聖霊と火とによるバプテスマとは何だろうか?


これら二種類はまるで正反対の結果をもたらしたが、この頁では「聖霊のバプテスマ」とその意義、そして、「火のバプテスマ」がそれぞれ何を意味するかを書き出してみよう。



さて、その言葉はマタイ3:11とルカ3:16にある。


では、バプテストのヨハネの述べた「わたしはあなた方(ユダヤ人)に水でバプテスマを施すが、わたしの後から来られる方はあなた方に聖霊と火でバプテスマを施すであろう」と言ったこの件の意味について記したい。

バプテストのヨハネが、モーセの律法契約にあったユダヤ体制の終わりを印付ける仕方で現れ、ヨルダン川の水を用いてユダヤ人のみに「悔い改めのバプテスマ」を施した意義について、およびキリストの水のバプテスマについては、以前の拙文「バプテスマの意義は・・」を参照されたい。


本稿ではヨハネによって予告された「聖霊と火とによるバプテスマ」の意味は何かを明らかにしたく思う。



-◆聖霊のバプテスマ--------


まず、「聖霊と火」の「聖霊のバプテスマ」の方の実体が何かということのはじまりを言えば、これはイエスが刑死を遂げて弟子らの見守る中、天に戻ってから十日後、ユダヤの祭礼である五旬節つまりペンテコステ(シャヴオート)の日の午前に起こった事柄を以って「聖霊」のバプテスマが開始されている。(初学の向きは使徒言行録2章を参照されたい)


そこで起こったことは百二十人ほどの弟子の頭の上に見える「火の舌のようなもの」がそれぞれに配られ、彼らは様々に異なった言語で「神の壮大な物事」を語り始めている。それは個人的な神秘体験という心理作用の範疇を超えて、誰の目にも明らかな奇跡であり、ナザレのイエスをメシアとして知らせる力強い布告の、世界に向けた開始であった。


即ち、モーセを仲介者としてイスラエル民族と結ばれた契約は、キリストを迎えて大きな転換点にあったのである。


そのとき、ペテロはその奇跡に見入るユダヤ教徒らに向かってこう言っている。

『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。』(使徒2:33)



だが、バプテストの語っていた『聖霊と火とのバプテスマ』の『火』を、このときの『火のような舌』の『火』と同じく見做して良いものであろうか?

これについては以下に見るように、「聖霊のバプテスマ」にせよ、「火のバプテスマ」にせよ、バプテスマを施す人として現れたヨハネの真意を探ってゆくと、そこにはっきりと見えるものがある。 


さて、シャヴオートの日に聖霊が降下するに際し、非常に強い「大風が吹き付けるような轟音」が響き渡ったので、祭りのために都に登っていた外地からのユダヤ人たちが、何事かとイエスの弟子らの居る場所に大勢集まってきた。(ヨハネ3:8)


既にユダヤ内地の者らは、メシア殺害を通してその大方の態度を表しており、そこで神の福音は外地(離散)のユダヤ教徒に向かい、その注意を促してゆく。(使徒2:5)

彼らはそこにいる百二十人ほどのガリラヤ人たちが、自分たちのそれぞれの居留地の外国語で、神の事柄を話しているのを聞いて大いに驚いた。


これはその後「異言」(グロソラリア)と呼ばれる超自然の能力で、「聖霊の語らせるまま」に外国語を話す「賜物」である。

パウロの言から分かることは、この『異言』という賜物は没我のトランス状態や熱狂に入るものではなく、当人の制御できるところのものである。(コリント第一14:14-)


使徒言行録のこの日の事は本当に起こったことではないと断ずるなら、以後のキリスト教はもはや真正な存立をみることができないほど重要な事象なのである。

多くの人々が、この五旬節の出来事を以ってキリスト教の出発点と看做すほどである。(フランスのジャン・ダニエルーをはじめ、歴史・教父学者はグロソラリアが実際にあったと想定している)


これがバプテストのヨハネによって語られていたキリストによる「聖霊と火」の「聖霊」によるバプテスマである。



-◆聖霊のバプテスマの意義----------


聖霊降下の意味するところは、モーセの律法によってユダヤ=イスラエル民族の中に取り込まれていたヘブライの崇拝が、新たな契約によって諸国に向けて広げられる予兆、また神の意図であろう。(ルカ13:29/使徒10:35)


復活後の主イエスはこう言われている。

『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』(使徒1:8)


聖霊降下の出来事は、本来アブラハムの子孫であるイスラエル民族のためのものであり、キリストの世代が終わるまで、エルサレム神殿でが存在し、神への崇拝が行われてはいたが、その間に、キリストの犠牲が一度限り捧げられ、律法墨守のユダヤ体制に聖霊が降ることは遂に無かったのである。(ダニエル9:27/ヘブル7:27)


だが、ヨエルの預言が語るように、イスラエルの子孫は霊を受けることにより、祭司や預言者でなくとも平民も女も若い者から奴隷であれ霊を受けて預言をするという奇跡が、あのシャヴオートの日から成就した。それはイザヤも預言していたところであった。(ヨエル2章/イザヤ44:3)


そこで、あの五旬節の日から、新たな崇拝の方式が興されている。

そのときには、まずユダヤ人のためにこの新しい崇拝へと門戸が開かれていたので、神殿での古い崇拝も並行して存在してはいたが、その旧来の律法体制に聖霊が注がれることはなく、むしろ霊が示すように、新たな崇拝はイエス派の中に始まっていた。(使徒4:27-31/ヨハネ4:21-23)


