2011年10月18日

将棋の歴史6:改良3 持駒制度の採用時期(7)

 「二中歴の将棋は、『持ち駒再利用のルール』を適用していない」というのが、「通説」(以下、「遊戯史学会」等において概ねコンセンサスが得られている説をいう)であり、このブログも「通説」に拠ってきた。

ところが、このために持ち駒再利用ルールの採用時期に関する解釈に、混乱や矛盾が生じている。
http://blog.livedoor.jp/r_onuma/archives/50661049.html

 一方、溝口和彦氏は「通説」に疑義を唱えている。

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/r_onuma/50437434

> 私は、「二中歴将棋」の記事「「敵玉一将則為勝」は「敵玉一将で則ち勝ちを為す」であり、「敵玉一将さえとれば勝ちになる」という意味だと考えています。「二中歴将棋」は通説と異なり「持ち駒使用」だと思います。

> また、「二中歴大将棋」の「必是一方必此行方准之」は「必ずこれは一方であり必ず此の行き方は之に准ず」であり「必ず一方だけに属し、必ず取られた後もこれに準じる。(敵のものにならない)」という意味で「取り捨て」の説明だと考えています。 

 まず、「敵玉一将則為勝」の解釈について、 崚╋未一将になればすなわち勝ちとなる」(通説)、◆崚╋粍貍さえとれば勝ちになる」(溝口説)である。いずれが妥当なのだろうか。

 

(1)仮に、原文が「敵玉在(又は留、残など)唯一将則為勝」という表記であれば、「敵玉が一将になればすなわち勝ちとなる」という解釈で問題はない。しかし、原文を「敵玉が一将になればすなわち勝ちとなる」と解釈するのは自然ではない。一方、溝口説に特段の不自然さはない。

(2)将棋の祖先たるチャトランガにおいて、「敵玉一将さえとれば勝ちになる」と解釈される。

したがって、「敵玉が一将になればすなわち勝ちとなる(=敵玉以外の駒をすべて取ることが勝利条件である)」とする解釈は、ルールの連続性に欠ける。

(3)「通説」によると、持ち駒再利用ルールの採用時期に関する解釈等において、矛盾や混乱が生じる。

つまり、総じて、「通説」は溝口説と比べて、不自然さが目立つ。

 

 又、「通説」では、二中歴大将棋の末尾文「必(如)是一方必(如)以此行方准之」について、「このあとの十字は誤写の為か意味の通じない言葉となっている」「最後の十字にも転写のミスがあるらしく読みにくい」などとされ、解釈対象外とされる。

なお、前田家古写本等を見る限り、「必」と読むのが自然と思われるが、「如」と読む可能性も否定できない。ただし、いずれにせよ解釈に大差は生じないと思われる。

 一方、溝口氏は、「必是一方必此行方准之」⇒「必ずこれは一方であり必ず此の行き方は之に准ず」⇒「必ず一方だけに属し、必ず取られた後もこれに準じる。(敵のものにならない)」=「取り捨て」ルールと解釈する。

 

そして、これも自然な解釈であり、「通説」のように誤写と結論付けるのは早計と思われる。

 したがって、溝口説のほうが通説より妥当と考えざるをえない。すなわち、二中歴将棋は持ち駒再利用ルールを採用し、二中歴大将棋は取り捨てルールを採用していたと解釈される。
<二中歴の将棋>
二中歴将棋9x9
(つづく) 

 


  

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2006年10月19日

将棋の歴史6:改良3(9) 持駒制度の意義(3)

 持駒によって、駒の移動力が(ある意味において)万能となり、双方の戦力の総和が増加することなどから、様々の効果が生じる。

々眦戮併弭洋呂鰺廚垢襦
着手の選択肢が増え、盤上の駒のみならず、双方の持駒を勘案して戦略を決定する必要に迫られる。

中・終盤になってもゲーム展開が単調とならない。
持駒が増えることにより、双方の戦力の和も増加することから、試合展開はチェスなどのエンドゲームにみられる起承転結ではなく、むしろ序破急という激しい展開になる。

0き分けが少ない。
 双方の戦力の和が増加することから、先手・後手の戦力の均衡が崩れることはあっても、双方息切れにより引き分けとはなりにくい。将棋の場合、双方入玉の場合や千日手の場合に限られる。チェスの場合、スティールメイト(※)など、「引き分けの美学」はあるものの、引き分け数は将棋に比して格段に多い。チェスは収束型、将棋は非収束型のゲームと言えよう。

