2006年03月

2006年03月31日

中国出張

その22   北京の思い出     昭和40年8月

1.前書
北京に着任して約2ヶ月有余、仕事は極めて順調に進捗し24時間連続運転に入り、何も問題は無く、休みを利用して北京市内、近郊の観光地を数々巡り、思いで多き北京をいよいよ去るに当たり、私の最も印象に残っている写真を皆さんにお見せしたいと思います。

2.万里の長城の上に立つ
私達の子供の頃、「万里の長城で○○すれば、ゴビの砂漠に虹が立つ」と言う歌があったことはご存知でしょうか。私はその万里の長城の高い狼煙櫓の上に立って居ます。世界最大の建造物であり、世界遺産であり、毎日の観光客が数千人あると言われる万里の長城に一瞬ですが立って記念写真を撮りました。仕上がりは良くありませんが感じは出ていると思います。


万里の長城の上に立つ


3.天安門前広場に立つ
日時は解りません(多分8月22日)が、休日を利用して中国側技術者と通訳の案内で天安門前広場に行きました。毛沢東が1949年10月1日に中華人民共和国建国の宣言を発表し、毎年10月1日の建国記念日には中国政府の幹部が天安門の上に並び、壮大な閲兵式を行う場所であることは有名です。

この広場の左右には、中国人民大会堂、軍事博物館、歴史博物館等々、国民に愛国心を鼓舞する建物が並び、此処も毎日数千人の観光客を集めています。この写真の中国人は、私が中国に行く前に日本に研修に来た技術者で、通訳は要らないくらい日本語が上手です。
家族は東北地方(旧満州)に残して単身赴任と聞いて居りました。彼も今ごろは高齢になり故郷で幸せに暮らして居ると信じて居ります。下の写真は、仕上がりは良くありませんが心の中に焼きついて居る写真の1枚です。

天安門を背景にして


(続く)


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2006年03月23日

中国出張

その21    北京の休日     昭和40年9月12日

1.北京の休日北京市東郊に建設されたビニロンプラントは、全面運転に入り中国側の技術員により操業に入った。私達、機器メーカーの派遣技術員8人は明日13日に帰国が決まっている。
 12日の日曜日は久し振りに北京最大の繁華街、王府井(ワンフーチン)に乗り込んだ。
遅い朝食をとり、昼までは身辺整理、即ち2〜3日前から始めた帰国の荷造りをして、午後は昼少し前に出かけることにした。
 服務員(各フロアーに勤務するメイドさん)に依頼してタクシーを呼んでもらい、北京最大唯一の繁華街「王府井(ワンフーチン)」に行き、唯一の和食レストランで昼食を取った。始めの頃は、北京に和風レストランがあるとは知らなかったが、誰かが見つけてくれたみたいだ。
 当時は、未だ日中国交は回復されていませんでしたが、中国側招待の報道関係者、商社等の日本人数百人が北京に滞在し、北京飯店と言う最大のホテルに滞在していた。北京に和風レストランがあっても不思議では無い。
久し振りに和食(刺身、てんぷら、味噌汁等)に舌鼓を打ち、北京市の繁華街の王府井のメインストリートを見物しながら、家族連れで休日を楽しむ中国の人々が歩道一杯に歩いている人の流れに乗って歩く。歩道の横を露天店が並び、1軒1軒覗いて歩けば退屈しない。下の写真は西瓜売りが道一杯に西瓜を並べて売っていた。クリックすると大きい写真が見えます。