それがユダヤ、サマリア、世界へと次第に広がったエクレシアの場を通し、聖霊の奇跡が行なわれる、より高度な崇拝方式で始まりであった。 即ち動物の犠牲によるモーセの神殿祭祀が終わる時期となる一方で、一度限り捧げられたキリストの犠牲は、『霊と真理をもって崇拝』する時代を到来させたのであった。(使徒1:8/ヘブル8:7)


即ち、キリストがサマリア人の女に語られた『この山(ゲリツィム)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』との言葉の通りとなったのである。


 

さて、エクレシアで聖霊のバプテスマを受けた者たちには非常に多くの恩寵がもたらされた。

彼らには、この異言の賜物ばかりでなく、その異言を「翻訳」する賜物、「預言」といって神からの言葉を授かり、将来に起こることを予告したり、人の秘密を知ったりする能力もあった。更に使徒らには強力な癒しの能力が与えられ、ペテロやパウロは死人を生き返らせてもいるのである。即ち、予告されたようにキリストの業は使徒や直弟子らの中に継承されたのである。(コリント第一12:7/14:24/ヨハネ1:47-)


また、「知識」の賜物を通しては、新たな教義に関する情報を得たのであろう。

こうした様々な能力はもちろん本人に属するものではなく、文字通りに「賜物」であり、まったく上から与えられたものである。『真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』と主も予告されたようにである。(ヨハネ16:13)


この格別の『聖霊』の注ぎについては、以前から将来に起こる事としてヨエルやイザヤなど旧約の預言者らも「回復の預言」の中に指し示していたのであるが(ヨエル2章/イザヤ44章)、イエスは自らの弟子たちに与えられることになっていたこの『聖霊』を予告して、弟子たちの「助け手」(「パラクレートス」)と呼んでおり、これが彼らに師の業を続行させ、真理を教え、主の言われた言葉を思い出させるとも言っている。(ヨハネ14:16/26.14:26)


しかし、意義はさらに大きく、そのことをイエスはヨハネ福音書3章でこう言われる。

『水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることができない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である』(ヨハネ3:5)


この言葉は、コリント第一の手紙15:49に通じるものであり

このようにある『我々は塵で造られた者の様相であったように、天の者の様相を帯びるのである』


また、使徒のヨハネはその第一の手紙で『彼(イエス)が現されるときに、我々も彼の様になることを知っている』と言う。(3:2)


これに調和するように、ペテロの第一の手紙では『肉体における残された時を・・神の意志に従って生きる・・』ことを記している。(4:2)

聖霊を授かることはいずれ肉の体を後にし、霊者としての新たな命に入るというのであるから、これは徒ならぬことである。(コリント第一15:50-54/ペテロ第一1:23)


つまり、彼らは人間としては必ず「死」を経なければならない。・・このことを訝る方がおられるのは承知している。

言うまでも無く一般の常識では、人は必ず死ぬからである。


ではあるが、聖書では死を経験しないで済む人々が存在するのである。イエスは兄弟を亡くしたマリアにこう言った。『生きていてわたしに信仰を持つものはけっして死ぬことがない』(ヨハネ11:26)

これは終末の時に生きている人々のことを言うのであるが、人の世界では達し難い事ではあるけれども、人の常識がすべてなら神は無用であろう。(マルコ12:24)


一方で、聖霊を受けた弟子は霊の生命に移るに際し、肉体においてまさしく死を迎え、アダムからの命を必ず捨てなければならない。これをパウロは『キリストへの死のバプテスマ』と呼んだ。(ローマ6:3)

バプテスマにおいてキリストと共に『葬られた』のは、『水と霊から』キリストの復活された永遠の命によって『再び誕生』し『共に生きる』ためであり、この聖霊を受ける弟子たちが、将来に肉体から霊体へと移り変わる定めを受け入れたことの象徴表現と言える。(ローマ6:4) ⇒「無酵母パンから生じるエクレシア」


何ゆえ、このように人間であることを止めるべきかについては、神の「人類全体が、神の創造物(子)として立場の回復する」と定められた期間における、全人類の支配や贖罪の計画、即ちキリストの宣教の主題であった『神の王国』、それが聖霊のバプテスマを受け『新しい契約』に入る弟子らに関係しているのである。(ヨハネ1:12/エフェソス1:10/フィリピ2:10)⇒「キリスト教の目的」



-◆『天の王国』に召される聖なる者ら

 

この全人類の祝福となる人々は「アブラハムの子孫」と呼ばれる。

なぜなら、早くも創世記に於いて、神はアブラハムにこのように言われたからである。

『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)


即ち、アブラハムの子孫イスラエルが、他の諸国民の祝福する選民となるのであり、それこそが『諸国民よ!主の民と共に喜べ!』というよく知られた聖句の真意である。

彼らアブラハムの子孫は地上の神殿ではなく、キリストを隅石とする、聖霊を受けた『聖なる者ら』という石で構築される天界の新たな神殿となって、将来に人類全体の罪の赦しを備えるということである。(ペテロ第一2:4)


だが真実のイスラエルとは血統上のイスラエルを意味しないことはパウロが語るところであり、こう書いている。

『イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではない』(ローマ9:6)


このユダヤのメシア信仰の拒否が何をもたらすかについては、やはりキリスト自身も血統のイスラエルに警告していたことであった。
『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』(マタイ8:11-12)


その一方で、使徒パウロはまったくイスラエルでなかった異国の弟子らにこう書いている。

『あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である』(エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)


何が彼らのような非イスラエル人を、聖なる民としたのだろうか。パウロはこうも記す。

『あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対する信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。』(テサロニケ第二2:13)


つまり、聖霊を受けた彼らこそが真にイスラエル、全人類の祝福となるという「アブラハムの子孫」であり、律法によらず信仰によって神に選ばれた『神のイスラエル』という血統のユダヤとは異なる新しい神の選民、人類の中からの初穂として、人類より一足先に救いを得た、格別な役割を担う民となるというのである。(創世記22:18/ローマ4:12/ガラテア6:6:15-16)


