2017年12月13日

下北沢X物語(3420)―下北沢になぜ教会は集まるのか?―

DSCN0146(一)鉄道がクロスする下北沢には教会が多い。その数は12だ。先だって訪れた富士見ヶ丘教会の神父さんは、それぞれに宗派が別々で当地にやってきたのは個別の事情によるものだと言われた。自分でも神父さんや牧師さんに理由を尋ねたことがある。「神の思し召しによってのことです」との答えが返ってきたこともある。

 人知でははかりしれない神のご摂理によって、昭和8年6月東京に初めてナザレン教会が誕生した。それが当教会である。最初は会員数極少数、教団は貧しく、確たる保証もないままに教会も、教団も、また遣わされる先生も、ただ生ける神のみを信じての出発であった。 
 『創立50周年記念誌』(1983)日本ナザレン教会下北沢教会 


 記念誌の「巻頭言」冒頭である。「神のご摂理」によって北沢三丁目一〇一八番地で教会は発足している。

 神の思し召しによって当地に教会は発足した。それを否定はしないが、時代とか環境とか地の利は大きく影響しているはずだ。

 それぞれの教会は示し合わせて当地に教会を発足させたわけではない。しかし、やみくもに、あてずっぽうに発足させたわけではない。多くは信者宅から布教はなされている。

「戦後、わたしたちを救ったのは教会でしたね。わたし自身も救われましたよ。中西邸の二階で教会は発足したのですよ。そこへ大勢の人がやってきましてね、重みで壊れそうになりましたね。」
 建築家今井兼次氏のご子息兼介さんから伺った話だ。世田谷カトリック教会発足時の逸話である。中西邸というのは、東京帝国大学航空研究所長中西不二夫教授の邸宅である。
 私宅、あるいは借家から発足し、これが核となってやがては会堂の建築へと繋がる。

 世田谷カトリック教会の発足経過から分かるのはやはり知識人や知者の関わりである。当地に多くこれらの人々が住んでいたというのは大きい。

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2017年12月11日

下北沢X物語(3419)―くるり・しもきたざわ教会めぐり供

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(一)しもきたざわ教会めぐりは、文化探訪の旅だ、これを「まちなか観光」の一つとして取り入れ、開拓したことは評価できる、だいじなことは見慣れたまちに見所を発見して人を楽しませることだ。その点、教会巡りは意図にフィットする。観光とは、傑出して光を放っているものを観察していくことだ。三つの教会を巡ったがそれぞれに見所はある。世田谷カトリック教会では、ルルド。富士見ヶ丘教会では、登録有形文化財となっている教会建築。聖三一教会ではパイプオルガンにステンドグラスだ。それぞれに固有性があって、それら特色のあるものを見て楽しめた。

 今回は三つの教会を巡った。神父さんや牧師さんが出てこられて、それぞれの教会について説明をされた。富士見ヶ丘教会でのことだ。
「下北沢にどうしてこんなに教会が多いのでしょう?」
 参加者からの質問だ。
「はい、おっしゃるとおりで、この近辺に12もあります。ときに関係する宗教者が集まるということもあります。しかし、当地に示し合わせてきたわけではなく、それぞれに事情があってここに集まってきたことですから、本当のことは分かりませんね」
 若い牧師さんはそう言われた。

 下北沢になぜ教会多いのか、この問題には早くから着目している。この理由について教会の神父さんや牧師さんに質問している。これは過去ログにある。

 十三年に亘って当地域の文化現象を調べてきた。教会だけではない、多くのものが密かに集まってきている。私のとっかかりは文士である、なぜ文士たちが下北沢にかくも多く集まってきたのか?その過程で参集してきているものを知った。これは時代時代よって異なりもする。

 例えば昭和七年の北沢三丁目の地図を見る。すると随所に「サンバ」と書かれている。ここにもあそこにも。それは産婆である。この頃生まれた子どもを取り上げるのはみな産婆さんだ。何を象徴しているか人口急増の一端を現している。教会と産婆は関係しない。しかし、人口急増地域に教会堂を建てるということはあったろう。
*参考情報、世田谷中原教会 1932年(昭和7年)
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2017年12月10日

下北沢X物語(3418)―くるり・しもきたざわ教会めぐり―

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(一)昨日、9日、世田谷まちなか観光交流協会が行う「下北沢の教会めぐり」が行われた。当会の会員でもある木村圭子さんが企画したものが「まちなか観光大賞」の大賞を受賞した。それを具体化した観光ツアーである。北沢川文化遺産保存の会が協力に加わり、数名のスタッフが手伝った。私はコース途中にある「北沢川文学の小路」の説明役として加わった。

 天気には恵まれた。まち歩きには最適だった。しかし、天気晴朗波高し、教会関係者の心を暗くしている問題があった。米国のトランプ大統領が中東のエルサレムをイスラエルの「首都」と宣言したことだ。世界中に大きな波紋が広がっている。現に衝突が起き、死者も出始めた。

ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の聖地のあるパレスチナの中心都市エルサレムの帰属をめぐる問題が根底にあった。それぞれの聖地が共存存立していて平和が保たれていた。この問題、イスラエルとパレスチナの交渉で決めるべき問題なのだが、これを無視してイスラエルを一方的に後押しするように決定はなされた。
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 昨日、夕刊では一面大きな見出し、「安保理 米に批判集中」、米国は各国の批判を浴びて孤立している。ところが日本は「国連安全保障理事会の決議などに基づき、当事者間の交渉により解決されるべきだ」とこれまで述べていたことを繰り返していっているにすぎない。米国の一方的な決断によって明らかに平和が脅かされている,にも関わらず、日本はアメリカにおかしいとは言えない。いつもそうだが米国追随の姿勢は見苦しいものである。

 教会巡り、一番最初は世田谷カトリック教会だった。関根神父は「とんでもないことだ」と怒りをあらわにしていた。

「私は、アメリカ国務省の良識に期待しているのですよ。アメリカ大使館をエルサレムに建てるにしても時間が掛かります。その間に情勢は変化してきますから……」
 時間が経てば、アメリカの中間選挙がある。こういう無謀なことを決定する大統領をアメリカ国民はいつまでも支持はしないだろうとの思いのようだった。
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2017年12月08日

下北沢X物語(3417)―人間の獣性と開戦記念日―

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(一)人間は獣性を宿した動物だ、と号第三十一飛行隊の隊員、長谷川信少尉は、「敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉、浅ましき哉 人類よ、猿の親類よ。」(『きけ わたつみのこえ』)と述べている。人間同士の敵意は一旦火が点いたら収まることはない。殺し合いは際限なく続く。わずかに叡智が獣性にブレーキを掛けてくれる。それは知的な冷静さだ、が、昨今の北朝鮮への日本の対応は熱い、「最大限まで圧力を強化」するとのこと。圧力は振り上げた拳である、これを人間は上げたままでいられない。どこかで下ろさないと行けなくなる。往々にして振り下げるときに平和裡にとは行かない、つい武器を使用してしまう。それが戦争の歴史だ。

 北朝鮮への対応として「最大限まで圧力を強化」というがこれに対応する準備は日本はにはない。日本国民も自衛隊も応戦などは考えていない。恐らく誰もが潜在的に考えているのは『何かあったときはアメリカがやってくれるだろう』ということだ。核の傘にあることを肯うものである。

 力関係というのはバランスだ。人間は緊張関係をずっと続けることはできない。場合によっては一発の銃、一発のミサイルが撃ち込まれるかもしれない。こうなったときに韓国や日本に犠牲が出ることはあるだろう。これがきっかけとなって撃ち合いになることもある。弱い者は何でもする。窮鼠は何をやってくるか分からない。日本海側に林立する原発にミサイルを撃ち込んでくる可能性がないとはいえない。

 何の考え、防御策もなく強行一辺倒の対応ははっきりいって危うい。どんな場合でも対話への模索は必要である。敵意というのはささいなことで暴発するものだ。つまらないことがきっかけで戦争は起こり、とんでもない犠牲者が出る。それが戦争の歴史だ。
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2017年12月07日

下北沢X物語(3416)―武揚隊の軌跡を求めて十年―

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(一)探訪探査を続けて十三年、数多くの人に話を聞いてきた。数は分からない、千人は超えているだろう、話題の中心は戦争だった。経験者からの話を聞いてきた。学徒動員組からも話を聞いた。「アメリカには物質的には劣っているが精神力では負けない」との証言があった。科学的な戦略ではなく精神的な根性で戦をしていた。兵士たちには根性が求められた。それを鍛えるために暴力は普通にあった。鉄拳制裁、根性棒制裁など数多くの人から聞いた。避けようがなく、ただ時間が過ぎるのだけを待ったと体験者から聞いた。

 日本は情緒的に戦った。今回、一昨日発売された「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」の始まりは、それを暗示していると言ってよい。冒頭の書き出しだ。

 桜と特攻とがぶつかった。それで戦争花物語は生まれた。
 太平洋戦争の天王山、沖縄決戦が始まったのは春三月、まさに桜の開花時期だった。


 自身が取材したと号隊は、満州から飛来してきていた。厳寒の満州からやって来ていた。彼の地での記念写真が残っているが全身防寒具に包まれた姿である。その彼らは南下してきた。九州では桜の真っ盛りだった。感動的な風景である。が、その花は瞬く間に散っていく、兵たちの運命の暗示でもある。

 桜の季節と戦争とがぶつかった。それで桜物語は数多く残っている。散る花を兵に見立てるともうここに情緒が湧いてくる。

 今回、二つの物証がみつかったことからこの書をまとめるに至った。「比喩的に言えば割符」であると述べた。長野県と徳島県にひっそりと眠っていたこれが見つかった。それぞれに別れていたものが偶然にみつかった「合わせるとぴたりと符合した」これによって不明だった「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」が明確になった。

 長野県安曇野市のとある家の箪笥に眠っていたのは和綴じ帳だ、武揚隊十五名のうち、十三名がサインを残していた。昭和二十年三月末、浅間温泉富貴之湯に滞在していたかれらはここを立ち去ることになった、そのときに一人一人が揮毫したものだ。

 やはり、桜だ、三名がこれを文言の中に記していた。

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2017年12月05日

下北沢X物語(3415)―文化探訪13年で知ったこと―

DSCN0128(一)ひたすら歩き回って、聞き、そして調べてきた。線が人の交流の基礎であることを肌身に感じた。それは道であり、線路であり、電線である。それともう一つ因縁という線である。これらの線が重なりあって街や社会が構成されている。ただ線というと直線を想像するがこれらは屈曲したり、湾曲したりしている。そのたわみにこそ文化が潜む。

 文化探訪の感動は点と線とが結ばれたときだ、今でも忘れられないことがある。梅丘の宇田川家は旧家だ。ふと通りかかったとき屋敷林の剪定をしていた。「この欅の枝を昔は品川や大森の漁民が買いに来ていた」と言う。それからしばらく経って、宇田川家の近くの烏山川に品川橋があることを発見した。「ここから品川へ道が通じていて、木の枝は運ばれていた」と知った。

 荏原内陸部から品川への道が通じていることを知った。そしてまたこんどは、江見水蔭の小説『蛇窪の踏切』を読んでいて、つぎの記述に出会って深い感銘を受けた。

  洗足から大井までの長い間の道は綺麗に掃除がしてあつた。道幅一杯の大箒で一息に一里余りが清めてあつた。それは海苔粗朶(しび)に伐つた雑木を持ち出す途中、その先が車から食み出して、地を摺りながら行くからで、それが朝から晩まで続く時には、鸞與が過ぎても差し支えない程であつた。
  明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」


 ここに描かれる「洗足から大井までの長い間の道」というのは自転車で何度も通って知っていた。東南方向へひたすら走る道で辿れば品川に行く、不思議な道だと思っていた。しかし、分かればなんのことはない古道、品川道である。
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 この道を上っていくときに「あれ、なんでこんなに綺麗に掃除がしてあるのだ?」と通行人は思った。何のことはない、欅の枝、つまり海苔粗朶に使うために内陸部で手に入れたこれを運ぶ車が多かった。荷車からはみ出た枝が道を綺麗に掃いていたということだ。

 梅丘の宇田川家の当主が言った言葉が、立体的に理解されたように思った。
 洗足から大井へと向かう道は、稲毛道といわれる古道である。やはり品川道だ。
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2017年12月04日

下北沢X物語(3414)―忘年会&会の活動実績―

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(一)人間何かをすれば何かが残る。懸命に苦闘して十年間に長編五冊を残した。これは私的活動である。公的には我らの会、北沢川文化遺産保存の会の活動がある。2004年12月に発足してこの月で満13年となる。この12月2日、土曜日、北沢タウンホールで恒例の忘年会を行った。会長代行の金子善高さんが「会を作っても十年続くのは極めて少ない」と挨拶された。
 振り返ってみるとこの十三年間これも苦闘だった。何が残ったか?いうのも憚られるほどに活動し実績が残った。事実は事実として記し置こう。記録でもある。

〇文学碑四基の建立。
 嶌筝安吾文学碑」 2007年12月3日 世田谷区立代沢小学校校地の一角
◆崑綸弔竜屬61号鉄塔由来碑(朔太郎の詩『定本青猫』一を刻む)2012年10月6日
北沢川緑道鶴ヶ丘橋たもと
「横光利一文学顕彰碑」 2013年11月23日 北沢川緑道中下橋近く
ぁ峪姐ッ治文学顕彰碑」 2014年11月29日 北沢川緑道鎌倉橋たもと

〇「下北沢文士町文化地図」の発行。
 改訂に改訂を重ね、現在のものは改訂七版である。総発行枚数は六万部に達する。

〇研究紀要の発行
・創刊号『代田の丘の鉄塔文学論』     2012年10月6日
・第2号『北沢の丘の石畳文学論』     2013年11月22日
・第3号『代田小路寓居文学論』     2014年11月29日
・第4号『戦後70周年記念戦争記録集』 2015年8月15日
・第5号『代田のダイダラボッチ』    2017年3月31日
・第6号『世田谷代田都市文化論」    2018年3月31日発行予定

〇その他冊子の発行
・「北沢川文学の小路物語」 2006年5月31日(朝日新聞、毎日新聞に紹介記事掲載)
・「下北沢X惜別物語」 2007年3月20日 
・「あんこ先生が帰ってきた」坂口安吾文学碑建立記念記録集 2008年3月31日
・下北沢文士町文化地図別冊焼け残ったまち「下北沢の思い出アルバム」
  2018年3月20日発行予定。

〇会報の発行(B4両面印刷)
 毎月これを発行し、この12月では137号に達する。

〇研究大会の開催
・第一回 北沢川沿岸の文化 北沢小学校
・第二回「下北沢のDNAを探る」 北沢タウンホール
・第三回「世田谷代田の音楽学校の歴史を知る」 北沢タウンホール

〇戦争経験を聞く会
 毎年五月に開催してきて。今年で十回を迎えた。来年も予定している。
 第11回 戦争経験を聴く会、語る会 2018年5月19日 午後1時
  下北沢東京都民教会 ヒロシマの被爆経験を語る  村上啓子さん

〇毎月の歩く会の開催。
 回数はすでに百回を超える。
  第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く


 これら業績を並べるとたいしたものだと思う。しかし、これらは単独でできるわけはない。これに協力してくださった方が多くいたことでこの活動が成り立っていることだ。下北沢文士町文化地図の原型を作った東盛太郎さん、地図発行の不足金をポケットマネーで出してくださった田中良輔さんなどもう物故された方もいる。
 今も会を支えてくださっている会員は多くいる、この人達の助力があってこの活動が支えられている、文化活動をする上で忘れてはならないことだ。続きを読む

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2017年12月02日

下北沢X物語(3413)―苦節十年長編五冊完結供

1973d5af-s(一)今朝電話があった。松本在住の飯沼節子さんからだ、新著『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』についての最初の批評だ。彼女の兄はこの隊の隊員である、松本出身の伍長である。武揚隊は新京を飛び発ち、本州に向かう。目的地は各務原である。ところが名古屋に近いここは空襲の危険があった。それで急遽、隊は松本で準備を整えることとなった。
 故郷松本に帰るはずはなかったが、突然に自分のふるさとへ帰ることになった。愛機を駆っての帰郷だ、どれほど嬉しかったろう。

 彼の帰郷がなかったら今回のは書かなかった。松本飛来を知って小学校の同級生が浅間温泉富貴之湯に慰問に来た。そのときに隊員十一人に揮毫をしてもらった、これが偶然に見つかった。この情報が私のところに寄せられたことで彼らの隊の行方が分かった。

「あのな、まだ余裕がある頃には一応機を操れるようになると郷土飛行が許された。飛行機で里帰りなんていうのは最高だよな、錦を飾るという言い方があるけど、それを飛行機でやるんだからな、興奮するよ。それでな、俺は感じたことは、故郷の空には匂いがあるということだよ。ふるさとに飛んでいって旋回するんだけど、懐かしい匂いを嗅いだんだよ。あれは川のにおいじゃないかと思うんだ」
 飯沼伍長はこの先輩のことを聞いていた。それで木曽谷を抜けた。松本平に入ったとき換気口を少し開けてにおいを嗅いでみた。このことを今回の物語に記した。

