2014年09月06日

四人制が先か、二人制が先か

 「将棋伝来再考」(2013年版)で、清水氏はいう。

「(増川氏の『将棋』()は)他の研究者への影響力が強いだけに将棋史の負の効果を与えることにもなってしまった。負の効果の一つは、増川もすでに見解を変更しているものの(増川 2003 p46※※)、四人制チャトランガと二人制チャトランガの先後関係について、四人制チャトランガが先行すると紹介したことである)

 「1977 『将棋』 法政大学出版局」

※※2003 『チェス』 法政大学出版局」

 おそらく、「サイコロを使用しない二人制チャトランガが先に作られ、サイコロを使用する四人制チャトランガが後に作られた」のは当然のことであると清水氏はいいたいように思える。

 逆に私は、二人制チャトランガ先行説を唱える者は、ゲームの創作はおろか、ゲームの改良すらしたことがないのではないかと疑っている。
 なぜなら、ゲーム創作者やゲーム改良者であれば、サイコロを使用しない二人制チャトランガサイコロを使用する四人制チャトランガという流れは、複雑なゲーム簡単なゲーム、運に頼らないゲーム運に頼るゲームという流れであり、これをゲームの改良といわないという「常識」が働くはずだからである。

 四人制チャトランガ先行説の場合、四人制における二組の軍隊が二人制で合体した結果、王の一人が仕官に格下げになったと説明されるが、二人制チャトランガにおいて、王と仕官が同格に並ぶ初期配置の不自然さに対する見解も示されない。
 
(http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50120220.html)


 たしかに、「ゲーム史研究」と「ゲーム創作・ゲーム改良」とは直接、関係ないはずと反論されるかもしれない。

 しかし、「ゲーム史」は「ゲーム改良史」であり、「ゲームの改良に携わった改良者の心理を理解し、妥当な結論を導くこと」であると考えている。ゲーム史研究にとって、ゲーム創作やゲーム改良の経験が必須だというつもりはないが、ゲームの創作心理や改良心理についてきちんとした認識を持つ必要がある。

 また、ゲームの改良には様々な形態があり、ゲームの改良の認識について厳格である必要はないはずと反論されるかもしれない。
 たしかに今日、世の中には色々なゲームの創作や改良と呼ばれるものが玉石混淆で存在し、過去においても様々なゲームの創作や改良が試されたに違いない。しかし、真に合理的で人々の共感を得たものだけが、長い歳月の中で淘汰され、生き残ってきた。だから、ゲームの改良は合理的に、説明可能な形でなされてきたといえるである。

 したがって、増川氏が『将棋』で「サイコロを使用する四人制チャトランガが、サイコロを使用しない二人制チャトランガに先行すると紹介したこと」に問題があるのではなく、今日、二人制チャトランガ先行説、つまり、「ゲームの改良に反する説」を当然のことと捉える風潮に問題があると考える。

 もし、増川氏が当初から「二人制チャトランガ先行説」を唱え、あたかも定説であるかのように扱われていたとしても、「ゲームの改良の本質」という観点から同意できない。これは、東南アジア伝来説が定説であるかのように扱われる現状において、「将棋の歴史の本質」という観点から東南アジア伝来説に同意できないことと同じである。

よって私は、増川氏説の変遷と関係なく、四人制チャトランガ先行説を支持する。
http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/cat_50008955.html

(完)

  

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2014年09月04日

玄怪録将棋(5)

玄怪録は怪奇小説であるが、作者は当時の世相を織り込むことによって、現実感・臨場感を確保しようと努めている。

そこで、玄怪録の記述から、当時(唐代)、中国に実在した「将棋」について、ある程度、類推することは可能である。しかし、そもそも当時実在した「将棋」の忠実な再現を意図したものではないから、玄怪録のみで、当時実在した「将棋」の全貌を知ることはできない。

ところが、‘鹵耄鯊臂棋で銀将の頂に置かれた「猛虎」は銀将の祖先であり、玄怪録に記された「六甲」は寅であり、「日本に伝来した将棋」と「玄怪録将棋」は同一種である。そう解釈することにより、日中双方の資料から、二人制チャトランガの原型や、二人制チャトランガの基礎である四人制チャトランガの内容を把握することが可能となる。
http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50453360.html
http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50453369.html


ウィキペディアに記載された「チャトランガ」にも、駒の性能の記載がなされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AC

「欧米の研究家の説を日本の有力な研究家が紹介したもの」を記載したに違いないが、象、馬、船?(⇒車)等について、上記「玄怪録将棋」の駒の性能よりも、相当に強力なものとなっている。
 欧米の研究家は東アジア将棋史等に疎く、現行チェスを基礎として類推しているため、当初から駒の性能を強力なものと捉えがちであるが、より素朴な性能の「玄怪録将棋」をルーツと考えるのが自然であろう。
 

