2017年06月28日

お早うございます、よろず 齧る です。

今回齧ったのは、

日経BPクラシックス 資本主義、社会主義、民主主義 II
ヨーゼフ・シュンペーター
日経BP社
2016-07-13


です。 

さて、民主主義について書かれているこのⅡ巻を取り
上げて勉強しようと思っていたら、またしてもタイム
リーに、現実の政治の世界が考える素材を提供してく
れています。

最近の報道を賑わしているのは、やはり安倍内閣の加
計学園問題でしょう。これをめぐる内閣の一連の動き
をどう理解するのか、あるいは承認するのかどうかと
いうことが、それこそ日本の民主主義の今後を決定す
るような気がしています。

最新?の発表では、総理自身が「変な妥協をして獣医
学部新設を一校に限定したため、あらぬ疑惑を招い
てしまった。これからは特区を全国展開して、いく
らでも新設できるようにする」というような発言を
しているようです。

たしかに最初からそういう発言なら、それはそれで整
合性があったのかもしれませんが、一切かかわってい
なかったという発言はどうなるのでしょうか。

というのも、今回の加計学園問題、文科省の前川前事
務次官の話によれば、この獣医学部新設に関係してい
る省は「文科省」、「農水省」それから「厚労省」と
のことですが、ずっと一連の流れを見ていても、どの
省も新設に向けて積極的に動いているようには見えな
い、たとえば、新設に否定的な文科省を農水省、ある
いは厚労省の役人が説得したなどという話も、ついぞ
聞いたことがありません。

つまり、どの権限のある関係省庁も新設に消極的なの
に、新設する方向で話が進んでいくというのは、それ
はもちろん、首相が「国家戦略特区に獣医学部を新設
する」ことが重要であり、かつ正しい政策であると認
識しているからで、それに(文科省の)官僚らが抵抗し
ている
という図式になるのでしょうが―首相発言によ
る、最新の説ではそういうことになるでしょうーそう
なら、まず、その事情を国民に明らかにして民意を味
方につけて官僚の抵抗と戦うという正道、やり方が
あったはずですが、そのやり方を首相は採ってはいま
せん。

でも、そうなると、首相が正しく重要であると認識し
ている政策に抵抗するわけですから、首相が、加計学
園の理事長が友達だからそれにやらせたいのかどうか
は別として、国民に支持を訴えてその力に頼るのでな
い以上は、むしろ別の力で官僚に圧力をかけざるをえ
なかった
わけです。というか、そうしないと、権限の
ある省庁が消極的なのに、正しく重要な政策、つまり
獣医学部の新設が実現されるはずがないからです。

そして、対等の他の省庁では権限がないのでこの問題
で文科省らに圧力自体かけられる立場にないことを考
えると、最も自然な推論(推論といってもそれ以外には
考えられないのですが)は、その三省庁より上位に立つ
何かの力が働いているとしか考えられない。

そしてその上位の何かというのに、高級官僚の人事権
を一手に握る
内閣府ほどふさわしい存在が他に考えら
れないこともたしかなことです。

そこで最新の首相発言に基づくなら、この政策を実現
するつもりがあるのなら、むしろ最初から、いまは
堂々と行使できるこの権限を使って、高級官僚に圧力
をかける以外有効な手立てはなかったはずですし、そ
れを発表したところで、現在行使できる権限を行使し
ても批判しきれなかったでしょう。

何しろ、設置権限を持っている文科省をねじ伏せられ
ないことには実際に新設できないわけですから。

そして、実際に圧力をかける段になった時に、内閣府
人事局長が独断で圧力をかけるはずはありませんし、
もしそういうことが行われていたのなら、今回それを
初めて耳にして驚いた(はずの)首相が、すぐ人事局長の
首を切っているはずです。

そうしないところを見ると、当然ちゃんと報告はなさ
れていたということでしょう。

この事件の具体的な経緯については、当事者、専門家
がどんどん発言しそうなので、それはそちらに任せて
おいて、問題は、このように政策実行の際に、人事権
によって、あるいはそれを背景として官僚機構に圧力
をかけることが適切なやり方なのどうか、ということ
です。

それを考えてみたいと思います。


ところで、仮にも政府と名乗る存在は、どの政策テー
マを取り上げていても、いつも必ず一理はあると思わ
せることから始めていると素直に思っています。

この問題でも、政府の問題提起自体は、やはり、一理
あるように思います。

すなわち、「日本の官僚が省益だけを考え、事あるご
とに政権に抵抗するので、それを政治主導で打ち破っ
て、重要な政策を実現していく
」というような話で、
それだけを聞いていると、なるほど、一理あるような
気もしますが、はたして、そのために「内閣が高級官
僚の人事権を一手に握る」ことが妥当なのかどうか
は、このやり方が結果として何をもたらすのかを見な
いことには判断できません。

