2006年12月26日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(9)「飛車・角行の採用」

飛車・角行は、「大将棋」に初登場後、他の巨大将棋においても常連として顔を出す。この大将棋には、「飛車」「角行」の他、成り駒である「龍王」「龍馬」もある。ちなみに大将棋における「龍王」「龍馬」とも、今日のものと機能は同じである。

二中歴の大将棋」に、飛車(龍王)・角行(龍馬)採用の兆しを見出すことができる。「飛龍」「奔車」「横行」の存在である。

「飛龍」は、将棋史上、初の本格的な大駒であり、現行の「角行」と同じ性能の駒である。元々は鐵将の前に置かれていたが、利き筋の関係で必然性をもって桂馬の前に移動させた。ある意味において、「角行」は「飛龍」の再現に他ならない。

「飛車」は、「角行」の「斜め」に対する「縦横」という機能を備えたものであるが、「二中歴の大将棋」における「奔車」と「横行」の性能を合体したとの見方もできる。

また、「飛車」という名称自体、結果として「飛龍」「奔車」などとの共通点もある。

ともあれ、飛車・角行という大駒が加わることで、機動力が増し、試合展開の加速度が増したのはいうまでもない。

今日将棋において第一着は通常、7六歩・3四歩と角筋を開けるために歩兵を前進させるか、2六歩・8四歩と飛車先の歩兵を前進させるのが常識とされる。

第一着が二種類の指し手に限定されること自体に課題は残るものの、トッププロの棋士がそれ以外の手を指したら、それこそ一大事であろう。

実際、昭和十二年二月、京都南禅寺で行われた天下分け目の対決において、坂田三吉が木村義雄の初手7六歩を受けて端歩9四歩を突いた手が今なお語り草となっている。なぜ、坂田は一手パスに近い手を指したのか、今日も謎解きが試みられる。

(完)

  

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2006年12月23日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(8)「醉象除去」

醉象除去については、前述のとおり、「諸象戯図式」(西沢太兵衛編、一六九三やその重版)に、「天文中(一五三二〜五五)後奈良帝は日野亜相藤晴光、林伊勢守平貞孝などに命じて酔象の駒を除く」という記述がある。
天皇が直々に指示をしたという伝承の信頼性については疑問視されるが、除去時期の参考になると思われる。

一方、木村義徳氏が嘉吉三年(一四四三)の文献に(醉象を除く)現行の将棋の記述があると指摘したのは前述のとおりである。
さらに、醉象の駒自体は導入の必然性に乏しく、飛車・角行と同時に導入を試みられたと想定される。

これらの事象、つまり逆転現象をつなぎ合わせると、醉象付の四十二枚型将棋と現行の四十枚型将棋と併存した時期が一定期間、続いたものと想定する。

時期的な逆転現象は、この「醉象の有無」に限らない。日本最古とされる「興福寺出土駒」よりも、「酒田城輪柵遺跡出土駒」のほうが旧型であることは、前述したとおりである。

これらのことは、いきなり新型が旧型に取って代わるというのは希であって、ほとんどの場合、旧型将棋と新型将棋と一定期間、併存したという史実を示唆する。

その間、新型が旧型より魅力的で合理性に富んでいれば旧型を駆逐し、新型に力がなければ定着できないまま葬り去られるという過程を経たことを示す。
新型も旧型も常に競争に晒され、結果として適者が生存したのである。

導入の経緯はともあれ、持駒制度による速度重視と勝負の単純明快さが求められる中で、醉象は取り除かれた。

(つづく)

  
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2006年12月21日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(7)「醉象の由来」

醉象調伏という伝承がある。釈迦を殺害しようとした提婆が、象に悪酒を飲ませて釈迦に向って追いやったが、醉象は釈迦の前に来た途端に跪づき大人しくなったという。大将棋創作マニアの僧侶・貴族はこの伝承から引用して命名したに違いない。

しかし、この醉象はただの無粋な駒ではない。成ると「太子」(=将来、帝位を継ぐ皇子や王子)となり、王将と同じ働きをする。たとえ王将が取られても太子が存在する限り試合を続行する特別な駒である。

醉象と太子。いかにも不釣り合いであるが、中国シャンチー(=象棋)やその「象」の駒に由来を求めることができるのではないだろうか。

将棋はシャンチーとの名称のズレを解消するために漢字二文字を採用したが、「象」をまともに取り込めなかったため、唯一、将棋との違いが際立つ名称であった。しかも、シャンチー自体、象棋と書く。つまり、当時の将棋愛好者にとって「象」は中国の象徴に他ならなかった。

