『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践』を読んだ。私はこの「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という用語を初めて聞いたが、今となってはこれが主流のアートだと思う。デュシャンの『泉』(1917)あたりからこっち、社会的文脈をその構成要素として含まないような芸術は批評の枠からはずされる。何が主流か傍流かを決めるのは多数決ではない。印象派の時代に印象派っぽい絵ばかりが描かれたわけではなく、数のうえで圧倒的多勢だったのは普通のリアリズムの肖像画などだった。それでも印象派は内在世界への幸福な溶融的没入の果てに空虚をひらいて表現主義の “無からの叫び” を準備したという位置づけによって歴史となった。同じように抽象・ダダからシュールレアリスムを経て自己解体に至り、今また建設の苦しみにあえぐ現代アートにとって、プロセスや社会的文脈を含まない(=非時間的かつ個人的な)アートは傍系にすぎない。
 
ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって
アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会
フィルムアート社
2018-07-26


●順序として、まずアートの定義をしておこう。アーティストがやむにやまれぬ思いから成す世界具現をアートという。それはさまざまな形をとりうる。自己表現へ向かうこともあれば潔癖なまでの自己滅却に徹することもある。リアリズムになったり抽象主義になったり、時間的であったり空間的であったりする。「彼の人生は一個のアートだった」というような言い方もできる。なぜその作品をつくったのかアーティスト自身にも説明できないことも多いだろう。しかし必要条件として、そうせずにはいられないという内的な衝迫から成されたものであることが絶対で、それがなければどんなに巧緻で万人を感動させる作品であってもそれをアートとは呼ばない。

●アートは状況の産物である。この本との関わりで言えば、ここで扱われているソーシャリー・エンゲイジド・アートは建設的・非パンクであることを特徴とするだろう。そこに最大の意義がある。かつてアヴァンギャルド芸術は破壊的でパンクだった。『泉』は言うまでもなく、60年代日本のハイレッド・センターあたりまではパンクだった。しかしいつの頃からか「いまさらパンクでもないだろう」という状況が支配的になった。先日のバンクシーのシュレッダーはパンクであり、かつ、かっこいいという稀有なものだが、それは芸術作品がオークションで高額取引されるという習慣が非常に強いものとしてあるからで、特殊な状況である。パンクであることがかっこいいという不幸な状況。

●建設的・非パンクであることによって、ソーシャリー・エンゲイジド・アートは地方活性化の唯一の切り札だと私は考える。大都市よりも地方小都市のほうが社会との密な関わりがしやすい。

●地域の中で誰もが日々やっているような仕事、たとえば私であればドメインを取って自分の主管する寺の公式サイトを作り、世界へ向けて発表する文章を書き、法要やイベントを組織するなどの、こういう一連の社会的実践をアートでないという理由はない、ということを教えられたのがこの本を読んだことによる最大の収穫だった。

●以上、偶然Facebookでこの本の読書会が近々開かれることを知り、とりよせて一読してみた感想である。希望しかない。あとは読書会にひとりでも多くの人が来てくれれば。


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●大川興業第42回本公演『イヤホン』観る。この公演のことはちょっと前の朝日新聞で知った。場内を真っ暗にして観客にワイヤレスイヤホンを装着させて音声を流す演出だそうで、私も昔、同じことを考えていたので興味をそそられ、神戸まで観に行くことにした。於・神戸アートビレッジセンター。

●しかし、内容は何を言ってもネタバレになるので言えない。場内は非常灯も消した完全無欠の暗闇になるので非常時のためにペンライトを渡された。「暗闇演劇」は大川興業の登録商標であり「舞台演出支援方法」の特許を取得しているそうだ。

●劇場でもらったチラシの大川総裁のプロフィール写真は一体いつのだといいたくなるほど昔のやつがそのまま使われていたが、まあ彼は全く顔が変わっていないからいいんだろう。昔は天安門事件をネタにして「♬ぼ・ぼ・ぼくらは人民解放軍ハイ ♬ババンババンバンバン うちころすぞ」などとラジオの生放送でやっていた。


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●母のお供で病院へ。白内障の手術前検査のため。必ず家族同伴でなければならないらしく、診察室の中まで付き添いで入っていろいろ説明を聞いてきた。高齢者だからか要領を得ない。いつ頃からどのように見えにくくなりましたか? というような簡単な質問に対してさえ「いえいえいえそんな大したことないんですよ(笑)去年ぐらいからちょっとぼやけるぐらいで(笑)」などとヘラヘラしているので私は「数年前からだろ(怒)ちょっとじゃなくて満月が6つに見えるぐらいだろ(怒)」と横から訂正を入れるのだがそれでも母はあくまで症状を軽く言おうとする。なんなんだ。こういう老人が多いから病院側も家族同伴を義務づけているのだろうか。

●『サピエンス全史』『星を継ぐもの』『ジェイルバード』読む。(今『星を継ぐもの』を購入してしまったのは読書スケジュール的に不本意だが。)読書会があるというので『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践』を注文。


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