2011年10月15日

将棋の歴史(3):伝来 最古の将棋「興福寺出土」と「酒田城輪柵遺跡出土」(1)追加

 酒田城輪柵跡で発掘された「兵」の駒(酒田駒)は、唯一現存する旧型の駒である。

 ところが、駒の成立年代が、新型である興福寺跡の駒(天喜6年、西暦1058年と推定)より後世とされることから、解釈に混乱が生じている。(http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50311902.html

 そこで、あらためて酒田市教育委員会文化財係に電話で問い合わせた。

担当者が発掘当時の元担当者等に確認した結果は、次のとおりである。

 

まず、調査区域をグリッド(格子)に区分した。「兵」の駒は、中世土器(鎌倉時代ごろと推定)が主に発掘されたグリッドにある木灰部分から発掘されたため、「兵」の駒も他の土器と同様に中世≒鎌倉時代と推定した、とのことである。

つまり、放射性炭素年代測定法等の科学的な手法によって、酒田駒を「鎌倉時代」のものと特定したものではないということである。

「将棋史」研究者にとって、酒田駒の成立年代は重要な意味を持つ。しかし、部外者には文字書きされた木片に過ぎず、多数発掘された他の埋蔵文化財と同列の扱いになってしまうのは、仕方がないことなのかもしれない。

なお、酒田駒について、特に研究している機関については関知してないとのことであった。

 

一方、今泉忠芳氏は、「将棋ペン倶楽部(2006年秋号)」に寄稿した「日本将棋の起源(30)」で、酒田駒の成立年代を、弘仁6年(815年)と推定している。これは、酒田城輪柵の創建年代(推定)であり、必ずしも、酒田駒の成立年代を保証するものではないと思われる。

 将来、酒田駒の重要性が再認識され、科学的な手法によって成立年代が特定されることを期待したい。 

(つづく)

  

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2006年06月22日

将棋の歴史3:伝来(27) 日本側の受け入れ口「博多津・大宰府」(2)

 唐商人たちが博多津に着くと鴻臚館に案内されて、ずっと留め置かれた。報告を受けた朝廷から派遣された唐物使が優先的に買い上げた後、地元豪族も買うことが許された。

 意外なところから、当時の交易の証拠が発見された。有名な『鳥毛立女屏風』(正倉院蔵)の下張りに使われた用済みの紙である。そこには貴族が新羅商人から購入を希望する品物(香料、薬、鏡など)や数量、代価を記した許可申請書が使われていたという。

 当時、博多津・大宰府から平安京まで物品を搬送するのに片道だけで陸路の場合半月、水路の場合一ヶ月を要したため、商人たちの滞在期間は三ヶ月〜半年に及んだという。

 新羅人が非公式に持ち込んだ可能性など、きちんとした交易ルートを介して日本に「将棋」が伝えられたとは限らない。しかし、仮にきちんとした交易ルートを経た場合、博多津(鴻朧館)・大宰府が最初に情報が伝えられる先であることは疑いない。

 まず、博多津(鴻朧館)・大宰府とその周辺の調査、次に平安京と難波津など周辺地域の調査、さらに博多津から平安京に至る山陽道の交易拠点における調査に期待したい。

(つづく)

  
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2006年06月20日

将棋の歴史3:伝来(26) 日本側の受け入れ口「博多津・大宰府」(1)

 中国大陸から日本への伝来ルートについて三つの可能性(”敢囘鼠茵↓⊃畦綸鼠茵↓3て餐蕨伝来)を示したが、日本側の受け入れ口については、ある程度、可能性は絞られる。

 大宰府において、十一世紀後半〜十二世紀前半のものとみられる将棋の文字が墨書された木簡が発見されたのは、けっして偶然ではない。
 当時の日本における交易の窓口は、博多津(鴻朧館)及び大宰府であったからである。

 博多津は糸島半島と海ノ中道に囲まれた天然の良港である。博多津沖の志賀島から発見された金印『漢委奴國王』(一世紀頃、光武帝から奴国王へ贈られたもの)が発見されるなど、国際交流の歴史は古い。

 五二七年、九州を統一した大和朝廷は、大宰府の前身として那の津(博多湊)に宮家、いわゆる那津宮家を設置し、遣隋使・遣唐使の発着場所とするなど海外交流拠点と位置づけた。

 六六三年、白村江の戦い敗れた大和朝廷は、唐・新羅の来襲を恐れ、大宰府を今の大宰府跡地に移動し、海岸に防人を置き水域を築いた。

 その一方、外国人使節団を迎え入れる迎賓館として、遣隋使・遣唐使などの宿舎として博多津に「鴻臚館」が設けられた。(近年、鴻臚館は福岡城近くの旧平和台球場跡地にあることが確認された)

(つづく)

  
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2006年06月17日

将棋の歴史3:伝来(25) 北路・海道創路伝来の可能性

 単純にいえば、において「宝応象戯(=「将棋」)」が流行ったという情報は、朝鮮を経由するより、直接、唐から得るほうが手っ取り早い。
 理論上はもっとも可能性が高いルートということになる。

