2014年07月17日

興福寺将棋:38枚制酔象将棋(4)

 なお、興福寺将棋・二中歴将棋共に、持駒制度採用を採用していたと考える。
 まず、二中歴大将棋の記述「必(又は如)是一方 必(如)此行方准之」について、意味不明で書写の際に誤ったものとするのが学会での通説であるが、溝口和彦氏は「必ず一方だけに属し、必ず取られた後もこれに準じる。(敵のものにならない)」と解釈する。これらにより、二中歴大将棋は取り捨て法採用、二中歴将棋を持駒使用法採用と判断しており、私も溝口説に賛成する。
 http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/cat_50031632.html

 一方、興福寺将棋と二中歴将棋は酔象駒の有無という点を除くと、ほぼ同時代に遊ばれていることから、興福寺駒も二中歴将棋と同じく持駒使用法を採用していたと思われる。
 ところで、今回発掘された酔象駒は裏書無し(同時に発掘された「桂馬」、「歩兵」の裏面は「金」)であることから、玉将や金将と同じく不成りと考えることができる。しかし、後世において「太子」に成ることを考慮とすると、他の駒と同様に金成りできたと考えることもできる。一発掘駒のみで断定することは困難であるが、いずれの場合にせよ、興福寺将棋における酔象駒と持駒制度との相性が悪かったということにはならないと思われる。

 また、従前から二中歴将棋を平安将棋と呼ぶことに異議を唱えてきたが、異なる二種類の将棋(興福寺将棋と二中歴将棋)が同時代に存在する可能性が高まったことから、二中歴将棋を平安時代の代表または唯一の将棋とする呼称の問題点がより明確になったのではないだろうか。

 さらに、38枚制酔象将棋(興福寺将棋)の推定により、かつてこのブログに掲載した二中歴大将棋から大将棋の改良過程に、修正を加える必要が生じた。
 つまり、二中歴将棋にも、二中歴大将棋にも酔象駒の記載はないが、すでに、酔象駒は存在しており、二中歴大将棋から大将棋の改良過程において新たに創作されたものではない、ということである。
 したがって、かつて、‘鹵耄鯊臂棋の猛虎から猫刄、猛豹、盲虎の駒が創作され、二中歴大将棋の銅将から悪狼が創作され、さらに、盲虎、悪狼というアウトロー的な動物名の駒から酔象が創作されたと推定した(酔象の創作が最後)が、逆に、当初から存在した酔象駒が、盲虎、悪狼駒等の創作に影響を与えた可能性も考えられる。
(つづく) 

  

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2014年07月15日

興福寺将棋:38枚制酔象将棋(3)

 「38枚制酔象将棋」(興福寺将棋)の存在は、ブログのタイトルである「銀将の祖先は虎だった。」という自説を補完するものと考える。

 このブログでは、元々、二人制チャトランガにおいて「象」であった駒が、オアシスの道を経由して中国に伝えられた際に、「寅(虎)」に変化(玄怪録※から推定)し、かつ、それが日本に伝来した(二中歴将棋から二中歴大将棋の改良過程を考察する中で、銀将の祖先を「虎」と推定)と考える。

※ 玄怪録に記された「将棋」について、作者が創作した将棋そのものを推定する研究家がいる一方、怪奇小説であるという理由で、文献としての価値を全否定する研究家もいるが、ここでいう「将棋」は、小説創作にあたって作者が参考にしたであろう当時、中国に実在した「将棋」を指す。

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50253780.html

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50238614.html

 なお、中国の研究家は、玄怪録が宝応年間(762年4月〜763年6月)の出来事を記したとされる怪奇小説であることから「宝応象戯」と呼ぶが、私は、まさに漢字で「将棋」と呼ばれたと考えている。その後、別途、海の道を経由して中国に伝えられたもの(後輩)は、碁を模した駒・盤に改良される一方で、「象」の名称は変化しておらず、「将棋」との違いを明確にするため「象棋」と呼ばれたと考える。
 
 そして、「象棋」(漢字一文字駒)の情報が日本に伝えられ、当時の日本「将棋」(漢字一文字駒)と新たに中国から伝来した「象棋」が合体されて、新たに漢字二文字の日本「将棋」に改良されたと推定した。

