私は8月11日の記事のコメント欄で、小保方批判派の研究者たちが立ち上げた「結論ありき」ブログに対して批判を行ったが、それに関していくつかの議論が展開された。コメント数も1400を超えているので、この記事で改めて意見を記載するとともに、最後に議論となった「セレンディピティ」に関連して少し説明を付け加えたい。

 私の主張は、Achilefu氏らが“Acidic extracellular pH of tumors induces octamer-binding transcription factor 4 expression in murine fibroblasts in vitro and in vivo” (http://www.nature.com/articles/srep27803)の論文においてSTAP論文を引用したからといって、以下(「
研究者のレベルが低いと考えるのが一番妥当」のように誹謗するのはやめ、謝罪して撤回すべきであるということである。

>STAP論文に限らず、撤回された論文を引用するというのは、論文を書く上では非常識なことで、STAP論文を引用した(海外の)研究者のレベルが低いと考えるのが一番妥当です(http://blog.livedoor.jp/peter_cetera/archives/2016-09-07.html)。

 私の批判をまとめたのが、以下のコメント(前回記事のコメント1292と1293)です。

>1232で「おぼ」氏が「研究者が何を参考にして、実になるかは、分からないんですよ。その過程を狭めるのは虚しいこと」と述べていますが、私もまったく同じ感覚を抱いています。

>自分の研究に常に意識を持っていれば、入って来るすべての情報はその意識のフィルターを通って選別され、時にアイデアへと結びついていきます。勿論、思いついたアイデアはそういった自らの弛まない(無意識)の努力によるものですが、その一方で、それは「偶然」でもあるわけです。一生のうちに何回起こるかわからないですが、時には大きな発見につながることがあり、それがセレンディピティということでしょう。大きな発見をした人からはよく発せられる言葉です。勿論、多少の謙遜と脚色もあるのでしょうが、実感であることも事実でしょう。

>こういった感覚を持っていれば、自分が気づいていない新しい視点をもたらすものすべては有益なものとなります。「闇払い」氏は多くの人を不快にしましたが、同時に彼独自の視点で語っており、それは「別の見方」をもたらすものです。それゆえ、私はこのブログに留まってもらっています。勿論、「その不快なスタイル(口調)は止めてくれ」という人もいるでしょうが、もしかするとそのスタイルをとれば単なる「凡人」になってしまうかもしれません。初心者は時に新しい発想をしますが、それはスタイルにこだわらないからであり、逆に「知識」で満たされると(つまり常識的なスタイルで訓練されると)凡庸な発想しかできなくなってしまうことがしばしばあります。それゆえ私は当人の持つ「スタイル」は尊重します。大切なのは、そこにオリジナリティがあるかどうかです。

>「すべての科学(あるいは科学でなくても)情報は、自分にとって一生に一度のセレンディピティをもたらすものかもしれない」という意識があれば、そしてそこまで大きな発見でなくても実際にそれに近い体験をした研究者ならば、「結論ありき」ブログの管理人のように「撤回論文を引用しているので、研究者としてのレベルが低い」などという結論に到達するはずがないのです。誤った論文であっても、間違った実験であってもそれが自分に新しい「視点」をもたらしてくれたら「気づかせてくれてありがとう」です。そういう感覚ならば、「撤回論文でも引用しておこう」となりますし、また引用した研究者の気持ちも理解できます。

>勿論、Achilefu 氏らの引用がそういった「気持ち」であったかどうかわかりませんが、それを否定する材料もありません。「撤回された論文は引用すべきでない」といのは「教科書」的な発想であり、ましてや、それを基に研究レベルまで類推する研究者に「教科書」の知識を塗り替えていく発見ができるのだろうかというのが私の疑問としてあります。

>「お行儀」良く振る舞い、確実に論文を発表しているけれども、誰にでもできる研究をしている人間よりも、粗削りでミスも多いが(勿論、捏造はいけませんが)新しいことにチャレンジしていく人間が研究者としてはふさわしいのだと私は思います。「知識が増えることは独創的な発想 を乏しくする可能性がある」という意識を持っていることは、一流の研究者になるためには必要なことです。

 これに対して「在米ポスドク」氏がコメント1436で「ブログ主が少し前に書き込まれた、セレンディピティについてのコメントに少し違和感を感じた」と述べ、以下のように「セレンディピティ」について述べている。

