お盆で少し休みをとっていたが、その間、南堂久史氏のOpenブログ(http://openblog.meblog.biz/)を楽しく読ませてもらった。私と似た論理の展開をされる方であるが、私よりも論理の進め方は緻密であり、また筆もたつ。そして、驚くべきスピードで多数の論考を書かれている。

 

 STAP問題の議論をしていてわかったことは、世の中には科学者やサイエンスライターを名乗りながらも、「可能性」の意味を理解できない人たちが多く存在するということだ。その典型的な例は、片瀬久美子氏とその取り巻きの科学者たちであろう。

 

 彼女のツイッターを見ていると、自分の意にそぐわない質問をされたり、記事が掲載されると、その相手は「何も理解していない」と一方的に決めつけて論理的に説明を行おうとしない。815日のBusiness journalに掲載されたジャーナリスト・大宅健一郎氏の「NHKSTAP問題検証番組で小保方氏捏造説を“捏造”か 崩れた論拠で構成、法令違反も」の記事(http://biz-journal.jp/2014/08/post_5714.html)についても、「これは、全然科学的な内容を分かっていない人が書いた記事ですね。アホらし」となる。このような態度では、「科学」としての議論が成り立たない。ニセ科学批判をしている間に科学的視点を失い、単なる「ニセ科学のハンター」となってしまったのではないかと思われるが、既に2013年にそのような指摘がされている(http://www.asks.jp/community/nebula3/183326.html

 

 「大宅健一郎」なる人物は、ネット検索をしてもまったく出て来ないので、その点は不思議であるが、彼の主張はほとんどすべて私の見解と同じである(82日付け記事「NHKスペシャルのこと」)。つまり、私も「全然科学的な内容を分かっていない人」ということだ。この記事に関して、哲学者の森岡正博氏は「「科学論文の世界では「不正」すなわち「ミス」 」っていう前提で文章ぜんぶ書いてる」とツイートしているが、片瀬氏とその取り巻きの方々の「小保方さんの「ミス」は不正しかありえない」という「決めつけ」に対するカウンターアクションと理解すべきであろう。つまり、片瀬氏の小保方批判という「ニセ科学」に「ニセ科学」で対抗したということだ。

 

 もし片瀬氏が本当にサイエンスライターであるというなら、記事に関して「アホらし」ではなく、批判の根拠を明示すべきであろう。

 

 科学研究において「可能性」を考えることは重要なことだ。特に、まだ未知なことが多い生物学の研究においては必須な作業だ。実験では、細胞を破砕したり、細胞内にレポーターを入れたり、遺伝子を破壊する等してタンパク質等の生体分子の機能を調べる。私たちは、こうした操作を行っても「細胞内の状態を(ある程度)反映している」あるいは、「解析手段によって細胞機能が変動しない」と「仮定」して研究を進める。勿論、「仮定」のある程度の妥当性はコントロール実験等で確認するが、想定していないことが起こっている可能性は十分にある。それゆえ、いろいろな可能性を列挙し、ある時はいくつかの異なるアプローチを使って得られたポジティブな結果を基に「一つの可能性」を「事実」と結論し、またある時は考えられる可能性を否定する実験を行い、「残った可能性」を「事実」と結論する。ただし、結論はあくまで「一応」なのだ。それは、私たちがまだ理解していないことがあまりにも多いので、例えば、新しい測定法が開発されることによって結論が変更されることがあり得るのだ。多くの知識が蓄積するだけで解釈が変更される場合もある。

 

 これが科学の本質なのであるが、「ニセ科学のハンター」たちはそうは思わない。例えば、片瀬氏とのやりとりで、藤木文彦氏は「既に解決済みの問題もしばらくして、まだ未解決のように出してきて、今までの経緯を知らない人を騙す。疑似科学の世界では何十年も前からされていた常套手段です。個別事例の対応ではなく、科学史と科学リテラシー教育を特に義務教育の早期段階で行う必要があるでしょう」とツイートしている(http://twilog.org/kumikokatase/9)。

 

 科学の本質は「捏造」であるという説もあり、榎木英介氏が著書「嘘と絶望の生命科学」の中の一節で、それに関する白楽ロックビル氏の以下の文章を紹介している。これは以前撤回したブログ記事に記載してあったので再録する。


 「つまり、研究者は、まず真実はこうだろうと想像し「最初はあいまいな仮説」を立てるところからはじまる。つまりこの段階では「ねつ造」であるといえる。そして、人間が未知のこと を理解するのは、パトリック・ヒーランが「科学のラセン的解釈」説で述べているように、「最初はあいまいな仮説(つまり「ねつ造」)試す都合のいい部 分を残し、不都合な部分を変える(拡大・分化、つまり「改ざん」)試す、のラセン的上昇で「知」が生産される」のである。発見のプロセスがこのようだか ら、発見にはある種の「ねつ造・改ざん」作業が必要なのである。

 

  榎木氏は、自分の仮説(「遺伝の法則」)に合わない不都合なデータを省いたメンデルのことを紹介した後でこう述べている。「STAP細胞の論文や小保方氏を擁護し、コピペや画像の切り貼りに寛容な研究者が一部にいるのも、大胆な仮説と研究不正の間の距離が近いことを知っているからだろう」。 勿論、この記述の後、榎木氏は「とはいうものの、手元にあるデータを取捨選択し仮説を立てることと、何もデータがないのに別の研究のデータを持ってきてしまうこととは雲泥の差がある」と続けている。 


 片瀬氏を取り巻いている科学者の方々には、研究過程で自分も「ねつ造」を繰返していることをぜひとも自覚していただければと思う。

 

 今日からまたコメントを受け付けるが、前に述べた基準で不適切と思われるものは削除するので、その旨ご了解をお願いする。また、今後の記事では氏名の後の敬称は「氏」で統一させていただく予定である。