 また、十一世紀に入るまで日本の文献に将棋が登場しない状況を勘案すると、遣隋使遣唐使などの公式ルートより、むしろ民間の交易の可能性を考慮すべきであろう。

 当時、民間交易の主役となった唐商人・新羅商人が用いた主なルートは、中国の山東半島から朝鮮の西岸沿いを経て九州(博多津)に至るルートである。

 弥永貞三氏(故人、元名古屋大学教授)によると、山東半島において、当初遣唐使が採用したいわゆる「北路」の他、古くから新羅の商人によって利用された「海道創路」などに枝分けされる。

 北路は中国の山東半島(登州)で上陸した後、陸路にて首都長安を目指したのに対し、海道創路は山東半島の南岸を西行し、華北・華中沿岸を南下して揚州にて上陸するルートであったという。

 なお、遣唐使の航路は新羅との関係悪化に伴い(表向きは国交を保ち、遣新羅使も派遣)、七世紀後半から八世紀にかけて南島路(石垣島など薩南諸島を経由して揚子江口に上陸し、長安に向かうルート)、九世紀には南路(北九州から福江島など五島列島を経て東シナ海を横断して揚子江口に上陸するルート)へと変更された。

 ちなみに南路・南島路は北路に比して距離は短いものの、東シナ海横断中に強い風波による遭難の危険性が高かったという。

 また、この時期、新羅に対抗するため渤海(六九八〜九二六)と通好関係を持ち遣渤海使を派遣したが、この渤海を介した日本海の海路も唐との交易に利用された。

(つづく)

  
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2006年06月15日

将棋の歴史3:伝来(24) 新羅伝来の可能性(2)

  つぎの史実は新羅(しらぎ)との接点の一例である。いずれも日本側の視点で捉えたものであり、氷山の一角に過ぎない。

七一五(霊亀一)  尾張国人、新羅人、七四家を美濃国に移して席田郡を建てる
七四二(天平十四) 新羅に使者を送るが拒否された
七五三(天平勝宝五)遣唐使、唐朝で新羅と席次を争う
   同        新羅で日本国使者が傲慢無礼と追い返された
七六三(天平宝字七)新羅使の違約を責める
七七〇(宝亀一)  新羅の使者を太宰府で饗する
七七四(宝亀五)  新羅使が太宰府に着くが、無礼により放還する
七八〇(宝亀十一) 新羅使、貢物を献上 
七九九(延暦十八) 遣新羅使停止
八一三(弘仁四)  新羅人百人余が肥前国小近島に来襲
八一四(弘仁五)  新羅人加羅布古伊らを美濃国に配する
八一六(弘仁七)  大宰府、新羅人一八〇人の渡来を報告
八一七(弘仁八)  大宰府、新羅人一八七人の渡来を報告
八二〇(弘仁十一) 遠江・駿河両国に配した新羅人七〇〇人が反乱
(「日本史年表 東京学芸大学日本研究室編 東京堂出版」等による)

 ここでは、統一国家新羅から渡来した者たちを新羅人と総称するが、古来、日本は朝鮮をはじめとして多くの渡来人を受け入れた。

 朝鮮から渡来した民のうち、秦氏(はたうじ:辰韓(しんかん)、新羅系)、高麗氏(こまうじ:高句麗(こうくり))、漢氏(あやし:伽耶(かや))、百済王氏(くだらのこにきし:百済)など代表的な集団の他、越南(ベトナム)、渤海(ぼっかい)などからの渡来民もいた。

 そして、渡来人たちの文化や技術を頼りにしてきた。前述の「百済もの」もその一端に過ぎない。たとえば、後期の遣唐使船建造や灌漑治水工事なども渡来人の技術者の手によるものであるという。

 今後、日本・韓国の新羅関連の遺跡から旧型の「将棋」が発見されたら、新羅伝来説に大きく踏み出すことになる。

(つづく)

 

  
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2006年06月13日

将棋の歴史3:伝来(23) 新羅伝来の可能性(1)

  時期的にみて、百済滅亡後の新羅ルートは「将棋」伝来の可能性が高いと思われる。まず、百済滅亡後の朝鮮半島の史実を簡単に記す。

 六六七年 高句麗を攻め滅ぼした。
 六七五年 新羅は朝鮮半島を支配下に置こうとする唐を撃退した。
 六七六年 新羅は朝鮮半島の大半を支配下に置いて、朝鮮民族による初めての統一国家を樹立した。
 
 唐と戦った新羅ではあるが、統一国家樹立後も唐の制度や文化を積極的に取り入れて繁栄した。律令制を取り入れて律令国家体制を整え、首都の慶州金城(キョンジュ)を中心に大規模な仏教建築を行い、仏教彫刻など仏教美術が発達したことは知られている。
 唐に定着した宝応象戯が「将棋」として新羅に伝来した可能性は高いと思われる。

 さらに、首都の慶州金城(キョンジュ)は日本海側に位置し、交易拠点の良州釜山(プサン)は対馬壱岐に近接し、日本の交易拠点である博多津大宰府に極めて近かった点も考慮すべきであろう。

 当時、日本と新羅と表面上国交を結んでいた時においても緊張関係を強いられたと言われるが、好むと好まざるとにかかわらず新羅とは多くの接点を持ち、多くの新羅人が渡来したのである。

