2017年10月13日

お早うございます、よろず 齧るです。

今回齧ったのは、



です。 

下巻は、古代ヘブライ人の国家が神権体制であったというこ
と、また神権体制とは一体どのようなものであったのかとい
うことをまずは理解するという視点に立って読むと非常に興
味深いものです。

というのも、以前ご紹介したモンテスキューの『ローマ盛衰
原因論』(中公クラシックス)には、古代ローマ帝国の独裁
者=皇帝は、人民の評判・動向を非常に気にし、人民におも
ねり、利益を与え、その利益を与えるために必要なら、有力
な資産家から財産を没収さえして、人民に与えたことが書か
れていましたが、

それと比較した場合、神権制のこの国にあっては、
  
  『(前略)民衆の評判や偏見を少しも恐れる必要がなかっ
 た(そもそも、神にまつわる事柄に自分で判断を下そうと
 する人が誰もいないのだ)。彼らは神殿が受け取った神か
 らの応答という権威により、あるいは神によって制定さ
 れた法という権威により、自分たちに命令されたことす
 べてに対して理由を全く聞かずに従わなければならな
 かったのである。』  
 (本書p232~233)
とあります。

つまり、国のすべての統治が神の命令という形でなされてい
たこのような国家にあっては、どの法の批判も、あるいは
その法の変更も、既にある神の法への批判・変更を意味す
る、結局神へ言及することなくはなされ得ないので、そうな
ると、神に認められた、神が直接それに現れた預言者(=社
会からそう認定された、非の打ちどころのない人徳ある人物
で、かつ神の「しるし」<奇跡など>を民衆に示せる者)を
通してでない限り発言できないし、またしたとすると、偽預
言者ということで死罪になる可能性もあったからです。

今のわれわれなら、それこそ言論の自由ということで、成立
した法律を悪法だなんだと平気で自由に意見が言えますが、
それは意見を言うことと、現実にそれを法律化するためにア
クションを起こすこと(最終的には国会を通す)との間にはま
だ隔たりがあるので、意見を言うだけなら、いわば社会に与
える危険性は小さいし、また、世間の空気が何となくあるこ
とが法律化されればよいとなっても、実際には国会を通さな
ければ法律としては成立しないため、そこには、もう一度
冷静に考え直す機会も与えられているからといえるでしょ
う。

ところが、神権制社会においては、一たびある人物が預言者
だと認定されれば、それ以降、その預言者が発する言葉は法
律と同じ重みをもつことになります。

まあ、もちろん社会的に非の打ちどころのない人物でなけれ
ば、預言者とは認定されないようですので、決してそれが簡
単ことだとは言いませんが、一たび認定されれば、ただ一人
の意見によって社会が動かされていくことに違いはありませ
ん。

いずれにせよ、神権制の社会にあっては、「現行の法律に文
句があるのなら、それは神の法律なのだから、預言者を通し
て言ってくれ。」ということにでもなるでしょうか。

そして、逆に預言者なら、死罪も恐れず(どうしてそれができ
るかといえば、それこそ神が臨場感をもって預言者その人に
出現し、命令してくるので、そのことを確信できるから)、神
の言葉を伝えざるを得ないということになるわけで、死をも
恐れない心理状態にもなり得ていたのでしょう。

また、たとえばある法を、預言者が個人的には良くない思っ
たとしても、それはあくまで預言者個人の意見にすぎず、神
からその法を変更せよとの預言が実際になければ、その自分
の意見を、あたかも神の指示だとして勝手に述べることはで
きなかったでしょう。

ということで、一旦できあがったこの体制では、法律は新預言
が出ない限り、変更の余地はなかったということになりそうで
す。


さて、ここで改めて、神権制とはと尋ねると、スピノ
ザの定義によれば、それは神との契約によって,
①民衆が自分たちの権利を神だけに譲り渡す
②神に命じられたことには無条件で従う
③神が預言者に啓示し定めたもの以外のどの
 ような権利関係も認めない
の三点を満たす体制のことを指すということになりま
す。

つまりそれは、
 『(前略)この国では、国が定めた権利関係と、わた
 したちが既に示した意味での宗教とが、一つの同じ
 ものだった。宗教の内実は、神に従うことに尽きる
 からである。つまり宗教上の教義は[ただの]教えで
 はなく、法制度であり指令であった。信仰心をもつ
 ことは正義であり、もたないことは罪であり不正で
 あるとされた。(中略)端的に言ってしまえば、国の
 法と宗教がはっきり区別されていなかったのであ
 る。まさにこの理由から、この国は神権政体と呼べ
 るものだった。』(本書p202)
と。

何しろ、神が預言者を介して伝えてきた命令には無条
件で従うのだから、神の言葉があれば、それが、即、
法律となり、また、③によれば、預言者を通しての、
そのやり方以外の仕方では新しい法律は作れない、す
なわち、新預言以外に元の法律を変更したりする方法
はないわけですから、法律としては変更が難しく、そ
れなりに安定性があったことになります。