※スティールメイトは、自分の手番の時、チェックはかかっていないものの次に動かせばキングを取られてしまう状態の時(将棋でいえば「必至」がかかった状態の時)、引き分けとなるルールである。

だ莠衂勝とはいえない。
将棋のプロ棋士の勝率は、先手約52%、後手約48%であり、チェスほど端的に先手必勝のデータは示されない。中・終盤の展開の激しさが先手の利を薄めるものと思われる。

 ところで、持駒制度によって現実の戦争、つまり、消耗戦とかけ離れてしまうという指摘がある。ある意味において正しいが、持駒を戦闘に勝った報酬と考えたらどうだろうか。

 昨今のロールプレイングゲームにおいてはより強い敵を倒すことによって経験値が上がり、財貨や必要な戦闘道具が手に入る仕組みのゲームが主流を成すが、将棋の持駒制度はその先駆けといえるものかもしれない。

(つづく)

  
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2006年10月17日

将棋の歴史6:改良3(8) 持駒制度の意義(2)

 SWG(=シミュレーションウォーゲーム)においては、駒の性能を要素別に分けて各々を数量で表示することが多い。

 「攻撃力」、「防御力」、「移動力」などである。このうち、「移動力」は、 必要な時、必要な場所に、必要な戦力を確保することができる性能で、重要な戦力の構成要素である。

 将棋においては「攻撃力」「防御力」「移動力」が三位一体となっているため意識することはないが、こと「移動力」については持駒か盤上の駒かで差異が生じる。

 双方の移動力を比較した場合、移動が限定される盤上の駒より、持駒の方が個々の局面において適材適所に配置できる可能性が高い。

 誤解を恐れずにいえば、持駒の移動力は自ら打ちたいところに打てるという点において万能である。もっとも、持駒は打った瞬間には敵の駒を取ることはできない点や空いたマス目にしか打てない点において、少し差し引いて考える必要はあるだろう。

 いずれにせよ、移動力という点において、持駒の増加によって双方の戦力の和は増加する。
 そして、駒の移動力が万能となること、持駒によって双方の戦力の総和が増加することなどから、様々な効果が生じる。

(つづく)

  
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2006年10月14日

将棋の歴史6:改良3(7) 持駒制度の意義(1)

SWG例 持駒制度によって、試合中使用できる敵味方合わせた駒の総数は変わらない。ところが、戦力の総和は双方の持駒数の増加に従って向上する。

 このことをシミュレーションウォーゲーム(以下、SWGと省略)の基本概念を用いて説明する。

(図、「メッツ進撃作戦」ジェームス・F・ダニガン著「ウォーゲームハンドブック(ホビージャパン刊)から抜粋引用した。下図「ユニット」も同じ)

 SWG。直訳すれば模擬戦争ゲームである。広義には将棋やチェスは元よりスポーツゲームなどありとあらゆる対戦ゲームをも包括するが、ここでは狭義のボードゲームに限定する。

SWGユニット例 厚紙に地形が描かれ、蜂の巣のように六角形で仕切った盤を使用し、戦車・戦闘機などの名称・絵柄・性能などを表示した複数種類のユニット(厚紙駒)を用いる。かつて、日本においても「信長の野望」「三国志」などSWGの概念に基づいて作成されたコンピュータゲームが流行したこともある。

 このSWGにおいては、駒の性能を要素別に分けて各々を数量で表示する。図の第五師団第一一連隊ユニットにおいては「戦闘力―移動力」の二要素のみで戦力を表示するが、「戦闘力」を「攻撃力」と「防御力」とに細分化することもある。

(つづく)

  
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2006年10月12日

将棋の歴史6:改良3(6) 持駒制度の採用時期(6)

 前述したように、僧、良季編纂の「普通唱導集」(一二九七〜一三〇二ごろ)に「桂馬を飛ばして銀に替ふ 敵人の驚くことまた興有り」とあり、十三世紀末時点における持駒使用は確実視されるが、改めて、どこまで遡ることができるのであろうか。

 今泉忠芳氏が、「将棋ペン倶楽部(二〇〇六年秋第46号)」に、出土駒の一覧を掲載しており、西暦一三〇〇年以前のものを時系列順に抜粋引用した。

 <出土駒>  <年>              
 酒田駒   弘仁6年(815)
 興福寺駒  天喜6年(1058)
 C翅沙駒  康和2年(1100)
 つ傘離宮駒 大治4年(1129)
 
