2010年04月05日

佐村河内 交響曲第一番 東京初演

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*******************佐村河内の交響曲第一番を聴きに東京芸術劇場へ行ってきた。会場に着くと佐村河内氏がロビーで何人かの人たちと立ち話をしていた。初めてその姿を目にしたか、外見からは思いのほか元気そうな様子で安心した。
今日のコンサートは、初めにモーツアルトのジュピター、こちらはさらっとした感じで、なんとなく前菜的な印象だったが、交響曲第一番の方は打って変わって大編成のオーケストラから押し出される音の迫力に圧倒された。もちろん聴きに行ったかいは十分にある演奏であった。
演奏前の指揮者からの紹介で、この曲をとり上げたいきさつが語られた。「シーズン初めの演奏会では、新しい作品を紹介している。毎年非常に多くの作品が作られているため、その全てを知って選ぶということはできない。自分が知る範囲で、感動できる作品を紹介している。1年ほど前に、あるコンクールの審査を担当する三枝氏から、手法や技術を抜きにして本当に感動的な作品であると紹介されたのが、初めてこの曲を知るきっかけだった。その後、定期演奏会の選曲についてのミーティングの場で、スタッフから、最近一部の人たちの間ですごく話題になっている作品があるといって、紹介されたのが、やはりこの曲であった。広島の演奏を聴いて自分も感動したので、今日の演奏会でとり上げた。」およそ、このような紹介であった。
広島と同じ1、3楽章だけの演奏であったが、広島での演奏の後、細かい部分に修正が入っているそうである。演奏が終わると、満場は怒涛の拍手、拍手、後方の席にいた佐村河内もステージにあがり、何度も何度も客席の拍手に答えていた。ぜひ次は全曲聴く機会を作って欲しいものだ。きっと大成功するだろう。佐村河内交響曲第一番、東京初演の報告である。

by Chick


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2010年01月02日

佐村河内守

昨年、このブログで触れた作曲家佐村河内に関する記事には、いまだに熱心なコメントが寄せられている。はじめは佐村河内守についてではなく、松本で開催されたサイトウキネンフェスティバルのことについて書くつもりだったが、書いているうちに話の中心が戦争レクイエムから広島の鎮魂曲を書いた佐村河内のことに移ってしまった。
しかし、一度書いてしまってから、正直なところしまったと思った。知りえるかぎりの情報によってすら、彼が背負っている運命のあまりの重さに、ブログのようなところで軽々しくそのことに触れるのが憚られてしまうのである。ブログに寄せられるさまざまなコメントに対して、何を書くべきだろうかなどと考えているうち、何カ月も過ぎてしまった。
その後の話題として、佐村河内の交響曲第一番は2009年の芥川作曲賞候補になったが、場が適切ではなかったためか、最後まで残ることはなかったようである。ちなみに、最終選考候補に残った松本祐一氏の「広島・長崎の原爆投下についてどうおもいますか?」というアンケート・アートなる15分程度の作品については、???。そもそも、アンケート・アートというのが、一般の方にアンケートをして答えてもらい回答の文章を品詞で分解し、例えば名詞であればド、動詞であればソと言う風に音を割り振り、分解した単語の長さを音符の長さにしてメロディーを作って音楽にしていくらしい。まあ、お遊びとしてであれば許されるだろうが、それなら「マック・バーガーが100円で売られたことについてどう思いますか」でも良かったのではないだろうか。
佐村河内の交響曲第一番は、形式は伝統的な音楽になるのだろうから、別に芥川作曲賞を受賞する必要もないわけだし、そもそもこのような作品と並列されるような作品でもない。いまだに、youtubeで一楽章、三楽章を聞いただけで、実際の演奏を聴いているわけではないため、何も語ることはできないのだが、それ以上にこの作品は、言葉で軽々に語られることを拒否する何かがあるのである。佐村河内の身体的状況は一体何なのだろう、その中で、彼がこのような作品を作り上げた執念は何故なのだろうか。この交響曲は、昨年亡くなった被爆の画家平山郁夫の「広島生変図」と重なり、怒りと浄化を表すであろう劫火広がる上空に現れた不動明王こそが佐村河内ではないだろうか。まるで、その日その時に体を焼かれた人々の、苦しみと無念さとが彼の体と作品とになって蘇ったものではないかと感じるのは私ひとりであろうか。

by Chick

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2009年08月30日

戦争レクイエム(サイトウキネンフェスティバル)

bb71d13a.jpg今年のサイトウキネンフェスティバルは、ブリテンの戦争レクイエムとブラームス の 交響曲第2番 ニ長調 作品73 だ(いずれも小沢征爾指揮)。後者は、いろいろ思い出がある曲なので、早めに9月4日のチケットを手に入れた。前者は、人気薄であったのか、30日日曜日の良い席が簡単に手に入った。ということで、まず30日に松本まで行ってきた。松本での演奏ではあるが、休日1000円という高速代金のおかげで、気易く行くことができた。
イギリスの詩人オーエンの詩をレクイエムに編集したブリテンの傑作といわれる作品である。大合唱団と管弦楽の超大編成で、舞台ははちきれんばかり。演奏もそれなりに迫力満点で、これはやはり生演奏でなければ味わうことは無理だろう。
一般の人気など気にせずに小沢がこの作品を取り上げたのはどういうこただったのか。戦いにあけくれた20世紀が総括出来ぬまま無力感の漂う現在、政治的なものから遠ざかっていた小沢があえて・・・。
先の大戦の悲惨さを戦争レクイエムという形で訴えるということであれば、日本にこそこのような作品が生まれてしかるべきではないか、ということも強く感じた。アメリカ合衆国の同時多発テロで標的となったニューヨーク世界貿易ビルの跡がグランドゼロと言われるようになったことに対し、それはヒロシマ、ナガサキのことでしょう?と言いたくなったようにである。
で、そういう作品は果たしてあったのである。被爆へのレクイエムとも言える日本人佐村河内が作曲した交響曲第一番がそれだ。佐村河内守のことを、私は知らなかったが、耳の不自由な作曲家で、ゲームソフト「鬼武者」の音楽も作曲しているらしい。彼の交響曲第一番はyoutubeで聞いても戦争レクイエムを上回る戦争への強い抵抗意志をみなぎらせた迫力ある作品であることがわかる。(幸いyoutubeで一部を聴くことが出来るのでぜひ聞いてみてもらいたい。)