さて、神権制をそういうものだと理解すると、ポイン
トは二つあるように自分には思われます。

一つは対内(国内)関係で、

何かこう神権体制と聞くと、全能の神が有無も言わさ
ず民衆に迫って言うことを聞かせている体制のように
イメージされるけれども、そうではなく、あくまでヘ
ブライ人が神との契約に基づき、神に権利を委譲する
形式をとってなされているからこそ、預言者の口を通
して語られた神の言葉がそのまま国の法となるので
あって、

いくら神託といっても、それがただ預言者によって語
られているだけの段階では、たとえ全能の神が存在し
て、預言者の口を通して、自分の意志を示したとして
も、それだけではそれは単なる神の言葉が存在してい
るだけであり、そこから神権制にせよ、国家が出てく
るためには、そこには人間の側からの行為、すなわち
その神に無条件に服従を誓う(あるいは神に向かって
自身の権利を放棄する)という行為、あるいは契約
必要になってきます。

そのことをスピノザは、
 『そもそも宗教というものは、支配権を持つ人たち
 がそう取り決めない限り、権力上の力[=法権利上の
 拘束力]を得られない。支配権の持ち主を介さずに、
 神が直接治めている特別な王国などというものは、
 人間世界には存在しないのである。さらに言えば、
 宗教上の礼拝や道徳心に基づく活動は国の平和や利
 益と両立するものでなければならず、したがってそ
 の内容は、もっぱら至高の権力の持ち主たちによっ
 て取り決められる必要がある。』    
   (本書p270、ただし太字化はブログ作者、本
  書にはありません)
と述べています。

また、
 『だから預言による啓示宗教も、それがヘブライ人
 たちの間で権利上の力をもつようになるためには、
 ヘブライ人たち一人一人が自分のもつ自然な権利を
 まず放棄しなければならなかった。そしてみんなが
 共通の合意に基づいて、自分たちに神から預言で示
 されることだけに従うよう決断しなければならな
 かった。これはわたしたちが示してきた、民主政体
 で行なわれたやり方と全く同じである。』
 (本書p275)
と。

そうするとこれは考え方としては、社会契約説と呼ば
れるものと同じだと言うことがわかります。何しろ、
民衆の権力を国家あるいは政府に移譲するか、神に移
譲するかの点が違うだけですから。

それからもう一点、対外(国際)関係においては、

この契約は、神とヘブライ人との間でのみ交わされた
契約であるので、この契約に関与していない異民族
対する関係では、ヘブライ人は神の命令に基づく道徳
には縛られなかったということです。

つまり、ヘブライ人同士なら、神との契約により、
「隣人を自分自身のように愛すること」という神の命
令に従わなければならないけれども、異民族はこの契
約には関与していないので、これと付き合う上でヘブ
ライ人はこれに縛られないというわけです。

ではこの神との契約が、ヘブライ人において具体的に
どのようになされていったかですが、それは預言者
モーセを介してなされたとスピノザは語っています。

すなわち、  
 『ヘブライ人たちは(中略)この[神との]最初の出会
 いですっかり恐れおののき、(中略)彼らの大多数
 は、恐ろしがるあまりモーセに改めてこう頼んだ。
 (中略)あなたが出かけて行って、神がわたしたちに
 命じられることをすべて聞いてきてください。(
 略)わたしたちは、神があなたに語られることには
 すべて従い、それを実行いたします。』
 (本書p203~204)
と。

ヘブライの人々はその神を恐れて、神に従うけれど
も、以後、モーセがただ一人で神の言を聞き、その
モーセが伝えてきたことに無条件に服するという形
で本来全員が持っていた権力の放棄がなされたと。

そしてこの瞬間、モーセだけが、神に伺いを立て、
神からのお告げを受けて、それを解釈し、神の法律
(律法)を起草する、至高の権力を
ただ一人で担う体
制が成立したのだと。

つまり、神の言葉(意志)を実現するためにその至高
の権力を神に代わって行使する、いわば、この世の
(神の)管理人に預言者モーセはなったのだと。

そしてこの瞬間、民衆は当然のことながら、モーセ
の後継者
を選ぶ権利もまた同時に失ったと。という
のは、神への、そしてそれは実質的にはモーセへ
の、権力移譲により、モーセがもし神託を通じてに
せよ、そうでないにせよ、後継者を自分一人で指
定・指名すれば、民衆はそれを神に選ばれた人物と
して認めざるを得なかったからです。

ところが、モーセはそうできる立場にあったのに、
そうはしなかったと。

すなわち、
 『(前略)しかしモーセはそのような後継者を誰も
 選ばなかった。(中略)律法を説明したり神託を伝
 達したりする権利の持ち主と、説明済みの律法と
 伝達済みの神託にそって国を運営していく権利や
 権力の持ち主が、別々だったからである。』
 (本書p205~207)
と。