  たとえば、日本「王」+中国「将」⇒王将、日本「将」+中国「士」⇒士将⇒金将、日本「虎」+中国「象」⇒虎象⇒銀将、日本「馬」+中国「馬」⇒馬⇒桂馬、日本「車」+中国「車」⇒車⇒香車、日本「兵」+中国「兵」⇒兵⇒歩兵などである。
http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50624597.html

 さらに、当時の改良者は、暫定的合体駒である「虎象」の名称に違和感を持ち、「士将」と共に、銀将、金将と変更したが、その際、単に「虎象」を切って捨てるのはなく、「酔象」という名称の駒を新規に創作することによって、虎・象の名残をとどめたものと思われる。
 虎象も酔象も共にグロテスクな象である。しかし、実在しない造語の虎象は荒唐無稽で説明が困難であるが、酔象なら仏教由来であり説明は可能である。
 従前のものをより良くしようする一方で、単純に従前のものを切って捨てるのではなく、できる限り尊重して残そうとするのは、将棋に限らず、改良者心理としてよくみられることである。
 このようにして創られた酔象駒は玉将の頂に置かれた。なぜなら、酔象一駒、ぽっかり空いた2段目の中央に置くと駒全体の配置の均衡が図れるからである。

 とはいえ、玉将の頂きに酔象が置かれるのは、唐突であり不自然である。
 この不自然さを解消するために、大きく二つの流れがあった。
 一つは、採用経緯はともあれ、結果として玉将の頂きに置くのにふさわしくないから(端的にいえば、邪魔だから)、盤上から取り除くという流れである。その結果、玉将の頂きに酔象駒が置かれる38枚制酔象将棋(興福寺将棋)と酔象駒が取り除かれた36枚制将棋(二中歴将棋)が、並行して遊ばれることになったのではないだろうか。
 もう一つは、酔象駒の大義名分を強化し、玉将の頂に置かれる必然性を付与しようとする流れである。そこで、後世において、裏面を太子とし、玉将の後継者に仕立て、玉将が取られた後、玉将の後継者としてゲームが存続するルールが確立された。
 しかし、玉将が取られた後玉将の後継者としてゲームが存続するルールの採用は、酔象存続にとって、かえって仇になってしまった。というのは、持駒制度と併用された場合にゲームが長期戦になってしまい、愛好者たちに疎まれてしまうことになったからである。結局、酔象は淘汰されて盤上から姿を消すことになった。
(つづく)
  
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2014年07月12日

興福寺将棋:38枚制酔象将棋(2)

 今回の興福寺旧境内での発掘により、「38枚制酔象将棋」の存在はほぼ確実になったといえるのではないだろうか。これを踏まえ、改めて、将棋の改良過程を想定した。
 ポイントは、まず、現時点において最古とされる将棋は「38枚制酔象将棋」(興福寺将棋、裏書なし=当初、太子ではない)であったこと、次に、酔象を採用した将棋と酔象を採用しない将棋が、並行して遊ばれていたことである。

<「38枚制酔象将棋」を前提とする将棋の改良過程>
38枚制酔象将棋(興福寺将棋)      ⇒42枚制酔象将棋(飛車・角行追加)⇒淘汰された
 ⇒36枚制将棋(酔象なし、二中歴将棋)⇒40枚制現行将棋(飛車・角行追加)

 まず、38枚制酔象将棋(興福寺将棋)が先に存在し、その後、酔象駒が存在する将棋(38枚制酔象将棋)と酔象駒が盤上から除かれた36枚制将棋(二中歴将棋)が並行して遊ばれた。
 さらに、これら二種類の将棋共に飛車・角行が追加された。(40枚制現行将棋、42枚制酔象将棋(裏面太子))
 しかし、42枚制酔象将棋は持駒制度との相性が悪いために淘汰され、今日、40枚制将棋が残った。
 ちなみに、相性が悪いというのは、酔象は太子になると玉将が取られた後に玉将の跡を継ぎ、太子が取られるまで、試合が継続する一方、持駒制度によって取った駒が再使用できるため、試合に決着が付くまで相当な手数を要するということである。