「昨日本がつきましてね、本当に長いものですけどね、読みましたよ。兄のことがとてもよく書かれていて感心しました。私のところにいらしていろいろお話を聞いてくださったのですが、よくまああんなこまかいところまで書かれましたねえ。戦後になって兄の機を整備していた人たちが報告にこられたのですね。台湾で新聞に載ったといってそれを持ってこられました。国防献金として残っていたお金を上げたことが書いてあったと思います。『戦争と平和展』があったとき兄の写真を出したのですけど、館員の方が知覧に写真を持っていってくれるとおっしゃっていました……」
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 飯沼伍長は昭和二十年七月十九日に台湾八塊飛行場が出撃している。武揚隊からは二人出た。が、藤井清美少尉は特攻戦死として扱われている。が、飯沼伍長は名簿には載っていない。戦果確認がされなかた場合は名簿には登載されない。

 「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死名簿」がある。ここに一〇三六柱が記載されている。これから漏れた人の事績は消えていく一方である。

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2017年12月01日

下北沢X物語(3412)―苦節十年長編五冊完結―

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(一)長い長い旅路だった。スタートは、2007年12月14日だった。見知らぬ人からこのブログにコメントがあった。「代沢小の疎開学童が塩尻の寺で寮歌をうたっていた、この歌詞を知らないか?」と。発端であり、皮切りでもある。爾来十年埋もれた戦争史をずっと追い続けてきた。この12月5日に「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」(えにし書房)」が刊行される、「信州特攻物語完結編」と銘打たれている。当該問題を追って締めくくり、最終巻となるものだ。これが五巻にもなっていた。

 この十年で五巻、何を書いてきたか?。

・埋もれた近代戦争史の追究
 陸軍松本飛行場には数多くの特攻機が飛来してきていた。具体的な隊としては「と号第三十二飛行隊・武剋隊」、「と号第三十一飛行隊・武揚隊」である。後者に関しての新資料が発掘されたことから第五巻目の刊行に至った。

・疎開学童史の調査
戦争によって疎開学童は親から遠ざけられた。親は子を、子は親を恋い慕う、この間に介在するのは言葉である。彼らは日々の出来事を日記に手紙に書いた。親子の往復書簡が行き交った。膨大な数である。
 戦争史の資料の多くは消滅した。が、学童が書き残した日記や手紙の中には戦争の記録が残っている。例えば飛行機好きの少年は、重爆撃機飛龍が何時飛来したか克明に記録していた。

・特攻隊史の発見
 数多く飛来してきた特攻機は、松本浅間温泉を中心とする旅館に宿泊した。昭和二十年二月、三月、四月、沖縄戦たけなわのころだ、ここに多数の特攻機が飛来してきた。浅間温泉には2500名ほどの学童が、世田谷から疎開してきていた。年齢的には兄と弟妹ぐらいの歳の開きだ。慕ったり慕われたり、滞在が長引けば長引くほど交流は深まった。
 滞在していたのは誠隊、振武隊などだ。存在は分かっていても何隊なのか分からないものが多数ある。
 戦争末期米軍によって制海権制空権が奪われていた。その中で本州中央部にある山岳飛行場は米軍に襲われ難かった。このことから沖縄へ向かう特攻機が多数飛来してきていた。ところがその全貌はわからない。しかし、疎開学童と交渉のあった数隊は明確になった。なかんづく武揚隊については今回新資料が見つかりその軌跡がはっきりした。
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2017年11月29日

下北沢X物語(3411)―七首の歌と七枚の絵:下北沢―

0cc79684(一)故飯田勝氏は下北沢を七枚の絵に描いている。淡い水彩である、一枚一枚に街の雰囲気が滲み出ている。勝氏はこれらを通して何を描こうとしていたのだろうか?一つははっきりしている。七枚のうち三枚は、踏切だ。「踏切のある街」を描こうとしたのは間違いない。が、全体として何を描こうとしていたのだろうか?

 下北沢の街を描いた七枚で思い出すのは、この街を描いた七首の歌だ。以前『下北沢X惜別物語』をまとめた。これにつぎのタイトルで文章を描いた。

「風物歌集」が捉えた下北沢
  
 いい詩はいい情景を思い浮かべさせる。戦後の下北沢の街が詩歌にありありと詠まれている。それは「風物歌集」(財団法人 都市計画協会発行 昭和二十八年)である。下北沢在住だった歌人堀内通孝が街を言葉で描いて残している。
 歌集には「下北沢」とあって、そこには七首の歌が載っている。詠まれた年月日が記されている。昭和25年2月だ。戦後の下北沢の原初的風景が三十一文字に見事に描かれている。作品には「二十年わが住ひし町よ」と下北沢のことを述べている。確かに詠歌には地魂、土地のたましいがこもっているように思う。


七首の詠歌と描画は重なるだろうか。イメージとしては二首が上げられる。

戦ひの火に遇はざりしこの区画冬靄やさしき高きにみれば

この駅を囲み残りし家群よ二十年わが住みし町よ


歌人にとっても画家にとっても深く慣れ親しんだ街である。それが優しい筆致で歌と絵に描かれている。
 焼け残った街を飯田さんは描こうとした、ということは言える。

 一枚は北沢四丁目の二階建ての日本家屋である。板塀と植木に囲まれた家がしっとりと描かれている。戦災に焼けなかった家だ、恐らく戦前からあった建物だろうと思われる。切妻の瓦屋根。これは1987年に描かれている。
「この絵はちょっと分からないのですよ」
 今日、飯田淳さんから電話があった。
「あの茶沢通りがクランクする辺りのところですよね」
「そうですね、あの辺りですかね……」
 絵に描かれた日本家屋がどこにあったのか分からないでいる。

 なかなか風情のある家だ、持ち主はこれを大事にしている。飯田勝さん自身、恐らく懐かしい光景だったと思われる。少年時代の思い出と重なるものゆえに書き残した。

 堀内通孝の詠歌に、「高きにみれば」とにある。周りは丘だ、例えば、東北沢2号踏切は好例だ、ここに立って駅方向をみると家並みが見渡せた。「冬靄」は、沢の底にたまってみえる。その風景は、戦火を免れた平和な街であった。

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2017年11月28日

下北沢X物語(3410)―慕情飯田勝描画:下北沢―

DSCN0099(一)故飯田勝氏の下北沢を描いた七枚の描画には三枚、踏切が描かれている。その描かれた年代は、1980年代後半からだ。小田急の地下工事によって踏切は消滅する。これらがなくなる前に記録しておこうととのことで描いたのではないか。彼は、「2013年11月22日に他界」している。御年九十一歳、大正十一年生まれだ。

 飯田勝さんは、下北沢生まれの下北沢育ちである。大正時代から昭和の初めにかけては少年時代である。大正十四年(1925)、飯田さんが二歳頃の光景を坂口安吾はこう描いている。彼は代沢小の教師として赴任していた。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった」(『風と二十の私』)と描いている。いわゆる武蔵野だ。

そして二年後、昭和二年ここに鉄道が敷設された。小田原急行鉄道である。飯田さんは四五歳だった。彼はこのときのことを印象深く覚えていた。忘れがたい光景だった。それは茶沢通り、東北沢4号踏切から眺めたものだ。

 踏切から東側は崖線になっていて線路路盤も急坂だ。彼は隣の東北沢駅の方から黒い物体が煙を吐きながら降りてくるのを目撃した。
 幼少の頃の忘れがたい光景だった。蒸気機関車が坂を下ってきたところを目撃した。がしゃぽぽと音を立てる。後部には工事用の無蓋車がつながれていたようだ。これが坂を下ってきた。開通前の小田急線である。架線はなく小型の蒸気機関車が資材を運搬していた。

 下北沢から東北沢への急坂はここを通過する旅客には印象深いところだった。

 小田急線は、下北沢と東北沢の間で、狭い谷を越す。現在は人家の屋根で埋め尽くされているが、その頃は両側とも田圃で、その東北沢側の斜面の松林の中に私の家があった。


 大岡昇平が「下北沢の思い出」(『横光利一の文学と生涯 由良哲次編 桜楓社)で記しているものだ。踏切を過ぎて電車のモーターはうなり声をあげた。飯田さんにとっても印象深い踏切だったろう。

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2017年11月26日

下北沢X物語(3409)―青空マルシェで地図配り2―

DSCN0105(一)戦後の下北沢の町並みを写したDr.オースティン写真は往時の陰翳、空気感が見事に捉えられている。そこに漂うのは場末的なすがれ感と土臭さだ。これらがついこの間まであったが今はどんどんと消えつつある。地下化した駅のコンコースなどが姿を現し始めているがそこにあるのは近代的な直線美だ。あの場末的な駅の佇まいがすっかり消えつつある。「私ね、昔の駅がとっても好きだったんですよ」と。マルシェで出会った一人の女性。彼女は若い頃からここに通ってきていたという。「あのごちゃごちゃっとした駅があって、そして駅前市場があって、あそこの屋台のおでん屋さんでみんなと飲むの忘れられない光景ね」、「分かりますよ、それと踏切があったでしょう」、「うん、あったあった!」

 地図を配りながら何人かの人と話をした。街のトゲが一つずつ取れはじめことを感じた。道路問題であり、そして地下化問題である。後者はどんどん進行している。工事現場にはとんでもなく高いクレーンが動いていた。
「なんでもかんでもきれいになりすぎてきているのね」と、くだんの彼女。この話を聞いて街はアイデンティティーを失いつつあるのではないかと思った。

 何度も述べてきたが小説家、清水博子は「街の座標」で小田急線と井の頭線が交差した街を「ひしゃげた座標軸」と評している。素晴らしい街批評だ。地図を配っているときも明大前交差との比較論をしたことだ。
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「明大前で井の頭線と京王線が交差していますよね、あれは本当にきれいに交差しているでしょう。十字交差ですよね……私の推測ですけども、今は同じ京王ですね。しかし、井の頭線が開通するころはこちらは小田急系列だったのです。他社線と交わるわけだから礼儀を尽くして正十字クロスで交わった……」
 とはいうものの東西に横たわっている淀橋台を突き抜けるのに明大前が好都合だった。線路を通すためにな大地を掘削する必要があった。地形的に横幅の厚みのないあの箇所はうってつけだったことはある。

「明大前の交差角が決まっていて、これによって下北沢での交差角が決まった。それでゆがんでいるのですね」
 しかし、この話、現実に線路がなくなったことにより、人に説明するのが難しくなった。
清水博子は、「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締めつけてくる」(『街の座標』集英社文庫 2001年)と述べる。ところが今となってはこの症状は消えてしまった。思うにこれは人々の潜在意識もそうで大きなトゲが取れてしまった。こんなはずではなかったのではないか?

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2017年11月25日

下北沢X物語(3408)―青空マルシェで地図配り―

DSCN0102(一)青空マルシェは産物の交易所だ、しかし、情報の交易所でもある。勤労感謝の日、23日世田谷カトリック教会で行われた「下北沢あおぞらマルシェ」に参加して、「下北沢文士町文化地図」を配布した。「食い気が盛んな人は、知的な食い気が薄いのではないか」と心配した。ところが、数など勘定せずにガサッと家から持ってきた、地図は完売、といっても売ったわけではない、無料配布だ。当地に集まってくる人は、知性や教養がある。多くと接触して、感じたことは、知欲が吹きだまる場だということだ。

 興味深く思ったことは、「ああ、それ持っていますよ」という人が何名もいたことだ。
「改版をしているのですけどね、ポイントは地図の裏です、ほら」
「あ、それ持っていないわ!」
 こんな会話をしたことだ。
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 大勢の人が行き来する中で地図を配るとき、多くの情報は伝えられない。一点に絞った。「地図上の薄いピンクは焼けたところなんですよ」
「やけたところ?」
「ええ、戦争中にね、アメリカの飛行機が飛んできて、焼夷弾を落としてのですよ。それでこの近隣は焼けたのです」
「ああ、なるほどね」
「この白いところが下北沢というわけですか」
「そうそう、焼け残ったのですね。その風合いとか空気感が今に残っているのです」
「ああ、なるほどね、路地のごちゃごちゃ感とかそういうことですか」
「そうそうその通りです」
 「焼け残った街」というのはこの間、「下北沢の戦後アルバム」の編集会議で述べたことだ。これをタイトルに加えようと。次のようにいいもした。
「Dr.オーステン作品を見て、感じることは、精度の高い画像だけに、戦後の空気感が映し出されていることです。焼けなかったということは、戦前からの町並みがそのまま残っているということですね。陰翳までが見事に写し出されています」
 戦災で焼け残ったという視点は重要だ、Dr.オースティン写真から学んだことだ。

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2017年11月23日

下北沢X物語(3407)―慕情飯田勝描画:東北沢4号―

DSCN0098(一)月日は滅び行く、が、心の老化はこれに遅れる。過去を明かす写真や絵画に出会って人の世の滅びを強く実感する。文化探訪十三年、この月日の流れを知るときのエポックとなる踏切がある。小田急線、東北沢4号踏切である。探訪の端緒を作ったのがここだ。聞かれた人に何度答えたことか「茶沢通り踏切ってあるでしょう、あれは東北沢4号踏切っていうんですよ。毎朝、自転車通勤しているとき足止めをくらうのです。その待機時間に街探訪をしたことがきっかけです」と。が、人を遮断していた踏切も今はない。

 「下北沢の戦後アルバム」を今編集している。基軸は写真と描画だ。前者はDr.オースティン写真、後者は飯田勝氏描画だ。この二つを活用して記録アルバムを作っている。先だって編集会議を行い、ほぼ骨格が固まってきた。

 下北沢一番街に生まれも育ちも下北沢という人、飯田勝氏がおられた。何度かインタビューしたことがある。ところが2013年11月に他界された。この彼が世田谷各所の街のスケッチを描いていることは知っていた。それで、今回アルバムを作るに当たって彼の描画を使えないかと思った。飯田家を直接尋ね、勝さんの奥さんを通して息子さんの淳さんを知った。アルバム掲出には同意された。
「父のスケッチは、全部で千枚ほどあります。下北沢描いたものもあるはずですけど、探し出すのが大変なんです」
 確かにそれだけあれば見つけるのは困難である。それでも息子さんは探してくださった。それをPDFで送って下さった。全部で七枚あった。すべてが懐かしい写真だ。

 際だっていることは、この中の三枚は踏切を描いたものである。飯田さんの生きた人生に小田急線、そして踏切は欠かせないものだった。下北沢を特徴づけるものは踏切であった。
 では、どこの踏切を描いたものか?

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2017年11月22日

下北沢X物語(3406)―会報第137号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第137号 
           2017年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、紀要第六号の構想

 このところ五年間、「北沢川文化遺産保存の会」の紀要を発行してきた。

・創刊号『代田の丘の鉄塔文学論』   2012年10月6日
・第2号『北沢の丘の石畳文学論』   2013年11月22日
・第3号『代田小路寓居文学論』    2014年11月29日
・第4号『戦後70周年記念戦争記録集』 2015年8月15日
・第5号『代田のダイダラボッチ』   2017年3月31日


 第6号の発行予算については、世田谷区地域の絆に応募し、助成が降りている。計画では『下北沢文士町の発展と形成』というテーマで申請を出している。壮大なもので、いざ取りかかろうとしてひるんでしまった。
 当会は2004年12月に発足した。もう十三年目を迎える。この間、『下北沢文士町の発展と形成』に関わる調査及び記録はしてきている。インターネット『東京荏原都市物語』資料館にこれを公開している。十数年に及ぶ、記録を取り出してまとめることはできる。しかし、ネットに収めているこれは膨大である。記事の数はなんと3400回である。一回につき原稿用紙8枚ほどある。とすると、原稿用紙27200枚となる。おそろしいほどの分量である。長編小説の分量は、一冊につき大体400枚だ。そうすると、単純計算すると長編68冊に相当する。
 ここから一つ一つのエピソードを選んで書くとなると、もうとんでもない作業になってしまう。市民団体からはまとめてほしい、また、編集者から企画にはなりうるとの感触は得ている。「下北沢文士町物語」である。しかし、相当な労力と時間が掛かる。やはり、文章を書くという場合、対象に対する興味と関心がなければこれは難しい。
 『下北沢文士町の発展と形成』は、地域的には広すぎる。具体的には代沢、北沢、代田である。部分的には、すでに「鉄塔文学論」、「石畳文学論」、「寓居文学論」でだいぶ取り上げてきたことゆえ、抄としてまとめられないことはない。
 このところ面白いと思っているのは、やはり代田だ。昨年は、『代田のダイダラボッチ』とまとめた。これは楽しかった。
 私自身、書くことは好きだ、やるのなら面白い方がよい。また、あまり負担にならないものの方がよい。ではどうするかと考えていたときにふと思いついたことがある。
 前に「世界地図に代田を加えよう」という催しを行い。五回、話をしている。これを軸にまとめればそう負担なくまとめられる。
取り上げたテーマは、富士と世田谷代田。代田連絡線。ダイダラボッチ、代田半島羽根木岬物語、世田谷代田風景論:丘と岬の神などだ。
 これらをもとに物語風にまとめる。それは、「世田谷代田都市文化論」である。
 どうもこのところ、文化探査は北沢、代沢から代田の方にシフトしてきている。駒沢鉄塔線はまだ現役で生きている。どうもこれの吸引力に引かれているらしい。一因は文学よりも音楽ということがある。
 文学は耳には聞こえない。しかし、音楽は誰の耳にも届く、最近、日本の音楽文化に大きな役割を果たしてきた代田帝音のことが分かってきた。この学校の影響力、そして存在は大きい。実際の例は、先号のエピソードが端的に示すものだ。学校から聞こえてきた歌声や楽器、これらの音に触発されて自己開花した人がいた。かつての代沢国民学校の生徒は、大きくなって藤原歌劇団の一員となったというのだ。
 自分ではすべての文化現象を誇大的に駒沢線に結びつけているところがある。「高圧鉄塔線に停まった渡り鳥は新感覚音符の宝庫だ」などということもその例だ。
 しかし、駒沢線は明確なラインを示していることは確かだ。これは「東京内輪線」と言われる。都心の外郭をぐるりと回る高圧鉄塔線の一部である。言えば、これが都鄙ラインを示している。言えば場末、町外れである。が、ここにここそ物語が豊富に潜んでいる。
国木田独歩が『武蔵野』で高らかに語る。

