2005年12月
2005年12月25日
中国出張
その13 景山公園と北海公園 昭和40年8月21日(土曜)
※上の変色文字をクリックすると現在の写真集にリンクしています。
景山公園と北海(ペーハイ)公園は、有名な故宮博物館のすぐ北側?にある山の上にあり、広大な故宮博物館が一望出来ることで有名である。また、北海公園の西側には大きな池があり、池の対岸には中国の重要な国家政治経済の中枢施設、迎賓館が集結していると聞きました。
山の麓にあるのが景山公園ですが、中国式の古代建物、門、橋等がありましたが、余り印象に残って居りません。
山の上にある巨大な白い仏塔は、北京市内からも良く見えますので、今でも鮮明に覚えて居ります。チベット仏教の仏塔だそうですが、高さ20メートルもあるかと思われ、石を積み上げ白色塗料(石灰)が塗られ、遠くからでも良く見えるよう建設されたように感じました。
我々が訪れた日は土曜日の午後だったので、中国の家族連れの観光客が溢れ、我々の一行(約15〜16人)がカメラ、映写機を持って園内を行くと物珍しそうに人だかりが出来ました。
私も、海外出張の支度金で、当時としては未だ余り普及していなかった8ミリカメラや、35ミリハーフサイズのカメラを購入して持って行きましたので、見学より思い出作品作りの撮影の方が忙しく感じました。そのお陰?で今、アルバムや、スライド写真を見ますと大変懐かしく、40年も前のことですが昨日の事のように思い出されます。
最初に書きましたように、山上にある北海公園から故宮博物館が一望に見下ろされましたが、その時点では故宮博物館は未だ見ていませんでした。その広大さはとても上手く説明出来ませんが、一口で言えば一辺が2キロメートルもある四角形の城郭の中に黄土色の屋根の建築物が無数あったように覚えて居ります。続く。
※上の変色文字をクリックすると現在の写真集にリンクしています。
景山公園と北海(ペーハイ)公園は、有名な故宮博物館のすぐ北側?にある山の上にあり、広大な故宮博物館が一望出来ることで有名である。また、北海公園の西側には大きな池があり、池の対岸には中国の重要な国家政治経済の中枢施設、迎賓館が集結していると聞きました。
山の麓にあるのが景山公園ですが、中国式の古代建物、門、橋等がありましたが、余り印象に残って居りません。
山の上にある巨大な白い仏塔は、北京市内からも良く見えますので、今でも鮮明に覚えて居ります。チベット仏教の仏塔だそうですが、高さ20メートルもあるかと思われ、石を積み上げ白色塗料(石灰)が塗られ、遠くからでも良く見えるよう建設されたように感じました。
我々が訪れた日は土曜日の午後だったので、中国の家族連れの観光客が溢れ、我々の一行(約15〜16人)がカメラ、映写機を持って園内を行くと物珍しそうに人だかりが出来ました。
私も、海外出張の支度金で、当時としては未だ余り普及していなかった8ミリカメラや、35ミリハーフサイズのカメラを購入して持って行きましたので、見学より思い出作品作りの撮影の方が忙しく感じました。そのお陰?で今、アルバムや、スライド写真を見ますと大変懐かしく、40年も前のことですが昨日の事のように思い出されます。
最初に書きましたように、山上にある北海公園から故宮博物館が一望に見下ろされましたが、その時点では故宮博物館は未だ見ていませんでした。その広大さはとても上手く説明出来ませんが、一口で言えば一辺が2キロメートルもある四角形の城郭の中に黄土色の屋根の建築物が無数あったように覚えて居ります。続く。
2005年12月17日
中国出張
その12 昭和40年8月14日(土)
北京市近郊絨緞工場見学
午前中は、低温ターボ冷凍機の連続運転状態を点検し、中国側運転保守要員にて問題なく運転されていた。
午後、北京市近郊の絨緞工場見学のマイクロバスが運行されると言うので、手を上げてバスに乗り込んだ。
何時間走ったかは思い出せませんが、やがて工場に着き、工場幹部の出迎えを受け、応接に通されて工場の概要説明を聞いたが、細かい事は忘れましたが、従業員3,000名と聞きました。
工場に入ったら、鋸型屋根の数百メートルもあるかと思われる工場の中に、5〜6メーターの高い天井から縦糸が幅3〜4メートルにわたって何組も床まで下がっており、1組の絨緞を織るために床には約1メートル間隔に3人か4人の織姫が横に並んで座り、仕上げ模様の見本を見ながら数十種類の色の横糸を1本1本選択し、その色の糸の枷を縦糸に1本一本通し、裏側で数センチの長さ(この長さにより絨緞の厚さが決まる)に鋏で切り、数センチの幅になったら板で叩いて絞めて織り上げていくのですが、とても繊細な模様を巧みに糸の色を選択し、幅数センチから数十センチまで縦糸に通して手早く織り上げていく様子は、文章では上手く説明出来まん。
