2019年04月

2019年04月30日

90.趣味のこと~80本質的という概念の危うさについて~

さて、再び妙なタイトルですが、内容的には
別に難しいことではありません。

歌で昔からよく言われていることに、「声は
おなかから出せ
」というのがあります。

あまりに当然のことのように語られている。
こういう物事の捉え方が、例えば腹筋を(そこ
横隔膜を入れてもいいわけですが)、いわば
発声にとって本質的なものとみる見方で、当
権威をもって語られてもいます。

で、もしそれが100%正しければそれでもいい
のですが、この本質的という言葉がすでにし
て、その他の要素非本質的として排除する
というニュアンスを無意識に帯びているため、
100%でなかった場合、後々面倒なことになり
ます。

なぜこんなことを言うかというと、自分の体
験・体感
に照らすと、前回書いたように、歌
はほんのちょっとの体の部位の使い方の違
い・変化
によって微調整されて、その結果得
られる声には劇的な変化をもたらします。

と、もしそこを認めてもらえるのであれば、
議論はこう展開するでしょう。

こんなちょっとの使い方の違いでこれほど声
が変わるのなら、すなわち微調整で結果が大
きく異なるのなら、非本質的として切り捨て
た部分に、もしそういう箇所が含まれていた
、いわばジグソーパズルで、あるピースを
(非本質的)として捨ててしまって、あとでい
くらやってもパズルが完成しないということ
が起こらないかという危惧です。

そしてそのことが現実化しつつある、という
のも、最近、件の専門家が体の後ろ側、特に
部位をうなじと特定して、パズルのピースを
見つけ出されたように私には思えるからです。

それが正しいとするなら、それなしで、前側
だけでいくら血の滲むような努力をしたとし
ても、もともとピースが欠けているのだか
ら、完成に向かいようがないということにも
なるわけで、どうも歌には絶えずそういった
視点が必要なようです。

そして一度でもいいからこの劇的変化を体験
すると、おのれの思考パターンも劇的に変化
することが体験できます。

つまりちょっとした使用部位の微調整で声が
劇的に変わるのなら、「いま一見して、声が
とてもよくなったように感じるし、周りもそ
ういってくれるけれども、ひょっとしたら、
もっと微細な何かを見落としていて、そこを
微調整できればさらに良くなるのではない
か」というふうに、心底思えるようになる、
つまり偽りの謙遜ではなく、体感・体験から
必然的にそのように思考パターンが変化しま
す。

そして思考パターンの変化に伴って、当然使
用する言語パターンも変化します。

それは、歌は「歌は結局、おなかだよ」とか、
「喉だよ」的な大雑把な言葉、すなわち本質
という言葉でなんとかなる代物ではないとい
うことが分かってくるからです。

というか、歌は伝統のある分野なので、本質
的なもの、というより部分的に正しい概念
もうすでに出尽くしている感があります。

腹筋、横隔膜、のどを下げる、etc.ただ、問
題はそのそれぞれをどこまで深められるか
かかっているわけで、おなかが分かって一定
程度使えれば
それで終わりとはなっていない
わけです。

そこで微調整という変化を一度でも体験・体
感できた人は、その言語表現からして変わっ
てくるので、本質的非本質的という表現に
代えて、たとえば、といったような表
現を使うようになります。

それはどちらも役割があって、要素として
て去ることができない
から、切り捨てられな
いからです。

逆に言うと、その使用している言語表現だけ
を聞いても、その人の歌を実際に聞かなくて
も、どんなレベルで歌唱しているか、ある程
度つかめてしまうわけです。

というのも結局のところ、その人の到達した
体感、体全体の使い方のレベル
に見合った言
語表現しか、人間は思いつかないからです。

簡単な話、何ほどか後ろも使っている人な
ら、腹筋、腹筋とばかり、あるいはおなか、
おなかというばかりでなく、必ずそこに後ろ
側という言葉がその言語表現に入ってきます。

使っていなければ、その発想そのものが浮か
んでこないのです、当然の話ですけど。

そして、先ほどの専門家がおっしゃるように、
前側で歌うのには大まかに二種類ある、その
どちらかだろうなというようなことが実際に
声を聞かなくてさえ推測できるようになって
くるわけです、前側だけで歌っている人の言
語表現を見ただけで。

この専門家の方は最近決定的とも思える動画
を配信されてますが、それによると、まずそ
れが可能になったのは本人の技量が上がって、
自分のベストの声で歌唱している最中にいき
なり、前側で歌う歌い方を挟み込んで、また
さっと自分の歌唱に戻る
ことが可能になった
からでしょう。

これの何がすごいかというと、前側、前側、
と否定的に言っていますが、当然プロの人も
それで歌っている人が多いわけで、素人が聞
く分には一見立派な声で歌っています。素人
が聞いてダメだったら、プロにはなれません
からね---。

だから、その声を単独で聞けば、その声だけ
を聴いている分には、「ああ、いいな」と思
えると思うのですが、密度の高い声直後
聴かされると、その薄さが際立ってしまう結
果になります。

つまり並べて聞かされると一目瞭然なわけで
す。

それに体を部分的にしか使っていなくて、未
使用の部分があると、歌唱した時にそれも母
国語、この場合日本語の歌を歌ったときに、
声が大きくて云々でも、その不自然さが際立
つことになってしまいます。

これもいろいろな段階があると思われますが、
例えば簡単な話として、喉だけ下げて歌えば、
自分では正しい発声だと思っていても、いわ
ゆる掘った声で、ネイティヴ、すなわち日本
人にはどんな素人にでもおかしく聞こえてし
まいます。まさに日本語ネイティブなので。

もちろん前側発声といってもいろいろ段階が
あって、プロもいるわけで、今は単に喉を下
げただけよりはいろいろ体の部位も使ってい
ますが、それでも例えば後ろを使っていなけ
れば、少なくとも発声のバランスが悪い、そ
の悪さが日本語の歌唱であれば隠し切れない
だけの話です。

あくまで発声がまだ中途の段階だということ
なのです。

ということは、その段階の発声ではオペラを
歌ったところで、言い換えるとイタリア人の
前でオペラを歌ったところで、やはり不自然
だと思われるはずです。

それを、いかにも日本語の歌はまずくても、
オペラの発声、すなわちイタリア語の方は
ちゃんと歌えているようなニュアンスで救お
うということになりますが、本気でオペラを
やるなら、イタリア人の前で歌うべきで、そ
うやってネイティブから批判を浴びた方が上
達が早いに決まっています。

その歌唱がおかしいということが分かって、
初めてまだ使われていない部位があるという
ことで上達も可能になってきますが、どうも
見ていると話がそういう方向ではなくて、日
本語の歌とオペラとは別物だから、オペラな
らちゃんと歌える
けど、日本語の歌は難しい
という飛んでもない方向に"理論化"がなされ
ているようです。