そこで、自己流に判断を下す前に、まず、民主主義と
は何かを、この巨匠の古典に当たって勉強しようとい
うわけです。



そこで、まず、「民主主義」では、一体どういうこと
が問題になるのかですが、この点につきにシュンペー
ターは、
  『ある社会が、読者の考える民主主義の基準を満
 たす手続きで、異教徒の迫害という決定に至ったと
 しよう。これは架空の例ではない。実際に、大抵の
 人が進んで民主的だと認める社会でも、異教徒が火
 あぶりにされてきたし(カルバンの時代のジュネーブ
 共和国がそうだ)(後略)』(本書p24~25)
と述べています。

また、ローマ帝国時代初期におけるキリスト教徒の迫
害も、専制君主(皇帝)によってなされたとしながら、
その専制君主が「市民の意志を意識していた」(実際、
これはモンテスキューの回に調べてわかったように、
ローマ皇帝という地位は、言ってみれば、執政官+護
民官という地位で、自身の権力の重要な源泉の一つが
平民の代表である「護民官」の職であったので、皇帝
は市民の人気を保とうとして、市民を満足させること
に心を砕いていた)以上、たとえ政体が民主政体であっ
てもそのことは起こり得たとして、それ以外にも中世
の魔女狩り、反ユダヤ主義(その最たるものは、ナチス
ドイツのヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺というこ
とになるでしょう)を挙げています。

次いでながら、その権力者が独裁的人物か、貴族主義
的人物かは、このことに対する態度から判断できるよ
うな気がします。

独裁的人物であれば、他のことは気にしなくとも、大
衆(国民)の)批判にはすごく敏感に反応します。何故
なら、それは少数者である自分の権力の唯一の源泉だ
からであり、一方、貴族主義的な人物なら、下々の批
判など、全く相手にしないでしょう。貴族としての自
分が正しい選択をしたのだから、下々の者が口出しす
ることではないとでもなるでしょうか。

さて、話を元に戻して、ヒトラーのユダヤ人大量虐殺
については、それが民主的な手続に則って、本来非合
法なものを合法化した
という経緯がある(ハンナ・アレ
ント)ので、その社会が「民主主義」という形式的手
続きさえ踏んでいれば、すべて実行されることが正し
いとは言えないとして、ここで実験として、読者に以
下のことを想像してみろとシュンペーターは言いま
す。
  『ある仮想の国―キリスト教徒の迫害と、魔女の
 火あぶりと、ユダヤ人の虐殺が民主的な形で行なわ
 れている国に移り住んだとしよう。民主的な手続き
 に沿って決まったからという理由で、私たちがそう
 した行為を支持することは当然ないだろう。だがこ
 こで重大な問題が持ち上がる。非民主的な政体に移
 行すればそうした事態を回避できる場合も、私たち
 は迫害や虐殺を引き起こす民主的な政体そのものを
 支持するだろうか。もし支持しないなら、熱狂的な
 社会主義者と全く同じ行動に出ることになる。』
 (本書p27)

と。

ここでは、デリケートな問題に触れています。それは、
たしかにこのような民主政体の行為、すなわちユダヤ
人の虐殺を、移り住んだ人間が支持することはないと
しても、ではその民主的政体そのものは支持するのか、
ということで、支持しないというのであれば、それは
非民主的な政体へ移行するということになります。実
際に虐殺を止めるというなら、そうならざるを得ませ
ん。

ところで、熱狂的な社会主義者は資本主義の下におけ
る民主主義、すなわちブルジョア民主主義とはまがい
物(本質は搾取)の民主主義だから、資本主義を禁止す
るために非民主的な手段をとることも辞さないとする
立場をとることと、いま民主的な手法にしたがってい
るだけでは、そこで異教徒の迫害が実行されてしま
う、そんなことは許せないから、われわれが非民主的
な手段をとることも辞さないとすることとは、そこで
の我々と社会主義者はこの点に関しては実は同じ立場
に立っているといえるのではないかというわけです。

したがって、

  『民主主義を守り抜くと叫んでいる人は、ただ単
 に、民主主義を通じてそうした理想や利益(信教や
    言論の自由、正義、公平な政府など)が実現できる
    はずだと主張しているにすぎない。なぜそうなるの
    かは深く考えなくてもわかる。民主主義は政治の
    段
、つまり政治的な(立法・行政上の)決定に至るた
 めの一つの制度上の取り決めであり、ある一定の歴
 史的環境でどのような決定につながるかを考えない
 限り、それ自体が目的になることはあり得ない。』
 (本書p27~28、ただし太字化はブログ作者、本書で
 は傍点)
と述べています。