なお、船・将について、「東南アジア伝来説」を基礎に記載されているものと思われる。
船:前後左右に何マスでも進める。(中略)マークルックのルアと同様の動きである。
将:斜めに1マスずつ動ける。マークルックのメットおよびビアガーイと同じ動き。
 しかし、これらは史実と異なる。〜イ玄怪録の記述「輜車直入无回翔」及び日本将棋の「香車」等から、香車と同じ直線一本やりの性能の「車」とすべきである。⊂は玄怪録の記述「上将横行系四方」から、「縦に1マスずつ動ける」とすべきであり、共に修正されることを期待している。

(つづく)

  
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2014年09月02日

玄怪録将棋(4)

日中の研究者のほとんどは、玄怪録将棋の「六甲」について、「寅(虎)」と解釈できず、「象」と解釈する。現行の中国象棋(シャンチー)が象であること、玄怪録の二つの軍隊の名称の一つが「金象軍」であること等を根拠にあげる。

しかし、中国の研究者である周家森氏が著書「象棋源流考」で「唐の時代には、中国に象がいたという話は聞きません」と述べているように、当時の中国の世相からみて「象」と解釈することは不自然である。

また、天那軍と金象軍は各々軍の名称であり、盤上の駒という観点から外して考えるのが自然であり、軍隊の名称の一部を駒の名称に類推適用することは適切ではない。一方、

天馬斜飛度三止 上将横行系四方 輜車直入无回翔 六甲次第不乖行
 「天馬は斜めに三つを飛び越えて止まれ。上将は四方に進め。輜車はまっすぐ突入して引き返すな。六甲の順序は乱れるな」(伊藤倫厚氏訳(将棋探源(20)将棋ジャーナル)

と軍師が名指しした「六甲」は、他の「天馬(=馬)」、「上将(=将)」、「輜車(=車)」とともに、盤上の駒である可能性が高いと考えられる。

しかし、日中の研究家共々、「六甲」について曖昧な解釈に終始している。確信がもてないから、真っ当に取り扱うことができず、合理的な解釈に辿り着けない。

今回の清水氏の論文「将棋伝来再考」においても、玄怪録に記された将棋を日本の将棋のルーツと位置付けるが、伊藤氏の「六甲(六軍の意か?)」という原文を紹介するに留め、正面切って「六甲」の解釈を行うことはしていない。できないというのが正直なところだろう。

いずれにせよ、単に「玄怪録」の資料的価値を全否定して、批評を済ませた気になるのではなく、「二中歴将棋から二中歴大将棋への改良過程において、銀将の祖先が「虎」であると特定したこと」等に対する論評を期待している。もちろん、「六甲」に対する論評も歓迎する。
(つづく)

  
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2014年08月30日

玄怪録将棋(3)

 このブログでは、便宜上、古代インド⇒中国⇒日本への原将棋の伝来、日本における原将棋の改良という順で記述している。

そのため、まず、玄怪録から「寅(虎)」という駒の存在を特定し、これを踏まえて二中歴将棋から二中歴大将棋への改良過程において、銀将の祖先が「虎」であることを特定したような印象を与える。
(研究家によっては、玄怪録を怪奇小説・空想小説と切って捨てることで、中国伝来説を全否定した気になっている場合も見受けられる)
 

実際の考察のプロセスはどうだったかというと、まず、日本将棋の改良過程を考察し、二中歴将棋から二中歴大将棋への改良過程において、二中歴大将棋の銀将の頂に置かれた「猛虎」こそ、銀将の祖先であり、元々銀将が「虎」であることを特定した。
(http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50437434.html)

次に、複雑な日本将棋の改良過程の考察に役立つと確信した手法を、中国象棋(シャンチー)や朝鮮半島の将棋(チャンギ)の改良過程の考察にも応用しようと思い立った。
 そこで、中国将棋史において現存する最古の資料とされる玄怪録の分析を行ったところ、
玄怪録に記された「六甲」が、六番目の甲(きのえ)、つまり、干支における甲寅(きのえとら)、すなわち、「寅」であることを発見して驚いた。
 なぜなら、日本に伝来した将棋と同一種だったからである。

(http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50260978.html)
(つづく)

  
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2014年08月28日

玄怪録将棋(2)