素直に素人らしい意見を言えば、使っていな
い部位、しかも後ろというメインの部分が使
えていないのだから、その発声は限定的で、
当然日本語で歌ってもおかしい(これは私は
ネイティブなので、私でもわかります)、

しかし、オペラの方も、その段階の発声では
イタリア人に評価されないでしょう(もちろん
イタリア語のほうは私では判断できません
が)。

だから、日本語の歌が歌えても(本当はそこも
怪しいですが)ですが、オペラの歌は歌えない
だろうと、それは一応正しいと。

一方、オペラをやっていてカラオケに行って
日本語の歌を歌ってもどうも友人に評価され
ないというのも、発音の構造が違うとかそう
いう問題ではなくて、単に両方共強い発声
通り一遍にすら、まだ出来上がっていないか
らだけの話で、したがってそのオペラ自体も
中途半端なもののはずです。

そうでないと言えるのは少なくとも、かなり
の人数のイタリア人から評価されている人だ
けでしょう。

単に日本人の前だけでオペラを歌っても、そ
れが自分の発声がきちんとしたオペラ発声で
ある事を保証してくれるなんてことはありま
せん。


だからせっかく日本語の歌を歌って"失敗でき
た"
のにもかかわらず、その機会を自己反省
機会として捉えず、日本語とイタリア語の違
いにその原因を帰して、イタリア語ではちゃ
んと歌えているけども、日本語は別の要因で
歌うのが難しい的な、そんな解釈は理解不能
です。

単に我々が日本語ネイティブなので、不自然
なあるいは中途の段階の発声-つまり強い声
になりきる前の部分的な発声ーで日本語を歌
われるとその不自然さに気づきやすいという
だけの話で、その人のオペラ発声が優れてい
るという何の保証もありません。

いやむしろ発声なんて一人一つで、つまり
の時点でのその人の発声が一つあるきり
だと
思います。

前にも書いたことでいえば、例えばある人が、
「Aの歌は難しいけど、Bの歌は易しい」(そ
の音型面からみて)といったとしても、私はそ
んなこと信じません。

その時点でのその人の発声は唯一で、すなわ
ち、大抵中低音域がまだ充実していない発声
で歌っているので、Aを歌おうがBを歌おうが
同程度に失敗している発声で歌った歌という
意味では全く同じレベルの歌唱にすぎず、

ただ本人の自覚の問題として、片方には高音
や細かい音符があって、失敗が自覚できた
いうだけの話で、失敗は自覚できていない中
音域の失敗こそ、それこそ、失敗で、歌唱と
しては当然Aの曲もBの曲も同レベルの歌唱
としか言えないわけです。

つまり自分の自覚・認識なんて、初心の段階
ではまったく役に立たない代物で、「この歌
は簡単」という表現がすでにその人の歌唱力
のレベルを物語ってしまいます。

反対におおくのオペラ歌手はこう言っている
そうですよ、「発声ができたときには、どの
歌も歌えるようになっていた」と。

別の言い方をすれば、Aの歌もBの歌もその難
易度が全く同じに見える
ようになるところま
強い発声を鍛えて、それで初めてどの歌も
歌唱できるようになるということだと。

だから、跳躍音があっても高音があっても、
そんなこと無関係に、そのどれもが何ら特別
なものではなく、一つ一つの音が充実して
せるようになって、つまり、跳躍音も単に充
実した比較的低音から、充実した比較的高音
移るだけの話だとなった時が、歌唱できる
ときということになるのではないでしょう
か。


だから、歌唱しなければしないほど上達が早
くなるのが、皮肉と言えば歌の最大の皮肉
と言えるでしょう。

じゃあ歌わない間、何をするのかといえば、
それは強い声づくりしか、ないでしょう。









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2019年04月27日

89.趣味のこと ~79低音練習の重要性、別角度から~

さて、重要なことがぐらつくようでは困る
ので、結局は同じようなことを書くことに
はなるのですが、今日は低音練習の重要性
について(歌が上達するための)、別角度か
ら書いてみます。

まず、楽器の話から書くと、楽器も種類に
よっては吹く楽器など、最初まったく音が
出ない
ものもあるそうです。

そう聞くとなんだか音楽を始めるのに"不利"
という印象を持ちかねませんが、私はむし
ろ、それだから楽器の人は熱心に練習する
し、レベルの高くなる人も出てくるんだな
と思っています。

というのも、想像してみるだけでわかるわけ
ですが、もし自分がその楽器を始めて、まあ
わかりませんけど、1年練習して初めて音が
出た、そんな場面を想像してみましょう。

すると、こういう厳しさがこの楽器の人には
初心の段階から付きまとっていることが分か
ります。

つまり、昨日まで一年間やっても全くでな
かった音が今日初めて出たからと言って、
それがいい音である保証はどこにもないな
と。

むしろ大していい音ではないだろうと本人も
素直に思えているから、その後音を磨くつも
りで素直に練習ができます。そこに意識的に
なっているからこそ、上達もするというわけ
です。

次にピアノについて考えてみると、今度はこ
ういう人がいます。

「ピアノはたたきさえすれば音が出るからい
いわね」と。

これは私は間違いなく、歌をやっているある
種の人間が、ピアノに対してゆがんだ優越感
に浸りたいために言い出したのではないかと
勘繰ります。

というのもそのあとこう続きそうだからです。
「それに比べて、歌は体が楽器だから音作り
からしなければいけない(難しい)」と。

まあ、この話を今は置いておいて、-これは
私は音が出せないことへの巧妙極まりない言
い訳だろうと思っていますがーそれはおいて
おいて、ピアノの場合は、視覚に頼れる部分
がある、それは、少なくとも指使いについて
は、画像で見れば、一流演奏者の指使いとの
違いが一目瞭然で、自分ではまだまだだなと
絶えず思えるので、猛練習するし、やはり上
達するわけです。

ところが翻って、歌を考えたとき、そこに上
達する要素があるでしょうかという話です。

つまり歌はダブル・スタンダードになりやす
い、

ピアノの人に対しては、音(声)がちゃんと出
ないことを、歌は「体が楽器だから、そう簡
単ではないの」と、言い訳をし、

先ほどの吹く楽器に対しては、歌は「最初か
ら声が出て
(ある程度歌える)から有利」と
優越感に浸る、無意識に忍び込んでくる考え
方です。

こういう考え方は、さきほどの吹く楽器とも
ピアノとも違って、自己反省の要素がありま
せん。というよりも、この考え方自体がそれ
を妨げているといった方がいいでしょう。

歌で謙遜する必要はかけらもないし、謙遜し
たところで上達は絶対にしません。

そんなことより、最初から自分の出している
声が絶望的だと心底から思えれば、むしろ上
達は早くなります。

ところが歌の場合はまさにその心持になるの
が難しいわけです。謙遜する人はいるけど、
謙遜したところで出ないものは出ないだけの
話で、発声に何の効果もありません。

当然息を使っているので、先ほどの吹く楽器
と同じ心持で練習できれば、上達もするので
すが、それができないわけです。なまじ最初
から音(声)が出てしまうもんだから---。

