●ボッチャという競技がある。もともと重度の障害者向けに考案されたらしい。脳性麻痺などでほとんど体が動かせなくても、介助器具を使用し、ミリ単位でボールをコントロールしてピタリと思ったところに止める選手たちの超絶技巧が見物である。パラリンピックの正式種目だが、障害の有無にかかわらず楽しめるスポーツでもある。このボッチャについて先日聞いて面白かったのはパラリンピックの日本選手団の監督とキャプテンがコテコテの関西人で、ここ一番というときの一投を外すと吉本よろしく盛大にコケるという話だ。ボケツッコミの文化がまったくない外国でそれをやるのでギャラリーが何が起こったのかわからず騒然とするらしい。いい話だ。ぜひ東京パラではみんなでハラホロヒレハレとベタにコケて全世界を茫然自失の渦に巻き込んでほしい。(いや、もとい、ぜひ金メダルを取ってください。)

●前近代、見世物小屋で好奇の目に晒されていた障害者も近代に入ると人道主義の理念の元で腫れ物に触るような過保護を受け、また二転して筒井康隆やモンティ・パイソンのブラックユーモアを経て、ようやく現在、何のうしろめたさもなく、また欠損フェチでもなく、純粋にその身体と運動能力を敬愛し嘆賞できるようになった。この感覚は東京の次のパラリンピックではもう当たり前すぎて何の感慨も呼ばなくなっていると思う。その意味で東京は画期的なものになると私は予想する。

●よくNHKのハートネットTVでパラスポーツをテーマにしているけれど、こないだ途中から見た「女子高生スイマーほのか×ほのか」が凄く良かったので再放送を録画予約した。御本人たちによれば実力が伴わないのにWほのかと呼ばれることには抵抗と躊躇いがあるらしいが、あの若さならいつ大化けするかわからない。要注目である。

●ついでに相模原障害者殺傷事件についてもコメントしておく。この事件から2年経った頃、朝日新聞に掲載された記事を読んだ。

被害者の遺族の男性(59)が、殺人などの罪で起訴されて裁判が始まるのを待つ元職員の植松聖(さとし)被告(28)と、再び向き合った。時を経て、男性は心境の変化を感じている。〔中略〕姉(当時60)を殺害された男性はそのころ、「死刑にしてほしい」と思っていた。だが今回の面会で、かつてのような憎しみは湧いてこなかった。

●・・・・・・という導入部から当然私はこの事件の植松聖被告が考え方を変えたという話になるのだろうと思った。しかし最後まで読んでみると彼は自分のした行為の理由を「障害者は社会に必要ないと感じたから」と言い、「絶対正しいと思った」「後悔はしていない」と言い切ったそうなので私はずっこけた。

●24時間、生活のあらゆる面で介助を必要とし、ひとりでは食事も排泄もできないほど重度の障害者は社会の厄介者だから殺したほうがいいという強固な信念を持っている人には「それを言うのと言わないのとじゃ大違いなんですよ」と言いたい。面と向かって「あなたは社会に必要ないから死んだほうがいい」と言われたら誰だってガーンと落ち込んで鬱になるし、「いや誰だって誰かに依存しないと生きられないんだし肉体的条件の差があるなら今おれがあなたを助けるのは当然じゃん?」と言ってくれたらいっぺんに鬱は吹き飛んで感謝のうちに生きることができる。つまり死んだほうがいいとか、または死ぬ必要はないとか、あなたはいい人だとか、大した人間じゃないとか、そういう《事実》があらかじめあるわけではない。これは他人にひどい言葉で無能力を指摘されたことがあれば誰でも経験的によく知っていることだ。私はそう考える。


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●いま母が入院中なので家事をしている。自分は主夫もできると思った。そして寺の住職兼研究者兼主夫としてなら結婚生活も想像できると思った。生まれて初めて結婚についての現実味のある想像ができた。

●私は研究者というガラではないが、民間宗教施設の現場という立場からの社会学的調査をするなら、一抹のアドバンテージがないこともない。

●寺は最低でも檀家数300ないと食っていけないなどど巷間よく言われるが、何の根拠もない。古いデータだが、1984年の調査で、檀家数300の某寺の年収が1430万という数字がある(新田光子「ある真宗寺院の経済事情」)。葬儀が年11回、法事が月平均9回でこの年収らしい。いったいどれだけ包んで貰っているのかと驚かれるかもしれないが、「永代経志」と呼ばれる特殊な布施と「祥月命日」「月忌まいり」のぶんの布施を除外して単純に葬儀と法事だけの収入で計算すれば、年収710万円となる。このように単純化すれば他寺との比較が容易になる。「祥月命日」「月忌まいり」はどこの寺でもやっているわけではないからである。

