日本で唯一のホームレスのホスピス『きぼうのいえ』の創設者. 山谷のミリエル司教、山谷のオスカーシンドラーこ と、実はガストン。森田ミツ。大津神父。水島上等兵  

東京の下町、日雇い労働者、ホームレスの方のあふれる、かつてのスラム街、 山谷地区に、日本初のホームレスのホスピス『きぼうのいえ』創設者のブログ このホスピスは、専門的には、在宅ホスピスケア対応型集合住宅的施設と呼称 します。インドの聖女、マザーテレサの『死を待つ人の家』の日本版を目指しています。

【自己履歴書】

著者 山本雅基 連絡用メール kibounoie777@mbm.nifty.com

        電話 090-5823-6548 24時間対応いたします。

昭和38年 東京、両国生まれ
幼少より、道端に捨てられている犬猫を見捨てられずに連れて帰り、幾度も叱責を受ける。

将来は可哀想な生き物をお世話できる大人になろうと思う。

【小学校時代】

父親の都合で転校を繰り返し、ひどいいじめを受ける。

パニック障害、強迫神経症、抑うつ神経症、連続嘔吐、自死発作に苦しむ。
小学校4年時。映画『砂の器』(松本清張原作、山田洋次監督)を見て、この映画の音色とトーンが本人の人生の通奏低音(レチタティーヴォ)になる。この映画は通観100回以上。

【中学校時代】

芹沢光次良『人間の運命』全14巻を読み通し、「将来は世の中に裨益する人間になろう」と決意する。学級委員長、生徒会副会長、生徒会長を3年間務める。

【高校時代】

将来は司法試験を取り、裁判官を志す。しかし、人を裁くのは性分に合わぬと判断して明治大学附属高校を中退する。NHK学園高校通信制に転校して卒業。
映画『ブラザーサン・シスタームーン』を見て、イタリアの聖人アッシジのフランチェスコのような生き方を望むようになる。

三浦綾子『塩狩峠』を読み、他者のために殉職する鉄道員に倣いたいと思う半面、飛び込めないであろう実際の自分の信仰の弱さこそ、神の愛の中心ではないか、と考える。

倉田百三『愛と認識との出発』、トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』に触れて確信は深まる。その当時、両親からは「出世も富裕も意味がない、魂の貴族になりなさい」との薫陶を受ける

賀川豊彦(基督教社会主義)の神戸の貧民窟での伝道書『死線を超えて』を読み、畏怖の念と同時に、自分には出来ないと思い込む。

【大学時代】

ある屈指の大学の哲学科に在籍する。学派の多さと正否の悩みから、「知」の追究によ
る人生の謎の解明は不可能かと思う。

1985年.日航機123便墜落事故(死者520名)の自己に正対し、ノイローゼになる。
大学を中退し、キリスト教会(プロテスタント)の門を叩く。同年、洗礼を受ける。
人を裁く裁判官ではなく、人を赦すのが仕事である神の僕になろうと聖職者を志す。

国立がんセンター中央病院(当時)の小児科で小児がん、白血病の子どもに勉強を教えるボランティアに専念する。当時は、骨髄移植もない時代で、小児がんの5年生存率は0%。即ち、「全滅」との看護婦長からの情報に愕然とする。埼玉県川口市の青少年相談員となり地元での活動にも力を注ぐ。この頃、ホームレスのおじさんを連れてきては、生活させる小さな活動を積み重ねる。

【第2 の大学時代】

人間の救済論の探求から、第2バチカン公会議以降の神学に傾倒し、カトリック・レデンプトール会の志願者となる。同時に上智大学神学部司祭過程に再入学。
この当時、小児がんの子どもを持つ親を支援するファミリーハウス運動に傾くと同時に、修道司祭には神学的にも性格的にもなりきれないと判断して、修道院を出る。
1995年、同大学神学部を卒業

【社会人生活】

1989年より、NPO法人「ファミリーハウス」の初代事務局長を11年間務める。
経団連社会貢献部、1%クラブに出入りしては、企業訪問を行い。P・F・ドラッガ―の
『非営利組織の運営』等の著作を読みこなす。訓練を受け、300社以上の社会貢献部への働きかけに専念する。この時代、300人以上の子どもの死を看取る。
 住友生命保険相互会社を口説き落とし、70㎡のオフィスビルの1区画を11年間にわたり、無償で借受けることに成功。ファミリーハウス運動全国ネットワークの初代中核者として、
企業セクターとNPOセクターとの連携の手法を学ぶ。日産自動車、パナソニック、富士ゼロックス、SONY等の部長等から薫陶を受ける。それは単純なことで、企業も人であるから、人物を鋭く観る。それに相応しい信念と熱情(パッション)があるか、彼のためなら俺たちもひと肌脱がなくては駄目だと感じさせる強さが必要なのだと学ぶ。
2000年、ついに、日本マクドナルド、アメリカンファミリー生命保険、日本化薬、北海道電力等が本格的に支援すると同時に、国からも19億円のファミリーハウス整備予算がつく。
 この頃から自分のこの仕事での役割は終えたと判断して退職。