「民主主義」が単なる投票の多数で物事を決めるとい
う手続きのことだとすると、さきほどのユダヤ人虐殺
という極限的な例を見ても分かるように、どのような
環境でどのような決定がなされようとしているかを抜
きにして、民主主義自体が目的だとはとても言い切れ
ない。
 
あまりにもおかしな決定がなされようとしていると
き、「非民主的な手法」に訴えてそれを止めること自
体にも、全否定し得ない部分があるのは確かなことで
す。

一方で、
    『(前略)一九一八―一九年頃のオーストリアの社
    会主義政党は、民主主義の理念を頑なに守ってい
    た。ところが、権力の独占が視野に入った数ヶ月
    間は、多くの党員が曖昧な態度を取りはじめた。
 フリッツ・アドラーが、多数決原理など「数合わせ
 の気まぐれ」(中略)に対する無暗な崇拝だと言い放
 ち、他の多くの党員も、民主的な手続きに肩をすく
 めるようになった。共産主義者ではなく、正規の党
 員がそうした姿勢を示したのである。』
 (本書p23~24)
というような文章を読むと、

一つの主義が理想的社会を実現するために民主主義を
「数合わせの気まぐれ」だからと簡単に否定すること
にも、全面的に賛成しかねる部分があると。

いずれにせよ、民主主義自体は手段にすぎないことを
考えると、あるグループなり政党なりが、いったい
ういう目的で、その手段として民主主義を利用しよう
としているのか
を考えることが重要になってきます。

今、日本は平和憲法下で国民がすでに70年以上暮らし
てきていることを考えると、憲法をアメリカの押しつ
けだから改正しようとする自民党(とりわけ全面的に改
正しようとする派)が、ある意味革新党であり、護憲を
主張する方が保守党だという見方もできるわけです。

そして、その自民党内でも、仮にその全面改憲の極端
な思想の持ち主が少数だったとしても、党内バランス
でその少数がまず党内の権力を掌握し、次いで小選挙
区制を利用して、これまた少数であっても政権を握れ
て、さらに高級官僚への人事権で、官僚機構をもねじ
伏せられるようになるのだとすれば、少数者であって
も短期間のうちにかなりのことを達成しうる制度に現
状がなっていることだけは確かです。

つまり、この制度の悪意は、一見民主主義としての自
然さを装いながら、実は中核となる者がかなりの少数
であっても、強い信念(それがどういう信念であろ
うと)を持ってさえいれば、自分の好きなことがかなり
の程度実現できてしまうシステムであるということで
す。

実際少々の批判が出ても、国会での決議案は全部多数
決で否決されざるをえないし、非合法的に人事権を掌
握したわけでもないので、かえって誰にも止められな
いわけです。

さて、ここまでは「民主主義」という言葉を定義なし
に自明のものとして使ってきましたが、ここらでシュ
ンペーターに従って整理すると、まず、18世紀の
典的「民主主義」
に関しては、
  『「民主主義とは、政治的な決断を下すための制
 度上の取り決めであり、市民が自ら決定を下すこと
 で公共の利益を実現する。個人を選出し、選ばれた
 個人が集まって市民の意志を実行に移す」。』
 (本書p43、ただし太字化はブログ作者、本書にはあ
   りません)
と定義できるだろうとしています。

そこでこの定義を見ながら、民主主義の問題点を洗い
出していくと、

まず、この市民(有権者)の範囲の問題があります。

シュンペーターによれば、どれほど民主的な国家に
あっても、全員が選挙権を持っていることはないと。
日本でも最近18歳以上なら選挙権が与えられるよ
うになりましたが、ではなぜその境界が17歳ある
いは16歳ではないのか、ということに答え切れる
か、そんなに合理的な理由があるのかということが
問われます。

それからこの市民は自ら決定を下す市民なのですが、
各個人がそれほど明確かつ合理的な意志をもち行動で
きるのかについてシュンペーターは、その意志のこと
を、「目的意識をもった責任ある行動」に対応する精
神の営み
と捉え、それが市民にとって、国家の問題や
国際問題になると、言い換えれば、家庭や職場という
私的領域を離れると、
  『(前略)現実感が完全に失われる(中略)現実感が
 薄れるため、責任感が薄れ、事実上意志もなくな
 る。(中略)好き嫌いはあるだろう。ただ、それは普
 通、意志と呼べるものではない。』(本書p64~65)
として、

結局、「好きか嫌いか」、日本に対するある国の振る
舞いが嫌いだとか、許せないとか、進出してきたら、
すぐにでも戦争をしてでも撃退するような勇ましい話
は聞きますが、それで「何万人、あるいは何十万人死
ぬけどやるしかない」などという現実的なところまで
覚悟を決めて言っている話を聞いたことがありませ
ん。

一方、先の戦争を体験したいわば実戦経験のある人で、
公の場で「これこれの場合は、〇〇万人犠牲者が出て
も、戦争で解決するしかない」と言っているのも聞い
たことがありません。

