日本で唯一のホームレスのホスピス『きぼうのいえ』の創設者。山谷のミリエル司教、山谷のオスカー・シンドラーことカトリック信者、山本雅基のブログ

東京の下町、日雇い労働者、ホームレスの方のあふれる、かつてのスラム街、 山谷地区に、日本初のホームレスのホスピス『きぼうのいえ』創設者のブログ このホスピスは、専門的には、在宅ホスピスケア対応型集合住宅的施設と呼称 します。インドの聖女、マザーテレサの『死を待つ人の家』の日本版を目指しています。

【自己履歴書】

著者 山本雅基 連絡用メール kibounoie777@mbm.nifty.com

        電話 090-5823-6548 24時間対応いたします。

昭和38年 東京、両国生まれ
幼少より、道端に捨てられている犬猫を見捨てられずに連れて帰り、幾度も叱責を受ける。

将来は可哀想な生き物をお世話できる大人になろうと思う。

【小学校時代】

父親の都合で転校を繰り返し、ひどいいじめを受ける。

パニック障害、強迫神経症、抑うつ神経症、連続嘔吐、自死発作に苦しむ。
小学校4年時。映画『砂の器』(松本清張原作、山田洋次監督)を見て、この映画の音色とトーンが本人の人生の通奏低音(レチタティーヴォ)になる。この映画は通観100回以上。

【中学校時代】

芹沢光次良『人間の運命』全14巻を読み通し、「将来は世の中に裨益する人間になろう」と決意する。学級委員長、生徒会副会長、生徒会長を3年間務める。

【高校時代】

将来は司法試験を取り、裁判官を志す。しかし、人を裁くのは性分に合わぬと判断して明治大学附属高校を中退する。NHK学園高校通信制に転校して卒業。
映画『ブラザーサン・シスタームーン』を見て、イタリアの聖人アッシジのフランチェスコのような生き方を望むようになる。

三浦綾子『塩狩峠』を読み、他者のために殉職する鉄道員に倣いたいと思う半面、飛び込めないであろう実際の自分の信仰の弱さこそ、神の愛の中心ではないか、と考える。

倉田百三『愛と認識との出発』、トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』に触れて確信は深まる。その当時、両親からは「出世も富裕も意味がない、魂の貴族になりなさい」との薫陶を受ける

賀川豊彦(基督教社会主義)の神戸の貧民窟での伝道書『死線を超えて』を読み、畏怖の念と同時に、自分には出来ないと思い込む。

【大学時代】

ある屈指の大学の哲学科に在籍する。学派の多さと正否の悩みから、「知」の追究によ
る人生の謎の解明は不可能かと思う。

1985年.日航機123便墜落事故(死者520名)の自己に正対し、ノイローゼになる。
大学を中退し、キリスト教会(プロテスタント)の門を叩く。同年、洗礼を受ける。
人を裁く裁判官ではなく、人を赦すのが仕事である神の僕になろうと聖職者を志す。

国立がんセンター中央病院(当時)の小児科で小児がん、白血病の子どもに勉強を教えるボランティアに専念する。当時は、骨髄移植もない時代で、小児がんの5年生存率は0%。即ち、「全滅」との看護婦長からの情報に愕然とする。埼玉県川口市の青少年相談員となり地元での活動にも力を注ぐ。この頃、ホームレスのおじさんを連れてきては、生活させる小さな活動を積み重ねる。

【第2 の大学時代】

人間の救済論の探求から、第2バチカン公会議以降の神学に傾倒し、カトリック・レデンプトール会の志願者となる。同時に上智大学神学部司祭過程に再入学。
この当時、小児がんの子どもを持つ親を支援するファミリーハウス運動に傾くと同時に、修道司祭には神学的にも性格的にもなりきれないと判断して、修道院を出る。
1995年、同大学神学部を卒業