 すなわちこのような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残なごりと田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。 

駒沢線ラインは正にこのラインを物語っている。そう一つ一つの鉄塔には「哀れ深い物語、抱腹するような物語」が、いくらでも眠っている。「私はあの鉄塔に登って感電死するはずだった」というのは大詩人の娘、萩原葉子である。これは鉄塔61号である。「駒沢線の電線に留まった鳥を見て古関裕而、「東京 ・ オリンピック ・マーチ」の一節が発案されたのではないかとの代田っ子の密かな噂がある。
 世田谷代田は都市境界ラインにあって多くの逸話が眠っている。今回はこれらを拾うための紀要としたい。「世田谷代田都市文化論」には帝音の研究家、久保絵里麻博士も寄稿してくださるとのこと。それともう一つ要望があった。「風と光と二十歳の私」は、坂口安吾の小説だ。興味深いことにここには東大原尋常小学校の開学に関する逸話が書かれている。これは地元でしか分からないことだ。自身が調べたこの問題、記録しておくべきではないかときむらたかし氏の指摘もあったことから載せたい。大原はかつての代田である。

3、北沢川文化遺産保存の会忘年会  

  時 12月2日(土) 17時30分〜21:30分ぐらい
  場所 下北沢タウンホール二階集会室
会費 3000円 信濃屋特製「と号第三十一飛行隊弁当」


 文化に関心ある人々が集まって、話したり、食べたり、飲んだりするという会である。人がが集まって一時を楽しむためのものだ。これは誰でも参加出来る。文化交流の場、情報交換の場でもある。誘い合って参加してほしい。
  ・恒例のお土産一品持参は義務ではないが、会を盛り上げるために継続する。
  ・恒例 オークション 家庭で要らなくなったもの 売り上げは会の運営費に
  ・出し物 再び出演「ロス・コンパニェロス」の美声が帰ってくる!
 ◎ 公共施設を使っての低廉で会を開いている。ゴミは残さないようにする。
   前回はこれでトラブルがあった。食べたもの、弁当ガラの持ち帰りにご協力ください。また、できたらビンカン類の持ち帰りにも協力を(私はリュックを持参します)
   弁当の発注がありますので申し込みをしてください。締め切り11月29日(水) 米澤邦頼に申し込む 電話番号 090−3501−7278.

4、下北沢戦後のアルバム 

 このアルバムについては前号で知らせた。具体的な進捗状況であるが、まず基本となる二つの資料が手に入った。
 一つは、Dr. Austin 鳥類学者のオースティン博士が撮った鮮明なカラー画像である。これはアメリカ州立フロリダ大学の好意で掲載が可能となった。
 もう一つは、故飯田勝さんが描かれた絵である。1000枚ほどあると息子の淳さんが言っておられたが下北沢のは七枚が見つかった。上記写真と合わせて、アルバムを作ることにした。飯田勝描画には、他の世田谷地域がスケッチされているという。今回のは下北沢に限ってのアルバムだが、つぎの企画として世田谷全体に及ぶ、アルバムとしても企画できるのではないかと考えている。今回のはA2四つ折り、発行予定5000枚。

5、連絡会報について

 月一回、会報を発行している。しかし、これでは情報伝達が間に合わないという事例が増えている。それで臨時的にメールで連絡会報を流すことにした。第一号は試みに流してみた。これは当方でメールアドレスを把握している人とした。会員でこれが着いていない場合には、当方に連絡を。なお、これは会員専用としている。
  
6、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。

なお、この行事に関しての申し込みは、米澤邦頼さんの不在時と重なるので、きむらけん
 メールか、k-tetudo@m09.itscom.net  電話で3718-6498 申し込んでください。


第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
 案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
 新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会と連携関係にある団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ
第136回 2月24日(土)午後1時 世田谷代田駅改札前
 案内人 久保絵里麻氏(芸術学博士) 帝音の痕跡を求めて
 仝鉄慷擬旧居→代田の丘の61号鉄塔→武満徹旧居→明本京静旧居→平間声学研究所跡→帝音跡地→中原教会 この後、経堂の帝音跡に行くかもしれぬ。
第137回 3月17日(土) 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲11月18日、133回街歩きは、悪天候が予想されたことから延期と決めた。第137回街歩きは、この振り替え行事である。
▲信州特攻隊四部作、完結編。
と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡−さまよえる特攻隊』12月8日に「えにし書房」から出版。2160円。長年の文化歴史調査から発掘された物語である。ある程度捌けないと次の記録に結びつかない、ご協力を。
▲2018年、北沢川文化遺産保存の会第4回、研究大会をどうするか?案:「世田谷代田の歴史文化研究」、「風景とは何か〜地域風景資産をめぐって」など。ご意見を。
▲年末になりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年11月20日

下北沢X物語(3405)―世田谷代田も朝ドラに加えて2―

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(一)人間と人間の繋がりを耕していくのが文化探訪だ、この果てのない旅を続けている。金曜日、古関裕而の奥さん、金子さんの姪、澤井容子さんから話を伺い、また日曜日は「下北沢戦後のアルバム」の編集会議、いずれも文化談義に及ぶ。昨日は古い地図がもたらされた。昭和七年の北沢三丁目のだ。見ていて不思議なことに気づいた、通りに面した商店に著しく目につく言葉があった。「サンバ」である。たちまちサンバ談義。
「ぎょへぇ、この頃からサンバが流行っていたのか、サンバの衣装を売る店か?」
「それはないよ、産婆さん、昔はみんな産婆さんに子どもを取り上げてもらっていた」
「なるほどね、しかし、数が多いね、一、二……七軒もあるよ」
「そんなに?興味深い現象だねぇ」
「昭和七年に北沢三丁目に産婆さんが数多くいたことは、需要と供給、近隣に若夫婦が多く住み始めて、つぎからつぎにオギャーオギャーって子が生まれのだね」
 調べるとこの昭和七年に守山小学校が開校している。東大原小だけで収容できなくなってのことだ。
「それでこの年に生まれた子が11,2歳ぐらい。昭和十九年にこぞって疎開したんだ。八月十二日は下北沢駅が疎開学童で溢れた、一千人ぐらいだ、歴史だなあ……この可愛い子ちゃんに特攻兵が惚れた」と私。

「あれまあ、こっちの昭和十年の地図、今の一番街の入り口のところに『平間文寿声楽研究所』がある。これが世田谷代田に移ってくるんだね……」
 著名なテノール歌手である。その研究所には「北沢児童音楽団」が併設されている。産婆さんに取り上げられた子が、しばらく経ってここに入ってきた。

 もう既に音楽的な環境が当地にはそろっていた。即座に思い出した。
 昭和十九年疎開した学童は浅間温泉で生活をする。退屈をまぎらわせるために演芸会を開く。様々な工夫を凝らす。ふすまががらりと開くと、スカートをはいた女の子がカルメンを踊る。見学に来ていた老爺はびっくりして入れ歯を落っことした。あり得ない話だがあり得た。踊りを教えるところも既にあったと。

 連想は次から次へ、この平間文寿は三浦環の歌を聞いて恐ろしいほどの感銘を受けたという。彼女の十八番は「蝶々夫人」だ。この平間は代田二丁目に移ってくる。そしてその跡に長門美保が歌劇団を作る。やはり、戦後、この「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。

 それからそれへ、音丸のヒット曲を作ったのは、古関裕而だ、それは「船頭可愛や」だ。これを三浦環が歌ってレコードになっている。YouTubeでこれが聞ける。平間文寿は三浦環の歌を「ベルカントそのもの」と高く評価しているが、歌には確かに艶がある。色っぽさの中に郷愁がある。

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2017年11月19日

下北沢X物語(3404)―世田谷代田も朝ドラに加えて―

DSCN0092(一)「帝国音楽学校に行くために世田谷中原駅まで行ったの、初めて降りたときのことは、とてもよく覚えているの。あれは確か昭和五年の冬のことだったわ、そのときは阿佐ヶ谷の姉の家に夫(古関裕而)と住んでいたのね、新宿まで省線で行って小田急に乗り換えたの、行き方が分からなかったので駅員さんに聞いたら『経堂行きに乗りなさい、八つ目の駅だよ』って言われたの、それで一つ、二つと数えながら行ってようやっと八つ目に着いたの、降りたらね、なんか肥だめのにおいがしたの、そこはバス停みたいな小さな駅だったわ。降りたのはたった、二三人だったわ」

「あれはね、確か二両の電車、ピィって車掌さんが笛を鳴らすとガタンと動いてね、そのときよく覚えているのはリベットが打ち込まれた茶色の電車ね、それが坂を下って行ってしまうと向こうの景色がいっぺんに見えてきたの。駅は丘の上にあったのね。それでびっくりしたわ、雪をいただいた富士山が目に飛び込んできたの。青空の下にくっきりと見えていて、豊橋から眺める富士と違って綺麗なの。でもねとてもうれしかったのよ。だって自分のふるさとの方角が一目で分かるのだものね、『良かった』と思ったときに歌声が聞こえてきたの」

「女の人の歌声、ソプラノがが聞こえてきたの、振り返るとすぐ向こうに校舎が見えたの。二階建ての大きな建物で、壁に『帝』の字が見えたの、『ああ、ここが帝国音楽学校なのね』と思ったわ。そこの二階から歌声は聞こえて来ていたの、女学校時代からオペラには憧れていたのでそれを聞くともうたまらなくなるの。感動して胸を押さえていると目にふっと見えたものがあったの。そこに高い高い、鉄塔が建っていたの、銀色の塔がすくって建っているのですものね」

「それがおかしいのよ。その電線に鳥がとまっていたのね、何羽ぐらいかしら五六羽ぐらいかしら、それがね、うふふ、五線譜の音符のようだったの、静かでね、歌声も聞こえてくるでしょう。それで電線の音符、ミ、ド、レだったか知らないけれど、それで鳥の音符に釣られるようにして『ある晴れた日に/遠い海の彼方に』って歌ったのね、二三小節も歌ったかしら、そしたらね、『ブラボーって』声が聞こえてきたの」

「誰もいないと思っていたら反対側のホームに電車を待っている人が五六人ぐらいいて、拍手をするのよ。もう恥ずかしくなったわ……」

「帝国音楽学校はは駅から降りてすぐのところにあったわ。学校の先生が出てこられて面接をしたの、そのときに、電線に留まった鳥に釣られて歌をうたったといったら、『ここではよくあることですよ』と。『ここの名物は風ですよ。周りは畑でしょう、そうすると埃が舞うのですよ。喉を痛めるのですね、歌い手にとってはとってもいやですね。でもね、この風でびゅうびゅう電線が鳴くのですよ。それが面白いことに、学生によっては、いい音出しているっていうものもいるんですよ』」

「まあ、いわゆる武蔵野ですね。だから自然の音に溢れているのですよ。鳥がさえずる、雷が鳴る。電車が走る、これなんかばかになりませんよ。かたたん、こととんというのはカダンスですからね、快調に響くんですよ。電車好きの男子にとってはたまらくなるやつがいて『丘と緑と電車』を作曲したやつもいますよ。」

「まあ、ともかく音楽に満ちていますよ。南風が吹くと塩が運ばれてくるみたいで、それがショートしてジィジリって鳴るのです。『先生あれも音楽だ』というやつもいますね……田舎っていえば田舎、田園都市といえばかっこよくなります。ここでは少少音をたてても周じゅう大根畑や竹藪ですから苦情を言ってくる人はいません……学校の先生はそんな話をしておれらた、今となっては懐かしい話ね。」
  古関金子は帝国音楽学校に入学したときの思い出話を語った。
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2017年11月17日

下北沢X物語(3403)―戦争は絶対するな:語り部の告白2―

DSCN0087(一)戦争になると男の欲望が暴走する。あれから72年経った今も悪夢が苦しめる。「あの絶叫が今でも忘れられない」のよ。天内みどりさんは語った。平壌の収容所にいたときにそこにソ連兵の女狩りがやってきて女を拉致して連れていく、その時の様子を「女達の悲鳴に収容所全体が包まれる。逃げ回るもの、息をひそめるもの。泣き出すもの。それは地獄絵そのものだ」(『芙蓉の花』)と彼女は記録している。女をもてあそぶために力づくで引っ捕らえてトラックに乗せる。「あのときの悲鳴が忘れられないのよ」、日本に戻ってきてからも夢に出てきて全身が凍り付くこともあったと彼女は言う。PTSD、過去の耐え難い苦痛な体験で受けたトラウマの後遺症は消えることはなかった。言い換えれば男の欲望に対する恐怖である。

「そういう経験をしたものだから結婚はしないと心に決めていたの。それで女一人でも食べて行ける教師の道を選んだのね」
 彼女は化学の先生になった。が、それでもそんな彼女をいたわってくれる人が現れて結婚したという。しかし、悪夢は消え去らない。
「何かね一時は落ち込んで自殺を考えたこともあるの」
 野放図な男の性ということはある。
 この頃、アメリカの映画界で監督や男優が指弾されている。過去のセクシュアルハラスメントが表沙汰になってのことだ。これも隠れていたものが表にでてきただけ、アメリカだけのものではない。声を上げようにもあげられないでいるというのは今も同じではないか。
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 戦争は男の獣性を野放しにする。ソ連兵だけでない、彼女は引き揚げ船でもマドロスに襲いかかられた。「彼は急に私に飛びかかってきて衣服を剥ぎ取ろうとした」。これで彼女は、代沢国民学校時代のことを思い起こしている。

 四年生の時である。学校の授業の一環として陸軍病院への慰問というものがあった。体をこわしてほとんど寝たきりの兵隊さんとお話をしたり、歌を歌ったりするというものであったが、ある時一人の兵隊さんが自分の寝ている所まで呼び寄せて、下着の中に手を入れてきたのだ。逃げようとする兵隊さんは
「お願いだ声を出さないでくれ」
 と悲しげに言った。私はこの話を引率の女教師に話、もう慰問にくるのはいやだと訴えた。するとその先生は
「お国のために、それくらいのこと辛抱しなさい」
 と厳しい顔で私をしかったのだ。 『芙蓉の花』 近代文芸社 二〇〇九年


 戦争中における性的暴行は一般的に話題にならない。が、実情は深刻なものだった。疎開先で引率の教員が酒を飲むと寮母を追い回していた。女児も被害にあっている。女は性の愛玩物だという認識は今でも巣くっている。
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2017年11月16日

下北沢X物語(3402)―戦争は絶対するな:語り部の告白―

DSCN0076(一)今好戦的空気に日本は染まっていないか。悪いやつは北朝鮮だ、やっつけろ、そんな気配はないか?が、考えてもみよ。ひとたび銃火を交えれば戦争になる。いいのか?我らは、ここ十年間、「戦争経験を聴く会・語る会」を開いてきた。証言者の誰もが口を揃えて言った、「何がどうあっても戦争はするな」と。

 いったん壊れた平和は短時間では修復できない、繕うのに何年も何年もかかるものだ。その間苦しむのは市民であり、国民である。このことを経験してきたゆえに。戦争はしてはならぬと言う。

 やはり必要なのは対話への努力を継続すべきだ。ところが、今は北朝鮮への対応は制裁一辺倒だ。ここに不思議な思いを持つものである。パワーバランスは軍事力を背景とする。ところが私たちは日本が戦うとは誰も思ってもいない。『何か事があればアメリカさんがやってくれるだろう』とほとんどが考えていると思う。強攻策は、虎の威を借りる狐である。どっぷりと「核の傘」に浸かっていて、平和を享受している。そして、国民は『アメリカさんが何とかやってくれるだろう』と期待している。これもおかしなものだ。唯一の被爆国である日本は、「核兵器禁止条約」に加盟しないという。「核の傘」に入って、平和が保たれているからだという。

 この「核の傘」を背景とした力の外交が今なされている。が、戦争というのは偶発的に勃発するものだ。とくには力と力とが対峙したときは危ない、緊張の糸が切れるということはある。