 このうち、ー鯏超陲砲弔い討蓮駒の取り捨てルールであった二中歴の将棋より旧型であるため対象外である。
 次に、興福寺駒については、外見は駒取り捨てルールであった二中歴の将棋と同じであるとともに、裏面記載の文字も未分化で駒の識別の意図が明確ではないため、対象外とする。
 つ傘離宮駒については、銀将駒の裏面に「金」の崩し字と見られる記載があるが詳細は不明である。

中尊寺駒 着目すべきは、C翅沙駒であろう。 
 岩手県平泉町中尊寺境内から12世紀初頭の将棋の駒11点が出土した。そのうち、今泉氏は9個の駒の両面を記載した。

(左図は、今泉忠芳氏「日本将棋の起源」(将棋ペン倶楽部二〇〇六年秋第46号)から抜粋引用した)

 歩兵の裏面は、今日同様の「と」と記載されている。銀将と桂馬は駒によって裏面記載の内容が異なるが、独立した略字体の試みがなされている。

 駒の裏面の文字は、今日のものとすべて同じという訳ではないが、駒の識別に対する意識の萌芽をみることができる。持駒採用時期を予期させる重要な証拠の一つと考えていいのではないだろうか。

 今後、1100年〜1300年の間に作られた駒の出土を積み重ねることによって、持駒採用時期を特定できるものと期待する。

(つづく)

  
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2006年10月10日

将棋の歴史6:改良3(5) 持駒制度の採用時期(5)

 酒田出土駒の裏面の文字が持駒制度のためではないとすると、駒の裏面の分別は何のためだったのだろうか。

 一連の将棋史考察に際して実感するのは、実に合理的な判断にもとづいて将棋の改良が行われており、ただ何となく、漫然と行われた変更や改良など一つもない。駒の形状・文字の一つ一つにメッセージが込められている。

 持駒制度採用の裏付けを駒の裏面の文字書きに求めた木村義徳氏の着眼は、外れてはいない。しかし、当初の文字書きの理由は、駒の識別ではなかった。

 興福寺出土駒の裏面に「金之」「金也」などと書いてある。なぜ、「金」にこだわるのか、理由は単純明快であろう。
 裏面に「金」と記した当初の理由は、「成駒制度を周知徹底させる」ということなのである。

 そもそも、古代インドのチャトランガの時代から、成駒制度・昇格ルールはあった。今日、欧米のチェス・中国のシャンチーなど世界中の「将棋」に承継されている。

 チェスなどのように立像駒を使用する「将棋」において、成駒を裏返すことは物理的に困難であり、そのまま昇格した駒として使用する。
 駒取り捨てルールのため、昇格する駒はポーン(将棋でいう歩兵)に限られ、ほとんど昇格出来ないことから、さほど混乱しないと思われる。

 しかし、成駒とその他をきちんと分別できるならそれに越したことはない。だから、表面に文字書きされた原将棋において、成駒であることを明確にするため駒を裏返すことを思いついた改良者がいた。

 当初、裏面には文字は書かれていなかった。何も書かれていないことが、成駒の証であった。
 しかし、将棋の普及過程において、裏面に「金」などの文字を記すことによって成駒制度を周知徹底させた方がよいと判断されたのではないだろうか。

 当初、「成駒制度の周知徹底」という目的で導入した裏面の文字であるが、やがて、文字の差異が生じた。

 これは、木村義徳氏が指摘するように持駒制度の導入の結果、生じた差異かもしれないし、逆に文字の差異が持駒制度の導入を促進したのかもしれない。

(つづく)

  
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2006年10月07日

将棋の歴史6:改良3(4) 持駒制度の採用時期(4)

 しかし、時系列的な観点から、旧型(漢字一文字)の酒田出土駒と新型(漢字二文字)の興福寺出土駒の間に二中歴の将棋をはめ込む際に、新たな問題が生じる。

 二中歴以前の将棋においては持駒制度を採用していないことになるが、その場合、酒田駒「兵」の裏面に書かれた崩し字らしき文字は何物なのだろうか。何のために書かれているのだろうか。

 そもそも、興福寺出土駒の裏面に記された文字から、表の駒を識別するのは容易ではない。今日ある将棋の駒のように、駒によって異なる文字を裏面に用いるという配慮が十分にはなされていないからである。 

