September 01, 2017

何度も

何度も

何度も何度も転んで

坂道転げ落ちたって

それゎ

悪いことなんかぢゃない

横にして見れば

坂道駆け上がってるように見えるはず


 
IMG_0417


 


 どうも、キャバクラ嬢のインスタ映え沢ナイトプール子です。嘘です、IWOKです。これが恒例ってことを知らない人も多いでしょうが、私とMRT君の老害2名は誕生日ブログを書くことを至上の悦びとしているので、久しぶりに更新します。私はもう4年なので、これで最後ですね。
  さて冒頭のクソポエムとクソ写真は適当に作って適当にフォルダから取ってきたやつです。少しでも感銘を受けた人は明日病院に行きましょう。転んだら出来るだけ早く立ち上がって、治療してもらったらさっさと自分の仕事に戻るのがいいと思います。坂道を横から見るやつなんていません。
 
 22歳の(世間的には)大人として、これまでのように性癖を吐露したりだとか、バカみたいな理論を展開したりだとか、そういったことのために時間を費やすのは愚かしいことだと思います。だからふざけるのはここまでです。今回は、僕が4年間お世話になった、本当にいつだって僕の帰る場所だった映研に少しでも恩返しできるような記事にしたいと思うので、しばしお付き合い願います。





 
 


 自分が可愛い女子だったらなぁ、と思います。

 昨今社会問題となっている性的少数とは関係ありません。その用語で言えば僕はストレートです。可愛い女子になっても私はその辺のイケメンは一蹴するでしょう。しかし、自分がもしも明日の朝可愛い女子として目覚めたら、と時々考えてしまうのです。(誓って、「君の名は」は観ていません。それに喚起されて考え始めたと思われるのは、あまりにも心外です。)
 
 ひとつ説明しておきたいことがあります。それは女湯に入りたければ私は透明人間になりたいと言うでしょう、ということです。更衣室だってそうだし、おまけに窃盗で働かずに生きていくことも容易いはず。なんにしろ悪事を働きたいのなら、現代社会では視覚的に認識されないことが最大のアドバンテージです。しかし、それほどの奇跡がたった一つでも私の人生にもたらされるのであれば、私は透明人間なんかじゃなくて可愛い女子になりたいと考えた。何故。

 透明人間には出来なくて、可愛い女子にできることを考えてみればその答えはすぐに解ります。(自分からのものを含めた)視覚的な認識可能性。性欲や金銭欲やらを棄捨してなお、「〜できる」ではなく「〜である」ということ(の認識)が重要なのです。可愛い女子「である」ということが、私にはそれほどまでに重要だったのです。

 明日の朝私が可愛い女子として目覚めたならば、身なりを整え(重要です)、髪をとかして化粧をほどこし(重要です!)、可愛い女子の友人と外出し(可能ならば)、食事や映画や買い物を楽しみ…つまり普通に一日を送るでしょう。しかしその瞬間瞬間に起こる私の、そして友人の「認識」(例えば街角のガラスに映った自分の姿が目に入ったり、カップについた紅を拭う…)が、私にえも言われぬ幸福を与えるであろうことが、はっきりと確信されているのです。

 ここに二つの問題が浮上します。⑴可愛い女子「である」ことの価値とは何か(何故可愛い女子でなければならないのか)、⑵可愛い女子とは何かという二つの問いです。熱心な読者の皆様は論の順序として逆じゃないか、との異議を必ずお持ちだと思いますが、おそらく⑴について異議を唱える者は⑵と比して少数ではないか、という筆者の直感から生じる論理性における瑕疵であり、そこについて議論するのは本意ではないのでご容赦いただきたい。

 正直に言います。22年の人生でこれらの問いに答えを出すことが、私には出来ませんでした。言ってしまえば、それだけ生きていて何の成果も得られてないのです。テストの点数が、学歴が、GPAが、私や誰かに相対的な優劣をつけたとしても、この問いの答えに近づくことすらできないという一事によって、あらゆるものに価値がなくなってしまうのです。そして私は、それらの最下位にいることを、甘んじて受け入れたいのです。
 