 想像だが、ミサイルが一発飛んで来て国民の一部に犠牲が出る。すると米軍は圧倒的な物量作戦で軍事行動を起こすに違いない。すると北朝鮮は多くの犠牲を出して敗退する。が、双方に多くの犠牲者が出ることは容易に想像できる。この戦争に核が使われる危険性はないとは言えない。
 広島、長崎の惨劇は強烈だ、一発でごっそりと人がやられる。近代戦争で応戦というのは恐ろしい結果を招く。やはりどうあっても戦争はしてはならない。

 戦争になれば多くの人が死ぬ、銃器で殺されたり、飢え死にしたりする。しかし、戦争になればこれだけでは終わらない。戦争と平和、後者では自由がある。ところが戦争になればこれは完全に失われる。人間が人間でなくなる。

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2017年11月14日

下北沢X物語(3401)―銀河鉄道カダンス文学論―

DSCN0062(一)汽車と賢治、切っても切り離せないものだ。以前花巻を訪れたとき地元の人から聞いた。「汽車の音はよおく聞こえますよ。汽笛の音とか、夜なんかは鉄橋を渡る音まで聞こえましたよ」と。賢治生家の環境を尋ねたものだ。すぐ近くを東北本線が走っている。彼の鉄道に対する思いの熱さ、これが賢治作品を創り上げた。中でも汽車の音というのは作品の核になるものだ。幼少時の汽車経験というものは精神史に深く影響してくる。

 『日本鉄道詩紀行』を書いたが根幹は幼少時の汽車経験にある。上りの夜行列車には憧れた。野末に汽笛が響いて汽車が現れる。横一列にぼんぼりを点した客車が、かたたん、こととんと走って行く。走り行く先のきらびやかな都会を思った。テールランプが尾を引くように消えて、遠汽笛が聞こえてくる。たまらなかった。自身が初めて大賞をもらった作品は『走れ走れツトムのブルートレイン』は上りの特急に憧れる少年の物語だ。自分自身である。

 宮沢賢治作品は、汽車の存在なしには考えられない。幼少時に近くを走っていた日本鉄道には深く慣れ親しんでいたに違いない。が、彼は支線を好んだ。この場合の汽車は、岩手軽便鉄道である。「春と修羅」第二集に収められた「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」は素晴らしい。その冒頭だ。

ぎざぎざの班糲岩の岨づたひ
膠質のつめたい波をながす
北上第七支流の岸を
せはしく顫へたびたびひどくはねあがり
まっしぐらに西の野原に奔けおりる
岩手軽便鉄道の
今日の終りの列車である


 軽便鉄道は簡易軌道である。幹線の日本鉄道みたいな安定性はない。とりあえず砂利が撒かれ、とりあえず軽量軌道が敷設されたものだ。客車は横に揺れ、縦に揺れて、軌道からはみ出しはしないかという恐怖を持つほどだ。汽車自体がスイングしている。ズンチャカ、ズンチャカ、その振動が激しい、この汽車がえいとばかりに軌道からはみ出て夜空に浮かび上がった。それが銀河鉄道ではないか。
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 この岩手軽便鉄道の前身が釜石線である。別称「銀河ドリームライン釜石線」である。

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2017年11月13日

下北沢X物語(3400)―銀河鉄道、音響的文学論―

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 果てもない旅、誰もしたことがない旅をしている。今度は、二回目チャレンジだ。一回目は散文詩の鉄道旅行だ。本のキャッチは、「近代詩人たちが書き残した『鉄道詩』の数々。それらに初めて光を当て、文学史の新たな側面を浮き彫りにした画期的著作がついに登場!」と謳った。(『日本鉄道詩紀行』:集英社新書)である。今度のはこれの散文版である。すなわち、明治、昭和、大正の文学に描かれた鉄道を行くという壮大な旅だ。今回のものはテーマがはっきりしている。それはカダンスを求めての旅だ。

 あの時代は遠く過ぎ去った。しかし、我々はその時間を潜り抜けて今にある、経過した時代から得たものは決して消えていない。カダンスという響きであり、刻みである。それは何か、分かりやすくいえば「ごとごと」という音である。

 これが面白い、この音の源流はどこにあるか、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」にある。今回みちのくを旅した。いくつかの目的があったが一つは釜石線に乗るためである。

 この線の愛称は「銀河ドリームライン釜石線」だ。という名がついている。この線の前身が岩手軽便鉄道である。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』はこの線をモデルにしたと言われる。
ここに行くことによってカダンスの核心が掴めるのではないかという思いがあった。

 究極の旅というものがある。典型的なのは松尾芭蕉「奥の細道」だ。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」で始まる。つまり、「月日は永遠に果てることのない旅人のようなものである。来ては去り、去っては新しくやってくる年もまた旅人である」ということだ。

 単純な時間論ではない、問題は時間の中身だ。明らかなことは現代のような超高速時間ではない。いまより遙かにゆったりとした時間だ。彼は歩いて旅をした、それは景色をめくっていく旅だ。歩いていくことで新しい風景に会い、また未知の人にも出会った。そういう変化に彼は時間を感じたものだ。その彼が旅する空間には音があり、匂いがあり、色があった。彼の辞世の句は、

旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

病床に伏せった彼は、これまで旅をしてきた幾千里を脳裏に思い描いた。歩いてめくった一枚一枚の景色が思い起こされたものだろう。時間と空間遊離していず、旅ではめくられる景色を堪能できた。

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2017年11月11日

下北沢X物語(3399)―人間と自然:被災地をゆく―

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(一)風景を巡るのが旅だ、山や野や海岸の景色を眺めると心が安らぐ。が、今回は違った。風景がすっかり破壊されていたからだ。大自然に人間は決して打ち勝つことはできない。しかし、あたかも自然に打ち勝ちでもするように圧倒的な機械力で自然が大改造されていた。野山を削り、平地をかさ上げし、また海岸線には高いコンクリート防潮堤が築かれていた。

 思い起こしたのはウィリアム・ワーズワースの詩「山よ、なんじらには誇りがあった……」(英国鉄道文学傑作選 小池滋編 ちくま文庫)

 いまは、恥ずかしいことに、黄金崇拝の勢力が、災いの星のようにイギリス全土を支配し、なんじらの平和、なんじらの美を売りとばし、勝ち誇る車両のための道を通す気でいる。


 機械近代が自然を蝕み、破壊しはじめたときのことを述べているが、実際に被災地をみて回ってこのことを実感した。陸前高田で出会った八十歳の女性は同じようなことを言っていた。彼女もまた親類縁者を数多く津波で失っていた。

「自然には絶対に逆らえないね、これはあの津波を体験したものじゃないと分からないよ。あの水の力には絶対に叶いっこないよ。全部飲み込んで壊してしまうんだから。今高台造成をしているけど、また津波が襲ってきたら危ないね、本当に水の力は強いんだから……」

「それはね、さびしいよ。だってね、海岸はいい散歩道だった。松林がずっと続いていてね、海続きの山にも木々が生えていてね、そこに家々があった。あの懐かしい光景はすっかりなくなっちゃった。今はねみんな削られてしまって山肌はむき出し。海はコンクリートですっかり覆われてしまった……さびしいよ、かつてがなつかしいけど、こういうふうにして変わっていくことにはまるっきし逆らえるものじゃない」

 彼女は造成が進む海岸をみていった。

 2011年3月11日東日本大震災は起こった。ヘリからの空撮がダイレクトにテレビで見られた。海岸を大津波が襲う、建物が破壊され、大型船が陸地に突っ込む、家々はなぎ倒される、夢ではなく現実だ。強烈な印象を我々に残した。頑丈だと思われたものがあっさりと、あっけなく破壊されていく、「人間が築いたものは虚構だった」と思った。

 あれから6年経って陸中海岸を旅した。時間が経過して今に至っている。あるのは今という拭いがたい現実であり、時間である。あれから時間は休みなく動き続けている。そして今がある。
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2017年11月10日

下北沢X物語(3398)―代田帝音を巡る臨時研究会―

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(一)2004年12月に北沢川文化遺産保存の会は発足した。間もなくで十三年目を迎える。当初から行ってきたのは、下北沢文士町の発掘と調査だ。その集積が「下北沢文士町文化地図」で現在は七版である。版を重ねるうちに分かってくることはある。地図の解説文も変化する。最新版冒頭見出しは「文士町の源泉は音楽にあり」と書いた。

 文学や芸術がどのように勃興していくのかは興味深いことだ。が、振り返ってみると文学は個別的な営為だ。作家がそこに住んだとしても近隣の人々には著しく大きな影響は与えない。著名な文学者の場合は学生が表札を盗みにきた。怪しい連中が来るようになって近所が迷惑したこともあった。ところが音楽となると別だ。歌ったり、つま弾いたりすると音が出る。これは文学よりも影響が大きい。世田谷代田、ここには帝音があった、学校からは楽器の音、うたう声が聞こえていた。折々にこれを聞きに行った人がいて、感化を受け、彼女は声楽を志し藤原歌劇団で歌っていたという。

 下北沢文士町の始まりは、昭和三年秋に北沢の丘に越してきた横光利一に始まった。が、世田谷代田の帝音は昭和二年、小田急が開通してほどなくして開校した。名は帝国音楽学校、官立の音楽学校に対抗するほどの存在ということで「帝国」の名をかぶせた。

 今年、夏の研究会では、この学校をテーマとして博士の久保絵里麻氏に講師を依頼し講演を行った。日本の音楽史の一翼を担っていた学校だったことを知ってこの学校の近隣における影響の大きさを知った。分かってみるとこの代田帝音近辺には多くの音楽家が住んでいる。例えば、古関裕而が世田谷代田に住んでいたことはよく知られている。これも帝音と絡んでくる。奥さんの金子さんが帝音に入学したことから学校に近い当地に越してきた。これが始まりだ。

 文学と音楽、これはだいぶ違う。この世田谷代田に住んだのは萩原朔太郎だ。詩人の家は人が集まってきてよさそうだが集まらなかった。彼のお母さんが人が集まってくることを嫌っていたからでもある。が、文学の場合は個人的な営為だ。自己完結で成り立つ。

 音楽の場合、共同作業だ。作詞家、作曲家、そして歌手という関係がある。最近分かったことで言えば代田に歌手の音丸が住んでいたことだ。「船頭かわいや」は、大ヒットした曲だ。これは古関裕而によるものだ。分かってみると彼女の曲を作曲した三人が至近距離に住んでいた。古関裕而であり、大村能章であり、明本京静である。こちらは大衆音楽だが、帝音があったことによる因果があることが分かってきた。
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2017年11月08日

下北沢X物語(3397)―第三荏原恩師の栄光と挫折―

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(一)81歳になって編まれた「想い出」文集は面白い。理由は、通常の文集ではないからだ。書くというときにこれを書いてはいけない、これかくと差し障りがある、そんなブレーキが掛かる。ところが傘寿の人達は解放されている。率直に想い出を綴っている。「第三荏原」的、批評意識もある。彼らは学校を誇りにしていた。

 こういうことを言っている人もいた。「私は第三荏原でね、上級学年のときにみんなと同人誌作ってそこに小説とか詩を描いて出していましたね」と。

 病気になられて以来、最近は会っていない。その後どうされているだろうか。今井兼介さんからそんな話を聞いたことがある。
 
 「想い出」を読んでも、確かにこの彼らもまたませていた。早くからマドンナの話をしていた者も、すでに戦中において天皇は人間でなくてはならぬと言っていた者もいた。そんな彼らにとっては風来坊の外山寛先生は憧れだったようだ。文集には「外山寛先生のこと」として池松俊雄さんがこう書いている。

 外山寛先生は一風変わった個性的な先生だった。
 顔がデカくて、おまけにギョロ目、口髭を蓄えた音楽教師だった。
 軍国主義華やかな当時としては、ちょっとキザで異色の教師だったと思う。防空頭巾で竹槍を削っていた時代に、何となく洒落た空気を振り撒いていた印象が強い。


 池松さん、当時の記憶はないが、しかし、覚えているのは「担任が来ると云うので母親は丁寧にお迎えしていた。」と言い、「私の母は美人だったので、今思えば母と話しに来ていたのかもしれない」と記している。なるほどキザ男は、隅おけない人だっただなと妙に納得してしまう。

 堀江照彦さんも外山先生を慕っていた。が、こういうことを書いている。

 もう亡くなった2組の〇〇君のお姉さんと結婚していたはずだ。クラス会の集まり、酒の上で、生活を安定させろとその奥さんに包丁を持って強く迫られ閉口したとギョロ目と髭で言い訳を述べていたのを覚えている。

 外山先生は復員してから守山小学校に勤めていた。が、辞めてミュージシャンになった。その姿がとんでもなくかっこ良くで皆も憧れた。ところがたちまちに落ちぶれた。奥さんの行動もその辺りを語っている。
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2017年11月07日

下北沢X物語(3396)―第三荏原18回生男子2組の濃厚人生―

さようなら東大原小学校
(一)老化は人間の活力をそぐ。が、卒寿80歳を越えて同級生が語り合い、文集「想い出」を完成させた。その副題が素晴らしい、「81歳になって」だ、思いが募ったのだろう、「おれたちもそう長くはないこの際、人生をまとめておこうよ」と。一つは自分たちの人生のけじめである、もう一つある。自分たちが生きた時代を後に伝えたいという思いだ。彼らは苦難の時代を潜り抜けてきた。濃厚な人生を送ってきた、これを伝えずにはおられない!これが原動力ではなかったか?彼らが積み重ねてきた苦難の人生の片鱗が文集のそこかしこに描かれてている。読み応えがある。興味深いエピソードを幾つか拾ってみる。少し当方の意訳も入っていることを断っておきたい。

・「振り返ってみると残念だった。俺らは卒業するまで男子ばっかり、憧れのマドンナと机を一緒にすることはなかった」
 男子2組の同級会では必ず出た話だ。

・「あれは一年のときだった。運動会があって女子が走っていくものだから慌ててついていったんだ、整列して音楽が掛かる、みんな踊り出す。あれこんなの練習していないぞととりあえず手を動かす、おかしい、見回すと女子ばかり、何と女子のダンスだったんだ」
 土屋貴幹さん

・「あれは四年生のときだ、死んじゃった保科君早熟だったね、『天皇陛下は神ではなく、人間でなくてはいけない』と人間天皇論みたいなことを言っていた。それが松本先生の耳に入って呼び出されて説教されたことがある。なぜおれまで呼び出されたのかはわからない。保科君なんか戦争中からもうリベラルだったんだ……」
 小松文夫さん

・「ほらほら、松本先生は海軍に行って死んでしまうんだけど、出征する前手旗信号習ったよな。まず校庭で先生に教えてもらう。その後、校門を出て代田の方に行ったじゃないか。こっちは学校側の坂にいてもう一方は代田の出頭山の所に陣取る。イは左手を斜め上、ロは右手を斜め下、ハは右手を上、ニは左手を下にした。遠く離れているのに手でサインを送るとちゃんと通じた。おもしろかったなぁ」
 土屋 貴幹さん
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2017年11月05日

下北沢X物語(3395)―追憶のウェスターン・ランブラーズ―

IMG(一)東大原国民学校の疎開時代を撮った一枚の写真は歴史的な映像となった。これがどういうシチュエーションで撮られたのか分からなかった。しかし、長いこと掛かってこの写真の秘密が解けてきた。最初は東京下馬の太田幸子さんの家で見つかった。彼女は第三荏原の卒業生で浅間温泉に疎開していた。写真、一番右手の兵士が女子の首に手を回している。まさにこの人がそうである。兵士の名は、西尾勇助軍曹だ。昭和二十年四月十日に九九式襲撃機に乗って台湾前進中に、米軍艦載機に撃ち落とされ亡くなっている。

 この写真は浅間温泉富貴の湯の庭で撮ったものだ。写っているのは東大原国民学校の女児だ。ここに宿泊していた武揚隊隊員と記念写真を撮っている。左手の飛行帽をかぶったのが飯沼芳雄伍長である。彼は松本市出身だ。息子が松本に飛んで来たというので母親は写真屋を引き連れていった。そして、この写真を撮らせたそうだ。

 武揚隊の兵士たちは、この子たちを一際可愛く思っていた。別れるに当たって歌を残した。「可愛い皆さんのお人形乗せて、わたしゃいきます、〇〇へ」と歌った。

 東大原国民学校の18回生や19回生は疎開という辛い経験を生きた。その時代は色気づく頃である。やはりマドンナがいた。19回生のマドンナは太田幸子さんである。彼女美人で頭が良かった。下馬に伺ったときだ、邸宅のマダムになっていた。

 18回生は、「男女七歳にして席を同じうせず」だった。「想い出」には、「転入、転出は何度もあったし、男女組の男子の一部入ったこともあった。でも同学年のクラス間の総入れ替えはなかったし、憧れの女子にと一緒に机を並べたことはなかった」とその悔しさを書いている。戦時中苦労したのは食欲だ、これはよく知られているが、色欲、それもただ机を一緒にするだけの願いだが、文集「想い出」にそのマドンナに出演協力を願って、写真を載せていることだ。
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 彼らは81歳だ。マドンナたちも同じ年齢だ。しかし現実の生写真には食欲をそそられない。過去のあの時代のあの人の写真がいい。文集には「女子組マドンナから提供された写真も入っている。感謝」と書いてあるが、微笑ましい。
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2017年11月04日