 以上が、今回、見直した将棋の改良過程であるが、「38枚制酔象将棋」(興福寺将棋)の存在は、ブログのタイトルである「銀将の祖先は虎だった。」という自説を補完するものと考える。
(つづく) 

  
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2014年07月10日

興福寺将棋:38枚制酔象将棋(1)

 2013年10月、奈良市の興福寺旧境内から、新たに酔象駒や木簡(承徳二年(1098年)と記載)等が発見された。ちなみに酔象駒は現代の将棋の駒に近い木製の五角形で、縦25mm、横15mm、厚さ2mm、裏面に墨の跡はなかったという。

 酔象はかつて玉将の頂に置かれたこともある駒であるが、現行の将棋にはなく、将棋史における位置付けは必ずしも明確ではなかった。

 まず、1973年、福井県福井市の一乗谷朝倉氏遺跡から、16世紀の将棋駒170枚以上が発掘され、酔象駒(裏面太子)が含まれていたため、それまで実在が疑われていた「42枚制酔象将棋」の存在が確実視されるようになった。ちなみに、これまでの国内最古の酔象駒は、京都市の上久世城之内で発掘されたものであり、14世紀中ごろのものとされる。
 
 さらに、1993年、興福寺旧境内で今回調査地から西方約200mの場所において15枚の将棋駒と将棋関係習書木簡等が発見され、この習書木簡に「酔像」らしき文字が記されていた。共伴した題箋軸に「天喜六年」(1058年)との記載があることから、現時点において、これらは日本最古のものとされる。
 そして、習書木簡の「酔像」らしき文字書きにより、木村義徳氏は「38枚制酔象将棋」を想定した。木村氏はいう。
「ごらんのとおり実測図でも読み取れないし、現物をみても私にはわからなかったが、木簡解読の権威者である京都教育大学和田萃教授の読みとのことなので尊重する。(中略)ただし、流行の主流は36枚制のほうで、38枚制は支流と言うべきである。それゆえ、「二中歴」が省略したのであろう」(2001年 「持駒使用の謎」日本将棋連盟版 p.216) 
 たしかに、
―書とはいえ、将棋に関連する事項が記載されている可能性が高いと考えられるが、五角形の駒に記されたものではないこと、
二中歴の将棋及び大将棋に酔象の記載がないこと、
グロテスクな名称の駒でありながら玉将の頂に置かれることや将棋において漢字二文字を採用した当初から酔象の駒が存在したこと等に唐突感があること
などから、私も「38枚制酔象将棋」の存在については確信が持てなかった。
 
 しかし、今回の興福寺旧境内での発掘により、「38枚制酔象将棋」の存在はほぼ確実になったといえるのではないだろうか。これを踏まえ、改めて、将棋の改良過程を考察した。
(つづく) 

  
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2006年09月23日

将棋の歴史5:改良2(19) 漢字二文字の採用(6)

 今日、将棋の愛好者は愛着を込めて、玉金銀桂香歩と省略して呼ぶことが多い。個人的には、とりわけ「歩」に親しみを感じる。

 かつて、将棋に夢中になったときがある。記憶に違いがなければ、若き中原誠が不世出の大名人大山康晴を破って名人位に即位して将棋界に旋風を巻き起こした年である。

 授業中に教師に内緒で悪友と紙に書いて将棋を指した。メモ用紙に八十一のマス目をボールペンで書き、マス目に鉛筆で駒を書く。移動して駒を書き直すうちに紙が汚れて、どこに何の駒があるのかわからなくなって、たいてい引き分けに終わった。

 当時、小遣いをはたいて、故加藤治郎氏著『将棋は歩から』全三巻を買い求めた。私にとっての宝物だった。

 将棋の格言の一つに、「歩のない将棋は負け将棋」があるが、まさにそれを具体的かつ詳細に示したのである。ダンスの歩、連打の歩、焦点の歩、垂れ歩等々、鮮やかな「歩」の使用法と名付けの絶妙さに、感嘆した記憶がある。

 『将棋は歩から』を読めば、「兵」をおざなりにした改良者も「歩兵」の価値を見直したに違いない。

(つづく)

  
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2006年09月21日

将棋の歴史5:改良2(18) 漢字二文字の採用(5)

