2017年09月14日

お早うございます、よろず 齧るです。

今回齧ったのは、



 です。

例によって、読んでいて印象に残った箇所ですが、次の二か
所を挙げておきます。

それはまず、太古のユダヤ人につき、
  『当時は異民族が太陽、月、大地、水、大気などの目に
 見えるものを神々として崇めていたので、彼らに対抗しよ
 うとしたユダヤ人は、そうした神々が弱くて不確かな、つ
 まり移ろいやすい神々であり、見えない神の支配下に置か
 れていることを示すため、自分たちの体験したさまざまな
 奇跡について語った。』
 (本書P259、ただし太字化はブログ作者、本書にはありま
 せん)
と述べているところであり、

また、
  『(前略)ヨシュアの時代のヘブライ人たちも(中略)太陽
   の方が(中略)動いていて、反対に地球の方が静止している
   と思っていた。(中略)彼らは、単純に日がいつもより長く
   なったと言えばよかったのに、そうではなく日月が立ち
   止まったとか、運行を中断したと言った。このことはま
   た(中略)太陽を崇拝していた異民族[である敵軍]の士気を
   くじくのに少なからず役立った。つまり彼らの崇める太
    陽も実は別の神格の支配下にあって、この神の合図に
    よって
その本来の秩序を変えるよう強いられているとい
    うことを(中略)敵に納得させるのに役立っ た。』
 (本書P286~287、ただし太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
と述べているところです。

太陽を神格として崇拝している民族(たとえば古代エジプト)
が、その太陽に普段と異なる動きがあったときに、実は太陽
でさえ、それ以上の神格によって支配され動かされているの
だとする論法で、日が長くなる=地球から見た太陽の軌道上
の位置関係の問題、ではなく、太陽が一日のどこかの時点で
立ち止まったから長くなったという素朴な理解にもなり、そ
の太陽の動きを止めたのが、目に見えない神で、したがっ
て、それは太陽以上の偉大な存在であるとの論法です。

そして、例えば、月にせよ、水にせよ、太陽と同じ他の有限
な存在を対置していたのでは、それらも有限のものである以
上、何らかの弱点があることになって、決して太陽を支配す
るというわけにはいかないでしょうから、行き着くところ、
太陽以上の神格とは、ユダヤ人が言う「見えない神」しかな
いということにもなってきます。

そして、スピノザによれば、軍事力では強力だったはずの他
民族が、この論法によって士気をくじかれることもあったよ
うです。

ユダヤ人の歴史を事典で調べてみると、周りには強国・大国
が多く、征服・圧制などの史実には事欠きません。

ざっと挙げてみただけでも、エジプトによる圧制(モーセの
出エジプトBC13世紀?)、新バビロニアによるバビロン捕囚
(BC597~538)、ローマ帝国によるエルサレム破壊(BC65)、
ササン朝ペルシアの侵入(614)、さらには十字軍による大虐
殺(1099年)などとあります(電子辞書版ブリタニカ国際大百
科事典 エルサレム史の項より)。

このうちのバビロン捕囚だけを見ても、
  『前597~538年にわたってイスラエルのユダヤ
 の人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニ
 アに捕囚となった事件をさす。捕囚民は(中略)全体では
 1万5000人ぐらいであろう。当時ユダヤの人口約25
 万人であったが、捕囚民は支配階級に属する者や技術者
 であったので、残された民は衰退した。バビロニアでは
 宗教的自由は許された(後略)』
 [電子辞書版ブリタニカ国際大百科事典 バビロン捕囚
 (Babylonian Captivity<Exile>の項より]
とあり、

また、
  『またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴
 史、すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。
    したがって預言活動はやんで、かわって律法学者や書記
    が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり、旧約の
    宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。』(同上)
とあるので、

捕囚のあった時期は、国家の指導者層が大勢連れ去られ
た、国家存続の危機の時代でもあり、同時に、ユダヤの宗
教が、新しい預言がやんで、既になされた預言に基づく、
ということは、言い換えれば、それらの記載された、いわ
ば(旧約)聖書を中心とし、その解釈が重要な位置を占める
「書物の宗教」へと転換していった時期でもあるようで
す。

そして、これまたブリタニカ国際大百科事典によれば、バ
ビロン捕囚を行なったネブカドネザル(2世)は,旧約聖書に
出てくるユダヤの大預言者エレミヤを保護したとありま
す。まあ、それはエレミヤが預言したのが、まさにネブカ
ドネザルによるバビロン捕囚のような出来事(ユダヤ人の
祖国の破滅)であったことを考えると、その預言に力のある
ことを、敵でさえも認めないわけにはいかなかったのかも
しれません。

いや、というよりも、ユダヤ人の全能の神は、異民族のネ
ブカドネザルのような者をさえ、その器として利用し、エ
レミヤの預言を的中させることができたという解釈になる
ということでしょうか。

さて、取りあえずそうまとめてみると、スピノザのこの本
を、前回のベネディクトの『菊と刀』と対比させて読め
ば、非常に面白いのではないかと思うようになってきまし
た。

もちろん、スピノザとベネディクトは活躍の時代も国も全
く違っていて、一見なんの関係もなさそうですが、取りあ
えず両者を読んで、大雑把にですが、

日本文化ー『応分の場を占める原則』―最高存在として具
                  体的に目に見える
                  天皇という存在
ユダヤ(あるいはキリスト教)文化
 -『(預言者/聖書の解釈)に従う原則』―最高存在存とし
                                                                 て目に見えない全
                                                                 能の神
と対比させて書いてみます。

それで、まずベネディクトは日本文化について、最も注意
しなければならないのは、『応分の場を占める』という考
え方だと述べていました。これは前回書きました。

それは私から見れば、社会や家族、あるいは国際社会など、
何らかの全体の中で、自分がどう位置づけられるかに重き
を置き、そこで分に応じて尊重されなければ納得できない
文化だ言えるのではないかと思うのですが、

そうした社会において理想とされる人間像とは、社会にお
けるどのような状況・場面においても、その各場面をわき
まえて、適切な行動のできる人間である
ということになる
でしょう。それはまた、下が上を侵さないのは当然として
も、上も上で、下に任せていることには介入しないこと、
上・下お互いが、他の領分を侵さないことを確認して相互
に安心できる文化だと言えるような気がします。

