2017年03月23日

下北沢X物語(3243)〜校正大詰め:改訂七版地図〜

DSCN0237(一)改訂七版地図トップのキャッチを変更した。「文学と音楽と巨人伝説のまち案内図」だ、芸術を音楽に変更したのだが意義は大きい。表図見出しも「文士町の文化の源泉は音楽にあり」とした。だんだんにわかってくると当地に創設された音楽学校の影響は計り知れないものがある。ここ数日校正の土壇場になって情報が交錯していている。当会の米澤さんは正確を期すために昨日現地聞き込みまでしたという。


 こちらは多くの注文をした。鉄塔に番号を振ってほしいというのもその一つだ。その箇所を言うときに便利なのは駒沢線鉄塔だ、川口慧海は「鉄塔62」そばというように指摘する、ところが全部に番号が振っていないのでいちいち数を勘定していた。これが解消される。

 鉄道交点には多くの寮があったことは知られていない。例えば、今の北沢タウンホールのところには海上保安庁寮があった。この他近辺には銀行寮とかも多くあった。今回は代表事例として地方所有の寮を入れてもらった。「七島学生寮」と「飯塚嘉穂学寮」である。前者は伊豆七島出身地が、後者は九州飯塚市出身者が入れる学生寮だ。島嶼や九州から上京してきた若者がここで青春時代を送った。潮と石炭とが都会にまみれてい行った。彼らが住むことで多くの物語が生まれている。ところがそこは時代の波に揉まれ消滅してしまった。

 飯塚嘉穂学寮は、昨日、場所を確認するために米澤さん現地取材したと、知っている人が教えてくれて正確な場所がわかった。我らの仲間は正確性を求める、が、歴史文化を遺すには不可欠なことだ。

 我ら文士町地図、この裏面は毎回古地図を変えて載せている。今回は、「内山模型製図制作の『北沢警察署管内全図』から北東部を抜粋したものだ。昭和二十年中頃のものである。代田連絡線が鉄道線路としてくっきりと描かれている。もちろん、ここに記載されている地番は旧番地である。

 思い起こすのは作家の旧居調べだ、年譜に載っている作家の住所はみな旧番地である。これが今のどこにあるかなかなかわからない。現新番地との照合も楽しめるものだ。

 この地図に銭湯のあった場所を書き入れたのはきむらたかし氏だ。驚くほどの数だ。これは地域文化と絡んでいる。交通至便の鉄道の交差部には寮が多く集まっていた。そこに生まれるのが銭湯需要である。これも鉄道交点特有の文化であった、が、ほとんどが跡形もなく消えてしまった。今回のには載っていないが銭湯の変遷地図というのも記録としては価値がある。

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2017年03月21日

下北沢X物語(3242)〜未来遺産・品川用水を歩く供

DSCN0233(一)桜新町は東京西郊でも早くに開けた場所である。ここのメイン、西から東へと向かう道路は古来からの旧道、大山道だ。呑川水系と蛇崩水系の分水嶺の尾根筋をゆく。明治になってここに近代化が押し寄せてくる。道には大山道と品川用水が通っていた。そこに明治三十六年(1903)に玉川電気鉄道が敷設される。そしてまた明治42年には石田水車が稼働し始める。町には近代がやってくる。その到来は音である、ごったんがったんという音、そしてこっとんかったんという水車の音だ。田舎町は急に都会的になっていく。さらには明治末年から大正にかけて「日本で初めての分譲住宅が東京信託会社によって『新町分譲地として造成された。」、おしゃれな町への変貌だ。


 作家宮本百合子は一時期ここに住んでいた。彼女の「日記」だ、期日は一九二六年(大正十五年・昭和元年)のことである。

九月一日(水曜)
 八時頃Yの部屋で訳して居るチェホフの手紙をよんで居ると、暗い玄関で人声がし、思いがけず網野さん来。私何だかぞっとした位うれしかった。小さい雨などふり、人が来などしようもない日であった故か。
 作品の話、その他。十時おなかがすき、二人で食糧品やに行ってマカロニを買って来た。私それをゆで、二人でトマトケチャップでたべる。アミノさん泊る。
 あの食糧品や、Y大キライだが、可笑しい男だ。このマカロニどの位にふえますかときいたら「フランスのはふえますが、イタリーのは大してふえません。直観したところはちがいませんが水分をふくみますから出デがあります云々」


 昭和初期のことだ、網野とは女流の網野菊のことだ。お腹が空いたというので電停通りに面した食料品店いく。そこではマカロニを売っている。外国のマカロニの在庫があり、それぞれの味もよく知っていて、フランスやイタリアの麺のゆで方にも堪能である。その食料品店はどこにあったか探したことがある。この町を象徴しているエピソードだ。

 桜新町という風合い今もある。用水が走る道と電車が通る道とがあった。が、このこともすっかり今は忘れられている。
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2017年03月20日

下北沢X物語(3241)〜未来遺産・品川用水を歩く〜

DSCN0235(一)連日、用水漬けだ、17日は三田用水の講演、18日は「品川用水を歩く」だ、後者は我らの会の第126回目の街歩きである。案内者は、渡部一二先生、間もなくで傘寿を迎えようとされる、「用水翁後ろ姿をひょうひょうと」、ふと立ち止まっては、「ここに面影が」と語られる、特に印象深かったのは桜新町駅で集まったときだ、開口一番「この品川用水は未来遺産に登録された」と。初耳だった、調べると「玉川上水・分水網」がユネスコの未来遺産に登録されたとのこと、その分水網には品川用水が入る。ということは昨日講演を聞いた三田用水も当然に入るのだと認識した。しかし、我ら三田用水や品川用水に慣れ親しんでいる者には「分水網」と一括されることには抵抗がある。親玉が玉川用水で、子分が分水だというのは分かる。が、支流にこそ真実は宿る。「玉川上水系水脈」とか、言い方に工夫はなかったのかと思う。

 品川用水を歩く旅、とは言っても痕跡はほとんどない。最初の痕跡もわずかに路傍に「石田氏水車」と標柱が建っているだけだ。が、つい最近この地所にマンションが建った、この玄関に模擬水車が復元されて動かされている、もちろん電動である。

 石田水車のすぐ前の道路はいわゆる大山道である、ここに明治40年に鉄道が敷設された、玉電である。「ゴッタンゴットン」と車輪が響いた。そして、石田水車は、「明治42年土地の石田槌太郎氏が許可を得、杵21本・挽き臼1を備えた水車を作った(「新修世田谷」)だという。「カッタンコットン」と水車が鳴った。その脇を白装束の人々が御詠歌を歌いながら通っていく、のんびりした時代であった。

「この尾根筋を品川用水が通っていて、そこから水を引込んでいたのは材木屋をやっていた秋山さんですね、そのうちに発電機を設置して電気を起こしていたんですよ。それで玉電が買い取って、自社に電気を引き入れたというのです…」
 初耳だ、水車で電気を起こしていたという。これは地元の人の話だ。何かこれを裏付ける典拠はあるのだろうか。

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2017年03月18日

下北沢X物語(3240)〜代官山大学2017:街研究と講演〜

DSCN0231(一)文化探訪を続けて十数年になる、何かの拍子に「これ知らないで死ぬところだった」という事例に遭遇する。昨日(17日)はその一つだ。昨晩、代官山ステキ総研のイベント、代官山大学2017が開催された。ここで特別講演があった「ヒルサイドテラス前史 『昭和の道はなぜ残ったのか』 講師は我らの仲間、三田用水研究家 木村孝氏である。代官山における『昭和の道』は代官山という街の形成に関わる重要な核である。そのことを氏は見事に指摘し会場を沸かせた。特に良かったのは、「代官山大学」で研究発表をした多くの若者に刺激を与えたことだ。

 自分でも半世紀前に抱いた疑問が講義を聴いて解けた、そう昨日参加していた大学生ぐらいの年齢のときに経験したことである。アルバイトとしてお中元の配達をした。その配達範囲に代官山があった。荷物運搬用の自転車にお中元を満載して配っていくものだ。このときに代官山を走る旧山手通りは何遍も走った。木々の緑が多く、お屋敷が連なる街だった。配達するものも高級品ばかり、この時に思ったことがある、なぜこの道はどうしてだだっ広いのだろうという疑問である。大きい通りなのに静かだ、お屋敷のセミの鳴き声がうるさいばかりだった。代官山の『昭和の道』は自分の青春だったように思う。懸命にペダルを漕いでデパートの高級品を届けていた自分の姿が思い浮かんでくる。

 木村孝氏は、昭和の道「旧山手通り」ななぜ残ったのか、その種明かしをする。
 旧山手通りはもともとは山手通り、すなわち環状六号線として計画されていた。ところが戦災を契機に道路の敷設計画が変更となり、六号線は目黒川右岸を通る道に変更された。これによって渋目陸橋 - 神泉 - 鎗ヶ崎交差点は支線に格下げとなって、それでここが旧山手通りと呼称されるようになった。
DSCN0232
 木村孝氏は、こう結論づける。幹線としての6号から亜幹線の25号に格下げされ「かえって旧・山手通りは拡幅などの大きな変化を免れて『昭和の道』はそのまま残った」という。このことが現在の代官山の街並形成に大きな影響を与えたと。

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2017年03月17日

下北沢X物語(3239)〜幻想的知覧探訪行掘

DSCN0222(一)死者の霊魂は生者に働きかけるものなのか?この疑問は絶えずあった、疎開学童と特攻兵とが偶然出会って、一ヶ月間共に過ごした。この事実をずっと取材している。が、とんでもなく遠い昔のことなのに隠れていた事実が次々に証されてきた。無念の思いを抱いて亡くなった兵の霊がそうさせるのか?今回も何かに取り憑かれたように思ったことがあった。灯籠に導かれて彼らに出会いに行ったことである。


 知覧で宿泊したのは富屋旅館である、戦中は陸軍指定の富屋食堂で当地を出撃していく特攻隊員が多く訪れた。特攻の母と言われる鳥浜トメさんが切り盛りしていた。戦後、特攻生き残りや遺族が当地を訪れてくるようになった。その彼らをもてなすために旅館に衣替えした。現在の女主人は、トメさんのお孫さんのお嫁さんだ。
「何としてでも戦争中の悲惨な作戦、特攻は後の世に伝えていかなくてはなりません」
 トメさんの思いを受け継いでおられる。

 着いたの日の夕暮れ、私は町の散策に出た。南国の静かな町を歩いてみようと思ってのことだ。すぐに帰ってくる積もりだった、が、大通りに出ると石灯籠が目についた。今回案内してくれる田中幸子さんもこの灯籠を寄贈している。ゆえに話には聞き知っていた。道の両側にどこまでもこれが続いている。特攻で行った人達の鎮魂のために建立されたものだ。一つ一つに霊がこもっているのかもしれない。

 夕暮れ時だ、段々に暗くなってくる。道路を通っていく車のライトがこれを浮き上がらせる。思ったのはどこで引き返すかだ、「あの信号のところまで」と決めて行くが、そこまで行くと足は帰らせてくれない。ずんずんと行く、心は引き返そうと思うが足がいうことをきかない。

 種田山頭火の有名な句がある。「分け入っても分け入っても青い山」、この南九州の山中でさ迷った様を描いたものだ。ここでは山ではない、「分け入っても分け入っても石灯籠」、どこまでも続いていく。道はカーブを描いて山に上っていく。

 その時にすべての灯籠に火が点った、連なったそれがぼぉうとどこまでも続いている。気づくと幻想世界を歩いていた。あの果てには何があるのだろうか、そう思ったときに今必死になってまとめている武揚隊隊長の遺詠が思われた。

 いざ行かん 浅間の梅を えびらさし わたつみはるか 香をとどめん

 浅間温泉に咲いていた梅の香りを沖縄の海に届け、その香りを永久に残したい。灯籠の果てまでいくとその香りが匂うのか?
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2017年03月15日

下北沢X物語(3238)〜幻想的知覧探訪行供

DSCN0209(一)鹿児島への旅で思ったことは、旅の激変だ。汽車の出現によって「時間と空間の抹殺」が起こった。さらに飛行機によって「時間と空間の消滅」が起こっている。鹿児島空港にはあっと言う間に着いた。自分の身体は鹿児島に着いているのに心はまだ到着していない。飛行機を降りたとき目眩がしたほどだ。偶然、里に墓参りに来たという隣の座席のの人と話したが鉄道での帰郷などは選択肢に全くないという。私の思いでは、終着駅西鹿児島だ、遙か遙か彼方にあった。特急寝台「富士」は三十一時間掛かった。「皆様ご乗車有り難うございました…」と案内放送を聞くと旅の抒情が一気にこみ上げてきたものだ。が、今は空港ロビーで自分を見失い、ふらふらするばかりだ。

 鹿児島空港から鹿児島中央駅へバスで向かう。満席で補助席に座る、やはり、新幹線を使っての鹿児島行きというのはほとんどないのだと知った。駅から知覧へはまたバスである。海岸を走った後、山間部に入り、手簑峠を越えてようやっと知覧に着いた。盆地にある静かな町だ。

 東京から遙か隔たった町、しばらくいるうちに感じたことは空気感が違うことだ。地方的空気感、まったりとした時間の流れ、そればかりではない南国的な空気感がある。明るく、暖かく、そして緩い。
「二日とも特攻漬けだと苦しいですね、今日は武家屋敷を歩きましょうよ」
 当初は、二日とも知覧特攻平和会館に行く予定だった。田中幸子さんは知覧へは度々訪れている。平和会館の参事をしておられる峯苫真雄さんにも到着し次第行くと伝えてあったがこれは断念した。
DSCN0211
 峯苫真雄さんは、間接的にはよく知っていた。田中幸子さんを通して多くの情報を得ていた。満州新京発足の特攻四隊のうち二隊が武剋隊であり、武揚隊である。もう一隊扶揺隊があった。この隊員だった久貫兼資軍曹は特攻出撃時に機が不調で不時着して助かっておられる。この人のことを紹介してくださったのが峯苫さんであった。

 彼は陸軍知覧飛行場で飛行機の整備をしていた人である。この三月で引退されることになっていて、それで会っておこうということもあった。

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2017年03月14日

下北沢X物語(3237)〜幻想的知覧探訪行〜

DSCN0203(一)鉄道交点に端を発した物語は際限がない、道はどこまでも続いていく。歩いていく道は自分で選択できるものだ。嫌だったら行かなくてもよい、が、何となく感じていることがあった。「知覧を見ずして特攻を語ることなかれ」ということだ。意図して特攻ものを書いたわけではない。近隣の疎開学童のことを調べていて偶然にこの話に行き着いた。このところこ新たな発見があって四冊目を書いている。そろそろ本山詣でをしなくてはいけないなとは思っていた。第一作、『鉛筆部隊と特攻隊』の取材で知り合った田中幸子さん、それと矢花克己さん、この二人が知覧に行くという、もうこの機会をおいて他はないと思った。

 自身は恐がりだ、これまで特攻兵に関わることを調べてきた。が、不思議だった。機縁が機縁を生んでつぎつぎに新たな発見へと結びついた。何か別の力が働いていたのではないかと思ったほどだ。聞くところによると知覧には彼らの写真がずらりと展示されているという。まさに特攻本山である、末社においてさえちらちらと彼らの影が感じられていた。本山となれば霊魂がひしめいているのではないか?これが避けてきた理由である。が、今回の四作目は、自分にけじめをつけるためである、覚悟を決めて本山に行くことにした。

 三月十一日に出かけた。鹿児島へは飛行機である。田中幸子さん気を利かせて富士が見える方の席を取ってくれていた。ジェット機は高高度だ、一万メートルを飛んで行く。富士が見えてきた。ふと「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)に記されている一文を思い出した。四月二十一日、零戦に搭乗し、谷田部飛行場を飛び立った機があった。鹿屋に向かう途中に市島保男飛行兵は富士を目にした。

 足柄山上空通過の頃、右手に崇高極まりなき富士の山を見、よくぞ日の本に生まれけるの感涙にむせぶ。機上より富士の姿は、あまりにも荘厳なり。想像を絶す。機上の桜の一、二枝を富士に捧げ、一路西進す。