神は、アダムが最初に享受していた創造者との自由な「子」の関係に全人類を復帰させるために、自らの創造の初めである「初子」を仲介者として立てた。この仲介者がまず人々の間に宿りキリストとしてユダヤに来られた。(ヨハネ1:12/コロサイ1:15-/テモテ第一2:5)


人類には神との間を隔てる「罪」(原罪)の壁がアダムの時から存在しているので、人は生きる限り無罪では済まず、神とは断絶状態にさえある。(ローマ6:7/イザヤ59:2)

そこで、キリストと共なる新しい選民『アブラハムの裔』が存在する意義がある。



-◆世の罪を除き去る祭司団 -----


モーセの律法が動物の犠牲を要求したのは、あらゆる人間には「罪」があり、犠牲を介さなければ神に近付き得ないことを教えるものではあったが、エルサレムの神殿の祭祀は人の罪を実際には浄めることはなかった。(ヘブル10:4)

だが、『罪』からの清め無くしては、世界の人々を祝福する『聖なる民』また「アブラハムの子孫」も現れないことになってしまう。


しかし、エルサレム神殿の崇拝方式が模型のように指し示していた真実な実体があり、それがキリストを大祭司とする天の祭司制度であって、即ち、実際に人の罪を浄め、『神の子』へと復帰させる『神の王国』という手段である。(ヘブル8:5)

そこで、聖霊を受けた聖徒らが『キリストを親石に』『神殿の石となる』といわれる理由が生じる。(ペテロ第一2:4-5)


これがまさしく、キリスト・イエスが『神と人との間の仲介者』と言われる所以である。(テモテ第一2:5)


神はキリストを任じ、千年続く『神の王国』を樹立して、これが生ける人々を罪から贖うための手段とされるのだが、この「王国」の、アダムからの人類の罪を赦すシステムは、モーセの律法の中、ユダヤの祭司制度の中に動物の犠牲を通して模型的に予告されていたのである。(黙示録20:6)


そして『新しい契約』に預かることで、『聖霊』のバプテスマを受け初めに清められた人々がいる。キリストの弟ヤコブは、彼らを『人類の初穂』であると記している。(ヤコブ1:18)

こうして彼らの天にゆく理由もはっきりと見えてこよう。即ち、彼らが天で大祭司キリストの下で祭司となって地上に残る全人類の贖罪に貢献するということである。使徒ペテロは、『聖霊に浄められた』弟子らを確かに『祭司』と呼んでいる。(ペテロ第一1:2・2:9)


キリストの地上での宣教も、ただ信者を募ったのではなく、これらの「祭司となるべき人々」を集めることにあったが、それこそは『地上のすべての支族が自らを祝福する』というアブラハムの末裔『神のイスラエル』『祭司の王国、聖なる国民』をまずキリストの宣教の業においてパレスチナのイスラエル民族から集め始めていたのであり、それは単に信者を集める宣教ではなかった。(使徒13:46-47)


しかし、血統上のユダヤはメシアと共にアブラハムの末裔を集めずに却って散らし、イエスを信じる充分な人数をユダヤ体制は出さなかったので、エルサレムは、このように主から指弾されている。

『めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』(ルカ13:34)


ユダヤ教の体制派が、どのように集めるキリストを妨害したか、といえば、それは聖霊による奇跡を悪霊の頭の業だと誹謗し、信仰を働かせるユダヤ人が現れることを邪魔したことによる。

そこで主イエスはこう言われたのである。

『わたしの味方でない者は、わたしに反対するのであり、わたしと共に集めない者は、散らすのである。』(マタイ12:30)


聖霊が使徒らや初代の弟子らにもたらす奇跡の業が、まさしくユダヤ体制派の嫉妬を買っていた様は使徒言行録に明らかであり、使徒らが宣教に赴いた外地のユダヤ教徒らからさえも反対を受けたことが同じく記されている。


そこでキリストの業を受け継いだ使徒らは、ユダヤ教徒を後にして諸外国への宣教に向かうことになる。その宣教も、ただ信者を募るものではなく『アブラハムの末裔』を集め出すという意義深い目的があった。


それであるから、パウロはバルナバと共に宣教を妨害する外地のユダヤ人にこう言い放ったのである。

『神の言葉は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから向きをかえて、異邦人たちの方に行くのだ!』(使徒13:46)


そして「イスラエル」という本来人類の祝福となる民の不足する人数を満たすために『接木』が行われる。

即ち、初期の弟子らの宣教の目的は、異邦諸国民から信仰ある人々を『神のイスラエル』に集め召し出し、『諸国民の光』となる『神の王国』を目指すことにあった。(ローマ11章)

この点で、使徒ペテロは主から授かった『鍵』を用いて、異邦人にも聖霊が降るよう取り計らっている姿が使徒言行録に見える。(使徒1:8/8:14-16/10:44-47)


こうして天界の大祭司キリストが従属の祭司となるべき人々に天から聖霊を注ぎ、その人々は聖霊の奇跡の賜物によって浄められ、「罪」を許され、人類に先立って『神の子』と認知されるに至った過程はレヴィ記16章の『贖罪の日』の取決めの中に予型されている。


即ち、律法で定められた『贖罪の日』の儀式では、まず大祭司自らの罪を牛の血によって除き、次いで従属する祭司たちの罪が贖罪され、そうして後、これら祭司団の働きによって民の全体が贖罪に預り、こうしてすべてが神の御前に「罪」を許されるという図式があった。