どういうことかというと、モーセは、自分の出身部
族であるレビ族の、自分の兄弟アロンを神の律法の
至高の釈人として、大祭司に任命し、神からの回
答(神託)を
民衆に伝える権利を与えたわけですが、
そう聞くと、何やらそれだけで大祭司が全権力を
握ったかのように聞こえますが、そこには巧妙な仕
掛けがあって、大祭司は、神の言葉を伝え、解釈す
ることはできても、単独で神に伺いを立てることは
できず
、総司令官や最高会議から求められて初めて
伺いを立てることができた、とスピノザは書いてい
ます。

ということは、仮に、大祭司が個人的な権力欲をも
ち、自分が考える方向に国を動かそうとしても、勝
手に神にお伺いを立てて、その答えを入手すること
はできなかったわけで、あくまで司令官なり最高会
議なりの求めに応じて、たとえば、「今度隣国と戦
争すべきかどうか伺いを立ててくれ」と言われたよ
うな場合に、初めて伺いを立てられたという風に考
えられ、もしその答えを司令官が気に入らなかった
場合には、あからさまに神のお告げに逆らうという
ことはできなかったでしょうが、少し間をおいて、
神に再考を促す?再度伺いを立てることも許さたので
はないかと推察します。

そして、このようにして祭司(階級)のレビ族は、

治権からは徹底的に切り離されて、その代わりに
モーセは、残りの民衆が彼らを養うように定めたよ
うです。

ところで、モーセは大祭司に自分の兄弟のアロン
を、その次の大祭司にはアロンの息子のエレアザル
を選びましたが、
 『(前略)モーセの死後このような祭司を選ぶ権利
 を持つ人は誰もいなくなった。その地位は法に
 則って父から息子へ世襲されることになったので
 ある。』(本書p211~212)
と。

先ほども述べたように、大祭司は神によってモーセ
が定めたものなので、モーセが死んだ時点で、仮に
民衆がアロンの家系からそれを外そうと思ったとし
ても、新預言者の口を通してしか、それは変更でき
なかったでしょうから、新預言者がその時期に出現
しなければ、それはできず、そのまま自然な解釈と
して、エルアザルの息子に大祭司を継がせるしかな
かったでしょう。

これも先ほどの説明に当て嵌めてみれば、現代の日
本においても、たとえば、世論調査などで、仮に大
勢の人間があることを、それがいいと考えたとして
も、それが法律となるためには当然国会を通さなけ
ればならないように、モーセの法律を変更するに
も、多くの民衆がそれを望んでいるだけではだめ
で、新預言者の出現を待つしかなかったでしょう。

こう見てくると、神権制社会と聞くと、何かわれわ
れの常識・社会とは途方もなく違う、人間の理解を
超えた何かがあるような気がしますが、それは確か
に預言のシステム自体には神秘もあるでしょうが、
結果としてできあがった社会自体は、権力という観
点から眺めれば、当然のことながら、われわれの社
会と類似の手続きをもち、手順を踏まなければ、社
会の運営ができなかったという点では同じだという
ことも言えるのではないでしょうか。

さて、大祭司はこれで一まず置いておいて、次に司
令官・指揮官の権力がどのようなものだったかを見
ると、これまた、まずは大祭司を通じて神に伺いを
立て神託を受けた上でなければ、神の名においては
命令を下せないということになり、そしてこの社会
では神の名における命令でなければ、かならず民衆
によって従われるという保証は得られなかったであ
ろうことが容易に想像されます。

それに加えて、軍隊は全員がヘブライ人からなり、
指揮官は外国人傭兵を雇うことが禁止されていたと
あるので、指揮官たちは金の力で民衆を抑えつける
自分の軍隊というものを持つことができなかった
と。

また、指揮官が勝手なことをしようにも、
 『(前略)もし[指揮官たちの]誰かがこの宗教に背
 き、神から与えられたそれぞれの[部族の]権利を
 踏みにじり始めた時には、残りの指揮官たちは
 これを基準にその指揮官を敵と見なし、制圧す
 るためのお墨付きを得ることができた。』
 (本書p221)

とあるので、それも難しかっただろうと。

さらに、もし指揮官が仮に一時的に強大な権力を握
れたとしても、新たな預言者が出てきた場合、あっ
という間にその権力は覆る運命にあったことも強調
しておくべきでしょう。

このことをスピノザは

 『(前略)いま非の打ち所のない生活を送っている
 誰かが、みんなに認められた何らかの「しるし」
 によって、自分が預言者だということを示したと
 しよう。それだけでこの人は至高の命令権を持っ
 たことになる。それはまさしく、自分だけに姿を
 現した神の名において命令を下していた、モーセ
 の命令権に匹敵する。(中略)そうした預言者たち
 は、民衆が[悪政で]痛めつけられていれば、彼ら
 を簡単に自分の側に引き付けることができたに違
 いない。』
 (本書p221~222)
というわけですが、

