2006年07月29日

将棋の歴史4:改良(10) 文字書き

原将棋3 当初、大きさのみで駒を識別したが、やはり名前を明記した方が判別しやすい。木片の駒なので文字書きも容易である。

 もちろん、各々の駒には既に名前とそれに見合った性能があり、「彼」(※)が勝手に名前を付けたのではない。

 ※ このブログでは、改良者を特定できない場合すべて、「彼」と総称します。

 第一、第二段階の改良については、駒の大小に論点を絞り、あえて名称や機能については触れなかった。
 しかし、当初から立像駒が名無しではなかったのと同様に、文字書きしない駒も従前の名称と性能をすべて承継した。
 駒の名称と枚数は後列中央から外側に向かって次のようになる。(図)

王(二枚) 後の玉将・王将
将(二枚) 後の金将
虎(四枚) 後の銀将 
馬(四枚) 後の桂馬
車(四枚) 後の香車
兵(十六枚)後の歩兵

 以上、計三十二枚の駒が敵味方に対峙して並べられた。なお、この配置名称・機能(「虎」他)については前章にて記載しており、内容は割愛する。

(つづく)

  

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2006年07月27日

将棋の歴史4:改良(9) 縦長盤の採用

 当初、将棋の駒は大小差によって識別したが、差は微妙であった。今日の銀将・桂馬・香車・歩兵など、順に一ミリ刻みの高低差しかない。マックルックなどの立像型駒などと比較すると、全般にズングリしてメリハリがない。

 一番、大きい駒は今日の玉将・王将である。高さは約三.二センチ(一寸一分弱)であり、今日の将棋盤の一マスの横幅に相当する。

 今日のチェス盤同様、もともと二人制チャトランガは正方形の八×八=六四マス盤であった。当時の盤の一マスは縦横ともに約三.二センチであり、「王」(今日玉将・王将と呼ぶ)は一マスにかろうじて収まるように作られたに違いない。

 一方、当時最小の駒と想定される「将」(後の金将)も、小さいほどいいというものではない。自ずと下限が決まる。このように上限と下限が決められ、その間に収まるように各々の駒の大きさが決められたものと思われる。

原将棋2 とはいえ、「王」などはしばしばマスから駒がはみ出すことになる。駒の形状とマスの形状のバランスも取れていない。そこで、縦の長さを約三.六センチ(一寸二分)に延ばすように改良したものと推定する。

(つづく)

  
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2006年07月25日

将棋の歴史4:改良(8) 立ち駒の可能性

「将棋崩し(または「山崩し」)などで駒が立ちやすいのは、決して偶然ではない。そもそも立ちやすい構造となっているのは、当初、将棋の駒を立てて使用した名残ではないか」

 かつて、ニフティサーブの将棋&チェスフォーラムのオフ会で、会員の布目昭氏(筆名)から得た指摘である。早速、帰宅して駒を立てて並べてみた。

 駒を立てて使用しようしたが、立像型駒のイメージを踏襲しているという以外に利点は思いつかなかった。カサが張らないという点を除くと、立像型駒の欠点をそのまま引きずっている。むしろ、もともとの立像型駒に比べて倒れやすい。

 当初、五角形の駒を考案した者は、立てて使うことを念頭に置いたのかもしれない。だからこそ、立てて使用することも可能な形状となっている。だが、仮にそうであったとしても、長くは続かなかった。駒を寝かして使用した方が、色々な点で優れているからである。

‥櫃譴砲い。(安定性が高い)
∋詛Юがよくなる。(駒の背中が、視界を遮らない)
L隶型の駒であるため駒の方向性が明確となり、敵味方の識別が可能となり、色分けする必要もなくなる。これが敵味方同一駒使用につながり、持駒制度の採用を可能とした。

 なお、当初、仮に立てて使用した場合には、先手・後手の区別をつけにくいため、もともとの立像型駒の時と同様に駒を色分けした可能性は高い。

 その場合、他の二人制チャトランガと同様に先手が赤または白色、後手が黒色となる。また、駒を寝かして使いはじめた当初、駒を色分けした可能性もある。

(つづく)

  
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2006年07月22日

将棋の歴史4:改良(7) 文字書きしない駒(2)

