2018年05月21日

こんばんは、よろず 齧るです。

今回齧ったのは、


日本の古代国家 (岩波文庫)
石母田 正
岩波書店
2017-01-18



です。

さて、最近の日本を取り巻く国際情勢に関する報道など
を見ていても、いや、中国が尖閣に出てくるから、今す
ぐにでもそれに備えなければならないという向きから、
はたまた、北朝鮮問題に急に進展がみられる気配が出て
くると、何かこう事態の進行から取り残されるのはまず
いんじゃないか、という向きまで、悪く言えば、目の前
の事象に踊らされている観を呈していますが、

こんなときこそ、冷静に歴史から学びたいと思うわけで
す。

当たり前の話ですが、昔から、隣には朝鮮半島もあれば、
その向こうに中国もあるわけで、じゃあ、昔の日本人は
それらの国々とどう向き合ってきたのか、何かそこから
学べることはないのか、という風に、一度は退いて考え
てみたいものです。

が、そのためには、やはり、優れた案内役というものが
必要です。

そこで、今回のこの一冊というわけですが、今の私なら、
「日本の歴史について何か読もうと思うんだけど、いい
本がないか」と問われたら、ためらわず、その筆頭に、
本書の名前を挙げます。

同じ古典の紹介でも、日本人によって書かれた、古典の
名に値する書物をご紹介できるというのは、何かこう、
いつもとは違ううれしさがあります。

特に、中高生(もちろん大学生も)ぐらいで、歴史に興味
のある方には、是非、挑戦していただきたいと思ってい
ます。もちろん、専門外であっても一読の価値はありま
す。

古典紹介の一環として、今回の、この日本史への案内の
そのまた案内のようなことが、少しでもできればと思っ
ています。

では、早速、例によって、本書から2~3箇所、引用して
みましょう。

まずは、
  『五九二年、蘇我氏が崇峻天皇を暗殺した著名な事
 件は、推古朝の政治の前提をなす特徴的な事件として
 知られている。そのさい、蘇我馬子は、さきに新羅侵
 攻の目的で筑紫に駐屯していた大将軍紀男麻呂指揮下
 の軍隊に駅使(はゆま)をつかわして、「内乱ニ依ッテ
 外事ヲ怠ル莫レ」と指令したといわれる(崇峻紀)』
 (本書P14)
とあります。

また、少し時代が下って、
  『壬申の乱は、六七二(中略)および六七四年・六七
 五(中 略)年の唐軍と新羅運との戦争の時期におこった
 のであって、近江側の使者が、筑紫大宰栗隈王に動員を
 命じたさい、王が筑紫国の守備は、「内賊」にそなえる
 ためではないといって拒否したのは、半島の情勢からみ
 て当然のことであった。これは乱の結果に一定の影響を
 あたえたのである。』(本書P254)
とも書かれています。

前者は、『日本書紀』に出てくる話で、大臣蘇我馬子が、
九州に、朝鮮半島侵攻目的で駐屯している軍の大将軍に
使いを出し、「国内で起こっている権力闘争と、外事
すなわち、ここでは朝鮮半島侵攻という対外目的を分け
て考えろ。」ということで、

つまり、「[俺を討伐する、あるいは味方するつもりにせ
よ]、(崇峻天皇暗殺は)あくまで国内問題なのだから、駐
屯の目的をよく考えて、軍は動かすな。」とでもいうよ
うなことなのでしょうが、

よりにもよって、天皇を暗殺した謀反人の言えることか、
となりますが、それがどうも一定の説得力を持っていた
うで、それがわかるのが、後の方の文なわけです。

すなわち、672年の壬申の乱ーすなわち、大化の改新で知
られる天智天皇の死後、その子である大友皇子(弘文天皇)
と、その叔父である大海人皇子(天武天皇)との間で戦われ
た皇位継承をめぐる内乱でーこのとき近江側(大友皇子)か
ら軍を送るように言われた、筑紫大宰(つくしのたいさ
い/おおみこともち)という官職にあった栗隈(くるくま)王
が、その命令を拒否するのに挙げた理由がそれだったとい
うわけです。