これなども話が特殊でわれわれの社会との隔たりが
大きいように見えますが、たとえば君主制国家で、
ある皇帝に、自分がかつて外の女性に生ませた"聡
明"な皇子が成長して急に目の前に現れた場合を考え
れば、にわかに今の皇太子の地位が危うくなる可能
性があり、そういう意味では、似ていると言えなく
もありません。

また司令官は、他国の場合とは違い、高貴さや血統
上の権利で選ばれたのではなく、年齢や人徳で、そ
れも国の支配者としてではなく、その神の国の管理
者として選ばれたとスピノザは述べているので、も
ともと野心も持ちにくかったのでしょう。

それでは民衆の方はどうだったかというと、
 『(前略)モーセは、二十歳から六十歳までの全員
 に、武器をとって軍役に就くよう命じた。そし
 て軍の構成員である民衆は、司令官でも大祭司
 でもなく、宗教つまり神に忠誠を誓わされた。』
 (本書p210)
とあり、

また、
 『(前略)民衆はみな七年ごとに決まった場所に集
 まり、そこで[レビ族の]大祭司から律法について
 さまざまな教えを受けるよう命じられていたし、
 それ加えて誰もが自分一人でも律法の書を読むよ
 うに、(中略)命じられていた。』
 (本書p218~219)


さらには、
  『これに加えて、彼らが服従のためのとても高
    度な訓練を受けて(中略)つまり彼らは、あらゆる
    ことを律法で決められた指図に基づいて行わなけ
    ればならなかったのである。(中略)種まきや収穫
    も、決まった仕方で決まった時期にだけ行うこと
    が許された。』(本書p230)
とあるので、

司令官といえども、自国民だけからなるこの軍隊
で、それも自分にではなく神に忠誠を誓い、また神
の律法の書を各自でも読み、それについて大祭司の
教えも受け、ひたすらしきたりに従って生活するこ
とを訓練されている、律法を熟知した民衆の軍隊に
対して、自分独自のやり方、律法から逸脱した手法
で制度運営を行なうことはきわめて難しかったで
しょう。

また、民衆は対外的には、
  『(前略)そもそも彼らは自分たちの権利を神に
 譲り渡し、自分たちの国を神の王国と思い込み、
    自分たちだけが神の子[=神に選ばれた民族]で
    あって他の民族はみな神の敵だと思い込んだ。そ
 してこのために、彼らは他の民族に猛烈な憎しみ
 を抱いた(中略)そうなってからの彼らは、異邦人
 に忠誠や服従を誓うことを何よりも激しく嫌がる
 ようになった。』(本書p224~225)
し、

それに、
 『(前略)もし誰かが貧しさのあまり自分の地所や
 農地を売り払っても、ヨベルの年が来れば丸ごと
 返却されることになっていたからである。(中略)
 さらにいえば、たとえ貧しくても、(中略)神とい
 う慈悲深い王をいただく以上、この国の人たちは
 隣人つまり同国民に対する思いやりを、最高の道
 徳心によって育むよう求められたからである。こ
 のように、ヘブライの国民たちは自分たちの祖国
 でしか幸福でありえなかった。』
 (本書p228~229)
と。

まあ、土地を戻してもらえると言っても、ヨベルの
年は50年毎にしか来ないので、実質的には自分の次
の代にならないと戻ってこないでしょうが、それで
も借金等で手放さざるを得なかった財産が戻ってく
るというのはやはり大きなことです。

これと選民思想による他民族憎悪とが合体して、対
外的に独特の結束力の強い集団を形成していたよう
です。

ところが、このように話してくると、非常に統制の
とれた団結力のある強力な集団・軍隊・国家という
面ばかりが強調されてしまいますが、実情はとなる
と、そこはやはりヒトの社会、そこにいくら全能の
が組み込まれていても、その制度が何の不平・不
満もなく、永遠に続いていくという風には簡単には
ならなかったようです。

それはモーセが、自身の出身部族レビ族の者を祭司
にし優遇している、より具体的にはレビ族以外の部
族の者がレビ族の者を養わねばならないようになっ
ている、このことへの不満から、

そのことを他部族の者たちは、
 『(前略)彼らはこれをきっかけにして、モーセは
 神の指図に従っているのではなく、勝手にすべ
 てを取りしきっているのだと思い込むに至った。
 (中略)このため彼らは激しく反抗し(中略)モーセ
    は彼らをどうしてもなだめられず、奇跡を信用
    回復のしるしに利用した。この奇跡により、彼
    らはみな殺されてしまった。そこで新たな反乱、
    民衆全体を巻き込んだ大反乱が生じた。』
    (本書p238~239)
とあるので、このことをめぐっては、大変な弾圧政
策がとられたようで、