そういう場(社会)が安定化(固定化)する上で、必然かどうか
はともかくとして、そこに「天皇」のようなある意味絶対
的な存在があることが、この制度を強化する役割を果たし
ているとは言えそうな気がします。

これも前回書きましたが、これが中国なら、皇帝が全権力
を握って、その代わり、もし皇帝が国民のことを顧みなけ
れば、すなわち皇帝に仁がなければ、誰もがその王朝を倒
すことが正当化されうる文化ですが、日本の場合は、江戸
時代のように将軍が天皇から実権を委ねられていても、い
ざ幕末に列強が迫ってきて、開国がどうのとなってくる
と、将軍だけでは決められないので朝廷の意向を伺うとい
う形で、天皇が権威をもち続け、倒される対象からは外さ
れていたことにより、この一旦形成された応分の場の秩序
は維持されやすくなっていたと一応言えるのではないで
しょうか。

というのも、もし権力あるいは権威の頂点まで変わる闘争
を経ていれば、当然新しい最高権力者・権威者の親族や支
持者、支援者らが旧支配者層に丸ごと取って代わって権力
を握る展開にもなっただろうからです。

そして、そのような社会で、もし、仮に偽物の天皇が出て
きたような場合、「俺こそが本当の天皇だ」と言ってきて
も、生身で現実に宮城内に存在している現天皇、すなわ
ち、本物が、「あれは違う、本物なんかじゃない」とさえ
表明すれば、証明ということではないにしても、大概の人
間はそれで納得できてしまうのではないでしょうか。

というわけで、そこでは偽物を作り出してくるより、やは
り、明治維新のように本物の天皇を誰が担ぐかの方が重要
になるようです。

とまあ、一応この社会を、そのようにとらえておいて、次
にスピノザの論じるユダヤ・キリスト教社会に目を転じて
対比させてみると、

そこでの誰も越えられない存在とはもちろん神のことです
が、それはスピノザの表現を借りれば、隠されている神
すなわち目には見えない神であって、歴代の天皇の場合の
ようには具体的なその姿として意識出来ず、どうしてもそ
れは預言者の言葉、つまり聖書に残されている預言者の言
葉などを通じて知るしかないのでしょうが、そこでの問題
は、偽の神様が出てくることではなくて、「本当は神はこ
うおっしゃっている」というようなことを言う、偽預言者
が出てくることでしょう。

そのとき神そのものがその場に降臨して、「あれは偽預言
者だ」と表明してくれれば話は簡単ですが、仮に現れたと
しても、それは特定の選ばれた誰か(つまり預言者)にしか
現れないので、第三者には判断するすべがありません。

いや、それどころか、その神の出現した当の本人にとっ
てさえ、神の存在自体は疑っていなくても、今ここに現れ
たのが、まさにその神なのかどうかという形で疑問として
残ります。

それだから、次のような話が残されているとスピノザは言
います。
  『たとえばギデオンの逸話である。この人物は「わた
 しに語っている者があなた[=神]であること(を知るため)
 のしるしを見せてください」と言っている(中略)モーセ
 も神から「そしてこれはお前にとって、お前を遣わすの
 がこのわたし[=神]であることのしるし(である)。(中略)
    またヒゼキヤも、イザヤが預言者だととうに知っていた
    のに、自分の病気が治ると告げたイザヤに対して、その
    預言のしるしを示すよう求めた。』 (本書p100~101)
と。

神の存在自体はこれらの民にとっては疑問とはならなくと
も、今自分に現れた存在がまさにあなた(=神)なのかとい
う形で問題になり、そこを預言者がクリアーするには、神
がしるしを見せることで、それによって本人にまず確信が
生じ、他者にも確信が生じるという形になっていたようで
す。

このことを含めて、スピノザによれば、神の言葉を語る預
言者なる人物の、
①人格が優れている(その人物が正しい、よい心がけの持ち
主である)か、
②その預言された何かが本当に起こること(=神のしるしが
あるか)、にかかってくることになりますが、

その他に③として、
啓示されたものごとがきわめて生き生きと感じられるこ
と、というのもありますが、これは専ら、預言者と称する
人物にとっては最も重要なことではあっても、聞かされる
第三者にとっては分り難いことですから、まあ①と②とい
うことになります。

そして日本の戦前なら、目に見える存在である天皇への恩
返し、すなわち忠に励めとなるところですが、古代のユダ
ヤ人社会では、
  『実際モーセが彼らに下したのは、かつて神から受け
 た(エジプトへの隷属から解放してもらった等の)恩に報
 いるため、神を愛し神の法に服せという命令である。こ
    れに加えて、モーセはそうした[律法の]指図を侵すもの
 がいたら脅しをかけて強くおびえさせ、反対に指図を守
 るものにはよいことをたくさん約束した。』
   (本書P132)
とあるように、それは目に見えない存在である神への恩返
しという形をとるようです。ユダヤ・キリスト教社会で
は、神が預言者を通じて命じたこと、あるいはそれを記録
した文書である聖書の解釈に基づいて命じられたことを実
現すべく、行動することが神への恩返しであり、いわば、
"忠"であるということになるでしょう。

そして、天皇制社会においては、忠は、より具体的には、
生身の天皇が存在しているため、たとえ、その実態が天
皇を担ぐ勢力の間で行なわれた水面下における権力闘争で
あったとしても、たとえば、それが最終的に天皇の発する
文書という形に仕上げられれば、その文書の内容を実現す
べく行動することが忠(実際にはそれは天皇をかついだ層
の意図の実現を意味することになる)となるでしょうし、
一度仕上げられれば、それまでとは180度の方針転換も
可能となります(たとえば、軍国主義から平和主義へな
ど)。

しかし、聖書の場合は、記述そのものの変更、あるいは聖
書と同じ権威をもつ文書の作成など、それこそ新しい預言
者(と認定される者)でも出てこない限り、できないでしょ
うから、そこはいやでも聖書の解釈変更をめぐる闘争の観
を呈してきます。

そして、さきほどのバビロン捕囚の項にあったように、新
しい預言者が出なくなったいうことであれば、ほぼ聖書(新
約にも預言者はいるので)に限定して、それに従って生きる
ことが正しい生き方ということになります。

そういうことであれば、聖書に従って生きるとどういう結
果になるのかということはあっても、生き方としては簡単
そうに見えます。何しろ、そこに書かれているとおりに生
きれば、それがすなわち神に従っていること=正しいこと
になるのですから。