つまり、『新しい契約』は、大祭司キリストと従属の祭司団を天に召して、聖霊を受けた人々で天界の神殿が構成される将来に『神の王国』という、全人類の贖罪を行うアブラハムに予告された一大事業に乗り出すことになるのである。その人類の祝福は、創世記で繰り返し神がアブラハムに言われていた通りである。(創世記22:18/コリント第二5:19)


そこで新約の民、聖霊を受ける人々こそが『選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民』と使徒ペテロが言うのである。つまり、モーセの律法契約が目指した『聖なる民』の出現は、キリストの『新しい契約』によって遂に実現し始めたことを使徒たちが知らせているのである。


使徒ペテロは、当時の聖霊を注がれた弟子たちについて、『あなたがたはサラの子になった』とも言っている。それはつまり、真実のアブラハムの子孫となったと述べているのである。(ペテロ第一3:6)


しかし、これは誰でも信仰を抱けばそうなるというわけではけっしてなく、それが契約である以上『多くを委ねられた者には多くが求められる』のであり『入ろうと努めながら入れない者は多い』とも主は言われている。(ルカ12:48/マタイ22:14)


したがって、キリスト教徒が聖霊を受けることは人類全体の『贖罪』の始まりに過ぎず、聖霊を受けることがけっして最終目的の「救い」なのではない。彼らは天でキリストと供なる祭司団また王たちとなるために(黙示録20:6)、人類に先立ってアダムからの罪をまったく贖われる必要があったが、肉体のままではその「罪」が消えることはない。地上に肉体で残る人類のために、聖霊を受ける者らの天での奉仕が必要なのである。(ヤコブ5:16/ヨハネ第一1:8)



-◆聖徒の立場と義務 ------


そこで『新しい契約』が、聖霊の印ある者についてのみ、地上での「義」と「救い」の仮の承認を彼らにもたらしたのである。その代価が貴重なキリストの血であった。(エフェソス1:13-14)

それゆえ、使徒ヨハネが『まだイエスは栄光を受けておられなかったので、霊はまだ下っていはなかった』と述べた理由は、聖霊の注ぎがキリストの犠牲の死の栄光を要したからに他ならない。(ヨハネ7:39)

確かに『水と霊から生まれる』『聖なる民』が、人類からの『初穂』と呼ばれるに相応しい。彼らは『キリストに在って生き』、イエスを『とこしえの父』とした。(ローマ8:23/ヤコブ1:18)


それで、聖霊を賜った「聖なる者ら」に『有罪宣告はなく』(ローマ8:1.30)、その『救い』も聖霊を通して既に開かれている。しかし、それは『聖なる者』として相応しく生涯を終えるという条件付きのものであり、「契約」とは常に不確定な事柄について締結されるものである。


そこで彼らは、『その召しに相応しく歩む』(エフェソス4:1)ことが求められており、一定の道徳規準を満たし、レヴィ族の祭司のように聖なる者であるべきで(コリント第一6:9-11)、『狭い戸口から入るように努める』べきである。(ルカ13:24)


その『新しい契約』は『聖なる者』らを天へと召すものであるから、当然に聖い状態で『染みも傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるよう』に生涯を終えるべきであり、彼らは死に至るまでのキリストへの忠節を全うし、全人類を贖い、治めるに相応しいことを実証することが要求されている。(ペテロ第一3:14/黙示録2:10)


つまり、彼ら『聖徒』の務めは人類の贖罪と、その間の管理(支配)ということができる。彼らは主と共に『神の王国』で『千年の間支配する』のである。(コリント第一4:8/エフェソス1:10/黙示録20:6)


それに対して、バプテスマを受ければ誰でも「聖霊」を受け、キリストが内住してくれて、自分を幸福へと導いてくれるという教えは、根本において正反対である。なぜなら、関心の対象が神の全人類への救いの大志から、身近な自分たち自身の幸福に置き換えられるほどに異なってしまっている。つまり、利己心か、利他心かというほどに『聖霊』の見方ひとつで、その信仰の精紳は根本から異なるのである。



さて、信徒の中でも『聖霊』に与る選ばれた者は、大祭司キリストと共になる祭司となる人々であるから、キリストと霊の体を共にする象徴として『主の晩餐』でパン種のないパンを分け合い、誰よりも早く最初に罪(原罪)を相殺される象徴として、また『新しい契約』の発効させるために必要な『犠牲の血』を表すところの葡萄酒を飲み合うのである。(ヨハネ6:53-58/ヤコブ1:18/出埃24:8/ローマ8:1)


その『新しい契約』は、彼らが地上でアダムの命を持つ「肉」の状態である間から「義」を信用貸しされるためのものである。(コリント第二5:10)それゆえにも彼らは『聖なる者』(ハギオス)と聖書中で呼ばれるのである。

つまり、天に戻ったキリストは、自らの犠牲を携えた大祭司としての最初の贖罪を、従属の祭司となるべき彼らに行ったので、聖霊の賜物を受けた聖徒らは人類に先立って『義』を得て『救われた』状態に入れられるのである。(マルコ14:22/ヨハネ6:56)


彼らは『召された人々』(ヘブル9:15)アブラハムの『相続財産を受け継ぐ者』(ローマ8:17)『聖なる者』(あるいは『聖徒』)(エフェソス1:1)『キリストに与えられた者たち』(ヨハネ17:24)であり、ペテロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と指摘したように、律法上のレヴィ族のような『神の特別な所有に帰する民』である。(申命記26:19/民数記3:12)

彼らの『神の子』としての身分の証しは注がれた『聖霊』であり、死後キリストと共になる事への事前の保証(手形)であると、パウロが異邦人に宛てたエフェソス書簡に明言されている。(エフェソス1:13-14)


