2018年03月

2018年03月07日

22.将来の社会について 今思うこと ②社会の役に立つ人間、あるいは社会から期待される人間 

今日は、社会の役に立つ人間、あるいは社会から
期待される人間というものについて考えてみま
しょう。

つまり、これからこの社会に役立つ、あるいは期
待される人間という概念はどうなって、あるいは
どう変わっていくのだろうか、ということです。

その前にまず、社会の役に立つ、期待されると
言っても、それがどんな社会であるのかによって、
期待される人間像も当然違ってくるということが
あります。

たとえば古代ギリシアのスパルタを取り上げると、
その教育制度について、プルタルコス英雄伝によ
れば、その立法者リュクルゴスの章で、
  『父親には生まれた子供を育てる完全な権限
 はなく、(中略)また息子を自分が欲するように
 育てたり教育したりすることは誰にも許されず、
 すべて息子たち七歳になるとすぐにリュクルゴ
 ス自身が受け取って少年隊に配分し、互いに生
 活と養育を共同にして、一緒に遊戯をしたり学
 習をしたりすることに慣れさせた。(中略)少年
 たち自身、少年隊ごとにいわゆるエイレンのう
 ちで最も思慮深く戦闘的な者を常に指導者に選
 んだ。(中略)少年の年齢級[13歳~18歳とする
 説あり]の次の年にすでになった者がエイレン
 [したがって、19歳から始まり、二年またはそ
 れ以上の幅をもつ一つの年齢級であった]と呼ば
 れ、(中略)エイレンで二十歳になった者は、戦
 闘においては部下を指揮し、また家では食事の
 際に彼らを召使として用いる。』
 (『プルタルコス英雄伝上』プルタルコス著、
 村川堅太郎編 p76~79 ちくま学芸文庫
 2013年2月10日第10刷発行、ただし、[ ]内は
 本書註より抜粋するなどして、ブログ作者が挿入)
とあり、

ここまで読んだだけなら、「ふ~ん、スパルタの教
育制度って、家庭から子供を引き離して教育したん
だな。」程度で、素通りしそうですが、その直後の、
エイレンが、子どもたち召使に命ずる行動を読むと、
本当に驚かされます。

それは、
  『(前略)小さい方の者たちには野菜を持ってく
 るように命じる。彼らのある者たちは菜園へでか
 け、またある者たちは大人の共同会食場へ忍び込
 んで、まことに狡猾にかつ用心深く盗んで持って
 くる。もし捕まると、不注意、不手際に盗もうと
 思っているというので、彼は鞭でたくさん打たれ
 る。彼らは食物ならば何でも盗めるものを盗み、
 眠っている者や見張りをいい加減にしている者を
 上手に攻撃することを学ぶ。捕まった者への罰は
 打擲と空腹である。』(同上 p79)
とあります。

つまり制度的に、盗むこと、それも上手に盗むこと
が、公教育の中に、それもこう読むかぎり必修科目
として入れられていた、というわけです。

それは現代人のわれわれから見ると、その罰則も含
め、全く馬鹿げた教育方法と映りますが、当時、周
囲の諸都市国家と戦いを繰り返してきたスパルタに
とっては、勝利し続けるには、当然優れた戦士の育
こそが最重要事項で、

そうであれば、この「人に気づかれずに近づき、物
を盗むことができる能力は、即、相手の命を奪える
能力
」にも繋がるためでしょう、評価されたとい
うことです。しかも、そこには当然、財産の守り手
がいるため、厳しい実戦的訓練となり得たとも言え
るのでしょう。

だから、時代と国が、そして、その国が目指す方向
性の違いによっては、われわれには想像もできない
こと
が、役に立つこと、あるいは期待されることに
なり得るわけです。