ところが、スピノザはこう言います。
  『彼らの多くは(中略)聖書の記述はどこを取っても真
 実
で神聖だと決めてかかっている。そんなことはそもそ
 も聖書を知的に読み解き、厳しく吟味してからでないと
 確定できないはずだ。(中略)自然の光[=もともと人間に
 備わっている知的能力]がただ軽んじられるだけでなく、
 多くの人からまるで不道徳の源のように非難される。ひ
 との思いつきが神の教えと見なされる。うかつな信じ込
 みが信仰心として評価される。』
 (本書P42)
と。

スピノザによれば、神について知る方法には二通りあり、
それは、それぞれ、
自然の知
  『
(前略)人間に自然に備わった認識能力によって何か
 を知ること(中略)自然の光によって何を知ろうと、それ
 は煎じつめればただ神を知ることに、そして神が取り決
 めた永遠に変わらない事柄を知ることに帰着する(中略)
    この自然の知は、あらゆる人に共通の認識能力によって
 得られるものだから、あらゆる人に共通のものであ
 る。』(本書P54)


今一つは、
超自然の知で、
  『誰もが神の知と呼ぶあの[預言による]知(中略)は自然
 の知の限界を超えたところまで広がっており、またその
 ような[超自然の]知を得るには、人間に自然に備わって
 いる認識の規則だけではどうにもならないという点だけ
 である。』(本書P55)
と述べています。

スピノザによれば、どちらも神について知ることに違いは
ないが、自然の知を広めようとする者を預言者と呼べない
のは、
  『こういう人たちが教えてくれることは、教えられる
 側も相手と同じ確かさに基づいて、相手と同等の資格で
 受け取り、そして受け入れることができるから(中略)相
 手[=預言者の権威を]信じるしかない預言による知とは、
 そこが違う。』(本書P55)

と述べています。

これも当然のことで、預言者の知(超自然の知)は、神が直
接には特定の預言者にしか働きかけてこないので、他の
人間は最終的にはその預言者の言を信じる(か信じないか)
しかない
のに対し、自然の知、すなわち理性、あるいは知
性による自然の理解は、その結果得られる法則が神の存在
を示すことになるのだけれど、それは全員に共通の認識能
力に基づくので、ちょうど数学の問題を解く場合のよう
に、たとえ実際には問題を解ける人間は限られているとし
ても、一度解かれれば、その同じ推論の過程をたどって、
誰もが人間である以上、確信をもって理解できる構造に
なっているという点で違うと。










さて、スピノザは預言(啓示)について、それが超自然
の知
について語るものだから、 
  『(前略)この話題について何を述べるにせよ、
 その主張はみな聖書だけから取り出して来なけれ
 ばならない。そもそもわたしたちの理解力の限界
 を超えた事柄について語るわけだから、預言者た
 ち自身から口頭か文書で伝えられること以外は語
 りようがないではないか。ただ、わたしの知ると
 ころでは、今日預言者は一人もいない(中略)そう
 するとわたしたちに残された手段は、預言者たち
 の残していった聖なる文書の各巻[=聖書]をひも解
 くことしかない。』(本書P57)
と述べています。

そしてヘブライ人には何でもかでも神に差し戻し
語ってしまう癖があるので、
  『預言または啓示であると聖書ではっきり言わ
 れていること、または話の前後関係から預言のこ
 とを言っているとはっきり分かること、それだけ
 を預言と見るべきなのである。』
 (本書P58)
と述べています。

つまり、聖書に「神が誰それに語った」と出ていたと
ても、それだけではそれを預言というわけにはいかな
いというわけです。

そして、スピノザは聖書を通読して、神の預言者への
啓示は、言葉か、映像か、もしくは言葉と映像の両方
のいずれかによって示されていると言います。

つまり、神から啓示を受けるのに必要なのは並外れて
完全な精神、すなわち優れた知性ではなく、並外れて
活発な想像力の方であると。

また、個々の預言者の持っている身体的気質、想像力
の働かせ方、以前から当人の持っている考え方などに
合わせて、啓示されるものも違っていたと述べていま
す。
  『(前略)たとえばその預言者が陽気な人だった
 ら、そういう人には勝利とか平和といった、ひと
 びとに喜びをもたらすようなことが啓示された。
 そういう気質の人は何よりもそういう類のことを
 想像しがちだからだ。これに対し、陰気な預言者
 には戦争とか天罰といった、あらゆる種類の災い
    が啓示された。』
 (本書p106~107、ただし太字化はブログ作者、本
   書にはありません)
と。

そして、
  『(前略)想像力の働き方でも違っていたという
 のは、たとえばその預言者が洗練された人だった
 ら、やはり洗練された仕方で神の精神をとらえた
 し(中略)たとえば当人が農民なら牡牛や牝牛など
 が思い浮かんだり、軍人なら司令官や軍隊が浮か
 んだり、宮仕えをしていたなら玉座などが思い浮
 かんだりした(後略)』(本書p107)
のだと。

つまり、預言者の職業の違いが、その思い浮かんで
くること自体の内容の違いに反映されていたと。ま
た、中には、預言者エリシャのように、預言を受け
るのに、まず、音楽を求め、楽器の音色で楽しい気
分になってからでなければ、神の啓示を受けられな
い者もいた、と述べています。

こうしたケースと、預言者モーセの場合をスピノ
ザは厳格に分けています。というのも、モーセは、
『民数記』第12章によれば、夢の中でとか想像では
なく、直接神が「口ずから」語ったと書かれている
(『旧約聖書』1955年改訳 日本聖書協会)の
で、別格なわけです。

ところでスピノザは、
  『(前略)わたしたちは自然の原因を知らない
 うちは、神の力を理解できていないことにな
 る。これは間違いなくそうだ。ものごとの自然
 の原因が分らない時には、神の力そのもの[がど
 う働いてそういう結果になったのか]も分らな
 い。だからそんな時に、そういうものごとをま
 た神の力のせいにするのは愚策でしかないだろ
 う。』(本書p92)
と述べ、

また、

 『しかしわたしたちは、べつに預言による知
 の原因を探ろうとしていたわけではない。(中
 略)聖書が教えようとしていることからわたし
 たち自身の教訓を引き出すためである。これに
 対し、そうした教えがどのようにして生まれた
 のかは、そもそも当方の関知するところでは
 ないのである。』(本書p92)
とも述べています。

