2005年10月
2005年10月29日
中国出張
中国出張 その3
1.ターボ冷凍機について
今回は、ターボ冷凍機について簡単に説明させて頂きます。
冷凍機は大別してレシプロコンプレッサー(ピストン式)と、羽根車式コンプレッサーが あり、羽根車式は大容量に適しております、小型冷凍機はルームエアコン、冷蔵庫、スー パーの冷凍ショーケース等でお馴染みですが、高層ビル全体の冷房をするような場合は、 ターボ冷凍機が最適であり、ホテル、事務所、デパート、国技館、空港ターミナル、工業 用冷却装置等々には殆どターボ冷凍機が複数台使用されております。
又、工場で零下10℃以下に冷却する工程にもターボ冷凍機が使用されています。
今回、中国に納入される大型低温ターボ冷凍機は、ビニロン製作工程の低温冷却の為ター ボ冷凍機冷水入り口温度零下5℃、同出口温度零下10℃(5℃冷却)で、不凍液は零下 20℃でも凍らない様調整された「塩化カルシューム溶液」を使用します。
この種ターボ冷凍機は、わが国では、当時H社、E社と我がM社の3社で製作され、シ ェアーは3社で90パーセントを取っておりました
2.出発準備
さて、外国に納入した冷凍機の現地試運転調整、運転指導、保守点検要領指導を行うに は、日常の業務以上の技術、知識が要求され、傍に聞く人も居ないので、それなりの勉強 が必要です。
工場の組立、試運転は日常の業務範囲でしたが、設計計算書、各種データの分類、関連 データとの整合性、試験結果との照合と検証、等々改めて設計部門に行って資料を引っ張 り出し、先ず自分で勉強し、わからない点については指導を受けなければなりません。
半月ほど、設計部門に席を設けて勉強しましたが、十分な時間が取れず必要な資料はコ ピーを取り、期限切れで打ち切りました。
又、K社を訪問して現地の生活、勤務態様、持参する個人生活必需品(衣類等)、外 貨、宿舎、食事等の状況、又、共産主義国家である中国国内で心得なければならない事 等々について詳しく説明を聞きました。
出発は7月4日東京でK社関係者(約10人)と一泊し、翌7月5日午前11時羽田発ア リタリア航空と決まりました。
続く。
1.ターボ冷凍機について
今回は、ターボ冷凍機について簡単に説明させて頂きます。
冷凍機は大別してレシプロコンプレッサー(ピストン式)と、羽根車式コンプレッサーが あり、羽根車式は大容量に適しております、小型冷凍機はルームエアコン、冷蔵庫、スー パーの冷凍ショーケース等でお馴染みですが、高層ビル全体の冷房をするような場合は、 ターボ冷凍機が最適であり、ホテル、事務所、デパート、国技館、空港ターミナル、工業 用冷却装置等々には殆どターボ冷凍機が複数台使用されております。
又、工場で零下10℃以下に冷却する工程にもターボ冷凍機が使用されています。
今回、中国に納入される大型低温ターボ冷凍機は、ビニロン製作工程の低温冷却の為ター ボ冷凍機冷水入り口温度零下5℃、同出口温度零下10℃(5℃冷却)で、不凍液は零下 20℃でも凍らない様調整された「塩化カルシューム溶液」を使用します。
この種ターボ冷凍機は、わが国では、当時H社、E社と我がM社の3社で製作され、シ ェアーは3社で90パーセントを取っておりました
2.出発準備
さて、外国に納入した冷凍機の現地試運転調整、運転指導、保守点検要領指導を行うに は、日常の業務以上の技術、知識が要求され、傍に聞く人も居ないので、それなりの勉強 が必要です。
工場の組立、試運転は日常の業務範囲でしたが、設計計算書、各種データの分類、関連 データとの整合性、試験結果との照合と検証、等々改めて設計部門に行って資料を引っ張 り出し、先ず自分で勉強し、わからない点については指導を受けなければなりません。
半月ほど、設計部門に席を設けて勉強しましたが、十分な時間が取れず必要な資料はコ ピーを取り、期限切れで打ち切りました。
又、K社を訪問して現地の生活、勤務態様、持参する個人生活必需品(衣類等)、外 貨、宿舎、食事等の状況、又、共産主義国家である中国国内で心得なければならない事 等々について詳しく説明を聞きました。
出発は7月4日東京でK社関係者(約10人)と一泊し、翌7月5日午前11時羽田発ア リタリア航空と決まりました。
続く。
2005年10月27日
中国出張
中国出張 その2
中国向け大型工業用低温ターボ冷凍機3台は、工場で製作を終え、K社関係者の立会いを受けた後に昭和40年1月ごろだったと思いますが神戸港から香港経由で輸出されました。
当時の中国の国内輸送はトレーラーが走れる南北縦断高速道路は無く、途中小型車に積み替える等車両、道路共に貧弱で、中国国内の輸送に2ヶ月以上かかると聞いていました。
