2005年11月

2005年11月27日

中国出張

 中国出張
        その10-1      昭和40年8月1日

1.万里の長城 ※青い文字をクリックして下さい。
 今日は「万里の長城」へ行けるので勇んでマイクロバスに乗りました。
 2時間位山の坂道を登った所に八達嶺(ばたーりん)と言う街に着きました。八達嶺は北 京に近い山の尾根で、万里の長城の登り口になっており、中国人は勿論、外国人の観光ス ポットになって居りました。駐車場にマイクロバスを止め、徒歩で万里の長城の入り口に 入り、入場券を買って私達一行は万里の長城の登り道に入りました。

 万里の長城は、測ったわけではありませんが尾根の地上から約10メートルの高さで、幅 は数メートル、両側に約1メートルの銃眼?付側壁がありました。そして山の尾根伝いに 曲がり、上り下りの尾根の坂道となっており、前方を見れば見渡す限りの山の尾根伝いに 延々と長城が伸びて居ります。側壁があるので高所恐怖にはなりませんが、下を見ればぞ っとする程の高さです。

 既に来ていた中国人の観光客は、これから上る人、既に上まで言って降りてくる人で、通 路は人で満員状態でした。

 中央の道路を上りながら積み上げられた石?を良く見れば、幅、高さ、厚さ共にコンクリ ートブロックより5センチ位大きく灰色でした、自然石を切り取ったものか、粘土を焼い て作ったものかは歴然とは判別出来ませんでした。何か硬い物で擦った落書きがあるのを 見て、それ程硬い石では無いようでした。マジックペンで書いた落書きもあり、落書きは 世界共通の悪戯であると感じました。
 何れにしても、この長城は、数千年の昔に、数千キロにわたり土を盛り固め、両側は垂直 に石を積み上げ、通路部分は平坦且なだらかな坂道に積み上げる技術、そして数千人の労 働者の宿舎、食料の輸送、料理等々考え始めたら解らなくなったので、今日は無心に長城 を見て楽しむ事にしました事を覚えております。

 通路は約100メートル間隔に狼煙(のろし)櫓があり、下に食料の倉庫があったと聞い た記憶があります。狼煙櫓は当時の最新の通信手段であり、東の狼煙を見た人は自分の櫓 で狼煙を上げ、西の櫓に知らせると言う原始的な通信方法ですが、北からの匈奴から国を 守る砦としての長城と、常に人を置いて看視し、敵が攻めてくれば長城の上から応戦する と言うシステムが出来ていた事を後世の我々に残してくれた歴史的遺物なのです。エジプ トのピラミッドとは違った存在のようです。

 上まで登って降りてきたら、丁度昼になりマイクロバスで移動し、中国レストランの予約 席で北京ダックの美味しい料理を頂いたことは未だに忘れられません。
  万里の長城に上り、延々と尾根を連なる万里の長城を眺め、数千年の歴史の風に吹かれ た思い出を残して、万里の長城を去り、明の十三陵に向かいました。続く。



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2005年11月22日

中国出張

中国出張
        その9   昭和40年7月25日

1.天壇公園  ※変色文字をクリックするとWEBページが開きます。
 7月18日の日曜日は、プラント建設の大型低温ターボ冷凍機3台の1号機の空気運転(冷 媒を入れず無負荷状態の試運転)のため、観光バスには乗れませんでしたので割愛しま  す。
 
 7月25日は天壇公園と香山公園の観光に出かけました。
 どちらも北京近郊にあり、中国有数の観光地で、特に天壇公園は広大な土地に荘厳且壮大 な規模の寺院です。我々が行った日も日曜日であり、中国の家族連れが園内外で数千人の 人が休日を楽しんで居ました。

 我々は、迷子にならないように帰りの集合時刻、場所を決め思い思いに天壇公園の見学に 2〜3人のグループで公園に入りました。
 広い敷地を期待に胸を膨らませて天壇公園に入りましたら、周囲は直径100メートル以上 と思われる円形の石の壁に囲まれ、中央に高さ数十メートルの三重の丸い屋根の堂が堂堂 と聳えて?居りました。堂の中にも自由に入ることが出来て、中国の家族連れが、又は高 齢者のグループが三三五五?会話やゲームに夢中でした。
 