そこで、音を下げていって、低音領域で自分
でさえ音が全く出ていないと思える音まで
下がって,つまり限界音までさがって初めて、
たとえばG2がそれだとして、そこで初めて、
「それじゃあ、A2は出てるはずだけど、限界
音G2のすぐ隣の音そんなにいい音で出る
ものだろうか
」と、先ほどの楽器の人と似た
境地に、謙遜ではなくたどり着けるわけです。

以下同様にA2が怪しいのなら、B2も怪しい
C3も---と推論を重ね、結局自分の軽く出せて
いる体感
の中音域の音も、全部怪しいと判断
できるようになって、そこで初めて上達の目
が出てきます。

だからそうでないレベルの人は、必ずこうい
うでしょう。

「もう、中音域はいいから、高音を出したい
と」あるいは「中音域はもうできてるから、
あとは高音だけだと」と。

私に言わせれば、「中(低)音域が充実してき
たから、当然高音は近いうちに出るようにな
るだろう」という認識が正しいように思われ
ます。

つまり先ほどの楽器の人に比べると、歌はそ
れより低いレベルでしか練習していない可能
性があるわけです。自分の出している音(声)
に対する厳しさに欠けるという。

その結果どうなるかというと、例えば本番で
歌はピアノの人に伴奏を頼んだりするわけで
すが、ピアノの人は力量があっても、あくま
で伴奏なので、例えば歌の人がフォルテが出
せていないのに、ピアノだけ"弾けば出るか
ら”(冗談ですが)ということでフォルテを出す
というわけにはいかないわけです。

つまり優れたパソコンを持っていても使いこ
なせないのと同じで、そもそもピアノの人が
力量を発揮できるように歌の人が努力をしな
いといけないわけです。

ピアノの人はきちんと音自体で判断している
ので、およそその時点でできそうもない要求
をしてくることはありません。たとえば、今
すぐこの高音を出せ(笑い)とかみたいな、で
すね---。だから言われてやってみると大概そ
の場でできることが多いです。

あ、ここでいうできるは、完成したという意
味ではもちろんなく、「そういう感じ、そう
いう方向性で練習して」という、方向性につ
いては間違っていないと
いう意味にすぎませ
んけどね---。

つまり、楽器の場合は、まったく音の出ない
初日が練習開始日だと言えますが、歌の場合
は、初日=練習開始日ではなく、低音を齧っ
て、自分の中音域が心底だめだと思えた日
が、練習開始日で、それまでは見かけ上いく
ら歌唱練習をしても、何年練習しても初日と
声が本質的に変わることはないので、練習開
始日ではないわけです。

だから、先ほど来の楽器とは違って、歌は
発点に立つこと自体
が難しいわけです。

ピアノの人も楽器の人も、初日から演奏練習
(歌でいう歌唱練習)はしないし、できないわ
けです。

その意識の違いがレベルの違いを招いてしま
うと思っています。










q397gc19xkd57opaz287 at 08:36|PermalinkComments(0) 

2019年04月24日

88.趣味のこと~78歌の上手・下手という評価のことなど~

先日、ブログで歯への圧力で発声を調整し
ているというようなことを書きました。

そのあとで件の信頼すべき発声教師のブロ
グを見ると、なんとも言えないタイミング
で、「結局はこういうことだった」みたい
なことをおっしゃっていたところがあった
のが、それが、歯に関係していたものだっ
たので、試してみる価値ありと思い、実行
したところ、まさに微調整がなされました。

素直にさすがだと思ったわけですが、そこ
で改めて分かったことは、この微調整とい
うのは、当たり前の話かもしれませんが、
声という結果の微調整ではなくて、体のど
の部位をどのような感じで使うか
の微調整
なわけです。

声の結果が微調整ということなら、ちょっ
と以前に比べて、少し声がよくなった程度
の話ですが、そうではなく、部位の微調整
ということになれば、ほんの少し使い方な
りを変えるだけですが、その結果得られる
声は、それまでと比べて格段に違います
これが自分の声なのかと躊躇うぐらい、変
わります、大げさではなく。

同一機材による同一環境下での録音で、
はっきりそれが分かります。

だから、これを言い換えれば、実際に使う
部位、あるいは使い方はもうほぼその近く
まで
来ていても、声という結果には大きな
開きがあるということが起こり得ます。

その、もうほんのちょっとを埋めるのが難
しいわけです。

それと私の場合は前から言っているよう
に、基礎としての低音をそれなりにやって
きて、その結果、歯を使うところへ行って
いたので、その話にピンときたわけですが、
そんなのやっていなかったら話が見えるは
ずがありません。

この方法なら、はじめて跳躍音があっても
不安なく出せると思われます。具体的には
歌を盛り上げるのに、歌の後半で、譜面を
変更して、例えば6度の跳躍を入れてみよ
うというような気分になってきます。

つまり頭じゃなく、体がもう恐れていない
感じになってきます。任意の譜面に対する
恐怖心が消えています。もっとも自分の出
せる音の範囲内でということですが。

ちなみにそれより前、一月ほど前に歌の先
生のところで声域の更新があり、G2~F5
と認定されましたが、その後二週間ほどで
ピアニストのところで確認してもらった
ら、さらに出ているといわれ、そして今回
の微調整で自分の内的な感覚ではさらに広
がったとみています。

ふつうそんな短期間で広がるはずはないと
思われるでしょうが、先ほどの微調整で結
果は劇的に変わる、を思い出していただけ
れば、ちょっと部位の使い方を変えること
ができれば
、そういうことは起こり得ます。

さて、こう考えてくると、気づくことが一
つあって、それは歌というのは本当に他に
比べて簡単そうに見えて、ことごとく初心
者が逆の方向へ行ってしまうように仕組ま
れています。

その一番大きなものとして前回書いたのが、
自分の中音域の評価自体を間違うというこ
とでしたが、今日はもっと一般化して、歌
の評価自体も間違いやすいという結論です。

その評価とは実によく聞く「あの人は歌が
上手とか、下手とか
」かいう発言です。

歌の世界全部がこの言葉で成り立っている
のかというぐらい、自明の当たり前の正し
い判断のような趣がありますが、今の私は
これほどいい加減な役にも立たない評価は
ないと思っています。

どういうことかというのを実例で説明する
のに、公開されているので、先ほど取り上
げている専門家の発声で行くと、

この専門家、当然声が、ご自身の微調整に
よって、ここのところ加速度的に整って、
それこそ下から上まで、強から弱まで、自
由に出せる感じに動画を見る限りなってき
ているように私には思われます。