北京にターボ冷凍機が着くのを見越して、4月ごろ我が社の工場から現地組立技術員が出発しました。現地からの報告書を見たわけではありませんが、当時未だ日本人に対する不信感が根強く、会話の中に「中国の政治、経済、人民の生活レベル、前の世界大戦、台湾問題等」は一切禁句であるとK社からの指導があったとの情報は聞いておりました。
当時の国際状況としては、中国は閉ざされた国家であり、中国共産党政権は毛沢東、周恩来体制が全てを支配しており、経済状況はわが国と比較して格段の差が歴然とありました。当時の中国国民は約八億人と言われ、先ず八億の国民に三食の食事を与える事が政府の最大の政治課題であり、特に辺境部においては、考えられない貧しさの階層が何億人も居ると言う状況と聞いており、そんな地方から借り出されて都市に住み着いた若年労働者は、共産党の教育を受けて、三食の食事が与えられる事が最大の喜びと生き甲斐であり、系統的な基礎的学習も無く、集団生活にやっとなれた程度の現地の建設関係者は、初めて大型低温ターボ冷凍機を見て、物珍しさ、機能、運転方法等全てが驚異だったと聞いています。
昭和40年5月末になり、現地据付指導員から6月末にはターボ冷凍機の据付工事が完了するとの報告があり、「試運転調整、運転技術員の教育、ビニロンプラントの操業立会い、引渡し業務」の人選が進み、6月になって上司から「私に行け」と指名されました。
私は、当時海外旅行の経験なく、現地外国人の運転指導の経験も無く不安でしたが、一度は通らなくてはならない道と考え、引き受けました。続く。
中国向け大型工業用低温ターボ冷凍機3台は、工場で製作を終え、K社関係者の立会いを受けた後に昭和40年1月ごろだったと思いますが神戸港から香港経由で輸出されました。
当時の中国の国内輸送はトレーラーが走れる南北縦断高速道路は無く、途中小型車に積み替える等車両、道路共に貧弱で、中国国内の輸送に2ヶ月以上かかると聞いていました。
北京にターボ冷凍機が着くのを見越して、4月ごろ我が社の工場から現地組立技術員が出発しました。現地からの報告書を見たわけではありませんが、当時未だ日本人に対する不信感が根強く、会話の中に「中国の政治、経済、人民の生活レベル、前の世界大戦、台湾問題等」は一切禁句であるとK社からの指導があったとの情報は聞いておりました。
当時の国際状況としては、中国は閉ざされた国家であり、中国共産党政権は毛沢東、周恩来体制が全てを支配しており、経済状況はわが国と比較して格段の差が歴然とありました。当時の中国国民は約八億人と言われ、先ず八億の国民に三食の食事を与える事が政府の最大の政治課題であり、特に辺境部においては、考えられない貧しさの階層が何億人も居ると言う状況と聞いており、そんな地方から借り出されて都市に住み着いた若年労働者は、共産党の教育を受けて、三食の食事が与えられる事が最大の喜びと生き甲斐であり、系統的な基礎的学習も無く、集団生活にやっとなれた程度の現地の建設関係者は、初めて大型低温ターボ冷凍機を見て、物珍しさ、機能、運転方法等全てが驚異だったと聞いています。
昭和40年5月末になり、現地据付指導員から6月末にはターボ冷凍機の据付工事が完了するとの報告があり、「試運転調整、運転技術員の教育、ビニロンプラントの操業立会い、引渡し業務」の人選が進み、6月になって上司から「私に行け」と指名されました。
私は、当時海外旅行の経験なく、現地外国人の運転指導の経験も無く不安でしたが、一度は通らなくてはならない道と考え、引き受けました。続く。
2005年10月25日
中国出張
中国出張 その1
1.経緯
昭和40年(当時私は38歳)7月から9月まで、中国北京市近郊に建設されたビニロンプラン トのプロセス用大型低音ターボ冷凍機3台の試運転調整、運転指導、引渡し業務のため出張 しました。
その時の断片的記録と記憶が其の侭になっており、何時か整理しなければと思って居ま したので、アルバム、日記等を時系列に整理して、ブログに書き込みたいと考え、筆をと りました。当時の中国の粗悪紙に書かれた日誌が40年ぶりに日の目を見る事になりまし た。
2.プラント輸出
当時、わが国と中国の政治、経済の交流は始まったばかりで、民間人の渡航は認められて 居ませんでした。
そんな時(昭和39年頃)、わが国のビニロン繊維メーカー大手のKレイヨン(株)(以 下K社という)と、北京有機化工庁との間でビニロンプラント(ビニロンの繊維と糸を生 産する工場)の輸出商談が成立し、プラントを構成する大型低温(−10℃)ターボ冷凍 機3台を、わが社(M重工業)がK社から受注しました。内訳は工場試運転、性能試験立 会い、国内にて現地 オペレーターの教育、現地組立据付、試運転、性能確認、現地オ ペレータ及び保守技術員の教育、等々を含めた一括受注でした。
3.国内のオペレーター教育