 死にゆく者にとっては富士の光景は特別のものだったようだ。風防を少し開けてそこから桜の小枝を投げたのかと思った。
「飛行中に風防を開けるなんてことはできませんよ」
 彼の乗機に桜を投げ入れたという人はそんな話をしていた。生きている者は美しく死をを飾りがちだ。
DSCN0206

 飛行機の窓から食い入るように下界の地形を眺めた。上空から見る列島は虫が食べたようにまだらになっている。開発によって野山が食い荒らされている。機上から緑麗しい光景を見て、「よくぞ日の本に生まれける」と思いもした。

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し美し

 
 日本武尊の国誉めだ。が、かつてはうるわしかった日本列島もすっかり食い荒らされてしまった。野山だけではなく、原発過酷事故によって空気までもが汚されてしまった。

 ゆくうちに淡路島の島影が見えてくる。今自分が書いているのは武揚隊の軌跡である。この隊長は山本薫中尉である。昭和二十年三月二十七日、彼は単機故郷への里帰り飛行をしている。淡路島を右手にみて行ったに違いない。機上から見える島は琵琶の形をしていた。この末端から徳島に飛んで機上から墓参りをした。はしきやし我がふるさと… 
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2017年03月12日

下北沢X物語(3236)〜鉄道交点を巡る音の文化史検

P1010865(一)地域の音の文化史、古代編はダイダラボッチ、近代編は「帝音」だ。名称は変遷する、が、昭和二年に創設された学校は、帝国音楽学校だ。創設するに当たって文部大臣宛に出された書類には土地環境のことが記されている。「小田急世田谷駅ノ北方約三十間ノ大根畑地土地高燥付近は新開地ニシテ住宅モ疎ラデ校地トシテ支障ナシ」と書かれている。何もない大根畑に、忽然と音楽学校が建ち、開校したとたん、美しい音色の声や楽器の音が聞こえてきた。柳田国男は代田のダイダラボッチを「巨人来往の衝」と言った。こちらは「大根畑にテノールの衝撃」だった。日々音楽が響いて土地に根付いた。当地に、全国に先駆けて「ミドリ楽団」が発足するが土地の音楽感性なしにはこれは発足しなかった。

 帝国音楽学校にひっぱられての逸話というのは一帯に密かに転がっている。これは未開拓の分野だ。エト邦江の逸話は以前に記した。彼女も帝国音楽学校在籍者だ、下北沢一番街八幡湯のマンションの上で長い間歌謡教室を開いていた。「カスバの女」がヒットするまでは素晴しいドラマだ。

 そういえば、八幡湯の脇の路地、これを北に抜けていく小路がある。「御殿山小路」である。一帯は野屋敷と称されたお屋敷街である。
 
「お昼どき野屋敷を歩いていくとどこのお家からもラジオの音楽が響いていましたね。あの曲聞くとなんだかね、気持ちがゆったりとしてきて懐かしさがこみあげてきましたね」
 一番街のお茶やさんの娘だった富安好恵さんの話だ。彼女ももう亡くなってしまった。

 この「ひるのいこい」のテーマ曲の作曲は古関裕而である。彼もまた帝国音楽院のエピソードに繋がる。
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2017年03月11日

下北沢X物語(3235)〜鉄道交点を巡る音の文化史掘

CCI20170310_0001(一)北沢川文化遺産保存の会の活動区域での音の文化史と言った場合、もっとも深遠で、大きくて、恐ろしいほどの歴史を持っているものがある。それは「ダイダラボッチ」である。とくにはこの音と代田とは深い関係にある。柳田国男は当地の巨人の足跡をフィールドワークして衝撃を受けた。そのことが『ダイダラ坊の足跡』に記されている。冒頭見出しは「巨人来往の衝」である。そして「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」だと言い切った。このダイダラボッチの根幹は音である。これこそが最も重要だ。ダイ・ダラ・ボッチである。柳田はこういう

 兎に角こんなをかしな名称と足跡がなかったならば、如何に誠実に信じてゐた古人の物語でも、さう永く我々のあひだに、留まってゐなかつたはずである。 

 そう、「ダイダラボッチ」は、珍奇、珍妙な名称だ。口に出していうとよく分かる。効能もありそうだ。何にでも効くのかもしれぬ。太古の昔の人々は、「ダイダラボッチ」と唱えて祈っていたのかもしれない。唱えると願いが叶う。それでふと思い出した。ダイダラボッチの痕跡は残っていないがこの足の縁に庚申塔と地蔵尊が祀ってある。大原と代田境だ。

「ここはダイダラボッチの足跡の側にあるもので、ダイダラボッチの分身霊も祀られています。ここでダイダラボッチと唱えると願いが叶いますよ…二回唱えると、恋が叶うといわれているんです。ダイダラボッチは気前のいい大男ですよ、きっと願いを叶えてくれるでしょう…」
 そうダイダラボッチは独身男である。

 「世田谷代田名物、鶴塚にダイダラボッチに花見堂」三大伝説は次々に消えていく。学校併合で、花見堂小は、代沢小に統合される。由緒ある地名「花見堂」は学校の名称として残されていたがいよいよこれも今月末でおしまいになる。
 ハナミドー、この音も綺麗だ。この花見堂は旧字名だ。三好達治はこの綺麗な名をかぶせられた所に住んでいた。
 
 花見堂 桜流れて をみなごにかかる 肩にとまって人も はなびらあわれ

 そういう歌を残してあれば、文学碑に刻んだものだが。
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2017年03月09日

下北沢X物語(3234)〜鉄道交点を巡る音の文化史供

7c46d9c1.JPG(一) 「下北沢文士町文化地図」第七版にDrオースティンさんの写真を載せようと考えていた。戦後の下北沢の街を鮮明に写し撮ったものだ。焼け残った街の空気感までが見事に映し出されている。砂利道を歩く人の靴音、下駄の足音までもが聞こえてきそうだ。時代を記録した写真としては貴重である。フロリダ大学が写真版権を所持しているということで地図への掲載願いを送ったが返事は来ない。それで従前に予定していた古写真を三枚代わりに載せることにした。一枚目は下北沢の地下道の写真だ。北口と南口とを結んでいたものだ。カタッ、コトッと下駄が響いた。中は小便臭かった。

 昭和十九年八月十二日、夜の十時過ぎ五百数十名の団体がここを通り抜けた。靴を履いた学童たちは、パタッ、ペタッと、足音を響かせてここを通った。長野県に疎開していく代沢国民学校の児童達である。ここを潜って行くときに頭上で大きな音が響くことがあった。ぐわぁたん、ごったん、電車が地表を走り抜けていくときの音だ。

 地下道を抜けて北口に出ると改札がある。ここからホームへは跨線橋があった。木の階段は大勢で上るとみぃしりみぃしりと音を立てた。

 写真の二枚目は、世田谷代田駅を空から撮ったものだ。環七に架かる跨線橋を作っている最中の音だ。下り電車はぐぅん、デン、ゴロンと走り始めるが、すぐに徐行だ。デン、ゴロン、デン、ゴロンと。工事区間を渡り終えると、デンゴロン、ゴロデン、デンデンデンデンと梅丘への坂を下っていく。

 三枚目は、東北沢の通過線の写真だ。相対式ホームの間に、通過線があってここを優等列車は通り抜けていく。戦後のことだ週末の夜、賑やかな電車が通った。新宿で夜を過ごした米兵を満載して基地に向かう専用電車だ。歌声が響いたり、ときに楽器を掻き鳴らす音もする。夜の線路は騒音が走っていく。過ぎるとたちまちに静寂が戻った。

 オースティン写真は得がたいものだ。我らの要望は向こうに届いているはずだ。いずれ返答がくるだろう。地図の裏側に載せるには惜しい写真だ。これをこのままカラー印刷にして、街研究、街論文にする方がいいのでは、そういう意見が出ている。

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2017年03月08日

下北沢X物語(3233)〜鉄道交点を巡る音の文化史〜

bcdb58c8.JPG(一)地域地域に固有の音がある。その音はそこに生きる人々の感情を刺激した。例えば下北沢三号踏切での上り電車の急ブレーキ、キキキキという軋み、これを聞くと付近の人はゾッとしたという。急カーブの下りでここに踏切がある、自殺や事故が度々あったその音を聞く度に震え上がった、地元の人から聞いた話だ。が、今は線路は地下化しその音は永久に聞くことがなくなった。唯一踏切の歴史を残すのが旧下北沢二号踏切脇に立つ踏切地蔵である。
 
 音の文化史、消えた音は数多くある。
「ヤットン、コラセー、トコショット、そこ行く姉ちゃんどこへ行く、電車に乗って伊勢丹か、ヤットン、コラセー、トコショット、赤いべべがよく似合う、言い寄る男は虫食い、ヤットン、コラセー、トコショット……」
 かつては鉄道線路では線路工夫が互いに力を合わせて線路を均していた。調子を取るために線路突き固め歌をうたった。通り掛かる人の特徴を掴んで即興的歌う。しかし、これもとおの昔に消えてしまった。

電車の音では、『茂吉の体臭』(斎藤茂太 昭和三十九年 岩波書店)が貴重な音を記録している。斎藤茂吉が世田谷代田に住んでいた頃のことだ、孫は電車好きだった。「近所を通る小田急の音を孫共が、マネして、『デンゴロン、デンゴロン』と抑揚をつけて電車遊びをする」、それを茂吉が「みて、『フゥん、デンゴロンか、うまいな、デンゴロンは』と妙なところで感心するのであった。」と記している。

 世田谷代田駅を電車が出発するときの音だろう。グゥゥン、デン、ゴロン、デン、ゴロンと動き出す。この音のとらえ方は見事だ。この後、代田の丘を一気に駆け抜けていく。

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2017年03月06日

下北沢X物語(3232)〜鉄道交点地域の物語の発掘検

P1000895(一)時代時代に音はあった、が、一瞬に消えていく音は記録されない。しかし、その時代のその音は人の感情を刺激していた。かつてあった下北沢駅の西の築堤、左カーブでは様々な音を立てた、パンタグラフと架線が触れてピシプシシュルルと。青白い光が沿線を染めた。爆弾炸裂時の音に似ていて肝を冷やした。800Rの弦は様々な音を立てた。砂利運搬貨物車が通るときも大きな音を立てた。

「むかしは法事だとかなんだとかで親戚の者が来てはこの家に泊まって行きました。でもね、夜中に家が突然ゆさゆさ揺れるんですよ。するとみんな驚いて蒲団から跳ね起きたものですよ。わたしらは慣れていますから平気でしたけどね、やっぱり砂利を積んだ貨車というのは相当に重いのですよね。世田谷中原から砂利を満載した貨物が下ってくるときは家も相当揺れましたね。」
 旧下北沢2号踏切脇の佐山一雄さんからは何度も話を伺った。この頃お目にかかることはない、どうされたろうか。

 かつて夜中に築堤上を砂利運搬車が通っていた。世田谷代田側からは下りだ、それで電気機関車は制動を掛けながらゆっくりと降りてくる。砂利の全重量が線路にかかる、すると近辺の家々が揺れた。
「地震!」
 慣れない人は飛び起きた。

「いや、本当にそのとおりです、砂利運搬車が通るとき、ぎゃ、ぎゅ、ぎょと音を立てていました。あの表現にはとても感心しました」
 黄金井達夫さんもこの近くに住んでおられた。彼は、『下北沢X惜別物語』を読んで感心したという。多くの人達が、夜中、砂利運搬車が奏でる音で起こされた。人々が生きていた時間、人生を、故郷を、わが子を思ったろうか。

 鉄道の失われた音、これが地域一帯の文化を刻んできた。が、これらは鉄道が地下化したことで一切が失われてしまった。

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2017年03月05日

下北沢X物語(3231)〜鉄道交点地域の物語の発掘掘

20057,16 031小田急下北沢3号踏切、中村汀女(一)長い間、地域の文化を探訪してきた。キーワードで言えば五つ。踏切、路地、鉄塔、どぶ、坂である。しかし、これも時代とともに変化していく。踏切、線路が地下化によってなくなった。「電車の音が聞こえなくなって寂しい」という人もいる。音が時代時代を刻んでいた。例えば、こんな逸話がある、今では想像もつかない話だ。

 電車のスパークや警笛については、新聞の投書欄に苦情が出ていたが、どうしてこんなにも、爆弾の閃光や、警報のサイレンに似ているのだろう。その音が聞こえ始める。心臓が疼くほどに縮こまる。電車の警笛だと分かるまで、ホンの一秒、あるいは二秒だ。その間が苦しい。気がどうになってしまいそうなほど苦しい。まぬけな電車だとわかって、顔を見合わせる。

 一色次郎『東京空襲』(河出書房)の一節だ、昭和十九年十二月十一日のことだ。作者は、小田急線二号、三号踏切の間にある築堤、このすぐ南の下北沢静仙閣に住んでいた。電車の音は間近に聞こえる。電車が通過するときに『シパッ、シパッ』と大きな音を立てて青白い火花が散った。爆弾の閃光か?と思う。戦時中で線路の手入れも悪い。それとここは世田谷中原方向へ右カーブしている。架線とパンタグラフが接触してスパークがよく起こった。そしてまた、警笛だ、「カァァウン、カァァウン」、下北沢方向からだと続けて二箇所に踏切を越える。人身事故の名所だった。運転士はそれをよく知っているから殊更、警笛を大きく鳴らす。するとこれが空襲警報の音に聞こえてくる。築堤を電車が通るたびにびくびくしていた。戦時下に生きている人は気が気ではなかった。戦争の恐怖は戦場だけにあるだけでなく普通の市街地にもあった。

 昭和十九年十一月一日、B29少数機がマリアナから飛来してきて帝都上空を旋回した。写真撮影をするためにやってきた。ここで撮られた航空写真をもとに爆撃計画が練られ、この十一月から日々空襲に襲われるようになった。

 十二月十二日の感想が次のように記されている。彼は下北沢静仙閣の出入り口の石段に坐ってこんな思いに耽っている。

 なぜわたしたちは焼かれねばならないのだろう。毎晩無造作に幾つかの焼夷弾が落とされる。その下にある家はどうだろう。数年、あるいは数十年住みついて、数人の家族が、泣き、笑いして過ごしてきたところだ。結婚したり、子供を生んだり、あるいは親の葬式を出したり、商売に励んだりして、一家の長い歴史を築いてきたところだ。

 静仙閣は一号館と二号館があった。一号館は台地の上、今現在は駐車場となっているところだ。ここは住友通信機製作所の女子挺身隊の寮として使われていた。彼は下の窪地側の二号館に住んでいた。
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2017年03月03日

下北沢X物語(3230)〜鉄道交点地域の物語の発掘供

DSC_0002(一)もう十数年地域物語の発掘を続けてきた。多くの人と物とに出会ってきた。ものを言わない物体との遭遇は大きい。第一番に挙げるとすれば踏切だ。東北沢四号踏切で毎朝足止めを喰らった。十数分、時に二十数分待たされる。その時間がもったいない。それで近隣を自転車でぐるりぐるりと回った。調査出発点はここだ。沢筋にはどぶが匂った。路地には猫がいた。線路には鉄粉が匂った。固有性の発見だ。

 分かってみると猫と文学の関係性があった。「文士町三大猫物語」である。一つは萩原朔太郎『猫町』であり、一つは、森茉莉『黒猫ジュリエット』(贅沢貧乏)であり、もう一つは大谷藤子『六匹の猫と私』である。

 どうもこの町猫が似合うらしい。大谷藤子は今の北沢タウンホールのすぐ南に住んできた。ここで猫と出会って、猫好きになった。彼女は、『六匹の猫と私』(竜南書房)の冒頭で明かしている。ある朝に猫がやってくる。

 庭さきに小さな子ネコがキョトンとすわっていた。眼にしみるようなういういしい真っ白な胸毛を朝の風に吹かれながら、パッチリ丸い眼をみはって、あたりを見ている。その愛らしさといったらなかった。