つまりこれこそオペラ歌手の言う、発声が
できてから歌唱する
、であろうと思われま
す。

どういうことかというと、ずっと前から歌
は歌っておられたわけですが、それには
もあったと(と書くと偉そうに思われる
かもしれませんが、ある面他人のは誰でも
わかる。ちょうどフィギュアでプロが回転
に失敗すれば、どんなど素人でも失敗だと
わかる、その程度の話にすぎません)。

つまり、低弱音のあたりが聴かせるまでは
行っていない感があったわけですが、それ
も劇的に変化していると思われます。

で、ここで教訓的なのは、”発声”を整えて
いる
中途段階の様子を見て、「歌唱が下手
だ」的な発言をしてもほとんど何の意味も
ないということです。

まさにオペラ歌手の発言通り、まず発声を
やっているわけで、という意味は、強い声
にしているわけで、歌唱なんか後回しに
やっているわけです。

ということは見方を変えると、発声の中途
段階でその歌を聞いても必ずしもうまくは
聴こえない、それを承知で発声に集中して
いるというわけです。

逆に言えば、発声の弱い段階でもそれなり
に歌を整える
ことは可能なわけで、それが
うまくいっていれば、人は「あの人は歌が
上手」とか、「下手」とかいうわけですが、
これまでその上手とか下手とかいう話をし
ている人で”上手な”人というのを見たこと
がありません。

つまりそれはそう発言しているその人より
上手だという程度の話です。

というのも、この上手というのは、もっぱ
らテクニック、すなわち音程を合わせられ
るとかリズムに合っているとか、そういう
面だけで歌を捉えていると思われるからで
す。

発声の強さのことはそこに全く入っていな
いわけです。いや、入っているんだろうけ
ど、その強いはまだまだ第一弱いわけです。

発声についての褒め言葉は、”上手”、ではな
いでしょう。私は発声についての誉め言葉
は”自然”だと思いますが、だから、「あの人
は発声が自然だ」とはいっても、「発声が
上手だ」とは言いにくいでしょう。一方、
「あの人は歌が上手だ」はよく聞きます。

もちろん、歌は最終的には歌唱力で判断す
るものですが、

だから、声を強く自然にしている中途段階
の人を見て、発声でなく歌唱に着目して、
「歌が下手」だと言っても私は的外れだと
思います。

おそらくそんなことを言っていた人は最近
のその専門家の声の変化を目の当たりにし
て愕然としているかもしれません。

弱い発声で,弱いなりに歌唱を整えること
も可能なわけですが、いったん強い声の人
の発声ができてきて、ということは何でも
歌える段階になって歌ったそれは、上手と
か下手とかいう段階を超えています。息継
ぎも見えない感じになってますしね。

だからAさんという初心者が、Bさんの歌を
聞いて、すごく上手だと思って、専門家の
Cさんにそれを聞かせてみると、一言、
「浮いた声だね」、あるいは「薄い声だ
ね」で終わってしまうということもよく出
てきます。

おそらくこの発声なら日本語の歌も自然に
表現できるはずで、これからどんどんやっ
てもらいたいと思っています。

というのも、私が個人的に標的にしている
ものが二つ
あって、一つは前から言ってい
る格言の間違いの修正、すなわち初心者を
低音練習から遠ざけるような格言の廃止、

もう一つが、まことしやかに言われている、
母国語である日本語の歌のほうが外国語よ
り歌うのが難しいという、なんとも不自然
な話
です。

私はこれはなんのことはない、強い発声が
まだ(一応とはいえ)完成していない段階の人
が歌うと変に聞こえるだけの話だと思って
います。

私には、単に発声がまだなだけの話を、そ
れをやれ、母音の発音をする位置が違うと
か、日本語は一文字に一音あてがうから
(つまり間延びする)とか理屈を言いますが、

後者はキチンと音を伸ばせないという、ま
さに発声上の問題なだけで、日本語のせい
でも何でもない、強い発声ができた時点で、
イタリア語ならイタリア語の発音に、日本
語なら日本語に仕向ければ、振り向ければ
いいだけの話で、

それを発声の不完全な段階で歌唱するか
ら、たとえば掘った声の段階で日本語の
歌を歌唱するから変なものになるだけの
話で、それは当たり前の話です。

だから、オペラで強い声を作る中途段階
の人が、日本語の歌を歌い慣れている人
と一緒にカラオケへ行っても、評価され
る人は少ないというのも当たり前の話
です。またその評価はある面正しいわけ
です。

掘った声で自然に聞こえないものをいい
というのは嘘になりますから。

問題は、こうやって、自分の発声の問題
だと捉えられれば、それだけで上達の速
度が速くなるものを、失敗するのを嫌
がって日本語の歌を避けたり、高々母音
の発音に使用する部位が異なるだけの話
を、全く別物に仕立て上げて、自らの可
能性を閉ざすやり方には疑問を投げかけ
ざるを得ません。

つまりそこには全くと言っていいほど、
自分の発声がよくないことへの反省、視
点が見られないからです。

自分でなく、他のことのせいにして上達
できる分野があれば聞かせてほしいもの
ですが---。

そしてこれはリズムや音程なら、自分が
できてないと認める人は多いと思います
が、あるいはピアノの人に指摘されたら
そうだと素直に思えるとおもいますが、

一番肝心の発声の強さ
に関して、俺はダ
メだとか、まだまだだとか思え人る自体
が少ないわけで、

そこで、オペラ中途段階の人が→カラオ
ケへ行く→もう一つだとでも言われる→
彼らは芸術を理解できないんだと思い日
本語の歌から遠ざかる、のであれば、そ
れは不幸な話ではないでしょうか。

素人の素朴な批評に、彼らは芸術を理解
出来ていないと反応するなら、すでにそ
の人は終わっていると思われます。

少なくともすべてその考え方で片づけて
いくので、自分の何かが修正されて今よ
り少しでもよりよくなるということ自体
が考えにくいからです。

でも、これからが非常に楽しみです。
い発声での自然な日本語の歌唱
が聞ける
日が近づいていると思われるからです。

そうなった暁には、もう誰もオペラと日
本語の歌の違いをことさら強調する必要
はなくなるでしょう。きちんと発声を強
めていきさえすれば、そこにそれぞれの
言葉に特有の発音の仕方の違いというも
のはあっても、発声の強さに関して、
質的な違いはない
と私には思われます。










q397gc19xkd57opaz287 at 10:41|PermalinkComments(0) 

2019年04月19日

87.趣味のこと   ~77歌以前の問題~

さて、歌においてどれほど素晴らしい練習法が
あったとしても、まずそれをやろうという気に
なっていなければ、話が進むものではありませ
ん。

で、やろうという気になるためには、自分の
をまず自分が自覚していないと始まりません。

今回はそんな角度から書いてみます。

で、初心者にとって、一番盲点になると思われ
るのが、なんといっても、

自分が一番出しやすいと思っているはずの
自にとって
中音域が実は、ひどい=弱い、と
いうことが自覚できないこと、

言ってしまえばこれに尽きるとは思いますが、
例えば、これが他の分野なら、特に視覚でその
難しさ、厳しさが判断できる分野なら、この類
の基本認識を持つことに困難はないわけです。