冷凍機の製作は神戸造船所の工場で着々と進められている一方で、現地(中国)から運 転、保守要員として2名(内1名は通訳兼務)が来日し、K社の教育スケジュールの中に ターボ冷凍機の運転、分解整備の実習が組み込まれており、その教育を私が担当させら れました。
K社に納入されていた輸出機と同仕様の冷凍機が納入されている新潟県中条市のK社の 工場に昭和39年の11月頃出張し、1週間滞在して中国側技術員2名と出会い、ターボ冷凍機 分解整備、組立試運転を指導し、最終日は宴会で日本の演歌を合唱し「再見」(中国で会 いましょう、その時はその気は無かった)と挨拶をして別れました。
その時点では、私が中国へ行く事になるとは夢にも思っていませんでした。続く。
1.経緯
昭和40年(当時私は38歳)7月から9月まで、中国北京市近郊に建設されたビニロンプラン トのプロセス用大型低音ターボ冷凍機3台の試運転調整、運転指導、引渡し業務のため出張 しました。
その時の断片的記録と記憶が其の侭になっており、何時か整理しなければと思って居ま したので、アルバム、日記等を時系列に整理して、ブログに書き込みたいと考え、筆をと りました。当時の中国の粗悪紙に書かれた日誌が40年ぶりに日の目を見る事になりまし た。
2.プラント輸出
当時、わが国と中国の政治、経済の交流は始まったばかりで、民間人の渡航は認められて 居ませんでした。
そんな時(昭和39年頃)、わが国のビニロン繊維メーカー大手のKレイヨン(株)(以 下K社という)と、北京有機化工庁との間でビニロンプラント(ビニロンの繊維と糸を生 産する工場)の輸出商談が成立し、プラントを構成する大型低温(−10℃)ターボ冷凍 機3台を、わが社(M重工業)がK社から受注しました。内訳は工場試運転、性能試験立 会い、国内にて現地 オペレーターの教育、現地組立据付、試運転、性能確認、現地オ ペレータ及び保守技術員の教育、等々を含めた一括受注でした。
3.国内のオペレーター教育
冷凍機の製作は神戸造船所の工場で着々と進められている一方で、現地(中国)から運 転、保守要員として2名(内1名は通訳兼務)が来日し、K社の教育スケジュールの中に ターボ冷凍機の運転、分解整備の実習が組み込まれており、その教育を私が担当させら れました。
K社に納入されていた輸出機と同仕様の冷凍機が納入されている新潟県中条市のK社の 工場に昭和39年の11月頃出張し、1週間滞在して中国側技術員2名と出会い、ターボ冷凍機 分解整備、組立試運転を指導し、最終日は宴会で日本の演歌を合唱し「再見」(中国で会 いましょう、その時はその気は無かった)と挨拶をして別れました。
その時点では、私が中国へ行く事になるとは夢にも思っていませんでした。続く。
2005年10月20日
学徒動員
学徒動員
その6
日本本土防衛に間に合わなかったもう一つの大きなプロジェクト「国産B−29」、即ちアメリカの爆撃機「B−17」を徹底的に調査、改善設計をして、B−29レベルの爆撃機を国産化し、B−29の本土爆撃の発進基地サイパンを爆撃して、本土空襲を阻止し、更に基地を前進させてアメリカ本土の空襲をも考えた国産重爆撃機の機種記号は「キー91」でした。
私たちの現図工場の横に保管(放置)されていたB−17爆撃機は、設計データ採取の為、外地で比較的損傷の少なかった不時着機を補修し、日本まで飛ばして持ち帰ったと当時の工場の方から聞かされました。真偽の程は解らないが、現実にB−17の機体(胴体のみ)は其処にあった事は事実です。
機首と尾翼の最後部に設けられ、厚い風防ガラスで覆われた機関銃の銃座、胴体の上半分の中央に人一人が通れる通路があり、通路の両側に各種計器が全面に取り付けられた壁の前に、爆撃手、通信、航路測定(レーダ係)の座席が並び、そして胴体の下半分は爆弾倉となっていた。
飛燕しか見ていない私たちには、始めてみる大きな機体に驚きと恐怖の連続でした。
その「B−17」をモデルにし、一回り大きくした国産重爆撃機「キー91」の設計は既に完成し、工場の一番奥の巨大な格納庫の中に実物大の木型模型の製作が略完成していました。
私たちが、飛燕の生産現場の調査に行った序に紛れて「キー91」の木型模型を見る事が出来ました。全ての部品、機材が木材で製作され、本物と寸分違わぬ大きさ、形で組み立てられており、その規模の大きさ、精密さ、等はB−17を見た時とは全く異なり、これでサイパンの爆撃、アメリカ本土空襲に行くのだという夢と期待の塊のように思いました。
瞼に残っている残像に拠れば、主翼は大きすぎて工場からはみ出すので、確か半分位しか無く、尾翼も垂直尾翼は工場の天井迄しか無かったと覚えています。
前後の機関銃座、爆撃手の座席、床下にある爆弾倉等はB−17と略同じようにあり、強烈な印象として覚えて居ります。また滑走路までの誘導通路も計画造成されている事も聞いていました。後1年、いや2年もすれば「キー91」の出撃、敵基地爆撃の戦果も聞けるのではないかと密かにそして真剣に期待していました。