 彼女は猫に一目惚れした。それが猫溺愛の発端だった。

「ほら、茶沢通り踏切の一つ駅寄りに踏切があるでしょう。大谷藤子さんを猫ちゃんがあそこまで送ってくるのね」
 これは亡くなった富安好恵さんから聞いた話だ。これは東北沢五号踏切だ。人が多く轢かれたり、自殺したりした踏切だ。「おばちゃんの踏切」だと言っている人もいた。ここでそのおばちゃんが自殺したからだ。

 土地の文化と猫は繋がる。萩原朔太郎『猫町』はその典型だ。彼は近所の路地を漫歩するが、想起されるのは角角で後ろを振り向いている詩人の姿だ。誰かがつけ回しているのではないかという不安からである。
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2017年03月02日

下北沢X物語(3229)〜鉄道交点地域の物語の発掘〜

CCI20170302_0000(一)ここ十数年、ひたすらに地域の話を聞いたり、調べたりしてきた。そのうちにあっちの話が、こっちに繋がり、そしてまた向こうに還っていく。が、当然といえば当然だ。人の営みは見えない糸で結ばれている。それが思いがけなく繋がってくる。昨日、郵便が届いた、開けると童話が入っていた。『僕のお嫁さんになってね』〜特攻隊と鉛筆部隊の子供たち〜というタイトルだ。下北沢から疎開した学童が偶然に飛行機でやってきた特攻隊員と出会った。代沢小の疎開学童だ、都会からやってきた彼女、女子たちは垢抜けていて、おしゃまだった。そういう彼女らに消えゆこうとする命は思慕した。『お嫁さんになってね』は彼らの願望だった。が、時が来て行かねばならぬ。彼らはやむなく浅間温泉を離れ、沖縄に飛び立った。彼らが壮行会で歌った一節、「世界平和が来ましたらなら、まっ先に、また浅間温泉に戻ってきたい」と歌った。が、その願望は叶わず、皆特攻戦死してしまう

 絵本の作者は高田充也さんである。長野県在住の童話作家だが、我らの当地と繋がってくる。私自身は、昨日まで紀要五号に取り掛かり『代田のダイダラボッチ』をまとめていた。それが昨日の午前中にやっと脱稿した。そして、午後にこの絵本がきた。この高田さん、『ダイダラボッチ』という絵本を出している。松本近郊にもダイダラボッチがあってその民話を記している。

 私は、地域に取材した物語を数多く書いてきた。一連の紀要はすべてそうである。いつの間にか五巻目に達していた。紀要以外も、『北沢川文学の小路物語』、『安吾文学碑建立記念記録集』、『下北沢X惜別物語』も冊子に書いてまとめた。これもすべて地域の物語だ。

 単行本著作もやはり地元の取材から始まったものだ。 惘筆部隊と特攻隊―もうひとつの戦史』(彩流社)、◆愼湛饗發函幣硝棔槙曲山脈:鉛筆部隊の軌跡』、『忘れられた特攻隊―信州松本から新田原出撃を追って』、『ミドリ楽団物語』−戦火を潜り抜けた児童音楽隊−(えにし書房)、すべて地元に材を取ったものだ。

 これらは結局戦争物である。しかし、意図して戦争物を書こうとして書いた訳ではない、疎開学童のことを調べていて偶然にこのテーマに行き会ったものである。

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2017年02月28日

下北沢X物語(3228)〜会報第128号:北沢川文化遺産保存の会〜

地図の配布活動1
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第128号    
           2017年3月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、世田谷代田の「帝音」歴史を語る〜研究大会開催〜

 当会、北沢川文化遺産保存の会は、下北沢文士町の歴史と文化とを十二年に亘って掘り起こしてきた。その結果分かったのは当地一帯には重厚な文化が層をなして埋まっているということである。掘れば掘るほど様々な価値が埋まっている。「下北沢文士町」は、禁断の実だった、一旦囓ったことで文化の深い鉱脈に行き当たった。

 これによって当面している課題がある。当地、一帯に浸透している文化の源泉はどこにあるのかという問題だ。文士たちが大勢集ってきて芸術文化村を形成していたことは紛れもない事実である。その突破口を切り開いたのは小説家の横光利一である。昭和三年に北沢の丘に越してきてこの地で執筆活動を始めた。
 当代行きっての人気作家、彼の家、「雨過山房」には多くの文士が訪れた。小説『微笑』に描かれた話は有名だ、彼は玄関の石畳に響くその足音で用向きが分かったという。石は意志を表わすらしい、この石は横光家より譲り受けて北沢川緑道の「横光利一文学顕彰碑」に用いている。
 あるいはこの鉄平石、叩いてみれば文化開花の音がするかもしれない。しかし、当地で響いていた音というのは重要だ。この音のはじまりは鉄道の音だ、昭和二年に小田原急行鉄道が開通し、電車が走り始めた、警笛が鳴り、カダンスが響いた。実は、これが音を呼び寄せたのである。それは音楽だ。

 当地一帯に育まれたのは文学だけではない。もう一つは、音楽である。実は、この音楽的な感性が地域に醸成されていたのである。この音楽感性の豊かさから先駆的な芸術が生まれた、代沢小ミドリ楽団はその一つだ。このバンドは戦前から活動している。この素地としては世田谷代田にあった「帝音」、帝国音楽学校の影響も大きい。これが地域一帯の芸術文化の嚆矢ではなかったのか。
 
 私たちは、二年前から研究大会を開いてきた。今年は三回目となるが、引き続き、これを計画している。二月一日は、八月分の会場抽選会があった。この大会を八月五日に北沢タウンホールで開催することを予定していた。
 ところが会場は、改装工事中で12階のスカイホールだけしか開いていない。ここへの申し込みが複数あった場合、会場確保はできないのではないかと心配していた。
 我らの会の会員、金子善高さんはいつも会場確保してもらっている。二月一日、午前、に私の携帯が鳴った。
「やっぱり取れませんでした?」
「いや、取れました、五日を申し込んだのは私たちだけでしたから」
「ああ、よかったよかった、心配していたんですよ」
 2017年8月5日(土)、研究会のテーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校のことを長年研究してきたのは久保 絵里麻さんである。彼女はこの研究で博士号を取得し、芸術学博士となった。

 世田谷代田にあった音楽学校、「帝音」のことは地元でも知られていない。彼女の研究によってこの学校の存在が明らかになった。昭和二年に発足し、戦争中に廃校となった。四十数年の歴史を閉じたわけだが日本の西洋音楽教育の草分けとなった学校だ、特には当地においての芸術文化の歴史を考える上で欠かせない存在だ。

(二)
 このことから第三回は、この音楽学校をテーマとしたいと考えていた。それで久保 絵里麻さんに、まずは講演をしていただきたいと考えていた。
 あらかじめ彼女には講演を頼んでいた、この快諾を受けて二月一日の抽選会に臨んだ。我らの心配は杞憂に終わり、会場が確保できた。

 これまで我々は、地図の表記では帝国音楽学校としていた。ところがそう単純ではなかった。帝国の名は変わらないものの「帝国高等音楽学院」、「帝国音楽高等学校」などとも呼ばれていた。名前の変遷にこそ歴史がある。学校の創設から廃校には音楽家たちのドラマがあった。経営母体が変わったのである、そこにこそ知られざる歴史がある。

 また、この学校の名前で「帝国」は変わりがなかった。しかし、この帝国というもの歴史を象徴している。言えば歴史のシンボルである。

 昭和二年に小田原急行鉄道は開通する、この年に音楽学校は創立されている。新宿から小田原までの鉄道が敷かれたことでこの沿線は大きく変化した。新しい文化もこれによって入ってきた。世田谷代田の音楽学校もその典型例だ。

 小田急開通時に配布された吉田三郎の鳥瞰図はよく知られている。富士の裾野を鉄道線路が小田原に向かう様を見事に描いている。が、小田原で終わりではない、その先に線路は繋がっている、遙か向こうには大陸や島も描かれている、満州、朝鮮、台湾などである。いわゆる大日本帝国の時代である。名前はここに拠っている。

 音楽学校にはこれらの地域、満州や朝鮮や台湾からも入学者がいた。今で言えば留学である。それらの人がくれば当然のことだが下宿する、学校近辺に彼らはこれを求めた。異文化との交流である。音楽学校が創設されて当地域で国際化が始まっている。
(三)
 代沢小に、ミドリ楽団戦後に発足する。この母体は昭和十六年にすでにバンドとして結成されている。これの指導に当たられたのは浜館菊雄先生である。当初は、バンドのみならず踊りも一緒に披露して好評を得ていた。
 ところが昭和十六年末に日本は太平洋戦争に突入する。バンドを続けてきた学童たちも疎開することになる。が、先生は学童に娯楽は欠かせないということで疎開先で器楽バンドを続ける、それが「浅間楽団」であり、「真正寺楽団」である。踊りあり、歌有り、地元の人々はびっくりする。日舞があり、洋舞がある、その所作が見事に決まっていた。

 戦前からあった音楽的感性は、この地域独特のものだった。だからこそ戦後になって世界的に有名になったミドリ楽団ができた。
 『ミドリ楽団』の実績や業績は、一帯の文化を耕していて行き着いたものだ。これはきむらけん個人が書籍としてまとめ、『ミドリ楽団物語』-戦火を潜り抜けた児童音楽隊-を出したものだが、長年の文化探訪の果ての成果だ。

 鉄道交点地域の音楽的感性を抜きにこの楽団はあり得ない、まとめを通しての再認識だ。この音楽的感性は、世田谷代田にあった音楽学校、「帝音」は大きな役割を果たしていたものと考える。
 知られざる「帝音」の歴史を、今夏、久保 絵里麻博士に語っていただく。
 日時、八月五日、場所、北沢タウンホール12F スカイホール 時間 一時半から
 なお、終了後、懇親会、納涼会を行う。

2、春の甲斐路を旅する(初めてのバス旅行企画)

私たちの会友に山梨在住の矢花克己さんがおられます。前々から彼の地元へ行ってみたい。そう思っていました。それで計画を立てました。試行錯誤しながらバス旅行を思いつきました。小型の貸し切りを仕立てていけば行けるのではないか。当会初バス旅行の企画。

 4月15日(土)九時頃 新宿駅か明大前駅付近
 中央高速→山梨県立考古学博物館(曽根丘丘陵公園)→窪八幡神社→(隣に養老酒造)昼飯(ほうとう)→根津記念館→恵林寺など 新宿でバス帰着。なお、このコースについては、かなり大まかである。次号129号で詳細は報告したい。

 参加者がある程度いないとできません。十人集まればできそうだ。参加者が増えれば増えるほど一人頭の代金が安くなる。 我らの会は、常に割り勘です。ぜひ参加を。すでに五人ほどが行ってもよいと。参加費は、バスの貸し切り代が主。8000円から一万ぐらいか。この企画初めてのことだ。それで三月二十日までに米澤、きむらへ参加希望を。早めに確定してバスの手配や昼食の予約をしなくてはなりません。よろしくお願いします。時期的には桃の花は終わっていると、しかし春爛漫である。中でも矢花さん推奨の窪八幡神社は佇まいが素晴しい。のんびり甲斐路を旅してみよう。

3、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 品川用水研究の第一人者による第二回目の用水探訪だ、街中の痕跡を訪ねていく。ハイライトは荏原最大の野沢水車跡だ、ここにはお堂があり、当時の石臼や水車が残されており、これらを観察、見学する。解散は学芸大学を予定している。


・第127回は別掲
・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前  
 第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで
第129回 6月24日(土) 午後1時 山手線恵比寿駅南口 コース未定
 恒例 三田用水跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
第130回 7月15日(土) 午後一時 東京駅丸の内口
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲桜祭りでの地図配布活動:下北沢文士町文化地図、第七版を配る予定。開花予想は三月下旬、四月初めの土日か?いつも通り安吾文学碑前。が、机椅子を借りている代沢小が花見堂小に転居する。椅子机は新代沢小から借りてリヤカーで運ぶことにしている。しかし、予定は具体的には立てられない。次号129号で案内をすることにしたい。
▲第十回「戦争経験を聴く会・語る会」は、五月二十七日、一時半から、場所は、下北沢東京都民教会。タイトルは、「疎開学童ゆかりの特攻隊―と号第三十一飛行隊・武揚隊」
▲第13回代官山フォーラムのご案内(当会との友好関係にある代官山ステキ総研主催)
第2部 特別講演:ヒルサイドテラス前史 木村孝三田用水研究家
                    (20:00〜20:45)
   ・近代初期の水車銀座と三田用水(朝倉水車を中心として)
・ヒルサイドテラスの敷地の成立経過(水路と道路の変遷史から)
・その他、近世・近代の猿楽周辺の知られざる歴史。
参加申し込みのご案内
開催日時:2017年3月17日(金)午後5時30分開場・6時開演。9時30分終演(予定)
開催場所:代官山ヒルサイドプラザ(ヒルサイドテラスB棟・C棟間の中央駐車場地階)
参加費用:3,000円、学生は1,000円(ドリンク付き。資料代含む。当日受付でお支払い下さい)
  ご注意 :下記申込書記入の上、事務局へメール、又はFAXで申し込みください。 
 メールの方 ⇒ dsi@daikanyama.ne.jp⇒   FAXの方 ⇒ 03−3496−1604
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は、代沢小安吾文学碑前での下北沢文士町文化地図の配布風景、きむらたかしさん撮影)



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2017年02月27日

下北沢X物語(3227)〜紀要第五号:代田のダイダラボッチ供

CCI20170227_0000(一)
 つい数日前までは、「苦闘特攻三千里」を書いていたが、いよいよ紀要の締め切りが迫って、操縦桿を切り替えた。今は「苦闘ダイダラボッチ三千里」に筆が及んでいる。特攻からダイダラボッチへの転換で悪戦苦闘している。

 特攻の話は七十一年前のことだ、が、ダイダラボッチの話は有史以前、旧石器や縄文まで遡る。一万年前への想像は雲を掴むようなものだ。しかし、不明なるものに主題を当て、考えると分かることはある。

 明治三十一年に国木田独歩は『武蔵野』を著わした。武蔵野の風趣を打ち出し、人々の武蔵野観に大きな影響を与えた。大正七年に創刊された雑紙『武蔵野』もこの影響を強く受けているはずだ。編集に携わった人類学者鳥居龍蔵氏は、「本会の目的は、専ら武蔵野における人文と自然を学び、また武蔵野における趣味を養はんとする」と謳っている。言えば、ダイダラボッチもこの『武蔵野』によってブームが起こったと言ってよい。

 『武蔵野』第二巻第三号に谷川磐雄著『武蔵野の巨人民譚』が載った。大正八年十二月のことである。いわゆる武蔵野地域に残るダイダラボッチがここで話題になった。谷川磐雄は、ダイダラボッチ研究の先駈けである。『武蔵野』掲載の論文に続き、『民俗叢話』(大正十五年六月 坂本書店)に「巨人民譚考」を載せている。彼はダイダラボッチの火付け役だ。

 ダイダラボッチについて学問的な価値や意義を説いて評判になったのは柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』である。この論考の中に、「あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることが書いてあった」と記しているがこれは谷川の『武蔵野の巨人民譚』である、柳田国男はこれに刺激されて世田谷代田のダイダラボッチの痕跡を実踏したものだ。

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2017年02月25日

下北沢X物語(3226)〜下北沢文士町文化地図改訂七版〜

DSCN0200(一)改版を重ねての地図づくりは、文化の源泉を探す旅でもあった。人が中心になって集まったというよりも近代の交通が人、及び価値を集めた。今回の七版地図のねらいは二つある。文化の源流と街としての場、言えば当地に流れていた時代時代の空気感への肉薄である。具体的に言えばそれは、音楽と写真である。

 音楽文化が重厚に存在していた。それは子供たちの音楽感性にまで影響を及ぼしていた。彼ら子供たちが臆すことなく音楽に、演奏にチャレンジしいくその感性の豊かさがあった。ここについては鉄道開通と同時に開校した音楽学校の存在が大きい。戦争で廃校になったが音楽文化風土は生きていたと言える。

 昨日、昭和三十七年の住宅地図を見ていてこの音楽学校すぐ北側に「長門美保歌劇団」があるのを知った。戦後になって活動し始めたようだ。宮本百合子が『今日の日本の文化問題』というタイトルで『思想と科学』臨時増刊号(昭和二十四年一月)に文章を発表している。この中でこの劇団の活躍の一端について触れている。

 日本人は長い間オペラを理解しなかった。自分たちで創作したオペラをもっていない。四七年度に入ってオペラとオペレッタへの関心がたかまった。いままで日本に唯一のオペラ団であった藤原義江の団体が「ラ・ボエーム」と「タンホイザー」などを上演したほかソプラノの歌手長門美保歌劇研究所が新しく組織されて活動を始めた。第一回公演の「ミカド」は始めて日本で上演され、外国舞台にない魅力で好評を博した。

 戦後になって先進的な歌劇団が発足して活動を始めた。駒沢線鉄塔63号の側だ、北側の64号側に帝国音楽学校はあった。高圧鉄塔の下に建物を建ててはいけない。そんなこともあって稽古場は少々音が漏れてもよかったのだろうか?

