2017年06月02日

お早うございます、よろず 齧る です。

今回齧ったのは、

日経BPクラシックス 資本主義、社会主義、民主主義 I
ヨーゼフ・シュンペーター
日経BP社
2016-07-13


です。

まず、毎度のことですが、Ⅰを読んで印象に残った箇所は、
  『(前略)どんな社会体制であっても、誰もが日々トラブ
 ルと格闘し、(中略)衝突、落胆、(中略)嫌なことがあり、
 傷ついたり(中略)行き詰ったりしている。そうしたことを
 何もかも自分以外の外の世界のせいにする習慣は誰もが少
 なからず持っているのではないだろうか。そうした世の中
 を目の敵にする衝動を抑えるには社会制度への愛着が必要
 だが、そうした感情的な思い入れこそ資本主義が構造上生
 み出せないものなのである。愛着がなければ、そうした衝
 動が幅を利かせ、いつも心の中に敵意が渦巻いていること
 になる。』
 (本書p329、ただし太字化はブログ作者、本書では傍点) 
でしょうか。

なるほど、これは私の想像にすぎないかもしれませんが、封
建社会であれば、その制度の中心的存在である王個人に対し
て、庶民のなかに愛着を持つ人間がいると聞かされても、少
しも不思議には思いませんし、それが制度としての「封建制
度」に対して愛着を持つことだと聞かされても、それが全く
間違っているとも思いませんが、翻って、では「資本主義」
愛着を持つとはどういうことかと問われた場合、確かにど
うすれば、あるいは何をどう感じれば、「資本主義」に愛着
を持つことになるのかが、どうもピンときません。

資本主義の魅力ということなら、強いて言えば、これまでに
見たことがない何らかの意味で新しいものを商品としてその
うち見せてもらえる、また、そのうちそれが手元に届くよう
になる、驚き・わくわく感?を提供してもらえることだと思
います。

しかし、それを楽しみにすることが、愛着を持つとまでいえ
るかと言われると、それが「なくなってほしくはない」とい
うほど強い気持ちなのかはどうも疑問です。

シュンペーターの言う通りなら、だから、封建制度の下であ
れば、個人としての王を倒して、誰それを代わりに王位につ
けるとか、自分がそれとって代わるとかいう話にはなって
も、制度そのものを打倒するという発想にはつながりにくい
と。

それが、資本主義制度の下では、封建制度における王個人の
ように、それに愛着を持てるような具体的存在がないため、
むしろ制度そのものに批判が向けられることになるのかもし
れません。

ところでシュンペーターは、その資本主義の社会において失
業によって個人の生活が不安定化することなどが社会不安の
火種になると言いながら、一方ではそれだけで社会体制への
激しい敵意が広がるわけではないとも言っています。

そうなるには、
  『(前略)怒りを掻き立てて組織しようとする集団―怒り
   を育み、怒りを言葉にし、怒りの先頭に立とうという集団
   が必要だ。(中略)一般大衆が誰にも頼らずに確固たる意見
   をまとめ上げることは絶対にない。(中略)大衆にできるの
 は、そうした集団が登場した際にそのリーダーシップに従
 うこと、もしくは拒否することだけだ。』(本書p330)
として、

これらの集団を為す人々を「知識人」と呼んでいますが、こ
こでシュンペーターの言う知識人とはどういう存在であるか
について、さらに詳しく探ってみると、
  『(前略)同じ言葉の力を使っている他の人々と、知識人
 は肌合いがどう違うのか。まず一つに、現場の実務的な事
 柄に直接責任を負わない
という点が挙げられる。この第一
 の特徴は一般に第二の特徴―実地の経験でしか得られない
 現場の知識がない
ーという特徴につながる。そうした傍観
 者
(かつ大抵の場合は部外者)だからこそとれる批判的な態
 度
―また知識人は口うるさく主張しなければ(中略)基本的
 に存在感を発揮できないため、そのためにとる批判的な態
 度
も、第三の特徴として加えるべきだろう。』
 (本書p332、ただし太字化はブログ作者、本書にはありま
 せん)
とあります。

すると、何のことはない、この定義で行くと、このブログ
で、たびたび戦争や自衛隊のことに触れている私自身が「現
場の実務に責任を負わない/実地の経験がない/傍観者だから
こそ取れる、存在感を発揮するために取る批判的な態度」と
いう特徴に見事に当てはまり、好むと好まざるとにかかわら
ず、まさにここで言う「知識人」と呼ばれるレッテルを貼ら
れることになってしまうわけです。

この場合、一般的な知識人の定義である、「高い知識、教養
があるかどうか」とは全く無関係に、です。

いや、それどころか、この定義に忠実に従うなら、日本人
で、先の大戦で戦ったことのある人、あるいは世界のどこか
で傭兵としてでも戦ったことがある日本人以外は、たとえ首
相であろうと、自衛隊の幹部であろうと、こと戦争という
テーマに関して
は、全員がここでいう「知識人」ということ
になってしまうのではないでしょうか。

ところで、この「知識人」について注目すべき点としてシュ
ンペーターが挙げているのは、
①資本主義は資本主義のロジックそのものによって、社会不
 安で利益を得る層
を生み出す(これは先ほど述べたように、
 知識人は、存在感を発揮するために社会を批判するが、そ
 れがビジネス・チャンスにつながる)
②封建制度時代の反乱と違って、王である個人や王である個
 人の地位を攻撃するのではなく、資本主義という制度その
 ものへの攻撃
となる(これは先ほど述べた、愛着を持てるか
 どうかの話です。これはこの体制自体を攻撃して、たとえ
 ば社会主義への移行など、制度自体の変更を計るという話
 にもなりますし、これもまたビジネス・チャンスにつなが
 ります)
知識人階級とでも呼ぶべき集団の利益というものがある
 (たとえ、ある知識人同士が、その思想面で個人的にいかに
 対立していたとしても、もし、政府がそのいずれか一方の
 言論を封殺しようとするようなことをすれば、「言論の自
 由」そのものの危機ということで、他方も「知識人集団」
 としてその政府に対抗するようになると思われること)
ブルジョア階級が集団としての知識人を守ってくれる
   (ブルジョアにとってその行為が支持できない知識人でも、
 その言論の自由が侵されるとき、それを保護してやらなけ
 れば、次はブルジョア自身の支持する自由が標的にされる
 ようになるから、やはり、守ってくれる) 
ということです。

ここまで読んでくると、この自由を守る、守られている感覚
というのは、ふつうは民主主義のおかげで、あるいは民主主
義なのだから、自由が守られなければならないなどと議論が
展開されるところでしょうが、実は資本主義こそが、我々の
感じている、この自由を守る側面を担っているのではないか
とも思えてきます。

日頃、「日本は民主主義なのだから、自由は守られねばなら
ない」というような話は聞いても、「日本は資本主義なのだ
から、自由は守られねばならない」と言うような趣旨の話を
あまり聞く機会がないように思いますから。