つまり、自然の知(自然科学)なら、自然の原因
が分らなければ、それは神についても、神がど
う働いて、そのような自然の結果が起こったの
か分からないのだから、分らないまま神の業と
言ってみてもあまり意味がない。したがって、
それは徹底的に自然の光、すなわち知性(あるい
は理性)によって探求するしかないが、預言の場
合は、元々神が特定の預言者にのみ現われ、そ
の預言者を通してひとびとに神が命令する現象
なので、そこで大切なことは、自然の知の場合
のように、預言による知の原因を探ることでは
なく、聖書から教訓、言いかえれば守るべき道
徳(正しい生き方)を学ぶこと、それがすなわち、
神の命令に従うことだというわけです。

要するに、そこで言われていることが正しいの
なら、それに従えばよいわけで、全能の神がど
のような経路をたどって人に働きかけているの
かなど、その原因を知らないことには従えない
というものではないというわけです。

また、スピノザは、
 『(前略)預言で預言者がそれ以前より賢くなっ
 たためしはなく、彼らがあらかじめ抱いていた
 考え方はそのままだった。したがってわたした
 ちは、単に思弁的な事柄については、彼らの考
 え方を鵜吞みにする義務は少しもないのであ
 る。ひとはみな驚くほど性急に、預言者は人知
 の及ぶ限りのあらゆることを知っていたと思い
 込んできた。聖書には預言者たちにも知らない
 ことがあったと明白に教えてくれる箇所があ
 る。』(本書p115~116)
と述べています。

スピノザによれば、預言者は知能が高かったから
預言者として選ばれたわけではなく、また預言を
得たからといって、それ以前よりも知的に優秀に
なったわけでもなかったと。

それどころか、神についてさえも、たとえば神の
属性にはどのようなものがあるかなど思弁的(論理
的思考による)な事柄については、預言者であるに
もかかわらず無知であったと。

たとえば預言者でもある、モーセの後継者ヨシュ
アにしても軍人で、今で言う天動説を信じていた
が、
 『(前略)軍人のヨシュアが天文学を熟知してい
 たなどと信じる義務があるだろうか。ヨシュア
 がその原因を知らなければ、彼に奇跡が示され
 たり、太陽光が普段よりも長く地上に止まった
 りすることはなかったなどと、信じる義務があ
 るだろうか。』
 (本書p116~117)
と述べているのを見ると、

預言者の言に従って自然科学を理解しようとする
必要も全くないということになりそうです。

こう見てくると、少なくとも自然の知については、
本当は神のことが一番重要だとしても、それは結
局、その前段階である自然の法則を知ることに達
しなければ、神のことも分らず仕舞いであるとい
う論法で、いつの間にか自然の法則を得ることが
最重要という形で前面に出てくることになりま
す。

変な喩えかもしれませんが、ちょうど、「大学受
験に成功しても、そのこと自体が重要なのではな
く、むしろ、その後に本当に勉強することに意味
がある」と言っていたのが、いつの間にか、結局
何をどういってみても、まず、大学受験に合格し
ないことには真の学問もできないのだから、まず
「大学受験に合格すること自体が重要である→最
大の目的・目標である」という風にいつの間にか
変形される話に似ているような気がします。

この立場からすれば、自然の知においては自然の
法則さえ知れば、もはや神のことも分かったも同
然ということにはなるでしょう。

一方、預言者が知的に優れていないからといっ
て、それが預言者の言を聞かない理由にもならな
い(正しいことであれば、従うべきだから)
という
こともスピノザは述べています。

ところで、それでは預言者たち自身は、
  『(前略)ただ想像力だけを通じて受け取った
 ものごとに対して、なぜ彼らはあれほどの確
 信を持てたのだろうか。』(本書p94~96)
と問うて、

それは彼ら預言者が「しるし」を握っていたから
だとして、そのしるしとは預言された何かが本当
に生じることだと述べています。

たとえば、出エジプト記には神がモーセに対し、
「神がモーセに現れたことを認めないであろうエ
ジプト人に対して見せろ」ということで、さまざ
まの不思議を起こして見せます。

あるいは、エジプトにイナゴや雹の害をもたらし
たり、また、エジプト脱出の際には有名な海が割
れた話なども出てきます。

さて、この預言者、一度神がその人物に現れ、そ
のしるしによってそれが神だと確信出来れば、当
然それ以後の彼の社会的活動は何か確信を伴った
ものに変化するはずで、それをカリスマという切
り口でとらえることもできるでしょう(というよ
り、もともとカリスマとはこの預言者らのことを
言い表した言葉だったようです)。

これはスピノザが本書で書いているわけではあり
ませんが、たまたま今読んでいる『ムッソリー
ニ』(ロマノ・ヴルピッタ著、ちくま学芸文庫 
2017年8月10日第一刷発行)(以下「ムッソ
リーニ」と表記)によれば、

その著者はムッソリーニをカリスマとして捉え、
次のように言っています。
  『ムッソリーニの天命の自覚は彼を《神秘
 的》な人物にしていた。彼は自分の主張に絶
 対的な確信を表したので、私心私欲をもたな
 いで本音をしゃべる人物として受け取られ、
 強い説得力があった。そして、ムッソリーニ
 の情熱に圧倒された人々は
、彼が示した確信
 に甘えて安定感を抱き
、《非合理的》に彼の
 主張を信じた。(中略)改良派の幹部ジボル
 ディ(は)(中略)ムッソリーニが人気のある理由
 は、政策よりも一段と高い資質にあり、「そ
 れは、信念、素直さ、一貫性、真理への追
 求心である」と(中略)指摘した。』
     (「ムッソリーニ」p23、ただし太字化、
    および(は)は挿入はブログ作者、本書にはあ
 りません)
と。

つまり、人々に社会変革を説く人物、しかもそ
れが預言者であれば、それは他者には当然神秘
的かつ非合理的に映り、また、その一貫性をも
ち確信に満ちた言動が国民にある種の安定感を
もたらしたであろうことが、ここからも推測さ
れます。

日本の文化においては、各人が場をわきまえて
行動することが社会に安心感(安定感)をもたら
すとすれば、預言者が活躍するような社会で
は、特別な人物(神が現れるような人物は限ら
れているのだから)が、確信を持った言動を示す
ことが、その社会の安心(安定)に深くかかわる
ような気がします。