下北沢X物語(3394)―第三荏原18回生男子2組の追懐―

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(一)「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」の初校をやっと終えた。これもまた鉄道交点に埋もれていた逸話だ。東大原国民学校の疎開学童と彼らとが出会った。これがきっかけでこの隊の全貌が明らかになった。学童女児は都市的な魅力を備えていた。知性であり、音楽感性であり、見目の良さである。これに若い特別攻撃隊の隊員は惹かれた。

 東大原は代沢小と学区域が隣接している。後者の言語文化や音楽文化の高さはつとに知られることだが、この地域全体の土壌にこれがあったことには変わりがない。東大原は別名、第三荏原と呼んだ、彼らの誇りでもあった。

 手元に「想い出」という文集がある。副題は「81歳になって 男子2組」とあり、発刊の辞にはこうある。

 男子2組。我々は昭和14年4月に第三荏原小学校に入学し、男子2組となった。その後、東大原小学校と名を替えた。担任は外山寛先生でギョロ目で顔がでっかい音楽の先生だった。

 彼らは担任だった外山寛先生を深く慕っていた。教え子の一人、簾徹さんは「僕の担任の外山寛先生は音楽の先生でした。クラスのみんなでハモニカや木琴やミハルスで合奏をしました」と書いている。これは戦中のことである。代沢小も濱舘菊雄先生がいてバンドがあったというが先進的な音楽教師が第三荏原にもいて合奏練習をしていた。簾さんもこのために木琴を買ってもらったという。

 しかし、不思議だ、校正を終えて一息入れているときに資料の山からこの文集「想い出」がひょっくり出て来た。この男子2組の一人だった堀江照彦さんが私にくれたものだ。

 同封の「想い出」特にページ2〜3にある遺訓と遺書を見て頂きたく、軍国主義のかたまりみたいだった21、22歳の先生が一人に残した手紙です。その手紙には、軍人になれ!天皇のため!とは一言も書かずに弱点を克服しろ!だけで逝かれたその時代と手紙とのギャップに目を離せません。

 文集を読んで分かったことは、昭和20年3月卒の東大原国民学校18回生の男子2組は、一年から三年までが外山寛先生、四年が松本博先生、五六年が青井勝太郎先生だった。

 この四年の担任だった松本博先生は、昭和十七年2組の担任をしたのちに、海軍に入隊した。そして昭和十九年にフィリピンで戦死をされていた。
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2017年11月02日

下北沢X物語(3393)―荏原逍遙:鉄塔に富士に仰天怪女2―

DSCN0030(一)駒沢線22号鉄塔は、昭和元年12月に建立されている。91年も経っている。鉄塔も古くなり、順次立て替えされている。ところがここにも変化が起こっている。これまでは四角鉄塔から丸型鋼管へだったが、どうもこの風向きが変わってきたようだ。

 北部鉄塔、京王井の頭線を越える辺りは、いわゆる環境調和型に立て替えられている。順次、小田急線の南部に残っている旧来鉄塔もこれになるはずだった。桜新町の東電には「代田の丘の61号鉄塔」を地域風景資産にするに当たって何度か訪問した。いずれこれも立て替えるとのことを聞いていた。
「四角鉄塔が望ましいのですがどうしても立て替えるのなら青色に塗るとか、あるいは青猫を描いてほしい」
 萩原朔太郎の居住痕跡を残す唯一のもの、それで、こんなことを要望していた。

 今日、桜新町の東電前を通った。著しい変化をしていた。目につくものは灰色のビルだけだ。一切の看板や装飾物は取り払われている。まるで世を忍んでひっそりと存在しているようだ。この様子から会社に対する社会の風当たりが相当に強いことが覗える。原因は原発過酷事故を起こしたからだろう。

 鉄塔の建て替えもこれが影響している。今年に入って18号、19号が立て替えられた、従来の四角鉄塔である。東電は賠償や復旧などで膨大な経費を負担しなくてはいけない。財政的に逼迫している。このことが影響しているようだ。環境調和型よりも四角鉄塔の方が低廉で済むからだろう。
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 立て替えられた18号19号は、旧来のものよりも背丈が高い。鉄塔らしい鉄塔になっている。サザエさんがスカートをはいた形ですっきりしている。不思議なことだが環境調和型よりも絵になる。写真をとっても写りがよい。北部あたり、代田では縦に並んだ駒沢線、環境調和型を撮ることがあるが、味がない、写真としても面白みがない。

 高く聳える四角鉄塔はやはり格好がいい。人間の視覚にも調和しているように思える。
ただ北部鉄塔と比べると、抱えている高圧線の本数が少ないことで細身である。

原発過酷事故によって期せずして北部鉄塔、南部鉄塔の比較ができるようになった。歴史的経緯からして、北部鉄塔は昭和の一桁においては塔として調和したものであったと思われる。その格好良さが詩人の居住に結びついた、と考えらる。
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2017年11月01日

下北沢X物語(3392)―荏原逍遙:鉄塔に富士に仰天怪女―

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(一)雨が降っても雪が降っても荏原逍遙は欠かさない。この間は空から柿が降ってきた。このでんでいくと「もしかしたら空からサンマが降ってくるのでは」と夢想する。大好きなサンマが不漁で高い。今の時期、犬の糞と見まごうぎんなんを踏み抜く。そればかりかとんでもない棒にぶつかる。つい二三日前だ、大雨のときに怪女にとっ捕まった。「勝新が女の子を引っかけてHすると必ず地震が起こるのよ」、「ぎょへぇ!」気味悪く思いながらも雨の中、講釈を一時間余り聞いてしまった。

 行き先は気分で決まる、北行したり、南行したり、昨日は池上線まで下った。このとき電車を見に来ていた保育園児と出会った。石川台一号踏切は園児たちの電車展望台だ。ここの鉄柵に捕まって鈴なりになっている。
「電車すきなんだね!」
「だいちゅきー」
 黄色い声が返ってきた。保育園児と言葉を交わすとエネルギーをもらえる。公務員研修所で若い人に作文を教えていた。やはり彼らとやりとりをしていると元気をもらえた。

 ところがこんなことがあった。区の老人大学で100名あまりを前に講演をしたことがある。話しているとエネルギーがぐいぐい吸い取られるような気がした。終わり頃にはげっぽり疲れて気力が失せたことがある。

 生気は大事だ。歩いていると人と擦れ違う。目が光っている人、そうでない人、目つきで意欲が見える。心の窓にすべて現れる。

 モチベーション、生気をどう保つかは大きな問題だ。関心は愛なりという、確かだ。興味は生気と深く関わる。やはり大事なことは人や物や事象に興味を持つことだ。関心が血行を促すことは間違いない。

 人は興味を持てば若返る。人間、やはり大事なことは好奇心である。
 当方、常々鉄塔に興味がある。荏原逍遙では「鉄塔駒沢線」は必ずこれを目にする。塔に会うと少年のように気持ちがどきどきしてくる。 
 何時だったか、駒沢線を求めてひたすら歩いたことを書いた。そのとき若い女性が「まるで少年みたい」とコメントをくれた。そう鉄塔を見ると少年のように心うきうきしてくる。

 昨日のことだ、池上線に辿り着く前は、鉄塔沿いに南行していた。都立大過ぎたところで鉄塔NO22の脇を通る。隣接した土地がマンションになるらしく遮蔽物が一切なくなっている。鉄塔が丸裸になっていた。観察する絶好の機会だ。
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 ためすすがめつ眺めやる。駒沢線の北と南とでは高さが違う。当地の駒沢線は代田と違う。

 背丈が低い、いびつである。かっこうがあまりよくない。高さが中途半端だ。


 鉄塔に対する情動は美人に持つ思いと同じだ。やはり格好よければ愛着を持つ。すらりと高ければ、憧れる。この鉄塔情動論、詩人の微妙な神経と深く関わる。北原白秋は『鋼鉄風景』で、「神は在る、鉄柱の頂点に在る。」と歌った。あこがれて眺めやると、なるほど鉄塔の頂点には神が宿っているように思われる。が、今はデコイの鷹が留まっている。

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2017年10月30日

下北沢X物語(3391)―森茉莉案内人募集:学歴国籍年齢不問―

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(一) 今日も牟礼魔利はお気に入りの洋服で緑と藺草色の縄の籠を下げ、下北沢へお出かけである。道すじにある貸本屋、鳩書房の女の子は、硝子扉の中から魔利の通るのをみとめた。 『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 一九九二年

淡島のアパルトマン倉運荘を出て、彼女はいそいそと出かけていく。下北沢へのおでかけだ。このくだりを読むと、「風月堂」に行くことが楽しかったようだ。「おいおい、みろよ、あれがおうがいの娘なんだってよ」、「おうがいって美味い貝のことか?」、「ばかなことを言うな、おうがいというのは貝のことじゃなくて文学者のことを言うんだ、お前だって一度は教科書で目にしているはずだよ。森鴎外という名前だよ」……その魔利自身も、「父親の鴎外という人間が、小学校へ行ったものには前部なを知られていて、誰も一度聞いたら(へええ……)と驚いて、忘れることのない」(『贅沢貧乏』)と書いている。


◎2017,8,21   YU

 親子で森茉莉さんのファンです。やっと憧れの邪宗門さんに来ることができて感激です。茉莉ティーを飲んで森茉莉気分に浸れることができました。サインや森茉莉原稿を見れてしあわせです。北海道にいる母も写真を見て喜んでいます。またおじゃまします。


◎北海道出身のYさんは東京で勤めているか、学校に通っているかだろう。きっと母親に森茉莉が書き物をしていたという机の写真を撮って送ったのだろうと思う。親子で森茉莉を好きというのも珍しくはない。一緒に住んでいる場合、茉莉語を使って会話している。「お母様ラーメンじゃないのよ。ラアメンって言わなくちゃ」


◎2017,8,21 WB

 はずかしながらこの邪宗門に初めて来たときに、森茉莉さんのこと初めて知りました。それから本を読み大好きになってしまい、またおじゃましました。生原稿は心がふるえました。茉莉さんのような女性になりたいです。あんみつコーヒーだいすきです。


邪宗門来訪がきっかけで森茉莉ファンになったという。自分の知的世界がこれによって開花した。森茉莉、彼女の文字は独特だ、息づかいや筆遣いが感じられる。
 これから文学館というのは間違いなく衰退していく。綺麗な字で書かれた原稿を並べても人は感心しない。思いっきり汚く書くとか、あるいは人が真似られない字体で書くとかしないと、有名になっても文学館はできない。

◎2017,8,22 NK

 高校生の時に自分で好きな作家を一人決めて一年間調べる宿題があり、自分の名前の「茉」が森茉莉さんと同じというだけで森茉莉さんに決めました。その時に邪宗門さんに伺ったのがきっかけで茉莉さんのことが好きになり、作品も沢山読んでとてもよい経験ができました。今日は大学生になって私の「森茉莉ノート」をマスターに見せたくて来ました。やっとおみせできて、ほめてくださって、とてもうれしいです。私にとって茉莉さんは私の興味の文化を開いてくれた存在です。邪宗門さんはとっても特別な場所です。また大人になって森茉莉の本を読んでまた来たいです。ありがとうございました。


 この彼女はとても知性的な人である、きっと賢い人なのだろう。高校生の授業で作家一人を選び、年間を通して調べさせるというのはレベルの高い学校でしかできないことだ。彼女が個人的に「森茉莉ノート」を作ってマスターに見せにきたというのは素晴らしい。何とまあ、作道明さんは森茉莉案内人として若い人に刺激を与えている。これは早速に言ってあげないといけない。

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2017年10月29日

下北沢X物語(3390)―森茉莉感想ノートNO2の◆

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(一)
 所謂美人は殖えたが、美人の心を持っている人、美人の態度を持っている人は雨夜の星である。四十から上の女の人には心はとも角、ようすの中に美人を持っている人は多い。含羞と、優しさがある人である。「美人」というものは車道を突っ切るときでも、醜い横目を使い、泡を食った格好で駆け出すものではないし、銭湯では同性に羞恥を抱く者である。 『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 一九九二年


 森茉莉を読むと心が洗われるという。こういう場面を読むとそうなるのであろう。かつて近隣では、彼女が籠を下げてお買い物に行く姿がよく目撃された。「西洋乞食のようだった」と評する人もいる、しかし、彼女はいつでも心美人だった。感想を続けよう。

◎2017、7、10  K

 10代の頃からお茉莉さんに憧れついに下北沢に暮らすに至ったのになかなか覗えず……本日は仕事にかこつけてお邪魔できました。お話ありがとうございました。


 森茉莉ファンにとって当地は聖地であるようだ。作品を読んでいると具体的な町の名とかお店の名とかが出てくる。喫茶店風月堂とか、お菓子の青柳とか今は多くはなくなってしまっている。それでもファンは面影も求めてやってくる。
 どういう場合でもそうだが一人居れば、二人も三人もいる。森茉莉に憧れて居をここに
定めている人は約二十八名もいる、ひっそりとこっそりと来ているから分からない。
 その一人は、夜更けの十一時四十分頃に北沢川緑道のせせらぎ公園にやってくる。そうすると「かさばった新聞紙の包みを抱えた川辺の方へ歩いて行く、怪しげな女の影を見る」、これを認めて「やっぱり夜中に現れるのね、いひひひ」と言って満足するという。そんな噂がある。
 このKさん、面白いのは茉莉に「お」をつけている。きっとふだん友達と会話するときには使っているのだろう。

◎2017、7、28  KW

 真夏の太陽の真っ直ぐな光に目を細め、日傘の影の中を歩き、とうとうやってきた邪宗門さん、お気に入りの席を占領している私をいささか不機嫌なお顔をなさってそこへ立ってごらんになさっているかもしれません。あと少しマスターのお話を伺ったらおいとましますね、またここを訪ねる日を楽しみに
 

このKWさん、森茉莉の幻影を見ているのかもしれない。邪宗門に来るとあたかも彼女がそこにいるように感じるようだ。

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2017年10月27日

下北沢X物語(3389)―森茉莉感想ノートNO2―

DSCN0021(一)森茉莉ファンはしとやかである。ひっそりとこっそりと森茉莉が歩いた町を訪ねて全国からやってきている。境涯の作品のほとんどを当地で彼女は書いた。地の匂いを作品にちりばめている。「魔利が殆ど毎日のように歩く、淡島から下北沢の駅に先の北沢二丁目辺りの通りまでの繁華な街すじでは、魔利の素性を知っている人がかなり殖えて散在している」(『贅沢貧乏』)とか、「渋谷から若林の奥へだいぶ入ったところに、北沢という町があり、バス通りの裏側に、寺院の境内や樹立ちが右側に長く続いた小道がある」(『恋人たちの森』)などと書かれている。前者は下北沢南口の通りであり、後者は森厳寺わきの小道である。森茉莉ファンは下北沢や淡島の、彼女が通ったろう道を歩いては、その面影を偲んでいる。

 「森茉莉ノートを置くといいですよ」と提案して以来もう十年が経つ。ノートはNO2に入った。後発組として「境界の彼方ノート」ができた。こちらはどんどん増えている。しかし、「森茉莉ノート」は数に負けない、書かれた内容には知性や教養が感じられる。

 先日、森茉莉感想ノートNO1は、紹介した。今回はNO2を話題にするものである。

◎2017,3,25 K

 森茉莉さんの作品を読むと心が美しい気持ちに満たされます。いつか邪宗門に行きたいと思っていたので今日は大切な人とくることができて良かったです。紅茶とってもおいしかったです。素敵なお話と資料をありがとうございます。


 遠くからきたのだろう。常日頃森茉莉作品を愛読しているようだ。読むと心が洗われるというのはとてもいい。女性が社会人として生きていくときに辛いことが多くある。折に森茉莉を取り出して読むと、心が豊かになる。ストレスの発散ともなる。この彼女は恋人を誘ってきていたようだ。

◎2017,4,1 F

 しばらく休業なさっていたとお聞きし心配しましたが、こうして3度目来ることができたことを大変嬉しく思います。昔のよき時代を残していらっしゃる邪宗門が永く続くよう祈っています。
 次回は可能であれば九月に上京する予定ですので4度目の来訪を果たすことができればと熱望しております。
 私事で悩んでおりましたが、ここに来たい、もっと来たいと再度強く感じた次第です。それまでの間、私のたっての希望が叶いますように。


 Fさんは地方在住で、上京する折に店に来ているようだ。人間生きていれば悩みは多い。地方暮らしは息苦しくて、時に上京してストレスを解消するという人もいる。もしかしてそんな人かもしれない。

◎2017、4、24 M

 高校時代に『恋人たちの森』を読んで以来の大ファンです。森茉莉に影響されて一年間仏蘭西に留学するほどでしたがなかなか邪宗門に来ることができず、今日は思い切って金沢からやって参りました。おいしいあんみつ珈琲と紅茶を楽しみながら森茉莉世界の時間にタイムスリップしたかのような気分になりました。(この後フランス語で感想を記す)


 森茉莉作品に影響されて仏蘭西に留学と。良家のお嬢さんなのかな。

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2017年10月26日

下北沢X物語(3388)―会報第136号:北沢川文化遺産保存の会〜

DSCN0278
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第136号
           2017年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、帝国音楽学校の思い出