終末に、キリストの「臨御」(パルーシア)が起こり、主が象徴的に地に帰還した後、聖徒として死んで眠っていた者らには天で霊の体に再生することを許される者があり、地上では聖霊を授かって生きている者らも(今は居ないようだ)、承認を受けた者は直接に肉の体を解いて天に行き、そこでイエスと共になるよう召されることになる。こうして集められる『アブラハムの裔』はキリストの許に集合し、いよいよ人類を贖罪する『神の王国』の千年支配の始まるを見るというのが、聖書全巻に亘る奥義となっている。(テサロニケ第一4:14-/ダニエル12:2)


キリスト教徒は終末になると、誰でも天に召されるということにはならないが、聖霊を受けなかったならとて、地に残されることを何も恐れる理由もない。やがて『神の国』の贖罪に与ることができるのである。しかし、聖霊があってなお地に残されることは「新しい契約」不履行の罪を恐れなければならない。(マタイ24:40-41)


天に召される聖霊ある人々は、肉体という『幕屋』を解いてキリストの御許に集められるが(コリント第二5:1-)、それは新たな誕生となり、霊の身体を得てキリストと共に生きる者となるという。(ローマ8:1-2/15-17) 


それゆえ彼らは『キリストの兄弟』であり『共同の相続人』であるとも言われる。(ヘブライ2:10-17)

だが、『神の子』 の立場は彼らだけでなく、神がアブラハムに告げられたように、最終的には『神の王国』の贖罪を通して全人類にも差し伸べられるものである。(ヨハネ1:12)


このように、「聖霊と火」の「聖霊」でバプテスマを受けるとは、「人類の贖罪」というキリスト教の根幹たる神の御旨に祭司として預かることを意味するのである。(ヘブル2:3-4)



-◆火のバプテスマ-----------


さて、聖霊に対する『火のバプテスマ』については、もう一度バプテスマのヨハネの言葉に戻り、その続き見てみよう。


『その方(イエス)の手には煽り分ける道具があり、ご自分の脱穀場をすっかり掃き清めると、小麦は蔵に納め、籾殻は消えない火で焼き払うであろう』(マタイ3:12)


これはユダヤ人に対する痛烈な警告である。

ヨハネはまたこうも言っている。

『 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。』

『斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9-10)


アブラハムの嫡流子孫であるユダヤ人にこそ、正統に千年王国のキリストに伴う「王なる祭司」の「聖なる国民」となる機会が開かれていたが、当時のユダヤ体制の『ねじけた世代』は却ってイエスを退けることによって、血統上のユダヤ民族全体としてはこの類まれなアブラハムの遺産を遂に放棄するのである。(創世記12:3)

その原因は、アブラハムの子孫には不似合いな『不信仰』であった。(ルカ22:67)


もちろん、これらメシアを拒絶した多くのユダヤ人の上に聖霊の降下は無かった。

あのペンテコステの日に、ペテロが『バプテスマを受ければ聖霊に与る』と語った相手は信仰を抱いたユダヤ人であり、すでに律法契約にあり『契約の子ら』であるとペテロもそこで言っている。彼らこそはイスラエルであり、イエスをメシアとして信仰を持つことで、そのままに『新しい契約』に移行でき、『救われる』状態にあった。(使徒2:38-39)


だが、大半のユダヤ人はこれほどに有利な立場をアブラハムから相続していたにも関わらず、イエスをメシアとして信仰せず、水のバプテスマを経て聖霊のバプテスマに至った人々は僅かで、むしろ、体制としてのユダヤのその不信仰な『世代』には、『アベルから祭司ゼカリヤ*まで』の殉教者らの血の清算が求められたのである。(*歴代第二24:22/ルカ11:51)



-◆ユダヤ体制という籾殻に臨んだ火のバプテスマ


その世代のうちに起こった恐るべきこと・・

それはイエスの刑死から『この世代』の内に、即ち四十年を経ない西暦七十年に到来した。(マタイ24:34)


ユダヤとガリラヤ、そしてエルサレムがローマ軍に徹底的に蹂躙され、美麗なる聖都であったエルサレムは更地のように破壊され、神YHWHの神殿は火炎に包まれて以後再建されていない。ユダヤ人は『剣の刃に討たれ、奴隷となって諸国に売られ』、以後は流浪の民となってしまった。(ルカ21:22-24)


それまで存続していたモーセの律法制度による神殿での動物の犠牲を中心とした祭儀は、神殿の破壊と共に終了を余儀なくされたが、その以前にキリストの犠牲が、既に神殿の祭儀の意義を失わせていた。(ヨハネ4:21/ダニエル9:27)


そして、「バプティゾー」が「浸す」を意味するように、ユダヤの律法による千年以上の永きにわたった体制も、『火』に浸されたことになる。つまり、全き滅びを被ったのであった。


モーセの崇拝体制は神殿のないままに今日まで二千年を経ても未だ再興されていない。既にキリストによる『霊と真理による崇拝』に置き換えられたからであれば、今後も地上の神殿と動物の犠牲も再開はしないであろう。例えもし、神殿が再建されるような事があったとしても、キリストの犠牲の後に、今更に動物を捧げるどんな意味が残っていよう。(ルカ19:41-/23:28-/マタイ24:2/ヘブル10:1-4)


メシア殺害があって後、律法の警告の預言は成就し、遂に『約束の地』はこの民族を『吐き出す』に至ったのであった。(レビ20:22) 


それはバプテストの言う『籾殻が焼き尽くされ』たかのようにである。

こうして「火のバプテスマ」の方が理解される。

 

ユダヤ祭司体制の終焉は、モーセが命じた『繰り返し捧げられる動物の犠牲』を終わらせ、一方で、神は大祭司キリストに基づく天の神殿での贖罪を開始させていた。即ち聖霊を降下させ従属の祭司らを集め始めたのであった。キリストが「集めた」者、また「父から与えられた者」とは、真の意味での『アブラハムの子孫』であった。(ルカ19:9)