もう一つ挙げますと、ご紹介済みの、『国家はなぜ
衰退するのか(上)』(ダロン・アセモグル&ジェイ
ムズ・Å・ロビンソン著、鬼澤忍訳)に出てきます。

それは二つあって、一つは古代ローマの、もう一つ
は近世イギリスの例ですが、

前者は、ローマ皇帝ティベリウス(在位14-37年)の
時代の話として、
  『(前略)ある男が割れないガラスを発明し、多
 額の報酬を期待して皇帝のもとを訪れた。男が自
 分の発明について説明すると、ティベリウスはそ
 れを他人に話したかとたずねた。男がいいえと答
 えると、ティベリウスは男を拉致し、殺した。
 「金(きん)の価値がなくなってはいけない」から
 だ。この物語には興味深い点が二つある。第一
 に、男は(中略)自分で事業を興し、ガラスを売っ
 て利益を手にしようとはしなかったのである。こ
 こからわかるのは、ローマ政府がテクノロジーを
 支配する役割を果たしていたことだ。第二に、
 ティベリウスが喜々としてイノヴェーションを破
 壊したのは、それが経済に及ぼしたはずの不都合
 な影響のためだった。』
 (『国家はなぜ衰退するのか(上)』ダロン・アセモ
 グル&ジェイムズ・Å・ロビンソン著 鬼澤忍訳
 p282  ハヤカワノンフィクション文庫2016年
 5月25日発行 )
と。

それから、後者は、イギリスのエリザベス一世(在
位1558-1603)の治世の話で、
  『(前略)ウィリアム・リーは(中略)一五八九年、
 ついに彼の「靴下編み機」は完成する。リーは意
 気揚々とロンドンへ赴き、この機械がどれほど便
 利かを示し、(中略)特許を申請するため、エリザ
 ベス一世への謁見を求めた。(中略)エリザベス女
 王はリーの機械を見に来たが、反応はけんもほろ
 ろだった。リーに特許を与えるどころか、こうの
 たまったのだ。「リー師よ、志は高く持たねばな
 らぬ。この発明が哀れなわが民にいかなるものを
 もたらすか、考えてもみよ。必ずや職を奪って破
 滅させ、物乞いに身を落とさせるであろう」。』
 (『同上p301~302 )
と。

つまり、今のわれわれの、いわば(実権のある)君主
のいない資本主義の社会
だからこそ、発明をすれ
ば、そして、それがビジネスにつながりそうなら、
手放しでほめてももらえるわけですが、上記時代に
あっては、いずれの場合でも、

君主は、皇帝であろうが、王であろうが、まず第一
に考えることは、その発明でいくら儲かるではな
く、自分の治世、すなわち君主制を維持するのに
それが役に立つかどうか
ということであったと。

今なら、その発明、たとえば「靴下編み機」の効率
の良さで、労働者の仕事が奪われるとしても、それ
でこの発明を禁止するというわけにはいきません
が(つまり、技術革新による失業者の増加は、いわば
最初から経済に織り込まれている)、モンテスキュー
の考察によっても分るように、君主制にあっては、
もともと立場的に、君主は貴族階級を抑え込もうと
するために、平民、ないしは大衆の人気は掴んでお
こうとするもので、

それが、この発明で多くが職を失う等のことが明らか
に思える場合、あるいは前者の例のように、その時代
には通常考えられない、飛び抜けた価値のもの(割れ
ないガラス)が突如出現して、金の価値が下がるなど、
現体制に重大な影響を与えかねないと思われる場合に
も、その発明を活かそうなどと考えることはまず有り
得なかったと。

いずれの場合も、その社会で、役に立つ人間と評価さ
れるには生まれてきた時代が早すぎた、とでも言うべ
きでしょう。

それでは今はどういう人間が社会の役に立つ、あるい
は期待される時代かというと、少し前までなら、
『宗教と資本主義の興隆(上)(下)』
 (R・ヘンリー・トーニー著、出口勇蔵、越智武臣
 訳、岩波文庫)
および、
『資本主義・社会主義・民主主義ⅠⅡ』
   (ヨーゼフ・シュンペーター著 大野一訳 
 日経BPクラシックス)
によれば、こう説明できたのではないかと思われま
す。

まず、資本主義、およびその加速装置ともいえる
教主義
(ピューリタニズム)、がかなり入り込んだ状況
が現代日本の現状だと捉えるなら、

もともと清教主義は、トーニーの分析によれば、創始
者にとっては、
「この世を修行の場、あるいは戦場と見立てて(経済
的戦場ともいえる)、そこで神の栄光を讃えるため、
一生を労働にささげて、それぞれの仕事に最大限の努
力をして生きる」生き方であり、