  はたして、「玄怪録」は有用な史料なのか、否か。

  たしかに、他に同時代の物証等があれば、「玄怪録」の価値は落ち、その物証を補完する文献という補助的な役割に留まる。

しかし、中国において他に同時代の物証等が発見されていないという現状において、「玄怪録」には稀少価値があり、取扱いは慎重にすべきであろう。

清水氏が指摘するように、「玄怪録」の中には当時の世相や生活文化などの風俗が織り込まれている。

したがって、内容が虚構である空想小説だからという理由で、「玄怪録」の価値を全否定するのは、いささか乱暴といわざるを得ない。氷山の一角に過ぎない貴重な史料の価値を正当に評価すべきであろう。

もっとも、「内容が虚構である空想小説に過ぎない」というのも事実であり、この点も考慮すべきである。 


 このブログにおいて、「玄怪録の作者が参考にしたであろう当時実在した将棋とはいかなるものか」という観点から、玄怪録を考察した。なぜなら、「玄怪録」の中に当時の風俗が織り込まれているからである。

しかし、考察は「当時実在したであろう将棋の復元」に留めている。なぜなら、「空想小説」に過ぎないのは事実であり、「玄怪録」の作者がどのような将棋を創作したのかについて、日本の将棋史・中国の象棋史という観点から価値が低いと判断したためである。 

 「空想小説だからという理由で玄怪録の史料価値を全否定する者」は「当時の風俗の反映」という価値を理解しておらず、また、「玄怪録の史料価値を無条件に信頼し、玄怪録の作者が創作した将棋の復元を試みる者」は「怪奇小説としての限界」を考慮していないように思われる。
(つづき)

  
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2014年08月26日

玄怪録将棋(1)

 「将棋伝来再考」(2013年版)で、清水氏はいう。

「増川(宏一氏)は『中国古典文学大系』(1968年、平凡社)と『魯迅全集』(1968年、学習研究社)を引用して、「つまり『玄怪録』が牛僧孺の著作であるのかどうか疑わしいという。(増川 2003『チェス』法政大学出版局 p218)としているが、特に増川の引用文からは、『玄怪録』が牛僧孺の著作として疑われているという内容は読み取れないし、後半の「内容も虚構」とする見解も空想小説の中に当時の風俗が織り込まれているのだから意味がない。 

 また、増川が『玄怪録』を疑う理由はよくわからないが、将棋の東南アジア伝来説に立つ場合、東南アジアよりも古い時期に中国大陸において将棋類関連の資料があること自体が自説にとっては都合が悪いと無意識に判断し、拒否感を持っているのかもしれない」

 はたして、「玄怪録」は有用な史料なのか、否か。
(つづく)

  
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2014年08月23日

「将棋伝来再考」等(16)

ところで、2014年版で清水氏は、

 「かくいう筆者(清水氏)も、伝来年代に関連した視点から、「簡素な立像形駒で庶民層を中心に遊ばれていたならば、奈良時代以前に将棋が伝来した可能性」がわずかながら残っているとした(清水2002年 p.147)この条件以外には奈良時代以前の将棋伝来は想定しがたい。この時の筆者の記述も「庶民の遊戯である将棋」というドグマの影響を受けており、反省しなければならない」

と述懐するが、清水氏と同様に、私も反省しなければならない。

なぜなら、このブログの「はじめに」に、「史実の積み重ねによって『将棋の歴史』が構築されるのが理想ではあるが、容易ではない。なぜなら、将棋は庶民の文化の一つであり、日本書紀や古事記などといった公文書はおろか、なかなか文献等に表されるものでないからである。又、盤・駒等の材質は基本的に木材であり、朽ち果てやすいものだからである」

と記載しているからである。

 一方で「第三段階(文字化)の改良者は一握りの知識階層に属し、盤上遊技を嗜む余裕のあった者、たとえば貴族・僧侶・役人・富豪等と想定する」

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50532797.html

とも記載しており、やや一貫性に欠けている。

 日本に伝来した原将棋の資料がなかなか発掘されない言い訳として「庶民の文化」という言い回しをしたことは余り適切でなかったと反省している。
(つづく) 

  
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2014年08月21日

「将棋伝来再考」等(15)

興福寺旧境内から酔象駒が発掘され、将棋史が根本的に見直される可能性が高まったが、この発掘もほんの一年近く前のことに過ぎない。とても資料が出尽くしたといえる状況にはないし、今後も、発掘によって、劇的に将棋史が変わる可能性が高いと思われる。

しかし、「10世紀以前の資料が必ず発掘される」という信念の下、発掘作業に従事するのと、「10世紀以前の資料は発掘されない」という消極的・否定的な姿勢で発掘作業に従事するのとでは、自ずと成果が異なってくるに違いない。なぜなら、この世に存在しないと思っているならば、仮に目の前にあったとしても、そのまま、見過ごしてしまうことになるからである。

