2018/10

2018/10/15

Cebreiro

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スペイン北部ガリシア州、Cebreiroセブレイロはサンティアゴ巡礼路最後の難所と言われているセブレイロ峠にある小さな村です。レオン山脈標高1300メートルの位置にある峠には雨風を遮るものがなく悪天候の日には巡礼者たちを苦しめます。
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セブレイロ村の歴史はとても古く、紀元前3世紀にローマ帝国がイベリア半島に侵入する以前はケルト民族の居住地でした。そのため円形の石壁に茅葺き屋根のケルト風民家が何軒か大切に保存されていて、1966年まで実際に人が住んでいたという一軒は民族歴史館として一般公開されています。
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右手に寝室とその奥に台所があり、左手の半地下は家畜の寝場所、その上の中二階が穀物倉庫になっています。壁に開けた円形の明り取りが窓の役目を果たしてはいますが窓はとても小さく朝も昼も夕方も常に薄暗さのなかでの暮らしだったのではないでしょうか。
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セブレイロが難所であるがゆえに怪我をした巡礼者などの救護施設の設立は最も早い時期に属したという記録が残っています。9世紀にフランスの聖ジェロー修道院によって建てられたプレ・ロマネスク様式のサンタマリア教会と旧救護施設は隣合っており、現在は必要とされなくなった旧救護施設を宿舎として活用しています。
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千年以上も続いているサンティアゴ巡礼の歴史にはたくさんの巡礼譚がありホセ・ラモン・マリーニョ・フェロ編纂の『サンティアゴ巡礼の奇蹟と伝説』には興味深い話が数多く集められています。その中でも巡礼たちの伝承によってヨーロッパに広まり、ワーグナーがオペラ「パルシファル」の場面に取り入れたとして知られている話はセブレイロ村を舞台にしたものです。
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ひどい大嵐の日に一人の巡礼者がセブレイロ村にたどり着きます。びしょ濡れで泥にまみれ行き倒れのような姿の彼は司祭にミサをあげてほしいと頼みます。司祭は信仰心がとても薄かったため内心ではひどく面倒くさく思いました。
「巡礼という者たちは、たかが一切れのパンと一雫のワインのためにこんなに馬鹿げた苦労を自らするのだろう」
司祭がそう思った途端、目の前のパンは肉にワインは血に変わりました。
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十字架をかたどった様々な道標はサンティアゴ巡礼路の多くの場所で見られ常に巡礼者たちを導き心の支えとなる希望の印です。セブレイロ村の入り口の小高い場所にも道標があり古い石造りの十字架は巡礼姿のサンティアゴ(聖ヤコブ)の上に聖母マリアとキリストを背中合わせにした特徴的な姿をしています。
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スペインはどこを訪れても民族の歴史の堆積を感じさせる国であり、とても魅力的です。とくにセブレイロはケルトの遺跡のような建造物によって歴史の層の深さを確認できる町といえるでしょう。
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quiltntile1219mahalo at 23:46|PermalinkComments(0)街・歴史・聖人 | 建築・歴史

2018/10/01

Santo Domingo de la Calzada

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ワイン生産地として名高いスペイン北部ラ・リオハ州。その西側に位置するSanto Domingo de la Calzadaサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダの町はサンティアゴ巡礼路にある町として知られています。サンティアゴ・デ・コンポステーラに詣でる巡礼が盛んになった11世紀から12世紀頃、多くの人に喜ばれたのは橋を架ける事と道路を整備する事でした。
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ひたすら歩き続ける巡礼にとって当時の川越えは大きな難関でした。危険の少ない浅瀬を渡るためには水かさの増す時期を避けて旅立たなければならないし、渡し舟を利用する場合は悪い船頭に警戒することも必要でした。「金を受け取った後で制限人数以上の巡礼者を載せたあげく舟が転覆し巡礼達が溺死することがよくある。その後で船頭たちは死人から金品を奪うのである」という記録も残っています。
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「道はしばしば悪路であった。雨が降ると泥道になる所が多かった。大雨があると道や橋はよく流された。道を直し橋を架け直す必要は絶えなかった。土地の人も巡礼もそのために働いた。そういった労働をすることそのことが、聖なる行為なのであった」(柳宗玄『サンチャゴの巡礼路』講談社)
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悪路を除いてほとんど何も無かった寒村にドミンゴという修道士が住みつき巡礼のために道を作り橋を作り壊れては修復するという事に生涯をかけました。土木建築に秀でていた彼はその路を巡礼たちが行き来するようになると古い宮殿跡を利用して施療院兼宿泊所を建てました。この建物はそののち幾度も修復され今は美しいパラドールになっています。
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1109年にドミンゴが亡くなると直ちに聖人の位が贈られ人々の信仰の対象となり墓の上に教会が建てられました。彼を偲ぶ人々が定住して町ができサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダ「道路の聖ドミンゴ」の町と名付けられたのです。
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巡礼たちが口承で伝えてきたサンティアゴ(聖ヤコブ)の奇蹟の歌のなかにこの町が登場します。
「サント・ドミンゴの町で雄鶏と雌鶏が鳴くのを聞いたとき
 私たちは何と嬉しかったことか
 私たちは死刑場へ行き、息子は36日間そこにいた
 サンティアゴからの帰りにそこで
 父親は生きている息子を見たのだった」
この歌はこういう伝説がもとになっています。
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13世紀頃のこと。両親と共にサンティアゴ巡礼をしていた青年に宿屋の給仕娘が恋をしますが、信心深い青年は求愛を断り娘の逆恨みを受けて荷物の中に銀製の椀を隠されてしまいます。巡礼路に住む人々の厚意に反して盗みなどをした者は厳罰に処するという決まりのもとに親子は裁判官の前に引き立てられ、巡礼者であるということから息子は絞首刑に、両親はサンティアゴを目指してよいと言われます。息子が吊るされるのを見て母親はあまりのことに気を失い父親だけ巡礼を続けることになりました。
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36日経ってサンティアゴからの帰り、町はずれの死刑場に真っ先に行った父親は首を吊られたまま生きている息子を見つけます。
「聖ヤコブ様が両手で僕を支えていてくれたのです」
驚いた両親は食事中の裁判官のところへ走り生きている息子を絞首台から下ろしてくれと頼みました。そんなことを信じない裁判官は「昼食のために今焼き上がったばかりの鶏が鳴きでもしたら信じよう」と笑います。すると焼かれた鶏がテーブルのうえに跳びあがって三度鳴き、青年は下ろされ給仕娘が罰を受ける事になりました。
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その後この町では聖ドミンゴの遺骨を納めた大聖堂のなかに鶏小屋が作られ、ひとつがいの鶏を飼い抜け落ちた羽根は巡礼たちの御守りとして与えられることになりました。「聖なる奇蹟」と呼ばれる焼き菓子は雄鶏をかたどった縁起物として今も伝えられています。
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quiltntile1219mahalo at 20:55|PermalinkComments(0)街・歴史・聖人