 私達は、丸い壁に沿って一回りしてから堂の中に入り、薄暗かったが極彩色の柱や壁に魅 せられ、歩き疲れて外に出て休憩していたら、K社の方と通訳兼案内の中国人に、外壁に 向かって手を叩くと、数秒後に反響音が返ってくると教えられ、壁に向かって何度も試  みました。辺りの騒音で はっきりと確認は出来ませんでしたが、確かに手を叩いた音が 返って来ました。

  天壇公園は、今でも中国観光の重要なルートに組み入れられており、丸い大きな三重の堂 と周囲の円形の壁は、私の記憶にはっきりと残って居ります。

2.香山公園

 天壇公園で歩き疲れた一行は、近くのレストランの予約席で昼食を取り、香山公園に向か いました。
  香山公園は、何故か私の頭の中に思い出、印象が何も残って居りませんので割愛させて 頂きます。昼食時に飲んだ青島ビールに酔い、マイクロバスの中で寝ていたかも知れませ ん?
  言い忘れましたが、青島(ちんたお)ビールは、中国の青島半島で戦前から製造されて いる当時中国唯一のビールです。味は日本のビールと殆ど変わりませんが、価格が高くて 中国人は殆ど飲まないと言って居ました。宿舎では毎日夕食に、冷やしすぎてシャーベッ ト状に凍ったビールが飲み放題でした。くりくりに皮を剥かれたニンニクを食べながら、 中国料理とその日の行事を魚にビールを飲む味は今でも懐かしく思い出されます。続く。
  

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2005年11月16日

中国出張

 中国出張    その8   (昭和40年7月11日)

 北京着任後、初めての日曜日です。
  日曜日はプラント建設工事は特別な場合を除き休業となり、今日は北京市近郊への観光 バスが出るとの事で早速乗り込みました。マイクロバスには既に約十数名が出発を待って 居ました。午前10時頃下記に向かって出発しました。

1.北京駅
 
 戦前の北京駅は現在、交通労働者の厚生施設となっており、隣接地に戦後建設された北京 駅を案内されました。正面上部に「北京」と独特の文字のネオン看板があり、中に入ると 人はまばらでした。当時は、旅行するのに公用以外は特別な許可が必要との事で、列車の 利用者は少なく、中央のコンコースはガランガランでした。
 コンコースの中央の天井が球形となっており、その下で手を叩くと反響音が3〜4回響く 現象を案内の中国人が教えてくれ、各自実験しました。
  その他特に印象に残った事はありません。

2.盧溝橋

 昭和12年(1937年)7月7日夜、日本陸軍の演習中に中国(当時は中華民国)軍が 攻撃を仕掛け、日本軍は止む無く応戦した事に端を発して、支那事変が勃発したと当時1 0歳だった私達は教えられました。当時は、盧溝橋が何処にあり、どんな所か、何故其処 に日本軍が居たかは知る由もありませんでしたが、数十年後の今、その盧溝橋に来たと言 う事で感慨無量でした。中国側案内(通訳)人は日本軍が先に攻撃して来たと言って居り ました。
  北京市から車で1時間位走った所で、付近は一面の高粱畑、付近に農家は見えず、川幅 100メートル位の浅い川に、架けられた石橋ですが、橋の袂に石碑があり、1メートル 位の高さの台座の上に、高さ3メートル位の丸い石の柱4本に石の屋根があり、その中に 2メートル位の石碑がありました。石碑の表文字は、今、写真で見ると「盧溝」の文字は はっきり読めますが、その下は良く見えません。
  石碑の裏は、小さい字で何か彫ってありましたが、意味は解りませんでした。
 橋の欄干も、擬宝珠(ぎぼしゅ)も石で作られ、擬宝珠は日本の神社で良く見る狛犬(こ まいぬ)が彫られて居ました。橋の上で思い思いに記念写真を撮りました。
  今、橋に通じた農道を農民が牛舎に乗り、のんびりと歩いて居る写真を見て、茲が支那 事変、そして第2次世界大戦の発端の場所とは、考えられない風景です。数十年の歴史の 一齣を見た感じです。

3.革命烈士公墓

 また、バスに揺られて北京市に近い所にある「革命烈士公墓」に参拝しました。広大な  土地に「革命烈士」即ち抗日義勇軍の犠牲者の立派な石碑があり、構内は塵一つ無く清掃 され、赤いマフラーをした少年共産党員の数十人の行列に出会いました。
  日本で言えば、陸軍墓地と言った所です。私達も戦時中に陸軍墓地に参拝した事があり ます。
 子供達は、このような所で、日本が如何に中国人民を虐待したかと言う反日教育を受けて 居るのだとその時に想像しました。今でも同じ事が行われて居るであろうと思います。
  