【そして山谷へ】
 
インドのマザーテレサが行っている『死を待つ人の家』の日本版を求めて、山谷に移り住み、
2002年、民間の信用金庫から単身で1億1500万円の融資に成功。あるキリスト教団体のシスターを説得して5000万円の寄附を得る。また個人の篤志家から3000万円、1000万円、500万円と寄附を受け、山谷の地の中心にホスピスケア施設『きぼうのいえ』21床21名、鉄筋5階建てを建築して開設、2017年までに、200名ほどの元ホームレスの方々を看取る。同法人の理事長、施設長を15年間行う。
 今年7月、リセットと将来へのジャンプを考えて、周囲の決断もあり、役職は退任し、
現在は「きぼうのいえ創設者・理事・顧問」となる。

 慶應義塾大学からの招聘に応え、2010年より、特別招聘講師として講義、全国の講演活動、執筆活動、マスコミメディア対応を中心に現在も活躍中。

【いまと、これから】

 今年、6月、自宅の1階を、カトリック・ヨセフ・ピタウ大司教記念娯楽室として私費を投じて24時間開放。入浴等すべて無料。24時間営業のキリストの私的伝道施設として一切施錠せずに出入り自由。もし不測の事態、事件等により帰天した場合は殉教の覚悟で専心。

 今後、社会福祉法人を立ち上げ、東京23区初の救護施設を開設すべく奔走中。
 終始一貫して神の僕であるこという初心を忘れずに、上司は神様・イエス様のみと心得ると同時に、仏教、神道との協調路線を邁進中。
 
映画『ビルマの竪琴』の水島上等兵、遠藤周作の『深い河』の大津神父のように生き、そして死ぬことが夢。
 
しかし、それではあまりに恰好が良すぎます。
私はもっとバカです。遠藤周作の作品の登場人物の「私が棄てた女」の『かわいそう』しか言えない「森田ミツ」。
「おバカさん」の「ボナパルド・ガストン」。飼っていたいた犬が死んで『動物さん、犬さん 死ぬこと とーても かなし。 ウオーン』と泣くことしかできない。
そんな愚者こそ真実の私でありたい。

【賞罰】

社会貢献者賞(社会貢献推進財団)
毎日福祉顕彰(毎日新聞社、毎日社会事業団)
保健・文化賞(第一生命保険、厚生労働省、朝日新聞厚生文化事業団、NHK厚生文化
         事業団)

【大切にしている言葉】
死なない命 過ぎ去らない幸せ 滅びない愛

神様は実り豊かな人生を祝福されますが、何の収穫もなかったかのように見える人生をもっと祝福される。
 (アントニー・デ・メロ神父 イエズス会士)

 山谷では私を「山谷のファザー・テレサ/山谷のオスカー・シンドラー」と呼んでいるようですが、そんな英雄ではありません。

ただの愚かしい善人にすぎません。

                  山谷のスラム街から祈りのうちに……

山谷には長く活動をしているNPO(非営利組織)があるが、その中でも秀でている団体に山友会(さんゆうかい)がある。20年あまりの歴史を持つこの団体は主にホームレス支援をしてきた。きぼうのいえから徒歩3分のここは山谷の路地に入ったところにあり、いつもホームレスのおじさんやドヤに住む独居高齢のおじさんたちで賑わっている。入口には、パイプ椅子が並んでいて、たくさんの人が日向ぼっこをしている。いつもお茶が振舞われていて、なんともレトロな風情だ。時間を決めて路上でボランティアによる散髪なども行われている。

 