もっとも、ここで言う自由とは、社会制度そのものを無制限
に批判する自由
と言い換えられると思いますが。

その上で、そういう無制限の「自分の自由を守れる、その前
提としての他人の自由を守る
」ということになるかと思いま
す。

さらに、極力自由な(意見、発想、思想等々)を認めることで、
それがいずれはビジネス・チャンスを生み出すという意味で
も、「自由は守られねばならない」ということになるので
しょう。

この本のタイトルである、『資本主義、社会主義、民主主
義』が、独創性を感じさせてくれるのも、ここに民主主義が
同列に並んでいるからでしょうが、モンテスキューなど、こ
れまでの自分の読書からも分かっていることは、民主主義そ
れ自体は、そのすべての権力を国民の同意のもと委任するこ
とで、独裁体制さえ築ける面もあるので、自由と民主主義は
一応分けて考えるべきものなのかもしれません。

ということで、これまた非常に興味深い議論にお目にかかれ
そうな一冊であることだけは間違いないでしょう。


さて、この著書、まずタイトルで驚かされ、その次に
目次を見て二度驚かされます。

それはタイトルには『資本主義、社会主義、民主主
義』としかないのに、第二部「資本主義は存続できる
か」の前に、実に100ページも費やして、「マルク
ス主義」という第一部が設けられているからです。

もちろん、資本主義や社会主義について論じる際には
マルクス主義は避けて通れないということなのかもし
れませんが、それにしても、別建ての一部まる
まるを
使って、しかもこれだけの分量で、というのは異例で
す。

そうなるとこの第1部も素通りするというわけにはい
きません。

そこで、事典で定義を確認するなどしながら、シュン
ペーターの捉えるマルクス主義像をまとめていくと、
まず資本主義とは、
   『(前略)生産手段を私有する資本家が、生産手段
    をもたない労働者の労働力を商品として買い取っ
    て商品生産を行う生産様式。この生産過程で剰余
    価値
が生み出され、資本家はこれを利潤として獲
    得する。私有財産制契約自由の原則に基づい
    て、資本家の私的利潤獲得のために生産が行われ
 るから、社会全体としての生産は無政府的性格を
 もつ。このような資本主義的生産様式の成立に
 は、封建社会の解体過程で生ずる、身分的束縛か
 ら解放されかつ労働力を売るほかない自由な労働
 者群の存在
と、資本としての貨幣や生産手段の蓄
 積
とが前提条件になる。(後略)』
 (電子辞書版 『百科事典 マイペディア』、日立
 ソリューションズ・クリエイト 発行、「資本主
 義」の項より。ただし太字化はブログ作者、本事
 典にはありません)
とあります。

そして、ここでシュンペーターが注目しているマルク
ス主義における資本主義の重要概念とは何かという
と、それは剰余価値の概念です。

これも事典で調べると、
(『電子辞書版 日本大百科全書(ニッポニカ) 小
 学館 「剰余価値」の項』)には具体的な例が出て
いるので、それもまとめると大略次のようなこと
になると思われます。

今、たとえば、労働者が糸を生産するとして、
(存在している生産手段<たとえば機械・道具など>
の価値が1万円、労働の日価値を4,000円、平均1時
間労働で⇒1,000円の価値を生み出す)
と仮定すると、

労働者は一日働いて、日価値4,000円を賃金として
得られれば、それをもとに衣食住をまかなうことが
でき、それによって次の日も労働できる
(自己の
働力の再生産
ができる)。言い換えれば、それが
品として労働力
が、次の日も使い物になるための条
件であるということが言えると。

そして、労働者は今日1日4時間働けば、労働の日
価値を実現することができ、そのとき、糸という生
産物に姿を変えた(あるいはそれに移された)生産手
段の価値1万円と、生産された糸に付加された労働
力の生み出す価値、1,000円×4時間=4.000円とで、
1万円+4,000円=1万4,000円の価値(生産物としての
糸)が生み出されることになり、言いかえれば、そ
れだけ資本投下がなされたことになります。

ところが、実際には資本家は、労働者に1日8時間
労働させて[というのも、そういう契約なのだから、
つまり、1日4.000円の日当で8時間労働する契約
双方の合意で結んでいるのだから、そして、実際に
は1日4時間の労働、4.000円で自己の商品価値(労
働力)を維持できるが、その価値を上回る労働する
ことを妨げるものではないと]、

そうすると実際に生み出される価値は、8時間の労
働なので、
1万円+1,000円×8時間=1万8,000円で、資本家はそ
れを価格通りに販売し、その結果、1万8,000円―1
万4,000円=4,000円の剰余価値がそこに生み出され
ることになり、これを資本家が労働者から搾取する
という図式になります。

しかし、これは、資本家が労働者には労働者が労働
力を再生産できるだけのお金(先程の例では 4.000
円)を日当として支払い、また消費者に対しても、
[生産手段の価値+実際の8時間の労働で生み出された
価値8,000円]を加えて販売しているだけなので、

日当(給料)に関しては契約自由の原則に基づき、し
たがって、それは一旦、たとえば1日5,000円
の日当を約束しておきながら、実際に入社してみる
と、途端に上からの脅しなどにより、4,000円
に下げられたというような悪質なものではないわけ
で、その金額で嫌ならうちには来てもらわなくとも
よいというだけのことであるし、また消費者に対し
ても、実際に生み出された価値を付加して売ってい
る(1万8,000円)ので、暴利をむさぼる悪徳商
法とも違うと。

いずれにせよ、この剰余価値の搾取によって生じる
著しい富の不平等、そして、貧困状態を資本家が労
働者に強い続けることで、労働者に階級意識(プロレ
タリアート)としての自覚が生じ、それが資本主義体
制を倒して、社会主義体制の社会への移行を実現さ
せるというのが、マルクス主義の考え方だと述べて
います。

そして、この剰余価値を資本家は再び資本に投入し
(資本蓄積)し、搾取により利益を上げるために生産
の拡大を目指すが、しかし、生産を拡大していけ
ば、生産財の値段、賃金水準は上がっていき、搾取
の利益はゼロに近づいていく、すなわち、剰余価値
率が低下していくと。

そのため、利潤を維持しようとする資本家階級の努
力は、まだ搾取できる労働者のいる途上国への資本
の輸出を生み出し、植民地化が進む。そして、この
論理の流れから、その資本輸出の動きは、資本主義
の発展段階の後期、すなわち利潤率が低下する時期
(言いかえると、独占が進んだ段階)に起こることに
なる(
帝国主義論)と。

これで、一応シュンペーターの捉えた
マルクス主義
を一応コンパクトにまとめたことになると思うので
すが、つまり、資本主義の本質とは、マルクス主義
では、
剰余価値の概念(およびその労働者からの搾取)
と、②帝国主義論(低下する利潤率の問題を解決す
るため、資本主義の後期、すなわち独占段階に入る
と、植民地化が行われる)
の二本立てです。