たとえば、陸上であれば、一流選手の走りを肉
眼で確認しさえすれば、彼我の差がはっきりと
理解され、いきなり初心者がその記録に挑戦す
るというような無謀な企てもなくなく、

また仮に素人に褒められたとしても、各自の客
観的なタイム(記録)というものが存在するので、
極端に言えば、それを見ただけで世界で何番目
の走りか分かってしまう厳しさがあるため、決
して驕ることもありません。

たんにそこにはタイムという客観的な記録があ
るだけですから---。

またその分野で基礎とされる練習を避けては決
して上に行くことができないことも誰でも知っ
ています。

ところが歌の場合は、まず判断において視覚に
訴えることができない
うえに、決して自分の歌
を、お客さんがそれを聴いてくれている時のよ
うには聴けないため、つまりある意味聴覚にさ
えも頼れない、またタイムに当たるほどの客観
的な判断材料もなく、(周りの初心者に)褒めら
れでもすれば、すぐに驕ってしまいやすいわけ
です。

というわけで、歌で一番重要なことは様々な練
習法以前に、自分の中音域さえ何ほどでもない
ということを、謙遜ではなく、現実として理解
するということで、

その日が歌の練習の開始日だといっても過言で
はないでしょう。それまで何年,いや何十年
やってきたとかは関係ないです。

というのも、弱い歌唱のままで何十年やってき
ていても、それは弱い歌唱のままだからです。

更に具体的な話をすると、例えば一流歌手の歌
を聞いて、軽く歌っているように見える?聞こ
える?から、そこをマネするなどということに
した場合、それを陸上で考えたらいかに滑稽か
ということが分かります。

というのも体を鍛え上げてそして実際に速い一
流選手が軽く、あるいは普通に走っているのな
ら、それは魅せられもしようというものですが、

ただでさえ遅い、昨日今日走り始めた初心者が
軽く走って、それで何に魅せられるというので
しょうか、という話です。単にそれは手を抜い
て走っただけの話にすぎません。

だから視覚に訴えることができる分野ではそこ
を、すなわち練習方法の方向性で間違うことは
ないわけです。必ず自分を追い込む方法でしか
鍛えられないことが自明だからです。

それに比べて歌の場合は、自分の声の弱さを自
できた日が練習の開始日だと言えるわけです
が、それを理解するのが第一難しいというわけ
です。

ここで二番目に重要なことが出てきますが、そ
の自覚を妨げるのが、②精神面の驕り、すなわ
ち「もう、俺は(合唱界で何十年もやってきたか
ら)相当歌えているはず」との思い込みです。

もちろん合唱の技術、すなわち声を合わせる技
術が高度なものであることは間違いありません
が、それと声自体を強くするのとは全く別の話
ですから、そこで驕ってしまうと、強い発声法
の肝心の練習がいつまでたっても着手されず、

というのも強い発声に重要な練習においては、
ストロー練習のように一見馬鹿々々しく見え
てしまうものほど本質的なものなので、「俺は
結構歌えている」と思った時点で、もうやる気
が出てこないわけです。そんな簡単そうに見え
る練習法は。

そこで高度に見える高音練習(実際に高度です
が)に、基礎練習をせずに飛びつくことになる
わけです。「もう、俺に残っているのは、後、
高音をマスターすることぐらいだ」となって
しまうからです。

その初心の段階で練習の方向性を間違うと、あ
とは泥沼が待っていることになります。ま、そ
れも仕方がありません、なんといっても基礎を
やっていないわけですから。

上記のことが分かって初めて、じゃあ自分では
出ているという自覚の中音域をどうやって強め
るかという話にもなってくるわけで、上達への
手がかりも見えてくるというものです。

そこでもさらにもう一つ困難が待ち受けていま
す。それが、そういう自覚の声域、すなわち中
音域を直接鍛えるのが難しいという事情です。

単純に考えても、いい方法があったとしても、
その練習を定着させるのは難しいと思います。
というのも、もともと(間違って)楽に出ている
と思い込んきた声域なので、そこで変わった練
習方法をやろうとしても、わざとらしさが拭え
ないだろうから長続きしにくいと思うのです。

つまり深層では「なぜ、こんな簡単に出せてる
(と思っている)ところでこんな変わった練習しな
いといけないのかな」と思いながら練習しても、
長続きはしないからです。

もう一例を挙げれば、「喉を下げて歌う」に比べ
て比較にならないぐらい優れた表現として、「吐
きそうになりながら歌う」という年季の入ったも
のがあります。

これはもちろん私がやった体験からすれば、低音
域から高音域までこれで通すわけですが、例えば
中音域、初心者が自分でちゃんと出てると思って
いる中音域で、「吐きそうになりながら歌え」と
言われて、それが正しいとしても長続きしないだ
ろうと。

なぜ(自分ではちゃんと出ていると思っている音域
で)そんな不自然な感じにしないといけないのか理
解不能、あるいはそうするのに抵抗を感じるから
です。

また中音域ではそれをしただけではいわゆる掘っ
た声
になるという疑似問題があって、先へ進まな
いんです。つまりその出現した堀った声をその場
でなんとか聴かせる声に変えようとするなど、本
来不可能なことに気をとられ、時間を取られるか
らです。

でも、このことだけからも、むしろ低音練習から
入るべきだということが分かるのです。

というのも低音は誰がやっても音を下げれば下げ
るほど音が出にくく、それでも出そうとすると、
体がいやでも吐きそうな感じの形をとるように
なってくるからです。

つまり中音域でやるとわざとらしいことでも、
音域では自然に
そうなるというところがポイント
なのです。低音はそれでしか出ませんから。

そこでその自然な方法で低音をやって「吐きそう」
が定着してきてから、中音域へ戻すと、まるで一
番下の(自分の限界)音から階段を築けば、次の段
をどこに作るかは、それこそ下に制約されておの
ずとわかるのと同じように方向が見えだしてきま
す。

第一喉が楽になってくるのだけは確かです。それ
をはっきりと感じるようになってきたのは、私の
場合は低音練習を始めて半年ぐらい経ってからで
したが、ーつまりそれまでは今、こんなにうるさ
く低音練習と言っている自分も半信半疑でやって
いたわけですが(笑)-喉が「ほほう」と思えるほ
ど楽になってきて、当然それ以来欠かせないもの
になったわけですが。

