2022年12月02日

下北沢X物語(4601)―学童百人に戦争を語る―

戦争と平和展:松本博物館
◎子どもたち百人に戦争を語った。その彼ら六年生も今の悲惨なウクライナでの戦争は知っているはずだ。しかし、どれだけ絶望的であっても人は言葉に頼るしかないことを本能的に感じ取っていると思った。話が終わった後、彼らからは熱い反応があった。挙手した代表者は「先生の言われたとおりこれからは言葉を大事にしていきたい」と、これは希望である、大人はカッコウを付けたがる、ペンよりも刀だ、武器を出せば相手も武器を出す、世界は広い戦費を教育に充てている国もある、なのに軍事費を二倍にしようと大人は言っている。一人の男子が戦争で死んだ人をどう考えればいいかと。「今日は特攻隊の人たちの話をしました、この人たちは記録されるのです、でも、戦争で死んでいった人々の大半は誰にも覚えられることなく無惨な死に方をしているのです。戦争が始まるともうメチャクチャになるのです、やっぱり戦争はやってはいけないのです……」

・「鉛筆部隊は今はどうなってしまったのですか?」と問いかけてきた子もいた。純真で鋭い質問だ。が、難しい。「人間は歳を取っていくでしょう、鉛筆部隊の人たちも八十代、どうしても身体が弱ってくるでしょう?」、私は鉛筆部隊員を思い出していた、『人間みんな歳を取って死んでいくんだよ』とも言えない。「きっとね、思い出を胸にしまって時々それを取り出しては懐かしく思っているでしょう」と答えたが、田中さんも鳴瀬君も鹿子木君も皆死んでしまった。現今を生きる子どもが鉛筆部隊の行く末を問うた、そういう疑問を持つことが追憶や記憶に繋がっていく。生きている者は戦争を忘れることなく覚えておくべきだ。

・「疎開というのはつらいものですか」
 そうつらいです、お父さんやお母さんのもとから離れて、集団生活をするわけですからそれだけでもつらいのです。つぎの年から一二年生が来ますが泣いてばかりいました。「それで私たちはその子達の背中をさすって慰めてあげました」と六年生。
「君たち、遠汽笛って知らないでしょう、浅間温泉にいると汽車の汽笛が遠くから聞こえてきます。『あの汽車に乗っておうちに帰りたい』とだれもが思って涙を流しました」

・「つらいことは何ですか」
「それは数多くありました。自由がないのですね、集団生活だから決められたとおりに毎日が進行していきます。起床に始まってみな時間は決められていました。これに従うことがとても大変でした」

「やっぱりいじめというのがありましたね、上級生の指示で一人一人がみなの欠点をいうのです、いいたくなくても、自分の悪口も言われますからしかたかなく、人の悪口を言っていました。これはとてもつらいものでした」

「きみたちは、ひもじいと言っても分からないでしょうが、戦争が激しくなるに連れて食糧事情が厳しくなってきました。ある日「お手玉の中に豆が入っているのを知って、みんな競ってお手玉を裂いて食べてしまいました……お手玉は食べるとなくなるのです」

・「疎開生活がつらくて逃げなかったのですか?」
「それはだれもが考えました。何とかして東京に戻りたいと、で、だれもが考えるのが線路です、これを伝っていけば東京に着くと、それで数人で逃げ出した子がいました。途中で駅員に捕まってしまって、その駅員さんが出してくれたお握りがおいしくておいしくて涙が出たそうです」
「悲しい事件もありましたね、一人の男子がいじめに耐えられなくて冬に逃げ出してしまい、道に迷ってしまってとうとう死んでしまったのです」

・「どうして今野勝郎さんは、死ぬと分かっていながら、田中幸子さんに結婚してほしいと告白したのですか」女子二人は、真剣に考えたらしい。
「難しい質問だね、恋心だから後先を考えないということはあるかもしれませんね。好きだから好き、だから結婚してほしいと……特攻隊の人たちが最後に浅間で歌ったうたがあって『世界平和が来ましたならば、帰りゃまっさき浅間をめがけ……彼らは死ぬと靖国神社に行くと言われていました。浅間が恋しいものだから浅間に帰ってきたいと。これは魂のことなんでしょうね。」