何よりモーセ自身が民衆に対して、
  『(前略)「わたしはお前[たち]の反抗心や頑固さ
 を知っている。お前たちは、わたしがまだお前た
 ちとともに生きている間でさえ、神に対して反抗
 的なのだ。だとすると、わたしの死後はますます
 反抗的になるだろう。」』(本書p240)
との言葉を残しているくらいなので、

いくら神権制であるといっても、神に服従すること
自体、民衆が決めて(権利放棄して)初めて成立した
わけで、権利の放棄というのは大概条件付きでなさ
れるのが相場で、言いかえれば、「~限り、あなた
に従う」という構造でしょうから、モーセによるレ
ビ族の取り扱いに見られるように、そこにある種の
不公平(つまり不正義)が存在すれば、民衆は相手が
モーセであろうが誰であろうが、当然反抗したわけ
で、それが神としての権威を背負っていようといま
いと違いはなかったと。

これから分かることは、いかなる政体の国家であろ
うと(最強最大の神の神権制国家にあってさえそう
なのだから)、そこには至高の権利者への服従と引
換に、ある種の公平さ(正義)が前提とされている必
要があるということが言えるように思われます。

さて、異民族による度重なる征服の後、ヘブライ人
はついに神との契約を解消して、人間の王を選ぶこ
とになったと。

またレビ族への優遇があった後、
  『こういう事情の下で、もし平穏な時期が続い
 て、誰の目にもはっきり分かるような奇跡が起き
 なくなり、並外れた権威の持ち主たちがいなく
 なったらどうなるだろうか。不満を抱えた欲深い
 民衆の心が病み始めたとしても、(中略)何の不思
 議もないだろう。』(本書p237)
として、

レビ族、あるいは大祭司への不満から、当時の王は
巧妙な政策を実行し、
  『こうした制約を乗り越えるために、王たちは
     [エルサレム以外にも]別の神殿をこしらえて神々
 をまつることを許し、もうレビ族の人たちに相談
 する必要がないようにした。』(本書p243)
とあります。

なるほどこれは巧妙なやり方です。

つまり、何事も大祭司を通して神にお伺いを立てた
後でなければ、神の名による命令にはできないとい
う制約によれば、いくら王でも、預言者モーセの築
いた、(エルサレム神殿の)いわば大祭司体制に直接
手をつけることはできなかったでしょうが、そこ以
外に神託を受ける場所を設けること(この神託を受け
る場所を増やすこと自体には、その場所の閉鎖とは
違って、それほど制約はなかったのでしょう)、以後
そこで新たに祭司となった者たちに神託を伺わせる
ことにすれば、大祭司の影響力を削ぐことは可能
だったでしょう。非常に巧妙な手法で、現代でも使
われる手法でしょう。

たとえば、ある省庁を廃止するという場合に、廃止
を打ち出すと、それこそ天下の大事になるので、廃
止はせずに、むしろ権威だけは高めて、実質的にそ
の省庁の担うべき仕事を奪って他所へ移すというよ
うなやり方ですね。

ちなみにハンナ・アレントの『全体主義の起源』を
読んだ時に、ヒトラーがそのような手法で、既存の
省庁を廃止せず、むしろ、それと権限の重なる役所
をいっぱい作って、どこに権限があるのか分からな
くしたという話が書かれていたのを思い出しまし
た。

さて、ヘブライの王制はどうだったのかについてス
ピノザは、
 
  
『(前略)民衆が支配権を握っていた間は、内乱
    はただの一度しか起きなかったことである。しか
    もこの内乱は後腐れなく収まった。(中略)ところ
 が王というものに少しも慣れていなかった民衆が
 [それにもかかわらず]国を当初の形から君主制に
 変えてからは、内乱に 次ぐ内乱に終わりが訪れる
 ことはほとんどなくなった。しかも彼らが繰り広
 げた戦いは、それまで語り伝えられていたあらゆ
 る戦いを上回るほど激しいものになった。』
 (本書p254)
と述べ、

また、統一王国がイスラエル王国とユダ王国に分裂
した後も、
   『(前略)ユダ王国側が活気を取り戻すと、彼
  らはまたもや新しい戦いを繰り広げ、そこでも
  イスラエル側が勝者となった。彼らはユダ王国
  側の十二万人を殺害し、女たちやその子供たち
  を二十万人ほども捕虜として連れ去り、またも
  や巨額の戦利品を奪っていった。』(本書p255)
と述べています。

つまり、ヘブライ人同士の間での戦争が激化し、そ
の理由もスピノザは、王が平和と自由を回復するた
めの戦争ではなく、自分の名誉のために戦争をする
ようになったからだとしています。

