しているが、一方で生活スキルが身につかないのでは、と懸念する声もあるようだ。

<日本の特別支援教育の問題点は?>


さて、みなさんは日本の特別支援教育と、英米の特別支援教育と、どちらがいいと思うだろうか。

私個人は一長一短かな、と思う。

●賛成できる点


日本の方がいいと思うところは、「将来役立つ勉強を。最終目標は自立と社会参加」というところである。

娘に因数分解はいらない。方程式もいらない。それどころか掛け算割り算もいらないと思っている。(笑)

娘に関していえば、ひとつのことを学ぶのに時間のかかる子である。
知的負担も大きくかかる。
であれば、勉強する内容を、将来役立つことのみに厳選し、それを「一応やりました」というだけでなく(それだけだとじき忘れるのだから)、実際に使えるレベルまで定着させたい、というのは私の願いである。

だから、「とりあえず他の健常の子供たちが学んでいることを、かじるだけでいいから一通りやらせたい」とは私は思わないのである。
そのぶん、どうしても身につけさせたいことを定着させるための時間が減るわけだし。
コンパスや彫刻刀やピアニカやリコーダーなど、ほかの子供たちと同じことをやっている姿を見たい気持ちは優先させない。(笑)

「どこまでやらせるか」は一律ではなくその子を見て決めればいいと思う。
読むことが得意な娘は小6までの漢字は読めるようになると思うが、書くことが苦手なので書けるのは一年生レベルでもいいと思っている。
その代わりローマ字入力も身につけさせてパソコンやタブレットで入力できればよしとする。
ひらがな・カタカナは大切なコミュニケーション手段なので読みやすい字が書けるよう毎日練習する。

算数は足し算引き算のみ(あとは2の倍数、5の倍数のスキップカウント)でいいし、その代わり時計、買い物(お金)、計測(長さや重さや体積。料理などに使える)は身につけさせたい。
理科は自分の体のしくみのことがよくわかれば圧力や電流や化学式などはどうでもよい。(笑)
(知的障害児のカリキュラムには理科・社会・家庭科・外国語活動はない)

要するに、うちの場合は、「一律のカリキュラムを強制されなくてよかった」と思っているのである。

また、もし学校で机上の学習に多く時間を割くなら、上の「作業学習」「日常生活の指導」「生活単元学習」「遊びの指導」に該当することは、家で補う必要が出てくる。
正直、仕事もして忙しい毎日、なかなか余裕のない中では、自分が学校で学んできた机上の勉強の方が子供には教えやすいという面がある(私の場合は)。

●賛成できない点


賛成できない点は、日本の知的障害児のとらえ方が非常に固定的かつ一面的である点だ。
親からすると、「なんでそう決めつけるの!?」と、見くびられているようにさえ思えてしまう。
アメリカでも、かつてダウン症児が「教育可能」とはみなされず、「訓練可能」というカテゴリーに振り分けられていた時代があったそうだ。ダウン症の子どもたちは読み書き計算ができるようになることなど期待もされていなかったし、それを学ぶ機会も与えられていなかったのである。
しかし今は、全員に、共通のカリキュラムにアクセスする権利が与えられている。

日本では、知的障害児には教科学習に対するアクセスが閉ざされているかごくごく限られていると感じている。

日本と英米の、知的障害児に関する考え方は対照的である。
英米は、知的障害児と健常児との境目があいまいである。というより、ほぼないと言ってもよい。
知的レベルは個々により違うのは当然のこととして、健常児も知的障害児も合わせて連続体(スペクトラム)ととらえられている。

一方、日本では、「知的障害児」というひとくくりと、「健常児」というひとくくりがあるだけで、その中間はない。そしてカリキュラムも「知的障害児用」と「健常児用」の2種類があるだけである。
実際は、スペクトラムのはずである。
よって、カリキュラムも多様で柔軟性があるべきなのだ。

特別支援学校でも、知的は軽度でも自閉度の高い子たちがけっこういる。
知的には重くても自閉傾向が少なければ地域の小学校でやっていける子が多いので、特別支援学校には自閉度が重くても教科学習が十分できる子たちも入ってきているのである。
(そもそも、IQが高いからと地域の小学校に入らざるを得なかった自閉傾向の重い子供たちが苦しんでいることも問題だと思うが)
この子たちに対して、相応の教科学習の機会が奪われている(実情とカリキュラムが合っていない)が起こっていると思う。

知的障害児のくくりは小学校入学時(6歳)に行われるため、教科学習の機会が6歳でかなり奪われることになる。
アメリカの場合、中高生くらいになると、通常の教科学習が困難な知的障害の重い子には社会移行訓練プログラムに路線変更するらしいのだが、日本の6歳での路線変更とは大きな違いである。

身辺自立も社会参加も大事。それは重視したい(だから英米のような画一的なカリキュラムでも困る)。
だが、実際問題、簡単な読み書き計算は、将来生活する力になると思う。
(就労に必要という意味ではありません。それは期待されていないかもしれないので)

もうひとつの疑問は、本当にこれが効果的なのか?ということだ。

学習指導要領等に記載されている知的障害児の姿はあまりにもステレオタイプで、机での学習はダメ、訓練的なことはダメ、あくまで主体的な取り組みを重視しているため、親から見ると歯がゆいのである。(笑)