 この近くにやはり著名なオペラ歌手三浦環が住んでいた。これは鉄塔63号に近い。
昭和二十一年五月二十六日帝大病院で亡くなったらしい。代田の自宅での療養時には弟子筋が大勢見舞いにきていたらしい。『お蝶夫人』と題された日記にはその具体的な名前が記されている。

 オペラ歌手が住んでいた。この人々と帝音の関係は分からない。しかし、『カスバの女』歌って歌謡界に返り咲いたエト邦枝は帝国音楽学校の出身である。そのため地元を根城にして活躍していた。下北沢一番街八幡湯のマンションで歌謡教室を開いていた。

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2017年02月24日

下北沢X物語(3225)〜下北沢文士町文化地図改訂七版◆

DSCN0091(一)地図は地図で世界を築き上げる、文化探訪の旅はポスト探しから始まった。「四つ辻の赤いポストも美しく」に魅せられたからである。萩原朔太郎『猫町』に描かれたものだ。北沢の赤いポストを見つけては東盛太郎さんと喜んでいた。ポストや稲荷社などを探して、それを地図上にマークしていく。そうすると次第に文士町文化地図が出来ていった。何度も書き記したことだが、東さんがその地図を最初に持ってきたときの感動は忘れない。それは0版ともいうべきもので、これが元に初版、二版と出来ていった。今となっては、副題タイトルにあるように「文学と芸術と巨人伝説のまち案内図」となっている。

 地図改版の経過は、発見であり、気づきである。一つ一つの事象を地図に落としていった。すっかり忘れ去られたものでも何かしらの物語がある。例えば、寮などはその例だろう、特に地方寮には多くの逸話が眠っている。2016-01-30に当ブログにあったコメントだ。

「飯塚嘉穂寮」
懐かしく読ませて頂きました…
 私は、大学入試を2月いっぱい受験する為に、長期滞在で利用。
一泊300円だったと覚えています。
朝晩の食事は別料金で食べられました。 週に何回かは、寮の近くの「代沢食堂?」で九州の定食を食べたりしました。
当時は、博多ラーメン屋などは無くて、東京の味に馴染めず、苦労いたしました。
今から、35年前の話です。
ようやく「本多劇場」が出来たばかりの頃ですね!
南口には失火前の「マクドナルド」
緩い坂を下って行くと、右に「一休」という、擂り鉢入りの味噌ラーメンの店
左には、流行しだした「クレープ屋」
下りきったところの右手に「火の国ラーメン」 2階はカフェ
 寮に風呂はありましたが、当時は、大人170円 髪が長いとか、洗髪するなら190円と、銭湯が値上げを繰り返し始めた時になります。
数年後に閉寮になったと覚えています。
二人部屋が不人気 寮の老朽化もありましたが、本多劇場をきっかけに、あの周辺の地価が上がって、飯塚市も「今が売り時」と判断したと、噂しておりました。


 産炭地飯塚の東京寮である、苦学生が苦労して過ごした。青春の思いがどれだけ詰まっていることか。北沢にあったこの寮、また、代田にあった「七島学生寮」も物語が詰まった場であった。つい二三年前までは門柱に七島と刻んだ札が下がっていた。取り壊されてしまうとき記念にもらえないかと頼んだことがある。が、新しく建つところにプレートとして残すという現場責任者の話だった。ところが新しく建った建物には何もない。

 常々ここを街歩きで通るとき、伊豆諸島の七島から上京してきた若者を思った。
実際に、ネットで調べるとここで過ごした人の感想が載っている。

 神津島で育った一人は、厳しい自然の中で生きていくにはすべてを自分の手で作り出すしかなかったと。漁師だった父はイカ釣り針を自作していたと。それに影響されてものづくりに興味を持ち、勉学を志し、「七島学生寮」に入った。島社会は生きていて、寮の上下関係は厳しかったらしい。が、彼は下北沢という都会にここで触れて、大人になった。

 地図には、こういう思い出のある学寮を記したいところだ。旧版の住宅地図で調べると寮は数多くある。寮文化というのも一つだったが、これも消えてしまった。

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2017年02月22日

下北沢X物語(3224)〜下北沢文士町文化地図改訂七版〜

P1010904(一)桜の開花予想が出た、東京は、開花が三月二十五日で、開花が四月一日だと。例年満開に合わせて行事を行っている、「下北沢文士町文化地図」の配布活動である。既に六版は在庫がなくなた。今第七版作成に向けて努力を傾けている。この一万部ができれば累計は五万八千部となる、新地図は四月一日に例年どおり安吾文学碑前で配布したい。

 ところが地図の表記にも影響することだが学校統合の問題がある。この一帯の町は鉄道の開業が契機となって発展してきた。昭和二年に小田原急行鉄道、昭和八年に帝都電鉄が開業し、下北沢で鉄道線路が交差した。ジャンクションは人の往来を活性化させる。これによって人が集まってきた。顕著になのは小学校の開学である。人口が増えれば学校が必要になる。元々あった代沢小に加えて小学校が次々に開学する、東大原、守山、北沢、池ノ上、代田、花見堂などだ。面白いことにこれら学校の文化を探っていくと地域の特性が見えてくる。代沢小の芸術文化、そして自由気風は学区域にその土壌がある。

 一例を挙げれば測機舎だ、先進的な会社運営が当地の気風にまで影響している。代沢の学区域には測機舎村があった、会社から融資を受けて、自由な設計の個性ある家々が建った。その家から通ってくる子は親の影響を受けている。理系に強い、芸術に強い、そういうことはあった。彼らの文章を見るとレベルの高さが分かる。

 代沢小を舞台とした坂口安吾の『風と光と二十歳の私と』には代田橋に住む主任のことがしばしば取り上げられる。授業をほっぽらかして、土地の有力者のところに行ってはお茶を飲む。しかしこのことは分かってみると面白い、東大原小の立ち上げをするための運動であったことである。

 鉄道交点が出来て学校はどんどん開学する、現今は、小田急が地下化して交点は失われた。街も変貌しつつある。
「下北沢はとんでもなく変わりました。不便だし、面白くなくなったし…」
 この間、かつての勤め先の父母OBの新年会があった。古くから大原町に住んでいる人が二人も来ていた。下北沢が駄目になったと言っていた。彼女ら買い物は笹塚に行くと。

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2017年02月21日

下北沢X物語(3223)〜第125回街歩き:烏山を歩く◆

DSCN0194(一)烏山を歩いてみて感じたことは、土地がフラットであること、緑が多いこと、それとローカル時間が感じられることだ、時間がゆったり流れている。田園都市という言い方があるが、イメージとしてはこの呼び名が合っている。それでもこの田園は現代の東京が東から押し寄せてきている。この町もやはり文明と衝突することで大きく変化した。京王電鉄である。
 
 烏山神社に行くのに踏切を渡った。芦花公園1号踏切だ。京王線の特徴というのはある。遮断機が下りる。やがて、特急が目の前を通過していく電車のボディを手で触れるほどだ、しかもすっとばしてくるから怖い。この辺り一連の踏切は電車の運行本数が多いので開かずの踏切となっている。この踏切から東西を見渡す、京王線は地形の膨らみに沿って走っていることがわかる。いずれは高架になるようである。

 この京王電鉄が敷設されて変わっていく様は徳冨蘆花「みみずのたはこと」に描かれる。

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷ひやかしに往って帰る位何の造作もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉しいような、また恐いような気がします。隣字の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴ヴァイオリンの好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。


 近代文明の開通によって田園地帯が都会文化に侵食される。電車が開通して、学生生徒の電車通が始まる。今みたいに長大編成の電車ではない、単行だ。これにぎっしり乗ってゆく恋のときめきは電車開通の副産物だ、「お尻をさわられた」などというのもなかなか声を上げられないほどだった。
DSCN0195
 都会地から越してくる施設は川の源流部に作られる、松沢病院は我らの北沢川の源流がある。ここには「将軍池」がある。烏山寺町の高源院には弁天池がある。烏山川の源流の一つだとのこと。
 
 一帯は標高五十メートルほど、東に向かって傾斜は低くなる。我らが日頃親しんでいる川は、北沢川であり、烏山川だ、流れ流れて二つは合流し、目黒川をなって流れていく。
「高源院はもとは品川にあったものなんですよ」
 同行した原さんの話だ、川の文化、寺の文化、流れでも繋がる。

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2017年02月19日

下北沢X物語(3222)〜第125回街歩き:烏山を歩く〜

DSCN0189(一)街歩きをして楽しんでいる、一月は田端で、今回は烏山だ。一番面白いのが街の歩き比較ができる。やはり大事なことは自分の足が体感、実感することだ。今回烏山の街を歩き回って、不思議に思ったことはあまり疲れないことである。なぜだろうか?ここにこそ土地の固有性があるのではないか。


昨年、仙川地図研究所の和田文雄さんに仙川の町を案内していただいた、好評だったことから今回、また烏山の町の案内をお願いした。案内人の彼が最初に言ったのは、
「千歳烏山に準特急が止まるようになりました。乗降客が増えているのです…」
 昨年のダイヤ改正で準特急がここに止まるようになった。乗降客は2014年度は75,913人、2015年度は78,314人、乗客増に対する手当として準特急が止まるようになった。

 昨日、幡ヶ谷に用事があった。幡ヶ谷教育会館でコーラスグループの発表会を聞きに行った。前々から腹案があったからだ、戦争経験を聴く会、語るかいを催してきた。この五月二十七日に、記念となる第十回目を下北沢都民教会で行う。何があっても戦争は二度とするなということで継続してきた。ところが戦争を語る人がいなくなってきた。あの苦しみはどんどん忘れられていくばかりだ。
 戦争体験を聴くのは辛いことだ、戦争を語る人もいなくなり、記憶も風化するばかりだ。十年経ったからやめてもいい。が、できることなら工夫して続けられないかというのが自分にはあった。それでコーラスグループとのコラボでこれができないか。そのリサーチのために合唱を聴きに行った。千歳烏山に一時集合なので、コーラスの責任者との話は少ししか出来なかった。我らの趣旨には賛成とのこと。

 打ち合わせが終わって幡ヶ谷へ、各停で笹塚行くと、準特急が来た。
「千歳烏山停まるんだ!」
 実際に乗る、たちまちに駅に着いた。便利なことこの上ない。が、何故ちとからに準特急が停まるようになったのか。

 歩いて疲れないということを述べた。それは地形がフラットであるからだ。どこまでいっても坂はない。
「確か、世田谷区でも一番標高が高かったはずだね?」
「そうそう確か五十メートル近かった」
 標高は高いが地形はフラットで歩くのも負担が少ない。

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2017年02月18日

下北沢X物語(3221)〜ダイダラボッチと連合艦隊司令長官〜

DSCN0186(一)墨痕鮮やかなサイン、それが短刀の鞘に記されていた。人間魚雷に搭乗して特攻に行くはずだった人が持って帰ったものだ。記された名は豊田 副武、連合艦隊司令長官である。この居宅が常々歩いている下馬にあったことを知った。その場所はおおよそ分かってはいたが特定できないでいた。折々に通り掛かるときに知った人に出会わないか気に掛けていた。ところが叶わずに二年ほど過ぎた、この二月十六日、街歩きの保険手続きをするために三軒茶屋に行った、野沢のダイダラボッチ痕跡経由で向かう、鶴が窪公園である、足跡には湧水池がある、その流れに沿って行くと駒沢線にぶつかる。鉄塔ナンバーは39だ。旧宅はこの近辺であることは分かっていた。このとき犬を連れた人がやってきた、その風体から直感した、長官宅を知っているのでは?

「ちょっと伺いたいのですけども、連合艦隊司令長官だった人の家はご存じですか?」
「ほら、そこだよ」
 彼は路地の角を指さす。
「えっ!」
 驚きも驚いたり何度も通っていた路地の角だった。長年の疑問がたちまちにあっけなく氷解した。

 そこが分かると具体的なイメージが湧く。だいぶ前に読んだ本で、ここで元長官は畑を作っていたという。場所が分かって鍬を振るう彼の姿が浮かんできた。
「ここの電柱から向こうの電柱まで、焼夷弾で焼けたのは西側、東側は焼けなかったようです。」
「ここの長官の家を狙ってB29は爆撃してきたという話を聴いたことがありますが」
「そうそうここら一帯焼夷弾が落ちたからね、子供の頃だけど、鶴ヶ窪から流れているどぶには焼夷弾のかけらがざくざく出てきましたよ」
 都市伝説がある、北沢の東条英機邸、下馬の豊田副武邸を狙ってB29は爆撃したという。重爆撃機にはノルデン爆撃照準器を搭載していた、が、数十キロ手前でピンポイントを狙っての爆撃はできなかった。軍の高官の屋敷が焼けるとみな申し合わせたように、狙って撃ったのだと言う。

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2017年02月16日

下北沢X物語(3220)〜紀要第五号:代田のダイダラボッチ〜

DSCN0101(一)荏原南北、比較ダイダラボッチ論、そういう観点が成り立つ。言えば北は本家本元代田のダイダラボッチであり、南は洗足ダイダラボッチである。両方ともに歩き回ってきた。その荏原逍遙では南行する場合が多い、二つを観察していて思うのは洗足ダイダラボッチの方により惹かれる。一つは具体的な凹みが四つ残っていること。摺鉢山、貉窪、洗足大池、洗足小池だ。もう一つは伝説のリアルさが身近に感じられることだ。

 荏原南北、比較ダイダラボッチ論でいえば、代田ダイダラボッチは学術的であって、洗足ダイダラボッチは物語的である。

 代田ダイダラボッチは柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』でよく知られている。当地への実踏によって彼は右足跡の存在を確認している。この場合、地名起源が重要だ、痕跡のダイダラボッチがはっきりと残っていて、そして、彼は「村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである」と断言する。この足跡をもとに伝説、物語が作られた。

 伝説は、『世田谷の民話』となっていて、ダイダラボッチの善行が語られる。「男体山と浅間山の頂きに、棹をかけて、大きなモメンの着物で北風をふせいでいる」と。そして最後だ。

 つぎの日、代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ、長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうにすっていました。巨人は、黙って代田の方に顔を向け、にっこりーと。


この話は創作伝説である。話の落ちが規範的である。が、ダイダラボッチの居る風景は巧く取り込まれている。それは代田から遠望できる山々を登場させている点だ。男体山や浅間山や筑波嶺である。世田谷代田の丘陵から望み見えた山々である。
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2017年02月15日

下北沢X物語(3219)〜富士と猫と東工大〜

DSCN0119(一)「今日は見えないね。何かね、富士を見るとホッとするのよ。あのね昼もいいけど夕焼けに光る富士も綺麗だわよ。神々しいのよね、私なんかもう先行きないしね、あああそこに行くのかなんて思うわ」
 荏原逍遙で東工大へはよく行く。構内の目黒線と大井町線を跨ぐ陸橋からは富士がよく見える。呑川左岸崖線の背尾根に大学はあるので西の空は広く、富士を見るには絶好の場所だ。川から登ってくる道は、「富士見坂」で、「関東の富士見百景」に選ばれている。そのプレートは大学構内にある。昨日、富士を眺めていると乳母車を押して婆さんがやってきた。三毛とぶちの二匹の猫を乗せていた。


