2018年12月12日

お早うございます、よろず 齧る です。

今回齧ったのは、


自然権と歴史 (ちくま学芸文庫)
レオ・シュトラウス
筑摩書房
2013-12-10


です。

これも非常に興味深い本ですが、早速、読んでもっとも
印象に残るところを挙げてみると、その序論に、
  『自由主義者たちが、自然権の最もリベラルな解釈
 によってさえ多様性ないし個別性に対して課せられる
 絶対的制限に耐えがたくなったとき、彼らは自然権
 とるか、それとも個別性の自由な発展をとるか、その
 間で選択を迫られることになった。彼らは後者を選ん
 だ。そしていったんこの一歩が踏みだされると、寛容
 も多くの価値ないし理想のうちの一つにすぎなく思わ
 れてきて
、その反対の非寛容に本質的に優越するもの
 ではなくなった。』
   (本書p19、ただし太字化はブログ作者、本書にはあり
 ません)
という記述があります。

この文章の意味するところを理解するために、まず自由
主義
について調べてみると、
 『②人間個人の人格の尊厳をみとめ、個性をその人自
 らにより自発的に発展させようとする主義。個人の思
 惟と活動に対する干渉を排し、できる限り自由を増大
 しようとする生き方
。個人主義・ヒューマニズムの理
 念に通じる。』(電子辞書版『精選版日本国語辞典
 自由主義の項より 小学館 、ただし、太字化はブログ
 作者、本辞典にはありません)
とあります。

ということは、つまり、現代社会の、
日本国憲法下で暮
我々日本人にとっても、まさに、社会構成の理念とし
て、最も基本的な柱の一つとなっている観念だと言える
でしょう。

そして、このことのより具体的な意味は、少し前なら、
上の人たちに何か自分の考えを言うと、「そんなバカな
こと考えるな」とか、「甘い」とか、批判されたり、押
さえつけられたりするだけのこともままあったのが、―
もっともこれも、必ずしも悪気があってそうしているわ
けではない場合も多くあって、自由主義とは違い、後ほ
ど本書にも登場してくる伝統主義的な思考法のもとで
は、社会に適合するように人間を成長させることが最重
要事項で、そして、それは教育を通してなされるのです
が、その教育というのが、何も学校教育の専売特許では
なかったので、年長者が若者に厳しく接することにも当
然その側面があったそれが最近では、次第に上の人
も、内心はともかく、「ああ、そういう考え方もある
ね、いいんじゃない、とか、それもありだね」と変化し
てくるわけです。

つまり、口うるさく、若者の考えを、いきなり頭ごなし
に否定したり、干渉したりはしないでおこうと、それ
は、まさに社会が自由主義に基づいて成り立っているか
らだということになります。

そして、このような自由についての考え方が定着してく
る背景には、シュトラウスの分析によれば、
  『(前略)寛大な自由主義者たちは(中略)本質的に善
 なるものや正なるものについての真正の知識など我々
 には得ることが不可能である以上、我々は善や正に
 ついてのすべての意見に寛容であるほかないし、あら
 ゆる選好やあらゆる「文明」を同等に尊重すべきもの

 と認めるほかない(中略)つまり、限りない寛容のみ
 が理性に合致する(後略)』
 (本書p18、ただし太字化はブログ作者、本書にはあり
 ません)
との考え方があると。

ですから、これも実は我々でも、少し記憶を呼び起こせ
ば思い当たることで、おそらく50年ぐらい前なら、人
間の成長に向けて、人間の徳のような概念がまだ重要視
れており、

子供の頃から、自分でも、「〇〇君のどういうところが
いい、とか、どういうところを見習おうとか、〇〇君の
ような人間になろう」などというようなことを、結構意
識したりしていたものです。要するに生き方のお手本
いうやつですね。

それに比べると今も、もちろん友人から学ぶということ
はあるでしょうが、おおもとの考え方が、「この生き方
とあの生き方とどちらがいいとか、上だとか言えないの
だから、どちらも尊重されるべきだし、どちらも同じよ
うに尊重されるべきだ
」という方へ流れが変わってきて
いるはずで、それこそ、まさに自由主義の影響でしょ
う。

そんなわけで、もはや「誰それのようになれ」、という
こと自体、ストレートに言われることは少ない、いや、
むしろ、それでは個性を潰すことになる、みんな個性的
であって、それでいいわけだから、というわけです。

それで、この社会は、あらゆる種類の意見に対して寛容
に、そして等しくそれらを尊重するというのが少なくと
建前にはなっています。

昔と違って、これが絶対的に正しい言いきれない以上、
すべてに寛容になるしかない、というわけです。

次に自然権についてですが、これは事典によれば、
  『法的規定以前に人間が本性上もっている権利をい
 う。伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成原理
 に援用した際に生まれた近代的な観念である。思想的
 先駆はT.ホッブズで、彼は個人の生存権の欲求とそ
 のための力の行使を自然権として肯定した。(中略)
    J.ロックは「生命、身体および財産」への権利であ
 るとし、国家はこの自然権を保障するための組織であ
 るから、いかなる国家権力も自然権を侵害することは
 許されず
、そのような侵害に対して人民は⇒抵抗権を
 もつと主張した(後略)』
 (『電子辞書版ブリタニカ国際大百科事典』自然権の項
 より ブリタニカ・ジャパン ただし、太字化はブロ
 グ作者、本事典にはありません)
とあり、 