by Chick





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2009年07月15日

短かった今年の梅雨

関東地方では今日梅雨明けとなったようである。去年と比べると、梅雨入りが12日遅く、梅雨明けが5日早いというから、梅雨の期間は17日間も短かったことになる。ちなみに、平年と比べても8日短い。あまり梅雨らしい雨の日も少なかったような気がするので、降雨量も少なかったのであろう。ともって観測値を見ると、全国的にはやや少なくなっているものの、東京では平年217mmに対して214mmとやや多い。ところが、甲府では171mmに対して86mmしか降っていないから、平年の約半分に過ぎない。隣県でこのような違いがでるのはどうしたことだろうか。
雨の日のじめじめもいやだが、カラッと晴れ上がった夏日というのは、とにかく通勤の行き帰りで汗だくになってしまうので閉口する。この後、去年より半月も多くそういう日が続くのかと思うと、あまり短い梅雨も有り難くはない。




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2009年06月21日

ダークな宇宙って?

NHKで放送された名古屋大学杉山直さんの暗黒宇宙に関する講演を録画して見ていると、どんな娯楽番組より面白い。

前半は今では誰もがほとんど当然のように受け入れているビッグバン宇宙論を様々な観測結果を紹介しながら説明している。ビッグバンから38万年の間は、ものすごい高温の状態であったため、陽子も電子もバラバラで、宇宙を構成している原子は何一つ存在しなかったが、38万年経って温度が3000K位になると、やっと陽子と電子がくっついて水素原子が生まれた。それまでは、光は陽子と電子の中をまっすぐに進めなかったが、これによって宇宙は晴れ上がり初めて光で観測される宇宙となった。つまり、観測可能な宇宙はその誕生の38万年後から宇宙の寿命である137億年後の現在までということになる。

このような光の宇宙に対して、暗黒の宇宙に関する話が後半に続いた。一口に暗黒といっても、人が感知できる可視光以外の波長でみると輝いている暗黒星団や銀河団内の高温のガスと、直接的な観測ではとらえることのできないブラックホール、ダークマター、ダークエネルギーがあるという。これらのうちブラックホールは、一般相対理論によって数学的に定義できるもので、実際にも観測されている。ところが、ダークエネルギーは反重力をもたらして宇宙の膨張を支配しているもの、ダークマターは宇宙に存在する物質の大部分を占めている重力物質であるが、光(電磁波)でみることはできない。宇宙の膨張を観測するとどんどん加速しているという観測事実から、宇宙には斥力をもたらすものがなければならないということになり、その力の原因として斥力の存在が必要になった。それがダークエネルギーというものの存在を示す根拠である。一方、ダークマターの方は、渦巻銀河の回転の仕方(周辺の星がケプラーの法則による回転より早く回転している)や重力レンズによる光の屈折を調べると、普通の物質とは違う謎の物質が宇宙空間に存在すると考える必要があるというのがその根拠である。
観測事実からこのような事実がわかって来たということであるが、あくまでも、これまでの理論に基づいて観測事実を解釈するとこうでなければ説明がつかないというものあって、あくまでも観測事実から現在の理論を前提に推定した結果にすぎないのではないかという気もする。ここまで来ると、これまでの理論が違っているのか、本当にダークエネルギー、ダークマターというものが存在するのか、我々には皆目わからない(プラズマ宇宙論ではこのようなものを使わずに宇宙を説明できるという)。
とにかく、宇宙に存在する物質とエネルギーの総体の、74%がダークエネルギーで、22%がダークマターというから、普通の元素はわずか4%にすぎず、さらに見に見えるものは1%でしかないという。なんと、宇宙の主役はダークエネルギーとダークマターということになる。
結局、今でも宇宙の99%は正体不明ということではないのか。季節はまさに七夕でもある。我々は理論的に議論するわけにはいかないが、たまには夜空を仰いでこの正体不明な宇宙の物資・エネルギーについて、勝手な推測をしてみるのも一興である。同じゲスの勘ぐりでも、政治家や芸能人などのゴシップネに熱中するより、よほどましというものである。

by chick

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2009年05月31日

豚インフルエンザの行方

今日で5月も最後となった。年度初めは多少のんびりできるのが常であったが、今年は休む暇なく連日飛び回っている。すると、ブログを書く時間もなくなり、書かないでいるとますます書かなくなってしまう。というわけで、ずいぶん長い間書いていない。
ところで、しばらく大騒ぎが続いた新型インフルエンザの行方はどうなったのだろうか。まるで水際で抑えられるかのような危機管理方針でスタートしたが、やはりちょっとピントがずれていたようで、国内でも感染者が発生してしまったとたん、急にトーンダウンとなった。明らかに、初動態勢が過剰であった。それでも、これが神戸地震の時のように、初動のまずさが被害を拡大させてしまったといわれるよりはましだったかもしれない。
インフルエンザウイルスは空気が乾燥した寒い時期に最も感染が広がりやすい。日本ではこれから夏に向かって一番ウィルスが活動しずらい季節に向かう。いずれそれほどの広がりにはならない。ほとんどの人にそいう感覚があったためか、国内感染者が出たあとも、満員電車内ですらマスクを着けている人はほんの少数であった。
それでも、マスク自体は全国的に品薄となったようである。ちょうどそのようなニュースが出ていたころ、中国地方の内陸や山陰などに行く機会があったので、売場をのぞいてみたが、三次市、浜田市などでも売り切れ状態であった。一部の人たちが買い占めたのか、買ったけれど実際に着用する人は少なかったのか、そのあたりはよくわからない。
マスクは売り切れたといっても、厚生労働大臣のパニック的記者会見に比べて、対象的に一般市民はまったく冷静であった。これが、上記のような理由で多くの人がまともな判断をしたということであるならば問題はないが、もしいわゆる正常化の偏見であったとするならば、笑いごとで済ませてしまうのは問題である。
正常化の偏見というのは、何か異常が発生しても、つい大したことではないだろうと考えてしまう傾向のことである。本当に異常災害が発生して、避難勧告などが出てもまさか自分に被害が及ぶことなどないだろうと考えて、避難しようとしないなど致命的な事態につながることも少なくない。
今回の新型インフルエンザに対して、予想外に冷静であったということが一体どういうことだったのか、もう一度よく検討してみる価値はある。政府の対応を非難ばかりしていても何も学ぶべきことは得られない。こういう事態は、めったにないいわば国を挙げての社会的実験と捉えることもできるのである。