 あるいは答えなど無いのではないかということが、安易に答えらしきものを表明して悦に入っている者に対して覚える憤りから、私には予想されます。そう、彼らと同じにならぬために私は答えを出すことを拒否し続けている。新たな可愛い女子概念の台頭に備えて、常に可愛い女子の定義を留保している。やはり私は最下位の、最もずる賢い人間なのでしょうか。

 以上を踏まえると、上記の問いは次のように整理されます。可愛い女子になりたいという願望に関して、⑴何故可愛い女子でなければならないのか、という問いについては「可愛い女子だからである」という、トートロジーに陥らざるを得ません。しかし、私が先述した通り、このトートロジーに疑念を抱く者はそういないと思うのです。可愛い女子の持つ絶対的優位性を疑う者は今この場で名乗り出て欲しい。可愛い系男子?馬鹿いうな、男の娘?冗談じゃない。
 
 したがって、全ては⑵可愛い女子とは何かという問いに収斂していくわけです。では可愛い女子とは何か。私はこの問いに明確な答えを出すことができません。卑近な例における「どんな子がタイプ?」という問いも、突き詰めれば「好きになった子がタイプ」なのでしょう。こうなってしまえば、もはや抽象概念の具体化、大昔の美術界においてダ・ヴィンチが、ミケランジェロが、それぞれの手法で競い合った神の定めし価値への競争に、参加せざるを得ないのではないか。神の定めし美、神の定めし、可愛い女子…。

 彼らのような芸術家にとって、その作品は神の定めた、絶対的美への探求でした。では、可愛い女子の一人一人も、同じでしょうか。いや、違います。絶対的に(議論の余地なく)美しい作品はなくとも、絶対的に可愛い女子は、います。そこら中にいます。では、我々は何を探求しているのか。

 それはおそらく(無数にいるように思われる中で)唯ひとつ、たったひとつといえる可愛い女子。

 私が思うに、先人の絶対的美の実現が「外的美」の探求を究極の目的としたのに対して、⑵の問いへの答えは「内的可愛い女子概念」の探求、したがって自己同一化願望すら喚起しうるほどに自己内部と適合した可愛い女子概念への探求なのです。

 要約すれば「人それぞれ」じゃないかと、ここまで読んだ全ての熱心な読者の方々は必ずや憤っていることと察しますが、しかしその通りなのです。ひとつだけ言及しておくとすれば、上述したほどに見事にマッチングする例は皆無であることを誰もが知っている故に、自己内部との適合「度合い」をいくらか操作して、他者として存在し得る「タイプ」を表明することは可能だということです。
 

 ここまでお付き合いいただいた読者の諸君には、何故私がこれほどに真理に近いところにいるのか、という疑問が残っていると思います。そこで私から次のような問題提起を残して、本稿と22年の人生の締めくくりとし、かつ23年目の、活気ある人生の抱負としたいと思うのです。


 


 

 某女史の卒業後某アイドルグループの推しメンを決めかねています。 



 坂道転がり落ちてました、IWOK22歳です、おやすみなさい。 


qucc3767 at 02:00コメント(0) 

April 24, 2017

どうも村田です。

22歳になったので恒例のバースデーブログを書きます。
僕も4年なのでおそらくこれが大学生として書く最後のバースデーブログになると思います。今までは誕生日のたびに自身の性癖だの何だのとつらつらと何の羞恥心も無く下品なブログを毎年のように書いてきました。
そろそろぼくもネタ切れも近いですし今年はそういうのはやめにしようとおもいます。

と思ったんですがやっぱりやめません。本当にやめようと思って、さっきまで10行ぐらい今までの大学生活の振り返りを書いてたんですが、僕の大学生活が中身なさすぎてぐりとぐらで読書感想文書くぐらい無理だったんで全部消しました。