さて、音が上に行けば行くほど、上に引っ張り上
げる力も使うわけで、つまり体という弦を張るわ
けですから、中音域で吐きそうだけではうまくい
かないのは、まさに上に引っ張り上げる力が働い
ていないか、不十分だからで、先ほども書いたよ
うに、楽に出せているという認識の中音域で、や
れ、吐きそうだとか、上に引っ張り上げるとか
いってみても、正しくても、不自然さが付きまと
うので、やる気にならないでしょう、初心者は。

そこで、中音域を充実させるというのはそれ自体
は正しいわけですが、その音域で、正しいこと
押し通そうとしても、その不自然さを免れない
と。

そこで私の場合は間接的アプローチ、すなわち
低音域の苦しさを使って追い込み、間接的に中
音域を鍛えるしかないだろうとの結論に至った
のですが、もしこれが正しいとすれば、高音域
も間接的に鍛えるしかないのではないかとの推
論が成り立ち、中音域を使って→高音域の準備
段階とするとする説も成り立つ可能性があり、

そうすると、高音域を鍛えるためにはまず中音
域を鍛え、その中音域を鍛えるためには低音域
を鍛えなければならなかったのだから、結局高
音域を鍛えるためには低音域を鍛えることが早
道だとわかり、低音発声がすべての基礎だとい
うことが分かります。

これは前回も書いたことですが、私には最重要
事項に思えるので何度でも書きます。

そしてもしこれが正しいとすれば、「高音をす
ぐに出す特別な方法」なるものは存在しないこ
とも同時に分かります。低音をやっていないと
ピンポイントに出せるにところまでいかないの
で。

せいぜいでそれは素人が聞いた場合出てるよう
に思わせる
ものにすぎないと思われます。

そしてもしそういう方法で「"高音”が出た」と
なった場合には、私なら客観的にピアニストの
ところでチェックしてもらうことをお勧めしま
す。

なぜ歌の話なのに歌の先生でなく、ピアニスト
なのかというと、歌の場合には、すでに発声法
の時点で深刻な対立がみられるようなので、判
断する先生の採る立場によっては評価が正反対
になり学習者が混乱するおそれもあるからです。

その点、ピアニストは第一年季も入っているし、
音に誠実に向き合っている印象がありますし、
こだわりもすごい、したがって、「ダメなもの
をいい
」とは決して言わない、言えない種族の
方たちだからです。

だからいずれにしても低音から着手しないと、
いつまでたっても、発声のレベルは同じまま
で、単に前より歌い慣れただけに終わります。

さて、比喩は土台作りだとか、階段作りだと
か言えますが、低音練習と建築の現実の違い
は、建築物は一度作ったらそれを利用するし
かありませんが、歌の場合は、それまでより
一音下げられただけでも見える世界が違って
くるので、土台・階段作りそのものを、極端
に言えば、日々下から作り直す作業が必要と
いう面があります。

つまりもう一段下の深いところから階段を築
きなおす不断の作業が必要なわけです。

歌は、結局はどこまで音を下げられるかが歌唱
力の生命線なので、日々低音階段を一番下か
ら、要するに自分の限界音から作り直すわけで
す。といっても階段を作り直すように階段を一
段下げると言葉で言うのは簡単でも、実際には
相当時間がかかりますから、気長にやるしかな
いでしょう。

あと特に歌で注意すべきは、今述べたように本
来時間がかかるものなのに、例えば低い音一つ
出すのでも、最初は聞こえてこないのがむしろ
当たり前で焦る必要もないのに、すぐに聴かせ
る音にしよう
などと無理をすると、いくら低音
でもやはり体を壊すでしょう。

そんなことじゃなくて、まずは自分の現状を冷
静に受け止めることから始まります。

普通に出そうとしてさっぱり聞こえてこない低
さの音があることをまず認識するところからは
じめればよいわけです。

そしてどうせ英語のリスニングと一緒で、聴き
取ろうと思ってすぐに全部が聴き取れるはずは
ないのに、それでもリスニングしているのと同
じことで、聴き取る気構えだけ見せて、気長に
練習します。そうするとそのうち聴き取れるよ
うになっていくと。もちろんどの分野でも個人
の能力差もありますが、まさかリスニングをせ
ずに
「俺には英語の才能がない」という発言は
いかがなものでしょうかという話です。

先ほど喉が楽になってくると書きましたが、そ
れは自分にだけわかることで、すぐに声、音に
反映されるものではないので、すなわち、ほか
の人が、つまり、素人が声を聞いて、「ああ、
よくなったね」となるわけではなく(ちなみに
プロには良い方向に向かっていることが当然わ
かるわけですが)、そこに時間差があることが
唯一の泣き所で、気持ち的に急いでいる人には
耐えるのが無理かもしれません。

つまり試験とか、オーディションを受けるので
即席に何とかしたいということでは---。

繰り返して恐縮ですが、視覚に判断を頼れる分
野では、そのすごさ、自分とプロ選手のすごさ
の違いが視覚を通して焼き付くようになって
いるので、視覚を通して、例えば高跳びで、2m
30cmを目の前で飛ぶのを見せつけられて、自分
も今すぐ飛んでみようなどと思う素人はおそら
く一人もいませんが、

歌の場合は視覚に頼れませんし、その場で特別
の動作をともなうこともなくもなく実行できる
作業
なので、そういう意味では視覚に訴えられ
ダンスなどとも違う,その困難さについて評価を
誤りやすわけです。

ピアノの場合も、少なくとも指使いの速さは、
一流選手の演奏の画像を見れば視覚的に理解で
きるので、すぐに手が届くとは誰も思いません。

ここでもう一度整理すると、私が歌の練習で重
要だと思うのは、

①まずは自分の中音域が現実にひどいことを、あ
たかも今日ジョギングを始めた人の走りが大した
ことないのと同じような意味でひどいことを自覚
すること。
精神的なおごり、例えば「合唱をもう何十年も
やってきたからも、俺はそこそこ歌えている」と
いう気持ちを排除して、強い発声にするために例
えばストロー練習、ハミング練習、ないしは低音
練習といった基礎練習にきちんと取り組む。
高音練習は、間接的アプローチの理解から、中
音域が充実するまでしないこと。その充実の度合
いを自己判断せず、プロのピアニストなどに頼ん
で判定してもらう
④低音も高音も中音域も、とにかく音をすぐに聴
かせる音にしよう
などと不可能なことは考えず、
気長に
練習すること。音はそんなすぐにはよくな
らない。すぐに良くなるのは、微調整の段階に
入った人だけ、平たく言えば上級者ということで
しょう、初心の段階では、すぐに劇的に声が変わ
るということは非常に考えにくいです。強くする
のに時間がかかるわけですから。
⑤発声は日々一番下からか、もう一度階段を作り
直すつもりで再構築していくこと。つまりもう一
音でも下げられるようになる方向
で練習を継続す
ること。ただし④から、慌てて事をなそうとはし
ないこと