戦争を始めた後のことを実体験で知っている人がそう
言わない以上、やはり、そんな手段はないんだろうな
と素人としては思ってしまいます。

つぎに市民の意志ですが、もしこれを選ばれた者に
市民が権限を移譲するというような意味ならとし
て、シュンペーターは、
  『古典的な民主主義の教えを受け入れ、(中略)単
 純な多数決による決定では、多くの場合、市民の意
 志が実現するのではなく歪められるという事実に突
 き当たる。過半数の意志は当然、過半数の意志であ
 り、「市民」の意志ではない。後者は前者では到底
 「代表」できない様々な意志の寄せ集めだ。』
 (本書p86)
とし、

また、
  『(前略)そうした委譲とか代表とかいう言葉を使
   うのであれば(中略)市民全体が、例えば市民全体を
   代表する議会に、自身の権限を委譲すると考える必
   要がある。だが、法的に権限を委譲したり、代表を
    送り込めるのは、肉体や精神を持つ個々の市民だけ
    だ。したがって、フィラデルフィアで(中略)大陸会
    議(中略)に代議員を送ったアメリカの植民地(州)は、
    (中略)代表を送り込んだといえるが、そうした植民
     地(州)の市民が代表を送り込んだとは言えない。
     市民全体としての法人格がないためだ。』
     (本書p38~39)
と。

つまり、過半数の意志はあくまで過半数の意志でしか
なく、「市民全体」の意志と同一視できないし、一人
一人の人間なら、それぞれの持つ権限を他人に委譲す
ることができるとしても、「市民全体」というものに
一つの人格が認められない以上、何らかの代表という
者は選べても、それが「市民全体」の代表だとは言え
ないということです。

また、先ほどの合理的な判断を促す個人の経験や責任
感が欠けていれば、下心のある集団に付け入る隙を与
えるため、
  『(前略)そうした集団は市民の意志を変えられると
 いう点、そして、かなり自由に市民の意志をつくり
 上げることさえできるという点だ。政治のプロセス
 を分析していて遭遇するのは大抵、本物の意志では
 なく、つくられた意志だ。(中略)そうである限り、
 市民の意志は政治のプロセスの産物であり、原動力
 ではない。』
(本書p68)
と指摘していることも非常に重要なことだと思いま
す。

もっともここでシュンペーターはそのこと自体を否定
しているのではなく、その「つくり上げる」こと自体
も民主的になされている以上、その定義の中に取り込
まれるように定義を為すべきだというわけですが。

それから、公共の利益についても、それがただ一つに
定まり、これについては誰もが同意する、もしくは合
理的に考えれば誰もが認めざるを得ないといった状況
はあり得ないと述べて、

たとえば、
  『(前略)「この国は徹底的に軍備を拡張し、我々
 が正しいと思うことを世界中に広めるべきだ」とい
 うアメリカ人と「この国は国内の問題に専念すべき
 であり、それ以外に人類に貢献できる道はない」と
 いうアメリカ人は、解消できない究極の価値観の違
 いに直面している(後略)』(本書p46)
が、合理的に考えて妥協点に到達するということは考
えれないと言っています。

また、
  『例えば、失業給付の支給に全員が同意している
    状況で、実際にいくら支給するかを決めるといった
    問題など、本質的に量の問題、もしくは濃淡をつけ
    られる問題なら、まずまずの妥協がまとまる可能性
    が極めて高いといえるだろう。だが、例えば異教徒
    を迫害するかしないか、開戦するかしないかといっ
    た質的な問題では、まとまった結果に、理由は異な
    るが、全員が等しく不満を持ち、むしろ非民主的な
    機関が決定を押しつけた方が遥かに受け入れやす
    かったというケースは十分考えられる。』
    (本書p52~53、ただし太字化はブログ作者、本書に
    はありません)
としています。

たとえば、「異教徒を迫害するかどうか」といった問
題で「賛成派」と「反対派」が妥協を図って、「財産
の二分一にかぎって没収する」ことにした場合、やは
り、「賛成派」は全部の財産の没収がないことに不満
だろうし、「反対派」は財産没収を止められなかった
事への不満があるだろうし、全員が不満をもつような
展開になるのではないかと私は思うのですが---。

それだったら、いっそ「非民主的な機関による押しつ
け」の方が受け入れやすい場合があるとして、その歴
史上の実例として、ナポレオンの政治を挙げていま
す。
  『第一執政時代のナポレオンの統治は、軍事独裁体
 制だったと言って差し支えないと思う。当時、政治上
 特に必要とされていたのが、宗教上の和解だ。(中略)
 聖職者(特に司教)が復権すれば、革命で解決した土地
 の問題が水の泡になりかねないという当然の不安で、
 混乱に陥っていたはずだ。民主的に事を進めようとし
 ていれば、行き詰まりや、いつ果てるともしれない争
 いで、怒りが増幅されていた可能性が極めて高い。と
 ころが、ナポレオンは妥当な形で事態を収拾できた。
 それは、どの集団も自分からは譲歩できなかったが、
 上から押しつけられた体制なら進んで受け入れること
 ができた
からに外ならない。』
    (本書p53~55、ただし太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
と。