日本は大陸と周りを海で隔てられ、そうそう他
国に侵略されるような状況になかったため、一
旦できあがった「応分の場を占める原則」もそ
れなりに機能し得たでしょうけど(特に江戸時代
なら)、仮にその精緻な「応分の場を占める」原
則をユダヤ人社会に適用しようとした場合、そ
うしようにも、前述したように、まわりを強力
な異民族に囲まれている環境下では、一たび侵
略されれば、そのような制度は根底から容易に
覆ってしまう―実際バビロン捕囚では支配階層
がごっそり連れ去られたわけで、そういう制度
自体維持することが難しかったでしょう。

反対に預言者らを通して出現する見えない神に
従っていれば、仮に国は滅ぼされ、たとえその
身は奴隷に落とされたとしても、目に見えない
は制作された偶像のようには万人の見ている
前で打ち砕くことができないので、精神的な面
で侵略以前と同じような統一性を保つことがで
きるという面があったのかもしれません。

さて、スピノザはこのように預言者を信じるこ
とについては否定していませんが、奇跡につい
ては、一般に神の奇跡ということで考えられる
ことを否定しています。

スピノザは神の意志神の知性ということにつ
いて述べて、人間においては、人が何かを意志
することと、人が何かを知っているということ
とは全く別のことですが、神にあってはこれは
同じことだと述べます。

そのことを三角形の本性、たとえば「三つの角
の和が必ず二直角(永遠に)になる」(今ならユー
クリッド幾何においてはと但し書きが必要で
しょうが)に言及して、

このことを「神は知っている」と表現しても、
神がそのように取り決めた、すなわち「意志し
た」と述べても、実は同じことを言っているに
すぎないのだとスピノザは言います。

なぜなら、この三角形の永遠の真理が、神の本性
の中に含まれていることを、神が三角形の観念を
持っている、あるいは神は三角形の本性を知って
いる(すなわち神の知性)と表現しても、神の本性
の必然性によって、永遠にそのように取り決めた
(意志した)と説いても同じことなのだからと。

そして、このことを認めれば、
  『(前略)あらゆる必然的な真理がもっぱら神
 の取り決めに基づいているとすると、当然なが
 らさまざまな自然の一般法則も神の取り決めに
 他ならない。そしてこのような取り決めは、神
 の本性の必然性および完全性に由来するもので
 あるということは、もし自然の一般法則に逆ら
 うような何かが自然のうちに起こるならば、そ
 れは必然的に神の取決めに、神の知性にも、そ
 して神の本性にも逆らうことになる、つまり、
 もし神は自然の法則に反する何かを行うと主張
 するならば、その人は同時に、神は神自身の本
 性に反する行いをするという不条理きわまりな
 い主張を余儀なくされのである。』
 (本書P261~262)
と。

だから、自然のうちには自然の一般法則に逆らう
ようなことは何も起こらないのだと。ただ、
  『(前略)そうした法則や仕組みがわたしたち
   余すところなく知られているわけではない。』
 (本書P263)
だけで、これらのことから、スピノザは奇跡とい
うものを否定しています。

そして、
 『(前略)奇跡とは民衆の理解力に即して作られ
 たものであり、その民衆は自然のものごとの仕
 組みなど全く理解していないから、民衆の普段
 のやり方で説明がつかない時には、昔の人たち
 は自然のものごとを何でも奇跡扱いしていたに
 違いないのである。(中略)見ても驚かなければ、
 民衆は何を見ても自分が十分に理解していると
 思い込んでしまう(後略)』
 (本書p264~265)
と述べています。

そこで、有名なモーセの出エジプトのシーンにお
ける奇跡についても、
  『(前略)奇跡には、いわゆる端的な神の指図
 とは別の何かが欠かせないのである。だからこ
 そ、たとえ奇跡の生じた事情や自然的要因が話
 題にされないことや、詳しく語り尽くされない
 ことがあるにしても、奇跡というものはそうし
 た事情や原因なしには生じなかったと考えるべ
 きなのだ。(中略)モーセが合図しただけで海が
 再び荒れだしたと語られていて,風のことは
 全く言及されない。しかし[モーセたちが神にさ
 さげた感謝の]歌(中略)の部分では、神が神の
 風(つまりこの上なく激しい風)を吹かせたから
 こういうことが起きたのだと言われている。』
 (本書p282)
と。

つまりモーセの合図と海に変化が生じたことの間
には、民衆が知らないだけで、何段階かの自然的
過程が含まれているわけです。

もっとも、そうはいっても、スピノザにおいて
は、自然の原因自体が神なので、奇跡は否定して
も、神そのものを否定することにはなっていませ
ん。
  
 『(前略)聖書はものごとをその一番近い原因か
 ら説明するのではなく、単にひとびとを、とり
 わけ一般民衆を [神への]奉仕に駆り立てるた
 め、それに一番適した順序や言い回しで語って
 いるだけなのだ。(中略)理性を納得させるので
 はなく、ひとびとの妄想や想像力を刺激し、こ
 れをとりこにしようと努めているからであ
 る。』(本書p283)
とさえ述べて、奇跡はあくまで民衆を神に従わせ
るための材料、道具立てと見ています。

さて、7章に入るとスピノザは聖書の解釈方法に
言及して、それは自然を解釈する方法とまったく
同じであると言います。

そして、自然の場合、われわれには自然とその活
動だけが与えられていて、自然の規定(法律でいえ
ば、個々の条文にあたる法律、個々の自然法則の
ことか)は与えられておらず、われわれが確かな自
然のデータから規定を導き出すように、
 『(前略)聖書の純正な歴史物語を取りまとめて、
 それをもとに、つまり確かなデータや原則をも
 とに、正しい帰結をたどって聖書作者たちの
 精神を導き出す(中略)聖書の歴史物語を聖書作
 者たちの意図(精神)どおりに、つまり「純正な」
 形で理解するためには、物語が記されている聖
 書原文そのものの成立背景や継承過程を熟知
 し、こうした歴史的事情によって原文に生じた
 不明瞭さや歪みを取り払う必要がある。』
  (本書p304~305)
と述べ、

聖書に語られているものごとの規定は、やはり
書そのものには出ていない
から、
 『聖書に語られるものごとの規定も、聖書に出
 てくるそれについてのさまざまな記述から読み
 取られなければならない。(中略)聖書の歴史研
 究から明白と認められないようなことは、何一
 つ聖書の教えとして認めてはいけない。これこ
 そ聖書解釈の一般規則である。』
 (本書p307~308)
とし、