by Chick

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2009年03月29日

再びの桜の季節

桜は、不機嫌な子供であったと自称する白洲正子をして、桜の人西行の本を書くまでに夢中にさせるほどの、不思議な魅力を持つ花である。日本人なら何の説明もなく、そのあたりの事情を誰もが納得することができるというものである。桜を詠んだ歌は、古来数しれず、ひとつひとつあげれば限がないが、つまりは「ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」(西行)なのである。
近年、日本のポップスに桜が歌われる作品が増えている。森山直太朗/さくら、福山雅治/桜坂、コブクロ/桜、アンジェラ・アキ/サクラ色、ケツメイシ/さくら、いきものがたり/SAKURA、エレファントカシマシ/桜の花舞い上がる道を・・・・・これら、初期に取り組んだ作品はともかく、季節の売り物として2番煎じ、3番煎じで作られたものも多いが、現代の若者にも日本人の桜に対する想いが脈々と受け継がれているということかもしれない。
昨年は、源氏物語が話題を集めたが、その中に日本人としての大切な大和心を見た本居宣長は、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(宣長) と詠んだ。これは、後に国粋主義的な解釈を施され、軍国主義に利用されてしまった訳であるが、良くも悪しくも、日本人の心を象徴する花であるのは間違いない。
もともと、古くより歌に詠まれてきた桜は、山桜であり、学校の校章などのデザインとして多く使われた花も山桜が使われている。最近は、桜といえばソメイヨシノといういうのが相場であるが、両者の印象はかなり違う。この辺の違いが、西行や宣長の歌と、最近のポップスとの大きな違いのようにも思われる。
今、北朝鮮のミサイル発射に備えて、日本の各地にPAC3が着々と配備されつつあり、東京も含めまさに戦闘体制さながらの状況になって来ている。一方で、上野公園では何事も無いかのように多くの花見客が桜の花の下で、花見の宴に興じているのである。桜は狂気を隠す花でもある。

by Chick

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2009年03月22日

何をモデルとしてきたか

米国AIGの賞与問題が騒がれている。税金からの資金投入を受けながら、経営責任を負うべき役員が高額の報酬を受け取るなどということは、多分日本のバブル崩壊時にも無かったことではないだろうか。これが、小泉改革の旗印とした努力する者が報われる自由な競争社会のモデルとして無条件に想定されていた米国の実態である。言うまでも無く、報酬が多いということは、何かがあった時の責任を引き受けるということと、裏腹のことというのが日本の常識であるが、米国ではそこが違うのか。それとも今回は役員が全く責任をとるべき問題ではない、つまり天災のようなものという理解なのか。
金融工学を万能の理論であるように信じ、リスクを懸念することなく、巨額の金を稼いでいるうちに、経営責任など存在しないと思うようになってしまったのか。米国、いや西洋の列強は歴史的にも、自分に有利なルールを他国に押し付けて、自国の利益を優先するというやり方をとって来た。今回は、金融工学で理論通りに儲ける仕組みをグローバルスタンダードというルールとして、世界中に押し付けてきた。その結果、一部の金融関係者を中心に、巨額の利益を得ることができたのだが、とうとう行き詰った。そもそも金融工学がいついかなる場合でも、正しく機能するとは限らないということが証明されたわけである。金銭的な利益だけを最大化しようとする理論など、そうは長続きするわけがないのである。そこには、モラルの最適化など人間が生きていく上で最低限必要な境界条件すら考慮されていなかったのであろう。
国内では、民主党小沢議員の献金問題で、さまざまな議論が沸き起こっているが、相変わらず政治と金の問題という視点も多くが取り上げている。政治と金の問題といえば、まるで暗に必要悪であるという藪に姿をくらますことが出来るかのようだ。政治と金ということは、票数を稼ぐためには金が必要であるということを意味するが、そもそも多数決を最大のよりどころとする民主主義が、金のかかるものということと同義ということになる。
グローバルスタンダードとかいう言葉によって、民主主義=資本主義=自由主義といった本来異質なものを等号で結びつけるマジックにひっかかってしまったことを、もう一度反省してみる必要がありそうである。

