2017年09月14日

お早うございます、よろず 齧るです。

今回齧ったのは、



 です。

例によって、読んでいて印象に残った箇所ですが、次の二か
所を挙げておきます。

それはまず、太古のユダヤ人につき、
  『当時は異民族が太陽、月、大地、水、大気などの目に
 見えるものを神々として崇めていたので、彼らに対抗しよ
 うとしたユダヤ人は、そうした神々が弱くて不確かな、つ
 まり移ろいやすい神々であり、見えない神の支配下に置か
 れていることを示すため、自分たちの体験したさまざまな
 奇跡について語った。』
 (本書P259、ただし太字化はブログ作者、本書にはありま
 せん)
と述べているところであり、

また、
  『(前略)ヨシュアの時代のヘブライ人たちも(中略)太陽
   の方が(中略)動いていて、反対に地球の方が静止している
   と思っていた。(中略)彼らは、単純に日がいつもより長く
   なったと言えばよかったのに、そうではなく日月が立ち
   止まったとか、運行を中断したと言った。このことはま
   た(中略)太陽を崇拝していた異民族[である敵軍]の士気を
   くじくのに少なからず役立った。つまり彼らの崇める太
    陽も実は別の神格の支配下にあって、この神の合図に
    よって
その本来の秩序を変えるよう強いられているとい
    うことを(中略)敵に納得させるのに役立っ た。』
 (本書P286~287、ただし太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
と述べているところです。

太陽を神格として崇拝している民族(たとえば古代エジプト)
が、その太陽に普段と異なる動きがあったときに、実は太陽
でさえ、それ以上の神格によって支配され動かされているの
だとする論法で、日が長くなる=地球から見た太陽の軌道上
の位置関係の問題、ではなく、太陽が一日のどこかの時点で
立ち止まったから長くなったという素朴な理解にもなり、そ
の太陽の動きを止めたのが、目に見えない神で、したがっ
て、それは太陽以上の偉大な存在であるとの論法です。

そして、例えば、月にせよ、水にせよ、太陽と同じ他の有限
な存在を対置していたのでは、それらも有限のものである以
上、何らかの弱点があることになって、決して太陽を支配す
るというわけにはいかないでしょうから、行き着くところ、
太陽以上の神格とは、ユダヤ人が言う「見えない神」しかな
いということにもなってきます。

そして、スピノザによれば、軍事力では強力だったはずの他
民族が、この論法によって士気をくじかれることもあったよ
うです。

ユダヤ人の歴史を事典で調べてみると、周りには強国・大国
が多く、征服・圧制などの史実には事欠きません。

ざっと挙げてみただけでも、エジプトによる圧制(モーセの
出エジプトBC13世紀?)、新バビロニアによるバビロン捕囚
(BC597~538)、ローマ帝国によるエルサレム破壊(BC65)、
ササン朝ペルシアの侵入(614)、さらには十字軍による大虐
殺(1099年)などとあります(電子辞書版ブリタニカ国際大百
科事典 エルサレム史の項より)。

このうちのバビロン捕囚だけを見ても、
  『前597~538年にわたってイスラエルのユダヤ
 の人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニ
 アに捕囚となった事件をさす。捕囚民は(中略)全体では
 1万5000人ぐらいであろう。当時ユダヤの人口約25
 万人であったが、捕囚民は支配階級に属する者や技術者
 であったので、残された民は衰退した。バビロニアでは
 宗教的自由は許された(後略)』
 [電子辞書版ブリタニカ国際大百科事典 バビロン捕囚
 (Babylonian Captivity<Exile>の項より]
とあり、

また、
  『またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴
 史、すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。
    したがって預言活動はやんで、かわって律法学者や書記
    が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり、旧約の
    宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。』(同上)
とあるので、

捕囚のあった時期は、国家の指導者層が大勢連れ去られ
た、国家存続の危機の時代でもあり、同時に、ユダヤの宗
教が、新しい預言がやんで、既になされた預言に基づく、
ということは、言い換えれば、それらの記載された、いわ
ば(旧約)聖書を中心とし、その解釈が重要な位置を占める
「書物の宗教」へと転換していった時期でもあるようで
す。

そして、これまたブリタニカ国際大百科事典によれば、バ
ビロン捕囚を行なったネブカドネザル(2世)は,旧約聖書に
出てくるユダヤの大預言者エレミヤを保護したとありま
す。まあ、それはエレミヤが預言したのが、まさにネブカ
ドネザルによるバビロン捕囚のような出来事(ユダヤ人の
祖国の破滅)であったことを考えると、その預言に力のある
ことを、敵でさえも認めないわけにはいかなかったのかも
しれません。

いや、というよりも、ユダヤ人の全能の神は、異民族のネ
ブカドネザルのような者をさえ、その器として利用し、エ
レミヤの預言を的中させることができたという解釈になる
ということでしょうか。

さて、取りあえずそうまとめてみると、スピノザのこの本
を、前回のベネディクトの『菊と刀』と対比させて読め
ば、非常に面白いのではないかと思うようになってきまし
た。