北京市繁華街、王府井の西瓜売り。


その横には、西瓜を切り売りもしており、その場で食べている人も居た。
その後で、北京唯一のデパートに入り、最後の土産物を買いに行く。中国独特の漆器、筆、硯、山水画の掛け軸、ヒスイの指輪、玉の彫り物、等々外国人専用のフロアーに一杯商品が並べられていたが、当時の為替レートは元が高く、どれも1〜3万円に相当し簡単には手が出ない。当時の給料は、はっきり記憶はありませんが4〜5万円では無かったでしょうか。でも海外出張は出張手当が高く、その出張手当を当てにして土産物を買おうと思い、私は大枚をはたいてヒスイの指輪と、刺繍、風景画を描いた簾(すだれ)、漆塗りの灰皿、等数点を買った。
 帰りはタクシーを呼んで宿舎に帰った。繁華街といえども乗り物はトロリーバスのみで、自動車は勿論、流しのタクシーなど勿論居ない。

 この北京最大の繁華街「王府井」には何回も来たが、これが最後と思うと懐かしさがこみ上げ、名残惜しかった。家族で休日を楽しむ中国人の家族を見て、自分の家族の事を思い出して居た。何時か家族を連れて再訪したいと思いました。
下の写真はタクシーの領収書です。クリックすると大きい写真が見えます。続く。

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北京市内タクシー領収書





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2006年03月14日

中国出張

その20   中華人民共和国第2回運動会     昭和40年9月11日

1.前書
7月に北京に着任してから2ヶ月が経ち、私の担当する低温大型ターボ冷凍機も順調に工事が進捗し、9月に入り24時間連続運転に入りました。数日前の打合せで9月13日の帰国が決まり、最後の仕上げ、引継ぎ業務、保守点検、定期点検等の講習会を連日開催して居ります。

2.中華人民共和国第2回運動会
数日前に「中華人民共和国第2回運動会を9月11日午後3時から工人体育場で開幕するから光臨賜りたい」との招待状を受け、当日昼食後に例のマイクロバスに乗り、北京市郊外の工人体育場に行きました。

工人体育場は、5万人以上の収容が出来る観客席を有する大陸上競技場でした。
入場したら、既にグランドではグランド一杯に数千人と思われる少年少女の体操、踊りや、原色の民族衣装を付けた少数民族の踊り、数百人の軍隊の銃剣体操、ひらひらのドレスを纏った若き女性の踊りが繰り広げられていました。

私達の席は、正面貴賓席に近い高段の席が指定されていて、グランドが一望に見下ろせる好位置にありました。翌日の「北京日報」に毛沢東主席、周恩来首相も正面中央の貴賓席にて観覧されたとトップ記事で掲載されて居ました。

グランドのスケールの大きい演技に見とれていたら、向こう正面の観客席に、述べ1万人は要ると思われる「人文字」が現れ、刻々と文字、絵柄が変化し、その絵柄が左から右へ、右から左へと流れるように変化するではありませんか。勿論、文字、絵柄は中華人民共和国の意識高揚に関するものばかりですが、1万人もの人間が何かの合図で一糸乱れず、カードの出し間違い、出し遅れ等が全く見えない見事な演出には驚きと敬意の連続でした。恐らく数ヶ月前から、最初は少人数で一文字づつカードの出し方を練習し、少しづつ人数を増やし数百人単位で練習し、カードの出し間違い、出し遅れの無くなるまで練習した後、更に人数をを増やし、1万人になってからも何回も練習をしたのではないかと想像しました。
下の写真をクリックすると大きい写真に変わります。

北京工人体育館、中国第2回運動会人文字。


最近では、北朝鮮が同じような人文字をニュースで見ることがありますが、臨場感が無く驚きはありません。

グランドの演技と、観客席の人文字を関連付けてタイミング良く動かす企画と技術は、さすが中国のお家芸だと感心しました。

北京の夏は、蒸し暑さが無く、日も長く快適に時を忘れて中国式体育大会を観賞?して、中国北京最後の思い出を残す事が出来ました。5万人の観客、1万人の人文字、グランドの華麗な演技、それは中国が世界に対する示威、デモンステレーションだと思います。国家の威信をかけて行う政府の熱意と努力が、この数年毎に開催する運動会であると私は理解しました。

プラントの工事も順調に終わり、帰国の日程も決まり、壮大な中国の運動会を見学し、思い出多き北京の忘れがたき最後の1ページになったことは私の喜びと誇りです。終わり(続く)


