88.趣味のこと~78歌の上手・下手という評価のことなど~90.趣味のこと~80本質的という概念の危うさについて~

2019年04月27日

89.趣味のこと ~79低音練習の重要性、別角度から~

さて、重要なことがぐらつくようでは困る
ので、結局は同じようなことを書くことに
はなるのですが、今日は低音練習の重要性
について(歌が上達するための)、別角度か
ら書いてみます。

まず、楽器の話から書くと、楽器も種類に
よっては吹く楽器など、最初まったく音が
出ない
ものもあるそうです。

そう聞くとなんだか音楽を始めるのに"不利"
という印象を持ちかねませんが、私はむし
ろ、それだから楽器の人は熱心に練習する
し、レベルの高くなる人も出てくるんだな
と思っています。

というのも、想像してみるだけでわかるわけ
ですが、もし自分がその楽器を始めて、まあ
わかりませんけど、1年練習して初めて音が
出た、そんな場面を想像してみましょう。

すると、こういう厳しさがこの楽器の人には
初心の段階から付きまとっていることが分か
ります。

つまり、昨日まで一年間やっても全くでな
かった音が今日初めて出たからと言って、
それがいい音である保証はどこにもないな
と。

むしろ大していい音ではないだろうと本人も
素直に思えているから、その後音を磨くつも
りで素直に練習ができます。そこに意識的に
なっているからこそ、上達もするというわけ
です。

次にピアノについて考えてみると、今度はこ
ういう人がいます。

「ピアノはたたきさえすれば音が出るからい
いわね」と。

これは私は間違いなく、歌をやっているある
種の人間が、ピアノに対してゆがんだ優越感
に浸りたいために言い出したのではないかと
勘繰ります。

というのもそのあとこう続きそうだからです。
「それに比べて、歌は体が楽器だから音作り
からしなければいけない(難しい)」と。

まあ、この話を今は置いておいて、-これは
私は音が出せないことへの巧妙極まりない言
い訳だろうと思っていますがーそれはおいて
おいて、ピアノの場合は、視覚に頼れる部分
がある、それは、少なくとも指使いについて
は、画像で見れば、一流演奏者の指使いとの
違いが一目瞭然で、自分ではまだまだだなと
絶えず思えるので、猛練習するし、やはり上
達するわけです。

ところが翻って、歌を考えたとき、そこに上
達する要素があるでしょうかという話です。

つまり歌はダブル・スタンダードになりやす
い、

ピアノの人に対しては、音(声)がちゃんと出
ないことを、歌は「体が楽器だから、そう簡
単ではないの」と、言い訳をし、

先ほどの吹く楽器に対しては、歌は「最初か
ら声が出て
(ある程度歌える)から有利」と
優越感に浸る、無意識に忍び込んでくる考え
方です。

こういう考え方は、さきほどの吹く楽器とも
ピアノとも違って、自己反省の要素がありま
せん。というよりも、この考え方自体がそれ
を妨げているといった方がいいでしょう。

歌で謙遜する必要はかけらもないし、謙遜し
たところで上達は絶対にしません。

そんなことより、最初から自分の出している
声が絶望的だと心底から思えれば、むしろ上
達は早くなります。

ところが歌の場合はまさにその心持になるの
が難しいわけです。謙遜する人はいるけど、
謙遜したところで出ないものは出ないだけの
話で、発声に何の効果もありません。

当然息を使っているので、先ほどの吹く楽器
と同じ心持で練習できれば、上達もするので
すが、それができないわけです。なまじ最初
から音(声)が出てしまうもんだから---。

そこで、音を下げていって、低音領域で自分
でさえ音が全く出ていないと思える音まで
下がって,つまり限界音までさがって初めて、
たとえばG2がそれだとして、そこで初めて、
「それじゃあ、A2は出てるはずだけど、限界
音G2のすぐ隣の音そんなにいい音で出る
ものだろうか
」と、先ほどの楽器の人と似た
境地に、謙遜ではなくたどり着けるわけです。

以下同様にA2が怪しいのなら、B2も怪しい
C3も---と推論を重ね、結局自分の軽く出せて
いる体感
の中音域の音も、全部怪しいと判断
できるようになって、そこで初めて上達の目
が出てきます。

だからそうでないレベルの人は、必ずこうい
うでしょう。

「もう、中音域はいいから、高音を出したい
と」あるいは「中音域はもうできてるから、
あとは高音だけだと」と。

私に言わせれば、「中(低)音域が充実してき
たから、当然高音は近いうちに出るようにな
るだろう」という認識が正しいように思われ
ます。

つまり先ほどの楽器の人に比べると、歌はそ
れより低いレベルでしか練習していない可能
性があるわけです。自分の出している音(声)
に対する厳しさに欠けるという。

その結果どうなるかというと、例えば本番で
歌はピアノの人に伴奏を頼んだりするわけで
すが、ピアノの人は力量があっても、あくま
で伴奏なので、例えば歌の人がフォルテが出
せていないのに、ピアノだけ"弾けば出るか
ら”(冗談ですが)ということでフォルテを出す
というわけにはいかないわけです。

つまり優れたパソコンを持っていても使いこ
なせないのと同じで、そもそもピアノの人が
力量を発揮できるように歌の人が努力をしな
いといけないわけです。

ピアノの人はきちんと音自体で判断している
ので、およそその時点でできそうもない要求
をしてくることはありません。たとえば、今
すぐこの高音を出せ(笑い)とかみたいな、で
すね---。だから言われてやってみると大概そ
の場でできることが多いです。

あ、ここでいうできるは、完成したという意
味ではもちろんなく、「そういう感じ、そう
いう方向性で練習して」という、方向性につ
いては間違っていないと
いう意味にすぎませ
んけどね---。

つまり、楽器の場合は、まったく音の出ない
初日が練習開始日だと言えますが、歌の場合
は、初日=練習開始日ではなく、低音を齧っ
て、自分の中音域が心底だめだと思えた日
が、練習開始日で、それまでは見かけ上いく
ら歌唱練習をしても、何年練習しても初日と
声が本質的に変わることはないので、練習開
始日ではないわけです。

だから、先ほど来の楽器とは違って、歌は
発点に立つこと自体
が難しいわけです。

ピアノの人も楽器の人も、初日から演奏練習
(歌でいう歌唱練習)はしないし、できないわ
けです。

その意識の違いがレベルの違いを招いてしま
うと思っています。










q397gc19xkd57opaz287 at 08:36│Comments(0) 

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