気づいて生きる

 私たちは、それぞれに「願い」や「希望」を抱き、

「光」にして生きています。

001

 破壊的なエネルギーから生まれた「願い」や「希望」は、

「光」でなく「炎」となって、人生に大きな悩みや苦しみを

もたらします。

 「正しいことを行う」生き方を知って、寺で生きていますと、

苦行でもない、享楽でもない「中道」?当たり前のことをして

生きていますと、多くの出会いがあります。

004

 感情が高ぶって、この方はどうなることやらと思っていた方。

鈴虫やエサのナスを差し上げ、家内と三人でコンビニのサンドイッチを

食べ、スターバックスのコーヒーを飲んで雑談を続けていましたら、

悩みや苦しみの「炎」が薄らいでこられました。

005

  副住職の運転で、「多良町」の「道の駅」に出かけました。

009

 有明海の干潟が見えました。

禅の寺の僧として、「問題の多い世」を普通に生きて

くれるように、「智慧 ちえ」という「光」へ進んでくれ

るように、一緒に行動することが増えました。

008

 夕方に和尚さんご夫婦が見えて、「春雷」などの野菜の

手作りの苗をいただきました。

 感謝しました。

012

 問題が多い世を生き抜くには「自分自身に気づいて

生きる」ことです。

 自分自身に気づいて生きていると、問題が起こりそうな

瞬間が見えてきます。

 そうなると、多くの問題もなくなるでしょう。

 朝の読経と、静かに自分を見つめる瞑想や、草取り作業を

続けていますと、「自分のことを知りつくせる」ことが

できます。

 夕方から、秋の彼岸前後にぜひやりたかった、花芽の

ついていない寒蘭の植えかえを始めました。

015

 「大雄 だいゆう」に、今年は新芽も花芽も見えませんでした。

枯れなかっただけでもいいんです。

 私にとって「大雄 だいゆう」は手ごわい寒蘭なんです。

根は伸びないし、枯らしてしまうことが多い寒蘭です。

 だけど、花はすごいし、値段も下がらないし、あまり増えも

しないのです。

018

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釈迦とスジャータ

 老、病、死からの救いを求めて出家した釈迦。

厳しい苦行ではかなわず、苦行をやめて沐浴(もくよく)

して体を洗い浄めます。

 ここで、村の娘、スジャータからもらった食事で体力を

回復します。

 そうして、菩提樹の下で坐禅して瞑想し、「明けの明星」

を見て、仏教の教えの根本である「縁起(えんぎ)」を悟った

と言われます。

 12月8日でした。この日を「成道(じょうどう)の日」です。


 「キンカチャ」のつぼみ付く。
002

 もっと「つぼみ」をはっきり写そうとしました。

003

 「キンカチャ」は秋に新芽が伸びます。

004


 14歳で体にウジ虫がわき、「安楽死」を選ばれた飼い主、

可愛がっていた飼い主の慈悲の心でした。コーギー犬

の「イヴちゃん」

 私は読経し、荼毘にできました。


 釈迦の苦行での坐禅はインドの修業方法で、

ヨーガから発生したといわれています。

 ブッダは苦行しても、かなわなかった悟り。

しかし、この苦行、坐禅があってこそ、スジャータの

食事を受けて、悟り
に至られたのです。

 スジャータという娘さんと、この時にいただいた食事は、

釈迦仏教にとっては大切なものです。

 今、木犀(モクセイ)のいい香りがし、ウメモドキが

赤い実をつけていました。

005

 医師のE先生は、今日は休診日。

往診する車で、お墓と寺にお参りでした。

006

 仕事を終えて、寒蘭の「白妙 しらたえ」に散水し、

伸びている花芽を見つめていました。


008

 釈迦は「真理を体得したら」自分も自分以外の生きものも、

それを取り巻く環境も、すべてが「真理の現れ」でないもの

はない」と言うことを悟られたのです。


 「禅」では「無」になりきろうと、12月1日から8日の早朝まで、

昼夜ぶっ通しで坐禅する「蝋八摂心 ろうはつせっしん」を

行じます。

009

  家内と私に、真っ新な心で会いに見える方があって、

支え合って生きています。

 「紅花ウバユリ」の花を、早めに切ったら、脇からおおきな

新芽が伸び出しました。

いかによく生きるか

 住職をさせてもらって30年、

御詠歌を始めてもらって25年、

001

 短い人生で、いかによりよく生きるか、求め、求め、

ここまで、みなさんと歩いてきました。

 全員に「よりよい生き方を求める心」は伝わって

いなくとも、後は次に託してもよいのでは?