そして、
  『もし長い目で見て市民全体が満足できる結果を残
 せるのが市民のための統治であるなら、古典的な民主
 主義の教えが描く市民による統治は、その条件を満た
 せないことが少なくないと思われる。』
     (本書p55、ただし太字化はブログ作者、本書では傍
 点)
と述べ、古典的な民主主義論には以上のような難点があ
る、行き詰まりを見せることになるので、シュンペー
ターはこの改良を試みます。

すなわち、古典的な民主主義論の難点は、
  『(前略)「市民」が個々のあらゆる問題について合
 理的な確たる意見を持っており、民主主義では「代
 表」を選び、代表に実行を託すという形でそうした意
 見を実現するという点にあった。つまり、民主主義の
 最大の狙いは有権者に政治的な問題の決定権を授ける
 ことにあり、代表者の選出は二の次だとされた。』
    (本書p79~80)

そこでこの順序を逆転させて、
  『(前略)定義はこうなる。「民主的な手法とは政治
 決定を下すための制度上の取り決めであり、市民の
 票を集めるという競争を通じて個人が決定権を勝ち
 取る
」。』(本書p80)
と民主主義を定義することだと。そしてこれによって、
そこそこ使い勝手の良い民主主義の基準を提示できる
と述べています。

まず、これであれば、
民主的な政府とそうでない政府を見分けることがで
 きる

 たとえば、イギリスの議会君主制なら、君主は議会
 の選出する閣僚の任命を拒否できないので上の定義
 の意味で民主主義だが、「立憲君主制」で君主が閣
 僚を任命・罷免できるなら、競争に勝ったのに決定
 権が持てないのだから、それはここで言う民主主義
 ではもはやない、など。

②先ほどの「作り上げられた意志」を理論に取り込
 み、土台に据えることができると。

要するに市民全体の意志といえるかどうかに煩わされ
ることなく、票獲得競争に勝ったのであれば、それを
基礎とできる。

集団に本物の意志がある場合(例えば、失業手当が欲
 しいという失業者の意志)もこの議論に取り込める。
 それは市民全体の意志ではないとの批判を回避でき
 る。票獲得競争に勝った者が決定権を手にできるわ
 けですから。

④「リーダーシップを争う競争」を自由な投票による
 自由な競争
という形に限定することで、軍事蜂起に
 よる競争などをこの民主主義からは排除できるこ
 と。

 そして、その一方でこの定義では、経済分野の「不公
 正」「不正」競争や競争の抑圧といった現象に酷似す
 るケースは排除できない、としています。もっとも、
 その社会の法律や倫理観である程度の制約は設けられ
 るとも言っていますが。

 これはたとえば、企業の国有化など、競争の抑圧も、
 票獲得競争に勝って権力を握れれば、認められるとい
 うことになるということでしょう。

そして、
⑤この説では民主主義と個人の自由の間に内在する関係
 を明らかにできる。少なくとも誰もが有権者の前で自
 分の意見を言い、政治のリーダーシップを求めて自由
 に競争できるのであれば、全員人かなりの程度の言論
 の自由が認められることになる。
 ただし、このシステムで確実に保証される自由はこの
 選挙の時の言論の自由だけという結果にもなりかねま
 せんが。

以上で、つまるところ、  
  『(前略)民主主義の原理とは、競争を勝ち抜いて最
    大の支持を得た個人や集団に政権を委ねることを意味
    するにすぎない。』(本書p87)
と。

さて、そうした自由な競争を経て、最大の支持を得た個
人や集団に政権が委ねられて、首相が選出され、内閣が
形成されることになると、
  『内閣は、(中略)民主主義のプロセスの中で、首相
 とも政党とも、議会とも、有権者とも異なる役割を果
 たすことになる。各閣僚は,内閣が官僚機構という動
 力装置を掌握するために指名され、複数の省庁を担当
 する(後略)』(本書p96)
ということになると。

これだけであれば、国の政策を前に進めてくために、比
較的少数得票であっても、小選挙区制度で多くの議席を
得、それによって安定的政権を樹立できるようにわざわ
ざしたのだから、その政権が選んだ閣僚が内閣として官
僚機構を支配し、物事をその多数によって好きなように
決定していくのは全く自然なことのように思えても来ま
すし、これは今まさに自民党が行っている支配が、この
考え方に基づいているようにも思われます。