そこで、シュンペーターは、まずその帝国主義論に
ついて、
 『だが、植民地建設の全盛期は資本主義の揺籃
 期、資本主義が成熟し切っていない時期と重な
 る。蓄積は始まったばかりで、利潤率低下の圧力
 は―特に国内労働者の搾取を妨げる要因は―どう
 みても存在しなかった。また、当時、独占の要
 素がなかったわけでもない。むしろ今日より遥か
 に多くの独占が見られた。そうなると、独占と植
 民地を資本主義後期の特徴とする理論のでたらめ
 さがいよいよ目につくことになる。』
 (本書p156)
と、植民地化の起こった時期が、帝国主義の理論の
説明と合致しない(植民地化は独占段階で起こるはず
とする)、独占段階はあくまで資本主義後期になって
実現されるとする考えも現実を言い当ているとはい
えないと批判し、さらに、植民地への進出は利潤の
拡大に向けた動きであっただけでなく、同時に賃金
上昇に向けた動きでもあったのだから、搾取という
より
労働者が恩恵を受ける面もあったことに言及し
ています。

また、剰余価値の資本蓄積(利潤を再び資本投下に向
けること)についても、シュンペーターは、
  『(前略)新たな企業の登場によって―つまり、新
 しい商品、新しい生産方法、新しい商機が絶えず産
 業構造に侵入すること(中略)新しいものをつくった
 り、古いものを今までより安くつくれば、利益を得
 られるという可能性が、常に現実のものとなり、新
 たな投資が求められる。新しい商品や新しい方法は
 古い商品や古い方法と競合するが、この競争は対等
 な条件ではなく、前者に圧倒的に有利な条件で行わ
 れ、後者は消滅のリスクにさらされる。(中略)結局 
    はすべての企業が、他社より安く売るために、横並
    びで次々に投資を迫られる。そのためには利潤の再
   投資が―蓄積が必要になる。』
     (本書p114、ただし、太字化はブログ作者、本
 書では傍点)
と述べています。

するとそれは、マルクス主義が説明する、資本家が労
働者から搾取した剰余価値をもとに生産を拡大して、
利潤を増そうとする蓄積という側面よりも、企業が、
技術革新などによって、新しいものを、あるいはこれ
までのものをより安く作って売ることで、他社に勝っ
て、利益を生み出すための蓄積、その競争に打ち勝つ
ための資本蓄積との意味合いが強くなります。

たしかに、周りを見ても、一昔前まではあれほど盛ん
だったテレビ造りが今は下火であるとか、スマホ一台
有ればPCも必要ないとか、あるいはお掃除ロボット
なども出現し、これの性能がアップしていくと、清掃
員派遣業はこの先どうなるのかなど(これらがどの程度
真実かは別として)、企業は、その本業で、たとえ今
のところは大変な業績を上げていたとしても、一寸先
は闇、ひょっとしたら明日には、もう「お宅の工場も、
お宅の生産方法も、それからお宅の生産物も、サービ
スも、社会にとっては必要ない。」と言われかねない
不安な状況に絶えず曝されていると言えないこともな
いので、この考え方には説得力があります。

それに備えざるを得ない、資本蓄積ということになり
ます。

シュンペーターは、これら技術革新などによる、古い
構造の破壊と新しい構造の創出を、「創造的破壊」と
呼び、その過程こそが資本主義の本質だと述べていま
す。

そして、シュンペーターが上記のような考えに到達す
るもとになったと思われる部分を第Ⅱ部から探すと、次
のような記述にぶつかります。
   『(前略)資本主義の発展で本当に大きな恩恵を受け
 たのは、(中略)資本主義の生産の典型的な成果は、安
 価な生地、安価な綿織物、レイヨン、靴、自動車な
 どであり、大抵の場合、富裕層にはあまりありがたみ
 のない改善だった。エリザベス女王は美しい服を身に
 纏っていたが、資本主義の最大の功績は、女王の着る
 美しい服の生産を増やしたことではなく、美しい服を
 女工の手に届くものにしたこと、しかもそれを手に入
 れるための労力を一貫して減らしたことにある。』
 (本書p182)
と述べ、

さらに、
  『(前略)革命の度に氾濫する成果物とは大量の消費
 財であり、初めのうちこそ、混乱、損失、失業を引き
 起こすが、長期的には、この奔流によって、実質所得
 のフローが絶えず厚みと広がりを増していく。そし
 て、このなだれ込んだ消費財を見ると、やはりどれも
 大量消費財であり、賃金労働者の購買力がどの層より
 もアップしたことがわかる。つまり、資本主義のプロ
 セスでは、偶然ではなく、メカニズム上、大衆の生活
 水準が段階的に上がる仕組みになっている。』
    (本書p184)
とあるので、

資本主義にはたしかに大衆の生活水準を、安価な商品の大
量生産で上昇させた面のあることを否定きませんし、実感
としても、はじめはとても個人が手にできないと思われて
いたもの、たとえばPCが、比較的短期間で、びっくりする
ほどの低価格で、しかも以前のものよりはるかに高性能の
商品になって行き渡っていくことも事実なので、搾取一辺
倒の説明というわけにもいかないでしょう。

シュンペーターは、一つ革新があると、最初の段階では支
出が活発になり好景気が来る、しかしその動きが完成に近
づくと、産業構造の古くなった部分がそぎ落とされるなど
して、圧倒的な不況になると述べています。

さて、第2部 資本主義は存続できるか では、まず、
『スティグリッツ ミクロ経済学第3版』(ジョセフ・E・
スティグリッツ、カール・E・ウォルシュ著 東洋経済新
報社 2009年9月22日第3刷)の記述によって、市場
構造を分類してみると、

そのうちの、
完全競争 ②不完全競争(②-1寡占 ②ー2独占的競
争)(③として独占もありますが)について、それぞれの特
徴は、

①はたとえば、農産物の小麦市場のように、非常に多くの
売り手がいて、どの農家がほんの少し高い価格をつけて
も、他の農家に顧客を奪われる、そのため、各農家が市場
の価格を受け入れざるを得ない、すなわち、各農家がプラ
イス・テイカー(価格受容者)
として振る舞わざるを得ない
タイプの市場、

②-1は自動車産業のように、少数の企業が市場に供給し
ていて、どの企業も、ライヴァル企業が自社の行動にどの
ように反応するかを考えねばならない(たとえば、他社が
車の低金利ローンを始めれば、自社もそれに追随せざるを
得ない)ような市場、

そして、②ー2はコンピューター市場のように、寡占の場
合よりは企業が多いが、完全競争ほど多くはなく、各社の
製品にそれなりに違いがある(製品の差別化)ため、各社が
プライス・テイカーではない市場、つまり、ある企業が価
格を引き下げても、奪われる顧客が少ないため、その動き
に値下げで対抗しなくてもよいような市場、

とあって、これを踏まえて、シュンペーターの本書の記述
を見ていくと、

まず、古典派の経済分析の最大の功績は、
  『(前略)「資本主義社会は経済活動は利潤を動機とし
 ているので、必然的に消費者の利益に反する」という
 素朴な考え方を、その他数々の荒唐無稽な誤りとともに
 一蹴した点にある。(中略)「私的な利益は経済のプロセ
   スを歪める要因にもなり、私的な利益を得る人以外は、
   全員必ず差し引きで損をする。そうした利益を社会主義
   化で没収すべきだ」といった見方を一蹴したのであ
   る。』(本書p198)
としています。