 木村義徳氏は裏面への文字書きという事柄を捉えて「興福寺出土駒の裏面の文字書き=持駒制度の採用済」と説くが、裏面への文字書きのみで、無条件に持駒制度採用済とはいえないのではないだろうか。

(つづく)

  
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2006年10月05日

将棋の歴史6:改良3(3) 持駒制度の採用時期(3)

  「二中歴」の将棋に、「敵玉一将則為勝」と明記されている。

 これを、「敵の玉将一枚だけになれば勝とする」と解釈するのが(遊戯史学会等における)通説とされる。通説によれば、この勝利条件と持駒制度との相性が悪いのは容易に想像できることであり、当時は「駒取り捨てのルール」であったと想定される。

 ところで、「二中歴」の将棋は内容的にはいつ頃のものなのだろうか。三善為康が編纂したとされる時期(推定一二一〇〜二一年ごろ)から、どれだけ遡るのだろうか。

 二中歴は、「掌中歴」と「懐中歴」という既存の歴史習俗事典を合体し、改訂・編纂したものである。二中歴内の年代歴などには多くの逸年号が載せられており、内容によっては相当古い文献にもとづくことも知られている。

 ちなみに逸年号とは大宝令(七〇一年)による公年号制の確立以前に用いられた年号のうち正史に逸せられたものなどで、法興・白鳳・朱雀などがその例であり、九州年号と称されることもある。

 閑話休題、二中歴に記された将棋は、現行のものから飛車・角行を除いたものであり、外見は興福寺出土の将棋と同じであるが、木村氏は興福寺出土駒=持駒制度採用済と捉え、駒取り捨てルールの二中歴の将棋はその前段階のものとした。

 漢字二文字を使用する飛車・角行抜き三十六枚駒の将棋という点で共通するが、持駒制度の有無に違いがあるというわけである。

 しかし、時系列的な観点から、漢字一文字の酒田出土駒と漢字二文字の興福寺出土駒の間に二中歴の将棋をはめ込む際に、新たな問題が生じる。

(つづく)

  
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2006年10月03日

将棋の歴史6:改良3(2) 持駒制度の採用時期(2)

興福寺出土駒 木村義徳氏は興福寺出土駒や酒田出土駒などの裏面記載の文字に着目した。

(左図:興福寺駒(清水康二著「木簡研究」16号「奈良・興福寺旧境内」))
←図をクリックすると拡大図が表示されます。

「自陣に進入してウラ返している相手の駒を取る時、持駒不使用ならどうでもよいが、持駒使用の場合は事前になんの駒かを知っていなければなるまい」
(木村義徳著「持駒使用の謎」日本将棋連盟版)

  駒の裏面に文字書きしたのは、持駒制度の採用によって相手の駒を識別する必要があったからであると木村氏は推量した。

酒田城輪柵遺跡出土駒 さらに、興福寺出土駒より実質的に旧型である酒田出土駒「兵」の裏面には崩し字らしき文字が書かれている。

(当ブログにおいて、この時期の金将の祖先に相当する駒を「将」と捉えており、この崩し字らしき文字は「兵」もしくは「将」に関連すると考える)

 となると、持駒の開始はいつ頃まで遡ることになるのだろうか。
 しかし、ここで考慮しなければならない重要な情報が他にもある。
 「二中歴」の将棋である。

(つづく)

  
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2006年09月30日

将棋の歴史6:改良3(1) 持駒制度の採用時期(1)

 持駒制度は日本の将棋独自のものであり、世界に誇る規定である。他の「将棋」と異なり中・終盤において着手の選択肢が増え、試合展開も加速度を増して高度となる。

  佐伯真一氏によると、僧、良季によって編纂された「普通唱導集」(一二九七〜一三〇二ごろ)に、
「桂馬を飛ばして銀に替ふ 敵人の驚くことまた興有り」
とあり、十三世紀末時点までに持駒制度が採用されたことは確実視される。
(一九九三年「普通唱導集の将棋関係記事について」遊戯史研究5号)

興福寺出土駒 一方、木村義徳氏は興福寺出土駒や酒田出土駒などの裏面記載の文字に着目した。

※興福寺駒(清水康二著「木簡研究」16号「奈良・興福寺旧境内」)
←図をクリックすると拡大図が表示されます。

 興福寺出土駒の複数の裏面に文字が記載されている。銀将の裏面は「金之」または「金也」、歩兵の裏面は「金」の崩し字らしきものを用いており、各々今日の裏面の文字の原型と目される。

 (つづく)

  
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