しかし、シュンペーターはもちろんこの考え方にいくつ
かの条件をつけ加えています。

それは、「民主主義が少なくとも機能し得る社会で、民
主主義が成功を収めるには、四つの条件
を満たすことが
必要だと思われる」としていて、それらは、

政治家の高い資質
政治的な決定が効力を発揮する有効範囲を広げすぎな
 い
こと
③しっかりした伝統のある官僚機構で、強い義務感とそ
 れに劣らぬ団結心を備えている
民主的な自己管理
 有権者は政治家への指図を慎まなければならない
⑤リーダーシップをめぐる争いを意義あるものにするた
 め、被選挙権のあるすべての候補者が自分の意見を支
 障なく主張できる
環境を整える
を挙げています。

④や⑤はまあ置いておきましょう。

③の続きにはこうあります。
  『第三の条件として、先進工業国で民主政府が様々
 な公共サービスを提供する場合、サービスの多寡にか
 かわらず、訓練の行き届いた官僚機構の活用が不可欠
 となる。しっかりとした伝統のある官僚機構で、強い
 義務感とそれに劣らぬ強い団結心を備えていることが
 条件だ。(中略)官僚は(中略)各省庁を統括する大臣を
    導き、必要であれば指示を出すくらいの力量が必要に
    なる。そのためには、独自の原理を発展させ、それを
    貫ける独立した立場になければならない。(中略)
 命・任期・昇進は、形式上は別にしても、基本的には
 政治家が守らざるを得ないような公務員規定で、法人
 としての見解に基づいて決める必要がある
というこ
 だ。政治家や有権者が官僚に妨害されたと感じた際
 は(頻繁にそう感じるはずだ)確実に批判の嵐を招くだ
 ろうが、それでもそうする必要がある。』
 (本書p124~125、ただし太字化はブログ作者、本書
 にはありません)
もう、ここには今日の問題がすべて書かれているでは
ありませんか。

小選挙区型選挙で、比較的少数得票でも多数の議席を
握れるようになっているからこそ、なおさら独立した
保守的な官僚機構の存在も必要なわけ
で、官僚は本来
これまでの伝統に従い、政治家に反対するのが言って
みれば仕事
なわけで、重要な問題について大臣を導き
指示するぐらいでなければならない、そして、そうし
た官僚を確保するためにも「政治家さえも守らなけれ
ばならない(保護された)公務員規定に従って昇進など
がなされなければならない」のに、政治家が高級官僚
の人事権をすべて握って、それで本当に国家のための
反対意見が自由に言えるのかという問題が非常に軽視
されているわけです。

だから、シュンペーターは政治家や有権者が、官僚の
妨害にあっていると感じる、そういうことはむしろ頻
繁に起こり得るけれども、そうだとしてもなおその独
立性を守らなければならないと言っているわけです。

もちろん、以前は人事権に介入できなかったことと、
確実な天下り先が約束されていたことで、政治家に対
して非常に強気に反対できた、その中には弊害のあっ
たことも間違いないでしょう。

しかし、時には官僚をねじ伏せる必要があるとして
も、それを人事権でやってはいけないということで
す。今度は逆の心配もしないといけないわけです。

何でも「言うことを聞かなきゃクビだぞ。」で押し
切ってしまうようになってしまったら、一体誰が内閣
に本気で意見できるでしょうか。

つまり、今のやり方なら、高級官僚の人事権も握って、
およそやりたいことは大抵できてしうまう。その場合、
官僚の役割は首相のブレインが果たすことになるので
しょうが、そこにお友達、あるいは自分と同じ考えの
人だけを集めた場合を想像すると、誰が歯止めをかけ
るのか不安になってきます。

そこにはこれから述べる政治家の資質・度量の問題も
関わってきます。自分に反対する、意見する人間で
も、見どころがあればブレインにするというなら期待
も持てますが、そんなことはまず保証されるものでは
ありません。

中立で独立の官僚制度なら、ある程度それはできるは
ずですが。

本当は現在、歯止めをかけられる力が実際にあるのは、
与党内の他の勢力しかないはずですが、機能している
ようにはとても思えません。

つぎに①と②ですが、

まず、①政治家の高い資質については、
  『(前略)これまでの経験から言って、唯一効率的
 に人材を確保できると思われるのは、日常的に政治
 に馴染んでいる社会階層が存在している場合だ。そ
 うした階層自体が厳しい選抜のプロセスの産物とい
 える。そのような階層が、部外者に対して過度に閉
 鎖的でなく、過度に開放的でない場合、そして日々
 吸い上げる人材の大部分を消化できる度量がある場
 合、他の分野で多くの試練を潜り抜けてきた人材
 (言ってみれば民間で修業を積んできた人材)を政界
 に送り込めるだけでなく、そうした人材に経験の結
 晶である伝統と、職業倫理、これまで培ってきた共
 通の見識
を授けて、適性を高めることができる。こ
 の条件を唯一完全に満たすイギリス(後略)』
 (本書p118~120、ただし太字化はブログ作者、本
   書にはありません)
と述べています。