004

 寺の台所で、協力して、分担して、精進料理を

学ぶ人も多いのです。

007

 おいしい、心のこもった料理です。

011

 ご飯も味噌汁も最高においしいです。

010

 なら漬け、味噌漬けも、うまい。

012

 私は「本当に心のこもった梅漬け」をいただきました。

014


 自分を囲む世界との関係をいかによく保つか、

いかによい関係を築くか、知ることに集中する

ことが「釈迦の仏教」の教えです。

 物と物、物と人間、人間と人間、そして、自分自身の

過去と現在、現在と未来との連鎖の関係に気づくこと

です。

 仏教は、すべてのものは依存しあって存在する、

どれ一つとっても、その連鎖の綱から独立して

存在しているものはないと考えるのです。

 これがわかると、「今の自分という結果を生んでいる

原因を断ち切ることもできる」

 これが、苦、集、滅、道の「四諦説 したいせつ」の

概観です。

縁起を悟り、悟りに至る道をたどる、

これが仏教の考え方です。

 寒蘭「柿右衛門」の花芽が伸び出しました。

016

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自分自身のことだけををよく見よ

 いろいろなことをこなして、夜になったらボーとなって、

パソコンを前にして横になって眠っていました。

 色々の考えが吹き飛んでいました。


 人の一生は色々なことがおこります。そうして、最後は

死です。

 亡くなった方の「欠点や過失を見ていたら、」読経後の

法話はできません。

 「なさった善いこと」だけに目を向けて、「せっかくこの世に

生まれて来たからには善を行え」と話しました。

003

 寺の墓地への納骨に見えました。

005

 「父母の恩について」回向をしました。

「二俣区」より「浮立 ふりゅう」をして見えました。

007

 朝から仕事をはじめ、最後は「21歳で亡くなった、猫のパッピー

ちゃん」のペット葬でした。

 当寺にペット葬に見えたペットでは、二番目の長寿でした。

(一番の高齢は猫の22歳です)


 寒蘭は「大きな鉢では育たない」と注意をうけますが、

水の管理さえよくやれば、うまく育ちます。

 肥前寒蘭「雄飛 ゆうひ」です。

012

 何か、今年の植物は「ハイスピード」で花を咲かせようと

するのはなぜなんでしょうか?

 11月に咲く寒蘭の花芽が、9月にここまで伸びています。

「南雪」

016

「なに?植物の欠点や過失も見るな」ですか?

 他人の過失を見るなかれ。

 他人のしたこととしなかったことを見るな。

 ただ、自分のしたこととしなかったこととだけを見よ


  ダンマパタより

 

正しき道

 熊本、博多、久留米、春日、佐賀の檀徒の方たちは、

彼岸前から今日までに、お墓を掃除し、本堂に

お参りして、それから庫裡に見えた。

 (学校に勤務していた頃の「会いたいな」と思って

いた方たちには、この十年間でほとんど出会った。不思議な

出会いである。昨日も伊万里支援学校の方と会った。

なつかしかった。)

 供養に出かけたり、ペット葬の時には、お参りされても

会えないこともある。

006

 「ある方には会い、ある方とは会わない、」これは

不思議な不思議な因縁であると私は思う。

002

 ゴーダマ・ブッダの説いた道は哲学ではない。

そうではなくて、ただ「道」を説いているのである。

「正しい道」と称している。

 他の宗教は、人間を苦しみから離脱させることは

できないけれども、ゴーダマの教えのみはそれを

可能にする。

 そして、ブッダとは、ただこの道を歩み、みずから

見出したことを、他人に告げる人にすぎない。

 人格完成者と呼ばれるが、「このように行った人」

「このように向上してきた人」というだけの意味である。

 昨日も書いたが、「善の道」であり、以前にも書いたが、

ブッダの言葉を知り、実行しようと努力すると、自ずから

加護されていることを、身をもって感じる。


 私は、ほとんど寺で作業している。

この頃は、副住職に住職を譲る日時が決まってから、

作業を彼と家内をまきこんでやっている。

003

 寺の猫「ゴロウ」は手をそろえて見ていた。

005

 猫や犬は「うそをつかない」

ペット葬に来る「ペットたち」は、死ぬときに、いや、生きているときも、

人間より苦悩して死んでいない。

 平然と病気を受け入れ、老いを受け入れて、死を受け入れて、

10数年生き死んでいることを知った。

004

 ペットよりも「人のうわさをし」「うそをつき」「怒り」

「感謝しない」人のために「輪廻 りんね」を仏教では

説いているのかな?

