2006年01月
2006年01月27日
中国出張
その16 昭和40年8月26日(木曜)
1.日中青年友好大会宴会招待状
当時の北京市長 彭眞氏から、8月26日午後7時半から人民大会堂にて開催の日中青年友好の宴会に是非ご参加下さいとの招待状を受け取りました。(下図参照)この招待状は日中青年友好大会に招待された数百人の日本青年代表、在北京日本商社社員、そして偶々来ていた我々プラント建設技術指導員等も含まれていたと思います。

※ブログに初めて画像を掲載する事に挑戦しました。上手く見えますかどうか自信がありません。見えなかったら御免なさい。画像は小さいがクリックすると大きくなります。
2.日中青年友好大会出席
当日は、ビニロンプラント建設工事指導に午後5時ごろまで勤務し、一旦宿舎に帰り私服に着替え午後6時半頃宿舎をマイクロバスで出発し人民大会堂に向かった。
人民大会堂は、天安門前広場に面した西側にあり、中国人民9億?(当時)の代表者が集まり共産党大会等国家の重要会議の会場となる場所で、その大きさ、格式等の威容は流石中国のシンボル的存在です。
先ず、玄関を入ると正面に巨大な階段?、幅約20mはあろうかと思われる2階への階段がありました。その大きさ、立派さに目を見張りながら2階へ上がったら、大広間に案内され、またその広さは5000人の収容が出来ると昨日聞きました。今日の出席者は聞きませんでしたが、天井の装飾、宴会用丸テーブルの数、テーブルの上の料理の皿の数等々何もかも驚きの事ばかりでした。正面舞台には大きな文字の「日中青年友好大会」看板と日中の国旗、テーブル、椅子と盛り沢山の花が飾られていてその豪華さは今までみた事も無いスケールでした。中国は、世界一の建造物「万里の長城」を築いた大国中国国民のやる事はスケールが大きいと感嘆の一言です。
3.宴会
会場には10人ずつ座れる丸テーブルが並べられ、その数は数えられない位多くて、既に殆どの参加者が指定の席に座り、開会を待って居ました。
司会者の開会の辞があり、日中双方の代表者、中国側は主催者の北京市長の彭眞氏の挨拶があり、日本側は誰が挨拶したかは覚えて居りません。
宴会は中国製蒸留酒(マオタイジュ)の乾杯から始まり、その後も著名人?が立って乾杯、乾杯の連続でした。料理も本格的中国料理で、数千人の参加者に良くもこれだけの準備が出来たものと感心しました。
中国のプラント建設現場の労働者の衣服、食料事情等からは想像も出来ない豪華さには全く驚きでした。後から考えると矢張り国家的行事としてのプライド、内容、そのスケールの大きさ等は当然かも知れないと感じました。
4.終焉
午後9時半にお開きになり、我々は再びマイクロバスで宿舎に帰りました。
当日の豪華さは、細かい事は忘れましたが大広間の豪華さ、料理の豪華さ、人数の多さは今でも脳裏に残って居ります。続く。
1.日中青年友好大会宴会招待状
当時の北京市長 彭眞氏から、8月26日午後7時半から人民大会堂にて開催の日中青年友好の宴会に是非ご参加下さいとの招待状を受け取りました。(下図参照)この招待状は日中青年友好大会に招待された数百人の日本青年代表、在北京日本商社社員、そして偶々来ていた我々プラント建設技術指導員等も含まれていたと思います。

※ブログに初めて画像を掲載する事に挑戦しました。上手く見えますかどうか自信がありません。見えなかったら御免なさい。画像は小さいがクリックすると大きくなります。
2.日中青年友好大会出席
当日は、ビニロンプラント建設工事指導に午後5時ごろまで勤務し、一旦宿舎に帰り私服に着替え午後6時半頃宿舎をマイクロバスで出発し人民大会堂に向かった。
人民大会堂は、天安門前広場に面した西側にあり、中国人民9億?(当時)の代表者が集まり共産党大会等国家の重要会議の会場となる場所で、その大きさ、格式等の威容は流石中国のシンボル的存在です。
