「見た・・・のですね?」

 女は、絞り出すように言う。
 
 屋敷の大広間。
 女は障子を背にして、一糸纏わぬ姿で立つ。
 
 大広間の奥には、男がひとつになったばかり赤子を抱えて片膝をつき、呆然と女を見上げている。
 男の目は、女の姿を凝視している。
 
 障子越しに差し込む明かりで、女の姿は影の様に浮かび上がっている。
 女は、男の妻。
 その白い肌も、ふくよかな胸も、少し縊れた胴も男が知り尽くした姿であるが、只一点、男の見つめるのは、女の腰の辺り。
 
 そこには、真っ白でふかふかとした毛に覆われた、太く長いものがだらりと垂れている。
 それは、まさに獣の印。
 
「どうして、約束を守ってくださらなかったのですか。」

 女の声は、震えていた。


kuzunoha
 約束。
 不思議な約束。
 
 月に一度、新月の日に小部屋に篭っている時は、決して中をのぞかぬ事。
 月に一度、僅かな間の事ゆえ、どんな事があっても、決して中をのぞかぬ事。

 不思議ではあれど、些細な約束。
 ホンの束の間、我慢すれば済む約束。
 そして、それは、幸せを保障する約束でもある。

 しかし、今日。男は、それを破った。
 
 そこに居るのは、いつもの妻だと思った。
 約束は破る事になるが、妻はにっこり笑ってくれると思った。
 いや、破る事で、何かを確かめたかったのかも知れぬ。
 しかし

  そこに居たのは、異形の女。
   尻尾の生えた、異形の女。

 気づけば、男は、奇声を発して駆け出していた。
 そして、この座敷に飛び込んだのだ。

「す、すまぬ!
 この子が・・・この子がおまえを探してむずかるので、つい!」
 男は、我に帰り、必死でわびる。

 男が抱く赤子は、何も知らぬげにニコニコと笑い、だあだあと声を上げて、手を女の方に伸ばしている。
 
 女は、ゆっくりと首を振る。

「もう、手遅れなのです。」

 女は、小刻みに震え始める。
 と、見る間に、女の白い肌に、変化が起こる。

 ズザッ、ズザザッ
 
 女の肌が、びっしりと白く輝く体毛に覆われていく。
 変化しながら、女は語りつづける。
 
「あの日。
 あなたに助けられ、あなたと添い遂げようと心に決めたあの日。
 我が父から、告げられたのです。
 
『決して、正体を知られてはならぬ。
 正体を知られた時は、全て終わりじゃ。
 何もかも打ち捨てて、戻って来ねばならぬ。
 それが・・・掟じゃ。』
 
 と。」
 
 やがて、女の体が一面の白い体毛に覆われる。
 しかし、その形は、まだ人形を保ったまま。
 
 男が、慌てて叫ぶ。
 
「悪かった!わしが悪かった!
 この通り、謝る!
 だから、だから・・・行かんでくれ!」
 
 男は、赤子をそっと下ろすと女に駆けよりすがりつく。
 女の乳房の辺りに顔をうずめ、オンオンと泣き喚く。
 
「離れたくない!
 離れたくないんじゃ!
 おまえを、おまえを失いたくないんじゃ!。」
 
 女は、やや曲がり始めたその腕で、男の頭をそっと抱きしめる。
 
「私とて、離れとうない。
 坊を置いてゆくのも辛い。
 じゃが、何より私もあなたが好きじゃ。
 好きなんじゃ!」
 
 徐々に目が釣りあがり、口が前にせり出して獣の顔に変わりつつある女の目から、つつっっと涙が流れた。
 そのまま二人は、絡み合いお互いを求め合う。
 
 床に置かれた赤子は、いつの間にか寝返りを打って両手を着き、その様子を楽しげに見る。
 
 既に、女の姿は、手も曲がり脚も曲がり、殆ど獣の姿に還っていたが、二人は、いや一人と一匹は絡み合う事を止めない。

 と、その時、「ごう」と音がして、座敷が揺れる。
 
 赤子が何かを感じたのか、火がついたように鳴き始める。
 
 パン!!
 音を立てて、大広間の障子が一斉に開く!
 座敷の向こうには、鬱蒼たる竹林。
 そして、いつの間にか陣笠をかぶり、裃を着けた狐たちがズラリと外に並んでいる。
 そして、一声、声がする。

「お迎えに上がりました。」

 女が、いや、いまやすっかり元の姿に戻った白狐が、つっと体を男から離す。
 
『もう、いかねばなりません』
 
 狐の姿では人語は話し難いのか、やや舌足らずに聞こえる。
 
「嫌じゃ!行くな!行かんでくれ!」
 男が立ち上がって、白狐を追おうとしたその時。
 
 ゴゴーッ!
 
 物凄い風が、座敷に吹き込む。
 余りの風の強さに、男は前に進むどころか、目を開いて見る事さえ出来ない。

 遠くから、女の声が聞こえる。
 
『さようなら、坊。
 元気でいるのですよ。
 お父様の言う事をよく聞いて。
 強く逞しい子にお成りなさい。 

 そして
 
 さようなら、あなた。
 あなたと過ごせたこの年月、本当に楽しかった。
 あなたに出会えて、本当に良かった。
 さようなら、あなた。
 
 いつまでも、忘れない』
 
「行くな!」
 男は、目を閉じたまま、叫ぶ。
「行くな!葛の葉ぁ!!」
 
 男の叫びが風に勝ったかと思ったその時、風は吹き始めたときと同じように突然に止まる。
 
 いつの間にか、障子は元通り閉まっている。
 座敷の中には、無数の笹の葉が舞っている。
 
 男は呆然とたっていたが、赤子の泣き声でわれに帰る。
 慌てて赤子を抱き上げる男。
 
「よしよし、泣くな。坊。
 泣くのでは無いぞ。」
 
 そういいつつも、男の目からも涙が止まらない。
 
 男は、もう一度、障子の方を見上げる。
 突然、障子に鮮やかな墨文字が浮かび上がる。
 
『恋しくば
  たずねて来てみよ和泉なる
   信太の森のうらみ葛の葉』



 女の名は、葛之葉姫。
 男の名は、安倍保名。
 そして、この赤子が、後に安部晴明となる。



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