その仕事に最大限努力することが、神への当然の奉仕
と考えられていたのが、時代が下るうちに、重点がそ
こからずれて、ただ努力しても、やはり結果を出さな
いとだめだろうということになってきて、今日のよう
に、仕事において、最大の成果、すなわち、最大の富
を生み出すこと
、こそが神の栄光を讃えることになっ
てきたと。

砕いて言えば、それぞれの職場で、一番売り上げた
者、儲けた者が偉い、というお馴染みのシステムで
す。

その意味は、したがって、テレビ業界で、たとえば
「凄くいい作品が放映できた」と言っても、「で、視
聴率は?」と問われたときに、他の同種の番組と比較し
て低ければ、その「凄くいい」という評価を維持し難
いし、

また、野球で、年俸100億円でも契約できる選手が、
どこかに何かの理由で気に入った球団があるからとい
うことで、例えば年棒1億円で契約した場合、

私などは個人の生き方なので自由だなどとつい思って
しまいますが、清教主義的には、(それほど人に認めら
れる能力があり、神のために最大の富を生み出す機会
を目の前にしながら、それを逸するとは馬鹿げた行為
である)と見なされることだろうということです。

また、人間を取りあえず、生産者の立場と消費者の立
場を併せ持つ存在と見なせば、生産者としては今述べ
た、売れるということを前提に最大限の生産をなし、
売りつくすこと、結局は最大の富を得るということが
求められるでしょうが、ここに、シュンペーターの考
察を加えて、まとめてみれば、

資本主義が発展していくにつれて、起業家のような、
最初はその社会に必要不可欠だった存在、見方を変え
れば、気骨のある人間が減少してくると。

というのも、日々、次々と新しい商品が開発され続け
ている資本主義という環境では、それを全て売りさば
く事が理想で、その場合、その変化に抵抗するのでは
なく、それを進んで受け入れることが人間には要求さ
れており、

言い換えるとそれは、ドローンでもロボットでも新商
品が出てきたときに、「こんな変なもん、使えるか」
という、一昔前の、気骨のあるような人は、すでにそ
の考え方だけでも、このタイプの社会の邪魔であり、
そんな人よりも、「わあ、面白そう。欲しい、欲し
い。使ってみたい」と素直に言える人間が必要とされ
てくるという面が出てくるわけです。

その方が商品を売りさばくのには好都合でしょう。い
ちいち新商品にケチをつける人では、その資本主義の
社会にいわばふさわしくない存在、あるいは日常の物
言いからしてが、他人から、「あの人はなんか気難し
いね。」というような評価に、知らぬ間になってく
るわけです。

また当然この社会に適した教育ということを考えて
も、やはり新商品を素直に受け入れるような市民の育
成が、無意識に重要になってくるでしょう。

そんな社会では当然すなおに相手の商品を受け入れる
ため、批判的なことはできるだけ避ける、あるいは商
品が売れやすい状況ということを考えると、それは
平和とも繋がってくるので、スティーブン・ピンカー
が言うように、社会から極力暴力的と思われることを
排除していこうという流れにもなってくるでしょう。

もっとも物事にはかならず例外ということがあるもの
で、唯一武器という商品を売りさばくには、一定の暴
力がむしろ必要とされますし、ただし、それを一定の
限度に封じ込めておこうとするような流れも、別に社
会には存在しています。

ただ、全体としては、平和を保ち、社会内では暴力を
排除し、商品が流通しやすい環境を作るとともに、新
商品を受容する素直な人間の育成もなされていく、そ
れをシュンペーターは、「個性や強靭な意志の価値が
薄れて(消滅して)いく
」(前掲書Ⅰ p304)ことだと表
現しているように自分には思えます。

つまり、最初は資本主義には起業家、あるいは気難し
い人、もしくは他人とは違うことをやろうとする人、
がいなければ新商品が作れないから、始まらなかった
のに、その社会が発展していけばいくほど、新商品の
開発は次第に集団体制に、あるいは官僚制的になって
いき、また、新商品を売りさばくには、いわば素直
な、新商品を最初から肯定的に見る人の育成、あるい
は存在が不可欠となってくると。

ということは資本主義社会にとって役に立つ人間とは
言い直すと、「一方では、最大の富を生み出そうと努
力しながら、同時に、新商品を素直に受容しようとす
る人間
」であると取りあえず言えるのかも知れません。