ここで述べられているのが近代的自然権で、先ほど私が
伝統的な思考法と呼んだもの、あるいは人間的成長だと
か、徳だとかを重んじる考え方が、ここでは
シュトラウ
スが古典的自然権と呼んでいる枠に入るものです。

そして、ここで、イギリスの哲学者で政治思想家のJ.(
ジョン・)ロック (1632~1704)の名前が出てくれば、
それはまさに日本国憲法への直接的影響ということで、
たとえば、単純に憲法13条の「生命、自由及び幸福追求
に対する国民の権利
」という表現だけを見ても、上の事
典の記述との間にはっきりした類似性が見られ、また、
国家権力の限界という考え方も、我々に非常になじみの
ある自由主義的思想の一部
だということは言えるのでは
ないでしょうか。

日頃国会の論戦でも、このようなこと巡って議論が戦わ
されることも、最近ではままあります。

なお、ここにいう「自然法」とは、
  『特定の法社会において人為的に形成される実定法
 に対し、人為に関係なく自然的に存在し妥当すると想
 定される法
をさす。実定法が法社会により内容を異に
 するのに対し、「自然」に基礎を置く自然法は不変的
 かつ普遍的に効力を有する法として説かれる。』
 (電子辞書版『ニッポニカ(日本大百科全書)』自然法の
    項 小学館,ただし、太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
のことだとあります。

これは著者シュトラウスのそもそもの問題意識が、その
序にあるように、いわば実定法主義とでも呼ぶような、
法は人為、すなわち国家の行為(立法府などの制定行為
など)によって成立するものであるとする思想が、ある
種の国家主義と結びつき、「自然」に基礎を置く自然法
主義
と呼べるもの、あるいは自然権に関する思想を、全
面的に斥けたことが、20世紀において全体主義体制
招いた、というところにあるからであり、

より具体的には、実定法主義が極端になり、法は国家
が制定するのが当然(でそれに制限がない)となれば、

たとえばナチスのように、合法的な手順を踏んでーす
なわち選挙によって国会で多数を占めたうえで、立法
した以上は、国民はどんな内容の法律(たとえば、
ニュルンベルク法」―ユダヤ人からあらゆる権利を
剝奪する法律)が成立したとしても、それに従え、とい
うことになるからですが、

そこで、シュトラウスは次のように書いています。
  『自然権を否定することは、あらゆる権利が実定
 的な権利である
というに等しく、そしてこのこと
 は、何が正しいかはもっぱらさまざまな国の立法者
 や法廷によって決定されることを意味している。と
 ころが「不正な
法や「不正な決定について語る
 ことは明らかに意味があることであり、ときには必
 要でさえある。このような判断を下す際の我々の含
 意は、実定的な権利から独立し、実定的な権利より
 高次の正・不正の基準
、つまり我々がそれを参照し
 て実定的な権利を判定しうる基準が存在するという
 ことである。』
 (本書p15、ただし太字化はブログ作者、本書にはあ
 りません)
と。

実定法を、あるいは国家の行為をチェックする機能と
して、「実定的な権利より高次の」基準、すなわち
然法なり自然権という観念
がないと、このような全体
主義国家の出現という問題に向かい合えないのでは
ないかとのシュトラウスの問題意識なわけです。

最後にもう一つ関連する用語として、自然状態につい
て触れておきますと、
  
『人為的に政治社会を形成する以前に、人間がお
 かれていた状態。人間はなぜ社会を形成するのかと
 いう問いに対して、一度現存の社会関係を解体し、
 それを構成する個人から理論的に再構成しようとす
 る意図から考察された仮説で⇒社会契約説とは不可
 分の概念。ただし論者によって自然状態観はそれぞ
 れ異なり、T.ホッブズはそれを戦争状態と考え、
 J.-J.⇒ルソは黄金時代とした。J.ロックはそ
 の中間をとった。』(電子辞書版『ブリタニカ国際大
 百科事典』自然状態の項より ブリタニカ・ジャパ
 ン)
とあります。

これはホッブズから始まる考え方のようで、ホッブズ
古典的思想、あるいは古典的自然権ーたとえばアリ
ストテレスの言うー人間は(自然本性的に)社会的動物
と捉えるその社会性を否定するので、その社会を形成
する前段階として、人間が個々バラバラの状態で存在
する状態、すなわち自然状態というような概念が必要
だったわけで、一種の仮説です。