先ず、玄関を入ると正面に巨大な階段?、幅約20mはあろうかと思われる2階への階段がありました。その大きさ、立派さに目を見張りながら2階へ上がったら、大広間に案内され、またその広さは5000人の収容が出来ると昨日聞きました。今日の出席者は聞きませんでしたが、天井の装飾、宴会用丸テーブルの数、テーブルの上の料理の皿の数等々何もかも驚きの事ばかりでした。正面舞台には大きな文字の「日中青年友好大会」看板と日中の国旗、テーブル、椅子と盛り沢山の花が飾られていてその豪華さは今までみた事も無いスケールでした。中国は、世界一の建造物「万里の長城」を築いた大国中国国民のやる事はスケールが大きいと感嘆の一言です。
3.宴会
会場には10人ずつ座れる丸テーブルが並べられ、その数は数えられない位多くて、既に殆どの参加者が指定の席に座り、開会を待って居ました。
司会者の開会の辞があり、日中双方の代表者、中国側は主催者の北京市長の彭眞氏の挨拶があり、日本側は誰が挨拶したかは覚えて居りません。
宴会は中国製蒸留酒(マオタイジュ)の乾杯から始まり、その後も著名人?が立って乾杯、乾杯の連続でした。料理も本格的中国料理で、数千人の参加者に良くもこれだけの準備が出来たものと感心しました。
中国のプラント建設現場の労働者の衣服、食料事情等からは想像も出来ない豪華さには全く驚きでした。後から考えると矢張り国家的行事としてのプライド、内容、そのスケールの大きさ等は当然かも知れないと感じました。
4.終焉
午後9時半にお開きになり、我々は再びマイクロバスで宿舎に帰りました。
当日の豪華さは、細かい事は忘れましたが大広間の豪華さ、料理の豪華さ、人数の多さは今でも脳裏に残って居ります。続く。
2006年01月17日
中国出張
その15 昭和40年8月23日(月曜)、25日(水曜)
1.8月23日、映画鑑賞
午後6時45分宿舎出発、マイクロバスにて北京市内映画館へ行き、下記映画を鑑賞 した。
(1)年青的一代
中国の開拓義勇軍志願に関するエピソード
(2)第2次大戦以後の美(アメリカ)帝国の侵略を強調したテーマの映画で、余り にも一方的な国民の洗脳映画であった。我々は、考える事もあったが黙って映画を見 て帰った。
2.8月25日、中日青年友好大交流会出席
午前中は、ビニロンプラント建設工事に従事。午後2時、プラント建設現場からマイ クロバスで人民大会堂へ向かった。
我々には、予め立派なB54枚(内2枚は表紙)の案内状が届けられました。中身は中 国語2ページ、日本語2ページに分けられ、招待された日本人にも読めるよう配慮さ れていました。
毎年、この時期に日本の青年男女を200〜300名?招待し、日中友好を国内に大いに喧伝 する行事が計画され、偶々我々の滞在期間に開催され、招待の栄誉に浴する事が出 来ました。
この計画は、数日間各種行事があり、人民大会堂の大広間、収容人員5000人、 本日参加者2000人との報告があり、丸テーブルに数名ずつの椅子に座り、若い青 年男女の交流を図らんとする大規模な集会であり、北京の「日本週間」と言う感じで した。
本日の行事の中身を列挙しますと下記の通りです。
(1)大合唱
1)必ず台湾を開放する
2)沖縄返せ(日本歌曲)
3)祖国をたたえる : 指揮者 湖徳風
(2)舞踊
友宜の歌 :出演者 3名(氏名省略)
(3)テノール独唱
1)賛歌(蒙古歌曲)
2)開放めざすアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人民 : 出演者 胡松華
(4)舞踊
豊作の歌
(5)舞踊
八木節(日本民謡): 出演者は中国人数名
(6)舞踊
英雄的な姉妹 : 出演者中国人数名
(7)ソプラノ独唱
1)汽車が来た(新疆歌曲)
2)人民公社の社員はひまわりの花 :出演者 熱比亜
(8)歌舞
百万の農奴は立ち上がった :出演者は中国人
(9)舞踊
さくら :出演者は中国人数名
以上のとおり、歌あり、踊りありで盛り沢山の内容でしたが、中国語の歌には退屈。