by Chick


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2009年01月11日

むすめふさほせ百人一首

eb65f18f.jpg正月も明け、今日は鏡開き、近くの河川敷では消防の出初め式も行われていた。そういえば、今年は久しぶりに羽子板で羽根つきをしているのを見かけた。子供のころは、羽根つき、独楽回し、凧揚げ、双六、かるた取り、福笑いといった、昔からの正月遊びが残っていたものだが、今ではこれらを知っている子供も少ないのだろう。かるた取りは、普通いろはがるたのことで、「イヌもあるけば棒にあたる」と読み人が、読み札を読み上げると、即座に「い」の字と犬が棒にぶつかる絵の描かれた絵札を取り合うものだ。百人一首の置いてある家もあったが、それを使って遊んでも、おおかたは坊主めくりという遊びであった。字札以外の絵札だけを重ね、裏にして積み上げ、これを参加者が上の札から一枚ずつ引いて行き、お姫さま(女性の句)が出たらもう一枚引くことができ、坊主(僧の句)が出たら、持ち札をすべて取り上げられるというルールで、最後に一番多く札を持っているものの勝ちというものだ。
中学のころだったか、仲間の中にしたり顔をして、「むすめふさほせ」などということを話している者がいて、関心を集め、たちまち冬休みの絶好のお遊び材料になった。放課後、編み物教室をやっているM君の家の教室を借りて、俄作りの百人一首同好会が結成された。初めはいろはがるたの様に札を並べておいて、それが読み上げられると同時に、その字札取り合うというだけであったが、徐々にそれでは物足りなくなって、正式な競技かるたのルールでやるようになった。
それは、100枚ある下の句が書かれた字札を二組の競技者が50枚づつ分けあい、それぞれで相対したこちらとむこうに25枚づつならべ、読み人が絵札に書かれた句を読み上げると、目の前に並べた札からそれに対応した字札を相手より速く取っていく。相手側からとれば、自分の前の札一枚を相手に渡し、どちらが先に自分の前の札を無くすかを争う。もちろん、上の句を読み、それに対応する下の句を取るのである。すると、上の句と下の句の関係をすべて覚えるのは当然であるが、いかに速く下の句の札を取るかは、上の句の何字目かで下の句が確定したと同時に、その札が有る場所の記憶に従って、瞬間的に手を出してその札を先に飛ばすことが出来るかに係っている。この時、上の句の最初の一字で下の句が決定される7枚の札の、一文字目を並べたものが、「むすめふさほせ」という一字決まりなのである。例えば、「む」は、「村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮」という句であるが、「む」と読み始めた瞬間に、その札は宙をまっているといった具合である。一方、「わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと、人には告げよあまのつり舟」と「わたの原漕ぎいでてみればひさかたの、雲居にまがふ沖つ白波」とは、6字目が読まれるまでどちらの札か分からないので、わたの原までは札を取らずに微妙な駆け引きの時間が続き、6字目になってパーンと札を取りに行く。
頭の新鮮な年代なったせいか、みるみるうちにみんなが上達し、今度は市で開催する競技かるた大会に出てみようという事になった。本格的な競技の他に、市民の部、少年の部があり、まずは少年の部にみんなで申し込んだ。結果は圧倒的な勝利で、上位を独占することになった。あとで、そこに来ていた競技かるた好きの人から誘われて、次の年は本格的な競技の練習をさせてもらい、われわれの腕はまた更に進歩することになった。次の年は、上手なものは市民の部、他は少年の部と分かれて参加し、当然のこととしてそれぞれの賞を独占した。今度は市の大会ばかりではなく、他の場所で開かれる大会にまで遠征するほどになった。そこでも、上位の賞を取りまくる勢いであったため、ある区では、突如ルール変更が行われ、一位に限っては区内の者に制限されるほどになっていたのである。
市の大会には3年出場し、2回め3回目で少年の部優勝、市民の部優勝ということで新聞に名前が載ったり、主催の毎日新聞社からスポーツ賞のメダルをもらったりした。競技かるたはスポーツのひとつと言うことになっているらしく、自分があまり得意ではなかったスポーツで表彰されたのは、後にも先にもこれだけである。やがて受験時期を迎え、卒業してからはやめてしまったのであるが、その後本格的な競技かるたの有段者にまでなった者は一人もいなかった。
定家が編集した歌織物の「百人一首」は句集としても楽しむことが出来る。さまざまな解説書があるが、林直道氏の「百人一首の秘密」はサスペンスじみていておもしろい。選ばれた和歌には、山、川、紅葉、雲、花、桜、菊、鳥、鹿、瀬、滝、松、等々の共通する語句が多く用いられており、これらの語句の重ね合わせでタテ・ヨコがつながるように10×10枚を並べると、そこには承久の乱で隠岐に流された後鳥羽院にゆかりの深い水無瀬の里を描いた絵になるというもの。氏は「要するに、百人一首とは、後鳥羽院らへの哀惜の情という形を通じて、武家政権に対する嫌忌の念をこめつつ、亡びゆく王朝社会への挽歌をうたい上げたものということができるであろう」と言う。

by Chick


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2009年01月01日

浅川のメタセコイア化石

b382e69b.jpg北浅川が南浅川と合流する鶴巻の少し上流、中央高速道路北浅川橋梁の下流あたりには、以前から多くのメタセコイアの化石(化石林)が見られたが、洪水で削られたり、地層ごと流されてしまい、今ではあまり確認ができない状態になっている。平成14年にはこの付近でステゴドン象の化石が発掘されて話題をよんだ。
一方、現在、南浅川の五月橋直下流に、近年の河床洗堀の結果で、大きなメタセコイアの化石が顔を出している(画像は橋の上から撮影)。化石が含まれる約200万年前の地層は、浅川に堆積した砂礫層の下に広く分布しており、北浅川のいわゆる北浅川渓谷でも少し前こ同地層から大きなメタセコイアの化石が確認されている(その後の洪水で流失)。
そのころ浅川一帯には、消滅しつつあったメタセコイアなどの森が広がり、象なども姿を見せていたのだろう。気候は温暖な間氷期(ホルシュタイン間氷期)で、海水面が現在より高く、この辺りは入り江のような環境であったろう。川から運ばれた砂や土が動植物の死骸とともに海底に堆積していった。メタセコイアの化石はどれも切り株のような状態で、上部の樹幹まで残っているものはない(場所によっては倒木として横になったまま化石化したと見られるものもある)。海水面の上昇と同じ頃、立ち枯れて水中に残ったメタセコイアの根株が、砂泥の堆積といっしょに埋もれて化石化したように考えられる。
化石が含まれている地層の上には、明らかに河川の堆積物と見られるものが、直接堆積しており、この地層が形成されてから百数十万年の間が抜けていると見られる。三浦層郡に見られる不整合面と同様な事情があったようである。
浅川から砂礫が消えてしまうのは、環境や景観という面では大きな問題であるが、そのおかげで、簡単に200万年前の地層(上総層群大矢部層)へとタイムトリップが出来るわけだが、やがて化石を含んだ柔らかい地層も洗堀され、永遠に見ることが出来なくなってしまうのであろう。