⑥何かを強調した練習をするときはーたとえば喉
を下げるに特化した練習をしたときー必ず全体
の連関、バランスを頭に入れておくこと
➆高音というのは、人間が悟性によって分類した
 概念であって、もちろん何らかの違いはあるに
 しても、そんなことよりも、より重要な、目標
 音の一つ下の音
、例えばGならFが、FならEの
    充実度が高まれば高まるほど、その上の音もピ
    ンポイントに出しやすくなるという当たり前の
    事実を理解して、焦らずに取り組むこと。

 これが正しければ、GのためにはFを、Fのため
 にはEを、つまりG→F→E→D→Cと前の音の前
 提として充実を要求される音はどんどん下がっ
 ていくため、結局動画で専門家がさりげなく低
 音を出していれば、その低音の限界音によって
 高音もどこまで出せるかわかるぐらい重要だと
 思います。

 もちろんそこまで行くと、その人固有の声域の
 話も絡んでくるので、誰もが同じ練習をしても
 同じ高音・低音が出るとはならいかもしれませ
 んが、そんなことはそこまで進んでから考えれ 
 ばよいでしょう。

とこう並べて書くと、「素人のくせに分かったよ
うなことを」思われた人もいるかもしれません
し、上から目線に感じた人もいるかもしれません
が、この七項目を全部満たしてやって、それで一
流になるのではもちろんなく、やっと普通になる
と思っています。

むしろそこから始まるというか---。普通になって
いない=歌唱した場合に不自然な印象をぬぐえな
い、ということだと私は思っていますが---。

歌の場合はパッチワークのような発声ではやはり
不自然感が残る、逆に言えば、日本語での歌な
ら、聞き手がどんなど素人でも、ある意味日本語
のプロなので、声が不自然なものは不自然と判断
されてしまうでしょう。

その一方で発声が自然に聞こえても、その深め方
の度合いによってまだまだということもあるので、
その場合は選曲で身の丈に合ったものを選ばない
と好きな歌唱を継続することさえ困難になる場合
も出てくるでしょう。

















q397gc19xkd57opaz287 at 07:38|PermalinkComments(0) 

2019年04月15日

86.趣味のこと   ~76へーゲルと微調整について~

さて、奇妙な表題でしょう。

歌もヘーゲルも、もちろん、どちらも素人な
のに、それを使って文章を書いてしまおうと
いうのですから。

ところでその歌の基礎とするのは私の場合
はこれまでも何度も書いてきた、体の後ろ側
と下半身を使う練習、したがって低音練習
で、前側はむしろ微調整する役割だと捉えて
いるのに対し、

どうも世間で実際になされているのは、前側
がすぐ声に直接的に影響を与えられる部位が
そろっているからかー鼻、口、喉、腹筋、---
と全部前側ですーそれをメインに(=つまり
として)練習して、というより操作して、声
に比較的短期間で好影響を与えよう、つまり
早く上達しよう
という目論見だろうとは思わ
れますが、そういう練習が支配的なようだと。

もちろんそれで結果さえ出れば、誰も文句は
ないわけですが、そうもなっていないよう
で---。

その中でその前側の使用例として一例をあげ
ると、以前信頼すべき専門家が日本人の口先
発音
について批判していました。

標準語圏の口先発音の人がそのまま歌の練習
をしていても、先に進まないと。発声が弱い
ままなので。

で、私もそれはその通りで、初心の段階では
これを否定しなければならないと思うわけで
す。

ところが、どうもその後発声を継続している
と、体の中でいわば体という弦を張るのにさ
まざまの相反する力で引っ張り合って、平た
く言えば体の中が開いた状態の後でなら、
という感覚はむしろ微調整するには必須の
概念ではないかと思えるようになってきまし
た。

これはすなわちヘーゲル的に言うと、否定の
否定
というやつで、一度初心の段階で否定さ
れたものが微調整する段階では復活してくる
というわけです。ただし体内が開いている
(充分に引っ張られている)
という前提で。最
初のそれとは似て非なるものとなります。

これは結局、体内さえ”開いて”いれば、口だ
けでも調整できるということでもあり、

例えば、口を開けるべきか、口を閉じるべき
か、という論争がありますが、-もちろん初
心の段階では閉じるべきだろうと思います
が、ーこれも私にとっては疑似問題で、後ろ
や下半身を使えない段階では大きな問題にな
りえても、そこが使えるようになれば、それ
は大きな、あるいはメインの問題ではなくな
り、むしろ調整上の、ちょっとした変化をつ
けるためのやり方の違いという程度のことに
なると思われます。

確かに体全体が使えてない段階では、口の開
け方が、その時点で現実に使っている体の部
分、すなわち前側に占める口の割合が高いた
めか、声に与える口の開け方の効果・影響は
開けた方が顕著なものがあるでしょう。

しかし顕著ということは行き過ぎれば、当然
悪い方にも変わってしまうという含みもあり
ます。

それが、もし体全体を、言い換えれば、後ろ
側を十分に使うようになれば、全体に占める
口の割合も当然に下がって、それによって声
を変えるのではなく、まさに微調整する方向
に向かうようになると思われます。

私は口の微調整を、歯にかける圧力の強弱で
やっていますが、この操作も以前に聞いた
ことのある感覚、すなわち口の中をだらっと
する
感覚、それをニュートラルな状態と捉え
て、そこへの強弱の感覚で調整するというの
に近いでしょうか。

ただし、この感覚がやりやすい自然なもの
感じられるようになるには、まず絶えず吐き
そう
になりながら声を出す段階に達していな
いことには何の話かすら見えないでしょうか
ら、結局、基礎練習、(=低音練習)を十分にす
るしか道はないと思っていますが---。

このやり方だと、フレーズがどう変わろうが、
跳躍音があろうが、間に合います。

ここからはおそらく現段階では想像にすぎま
せんが、歯は人間の最も攻撃力の高い部位の
ひとつで、大人になる、すなわち"人間"にな
るにしたがって、その攻撃的使用を慎むよう
になりますが、子供同士では幼少期に歯を向
けられるのが一番怖かったことを思い出す
と、噛もうとさえ意欲すれば、瞬時に攻撃体
制が整うことから、その速さという点ではピ
ンポイント性があるように思われます。

つまりちょっとした休符しかなくても、いや
何もなくても、そのあとの高音に間に合いま
す。まあ、高音といっても、実際に私がやっ
ているのは中高音ですが、それでもその下の
音と自然なつながりで出すのは難しいと思い
ますし、これを使えばもっと高音まで出せる
と思われます。

その感覚も、歌を歌うというよりも、瞬時に
攻撃態勢を整えるという感覚で、また吐きそ
うになっていないと後ろ側の引き下げ筋がス
ムーズに連動して下がらないでしょうから、