【社会人生活】

1989年より、NPO法人「ファミリーハウス」の初代事務局長を11年間務める。
経団連社会貢献部、1%クラブに出入りしては、企業訪問を行い。P・F・ドラッガ―の
『非営利組織の運営』等の著作を読みこなす。訓練を受け、300社以上の社会貢献部への働きかけに専念する。この時代、300人以上の子どもの死を看取る。
 住友生命保険相互会社を口説き落とし、70㎡のオフィスビルの1区画を11年間にわたり、無償で借受けることに成功。ファミリーハウス運動全国ネットワークの初代中核者として、
企業セクターとNPOセクターとの連携の手法を学ぶ。日産自動車、パナソニック、富士ゼロックス、SONY等の部長等から薫陶を受ける。それは単純なことで、企業も人であるから、人物を鋭く観る。それに相応しい信念と熱情(パッション)があるか、彼のためなら俺たちもひと肌脱がなくては駄目だと感じさせる強さが必要なのだと学ぶ。
2000年、ついに、日本マクドナルド、アメリカンファミリー生命保険、日本化薬、北海道電力等が本格的に支援すると同時に、国からも19億円のファミリーハウス整備予算がつく。
 この頃から自分のこの仕事での役割は終えたと判断して退職。

【そして山谷へ】
 
インドのマザーテレサが行っている『死を待つ人の家』の日本版を求めて、山谷に移り住み、
2002年、民間の信用金庫から単身で1億1500万円の融資に成功。あるキリスト教団体のシスターを説得して5000万円の寄附を得る。また個人の篤志家から3000万円、1000万円、500万円と寄附を受け、山谷の地の中心にホスピスケア施設『きぼうのいえ』21床21名、鉄筋5階建てを建築して開設、2017年までに、200名ほどの元ホームレスの方々を看取る。同法人の理事長、施設長を15年間行う。
 今年7月、リセットと将来へのジャンプを考えて、周囲の決断もあり、役職は退任し、
現在は「きぼうのいえ創設者・理事・顧問」となる。

 慶應義塾大学からの招聘に応え、2010年より、特別招聘講師として講義、全国の講演活動、執筆活動、マスコミメディア対応を中心に現在も活躍中。

【いまと、これから】

 今年、6月、自宅の1階を、カトリック・ヨセフ・ピタウ大司教記念娯楽室として私費を投じて24時間開放。入浴等すべて無料。24時間営業のキリストの私的伝道施設として一切施錠せずに出入り自由。もし不測の事態、事件等により帰天した場合は殉教の覚悟で専心。

 今後、社会福祉法人を立ち上げ、東京23区初の救護施設を開設すべく奔走中。
 終始一貫して神の僕であるこという初心を忘れずに、上司は神様・イエス様のみと心得ると同時に、仏教、神道との協調路線を邁進中。
 
映画『ビルマの竪琴』の水島上等兵、遠藤周作の『深い河』の大津神父のように生き、そして死ぬことが夢。
 
しかし、それではあまりに恰好が良すぎます。
私はもっとバカです。遠藤周作の作品の登場人物の「私が棄てた女」の『かわいそう』しか言えない「森田ミツ」。
「おバカさん」の「ボナパルド・ガストン」。飼っていたいた犬が死んで『動物さん、犬さん 死ぬこと とーても かなし。 ウオーン』と泣くことしかできない。
そんな愚者こそ真実の私でありたい。

【賞罰】

社会貢献者賞(社会貢献推進財団)
毎日福祉顕彰(毎日新聞社、毎日社会事業団)
保健・文化賞(第一生命保険、厚生労働省、朝日新聞厚生文化事業団、NHK厚生文化
         事業団)

【大切にしている言葉】
死なない命 過ぎ去らない幸せ 滅びない愛

神様は実り豊かな人生を祝福されますが、何の収穫もなかったかのように見える人生をもっと祝福される。
 (アントニー・デ・メロ神父 イエズス会士)

 山谷では私を「山谷のファザー・テレサ/山谷のオスカー・シンドラー」と呼んでいるようですが、そんな英雄ではありません。

ただの愚かしい善人にすぎません。

                  山谷のスラム街から祈りのうちに……

 以前、きぼうのいえのエレベータの脇には次のような張り紙がしてありました。『このエレベータは入居者専用です。スタッフ、ヘルパーの方の使用は禁止します』それは僕ときぼうのいえの運営において絶え間ない確執があったソーシャルワーカーが作ったものでした。

 

実は、僕はその張り紙に非常なる憤りを感じていたのです。僕は、きぼうのいえのケアの最重点項目はスタッフやボランティア、ヘルパーさんたちがいつも笑っていて、身体に負担がかからずにストレスを感じない状態にしておくことだと思っていました。僕は、そのソーシャルワーカーを結果的に更迭しました。僕にとって、スタッフやボランティア、ヘルパーさんたちは、入居者さんたちのケアにあたるいわば宝物だからです。そこで更迭後、思い切って僕は次のような張り紙を作り張り出しました。『入居者のみなさん!お仕事でお疲れのヘルパーさん!スタッフさん!ボランティアの方々!どうぞご遠慮なくエレベータをお使いください!』と・・・・・・・。