それは、上述した完全競争を想定すると、企業が利潤を増
やそうとして生産を増やしていくと、商品の価格は下落
し、生産に必要な生産要素(つまり、原材料費とか、労働賃
金)は上昇するので、商品を安くする上に、賃金も上げてい
くことになるので、それはどう考えても、その企業以外の
全員を犠牲にしているとは言えないからです。

そして、完全競争下では、限界費用(もう一単位追加でその
商品を生産するのにかかる費用)=価格(限界収入)となるま
で、生産は拡大していくということになります。

というのも、もし、価格>限界費用であれば、まだ利潤があ
るから、この二つがイコールになるまで、生産を増やして
いったほうが、賃金などの上昇によって、利潤率は低下する
けれども、利潤の総額は大きくなるからです。
す。

ただ、シュンペーターは現実の社会を見ると、大量生産の
農産物、すなわち綿花や小麦以外に完全競争の例は多くな
いとして、
  『(前略)同じ農産物でも、鴨、ソーセージ、野菜、多
 くの乳製品など他の多くの商品はそうではない。商工
 業の完成品・サービスに至っては、明らかに事実上すべ
 てが(中略)独自の小さな不安定な市場を持っており、価
 格戦略と品質戦略という「製品の差別化」や広告を通じ
 て、市場の拡大と維持を狙っている(狙わざるを得な
 い)。(中略)こうしたケースを「独占的競争」と呼んでい
 る。』
 (本書p204)
と述べています。

逆に言うと、独占的競争においては「製品の差別化」が図
られているから、ある企業がたとえばPCの価格を下げて
きても、他の企業はそれに追随しなくともよいというわけ
です。

また、
  『あとは品質に概ね差のない多種多様な商品が残され
 ている。鋼材、セメント、未漂泊の綿製品など、工業の
 原材料や半製品などだ。(中略)そうした商品は大抵、大
 企業が生産しており、製品の差別化を図らなくても、単
 独もしくは他社と連携して、価格を操作できる。これが
 「寡占」だ。』(本書p204~205)
として、実際の市場はほとんど完全競争ではないとしなが
ら、

その一方で、
  『(前略)今ここで想定している競争は、実際に起きて
 いる場合だけでなく、脅威としてたえず存在している
 だけでも威力を発揮する。実際の攻撃が始まる前から
 緊張が漲っている。実業家はたとえ自分の市場にライバ
 ルがいなくても、競争にさらされていると感じる。(中
 略)こうなると、長期的には、すべてとは言わないが多
 くのケースで、完全競争のパターンに酷似した行動を求
 められることになる。』
 (本書p214~215、ただし太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
と述べています。

非常に面白いのは、さきほど現実の世界においては完全競
争の例は一部農産物ぐらいしかないと述べていたその同じ
著者が、独占、寡占企業も、短期的には価格維持などを行
うなどするけれども、たえず、「創造的破壊」の脅威にさ
らされているので、企業の振る舞いを長期的に見ると、現
実にはその市場に競争相手がいなくとも、絶えず、あたか
も、それがもうすでに存在しているかのように振る舞う、
つまり、それらの企業は、現実にはまだ存在していないに
もかかわらず、潜
在的には存在するはずのライヴァル企業との間では、完全
競争を展開していることになると。

そして、その意味するところは、結局、長期的に見ると、
価格の引き下げ生産の拡大、言いかえれば、大衆に奉仕
する路線を走ることにならざるを得ないと指摘している
ことです。

だから、長期的には、
  
 『どの製造業、どの製品群を取ってみても、一定期間の
 動向を調べれば、少しでも重要なものは、長期的に、価
 格がかならず技術の進歩に適応している―往々にして技
 術の進歩に合わせて驚くほど値下がりしていることが、
 事実上すべてのケースで明らかになる。』(本書p228)
と述べています。

それにもかかわらず、「独占」企業の印象がひたすら悪い
のは、
 『アメリカの経済学者、政府機関、マスコミ、政治家は
 独占という言葉が大好きだが、それはこの言葉が誹謗中
 傷の言葉になっており、独占というレッテルを張れば、
 どんな組織に対しても世論の怒りを確実に煽ることがで
 きるからだ。』(本書p241)
として、

 『動機は全く関係ない。たとえ独占価格を設定すること
 が唯一の目的であったとしても、手段の改良や巨大な装
 置の導入を迫られ、それに伴い独占価格の最適水準が、
 先ほど述べた意味での競争原価に近づいたり、それ以下
 に下がることが多い。したがって、たとえ取引制限が習
 慣的に行なわれていたり、余剰生産能力が絶えず存在
 している場合
でも、競争メカニズムと同じ機能が(中略)
 働いている。』
 (本書p244~245、ただし、太字化はブログ作者、本
 では傍点)
とし、

実例として、アメリカ最大のアルミニウム製造会社アルコ
ア(アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ)につき、
  『この「唯一の売り手」の基本商品の価格は一九二九
 年には一八九〇年の約一二%に下がった。物価水準(労
 働統計局の卸売物価指数)の変動を調整したベースでは
 約八・八%だ。生産は三〇トンから一〇万三四〇〇トン
 に増加した。』(本書p245)
として、独占企業であっても、長期的に見ると、実際、生
産量を増加させ、価格も引き下げていることを示していま
す。


さて、シュンペーターは資本主義は発展の過程で、
 『(前略)まず何よりも荘園、村落、職人ギルドといった
 封建社会の制度上の取り決めを破壊した(もしくは破壊
 に大きく寄与した)。(中略)職人の世界は、主に資本主義
 の起業家が仕掛ける競争の影響で自動的に破壊された。
 委縮した機構や規制の廃止という政治活動は、結果を追
 認したものにすぎない。(中略)古い経済機構とともに、
 そうした機構で主導的な役割を担っていた(中略)地主貴
 族・ジェントリー、聖職者の免税特権・政治特権が消滅
 したのである。こうした諸々の変化で、ブルジョア階級
 は、経済的には様々な足枷、様々な障壁から解放され
 た。』(本書p309~310)
と述べ、

その同じ発展の過程で、今度は、資本主義を支える土台と
なったさまざまなものが消滅させられて行くと述べていま
す。

一つ目は、日々、次々に新しい商品が開発される環境下で
は、変化に抵抗するのではなく、それを受け入れることが
当たり前となってきており、特に消費者や生産者が、新し
いというだけでその新しいものを拒む
ようなことはもはや
は見られなくなると。
  
つまり、ドローンであろうが、おしゃべりロボットであろ
うが、何が出てきても、「こんな変なもん、買えるかい、
使えるかい。」というような人は次第に減っていって、
「面白そう。欲しい、欲しい。使ってみたい。」と、素直
新しいものを受け入れて購入するような心持の人々が大
勢を占めていくようになるということです。