>セレンディピティに恵まれたように見える発見であっても、緻密な実験と思考があったからこそ、普段と違う事を発見できたのであろう、と考えるからです。

 この意見に対して、「学問の発展」が内包する「矛盾」について最初に指摘したい。学問の発展とは、研究を通じて「新しい事実」を発見し、それを積み上げて「新しい概念」を作り出することにある。ところがこの作業は、ある意味では矛盾した作業となる。なぜなら「新しい概念」を創造するために利用するのは「既成の概念」だからだ。「既成概念」をいくら積み上げても「新規概念」とは成り得ず、両者の間には「不連続性」が存在する。問題は、どうやったらこの「不連続性」のギャップを飛び越えることができるのかということだ。

 確率論的な量子力学に対して、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と批判的だったが、実際には「神はサイコロを振る」。(http://enokidoblog.net/sanshou/2013/11/9927)。この事は、アインシュタインほどの天才でも「既成概念」から逃れることが難しかったという事実を示している。また、量子力学の「確率論」的な世界観は、サイコロが振られて作られている世界(生物)、すなわち「不連続性」を基本とする世界を、「論理」という「連続性」(論理が不連続であれば第三者には理解できない)を基本とする「人間の営み」によって本当に理解できるのかという疑問にもつながる。

 「既成概念」を飛び越える一つの有力な方法は「既成概念では考えない」ということであり、その最も効果的な方法は「失敗」ということである。「失敗」は「勘違い」、「不注意」、「何も考えていない」実験において起こる。ノーベル化学賞を授賞した島津製作所の田中耕一氏の発見の原点は、「物質を溶かす溶媒(溶液)を間違えた」ということだった。アセトンで溶かすべきところを誤ってグリセリンで溶かしてしまい、「もったいない」と思って実験を続け、タンパク質を質量分析で解析できるという発見に至るわけである。導電性高分子の開発で、同じくノーベル化学賞を授賞した筑波大学の白川英樹氏の発見の原点は、研究生がプロトコールの「mmolをmol(1000倍の濃度差)と間違えた」ためであり、それによってポリアセチレンの薄膜ができた。こんなミスは「堅実な研究者」では起こらないし、同時にそんな比で物質を混ぜるという発想もあり得ない(https://www.sigmaaldrich.com/content/dam/sigma-aldrich/countries/japan/materialscience/documents/saj1482_mskiso8.pdf#search=%27%E7%99%BD%E5%B7%9D+%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E7%AB%A0+%E6%BA%B6%E5%AA%92+%E8%AA%A4%E3%81%A3%27)。

 つまり、我々は「知識」を吸収すればするほど「常識」に捕われてしまう傾向があり、そこから逃れることが難しくなってしまうということだ。同時に多くの凡人は脳のメモリーのキャパシティに限りがあり、脳のCPUに「知識」が大量に保存されると、「思考」の方にメモリーを避けなくなる傾向もある(これについては脳科学者で異論を唱える人も多いと思うが、あくまでも「傾向」であり、そして「私の実感」の話である)。勿論、STAP事件当時に理研の理事長だった野依氏のように「取るべくしてノーベル賞を取る」ような人がいることも事実であるが、多くの凡人が「大発見」をするためには「ミス」も大きな「武器」であることも一面の事実である。そして研究室運営者の観点からは、白川氏の場合に見られるように、自分でミスをする必要はなくラボ内の誰かがミスをしてもよいわけである。そういった「ミス」を包含しながら、同時に研究のそしてラボとしての「integrity」を保つということは矛盾であるが、それは「「既成概念」から「新しい概念」を作り出す」という矛盾とよく似ている。

 誤解のないように伝えておくが(そうでないと意図的に悪く解釈する人がいるので)、学生の教育において「ミスには目をつぶれ」と言っているわけではない。「教育をする必要はない」と言っているのでもない。若い時に多少「粗削り」でも、チャレンジ精神が高ければ成功していく人は多い。それゆえ「粗削り」から生じるミスを「重箱の隅をつつく」ように批判するのではなく、失敗を活かす方法を教授するのが教育であり、それは可能である。一方、チャレンジ精神の少ない人に「チャレンジ精神を持て」という教育は極めて難しい。