この太字化された部分こそが、私は法の支配のことで
はないかと思っていますが、イギリスにはどうもそれ
がある。つまり、すべての市民がいかなる独裁権力が
成立すること、それだけは拒否するため、権力者と
なっても、自己の権力の行使を抑制(自制)すること

伝統として組み込まれている、教育されている、それ
共通の見識となっているということだと思います。

こういったものなしに、手段としての、手続きとして
の民主主義だけでは、多数さえ取れば何でもOKと
なってしまうことを止められませんし、形式的には民
主的手続きを踏んでいても、少数者の弾圧さえ可能に
なってしまうのです。

そして、②政治的な決定が効力を発揮する有効範囲を
広げすぎない
ことというのは、

   『(前略)もちろん、首相をリーダーとする議会が何を
    決定の対象とするのか、
法的に制約することはでき
    ない(必要なら憲法を修正す
るしかないだろう)。しか
    し、(中略)強大な権限を持つ
議会が適切な機能を果た
    すには、自ら制約を課す必要
がある。それと同じで、
     たとえ議会で採決が必要とな
る問題だったとして
     も、政府・議会が純粋に形式的
に―もしくは、せい
     ぜいのところ純粋な監督機関とし
て―物事を承認し
     なければならない場面は少なくない
と言えるかもし
     れない。そうしないと、民主的な手法
では法制度か
     らの逸脱が起きかねない。』

 (本書p121~122)
と書かれていますが、

それに続く部分を読んでいくと、このことのより具体的
な意味とは、たとえば、裁判官が政治からかなり独立を
認められていること、あるいはイングランド銀行がやは
り政治から独立していることが挙げられており、
  『このように、ほぼあるゆるタイプの人間に営み
 が、政治のリーダーシップを争う競争の駆け引きの材
 料にはならずに、国の領域に入り込む可能性がある。
 駆け引きの材料になるのは、権限を付与する法案や権
 限の行使機関を設置する法案を通す時だけ
で、政府は
 全体を監督する以外、関知しないというケースだ。』
 (本書p123~124、ただし太字化はブログ作者、本書に
   はありません)
とあり、

②が意味しているのが、たとえば、裁判所のシステムを
構築する「裁判所法」のような法律を通すことについて
は、政府・議会が権限を有するが、一旦その法律に従っ
て具体的な裁判機関が構成された後は、具体的な個別の
裁判に政府・議会が介入する、あるいは裁判官の身分保
障に手を出すことはしないという意味で述べられている
ということがわかります。

つまり自己の権力行使を抑制することで法の支配を制度
的にも支えようとするもののように思われます。

以上を整理すると、民主主義が機能し得る社会で民主主
義が成功を収めるため
には少なくとも、

法の支配
裁判機関を含むいくつかの機関については政府・議会
は全体を監督するのみ
(裁判官弾劾制度などはある)、具
体的裁判・裁判官の身分保障に介入しない
強い義務感と団結心をもつ伝統的な官僚機構、そして
②と同じく身分保障
の存在、の三つは最低でも必要だと
言っているのであり、

今、この③に対して内閣の人事権に基づく揺さぶりが民
主主義を危険に陥らせるということが、前川氏の懸念に
現れていると思われます(まあ、①②も危ないような気が
しますが)。

実際、民主主義万能を振りかざし、多数さえ取れれば何
でも許されるような風潮もあるため、しかも小選挙区制
にあっては、かなりの少数者でも、その意志を実現でき
てしまう可能性があるため、警戒すべきところしょう。

それから、戦争など、緊急事態には一時的に民主主義を
停止する制度が以下のように昔から用意されているよう
ですが、
  『(前略)民主主義は混乱時には不利な制度だと一般
 化できるのかもしれない。実際、競争型のリーダー
 シップを諦め、独占型のリーダーシップを認めた方が
 合理的な場合があることは、事実上すべてのタイプの
 民主主義が認めている。古代ローマでは、緊急時に選
 挙を経ずにそうしたリーダーシップを確立できるポス
 トが(中略)「ディクタトル」(独裁官)と呼ばれていた。
    (中略)この独占の期間が事実上明確に制限されている
    場合や(中略)緊急事態が事実上明確な形で短期間に限
   定されている場合、(中略)競争でリーダーを選ぶとい
   う民主主義の原理は一時的に中断するだけだ。』
   (本書p129~130)
これもヒトラーなどの場合を見ると、戦争があるから
ディクタトル(独裁官)に選ばれたのではなく、むしろ独
裁官の地位を得るために戦争を開始したのではないかと
思われるふしがあるので、警戒すべき動きの一つです。