しかも、前述の「普通唱導集」(一二九七〜一三〇二)から二、三十年近く遡る時期に、日本を震撼させた大事件があった。元寇の役である。
鎌倉時代、元が二度にわたり九州北部へ侵攻してきたのである。もちろん、狙いは日本征服にあった。

一度目が文永の役(一二七四年十一月)、二度目が弘安の役(一二八一年)であり、各々三万人、十四万人もの大軍が襲来した。とりわけ文永の役の被害は甚大であった。

元は対馬・壱岐を攻略した勢いで博多に上陸して虐殺の限りを尽くしたが、圧倒的な兵力差のために日本軍は博多・箱崎を放棄して太宰府まで撤退せざるを得なかったという。

日本軍は夜襲などのゲリラ戦による抵抗を続けたが、ある日、神風(暴風雨)が吹いて、元軍は忽然と姿を消したのだという。
続く弘安の役も神風に救われたが、元の世祖クビライ(一二六〇〜一二九四)は、けっして日本征服を諦めていなかった。

鎌倉幕府(一一九二〜一三三三)は元の撃退に手柄を挙げた御家人に報いるどころではなく、長期に渡って中国の脅威に怯え、多大な防衛上の負担を強いられた。元の脅威が幕府・御家人を窮乏に陥れ、幕府滅亡の引き金となったことはよく知られている。

つまり、怒らせると何をしでかすか分からない。一歩違えば、征服される恐れもある。その恐怖心が、醉象(太子)という駒に反映されたのではなかろうか。もっとも、いざとなれば神風という目に見えぬ力が調伏してくれると信じて。

(つづく)

  
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2006年12月19日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(6)「醉象導入の背景」

42枚制将棋 醉象(左図参照)は、飛車・角行とともに導入の試みがなされたが、既に導入済みであった持駒制度との相性の悪さゆえに、結局、盤上から取り除かれた駒である。

今日の感覚に照らして、(巨大将棋と同様に)なぜ無駄なことをしたのかという疑念も沸く。

しかし、「新しい駒の導入」が改良者の裁量に委ねられていたことや、「二中歴の大将棋に至る経過版」などを勘案すると、醉象導入の背景が見えてくる。

  まず、「二中歴の大将棋に至る経過版」において、奔車・横行・猛虎と三種類五個の駒の導入を試みたこと、次に飛車・角行に醉象を加えた三種類三個の駒の導入を試みたこと。いずれも奇数であるが偶然の一致ではない。

日本において偶数は割り切れる数なので縁起が悪いとされ、とりわけ「四」は「死」を連想させるため忌み嫌われる傾向が強い。

字体が「末広がり」であることから「八」は縁起が良いとされるが例外であろう。総じて我々日本人は偶数よりも奇数の方が縁起がよいという感覚を持っている。

日本人としての奇数へのこだわりと配置のバランスから、玉頭(=玉将の前列)に何か気の利いた駒を置くのは、ある意味において必然であった。

二中歴の将棋経過版 ところで、「二中歴の大将棋に至る経過版」における「横行」について「玉将」の関連性は希薄である。(左図参照)

というのは、「横行」は縦移動を強化した「奔車」の対として作られ、たまたま配置のバランス上、玉頭に置かれたに過ぎないからである。

しかし、香頭の「奔車」は香車の強化版であり、銀頭の「猛虎」は、銀将から直進する機能を省いたものであり銀将の祖先に他ならない。

したがって、玉頭に玉将と関連する駒を配置したいという気持ちは自然な発露であろう。そして、玉将にもっとも関連性が深い駒といえば、醉象の駒を置いて他にない。

(つづく)

  
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2006年12月16日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(5)「総論」(2)

一方、木村義徳氏は嘉吉三年(一四四三)の文献に、醉象を除く現行の将棋の記述があると指摘した。

水無瀬神宮蔵『象戯図』の注書きに、『写本に云う嘉吉三年卯の十五に之を写し、一校を加えおわんぬ。右象戯種々の図、曼殊院宮御所持の本より申しうけ、記し置くところなり』とある。ごらんの通り現行将棋そのものである。そして、これによると原写本→曼殊院宮本→水無瀬象戯図とたどれるし、曼殊院宮本が嘉吉三年(一四四三年)に筆写されていることから、それを現行将棋の下限にできる」(「持駒使用の謎」日本将棋連盟版)

ちなみに、水無瀬神宮は大阪府島本町にあり、木村氏指摘の象戯図は水無瀬兼成の手によるものである。水無瀬家は能筆家の公家として名高く、今日、「水無瀬駒」としてその書体を伝える。