 林節子さんはかつて代田二丁目に住んでおられた。ここにあった帝国音楽学校は昭和二十年五月の山手空襲で焼けてしまった。今年、この帝音のことを研究会で取り上げて以来。少しずつではあるが学校の情報が寄せられるようになった。この節子さんは、帝音のことを覚えておられるようなので、後世に残る大事なことだからぜひその思い出せる限りの記憶を書いてほしいと彼女にお願いしていた。その返事を頂いたのでここに書き記すことにしたい。

 記憶に残る帝音のこと            林 節子

 御無沙汰いたしております。会報はいつも興味深く拝見しております。先生の情熱により、北沢代沢代田の知られざる文化の源が掘り起こされ、その貴重なお仕事に感銘いたしております。
 会報134号に掲載されておりました「帝國音楽学校」は私が代沢小学校3、4年の頃、お習字の教室に通う途中にありました。小田急線代田の駅の今は無き踏切を渡り最初の路地を右折したところに木造二階建て、横に長い四角の校舎がありました。
(注:この踏切は世田谷代田一号踏切で、古道堀之内道と重なる道である)
 一階も二階も窓が多くあり、いつも管楽器、弦楽器、ソプラノの発声練習(男性の声は聞いた覚えがありません)各種の楽器が勝手に練習するので異様な音となり外に大きく響いておりました。私は玄関前に腰掛け、お習字をさぼって聞いて居て夕方に帰宅し母に叱られたことも思いだします。
 その校舎と音は今も目にも耳にも残っています。現在ならすぐに近所から苦情がくることでしょう。帝音の研究をしていらっしゃる方がおられることに驚きました。その方の講演があったそうですが、分かっていればお話を伺いたかったと残念に思います。
 私の乏しい記憶では先生のお役に立てる事柄もなく申し訳ございません。
 余談ですが、マリンバ奏者の安倍圭子さんが代田出身だとは全く存じませんでした。彼女のお嬢様と私の息子は弦巻小で同級生でした。会報に登場する川田様は、川田正子さんのご家族でいらっしゃいますか。鶴ヶ丘橋の坂を登っていってしばらく進むと左手に川田正子さんのお家がありました。
(注:川田明義さんに電話で確かめたところ政子さんはいとこだった。62号鉄塔のすぐ東だったと。名前表記は政子だったと。しかし、これは別人で林さんは歌手の川田正子さんのことを言っておられることに後で気づいたことだ))
 なお、その道を進むと古関裕而のお宅、右折すると明本京静の広いお庭があり、よく若者が大勢集まって遊んでいました。そのすぐ近くに従兄弟が居りまして、私も明本家の集まりに連れていかれたこともありました。その従兄弟は録音技師となり外国の有名な演奏家が来日すると録音を担当していました。これも帝音の影響があるかもしれません。実は私も声楽を志し、若かりし時、藤原歌劇団に所属しその他大勢の仲間入りをしておりました。これもやはり帝音の影響なのかもしれません。
 芸大出身のシャンソン歌手岸洋子さんは代田駅近くのアパートに住んでいたことがありました。先生のご期待にお応えできる記憶もなく、お役に立てず申し訳ございません。

◎林節子さんの手紙で、お役に立てたかと言われるが貴重な情報である。帝音から流れてくる音楽に、お習字の塾をサボってまで行っていたというのは興味深いことである。
 研究家の久保絵里麻さんは、この話を聞いて次のような感想を寄せられた。、

 代田に住んでおられた方が、帝音を機に声楽を志したとのこと、嬉しいお話ですね。
単なる印象ですが、残っているのは声楽家の情報が比較的多いような気がします。
 講演会で話しましたが、帝音はもともと「弦楽器科」を売りにしていたのですが、その後「楽劇(オペラ)科」設置の動きがあり、声楽教育に力を入れている時期があったので、
その影響かと思います。
 

 このことで思い出されるのは、ついこの間、世田谷代田駅前の茶舗佳仙さんに聞いた。
「子供の頃、帝音のそばに行くと、二階建ての校舎から『あ、あ、あ、あ、あ』という発声練習をしている声が聞こえていた。それはよく覚えている」と宇田川さん。

2、下北沢:街の記録アルバム(歴史写真)

 戦後の下北沢の街を驚くほど鮮やかに写し撮った人が居る。それはDr. Austin 鳥類学者のオースティン博士である。鮮明なカラー画像は戦後の街の様子をリアルに映し出している。そのときに漂っていた空気感まで写し撮っていて、息を呑むほどのものだ。
 下北沢は戦災で焼けなかった。この事実からすると戦前からの街がそのまま写真に写っているといってよい。この写真を活用して「街の記録アルバム」を作りたいと考えていた。 これには二つの関門があった。まずは予算の獲得だ。それで、世田谷区の地域の絆予算にこの企画をを出して応募した。この審査はパスして満額の助成を受けられることになった。次が、版権の承諾である。Dr. Austi写真を使ってアルバムを作るには、版権の許諾を得なくてはならない。これについては英訳での手紙文作り、これを関係当局に出すにあたっての英文の資料づくり、これらが大変であった。多く会員の協力があった、とくにきむらたかしさんの助力もあって、アメリカフロリダ州立大学からの許可を得ることができた。
 もう一つ、アルバムを作るに当たって考えたことがある。下北沢に生まれ育った故飯田勝さんが街の古い佇まいを絵にしている。趣のある絵である。このことからこれを使えないかと飯田家に相談したところ許諾していただいた。その総枚数が千枚ほどある。下北沢を飯田勝さんは何枚かは描いておられる。しかし、それが何枚あるか調べてみないと分からない。今、息子さんの飯田淳さんに選んでいただいているところだ。
 Dr. Austinさん写真、そして飯田勝さん絵画、これによる「街の記憶アルバム」ができれば、歴史資料としても貴重なものになるに違いない。
 イメージとしては、通常の文化地図の倍の大きさで、A2四つ折りを予定。これにカラー写真を載せることにしている。
 発行部数は、5000枚、無料で配布する。今年度予算を使って作成する。一応、めどとしているのは2018年3月31日である。桜祭りで配布できるように……。

3、北沢川文化遺産保存の会忘年会 

  時 12月2日(土) 17時30分〜21:30分ぐらい
  場所 下北沢タウンホール二階集会室
会費 3000円 信濃屋特製「と号第三十一飛行隊弁当」

 
 文化に関心ある人々が集まって、話したり、食べたり、飲んだりするという会である。何かをしなくてはいけないものではない、人人とが集まって一時を楽しむためのものです。
資格は不要、誰でも参加出来る。文化交流の場、情報交換の場、人が集まって一時を楽しむ、これを狙いとしている。誘い合って参加して。
  ・恒例のお土産一品持参は義務ではないが、会を盛り上げるために継続する。
  ・恒例 オークション 家庭で要らなくなったもの 売り上げは会の運営費に
  ・出し物 再び出演「ロス・コンパニェロス」の美声が帰ってくる!

 ◎ 公共施設を使っての低廉で会を開いている。ゴミは残さないようにする。
   前回はこれでトラブルがあった。食べたもの、弁当ガラの持ち帰りにご協力ください。また、できたらビンカン類の持ち帰りにも協力を(私はリュックを持参します)
   弁当の発注がありますので申し込みをしてください。

 締め切り11月29日(水)
   米澤邦頼に申し込む 電話番号 090−3501−7278
 

4、「くるりしもきたざわ」下北沢街歩き 

 主催:世田谷観光公社主催 協力:北沢川文化遺産保存の会
昨年、世田谷観光コース コンクールで最優秀賞に輝いたもの(木村圭子さん)
 実施期日:12月9日(土) 募集人員は20名
 ◎募集要項は、11月15日に広報「せたがや」に掲載、またチラシも作られるとのこと。
 
5、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々


第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
 案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
 新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会と連携関係にある団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲10月21日、北沢小学校80周年記念の祝賀会式典が開かれた。北小が今年度でなくなる、会には同窓生が大勢参加するので文化地図を配りたいと。それで百部寄贈した。
▲信州特攻隊四部作、完結編。『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡−さまよえる特攻隊』11月27日に「えにし書房」から出版される。2160円。
▲韓国のチョ・グンハ氏は著名な映画監督だ、帝音の声楽出身であるとのこと彼のファミリーを中心としたドキュメンタリー映画を撮りたいとのこと、北沢川文化遺産保存の会として協力をすることになった。11月5日(日)午後2時から邪宗門で打ち合わせ。
▲十二年の資料集積から他からのコンタクトが増えた。運営が厳しくなってきている。別宮通孝さんから集中している仕事を振り分けるような工夫をとの提案。大賛成だ。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は納涼会のお弁当、今回は「と号第三十一号弁当」と名付ける。



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2017年10月24日

下北沢X物語(3387)―狭斜の巷を歩く:濹東奇譚―

DSCN0009(一)玉の井は、旧呼称は向島区寺島町である。向島という地名が興深い、諸説あるようだが隅田川右岸に立っての「川向こうの島」というのが自然、、お江戸から見て隅田川の向こうだ。
 芥川龍之介の、「都会で――或は千九百十六年の東京――」にはこうある。

十 夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。
――「羊羹のやうに流れてゐる。」


 確かに!羊羹色をした一本の川は、間違いなくこちらとあちらとを分けている。都鄙境ラインである。文学は羊羹色を越えた向こうにある。この川を挟んだ間合いこそが文学を生む。遠くに都会の喧噪を聞きながら書く、この立ち位置は重要だ。

古池や蛙飛びこむ水の音

 誰もが知っている芭蕉の名句だ、彼が蕉風俳諧を確立した句である。都心日本橋から川向こうの深川に移ってから得た句である。句中の切れ字、「や」が素晴らしい。古くから存在する池への感銘だ。この静寂を際立たせているのは川を隔てた向こうの喧噪、例えば寺の鐘の微かな余韻などである。遠くに都心が意識される、それがあっての静けさである。都から一歩離れた場に身を置くことで人や社会が見えてくる。

 「濹東奇譚」を読んでいくと面白い記述があった。その立ち位置についてだ。

 わたくしは東京市中、古来名勝の地にして、震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った、其状況を描写したいが為に、種田先生の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草のはずれ。さなくば、それに接した旧郡部の陋巷に持って行くことにした。
DSCN0062
 種田先生は、書きかけの小説の主人公だ。その彼の身をどこに位置させたらよいかということを述べている。「濹東奇譚」の主人公の立ち位置と重なる問題だ。「震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った」場に深い興味を感じていたということだ。田圃だったところに忽然と街ができてそれが遊郭となる。ついこの間まで蛙の声しか聞こえなかったところだ、そこにつぎつぎとバラックが建ち、紅色の燈が点いてそこから嬌声が聞こえてくる。

 震災はどうしようもない。が、天災がもたらした破壊の後に新しい色街ができてそこに新しい人間模様が編まれる、それが物語である。これが生まれるところ、それは、「旧郡部の陋巷」だ、ろうこうとは、狭くむさくるしい町ということだ。辺境や場末のことを言う。下町、そして山の手にこれはある。
 荷風の立ち位置は前者、利一のそれは後者だ。色っぽいところと知的なところの都鄙境だ。
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2017年10月23日

下北沢X物語(3386)―狭斜の巷を歩く:玉ノ井、鳩の街―

04横光利一終焉の家(一)沢の文学は井の文学には叶わない。狭斜の巷を歩いて実感した。沢とは山の手北沢であり、井というのは下町玉ノ井である。武蔵野の緑と色街の紅、目の保養といった場合、後者が勝る、ここに動物という人間の本質が潜む。

 狭斜の巷を松山信洋さんの案内で歩いた。帰途、『今回の街歩きは忘れられないものになった』、一人の女性がそう語った。その理由は何か、1、雨がずっと降っていて情緒があった? 2、下町という街の雰囲気が心に残ったから? 3、色街歩きはより深く郷愁を誘うから? 思いを巡らせてみたが本当のところは分からない。
DSCN0004
 玉ノ井は永井荷風『濹東奇譚』の舞台である。訪れるのは初めてだ。深い興味があった。
下北沢文士町を調べているときに中山義秀の『台上の月』に出会った。この表題は、横光利一の「蟻 台上に餓えて月高し」から来ている。義秀は横光利一を深く慕っていた。彼はこう述べている。  
 
 横光は門を閉じて客との面会を謝絶し、この作品に心血を注いだらしいが、「濹東奇譚」の面白さに太刀打ちできなかった。「濹東奇譚」は荷風の年譜によると、昭和十一年五月頃より足繁く濹東玉の井の売春宿にかよい、九月初めより稿をおこして、十月下旬に書き上げたとある。
『台上の月』 新潮社 昭和三十八年


 横光利一は「旅愁」、永井荷風は「濹東奇譚」、当時の新聞小説の一騎打ちだった。
 「門を閉じ」は、北沢の丘の雨過山房である。日頃は来客が多く、玄関の石畳を多くの人が足音を立てて訪れた。その響きで訪問者の用件が分かるという石である。我らが北沢川緑道に建てた文学碑に用いているものだ。この有名な当家の石畳を渡ってくる人が引きも切らずやってきていた。ところが、「旅愁」を執筆するに当たって、門を閉じ書斎に籠もった。彼はストレスがたまると大声を出すというようだが、きっと何度か吼えたのではないだろうか。

 一方の荷風は色街近辺を歩いている。「濹東奇譚」冒頭部、「檀那、御紹介しましょう。いかがです」とポン引きに声を掛けられる。読み手は想像する、「どんな女を紹介したか?」となる。やはり色気が勝つ。「東洋と西洋の対決」といったような「旅愁」の主題には色をなさない。何と言っても人間は動物だ、色気と食い気がどうしても勝る。

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2017年10月21日

下北沢X物語(3385)―Dr. Austin's photo No759を読み解く―

DSCN0076(一)時代時代には、固有の臭い、音、空気感がある。説明しようとしても説明しきれないものだ。が、映像はリアルだ、戦後の下北沢の街を鮮明に写し出している。なかんずく興味を引く一枚がある、これは759番という整理番号が振られている。現在の本通り、すずらん通りを撮った一枚だ。その時代の空気感が肌で感じられるものだ。戦後に撮ったものだが、戦前、戦中と変わらないということだ。唯一、戦後を表しているのは通行人である。服装が垢抜けている。しかし、町並みはそのままだ。この街は戦火を潜り抜けた、焼けなかった街だ。昔通りの街のたたずまいが見事に活写されている。

 まず道だ、未舗装の道だが堅くしまっている。ゆるやかな左カーブを描いている。この道鎌倉通りから下ってくる道で細流に沿っている。屈曲は小川に沿っている。この時代通っていた車は馬車や牛車だ。汚穢を積んだ車も通った。通過した跡は糞尿の臭いが漂った。 次に音だ、音がよく響いた、下駄の音、馬の蹄の音、人力車が通るときは、「ひょぃさ、ひょいさ」と引き手はかけ声を掛けた。
 昭和十六年来日した六名のヒトラー・ユーゲントの隊員がここに軍靴をカッカッカッと響かせて通っていった。靴の音は一際響いた。彼らはこのまま西に向かい、成徳学園裏の店員道場の視察をした。
 
 街の佇まいの中で電信柱は見逃せない。これは設置されたときから同じ場所に建っている。架線の張り具合もそう変わらない。
「電柱をみればどこだかは分かる。これだけは変わらないからね」
 長年、保線に関わってきた石川寿夫さんは電柱の張り具合を見て場所も特定できた。
 759番の場合、手前の電柱に描かれた広告は一際目立つ。地は真っ白、ここに大きな字で「泌尿器科」と描かれている。その下は場所だがよく読めない。しかし、最後の文字「ウラ」は分かる。これがミソだ。「人に分からないように路地裏にありますよ」といいうことだ。

 戦後この辺り一帯に接収家屋が多くあった。米兵が多くいた。この彼らを狙って、「パンパンガール」が集まってきた。性病の蔓延ということもあって泌尿器科は流行った。その名残がこの宣伝広告に読み取れる。
 
◎本日、10月21日、雨だったが「狭斜の巷を歩く」は、実施した、「一生の思い出になるでしょう」と参加者の弁だ。雨の中の下町散策面白かった。案内は、松山信洋さんだった。「品川色街を歩くだったらやってもいい」と本人の弁だ。続きを読む

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2017年10月20日

下北沢X物語(3384)―Dr. Austin's photo&飯田勝's painting―

DSCN0009
(一)「東京を世界で一番の都市に」、街角でこの標語に出会う。富める都市は一層の繁栄をめざす、一方地方は都会に人を吸い取られて衰退する。この格差が広がりつつある。都会はどんどん変化していく。そら恐ろしいほどだ、常々荏原を歩いている、折に路地の東に大きな変化を見いだすことがある。ずっと向こうの風景が塞がれている。それは高層ビルである。ついこの間も「あれあんなところにビルってあったっけ!」と思った、それは自分だけでなかった邪宗門であった若者も言っていた。分かったことは渋谷の高層ビルの一つだ、東横線の跡地に高層ビルが林立するようで、その一つの骨格ができあがって驚いたのだった。渋谷には巨大な壁ができるらしい。