  以上で最初の観光バス旅行は終わりました。この日の観光で「盧溝橋」は強い印象が今 でも残って居ります。宿舎に帰り夕食は青島ビールで乾杯しました。続く。
 
 
 





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2005年11月14日

中国出張

 中国出張  その7

 中国滞在のオリエンテーリング(7月7日)

 昨夜遅く着いた宿舎で熟睡した朝、部屋に付けられたスピーカーの声で起こされ、9時に
 食堂に集まるよう支持があり、南工字楼に収容されたK社関係者を含め我々機器メーカー の技術者を含め約20名が集まった。今回のK社ビニロンプラント建設の日本人技術指  導員滞在者は我々新参者を含めてこれで全員のようだった。
  K社総務関係者から簡単な挨拶があった後、先ず北京で最初の朝食を取りました。   食事は丸テーブルで日本食メニュー(夜は青島ビール飲み放題)、中国人コックが日本に 来て覚えた日本人向け料理で、既に1年以上前からプラント建設に乗り込んで来た日本  人技術者に提供してきた中国人コックによるの味付けですから、殆ど違和感は無かっ   た。一つだけ驚いたのは、テーブルの上に2〜3皿、皮を剥いたニンニクがありまし   た。前から来ている人は我先にニンニクを自分の皿に取り込み、食事中に摘んで食べて  居ました。私達はどんな味か見るために1個試食しましたが2個は食べられませんでし  たが、1週間位で1 回に4〜5個食べられるようになりました。
  朝食後に、K社総務関係者から約2時間、これからの宿舎内生活、円元両替(当時の為 替レートは、¥150./元と覚えて居ます)業務、建設現場への通勤、買い物、郵便の投  函及び受取、クリーニング、買い物、及び中国人との会話で特に注意する事項(政治、経 済、等に関する議論、特に台湾問題に関しては話題にしない)について説明と質疑応答  があり、最後に嬉しい話が出ました。
  K社では、長期滞在者の慰安の為、日曜日に日帰り観光バスを出し、行き先は予めお知 らせしますが参加費は無料で希望者は自由に参加する事が出来るとの説明がありました。 全く予想外の事で、北京近郊には観光地も多くあり、期待の胸を膨らましたことを覚えて 居ます。
  
  午後は荷物、部屋の整理をするよう言われ、その日の会議は終わった。
  早速、自宅の家族宛て無事に北京に着いたとの手紙を書いて投函した。
  時間があったので、友誼賓館の中庭を散歩しましたが、広くて迷子になりそうでした。
  
 次回から、日曜日に出る観光バスによる観光報告をしたいと思います。続く。                                  

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2005年11月08日

中国出張

中国出張    その6.

1.漸く広東空港離陸

 北京上空の天候が回復するまで待機させられた我々一行は、何時再開されるか解らないフ ライトに心身共に疲れ果て、待合室の椅子に横になり、ひたすら北京の天候の回復を祈る のみでした。
 午後10時頃(3〜4時間待たされた?)と記憶していますが、「北京上空の天候が回復した ので乗客は搭乗口へ集まって下さい」?とのアナウンスがあった。勿論中国語のアナウン スで我々に解るはずはありませんが、我々一行のガイド役を引き受けてくれた空港職員の 案内により、疲れた体と足でタラップを登り、中国民航の機内に入った。機種はソ連製の 「イリューシン○○型」?だったと思う。
 やがて、エンジンが起動し、誘導路を経て滑走路に入り、全速で滑走し離陸した。
  外は真っ暗で何も見えません。機内では、中国語のアナウンスの後で、英語のアナウン スがあり、我々は最小限の情報を得ることが出来ました。
  中国民航のスチュワーデスは、国内線でありすべて中国人でしたが、背が高く上品で紺 の制服に赤いマフラー(中国共産党党員標識、その時は解りませんでしたが)を巻いてい た事は覚えています。
  我々の搭乗機が一定の高度に達し巡航速度になった時の印象は、DC−8より若干振動 が大きいと感じました。私たちは機械の振動に関しては職業柄敏感でしたから、すぐに解 りました。この飛行機は空中分解しないか、大丈夫かなと言う余計な心配をしました。