後で聞いた説明では、1人で織り上げられるのは1日に0,1平方メートルしか出来ないそうで
工場全体の絨緞生産高は200平方メートルと、私のメモに記入されています。
工場の中は日当たりも良くなく何となく誇りっぽい感じの中で、数十人の若い女性が同じ模様の絨緞を黙々と糸を操り、とても繊細な模様も見本通りに織り上げられているのは、意志と忍耐力の強い人でないととても出来ないと強く感心しました。
夕方、宿舎に帰り自室の床に同じ種類の絨緞が敷かれているのを見て、はっと驚きました。決して商業ベースでは成り立たない絨緞を、織りつづけられる中国国民の驚くべき忍耐力、社会主義国家社会への忠誠心、そして、仕事と食料を確保して数千人の工場従業員の生活を保障すると言う組織、政治、指導者には頭が下がる思いでした。続く。
北京市近郊絨緞工場見学
午前中は、低温ターボ冷凍機の連続運転状態を点検し、中国側運転保守要員にて問題なく運転されていた。
午後、北京市近郊の絨緞工場見学のマイクロバスが運行されると言うので、手を上げてバスに乗り込んだ。
何時間走ったかは思い出せませんが、やがて工場に着き、工場幹部の出迎えを受け、応接に通されて工場の概要説明を聞いたが、細かい事は忘れましたが、従業員3,000名と聞きました。
工場に入ったら、鋸型屋根の数百メートルもあるかと思われる工場の中に、5〜6メーターの高い天井から縦糸が幅3〜4メートルにわたって何組も床まで下がっており、1組の絨緞を織るために床には約1メートル間隔に3人か4人の織姫が横に並んで座り、仕上げ模様の見本を見ながら数十種類の色の横糸を1本1本選択し、その色の糸の枷を縦糸に1本一本通し、裏側で数センチの長さ(この長さにより絨緞の厚さが決まる)に鋏で切り、数センチの幅になったら板で叩いて絞めて織り上げていくのですが、とても繊細な模様を巧みに糸の色を選択し、幅数センチから数十センチまで縦糸に通して手早く織り上げていく様子は、文章では上手く説明出来まん。
後で聞いた説明では、1人で織り上げられるのは1日に0,1平方メートルしか出来ないそうで
工場全体の絨緞生産高は200平方メートルと、私のメモに記入されています。
工場の中は日当たりも良くなく何となく誇りっぽい感じの中で、数十人の若い女性が同じ模様の絨緞を黙々と糸を操り、とても繊細な模様も見本通りに織り上げられているのは、意志と忍耐力の強い人でないととても出来ないと強く感心しました。
夕方、宿舎に帰り自室の床に同じ種類の絨緞が敷かれているのを見て、はっと驚きました。決して商業ベースでは成り立たない絨緞を、織りつづけられる中国国民の驚くべき忍耐力、社会主義国家社会への忠誠心、そして、仕事と食料を確保して数千人の工場従業員の生活を保障すると言う組織、政治、指導者には頭が下がる思いでした。続く。
2005年12月09日
中国出張
その11
農業人民公社見学 昭和40年8月8日
1.北京郊外「人民公社四季青」の見学
共産主義国家の農民が耕作する農地の所有は国家であり、個人の所有ではない事は予め想像していましたが、実態は如何なのか興味がありました。
日曜日の朝、10時ごろマイクロバスに乗り込み、北京郊外の農村に向かいました。
人間の背丈より高く伸びた高粱畑の中を1時間以上も走りながら、戦時中のニュースで見た日本軍が高粱畑の中を進軍していたのは、こんな畑の中であったのかと思い出しながら走りました。
現地の「四季青人民公社」に着いて先ず感じたのは、農地の広いことです。其処はサツマイモだったかサトイモだったか忘れましたが地平線まで畑が続き、それ以外は何もありません。所どころに井戸と小さな農機具小屋或いは休憩所と思われる小屋が2〜3軒あるのみです。その広い農場に数十人の農民が5〜6人のグループで鍬を持って耕していました。皆、若い男性の農民でした。家族も同じ農場で働いていると聞きました。
私達一行が畑の中に入り、細い農道を通って耕している農民の近くに行ったら、同行の通訳兼案内人が農民に対して、私達が日本から来た北京の工場建設技術指導員である事を説明し、農民には、昔と比べて今の生活が如何に向上したかについて説明を求めたら、全員が口を揃えて仕事と食事が完全に保証されている現在の生活に満足していると言って居ました。