42枚制将棋 ともあれ、飛車・角行・醉象三者を盤上に置いた「将棋」は、今日の将棋に更に敗者復活ルールを加わえたものに他ならない。
玉将を詰めた後にさらに醉象の成り駒である太子を詰めないといけないのである。

結果として、醉象は導入の必然性に乏しかった駒であるといえるが、であればこそ、醉象は飛車・角行とともに導入を試みられたと考えられる。

「普通唱導集」や「水無瀬神宮蔵象戯図」の記述などを勘案すると、十四世紀〜十五世紀前半の間に、将棋に飛車・角行・醉象が導入されたものと想定する。

(つづく)

  
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2006年12月14日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(4)「総論」(1)

 「二中歴の将棋」に持駒制度が加えられたことによって、ゲームの完成度は高まったが、未だ十分とはいえなかった。

 自陣二列目のぽっかり空いた空間は、常に新しい駒導入の試みを催促し、「何か新しい駒を導入したい」という改良者たちの気持ちを刺激した。

 しかし、どのような機能・名称の駒でなければならないという決まりはない。すべて、改良者の裁量に委ねられている。魅力に乏しかったり、合理性に欠けたりしていれば、愛好者たちに受け入れられないというだけのことである。

 生理的な欲求ともいうべき持駒制度と比較すると、「新しい駒の創作・導入」は人工的であり、知性に訴えるものといえよう。この点において、巨大将棋創作の試みと相通じるものがある。

 まず、「二中歴の大将棋経過版(前述)」において導入が試みられたのは、奔車・横行・猛虎である。ただし、経過版自体はすぐに「二中歴の大将棋」に昇華してしまったため、文献に明記されていない。

 結果論ではあるが、奔車・横行・猛虎は飛車・角行と比較すると総じて見劣りのする駒であった。他にも導入を試みられた駒があったかもしれないが、今日、歴史にその名を留めていない。

 ほぼ明らかなことは、(おそらく)同時期、同じ改良者によって、「将棋」に飛車・角行・醉象の導入が試みられたことである。
「普通唱導集」(一二九七〜一三〇二)に「大将棋」の記述があり、そこに三種類の駒が登場する。

42枚制将棋 また、「諸象戯図式」(西沢太兵衛編、元禄七年=一六九四)に、「天文中(一五三二〜五五)後奈良帝は日野亜相藤晴光、林伊勢守平貞孝などに命じて酔象の駒を除く」という記述付きで玉頭に醉象を記した象戯図が書かれている。
 しかし、何時、三種類の駒が「将棋」に導入されたのか判然としない。

 一方、木村義徳氏は一四四三年の文献に、醉象を除く現行の将棋の記述があると指摘した。

(つづく)

  
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2006年12月12日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(3)「持駒制度採用」

「手許にある敵駒を使用したくなる」という欲求は生理的なものであって、古今東西を問わない。

 たとえば、手許の敵駒を使用するというフェアリーチェス(=変り種チェス)がある。もちろん、敵駒を盤上に戻すためにまともな試合展開とはならないが、これも手許にある敵駒を使用したくなる心理に従った一例といえよう。

 (詳細は「シャンチー史」にて後述するが、)中国のシャンチーにおいて敵味方を色と文字で厳格に区別したのは、放っておくと「手許にある敵駒を使用する不届き者」が後を絶たなかったためであると思われる。

 唯一、日本において、「手許にある敵駒を使用したくなる」という欲求に対して寛容であった。禁止するどころか、積極的にルールとして採用したのである。ゲームとしての完成度の低さが持駒制度の採用を後押ししたのはいうまでもない。
 前述したとおり、「普通唱導集」(一二九七〜一三〇二)に次の記述がある。

 「桂馬を飛ばして銀に替ふ 敵人の驚くことまた興有り」

 この記述を持駒制度採用済と素直に解釈して何ら問題はなく、遅くとも十三世紀末までに、「持駒制度採用」及び「玉詰み制への移行」がなされたことがわかる。

 なお、早期に持駒制度を採用した傍証として、(チェスやシャンチーなどと異なり)大駒の定着が飛車・角行の二種類の駒に限定されたことがあげられる。

 考察全般を通して、将棋史はトライ・アンド・エラーでルール改良が試みられた歴史であることを明らかにしてきた。ルールとして不完全な箇所や差し障りがある箇所について、常に改良が試みられてきたのである。

 「二中歴の将棋」以後、次々と巨大将棋において魅力的な駒が作られ、何時でも「完成したとは言いがたい将棋」に導入される可能性はあった。

 飛車(龍王)・角行(龍王)・醉象などはその代表選手であるが、チェスやシャンチーにおいてほとんどの駒が大駒化(=性能の激化・強力化)したことと比較すると、「将棋」において大駒等の導入・駒の性能の強力化に積極的であったとは言いがたい。

