2006年06月20日

将棋の歴史3:伝来(26) 日本側の受け入れ口「博多津・大宰府」(1)

 中国大陸から日本への伝来ルートについて三つの可能性(”敢囘鼠茵↓⊃畦綸鼠茵↓3て餐蕨伝来)を示したが、日本側の受け入れ口については、ある程度、可能性は絞られる。

 大宰府において、十一世紀後半〜十二世紀前半のものとみられる将棋の文字が墨書された木簡が発見されたのは、けっして偶然ではない。
 当時の日本における交易の窓口は、博多津(鴻朧館)及び大宰府であったからである。

 博多津は糸島半島と海ノ中道に囲まれた天然の良港である。博多津沖の志賀島から発見された金印『漢委奴國王』(一世紀頃、光武帝から奴国王へ贈られたもの)が発見されるなど、国際交流の歴史は古い。

 五二七年、九州を統一した大和朝廷は、大宰府の前身として那の津(博多湊)に宮家、いわゆる那津宮家を設置し、遣隋使・遣唐使の発着場所とするなど海外交流拠点と位置づけた。

 六六三年、白村江の戦い敗れた大和朝廷は、唐・新羅の来襲を恐れ、大宰府を今の大宰府跡地に移動し、海岸に防人を置き水域を築いた。

 その一方、外国人使節団を迎え入れる迎賓館として、遣隋使・遣唐使などの宿舎として博多津に「鴻臚館」が設けられた。(近年、鴻臚館は福岡城近くの旧平和台球場跡地にあることが確認された)

(つづく)



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