「戦争で死んでしまった人をどう思えばいいのですか?」これはとある男子だった。本質を衝く大事な問題だ。

「なかなか鋭い質問ですね、人がどう戦って死んだか?例えば、特攻隊員の人たちは、特攻で死んだと確認がされるとまず二階級特進する、そしてしっかりと記録される。恩給も出されたはずです。しかし、多くの兵士たちは野垂れ死にしました。南方のジャングルで餓死するとか。そういう人の記録もないのですよ。例えば、台湾からは特攻隊も出撃していますが、夜間航空隊もでています。往復分のガソリンを積んで、爆弾を抱えていくのです。敵はそれを感知して全艦船が砲撃する、その間を縫って降下して爆弾を落とすのです。そしてまた帰ってきて、そしてまた行く、が、多くが撃墜されています。そういう人たちの記録はないのですね。

 昨日、メッセンジャーを通して、梁田貴之さんが「戦争の文化」ジョン・W・ダワーの記事を私宛に紹介された。「大半の特攻隊員は自分の小さな集団に帰属意識を持っていた」と。台湾特攻のことでは思い当たる。台湾という外地では特殊的な帰属意識を彼らはもっていたと思った。


 学童たちに戦争を知ってもらうことは大事である。若い語り部を育てていく必要があると感じた。


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2022年11月30日

下北沢X物語(4600)―代沢小をめぐる果てのない奇縁物語―

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(一)一昨日、印刷されたばかりの新刊「台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語」が届いた。ちょうど代沢小で授業を行うための予習をしていた時で、因果因縁をより深く感じた。本は代沢小を巡る物語の七冊目だった。「私はね、新しい本が着いて思ったのは代沢小を巡る不思議な旅です、私が代沢小に巡り合わなければこれらの本はできなかったと思ったのです。今回の皆さんとの出会いも縁の続きですね……」。昨日、29日代沢小の六年生百数名に話をした。主テーマは鉛筆部隊の話である。既に事前学習は行われていた。以前、「『奇跡体験!アンビリバボー』の一つとして「鉛筆部隊の子どもたち」というテレビ放送があった。これも視聴したとのこと。自分たちの先輩の話であるだけに深い興味と関心を持っていた。私の授業が終わって「質問は?」と問うと驚くほどの学童が挙手した、その反応に驚いた。授業が終わっても質問者の列は長く伸びる一方だった。

「代沢小の存在なしには私の物書き人生はあり得なかった」
 私自身の感動と驚きを私は生徒たちに述べた。

「私は、何度も聞かれました。『代沢小出身ですか?』とね」
 聞かれるだけの理由はある、学校の歴史と文化についてはこれまで深く調べてきた。
「坂口安吾と代沢小との関係」
「ミドリ楽団と学校の歴史」
「代沢小の疎開の歴史」
 これらについては卒業生以上に知っている。資料で調べたり、卒業生から話を聞いたりしたことで多くのエピソードを拾った。

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2022年11月29日

下北沢X物語(4599)―会報197号:北沢川文化遺産保存の会

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第197号    
           2022年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
              会報編集・発行人   きむらけん
      東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、小関裕而さんの思い出  当会会長  谷亀 冢此
 