本来なら一人一人の考えがある(職業の選択等)筈であり、同じ答えが返ってくることは、予め答えが準備されて居る感じを受けました。多分、作業の前に共産主義社会の思想教育(学習)が毎日あり、長期間それを聞いていると、そうであると思い込みにより洗脳されてしまうのではないかと想像されます。
共産革命以前の農村では、食事も十分取れない階層が殆どで、少々の労働が課せられても仕事と食事が確保されており、現在の生活は革命家毛沢東のお陰であると学習で教えられた結果でないでしょうか。農民の生活を向上させた共産主義政策は、先ず農村から始め、そして成功したのではないかと思います。その意味では、数億人の農民に仕事と食料を供給した毛沢東は偉大な政治家であったと思われます。
帰りに、近くの農家の見学もしました。ドロの壁、ドロの屋根、入り口は1箇所。室内は8畳ぐらいの部屋にベッドが1つ、衣類箱らしき物、釜戸、鍋、釜、丼等の食器が台の上にあり土の土間になっていました。敷地の中に同じような部屋がもう1軒あり、親子別棟の生活があるように見えました。当時の中国での生活道具の三種の神器(必需品)は、自転車、ミシン、ラジオと聞きましたが、携帯ラジオは棚の上にそれらしきものはありましたが、ミシン等は見ませんでした。
室内は整然と整理整頓され、予め見学者を案内する事を予告してあったのではと思われました。あとでK社の方から聞いた話では、案内コースは予め決められており、それ以外の見学は出来ないとの事でした。
農場を出て、レストランのある所まで走って昼食を取り、宿舎に帰りました。
見せる為に作られた人民公社、見せる為に決められた農家の見学をして、ナマの農民の生活が見えなかった事が残念と言う印象だけが残りました。続く。
農業人民公社見学 昭和40年8月8日
1.北京郊外「人民公社四季青」の見学
共産主義国家の農民が耕作する農地の所有は国家であり、個人の所有ではない事は予め想像していましたが、実態は如何なのか興味がありました。
日曜日の朝、10時ごろマイクロバスに乗り込み、北京郊外の農村に向かいました。
人間の背丈より高く伸びた高粱畑の中を1時間以上も走りながら、戦時中のニュースで見た日本軍が高粱畑の中を進軍していたのは、こんな畑の中であったのかと思い出しながら走りました。
現地の「四季青人民公社」に着いて先ず感じたのは、農地の広いことです。其処はサツマイモだったかサトイモだったか忘れましたが地平線まで畑が続き、それ以外は何もありません。所どころに井戸と小さな農機具小屋或いは休憩所と思われる小屋が2〜3軒あるのみです。その広い農場に数十人の農民が5〜6人のグループで鍬を持って耕していました。皆、若い男性の農民でした。家族も同じ農場で働いていると聞きました。
私達一行が畑の中に入り、細い農道を通って耕している農民の近くに行ったら、同行の通訳兼案内人が農民に対して、私達が日本から来た北京の工場建設技術指導員である事を説明し、農民には、昔と比べて今の生活が如何に向上したかについて説明を求めたら、全員が口を揃えて仕事と食事が完全に保証されている現在の生活に満足していると言って居ました。
本来なら一人一人の考えがある(職業の選択等)筈であり、同じ答えが返ってくることは、予め答えが準備されて居る感じを受けました。多分、作業の前に共産主義社会の思想教育(学習)が毎日あり、長期間それを聞いていると、そうであると思い込みにより洗脳されてしまうのではないかと想像されます。
共産革命以前の農村では、食事も十分取れない階層が殆どで、少々の労働が課せられても仕事と食事が確保されており、現在の生活は革命家毛沢東のお陰であると学習で教えられた結果でないでしょうか。農民の生活を向上させた共産主義政策は、先ず農村から始め、そして成功したのではないかと思います。その意味では、数億人の農民に仕事と食料を供給した毛沢東は偉大な政治家であったと思われます。
帰りに、近くの農家の見学もしました。ドロの壁、ドロの屋根、入り口は1箇所。室内は8畳ぐらいの部屋にベッドが1つ、衣類箱らしき物、釜戸、鍋、釜、丼等の食器が台の上にあり土の土間になっていました。敷地の中に同じような部屋がもう1軒あり、親子別棟の生活があるように見えました。当時の中国での生活道具の三種の神器(必需品)は、自転車、ミシン、ラジオと聞きましたが、携帯ラジオは棚の上にそれらしきものはありましたが、ミシン等は見ませんでした。