当時、天智天皇の死にともない、子である大友皇子(弘文
天皇
)が、一応、即位していたのであれば、それは勅命
ということになるわけで、しかし、それにさえも従わな
かったということす。

ただ、それを正当化できる理由が、そこにはあったと。

そして、ここから、当時の朝鮮半島をめぐる国際情勢が、
いかに緊迫していたか、また日本が、それに無関心ではい
られない状況に置かれていたかが、うかがえます。

何しろ両方とも、内乱等による天皇の身の危険がかかわっ
ていた
にもかかわらず、その国内問題の解決のためだけに
は軍は動かせない、というのですから。

それから、もう一カ所だけ引用しておきたいのは、今度は
国際情勢ではありませんが、古代において天皇が一体、ど
ういう位置づけにあったのか、要はどの程度の権力・権威
をもっていたのか、ということに関するものですが、

これも先の大戦の責任論をめぐって、「天皇は権威はあっ
ても、権力はなかった」式の議論がよくなされています。

では、歴史家の意見はどうなのでしょうか。それについ
て、著者の石母田氏は、このように書いています。
  『しかし天皇固有の、したがって太政官の権限を越え
 るところの官制大権が重要な意義をもつのは、それが
 政官の内部構成を変更し得る
ばかりでなく、太政官の外
 部に、
しかも太政官の「大政統理」の権限自体を制約
 し、
あるいはそれに抵触さえするところの新しい官職
 を、太政官の審議を経ることなく、設け得る
というとこ
 ろにあった。いわゆる「令外ノ官」の設置がそれであ
 る。』
 (本書P290、ただし太字化はブログ作者、本書にはあり
 ません)
と述べています。

これはあまりにも重要な指摘ではないでしょうか。もしこ
れが本当だ
とすれば、この天皇の官制大権、つまり、簡単
に言って
しまえば、行政組織や官職を作る権限ですが、

現代においては、すなわち日本国憲法下では、それはたと
ば、国家行政組織法第三条によれば、「①国の行政機関
の組織は、この法律でこれを定める。」とあるの
で、当然
のことながら、内閣府以外の行政機関は、国会で通ったこ
の法律に基づいて
しか作れませんし、既存の組織を廃止す
るような場合も、やはり別の法律
の改正によるという形式
をとらなければできません。


いきなり、誰かが個人の思い付きで、たとえ、それがどれ
ほどの
恵者であったとしても、まあ、役所を作るなんて
ことは勝手にはで
きないし、第一考えもしません。

ところが、古代においては、上記のように、天皇にはまさ
にそれが可能だったし、権限もあったということのような
ので
す。

あくまでたとえですが、今日の状況下で譬えてみれ
ば、今
のシステムでは政治を変えようと思えば、選挙を通
じ、国
会を変え、それによって総理大臣を変える
しか方法はない
わけですが、もし官制大権があれば、ある日急に天皇の
臣(
今風にいうと何でしょう、"お気に入り"でしょうか?)
が、総理官邸に訪ねてきて、いきなり「今日、陛下の官制
大権が
発動されて、新官職、太政大臣に任命されました。
権限はあなた(
内閣総理大臣)と同じです」などという事態
も起こりかねないわ
けです。

そうなると、総理大臣の権限に抵触する、ここでは仮に太
政大臣という実在したポスト名を拝借してみましたが、そ
うした重要なポストをいきなり作ってしまえる。

すると、この内閣総理大臣と、このたとえの上での太政大
臣のどちらが実際の政治を仕切るのかという問題にもなっ
てきますし、国政に非常な混乱を招きますが、
そのように
して、比較的短期間に、官僚の通常の出世コース
を経ず
に、同等以上の重要なポストに出世することも可能なわけ
です。あくまで天皇に信頼されていれば、の話ですが。


その具体的例として、本書で触れられている史実が、時
代はさらに下りますが、

 『光明立后後、(中略)七四九(天平勝宝元)年、(中略)設
 置された紫微中台が、八省の上に立ち、太政官に次ぐ
 地位にあり、(中略)太政官―中務省という令本来の官
 職体系に抵触するものであることはあきらかであろ
 う。これらの「令外ノ官」の設置は、(中略)紫微中台
 と光明皇太后および藤原仲麻呂との関係を考えれば、
 藤原氏の策謀によることは明瞭であるが、しかし問題
 はかかる「策謀」を可能にせしめる国政上の根拠にあ
 るのであって、それは太政官の権限を越えた天皇固有
 の官制大権以外のところにもとめることはできな
 い。』
 (本書P290~291、ただし太字化はブログ作者、本書に
 はありません)
と述べられており、