 我が家は、江戸時代から代田村本村で農家を営んでおりましたが、明治25年、曾祖父杉蔵の時代に世田谷町大字中原字吹上の堀之内道沿いに移転してきたと聞いております。祖父謙太郎の時代、小田原急行電鉄計画が我が家の敷地内を通過し「世田谷中原駅(現:世田谷代田駅)」もできるとのことで線路用地を寄付しました。昭和2年小田急の開通を機に農業を営む傍ら商家となりました。
 鉄道が開通すると駅周辺の宅地開発も進み、昭和7年に作成された世田谷区商業地図を見ても、現在からは想像出来ないほどに発展し、中原商店街として成長しております。
 そのような変貌期の昭和6年、古閑裕而さんが現在の代田三丁目の代田八幡神社の南に引っ越してこられました。その後北沢川近くに転居し、さらに戦後の昭和24年には現在の代田二丁目に移転し、平成元年8月18日に惜しまれつつ80年の生涯を閉じました。
 私が古閑裕而さんを意識するようになったのは家業のタバコ屋の店番に出るようになった昭和44年、小学校4年生の頃です。と言うのも、当時は歌番組が娯楽の中心にあり、古閑さんが審査委員長などを務めており、テレビによく出られておられたからです。「このお爺さん、テレビに出てるね!この前店番しているときに、ピー缶を二個も買ったよ!」と母に話すと、「古閑さんはね、昔から良い音楽をたくさんつくってきた有名な作曲家さんなんだよ。戦前から、うちのたばこを吸いながらね!そうそう、東京オリンピックを覚えているでしょ!あの時の入場行進曲も、古閑さんが創ったんだよ!他にも有名な曲をたくさん創った凄いお爺さんだね!」と母が話したことをよく覚えております。
ところで、店番をしているといろいろな人がきました。近所にフランス人が住んでいて、買った側が「メルスィ・ボク―」とにこやかにほほ笑んでくれました。また、印象深かったのは、おそらく学生さんだったと記憶しておりますが、オリンピックの1000円玉記念銀貨を惜しそうに差し出してたばこを買っていきました。たばこを売りながらも、こんなもののために大事な銀貨を使っちゃうんだと不思議に思ったものです。
 話を古閑さんご来店のエピソードに戻します。
見たいテレビも見られずに店番をしている毎日でしたが、週に一度は古閑さんが浴衣を着てやって来られました。「坊や、ピー缶二つね!」と言って、岩倉具視の古い方の500円札をさっとトレーに置き、ニコニコしながらこちらを眺めている気配。当時、区から配られていた「たばこは区内で買いましょう!」と印刷されていた紙袋にピー缶を二つ入れ、「ありがとうございました」と小さな声の私。店番は、子どもこころにちょっと恥ずかしかったのを覚えております。もうそれも今から50年も前のお話ですね!
 さて、その後、古閑裕而さんが脚光を浴びたのは平成元年に亡くなったときと一昨年、NHKの朝ドラ放映された時です。
 亡くなられたときは、戦前からの作品の数々の曲が放映され、「あの曲も古閑さんがつくったんだ!」と感心するやら驚くやらでした。しかし、最も印象深いのは、「国民栄誉賞」を複数回も断っておられることです。他の芸能人やスポーツ選手がもらっているのに古閑さんは断り続けました。戦前の日本の国策ではありましたが、軍に協力し、多くの軍歌を作曲し、多くの若者を戦場に送ってしまったことが、賞を辞退した理由と述べておられました。当時の私は、辞退するカッコ良さに感激いたしました。他の人が国民栄誉賞が決まるごとに、これを断固として断っていた古閑さんがとても懐かしく思われます。
 近来では古関祐而、金子夫妻を主人公に据えた朝ドラ「エール」は素晴らしいものでした。ところが古関祐而さんの出身地福島、金子さんの出身地豊橋は出てきました。ドラマの中では奥さんが通っていた「帝国音楽院」は代田駅前にあった学校です、また作曲家は「根津山(羽根木公園)」辺りを散歩しながら曲想を得たといいます。ほとんど終生を代田の地から出なかったのが古関裕而さんです、その彼は代田の地を深く愛していたと聞きますが、ドラマでは代田のダの字も出てきませんでした。世田谷代田で生活をし当地の空気を吸って、また代田の煙草を吸って曲は生まれたことは事実です。が、ドラマではその片鱗すらもでてきません。作曲家は和菓子店「香風」の餡子巻が大好きでした。これを食べながら何曲できたでしょう。大作家に成長する「背景」がないがしろにされたことは残念でなりません。
 古閑裕而さんゆかりのまち歩きも、定期的に開催されていくのではないかと考えておりますが、世田谷代田が誇る、作曲家、彼の手になる『栄冠は君に輝く』の歌詞を刻んだ、古関裕而顕彰歌碑を建立して、彼の業績を讃えることを推奨したい、巨人のダイダラボッチは既に駅前にある、加えてこれを建碑すれば二大巨人記念碑となるであろう。