それはつまり、このような社会では「個性や強靭な意志の
価値が薄れて(消滅して)いく
」ことだと。

実際、今の体制で強靭な意志を持つことは、新しい生産物
が社会に浸透して行くうえでは妨げになるだけだからで
す。そして、そういう人は「柔軟性がない人」とレッテル
と貼られることにもなりかねません。

そのような過程は、また社会の成員が、全体として官僚
化、あるいは事務員化していく過程でもあるとして、
 『資本主義の企業はまさにその功績によって進歩を自
 動化する傾向があり(中略)ー成功があだになって自滅す
 る傾向がある―というのがここでの結論だ。完璧な官
 僚機構と化した巨大な産業装置が、中小企業を駆逐し、
 (中略)いずれは起業家をも駆逐し、ブルジョア階級から
 の収奪を進めることになる。その過程でブルジョア階
 級は所得のみならず、所得よりも遥かに重要な自らの
 役割も失うことになる。社会主義の音頭を本当に取っ
 ていたのは、社会主義を説く知識人でも活動家でもな
 く、バンダービルド、カーネギー、ロックフェラー家
 だった。』
 (本書p308)
と述べています。

これも非常に興味深い指摘で、起業家とは、すなわち
性や強靭な意志をもつ人々
であり、その活躍があって資
本主義が発展していくわけですが、そうして、資本集中
が進み、独占企業が形成されてくること、今度は企業内
の官僚化が進んでいき、技術革新も個人というより専門
家集団によるグループの作業になっていき、起業家のよ
うな存在は、役割が低下していくと。

シュンペーターは、マルクスが資本主義は行き詰まるか
ら社会主義へ移行するというのとは反対に、資本主義は
成功するがゆえに、社会主義へと導かれると言っていま
す。

以上によると、性や強靭な意志をもつ人々は消費者と
しても、起業家としても、大量生産の時代にはそぐわな
い存在になっていくと。

そして、そのつぎには産業の所有の消滅があり、ブル
ジョアの家の解体(あるいは消滅と言いかえてもそれほど
おかしくはないでしょう)、消費者の所有の消滅があり、
また約の自由の消滅があると言う風に、ブルジョア階
級にとって最重要の価値が、資本主義の発展に伴って、
次々に消滅していかざるをえないと言っています。

まず、大企業によって、中小企業の活動の場が破壊され、
中小企業のオーナー経営者ら、すなわち「現場監督」と
呼ばれる階級を動かす力のある、その国でとりわけ活力
があり、とりわけ現実的でもある人々が市民の政界から
姿を消すことで、私的所有と契約の自由の基礎が揺らぐ
と。

つぎに、
 『資本主義のプロセスでは、工場の防壁や機械が単な
 る株券へと姿を変え、所有という概念が生気を奪われ
 ていく。(中略)自分の物を自分の好きなようにできる
 法律上の権利、それが許される環境。「自分の」工場
 のためなら、工場を管理監督するためなら、現場で死
 んでも構わないという権利所有者の戦う意志が―経済
 的、肉体的、政治的に戦う意志が、失われていく。こ
 うした所有の実体とでも呼べるものの消失―目に見え
 る、手で触られる現実感の消失(中略)いずれは、所有
 のために本気で戦おうとする人など誰もいなくなる
 大企業の中にも、大企業の外にもいなくなる。』
 (本書p323、ただし太字化はブログ作者、本書では傍
 点)
と述べています。

産業の所有の消滅です。

つまり、経営陣(給料をもらって働く存在)、大株主(オー
ナーから離れた存在)・一般の株主(配当という小遣い稼
ぎをするだけの存在)と、いずれをとっても、資本主義
初期のように、所有に命を懸ける意識はもはや持てなく
なってくる。巨大な企業にあっては、経営者も官僚のよ
うな存在になっていき、また、株主総会で責任追及する
とは言っても、それまでは人任せということが普通に
なっていきます。

それは、起業家のような人々が、個人的利益を自由に追
求することで始まった制度
が、大企業に成長するにしたが
って、経営陣としてはもはや不正行為でも行なわなけれ
ば、給与・賞与以外の個人的利益は見込めないように
なっていき、ということは、企業自体が構造上、個人的
利益を嫌う仕組みへと変貌していくと。

そして、ブルジョアの家の解体(消滅)です。

  『(前略)今の資本主義社会では、以前に比べ家族生
 活や親子関係の意義が薄れてきており、(中略)個人的
 な損得を考えて今後の行動を決める習慣が確立すれ
 ば―(中略)一種漠然とした原価計算のシステムを私生
    活に持ち込むようになれば―現代社会で家の絆を重
 視する人は、特に親になる人は、個人的に多大な犠牲
 を払わねばならないことを意識せざるを得ない。』
    (本書p353~355)
と。

これは今日では真新しいことではないでしょうが(ただ
し、出版されたのは1942年のことですから)、自分の人
生を損得で計算することが習慣になれば、たとえば子
供の存在すらも、自分の人生にとって損か得かという視
点で、もっともそれ自体は表向きはまだ嫌われている思
考形態ですが、実質的には自然とそのような物の見方を
受け入れてしまうように社会の大勢が変化していってし
まうということです。

そして、子供が減れば、ブルジョアの大邸宅の価値も下
がり、大邸宅がなくなれば、大家族での生活も難しくな
り、また大邸宅の維持のコストを減らし、その分を外部
のサービス、外の生活を利用するようになると。

何よりブルジョアが将来のために投資するために働き
儲けてきた、あるいは妻子のために働き貯蓄してきた
その倫理観をもはや持つことができなくなると。

そして、自分の生涯だけを視野に入れた、自分たちが少
しでも欲しいと思っているものを自分たちの分だけ購入
するようになる、このようにして、資本主義はそれ自体
の発展によって、起業家、資本家階級の役割が低下し、
さらに上記のようにブルジョア階級が変貌を遂げていく
ことによって崩壊していくとシュンペーターは論じて
います。

言い方を変えると、様々なものが消滅していく、この過
程が、まさに社会主義を受け入れやすくしていく過程で
もあるというわけです。

なぜなら、人々が、家族のためにという意識も弱まり、
社会的に生産されたものを、素直に受け入れていくよ
うな心持になっていくというわけですから。

さて、それで、第3部 社会主義は機能するか ですが、
ここで注意が必要なのは、われわれ2017年に生きる者に
とっては、それこそソビエト連邦の崩壊、中国の資本主
義の取り込みなど、"社会主義の敗北”を目にしているの
で、端から社会主義への移行というと疑ってしまいます
が、いまだそうした現実が知られていなかった時期に
シュンペーターがどう思索したは非常に興味深いです。

ここでは、これまで見てきたように、資本主義が発展し
て、資本集中が進むと、それ自体が、起業家やブルジョ
アジーの、役割の低下を招き、社会主義的な面がもたら
される(企業の経営陣の官僚化、会社からの給与・賞与
以外の個人的利益獲得の困難など)けれども、実際に
れが社会主義にまで到るのかどうかを考察しようとい
うことで次の二点を見ていくことになります。