2.北京空港着陸

 2へ3時間飛行を続けて、北京空港に着陸したのは午前0時を過ぎていました。
 K社関係者の出迎いを受け、空港建物の屋上に書かれた「北京空港」の電飾文字を後にし て、バスで宿舎に入りました。宿舎に向かう途中の北京市内道路は、街路灯が全く無く、
 (深夜で消灯していたかも)辺りは真っ暗ですが、バスのヘッドライトで見える範囲は道 路の幅員がやたらに広く感じました。
  やがて我々一行は、北京市の西部にある「友誼賓館」の「南工字楼」に落ち着き、各自 部屋に案内され、私は4201号室になりました。

3.宿舎
  後から聞いた話ですが、この「友誼賓館」は、中国がソビエトの技術者を受け入れた時 に建設したといわれ、広大な土地に複数のレンガ積みの棟が点在し、我々はその一つの棟 に入れられたと言うことで、室内も広く、約10畳?位はあり机、シャワー、水洗トイレ、 ベッド等、当時としては立派な施設でした。
  部屋に入って旅装を解くと、ドアをノックされるので、誰かとドアを開けると、中国の 女性が一人、茶を持って立っており、身振り手振りで聞くところは、「私はこのフロアーの 服務員(服務員と言う名札をつけていました)で、生活の上で困った事があれば何時でも 何でも言いつけてください」とのこと。
  後で、K社の方から聞いた話では、服務員は、フロアー毎に配置され、入室者の「衣類の クリーニング。生活用品の購入、 郵便の投函、湯茶を魔法瓶に常時補充、勿論部屋に居 ないときに部屋の掃除、郵便の受取等々」をしてくれる用務員(ハウスメイド)と言うこ とを知りました。
  そして、遅い、そして思い出の多い北京の宿舎で眠りに入りました。続く。

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2005年11月05日

中国出張

中国出張   その5

 1.中国入国手続
  1949年10月(昭和24年)に毛沢東により中華人民共和国(中国共産党政権)建  国、その後の中国内戦による混乱が続き、1972年(昭和47年)日中国交正常化に  なるまで国家間の交流は無かったので、当然民間人の自由な往来は出来なかったし、ま  して中国本土との直行便は無かった。政府間の直接契約によるプラント輸出は例外だっ  た様です。
   従って、我々は事前に中国政府のインビテーションレター(招待状)を受けて出発し  ましたが、中国への入国は香港、深セン経由でしか出来なかった。
   香港到着後直ちに香港の中国領事館に入国手続を行い、入国査証を受ける手続をしな  ければなりませんし、中国側は政府の確認をとり査証(ビザ)が出るまで我々は香港に  翌日まで1日足止めとなりました。
   これは、予め解っている事であるので、その時間を利用して我々は香港市内観光に出  かけました。
   7月5日香港到着後、ミラマーホテルに立ち寄り、荷物を置いてから予め予約してあ  る観光バス(マイクロバス)に乗り香港市内観光と言うことになりました。
  香港は皆さんもご存知の通り、2階建てバス、高層住宅、土産品売り場、シーパレス  (大型船上レストラン)、タイガーバーム(公園)、香港島展望台、狭い川を挟んで(泳  いで渡り密入獄が多い場所)見える中国の農村風景、等々観光スポットは多様であり、  1日はあっと言う間に過ぎました。
  7月6日午後、我々一行は九竜駅から中国との国境の町「羅湖」まで汽車に乗りました。
   汽車に乗ったら、出発前から若い娘さんが商品、主にアメリカのタバコ、チューイン  ガム等々を載せた箱を肩に掛けた車内販売が何人も何回も来ましたが、何も買いません  でした。