by Chick



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2008年11月15日

松岡正剛 白川静漢字の世界 めざめ 真行寺君枝

eed9b197.jpg松岡正剛の「白川静漢字の世界」(平凡社新書)が刊行された今日、同時に発刊となった真行寺君枝の処女作『めざめ』(春秋社)の刊行記念講演会があった。これに友情出演した松岡正剛のトークを聴くため、神保町にある東京堂神田本店にでかけた。「書くこと」と「読むこと」と題されたイベントは、まず真行寺君枝の自作に関する話があり、次いで30分程度の短時間であったがお目当ての松岡正剛の話が続いた。
その話の内容は納得させられっぱなしの以下のようなものである。
「白川静」の中のひとつのキーワード「興」と「めざめ」に対する「蕾」の二字から始まる。興とは発想し何かを始めようとすることである。蕾は始まりで、そこから花も咲く。蕾はスポルタ、元気を出してみんなでやるスポーツにつながる。
人を取り巻く経済的あるいは物理的な環境の変化は容赦なくやってくる。有無を言わせない。真行寺君枝は破産し、離婚した。人それぞれ苛酷さは異なるが、それをどう受け止めるかが問題。白川静にとってのそれは貧しい家に育ったことだった。代議士に丁稚奉公に行き、そこで漢字と出会った。
文字は世界を持っている。世界が文字を持っているのではない。(漢字はそれが成立した時代の生き方や考え方を反映している。)白川静は、漢字以外に興を起こさなかった。万葉集と詩経に興を絞った。
真行寺君枝の話に触れ、宇宙は一つだといったとたん、すぐそうではないでしょと反論が返ってくる。これこれで生命が誕生したと言っても、いやそれだけではないでしょうと異論が飛ぶ。それが知の世界である。はりめぐらされた知の世界を築いていくのが学の世界で、それで食って行く学者がたくさんいる。私は好きな世界ではないが。
ノヴァーリスは「人は生涯に一度の聖書を書くために生まれてきている」と言ったが、はたしてどう書くのか。コンテクストディファインドとコンテクストフリー、つまり文脈に従属して書いたり話したりするか、文脈と関係なくするか。一つ一つの言葉の意味背景のつながりを調べて組み立てるのか、言葉の背景をすべ無視して書くか。徹底して言葉の定義背景にこだわって行くやり方、サルトル、ホワイトヘッド・・・多くの人がそうだ。禅なども言葉に執着しないといいながら、言葉には厳密であった。二項対立、絶対矛盾的自己同一だ。
後者の場合はブログがそうだ。そんなの関係ねーの世界で、一方的に書く。コンテクストディペンダントな重たい世界から正反対の軽い世界である。しかしそれもしばらくすると言葉の背景を作り上げていく、最低3人もいればそういう世界が作られていく。そうしてまた軽い世界から重い世界へ振り子が帰って行く。皆、この振り子のどちら側で書いたり読んだりすべきかと迷う。
どちらかではなく、真如依言、真如離言 そのどちらも包括できる場を持つべきである。その場へすべてを落とし込んで理解する。読むこと、書くことを40年間やって来て、それが正しいやり方であるという確信を持てるようになった。はじめは、狭い場であってもそうしていくうちに大きな場になっていく。
物を書くということは、言葉との戦いである。自分が言葉を発したとたん、その場はその言葉で埋め尽くされてしまう。ここは神保町だというと神保町に、ここは千代田区と言えば千代田区に占領されてしまう。それを突き崩すために言葉と格闘を続けることである。
本を書き出版するというと、カテゴリを初めから設けてしまう、そこから外れた本は出しにくい。価格も商品とみなしてつけられる。しかし、そうしたやり方は間違っている、本というのは本来そういうものではないはず。フランスのピエール・ブルデューという思想家は、資本主義に将来性がありうるとすれば、書物の出版に正当な評価を与えられるようになった場合である。そうでなければ、資本主義も出版業界もすべてが消えうせてしまうだろうといっている。今のような出版業界の状況下で、6年かけて自分の書いたものを出版にこぎつけたということはたいしたものである。
と、まあ、自分の耳と理解と記憶が正しければ、大体以上のような内容だったと思う。松岡正剛は真行寺の処女作「めざめ」に対して、まだ完成しない、逆にいえば可能性を秘めた「蕾」という文字で祝福した。本当に本を書くということの厳しさについても触れた。「めざめ」とは、それまで彼女が生きてきた感性だけを追及する世界から、知性、理性の世界へめざめたことを意味するそうである。だが、目覚めた後の、知の世界はそう簡単な世界ではないということである。かといって、ひとりよがりでやって行けば良いというものでもない。寒い冬に向かうこの季節に、「蕾」という文字を贈った松岡正剛は、この先それが花開くことを予期しているのか、それとも。若いころにこれだと決めた漢字の世界以外に「興」を持つことを許さずに偉業を成し遂げた白川静の話を添えたことで別の何かを暗に示していたのか。

by Chick

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2008年11月09日

等伯山水図襖

3542d5c3.jpg京都の樂美術館では、30周年記念特別展でめったに見ることができない長谷川等伯の山水図襖が展示されていた。
もとは、等伯が力ずくで書いてしまった曰くつきの水墨画で、大徳寺三玄院方丈を囲む大襖絵だった36枚の襖絵の一部。廃仏毀釈の折同寺を離れ、4枚が樂家蔵となった。残り32面(重用文化財)は圓徳院に所蔵されているがまだ見たことがない。この4面は「松林架橋図」とも呼ばれ、東京国立博物館所蔵の等伯筆「松林図」(国宝)に酷似し、それの先行的な作品となるものといわれる。
この機にぜひお目にかかりたいと思い、ついでの折に立ち寄った。しかし、襖絵は思っていたより痛みがひどく、シミ、剥落、焼けがひどいので、細部をよく確認することができない。何とか墨色が目立つように画像処理をして観察してみると、左側には松林図にそっくりの松が描かれ、中央奥に山が聳えている。その手前は霞んでいるようで良く見えないが、湖か川があるのかもしれない。右側手前には橋が架かり、その橋をいまにも渡ろうとしている人がいるようにも見える。橋を渡ったところに庵の屋根が見え、さらにその右には松であろうか?、特徴的な枝ぶりのの木が生えている。というように見える。
圓徳院の襖32枚はこれよりは状態がよさそうなので、そちらもぜひ時間をおかず見に行きたいところである。