「あそこにここにも建物がたったでしょう、もっと前まではよく見えたのにね、この大学にもこうにょきにょきビルが建ったしね、だけどね古い建物は壊さないというのね、だってね、壊すのに相当なお金が掛かるというのよ」

「おばさんは、ここは古いのですか?」
「生まれてこの方、ここを離れたことがないのね」
「そうなんだ?」
「前は畑やっていたからね」
「あれ、そうすると地主だよね。もしかして岸田さん?」
 一帯の地主として岸田は有名だ。
「いや、そうじゃないけどね、ここら辺り土地を一杯持っているのは大音寺だね」
 崖線の向こう呑川の右岸にある正覚山大音寺、享保年間に創建された。
「たしかにね、お寺っていうのは土地持ちだよね」
 北沢では森厳寺が地主だという話を聴いた。立派な伽藍のある寺は大概が地主だ。

「古くから住んでいるんだとすると、ほら、この北の方に行くと深い谷があってさ、あそこを擂鉢山といっていたって知っている?」
「ああ、すりばちやま、聴いたことはあるね、母から」
「じゃあさ、その擂鉢山が右足で、あっち、東にには貉窪ってあってさ、これが左足なんだ。ダイダラボッチの足跡でさ…」
 そこまで言ってためらった。お婆さんといっても女性だ。ここのダイダラボッチの話は女性にはしにくい。
「ここの真上でしょうべんをしたんだよ、そしたらそれで洗足池ができたというんだ。聞いたことはある?」
「そんな話あるのかね、初めて聞く話だね」続きを読む

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2017年02月13日

下北沢X物語(3218)〜戦争と人間・信州特攻第四巻供

DSCN0178(一)武揚隊は昭和二十年二月十日に新京で他の三隊とともに結成された。これ以後内地に飛んだ、逼迫した戦況の中で長野県浅間温泉に四十日余りを過ごした。兄弟隊の武剋隊の前半は三月二十七日、沖縄中飛行場から、後半は四月三日に出撃して十五機が特攻戦死している。一方の武揚隊は、台湾に渡った、その途中で敵機に遭遇し長谷川信少尉ら三名が撃ち落とされている、他も直行できた機もあったが、撃たれて石垣島に不時着してもいる。遠距離の移動だっただけに困難が多かった。最終出撃が七月十九日だ、この間五ヶ月が経過してようやっと番が回ってきた。長く生きていられたとも言えるが、その精神的苦悩はいかばかりだったか?この日の突撃は陸軍特攻の最後となるものだった。

 武揚隊の記録は極めて少ない、が、偶然に彼らが松本浅間温泉で残した遺墨が見つかった。墨痕は確かに隊員が当地に生きていたことを知らせた。この慰問には土地がらみのストーリーがある。今で言えばサイン帳だ、それを持って旅館富貴之湯を訪れたのは高山宝子さんだ。彼女は、武揚隊隊員の飯沼芳雄伍長と小学校で同級だった。そのよしみでのつながりだ。遺墨と同時に写真十枚も見つかった。ところが名前が分からない。そのことから他隊もまざってのことだろうと思っていた。

 しかし、年月が経つにつれ分かってきた。特攻戦死者は知覧平和資料館に写真がある。これと照合して何名かが武揚隊員であることも分かってきた。が、特攻戦死者は照合できるが他はできない。武揚隊の特攻戦死者は七名だ。飯沼伍長は「陸軍特別攻撃隊員名簿」にはない。が、命日は七月十九日である、第八航空師団の陸軍最後の特攻に出撃はした。が、戦果確認はできなかったことで名簿に加えられていない。

 武揚隊隊員の長谷部良平伍長は、機の不調から遅れをとった。それで知覧に行き、誠隊から振武隊に転属し、四月二十二日に「第三十一振武隊」として単機で出撃している。

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2017年02月12日

下北沢X物語(3217)〜戦争と人間・信州特攻第四巻〜

DSCN0175(一)戦争から71年も経った、真実を見極めることも困難になってきた。それで今は記録資料から、真実を掘り抜くという作業を試みている。すなわち資料に書かれていることの向こうを読んで、そこに隠れている事実を浮かび上がらせるという手法だ。資料から彫り起こす戦争史である。例えば山本薫中尉の故郷単機訪問だ、各務原から新田原に向けての途中に違いない。長機は最前線にということでの先んじての飛行だ。部下は十四人いる、それぞれ習熟度が違う。新田原から大陸経由で台湾へ向かうが編隊でも不慣れなものもいた。いわゆる航養出は腕がある。が、少飛組は促成教育だっただけに技術が身についてないということはあった。そういう中で単機でいくというのはやはり陸士出の操縦者だ。航法をしっかり習っていてこれに長けていたからだろう。分かってみると優等生だった。隊長になるだけの技量があったらばこそだ。

 故郷通過時に、実家周辺を旋回したという。二十七日の十一時頃だという。昼か、夜かである。この日未明、兄弟隊の武剋隊が突撃を敢行して戦果が報じられた。あるいはそれで急いで最前線に向かったのかもしれない。

 十一時は、夜だったのではないかという推理を私はした。四国から南西方向に飛んで新田原に向かう、日向灘を通っていく、ここには空母エセックスがいて、ここから発進した艦載機が新田原飛行場を襲ってもいる。三月十八日のことだ。制海権、制空権ともに敵に支配されていた。そこを日中堂々と行くのは危険だ。夜間飛行だったのではないかと想像した。これは根拠のあることだった、二十五日健軍に進出していた武剋隊前半、実は隊長機は月明かりを利用して夜間飛行をしていたことが分かった。

 武揚隊結成から、そして終焉までを追っている。やはり大きいのは遺墨の発見だ。彼らが確実に浅間温泉にいたという事実を証明している。全体像、というか、彼らの軌跡が分かるにつれ、ドラマがドラマとして見えてきた。もっと分かり易く言えば、特攻を命じられて、そして最後の隊がいくまで半年かかっている。これほど長期に亘って緊張を強いられた隊は他にあるのか?
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2017年02月10日

下北沢X物語(3216)〜戦争と人間、そして風景:信州特攻第四巻〜

DSCN0167(一)図書館の書棚で217.5風景というのはある。図書分類では太平洋戦争に当たる。歴史の中では突出していて書物の数が多い。需要と供給ということで言えば人の求め多いからだ。しかもそのトピックは原爆とか軍人とか目を惹くものが多い。中でも特攻物は特に目につく。なぜかくも著作が多いのか、戦争というのは壮大なドラマであるからだろう。その点、図書館における戦争書棚の風景は興味深い、人々は戦争風景に惹かれるのではないか。しかし、アッツ島の洞窟で飢え死にした人、バンザイクリフで崖から飛び降りた伊東幸子さんの物語などはない、勇壮に死んでいった人たちの話が中心だ。ところが飢え苦しみもがいていった人の方がどれだけ多いことか?

 戦争と風景、思い起こすと悲劇的な場面を多く思い浮かべる。人が銃殺されたり、重爆撃機による大火災の様子だったり、敵艦が群れなす中を特攻機が突っ込んでいったり、そういう場面は鮮明に浮かぶ。勇壮というよりも悲壮である。

 217.5的風景、こんな見方もできないか。太平洋戦争は負けた。が、勝っていたなら現今の図書館書棚風景はだいぶ変わったのではないか。想像するにこんなにも数多く書かれなかったのではないか。

 人は、天国よりも地獄を見たがるのではないか。教典では天国と地獄とが書かれる。蓮の花が綺麗に咲いていて、目にするもの総てが美しいとか書かれてあっても実感は湧かない。が、地獄で人々がもがきくるしみ、喘ぎ、そして叫ぶ、赤鬼がそういう人間を鉈でぶつぶつと切り裂くなどという場面は目を覆いたくなる。

 天国よりも地獄の方が説得力がある、戦争に勝って美酒に酔い痴れるというのは物語にはならない。まさに惨憺たる地獄に遭遇した話の方に興味を持つのではないか。

 私たちは哀調に心打たれる、そういう国民性、文化性もあるのではないか?

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2017年02月09日

下北沢X物語(3215)〜武揚隊の行方?:信州特攻第四巻供

DSCN0171(一)戦後71年経って戦争史の掘り起こしは困難なってきた、が、長い年月このことに関わってきたことで蓄積されたものがある。これによっての歴史の彫り起こしはできる。今回の第四巻はまさにこれによっている。昨年十一月、武揚隊の山本隊長のご遺族が上京され、多くの資料を預けられた。どうこれを作品に仕上げるのか途方に暮れていた。しかし、ようやっと見通しが立ってきた。全体の半分、60ページまでが何とかできあがってきた。一ページ1600字×60=原稿用紙200枚分だ。

 掘り起こしは、情報の総合化でもある。例えば武揚隊の遺墨だ。2012年に発見された。五年経ってみるとこの意義が多角的に分析できる。昨年十一月に松本在住の飯沼芳雄伍長の妹さんに取材したことが大きい。つい最近、山本家資料から「五来軍曹は常に黒めがねをかけていた」とあった、まさにその写真は遺墨とともに見つかった写真アルバムにあった。これらのことから遺墨もアルバムも武揚隊が中心だったと分かってきた。

 長谷部良平伍長は、東航、東京陸軍少年飛行学校出身者だ。女性が書いたかと思われる字で遺墨には思いを書き記していた。武揚隊が新田原に向けて飛び立つとき各務原で彼の機だけが出発できなかった。やむなく彼はとどまる。彼の家は高山線、上麻生にあった。それで彼は一泊の外泊を申し出て、故郷に帰った。この経緯が『白い雲のかなたに 陸軍特別攻撃隊』(島原落穂著 童心社)に掲載されている。

 ここに彼の母宛の手紙が紹介されている。「休暇に帰つた際の母上の動作を見て、全く一人で泣きました。その為面会もお断りしました。悪しからず。今の任務を考へた際、やむを得なかつたのです」と。どこから何時出されたかはもちろん記されていない。

しかし、直感で分かる。間違いなく松本浅間温泉富貴之湯から出されたものだ。
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2017年02月07日

下北沢X物語(3214)〜武揚隊の行方?:信州特攻第四巻〜

DSCN0165(一)長い長い道のりだ、「東航」の案内図には、「立川駅ヨリ学校迄ノ距離六粁」とあった。歩いても歩いても着かない、疎開学童に端を発した戦史を追求めての果てのない旅路でもある。2007年12月14日に当ブログにコメントが寄せられた、「疎開学童が歌っていた寮歌」を知らないか?これが物語の発端である。もう足かけ十年にもなる。自身のライフワークは「音の鉄道文学史」の探求なのだが、気づくと現今の物語の調べが中心となっている。時の経過は恐ろしい、これまでの足跡は長編三巻として残っている、かてて加えて、今また四巻目に着手している。

 昭和二十年二月十日、満州新京で大本営直轄の特攻四隊が発足した。このうち二隊、武剋隊と武揚隊とが松本陸軍飛行場に飛来してきた。そして、彼らが宿舎としたのが浅間温泉である、ちょうどここには世田谷の学童が2500人ほど疎開してきていた。彼らと学童とがふれ合って物語が生まれた。そのエピソードを書き記した。知られざる戦史だ。終わりだと思ったら、終わらない。

 こちらは航空から鉄道にシフトしたい。
「それはね、皆さんが呼んでいるのですよ」
 彼らの霊が呼び込んでいるのだと言う人もいる。調べようとして調べたわけではない、しかし、気づくと憑かれたように調べていた。歴史に埋もれた糸をたぐっていくと、「なるほどそうだったのか」と気づくことがある。

 昨日のことだ、武揚隊の五来軍曹は「いつも黒めがねをかけており」という記述に出会った。武揚隊の遺墨とともに発見された写真をチェックすると何と黒めがねの男が写っている。
「なんだ、これは五来末義軍曹ではないか!」

 東航生だった長谷部良平伍長は富貴之湯の向かいの小柳の湯にいつも来ていたという。飛行場に行くときに玄関に挨拶に来て敬礼しては「行って参ります」とくるりと向きを変えて去っていく、旅館の娘さんがそれを見て可愛いと思ったと。それでこれもまた手持ちの写真を見る、そうするとあった
「この写真どうみても長谷部良平伍長だ!」

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2017年02月06日

下北沢X物語(3213)〜武揚隊の少年飛行兵と東航〜

DSCN0173(一)自身の活動の中で武揚隊の遺墨が見つかったことは大きい。彼らが浅間温泉に滞在していたという明白な証拠だ。発見は二〇一二年春、五年経過した。これと同時に出てきた兵隊の写真があった。誰が写っているのか分からない。しかし、昨年十一月に武揚隊隊員の飯沼芳雄さんの妹さんに取材する機会があって、実情が分かってきた。「母は写真屋さんを連れて行って撮ってもらった」と、実際分かったのはすっかり有名になった写真には飛行帽に飛行眼鏡とつけた飯沼芳雄軍曹が目立つように写っていた。右端は西尾勇助軍曹だとの指摘。富貴の湯の庭で撮ったこれは武揚隊隊員と東大原国民学校の疎開学童だ。


 遺墨を所持していた高山宝子さん、そして飯沼家にあった写真、前者は高山宝子さんが飯沼芳雄伍長と同級だった、後者は飯沼さんの写真アルバムだということからすると写っている写真は武揚隊の隊員だったと考えられる。

 そして特徴的なことは、十枚の写真に写っているのは下士官であることだ、将校は見あたらない。下士官は軍曹、伍長である。武揚隊には八名の下士官がいた。写真では飯沼芳雄軍曹、五来末義軍曹、柄澤甲子夫伍長、西尾勇助軍曹までが確認できた。後の四名は顔を知らないだけである。

 特攻戦死した場合は、知覧特攻平和会館で写真を確認できる。つまりと「陸軍特別航空隊員」として知覧に修められている兵士である。交戦戦死などの場合はここには修められない。が、これは親族に会って確かめるしかない。飯沼芳雄伍長の場合は、お宅にアルバムがあってこれは確認できた。

 武揚隊員で特攻戦死したのは五来軍曹、柄澤伍長、それともう一人、長谷部良平伍長である。彼の場合、特殊だ。武揚隊は第八航空軍の指令で台湾に向かう。が、彼の飛行機は各務原で不具合を起こし、修理のために遅れをとった。修理が終わって後を追うが、九州に着いてみると彼らはすでに出発していた。彼はやむなく誠第三十一飛行隊から第三十一振武隊として単独一機で知覧から四月二十日に出撃している。

 この長谷部良平伍長、武揚隊の下士官の一員だ、とすれば写真に写っているはずだ。彼の写真は本にも載っている、それに似た一枚があった。富貴之湯の庭で飛行服を着た青年がいた。これは長谷部良平ではないのか
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2017年02月04日

下北沢X物語(3212)〜執念深く戦跡を歩く、東村山東航へ〜

DSCN0168(一)執念深く戦争史を追っている。思うにあの時代が愚かだったということは簡単に言える。ところが事は単純ではない、時代の空気は染められる、そこをどう客体化して考えるか?やはり大事なことは過去をしっかり知ることだ。そのためには戦争の痕跡を歩いてみることだ。そうすると国家の野望とか思いが透けて見えてくる、昨日立川まで行って駅から東村山まで五キロほど歩いた。東航、東京陸軍少年飛行学校の跡地へ行くためだ。自身調査しているのは武揚隊の少年飛行兵である。十五名のうち三人が把握できている。飯沼芳雄伍長(少飛14期)、長谷部良平伍長(少飛十五期)、春田正昭兵長(少飛十五期)だ。前から順に、学校は大刀洗、東京だということが分かった。三人目は分からない。昨日は二人目の飛行学校の跡地を訪ねてみた。
 
 二〇一二年以来、近代戦争史のドラマを追っている、彼ら武揚隊が浅間温泉に滞在していたとき各隊員が思いを筆で揮毫した。これが発見されたことで彼らの滞在が日の目をみた。五年経ってみて分かってきたことは地元出身の飯沼芳雄伍長が鍵を握る人物だと分かってきた。愛機を駆っての里帰りは全くの偶然だった。早速に自宅上空を旋回、デモンストレーションをした。「飯沼が帰ってきた!」という情報は駆け巡った。同級の者達が慰問に訪れた。松本高女の女子が中心だった、何度も行くうちに隊員と親しくなった、それで隊員十一人が揮毫をした。