爾来、「火のバプテスマ」によって聖域を失ったユダヤは、律法の完全な履行が明らかに不可能となってしまった。ユダヤ教徒たちはその後もメシア=キリストを待ち続けているが、二千年後の今日までメシアは現れてはいないし、神殿も失われたままである。例え再建されたとしても、既にキリストの完全な血の犠牲が捧げられた以上、今更、動物の血の犠牲は「退行」にしかならず、キリストによって更新された天界の祭司制度に無益に抗うものにしかなり得ない。もはや、神は何者の血も求めることはない。(ヘブル9:25-26)


だが、ナザレのイエスをキリストと認め信じるユダヤからの人々は、キリストの預言の『山に逃れよ』との言葉に従い地上のエルサレムを見切って「山地」デカポリス地方に避難した記録があり、この神殿と律法体制の処断の「火」を免れている。(マタイ24:16)

そうしてユダヤ体制への神の決定的断罪と絶縁から逃れ出、その以前に「小麦」として「蔵」に納められるべきものとされていたのであった。(マタイ3:12)

穀粒と籾殻の違いには、まことに大きな差があるもので、エレミヤ書で神は『夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか』と言われる。(エレミヤ23:28)
真実と偽りの預言者ほどに異なると言われているのである。


そして、その聖霊降下の始まった時期にはユダヤの体制の終わりが近付いていた。ユダヤはメシア拒絶により律法体制はその契約の辿り着くべき目標を見失ってしまった。それは聖霊の降るときに『日は暗く、月は血に変る』というヨエルの陰鬱な言葉に相当するであろう。(ヨエル2:30-31/使徒2:17-21)


しかし、その中からでもヨエルの言うように『シオンの山とエルサレムとに、逃れる者があるからである。その残った者のうちに、YHWH*のお召しになる者がある』。(ヨエル2:32)*発音不明の神の御名


この人々が前記の『聖霊と火』の「聖霊」でバプテスマを受けたユダヤの人々である。一方で『火のバプテスマ』を受けたユダヤの体制は、キリストが『三年世話をしても実を付けないイチジクの木』であり、イエスを通して示された「父の業」即ち聖霊による奇跡を三年半のキリストの公生涯のあいだに見ても、ユダヤ体制の全体がキリストに信仰を示して聖霊を受け『聖なる国民、祭司の王国』となることは遂になかった。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

もし、律法契約が『聖なる民』という目的に達していたなら、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも『神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言された。年を経て古びたものは、間もなく消えうせる』ともヘブル書筆者は言わなかったに違いない。(ヘブライ8:7・13)


律法に固執し続けた血統のイスラエルは、イエスをメシアとして認めなかったために『諸国民の光』となって『地のすべての民のすべてに祝福』をもたらすというアブラハムの相続財産を、体制としてまったく逸したのである。(創世記18:18)


やはり、ルカ福音書はユダヤ体制の滅びの原因をメシア拒絶に特定しており、『敵がおまえの周囲に柵を作り、攻囲して四方を閉じ込んでしまう日がやがてくる』というイエスの言葉を記している。それがキリスト後に現実の惨禍となったことをまさしく目撃したヨセフスがユダヤ戦記に詳細に述べている。(ルカ19:43)


そのルカ書にもマタイと同様に、メシアは『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』 とのバプテストの言葉を伝えているのであり、この「火のバプテスマ」が何を指すかは動かし難いことである。(マタイ3:12)


バプテストのヨハネの語った『その方は聖霊と火とによって、お前たちにバプテスマをお授けになる』というのが、本物の滅びの火ではなく聖霊が 火のように下ったことを表していると教えられる教会や宗派が多いのは承知している。

だが、バプテストの、聖霊か滅びかの予告と、あの五旬節の朝に『舌のようなものが、炎のように分れて現れた』という聖霊の降下の姿とを混同するなら、バプテストの語った当時の背景とユダヤへの意図を無視しなければならない。即ち、「そうではない」と言うなら、マタイやルカなどの新約聖書の筆者らの意図を無視しなければならなくなるではないか。

 

聖霊が火であったのは、あのペンテコステの日の百二十人以外には聖書に『炎ような』との記載はほかに無いのであり、『霊の火を絶やすな』というパウロは、『聖霊を嘆かせるころとのないように』とも訓戒しており、聖徒らに注がれた聖霊に相応しく行動することを促す言葉と捉えるのが自然といえよう。聖霊はむしろ『風』や『息』として描かれることがほとんどである。(テサロニケ第一5:19/エフェソス4:30/ヨハネ3:6-8/20:22)


マタイやルカにある「聖霊と火と」をペンテコステの『炎のような舌』と混同してしまえば、その「ただ、ありがたいばかりの教え」は、バプテストによるユダヤ人への重い警告という意義を欠くことになる。それは多くの「クリスチャン」方に在りがちな皮相的なご利益信仰というべきであろう。

(それでも「その方が良い」と思われる向きは、それが個人の倫理的決断であろう)


このバプテストの言葉によって、当時にユダヤ人らにはメシアの成し遂げる優れた祝福と、恐るべき裁きとをそのメシアを紹介するに当たり激しい言葉で強く警告されていたのであるが、大半のユダヤ人はイエスを退け、その後も体制としては真実なメシア信仰を欠いて、イエスの仲介する『新しい契約』への道に入ることなく、ユダヤは聖霊を受けた一民族『聖なる国民』『神のイスラエル』となるにも及ばなかったのである。(ガラテア3:24/6:16)