by Chick

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2008年11月08日

正倉院展

f83444a0.jpg今年の正倉院展は60回ということで何が見れるか期待していたが、見るべきものが少なく期待はずれの展示内容であった。特に印象に残っているのは、白瑠璃碗平螺鈿背八角鏡くらいである。単に60回というだけで、たしかに60回記念展とはなっていないので、こちらの勝手な思い込みであったが、できることなら60回のハイライトになるようなものをまとめて見せるくらいの演出が欲しかった。
演出といえば、毎回出品されるものが総花的であることも、何度か見ているうちに気になってくる。そもそも第二次大戦後、すっかり自信喪失をした国民を勇気づけるというような意図もあってはじめられたと聞くが、こんな凄いものがあるぞと毎年蔵からお宝を引き出して、見世物にするようなやり方は、もう少し早く変えてもよかったのかもしれない。
新館で開かれる正倉院展を見終わり、すなおに順路に従って歩くと、本館(奈良国立博物館)の仏像の展示室を見てから出口に至る。この常設展示が典型的な日本の古くからある博物館展示で、分類と表示をつけた退屈なメリハリのないものであり、正倉院展も少なからずその延長になっているのである。宝物を権威で見せる時代は終わっている。
最近TVをつけると、いたるところにオワライといわれる連中が出まくっている。オワライでなければタレントでないような風潮である。だからという訳ではないだろうが、今年の正倉院展には滑稽なものが二点ほど混じっていた。ひとつはヤシの器の裏に、目鼻を着けておどけた表情の顔に見せているもの。もう一つが、貂のミイラ(画像)である。宝物名は「虹龍」となっている。形が竜ににているということなのだろうか、この小龍がある故に宝庫の開検時には毎回雨が降るという伝聞もあるそうだ。ふと各地にある「河童のミイラ」「竜のミイラ」を連想してしまった。同じミイラでも正倉院に入っているものと、田舎の古寺にあるものとはさすがに違う?こんなものまで見せてもらったのだからそろそろ正倉院展も卒業するか。

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2008年10月13日

アサギマダラ

09457df2.jpg昨年見つけたキジョラン(アサギマダラの食草)のたくさん生えている場所にアサギマダラもきっといるのではないかと思い、行ってみた。はたして、5匹ほどの個体がアザミの花の蜜を吸ったりしながら、まるで自分のふるさとで寛ぐように、ゆったりと飛び交っていた。周辺にもずいぶん飛んでいたので、今日一日で見た数は10数匹にもなるだろうか。冬になると多くははるか南方に移動すると聞いているが、彼らはきっとこの場所で越冬するのであろう。

by Chick

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2008年10月12日

なぜ日本食を世界に広めるのか

偽装食品や中国の汚染食品のおかげで、再び食の安全という問題がクローズアップされている。世界的な食糧不足の恐れから、食糧安全保障といった課題も深刻である。見過ごしてしまったが、今夜、NHK日曜フォーラムでは「日本食の未来を考える〜世界に広がる和の食文化〜」という話題が取り上げられていたようだ。日本食と世界の食卓のつながりをどう深めるのかを考えるということだが、狙いがいま一つよくわからない。日本産食材の輸出促進という政府の方針に沿った動きというが、いったい食糧自給率40%の我が国に、世界にむけて大量に売り込むことができる食材なんてあるのだろうか。せいぜい米を輸出するくらいだが、米を作っているのは何も日本だけではない。
今や世界は日本食ブームである。日本の食文化が世界に広がってうれしいなどというのは、情緒的なはなしであって、実際は、世界中の人たちが日本食を食べるようになったら、せっかく世界とはすみ分けることで日本人が続けてきた食文化が、立ちいかなくなってしまうことの方が恐ろしい。世界のマグロブームがそのよい例である。
同じようなカテゴリーの動物が限られた環境で共存できるのは、餌を違えてすみ分けている場合が多い。人間はまったく同じわけにはいかないかもしれないが、少なくとも、皆が同じ食物しか食べなくなってしまったとしたら、そこには当然争いが生じることになる。
身土不二といって、生きている土地とそこで生産される食物とわれわれの身体は一体のもので、最も健康によいということだ。地のものが一番美味く感じるのは、その証拠である。桜沢如一のような食養の指導者は、日本人は古来、米を主体に生きていくのが最も自然の摂理に沿っていると説いた。自分の作っ食物だけで生きていくことは、また国同士の侵略ということをも防ぐ世界平和の道であるとも。限りある資源を有効に活かすこと、つまり飼料穀物を大量に必要とする肉食文化より、穀物そのものを主食とする米食の文化こそ、人間の最も理想とする食物である(玄米正食)という考え方を示した。
NPO法人でJRO「日本食 レストラン 海外普及推進機構」というのがあるらしい。日本食レストランを世界に進出させようということかもしれないが、日本のフランス料理やイタリア料理だって、フランス人やイタリア人だけが経営しているわけではなく、日本食レストランだってその国その国でアレンジされたものこそが普及するはずである。農水省が「正しい和食」認証制度などというおかしなものを提示して、他国の猛反発をかったらしいが、当たり前のことである。これでは、せいぜいキッコーマンや味の素の輸出量が増える程度の話ではないか。それより、世界平和のために資源効率のよい米食を世界に広めようというくらいの大きな理念のもとに日本食文化を世界に広めるというくらいのことを言って欲しいものだ。

by Chick

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2008年09月17日

蛇かご護岸

54c10f8f.jpg洪水の後に、川を見回ってみると、ずいぶんいろいろなことが見えてくる。それは、普段はあまり動きのない川の姿が、その時ばかりは急に変化するからだ。護岸が削り取られて形が変わったり、浅瀬だった場所が深い淵になっていたり、逆にいつも水が流れていたところにしっかりと砂州がついて、歩いて降りられるようになっていたりという具合である。
今は、コンクリート護岸の箇所が圧倒的に多くなっているが、まだコンクリートに代わって蛇かごの護岸になっている箇所も残っている。写真にあるのは、北浅川に見られる蛇かご護岸の箇所である。ここの場合、正確には蛇かごではなく布団かごというのかもしれない。いずれにしても、針金でできたかごの中に玉石を詰めて岸に敷き詰め、堤防の脚部が流水に削られるのを防ぐ役割をする。
コンクリート護岸になっているところは、まず見た目が美しくないということに加え、コンクリート護岸に続く下流の護岸のない部分に水衝部が移動し、新たな洗堀部を発生させ、それが次々と下流に波及し、結局護岸をえんえんと継ぎ足していかなければならなくなっていることが多い。
それに比べて、蛇かごが置かれた護岸は、もともと河道の中にある砂利を詰めているので、見た目が非常に自然であるのと、コンクリートのように水を力で押し返すのではなく、やんわりと受け止めながら防御することで、却って安定した護岸機能を発揮しているようである。
また、蛇かごの護岸は、空隙も多く水際の多様な機能を温存でき、水界と陸との間を分断しないことから、生態環境的にもさまざまなすぐれた点が多い。激しい水衝箇所で、しっかりした護岸=コンクリートと、ふつうは考えてしまうのであるが、それこそが技術的な怠慢であって、実際に起こっていること、すなわちコンクリート護岸がかえって脆弱であり、蛇かご護岸の方が意外と強靭であるということをよく理解するのであれば、浅川のもっと多くの箇所でこのような蛇かご護岸が採用されてもよいのではないかと思われる。