2、北沢川文化遺産発足満18年! きむらけん

2004年12月17日に当会の創立総会が世田谷代田信濃屋二階会議室で開かれた。当時、会を作ろうと同好の士が集まって話しているうちに、「会を作ろう」という話になった。それが地元の人にも伝わった。何か不思議な熱気のようなものがあった。「趣旨説明は誰がやるのですか?」「それはあなたに決まっているだろう!」と。あのとき地元の人何人いたろうか、公的な立場の人も数名来ていた。覚えているのは多聞小の吉川校長先生だ、「芹沢光治良が会長を務めていた多聞小」のアピールのための参加だった。
 趣旨説明が終わって、すぐに決が採られた、賛成、賛成、賛成の声が響いてたちまちに会は成立した。思えば、我らなんかプライドを持っていた、これまでにないことをやるんだと。実際、初発の発信は大きかった『北沢川文学の小路』という冊子を創った。
 朝日と毎日の二紙が東京版トップで取り上げた。反響は大きかった。冊子を「邪宗門」で配るというので大勢の人がやってきた。
「あのときは凄い人で、大久保さんが交通整理に立ったのですよ。それにね、これまでとは客層が違うんですよ。知性のある旦那さんと奥さんとが連れ添ってこられてね」
 邪宗門の作道明さんが言う。我が会の語り草である。
 苦い思い出もある。文学碑を建てて係累を招待するとき、「普通はお車代を出すものだよ」と伊藤文学さん、関係者の息子さんは新聞記者には必ず除幕式には参加しますと言っていたが来られなかった。お車代を出すのを怠っていたのだ。
 有名人の御子息だからと言って毎回、自腹で参加していたのではたまったものではない。礼を尽くすことの大事さを教わった。
 悲しいこともあった。我々がデビューを飾ったのが『北沢川文学の小路』だった。これを本気で手がけたのが東盛太郎さんである。が、彼は間もなくして急逝してしまった。彼のお別れ会があって出席した。この時になって彼がプロのデザイナーだったことを知った。弔辞の中で「『北沢川文学の小路』が遺作となった」とあった。私が文章を書き、全体のデザインは彼が手がけた。この冊子の中に『下北沢文士町文化地図』の原型となった地図が載っている。この彼のアイデアを生かしたのが継続して発行されている第八版である。世田谷区のホームページに載っていて国内や国外へ発信している。今、我々は『三軒茶屋文士町文化地図』を手がけている、文化地図の伝承は今も続いていることである。

3、台湾出撃沖縄特攻−八塊飛行場を巡る物語


 北沢川文化遺産保存の会の活動もこの12月で満18年を迎える。当初は、地域文化の発掘を行ってきた。文学碑を建立したり、地図を作ったり、紀要をまとめたりと多くのことを行ってきた。しかし、文化は個別的なものではない、多くの事象に結びついている。あらゆることがネットワークでつながっている。
 当地域の中心となる施設は代沢小学校である。代沢学校は1880年に開校している。我々の関わりとしてはまず、まず安吾文学碑を建てた。また、戦争経験を聞く会などを学校で開いてもいた。代沢校もやはり戦争中に浅間温泉に疎開している。このことについても当会、ブログでも取り上げていた。ここに質問が寄せられた。疎開先のお寺で寮歌を歌っていたが知らないか?というものだった。
 この質問がきっかけとなって代沢国民学校の疎開の歴史を調べ始めた。この過程において代沢小の疎開学童と特別攻撃隊員と深い関わりを持っていることを知った。その過程で「鉛筆部隊」の存在をしって深く調べた。
 今は、Wikiを引くと歴史事項としてこれが載っている。過去調査は繋がりを広げるものである。つぎつぎに歴史的な新事実に遭遇して、その度に記録としてまとめてきた。これは際限なく続いて、ついには台湾にまでつながってしまった。
 台湾出撃の沖縄特攻というのは知らなかったが、調査は止まるところを知らず、ついには台湾の関係者とのコンタクトするようになって、日本で知られることのなかった「台湾出撃特攻」が今回日の目を見た。
 代沢小の「ミドリ楽団物語」も加えると今度で7冊目となる。九州出撃の沖縄特攻はよく知られているが台湾出撃の沖縄特攻に触れるのは初めてではないかと思われる。外地ゆえの特別な苦労や苦悩があった。これらのことをコロナ禍にめげず書きまとめたものである。『台湾出撃沖縄特攻−陸軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)は25日に発刊された。定価は2500円+税である。軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)が11月25日発売された。売価は2500円+税。希望される方にはサインをして渡したい。消費税はサービスする。希望があれば自著サイン入りで、邪宗門受け取りもできる。