Ⅰ一つは、社会主義そのものに論理の誤りがないか(およ
そ矛盾だらけで実現性がないということはないか)、

Ⅱ実現可能性は十分にあるとして、異なる二つのケース
を想定して、それが具体的にどう進むのかを見ようとい
うことで、その二つのケースとして、シュンペーターは、
機が熟した社会主義化」と「時期尚早な社会主義化
というものを取り上げています。

そこでまず、Ⅰにつき、社会主義を定義して、
  『社会主義社会は「中央の権威が生産手段と生産自
 体を管理する制度の形」と定義する。もしくは「経済
 の問題が原理上、民間の領域ではなく、公的な領域に
 ある制度形態」と定義できるかもしれない。』
 (本書p372~373)
と言っています。

そして、
  『(前略)ここで想定している中央集権は、中央の権
 威(「中央委員会」や「生産省」と呼ぼう)が常に絶対
 的な権力を持つとか、すべてが中央主導で動くとい
 う意味ではない。最初の点について言えば、中央委
 員会や生産省は議会や国会への計画書の提出を求めら
 れるかもしれないし、監督・監査機関(会計監査院の
 ような機関)が設置され、個々の決定に拒否権が発動
 されることさえ考えられる。』(本書p374)
と述べています。

その上、さらに倫理上の信念として、この社会主義社会
平等主義を採用していると想定したうえでシュンペー
ターは話を進めていきます。

この平等とは、その社会の生産物につき、商品引換券(バ
ウチャー)を利用して、それを国民一人に一枚を発行し、
国民各位はそれによって、生産された消費財を国に請求
する権利をもつ、

すなわち、割り算によって、
[その会計期間に生産されたすべての社会生産物の合計]/
[請求者の数]、を請求できる、そして、その会計期間の終
了と同時に、この引換券は失効すると想定するわけです。

さて、そのような想定のもとで、社会主義者社会の本当
の問題は、
 『(前略)どのようにして合理的な生産を実現するか―
    つまり、利用可能な資源、技術といった環境上の制約
    の中でどのようにして消費者の満足度を最大化する
    か
―であり、(中略)例えば、同志の多数決で生産計画
    を決定しても、この条件を絶対に満たせないのは明ら
 かだ。 多数決で物事を決めれば、確実に一部の人が、
 ことによるとすべての人が欲しいものを手にできず、
 (後略)』
 (本書p389、ただし太字化はブログ作者、本書にはあ
 りません)
と述べ、

中央委員会(ないし生産省)がすべての生産資源を管理し、
それを一定のルールにしたがって、各産業委員会(各産業
を管理する部局)からの要求に応じて配分し、各産業委員
会は、以下の条件の下で要求するとして、

①可能な限り経済的に生産する
②中央委員会が一方的に設定する生産財の「価格」に応
 じて、産業委員会が要求する生産財・サービスの一単
 位ごとに、一定額のドル(過去の消費財の引き渡しで
 消費者から受け取ったもの)を中央委員会に引き渡す
③②において引き渡す「ドル」より安い「価格」で商品
 を消費者に販売する必要が出ないように生産財・サー
 ビスの量を中央委員会に要求する。
としています。

この③はどういうことかというと、例としてシュンペー
ターはある産業の生産プロセスに技術革新があって、こ
れまでより少ない生産要素で従来と同一量の生産が可能
になった場合、中央委員会に渡すべく消費者から受け
取ったドルの一部だけを渡して、少ない量の生産要素を
受け取るだけで、これまでと同一の量の生産を維持でき
ることになるので、そこに産業委員会には利潤が発生す
ることになるが、そうすると消費者向けに「価格」を下
げる必要性が出てくるので、そうなると③の条件に反す
る状況になってしまうから、そうならないように生産す
るということのようです。

そして、中央委員会はどのように生産財の価格を決定す
るかについては、
  『中央委員会は生産財について種類ごと、品質ごと
 に単一の価格を設定し(中略)手元に未使用の生産財が
 残らず、その「価格」ではそれ以上の生産財は要求さ
 れないという状態にしなければならない。このルール
 があれば、通常は合理的なコスト計算が行われる。ゆ
 えに、経済的に見て合理的な生産資源の配分が実現す
 る。』(本書p391~392)
と述べています。

したがって、「市場」というものを切り捨てても、一切
の消費財に重要度の指標をつける公権力があれば、その
価値体系さえ決まれば
、先程の想定に従って、生産活動
がなされるから、社会主義の計画は論理的に明確で一貫
しているという①の条件をクリアーできるとシュンペー
ターは述べています。
  
さて、シュンペーターは、社会主義と資本主義(大企業
型、あるいは独占型のそれ)を比較し、その両システムの
経済効率を生産効率に置き換えて、それで両システムを
比較することするとしたうえで、
  『(前略)同じ単位時間あたりに生産できる消費財の
    フローが長期的に見て多いと予想できるシステムの
    方を効率的と呼ぶことにしよう。』
 (本書p418、ただし太字化はブログ作者、本書は傍
 点)
としていますが、

同時に、仮にここで言う意味の生産効率の点で社会主義
が優れていたとしても、そのことがそのままその社会の
「経済的な豊かさ」や「欲求の満足度」や「幸福度」と
同じことではないと注意したうえで、むしろ、社会主義
社会の方が経済効率が低いと出た場合でも、

 『まず信念を持った社会主義者であれば、社会主義
 社会に暮らせるだけで満足を感じるはずだ。社会主義
 者にとって社会主義のパンは「社会主義のパンだか
 ら」という理由で資本主義のパンよりおいしく感じら
 れることは十分あり得る。』(本書p419)
と述べ、

また、平等主義型の社会主義など、特定のタイプの社会
主義体制が、たまたま自分の倫理観と一致すれば、「自
分の正義感が満たされた」という思いで、当然、社会
主義の優越性を主張する根拠の一つになるはずだとして
います。

また、生産効率が同じでも幸福度が異なる場合として、
たとえば、平和主義型の社会主義では軍備を節約でき、
その分で病院を建てることもできると述べています。

だから、シュンペータが―がここで論じているのは、

あくまで社会の経済効率を、生産効率と同一視して、
どちらの社会が効率的かを見るだけで、こちらの方が
効率的だから優れているとか、社会の幸福度が高いと
は一言も言っていないことに留意すべきでしょう。
  
さて、シュンペーターは、官僚制が民主主義を補完す
るように、現代の経済発展をも補完し、社会主義体制
に移行すれば、ますます社会に欠かせない存在になる
として、
 『仕事の処理が官僚的になり、心理的にもそうした
 雰囲気が蔓延すれば、最も活動的な層が得てしてや
 る気をなくすことは間違いない。これは(中略)官僚
 制という機械に内在する難しさに大きな原因があ
 る。この機械は個人がイニシアティブを発揮するこ
 とを許さず、逆に個人のイニシアティブを抑え込も
 うとする歪んだ動きを許すことが多くなりがちだ。
 その結果、失望や空しさを感じ、他人の努力を終始
 けなして人のやる気を削ぐ習慣が心に染みつく可能
 性がある。』
 (本書p450~451)
と述べています。