by Chick

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2008年09月15日

洪水の流速

9e02917f.jpg今年は夏場に一つも台風が来なかった。本当の理由は、いつもなら北にあるジェット気流が南に蛇行して、ちょうど日本列島を囲む形になってしまい、台風のシールドのような役を果たしたためだろう。そのかわり、上空に冷たい空気が入ってくるため、大気が不安定になり、頻繁に雷雨性の集中豪雨が各地を襲うことになった。いつもと違う気象現象をつい地球温暖化と結びつけたくなるが、直接は結び付きがたいのではないだろうか。
8月末に高尾山に総雨量310mmもの豪雨をもたらしたのもこういう気象状況のもとで発生している。ちょうどこの日、11時過ぎに都内から八王子へ帰るのに、高尾駅付近で線路が冠水したということで、3時間以上もかかってしまった。2時ではバスもなく、降りしきる雨の中を、ずぶぬれで歩き、3時頃にやっと家に辿り着いたので、自分にとっても忘れる事のできない豪雨となった。市内では家が土砂に押しつぶされた被害も出ていた。
洪水後の川の様子は、水位の上昇が非常に短時間であったせいか、甚大な被害はないが、鶴巻橋、高幡橋、ふれあい橋などの付近には、河床の岩やコンクリートブロックなどの大きな塊が、流されてちらばっているのが目についた。画像はふれあい橋の上流にある床止めのコンクリートブロックが流された状況である。
厚さが50cm以上もありそうな塊がやすやすと下流へ運ばれている。もし、平らな河床にこのコンクリート塊が置かれていたとして、どのくらいの流速になればこのようなことになるのかを計算してみると、コンクリートの真下の流速を0とすれば、ベルヌーイの定理でρV*V/2gに相当する力が上向きに働くことになるから、コンクリートの厚さを50cm、比重を2.3として、流れの速度は・・・・・うーん。ざっと秒速3.6m程度で、コンクリート塊の水中重量に見合うだけの揚力が発生する計算になる。ブロックが基礎に固定されていなければ、このくらいの流速で簡単に浮き上がってしまうのである。砂利が洗い流されて現れた上総層群大矢部層の砂質泥岩などは、乾湿を繰り返して堆積層理に割れ目が生じれば、早い流れで剥がされ、同様に流出してしまうことになる。
川全体を見ると、河床の砂利も砂州(砂礫堆)を形成しながらかなり移動しており、これまでの護岸工事個所以外の新たな場所が侵食され始めている。人工的に成形された流路に、川が自ら形作る砂州が重なって、本来のきれいな砂州の形状にはなっていないところがあるが、このような洪水をいくつか経験することで、砂利が全体に下流へと移動しながら瀬や淵からなる本来の形状をとりもどしていくだろう。ただし、そのたびに上流の河道は洗堀されて砂利が姿を消し、浅川らしい姿は失われていってしまう。

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2008年09月09日

松本通い

169ee3e9.bmp最近、頻繁に松本通いをしている。松本では、9日に幕を閉じたサイトウキネンフェスティバルが、毎年開催されている。一度は行ってみたいと思いながら、人気プログラムはチケットの入手困難もありなかなか実現しなかった。今年こそは、何とかそのチケットを手に入れようと、インターネットを通じて発売開始の情報を探していたら、たまたま6月に信州松本大歌舞伎と称して開催された平成中村座の公演【夏祭浪花鑑】のチケット販売の日であった。これさいわい申込みをしたところ、運よくチケットが手に入ってしまった。そこでまずは、勘三郎の意欲的な歌舞伎を見に松本へ行くことになった。しかしその後、肝心のサイトウキネンのチケット発売日をうっかり忘れてしまって、今年もまた行くことができないなと諦めかけていたのだが、ヤフオクを覗いてみたらオークションに小澤征爾指揮のコンサートチケットが何枚か出ていた。どんなルートでも手に入ればこっちのものと、なんとか1枚を入手した。
今年どうしてもサイトウキネンへ行くことにこだわったのは、主役である小澤征爾の体調があまり良くないようで、歳からしても、いつ引退となってもおかしくないかもしれないと考えたからだ。今年は、8月の松本に備えたのであろうか、5月6月の公演やヨーロッパツアーを腰痛でキャンセルしたようだ。運よく同じ時代にすぐれた芸術活動をしている人の作品を、一度も体験しないというのは、なんとももったいないという気がしたのだ。それが、小澤征爾にもっともゆかりの深い松本のサイトウキネンで見れるのは願ってもないチャンスである。
そんなわけで、昨日午後、車で片道約2時間余を走って出かけた。マーラーの「巨人」他の演奏は、しばらく生コンサートを聴いていなかった耳には、非常に心地よく鳴った。式台には万一腰痛で立っていられなった場合にそなえて、鉄製の補助器具がつけられていたが、小澤はそれに頼ることなく指揮を続けた。
まあ、都内に出かけても2時間近くはかかるわけで、地方都市松本にコンサートや歌舞伎を見に通うのはそれほどおかしなことではない。いや、むしろ都内で人の集まる場所にありがちなギスギスした感じが一つもなく、ゆったりとした雰囲気でそれを楽しむことができるが素晴らしい。夜の公演が終わって、遅めの夕食を食べて帰っても12時には家に戻ることができる。
このほかにも、5月に市内あがたの森公園で開かれるクラフトフェスティバルにでかけたり、八ヶ岳から安曇野あたりに行くときに、近くの浅間温泉などに泊まったりということで、今年は松本には何度となく通っているという次第である。以前は、登山やスキーのとき以外は、松本に行くことなどなかったのであるが、それが実はなかなかの文化都市なのである。