室内は整然と整理整頓され、予め見学者を案内する事を予告してあったのではと思われました。あとでK社の方から聞いた話では、案内コースは予め決められており、それ以外の見学は出来ないとの事でした。
農場を出て、レストランのある所まで走って昼食を取り、宿舎に帰りました。
見せる為に作られた人民公社、見せる為に決められた農家の見学をして、ナマの農民の生活が見えなかった事が残念と言う印象だけが残りました。続く。
2005年12月03日
中国出張
その10ー2. 昭和40年8月1日
1.中国歴代年表
「明の十三陵」に入る前に、明は中国の歴史の何時頃の時代かについて、今回、手元資料 で調べましたら次の様になっていました。
夏 B.C (西暦紀元前)2205〜1766
商 〃 1766〜1122.
周 〃 1122〜255.
秦 〃 255〜206.
HAN 〃(当用漢字なし) 206〜A.D221.(A.Dは西暦紀元)
晉 A.D 265〜420.
隋 〃 589〜618. (420〜589間は?)
唐 〃 618〜907.
宋 〃 960〜1280.
元 〃 1280〜1368.
明 〃 1368〜1644.
清 〃 1644〜1911.
中華民国(?)A.D 1911〜
中華人民共和国? 1949〜
※唐(遣唐使)、宋、元(元こうの乱)は歴史の時間に聞いた記憶がありますが、 明はその後の時代で276年間でした。
2.明の十三陵
万里の長城へ行った帰り道に、明の十三陵に行きました。明の十三陵は、明の時代の十三 代の王様の陵墓で、その内の一つの陵に行きました。
他の十二陵は、詳しくは聞きませんでしたが未発掘の様です。
私達が行った陵は、一つの山に築かれた陵墓で、アクセス道路の両脇にコンクリート製の 巨大(高さ数メートル)な幻の動物の像が数十メートル間隔で並んで居ました。何匹居た か、動物の名前も定かでありませんが、魔除けの為に置かれて居るのであろうと推察され ます。
陵の境内に入ると、幾つかの門をくぐり、更に奥へ進むと、地下室の入り口があり、薄暗 い照明の階段を数十メートル降りた先に、中央に棺を置いた大きな部屋がありました。棺 も恐らく模造品で、副葬品その他何も無い簡素な陵墓でした。
地下の陵墓から出て、広い境内を歩いて外に出て、マイクロバスに戻り宿舎に帰りまし
た。今日はたくさん歩いたので夕食のビールが美味しかったと思います。
3.プラント建設工事
北京に来て約1ヶ月になり、その間に私の仕事である大型低温ターボ冷凍機の試運転準備は 着々と進行し、無負荷運転を行った後に、プラントへ零下10℃のブライン(不凍液)を供 給する試運転に入る直前の状態になりました。ブラインは零下20℃でも凍らない塩化カ ルシュームの水溶液を作り、冷凍機に注入する作業が数日間続きました。その後、冷媒(フロン)R−11を冷凍機に封入する作業に入って居りました。
以上のとおり、工事も順調に進行し、日曜日には近くの観光地に出かけて北京の生活にも 慣れ、楽しい日々を過ごして居りました。
会社へは、平均して10日間ごとに工事状況報告書を作成し郵送して居りました。
家族にも、時々手紙を書き、絵葉書も送りました。当時自宅へ送った手紙、絵葉書は今、 ノートに貼り付けた状態で保管しております。
※余談ですが、北京の生活で一つだけ記憶に残っている事があります。それは北京に着 いて間もなく、中国人通訳から聞いた事ですが、「今、中国には泥棒と蝿は一匹も居 ません」と聞きました。
工事現場からの帰りが夜になることがありますが、道路にある露天の野菜や果物売り 場には、裸電球だけが一つぶら下がり店番の人影は無く、それでも盗難は全然無いと の事です。
生活は決して楽ではない筈で盗難がないというのは理解が出来ませんでした。
また、注意して蝿を探しましたが蝿の姿を見たことがありませんでした。どうして蝿 の発生を防止したかと聞きましたら、何億人かの国民が「蝿叩き」をもって徹底的に 蝿を殺したと説明を受けました。中国国民は、政府が号令をかけたら徹底的に行動す る国民であることを知りました。最近の抗日デモも、激しく行動しても政府が自粛す るようにとの声明を発表すると、デモは翌日から全くありません。何か蝿の話と相通 ずるものを感じます。続く。
1.中国歴代年表
「明の十三陵」に入る前に、明は中国の歴史の何時頃の時代かについて、今回、手元資料 で調べましたら次の様になっていました。
夏 B.C (西暦紀元前)2205〜1766
商 〃 1766〜1122.