 荏原を歩いていて忽然と空き地に出会う、そこに何があったのか思い出せない。しばらくするとそこにマンションが建って、新住民が普通に出入りする。日常的な光景だ。我々はよくその跡を訪ねる。が、ほとんどはその痕跡は残っていない。我々は十年間に文化地図を創り上げてきた。改版に改版を重ねて今は七版となった。これには消えたものが記録されている。記号や言葉での記録である。

 記号や言葉は想像力を要する。が、写真や絵というものはリアルである。昨年、我々の仲間内で話題になったのがDr. Austin's photoである。戦後の下北沢を写し撮った写真である。非常にインパクトのあるものだ。このことから昨年、12月、写真の跡をだどるツアーを行った。

 「下北沢の終戦直後(1946~1950)のカラー写真跡を歩く」 キュレーター きむらたかし

 このときに資料が配られ、Dr. Austin's photoについてはこう開設されている。

Dr.Austin 撮影写真について
 1903 年にニューヨーク州で生まれ、ハーヴァード大学で博士号を受けた、アメリカの鳥類学者Dr. Oliver L. Austin jr.は、アメリカ陸軍の推挙により、1946 年、連合軍占領下の日本に赴任、日本国内の鳥類の調査のかたわら日本の鳥類学者とも交流を深めている。
 同Dr. は、日本各地の、戦後まもなくの時期の空気感や臭いまでも伝える情景を捉えた鮮明なカラー映像を遺し、現在、それらは米国フロリダ州立大学のWeb で公開されている(http://digital-collections.ww2.fsu.edu/omeka/ )。
 それらの中で、当会にとって特に注目されるのは、Dr.Austin が、代々木大山町にあった連合軍接収の官舎(#665)に住んでいた関係からか、数多く撮影されている当時の下北沢の街の、唯一1枚を除いては「まるで戦争などなかったように見える」日常的な風景の写真群である。


 実際に、写真の現場を歩いて、我々はその変わりように息を呑んだものだ。
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2017年10月18日

下北沢X物語(3383)―激変の91年を代田の古老が語る―

DSCN0053(一)代田の古老、秋元一男さんは自分が生きてこられた91年を語った。生身の人間が肉声で語る言葉はリアルだ。この間に時代は恐ろしい程の変化を遂げた。激変、激動である。当地一帯には旧石器、縄文、弥生の遺跡がある。縄文は一万年、大正、昭和、平成を生きた秋元さん、最も烈しい変化がたったこの91年に起こった。

1、屈曲のある地形がフラットに(削平)

昭和十年代、一帯の地形は山あり谷あり、屈曲があった。縄文時代以来の地形でもあった。それが急激な都市開発によって削られフラットになってしまった。山の名だけが残っている出頭山、三次郎山など。道路開削、線路敷設、住宅開発によってだ。
・出頭山では狐に化かされた。ダイダラボッチの跡があった、随所に竹藪があって竹の子を作っていた。

2、交通機関の変化

○街道筋、甲州街道、滝坂道、世田谷通りなど
 ・汚穢を運ぶ牛車・馬車に満ちていた。行きは野菜を市場まで運び、帰りは糞小便を運んだ。街道筋には列をなしてこれが進んでいた。至るところに糞が落ちていた。
◎秋元さんは詳しくは語られなかったが、「そこら辺りの原には兵隊屋敷から大勢の連中が訓練にきていた」と。世田谷通りに面した若林に住んでいた北原白秋

野砲兵とおりしがとどろきやまずいずべの霜に闌(ふ)けにつつあらむ
タンクの無限軌道の地響きなり一台が行きてまた続き来る
歌集『白南風』 世田ヶ谷風塵抄


世田ヶ谷通りを砲車が頻繁に通った、六頭立てだ。また、戦車がキャタピラの音を高くして通った。
 ・道路は舗装されていませんであまり車は通らない。通ったとしてもそれはみな外国製だった。フォードとかシボレー
○鉄道交通の変化
 ・小田急が昭和二年に開通し、震災で被害を受けた人が東から越してきた。
 ・帝都電鉄が昭和八年に開通して、大きく変わった。(切り通し)

3,人口の増加 
○秋元さんは守山小に通った。昭和七年四月の開校だ。小田急の開通により沿線人口が増えたからだ。

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2017年10月17日

下北沢X物語(3382)―代田の古老が語る原風景―

DSCN0048(一)御年九十一歳の秋元一男さんの話はまるで夢物語のようだった。昭和十年代の代田が開け始めたばかりの風景である。地形には屈曲があった。山には膨らみがあり、沢には凹みがあった。至る所に自然があった、野山を駆け巡って遊び呆けていたという。「六次郎山ではサイカチを採ったり、果樹をちょっと失敬して食べたり、また沢には小川が流れていて小魚をすくったり、ヤンマを捕ったりしていた。一帯には何にもなくて、怖かった。よくお使いに行かされた。あの出頭山のところは怖かった。左に杉林があって右にお地蔵さんがあった、小暗くて通るのが恐ろしかった」と「今みたいな住宅地はなくて目立つのは農家だった、みんな平屋だった」「子供の頃は下北沢には店はなくて、中原商店街の方が賑やかで、あちらからはこちらの方に買い物に来ていた」「三万坪のあった芹沢家のまもりやま公園が箱根土地に売り渡されて、それから分譲住宅ができてやっと下北沢にも店ができてきた」「あの頃は女の人は大変だった。働くところがないから多くは女中奉公に出るか、紡績の工女になるかだったね。それでも電話が普及してきて電話交換手になる人が出て来た。何しろ農家は子だくさんだったから大変だった……」

 先だって代田図書館講演会が行われた。

 タイトル、「昭和10年代20年代の代田」
 期日 10月14日(土) 13:30〜15:00
 場所 代田区民センター第3会議室
 定員:30名 
講師
  秋元一男氏 ふるさと世田谷を語る。代田編話者・中原出身
  秋元正美氏 代田北町会会長          中原出身
  柳下隆氏  美土代会代表幹事         本村出身


 当日盛況であった。会場が一杯になるほどだった。まずは古老の話、秋元さん、とても元気だ、力一杯に話された。昔のことを面白おかしく話されて会場は沸き立った。

 昭和八年(1933)の夏に帝都線が開通した。そのときただで乗せてくれた。終点が井の頭公園だったので公園まで行った。だいたいあの頃は、電車というものはあっても乗らない、電車賃がもったいないからだ。どこへ行くにも歩いた、渋谷のデパートにエレベーターができたというので渋谷へは歩いていった。もう年老いたハチ公がいた。
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2017年10月15日

下北沢X物語(3381)―文化地図は都市編年史―

CCI20171015 嬉しいことだ、我らが創った地図が重宝されている。昨日、10月14日のことだ。
1、代田図書館講演会「昭和10年代20年代の代田」が開かれた。配布された資料の中に文化地図が組み込まれていた。旧版だったので最新七版を全員に配った。素晴らしいと褒められた。
2、「この地図をもとにして講演会をやってもらえませんか」と図書館館長から。
3、北沢小学校同窓会役員から。「10月21日の土曜日、北沢小学校80周年記念の祝賀会式典がございます。北小が今年度でなくなるので、同窓生が80人ほど遠方からも参加します。その時、同窓生に文化地図をお配りしたいのですが、100部ほどいただけないでしょうか」との連絡があった。早速に手配をした。


(一)「月日は百代の過客」、過ぎ去り行く時間もまた旅人だ、「文化地図も百代の過客」ということは思いもしなかった。が、改版に改版を重ねてきて分かったことはこれが街全体のクロニクル、編年史だった。

 地歩という言葉がある、人が占めている位置、ポジションである。地歩を固めて生きるということは大事だ。このことが時間軸の基礎となる、その地点に立って過去を振り返り、そして未来を見据える。しかし、こういう考えも時間が経過してみないと分からない。

 私たちは、地図を作ってきた。「下北沢文士町文化地図」だ。初版発行は、2006年12月25日だ。今現在は、第七版、2017年3月31日発行となっている。この間十一年の月日が流れている。これらを並べてみて気づくことは、一枚一枚が地歩だったことだ。年々記録すべき事象が増えている。

 人間、当初物事を行うときはそれがどういう結果をもたらすか考えないものである。行って気づくことはある。文化地図の発行は「発信」であったことだ。初版は、見てみると文士旧居としたものの数が、30弱だ。赤丸がまばらに存在する。時間経過を経てこれがどんどん増えていくことになる。初版を見た人が、「こういう人もここに住んでいたよ」と教えてくれる。「こういう施設もあったよ」と。
DSCN0047
 人が伝えてくれる情報は貴重である。当初の情報は記録情報である。例えば萩原朔太郎である。年譜にはこうある。

昭和六年(一九三一)九月 府下世田谷町下北沢新屋敷一00八番地に市ヶ谷から転居。
昭和八年(一九三三)二月ごろ、世田谷区代田一丁目六三五番地の二に自分で設計した家が完成し、一家で移る。


実はこの旧番地というのがくせ者だ。行政の窓口に行くと旧番地が、現在の新番地ではどこに当たるかは教えてくれる。これで場所は絞り込める。ところが、旧番地は範囲が広い、その地点を絞り込んでいくことはかなり難しい。

 経験を通して分かったことは決め手は口コミだ。新屋敷一00八番地などは謎だった。が、一番街の大月文江おばあちゃんが聞き込みで突き止めてくれた。ここから段々に分かってくる。朔太郎旧居に住んでいた人が家の間取りを情報として教えてくれた。また代田の終焉の地に辿り着いとき、「それが分かってどんな意味があるの?」と家人から言われたことを思い出す。
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2017年10月14日

下北沢X物語(3380)―笹塚線音楽詩歌文化ライン考―

DSCN0052
(一)文化探訪を続けてきて認識深めたことは多くある。今まとめていることでは「刻み」である。近代は刻むことから始まった。改めてこれを振り返り、一つ一つを取り出してみると深い感慨に襲われる。自身は今線路の「刻み」を丹念に調べている。時代によってことなるが後年規格化されてこれが25メートルとなった。ここを走るときに車輪はこれを刻む。言えばカダンスである、一定の間を置いてこれは響いた。実はこれが人々の、日本人の精神史に深く刻みつけられていた。それを文化史的に解明しようとするものだ。

 これは単に鉄道だけではない。鉄塔もまた刻みである。今関心を持っているのは笹塚線である。これは駒沢線(6本)と笹塚線(6本)の併架区間である。鉄塔号数でいえば52号(東急世田谷線北側)から74号まで(京王線南側)である。
先だって、現役時代送電線に関わっていた石川寿男に話を聞いた。駒沢線が代田橋駅から急に六本線が増えるのは京王線の高圧線から電気を送り込んだからだという。

 戦後、電力事業は東京電力にすべて集約された。その前は各私鉄は電力を供給していた。京王線もそうである。駒沢線の鉄塔建造年代は、昭和元年だ。ちょうどこの年に玉電の下高井戸線が開通する。このことから高井戸線に京王側から電気を送り込んだと推察できる。

 笹塚線の場合、一つには幅の刻みということはある。が、特徴的なことは高さである。十二本を併架しているので高さがある。

「今は建物に埋もれてしまっていますけど、昔はとても高く見えたものですよね」
 私は、石川寿男さんに聞いた。
「それはそうだ」
 当たり前のことを言わんばかりの返答だった。
 笹塚線の高さの刻みが景観を作った。創っていた。このことは誰も顧慮しない。

「現駒沢線は昭和初期に建設されたのです。玉電支線の高井戸線に電気を供給するために。完成した当初は壮観だったと思います。見上げるほどの高さの鉄塔がずらりと並んでいる。特に61号は丘上にあって一際目立ちます。萩原葉子は自室からよく見えました。見上げる位置にありましたから、『あの高い鉄塔』になります。『あの高い鉄塔に登って感電死するのが自分の運命だった……』、説得力があります。」

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2017年10月12日

下北沢X物語(3379)―駒沢線NO1鉄塔は池上線に―

DSCN0038(一)池上線近辺は、二様の「せんぞく」入り乱れている。千束と洗足だ。元来からあるのは「千束」だ、これがなぜ「洗足」になったか。大田区史編纂室編集の『史話』第40号では地域の話について座談会を開いている。ここにこの問題がでてくる。

・岸田「洗足といういう文字が私どもの目に触れたのは、池上線の洗足池をつくったときが初めてです。『洗足』という文字が使われて、私どもは奇異な感じをもったんですよ。何であんな文字を使うのかと」

 当地での「せんぞく」の表記はみな「千束」であった。それが池上線の開通によって忽然と「洗足」になってしまったという。この話はさらに続く。

 (「洗足」)を有名にしたのは、目蒲線電車大正十二年に初めて目黒と蒲田へ線路を引っ張ったときです。この郊外電車の唯一のお客さんは日曜、祭日に東京市内から散策に来る客で、それを乗せるほかは乗り手はいないんです。夜になれば狐か狸が乗っていたという話まであるんだから。(笑)
 客がいない。それで洗足池散策の客を引っ張るために、この日蓮足洗いの伝説をPRしたわけです。それで急に洗足池とい字が公文書になっちゃった。

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 大正末年から昭和にかけて鉄道敷設ブームが起きて各社が路線を申請した。そして認可を受けて軌道を敷設した。ところが人口が少ない。客が乗らない。そこで何とか人を呼び込もうとして伝説を作った。

「洗足池というのは皆さんご存じですか、あの日蓮様がこの池でおみ足を洗われたのですよ。だから洗足池、景色も綺麗だし、物見遊山にもってこいですよ」と


 洗足池は行楽客目当てに伝説を作った。他にもある、池月駅だ。これは今の北千束駅のことである。

・岸田 「それで大井町線の電車の駅をつくったとき、もう千束はあるし、駅名を何としようかと。それで宇治川の戦陣の池月の齣の発祥伝説というのがわずかに村に伝わっていたので、池月という駅名で出発したんです。でも何年かたって国鉄で切り通し切符を売ることになったら、東北にも池月の駅名があるとわかったのですよ。それで同じものはだめだと。この駅名は惜しいことに二年か三年で消えてしまった」
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2017年10月11日

下北沢X物語(3378)―電車が悲鳴、超満員池上線―

CCI20171011 (2)(一)「こりゃ戦時経験の再現だわ、池上線がこんな込むなんて、あのとき以来だからな」
 三両編成電車は、どれも超満員、子どもは泣き叫ぶ、揺れて人垣が雪崩れる。電車がきしむ。日頃は閑散としている線だがこの日ばかりは生き返った。ぎゅう詰めになって昔を思い出した人がいた。
「しかし、戦中戦後の混雑はこんなもんじゃあなかった。みんな窓から入ってくるんだからな……」

 10月9日は、「開通90周年記念イベント」池上線丸一日乗り放題だった。配られたパンフには「池上線にはいわゆる『観光名所』はほとんどありません。でも、たくさんの『生活名所』があります」とあった。池上線は荏原都市の中では極めて珍しい存在だ。南部には京浜急行、池上線を挟んで北部には東急東横線、京急と東急の二幹線は動脈路線で特急、急行が入り乱れて発着している。池上線だけが忘れ去られたように蒲田と五反田間を三両編成でのんびりと走っている。
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 池上線沿線を活性化させる「生活名所」プロジェクトの一環として今回の企画されたようだ。「少子高齢化が進み、東急沿線の中でも高い高齢化率が課題となっている地域」を走っているのが池上線だ。洗足池、石川台、雪が谷大塚は自身の散歩コースに入っている。石川台の希望ヶ丘商店街はよく通る、しかし、シャッターを下ろした店も多い。一頃に比べてだいぶ寂しくなった。高齢化が進んでいるからだ。

 池上線は「斜陽」線だ、太宰治の「斜陽」にも繋がっていく。書き出しは、「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、『あ』と幽かな叫び声をお挙げになった」ではじまる。味噌汁ではなくスープ、母に敬語を使う、ハイソな家庭が想像される。この小説は太宰治の恋人大田静子の日記をもとに書かれたものだ。この彼女は、洗足池のそばに住んでいた。隣には正宗白鳥の洋館が建っていた。この洗足池は早くから開かれた地帯である。

 明治四十年に発表された江見水蔭の小説『蛇窪の踏切』は、驚いたことに洗足小池から始まる。この小説の主人公は、「名は篠原露代と云つて、大池に別荘を持つ中岡某の夫人玲子の妹に当たる」と説明される。露代は洗足池に別荘住まいしている姉を訪ねて、助力を申し出る、が、それはあっさりと退けられる。露代は結核を患っていた。

 既に明治の末から洗足池周辺に別荘ができハイソな階級が住んでいた。太田静子の家もこの近辺にあった。彼女の日記をもとに「斜陽」は書かれた。

 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。


 生活の一端を描いているが、洗足池近辺の高級住宅地の一端のように思える。
 早くに開けたゆえにそれだけに街は古い。うまく新陳代謝をしなかったことで一帯は老齢化が進んでいる。