(つづく)

  
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2006年06月10日

将棋の歴史3:伝来(22) 百済伝来の可能性(2)

 「百済もの」というブランド。

 大陸の文化が大挙して日本に流入し、しかも日本人がそれらにあこがれたという事実は看過できない。果たして、日本に渡来した百済人が「将棋」をもたらした可能性はあったのだろうか。

 確信は持てないが、可能性は排除できない。確信を持てない理由は、日本・中国・韓国(朝鮮)における証拠に乏しいということに尽きる。

 大和朝廷と百済王朝と親密な関係にあり、百済出身者が朝廷で重用されたのはよく知られた史実であるにもかかわらず、将棋は当時の一切、文献・物証等に示されない。

 なお、可能性を排除すべきでない理由は次の理由による。

 日本も朝鮮も、同じ「将棋」という漢字を用いる。

 対馬壱岐を挟んで隣接し、地勢的にみて古来より行き来が容易であった。

 中国の「隋書・東夷伝」の「百済」「倭国」に共に、百済人・日本人は碁や賭博が好きであるという記述がある。(新羅高麗などに同様の記述はない)

 将棋の祖先と中国の「玄怪録の宝応象戯」は共に、銀将に相当する駒が「虎(または寅)」であるが、古来、朝鮮においても虎は特別な存在であった。

(つづく)

  
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2006年06月08日

将棋の歴史3:伝来(21) 百済伝来の可能性(1)

 飛鳥・白鳳時代(五九二〜)、奈良時代(七一〇〜)、平安時代(七九四〜一一九二)。総じて中国の技術・文化を貪欲に吸収しようとしてきたが、一貫して中国と良好な関係を保ったわけではない。

 有名な事件が六六三年八月の「白村江の戦い」である。日本と旧百済の連合軍が新羅の連合軍に大敗して百済再興に失敗したのである。これにより生じた日唐関係の緊張の結果、七〇二年の再開時まで約三十年間、遣唐使派遣は中断された。

 この間、唐・新羅の侵攻に備え、大宰府の「水城」をはじめ、西日本各地に朝鮮式山城などの防衛施設が築く一方で、百済人が大挙して日本に渡来し、大陸の文化が日本に流入した。

 今日、近畿圏をはじめ西日本において、寺院・仏像、観音像・地名、駅名等々に百済の名を留める。

 「くだらない」という言葉の語源も「百済でないもの」という。逆に「百済もの」は品質を保証された優れたものであり、今日いうブランド物である。

(つづく) 

  
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2006年06月06日

将棋の歴史3:伝来(20) 日本への伝来ルート(2)

 吉備真備(六九五〜七七五)が日本に碁や将棋を持ち帰ったという巷説がある。

 菅原道真と並び称された俊英で、地方豪族の出身ながら後に右大臣に出世したが、遣唐使として多くの文化を日本にもたらした。

 正倉院木画紫檀碁局など三面の碁盤が収められている。撥鏤(ばちる)の技法で草花や鳥を可憐に表した、紺牙撥鏤碁石なども含めて美術工芸品としての価値は高い。

 日本に現存する最古の碁盤であり、聖武天皇(七〇一〜七五六)が愛用したと伝えられる。
 しかし、正倉院に将棋は見当たらない。

 したがって、将棋の祖先については、遣唐使などの公式ルートを通さずに日本に伝来した可能性が高いと思われる。
 以下、将棋の祖先が日本に伝来したルートについて可能性の高いものを列記する。

(つづく)

  
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2006年06月03日

将棋の歴史3:伝来(19) 日本への伝来ルート(1)

 日本の将棋の祖先は、何時、どのルートを通って日本に伝来したのだろうか。その考察に際して、少なくとも次の事項を踏まえる必要がある。 

|羚唐代「玄怪録」「宝応象戯」と同一種であり、シャンチーの祖先と異なる「将棋」が日本に伝来したこと。
日本に伝来した「将棋」が原将棋として定着するために一定期間を要したこと。
C羚颪砲いてシャンチーの改良が行われた北宋時代(九六〇〜一一二七年)以前に、日本において原将棋(※)が定着していること。
等々。

 ※ 原将棋: 将棋の改良過程にあるものを総称し、特定の将棋を指している訳ではありません。

 以上、当時の状況を勘案すると、八世紀もしくはそれ以前の伝来と考える。長屋王邸・藤原麻呂邸調査にて発掘された木札状品(七四〇年ごろ)も、その可能性を示す。

 八世紀もしくはそれ以前。つまり、奈良時代(〜平安時代中期)において、中国は政治・経済・文化多方面において日本を凌駕した。

 日本が国を挙げて、中国の政治・経済の仕組みや技術・文化を貪欲に吸収しようとしたのは、遣唐使(六三〇他、計二十回、内四回中止)などに端的に示される。

 民間レベルにおいても、唐商人・新羅商人などが中国や朝鮮などの交易ルートを通して活発に来訪し、財政的理由による八九四年の遣唐使廃止後はまさに交易の中心となった。

(つづく)

  
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