また、王制以前は、少なかった預言者が、王制にな
ると、極めて多くの預言者、及び偽預言者が現れ、
偽預言者の方は王に追従しようとしたと書かれてい
ます。

さて、バビロン捕囚(B.C.597~538)の後、国家を
再興する段階で今度は王に代わって大祭司が祭祀権
に加えて、指揮官の権力、国事を行なう強大な権力
を手に入れたとして、
  『(前略)大祭司たちが[第一王国の滅亡とバビロ
 ン捕囚の後]国家再興を始めるにあたって支配者へ
 の道を歩み始めた時、彼らは民衆を引きつけよう
 として、民衆が何をしようとこれに追従した。た
 とえば民衆の行いが不道徳でもこれに賛同した
 り、聖書[の教え]を民衆のろくでもない暮らしぶ
 りに迎合させたりした。』(本書p250~251)
と述べていますが、

これを見ても分かるように、ポピュリズムというの
は、あくまで権力者が自分の権力の支持基盤を大衆
に求め頼りにするから、頼りにされたほうの大衆が
自分たちの持っている潜在的なを自覚し、それを
発揮するだけの話で、別に大衆でなくとも、たとえ
ば、江戸幕府が開国を迫られたとき、政治は天皇か
ら幕府に委任されているのだからと押し切って自分
たちで決めてしまえばそうはならなかったものを、
重大な事柄だから朝廷にお伺いを立てた、つまり朝
廷を頼りにしたため、朝廷の権威が高められ、また
自分たちの力を自覚するようになり、仕舞いには力
関係が逆転してしまう事態にまでなったのと同じこ
とのように私には思われます。

さて神権制国家は神との契約によって始まったから
こそ、その契約以前については、
  『(前略)契約以前に、つまりまだ自分の[自然
  の]権利のもとに暮らしていた時に安息日を破っ
  た人たちに対しては、モーセは何の罰も与えて
     いない(中略)これに対して、契約の後では、つ
     まり一人一人が自分の自然な権利を放棄した結
     果、安息日が国の定めた権利関係に基づく法令
     としての効力を得た後では、そうした人たちは
      罰せられたのである(後略)』(本書p276)
と述べ、

また、契約成立後には、
  『(前略)ヘブライ人たちの国が崩壊すると、啓
    示宗教は権利上の力をもたなくなった。(中略)ヘ
    ブライ人が自分たちの権利をバビロニアの王に譲
   り渡したのと同時に、神の王国も神に定められた
   権利関係も、即座に消え失せたことは誰が見ても
   明らかだからだ。』(本書p276)
と。

何より、大預言者エレミヤ自身が、
  『「わたし[=神]はお前たち囚人をこの国へと導
 いてきた。この国が平和であるよう心を配りなさ
 い。この国が安らかであることによって、お前た
 ちにも安らぎが訪れるからである。」』
  (本書p276~277)
と神の言葉を述べており、

考えてみれば、全能の見えない神であれば、最初か
異民族の上にも君臨しているので、異民族を利用
して、イスラエルの国を(神の教えからの逸脱とい
うことで)滅ぼすことさえ、別にそれほど不思議なこ
とではなかったということになります。

むしろその国が亡びることが絶対の神の意志であっ
た以上、エレミヤにおいても、後はバビロニアの
征服国家に従い、その国の平安を願えばよいという
気持ちにすっきりなれたわけです。何しろそれが絶
対に従う神の意志なのだから仕方がないわけです。

そうであれば、特別に過去の神権国家の形にこだわ
る理由もなかったことになります。

さて、それではその神の教えの核心とは何か、です
が、まずスピノザは、あるものが、「神聖な」とか
神の」と呼ばれるのは、それがあくまで(神の)道
徳や宗教を実践するために存在しているとき、そう
呼ばれるのであって、もし使用者が道徳的でなくな
れば、そのものも同時に神聖なものではなくなると
して、そうなってしまった例として、「神の家」や
「ソロモンの神殿」、さらには「聖書(律法)」を挙
げています。

それは、
 『(前略)たとえば、族長ヤコブはある場所のこと
 を(中略)神の家と呼んだが、これはヤコブが、
 自分に啓示を与えた神をそこにまつったからで
 ある。しかし[他の]預言者たちは、この同じ場所
 を「ベト・アベン」つまり不正の家と呼んだ(中
 略)イスラエル人たちが(中略)その場所で偶像に
 捧げものをするようになった(後略)』
 (本書p70~71)
からであり、


またまた大預言者エレミヤが、
 『(前略)聖書が神聖なものであるのも、この書物
 がひとびとを神への奉仕に駆り立てている間に限
 られる。(中略)エレミヤ自身も律法について同じ
 ことを述べている。(中略)たとえ聖書がお前たち
 の手元にあろうと、お前たち自身がそれを値打ち
 のないものにしてしまった以上、お前たちが神の
 法を持っていると称するのは間違いだというので
 ある。』
 (本書p72~74)
と語っています。