諸々のものは、諸々の因縁によって作られた集合体

 草払いの時なのか、猫の「ハナ」が持ってきたのか、

昨夜は体中、かゆくてかゆくて、湿しんができて眠れ

なかった。

 やっと「ダニ」が体にくっついているのを探して、はずす

ことができた。

 頭から手のひらまで湿しんができて、左の胸まで痛むし、

眠ったら、朝は死んでいるのかなと思い、ひざの痛み止めの

薬を飲んだ。

 空の青さが日ごとに深まり、秋の彼岸となった。

040

 そこだけが火のついたように赤く燃えて咲く「彼岸花」

「曼珠沙華」とも「地獄花」とも「手くされ」という異名も

あるそうだ。

045



 ペット葬の「炉の修理」を頼んだが、やっと午後に修理してもらった。

「9月は亡くなる人が少ないので、人の火葬炉の修理を今月に

されるところが多いです」と忙しいらしく、やっと「日曜」に来てもらった。

 ペット葬に来られる方は、9月も少なくなくて、眠れない翌朝まで、

私は動いていた。

042


 「仏教」って、僧だけでなく、一般の方も「苦しい修行をすることではない、

人にゆだねて暮らすこと」と学んだ。

 私は二十歳代の修行の時から、今まで、「人からいただいたもので体を

くずすことはない」と学んでいる。

「おはぎ」をいただいた。

033


 それは違う「釈迦は鍛冶工の子 チュンダ」の食物を食べて、重い

病にかかられ急速に衰弱されていったと言う方もあろう。

 しかし、釈迦は心配させないように、次のようにつたえます。

「二つの供養の食物には最高の功徳がある」

「悟りを開いた時に供養された食物と、チュンダが供養した

食物である」と、チュンダを気遣いました。

 この釈迦の気遣う言葉には、感動します。


「やめよ、アーナンダよ。悲しむな、嘆くな。アーナンダよ。

わたしは、あらかじめこのように説いたではないか。


すべての愛する者、好む者からも別れ、異なるに至るということを、

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、

それが破壊しないように、ということがどうしてありえようか」

「わたしは29歳で善を求めて出家した。スバッダよ。

わたしは出家してから、50余年となった。正理と法の領域のみ

を歩いてきた。これ以外には、道の人なるものも存在しない」

041

  この世のすべては「善因善果」「悪因悪果」でうごいています。

「善いことをすれば、善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報い

がある」これは絶対的なもので、「カルマン 業」で動いています。

世界は神が造られたんでない。

「因縁によって作られた集合体」です。

034

 母親が残した、黄色の彼岸花が咲きました。

044

 寒蘭「王心」にたくさんの新芽と、花芽も伸びていました。

035


おれをけなすな、でもおまえをけなす、は成り立たない

 幸福になりたい人は、すべての生命に対して

幸福を与えることです。

 九月二十日から秋の彼岸で、多くの方たちが

お墓の掃除に見えていました。

 穏やかな秋日和です。

「ハスの葉を切る時期」です。

011

 「ポット」に蒔いた「白菜」も芽を伸ばしています。

010

 「白楽寿 はくらくじゅ」という寒蘭は「波佐見町」

で採取された、白花の咲く寒蘭で、赤花の咲く寒蘭と

一緒に、陽に当てました。

003

 昼前から「墓地」の草払いを始めました。

015

 家内は墓地に「パンと牛乳」を持ってきてくれました。

016

 山の上まで刈り進めました。

019


 「和尚墓」の裏山も刈り進め、4時近くまでやりました。

020

 以前よりもひざの痛みは少ないが、つらい仕事でした。

024

 寺の住職は「他を生かすことが、生きるということ」

「俺を殺すなよ、でもお前を殺すぞ」という論理は

成り立ちません。

「おれをけなすな。でもおまえをけなす」という論理も

成り立ちません。

「殺されたくない。」「いじめられたくない」「けなされたくない」

のであれば、他に対してもしないことです。


 夕方6時過ぎより、副住職とふたりで「六七日 むなのか」

の読経に「大町町」に出かけました。

 夕暮れが早まりました。

没後397年たっても愛せられている人

 俗名「成富兵庫茂安 なるどみひょうごしげやす」 

戒名「玉心院日実大居士」は

397年前に「当寺に7年間宿泊され」て、「潮見川」の改修をされた。

 9月18日は命日である。

「潮見川」の改修によって、多くの田を開墾され、今も「二俣区 ふたまたく」

の方たちは、お礼に「供養塔」にお参りされて、供養をなさる。

005

 その当時の様子を調べて、私が掲示したものである。

006

  位牌を掲げて、

004

 ふたりで命日の経を読む。

「紫衣」を着て読む。

001

 人のために、佐賀県の多くの河川の工事をなさった。

違う。

 善をおこなうことは、実は自己を愛することに他ならないと、

「成富兵庫茂安 なるどみひょうごしげやす」は知っておられた

と思う。

 このことについては、ブッダが認めている。

「善行をなす人にとっては自己は愛しいものである」と。

012

「子に等しい愛しいものはない」と、ある小さな神が言ったのに

対して、ブッダは「自己に等しい愛しいものはない」と答えた。

 そうでしょう。妻を愛するが故に妻が愛しい、のではない。

自己を愛するがゆえに妻が愛しい。

 「パセーナディ王」と「マツリーカー妃」の話は有名である。

(今日は書かない)