また、資本主義では社会的に認められる、あるいは社会
的な名声を得ることは金銭的利益を得ることだったが、
資本主義が発展すれば、富を望む動機が弱まっていく傾
向にある(先程述べたように、将来への投資のためにとい
う意識が薄れ、自分個人がその時点で満足できる分を欲
すようになるから)、従って、富裕層もかつての領主のよ
うな生活水準を望む動機は薄れているとは言いながら、
だからといって、社会主義になったから、他人のために
働くという義務感だけに頼ることも、非現実的だとし
て、必ずなんらかの社会的名声が認められる報奨制度
必要であろうと、つまり、それによって、私利私欲、す
なわち見栄自己顕示欲が満たされる何かが必要である
ことは明らかだとしています。

さらに規律という点にも触れて、まず、
  『権威という言葉は「権威を通じて押しつける規
 律」と補足して言い換えた方が便利だろう。この規
 律は「本人以外の力で植えつけられた、命令・監視・
 批判を受け入れる習慣」と定義できる。』
 (本書p458~459)
としたうえで、

社会主義においては、資本主義におけるような、自分の
経済的な運命は自分で決めるという責任感から生まれる
規律の力は失われるとしながら、

社会主義では、
  『第一に、社会主義社会の経営陣は、権威で規律を
 押しつける上で、資本主義の経営陣には二度と使えな
 い手をふんだんに使えるはずだ。資本主義の経営に残
 されているのは、事実上、解雇の警告だけだが(中略)
 社会主義社会の経営陣が解雇を警告すれば、生活手段
 を奪われ、他に働き口もないという警告になり得る。
 また、(中略)社会主義社会の経営陣は、そうした警告
 を合理的と思われる範囲内で自由に利用した上で、
 さらに他の制裁も加えられる可能性がある。』
 (本書p466~467)
とし、

さらに、
  『第二に、社会主義社会では経営陣が権威で規律を
 押しつけるための様々な手段を資本主義よりも遥かに
 利用しやすいと感じるようになるはずだ。介入する政
 府はない。集団としての知識人はもう敵意を持ってお
 らず、敵意を持つ個人は社会から抑圧される。(中略)
    世論が犯罪まがいと思える行為を黙認することもなく
 なる。ストライキは反乱になる。』(本書p467~468)
し、

  『第三に、社会主義社会の指導部には、資本主義の
 民主政府とは比べ物にならないほど、権威を保とうと
 いう動機が働くはずだ。(中略)業務を混乱させたり、
 仕事に反感を抱かせようという行為は、反政府行為と
 なる。政府がそうした行為に報復することは当然予想
 できる。』(本書p468)
と述べています。

となると、資本主義の起業家のように「俺の人生だから、
俺の好きなように活動して、ただその結果は自分で責任
を持つ」というような考え方、及びそれに基づく規律は
衰え、官僚化が進み、資本主義ではより大きな富を生む
ことが社会的成功・名声だったのに比べて、社会主義社
会では、それに代わる名誉(自己顕示欲を満たすもの)の
形も今一つはっきりせず、その一方で、たとえばそれぞ
れの職場で、何らかの不満があっても、社会的生産に悪
影響を及ぼすようなストライキ、その他の業務を混乱さ
せる行為には厳罰で臨むことは十分考えられることで、
その場合、資本主義の解雇(それなら、一応他社でまた採
用されることはある)とは異なり、社会主義では、一つの
職場で業務を混乱させれば、それは社会的生産へ背く行
為なのだから、解雇されれば(もう次はない)という可能性
もあるわけです。


ところで、現実の社会主義については、ロシアの例を挙
げて、一九一七年のボルシェヴキ革命で、大衆がまった
く手がつけられなくなり、仕事をさぼるための無数のス
トライキや工場の占拠など規律の崩壊が見られたが、
  『(前略)一九三二年には(中略)集団利益を主張し、規
 律と効率を妨げる存在だった労組は、社会の利益を訴
 える存在、規律維持と効率向上の手段に姿を変えてい
 た。(中略)労組はもう痛みを伴う工業化に抵抗せず、
 追加の報酬なしに労働時間を延長することを進んで支
 持した。(中略)「同志裁判」や「粛清委員会」と協力
 して、怠ける人間や人並み以下の人間にはかなり強硬
 な姿勢を取るようになり、スト権や生産制限といった
 言葉を耳にすることはなくなった。』
    (本書p469~470)
と述べています。

そして、
  『ロシアという国は、資本主義国とは違って、若者の
 教育・指導を通じて国の目標、体制の考えに沿った行動
 を強要できる立場にある。(中略)知識人に口出しする自
    由がないことは明らかだし、規律違反を促す世論は存在
    しない。最後に生活苦をもたらす解雇、流刑にも等しい
    異動、特別作業隊の「視察」や、場合によっては赤軍同
    志も同行する視察は、法律上の解釈はどうであれ、事実
    上、政府が効率を維持するために自由に行使できる手段
    だといえる。政府にはそうした手段を利用する動機があ
    るし、誰もが認める事実として、そうした手段を何の躊
     躇もなく使っている。』
 (本書p471~472)
と。


従って、元々社会主義社会を考えるなら、そこでは生産効率
を落とす行為(ストライキなど)は社会的な生産活動の妨害と
して、厳しく処罰される可能性があるとしても、実際にロシ
アなどで、粛清の名のもとに残虐な行為が行なわれたことに
ついては、それ自体は社会主義自体の問題ではなく、機が熟
していない段階で社会主義化
したこと、及びその国における
支配者層の質の問題だとしています。

そこでⅡ、すなわち機が熟した社会主義化」と「時期
尚早な社会主義化
」の問題に戻って、資本主義自体が資本
集中が進んで、独占企業の時代となれば、
  『ビジネスは農業部門を除いて少数の官僚型の法人が運
 営する。進歩のペースは落ち、進歩が機械的・計画的にな
 る。金利はゼロに向けて収斂していく。(中略)所有が株
 式・債券の保有に堕し、管理職が公務員のような思考習慣
 を身に着けていく。』
 (本書p476、ただし、太字化はブログ作者、本書では傍
 点)
ことで、これは先ほど来からの繰り返しになりますが、その
ようにして資本主義的な動機や規範は廃れたと見なされる段
階にまで至ると。
 
そのように機が熟していれば
  『(前略)抵抗が薄れ、あらゆる階級の大半の人々から協
 力が得られる。この場合、まさに憲法改正を通じて―つま
 り法の連続性を断ち切ることなく、平和的な形でー社会主
 義を採択できる可能性が出てくる。』
 (本書p479、ただし太字化はブログ作者、本書では傍点)
として、社会の成員の方には、公務員であるかのように、そ
の体制に従って、あるいは協力して生産活動を粛々と遂行し
てゆく、雰囲気ができているだろうから混乱は少ないだろう
と。