2.中国入国
  7月6日、香港九竜駅から1時間ぐらいで香港側終点の羅湖駅に着き、徒歩で中国との  国境になっている川の橋(鉄道線路がある鉄道用の鉄橋)の枕木の上に置かれた板の上  を1列になって歩いて渡り中国の本土に入りました。
   国境を渡って初めて国交の無い中国領土に入ると言う気持ちで、少し緊張しました。
  中国側には銃を構えた国境警備隊が我々一行を迎え、厳しい眼差しで一人一人顔を見て  チェックしていました。
   パスポートに入国のサインをもらって、荷物のチェックも終わり中国側始発駅深セン  にて中国の「広東行き列車」に乗り換えました。
   当時、中国の列車には、硬座車と軟座車があり、硬座車(普通)の椅子は板張りで、  軟座車(1等車)はクッションがついております。幸い我々一行は軟座車に乗せられま  して広東まで行きました。2時間乗ったか、3時間乗ったか記憶は定かでありません   が、のろのろ走る列車から中国の長閑な田園風景を見ながら、また、途中停車駅の中国  人の様子を見ながら汽車旅行を楽しんでおりましたら、車内販売のお茶が来ましたので  注文しました。湯飲みに葉っ葉が一杯浮いたお茶(中国茶)を渡され、飲もうとして   も葉っぱが浮いていて飲めませんでした。蓋をして僅かにずらして出てくる茶を飲むよ  うK社の方に教わり、安堵しました。
   広東に着きましたが、北京行き航空機の予約便まで若干時間がありましたので一行は  広東市内観光に出かけました。僅かの時間でゆっくり市内観光は出来ませんでしたが、  特に記憶に残っているのは掃除の行き届いた道路の清掃でした。チリ一つ落ちていない  道路は、数人の女性グループがリヤカーを引いて、竹箒で落ちているごみを掃き取って  いる様子を随所に何回も見ました。成程と納得させられました。共産主義国家は、人民  が全て労働(仕事)を持ち、「働かざるもの食うべからず」の思想が徹底されている様  でした。

3.フライト待ち
   やがて、午後夕方近くになり広東空港に着いたら中国民航より、北京上空の気象条件  が悪いので、何時にフライト出来るかは北京上空の空模様の回復によると言われ、我々  一行は途方に暮れました。続く。

 

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2005年11月01日

中国出張

 中国出張   その4

1.羽田空港出発

 K社社員5名、プラント機器メーカー技術者(私を含む)3名計8名が今回のグループとし て同行することになった。一行は7月5日朝ホテルを出発して羽田空港に向かい、携行荷 物を預けてチェックインし、待合室で1時間以上待った後、アリタリア航空のDC−8に 搭乗しました。
  当日は未だ梅雨も明けていなかったのか雲が厚く雨が激しく降っており、傘を借りて  タラップを上りました。機内はガランとして他の乗客は無く、私たちの専用機見たいでし た。
  定刻に滑走路に入り、轟音と共に4つのジェットエンジンはスロットル全開となってか ら機体は走り出し、次第にスピードを上げ、滑走路を走る振動が無くなって機体が浮いた と言う実感を感じました。すぐに雲海に突っ込み窓から暫く何も見えない状態が数分間あ りましたが、瞬間「群青」というか、「紺碧」と言うのか雲一つ無い真っ青な空が見え  て来ました。雲の上は青空である事は頭では解っていましたが、あんなに澄み切った、青 空は想像以上で、暫し顔を窓に寄せて見とれて居ました。
  窓から見える下界は一面の雲海の為、どこを飛んでるのか全く解りませんが、暫くして たどたどしい日本語で「ただ今、四国上空を高度6000mで飛行中」と言う意味のア  ナウンスがあり、その直後に、ブロンズと言おうか金髪と言うのか、青い目の背の高いイ タリア人(多分)スチュアーデス2人が我々一行に機内食を、その後コーヒーとケーキを 運んで来ました。
  我々も、たどたどしい英語で「サンキュー」と礼を言い、暫しスチュワーデスの顔に見 とれて居ました。他に乗客が無く、スチュワーデスも手持ち無沙汰だったのか、少し我々 と遊んでみようと思ったのか、我々に話し掛けて来ました。我々が英語なら少し解ると思 ったのか、何処へ行くのか、どんな用事(仕事)で行くのか、何歳か、子供は何人か、た わいの無い会話に暫し時間を忘れて楽しいコーヒータイムを過ごしました。今から40  年前の事ですが今でも頭の奥に鮮明に覚えております。
  やがて、機内放送で「台湾上空を飛行中」とアナウンスがあり、窓から下を見たら陸地 が見え、山や道路らしきものが見えました。

2.香港啓徳空港着陸

 台湾を過ぎて中国大陸の沿岸沿いに飛行し、約1時間ぐらい経つと「これから香港空港に 向け着陸態勢に入る」とのアナウンスがあり、ベルトを締めるよう警告の標示が出て、機 体は大きく旋回して徐々に高度を下げ、香港の町のビルの屋根が手に取るように見え、  やがて香港啓徳空港の滑走路がすぐ下に見えてきて、「ドスン」と言う音と共に、機体は 揺れて着陸しました。羽田を離陸してから約3時間半ぐらいで香港空港に着きました。
  香港啓徳空港の滑走路の先は海で、オーバーランしたら海に突っ込むかもと言う感じの 滑走路でした。続く。


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