でも中国人の盛大な拍手で、我々も拍手で応えた。
終了はPm9.30.でした。宿舎に帰ってビールで乾杯し遅い夕食を食べて休んだ。続く。
1.8月23日、映画鑑賞
午後6時45分宿舎出発、マイクロバスにて北京市内映画館へ行き、下記映画を鑑賞 した。
(1)年青的一代
中国の開拓義勇軍志願に関するエピソード
(2)第2次大戦以後の美(アメリカ)帝国の侵略を強調したテーマの映画で、余り にも一方的な国民の洗脳映画であった。我々は、考える事もあったが黙って映画を見 て帰った。
2.8月25日、中日青年友好大交流会出席
午前中は、ビニロンプラント建設工事に従事。午後2時、プラント建設現場からマイ クロバスで人民大会堂へ向かった。
我々には、予め立派なB54枚(内2枚は表紙)の案内状が届けられました。中身は中 国語2ページ、日本語2ページに分けられ、招待された日本人にも読めるよう配慮さ れていました。
毎年、この時期に日本の青年男女を200〜300名?招待し、日中友好を国内に大いに喧伝 する行事が計画され、偶々我々の滞在期間に開催され、招待の栄誉に浴する事が出 来ました。
この計画は、数日間各種行事があり、人民大会堂の大広間、収容人員5000人、 本日参加者2000人との報告があり、丸テーブルに数名ずつの椅子に座り、若い青 年男女の交流を図らんとする大規模な集会であり、北京の「日本週間」と言う感じで した。
本日の行事の中身を列挙しますと下記の通りです。
(1)大合唱
1)必ず台湾を開放する
2)沖縄返せ(日本歌曲)
3)祖国をたたえる : 指揮者 湖徳風
(2)舞踊
友宜の歌 :出演者 3名(氏名省略)
(3)テノール独唱
1)賛歌(蒙古歌曲)
2)開放めざすアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人民 : 出演者 胡松華
(4)舞踊
豊作の歌
(5)舞踊
八木節(日本民謡): 出演者は中国人数名
(6)舞踊
英雄的な姉妹 : 出演者中国人数名
(7)ソプラノ独唱
1)汽車が来た(新疆歌曲)
2)人民公社の社員はひまわりの花 :出演者 熱比亜
(8)歌舞
百万の農奴は立ち上がった :出演者は中国人
(9)舞踊
さくら :出演者は中国人数名
以上のとおり、歌あり、踊りありで盛り沢山の内容でしたが、中国語の歌には退屈。
でも中国人の盛大な拍手で、我々も拍手で応えた。
終了はPm9.30.でした。宿舎に帰ってビールで乾杯し遅い夕食を食べて休んだ。続く。
2006年01月09日
中国出張
その14 昭和40年8月22日(日曜)
頤和園(いわえん)
北京近郊の観光地として万里の長城と頤和園は必見の場所として知られています。
頤和園は北京市街から近いので午後1時頃マイクロバスで十数人が乗り込み、宿舎を出発しました、30分も走ったと思ったらもう頤和園の山門の前でした。
我々の観光は、観光ガイドなしの自由観光で、通訳兼案内の頼りないガイドが2人同行してくれます。
頤和園の大きな山門を入ると、潅木の林の奥に宏広とした、対岸が霞んで見えないほどの湖がありました。ベンチも適当に置かれ、中国人家族の観光客が大勢集まり、結構混んで居ました。
頤和園は、数百年前の当時の皇帝が平地を掘り下げて人工の池、いや湖を作り、掘った土を盛り上げて山を作り、その山を万寿山と言い、出来た湖は昆明湖と言い、山と湖を組み合わせて広大な大別荘を作ったと言われていると聞きました。
湖は、せいぜい1メートル位の深さで、蓮が一面に植えられ、蕾もちらほらあったように記憶して居ます。人の流れに流されるように公園の中を進みますと、万寿山の上り口になり、階段を上ったり、緩やかな坂道を登ったりして、幾つかの堂や山門を見ながら山頂に辿り付きました。頂上からの眺めは、湖面から100メートル位はあったでしょうか、途中見て来た堂や、山門の黄色の屋根が幾つか見下ろされ、昆明湖は眼下に対岸の山まで広がり、対岸の山の上にも楼閣のような建物が点点と見え、その景色の美しさは、一幅の山水画を見ている感じでした。
