September 01, 2016 01:00

七面鳥とケーキを21個、あとサンタクロースを21人…

 ある男性の誕生日には世界中の街が賑わい、七面鳥とケーキが飛ぶように売れ、物好きのトナカイに至っては中年男性を乗っけて世界中を飛び回っています。いっぽうで僕の誕生日には日本中の公園が静まり返り、宿題に追われる子供たちのすすり泣きが町中に響き渡るのです。僕はどうしたらよいのですか。


 映画研究部の皆さん、久しぶりです。一年生がみてたら初めまして、IWOKです。私は昨日、21歳になりましたので、先例に倣って記事を書くことになりました。

 先例と言いましたが、この記事から3つ下の記事がまさにそれです。もう皆さんは読まれたでしょうか。

 誕生日と言えばこれまでの自分を振り返り、周りの人への感謝をあらたにするとともに、これからの自分のあり方を考える、そんな日です。そんな人生の節目にやれ性癖だの、SMだの、「どうも村田です」だの…呆れてものも言えません。皆さんも私と同じ感想を持ったと思います。
 そもそも鞭よりバットの方が比較的脚に似ているのではないでしょうか。さらに彼が言っているのは「足フェチ」ではなく「脚フェチ」です。きっと皆さんも私と同じ批判をしながら読んでいたはずです。

 皆さんに再度あの記事の内容を思い出させてしまったことを御詫びします。そして彼を反面教師として 、私はこの誕生日記事を実りあるものにしたいと考えています。無駄なことはいっさい書きたくないのです。映研の人々への感謝、そしてあらたな1年への想い、これだけでも書ききれないくらいなのです。どれだけ言葉を尽くしても、そんなことも満足に伝えられない私の語彙が恨めしいのです。





 
 
 

 ところで皆さんはどのような性癖をお持ちでしょうか。答えの範囲がいささか広すぎるような気もするので、SかMか、という定番の問いに変えましょう。「私はSだ」、「僕はMだ」、心の中でそう断定した人にこそ私は問いたいのです。そう簡単に決めつけてしまって良いものか、と。

 私もこの間まで自分がSであろう、と考えておりました。Mほど情けない姿はないのではないか、などと思っていたのです。無抵抗の者が「どうか私をお踏みください」などと懇願する姿に寒気を覚えていたのです。

 そんなある日のことでした。いつものようにスターバックスでMacBook Airを開きイエスタディのディベートのコンクリュージョンをレポートにコミットしていた私に、ある発想が浮かんだのは。

『「踏まれる」のではなく、「踏ませる」のはどちらなのだろう』

 通常の状況では必ず、より高いところにあるものこそがより優位でなくてはならないのです。逆に言えばその場を制するリーダー、主将、王は必ず誰よりも高いところにいなくてはならないのです。だから初めは私も必死になって否定しました。ありえない!踏んでいる側が、踏まれている側に抑圧されている状況など!!

 常識とは所詮多数派が作り出したハリボテの真実に過ぎないのです。一度ひびが入れば崩壊を止められるものではありません。そう、人の関係性など、客観的に明白に監察出来るものではないのです。「踏まれている」男が、実は「踏ませている」状況などいくらでもあり得るのです。女中に「蹴らせ」「踏ませ」「唾を吐きかけさせ」て高笑いする王が、この世にはきっといるのです。

 我々がみていたSMとは一体なんだったのでしょうか。

 少なくとも一方が一方に「やりたくない」「規範に背く」行為を「強いる」こと。これが極めて純度の高い定義と言えるでしょう。「人を踏みつけること」はそれが土足であればなおさら、一般的な規範には背いているのです。ならば「踏まれる」とは、「踏まれはしない」という日常が裏切られることであり、「踏ませる」とは「人を踏んではいけない」という規範に背くよう強いること、といえるのです。

 したがって結論としては「踏ませる」のはSの行為であるといえるでしょう。これが非常に限定的な場合にしか発現しないのは、Sが満足に「踏ませる」には踏む側の規範意識が一定程度強く、踏むことに抵抗を感じているか、またはドン引きしている必要があるからです。若者のモラル低下が嘆かれる現代社会において、果たしてこれが現実にあり得るのかどうかは、私も疑問とするところではありますが。

 

 私が本稿で訴えたかったのは、「簡単に結論を出すな」ということであり、これは私の21歳の抱負でもあります。性癖の問題に限らず、結論を急ぐことは満足のいく結果を生まないだけでなく、考察の過程で得られるはずだった新たな可能性、新たな問題を見逃すことにつながるのです。

 道は違っても私が望むのはやはり村田氏と同じく平和な世界なのです。平和な世界は多様性を各人が認識することでしか実現出来ないと私は信じているのです。そのためにも結論を急ぐのではなく、寄り道、まわり道をして、様々なことを考えなければなりません。皆さんも、自分の性癖を考えることから初めてみませんか。


 
*すべて私の個人的な主張と空想で構成されており、文中のあらゆるものを批判する意図がありません。また九大映研の立場を代表するものでは一切ありません。ご了承ください。
 

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コメント一覧

1. Posted by 世界平和を望む者   September 01, 2016 17:29
下ネタ喋るときはちゃんと本名を名乗りましょう。昔の武士だって刀を抜くときは名乗ってたんだから。現代人がなにを抜くかは知らんけど。

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