従って、「聖書」と呼ばれる聖なるテキストでさえ
も、それがもし、神の命じた教えの核心を守るため
に用いらえていないとなれば、それはもはや単なる
「紙とインク」にすぎないと。

そして、結局、神の教えの核心とは、
 『(前略)わたしたちは何の困難にも曖昧さにも直
 面することなく、聖書の説く最高の法がどういう
 ものか、聖書そのものから読み取れるからだ。つ
 まり神を他の何よりも愛すること、そして隣人を
 自分自身のように愛することがそれである。(中
 略)この教えは宗教 [=聖書に基づく宗教]全体の土
 台となるも ので、これが除かれたら教義体系全体
 が一瞬で崩れ去る(後略)』(本書p84~85)
と述べ、

また、
 『(前略)神自身が預言者たちを介して人間に求め
 ているのは、神の正義と愛を知ることに限られて
 いるということである。つまり神に属する性質の
 中でも、ひとびとがそれを見習って、生き方の指
 針にできるような属性に限られているということ
 だ。』(本書P99)
と述べ、

一般の民衆に求められているのは、神に服従するこ
と、すなわち「神を愛し、汝の隣人を愛する」こと
がすべてであり、また、神を見た人は誰もいないの
だから、ひとは隣人を愛することでしか神を感じら
れないし、神に心を向けられないと述べています。


この神の教えの核心に比べれば、神の属性がどうの
こうのというような知的認識に関する問題は、
  『そのような神の性質は、ひとびとがそれを見
 習って生き方の指針にできるようなものではない
 し、まともな生き方を貫くための手本にもできな
 いからだ。ということは、ひとはこうした認識に
 ついては、たとえ天地ほどかけ離れた大間違いを
 しても犯罪人扱いされる筋合いはないのであ
 る。』(本書P101)
と。


当時、神は無知な当時の民衆が理解しやすいような
仕方で言葉を選んで命じたのだから、核心以外のこ
とは別に間違って解釈していても、罪を問われるよ
うなことではないというわけです。


だから、
 『(前略)心を込めて神に従い、正義と愛を実践で
 きるようになれると思うなら、誰でも聖書を自分
 の見解に都合よく合わせて構わないのである。』
 (本書P106~107)
というような、当時の宗教人が読んだら、ひっくり
返りそうな結論を導き出しています。

また、神に絶対的に服従するといっても、それは、
  『(前略)しかし、自分で理性を働かせる権利
 や、自分で判断する権利まで放棄したわけでは
 ない。』(本書P305~306)

し、

これらから、神に服従しながらも、神の教えの核心
部分以外の聖書の部分は、自分たちが信仰を保つの
に役立つなら、聖書をどう理解しても問題はないと
信仰の自由を導き出し、


 『(前略)たしかに至高の権力の持ち主たちの権
 利が重んじられる以上、彼らの取り決めに反し
 た行動をとることは誰にもできないことにな
 る。しかし考えたり判断したりすることは、し
 たがってまた[自分の意見を]言うことは、誰で
 あろうと行って全然構わないのである。』
 (本書p306)
と。


だから、ここでスピノザが言わんとしているのは、
各宗派が自分たちに都合よく聖書を解釈している
ことを批判することではなく

 『わたしたちが彼らを非難するのはむしろ、彼
 らがこの同じ自由を他の人たちに認めようとし
 ないからなのだ。彼らは自分たちと考えの合わ
 ない人たちを、いくら誠実で本物の徳を備えた
 人物であっても、すべて神の敵と見なして迫害
 する。』(本書P107)
ことを批判しているのであって、

まさに信仰の自由、そして信仰の自由が結局聖書
の神の教えの核心部分以外をそれぞれの宗派の者
が自由に解釈してよい、言論の自由をも意味する
ことをも宣言していると言えるでしょ
う。

そして、この言論の自由を今度は国家との関係
で、
 『(前略)誰かが、ある法律が良識に反している
 ことを示したうえで、このような法律は廃止す
 るべきだと訴えかけたとする。この時、もしこ
 の人が自分の主張[の是非]を至高の権力(中略)の
 判断に委ねて、決着がつくまでは当の法律の指
 図に逆らった行動をとらないなら、彼はきわめ
 て善良な一市民として、間違いなくその国の政
 治に大きく貢献している。これに対し、(中略)
 政府の同意なしに反逆的な形でその法律を廃止
 しようとするなら、彼は紛れもなく秩序の破壊
 者であり造反者となるのである。』
 (本書p306~307)
と述べています。