今回は下ネタというほど下品ではありませんが三年前に僕が提唱してから物議をかもしているあるひとつの理論についてこの場を借りて解説していこうと思います。

この理論はあまりに多くの矛盾を抱えているように見えることやこの理論を口にしたものはまるで豚肉を食べたイスラム教徒のような扱いを受けることから通称カオス理論と名づけられました。

この理論は簡単に言えば「欲しいと思ったその瞬間には彼女がいる」というものです。

この時点で異論を唱えたい人はいるでしょうが少し我慢してください。

まず、これを理解するためには人の時間が有限であるという前提を無視しなければいけません。
寿命という概念をいったんおいとこうということです。

もし寿命がないとしたら、人間はいったいどれほどのことができるでしょうか?

無限という領域の中では基本的に何でもできます。0.0000000001%でも起こりうる可能性がある事象ならば無限回の試行の中では100%存在します。つまり、僕が新垣結衣と付き合うと言えば無限時間の中では確実に起こせる事象なのです。

しかし、現実的にはもちろん時間は無限ではありません。僕かガッキーどちらかが先に死ぬでしょう。
ここで話をよりシンプルにするために、僕というグラフとガッキーというグラフを用意します。下の図です。

gakki-















図を見てもらえればわかりますが一見僕とガッキーの人生は平行線で時間を延ばしたところで交わることが無いかのように見えます。しかし、傾きはまったく同じではないので無限時間まで延ばせば僕らの人生はどこかで交わります。人生はいろんなことがありこんなちんけな一次曲線ではありませんがどっちにしてもどこかで交点が現れるはずです。

現実には僕もガッキーも寿命という定義域の中のみで成り立つ関数です。しかし、この曲線は確実に交点を持つのです。たとえば、y=2x+1(0<x<1)この関数はy=5という値を取ることができません。しかし定義域が広がれば取ることができます。いわば婚約状態にあるんです。人間自分の定義域を知ることはできません。ならば無限に拡張したところで問題は無いはずです。
シュレディンガーの猫の話を思い出しましょう。猫が入った箱の中に毒ガスを充満させた場合、箱を開けてみるまで猫は生と死という二つの事象が半々で混在している状態であるという理屈です。この理屈だと、僕の人生が有限であるか無限であるかはそのときになってみないとわかりません。つまり今の段階ではまだ半々なのです。僕の体の半分は不死身です。今現在不死身の50%で僕はなんでもできます。ガッキーと結婚することだってタイムマシンで未来へ行ってここまで帰ってくることだってできます。

自分でも知らないうちに僕の不死身の50%が未来でガッキーと結婚してたんですね。感激。

炎上は覚悟してます。ガリレオだって死ぬまで地動説を唱えたんです。例え宗教裁判にかけられても僕はガッキーとの結婚を解消する気はありません。

そもそもこの理論の誕生は僕が一年生のとき、iwokとアンダーソンの男三人で二見が浦へ行ったことが発端でした。
カップルが青春を謳歌する恋人の聖地で砂浜にも入れず硬い石の階段に座りながら夕日が現れるのを待っていた時、狂気の時間に耐え切れず僕が正気を失い「俺らも彼女いるじゃん」と何かに取り憑かれたかのように淡々とカオス理論を口走りました。僕が語っている間、必死に正気を保とうとしている二人から猛烈な反論を受けました。それでも僕は語りをやめません。自転車疲れもあって夕日とともにアンダーソンのテンションもどんどん沈んでいきます。僕に罵声を浴びせる彼らの目が赤くなっていたのは目に映る夕日だったのか、それとも異教徒を排除する使命感に駆られて血走らせたものだったのかはわかりません。この理論が正しいものなのかもわかりません。ただひとつ確かなのはあの夏の一瞬カップルを傍聴人に宗教裁判が繰り広げられる二見ヶ浦ではみんな口をそろえて「太陽が」沈むと言っていたことです。 


qucc3767 at 02:23コメント(1)トラックバック(0) 