4、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第180回 12月10日(土) 大山道をてくたくぶっくで歩く
 案内者 木村康伸 東急田園都市線用賀駅改札口 13時集合
・用賀駅→玉電用賀駅跡→大山道追分→真福寺→無量寺→田中橋→延命地蔵→大空閣寺→将監山遺跡→慈眼寺→瀬田玉川神社→次大夫堀→砧線中耕地駅跡→南大山道道標→江戸道→二子の渡し跡→二子玉川駅
 今年の歩き納めとして、玉川の郷土を知る会(「地団協」)が建てた石碑を道しるべに、いま会で話題の大山道の一部を歩いてみよう。


第181回 1月21日(土) 下北沢萩原朔太郎の箱庭文学館を歩く
案内者 きむらけん 下北沢駅東口 13時集合
世田谷文学館では萩原朔太郎の没後80年を記念し「萩原朔太郎大全2022」が開催されている。全国の文学館、大学など54館も参加して催しが行われている。その中で終焉の地は当地に他ならない。 詩人・吉増剛造は「下北沢には至るところに次元の穴が開いている」と。それは当地で最晩年を送った萩原朔太郎の、街角に想起される幻影である、朔太郎が辿った道を想像しながらその「次元の穴」を実際に歩いてみるという新しい試みだ。
・下北沢駅→朔太郎下北沢旧居→煙草屋→ポスト→「樹木の多い郊外の屋敷町」(野屋敷)→路地巡り→下北沢線路街→踏切地蔵→線路街経由世田谷代田→駅から自宅への歩行ルート→代田の丘の61号鉄塔(世田谷区風景資産・朔太郎居住痕跡)→旧居跡→青猫文学碑
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。090-3501-7278
 きむらけんへはメールk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
■ 編集後記
▲毎回、投稿を募っています。恐ろしいことに間もなく「200号」となる。12で割ると16年半となります。ぜひ投稿してください。
▲北沢川文化遺産保存の会の忘年会は12月10日に三軒茶屋で行う。この日町歩きを行うが終わった後、三軒茶屋で開催する。申し込みは締め切ったが1,2名ぐらいだと何とかなるかもしれない。当方に問い合わせてみてほしい。
▲今年最後の会報発行は12月25日(日)14時から 会報折り込み手伝いに来てください。終わってお茶飲んで今年を振り返る。邪宗門年内最終営業日。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ



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2022年11月27日

下北沢X物語(4598)―ダイダラボッチと守山(モリヤマ)下―

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(一)時は容赦なく過ぎて行く、歴史は記録によって読み解かれる、が、これらは正確に残っているわけではない。現今、残されている記録を頼りにダイダラボッチを解き明かそうとしている人がいることを知った。谷山敦子氏(『せたがや 中世拾い歩き』 之潮 2021年)はこの著書の中で「生と死を巡るトライアングル……北沢川流域の開発と信仰」をまとめ、ここでダイダラボッチについて論じている。「モリヤマ」は一つの手掛かりで、これを出羽三山信仰における「モリノヤマ」でないか、すなわち埋葬地で死者の霊魂が昇天する前に一定期間、そこに籠もって浄化する場ではないかとの説を立てている。ダイダラボッチとは何か、柳田国男はここを訪れ調査を行った、彼はダイダラボッチ探査を巡礼と称している。当該箇所は聖地だとする認識があったからだ。代田ダイダラボッチを出羽三山信仰と結びつけたユニークな見解であり、見方である。

谷山敦子論考は、印象的には、「生と死を巡るトライアングル」などの捉え方は多分にロマン的な印象を私は受ける。
この論考の中で「守山の語源」がある。その冒頭である。

 守山は、森巌寺川と鎌倉道と言われる古道(現、鎌倉通り)とにはさまれた台地で、広さ三万坪に及ぶマツ・ナラ・クヌギに覆われた美林であった。
 
 現今の鎌倉通りである。(写真)下北沢の西部を南北に貫いている道だ、淡島通りにぶつかる、ここで消えているようにも思えるが道は細くなって南に延び太子堂八幡宮の脇を抜けて行く。
 神社境内には「御由緒」が掲げられている。その一節だ。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