 

 以前コムスン(今はなくなってしまいましたが)の所長をしていたS氏から、こんな言葉を聞いたことがあります。それは非常に身につまされるものです。「離婚した女性の働き場所、それはコムスンかヤクルトか」というものでした。離婚をして元配偶者からの収入が期待できなくなり、その上、まだ幼い子どもを育てて行くためには、てっとり早く収入を得なくてはならない。そのために2大業界として、ヤクルトおばさんか、介護業界で働く道がベタ-な選択であるというものでした。

 

よく福祉業界と言われる現場では、そこの働き人は時間に追われ、仕事のノルマに追われ、常に忙しく立ち働いていなければならないと聞きます。けれども僕の福祉現場のありかたの理想はそれとは真っ向から対立するものです。働き人が仕事に疲れて覇気がなく、いやいや仕事をしているようでは、利用者さんは決して元気にはならないはずです。

 

そうではなくて、働き人が元気で、顔色もよく、いつも笑顔でいられてこそ、そのポジティブなエネルギーは利用者さんに反映されて、彼らが元気になるのではないか。そう僕は思うのです。働き人は決して利用者さんの『下僕』や『召使い』、あるいは『使い走り』ではない、そうではなく、互いがフラットな関係でいてこそ初めて本当のケアが醸成していくのだと考えています。

 

僕は、きぼうのいえのスタッフが午後3時のおやつのような時間に、ささやかでもいいからお茶とコーヒーなどで情報交換と歓談のときを持つことを積極的に推奨しています。そして、働き人が『笑い、喜び、シェア(分かち合い)』をすることこそが、働き人の仕事へのインセンティブやモチベーションが向上すると信じています。

 

僕は、福祉業界の3Kの現場にする気は毛頭ありません。ここにこそ、GOODBESTSMILE3つが揃った世界一の笑顔工場でありたいと思い、この世界のオピニオンリーダーとして、また積極的な先駆的役割を働かせることのできる運営者として働き人たちの地位の向上に努めたいと思います。

 

 

 

 

僕が山谷にホスピスを作りたいと考えたとき、一体全体ホスピスとはどんな思想に貫かれているべきなのかと思い悩み、鹿児島でホスピスケアをしているというD医師の話を聞き、電話をしたことがあります。 

 電話を入れたら開口一番、「日常だよ!」でした。それ以上は何も言ってはくれませんでした。僕は考え込んでしまいました。

 「日常ならば普段僕たちがいつも過ごしていることだ。それなのに『ホスピス』という特別な場所を作って『日常』をすごすというのはどういうことなのかな?

 そんなとき、僕は日常には普段僕たちが使う意味での『日常』と、日常ではあるけれども普段の日常とは違う『日常』があるのかなと仮定してみることにしたのでした。

 

そんな日々を過ごしているうち、ある書物に出会ったのです。それが以下の記述です。

 

 『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』より  (井村和清著 祥伝社刊)

 

癌の再発を知って(つまり余命は3~4ヶ月だと知って)

病院を後にしたその夕方、著者は不思議な光景を見ました。

 

(検査の結果、癌の再発が明らかになった)

その夕刻。

自分のアパートの駐車場に車を止めながら、

私は不思議な光景を見ていました。

世の中が輝いて見えるのです。

スーパーに来る買い物客が輝いている。

走りまわる子供たちが輝いている

犬が、

垂れ始めた稲穂が、

雑草が、

電柱が、

小石までが美しく輝いて見えるのです。

アパートへ戻って見た妻もまた、

手を合わせたいほど尊く見えたのでした。」

(本書「再発」より)

 

 

僕はこの文章を読んだとき、『悟り』ということを感じました。

 

 

ある村に悟りを開いたという高僧がいたとしましょう。

 その高僧に会いにいったら空中浮遊をしていたということはありませんよね。

 

 またお釈迦様さまの霊と話をしていたということもないですよね。

 「今日、一日何をしていましたか?」と尋ねたら、

 「今日は朝6時に起きて、門前の掃除をして朝飯を食べ、朝の勤行をして、また昼飯を食い、午後は檀家の来客の対応をしていたよ」。

 そんな風だと思うのです。そういう意味では日常です。しかし、外面では伺いしることのできない経験をしている。

 