そもそも、ひとつのことを学ぶのに時間がかかる子供たちには、基礎的な学習を身につけるためには、ある程度の時間の確保と反復が必要だと思う(ドリル的なことも必要)。
そして実生活に役立つ学習と繰り返し言われているが、実は実生活に出てくる国語や算数は、かなり複雑かつ高度であるという事実も見逃されているようだ。

お金は、位取りがあるので、一桁の足し算よりかなり難しい。そのもっと先にあるものである。
単元学習で招待状を書く活動だって、読み書きができることや文章理解の先にあるものである。

基礎的な算数や国語は、実生活よりもかなり単純化されているのである。
実生活はもっと複雑だ。だから応用が難しいのだが。
机上の学習が役に立たないというのなら、もっと具体物を使った学習にするべきで、それも飛ばしていきなり応用から始めるというのは、まるで体力づくりも素振りも基礎練習も飛ばしていきなり試合をしにテニスコートに出て行くようなものだと思うのだが。
(結局は身につかない)

上の(健常児が通う)国立大付属小学校だって、こうした生活単元学習的な学び方では基礎学力をつける上で心配ということで塾に通わせているくらいなのである。ましてや、知的障害のある子供をや、である。

おそらく現行の教育課程では、字の読み書きができそうな子も、(家で何もしなければ)小学校卒業までにできるようになるかどうかが怪しいくらいだと思う。
それはその子の能力的なものというよりは、ほとんど勉強させないしくみになっているからだ。
くもんなどに通わせると、週にせいぜい2回、それぞれ1時間弱くらいなのに、じきに読み書きができるようになる。
なぜ学校でそれができないのか。
(笑)毎日通わせているのに、ということになる。
知的障害児の教育課程(カリキュラム)に欠陥があるとしか思えないのである。

普通学級では本人に合ったレベルの勉強をさせてもらえない、生活のスピードにもついていけない、支援学級や支援学校では勉強する時間そのものが不十分ということは、「知的障害のある子どもは、読み書き計算はできなくていいんです(あきらめてください)」と6歳の時点で言われているようにも感じる。

(実際は、親が希望して、個別支援計画に盛り込んでもらい、先生方が個別に試行錯誤して対応してくださっているのが現状。それでも足りないと思っている親は多いと思う)

普通学級、支援学級、支援学校、どれを選んでも、結局のところ「勉強は家で教えないといけないよ」と先輩お母さんに言われたが、そんな現状もどうなの?と思うのである。

まず日本の支援学校の学習指導要領を作っている人たちが、知的障害というものに対する思い込みや固定観念をもう少し柔軟にしていただいて、「読み書き計算の力をつける時間を保障しつつも将来の自立や豊かな社会生活を目指した活動を取り入れる」ようにしていただいたらいいのではないかと思う。
(親の願いとして)

<注>


ちなみに特別支援学校の教科別学習目標は次の通り。
(文部科学省のサイト)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/tokushi/1284528.htm

国語に関しては
○1段階
 (1) 教師の話を聞いたり,絵本などを読んでもらったりする。
 (2) 教師などの話し掛けに応じ,表情,身振り,音声や簡単な言葉で表現する。
 (3) 教師と一緒に絵本などを楽しむ。
 (4) いろいろな筆記用具を使って書くことに親しむ。
○2段階
 (1) 教師や友達などの話し言葉に慣れ,簡単な説明や話し掛けが分かる。
 (2) 見聞きしたことなどを簡単な言葉で話す。
 (3) 文字などに関心をもち,読もうとする。
 (4) 文字を書くことに興味をもつ。
〇3段階
 (1) 身近な人の話を聞いて,内容のあらましが分かる。
 (2) 見聞きしたことなどのあらましや自分の気持ちなどを教師や友達と話す。
 (3) 簡単な語句や短い文などを正しく読む。
 (4) 簡単な語句や短い文を平仮名などで書く。

算数に関しては
○1段階
 (1) 具体物があることが分かり,見分けたり,分類したりする。
 (2) 身近にあるものの大小や多少などに関心をもつ。
 (3) 身近にあるものの形の違いに気付く。
○2段階
 (1) 身近にある具体物を数える。
 (2) 身近にあるものの長さやかさなどを比較する。
 (3) 基本的な図形や簡単な図表に関心をもつ。
 (4) 一日の時の移り変わりに気付く。
○3段階
 (1) 初歩的な数の概念を理解し,簡単な計算をする。
 (2) 身近にあるものの重さや広さなどが分かり,比較する。
 (3) 基本的な図形が分かり,その図形を描いたり,簡単な図表を作ったりする。
 (4) 時計や暦に関心をもつ。


これらを小学部の6年間通して目指すという内容だが、娘は一年生の時点でほとんどが3段階までクリアしていた。(支援学校判定だが)

というか、ダウン症のお子さんはだいたい、支援学校判定が出る人が多いけれど、小一でひらがなが読み書きできるようになる子がけっこういると思う。
結局それは個別の指導計画か、学校に期待できなければ家庭かくもん等で補う他はないようだ。
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