●まず城崎国際アートセンター(KIAC)で『バッコスの信女——ホルスタインの雌』を観た。去年あいちトリエンナーレで初演されて賞賛を集めた市原佐都子の岸田戯曲賞受賞作である。最初から出ずっぱりの主婦(兵藤公美)の演技が煮え切らなくてもやもやするのはおそらく意図的な演出だと思う。ほかの登場人物が普通の人間ではないのに対して、この主婦だけはどこにでもいるわれわれと同じ愚かで不確定な人間であるという点で際立っている。だからエロへ振り切るでもなく羞恥を払拭するでもなく、露悪が宙吊りで、これだけは観ていて苦痛を感じるようにできている。つまり「なんだこの下手な女優は」となるので、彼女こそいい面の皮だ。そもそも冒頭から舞台上に一人放っておかれて超ウルトラ長科白を強いられるので本当にやりにくい役だと思う。客席が明るく、舞台との境界が曖昧なまま始まり、観客も登場人物であるかのように演者に話しかけられるので、女だけに入場制限すれば作品世界はより徹底されるだろうし、男だけに入場制限すればこの歪さが少しは緩和されるだろうと思う。

●出演俳優の性別が全員女だというだけではなく、役割の上では去勢された犬でも、象徴的なペニスをそそり立てた半獣半人でも、作品の中ではすべて女であるらしい。男は舞台上に出てこないだけではなく、視線すら全くない。異性の視線が眼中になく、拒否と嫌悪しかないことを強調するかのように、劇中劇のような形で〈異性の視線に興奮する女〉の映像が挿入され、しかもそれも演技である。とはいえ受胎のためには男の精子が必要だという依存関係は厳然とあり、誰もここから自由ではいられない。そこで関係構築の努力を放棄して一足飛びに神を求めたり、通販で精子を買ったりする。男は女でありペニスはクリトリスかもしれないが、後者から命の素は出ないのだ。

●主婦は生活の安定とひきかえに四つん這いになって尻を突き出す。ドドドドレ・ミ・ミーという印象的な旋律のコーラスを伴奏に「私はアイロン台ー」と凌辱され続ける女と同様、台雌(だいめす)と呼ばれるアイロン台に似た器具に乗せられて精子を搾り取られ続ける雄牛の尊厳も平等にないがしろにされている。種牛は一生童貞だ。(台雌という言葉と旋律は後日譜面つきの戯曲集を買って読んで確認した。戯曲では「わからない者」という登場人物がいるが、今回の再演では出てこなかったのではなかろうか。)

●次に豊岡市民会館で中堀海都+平田オリザ『零(ゼロ)』を観た。現代音楽のオペラであり、中堀海都初のオペラ作品であり、世界初演である。私は現代音楽にもオペラにも全く詳しくないし、現代音楽でオペラをやるということがどれほど稀有なことなのかも知らない。何をもってオペラと呼ぶのかもわからない。なぜこれを観に行くことにしたかというと、家が近いからだ。当日券が出ていたので急に行くことに決めて自転車で出かけた。盛況だったが無事に入場でき、前のほうの席が取れた。『バッコスの信女』と同じように客席が明るいまま徐ろに始まった。初めて見る指揮の中堀海都は宮田裕章のような銀髪、死神博士のような長身、落合陽一のような黒い服、背中しか見えないが、パフォーマーとしてのオーラは十二分だった。アリアは「これがアリアか……」と思わず言いたくなるほどの痙攣的な発声で、何を言っているのか全くわからなかった。海風と波の音は最初SEかと思ったがそうじゃない。ファゴットでかすれたような空気音を出しているのだ。そんなんありか。私にとっては難解ではあるが、現代音楽の曲としては突飛なものでは全然なく、ブーレーズとか武満とかあんな感じの、きわめて正統な感じがした。もちろん一音残らず譜面通りに演奏しているのだろうとは思ったが、舞台をバミったテープをベリベリベリと剥がす音も厳密に譜面で定められていたと後日トークショーで聞いてちょっと面白かった。若山牧水の歌「白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まず漂う」をライトモチーフに、おそらくサナトリウムのようなところで、不治の病に冒された女三人が「海と空がつながっていた」という悪夢などを語る話だった。村上春樹の『ノルウェイの森』が一つの源泉になっているそうだ。

●来る9月19日(土)11時より「対話する演劇祭」トークシリーズ『演劇は可能か?』の一環として中堀海都と平田オリザのトークイベントが催される。テーマは「オペラを作る」。詳細は公式サイトのお知らせを参照。この作品の話も当然ふんだんに聞けるだろう。さらに、市原佐都子の次回作もプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を題材にしたものだそうで、偶然ではあるが、同い年の若き世界的なアーティスト二人が地元の演劇祭でオペラを介してつながったのを目撃できたのがうれしかった。これを機にコラボなんてことになれば凄いなあと思う。