暫しの休憩の後に下山して、昆明湖の縁にある石舟(中国名では石坊)の前にきました。石舟は全て石造りの舟で湖底に据え付けられ、軍備の象徴である不沈の船としても有名であったと言われています。この有名な中国の石舟の前で記念写真をとりました。
昆明湖の中ほどに湖を分けるように石造りのアーチ型石橋があり、船が通り抜けられるように一定間隔に通路があり、湖の単調な景色に一際奇麗な姿を見せていました。
遊覧船も数隻小さく見えて居ました。
石舟を見た後、長廊と言われる長い屋根付廊下を見ました。その天井、柱、全てに極彩色の絵が見事に書かれて居り、数百メートルの廊下には天井や、柱を見ながら上を見て歩く人で混雑して居ました。建物も立派ですが、其処に書かれた極彩色の絵画は、何百人かの絵師が何年もかかって仕上げたと思われる立派なものでした。
万寿山頂上から対岸の山まで続く山と湖の眺望、石舟、長廊、昆明湖のアーチ型石橋、等々思い出に残る遺跡との出会いは私の一生の楽しい、そして美しい一幅の絵として脳裏に焼き付いて居ります。続く。
※標題の変色文字をクリックすると、現在の頤和園のホームページにリンクします。
頤和園(いわえん)
北京近郊の観光地として万里の長城と頤和園は必見の場所として知られています。
頤和園は北京市街から近いので午後1時頃マイクロバスで十数人が乗り込み、宿舎を出発しました、30分も走ったと思ったらもう頤和園の山門の前でした。
我々の観光は、観光ガイドなしの自由観光で、通訳兼案内の頼りないガイドが2人同行してくれます。
頤和園の大きな山門を入ると、潅木の林の奥に宏広とした、対岸が霞んで見えないほどの湖がありました。ベンチも適当に置かれ、中国人家族の観光客が大勢集まり、結構混んで居ました。
頤和園は、数百年前の当時の皇帝が平地を掘り下げて人工の池、いや湖を作り、掘った土を盛り上げて山を作り、その山を万寿山と言い、出来た湖は昆明湖と言い、山と湖を組み合わせて広大な大別荘を作ったと言われていると聞きました。
湖は、せいぜい1メートル位の深さで、蓮が一面に植えられ、蕾もちらほらあったように記憶して居ます。人の流れに流されるように公園の中を進みますと、万寿山の上り口になり、階段を上ったり、緩やかな坂道を登ったりして、幾つかの堂や山門を見ながら山頂に辿り付きました。頂上からの眺めは、湖面から100メートル位はあったでしょうか、途中見て来た堂や、山門の黄色の屋根が幾つか見下ろされ、昆明湖は眼下に対岸の山まで広がり、対岸の山の上にも楼閣のような建物が点点と見え、その景色の美しさは、一幅の山水画を見ている感じでした。
暫しの休憩の後に下山して、昆明湖の縁にある石舟(中国名では石坊)の前にきました。石舟は全て石造りの舟で湖底に据え付けられ、軍備の象徴である不沈の船としても有名であったと言われています。この有名な中国の石舟の前で記念写真をとりました。
昆明湖の中ほどに湖を分けるように石造りのアーチ型石橋があり、船が通り抜けられるように一定間隔に通路があり、湖の単調な景色に一際奇麗な姿を見せていました。
遊覧船も数隻小さく見えて居ました。
石舟を見た後、長廊と言われる長い屋根付廊下を見ました。その天井、柱、全てに極彩色の絵が見事に書かれて居り、数百メートルの廊下には天井や、柱を見ながら上を見て歩く人で混雑して居ました。建物も立派ですが、其処に書かれた極彩色の絵画は、何百人かの絵師が何年もかかって仕上げたと思われる立派なものでした。
万寿山頂上から対岸の山まで続く山と湖の眺望、石舟、長廊、昆明湖のアーチ型石橋、等々思い出に残る遺跡との出会いは私の一生の楽しい、そして美しい一幅の絵として脳裏に焼き付いて居ります。続く。
※標題の変色文字をクリックすると、現在の頤和園のホームページにリンクします。