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2006年03月04日

中国出張

  その19     昭和40年9月1日

客人来訪

1.前書
8月30日(月)プラント建設現場から一旦宿舎に帰り、夕食を済ませて午後8時に中山公園にて開催の「日中青年友好大会」に出席した。
公園の中に溢れる程の中国の青年が集まり、舞台では若い女性の舞踊が次々と披露され、前に用意された椅子に座り何時間も見とれる人も多かった。雑技団のサーカスもあり、中国奥地から出てきたと思われる民族衣装をつけた団体の祭り行事のデモンステレーションみもあり、何処へ行っても日本人グループには拍手を以って迎えられ、大変楽しい時間を過ごした。中国は、国家的行事は何でも大規模に計画、実行され、そのスケールの大きさに驚く場合が多い。詳細省略させて頂きます。

2.客人来訪
9月1日プラント建設の現場から帰り、夕食を済ませた処へ、現場で大変お世話になっている通訳と技術者の2名が私の宿舎に来られた。昼間に訪問の事は聞いて居たので驚く事はありませんでしたが、日本人宿舎に私的に中国人が来る事は禁じられていたのでほんとに来るのか疑問でした。
 果物だったと思うが手土産を持って来られた。
始めは、日本の生活状態の質問があり、家族、生活費、会社の仕事内容、給料、自家用車の有無、等々について細かく聞かれたので私の生活について詳しく説明したら、興味深く聞き、納得されたようでした。

3.現地の中国人の生活
私の方から中国の方の生活についていろいろ聞きましたが、余り詳しくは説明されませんでしたが、当時の工場労働者の給料は1ヶ月、日本円で4000円程度であり、政府最高責任者の毛沢東主席の給料は12,000円程度で、労働者の3倍程度の格差であると聞きました。
当時の元/円のレートは1元150円位でした。現在は1元30円位でしょうか。
現在の中国では、沿海部の経済発展地区の労働者の収入は、平均で15,000.円程度と報道されて居りますが、当時と比較して3〜4倍位と思われます。勿論大陸の山間部の農民の生活は未だ未だ低くて、若者は殆ど沿海部に出稼ぎに出て、田舎には老人と子供のみとの報道も見られます。子供1人しか生めない極端な人口抑制政策もあり、都市部と山間部の経済格差と、20年先以後の少子高齢化問題も政府の重要な課題とも言われて居ります。
 当時は絶対に触れてはいけない「台湾問題」に付いても、若干触れ、今のままで無理に統一しなくても良いのではと私の意見も話しましたが、特に抵抗はありませんでした。

4.来訪の目的
暫く身辺の話に花が咲きましたが、時間も経過した後に、私が現場で時々出して見る「機械工学便覧」と「金属材料便覧」及び「低温ターボ冷凍機の設計資料」を帰国される時に頂きたいとの要請がありました。その話を聞いて、はは、今日の来訪の目的はこれだったのかと納得が出来ました。即答は避けましたが、ご期待に添う方向で検討しますと回答したら、2人は納得して10時頃帰られました。
今日訪問されたのは、日本の最新の技術資料を入手しようとする個人の要求ではなく、多分プラント建設部門の要請があり、日頃接触の多い2人が選抜されて夜間に極秘に訪問されたのであろうと推察されます。
 後日談ですが、その後、中国からの同種冷凍機の注文はありませんでした。私が勝手に推測すれば1台は分解してスケッチし、材料、加工精度、組立等の国産冷凍機製作のモデルとして輸入されたのであろうと思います。同じような話として、当時日本で大量生産されていた「ダイハツミゼット」も数台の注文の後、2〜3年後には中国製「ミゼット」が中国で大量生産されたと聞いて居ります。
 そう言うわが国も、明治以降、同じようなことをしたと言う観念があり、一概に中国を非難する事は出来ません。以上「続く」






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