●そこで檀家数80、葬儀年6回、法事月3回の拙寺と上記の某寺を比較する。拙寺は某寺と比べて葬儀回数が半分、法事回数が3分の1と考えると、年収は約277万円ぐらいだろうという推計が成り立つ。実際はそんなに多くない。某寺は広島県のとても信仰に篤い地域の寺らしいので、それほど篤信的ともいえない地域にある拙寺とはおのずから差がある。しかしこの推計はそれほど実際と大きく隔たっているわけではないのだ。つまり寺とはこの程度の繁忙度でもこれだけの収入を得ているものである。共働きのサブ収入としては充分だ。万一子供ができてもいわゆる育児負担軽減のための祖母力を活用できる。私の母は高齢だがおそろしく健康で風邪ひとつ引いたことがなく、農家の娘で華奢な割に頑健で、性格はずぼらで脳天気、本を読むのが好きらしいので頭もしっかりしていて、百十歳ぐらいまで元気に生きると思う。こうして考えていくとある限定された条件の元でなら自分は結婚にも育児にも恵まれた環境にいる。

●私の結婚観は以前ちょっと書いたように否定的なものだ。もともと全く興味がないうえに相手が外部から寺という特殊社会に入って呻吟するかもしれないことを思えば問題外だったわけだが、上記の発想によって私の結婚可能性はマイナス無限大からゼロになった。これも母が入院してくれたおかげだ。今回得た教訓は普段空気のように居座っている者がいたら一度追い出してみれば思わぬ着想があるかもしれないということだ。


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『地域アート――美学/制度/日本』を読んだ。よく言えば多彩、悪く言えばまとまりがない。概念がきちんと立っていないところも多く、おそらく文章表現技術上の問題で何が言いたいのか伝わらなかったところもある。読み通すのも一苦労だが、だからこそ批判的に読むことができ、示唆に富む建設的な議論として受け取ることができると思う。

●ピカソの絵の芸術的評価と、その絵が何億で売れたというマーケットの評価がまったく別物であるように、地域アートの芸術的評価と、そこへ参加した人たちの幸福度の上昇とはまったく別物であるはずだ。それを混同して「参加した人が幸せになるということを、芸術性の評価として用いることで、本当にいいんだろうか」(p.426)などと疑問を呈しているピントのズレが全編にみなぎっている。誰も参加した人の幸せ度を芸術性の評価基準になどしていないのに。

●同じようなズレがアートを食っていくための仕事として見る議論にもある。美大教授が若いアーティストにドロドロしたアートマーケットからは距離を置くよう要請するのを「清貧芸術家思想」と揶揄するという風にそれは成される(p.359)。これはなにもアーティストは浮世離れした仙人ではないので資本主義のシステムとも積極的に関わらなければならないとするのが悪いと言うのではない。むしろそれは大事なことだ。ただ別次元で論じるべきものを混同しているのがいけない。

●たとえて言えば、寺の僧侶が檀家の減少を嘆いて寺院経営基盤確立の必要性を必死で説くのを見て、あなたは何を思うだろうか。そういう経済的なことは宗教が関わるべき生死の問題とは無関係だと思わないだろうか。アートも同じだ。アートが地域振興の道具にされているとか、マーケットで巨額の金を生んでいるとか、そういうことはアートをとりまく状況として確かに存在するだろうが、それらはアートそのものとは別個に論じるべきではないのか。本書の至る所にこの種の混同がある。

●では、アートそのものとは何か。残念ながら私はそれについてはここ数回のこのブログで書いた以上の答えをまだ持っていないが、考えるのをなおざりにしてはいない。

●《美》という複雑微妙な観念をアートの評価基準にするのも危うい。自然美にしても、風景画が描き始められたのはそんなに古いことではないし、色川武大などは「富士山が怖い。あれぐらい異形なものはちょっとほかに思いつかない」と言った(『怪しい来客簿』)。首長族にしろ中国の纏足にしろ、肉体の一部を畸形的に誇張することの美は文化が違うともう理解できない。いや同じ文化の中にいてさえ、異性の好みなどは人によって全く違う。何を美とするかの万人を納得させるに足る定義などできそうもない。

●最後に、アマゾンのレビューでケチョンケチョンに貶されている紙面の見にくさについて。本文の文字は実測で12級(8ポイント)、青っぽい紙に藍色のインクで印刷されているのでたしかに読み易いとは言えない。しかし行間も適切に取られているし余白も多い。少なくとも可読性にまったく配慮していない組版ではない。これなら手元に明るいLEDスタンドがあればストレスなく読むことができる。


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