その頃、クラスメートが予科練(霞ヶ浦にあった海軍予科飛行練習生)を志願し、数名が入隊しました。岐阜駅前広場の歓送会では、日の丸の鉢巻をした入隊者を、日が暮れるまで予科練の唄を歌って送りました事もありました。
私たちが、この「キー91」の木型模型を見て数ヵ月後には卒業しましたので、その後の事は解りません。敗戦の詔勅を聞くまでは、あの「キー108」と「キー91」は何時出撃して呉れるのかと大きな期待と夢を抱いて居りましたが、その前にB−29の大規模昼間爆撃により、川崎航空機岐阜工場は完膚なき迄爆撃破壊され、多くの人命と共に工場は一面の焼け野原になってしまいました。
この空襲で、飛燕改良型「成層圏飛行B−29迎撃戦闘機、キー108」も、B−29型国産重爆撃機「キー91」も敢え無く破壊され、日本の聖戦の野望は無残に打砕かれてしまいました。
私の青春時代の「学徒動員」の思い出は、果かなくほろ苦い思い出ですが、何故か鮮明に記憶にあり、忘れない内に記録しておこうと筆を取りました。最後まで読んで頂いた諸子に御礼を申し上げます。終わり。
その6
日本本土防衛に間に合わなかったもう一つの大きなプロジェクト「国産B−29」、即ちアメリカの爆撃機「B−17」を徹底的に調査、改善設計をして、B−29レベルの爆撃機を国産化し、B−29の本土爆撃の発進基地サイパンを爆撃して、本土空襲を阻止し、更に基地を前進させてアメリカ本土の空襲をも考えた国産重爆撃機の機種記号は「キー91」でした。
私たちの現図工場の横に保管(放置)されていたB−17爆撃機は、設計データ採取の為、外地で比較的損傷の少なかった不時着機を補修し、日本まで飛ばして持ち帰ったと当時の工場の方から聞かされました。真偽の程は解らないが、現実にB−17の機体(胴体のみ)は其処にあった事は事実です。
機首と尾翼の最後部に設けられ、厚い風防ガラスで覆われた機関銃の銃座、胴体の上半分の中央に人一人が通れる通路があり、通路の両側に各種計器が全面に取り付けられた壁の前に、爆撃手、通信、航路測定(レーダ係)の座席が並び、そして胴体の下半分は爆弾倉となっていた。
飛燕しか見ていない私たちには、始めてみる大きな機体に驚きと恐怖の連続でした。
その「B−17」をモデルにし、一回り大きくした国産重爆撃機「キー91」の設計は既に完成し、工場の一番奥の巨大な格納庫の中に実物大の木型模型の製作が略完成していました。
私たちが、飛燕の生産現場の調査に行った序に紛れて「キー91」の木型模型を見る事が出来ました。全ての部品、機材が木材で製作され、本物と寸分違わぬ大きさ、形で組み立てられており、その規模の大きさ、精密さ、等はB−17を見た時とは全く異なり、これでサイパンの爆撃、アメリカ本土空襲に行くのだという夢と期待の塊のように思いました。
瞼に残っている残像に拠れば、主翼は大きすぎて工場からはみ出すので、確か半分位しか無く、尾翼も垂直尾翼は工場の天井迄しか無かったと覚えています。
前後の機関銃座、爆撃手の座席、床下にある爆弾倉等はB−17と略同じようにあり、強烈な印象として覚えて居ります。また滑走路までの誘導通路も計画造成されている事も聞いていました。後1年、いや2年もすれば「キー91」の出撃、敵基地爆撃の戦果も聞けるのではないかと密かにそして真剣に期待していました。
その頃、クラスメートが予科練(霞ヶ浦にあった海軍予科飛行練習生)を志願し、数名が入隊しました。岐阜駅前広場の歓送会では、日の丸の鉢巻をした入隊者を、日が暮れるまで予科練の唄を歌って送りました事もありました。
私たちが、この「キー91」の木型模型を見て数ヵ月後には卒業しましたので、その後の事は解りません。敗戦の詔勅を聞くまでは、あの「キー108」と「キー91」は何時出撃して呉れるのかと大きな期待と夢を抱いて居りましたが、その前にB−29の大規模昼間爆撃により、川崎航空機岐阜工場は完膚なき迄爆撃破壊され、多くの人命と共に工場は一面の焼け野原になってしまいました。
この空襲で、飛燕改良型「成層圏飛行B−29迎撃戦闘機、キー108」も、B−29型国産重爆撃機「キー91」も敢え無く破壊され、日本の聖戦の野望は無残に打砕かれてしまいました。
私の青春時代の「学徒動員」の思い出は、果かなくほろ苦い思い出ですが、何故か鮮明に記憶にあり、忘れない内に記録しておこうと筆を取りました。最後まで読んで頂いた諸子に御礼を申し上げます。終わり。
2005年10月18日
学徒動員
学徒動員
その5
川崎航空機・岐阜工場の当時(昭和19年)の従業員数は、正確な数字は勿論解りませんが1万人とも1万5千人とも言われていました。敷地も感覚的に1キロ四方即ち100万平方メートル位或いはそれ以上はあったと思われます。その中に我々が働いている現図工場のすぐ隣に偶然にも試作機工場がありました。
