2018年10月03日

こんにちは、よろず 齧るです。

今回齧ったのは、


国家の神話 (講談社学術文庫)
エルンスト・カッシーラー
講談社
2018-02-11



です。

さて、綺羅星のごとく、西洋の思想家の名前が並ぶ、
『(前略)比類なき碩学エルンスト・カッシーラー(後
略)』の手になる本書を、自分なりに読んでみて、
今、
何を一番感じているかというと、

どんな理論・思想を見ても、簡単に全肯定したり、
まして全否定したりすることはできないな、という
ことです。

しかし、こういう書き方、直接的表現をすると、読
者には非常な不安感を与える、あるいは誤解を招く
可能性があります。

何しろ、「どんな思想でも全否定できない」という
のですから、「ひょっとして、こいつ、あの思想
含めているのか」、ということになるでしょうし。

一般論としてなら、誰しも他人事に関してなら、
の日本でも、それに賛成してくれる人も一定数いる
かもしれませんが、いざ自分がその中のどれかの立
場に、行きがかり上巻き込まれている
場合に、自分
反対する思想にたいしても全否定できない、など
ということが言えるかと。

それだけに重要なのは、カッシーラーが、それを、
例えば世界史のどの局面で、そういうことが重要に
なるのかを、いかに具体的に示せているかというこ
とにかかってくるわけです。、

それに加えて、もう一つ、素人考えで言わせてもら
えば、

カッシーラーが本書で扱っているのは、主題的には
ヨーロッパの思想史なのですが、読み進めてみると
不思議なことは、一見それとは無縁に思える現在の
日本の状況を理解するうえで、どうもそれが鍵に
なってくるようにさえ思えることです。

どういうところがそうなのかというと、日本に
然、
戦後できた現行の日本国憲法があるわけで、そ
れが現実に支配力をもっているところ、

その日本国憲法は、学説のなかには、例えば主権の
捉え方、すなわち国民主権について、フランス革命
にまつわる思想の影響を受けていると解する考え方
もあり、

もしそうであるなら、極端に言えば、21世紀の現代
における日本にあっても、思想的にはいわばフラン
ス革命後の状況に似た側面
を持っていることも、一
概に否定することが難しいのではないかと思われま
す。

だとすると、フランス革命から、すでに2世紀以上
を経て、しかも全く異郷の地であるにもかかわら
ず、そのフランス思想の理想主義・原理主義がはら
んだのと類似の問題が日本でも浮上してくる可能性
も、また否定できないでしょう。

そういう視点で、本書とのかかわりで、現在の日本
を眺めてみた時、気になる動きが三つばかりありま
す。それはもちろん世界的な風潮としてあるのかも
しれませんが、今、取りあえず私の目につくのは、

一つは、一切の暴力否定、日常から一切の暴力的な
ものを追放しようとする流れ。

これはすでにスティーブン・ピンカーがその著書
『暴力の人類史(上)(下)』(幾島幸子・塩原通緒訳 
青土社出版)で世界的な流れ(少なくとも欧米にお
いては)として言及していました。この案内ブロ
グでも、ずっと以前にご紹介しました。それによ
ると、その暴力否定の中には、例えばアメリカで
は、初等・中等教育における体育の授業でのドッ
ジボールの禁止
のようなものまでが含まれている
ということでした。

次に平等主義。これは最近なら、身分差別という
より、男女間の性差別、をめぐって議論が白熱化
する傾向にあるように思われます。

そして、もう一つが伝統主義の見直し、であると。

この平等主義と伝統主義の見直し、これらはまさに
フランス革命時の思想、すなわち啓蒙思想から来て
いるものです。

そして、この啓蒙思想の理想の実現に向けて、論理
的連関はともかくとして、現代に至ったからには
たしかにそこに暴力の否定というような項目でもな
ければ、フランス革命における自由・平等主義の行
き過ぎ、および伝統主義の破壊(見直しの行き過ぎ)、
つまり、恐怖政治、テロルの二の舞になるとの懸念
も生じてきます。

だからといって、この暴力否定という項目が入って
いるからといって、それで平等主義と伝統主義の見
直しがかつてのような危険もなく、この項目の存在
によって、それが抑制され軟着陸できるのかも、定
かではありません。

いずれにせよ、特に暴力否定と平等主義は、非の打
ちどころのない、無敵の理想・思想
だけに、誰もこ
れに対し、公の場で異論を差し挟むこと自体、難し
いでしょう。

暴力については、今は、連日マスコミでも取り上げ
られていますが、体罰、あるいはパワハラ問題とい
うことで、どこからが暴力になるのかの認定の問題
が盛んに議論されているようです。

また伝統主義の見直しの問題というのも、なにも小
難しい話ではなく、どの分野でも、たとえば、ネッ
トで最近調べ始めてみると、野球一つとってみて
も、長距離をやたらと走らせるトレーニングはすで
に時代遅れとする、新しいトレーニング理論などの
台頭により、伝統的トレーニング方法自体に否定的
である向きもあるというところから、その動きを感
じ取ることができるでしょう。

また高校野球をめぐっても、炎天下での過酷な練習
の是非が問われたりもしています。

そしてこれらのことは連動しているように思われま
す。たとえば、体罰は今日ではもはや暴力否定の立
場から許されるものではないというところから始め
て、ついでに、体罰を認めているのは伝統主義だか
ら、この際そういう
伝統主義自体も、ある程度排除
してしまおうというニュアンスがそこには窺えなく
もない。

つまり、極端に図式化すれば、
伝統主義、暴力、非平等主義vs理性主義、非暴力、
平等主義、

のような構図さえ浮かんできます。

そして、暴力の否定も平等主義も先ほど述べたよ
うに、非の打ちどころのない無敵の理想・思想だけ
に、正しいだけに、"調子"に乗ってしまうと、どん
な些細なことでも、それで裁けてしまうという面が
出てきます。

分かりやすくするため極端な例を出せば、たとえ
ば、日常のもめごとの中で、「相手を落ち着かせ
ようと、手で肩を抑えることはままあるでしょ
う」という発言が、「じゃあ、お前は暴力主義者
なんだな」というレッテルを貼られることにもな
りかねず、

同一時間の労働で時給が1円違っていても、「ま
あ、その程度の違いはあるよね」という発言も、
「じゃあ、お前は反平等主義者なんだな」と徹底
的に
批判されるきっかけになるかもしれません。

と、こういったからといって、やはり、「お前は
暴力肯定で反平等主義か」と問われたら、それは
もちろん違うわけ、つもりですが、結局このテー
マでそこら辺のことを直接論じるのは、余程自分
の言いたいことを上手く表現できなければ、非常
な誤解も招きやすいし、危険なことで、しかも私
自身がそれをうまく表現できる自信もないわけで
す。

そこで、いつものことながら、時事的なことか
は少し距離を置いて、本書における、
"碩学"カッ
シーラーの議論、特にフランス革命から20世紀の
全体主義の出現に至るまでを辿りながら、そうし
たことを冷静に考えてみたいと思っています。




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