そして、そのとき、資本家層はどうなるかについて、
  『機が熟した場合、資本家層は先ほど指摘したように株
 式・社債の保有者層と概ね同一視できるかもしれない(中
 略)機が熟した段階では、ことによると、有権者の大多数
 をこの層が占めており、それぞれの持ち分がいくら少なく
 ても、自分の権利を没収されることに難色を示す可能性が
 ある。』
 (本書p481)
とし、

そして、
  『(前略)個人が債券や抵当証券を保有し続ける場合の利払
 いや、保険金の支払い、中央委員会が旧株主に発行する債
 券の利払い(これは配当金の代わりとなる。中略)といったも
 のは、関連統計を少し調べればわかるように,耐えられな
 い負担ではないのである。この社会主義共和国が引き続き
 個人の貯蓄を活用するのであれば、政策としてそうした負
 担を引き受ける可能性は当然ある。そのような支払いをあ
 る時点で打ち切るには、すべての支払いを有期の年金に変
 更したり、もしくは所得税・相続税を適切に活用すればよ
 い。

 (本書p481~482、ただし太字化はブログ作者、本書
 では傍点)
と述べていますが、

この記述を見たときに思い出したのは、想定に継ぐ想定で、
一見、机上の空論のようにも見えますが、実はすでにこれに
近い処分がわが国でも、明治維新の時に行なわれていること
です。

それは秩禄処分と呼ばれるもので、明治になって、藩を廃止
して、大名も廃止したとき、それはただで行えたわけではも
ちろんなく、そこに秩禄処分というものが出てきます。

それは、
  『地租改正事業がすすんだ一八七六年(明治九)年、華士
 族の秩禄処分が断行された。金禄公債証書発行条例を公布
 して、華士族三一万人に対して金禄の五年から一四年分の
 金禄公債証書をあたえて、以後の家禄支給を打ち切った。
 金禄の支給は、利子分、一時に支給される年数、ともに上
 層に厳しく、下層緩やかであった。しかし、公債は、中士
 や上士への公債支給額にしても、利子分でようやく下層民
 の生活が成り立つ程度の額である。ただし、五一九人、
 〇・二パーセントの人員の旧藩主クラスには、一人平均六
 万円という破格の支給額であった。』 
 (『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新 井上勝生著 
 岩波新書 2006年11月21日第1刷発行p224~225)
とあるように、実に31万人もの人を対象とする処分で、一
歩間違えると大変な混乱を招くところ、本来幕藩体制が続い
ていれば,華族・士族階級が家禄として受け取り続けること
ができた給料を、5年~14年の期間に限定して、金銭で受け
取れるようにし、その後は打ち切ってしまう制度で、受け取
れる金額も身分に応じて何段階かに分ける工夫がなされてお
り、全体が一致結束しづらいようにしたうえで断行していま
す。

たしかにその後西南戦争など士族の反乱もあったものの、そ
れも鎮圧され、この処分が通ったところを見ると、資本家層
の財産を整理する段になった場合には、このような手法が用
いられることは机上の空論とばかりは言えないわけです。

ところが、「機が熟していない」ケースでは、それを、
  『このケースは、社会主義者が資本主義国の中央機関を
 支配下に置けたが、物事や人々の心の準備が整っていない
 という段階で資本主義から社会主義体制に移行するケース
 と定義できるかもしれない。(後略)』
   (本書p484) 
とし、
   『(前略)インフレを起こせば、金を貸している債権者か
 ら面白いほど簡単に収奪できる。初めから通貨を紙切れ
 にするつもりであれば、中央委員会は工場など実物資本
 の所有者にいくらでも補償金を払うことができ、移行が
 スムーズに進む可能性さえある。』(本書p491)
とさえ言っています。

先程の秩禄処分は局面が違っていますし、ここでの議論をそ
のまま当てはめるわけにはいかないかもしれませんが、既得
権を合法的手法で圧縮するやり方には違いがありませんし、
機が熟した場合か、熟さない場合かは別としても、秩禄処分
の場合にも、インフレが進行して財政負担が軽くなった面
あるようです。

ところで、「機が熟していない場合」に革命に訴えた場合に
は、法の連続性が断たれるという意味でも、その後、恐怖政
治の時代が続くという意味でも、革命を企てた人間以外、短
期的に見ても長期的に見ても得をする人間がいないことは明
らかなはずだとシュンペーターは述べています。

最後にイギリスについて、
 『イギリスの商工業の構造が一気に社会主義化できるほど
 成熟してないことは明らかだ。特に企業支配の集中が十分
 に進んでいない。同様に、経営陣も資本家も労働者も社会
 主義を受け入れる準備が整っていない。「個人主義」の活
 力はまだ十分に残っているし、少なくとも抵抗し協力を拒
 む力はある。一方で、大まかに言って二〇世紀初め以降
 は、起業家の気力が目に見えて衰えている。その結果、特
 に、例えば発電など重要な分野については国が旗振り役と
 なり、国家管理を進めることをすべての政党が受け入れて
 いるばかりか、要求さえしている。』
 (本書p495、ただし太字化はブログ作者、本書では傍点)
とし、

イギリスでは一部重要産業の国有化まではスムーズに行なわ
れているけれども、機が熟していない(資本集中が進んでい
ない)ので、社会主義化は困難であろうと。

また、先ほど支配者層の質も重要な要因である旨書きました
が、シュンペーターによれば、イギリスの政治家は誠実さで
群を抜いており、変化への適応能力も並外れて優れていると
して、
  『(前略)このような状況であれば、広範な国有化計画を
 通じて社会主義に向けて大きく踏み出す一方、国有化対象
 外のあらゆる利権・活動については、当面手をつけずに介
 入しないという形の社会主義化政策が考えられる。』
 (本書p496)
としています。

このシュンペーターのイギリス政治家への高い評価は、前回
も述べた、名誉革命以来の法の支配、すなわち、とくに支配
的層に絶対的権力の復活を嫌って、その分自己の権力行使を
自制する傾向にある習慣が長く続いてきたため、社会的に急
激な変化によって、悲惨な結果(恐怖政治)に陥ることを阻止
しているということになるのでしょうが、こうしてみると、
仮に資本主義では社会主義が不可避だとして、

①機が熟しているか(資本集中が十分進んだ段階)
②特に支配者層に「法の支配」の理念が浸透しているか
③富の社会的名声に変われる、
太字社会主義社会における名誉
 (自己顕示欲を満たすもの)が適切に設定できる
 か。
④消えゆく階層(ブルジョアジー)の利益をどの程度、保障で
 きるか、などがクリアーできれば、恐怖政治ではない社会主
 義への展開も考えうるということになるでしょう。

⑤ただし、それでも生産は自由な生産ではなく、社会的生産
 なので、それに対する混乱を招くような行為は、資本主義の
 もともそれとは違って、厳しく罰せられるようになるという
 ことは言えるのかもしれません。

本日はこのあたりで失礼します。
















 
 


  



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