「コロナ禍」と「本堂崩壊」のこの四年間で、寺を
支えていた方々の多くを失った。
「御詠歌」を25年間なさっていた方たち、「朝の読経」
に20年間付いていた方々。
「坐禅会」に月に2回は参加されていた方たち。
寺に時々着て、様子をうかがい「お寺参り」の旅行など
計画していた「仏教婦人」の方たち。

しかし、これからの芽生えは見えている。
住職と私が、そして寺庭が安定していることである。

「成道会 じょうどうえ」法要に見えた方々と、今年
12月25日は本堂が完成する。
これらの方たちで、令和6年からは次のステップに
向かっていくことを感じた。

「スピリチュアル.ペイン」と呼ばれる根源的な苦痛、
霊的苦痛とか実存的な苦痛、あるいは「哲学的苦痛」
と呼ばれるものを人は背負っている。
そのなかのいくつかをあげる。
なぜ私は子を持つことができないのか、
なぜ、この町に生まれたのか、
納得しないと生きられない、人はやっかいな生きもので
ある。

意味を問う痛みに効く薬はおそらくないのだろう。
医学的な治療をきちんと施しながら、生き方の問題を
手当していく必要がある。

仏教が指針を示しているのである。
「大きな慈悲もって、私たちを決して見捨てない」と
いう働きが、私たちを救いとるというものを、私は感
じている。
私たち個人が自分をあきらめることがあっても、仏は
あきらめない、
仏はこのようなはたらきとして在る。

「ペット霊園」に見えた方たちも、私は会話することで、
帰られる姿を見て感じている。

私たちが失望することであっても、仏はあきらめ
ない、仏はこのような働きとして在る。
二回繰り返して書いたが、そういう芽生えを感じて
いる。
そういう寺に、生きている間に、すこし以前の寺の姿に
戻したいと思っている。

支えていた方々の多くを失った。
「御詠歌」を25年間なさっていた方たち、「朝の読経」
に20年間付いていた方々。
「坐禅会」に月に2回は参加されていた方たち。
寺に時々着て、様子をうかがい「お寺参り」の旅行など
計画していた「仏教婦人」の方たち。

しかし、これからの芽生えは見えている。
住職と私が、そして寺庭が安定していることである。

「成道会 じょうどうえ」法要に見えた方々と、今年
12月25日は本堂が完成する。
これらの方たちで、令和6年からは次のステップに
向かっていくことを感じた。

「スピリチュアル.ペイン」と呼ばれる根源的な苦痛、
霊的苦痛とか実存的な苦痛、あるいは「哲学的苦痛」
と呼ばれるものを人は背負っている。
そのなかのいくつかをあげる。
なぜ私は子を持つことができないのか、
なぜ、この町に生まれたのか、
納得しないと生きられない、人はやっかいな生きもので
ある。

意味を問う痛みに効く薬はおそらくないのだろう。
医学的な治療をきちんと施しながら、生き方の問題を
手当していく必要がある。

仏教が指針を示しているのである。
「大きな慈悲もって、私たちを決して見捨てない」と
いう働きが、私たちを救いとるというものを、私は感
じている。
私たち個人が自分をあきらめることがあっても、仏は
あきらめない、
仏はこのようなはたらきとして在る。

「ペット霊園」に見えた方たちも、私は会話することで、
帰られる姿を見て感じている。

私たちが失望することであっても、仏はあきらめ
ない、仏はこのような働きとして在る。
二回繰り返して書いたが、そういう芽生えを感じて
いる。
そういう寺に、生きている間に、すこし以前の寺の姿に
戻したいと思っている。