結局、独裁官らしきものがその社会で選ばれ、その任期
がなし崩し的に延長されれば、それはすなわちその社会
がすでに独裁体制だということを意味しますから。

最後に資本主義民主主義、および社会主義の関係につ
いてシュンペーターは、まず現代社会の民主主義は、資
本主義のプロセスの産物だとして、その民主主義、すな
わちブルジョア民主主義の特徴は、ブルジョアが公権力
の領域を制限することで政治の領域を制限することだと
していますが、まあ、噛み砕いて言ってしまえば、それ
は商人階級のことなのだから、国家による規制は少なけ
れば少ないほど、自由に商売ができていいわけです。

ですから、
  『国家の主たる役割は、ブルジョアの合法性を保
 証し、あらゆる分野で個人の自立した努力を促す堅
 固な枠組みを整備することにある。また、以前論じ
 たブルジョア社会に内在する平和的(少なくとも反
 軍国的)な傾向と、自由貿易主義的な傾向を踏まえれ
 ば、ブルジョア国家では政治決定の役割を縮小する
 ことが可能だ。』(本書p132)
し、

そして、
  『(前略)国家に頼って生きようという階級より
 は、干渉を受けないことが最大の利益になる階級の
 方が、民主的な自制が働きやすい
。一般に、私的な
 物事に没頭しているブルジョアは、そうした物事に
 大きな邪魔が入らない限り政治的な違いを容認
 し、反対意見を尊重する
ケースが他のタイプに比べ
 て格段に多い。』
 (本書p133、ただし太字化はブログ作者、本書には
 ありません)
と述べており、

ブルジョアには、自分らの商売を邪魔しない限り、反
対意見を尊重する度量があるし、また反対意見からも
新しい商品が生み出され得る、したがって結局はそ
れがブルジョア階級の利益にもなるところからきてい
るのでしょうが、改めて自由とは、ブルジョア的自由
だということになりそうです。

従って、これと社会主義を比較した場合、シュンペー
ターは、社会主義のイデオロギーはブルジョア階級の
イデオロギーから生れたのだけれど、資本主義では政
治の効率が落ちる(⇒政治の支配領域が狭まる⇒新ビ
ジネスのチャンス)となるけれども、社会主義のように
中央が生産活動を一手に管理するところでは、効率が
落ちる⇒パンが不足する⇒社会的不安の深刻な事態を
招く、

そのような事態は何としても避けなければならないた
め、容易に非民主的社会主義が成立する(たとえばパン
工場での労働争議など、パン不足を招く行為を容易に
認めることはできなくなる)ことになります。

そこでシュンペーターは、機能する社会民主主義が成
立するためには、「成熟した社会」でなければ、望む
べくもないと述べています。

ここで、「成熟した社会」と言っているのは、Ⅰ巻で
述べられていた、成熟した資本主義社会、すなわち独
占資本主義の段階のことで、それによって、消費財が
大衆に行き渡る段階に至ってということのようです。

そうなる以前の段階に革命に訴えたロシアなどの社会
主義にあってはスターリン体制を見ても分るように非
民主的なケースも現実にも有り得るというわけです。

そして、社会主義社会の工場労働につき、むしろ、非
効率な生産管理ではパン不足、社会的不安を招きかね
ないため、 
  『結局のところ、社会主義経済の効率的な管理と
 は、工場労働者による独裁ではなく、工場労働者
 対する
独裁を意味する。そこで厳しい規律を強いら
 れる人々も選挙では主権者であることに変わりはな
 い。しかし、そうした人々が工場の規律を緩めるた
 めに主権を行使する可能性があるのと全く同じよう
 に、政府がーまさに国の行く末を憂える政府が―こ
 の規律を利用して、労働者の主権を制限する可能性
 もある。資本主義下の民主主義は徹頭徹尾まがい物
 だったが、社会主義下の民主主義も、実務上の必要
 性から、結果的にはそれ以上のまがい物となること
 が判明するのかもしれない。』(本書p142)
と述べています。

少なくとも、自由、すなわち、国家が私事、すなわち
商売に干渉しないことを基にしたブルジョア的自由
は、社会主義にあっては、選挙時の自由を除いて(それ
自体も制限される恐れもあるが)、消滅していく可能性
があります。何しろ、国家が生産を管理し、失敗は許
されない(パン不足は社会不安を招く)のですから。

第5部の社会主義政党の略史も、フェビアン協会の活動
などについても書かれて、非常に興味深いですが、第
4部をまとめておけば、第5部は読みやすくなってい
ると思われるので、今回は省略致します。各自お楽し
みください。

それでは本日はこのあたりで失礼いたします。


















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