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2017年10月09日

下北沢X物語(3377)―笹塚線塔景観と文化創造:駒沢線―

DSCN0028(一)鉄塔風景、塔の高さと景観は結びついている。高ければ高いほど際立つ。自伝小説『蕁麻の家』で萩原葉子は、「私は、竹の子を見ていた眼を今度は外に向けると、すぐ目の前に高圧線の高い鉄塔が見えた」と記している。代田に新築する家の予定地を父朔太郎と検分にきた。そのときの彼女の印象である。この鉄塔は、駒沢線61号鉄塔である。我らが「世田谷区地域風景資産」に申請して認められたものだ。丘上にそびえ建つ鉄塔は28メートルである。銀色にすっくとそびえ建つこれは一際目につくものだ。やがて彼女は「あの高い鉄塔に登り、感電死する運命のような気がした」、そびえ建つ鉄塔は不安の象徴だった。この場合、彼女にも登れるという感覚があったことは大事だ。この塔素人でも容易に登れた。なぜか、塔内ばしごがついているからである。

「ああいうふうに階段があるところは立ち上げ線があるという証拠だね」
 長年送電線に関わってきた石川寿男さんは言う。
「立ち上げ線っていうのですか?」
「そう立ち上げ線っていうんだ」
 立ち上げというのは地下から高圧線が立ち上がるという意味だ。
「なるほどね、鉄塔保守をする場合、地上線と地下線とがあって石川さんは上の担当だったのですね」と私。
「地上と地下では見方が違うのですね」
 これは石川さんところに一緒に話を聞きにいった米澤邦頼さん。
「うんうん、地下線の人だったら立ち下げ線というのかもしれないね」
「今はなくなったけどね、昔は立ち上げ線があった。航研線といっていた」
 つまり鉄塔61号から分岐した地下ケーブルが東大の航空研に行っていたということだ。61号から分岐した線は、研究所の大型風洞などを動かしていた。零式艦上戦闘機など名だたる戦闘機の風洞実験なども行っていた。
DSCN0157
「今は、代田線と呼んでいるようだが、私らが勤めていたときは笹塚線と言っていた」
 石川さんは和田堀変電所に勤めていたようだ。強電に詳しい。
「どうして笹塚線は代田橋のところで終わるのですか?」
「あれは京王線から流れてきた電気を受けていたんだ」
「なるほどそうだったんですか」
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2017年10月08日

下北沢X物語(3376)―音丸・品川・京浜急行―

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(一)歌謡曲は、その時代時代の空気の中に生きていた。かつて昭和十年代、街角で、ラジオで「船頭可愛いや」がどこに行っても流れていた。「夢も濡れましょ 汐風夜風」と。「音丸は出だしからいいよなあ、声に惚れるよ」と人々は賞賛した。国民の情感を強く刺激する抒情性があって、「日本最高の歌謡曲」と評するものもいた。が、歌も流行れば、廃る。世の習いだ。歌手音丸は、世田谷代田で亡くなり、品川に葬られていた。品川宿、天妙国寺である。一世を風靡した「船頭可愛いや」歌碑が彼女の墓の脇に
ひっそりとあった。石は帆掛け船の帆を模したもので、これに彼女自筆のものを彫ったという。手を合わせていると、後方で警笛、振り返ると墓の裏手の高架上を京浜急行の電車が下っていた。駒沢線と音丸、自分の脳裏で線と歌手とが閃いて繋がった。もともと駒沢線はこの京浜急行に電力を供給するために敷設された。終点が六郷変電所である。音丸と駒沢線と京浜電車。


「音丸さんはなぜこのお寺に葬られたのでしょう?」
「それはわかりません。何しろ古いお寺ですから……」と事務の女の人。
 wikiには「天正18年(1590年)8月、徳川家康が江戸入府の前日に天妙国寺を宿所とした」との記述がある。由緒ある寺のようだ。
 音丸は、本名は永井 満津子である。彼女は麻布箪笥町生まれだ。もともとこのお寺が菩提寺でその関係からここに埋葬されたのだろう。碑は永井家の墓の一角に建てられている。
DSCN0023
「音丸はこの世田谷代田に何時から住んでいるのでしょうか?」
 昨日、事務局の「邪宗門」に行ったとき、マスターの作道さんに聞いた。ついこの間八十三歳の誕生日を迎えたと、元気である。
「うちのやつは、もう物心ついたときから住んでいたというのですよ」
 これは奥さんの貴久枝さんからの返答である。ということは戦中からいたということになる。「船頭可愛いや」は、昭和十年発売、この曲の作曲は古関裕而である。

 歌謡曲としては珍しい長調の田舎節は、昭和六年から始まった満州事変下の庶民の心をつかみ全国に風靡した。この曲は入社六年目にしての大ヒット曲となり、古関は責任を果たした喜びに安堵する。 『古関裕而物語』(斎藤秀隆著、歴史春秋社)

この歌の、作詞は高橋掬太郎で作曲は古関裕而だった。前者も世田谷に住んでいた可能性がある、彼もまた数多くの学校の校歌を手がけている。世田谷区内では、四校、駒繋小、東深沢小、九品仏小学校、深沢中学だ。

 駒繋小は浅間温泉に疎開した。疎開先の目之湯温泉では特攻隊武剋隊の兵隊と一緒になった。何かと言えば歌をうたったと。校歌の一節には、「蛇崩川に影ゆれる みんな若駒よくかける」とある。疎開学童はこの歌を聞かせただろうか。
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2017年10月06日

下北沢X物語(3375)―歌手音丸旧居は鉄塔59号付近!―

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(一)高圧鉄塔駒沢線は南北に電気を送っている線である。具体物としての鉄塔や高圧線は存在する。しかし中身は電気で目に見えない。十二本の線の中を十両編成や八両編成の電気運搬車が走っていればその役割は納得できる。しかし、何も分からない。これら鉄塔には番号が振られている。「代田の丘の61号鉄塔」は風景資産である。南に行くに連れ番号が若返る。鉄塔用語では若番、老番という呼び方がある。かつては流れの方向が決まっていた。水力発電時代は山側から海側へ電気は流れていた。しかし、火力発電所や原子力発電所ができてから流れは一様ではなくなった。今ではこれらがごっちゃになって流れている。しかし、明確なのは塔と線とがあることだ。これがラインを形成している。駒沢線は、東京内輪線の一環である。東京都市圏の外側を走る線だということだ。鉄塔57号近くに住んでいた三好達治は、自己の居住ポジションを場末だと言った。そう鉄塔駒沢線はこのラインを明示するものだ。都会と田園との境、つまり物語が湧出する場である。電気は見えないだけに見えない物語が沿線の随所に眠っている。世田谷代田を南北にこれは縦貫しているが日本の歌物語がここに埋まっている。前から唱えているが「駒沢線詩歌ライン」である。この恩恵に預かって数々の歌や詩が生まれた。国民的な人気歌手音丸も沿線の住人だった。

 音丸という芸名、芸者上がりの名だったのかと思うが、完全に違っていた。何とまあ驚きだ、レコードを形容した名だ。レコードは丸い、音は丸いレコードから出る、ということで音丸という芸者風の名前に改名したという。彼女下駄屋のお上さんだったようだ。
 YouTubeで彼女の代表作「船頭可愛いや」が聴ける。名曲の誉れが高い、聴くと歌の色艶に惹かれる。歌はやはりうまい。声の質が柔らかく自然に耳に入ってくる。彼女は「五木の子守歌」など地方に残る民謡を歌い、これをメディアにうまくのせて全国に広めたという。一世を風靡した歌手だった。その彼女がなぜ代田に住んでいてここで終焉を迎えたのか。自伝を調べたわけではない。調べた事実から、一つの理由が推測されるに至った。歌の作曲者と歌手は関係性が深かったろうと思われる。彼女の歌を作曲したのは古関裕而、明本京静、大村能章であった。その彼らの住む世田谷代田に彼女は住んでいた。やはり居住は作曲家との関連があってのことだろう。

 先だって、事務局の邪宗門に行った。
「歌手の音丸がここの代田一丁目に住んでいたというのですが。それがどこか分かりますか?」
 何気なく聞いてみた。ところがだ。
「ああ、音丸ですか。分かりますよ」
 マスターの作道明さんから即座に反応があった。もうびっくりだ。

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2017年10月05日

下北沢X物語(3374)―歌手音丸と作曲家ライン駒沢線―

DSCN0002(一)北沢の古老三十尾生彦さんから貴重なコメントがあった。九十年も前の話だそうだ。「初めて電線が引かれた時 この下を通るには 厄除けに扇を頭の上にかざして通った」と。電気に遭遇した人々の戸惑いを表す逸話だ。電線には何か得体の知れないものが通っているらしい、ここを潜るとどんな災厄に見舞われるか分からない。それで人々は扇を頭にかざして潜った。おそらくは何か言葉をも唱えたように思う。「くわばらくわばら」は雷よけのおまじないだ。電気厄をどうはらったのか。「おお、こわ、えれきどろん、えれきどろん」とでも言ったのだろうか。

 電気と同様、電信も人々は不思議で仕方なかったようだ。
「信じられるか、あの細っこい電線には何人もの飛脚があっちいき、こっちいきしているんだ。」
「飛脚なんていうもんじゃないよ、バテレンだよ。あいつらが不思議な魔術を使ってあの中を行き来しているんだよ」

 最初に電気と遭遇した人々の反応を言い表すエピソードだ。電気は見えない、それゆえに人々は妄想を巡らせた。
 今日では電車が動いていることに何の違和感も持たない。電気というものをすべてが理解したからであろうか。どうも疑問である、電車は既に存在しているもので単に目に慣れているだけに過ぎない。

 始めて電車が走ったとき、人々は驚いた。
今日は何の日というのがある、8月22日は、「チンチン電車の日」と言われている。
明治36年(1903)この日、東京電車鉄道の路面電車が新橋〜品川で営業を開始し、東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った。馬車鉄道が電化してのことだ。電車から馬車へ、何が変わったか。

・推進する馬がついていない。(馬も居ないでどうして動くのか?人々が抱いた疑問だ)
・速力が早いこと。(三十五馬力モーターは時速約十三キロメートル)
・随時停車がなくなった。(停留場を定めその箇所で降りること)
 

 当初は電車が理解できなかった。道路の真ん中で驚いて見ているとそのうちに自分と電車との距離がみるみる近づいてくる。迫ってくることへの驚きや恐怖があって人は凍り付いたように立っていた。珍しいことではなかった。
 電気は目に見えない、が、見えないだけに見ようとすると面白いことが分かってくる。
さて、それは何か。

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2017年10月03日

下北沢X物語(3373)―紫煙:裕而はP缶朔太郎は敷島―

DSCN0013(一)金子みすゞ風に言おう、「高圧線の電気は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ」。そう電気は目に見えない。見えないものをどう理解するか、歴史的な難題だった。電車を始めて見た人々は仰天した。なぜにあんなすすすと動くのか不思議で仕方が無い。どうしたか?皆腰をかがめて電車の床下を覗いた。馬の脚が見えるのではないかと思ったら、鉄の車見えた。「ぎょへ!」、電気で電車が動くことを理解することは難しかった。東京市は市電を運行するに当たって悩んだ。人々の違和感を解消する方法として「電車の前部に張り子の馬を据え付ける案」も出たという。

 荏原を縦断する駒沢線沿線は長年、歩いてきた。目に見えない電気を送るこの線がどれほど多くのことをなしてきたか。目に見えないだけに分からない。電気は見えないが、水は見える。三田用水の水は、恵比寿ビールの瓶洗浄に、海軍の火薬を作る推力に、海軍の水槽で戦艦大和や武蔵の模型実験に使われた。沿岸の古老は自慢していた。

 高圧線の電気はどこへ行っているか分からない。が、分かってくると驚く。鉄塔61号は、我らが地域風景資産に推挙し、認められた。特徴は塔内階段だ。
「こういう場合は、ここに地下線ケーブルがあった証拠だ。電気には地上線、地下線を保守するものがいる。ここは両方が上るから階段をつけてあるんだ。それでここから延びた線はどこへ行ったか?」
「ど、どこなんですか?」
「駒場の航空研だ」
 駒沢線は航空研に電気を送っていた。この電気で風洞を動かし、戦闘機の風洞実験をやっていた。しかし、この一連の経過を話すには時間が掛かる。

 今日、パソコンを開けたら、フェイスブックに書き込みがあった。谷亀緑郎さんからだ。世田谷代田駅前でかつて煙草屋をやっておられたようだ。

「私が子供の頃、店番をしているときに、古関裕而さんがよくタバコを買いにきてくれました。『ピー缶ふたつ!』何時も五百円札でしたね。昭和40年代半ばのお話」 

 作曲家が何を吸っていたか、煙草の銘柄が分かるというのも面白い。古関裕而は『ピース』だ、「ピー缶ふたつ」というのはヘビースモーカーだったということだ。

 古関裕而は駒沢線63号近く。ツースパン隔てた61号は萩原朔太郎だ、詩人が愛用していた銘柄は「敷島」だ。ささいなことだが、面白い。ニコチンは創作の原動力だった。

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2017年10月02日

下北沢X物語(3372)―音楽家は佳仙の茶に香風の最中―

DSCN0017 アメリカトランプ政権が誕生したことで明日は分からぬと多くが神経不安に陥っているらしい。隣国カナダに移り住む人も出てきているという。あちらの話だと思っていたらこの日本も同じ状況が忽然と生まれた。一番感じることは自由崩壊の予感だ。保守一強でもリベラルがいて言論や批判で対抗してきた。自由の根幹だ。今まで感じたことはなかったがこのリベラルの言動があるから自由もあると。ところが民主党が崩壊し、右派、希望の党に合流するという。リベラルがガラガラとたちまちに崩れた。精神風土の壊滅だ、自由は砂上の楼閣だった。我々の社会における自由は虚構的であったのだと思う。自身の毎日は書いて、歩いて、勝手な空想にふけることだ。この妄想空間まで侵されるのではないか、そんな神経不安に陥っている。

(一)「古関裕而さんも、明本京静さんもうちのお得意だったんだ。明本さんは早くに亡くなられたので奥さんが家へ来ては長話をしていかれた。とてもこれが上品な奥さんで、いつだったか恩賜の煙草を持ってこられたことがあった」
 佳仙のご主人宇田川さんの話だ。教養と知性を備えた人だったらしい。
「古関裕而さんは家によく来られました。散歩コースです。まず家でお茶を買って行かれて、そして隣ですね、香風の和菓子を買いに行かれるんですね。やっぱり最中かな」
 老舗の和菓子屋、香風はもう閉店してしまった。
「家はこの一帯のお屋敷がお得意さんだったのです。でもね、和菓子好きだった人も年老いて行くでしょう。亡くなられると需要がごそっと減るんですよ……」
 ずっと前に菓子屋の主人から聞いたことがある。
「家への道順を聞かれたかって?、明本京静さんも聞かれたことがあったけど、古関裕而さんがほとんどだったね。昔はこの前を通って家に帰っていったからね」
 今、古関裕而旧居としたところは代田二丁目だ。この前は代田八幡の南手に住んでいた。
「八幡様のところにあった家は分かりますか?」
「ああ、分かるよ」
 宇田川さんは迷いなくその箇所を地図に書いてくれた。
「ああ、そこですか。斎藤茂吉の並びなんですね。北沢川べりだったんだ」
 記録のために住所を書いておく。が、現番地だと差し障りがある。それで旧番地を記しおく。
 代田一丁目四○七番地だ。地所は北沢川に面している角地だ。
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2017年09月30日

下北沢X物語(3371)―校歌銀座代田の丘のこぼれ話―

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文化は楽しく、面白く

(一)校歌への需要は、戦後、学制改革があったり、人口増によって学童数が増えたりしたことで高まった。「代田小ができたとき、いのうえこうぶん先生に校歌の依頼に行きましたよ」、井手先生にこれは聞いた。昭和27年に開校している。調べてみると作詞は井上康文。「むさしののおか 日をうけて 学びの窓の 明るさに 誇りは高し わが代田」で始まる。小学生はわけもわからず歌わされる。校歌勘違いエピソードは数知れない。「何しろ埃がすごかったのですよ。もうもうと埃が舞うものだから、なるほどなあ、埃は高く舞うんだなあと思っていましたよ」と卒業生から聞いた。

 世田谷代田に居住する作曲家に校歌の依頼が多くあった。筆頭は古関裕而である。古関裕而記念館の調べでは、校歌・応援歌では、福島県内では101校、全国では300を超えるとのことだ。次が明本京静、種々の学校の校歌を作っている。大所では「立命館大學校歌」だ。「明本京静作詩 近衛秀麿作曲」とある。昭和六年(1931)に出来ている。

「高校野球 選抜(春)・選手権(夏)大会 歴代優勝校」校歌一覧がある。「天理高校」これも「作詞 明本京静  作曲 近衛秀麿」である。甲子園で度々流れている曲である。

「花の精鋭」は、日大応援歌だ。(作詞:東辰三、作曲: 明本京静)である。「高校や大学のスポーツ競技大会の応援歌として有名で全国高等学校野球選手権大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)でよくこの歌が使われることが多く、広く人々から愛されている歌でもある」という。
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 殺到する校歌依頼に、どう応えたか。何度も作っているとアィデァが枯渇した。
 昨日、代田をフィールドワークすると目についたのは高圧線だ。カラスが二三匹止まっていた。古関裕而宅から、明本京静宅からもよく見えた。
「まあ、しょうがなくてね、高圧線に止まった鳥が偶然に止まったのを音符に見立てて作曲したことは何度もあるよ」
 そんな冗談が通用していたのかもしれない。
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rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化