January 17, 2017

副部長になった某1年生です。昨年末にこのブログで学祭報告をするということになったのですが、先輩方が書かれた文章にどんなノリで続いていけば良いのか分からなかったりサボっていたりで気づけば2017年も17日目になっています(村田先輩がにあけおめ記事を書かれています)。しかし先日の部会で部長に相談したところ、「あー、普通に書いていいよ。」というお言葉を頂きましたので、今回は真面目な報告にさせていただきます。(ちなみに面白い記事は1年生クレイジー担当HRI君がいずれ書いてくれるはずです。)そういうわけで遅れましたが、2016年の学祭(とか)における九大映研の活動を報告します。

 

まずは九大祭から。

映研が学祭でする教室企画といえばもちろん上映会です。今年もたくさんの方にご来場いただき、大好評で終えることができました。

 ごめんなさい、嘘です。2015年に続き、2年連続で教室の予約に失敗しました。皆様からお怒りの声が届いておりますので1年生を代表して(予約当時、副部長でも学祭係でもなく幽霊部員気味だった)僕がお詫び申し上げます。来年こそ教室企画を、という思いでいっぱいです。ともかくこういうわけで、九大映研の優秀な映画製作陣の皆さまのフラストレーションを抑えるべく、12月に椎木講堂上映会を行うことになったわけです。こちらも悲惨な結末を迎えるわけですが

これについては後述します。

 

 もちろんテント企画は例年通り行いました。当初は回転焼きを売る予定だったのですが、使用する機材のお金の関係などの都合により、あげたい焼きを売ることになりました。1度目の試作会では、“1年生の元副部長”の部屋に集まって、見た目はともかくとして味はたい焼きに近いものを自分たちの手で作り上げました。しかし、、、たい焼き器の経費をケチりたい我々は市販の冷凍たい焼きを揚げるという暴挙に出ました。そして“1年生の元副部長”が学研のドン・キホーテで大量の冷凍たい焼きを購入してくださいました。

 

さらに 1年生女子の指導の下cmも作りました。素晴らしい出来です。話題のcmとなりました。

 

このようにして我々は仕込みの時間を0にすることに成功し、満を持して学祭当日を迎えました(初日は雨の影響で午後からの開催となりました)。テント内では冷凍だとばれないようにパッケージを見えないところに置き、いかにも作ってる感を出しながら、揚げ職人と化したHRI君がテンポよく冷凍たい焼きをあげたい焼きに進化させていきます。圧巻でした。2日目には準備していいた分が売り切れるほどご好評をいただきました。ありがとうございました。(無事に用意していた分を売り切ることができましたが、1日目の夜に油を放置したことにとり罰金をとられたことなどが原因で利益は多くありませんでした。)

 

 

しかし、九大祭の数日後、1年生の副部長(当時)が辞めてしまうという事件が起こりました。もちろんこれによって九大映研には多少の混乱が生じました(僕が副部長になったのもその一例です。)。4月に入学される新1年生は辞めないでくださいね()

 

とはいえ副部長(当時)にはお世話になりました。感謝しています。お元気で。

 

 

さて次は12月に行われました椎木講堂上映会の報告です。

 

新作映画と過去作いくつかを上映したのですが、宣伝が遅れたこともあり、なんと驚異の来場者0人を記録しました。。。

 

上映会当日に機材トラブルが発生したり、某アカペラサークルの皆さんに上映会中の椎木講堂の目の前で練習をされたり、伊都キャンで模試を受け終わった高校生たちを誘って苦笑いされたりと無念の1日でした。

 

 

 

 最後に、来月の活動の告知です!

来月217()に箱崎の喫茶店にて自主製作映画の上映会を行います!

どなたでも大歓迎です。お誘いあわせの上、ぜひご来場ください。

 

日時:21719時〜21

場所:箱崎水族館喫茶室

料金:1ドリンク制



qucc3767 at 13:30コメント(1)トラックバック(0) 
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