周 〃 1122〜255.
秦 〃 255〜206.
HAN 〃(当用漢字なし) 206〜A.D221.(A.Dは西暦紀元)
晉 A.D 265〜420.
隋 〃 589〜618. (420〜589間は?)
唐 〃 618〜907.
宋 〃 960〜1280.
元 〃 1280〜1368.
明 〃 1368〜1644.
清 〃 1644〜1911.
中華民国(?)A.D 1911〜
中華人民共和国? 1949〜
※唐(遣唐使)、宋、元(元こうの乱)は歴史の時間に聞いた記憶がありますが、 明はその後の時代で276年間でした。
2.明の十三陵
万里の長城へ行った帰り道に、明の十三陵に行きました。明の十三陵は、明の時代の十三 代の王様の陵墓で、その内の一つの陵に行きました。
他の十二陵は、詳しくは聞きませんでしたが未発掘の様です。
私達が行った陵は、一つの山に築かれた陵墓で、アクセス道路の両脇にコンクリート製の 巨大(高さ数メートル)な幻の動物の像が数十メートル間隔で並んで居ました。何匹居た か、動物の名前も定かでありませんが、魔除けの為に置かれて居るのであろうと推察され ます。
陵の境内に入ると、幾つかの門をくぐり、更に奥へ進むと、地下室の入り口があり、薄暗 い照明の階段を数十メートル降りた先に、中央に棺を置いた大きな部屋がありました。棺 も恐らく模造品で、副葬品その他何も無い簡素な陵墓でした。
地下の陵墓から出て、広い境内を歩いて外に出て、マイクロバスに戻り宿舎に帰りまし
た。今日はたくさん歩いたので夕食のビールが美味しかったと思います。
3.プラント建設工事
北京に来て約1ヶ月になり、その間に私の仕事である大型低温ターボ冷凍機の試運転準備は 着々と進行し、無負荷運転を行った後に、プラントへ零下10℃のブライン(不凍液)を供 給する試運転に入る直前の状態になりました。ブラインは零下20℃でも凍らない塩化カ ルシュームの水溶液を作り、冷凍機に注入する作業が数日間続きました。その後、冷媒(フロン)R−11を冷凍機に封入する作業に入って居りました。
以上のとおり、工事も順調に進行し、日曜日には近くの観光地に出かけて北京の生活にも 慣れ、楽しい日々を過ごして居りました。
会社へは、平均して10日間ごとに工事状況報告書を作成し郵送して居りました。
家族にも、時々手紙を書き、絵葉書も送りました。当時自宅へ送った手紙、絵葉書は今、 ノートに貼り付けた状態で保管しております。
※余談ですが、北京の生活で一つだけ記憶に残っている事があります。それは北京に着 いて間もなく、中国人通訳から聞いた事ですが、「今、中国には泥棒と蝿は一匹も居 ません」と聞きました。
工事現場からの帰りが夜になることがありますが、道路にある露天の野菜や果物売り 場には、裸電球だけが一つぶら下がり店番の人影は無く、それでも盗難は全然無いと の事です。
生活は決して楽ではない筈で盗難がないというのは理解が出来ませんでした。
また、注意して蝿を探しましたが蝿の姿を見たことがありませんでした。どうして蝿 の発生を防止したかと聞きましたら、何億人かの国民が「蝿叩き」をもって徹底的に 蝿を殺したと説明を受けました。中国国民は、政府が号令をかけたら徹底的に行動す る国民であることを知りました。最近の抗日デモも、激しく行動しても政府が自粛す るようにとの声明を発表すると、デモは翌日から全くありません。何か蝿の話と相通 ずるものを感じます。続く。