by Chick

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2008年08月21日

今年は山水

3838b253.jpg8月半ばで終了した、東京国立博物館の特別展「対決 巨匠たちの日本美術」は、題名からして人々の興味をそそる企画であったのだろう、37日間で32万人余の観客が訪れたらしい。オリンピックイヤーの夏は対決気分の夏でもある。対決させられた?巨匠は、運慶・快慶、雪舟・雪村、永徳・等伯、光悦・長次郎、宗達・光琳、仁清・乾山、円空・木喰、大雅・蕪村、若沖・蕭白、応挙・芦雪、歌麿・写楽、鉄斎・大観の13組であった。
さすがにすごい作品がずらりと並んだが、一見、統一感は無いわけで、人によっては見ている内に頭が混乱したという話もあった。が、今回は、永徳・等伯と大雅・蕪村の組合せが特に気になっていたので、山水画ないしは日本画を中心に見たおかげであまり統一感がなかったという印象はない。
今年4月から6月までMIHO美術館で開かれた特別展「与謝蕪村−翔(か)けめぐる創意(おもい)」で、たっぷり蕪村の山水画(文人画)を見てちょっと消化不良を起こし、日本の山水画ないしは文人画の行方について松岡正剛著の「山水思想」をじっくり読んでいたところに、まるで教材をそろえてもらったようなこの夏の東博の特別展はとても有り難かった。しかも、この本に画像で紹介されている長次郎の黒楽茶碗「銘俊寛」や鉄斎の「妙義山・瀞八丁図屏風」や永徳の若描き「花鳥図」(大徳寺聚光院)なども直接目にすることができた。
MIHO美術館の特別展は、開催期間の最終週にだけ蕪村の三横物と呼ばれている「夜色楼台図」「富岳列松図」「峨嵋露頂図」が勢ぞろいするというので、とうとう6月始めに出かけることにした。石山駅から約1時間のバスはさすがに満員で立ちっぱなしだった。以前来た時には、1台のバスに数人しか乗っていなかったのに、蕪村はこんなに人気があるのかと驚いたものだ。この時、初めて紹介された銀地の屏風に描かれた「山水図屏風」は、東博でも後半には展示されていた。MIHOでは、展示換えで見ていない「鳶鴉図」には東博で出会えた。さらに、MIHOで見ていない十宜図の「宜暁図」も。なんともうまいく短期間にこれはという画に多く出会える年になった。
「山水思想」の中心的なテーマとなっている「雪舟から等伯まで」の雪舟と等伯、その等伯の「松林図屏風」、等伯のライバルとしてこの本にも取り上げられている永徳の「檜図屏風」が、がならんでいる様子は、それだけで十分見に行く価値のあるものであった。もともと中国から禅などと一緒に入って来た山水画が日本化した象徴的な作品として取り上げられている等伯の「松林図屏風」とはこれで二回目の対面だ。
蕪村の絵には、洒脱な俳画顔から本格的な中国風の山水画までさまざまな作品がある。初めてMIHOでまとめて見た時はそれに戸惑いを感じたが、中国の明後期の絵画を盛んに取り入れていた江戸時代は、文人達が(特に蕪村は俳諧と文人画で生計を立てていたらしいので、新しいものを貪欲に取り入れる必要があったのだろうが)取り入れた文化を真似るだけでなく、日本感覚に再編集することに盛んに取り組んでいた時代なのだということがわかってくると、すべてが蕪村の作品で少しもおかしくないということになってくる。
この分だと、今年はまだしばらく蕪村との縁が続きそうな気がする。

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2008年07月21日

ミソサザイ

fe915f36.bmpある日高い場所から国を見渡して、民家から煙が上がっていないのに気づき、民衆が煮炊きもできないほど貧しくなっていると考え、以後3年間税金を取るのをやめたという話で有名な仁徳天皇は、大雀命(おほさざきのみこと)とも呼ばれた。「さざき(鷦鷯)」とはミソサザイのことである。
仁徳天皇が生まれた日、武内宿禰の家にも子供が生まれ、それぞれの家に木菟(づく)とサザキが舞い込んだ。両家にあった瑞祥に、互いが吉兆を交換したため、仁徳天皇はオホサザキの命と名づけられたそうである。
西洋でも鳥の王とされ、君主や王の意を含む単語が用いられるらしい。鳥達が一番高く飛び上がることができるものを王様に決めることとなった時、ワシの首に捕まって飛んだミソサザイが、ワシが一番高いところまで行ったところでさらに高く飛び上がったので、鳥の王となったというスコットランドの民話などが元になっているのだろうか。
グリム童話にも、ミソサザイとクマという話がある。鳥の王といわれるミソサザイの家を見て笑ったクマに戦いをいどみ、キツネやウシやウマなどを味方につけたクマに対して、鳥やハチなどを見方につけたミソサザイが勝利するという話だ。その他にも、鷹と強さを競うことになってしまったミソサザイが、鼻の穴(または耳の穴)に飛び込んでイノシシをやっつけるという話しなど多くの言い伝えを持つ小鳥である。
日本でもっとも小さな鳥の一種で、体に似合わず谷中に響き渡るような大きな声で囀る。尾羽をピンと立ち上げた姿は、高貴な印象を与える。この小さいながらも特徴のある尾羽の印象や生態が数多くの話に通底する初源的なイメージになっているようだ。
ミソサザイという名はどうだろう。ミソは溝で、サザイはささいのこと、溝のような谷に住むささいな(小さい)鳥を意味するとか、ミソは味噌の色をしているからだとか、まことしやかな説明もあるようだが、そんなはずはないであろう。サザとは、ざわめく様子、サザキとはさわぎであろう。今でも大騒ぎをオオサザキ、空騒ぎをカラサザキなどというところもあるようだ。谷中に響き渡るような大声で騒ぎまくる様子は、まことにサザキという名にふさわしい。

by Chick


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