山友会の活動には大きく分けて2つの活動がある。ひとつは、建物の一部を使って行われている無料診療所「山友クリニック」の活動である。ホームレスのおじさんには健康保険がないため、ここの存在はおじさんたちにとって心強い味方だ。お医者さんも完全なボランティアで、心あるドクターたちがシフトを組んで診療にあたっている。薬剤も各方面からの寄付や購入によってなされている。きぼうのいえがはじまった当初の数年間は、きぼうのいえの一室が山友クリニックの院外ベットとして提供され、路上生活では厳しい体調のおじさんたちの休息の場所として、温かい部屋と食事が用意されていたという時期があり、きぼうのいえとの関係も密接だ。現在では、山友会自体で「山友荘」という無料低額宿泊所を持ち、診療ならびに宿泊を必要としている人たちの憩いの場として用意されるようになった。

 

 もうひとつの活動は、アウト・リーチと呼ばれるもので、山友会の2階でボランティアたちによっておにぎりが用意されて、それを持って隅田川一帯のホームレスのおじさんを訪問して、安否確認や、ささやかだが食の提供が行われている。劇的な活動ではなく、息の長い根気のいる仕事がボランティアを主体に続けられている。今言った山友会の2階は、畳敷きになっていて、高齢で身体のハンディを持ったりしているホームレスのおじさんたちのサロンのような働きを果たしている。

山友会の顔は、代表のルボ・ジャンさんだ。山友会の司令塔でありながら、おじさんたちと同じ目線で気配りをしている有名人だ。

 

 きぼうのいえをホームレスのおじさんたちのための後方支援部隊とするなら、

山友会は前線基地であるとも言えるだろう。山友会の存在で命を救われたという人たちも少なくはないだろう。

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟のこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイによる福音書2540節より。

きぼうのいえがある通称山谷は、いたるところ簡易旅館、ここかしこがドヤだらけだ。ドヤとは宿(やど)をひっくり返した呼び名で、おじさんたちが自虐的に自分の住まいを表現するのに使うことばだ。

 

わずか一キロ四方に満たない地域に、百六十ものドヤが軒を連ねている。かつての高度成長期には、おじさんたちがここをねぐらに毎日工事現場に通い、肉体労働者の汗の染み込んだ場所となっていた。でも今はすっかり様がわりしてみんな高齢化してしまい、生活保護を受けるおじさんたちの終の棲み家となっている。一部屋わずか、二畳か三畳間なのだが、すっかりドヤが自宅化している様子が見てとれる。

 

昔は、帳場(ホテルで言うところのフロント)には、情の深い心優しいおばさんたちが控えていて、仕事から戻ったおじさんたちをわが子のように扱っていた。「ちゃんとご飯食べたかい?」「酒ばかり飲んで身体壊しちゃ元も子もないから気をつけなさい!」なんて言っていたという。

 

おじさんたちにとっても、ここはわが家であり、福祉事務所のワーカーさんたちが、彼らの健康を心配して、施設への転居や病院への入院を勧めても、首をたてに振らないこともしばしとか。「住めば都」とはこのことかと思う。そんな山谷も最近大きく変貌しようとしている。ドヤの持ち主の子どもたちが親のあとを継がず、いわゆる生活保護者で成り立ってきた「福祉宿」が減少する一方で、安く国内を旅するバックパッカーの、廉価な観光宿のまちに衣替えしているのだ。山谷から浅草まで歩くと三十分足らず。その二キロあまりのバス代まで倹約して旅して歩き、山谷の下町風情に満足感を覚える外国人も多いと聞く。そんな目で山谷を眺めるとき、「福祉宿」と「安い観光宿」の共通点は、庶民に開かれたまちづくりということにたどり着く。外国人にめちゃくちゃな英語で「シーユーアゲイン!!」なんて話しかけるおじさんなんかもいたりして、クスリと笑いを誘う場面に出会うこともあったりする。そんな意味で、山谷はとにかく貧富の差を問わず、また生まれ出生を問わず受け入れる、懐の深い、昭和の香りを残したいい街だと思う。ぼくにとっても、ここが第二のふるさととなって、たぶんここで死んで行くんだろうと思うけれど、それもいいなって感じるようになってきている。そして、ぼくもいつか天国に帰る日がくる。その日をたのしみにしながら、ぼくは山谷で生きるつもりだ。聖書にこんなことばがある。「ところは実際は彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブライ人への手紙1116節)。

僕が山谷に住んでもう15年になろうとしているが、この山谷という街には、他の普通の市街地とはちょっと趣が異なる点がいくつかある、これから数回にわたってそんな街の風情について書いてみたい。

 

僕が山谷に来て最初に気づいたのは、ここには床屋さんが人口に対して非常に多いことだ。昔、手配師(おじさんたちが若い頃、毎朝仕事に就くために集まる人を束ねて車に載せる職業の人)の人が道々に立っていた街路の四つ角に立つと、ここかしこに、クルクル廻る床屋さんの印がいっぱい目につく。その数はちょっと半端じゃない。