試作機工場は当然機密工場で、従業員でも許可無く入れませんが、どういう手続が為されたか記憶に御座いませんが多分「現図作成に必要な調査」と言う事で学徒である私達数人が許可されて中に入り、B−29迎撃用成層圏飛行戦闘機「キー108」を垣間見ることが出来ました。
機体の大きさは「飛燕」と変わりませんでしたが、操縦室は縦型円筒型端面球形(カプセル型)で直径は約1.2〜1.3メートル位、上部が約30度位後ろに傾いた完全密閉式だったと思います。操縦機器はその中に集約され、成層圏においても気圧は地上と同じに調整できると聞きました。
エンジンは、スーパーチャージャー(吸入空気を与圧する機器)を備え、成層圏に入っても推進力が落ちない様最高の技術が採用されていると聞きました。
考えてみれば、爆撃機は、機体が大きく、爆弾装備で機体が重くなり、速度が落ちて敵の戦闘機の餌食になるので通常は護衛戦闘機を伴いますが、Bー29は成層圏飛行による日本本土空襲実施以前に、護衛戦闘機が無くても日本本土空襲が出来るよう予めエンジンの推進力低下対策はとられていたと考えられます。本土空襲が激しくなってから、日本の防衛戦闘機が漸く成層圏用迎撃戦闘機の試作機を作ろうと言うのでは所詮間に合いません。
そして、この成層圏迎撃戦闘機「キー108」は、私たちが卒業する昭和20年3月までは完成しませんでした。又この時点までは、不思議に工場が爆撃を受けることはありませんでし
た。(続く)
その5
川崎航空機・岐阜工場の当時(昭和19年)の従業員数は、正確な数字は勿論解りませんが1万人とも1万5千人とも言われていました。敷地も感覚的に1キロ四方即ち100万平方メートル位或いはそれ以上はあったと思われます。その中に我々が働いている現図工場のすぐ隣に偶然にも試作機工場がありました。
試作機工場は当然機密工場で、従業員でも許可無く入れませんが、どういう手続が為されたか記憶に御座いませんが多分「現図作成に必要な調査」と言う事で学徒である私達数人が許可されて中に入り、B−29迎撃用成層圏飛行戦闘機「キー108」を垣間見ることが出来ました。
機体の大きさは「飛燕」と変わりませんでしたが、操縦室は縦型円筒型端面球形(カプセル型)で直径は約1.2〜1.3メートル位、上部が約30度位後ろに傾いた完全密閉式だったと思います。操縦機器はその中に集約され、成層圏においても気圧は地上と同じに調整できると聞きました。
エンジンは、スーパーチャージャー(吸入空気を与圧する機器)を備え、成層圏に入っても推進力が落ちない様最高の技術が採用されていると聞きました。
考えてみれば、爆撃機は、機体が大きく、爆弾装備で機体が重くなり、速度が落ちて敵の戦闘機の餌食になるので通常は護衛戦闘機を伴いますが、Bー29は成層圏飛行による日本本土空襲実施以前に、護衛戦闘機が無くても日本本土空襲が出来るよう予めエンジンの推進力低下対策はとられていたと考えられます。本土空襲が激しくなってから、日本の防衛戦闘機が漸く成層圏用迎撃戦闘機の試作機を作ろうと言うのでは所詮間に合いません。
そして、この成層圏迎撃戦闘機「キー108」は、私たちが卒業する昭和20年3月までは完成しませんでした。又この時点までは、不思議に工場が爆撃を受けることはありませんでし
た。(続く)
2005年10月16日
私のマニュフエスト
学徒動員
その4
昭和19年頃から、アメリカ空軍のB−29爆撃機は数十機の編隊を組みサイパンの基地から日本本土に来襲し、昼間に偵察機らしい1機が8000メートル以上の高空を白い飛行機雲(エンジンの排気ガス中の水分が凝縮して白い雲状に尾を引く雲)を引きながら上空を通り過ぎて行くのが良く目撃できました。この偵察機に対し、わが軍の攻撃らしい作戦は無く我々は呆然と見送るのみでした。そして当初は専ら夜間の都市爆撃でしたが、戦争末期には昼間から数十機又は数百機の編隊を組んで都市、軍事施設の爆撃を行うようになり、B-29の編隊は我々の目でも地上から良く見えました。
わが軍の防空体制は、私の知る範囲では8000メートルの高空にてB-29と交戦出来るのは「飛燕」だけでは無かったかと思います。富士山を目標に日本本土に飛来するB-29を何処か(御前崎付近)で発見して本土に空襲警報が発せられると、各飛行基地に配備されている「飛燕」数機が緊急発進し高度約8000メートル位まで上昇しB−29を待ち伏せするわけですが、すれ違い様に機銃掃射を行って運良く的中すれば相手に損傷を与えられますが、相手にも強力な機銃が装備されていて接近は出来ませんので的中は極めて難しいと思います。若し機銃掃射で的中しなければUターンしてB−29を追いかけて、再度の攻撃を試みるには、高空性能不足即ち高度8000メートル以上(成層圏)の高空では酸素不足となり「飛燕」のエンジンの出力(速力)が著しく低下して追撃出来ないので、数時間の待ち伏せ攻撃は一瞬のすれ違い即ち僅か数秒間の勝負であったと思います。