そして、聖書の発言の意味を明瞭に確定するには、
その発言の意味が文脈から簡単に引き出せるかを
基準とすべきであり、その意味内容が理性に照ら
して合理的かどうかを基準にすべきではないと
言っています。

どういうことかというと、たとえば、聖書に「神
は火である」「神は妬むものである」と預言者
モーセの言葉として出てきたものを、たとえば、
無限の存在である神が「火」というのはおかしい
などと合理的観点から問題にして、あるいは神が
「妬む」存在であるというのもおかしいというこ
とで、いきなり何らかの異なる意味に解釈し直そ
うとするのではなく、これは言葉の意味するとこ
ろにはなんら不明瞭なところのない表現なのだか
ら、まずは、そのままその通りの意味として押え
るべきだと。

スピノザは、このことを、
 『わたしたちは、本当の意味は何かという問題
 と、意味されている事柄が本当かどうかという
 問題を、混同してはならないのだ。前者[=本
 当の意味]は、言語の用法だけを頼りに探るか、
 聖書のみに基づく推論によって探らなければな
 らない。』(本書p309~310)
としています。

そして、聖書内で探っていって、
 『(前略)モーセは別の箇所で、天のものか地上
 のものか水中のものかを問わず、およそ目に見
 えるものと神は似たところを全く持たないと何
 度も説いている。』 (本書p310~311)
というところを見て初めて、

「およそ目に見えるものと神は似たところがな
い」か、「神は火である」かいずれか一方の記述
比喩と解釈しなければ矛盾が生じることになる
ので、そこまで来て初めて、比喩ということが話
題になるのであり、それも、文字通りの意味から
遠ざかるのは最小限にしなければならないという
原則に従わなければならないと述べています。

この場合であれば、「およそ目に見えるものと神
は似たところがない」の方は、繰り返し聖書で述
べられているのだから、そちらが真実で、「火」
の方が比喩ということになります。

ところで、「火」という名詞は怒りや妬みの意味
にも受け取れるからとして、
 『(前略)「神は火である」と「神は妬むもので
 ある」という二つの発言は[意味的には]同じも
 のだと結論できる。(中略)神が情念、つまり心
 のさまざまな受動的状態を持たないなどと述べ
 ている箇所はどこにもない。したがって、[神
 が嫉妬に駆り立てられるというのが]いくら理
 性に反する主張に思えても、モーセはそう信じ
 ていた、あるいは少なくともそう説こうとして
 いたと結論しなければならない。』
 (本書p312)
と述べています。

こういう記述を、いくら全能の「神が嫉妬深い」
という表現が理性に、あるいは論理に反している
ように思えても、それを勝手に解釈し直してし
まうと、結局、聖書の記述は全く違ったものとし
て伝えられてしまうことになってしまうからで
す。

少なくとも、預言者モーセがそう(「神は嫉妬深
い」)信じていたことは確かで、また、前述した
ように、神は当時の民衆の理解のレベルに合わ
せて
教えを説いてくるので、今から見ると記述
の中に矛盾らしきものがあったとしても、その
ことで説明に致命的な欠陥があることにはなら
ないというわけです。

そして、自然科学の手法と対比して、
 『自然のものごとを詳しく調べる場合、わた
 したちが何より先に突きとめようとするの
 は、最も一般的で全自然に共通している事柄
 である。つまり運動と静止、またそれらにま
 つわる法則や規則の類である。(中略)聖書の
 歴史研究から、まずは最も一般的で、聖書全
 体の基礎であり根本になっていることを探し
 求めなければならない。それはつまり、あり
 とあらゆる人間にこの上なく有益な永遠の教
 えとして、聖書に出てくる預言者たちが誰で
 も説いているようなことである。』
 (本書p314~315)
として、

それを凝縮する教えは、結局、三つだとして、
①唯一全能の神が実在すること
②その神だけが敬われるべきこと
③隣人を自分自身のように愛すること
の三点になると述べています。

それに対し、
 『(前略)たとえば神とはどのような存在で、
 どのような仕方で万物を見たり予見したり
 するかとなると、話は違ってくる。こうし
 た類のことは公然とした形で、永遠の教え
 として聖書に説かれているわけではない。
 (中略)こうしたことについては預言者たち
 自身の間でも見解がそろっていなかっ
 た。』(本書p315)
と述べ、

たとえ神の属性のような重要な事柄でも、預言
者の間で一致を見ていないような事柄に関して
は、知りようがないのだから、判断を保留する
しかないと考えているようです。

そして、そのようにして聖書の一般的な、ある
いは核心的な教え(道徳)がうまく分ったら、次
にはより一般性の低い事柄、たとえば望ましい
外的個別行為はどのようなものかということに
進んでいけばよいとしています。

だから、たとえば、キリストが「あなたの右の
頬を打つ者には、もう片側の頬も向けてやりな
さい」と言う時、それは、
     『(前略)彼は立法者として法を制定したので
    は なく、賢者として教えを説いたのである。
    なぜなら彼は(中略)ひとびとの外的な行為よ
    りもむしろ心を改めさせようとしたからだ。
     (中略)不道徳な者たちが何をしても許してや
    れというキリスト(中略)の教えは、正義が軽
    んじられている圧政の時期に限って通用する
    ものであり、よい国においては通用しない。
    正義が守られているよい国では、正しい人と
    して認められたければ、[自分が被った]不正は
    むしろ裁判官の前で問いただすのが義務なの
    だ(後略)』 (本書p317~319)
と述べて、

このように一般性において劣る教え(あなたの右の
頬を打つものが---)については、社会状況の変化に
応じて異なる解釈が可能であるとスピノザは述べ
ています。
  
さて、テキストの記述の順序とは異なりますが、
スピノザは本当の幸福ということを取り上げて、
まずそれは「よいこと自体を楽しむ」ことにある
と述べています。

この辺は、以前書いたアリストテレスの『ニコマ
コス倫理学』と
も共通する部分で、つまり、「幸
福とはそれ自体がよいことを、よいことだからと
いう理由だけですることによって得られる」ので
あって、たとえば、何か他のことのためにそれが
よいからするというようなこと、すなわち別のよ
いことの手段として或ることをするというのであ
れば、その目的たる行為の方がよりよいことだと
いうことになり、そちらをする所まで達しなけれ
ば、真の幸福は訪れないという話にもなってきま
す。