 ふと彼は、やり残した作業があることに気づいた。「兵」のみ一文字のまま放置していたのである。他はすべて二文字なので「兵」だけ一文字のまま放置するわけにもいかない。だが、もはや真面目に考える気にもなれなかった。

 しょせん、兵卒であり雑兵である。卑しい身分ゆえに一生、馬や車に乗ることはないのだから「歩く」だけで十分だと片づけた。
 「歩兵」である。王将を除く他の駒はすべて宝に由来しているのに、兵だけ無縁であるのは、こうした経緯があったからに違いない。

 なお、「玄怪録の宝応象戯」において、この駒は「歩卒」と名付けられた。「歩」を使用したのは、偶然の一致とはいえ興味深い。

原将棋6 ともあれ、五宝にちなんで改良した将棋は評判を呼び、彼の主も、そして彼自身も面目を保った。こうして、飛車・角行を除き、今日ある将棋の形が定着した。

 ところで、もともと不穏な一言を発した上位者の貴族は、帝や藤原氏・源氏一族ほど高位でなかったと思われる。もし、高位者であれば史実に名を留めるし、仮に謀反の嫌疑でも生じようものなら、彼の主人は直ちに厳罰に処されたに違いない。

 貴人のたしなみと位置づけられて頻繁に歴史に登場する碁と違い、将棋はなかなか歴史に顔を出さない。

 なお、銀将の祖先が「虎」ではなく、「象」であった場合、上記の推論は成り立ちにくい。仮に「象」であった場合には、馬・車と同様に名前を残された可能性は高く、逆に、王(玉)将・士将のみで金・銀を連想することは困難であったに違いない。

p.s.
 上記一連の記述は「仮説」であることを、改めてお断りします。
 平安時代、とりわけ藤原道長・藤原頼道の摂政関白時代の貴族史・文化史等に精通する専門家の方々の助言を求めたいと思います。

(つづく)

  
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2006年09月19日

将棋の歴史5:改良2(17) 漢字二文字の採用(4)

 ふと、彼は将棋の「玉」を見て、はたと思いついた。

差異4 上の文字に関して「玉」に関連付けてみたらどうだろうか。「玉」にちなむものと言えば、すぐに金・銀などの宝物を連想する。「玉将」「金将」「銀将」である。
(図4:前回からの番号を踏襲した)

 山上憶良(六六〇〜七三三)の天平勝宝折り込み歌に次のような和歌がある。
「銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」

 玉・金・銀・勝れる宝というキーワードから、この和歌と将棋と関連付けようとする説もあるが、年代的にそぐわない。しかし、これらが宝物の代名詞であったことは間違いない。

 最初はしっくりこなかった。「玉将」「金将」「銀将」とは、はたして何者か?しかし、次第に良いかもしれないという気になった。玉・金・銀とは、いかにも優雅できらびやかではないか。

 将棋やシャンチーの駒の名称のズレがどうしたとか、謀反がどうしたとかいった荒んだ気持ちを和ませてくれるに違いない。やがて、これしかないと確信するに至り、ようやく光明を見出した気がした。

 ここまで来れば、他の駒も玉・金・銀に習って、二文字にするまでのことである。五宝として桂・香を各々馬・車の上に冠して「桂馬」「香車」と改良したのは自然な流れであった。こうして、彼は作業を成し終えた安堵に胸をなで下ろした。

(つづく)

  
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2006年09月16日

将棋の歴史5:改良2(16) 漢字二文字の採用(3)

 彼(※)は頭を整理しようと、将棋とシャンチーの駒を並べることにした。

※ 改良者を特定できない場合、すべて「彼」と総称します。

 まず、シャンチーは先手・後手ともに名称が異なる。しかし、いずれか一方でも将棋と同じ名称ならば問題なしと見切りをつけた。
 「兵(卒)」「馬(傌)」「車(俥)」である。

差異1 残されたのは中央に位置する四種類の駒(王と玉を別種類とみなす)である。
 将棋の駒を横一列に並べ、その真下に、各々対応するシャンチーの駒を置いた。
(図1:上段は原将棋、下段は原シャンチー。以下、同じ)