使徒ヨハネはこう書いている。

『神を信じない者は神を偽り者としているのだ。神が御子について証しされたのにそれを信じないからである。』(ヨハネ第一5:10)


つまり、メシアであるイエスに信仰を置かなかった当時のユダヤ体制は、モーセの律法順守による救いに固執し、旧約聖書を暗記してさえいながら、遂に救われなかったのであるが、その原因は、救いというものが、知識ではなく価値観を働かせ、現れたメシアに信仰を持つことであるとは理解しなかったからである。(ローマ9:32)


しかし、ヨエルの預言は、イスラエルの末孫に神の霊が注がれることだけではなく、『その日わたしは、わが霊を下僕ら下女らにも注ぐ。』とも付け加えていたが、それは、ユダヤの家の者ではない異邦人によく当てはまる。(ヨエル2:29)


そこで、キリストは地上に残った使徒らやパウロらを用いて、真実に選ばれた聖なる民、『神のイスラエル』の一員となる選びを、イスラエル民族だけでなく、聖霊降下を通してメシアへの信仰を働かせた異邦諸国民へと広げてゆくのであった。(ガラテア6:16)


主イエスはこれについて、ユダヤ人ではない『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』と言われる。(マタイ8:11)


また、復活の後の世界宣教を弟子らに命じるに当たっては『地の絶え果てるところまでが、わたしの証人となるであろう』とも言われたのである。(マタイ8:11-12 /使徒1:8)


そして、パウロはこの異邦人による流入を「接木」に例えている。(ローマ11章)

つまり、これらキリストの使徒らによる活動も、彼らの主の活動に同じく『神のイスラエル』である信仰深いアブラハムの内面の子孫を召し出すための諸国民への宣教であったのだ。(ガラテア6:16)


歴史に残された様々な資料は、奇跡の「聖霊の賜物」を持った諸国の人々が居たことを教えているが、アウグスティヌスの頃にはとうに過ぎ去った過去のことになっていた。その人々は「聖人」と呼ばれて今日に伝えられ、カトリックの伝承の中に、奇跡を行い殉教したという人々として痕跡を残している。


いや、この点で言えば、第三世紀のオリゲネスですら、聖霊を持つ人々を過去のものとして語っており、西暦第二世紀中頃までについて語る資料だけが、この格別の「賜物」を有する人々について告げるのである。




-◆聖霊を受ける者の現れを待つ-----------



そして今日、初期の人々のような姿で「聖霊のバプテスマ」を受けた人を筆者はやはり見ていない。

初期の奇跡を行う聖なる者らの痕跡であるカトリックの「聖人」、即ち、複数の奇跡を行い、その多くが殉教者であったこの人々が、自分の人生の導きや益を専らに求めるご利益信仰者であったと言えるだろうか?


そしてその奇跡の『賜物』はトランス状態に陥るものでなく理性的であり、自らの意識を保持し、霊の働きを制御できたことをコリント前書は描き出し、『神は無秩序ではない』ゆえに一人一人が順に話すよう訓戒している。(コリント第一14:26-33)

しかも、その聖霊の語らせる内容は、終末に於いて人類に重大論争が生じるようなものである以上、明確に理解されるべき音信が語られるに違いない。

即ち、その聖霊の発言は福音書が述べるように世の支配権に関わるもので、為政者との対立を生じさせるというのである。(マタイ10:17-)


だが、世界にそのように明白なものを未だ聞いていない。

聖霊を注がれる彼らはそこで聖霊によって語るのだが、宗教家ではなく政治家の前に立つからには、彼らの音信には『神の王国』の支配に関わる内容が込められるのであろう。(ルカ21:15)*(マルコ13:9-11/マタイ10:16-19などを参照、宗教的対立ではないようだ)



では、将来再び『聖霊か火か』のバプテスマを受ける人々が現れるだろうか?

つまり、キリスト教界が古代のユダヤの体制のように、「聖霊」か、あるいは「火」かの洗礼を浴びる日が来るのだろうか?そうかもしれない。いや、そのようになるのであろう。(マラキ4:1-/ヨハネ3:10/マタイ13:24-)


いずれにしても、聖書を読む限りはまず「聖霊」でバプテスマを受ける人々が現れなくてはならないが、そうして聖徒となることは神の選びであって人間の働きかけるところではない。それゆえ、初代からキリスト教徒の集まりが「エクレシア」(召しだされた者たち)と呼ばれたように、その集まる人々のほとんどが聖霊を有する『神の召しに与る人々』で構成されていたが、将来にもそのようになるのだろうか。(コリント第一14章)


聖書での呼称「エクレシア」(招し出されたもの)は、ローマ帝国の国教となった頃から「キュリアコン」(主のもの)を語源とする別名「教会」(キエザ、キルヒェ、チャーチ等)と呼ばれるようになっていったが、それは所謂「聖人」が過去のものとなり、もはや召された者たちのいない信徒だけの集団には相応しい名称であったと言えるかもしれない。(使徒2:38/ヨハネ第二1)


しかも、将来に起こる「それ」は、初めて「聖霊のバプテスマ」が弟子らに行われたあのペンテコステの日に、ユダヤ人たち対してその奇跡が『大風の轟音』によって広く明らかにされたように、個人のご利益信仰に属するような単なる個人の心理作用でないに違いない。


神はそれに加えて彼らの上に『火の舌』を一人ずつに置いて証しを立てたのであり、これは彼らの発言の内容と共に、『葡萄酒に酔っている』と反論する者らにも説明の付かない印となったに違いない。(使徒2:15-)

だからと言って今日の我々が、この火の印と火のバプテスマを取り違えるべきでないし、そうするなら聖書理解はほとんど諦めねばならない。これはキリスト教にとって基礎的な事ではないだろうか?