これは以前、女優らによる大麻合法化運動がなさ
れたときのことを思えば、それを主張することは
まだしも、まだ、法律が改正・廃止されていない
段階で、自分勝手に大麻を使用したとなると(い
くら自分たちはそれで間違っていないと考えてい
たとしても)、単にその薬物が体にとって危険かど
うかの問題ばかりでなく、社会秩序の破壊者であ
るという烙印を押されてしまうことにもなりま
す。

また、スピノザはいくら言論の自由といっても、
 
『(前略)もし誰かが、(中略)約束など誰も守らな
    くて構わないとか、誰でも自分の裁量で生きる
    べきだとか、その他先ほど述べた契約に真っ向
    から対立することを主張するならば、その人は
    反逆的な人である。(中略)そのように主張する
    こと自体によって、その人は至高の権力との信
     頼関係を解消する[という行為を行う]ことにな
     るからである。』 (本書p309~310)
と。

そのように極端な主張は、それ自体が行為である
として、その言論だけですでに反逆的だと述べて
います。

逆に言えば、それ以外のものであれば、宗教的意
見を述べることも、また宗教関係以外のことでの
意見も、もちろん自由に認められるべきだという
ことになります。

そして、もし国家において、言論の自由を制限
れば、
 『ひとびとを徹底的に縛りつけ、至高の権力の
 持ち主たちの取り決めに基づかいないと何一つ
 口に出さないようにしてしまえる、と仮定して
 みよう。(中略)ひとびとは来る日も来る日も本
 心と違うことを語ることになり、そしてその結
 果、国家体制において何よりも必要とされるは
 ずの[国民一人一人の]誠実さが失われるだろ
 う。』
    (本書p312~313)
としています。

また、法律とは人の活動(あるいは行為)を取り仕切
るものであって、人の考えを取り締まるものでは
ないと。
 『ひとびとは一般に、自分が本当だと思い込んで
 いる考えが犯罪視されたり、神や人間に対して道
 徳的にふるまう自分なりの理由が異端視されたり
 することに、何よりも耐え難いと感じるようにで
 きている。(中略)ひとの考えをめぐって制定され
 る法律は異端者ではなく自由人たちを念頭に置く
 ことになり、悪人たちをこらしめるよりもむしろ
 誠実な人たちを怒らせるために制定されることに
 なるだろう。またそのような法律を維持しようと
 すれば、国に必ず大きな危険がもたらされること
 になるだろう。』(本書p313~314)
と述べています。

いずれにせよ、言論の自由を制限したり、あるいは
人の行為ではなく、単なる考え(意見、思想など)を
取り締まるような法律の存在を国家が許すことは、
誠実な人間を減少させることになるので、国家自
体にとって非常に大きな危険だと述べています。

これはたとえば国家が戦争に踏み切ったような場合
のことを考えれば、そうなった段階では兵士一人一
人が各自の勝手な判断で戦列を離れる行為自体はそ
の場合許されないとしても、「この戦争は間違って
いる」とか「勝利の見込みはない」とか、いずれに
せよ、反戦的意見そのものの主張を封じるように
なってしまっていると、誰も真っ当な意見が言え
ず、どれだけの損害を出し続けていても、継続する
しかなくなってしまい、最終的にはそれこそ憲法を
押し付けられるような事態になってしまうかもしれ
ません。

最後に、宗教と国家の関係について、宗教担当者に
政治問題を取り仕切る権利を与えることも、国家に
とって非常に危険だとスピノザは述べています。

すなわち、至高の権力の担い手たちが、もし自分の
こしらえたのではない宗教を国教として国に導入し
た場合、
 『至高の権力の担い手たち(中略)彼らは神の正義
 の解釈者ではなく、構成員と見なされることにな
 る(中略)つまり彼らは、[自分たちでなく]の宗派
 の指導者たちを神の正義の解釈者と認めたことに
 なるのである。このため政府の権威は、こうした
 ことについては民衆の間ではほとんど重んじられ
 ず、逆にその宗派の指導者たちの権威が重んじら
 れるようになりかねない。』
        (本書p259~260)
としていますが、

それはつまり、現在の至高の権力者が、それによっ
て自分の宗派の指導者に至高の権力を譲渡したこと
をそれは意味することになってしまうため、そうな
るとまた話が元に戻って、異なる宗派が弾圧される
ことになってしまいかねません。

というのも、神権制にあっては、伺いを立てる権利
と神の法を解釈する権利は分離されて、それぞれ、
指揮官・最高議会、および大祭司に分かたれていた
ので、解釈権を与えるだけではそれは至高の権力を
譲渡することになりませんでしたが、預言者のいな
い世界では、もはや神への伺いを立てる権利という
のは死語ですから、解釈権を与えられる=いつでも
好きな時に宗派の指導者が自分で神の法を解釈でき
る=その解釈には、その宗派の構成員である、至高
の権力者も従わざるを得ない、国教化するというの
はそういうことでしょうから。

本日はこのあたりで失礼致します。
  


 

  
  
  
  

  


  
  
  


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