 これらを凝視するうちに、双方の名前を合体させるしかないと思い立った。合体させたら双方のズレは解消する筈である。

差異2 「玉将」はともあれ「王将」で意味が通じる。しかし、「将士」は、語感がよくない。そこで、「王将」「玉将」に合わせて、「士将」と順序を入れ替えた。(図2)

 問題は、「虎象」である。虎象とは何者か。順序を入れ替えて「象虎」とすると、ますます気味が悪い。化け物でしかない。

 ふと、下の漢字、つまり他の三つの駒の「将」と「象」を見比べるうちに、ともに同じ音読み「ショウ」であることに気がついた。
 象も生き物ならば「ゾウ」であるが、森羅万象・象形文字など形取るという意味ならば「ショウ」となる。

差異3 そこで「象」を「将」に置き換え、すべて下の漢字を「将」に統一することにした。(図3)

 「象」という難物は退治したものの、依然「虎将」という動物の擬人化には課題が残った。もし、このままの名前を披露したら失笑を買うだけであろう。

「その虎将とやらには、尻尾が生えておるのか、おらないのか」
と。

(つづく)

  
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2006年09月14日

将棋の歴史5:改良2(15) 漢字二文字の採用(2)

 以下、一つの推論を示す。

原シャンチー4原将棋5

(想定図再掲:原シャンチー第四段階、原将棋第五段階)

 とある貴族が何かの折り、自分より位が低いが野心を内に秘めた貴族を呼び寄せた。そして、原シャンチーと原将棋を並べて、こうぼやいた。

「なぜ、中国のシャンチーは『王』ではなく『将』が中央に居るのか。これは、もともと居た『王』を追放したということなのか」

 下位者が何も答えることはできずにいると、上位者は皮肉を浴びせた。
「結局、日本の『王』も『将』に追放される運命にあるのか。もしかして、お前も中国のシャンチーを手本にしようなんて思っておるのではあるまいの」

「めっそうもございませぬ」
と下位者はその場を取り繕ったものの、内心、穏やかであろうはずもない。

 屋敷に戻ると直ちに、腹心の部下を呼び寄せた。
「おまえは、中国のシャンチーを知っておるか」

「名前くらいは聞いたことがあります」
と答えたであろう臣下に、上位者から謀反の嫌疑を受けた経緯を耳打ちしたうえで「何とかしろ」と命じた。そして、最後にこう付け加えた。
「もし解決できなければ、命はないと思え」と。

 臣下は暗澹たる気持ちで自室に戻ったが、事が事だけに他人に口外することはできない。原将棋と原シャンチーとの駒の名称間に存在するズレを解決するには、どうしたらいいのだろうか。

 原将棋の駒の名称をまったく原シャンチーと異なるものに変えてしまうというのは一つの手法だった。だが、駒の名称を気の利いたものに置き換えるのは容易ではない。

 何かいい名前を一つ思い浮かべることができたら、他も連想できるにちがいないが、その一歩が踏み出せない。数時間(もしくは数日間)に渡り、彼は苦吟したに違いない。

 混乱に拍車をかける要素は他にもあった。シャンチーは先手・後手ともに駒の名称が異なり、将棋もシャンチーの影響を受けて「王」「玉」と異なる。

 彼は頭を整理しようと、将棋とシャンチーの駒を並べることにした。

(つづく) 

  
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2006年09月12日

将棋の歴史5:改良2(14) 漢字二文字の採用(1)

原将棋5原将棋6

(再掲:原将棋改良想定図。
左から第五、第六各段階)

 駒の名称が一文字から二文字になった経緯には作為が感じられる。


_将は各々一文字で意味が通じるのに、無理に二つの漢字を重ね合わせている。
◆峩盒箏帽甼漫廚覆鼻∪鐐茱押璽爐忙つかわしくない五宝を冠した駒がある。
「兵」だけは差別されて、五宝と無縁の「歩」を適当にあてがわれたように見える。

 どれ一つ取っても不自然であるが、などにはぞんざいさもみえる。
 はたして、本当に将棋を愛し、将棋をよりよいものに変えようとした愛好者がこの劇的な変更を演出したのだろうか。一体、どういう状況下でこのようなことが行われたのだろうか。以下、一つの推論を示す。

(つづく)

  
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