さらに、
 『(前略)藤原氏が一貫して令外官を太政官・八省の体
   系の外部に設置するという手段を駆使することによっ
   て、その地歩を固めたこと、この手段が、天皇の保有
   する独自の官制大権に依存することによってはじめて
   可能になった(中略)藤原氏または天皇は、律令制の基
   本原理に
違反して、令外官を設置したのではなく、天
   皇大権の当然の行使としてそ
れを合法的におこなった
   だけである。』
 (本書P291~292、ただし太字化はブログ作者、本書
 にはありません)
と述べています。

ここで重要なことは、石母田氏が言うように、その官職
なり役所の設置が、律令制の基本原理に反し、天皇の恣
意的な、勝手な振る舞いなのではなく、もとから天皇に
備わっている大権にもとづく、合法的な"権利行使"にす
ぎない
ということです。

当時は国政の最高機関として太政官があったわけですが、
自分たちの組織の改編にあたることでさえー天皇の官制
大権は太政官の管轄外なのでー自分たちと権限のぶつか
る新組織・官職を天皇に作られても、それ自体を否定す
ることはできなかったわけです。

この、取りあえず存在している正当な国政機関の外部に、
新たに同等もしくはそれ以上の権限をもつ機関を作って
しまえる権限とは何でしょうか。

さて、この紫微中台という官職、事典によれば、
 『奈良時代の令外官。749年(中略)孝謙天皇が即位
 し、生母である光明皇后が皇太后となったのに伴い、
 皇后宮職(こうごうぐうしき)を改組したもの。紫微令
 には光明皇太后の甥の藤原仲麻呂が任用された。仲
 麻呂は紫微中台を利用して権力を蓄え、757年(中
 略)
紫微令を改めた紫微内相(ないしょう)となるが、こ
 れは、天皇の勅を奉じて諸司にわかち、かつ内外諸兵
 事を統轄する職掌をもつものであった(後略)

 (『電子辞書版 日本大百科全書(ニッポニカ)

   学館 紫微中台の項より、ただし、太字化はブログ作
   者、本事典にはありません)
   

とありますから、

その組織の長官(令)になり、いつの間にか軍隊まで動か
せるまでになっています。

もちろん天皇の命令(勅)を聞いて、その範囲内で行動す
わけですが、そこは寵臣、すなわち天皇お気に入り
の臣下なのだから、自分の欲する命令を出してもらえる
可能性も高いわけで、それが権力闘争に利用されます。
藤原氏はそれを巧みに利用したということでしょう。

この場合は天皇のではなく、光明皇太后の権力が後ろ盾
ということにはなるのでしょうが、何しろ皇太后です
し、天皇の生母でもあるわけで、この制度では、天皇な
り皇后なりの寵臣になれば、こういう令外官(りょうげ
のかん)
という制度を利用して、権力の中枢に、官僚の通
常の出世コースでは考えられないくらい早く登ることも
可能になるなわけです。

もっとも、あくまで後ろ盾あっての権力なので、自分を
信任する天皇なり皇后が亡くなったり、あるいはその
寵愛を失ったりすれば、その権力も急速に根拠を失うこ
とにはなりますが---。

そうすると、これらの話を聞いて、何か思いつくことは
ないかと問われれば、こんな大権が古代の天皇にあった
から
こそ、幕末に、江戸幕府が天皇に大政奉還したと
き―将軍というものは、天皇から征夷大将軍に任命され
ることで、いわば委任されて、天皇の代わりに日本を統
治したとされているのでーそれを返すということは、実
はここで述べた天皇大権が発動可能になる様態をつくり
出すということを意味したのであり、また、これほどの
権限が正当なものとしてあったからこそ、明治維新にお
いて、あれだけ短期間に、廃藩置県や欽定憲法の制定・
発布という大事業が可能だったということにはならない
でしょうか。