原将棋1 なお、当初、王の右隣りに置かれた「将」(後の金将)は、マックルックの「メット」などと同様に、相当に小さい駒ではなかっただろうか。

 文字書きしない五角形の駒を並べてみるとわかるが、王の右隣に位置するこの駒を思い切って小さくしないと全体的なバランスがとれない。

 実際、専制君主や将軍の側近として仕える者たちの大変さや惨めさに対する皮肉や同情も込められていたに違いない。

 さて、木村義徳氏がエピソードとして披露した平城京長屋王邸・藤原麻呂邸跡地にて出土した文字書きされていない木札状品(推定七四〇年)を、年代・形状からみて、第一段階、つまり日本最古の将棋の候補と考えるが、今後、文字書きのない大小差のある五角形の駒が複数枚揃って出土することを期待したい。

(つづく)

  
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2006年07月20日

将棋の歴史4:改良(6) 文字書きしない駒(1)

 将棋の駒の大きさは個々に異なる。

原将棋1 これこそ、日本に伝来した立像型の「将棋」の駒の形状と大小とを忠実に再現しようとした証拠であり、駒の大小のみで駒を識別した初期の原将棋の名残である。

 微妙な駒の大きさの違いと形状の違い(大きな駒になるにつれて、幅が少しずつ広くなる)に、改良者のこだわりが見て取れる。

 もし、当初から文字によって識別したならば、駒に微妙な大小差・形状差をつける必要はなかった。実際、当初から図柄や文字によって識別したシャンチーにおいては、すべて同じ形状・大きさの駒である。

 もっとも、よくみると紛らわしい駒もある。飛車と角行、金将と銀将である。互いの大小は判然としない。

 しかし、飛車と角行の大駒は初期の原将棋には存在しなかった。金将も名称変更にともなって、銀将と同じ大きさに変えられたものである。(もともと、「将」「虎」として、駒の性格付けも駒の大きさも異なった)

 つまり、いずれも後世になって文字による識別を前提として改良されたものであって、大きさに対するこだわりは希薄である。

(つづく)

  
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2006年07月18日

将棋の歴史4:改良(5) 立像型駒から五角形の駒へ(1)

 将棋の改良の第一段階は、立像型駒の抱える欠点の解消にあった。

 立像型駒の最大の欠点は、カサが張って重くなるということである。三十二個の駒を保管するのに大きな入れ物も必要となる。加工に手間がかかるし、材料費もかさむ。

原将棋1 だから、「彼」(※)は駒のスリム化・平面化を思い立ったのである。

 ※ このブログでは、改良者を特定できない場合、その改良に携わった者をすべて「彼」と呼びます。


 ところで、改良とは既存のものをより良くすることであり、改良には原型を尊重して残す部分がある。(既存を全否定した場合は発明・新案であって改良といわない)

 立像型の抱える欠点を解消する一方で、駒本来の持つイメージの踏襲に努めた結果、「彼」は立像型駒が持つイメージを残しながら、左右均等で全体としてのバランスのとれ、かつ工作しやすい五角形のスリムな駒を作ることに成功したのである。

 今日ある将棋の駒から、文字書き・文字彫りを除いたもの。これが、改良の第一段階でなされたと考える。

 _良第一段階の駒は、『文字書き』されていなかった。
 改良第一段階に携わったのは、ベテランの工芸職人と思われる。仮に職人でない場合も、駒の形状などに対する相当なこだわりと技術の裏づけがある。
 
 それらの答えを、今日ある将棋の駒に見出すことができる。 

(つづく)

  
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2006年07月15日

将棋の歴史4:改良(4) 最古の将棋(初期改良)(2)

 ※ (再掲)左から順に、‖莪戝奮、第二段階、B荵庵奮を指します。

原将棋1原将棋2原将棋3

 

 

 


 

 シャンチーにおいては、城都が大河を挟んで対峙する構図を盤上に表現しようと試みた野心家・天才が現れるが、将棋の一連の改良においてそのような野心家・天才は登場しないように思われる。
 皆、与えられた範囲で地道な改良を施した結果、いずれも将棋が独自の道を歩むうえで欠かせないものとなったのではないだろうか。

 ところで、上記、一連の初期改良に関しては、原シャンチー(※)が日本に伝えられる前に行われたものと想定される。が、なぜ原シャンチーが日本に伝えられる前に行われた改良であるといえるのだろうか。