 これらの発信が遠く四国まで伝わり、彼らの隊長の遺族が残存資料を上京してこられて私に託された。縁から縁が繋がる、これによって新田原以降の彼らの足取りが明確になった。遺墨発見、そして新資料発見は、縁の連鎖である。

 今年五月に「戦争経験を聴く会、語る会」を開く、今度で十回目だ。記念すべき大会だ。タイトルは、「疎開学童ゆかりの特攻隊」-と号第三十一飛行隊-としている。この疎開学童は浅間温泉富貴之湯に疎開していた東大原国民学校の学童だ、その彼らと三十一飛行隊とのふれ合いが明らかになったことで、この隊、即ち武揚隊の出撃から終末までのドラマの全貌が見えてきた。まさに波瀾万丈の苦闘特攻だった。

 従来は自分自身が一つ一つを調べて戦争史の真実を明らかにしてきた。が、今回は資料を託された、これら情報の山から、武揚隊の事績をドラマとして掘り起こすことが託された、今わき起こっている思いは、失われた戦史を記録として何とか残したいとの思いだ。この調査の一環として昨日は東航跡を訪れた。
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2017年02月03日

下北沢X物語(3211)〜研究大会開催:世田谷代田「帝音」をテーマに〜

帝国音楽学校(一)私たちは下北沢文士町の歴史と文化とを十二年に亘って掘り起こしてきた。課題は、一帯に浸透している文化の源泉はどこにあるのかという問題だ。文士たちが大勢集ってきて芸術文化村を形成していたことは紛れもない事実である。その突破口を切り開いたのは小説家の横光利一である。昭和三年に北沢の丘に越してきてこの地で執筆活動を始めた。人気作家の彼の家、「雨過山房」には多くの文士が訪れた。小説『微笑』に描かれた話は有名だ、横光利一は玄関の石畳に響くその足音で用向きが分かったという。意志を表わすとい石は横光家より譲り受けて北沢川緑道の「横光利一文学顕彰碑」に用いている。文学者としての開拓者は彼だ、が、芸術文化は文学にとどまらない。音楽感性が地域に醸成されていた。この音楽感性の豊かさから先駆的な芸術が生まれた、代沢小ミドリ楽団はその一つだ。このバンドは戦前から活動している。この素地としては世田谷代田にあった「帝音」、帝国音楽学校の影響である。地域一帯の芸術文化の嚆矢ではないか?

 私たちは、二年前から研究大会を開いてきた。今年は三回目となるが、これを計画している。二月一日は、八月分の会場抽選会があった。この大会を八月五日に北沢タウンホールで開催することを予定していた。
 ところが会場は、改装工事中で12階のスカイホールだけしか開いていない。ここへの申し込みが複数あった場合、会場確保はできないのではないかと心配していた。

 我らの会の会員、金子善高さんはいつも会場確保してもらっている。二月一日、午前、荏原逍遙中、矢沢川を歩いているときに電話があった。
「やっぱり取れませんでした?」
「いや、取れました、五日を申し込んだのは私たちだけでしたから」
「ああ、よかったよかった、心配していたんですよ」
 2017年8月5日(土)、研究会のテーマは「世田谷代田の『帝音』(仮)」である。この音楽学校のことを長年研究してきたのは久保 絵里麻さんである。彼女はこの研究で博士号を取得し、芸術学博士となった。

 世田谷代田にあった音楽学校、「帝音」のことは地元でも知られていない。彼女の研究によってこの学校の存在が明らかになった。昭和二年に発足し、戦争中に廃校となった。四十数年の歴史を閉じたわけだが日本の西洋音楽教育の草分けとなった学校だ、特には当地においての芸術文化の歴史を考える上で欠かせない存在だ。

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2017年02月01日

下北沢X物語(3210)〜荏原都鄙境、オーラが充満する長者丸界隈供

DSCN0153(一)武蔵野の地形陰影が文学に反映されている。当該場所の凹凸、風景が物語を生じせた。個々の作家がその地点を書こうと申し合わせたわけではない、今になってみるとあの小説、この小説に描かれていた。それは梶井基次郎『路上』、海野十三『省線電車の射撃手』だ。白柳秀湖の『駅夫日記』も目黒駅の切り通しができるときの様子を描いている。

工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒ビールの方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。

 目黒駅は二段になっている、上は山手線のホーム、その西側には深い切り通しがある。これを掘削するときの工事のことが描かれている。淀橋台の背尾根を削って下段に線路を通した。かつては貨物線、今はここには新宿湘南ラインが通っている、恵比寿方面から来た山手線電車はこの貨物線の上を越えていくあたりだ。その辺りの雰囲気、空気を海野十三は描く、いよいよ「真っ暗で陰気臭い場所」に差し掛かる。

この辺を電車が馳っているときは、車内の電燈までが、電圧が急に下りでもしたかのように、スーッと薄暗くなる。そのうえに、線路が悪いせいか又は分岐点だの陸橋などが多いせいか、窓外から噛みつくようなガタンゴーゴーと喧やかましい騒音が入って来て気味がよろしくない。という地点へ、その省線電車が、さしかかったのだった。

その現場だ、分岐点というのはもっと手前の構内にあったのではないか?陸橋までいくとこれはない。まず、かかくく、ここくくと構内のヤードの分岐機を過ぎていく。そして上り勾配にさしかかる。登るのにモーターに電気を取られるのか、室内灯が暗くなる。長者丸の窪陰気オーラの充満しているところだ、その現場に掛かった。このときに殺人事件は起こった。

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2017年01月31日

下北沢X物語(3209)〜荏原都鄙境、オーラが充満する長者丸界隈〜

DSCN0145(一)乗り慣れた電車では左右どちら側に席を占めるか?線の上り下りでもで異なる。今は改造不便駅、渋谷駅は敬遠する、が、かつてはどこ行くにもここが起点だった。新宿方面に向かうときは左だ、大昔はワシントンハイツが見られた、続いて明治神宮の森、車窓のハイライトだ。反対側の品川方面はどうか、まずは左だ、渋谷貨物駅があって、次が恵比寿駅のヤード、それからビール工場、その後勾配を上って左に木々がおい繁る谷、ビール工場の裏手、何となくわびしいところだ。ここに恵比寿長者丸線の停留所があった。

  梶井基次郎『路上』には、ひっそりと隠見される市電恵比寿長者丸線の風情が描かれている

「彼処に木がこんもり茂ってゐるだろう。あの裏に隠れているんだ」
 停留所は殆ど近くへ出る間際まで隠されてゐて見えなかった。またその辺りの地勢や人家の工合では、その近くに電車の終点があろうなどとはちょっと思へなくもあつた。どこかほんとうの田舎じみた道の感じであつた。
現代日本文学大系 63 筑摩書房 梶井基次郎他 昭和四十五年


  「田舎じみた道」は、言い換えれば都鄙境だ。豊島郡と荏原郡の境でもある。辺境の空気が漂っている。実際にここを再度歩いたが、沢のどんづまりには窪のオーラが漂っている。この陰影なるものが文学作品にひっそりと描かれている。『路上』ともう一つがあった。

 ここを通過する山手線の電車でもそうだ。沢の陰気が影響してその事件は起こった。ここが殺人事件の現場として設定されている。
タイトルは、『省線電車の射撃手』だ、初出は、昭和六年(1931)博文館発行の「新青年」十月号とのことだ。

 時間をいうと、九月二十一日の午後十時半近くのこと、品川方面ゆきの省線電車が新宿、代々木、原宿、渋谷を経て、エビス駅を発車し次の目黒駅へ向けて、凡そその中間と思われる地点を、全速力フル・スピードで疾走していた。この辺を通ったことのある読者諸君はよく御存知であろうが、渋谷とエビスとの賑やかな街の灯も、一歩エビス駅を出ると急に淋しくなり、線路の両側にはガランとして人気のないエビスビール会社の工場だの、灯火も洩もれないような静かな少数の小住宅だの、欝蒼たる林に囲まれた二つ三つの広い邸宅だのがあるきりで、その間間には起伏のある草茫々の堤防や、赤土がむき出しになっている大小の崖や、池とも水溜りともつかぬ濠などがあって、電車の窓から首をさしのべてみるまでもなく、真暗で陰気くさい場所だった。

 この辺りの車窓風景の描写は興味深い、昭和六年頃の風景である。「読者諸君はよくご存じであろう」と彼は言う、やはり山手線内回り電車では、目を惹く場所だった。

 かつてこのエビスビールの工場には引き込み線があって、青い旧型客車がとめられていた。この車内でビールを飲むことができた。私は去る旅行会社の人と懇意になって彼とジョッキを傾けたことがある、私よりも若かったが彼は死んでしまった。私の海外旅行経験は一回だ、その彼にとともに台湾鉄道旅行をした、遠い思い出だ。
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2017年01月29日

下北沢X物語(3208)〜会報第127号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第127号    

           2017年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、二月初午(狐に化かされた羽根木の細野さん)

(一)
 新年になったと思ったら、もう二月だ、初午を迎える。今年は二月十二日である。稲荷社の祭の日だ。稲荷社は農業神で旧家の屋敷にはこれが祀られていた。代田七人衆の柳下政治さんに以前お話を伺ったとき、「よくすればよくなる」と言っておられた。すなわち、お稲荷さまを大切にして社などを掃除したり、供え物をあげたりしていると必ず見返りがあって生活は向上していく、とのことだった。
 かつては多くの講があった、大山講、富士講などだ。稲荷講もその一つだった。どんなものだったか、「荏原雑記」(『民俗叢話』谷川磐雄著)に紹介がある。

 毎年二月の午日に行はれる。稲荷様が沢山あるので、一の稲荷講二の稲荷講などといふ。この「お宿」は一村の六軒が一組に組み合つてする。その中の一人は「お米集め」となり、各人から米を一升ずつ集める。一人は「宮掃除」となってその前日にお宮を掃除する。一人は「お宿」をする。残る三人は客人の接待に働いて女中代わりとなる。
 当日の前夜から村の若者が「お宿」に集まつて夕飯を食べ、夜はさまざまな物語に時を更かしてして皆一泊する。翌日(午の日)は皆業を休んで遊ぶ。


 娯楽が少なかった村でのレクレーションである。農業従事者の仕事はきつい、朝から晩まで身を粉にして働いた。そういう中で唯一、若者が集まって羽根を伸ばせる日だった。夜の物語は、若者のことだ「あの娘がかわいい」という話だろう。
 女の話がまっさきに出た。が、近隣で起こったこと話にも及んだろう。『民族叢話』は大正時代に書き表されたものだ。この時代、稲荷神として崇められた一方、化けて出てくる狐がいた。
 往時の古老たちは語る、「木々がこんもり茂っていた出頭山や守山は、狐が住んでおっての、あの辺りでよく化かされたもんだよ」と古老たちが語るとき、嬉しそうだった。彼らに対するエールでもある。得も言われぬ世界が、暗がりの向こうに存在した。怖くはあるが希望だったのかもしれないと思いもする。

 現今、我々が生きている希望は何か。ハートというハートではなくて、どこまで行ってもハードというハードである。人間に代わってすべてを機械が行う、このことへの期待が未来への希望として語られる。これが人間の幸福追求なのだろうか、甚だ疑問である。人間は、営為の動物だ、「する」ことがあって初めて人間なのだと思う。機械は専一に「する」ばかりで、振り返りはしないし、郷愁も持たない。彼らの脳裏には走馬燈はない。
 狐狸伝説の信奉は、これを信じたいと思う人の産物だった。が、彼らが跳梁する場もなくなって化けて出てくることはなくなった。狐狸的な世界を喪失した我々はこれからどこへ向かうのだろうか。

 一杯引っ掛けていい気分で帰るときにタクシーを拾った。が、運転士はいない。狐に化かされたかと思うと「機械運転でお客様は運ばれています」と機械音声での案内が流れる。
狐が出てくる出番はない。昔話を信じようと思っても信じられなくなっている。
 さて、羽根木の細野巌さんである。出頭山や守山あたりで狐に化かされたらしい。

 暮方になり丁度御地蔵様があるところに出て淋しいなと思ったとたん急に歩けなくなり眠いような酒に酔ったような変な気持ちになり頭がもうろうとなってきた。仕方なく道路にカヤの株があったので腰を掛けたが、何だか急に寒気がする。是は狐にやられたなと気がつき、不断から煙草を吸うと良いと聞いていたので、ちょうどゴールデンバットを持っていたので一本取り出し吸いはじめた。

 細野さん守山田圃の野道をゆき尾根筋の道に出たらしい。ここの代田大原境に今も地蔵尊がある。淋しい古道が伸びている。その回りが木々が生い茂っている。ここで彼は異変に遭遇する。「どうも狐に化かされたようだ」と気づく。かやの古株に掛けたというのも尾根筋道であるらしい。狐は煙草の匂いを嫌う、それでゴールデンバットに火をつける。

(二)
 そうしてしばらくしているうちに段々と気分が直ってはっきりして、目がさめたような気分になってきたので立ち上がろうとした。
 此処で暇をかいたので日はすっかり暮れ、なんだか帰るのが無性に淋しく体がぞくぞくして仕方がない、さりとて人通りがあるわけではなく、車を見つける訳にも行かず、これからはどこを通っても淋しい道ばかり、少しでも近道を行こうと思い守山の方へ行こうと歩き出したが、気ばかり焦って足が一向に進まない。何か歌を歌ってもと思ってもどうしても声がでない。夢中で我が家にたどりつきほっとした。

 狸を退散させるには煙草がよいらしい。が、これとて万全ではない。化かされると朦朧としてくる。そして悪寒が走る。声を出そうとしても声がでない。細野巌さんすっかり狐に化かされたようだ。その現在地は、大原境の出頭山である。一応堀之内道にでて守山方向に行こうとする。この場合は、ダイダラボッチ川の右岸の山ではないかと思う。

(三)狐に化かされ細野巌さん、この顛末をこうまとめている。

 家の者に話したら良く動かずにいた。動くと狐は人間の後ろにいてばかすそうだから何を見せられる川からず。川のあるところに連れていかれ、橋のあるように見せかけられてて死んだ人もあるというお婆さんの話。とにかく無事に帰って来て良かったと家の人にいわれた。うそのように思われる人もあるだろうが、私の実際の体験である。

 狐に化かされたら死ぬこともあったようだ。お婆さんは具体的書いていないが、眉目麗しい女性に化けた者が「それはそれはいいお風呂がありますのよ」といって川の方にさそい、「この川を渡った向こうですからお手を持ってご案内しましょう」と橋を渡ろうとすると橋はない、真っ逆さまに川に落ちて死んだ。

2、春の甲斐路を旅する(旅行企画)

 私たちの会友に山梨在住の矢花克己さんがおられます。前々から彼の地元へ行ってみたい。そう思っていました。それで計画を立てました。当初は自家用車という案もありましたが団体となると事故があった場合は責任問題が出てきます。それで現地集合としました。集合する駅は山梨市駅です。以下旅のあらましです。
第^董ヾ靄楔饗Г聾獣禄弦腓箸靴泙后9圓方、普通列車で、特急で、自家用で 
 ・第127回 4月15日(土) 午前10:40 山梨市駅改札前
案内者  矢花克己さん
10:38山梨市駅→(徒歩)差し出の磯(古今和歌集の「 しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく)→窪八幡神社→(隣に養老酒造)昼飯、ほうとう徒歩根津記念館→春日居町駅
帰り時刻 普通 。隠機В苅后腺隠掘В娃弦眸
  特急 。隠機В苅后腺隠機В毅音獲市16:20〜17:51新宿
車 各自
*参考情報 行の場合普通で行く場合 京王線、高尾乗り換え中央線 運賃は低廉
明大前8:16〜9:01高尾発9:20〜10:38 1500円
      特急 新宿8:30 〜あずさ7号〜10:05山梨市
○桃の花は終わっていると、しかし春爛漫である。中でも窪八幡神社は佇まいが素晴しい。のんびり甲斐路を歩こう
 午後のコースまだ固まっていない部分がある。 
*計画を上記のようにたててみた。昼食を養老酒造のレストランでと考えている。
  山梨名物のほうとうが食べられる。また、場合によっては向こうで車の手配などもあるかもしれない。それでまず希望者を募りたい。米澤かきむらに早めに伝えてください。