 

 僕もそんな店の一つの常連なのであるが、そこの理髪師の方に話を聞いてみると、山谷のおじさんたちが、いかにおしゃれであったかがわかる。それはそうだ、一キロ四方に満たない街に3万人もの男たちが住んでいたのだもの、髪の毛を整えるお店がたくさんあってしかりだ。この間も床屋さんに入るなり「旦那!これからご出勤ですかい?どんな髪型にしましょう?」と聞かれた。「旦那?」そんな風に呼ばれたのも初めてだ。僕が「簡単でいいんですよ、髪の毛をすいて揃えるだけでいいんだ」っていうと、「お客さん、小一時間はかかりますぜ、お時間ありますかね? おらあ職人だからそん位の時間はどうしたってかかるんでっせ」ときた。「あっ、はい!」と答えたものの、その職人さんといったら仕事への念には念のいれようはまさに真剣勝負。「旦那、昔っからね、山谷はおしゃれな輩がたくさんいましたですよ。頭を整髪するんだってね、頭に付ける香料だって銘柄指定のお客人がいて、みんなビシって決めてましたからね」。それからミクロン単位で髪の毛を揃える手つきで仕事にかかる。そうしながら客をヒマにさせないように、昔の山谷の話をしてくれる。「昔はねー、ここから二キロ先の上野の駅までが見えたんですぜ。昭和二十年の三月十日の東京大空襲のときににゃあ、ここも全部やられちまって、一面焼け野原ですぜ。それからですかねえ、東京都とGHQ(在日米軍の総司令部)の指示で、このあたりに戦災で焼け出された人たちのためにドヤがテントを張って営業を始めたのは……」、「いやあ、みんな焼け出された人が上野やら浅草の地下街に集まっていたんですが、赤痢やらの伝染病対策で、ドヤがそんな人たちを泊めるようになったんですよ。」と話は及ぶ。

 

 

 僕が、「これまでで、どんなことが一番印象深かったですかね?」聞いたら、「いやあ、お客さん、あるとき米兵がお客で来ましてね、あっしがヒゲを剃ろうとしてナイフを首に当てようとすると、白人の兵隊さん、すごく警戒して、腰からピストルを抜いて、あっしのこめかみに銃口を向けたんです」「兵隊さんも日本が負けた恨みからコイツに動脈を狙われちゃ堪らんとおもったんでしょうね。あっしもドキドキしながら整髪しましたぜ。引き金をひかれたらその場で天国行きだもんねえ」。う~ん、この職人さん、齢はもう八十位だろうか。しゃべりの江戸っ子口調も内容も、まさに昭和時代の生き証人というところか。

 こういう職人さんには、いつまでも頑張ってほしいと思のだが。

 

読者の皆さんは、「ホームレス」といえば、男性だと思うのではないでしょうか。でも、実際には全体から見れば少数ですがいらっしゃるのです。

 

 

 H子さん、七十代半ば。山谷からほど近い隅田川に掛かる橋の下でホームレスとして生活していました。Hさんの出生は信州。実家で先代から引き継いだ老舗の蕎麦店の女将を三十年以上にもわたって努め上げてきたのです。

 

 ご子息が一人あり、この子が成人して一度結婚、そして五年で破綻し離婚。そして二回目の再婚というときに、この後妻とHさんの関係が最悪だったのです。休日には、自分だけ留守番をさせられ、一家は彼女を除いて行楽地へ……。掃除、洗濯、お台所の洗い物、かなりの家事まで押し付けられて、それはそれは辛い日々。でも、蕎麦屋の女将として、お客様の前では気丈に振る舞い笑顔を振りまく二重生活だったといいます。ご子息は、完全に再婚した妻の味方で、Hさんの訴えにはいっこうに耳を貸すことはなく、妻と一緒になっては彼女を責めたといいます。

 

 

そんなある日、Hさんがテレビを見ていると、上野公園で詩を短冊に書き、それを売っては生計をたてている女性ホームレスの番組を見ます。その時、Hさんに大きな人生の転機が訪れるのです。「もうこんな生活我慢できない!東京へ行ってホームレスになってやる! 」そう彼女は決心して信州を後にホームレスになったのでした。元々Hさんには文才があり、女将として働いていたときから著名な俳人の師弟として、時折上京しては俳句の指導を受けていたといいます。隅田川を眺めながら句を詠む日々が続きます。生活とはというと、女将だった人徳からか、周囲のホームレス仲間から「姉さん」と呼ばれ、食事の施しを分けてもらいながら、空腹をしのいでいたそうです。彼女のダンボールハウスの前には、施しをもらうための空き缶が置かれ、時には、道行く人に俳句を売って過ごすという、そんな日々を二年間にわたって続けていたのです。