ところで、さきほどちょっと前までは、と言ったの
は、もちろん今でも通用するはずですが、

今は、そこに急激に成長しつつある、人工知能・ロ
ボットの話が加わってきて、果たして、これ程のス
ピードで人工知能・ロボットが優秀になっていく
と、ではいったい人間には社会から期待される部分
として何が残る
のだろうかと、ふと不安になるわけ
です。

というのも、人間ができることなら、早晩すべてに
おいて人工知能が上回る、人の職はどんどん奪われ
ていくと言ったことが、もうすでにあちこちで言わ
れ始めているようですが、将棋の名人が人工知能に
負けたり、熟練職人のスキルまで、学習・取り込ん
でいけるとなってきた場合、たとえば、将来的には
「これこれの商品を作って、社会に貢献したい」と
人間が言ってみても、

そのときには「ああ、それなら、このロボットと、
あちらのあれが、人間よりきちんとやってくれます
から、結構です」となるのではないかという心配で
すね。

ちょっと前までならと言ったのは、つまり、大げさに
言えば、われわれはいま初めて、社会から何も期待さ
れずに、それでもなお、生きていく時代に直面する可
能性が出てきているのではないかということです。

戦士の社会であれば、人を殺す能力、それはわれわれ
の社会では肯定しかねるけれども、その時代にあって
は、まさにその社会から人間が期待されている能力で
あり、社会の成員の側でも、その期待されているとい
うことは当てにできて、だから迷いなく鍛錬・訓練も
命がけでできたと。

また資本主義の社会なら、商品を作って売ると同時に、
すなおに商品を購入する能力が、人間には期待されえ
たので。だから同じように当てにもできたのですが、
それらはどうなるのでしょうか。

より極端な例で言えば、たとえば、戦争においても、
無人兵器というようなことが出てきています。

これも現時点では、味方の兵士の生命を守る、すなわ
ち言葉は悪いですが、自分の社会の重要な商品の価値
を守る、ということで肯定的に捉えられ、研究はさし
たる批判もなく進んでいくのかもしれませんが、

鋼でできた(かどうかは知りませんが)、武術の達人の
動きも学習したような、圧倒的に強い人型(でなくても
もちろん構いませんが)ロボットが出てきた場合、いっ
たい人間の兵士はどういう意味で、おのれを鍛える、
戦闘訓練をするのか、ということでしょう。

いくら鍛錬しても、鋼の戦士には勝てませんし、それ
では社会に貢献する、役立つともいえないでしょう。

もちろんこれまでにも、車が商品化されたときにも、
自分の健康を考えて歩く習慣を捨てない、というよう
なことはあったわけですが、歩くこと自体が社会の役
に立つとか、期待されるとかいうこととは違うでしょ
うし。

その時代にはまだ、そのことは別にしても、これこれ
の仕事の面で、自分は社会の役に立っているとは思え
ていたでしょうから。

つまり、もう商品とはならないけれども、人間の範囲
内で最強を決めるとか、技術を磨くとか、そういうこ
とになっていくのでしょうか?
 
不思議に思われるのは、今は確かに人間の生命(だけで
はないかもしれないが、少なくとも生命)に最大の価値
をおき、尊重し
、したがって、暴力も、極力社会から
排除していこうとして、しまいには味方の人命を守る
ために無人兵器まで考えているわけですが、

その人間を大事に考えた結果、もっとも価値があるか
ら、尊重しているはずの生命のある人間が、じつは
会で何の役にも立たないもの化しつつある、
という矛
盾ではないでしょうか。

つまり、人間はもっとも大切だから(あるいは、少なく
とも大切なものの一つだから)、苦しいことやしんどい
ことは何もせずに済むようにしてあげようという善意
が、同時に人間が社会から期待されるという側面を奪っ
ていく事にもなるのだろうか、という疑問です。

というのも、(大切だから、人間は)何もしなくてもいい
という方向に向かっているようにも思えるからです。

つまり、何か一つの価値観に、至上の価値を認めて、一
方向に突き進んだ場合、実はそれ自体を内部から崩壊さ
せることにもなるのではないかという矛盾です。

そういえば、確かシュンペーターも、資本主義はその失
敗のゆえにではなく、まさに成功のゆえに、崩壊するよ
うなことを言っていたのではないかと思いますが---。






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