結局、前にも後ろにも引っ張っている、引き
下げて、それで体全体を引っ張っている感覚
になってからの話ですが。

そういうわけで、やはり、歌の場合、練習す
る順序が非常に大切で、重要であっても
違った順序で
取り組むと成果は得られないよ
うです。

その最たるものが、時期尚早の高音練習だと
思われます。

まあいずれにせよ、低音をしっかりやってい
ると、数年前まではあたかも全身で歌ってい
るつもりでも、結果として聞こえてくる録音
は小さくて話にならなかったのが、最近では
むしろ逆に、喩えて言うとmpで歌ったつも
りが、結果はまるでmfに聞こえてきて、むし
ろ非常に絞り込んで、「これなら聞こえない
だろう」ぐらいの感覚で出して、初めてmp,
さらにはpになっている状況になってきまし
た。

それと同時に先生からも「マイクはいらない
わね」と言われるようになりますが、そうな
れば別に会場に意図的に響かせるとか、不自
然な努力は必要なくなります。一番低く小さ
な音
で聞こえるのなら、あとは不自然に頑張
らなくても、全部聞こえちゃうわけですから。

もちろんその声をさらに練っていくというこ
とには終わりがありませんが、それはまた別
の話です。

高音練習をなぜそんなに急ぐ必要性があるの
かが私には分かりませんが、推測では(推測し
かなくて申し訳ありがませんが)、それは明ら
かに歌唱上の問題で、基礎の問題ではないと
思われます。

つまり、原曲がそうだから、その音が、一音
でも出ないものがあるとプロとしては人前で
は披露できないことになりますが、

当然そこから逆算して、例えば試験で高音を
含んだものが出される、あるいはオーディ
ションなので高音を含んだものが避けられな
いとか、あるいは教える人が自分の生徒さん
が高音を出せた方が何かと宣伝になるとか、
そういう理由がいくつか考えられますが、

問題はこれらの理由が、何らその学習者個人
の現状を踏まえたものではない、まったく
験の都合
なので、本当はそういう試験を受け
る前までに、みっちり低音の基礎を学んでお
く必要がある
わけですが(安全のためにも)、

それが全体の風潮も何かもう高音を出せれば
偉いようなことになっているので、どうして
も時期尚早になりがちでしょう。

私の低音練習の感触では、低音練習をしてお
けば、音を上げていった場合、現時点でどの
音をターゲットにすれば妥当な練習になるか
も大体自分でわかってきます。

私の経験では、音は間接的に、それより下の
音を使わないと上の音の充実が図れないもの
であるため、

例えば中音域は、低音域をやらないと充実さ
せられないというのが私の判断で、もし低音
をやらなければ
、中音域の充実が図れず、間
接的ということでいえば、高音域は当然この
理屈で行くとそれより低い中音域の音を使っ
て充実を図るところ、その中音域が低音域を
やっていないことによって充実していないの
に、その不完全な中音域を使っていては、い
つまでたっても高音は充実しないという流れ
が私的には明らかです。

さて、再びヘーゲルですが、ヘーゲルは物事
を十分に展開させたその全体という概念を重
要視し、また個々の要素、あるいは契機も事
柄もその全体との連関として捉えよといいま
すが、これは歌においても非常に重要な視点
だと思われます。

というのも、経験的にちょっとした体の、あ
るいは各部位の使い方の違いが、結果に大き
く反映するのが歌のような分野で、

したがって、何か、例えば腹筋に、その声へ
の影響力の大きさから焦点を当てて、「これ
こそ発声の本質だ」式に思おうとしても、そ
れはあくまで思いつき、思い込みにすぎず、
声に一見何の重要性もないかにみえる部位に
もどのような重要性があるか分かったもので
はないので、うかつに本質的という言葉を使
わない方がよいでしょう。

本質的という言葉自体、ほかの要素を非本質
的として切り捨てるニュアンスが既に含まれ
ているので、そのあとずっとそのほかの重要
な部位に目がいかなくなる恐れがあります。

それが背中であったり、お尻であったり、足
の指であったり、周辺部になるため、軽視さ
れますが、いかにその影響力が小さく見えた
としても、どうその役割を小さく評価したと
しても、それらのピースなしではジグソーパ
ズルは完成しないでしょう。

まあ、初めて腹筋だと言い出したような人は、
その自分のアイデアが正しいかどうか、自分
で検証し続けるでしょうが、

単に先生から教えられたので腹筋が重要だぐ
らいの意識では、腹筋さえやっていれば、物
事が完成する、心配ないという思い込みで、
進歩が止まってしまうでしょう。

というのはそのあと、そのような人がやるこ
とといえば、せいぜい腹筋にどんな力を入れ
れば
いいのか、その入れ方しか考察しない
しょうから。

誤解を受けないよう念のために書いておきま
すが、私は一言も腹筋が重要ではないなどと
は書いていません。

しかしそこは焦点化して意識的に「さあ、お
なかに力を入れて」といってやるようなとこ
ろだとも思ってはいません。

喉を下げるにしても、この腹筋にしても前側
は意図的にやると全部行き過ぎるになるので、
ではそれをどうして適度にできないかといえ
ば、それはまさに後ろを使っていない、ない
しは使う度合いが低いからとしか言えません
が、本質的でない(と自分でみなした)部位、
すなわち後ろや下半身を最初から除外してい
る関係上、そこに力を入れることしか解決方
法がないかのように自分で限定してしまって
いることが大きな要因です。

最初からジグソーパズルのピースから低音を
除外しておいて、それでパズルが完成しない
からといって、それで「俺には才能がない」
というのが、いかに滑稽かという話でもあり
ます。そういう判断は低音を十分にやって、
それでも伸びなければ、初めて口にしてよい
ような話です。

そのためにも例の低音に関する格言は排除さ
れるべきだと考えます。

それ自体が間違っているか、もしくはあたか
も伝言ゲームの場合のように、伝えられる過
程で重要な限定が抜け落ちてしまったものと
考えていますが---。


「低音は(プロの低音歌手になれるような)素
質、才能があろうがなかろうが、歌を歌おう
と思うなら、その基礎として誰もが最初から
取り組むべきものである」と。

そして同時に、「高音のほうは誰れでも練習
すれば出せるようになる」という幻想も、同
時に捨て去るべきです。

「いや、そんなことはない。俺は高音ちゃん
と出せてる」という人は自己申告じゃなく、
一番音の質にうるさい人、例えばプロのピア
ニストのところへレッスンにでも行って、そ
こで高音のお墨付きをもらってください。

それほどの人なら私に言うことなど、もちろ
んありませんから。

ただ中音域が充実していないのに、高音域が
ピンポイントで出るはずはないと私は思いま
すが。高音らしきものが出るのと高音が出る
のとはまったく違うと思いますが、そんなこ
とも素人の私よりプロのピアニストに聞いて
ください。

1回で何千円かかかっても、それで今その練
習をやるべきか否かが分かれば、後々のこと
を考えれば安いものです。











q397gc19xkd57opaz287 at 09:03|PermalinkComments(0)