 何故かといえば、既に「将棋」において持駒制度が採用済みであったからに他ならない。

(つづく)

  
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2006年12月09日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(2)「玉詰め制への移行」

 今日の玉将を詰めるという単純明快なルールに比べると、二中歴の将棋における「駒取り切り制」の不自然さは否めない。
 しかし、この勝利条件採用には訳がある。

 今日、将棋の盤面から大駒(飛車・角行)を取り除き、駒を再使用しないという条件で「二中歴の将棋」を再現することができる。

 互いに駒を取り合うことによって盤上の駒が少なくなると、敵玉を詰むのは困難な状況に陥りやすい。チェスやシャンチーなどと違って個々の駒の動きは限定的であるため、単調さが募る。

 この単調で不毛な試合展開を打開するために採用されたのが「駒取り切り制」であり、「駒取り切り制」から「玉詰め制」への移行に際しては、
 玉将を詰ませる可能性が高くなる。
 玉将以外の駒を取り切ることが煩雑になる。
という条件を満たす必要がある。

  したがって、「玉詰め制」移行については、「持駒制度の採用」もしくは「飛車・角行・醉象の採用」と同時と考えられる。
 というのは、これらのルールは「玉詰め制」への移行の条件を満たすとともに、「(玉将以外の)駒取り切り制」との相性も悪いからである。

 まず、「持駒制度」と「駒取り切り制」との相性の悪さは前述のとおりである。

 次に、「飛車・角行・醉象」については三種類の駒すべて同時期に「将棋」に採用されたが、とりわけ醉象の存在によって「(玉将以外の)駒取り切り制」でないことがわかる。
 酔象は太子に成ると、玉将と同じ働きを持ち、玉将が取られた後も太子が存在する限り試合が続行されるというルールだからである。

 ところで、二種類のルール改正を同時に着想することは容易ではないが、「玉詰め制」の手本は、既に存在していた。巨大将棋である。

 二中歴の将棋に、「敵玉一将則為勝」との表現がみられるが、二中歴の大将棋にその記述はない。したがって、二中歴の大将棋において「玉詰め制」を採用した可能性はあるが、断定もできない。というのは、二中歴の大将棋には勝利条件そのものの記述が見当たらないからである。

 しかし、遅くとも「大将棋」において「玉詰め制」を採用済である。駒数を膨大に増やしたいという欲求に対して、「駒取り切り制」は相容れないルールであるが、「醉象」の存在そのものが「駒取り切り制」ではないことを裏付ける。

(つづく)

  
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2006年12月07日

将棋の歴史9:飛車・角行・醉象(1)「二中歴の将棋」 

 「将棋への持駒制度採用」と「巨大将棋の発展」は、概ね同時期に行われ、互いに無縁ではない。

 「大将棋」において開発された飛車・角行・醉象の「将棋」への採用や醉象の除去なども、既に「将棋」に導入済みであった持駒制度の影響を抜きにして語ることはできない。

 この章においては、持駒制度導入、巨大将棋の発展、飛車・角行・醉象の採用時期、醉象の除去など、相互の関連について考察する。(以下、本文)

二中歴の将棋 持駒制度採用・大将棋発展各々の起点となったのは、「二中歴の将棋」(左図)である。「興福寺出土の将棋」と同一内容であり、十一世紀中頃のものと考えられる。二中歴には二種類の将棋、「将棋」、「大将棋」が掲げられる。

 この内、「将棋」について、外見上は現行の将棋から飛車・角行を除いたものであるが、勝利条件も今日の将棋と異なる。
 「敵玉一将則為勝」(敵玉が一将になればすなわち勝ちとなる)である。
 
 「玉」を詰めるのではなく、「玉」以外の駒をすべて獲るという規則である。これは、獲った駒を再使用できる持駒制度において敵駒すべてを取り切ることは容易ではなく、この時点で持駒制度を採用していないこともわかる。

 「二中歴の将棋」は「持駒や飛車・角行などの大駒を活用して躍動的に玉将を詰めるゲーム」ではなく、「地道に玉将以外の敵駒を一つ一つ取っていく消耗戦のゲーム」であった。
 ゲームとして不完全であればこそ、改良を試みる者が現れるのは歴史の必然である。

 「二中歴に記された大将棋」自体、「二中歴の将棋」の不完全さを解消するための試みの一つであった。「二中歴の大将棋」に至る過程において「二中歴に将棋」に奔車・横行・猛虎を加えた経過版が存在したのは前述のとおりである。

(つづく)

  
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