 ※ 原シャンチー:シャンチーの改良過程にあるものを総称します。

 たとえば、原シャンチーの円形の駒を見て、「どうにも円形では納得できない。駒は裾広がりの五角形にするべきだ」といった改良を加える可能性はなかったのだろうか。

 結論からいうと、あり得ない。碁を模した円型の駒と路の使用は、碁を嗜む者には抵抗はないし、碁石を模した円型の駒はある意味において洗練された究極の形だからである。

 中国の文化・技術を貪欲に取り入れようとした時代背景を考慮すれば、原シャンチーを無条件に受け入れたとしても何ら不自然ではない。

 洗練された原シャンチーを目の当たりにしながら、無条件に受け入れなかったのは、すでに原シャンチーに対抗しうる五角形の駒の原将棋が存在したからに他ならない。

(つづく)

  
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2006年07月13日

将棋の歴史4:改良(3) 最古の将棋(初期改良)(1)

 八〜十世紀ごろ、日本に伝来した「将棋」が初期改良された一連の過程を考察する。原シャンチーの影響を受ける以前の改良であり、日本の将棋が独自の世界を築く礎となった。

 三段階の改良であるが、第二段階と第三段階については順序が逆の可能性もある。

‖莪戝奮 立像型駒から、今日ある五角形の駒への改良。ただし、文字書きなし。

第二段階 盤型の正方形から縦長へ改良。

B荵庵奮 駒への漢字一文字書き。(「虎」の採用)

 ※ 左から順に、‖莪戝奮、第二段階、B荵庵奮を指します。

原将棋1原将棋2原将棋3


 

 

 

 

 第一段階・第二段階の改良者のイメージは工芸職人である。
 第三段階の改良者は一握りの知識階層に属し、盤上遊技を嗜む余裕のあった者、たとえば貴族・僧侶・役人・富豪等と想定する。

(つづく)

  
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2006年07月11日

将棋の歴史4:改良(2) 原将棋の定着(2)

 次に掲げる時系列により、時代背景と合致するのみならず、将棋の改良過程に対して一貫して明快な説明を行うことが可能となる。

 ‥初、「オアシスの道」を経由して中国に伝来したのは「玄怪録の宝応象戯」である。これと同一種が「将棋」という名で朝鮮・日本に伝来した時、中国に原シャンチーは存在しなかった。(八、九世紀ごろ)

◆‘本において、「将棋」に独自の改良が加えられた。(→初期の原将棋。八〜十世紀ごろ)

 日本で初期の原将棋が確立される間、別の二人制チャトランガが「海の道」を経由して中国に伝えられ、一時期、中国には二種類の二人制チャトランガが併存した。その後、改良された後輩(=原シャンチー)が、先輩を駆逐した。(九〜十一世紀前半ごろ、唐代後期〜北宋代中期)

ぁ‘本において初期の原将棋が定着した後に、原シャンチーが日本にもたらされた。(十世紀〜十一世紀前半)

ァ仝競轡礇鵐繊爾梁紳腓扮洞舛砲茲蝓原将棋は飛車・角行を除いて今日ある漢字二文字等へと改良された。(十世紀〜十一世紀前半)

Ε轡礇鵐繊爾砲いて、城都の構図を盤上に取り入れ、砲の駒を加えたりした。(十一、二世紀)

Ь棋において、持駒制度を導入し、大駒(飛車・角行)を採用した。巨大将棋も出現した後、衰退もしくは滅亡した。(十三〜十五世紀)

┣良されたシャンチーは朝鮮・ベトナム・琉球などを席巻するとともに、日本にも伝来したが、日本では持駒制度の導入や大駒の採用等により独自の改良過程を歩み、シャンチーに淘汰されることはなかった。
 結果として、各々別系統のゲームに仕上げられた。

(つづく)

  
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2006年07月08日

将棋の歴史4:改良(1) 原将棋の定着(1)


 日本と中国において、ほぼ同時並行的に二人制チャトランガは改良された。
 当初、中国からもたらされた情報は日本に伝来した「将棋」であり、シャンチーの祖先と異なるものである。

 にも関わらず、年月を経て、中国からもたらされる情報は原シャンチー(シャンチーの改良過程にあるものを総称する)やシャンチーに代わり、「将棋」は逐次それらの影響を受けて改良された。

 一見、二律背反と思われる事象によって今日の将棋が成立したことに、何の矛盾もない。
 それどころか、これらを踏まえない限り、将棋史を正しく理解することはできない。

 次に掲げる時系列により、時代背景と合致するのみならず、将棋の改良過程に対して一貫して明快な説明を行うことが可能となる。

(つづく)

  
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