それまでひっそりと二階の部屋に隠棲していた弟子らは『聖霊によって力を受け』強力な宣教へと世界に足を踏み出したのであるから、聖霊は「神の威力」というべきものである。(使徒1:8)

まして、今日の「聖霊によるキリストの内住」などは、キリストが王権領受の旅に出立し、聖霊を通した「監臨」を終えた西暦第二世紀の半ば以降、聖霊の賜物が地上を去った為にキリスト教界が案出した実体の無い、「自分の人生イエスさまといっしょ」というような少女趣味的で大志なく脆弱な信徒に植え付けられた「ご利益信仰の思い込み」か「異教や悪霊の影響」であろう。

もっとも、今日までこのようなアニミズム的な聖霊信仰が「正統信仰」とされているのは嘆かわしいことではあるが、それも神不在の今は容認されるところであり、その教義についてだけは、今後も終末まで長らえるのであろう。(ヨハネ9:4/ルカ19:12)


だが、それは「自分に神は何をしてくれるのか」を求めるという利己心に基づく「信仰」であって、キリストや使徒、また初期の弟子らのような無私の精紳とは逆のものである。教会一般の教えるご利益は、個人の人生を幸福にしてくれて、自分が天国に召されることを夢見るというレベルの「キリスト教」である。(コリント第二5:15)


聖霊のバプテスマが自分にも行われたと思い込むのは自由だが、それが本来人に求めるものは、ご利益とは正反対の自己犠牲であり、聖霊を受けることは初期の弟子らのように、むしろ世の矢面に立つことであるからして、そのような迫害に至れば、「自分には聖霊などは無い」と本当のことを叫ぶようなことになるのであろうか。(ゼカリヤ13:3)


本稿の内容が、教会員に受け入れ難いことは承知している。

そこは筆者が教会生活を離れ去り、もともとキリスト教世界に属さない日本という自由な土壌でキリスト教の研究を進めたという背景あってはじめてこの観点に立ったものと思える。

あるいは、もし、閲覧の方からこのような「信者だけの救い」ではないキリスト教理解に賛意を頂戴できるなら幸いである。

やはり聖書中を見るなら、「聖霊の賜物」とは、神がその御力をもって御子イエスに証しを与え続けたように、公に対する明瞭な神の威力の堂々たる表明なのである。(ヨハネ5:36/ヨハネ第一5:10)


聖霊とは、それを見る他者の信仰をさえ惹起するもの、つまり自己欺瞞的で不鮮明なものでなく、反対者に対しては勿論、人類全体に対して神からのものであることが極めて明確な形で将来も示されなくてはならず、また、実際にそのようになるであろう。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-10)

その将来、もし我々が「聖徒」(聖霊を受ける者)たちの現れと、彼らを通して「聖霊」の声を聞くときには、けっして心を頑なにするようなことをしてはなるまい。(ローマ2:5/ヘブル4:7)

ヘブル書が警告するように『語っている方を拒んではならない』。それは人による発言ではないとされている。そのとき、宗教界が聖霊の声に心を向けないなら、殊に宗教指導者が自分の正当さに固執すれば、神からの発言に色を失い、却って聖霊に逆らうことになるのではないか。(ヘブル3:14-15)⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」


聖霊によるその発言は、為政者との対峙*によって「神か人かの」究極の論争に発展するであろう。これは共観福音書が揃ってイエスの言葉として預言するところであり、後の時代に弟子らは王や高官の前に引き出され、そのとき聖霊は彼らに『彼らが束になっても反駁できない言葉を語らせる』(ルカ21:15)。

それゆえ『何を話そうかと、気を揉む必要』(マルコ13:11)も『前もって練習しなくてよい』(ルカ21:14)と再三記している通りである。


これが『王の王、主の主』による「人類の裁き」に連なる「エデンの問い」に発展し、世界は聖霊の声に従うか否かの二択を迫られるであろう。(マタイ10:18)

キリストは『雲と共に来る』ので、人類はキリストを直接には見ず、聖霊の声を代弁する『聖なる者たち』の発言に信仰を働かせるか否かが、人類を分かつものとなる。『聖霊は裁きについて』『世に証拠を提出する』ことになることが知らされているように、イエス御自らが地上に姿を現すのが再臨であれば、「裁き」とは何と外面的で単純で幼稚なものであろう。(ヨハネ16:8)



それが聖徒たちという人間「土の器」を通すものであっても、聖霊が語らせる以上、それは論駁不能な神の義の顕現であり、その時までに、いかなる人間の義(宗派や党派)をも放棄すべきではなかろうか。『聖霊』が語るときに人間の作った宗派や党派などに何の意味があるのだろうか?(エゼキエル33:13/アモス3:8)


キリスト教徒のひとりであれば、自分が聖霊を受けた『聖徒』でなくとも何ら落胆する必要はない。むしろ、『聖徒ら』の天の祭司職による『贖罪』の益に与り、ついに『神の子』となって地上の千年王国で永生に至るべき『信徒』(ピストス)となり得るからである。


それこそは、神が 『あなたの子孫によって地のすべての国民は自らを祝福する』と、いにしえ創世記に繰り返し示された、あのアブラハムへの約束の成就を迎えることではないか。そこには神に倣う公共善と利他性の大志があり、まさしくキリスト教とはそのようなものであろう。(創世記12:3/18:18/22:18/26:4/コリント第二5:15)


必ずや神の悠久の歩みは、その目的を違えることなく、まったく成就することになるであろう。






 © 2011  林 義平
 「古くも新たなキリスト教」新十四日派について

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 ⇒ 火のバプテスマに焼かれるユダヤ

 ⇒ 原始キリスト教と「キリスト教」の違い

 ⇒ キリスト教の救いとはご利益か