 時間ができたので、ひとりでドライブした。

早い「彼岸花」が咲いていた。

014

 この車、信号で止まっていて、前の車が動いて、

私がナビでも見ていて、発進しないと、ピ ピ ピ

と教える。

 乗り心地と装備が気にいっている。

015

 私は「スターバックス」のコーヒーは好きだが、

それは、人に対するサービスと、コーヒー豆の栽培、

焙煎とコーヒーにかかわるすべてが一流だからだ。

 元社長の「ハワード・ビーハー」は、自己を愛する

ゆえに、「無我無心」で世界一にされたんだと思う。


 寒蘭「無心 むしん」を二鉢に増やした。

二鉢とも「花芽」が伸びていた。

017

 今年は「万作」に咲くかもしれない。

019

020

     
      
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わたしが、わたしの、をなくして生きることもできる

 武雄市役所、山内支所に出かける。

002

 この役目を引き受けて、長い年月がたった。

10時から15時までの5時間、三人で過ごす。

 今日 行く所があることを「教育」と言い、

 今日 用 があることを「教養」と言うんだそうな。

何 これ?

001

 三人の話で「私が、私の」とあまり話すことはしない。

 このように、


 「よく生老病死が苦と、

 大仰なわりにはあいまいに言われるが、

 生も老も死も苦ではない。

 もしも「わたしの 生」「わたしの 老」「わたしの 病」「わたしの 死」

という執着さえなければね。」

 ブッダダーサ比丘の言葉

003

  物質の変化、身体の変化という観点から見ると、

老いるとか、病になるとかは、まったくなんの問題もない

プロセスなのに、 「わたしが、わたしの」と主観にとっては

望ましくない、起きてほしくない、嫌なことだと感じがち。

 良い 悪いが生まれます。

 仏教の目指していることは、死を克服した境地を言っている。

008

 夕食で

006

 野菜も食べる。

007

 私は日記を書いているのに、「ハナ」は、

毛布を眠りやすいようにして、私の布団に

休んでいる。

生まれた時点で、喜ぶ自分は死ぬ

 去年の11月はたくさんの寒蘭が咲いた。

私は喜んで、写真を撮ったり、人に見てもらったりして、

長く咲かせたままだった。

 今年は花芽が伸びているのはわずかである。

ほとんど咲かない寒蘭になる。

038

 去年咲かなかった寒蘭は花芽を伸ばしている。

「南雪 なんせつ」

040

 西海町の「白西 しらにし」「一の谷」で無名の最高花。はたして咲くのか?

039
 
 植物は一年単位で、咲く、咲かない、実る、実らない、

を繰り返す。

 今年の「彼岸花」は咲く時期が早すぎる。

こんなに早く咲いたことを、私は知らない。

017

 ほとんど一日中 雨が降り続いた。

028

 ほとんどの人は、晴れは嬉しい、喜び。

雨はいや、不快と思われよう。

 夕方、畑を見に出かけた。

034


 「ポット」の白菜とレタスは芽を出した。
030

「白萩 しらはぎ」が咲き、彼岸頃、散る。

037

 私が生きている間 「萩の寺」

036

 私が生きている間、「ムラサキシキブ寺」

033


 人間は「生まれる時点」まで、喜ぶ自分。

生まれたら「老い、弱まっていく」


 私たちは「生まれたら老い、そして病み、死に」

別の「何ものか」として生まれ変わる。

 高速の輪廻転生を繰り返しているのですよ。

 
この輪廻転生こそ「苦」そのものなんである。

 人生のなかで、誰かを好きになって、ときめいて、

はしゃいでも、ピークへ成長し、すぐ老い、死に、

不満足で不快に輪廻する。

 もし、有名な人になって、快を感じても、身近な人

から悪口を言われただけで、「悪口を憎む自分」になり、

「不快」に呑み込まれる。

011


 生まれた者には

もれなく死がついてくる。

生まれたなら、

まもなく苦を受け取る。

苦につかまえられ、

最後には殺され、

責苦を受ける。

それゆえ、

生まれることを喜ぶのは、

愚かなこと。

 相応部経典 より。

 これを読むと、確かにそうだなあと思ってしまう。



 「御詠歌」 練習を始めて20数年。

 みなさん「始めてよかった」と思っておられる。

「仏」に触れられておられます。

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