そしてホッブズの場合、その個々バラバラの状態を
争状態
と捉えるため、社会に平和をもたらすため社会
契約
が必要だという風に議論が展開されていきます。

さて、これだけ準備をしておいて、最初の引用文に戻
ると、

そこに「自然権の最もリベラルな解釈云々」とあるの
は、私の理解では、たとえば、(近代的)自然権につき
J.ロックの立場をとったとして、というような意味
で、そうすると、それは国家権力を制限する立場に
立っているわけですが、そのようにリベラルな解釈
立ったとしても、

それでも、一応国家、ないしは政府それ自体の必要性
は肯定しているわけで、さもないと自然のままに
個人に無制限の権利を認める
と、当然、相互に他人の
権利を侵害する
状況が生じてしまうからで、ー社会契
によって成立する政府に、一定の個人の権利の制限
を認める権力を与えるという立場を否定しきるこはで
きないと。その権力が自由に対する絶対的制限という
わけです。

そこで、国家の権力が極力個人に向かないように、自
由を尊重し、権力を制限する方向で物事が考えられま
す。

ただ、制限する(国家権力を)と言っても、自由主義
すなわち個人の自由を最大限認めようとする立場と
は、それでも究極においては、やはり、対立する面も
出てこないわけにはいきません。権力は権力ですか
ら。

先ほども書いたように、結局自由を重んじれば、何事
についても、どちらの意見がいいとか悪いとか、どち
らが善とか悪だとかは決定できないのだから、どちら
も、平等に尊重されるべきだ、となってくるわけです
が、それは政府にすら個人の考えを否定する権力はな
という方向へ議論が進みがちでしょう。

だから今は、一昔前では考えられなかったような権利
の拡張
が図られていて、現在、たとえば、自己決定権
に基づく自分の命を処分する権利だとか、たとえ、体
への影響が取りざたされている薬物であっても、極力
その使用を政府に認めさせようする、そのような力が
社会には働きますし、その運動も一定程度は認められ
ます。

それが自由主義、あるいは自由原理主義というもので
しょう。

ただ、私がここで注目したいのは、最初の引用文の後
半の部分におけるシュトラウスの指摘で、

今しがた述べた、違いに対する寛容さが重要視されて
きて、個性の自由な発展を選び、最大限個人の欲求が
満たされる社会
の実現が目指されてくるとー現代社会
はまさにそのような社会だと言えるでしょうがー、そ
して人々の多くがそのことを肯定的に捉えるようにな
ると、ここに書かれているようなこと、

すなわち、何かで、ある一つの選択肢が選ばれた後に、
むしろ、選ばれず捨てられたはずの選択肢の価値が、
重みを、あるいは存在感を増してくる
ということがあ
るのじゃないかと思うわけです。

適切かどうか、しかし譬えてみると、たとえば目の前に
今までに見たこともない、おいしそうなまったく異なっ
た外観の二つのケーキが出されて、自分の
自由な意志
どちらか一方だけを選んで食べてもよいというような
場合を考えてみると、現実にはどちらかを選択して食べ
ることになるでしょうし、

そして、食べてしばらくはその満足感に浸れるでしょう
が、じきに、もう一つの方のケーキはどんな味だったん
だろうかということが気になりはしないだろうかと。

もう一方も、もし食べてもよいのなら、話は簡単で、食
べてみさえすれば、そう大したことはなかった、とい
うことに落ち着くのかもしれませんが、

それが許されていないという場合、その体験が難しけ
れば難しいほど、どんどんその選択肢の存在感が増し
てくる
のではないかと。

つまり選択肢としての価値は、その実現が難しければ難
しいほど、このような欲求・欲望を刺激し、しかも、最
大限の自由を奨励するのが
代社会の理想であってみれ
ば、
自分の欲望の実現は、すべて正当化されやすい環境
にあると言えるのではないでしょうか。

すでに捨てられた選択肢、あるいは禁止されている選択
への欲望が膨らんでいく時代。

前回触れた暴力も、暴力の否定は、もちろん私も暴力を
肯定するつもりはさらさらありません
が、事細かく"
力的"
なものという形で、それに認定されたものすべて
を暴力として追放していくということになっていくと、
このような社会では暴力という選択肢の価値がかえって
上昇して来るという面もあるのではないかと、そこが心
配になります。

そうとでも考えないと、「誰でもいいから殺してみた
かった」という発想が出てくることが理解できませ
ん。

これが昔の貴族的社会であれば、その社会にはその社
会の問題があるものの
、自分にかかわった人間を、た
とえば、「私を侮辱した、名誉を傷つけられた」とし
て、だから殺したという話はあっても、

見ず知らずの人間を殺してみたいから殺す、という表
現はそうは出てこないでしょう。

と、そんなことを思ったので、この本で、タイトルは
「自然権と歴史」ですが、とりあえず(古典的)自然権
自由(主義)(近代的自然権)、あるいはについて学ぼ
うと
思い、手に取った次第です。
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