第案 バスを貸し切って行く
 これは^討鮟个靴晋紊暴个討たもので郵送で送ったものには載っていない。
 小型観光バスを借りていくという案。これだと自由がきく。それと歩きが得意でない人も行けるという利点がある。武田氏ゆかりの恵林寺なども回れる。雨でも可能となる。
 十四五人だと一人一万円ぐらいで行けると。人数が増えればもっと安くなる。
 28日の段階で5人希望者がいました。バスの手配、昼ご飯の予約などの都合もありますので3月の街歩きの締め切りまでに希望を出してください。
 バス旅行などめったにない機会です。皆さん、春の甲斐路へ出てみませんか。
 乗るとすれば多分新宿です。九時ぐらいとなるでしょうか。子細は次号に載せます。
(なお、こちらは郵送で送った会報には記載されていません)


3、今年度大会、研究会の計画

〇五月二十七日(土)午後1時30分より 第十回戦争経験を聴く会・語る会
場所 下北沢都民教会 テーマ 疎開学童ゆかりの特攻隊:と号第31飛行隊
 〇八月五日(土)午後一時30分より 第三回北沢川文化遺産保存の回研究大会
  場所 北沢タウンホールスカイサロン テーマ 世田谷代田の「帝音」の歴史

4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さんによる案内
スタート→旧甲州街道→烏山神社→烏山北住宅(烏山川暗渠)→烏山寺町(高源院など)
→区民集会所→西沢つつじ園→北烏山屋敷林→ゴール(予定)


・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。解散は学芸大学を予定
・第127回は別掲
・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前  
 第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで
第129回 6月24日(土) 午後1時 恵比寿駅(恵比寿ガーデンプレイス)
 恒例 三田用水跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
第130回 7月15日(土) 午後一時 東京駅丸の内口
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲新春から原稿用紙二枚程度の小研究、あるいは話題を募集しています。会報は図書館所蔵、ネットへのアップなど広く行き渡るようになりました。原稿はメールで送付してください。この会報にぜひ載せたいと思います。
▲年が改まりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。幹事の米澤やきむらも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年01月28日

下北沢X物語(3207)〜荏原の街々をさすらい歩く〜

DSCN0129(一)日々一帯を縦横に歩き回る。街の景色や土地の凹凸、そして様々な人を見ながら歩く、このときに解放されている、自由であることを感ずる。荏原というとこの一番いいところは、紛れて歩くことができる点だ。こちらが歩いていても誰も気に掛けない。自身が空気のような存在になって歩ける。が、長年の経験で面白いことがある。袋小路だけはいけない。一帯には土地造成が中途半端で袋小路が至るところにある。この頃は入っただけで気配でわかる。それは人の視線で分かる。普通の道を歩いているときには誰も気に掛けない。が、袋小路に入ると人々の目が光る。「こいつはどいつだ?」、ガンを飛ばしてくるやつもいる。


 「袋小路」なるところに住んでいる者は皆ほとんどが見知っている。それで入って来たちん入者には疑いの目を向ける。とく中年のおばさん、頭の先から、下までなめ回すように見つめて警戒する。

 荏原を歩くときの鉄則、袋小路に入るな。入るときは新聞広告を何気なく持って入れ。チラシ配りには警戒を緩めるからだ。

 萩原朔太郎『秋と漫歩』は、歩きの哲学を語っていて面白い。

 私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。

 全く同感だ、朝起きたら書く、しかし、これも飽きてくる。すぐに戸外に出てほっつき歩く。一昨日は西方の野毛山方面、昨日は、西南の鵜ノ木方面だ。
「昔、商店街に大概、麺を売っている店があったけど、ほとんどなくなっちゃったね。鵜ノ木には一軒だけあるんだ、それで行ってきたんだ」
 今日、邪宗門に行ったとき仲間が来て、店の消長について話題になった。
 豆腐屋、八百屋、肉屋がなくなって、最近パン屋が増えてきた。

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2017年01月26日

下北沢X物語(3206)〜再び田端へ:文士町&文士村比較検

DSCN0142(一)文士村と文士町との違いは何か?前者は「まじわる」場であり、後者は「まぎれる」場である。人と人との関わりの濃淡の差である。田端での人間関係は濃厚だ、そんな中に萩原朔太郎は室生犀星の勧めで当地に越してくる。漂泊者であり、寂寥の人である彼はどう馴染んだか?田端の前は大井町に詩人はいた、鉄道工廠の長屋のある町をほっつきあるいていた。

おれは泥靴を曳きずりながら
ネギや はきだめのごたごたする
運命の露地をよろけあるいていた


 「大井町」と題された詩の冒頭だ。ごみごみした町の露地をあちこちとさまよい歩いていた。孤影を引きずって歩く姿は詩人の好みだ。通りかかる工廠の長屋のかかあは、誰一人として知らない。彼はそういう町に紛れて歩いていた。汚くてわびしいが、大井町を彼は気に入っていた。『移住日記』では、田端のことはこう記されている。
 
 田端に移つてからは室生君や芥川君との親しい交情に飽満した。私は常に幸福を感じてゐた。けれども土地に対する愛は、始めから全くなかつた。田端といふ所は、第一始めから印象が嫌いであつた。妙にじめじめして、お寺臭く、陰気で、俳人や茶人の住みさうな所であつた。私は気質的に、かうした空気が嫌ひなのだ。室生君が得意で見せてくれた正岡子規の墓も、私には何の情趣もわからなかつた。芥川龍之介氏が紹介してくれた自笑軒といふ京都料理の茶席も、イヤに陰気くさいばかりで、営業不良の青つぽい感じがした。何もかも、すべて田端的風物の一切が嫌ひであつた。薄暗くじめじめして、味噌汁臭く、要するに私の所謂「自然小説的なもの」の全景を代表してゐる。
「移住日記」 萩原朔太郎全集第八巻 筑摩書房


 まず当地における交情は濃厚だった。これを「飽満」と形容した。詩人の生活のポイントは漫歩である、あてもなくほっつきあることだ。が、家を出ると「やあ」、角をまがると「やあ」、そして自宅には室生犀星がやってきて「やあ」と。人間関係の濃さは辟易するところがあったのではないか。

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2017年01月25日

下北沢X物語(3205)〜再び田端へ:文士町&文士村比較掘

DSCN0138(一)文学の場として地域の違いは、都市論でもあり文化論でもある。磁場の違いはある、田端文士村は山手旧都市で、馬込文士村、また我が地域の下北沢文士町は荏原都市である。村や町の形成に鉄道は絡む、前者の交通手段は市電である、後者は汽車・電車だ。これも大きい、芥川龍之介の日記を見ると市電でちょこまかと移動し人とあったり、古本・新刊を手に入れている。一方郊外型の文士町は、そういう融通がきかない。旧都市と新都市には人との関わりでも大きな違いがある。

 近藤富江 文壇資料『田端文士村』(講談社)、第一章の冒頭は、文士町の形成の核心を衝くところから入っていく。これも芸術文化の見せる高度な技だ。

 陶芸家板谷波山は、芸術村田端の元祖とも言いたい人である。もし彼が、ここ西台通り五一二番地に窯を築かなかったら、果たして絢爛たる才能の主たちが、後にあれほど集まっただろうか。
 波山がいなければ、鋳金家の香取秀真はこなかった。従って、芥川龍之介と秀真との親密な関係は生まれず、田端の美術家グループと文学者グループとが、交流する端緒は開けなかったかもしれない。


 芸術と文学とが混ざりあって、それぞれが刺激を受け、作品を創り、描き、世に発信した。板谷波山の陶芸作品は、ネットの画像検索ですぐに作品群が見られる。画像を見ただけでも、こちらに伝わってくるものはある、形、色、図柄などなるほどこれが板谷波山なのかと素人でも分かる。

 こういう芸術家と芥川などの文士たちは交流があった。会うということは交じることである。
「なんたって色合いだよ、見た人が納得する色合いじゃないと」
「いいか、形も大事だ、目に優しく収まるものでないと」
「一本一本の毛なども大事だ、それにはな実物をしっかりと観察することだ。いいか大事なことだが、生きている人間のものを見るだけではなく、時に死んだ人の髪の色つやまで調べるんだよ…」
 こんな議論が交わされたのかもしれない。

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2017年01月23日

下北沢X物語(3204)〜再び田端へ:文士町&文士村比較供

DSCN0137(一)田端は規範的、模範的な文士町だ、田端文士村記念館は当地を「田端文士芸術家村」と呼称している。文学芸術が寄り集ってそしてそれぞれの分野の作品造りに刺激を与えている。文士や芸術家の関係性が濃密で濃厚である。

 私たちは、歩き終わった後、お茶を飲んだ。田端文士芸術家村の空気に当てられたか、青年に立ち返って文学論議をしたことだ。土地土地の文学はありうるとの話は面白かった。
「この田端には中野重治がいたでしょう、彼は後に豪徳寺に住んでいるんですよね。それでこのことを調べていたときに『豪徳寺詣で』という符丁があったと知りました。豪徳寺にはプロレタリア関係の作家や評論家が多く住んでいて、編集者がそこに行くことを『豪徳寺詣で』と行っていたようなんです…」と私。
「確か井伏鱒二が言っていたように思います。馬込は流行作家が住むところで、プロレタリアは世田谷で、二三流文士は中央線、それで彼は阿佐ヶ谷に住んだと…」と原敏彦さん。
 世田谷豪徳寺になぜプロレタリアがというのは興味深い。
「世田谷は道が入り組んでいて幕府の隠密も迷ったという話がある。プロレタリアは官憲に追われることが多いから、すばやく逃げられるように世田谷に住んだのかも?」
「古本屋の親父になって何気なくしのぎが稼げるから?」
 下北沢南口の大地堂の店主は、プロレタリア歌人渡辺順三である。彼は豪徳寺にも住んでいた。

「田端文士村には我らの関係では萩原朔太郎が住んでいました。私はどうも朔太郎がこの地を好んでいたとは思えないんです…」
「いや、そんなこともなかったと思いますけど」と原さん。
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2017年01月22日

下北沢X物語(3203)〜再び田端へ:文士町&文士村比較〜

DSCN0141(一)鉄道と文士村、興味深い問題だ、近代交通が形成されたことで文士が集まる場ができた。昨日、第124回目の街歩きは田端文士村だ、秋に回りきれなかったところから再度、講師の原敏彦さんにお願いして再訪となった。集合は田端駅だ、この駅の歴史は古い、明治二十九年(1896)に日本鉄道の駅として開業している。文士村と鉄道開業は縁が深い、馬込文士村は大森駅、我らが文士町は下北沢駅等、数多い。が、ここは違う。汽車、電車ではなく市電が大事な交通機関だった。

 田端文士村の呼称は「田端文士芸術家村」と称されている。この解説に言う。

 明治中期まで、田端は閑静な農村でしたが、明治22年、上野に東京美術学校(現・芸大)が開校されると、徐々にその姿を変えて行きます。上野とは台地続きで便がよかったことから、美校を目差し、学び巣立った若者たちが田端に住むようになるのです。

 日本の中心都市となった東京に美校ができる、志のあるものは憧れてやってくる。多くは地方からだった、この場合住む場所が必要だ。元々は畑だった場所には、下宿屋ができる。上野近辺の下宿屋よりも低廉である。仕送りで生活している彼らには親元に負担をかけないようにということで費用が安い、ここに集ってきた。芸術志望の青年たちがたむろする町は更に変化をする。解説は更に続く。

 大正3年、ひとつの転機が訪れます。当時学生だった芥川龍之介の転入です。5年には室生犀星も田端に移り住み、競うように作品を発表、名声を高めていきます。ふたりを中心に、やがて菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明らも田端に居を構えるなど、大正から昭和の初期にかけて、田端は(文士村)となったのです。

先回、秋に来たときは回りきれなかった。引率講師の原敏彦さんは、あちこちで立ち止まっては解説を施す。が、彼の場合、通り一遍ではない人間関係を説くのである。人脈である。その彼の解説によって浮かび上がってくることがある。当地では人間関係が濃厚であったことだ。

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2017年01月20日

下北沢X物語(3202)〜世田谷まちなか観光メッセ:プレゼン〜

2b175df2.JPG (一)第二回世田谷まちなか観光メッセが明日、21日開催される。今回は、「まちあるきコースのコンテスト」がある。我らの会は「シモキタザワ猫町散歩」(萩原朔太郎の『猫町』を歩く)でエントリーしている。全体では23の団体が応募している。予想を超える応募となったのであろう、当初は5分間のプレゼンとあったが、これが半分の2分半になった。150秒でアピールするのは至難だ、23団体が論陣を張っての闘いだ。どうなるのだろう、場所は三軒茶屋、キャロットタワー四階のワークショップルームで行われる。10時から、我らの会は早い。一番目が駒沢給水塔、二番が我々だ。10時16分30秒から19分までと細かい。さてどうなるだろう?
 
 今回のコンテスト、我らの活動に関わる団体の参加が多く見られる。北沢川緑道に文学碑四基を建立し、ここを「北沢川文学の小路」と名づけた。まずこのコースを推奨しているのが二団体もある、嬉しいことだ。

10時30分30秒から行われるのは「ふれあいの水辺と文学の小路」だ。長年北沢川緑道に携わってこられた元世田谷区議の廣島文武さんが提出されている。文学碑を緑道に建立するに当たって、区との交渉に当たってくださった方だ、もう引退されたが思い入れは人一倍であろう。どんなプレゼンをされるのか。

 11時10分から行われるのは「北沢川緑道を106センチ目線で歩く」だ。これはNPO法人 車椅子社会を考えるの篠原 博美さんがプレゼンをされる。12月に下北沢の古写真の跡を訪ねるに車椅子で参加された。これをきっかけに我らの会の街歩きにも参加されたいとのこと。今年の抱負を次のように言っておられる。

 当会の今年度の活動目標は『車椅子利用者の外出機会を作ろう』です。
ますます増える高齢者、障がい者車椅子も高性能化しておりますので、私自身もきむらさん主催の散歩の会等に積極的に参加し一般の方にも車椅子のことを認知してもらおうと思っています。


 今回は、車椅子目線で楽しめる文学の小路ということでエントリーされている。文学碑は、緑道沿いに設置しているが車椅子からでも碑文は読める。そこを上手く活用したものだ。
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2017年01月19日

下北沢X物語(3201)〜梶井基次郎:荏原都市物語と長者丸線〜

DSCN0131(一)昨日、近代戦争史の秘密を解こうと国立国会図書館に行った。ところが休館日だった、人間切り替えが大事だ、すぐさま皇居を経由して日比谷線で広尾へ。ここから歩き始めた、まずは天現寺橋まで、こここそが恵比寿長者丸線の始発駅だった、梶井基次郎がこの線に親しんだのは大正十三年(1924)、もう九十三年も前のことだ、かつてはこの線に「旅情」があったという。その面影は残っているのか、これを探る、恵比寿長者丸線幻想行に及んだ。

 『路上』では、「EとTとの間を単線で往復してゐる」とある。いわゆる盲腸線である。閑散路線なので旧型の単車が走っていた。ごっとんごったんと音を立てる、左右に揺れる。ここには専用軌道があった。