そこで考えられたのが、パイロットを保護するための機密操縦室と、希薄な空気を圧縮してエンジンに供給するスーパーチャージャーを装備し、B−29爆撃機を追いかけて攻撃できる迎撃戦闘機(機種記号キー108)の試作が開始されました。(続く)
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その4
昭和19年頃から、アメリカ空軍のB−29爆撃機は数十機の編隊を組みサイパンの基地から日本本土に来襲し、昼間に偵察機らしい1機が8000メートル以上の高空を白い飛行機雲(エンジンの排気ガス中の水分が凝縮して白い雲状に尾を引く雲)を引きながら上空を通り過ぎて行くのが良く目撃できました。この偵察機に対し、わが軍の攻撃らしい作戦は無く我々は呆然と見送るのみでした。そして当初は専ら夜間の都市爆撃でしたが、戦争末期には昼間から数十機又は数百機の編隊を組んで都市、軍事施設の爆撃を行うようになり、B-29の編隊は我々の目でも地上から良く見えました。
わが軍の防空体制は、私の知る範囲では8000メートルの高空にてB-29と交戦出来るのは「飛燕」だけでは無かったかと思います。富士山を目標に日本本土に飛来するB-29を何処か(御前崎付近)で発見して本土に空襲警報が発せられると、各飛行基地に配備されている「飛燕」数機が緊急発進し高度約8000メートル位まで上昇しB−29を待ち伏せするわけですが、すれ違い様に機銃掃射を行って運良く的中すれば相手に損傷を与えられますが、相手にも強力な機銃が装備されていて接近は出来ませんので的中は極めて難しいと思います。若し機銃掃射で的中しなければUターンしてB−29を追いかけて、再度の攻撃を試みるには、高空性能不足即ち高度8000メートル以上(成層圏)の高空では酸素不足となり「飛燕」のエンジンの出力(速力)が著しく低下して追撃出来ないので、数時間の待ち伏せ攻撃は一瞬のすれ違い即ち僅か数秒間の勝負であったと思います。
そこで考えられたのが、パイロットを保護するための機密操縦室と、希薄な空気を圧縮してエンジンに供給するスーパーチャージャーを装備し、B−29爆撃機を追いかけて攻撃できる迎撃戦闘機(機種記号キー108)の試作が開始されました。(続く)
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2005年10月14日
学徒動員
学徒動員
その3 H17.10.14.
ご存知の通り、ドイツ戦闘機「メッサーシュミット」は、第2時世界大戦において、欧州戦線において連合軍の爆撃機や、護衛戦闘機を果敢に攻撃し、多大の戦果を上げたことで有名である。外観は、我が「飛燕」と良く似ていて水冷エンジン装備、単座で高空性能、旋回性能に優れていたと聞きました。
何故、メッサーシュミットが川崎航空機岐阜工場に横たわっているのかについては、聞いた話で申し訳ないが、当時の日本空軍にはアメリカの重爆撃機B−17に対抗出来る戦闘機が無く、ドイツのメッサーシュミツトを国産化するために、設計図と、機体を細かく分解して遥々ドイツから潜水艦に載せて国内に持ち込んだと言うことのようです。
そこで「飛燕」に話を戻しますと、飛燕の外観はメッサーシュミットと全く良く似ており、メッサーシュミットの設計図をコピーして生産した国産機だったようです。
私が見たメッサーシュミットの機体は、すべてのデータをとった後で既にエンジン、主翼は無く、操縦席に入ることは出来ませんでしたが、濃緑色の塗装も一部剥げていました。然し一つだけ印象に残っているのは、飛燕に比べ機体の外板の材料が非常に固く、外板を取り付けているリベットが奇麗に一直線上に、然も全く同じ力でリベットが打たれており、リベットの頭の形が全く同じであったことです。生産工程が自動化、機械化されていることが容易に想像されます。
飛燕は、機体の外板を指て強く押すと少しではあるが凹み、リベットは一直線上にはなく、リベットの頭も如何にも手作業で打ったという感じで、頭のつぶれ方が少しずつ異なり未熟練工が人海戦術で突貫生産したという感じでした。
でも、私が最近購入した「飛燕」のプラモデルの資料に拠れば、「フィリピンや、ニューギニヤそして本土防空戦では大活躍し、特に本土防空戦ではきちんと部品供給が行われ、ベテラン整備員の働きにより高い稼働率を維持し、又他の日本機に比べ高空性能が良かったため、対B−29戦闘に奮戦しています。とりわけ飛行第244戦隊では陸軍史上最年少の戦隊長、小林照彦大尉を筆頭に激しい戦い振りを見せ、終戦までにB-29を160機以上撃墜し、随一の部隊戦果を誇りました」と記載されていました。大変嬉しく読ませて頂きました。(続く)
その3 H17.10.14.