もちろん、スピノザとベネディクトは活躍の時代も国も全
く違っていて、一見なんの関係もなさそうですが、取りあ
えず両者を読んで、大雑把にですが、

日本文化ー『応分の場を占める原則』―最高存在として具
                  体的に目に見える
                  天皇という存在
ユダヤ(あるいはキリスト教)文化
 -『(預言者/聖書の解釈)に従う原則』―最高存在存とし
                                                                 て目に見えない全
                                                                 能の神
と対比させて書いてみます。

それで、まずベネディクトは日本文化について、最も注意
しなければならないのは、『応分の場を占める』という考
え方だと述べていました。これは前回書きました。

それは私から見れば、社会や家族、あるいは国際社会など、
何らかの全体の中で、自分がどう位置づけられるかに重き
を置き、そこで分に応じて尊重されなければ納得できない
文化だ言えるのではないかと思うのですが、

そうした社会において理想とされる人間像とは、社会にお
けるどのような状況・場面においても、その各場面をわき
まえて、適切な行動のできる人間である
ということになる
でしょう。それはまた、下が上を侵さないのは当然として
も、上も上で、下に任せていることには介入しないこと、
上・下お互いが、他の領分を侵さないことを確認して相互
に安心できる文化だと言えるような気がします。

そういう場(社会)が安定化(固定化)する上で、必然かどうか
はともかくとして、そこに「天皇」のようなある意味絶対
的な存在があることが、この制度を強化する役割を果たし
ているとは言えそうな気がします。

これも前回書きましたが、これが中国なら、皇帝が全権力
を握って、その代わり、もし皇帝が国民のことを顧みなけ
れば、すなわち皇帝に仁がなければ、誰もがその王朝を倒
すことが正当化されうる文化ですが、日本の場合は、江戸
時代のように将軍が天皇から実権を委ねられていても、い
ざ幕末に列強が迫ってきて、開国がどうのとなってくる
と、将軍だけでは決められないので朝廷の意向を伺うとい
う形で、天皇が権威をもち続け、倒される対象からは外さ
れていたことにより、この一旦形成された応分の場の秩序
は維持されやすくなっていたと一応言えるのではないで
しょうか。

というのも、もし権力あるいは権威の頂点まで変わる闘争
を経ていれば、当然新しい最高権力者・権威者の親族や支
持者、支援者らが旧支配者層に丸ごと取って代わって権力
を握る展開にもなっただろうからです。

そして、そのような社会で、もし、仮に偽物の天皇が出て
きたような場合、「俺こそが本当の天皇だ」と言ってきて
も、生身で現実に宮城内に存在している現天皇、すなわ
ち、本物が、「あれは違う、本物なんかじゃない」とさえ
表明すれば、証明ということではないにしても、大概の人
間はそれで納得できてしまうのではないでしょうか。

というわけで、そこでは偽物を作り出してくるより、やは
り、明治維新のように本物の天皇を誰が担ぐかの方が重要
になるようです。

とまあ、一応この社会を、そのようにとらえておいて、次
にスピノザの論じるユダヤ・キリスト教社会に目を転じて
対比させてみると、

そこでの誰も越えられない存在とはもちろん神のことです
が、それはスピノザの表現を借りれば、隠されている神
すなわち目には見えない神であって、歴代の天皇の場合の
ようには具体的なその姿として意識出来ず、どうしてもそ
れは預言者の言葉、つまり聖書に残されている預言者の言
葉などを通じて知るしかないのでしょうが、そこでの問題
は、偽の神様が出てくることではなくて、「本当は神はこ
うおっしゃっている」というようなことを言う、偽預言者
が出てくることでしょう。

そのとき神そのものがその場に降臨して、「あれは偽預言
者だ」と表明してくれれば話は簡単ですが、仮に現れたと
しても、それは特定の選ばれた誰か(つまり預言者)にしか
現れないので、第三者には判断するすべがありません。

いや、それどころか、その神の出現した当の本人にとっ
てさえ、神の存在自体は疑っていなくても、今ここに現れ
たのが、まさにその神なのかどうかという形で疑問として
残ります。

それだから、次のような話が残されているとスピノザは言
います。
  『たとえばギデオンの逸話である。この人物は「わた
 しに語っている者があなた[=神]であること(を知るため)
 のしるしを見せてください」と言っている(中略)モーセ
 も神から「そしてこれはお前にとって、お前を遣わすの
 がこのわたし[=神]であることのしるし(である)。(中略)
    またヒゼキヤも、イザヤが預言者だととうに知っていた
    のに、自分の病気が治ると告げたイザヤに対して、その
    預言のしるしを示すよう求めた。』 (本書p100~101)
と。

神の存在自体はこれらの民にとっては疑問とはならなくと
も、今自分に現れた存在がまさにあなた(=神)なのかとい
う形で問題になり、そこを預言者がクリアーするには、神
がしるしを見せることで、それによって本人にまず確信が
生じ、他者にも確信が生じるという形になっていたようで
す。

このことを含めて、スピノザによれば、神の言葉を語る預
言者なる人物の、
①人格が優れている(その人物が正しい、よい心がけの持ち
主である)か、
②その預言された何かが本当に起こること(=神のしるしが
あるか)、にかかってくることになりますが、