 

 僕は最近、第二次世界大戦で、戦争末期に総理大臣を務め、A級戦犯として絞首刑になった東条秀機の絞首刑台に昇る前の辞世の一句を知る機会がありました。それはこんな句です。

 

 

 さらばなり ういのおくやま 今日こえて

 弥勒のもとに ゆくぞ嬉しき

 

 日も月もほたるの光さながらに

 行くてに弥勒の 光かがやく

 

 この世の命を終えたあとには、弥勒さまの大いなる救いが待っている。

 

 そんな心境でおおらかに悟って、この世から希望を持って彼は処刑台に立ったのですね。

 

 

ここに、『悟りにおける日常』というものが垣間見えてくるのです。

 

井村先生にせよ、東条秀樹にせよ、高僧にせよ、ある境涯に立って見えているものがある。それがホスピスにおける『日常』の真骨頂だと思うのです。

 

人間の究極の体験のしての『死』を前にして揺らぐことのない心境に立脚した『日常』。 この体験を日々めざしながら僕たちも生きていきたいと思うのです

『臨死体験』  立花隆 1994年 文藝春秋社刊

 

 臨死体験とは

 

 

 本書は1991年に放映された『NHKスペシャル』の取材記録のうち、お藏入りする予定であった膨大な資料を立花隆氏が再構成して、世に問うた大著です。

臨死体験とは、病気や事故などで死にかかった人が、九死に一生を得て

意識を回復したときに語る、不思議なイメージ体験です。立花氏は、経験者の証言に対する客観的評価、信憑性に多面的な吟味を加え、執念とも言える知識ねの欲求に従って、臨死体験の本質に迫ろうとします。臨死体験に関する類書は邦訳だけででも現在数十冊が出版されていますが、本書はこの現象を総体的に知るに適したガイドブックとよんでいいでしょう。

 臨死体験が現代において脚光を浴びたのは、死生学で有名なエリザベス・キューブラ・ロス博士の研究と、バージニア大学で精神医学を学んでいたレイモンド・ムーディー博士が発表した『かいまみた死後の世界』(評論社、1975年、原題”Life after the life")が端緒です。それまで世界中のあらゆる伝承、文学、文化現象、また言うまでもなく宗教という次元で、人間の『死』についての探求は続けられてきました。

 

 

 2つの解釈

 

 

  立花氏は世界中の死生学者、心理学者、脳科学者がこの現象からどのように啓発を受けて研究を展開したかを記述しながら、それぞれの研究に厳しい批評を加えていきます。論及は多岐にわたっているので、この拙論ではごく大まかな要旨のみ紹介することにしましょう。

  まず、臨死体験の現象は2つに大別されます。あくまで脳内の現象にすぎないとする「脳内現象説」と体験の主体となる経験が実際に体外離脱して肉体では到達し得ない場所へ赴き、さまざまな体験をしてくるという「現実体験説」です。

 実に多くの事例と検討が紹介されていますが、特に私の印象に残った2つの体験をここに引用します。また、その前に、私は「現実体験説」に同意する立場であることを表明しておきます。本人が体外離脱していなければ知りえない客観的な証拠があるケースが存在するからです。

 

 事例1:他人の車のナンバーを見、祈りの内容がわかった

 

 ヨーロッパのある峠で車の多重衝突事故に巻き込まれ、重症を負った人がいました。複数の医師が彼の死を確認し、立ち去りますが、彼はその最中、臨死体験をしていたのです。事故現場の周辺をみると、上下線とも大渋滞で何千台という車がつながってがっています。彼は、その車に乗っている人々の考えていることがわかるのでした。全員が渋滞にいらだち、腹を立てていました。しかし、1人だけ、事故で怪我をした人のために一生懸命に祈っている女性がいるのを彼は発見します。彼女は1人でも多くの人が助かるように祈っていたのでした。彼は感動して、その女性の車のナンバーを覚えます。蘇生して助かると、彼は女性の車を探して会いにいき、あのときあなたはこう祈っていたというと、はたしてその通りだったのです。これはスイスでは有名な話で、このような事例は脳内現象説では説明がつかないものです。

 

 

 事例2:見えないはずの場所の靴が見えた

 