そこで、
 『(前略)他人はそうでもないのに自分だけ調子が
 いいとか、他人よりも恵まれているとか運がい
 いとか、他人と比べないと自分が幸せだと思えな
 い人は本当の幸福を知らないのである。そこから
 感じる喜びは、ごく他愛のないものならまだいい
 が、そうでなければ妬みや悪意の産物でしかな
 い。(中略)いくら他人と比べてみても、当人の知
 恵つまり幸福は少しも増えないからだ。』
 (本書p146)
と述べて、この論法でヘブライ人の選民意識も否定
してみせます。

すなわち、もし神がヘブライ人だけが選んで、彼ら
だけに特別に正しい律法を授けてくれたのだとの、
そして、その神の教えに従った結果、彼らだけが救
済されることになるのだとの考えに対しては、

もし仮りに神がその他の異民族にも現れて、同じよ
うに律法を授け、異民族を救済したとしても、ヘブ
ライ人以外にも救済される者が出てくるというだけ
で、そのことによって、ヘブライ人が救済されなく
なるわけでもなく、ましてや、自分たちの幸福がそ
の分減らされることになるわけでは決してないの
で、その考え方自体が間違っていると言っていま
す。

スピノザはそのような形(選民思想)で神が現れたの
は、当時の頑固なユダヤ人(とスピノザは言う)の
理解力に応じて、理解しやすいような言葉で神が現
れたのだとしています。

スピノザは、人間が真剣に望むことは三つあるとし
て、
①ものごとをその大本の原因から知ること
②感情をうまく制御して徳ある生き方を身につけ
 ること
③安全で健康な身体で生きること
を挙げており、

この①②については自分の力だけで十分であるが、
③だけは外部のものごとが決め手となるとして、
  『もちろん、ひとが指図や気配りを怠らなけ
 れば、他の人間や動物からの危害を逃れて安全
 な生活を送るための大きな助けになるだろう。
 そのための一番確実な手段は何かといえば、(中
 略)それは他でもない、何らかの法によって社会
 を作り上げ、この世の一定の地域を占有し、万
 人の力をまるで一つのもののよう、つまり社会
 の力として結集させることである。』
 (本書p153)
と述べています。

なるほど、なんらかの法によって社会を形成する
こと、そしてその社会の成員の力を結集して一体
とできれば、それは一応安全な生活を送る上で助
けとなるとしながら、それでもなお、それだけで
は外部からの侵略に対しー実際ユダヤ人の国が
周りを強国に囲まれていたことを考えるとーそれ
だけで乗り切ることはできないわけで、にもかか
わらず、その社会の存続に有利な状況が続けば、
それは奇跡と呼ばれてもおかしくない、すなわち
神の導きだということにもなってくるわけで、

預言者モーセは、
 『自民族の強情な気質や考え方を知ったモーセ
 は、はっきりとこう気づいたのだ。一旦始め 
 [独自の国家を作るという]計画を自分たちが完
 遂するためには、きわめて大がかりな奇跡や、
 神による特別な外からの助けが欠かせない。(中
 略)モーセが神による特別な外からの助けを求め
 る理由は、民が強情だったからなのだ。(中略)
 「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはおまえ
 の民すべての目の前でいくつもの奇跡を起こす
 であろう。それらはかつて地上のどこでも、
 どの国民にも起こったことのないほどのもので
 ある。』(本書p173~174)
と。

ただし、この奇跡については先ほども述べたよう
に、スピノザは自然の理解から否定しているの
で、それは当時の民衆の理解のレベルからする
と、神に従わせるためには効果があるので、奇跡
という形で示しただけだということになるでしょ
う。

さて、スピノザは法というものを考察して次のよ
うに述べています。


まず、法を、もっとも抽象的なレベルで定義して、
法とは、すべての個体に共通する点、あるいは同
種のいくつかの個体だけに共通する点がある、
ういう共通点について個体がすべて従っている何
かである
として、それには二種類あると言いま
す。

その一つは、①自然の必然性による法であり、今
一つは②ひとびとの合意による法であると。

そして、①は物事の本来の性質から必然的に帰結
する法であり、②は、
 『(前略)ひとびとがより安全で快適に暮らすた
    めに、あるいは他の理由から、自分と他人に課
    す法のことである。』(本書p189~190)
としています。

そして、
 『(前略)ひとびとが自分や他人に対して何らか
 の目的のために課す生活規則こそが法に他なら
 ない、とされた場合、そうした法は人間の法と
 神の法に分けられるように思われる。人間の法
 とは国や生活の安定に役立つだけの生活規則
 ことであり、これに対し神の法とはもっぱら
 高善
に、つまり神を本当に知ることや愛するこ
 とに関わるもの
のことである。』
 (本書p194、ただし太字化はブログ作者、本書
    にはありません)
と述べています。

さて、ここで、スピノザは知性の重要性を強調し
ます。

それは、この最高善について、人間を構成するも
ののうちで他よりも優れているのは知性だから、
 『もし自分にとって本当に有益なものを求めよ
   うとするならば、わたしたちは何よりもまず、
   知性をできる限り完全なものにするよう努めな
   ければならない。知性を完成させることこそわ
    たしたちにとって最もよいこと[=最高善]に他な
    らないはずだから、これは確かなことだろ
    う。』(本書p194~195)
と。

論法としては、知性のはたらきが人間では最も価
値あるものだから、それによって自然を理解する
ことが最も人生で価値があることであり、さらに
その知るということ自体を考察すると、
 『さて、わたしたちが何を知るにせよ、また本
 当に一切の疑いをもたずに確信するにせよ、そ
 うした知や確信の支えとなるのは、神を知るこ
 と以外の何ものでもない。それは神なしにはど
 んなものもありえないし知りえないからでもあ
 るし、また神について明晰判明な観念を持たな
 い限り、わたしたちは何でも疑ってしまえるか
 らでもある。この帰結の一環として、わたした
 ちの最高善は、つまりわたしたちの最高の完成
 は、ただ神を知ることにかかわっていることに
 なる。』(本書p195)
と。