そうでなければ、「殿様、今日から、ここの藩も、殿様
の地位もなくなりますよ」と自分の家臣に言われて、殿
様が「ああ、そうですか。分かりました」とは普通は簡
単にはいかないでしょう。

でも、それが「あなた(殿様)、将軍の大政奉還認めまし
たよね、そうすると天皇大権が復活しますよね。その
権に基づいて、正当な仕方
で、こう決まったんですよ
ね。」と言われれば、殿様でも反論はしづらいでしょう。

だから、大政奉還の後、王政復古の大号令が発せられ、
現実にも太政官制が敷かれることになりますが、これは
何も形式的だったり、ノスタルジックに過去を懐かしむ
ためではなく、まさに文字通り、天皇大権の復活だっ
た、あるいはそれへの意思表示だったとさえ言えるので
はないでしょうか。

つまり、復古というのは、どこまで戻るか、戻すのかと
いう話ですから、少なくとも律令制時代以前には復古し
た、ということになるでのしょうし、それ以前の時代な
ら、天皇大権も復活すると。

明治維新関係で事典を見てみても、やはり、
 『(前略)1869年(明治2)年7月8日、官制改革により民部
 以下の六省を管轄する官庁として太政官が置かれ、こ
 こに機構上、太政官制が成立する。しかし、この改革
 は律令(りつりょう)的太政官制にもとづく復古的なも
 の
で(後略)』
 (『電子辞書版日本大百科全書(ニッポニカ)』太政官制
 の項より 小学館 ただし太字化はブログ作者、本事
 典にはありません)
とありますし、

また、王政復古につき、
 『(前略)1867年12月9日に(中略)(3)諸事神武創業のはじ
 めにもとづき
、至当の公議をつくすこと(後略)』
 (『電子辞書版百科事典マイペディア』王政復古(日本)
 の項より 日立ソリューソンズ・クリエイト、ただし、
 太字化はブログ作者、本事典にはありません)
と記されており、

少なくとも、当時の権力者の意識としても、その時代へ
の復古という意識が見てとれるように思います。また、
ここに「公議をつくすこと」とありますが、だからと
いって、そのことと、天皇にこの大権があるかないかは、
まったく別の話
です。

文字通り、少なくとも、江戸時代から古代、律令制以前
への復古を意味したことは明らかではないでしょうか。

ちなみに、この征夷大将軍も令外官です。

よく考えてみれば、本来はエゾ征伐の司令官、軍人にす
ぎない征夷大将軍が、幕府を開いて、いつの間にか日本
国の政治全般を取り仕切る権限をもっていること自体
が、素人的に考えれば不思議なわけですが、先ほどから
の天皇大権の話を意識してみれば理解可能になります。

出発点は軍人でも、そこに大権によって、いくらでも
内容(権限)を盛り込めるわけですから。

摂政や関白はもちろんのこと、征夷大将軍でも先ほどの
紫微中台でも、天皇の信任さえあれば、無制限の権力が
ふるえる可能性があるわけです。

冒頭最後に令外官を調べておくと、
 『律令制において、令に規定されていない官をいう。
 これは令制以前に存在しながら、令に規定されなかっ
 た官と、令施行以後新設された官とがある。(後略) 』
     (『電子辞書版 ブリタニカ国際大百科事典 令外官
 の項より ブリタニカ・ジャパン)
とあり、

ちなみにとは、唐の法典を母法として作られた、す
なわち刑法以外の、法典のことで、先ほど触れた今日で
いう行政組織法なども、ここに含まれます。

ということは、もし日本国憲法に「主権の存する国民
の一言がなければ、天皇は今日でも、その大権によっ
て、法律に
書かれていない令外官を任命することがで
きることになってしまい、いくら憲法や法律体系を整備
しても、状況によっては"砂の器"になってしまいます。

そこまでの権限を視野に入れながら、石母田氏は、本書
を通して、古代の体制の実態を、総合的に考察しよう
というわけですから、そんな歴史書が面白くないわけは
ないでしょう。

やむをえずたまに出てくる、文献上、漢文調の文章を、
少しだけ辛抱すれば、の話ですが---。


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