 

 ワシントン大学医学部教授のキンバリー・クラーク・シャープの若き日の体験です。彼女は大学時代に病院でソーシャルワーカーの仕事をしていました。そこで1976年、臨死体験をした患者に出会います。彼女の名はマリア。メキシコから来た50台の季節労働者で心臓発作に襲われ運ばれてくます。入院3日目、心臓が突然停止、マリアは2階の救命救急室で、心停止の警報に医師や看護婦が駆けつけるなか、さまざまな処置を受けました。

 マリアは蘇生します。その後、キンバリーがマリアに呼ばれて会いにいくと、彼女はキンバリーの腕をつかみ、看護師は蘇生処置をほどこしているとき、彼女は身体から抜け出して、天井から一部始終を見ていたと語り始めます。それは典型的な臨死体験でした。救命救急室内の様子をマリアは正確に語り、さらに話しつづけます。自分は室内の天井から瞬間的に移動して、病院の窓の外の3階にいました。その窓枠の下のところがちょっと張り出しており、ブルーのテニス用のシューズの片一方がのっているのを見つけます。靴の小指部分がすり切れていて、靴ひもがかかとの下にたぐり入れられています。それを探して取ってくてくれとマリアはキンバリーに頼みます。あまりに真剣なので、3階に上がり、部屋を回り窓をのぞいて歩きます。驚いたことに、ある病室の窓に、マリアが話した通りのテニスシューズがあったのでした。 

 自分の蘇生処置を見下ろしていた、という話ならば脳内現象説でも解釈し得ます。キンバリーも、覚醒情報をもとに頭の中で再構成されたイメージと考えました。しかし、このテニスシューズの場合は、そこに靴があるという情報を、彼女が得られるはずがありません。何かの情報をもとに作り上げたイメージではないのです。そしてそこに靴が本当にあったのですから、それは夢でも幻覚でもありません。

 

無知の知、謙遜

 

 現在、医学や看護教育のなかで「臨床的なデータとしての死以外の事実」にどれだけの人々が目を向けているでしょう。

 私は、東京の通称、山谷地区で、在宅ホスピスケア施設を運営しています。その『きぼうのいえ』には多くの医学生、看護学生、現役の医師、看護師が見学に訪れます。しかし、彼らと話し合っていると、臨死体験が伝えるような人間理解への手がかりや思考を教育研究機関から教授されたことはないと言います。科学の俎上にのらないものは存在しないものとする、人間の驕慢さはいかばかりでしょう。物質のただなかで教育を受け、そのフレームのなかでのみ価値が与えられていきます。

 しかし人間は、脳の仕組みについてさえ、末端の機能についてようやくそのメカニズムが見えてきた程度であり、どのようにして、眼球から視覚が生じ、脳がそれを外界として理解するかのシステムについては、まったくといっていいほどわかっていないのが実態なのです。私たちはもっと謙虚に無知の知を認め、人間の小宇宙の無限に広がる世界に向かいあうべきでしょう。

 

私たちは肉体の生を終えてどこにいくのか

 

 この書との出会いは私の混沌とした死生観に、整理された情報と個人的な確信を与えてくれました。それは物質的存在に対する、非物資的なエネルギーの優位への導きであり、肉体的な生に限定された生存に対する、肉体を超えた存在とその永続への確信です。

 立花氏自身はもっと中立的な結論なのですが、日々いのちの来し方、往く末が交錯し切り結ぶ現場に身を置く私は、この書から得たものが信仰においてでなく、事実として迫る死生観の形成に大きな形成を与えてくれたことに感謝しています。

 きぼうのいえとよぶこの在宅ホスピスケア施設に満ちているスピリチュアリティに、この書物が大きな影響を今後とも与えてくれることを期待してやみません。

 

これは今から12年前になるインドへの旅のお話である。

そこでガンジス河の陽の入りと、ヒンズー教徒のプージャと呼ばれる宗教行事を見て、翌朝の陽の出に与ろうというのだ。バラナシに到着し、丸一日市内観光をした後、いよいよ夕陽に照らされたガンジス河が見えてきたとき、胸に長年にわたり詰まっていた感情が吐露されるように、私の目から滂沱と泪が溢れてきて留まることを知らなかった。それは、私の魂が永久の彼方から求めていた故郷に帰還したような、私の全存在を優しく包むような雄大さに満ちたものだったからである。