いみじくも、2002年版で、清水氏はいう。

 「盤上遊戯具に用いることができるほど小型の遺物は見当たらない。ただし立像駒の場合、抽象的な駒を想定し、現在のチェスのような精美なものではなく簡易な駒を考えれば、存在した可能性を考慮する必要がある。発掘調査においても、もしこれら簡易な形の抽象的な駒が出土しても単体や少数では将棋の駒と認識できるとは思えない」

 「考古学では、従来存在が確認されていなかったにもかかわらず、一例の発見でその後連続して発見が続き、存在することが当たり前となることがある。(中略)現代の考古学においてすら盲点となるような資料が存在することを示している。したがって、奈良時代の文字入り駒は可能性がないが、簡易な形態を取る将棋駒の場合は、一例の発見で新たな発見が連続して起こりうる可能性を完全には否定できないのである」

「将棋史の本質」を貫くならば、日本に伝来した原将棋はまさに清水氏がいう「簡易な形の抽象的な駒」になると考えている。ぜひ、清水氏には、「10世紀後半〜11世紀前半の伝来」という自縄自縛にとらわれることなく、新たな可能性に挑戦してもらいたいと思う。
(つづく)

  
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2014年08月19日

「将棋伝来再考」等(14)

 2013年版で、清水氏もこの資料に言及している。

「木村は平城京から出土した奈良時代の加工木について、「当時は余裕があったので遠慮したのだが、今は余裕がなくなったので考慮の内に入れたい。」(木村 2004 p.56)として出土駒の可能性を示唆しているが、きれいな駒形でもなく、文字も書かれていない加工木を将棋駒と判断するのは問題が大きい」

  2004「将棋の日本到着時期をめぐって−増川宏一氏に対する批判−『桃山学院大学総合研究所紀要第30巻第2号桃山学院大学


 たしかに、ご都合主義と取られても仕方がない木村氏の記述には違和感を覚えるし、不誠実な木村氏のコメントに対する清水氏の論評も常識的なものと思える。また、きれいな駒形で、文字が書かれたものではないから、資料としての取扱いは慎重にすべきということに対して、異論はない。
 しかし、2014年版で清水氏は、「奈良時代はおろか平安時代前期に属する資料すら発見されていない」「10世紀以前の考古資料の不在」等々、10世紀以前の資料が存在しないことを殊更に強調していることから、この8世紀前半の平城京出土資料を切って捨ててしまったのは明らかである。

  なお、「きれいな駒形で、文字が書かれたもの」は、立像形駒から相当な改良過程を経たものであるが、これが日本に伝来した駒であるとする理由は説得力に乏しいものであり、そのことは既に記載したとおりである。 

(つづく) 

  
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2014年08月16日

「将棋伝来再考」等(13)

 閑話休題。現職の奈良県立橿原考古学研究所に在籍する考古学者・研究者として、現存する文献資料・考古資料に基づき推定復元するという姿勢は当然であり、そこから得られる結論が10世紀後半〜11世紀前半の伝来という想定となるのは自然な成り行きなのかもしれない。

 しかし、現職の考古学研究所員が「10世紀後半〜11世紀前半の伝来」に固執することに不安を覚える。端的にいえば、10世紀前半以前の資料が闇に葬り去られてしまう懸念である。

 

 20064月、このブログで、「740年ごろのものと推定される資料」について紹介したことがある。

 「木村氏が「持駒使用の謎」(2001年 日本将棋連盟版 p105)で「もしかすると早い到着の決定版になるかもしれぬ出土資料がある」と指摘した平城京から出土した文字書きなしの木札状品である。

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50374205.html

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50374236.html

 「木村義徳氏は最古の将棋も文字書きされていると捉えているように思われるが、文字書きされていないことこそが最古の将棋として不可欠である。後述するが、日本に伝えられた「立像型の将棋」が文字書きしない五角形の駒に改良されて定着することが、改良の第一段階である。(中略)木という腐敗しやすい材料であることや過去に遡るほど普及の度合いが低いことに加え、文字書きされていないからである。仮に首尾よく出土したとしても将棋の駒と認識されないまま闇から闇に葬り去られる可能性は高い。その意味でも今回、発掘調査関係者が文字書きのない小木片に対して将棋の駒の可能性を留保したことをありがたく思う」

という気持ちは今も変わらない。繰り返しになるが、「発掘調査関係者が文字書きのない小木片に対して将棋の駒の可能性を留保している」ことこそが重要なのである。
(つづく)

  
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