4月になると大学にも研究室にも新しい学生が入ってくる。慌ただしく過ぎる4月はブログ記事を書く物理的時間も心の余裕も取れなくなるが、記事を書けない理由は私が老いてきたせいの方が大きいかもしれない。

 

 記事を書けない理由はもう一つある。それは、日本の大学の状況を考えるとあまりにも絶望するからだ。あまりにも悪化してしまっている。アポトーシスのように、日本の大学と研究はこのままそっと死に絶えていく運命にあるのだろうかと、悲観的にならざるを得ない。

 

 日本の研究論文数が増えず、世界的な地位が低下して行っていることがNaturehttp://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622)によって指摘されている。その理由としてよく言われるのが、毎年1%ずつ削減されている国立大学の運営交付金である。(http://blog.dandoweb.com/ 421日付けの記事)。2004年度の独立行政法人化を機会に毎年減額してこの10年で10%削減された。しかしながら、大学への交付金全体としては減っておらず、削減分は「競争的資金」として大学に配分されている。この競争的資金を得るためには、さまざまな大学改革(私は「大学改悪」と呼んでいる)のプロジェクトを提案し、審査で評価されて採択されていく必要がある。その立案と遂行のために大学教員は多くの時間を取られている。これによって優秀な教員の想像力が浪費されている。さらに、改革内容の多くは教育改革であるために、そのプロジェクトに直接関わっていない教員も多くの義務が課せられて研究の時間が無くなっていく。

 

 交付金の減少は確かに影響するが、それよりも時間が無くなっていくことの方が研究にはより深刻な影響があるように思われる。研究を行うためには「思索」が必要であり、これには本当の「思索の時間」以外に、「無駄に過ごす時間」も必要である。後から後から追い立てられるようなスケジュールの中でじっくり考えてアイデアを出すことは極めて難しい。幸か不幸か、最近は「網羅的解析」という手法があるので、しらみつぶしに調べていけば、アイデアが無くとも新しい発見はできる。しかしながら、そのためには多大な研究費が必要となる。「アイデアが必要ではなく、金が必要」という面もあり、これが「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しく」という風潮を助長している。研究費は取れなくなってしまったが任期はついていない教員は、できる限りエネルギーを消費しないように、しかしながら後ろ指をさされないことに注意を払いながら、講義や「改革ごっご」に適当におつきあいし、研究ではなく個人的興味や趣味に走る。

 

 一方で、任期のついた教員が存在し、研究業績をあげないと再任や次の職が無くなってしまうというプレッシャーがかかる。院生はと言えば、修士課程(博士前期課程)で修了する人がほとんどなので別に研究業績が出なくても彼・彼女らの就職に影響はないし、酷い院生だと学部卒での就職を避けるために大学院に来ている人もいる。そういう状況にどう対処するかは非常に難しい。

 

 少し前に、名古屋大学の未来材料・システム研究所の准教授のアカハラ行為に対する処分があった。報道によると、その准教授は「研究の進捗状況報告会で「お前は病気だ」「大学を辞めろ」と発言したり、必要な資料を用意できなかった際に「けんかを売っているのか」と数人の学生・院生に怒鳴ったという(http://www.sankei.com/west/news/170424/wst1704240076-n1.html)。処分者はこの准教授一人だけだったので、おそらく独立准教授なのであろう(上司の教授がいれば、当然教授も「指導不十分」ということで処分の対象になるはず)。学生・院生にやる気の無い者が多かったのか、そうでなかったのか、あるいは本当に能力がなかった、あったのかは不明であるが、いずれにしてもその准教授の考えるレベルにまったく達していない学生・院生が多かったことは事実だろう。もし本当にやる気の無い学生・院生に研究室が占められてしまった場合には、自分の見る目の無さを反省するか、不運を嘆くか、立派に指導力を発揮してレベルを向上させるか、あるいは「お願いだから研究を進めてください。そうしないと私が病気になってしまいますし、また大学を辞めなければならなくなってしまいます」と懇願するのが正しい姿勢だろう。

 

 こんな状況ではまともな研究者は海外へ逃亡だ。最近、一橋大学の川口康平氏が、給料格差を理由に香港科学技術大学へ移動するツィートが注目を浴びた。川口氏は5年の任期で一定の業績をあげれば任期の制限のない教員になれる、いわゆる「テニュアトラック」の教員である。香港科技大でも基本的には同じ身分(「講師」となっているが、おそらくassistant professor助教授のことであろう)であるが、給与が634万円から1500-1600万円にあがるとのこと。理系研究者は給与の事はあまりこだわらない(実は川口氏もそうではないのではないかと私は推測する)が、今のような環境では誰しもが国外に脱出したがるだろう。なぜそれをしないかと言えば、一番の理由は言葉の問題だと思われる。英語での講義は大変であるし、また細かいニュアンスまでは理解できないから情報量に差がでてしまう。また、米国のようなところでは、テニュアトラックに入れても、NIHからの研究費の獲得や優秀な院生や博士研究員のリクルートといった問題もある。優秀な院生や博士研究員はどうしても著名な研究者の下へと行きたがる。長い目で見た場合、日本での研究もいろいろなメリットがある(実際は「あった」が正しい表現だろう)。

 

 ともかく一番大きな問題は「言葉」の問題であろうが、この問題は徐々に無くなって行く。大学教育改革においては英語での講義を課せられることも始まっており、また院生時代に海外で研究経験を積むことも推奨されている。この「国際化」が成功すれば、「言葉」の問題はなくなるだろう。しかしながらそうなるとどうなるのか?本当に優秀な人材は、みな海外へ流出するだろう。日本に居るメリットはほとんどない。欧米に限る必要はない。アジアの国々には研究に対する「渇望」がまだ十分あり、研究者への尊敬の念も残っていると思われる。「国民の税金からそんな高い給料を支払うのはけしからん」などと言われないだろう。また、学生・院生もアカハラなどと言い出す前にトンズラするか、あるいは怒鳴られたら次の機会には指導者に納得してもらおうと努力するかもしれない。

 

 文科省は国内に優秀な人材がいなくなってから宣言するだろう。「日本の大学の国際化は成功しました。見てください。優秀な人は皆海外で活躍しています」と。