 マザーテレサの施設では、そこに住まう人々が天に召されるとき、その人独自の宗教に添って祈りを行い、弔いを行うと聞いていた。ガンジス河畔には、数多くの火葬場があり、そこに柩に入れられた遺体が到着すると、それぞれの宗教の形で祈りが捧げられ、その骨はガンジス河に流されていく。

 そこではマザーの信仰の霊性と、ガンジス河の霊性が見事に一致しているように私には見えた。そこには、全ての生きとし生けるものを分け隔てなく受け取り、悠久の彼方に受け渡していくいのちの大河の姿があった。

 インド訪問以前、私が山谷の日本基督教団山谷伝道所の前を、愛猫を抱いて散歩しているとき、数人の路上生活者から声を掛けられた。「あんた、きぼうのいえの人だろ」「そうだよ」「きぼうのいえで亡くなった人には墓があるんだってね」「うん」「いいなあ、俺たちは生きているときもホームレスだけど、死んでもホームレスだよ」。このやり取りに私は行く末に留まる処を持たないものの、侘しさと痛切な寂寥感を感じ取った。あまりにも切ないその心の叫びに、私の胸は張り裂けんばかりであった。

 ガンジス河での夕陽と、神々しいまでの陽の出に与り日本に帰国したとき、私の心に一つの決意が固まっていた。これまで諸々の事情から無縁仏として葬られなければならなかった、山谷の全ての寄る辺なき、身寄りなき人々に、長野のきぼうのいえの墓所を開放しよう。きぼうのいえの墓所を、山谷のガンジス河にするのだ! そして山谷の地から天界へ召され、飛翔した魂に平安の地を提供するのだ! 私がその思いを抱いてから数年、ゆっくりとしてではあるが、その思いはますます堅牢なものとなって、私の心に炎のように燃え続けている。

                      

  祈りのうちに

 

ハコモノ行政ということばがある。役所が大きな建物をたてて、それであたかも仕事が完結したかのようにいうことを、批判めいたことばで言い習わしたものだ。

 僕は、仕事がらいろんな役所や公共の建物を使って講演などを行うことも少なくない。そんなとき、時折、この建造物は本当に使う人の立場に立ってつくられたのかなあと思うことがある。エントランスばかり広くて、使いにくいとか、デザイン優先なのかなあといったことである。

 

ひるがえって、僕のホームグラウンドである山谷を見詰めなおしたとき、目の前には、家族経営で細々と経営しているようなドヤ街が一面に広がっている。

 生活保護を受けている元日雇い労働者のおじさんたちの居室は平均して、25畳から3畳一間が普通だ。ある知り合いのおじさんは、自分の部屋にいると窮屈で気が変になりそうだから、路上に出てくるんだよねといって、住環境の悪さを嘆いていた。そんな目で山谷の街並み見るとき、何かお金の使い方が間違っているような気がしてならない。生活保護を受けているんだから、多少の手狭さなんか我慢しなさいよ、といった声が役所の方から聞こえてきそうである。

 実は、山谷の街と隣り合わせに、旧郵政省の建物として使われてきた10,000平方メートルの敷地があり、その使い道をめぐって議論が起きようとしている。3年後には、新しい使い道が決まってオープニングするという。

 

ハコモノ行政を強力に推進した時代があった一方で、現況、狭い処に押し込められている貧困層の人々がいる。僕はそこに大きな疑問を感じてならないのだ。ハコモノを作ればいいというわけではないが、そこに心を入れるという発想なのだ。ただただ予算を落とし続けてきた政策のひずみがここ山谷にもある。 何とかこの10,000平方メートルの区画を、低所得者層向けのアパルトメントとして作ることはできないかと敷地の前を通るたびに、僕は思う。

 

お寺では、仏様の像を作るとき、完成すると開眼式というのを行う。仏像に魂を入れるというセレモニーだ。一方でハコモノだけ作って魂を入れなかったという無策の時代があったことに厳しい反省を加えて、ハコモノさえも不足しているという現実が目の前にあることに思いをいたす必要がある。人間が人間らしく生きることができる建物に魂を入れて、「魂の計画の下」に利用者の利便を図ったこころある街づくりが必要なのではなかろうか。

 超高齢社会が到来して、高齢独居の人々が激増する時代がもう目の前に来ている。それに備えるための心ある政策が今求められているのだ。

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