1. 「神の見えざる手」の提唱者としてのアダム・スミス
 アダム・スミスは、高校生でも知っている有名な哲学者である。そして、スミスとはどのような人物かと聞かれれば、間違いなく『国富論』「神の見えざる手」の2つの言葉が出てくるはずだ。むしろ、これ以外には出てこないと言っても過言ではないだろう。
 一般的な解釈として、スミスは『国富論』の中で、何も規制を敷かず、市場に任せておけば、自然に資源の最適な分配を達成される(=「神の見えざる手」)と述べた人物ということになるだろう。つまり、市場放任主義者であり、個人の利益追求行動を無批判に容認している。
 これが、おそらく高校等でざっくりと名前を見知った際の印象であろう。しかし、スミスの面白いところはそこではないように思う。もちろん、スミスの主張の結論だけをいえば「神の見えざる手」ということになるのであろうが、いささか省略が過ぎているように考える。それよりも私は、スミスは「公平な観察者」の提唱者として認識される方が望ましいのではないかと考えている。(高校でも「アダム・スミス=公平な観察者」の対応でももはやいいくらいに思う)
 そこで、本稿ではスミスの提唱した公平な観察者を概説し、それを現代においても意義のあることを簡単に述べることとしたい。
 
  1. 公平な観察者とは
 まずスミスは、人間の本性の一つとして「同感」という能力をあげる。人間は「同感という能力を使って他人の感情や行為を観察し、それらに対して是認・否認の判断を」する。また同様のことを他者もしていることを知るようになる。そして、他者が自分に対してどのような評価を下しているのかを意識する。スミスは、「この願望は人類共通のものであり、しかも個人の中で最大級の重要性をもつもの」だとしている。
 このように、観察者としての経験、当事者としての経験を通じて、自分が所属する社会における判断基準を自分の胸中に形成する。これが「公平な観察者」である。つまり、他人の評価を意識し行動する中で、何が是認され、何が否認されるのかを経験として学び、所属社会における判断基準を身につけるのである。そしてこの基準をもとに、自らの感情や行為の適切性を判断するようになる。
 これは、感覚的にも納得がいくと私は考えている。社会ほど大きな想定をしなくとも、身近な例でも言える。クラスの中での自分の行動がどう見られるのかを意識することで、段々と何をして良くて、何をするとあまり良くないのかをいつの間にか認識する経験は誰にも少なからずあるのではないだろうか。
 
  1. 2種類の評価基準——「財産への道」と「徳への道」
 「財産への道」は、「徳や地位を獲得して世間から賞賛を得る道」であり、「弱い人(=つねに世間の評価を気にする人、賞賛を欲し、非難を恐れる人)」が選ぶ。「徳への道」は、「徳と英知を獲得して胸中の公平な観察者から賞賛を得る道」であり、「賢人(=胸中の観察者の評価を重視する人、賞賛に値することを欲し、批判に値することを恐れる)」が選ぶ。
 スミスは、財産への道を認めている。その野心により、社会が発展し利益がもたらされるからである。しかし、徳への道を同時に歩む財産への道の追求しか容認していないのである。つまり、富の追求はしても構わないが、あくまで胸中の公平な観察者の認める範囲の中に限られる。スミスによれば、「正義感(公平な観察者)によって制御された野心、および、そのもとで行われる競争だけが社会の秩序と繁栄をもたらす」ということになる。
 
  1. 「公平な観察者」の提唱者としてのアダム・スミス
 以上で見たように、「財産への道」と「徳への道」の同時追求を述べている。一般に言われる「神の見えざる手」の提唱者としてのアダム・スミスは、「財産への道」のみを取り上げているように見える。しかし、実際は「徳への道」(=公平な観察者)も同時に歩むことを求めているのだ。高校で教えるのであれば、「公平な観察者」の提唱者としてのアダム・スミスの方がいいのではないだろうか。
 
  1. 「公平な観察者」の政治哲学的意義——社会正義の普遍性
 少々、論旨がずれるが、アマルティア・センが著書『正義のアイデア』の中でアダム・スミスの「公平な観察者」について言及しているので、それに触れることとする。
 センは社会正義の普遍性の問題は、正義を理解する上での中心的な位置を占めるとしている。普遍性には2種類あり、「開放的普遍性」「閉鎖的普遍性」と彼は呼んでいる。まず、「閉鎖的普遍性」は、「普遍的判断の過程に関わるのは、その判断を行う特定の社会や国家の成員のみ」であり、「開放的普遍性」は、対象となるグループ以外の判断もとりいれることが」可能な概念である。
 閉鎖的普遍性の例として、著書の中ではロールズの「公正としての正義」が挙げられている。原初状態での社会契約は、あくまで成員(=国民)に限られるものであり、その外部は考慮されない。また、アローの社会選択理論も、一例であろう。
 閉鎖的普遍性の問題として、センは3点上げている。
第一に、正義とは、部分的には互いに対する義務が重要となる関係だということである。〔中略〕他人に寛容で親切であることは非常にすばらしいことであるが、我々は隣人ではない他人に対して本当に何の義務も負わないと論じることは、我々の義務の範囲を非常に狭く限定してしまうことになる。〔中略〕
第二に、ある国における行動は、ほかの国における暮らしに深刻な影響を与えることもある。〔中略〕
第三に、これらに加えて、ほかの場所から来るすべての声を無視してしまう偏狭主義に陥る可能性に関してスミスが指摘している論点がある。ここでもポイントは、他の場所の声や見解を考慮しなければならない理由が、それらがただ単に存在するからではなく、他の場所における異なる経験を反映した異なる視点を真剣に精査し、考慮することが客観性のために必要だからである。
 上記の理由から、開放的普遍性が社会正義を考慮する際に重要となる。そして、「排他的無視」を克服するために、「公平な観察者」を用いることが出来る。公平な観察者はあくまで、胸中に形成した”観察者”であり、社会の成員(参加者)では全くない。つまり、境界を越えたコミュニケーションの中で「公平な観察者」を形成しても理論的に問題ではない。つまり、グローバル化が進み、国外の情報が氾濫している現代社会にこそ意味を持つ考え方の一つなのである。開放的普遍性のもとでの社会正義を考える際に、再考の価値のあるアイデアである。
 
  1. 最後に
 アダム・スミスはいわば古典である。しかし、経済学的にも政治哲学的にも再び見直す価値のある学者であると考えている。経済学的には、体系化当初にはスミスの言うように道徳的要素があったにも関わらず、いつの間にか捨象されてしまっている。現在、経済学が前提としている合理的経済人が批判されている中、一度原点に立ち返るという意味があろう。また政治哲学的にも上で述べたように、新たな視点をもたらしてくれる。このような形でスミスが一般的になるといいように思う。
 私自身も原典にあたったことはまだない(長すぎてなかなか手を付ける気になれない…)が、いずれ近いうちに読んでみる価値は大いにあると考えている。


【参考文献】
堂目卓生(2008)『アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界』中央公論新社.
アマルティア・セン(2011)『正義のアイデア』池本幸生訳, 明石書店.