ご存知の通り、ドイツ戦闘機「メッサーシュミット」は、第2時世界大戦において、欧州戦線において連合軍の爆撃機や、護衛戦闘機を果敢に攻撃し、多大の戦果を上げたことで有名である。外観は、我が「飛燕」と良く似ていて水冷エンジン装備、単座で高空性能、旋回性能に優れていたと聞きました。
何故、メッサーシュミットが川崎航空機岐阜工場に横たわっているのかについては、聞いた話で申し訳ないが、当時の日本空軍にはアメリカの重爆撃機B−17に対抗出来る戦闘機が無く、ドイツのメッサーシュミツトを国産化するために、設計図と、機体を細かく分解して遥々ドイツから潜水艦に載せて国内に持ち込んだと言うことのようです。
そこで「飛燕」に話を戻しますと、飛燕の外観はメッサーシュミットと全く良く似ており、メッサーシュミットの設計図をコピーして生産した国産機だったようです。
私が見たメッサーシュミットの機体は、すべてのデータをとった後で既にエンジン、主翼は無く、操縦席に入ることは出来ませんでしたが、濃緑色の塗装も一部剥げていました。然し一つだけ印象に残っているのは、飛燕に比べ機体の外板の材料が非常に固く、外板を取り付けているリベットが奇麗に一直線上に、然も全く同じ力でリベットが打たれており、リベットの頭の形が全く同じであったことです。生産工程が自動化、機械化されていることが容易に想像されます。
飛燕は、機体の外板を指て強く押すと少しではあるが凹み、リベットは一直線上にはなく、リベットの頭も如何にも手作業で打ったという感じで、頭のつぶれ方が少しずつ異なり未熟練工が人海戦術で突貫生産したという感じでした。
でも、私が最近購入した「飛燕」のプラモデルの資料に拠れば、「フィリピンや、ニューギニヤそして本土防空戦では大活躍し、特に本土防空戦ではきちんと部品供給が行われ、ベテラン整備員の働きにより高い稼働率を維持し、又他の日本機に比べ高空性能が良かったため、対B−29戦闘に奮戦しています。とりわけ飛行第244戦隊では陸軍史上最年少の戦隊長、小林照彦大尉を筆頭に激しい戦い振りを見せ、終戦までにB-29を160機以上撃墜し、随一の部隊戦果を誇りました」と記載されていました。大変嬉しく読ませて頂きました。(続く)
2005年10月12日
学徒動員
学徒動員
その2 H17.10.12.
私たちが働いていた現図工場の隣には、巨大な戦闘機「飛燕」の装備工場があり、内部は詳しくは見る事が出来なかったが、工場の後部から機体の組立ラインが3列か4列あり、組立工程が進む毎に機体は前方に進み、工場を出るときは略完成品の姿で押し出されて来ます。但しエンジンとプロペラは無かった。そんな未完成機体が広場に無造作に並べられていたので、昼休みには我々学徒でも機体によじ登り操縦席に入ることが出来ました。方向舵のペダルを踏み、操縦桿を前後左右に動かすと、主翼の補助翼や尾翼の方向舵が動くので、パイロットになった気分になり無邪気に遊んだ記憶があります。
戦闘機「飛燕」の水冷式エンジンは、川崎航空機の明石工場で製造されていると聞いて居りましたが、空襲により生産がストップして居るのでエンジンの到着を待つ飛燕の機体が無数に並べられていました。その場所は飛行第1連隊の滑走路の脇にあり、エンジンさえあれば即、B−29爆撃機の本土空襲に対するわが国の防空戦力になったのではないかと考えられます。
その広場の一隅に、ドイツのメッサーシュミット戦闘機の機体と、アメリカのボーイング17爆撃機の機体が無造作に放置されていました。(続く)
その2 H17.10.12.
私たちが働いていた現図工場の隣には、巨大な戦闘機「飛燕」の装備工場があり、内部は詳しくは見る事が出来なかったが、工場の後部から機体の組立ラインが3列か4列あり、組立工程が進む毎に機体は前方に進み、工場を出るときは略完成品の姿で押し出されて来ます。但しエンジンとプロペラは無かった。そんな未完成機体が広場に無造作に並べられていたので、昼休みには我々学徒でも機体によじ登り操縦席に入ることが出来ました。方向舵のペダルを踏み、操縦桿を前後左右に動かすと、主翼の補助翼や尾翼の方向舵が動くので、パイロットになった気分になり無邪気に遊んだ記憶があります。
戦闘機「飛燕」の水冷式エンジンは、川崎航空機の明石工場で製造されていると聞いて居りましたが、空襲により生産がストップして居るのでエンジンの到着を待つ飛燕の機体が無数に並べられていました。その場所は飛行第1連隊の滑走路の脇にあり、エンジンさえあれば即、B−29爆撃機の本土空襲に対するわが国の防空戦力になったのではないかと考えられます。
その広場の一隅に、ドイツのメッサーシュミット戦闘機の機体と、アメリカのボーイング17爆撃機の機体が無造作に放置されていました。(続く)
2005年10月11日
学徒動員
学徒動員 H17−10−11
昭和19年4月、私は工業学校(旧制5年制)5年生に進級しましたが、国家の航空機増産の一環として全国の中等学校(女学生含む)5年生は全員近くの軍需工場に動員されました。