そして、その神を知るということは、ものごとの
原因と結果の結びつきで考えた時、自然の結果と
は原因のある特性が結果として現われることにな
るのだから、自然(つまり結果)について知れば知
るほど、それは原因としての神の本質を知ること
になるという風に言えると述べています。

結局、
 『(前略)神こそ最も完全な存在である。そうす
 ると、必然的に、最も完成された人間、至高の
 幸福に最も多くあずかっている人間とは、神を
 知的に理解することを他の何よりも愛し、また
 そのような神の知を何にもまして喜ぶ人という
 ことになる。』(本書p196)
と。

そして、神の法=[神を知り、愛すること]のみを目
標とする法、人間の法=[神を知り、愛すること]
以外のことを目標とする法、としたうえで、スピ
ノザは神の法によって、たとえば聖書の歴史物語
を信じるように求められることはない、あるいは
特定の儀礼を行うように求められることはないと
して、
 『儀礼とは、それ自体としてはよくも悪くもな
 い(中略)これに対し、ただ取り決めや制度の上
 でよいとされているだけのこと、つまり何らか
 のよいことを思わせるものだからというだけの
 理由でよいとされていることは、わたしたちの
 知性を完成させる助けにはなりえない。』
 (本書p201~202)
からと述べています。

つまり、この思考形式に従うと、たとえば、日本
の「応分の場を占める」原則を、それが社会を安
定させるものとして持ち出しても、それに対し
て、それはただ取決めや制度上でよいとされてい
るだけで、「何かよいものをそれが思わせるから
よいとされているだけ」だとの批判が可能になり
ます。

さて、スピノザは、法を神の法人間の法に分け
ましたが、

たとえば「姦通を犯すことなかれ」という法も、
 『(前略)ただ共同体および国の利益だけを念頭
    に置いた命令である。もしモーセが道徳的な教
    えを説こうとしていたなら、その時には公共の
    利益だけでなく、心の平安やひとびとの本当の
    意味の幸福といったことも念頭に置く必要が出
    てくるから、彼は実際に姦通を行うことだけで
    なく、姦通したいと心で思うことすら戒めてい
    たはずである。』(本書p223)

として、

この方は、モーセが説いた意味では、実際にその
行為(姦通)を行った場合に罰する人間の法であり、
心で思うことさえ禁ずる神の法ではないとしてい
ます。



また、モーセは、法を定める際、人びとが恐怖に
かられて義務を果たすのではなく、自発的にそう
するようになることを心掛けたとし、
 『(前略)理由は二つあって、一つはひとびとの
 気質が頑固であったこと(彼らはただ力ずくで
 駆り立てられるのには気質的に耐えられなかっ
 た)、そしてもう一つは、戦争が差し迫ってい
 たことである。戦場で(中略)兵士を(中略)励ます
 ことが肝心なのだ。(中略)こういう事情から、
 モーセは(中略)共同体の中に宗教を持ち込んだ
 それは民衆に義務を果たさせる時、彼らを恐怖
 よりもむしろ奉仕の心で駆り立てるためだっ
 た。』(本書p237、ただし太字化はブログ作者、
 本書にはありません)
と述べています。

結局周りが強国ばかりで、戦いから逃れられない
運命にあるとき、恐怖を抱くのは当然のことで、
それでも戦いを継続しようと欲するなら、その恐
怖を神への奉仕という形に転換しないことには続
行できないということでしょうが、これは我が国
においても、もともと勝利の見込みのない先の大
戦におけるアメリカとの戦争を継続するために、
日本神話の力が急に必要になってきたこともその
ような意味だったのかと思わされます。

最後に、古代ユダヤ社会では、ヘブライの大祭司
が法を解釈する権威を持っていたことにつき、そ
の法、すなわちモーセの律法は、
  『そもそもモーセの律法は[ユダヤ人の]国の
 公の法だった。だからこそ、これを守るために
 は必然的に、何らかの公の権威が求められたの
 である。もし誰もが好き勝手に公の法を解釈す
 る自由を持っていたら、どんな国でも存続でき
 ず、むしろこれによって直ちに解体されてしま
 うからだ。(中略)ところが(中略)宗教で重要な
 のは外的な行いよりもむしろ純朴で誠実な心を
 持つことなのだから、宗教はどのような公の法
 にも権威にも支配されない。どんな公の権威を
 立てても、ひとびとの心に純朴さや誠実さを
 注ぎ込むことはできないからだ。』
 (本書p354~355)
として、

ヘブライ人の大祭司に国の法を解釈する権威が
あったからといって、ローマ法王に[キリスト教
という]宗教を解釈する権威があると結論するの
は全く筋違いだと述べていますが、だから禁書
になったのでしょう。
 『(前略)ひとはそれぞれ、ものごと(これには
 宗教のことも含まれる)を自由に考える至高の
 権利を持っている。そしてこの権利を放棄で
 きる人がいるなどとは到底考えられない。』
 (本書p355)
と述べています。

共同社会を維持するための法は、上述の通りで、
誰にでも解釈権を与えることができず、その権
威を固定しておかねば社会が混乱してしまうけ
れども、個々人の心の中の問題である宗教につ
いては、それを権威によっては強制できず、各
自がその与えられた自然の光、すなわち知性に
基づいて解釈するしかないと。

それは、先ほどスピノザが聖書の記述を解釈し
て見せたように、まず核心的な神の教えについ
ては、預言者間でも一致を見ているのだから、
それを基礎に据えて、あとは、自然の光、すな
わち知性に基づいて、できるだけ聖書の記述を
その言葉通り(「神は火である」)に理解しなが
ら、それが他の箇所、それも何度も同じことが
繰り返し説かれているような部分と、あるいは
聖書の核心的な教えに矛盾するような場合にだ
け、比喩として解釈し直すという形で各自が進
めていくしかないと。

この結果、自然科学がまず全面的に人類に共通
の知性による追求に任され(したがってこの面
では預言者に従う必要はない)、次いで、預言者
のもたらした知についても、預言者間で一致の
見られる核心的な道徳的教えについてのみ従え
ばよいのであって、残りの部分は各自の知性に
よる自由な解釈に任され、したがって、解釈の
間違いということさえも許される、そうやって
徐々に真理に到達することが認められるべきだ
とスピノザは言っているようです。

この考察の結果、聖書の解釈で教会の権威に従
わなければならない部分というものはないとス
ピノザによって結論付けられることになりま
す。

本日はこのあたりで失礼いたします。



  


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