 窓からは線路に沿った家々の内部が見えた。破屋というのではないが、とりわけて見ようというやうな立派な家では勿論なかった。然し人の家の内部というものにはなにか心惹れる風情といったやうなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、ある日その沿道に二本のうつぎを見つけた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 文学に描かれている汽車、『音の鉄道文学史』はそれを網羅したものだ、梶井基次郎は項目立てはしていない。が、彼には汽車の走行場面を描いた心ときめく一文がある、これは引用をしてある。汽車と文学というの長年調べている、線路工夫の手練れはミリ単位のレールのゆがみが見える。自身も汽車文学と長年つきあってきて分かることがある。汽車の窓から見える景色関心が深い作家は汽車好きだということだ。梶井基次郎もその点間違いなく汽車好きだといえる。
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 「窓からは線路に沿った家々の内部が見えた」は、懐かしい。
 人家というのは通りに面して建てられている。表側は澄ましているが裏側はあけっぴろげである。人々は油断している。常々汽車が通っていれば気を引き締める。ふんどし姿一丁、シュミーズ姿のあられもない恰好などはしない。ところが閑散線区では人々は開けっぴろげだ。食卓を囲んで食事をしている場面が汽車のまどを掠めていくなどというのはよくあった。が、昨今の電車は高速である、おばさんがあられもない恰好をと思ってもすぐに過ぎてしまう。
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2017年01月17日

下北沢X物語(3200)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く供

DSCN0124(一)荏原都市物語の根幹は際、都鄙境界にある。梶井基次郎の『路上』は目黒川左岸でのドラマだ、いわゆる目黒川左崖線は東から押し寄せてくる都の防御ラインでもあった。都心と郊外との境界である。その際は何か、鏡である、自分を映し出す鏡面だ。『路上』では彼を映し出している、鏡には孤影が映ってみえた。

 梶井基次郎作品『路上』は短編である。この書き出しはこうである。

自分がその道を見つけたのは卯の花の咲く時分であつた。
 Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較にならないほど近かつたからだった。ある日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思う方角へ歩いて見た。しばらく歩いているうちに、なんだか知つているような道へ出て来たわいと思った。気がついてみると、それはいつも自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながつて行くところなのであった。小心翼々と言つたようなその瞬間までの自分の歩き振りが非道く滑稽に思へた。そして自分は三度に二度というふうにその道を通るようになつた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 梶井基次郎が中目黒に引っ越してきたのは大正十三年十二月のことだ。翌年五月に飯倉片町また引っ越す。大正十四年初夏の頃の話だ。彼は都電を利用していた、当初は、Mから電車に乗っていたらしい。これは目黒駅だ。

 一方時が経ってもう一つの経路を発見した。E恵比寿長者丸である。これまでは家からM、目黒駅へ行っていた。ところがこれよりも案外に便利な線が走っていることを聞き知った。それでこれで帰ってみた。終点で降りる。辺鄙なところだ。ここで降りて西に行くが尾根を越えていく、まず鉄道線路を渡る、そして坂を登ったところで南北に走っている道に出くわす。これがMへ行くときの道だった。

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2017年01月16日

下北沢X物語(3199)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く〜

DSCN0122(一)荏原都市物語の探訪は果てがない。随所に素材が転がっている、その一つ一つを見つけてはドラマを楽しむ、今回は荏原目黒川左岸に落ちている地形物語だ、彼の鋭い感性は類い希だ、それは梶井基次郎である。

 基次郎、文士町繋がりで言えば、三好達治と宇野千代がいる。前者の文学碑を我々は鎌倉橋に建てた。彼の代表作は『測量船』だ、この冒頭は、「春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも」だ、リズム、情景が素晴しい。これは結核療養中の梶井基次郎を伊豆に見舞っての帰りの船路で詠んだものだ。また宇野千代は梶井基次郎に小説の題をつけてもらった、『罌粟はなぜ紅い』だ。このときに筋立ての参考にしようと心中事件を起したばかりの東郷青児に取材した。男と女は心中現場の血のついた布団の上でたちまちに結ばる。これがきっかけで世田谷山崎、そしてついには淡島にコルビジェ風の家を建て住むことになる。

 梶井基次郎は、短期間だが荏原の一角に住んでいた。「荏原郡目黒町中目黒八百五十九番地」である。この旧番地なるものがくせ者だ。ここをピンポイントで探し当てることは難しい。ところがこの間、大田区の図書館で『わが町あれこれ』(14号)という雑誌を手に取った、するとここに「目黒区文士往来年譜」があった、何と梶井基次郎旧居住所と現住所とが記されていた。何のことはないが、私には得がたい情報だった。

 私は、土地の文化と文学に対して深い関心を持っている。文人詩人歌人など、作品の中に居住地の坂や川や橋が書かれたり、詠まれたりしていないか?これには深い関心がある。

 例えば文士町で言えば、尾山篤二郎だ、著名な歌人で北沢に居住しているときに多くの歌を詠んでいる。当地の家を「北沢草堂」と称している、詠歌をチェックしていくと
「ある、ある、ある!」
 居住地の隣は地主の安野さんだ、そこの柿や欅や樫が歌に詠み込まれていた。もう木々は無くなっているが、その場所に行って痕跡を探す、これほど楽しいものはない。

 梶井基次郎の中目黒の住まいは前々から興味を持っていた。彼がここにいたときのことを描いた作品がある。これに電車線の話が出てくる。停留所名はローマ字の頭文字で書かれていて、そこがどこなのかを知りたかった。

 住所が中目黒であることから、いわゆる都電、中目黒線ではないかと思っていた。ところがその現住所が分かってみると、疑問に思っていたことがたちまちに氷解した。
「現住所力だ!」
 
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2017年01月14日

下北沢X物語(3198)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考・了〜

DSCN0118(一)ダイダラボッチ伝説は口承説話である、口から口へと伝えられていた間は人々の心に生きていた。が、荏原一帯は東から攻めてきた都市がダイダラボッチを消してしまった。民族学者が代田ダイダラボッチは重要なところだ、それをしっかりと伝承しておくべきと当時主張していたが昭和期になって笹塚の桜護謨から出る石炭殻で埋められてしまった。一万年もの間、口から口へと伝えられたダイダラボッチはその精神とともに終焉を迎えた。近代化がダイダラボッチを消し去ってしまった。大正期はダイダラボッチが生きていた最後の時代である。

 谷川磐雄は雑誌『武蔵野』に「武蔵の巨人民譚」を書いたのは大正八年十二月のことだ。この時代にはダイダラボッチは生きていた。「大岡山小字擂鉢山」と「千束村狢窪」は「昔しダイダラボッチが足をふんばった所」だと。彼は「農夫から聞い」ている。
 谷川は大岡山の近くに住んでいたと思われる。ダイダラボッチに深い関心を持っていたゆえにその箇所を訪ねている。そして「その足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」このときのことだろう。畑を耕していた農夫がダイダラボッチについて話をしてくれた。

「爺さんから聞いた話だけど、ここの山の摺鉢山とあっちの千束の貉窪に巨人が立ってな。小便をしたら洗足池となったというんだ…」
「南向きですね、ふぅんなるほど、そうするとダイダラボッチは男ということになりますね?」
「まあ、そうだろうな。女だったら直下あたりが水浸しになるからな」
「やっぱり窪みがあるのとないのとでは違いますか?」
「それは違うよ、ダイダラボッチの耕し方というのがあってな、ことに斜面の耕し方だ、あっちの谷畑のダイダラボッチは斜面がきつい、だから耕すときは土を上に持っていくようにする。でないと雨が降ると土が流れるからな…」
 谷川磐雄と農夫とがどんな会話をしたのか分からない。が、ダイダラボッチの土地土地の固有性はあったはずだ。

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2017年01月13日

下北沢X物語(3197)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考検

DSCN0117(一)ダイダラボッチは遙かな時空を生きてきた巨人だ。千年でもない、五千年?、いや一万年かも知れない。この伝説は縄文時代まで遡る。「武蔵の巨人民譚」(『武蔵野』第二巻三号)をまとめたのは谷川磐雄だ。「私はその足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」という。その足跡地こそは「荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村貉窪」である。後者の近くには「洗足池公園付近遺跡」があって縄文時代中期のものだ。前者は「大岡山遺跡」と称される。縄文時代前期から後期にかけてのものだ。出土したのは土器、石斧、石鏃、石槌など。こちらは呑川左岸の崖線で、いくつもの遺跡が連なっているところからこちらの方の話であろう。ダイダラボッチ伝説は万年まで遡る話だ。スケールが他の伝説とは異なる、それゆえに多くの民族学者がこれに注目した。

 が、このことは一般的には理解されていない。ダイダラボッチはおもしろおかしく語られる。『東京の民話』(中村博編 一声社 一九七九)はそうだ。「馬込のダイダラボッチ」についてはこう語られる。

うまく体のバランスをあわせるために、ちょいと足のこゆびをついたところが、洗足池だというんだから、いまの東京のいこいの場所は、どれもこれも、みんなダイダラボッチがつくってしまったのかもしれん。

 軽い軽いお話だ。が、この伝説は新手だ、典拠は何によっているのだろう。代田橋についてはもう全くおもしろおかしく語られている。

 世田谷にも代田橋なんていうところがあるじゃろ。あれはな、世田谷に川が流れておってな、橋がないので住民が不自由しとったんじゃ。それを空の上からながめておったダイダラボッチが、ちょいとどこかの木をおってきて、橋を架けてくれたというのじゃ。ダイダラボッチがかけた橋に、そこに住んでいた者たちはよろこんだのなんの。それが何百年とたつうちに、代田橋とというようになったというんじゃ。

 
 代田橋はダイダラボッチが架けたというのは有名な話だ。これを紹介している。が、柳田国男はこれを「巨人の偉業としては甚だ振はぬもの」(『ダイダラ坊の足跡』)という。万年単位の伝説がある彼の事業としては、やはりみみっちい、承応2年(1653)に一年足らずで開削された玉川上水に橋が架かったということだが、ダイダラボッチ伝説の根源は一万年も遡るというのにたかだか三百六十年前の話、しかも玉川上水の架橋などは十数メートルのものだ。富士を築いた彼の偉業とくらべるとお話にならない。

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2017年01月11日

下北沢X物語(3196)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考掘

DSCN0120(一)馬込ダイダラボッチは、なぜ東工大構内の出穂山稲荷大明神にどぼどぼと小便を垂らさなかったのか?「それは困ります、構内には化学薬品が何千本と保管されていて、酸を含んだ小便をどぼどぼと注ぎこまれると化学反応が起きて危なくなります」、ダイダラボッチ巨人はやむなくその話を聞いて自らのホースを手に取って、南方向に射出角度を変えて放尿した。それによって無事に洗足池に放水が届き池が出来た。めだたしめでたしだ。
 
 が、しかし、もしかしたらダイダラボッチはそんな小細工をせずに小便を垂らしたかもしれない?。今日、大明神を検証してきた。その場所は背尾根、呑川と洗足池の分水嶺に当たる、この東斜面にねらいを定めて放出すれば自然と池に流れこむ。流路には池への沢筋がちゃんと今もある。

 しかし問題は何かだ。ダイダラボッチ伝説で大事なのは何と言っても窪みである。これが基盤であり、基礎である。まずダイダラボッチはそこに立つ。馬込ダイダラボッチではちゃんと二箇所あるというのは大事だ。世田谷代田は一つしかなかった。しかし、片足の巨人はいない、もう一つの足跡がどこかにあるはずだと柳田国男は探した。
DSCN0119
 民族学者は対になる窪みを探したところ、それは見つからず、駒沢で別の足跡を見つけた、それで彼は驚愕した、この東京には巨人があっちにもこっちにも往来していたのだと知った。それが巨人来往の衝である。

 とこが馬込ダイダラボッチは確実に一人だった。個性を特定できる巨人だ。変な伝説が生まれないように棹を操作してちゃんと洗足池に小便が流れるようにした。また、彼は身を支えるために杖を持っていた。
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2017年01月10日

下北沢X物語(3195)〜荏原ダイダラボッチ再考供

DSCN0101(一)荏原東南部に伝承されている「馬込のダイダラボッチ」は巨人伝説を解く上で重要だ。まずダイダラボッチとは何かという問題がある。間違いなく言えることは人間の想像力の所産である。が、これを生み出す契機が必要だ。それは我らが住む地上にある不思議な痕跡である。形としては足跡だ、そして、「長さは百間」も!「恐ろしいほどの巨人がいたのだ!」、ここが想像の出発点だ。
 
 人間の形をした大男、当然かれも人間的な営みはするだろうと、技をさせる。誰もがする小便である。さぞかし分量は多いはずだ。どぼどぼと垂らすと池ができた。これによって洗足池はできたという。この場合大事なのは巨人の立ち位置だ。右足は大岡山摺鉢山、左足は千束の貉窪だ。今でもそうだが確かにここには大きな窪みがある。が、待てよ、実際のその場所に巨人を立たせてみると「池のできた場所が変だ」、彼は西南を向いているそのままどぼどぼとやると東工大構内の出穂山稲荷大明神あたりにこぼれるはずだ。
「そうかダイダラボッチは畏れ多いということで砲口を左手に持ってぐっと南に向けた。それでようやっと洗足池にほとばしりが届いた。とするなら杖はどうか、右手が竿先を持っているとすればこれは左手か?」
 次からつぎに疑問が湧いてくる。口承伝承はちょっとずつ違っている。「馬込のダイダラボッチ」につけて加えて、「片手で土を採り、片方に置いたのが、品川湾と富士山である」と。ということは棹を離して右手で手をのばしたようだ。海を掘った、その土を手に持って西に放り投げた。東京湾の穴子やボラが今でも富士に埋まっているのか?

 伝説は伝説である、細かに分析する必要はない。が、こういうことは言える、出発点は足跡だ。この場合、大事なのは世田谷代田や野沢と違って、かっちりと二つあることだ。「馬込ダイダラボッチ伝説」の基盤である。巨人を立たせれば動く、まず手始めに小便をする、つぎにそれだけでは芸がないと土地を掘って富士を創る。尾ひれが二つ付いて、話は決着する。

 まず言えることは基本基盤は、大地に刻まれた大男の足跡だ。これを説くのは誰か、人生の体験を重ね、そして霊的能力を備えが老媼である。
「まあまあ、孫達は今日は寝つかれないでいることだ、一つお話をして進ぜよう」
 マキがはぜるいろり端で彼女は「ダイダラボッチ」を語る。

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2017年01月08日

下北沢X物語(3194)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考〜

DSCN0108(一)実地検証は重要だ。昨日、ダイダラボッチ伝説の地、北千束・狢窪を訪ねた。当地の住人との会話で四身一体としての巨人像を実感した。ちょうど家で車を洗っていた人に聞いてみた。「ムジナクボですか?」と七十三歳になるその人は「よくぞ聞いてくれた」と笑顔を見せる。「私が小さい頃まではみなムジナクボと言っていました。それでね、その証拠なんですけどそこに電柱が建っているでしょう。あれに掛かっている札にちゃんとムジナって書いてあるんですよ。昔はこの辺り狸が出て化けていたとかね、そんな話は聞きましたよ」、とびっきりの美女が現れて、いい湯がありますよという、ふらふらっと誘われて入る。何ともいい湯加減だとタオルで顔をこすると臭い…「コ、コエダメだ!」

「ダイダラボッチ伝説って知っていますか?」
「いや聞いたことはありません」
「巨人伝説ですね、右足があっちの東工大の方…」
 東工大の敷地の北側に摺鉢山があった。今でもその形状ははっきりと残っている。
「そうなんですか?」
「左足は、ここムジナクボです。それで男は小便をする、その跡が洗足池なんです」
「へぇ、そうなんですか、初めて聞きました」
「どうして右足と左足がわかるんですか?」
「逆だと池ができないんですよ、ほらマラは南を向いて、用を足すとドボドボと…」
「うん、そうするとこうですか?」
 彼は地図地形を思い描きながらその場で四股を踏むようにした。正面は南で、北を背にした。
「ああ、なるほどね、そういうことか?」
 彼は総てを了解した。
「それでそのダイダラボッチは杖を持っていたんですね、それを突いたところが洗足小池なんですよ…」
「へぇ、よくできていますね」
 そう左右の脚、そして逸物、加えて手に持つ杖、まさに<四身一体>でダイダラボッチの痕跡は地形として今も残存している。
 
 このところダイダラボッチ伝説に関わりの深い、洗足池はよく行く。大田区の図書館のカードを作ったこともある。池のわきに洗足池図書館がある。地域資料を見るのが楽しい。
 大田区の文化財(昭和六十一年) 第二十二集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)などは民俗学の宝庫である。

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