その他に③として、
啓示されたものごとがきわめて生き生きと感じられるこ
と、というのもありますが、これは専ら、預言者と称する
人物にとっては最も重要なことではあっても、聞かされる
第三者にとっては分り難いことですから、まあ①と②とい
うことになります。

そして日本の戦前なら、目に見える存在である天皇への恩
返し、すなわち忠に励めとなるところですが、古代のユダ
ヤ人社会では、
  『実際モーセが彼らに下したのは、かつて神から受け
 た(エジプトへの隷属から解放してもらった等の)恩に報
 いるため、神を愛し神の法に服せという命令である。こ
    れに加えて、モーセはそうした[律法の]指図を侵すもの
 がいたら脅しをかけて強くおびえさせ、反対に指図を守
 るものにはよいことをたくさん約束した。』
   (本書P132)
とあるように、それは目に見えない存在である神への恩返
しという形をとるようです。ユダヤ・キリスト教社会で
は、神が預言者を通じて命じたこと、あるいはそれを記録
した文書である聖書の解釈に基づいて命じられたことを実
現すべく、行動することが神への恩返しであり、いわば、
"忠"であるということになるでしょう。

そして、天皇制社会においては、忠は、より具体的には、
生身の天皇が存在しているため、たとえ、その実態が天
皇を担ぐ勢力の間で行なわれた水面下における権力闘争で
あったとしても、たとえば、それが最終的に天皇の発する
文書という形に仕上げられれば、その文書の内容を実現す
べく行動することが忠(実際にはそれは天皇をかついだ層
の意図の実現を意味することになる)となるでしょうし、
一度仕上げられれば、それまでとは180度の方針転換も
可能となります(たとえば、軍国主義から平和主義へな
ど)。

しかし、聖書の場合は、記述そのものの変更、あるいは聖
書と同じ権威をもつ文書の作成など、それこそ新しい預言
者(と認定される者)でも出てこない限り、できないでしょ
うから、そこはいやでも聖書の解釈変更をめぐる闘争の観
を呈してきます。

そして、さきほどのバビロン捕囚の項にあったように、新
しい預言者が出なくなったいうことであれば、ほぼ聖書(新
約にも預言者はいるので)に限定して、それに従って生きる
ことが正しい生き方ということになります。

そういうことであれば、聖書に従って生きるとどういう結
果になるのかということはあっても、生き方としては簡単
そうに見えます。何しろ、そこに書かれているとおりに生
きれば、それがすなわち神に従っていること=正しいこと
になるのですから。

ところが、スピノザはこう言います。
  『彼らの多くは(中略)聖書の記述はどこを取っても真
 実
で神聖だと決めてかかっている。そんなことはそもそ
 も聖書を知的に読み解き、厳しく吟味してからでないと
 確定できないはずだ。(中略)自然の光[=もともと人間に
 備わっている知的能力]がただ軽んじられるだけでなく、
 多くの人からまるで不道徳の源のように非難される。ひ
 との思いつきが神の教えと見なされる。うかつな信じ込
 みが信仰心として評価される。』
 (本書P42)
と。

スピノザによれば、神について知る方法には二通りあり、
それは、それぞれ、
自然の知
  『
(前略)人間に自然に備わった認識能力によって何か
 を知ること(中略)自然の光によって何を知ろうと、それ
 は煎じつめればただ神を知ることに、そして神が取り決
 めた永遠に変わらない事柄を知ることに帰着する(中略)
    この自然の知は、あらゆる人に共通の認識能力によって
 得られるものだから、あらゆる人に共通のものであ
 る。』(本書P54)


今一つは、
超自然の知で、
  『誰もが神の知と呼ぶあの[預言による]知(中略)は自然
 の知の限界を超えたところまで広がっており、またその
 ような[超自然の]知を得るには、人間に自然に備わって
 いる認識の規則だけではどうにもならないという点だけ
 である。』(本書P55)
と述べています。

スピノザによれば、どちらも神について知ることに違いは
ないが、自然の知を広めようとする者を預言者と呼べない
のは、
  『こういう人たちが教えてくれることは、教えられる
 側も相手と同じ確かさに基づいて、相手と同等の資格で
 受け取り、そして受け入れることができるから(中略)相
 手[=預言者の権威を]信じるしかない預言による知とは、
 そこが違う。』(本書P55)

と述べています。

これも当然のことで、預言者の知(超自然の知)は、神が直
接には特定の預言者にしか働きかけてこないので、他の
人間は最終的にはその預言者の言を信じる(か信じないか)
しかない
のに対し、自然の知、すなわち理性、あるいは知
性による自然の理解は、その結果得られる法則が神の存在
を示すことになるのだけれど、それは全員に共通の認識能
力に基づくので、ちょうど数学の問題を解く場合のよう
に、たとえ実際には問題を解ける人間は限られているとし
ても、一度解かれれば、その同じ推論の過程をたどって、
誰もが人間である以上、確信をもって理解できる構造に
なっているという点で違うと。








続きを読む