私たちは、当時の川崎航空機岐阜工場に学徒として動員され、現図工場に配属になりました。戦闘帽にゲートルと言う服装で、「学」と書かれた布を胸に縫い付けて通勤しました。
現図工場というのは、物を作る、組み立てるという作業ではなく、設計図(縮尺青写真)から飛行機の外板を1枚だけ抜き取り、現場で組み立てられる大きさの現寸図面をアルミの板に鋼筆で罫書く作業です。1ミリ違っても現場で組立出来ませんので、折り曲げ代を計算して外形、寸法共に精密に書かなければ検査不合格となります。指導期間を終わったら係長、課長は工場の方でしたが作業は学徒だけになり、忙しい時は、残業して工場給食(夕食)を食べた事も多くありました。
私たちの携わった飛行機は通称「飛燕」、工場の機種記号は「キ61}で、当時わが国唯一水冷エンジンを装備した単座戦闘機です。20ミリ機関砲2門を装備し、予備燃料タンクを付けていました。
当時既に、B29の本土空襲は始まっており、東海地区に「空襲警報」が発せられますと、隣接の飛行第1連隊の滑走路から飛燕が数機緊急発進して高度を上げ、上空を旋回してB29を迎撃する様子が良く見えました。続く。請うご期待。
昭和19年4月、私は工業学校(旧制5年制)5年生に進級しましたが、国家の航空機増産の一環として全国の中等学校(女学生含む)5年生は全員近くの軍需工場に動員されました。
私たちは、当時の川崎航空機岐阜工場に学徒として動員され、現図工場に配属になりました。戦闘帽にゲートルと言う服装で、「学」と書かれた布を胸に縫い付けて通勤しました。
現図工場というのは、物を作る、組み立てるという作業ではなく、設計図(縮尺青写真)から飛行機の外板を1枚だけ抜き取り、現場で組み立てられる大きさの現寸図面をアルミの板に鋼筆で罫書く作業です。1ミリ違っても現場で組立出来ませんので、折り曲げ代を計算して外形、寸法共に精密に書かなければ検査不合格となります。指導期間を終わったら係長、課長は工場の方でしたが作業は学徒だけになり、忙しい時は、残業して工場給食(夕食)を食べた事も多くありました。
私たちの携わった飛行機は通称「飛燕」、工場の機種記号は「キ61}で、当時わが国唯一水冷エンジンを装備した単座戦闘機です。20ミリ機関砲2門を装備し、予備燃料タンクを付けていました。
当時既に、B29の本土空襲は始まっており、東海地区に「空襲警報」が発せられますと、隣接の飛行第1連隊の滑走路から飛燕が数機緊急発進して高度を上げ、上空を旋回してB29を迎撃する様子が良く見えました。続く。請うご期待。
2005年10月10日
2005年10月07日
老人の独り言
私は78歳の一人暮らし老人(男性)です。
年金で何とか生活は出来ますが、この頃の社会、政治を見ていると、これからの日本を背負って立つ若者の将来が心配です。
ニートが増え、小学生の犯罪、不登校が増え、女子高校生の妊娠、堕胎が増え、親の家庭内暴力が増え、公務員の汚職が増え、又、社会保障費予算が減らされ個人負担が増加する政策が検討されていると聞きます。
他方、明るいニュースもないわけではありませんが、大企業の決算が好調となり、道路、等公共工事の予算が年次毎に減らされ、老人介護の施設の拡充、等々報じられてはいますが高齢者の個人の生活に、いつ、どの様に還元されるのか政府の説明は全くありません。
だから、私は、政府に頼らず自分で身近な問題について最低限の対策を自分で考え、自分で実行することに心がけていますが、個人の力の限界があり、やはり政府の政策に関心を持ち、選挙の時は政党の政策、候補者の前歴、理念を慎重に検討して投票しております。
でも、日常の生活の中で、こうあって欲しい、茲をもう少し高齢者の身になって考えて欲しいという問題がたたありますが、そんなことを今後「老人のひとりごと」として取り上げて投稿しようと考えています。
ブログ読者の建設的なご意見を期待しております。
以上
年金で何とか生活は出来ますが、この頃の社会、政治を見ていると、これからの日本を背負って立つ若者の将来が心配です。
ニートが増え、小学生の犯罪、不登校が増え、女子高校生の妊娠、堕胎が増え、親の家庭内暴力が増え、公務員の汚職が増え、又、社会保障費予算が減らされ個人負担が増加する政策が検討されていると聞きます。
他方、明るいニュースもないわけではありませんが、大企業の決算が好調となり、道路、等公共工事の予算が年次毎に減らされ、老人介護の施設の拡充、等々報じられてはいますが高齢者の個人の生活に、いつ、どの様に還元されるのか政府の説明は全くありません。
だから、私は、政府に頼らず自分で身近な問題について最低限の対策を自分で考え、自分で実行することに心がけていますが、個人の力の限界があり、やはり政府の政策に関心を持ち、選挙の時は政党の政策、候補者の前歴、理念を慎重に検討して投票しております。
でも、日常の生活の中で、こうあって欲しい、茲をもう少し高齢者の身になって考えて欲しいという問題がたたありますが、そんなことを今後「老人のひとりごと」として取り上げて投稿しようと考えています。
ブログ読者の建設的なご意見を期待しております。
以上