 

 そして、ある日彼女は急に胸の息苦しさを覚え、百十九番通報。緊急入院となりました。病名は「重篤な肺気腫」。呼吸器を付けながらの治療。やがて病状も安定してきました。退院の日が近づきます。T区の福祉事務所もHさんを路上に帰すわけにもいかず、結局「きぼうのいえ」を終の棲家とすることになり、入居となりました。彼女のここで過ごす日々は幸福そうでした。時折僕が「信州に帰る気はないの?」と訊くと、「あたしはここで死にたいんだよ。施設長さん、ここにずっと置いてちょうだいよ」というばかりでした。

 

 彼女のその後、肺気腫が重くなり、病院に再入院。気管切開の手術を受けて、声帯を切除。言葉を喪いました。でも、彼女の生きる気力は衰えていないようです。今は、傾聴ボランティアの援助を受けながら、筆談で、「Hさんの波乱の人生一代記」を記録する日々が続いています。Hさんが「きぼうのいえ」について批評した俳句にこうあります。

 

「浮草に根をくれし館、天の川」

僕は彼女が人生を肯定しながら、幸せな最期の日を迎えてくれるよう祈るばかりです。

そこは山谷にある小さな会堂のようなアパートの一部屋だった。正面には十字架が飾られて、八人の男たちが聖書を輪読していた。

 山谷と犯罪、それはある意味、歴史的にも業とも呼べるほど、密接な関係がある。山谷は江戸時代から東北地方から江戸への玄関口として機能していた。

 

 この地には、さまざまな理由から江戸を訪問する人々がいっときの停留地として、心身を休める場所であり、いわゆる素泊まりの木賃宿が立ち並ぶ場所であった。人々の多くは、商人であったり、目標を持った旅人でもあったが、故郷で訳あって居られなくなった人々や、ふるさとを追われた人、逃避行を行う人々の住む寄せ場でもあった。

 

現代日本でも、この場所の特性には変わらぬ部分がある。今日、このアパートの部屋に集った八人は、聖書の勉強会に集まった者たちだったが、そのうち六人が刑務所からの出所者、いわゆる元受刑者だ。誰一人として、山谷の生粋の者はおらず、いわゆる「山谷に流れ着いた者」だった。

 

 

Tさん。五十半ばのこの男性は、元来、自分がこころの病に冒されているだけでなく、母親の介護と看病疲れが限界に来て、刃にかけてその命を奪ってしまった。そのとなりの外国人の男性は十年前、奥さんが浮気をしているのがわかり、激昂して包丁を振り下ろしてしまった。その他、殺人未遂、傷害罪、公文書偽造、詐欺……。皆ありとあらゆる罪で、高い塀に永年留め置かれた経験を持つ。今、ここに集まったのは、皆が神さまの愛によって、自らの過ちを悔い、回心し、イエスさまについて行こうと決意していることで共通していた。「はい、じゃあKさん、次の節から読んで。」のちに牧師になる予定で、この部屋の管理をしているW青年も、大学時代から全国各地を放浪したのち、イエスさまと出会い洗礼を受けた。彼も、「キリストに出会わなければ、どうなっていたかわからないな」、と思いつつ、この部屋の管理を牧師に代わってあずかっているのだった。やがて聖書の輪読が終わると、愛餐会(あいさんかい)と言って、皆で食事を共にする集いの時間になった。イエスさまも弟子たちとご一緒に旅をしながら食事の時を持った。弟子の中には、当然のように罪人として人々から忌み嫌われた人も少なからずいたという。そしてイエスさまの行いと愛に触れて人生を変えられ、自己中心的生活から、神さまを中心に置く生活へと変えられていったのだ。イエスさまは、いにしえのイスラエルから現代日本の山谷まで、時空を超えて、神さまのご意思を肉にまとった存在としてずっと福音述べ伝えておられる。

 

 

 W青年はこの聖書の輪読会が大好きだ、もちろん小さないざこざだってある。みんながみんな仲が良いというわけでもない。でもだれ一人として神さまから愛されていない人なんていないはずだ、という信仰がこの集会を支えている。

 

 毎回、同じ聖書の箇所を皆で復唱して食事をはじめる。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコによる福音書217

 

 

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