歴史論考で述べられる「鎌倉道」と御由緒に言うこれとは同じである。が、我らの仲間内では常識になっている。これはいわゆる古道の鎌倉道ではないと。この道と並行して走っているのが二子道である。これは間違いなく古道である。行く末は多摩川の二子の渡しである。では現今の鎌倉通りは何か、近代になって土地を売り出すためにデベロッパーが新しく名づけたものだ。
「この代田には鶴ヶ丘があるでしょう、あれにあやかってつけたんですよ」
 鎌倉通り沿いに住む山本裕さんの言である。続きを読む

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2022年11月26日

下北沢X物語(4597)―ダイダラボッチと守山(モリヤマ)上―

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(一)代田の語源はダイダラボッチから来ている。類例のない当地域の特異な文化現象である。そんなことから駅の新装に合わせて2021.3.28日に小田急線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が作られた。メディアからは二紙の反応があった。T紙は記者を派遣して取材までした。が、記事は載らなかった、当記者からの連絡は何もない。この背景にはこの伝承に対しての社会の理解や認知度の低さが挙げられる。ダイダラボッチの市民権が獲得できていない。図書館でこれを検索すると「妖怪」が多く引っ掛かる、社会は真面目にこの伝承に向かい合おうとしていない、と痛感する。ダイダラボッチは古い伝承だ。が、あまりにも古くて理解できないという点もある。ダイダラボッチとは何か、これが十分に社会に浸透していない点はある。

 ダイダラボッチに対して真面目に考えようとした人は今まで二名出会った。一人は國學院大學の学生で調査をしレポートも出している。もう一人は日経新聞の記者だ、彼は熱心で代田のダイダラボッチ跡から第二候補の野沢まで歩いて取材をして記事に取り上げた。

 区域地域によってダイダラボッチへの認識度は違う、相模原のダイダラボッチを取材したときに市民の多くがこれを知っていることに驚いた。その差違はどこから来るか「小学校で教えてくれるのです」と住民。なるほどと思った。

 自身はダイダラボッチ伝承を広めようと『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』という冊子を作った。世田谷区教育委員会に持っていったが、「伝承でしょう?」ぐらいの認識であった。唯一、代田小学校では授業で取り上げていると聞く。

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2022年11月24日

下北沢X物語(4596)―吉増剛造『氷島』論 2―

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(一)朔太郎の最晩年の詩集『氷島』をボロクソにけなしたと吉増剛造氏は言う、これは弟子の三好達治である。彼の場合は単なる難癖ではない、理路整然と批判する。『氷島』では、「新年」という詩がある。「昭和七年一月一日」に詠まれた、すなわち下北沢在住時の作だ、年改まっての彼の感慨が詠まれている。「新年来り/門松は白く光れり。/道路みな霜に凍りて/冬の凛烈たる寒気の中/地球はその還暦を新たにするか。/われは尚悔いて恨みず……」とある。三好達治はここを問題にする。ここで引用した最末尾を取り上げる。「『われは尚悔いて恨みず』といふ一行にさしかかって、読者は果たして容易に明瞭な表象を捕らへうるでせうか、小生はここでまづ一度つまづきます」(「詩集『氷島』について」)と批評する。三好達治は行と行の間の飛躍がおかしいと指摘する。言われてみればそうだが、まず新年を迎えて誰もが持つ考えを述べ、人々はそうだが私自身の思いは「われは尚悔いて恨みず」なのではないか? 達治は語同士の接着性を論ずる、が、ここで朔太郎が言わんとするのは思想ではないか、段落を変えて「私の新年対する思いは」と言おうとしているだけではないか。

 吉増剛造の講演の続きだ。
「『氷島』は評価を与えられていないけれども私には、全部いい、郷愁がここには書かれている、我々の生命が持っている、単に人間だけでなく動物も植物も含めた存在の根源を問うている、懐かしさみたいなもので一貫している。それを正直に、正直にすばらしい、すばらしい一貫したものを出し……なんというのかな『聞こえない風土の楽器を創り出した』と言っていい。これは中原中也にも宮沢賢治にもできなかったことです。それを少しずつ説いていきます」
 詩人は素晴らしい詩語を操って語る。
 どうやら朔太郎詩における音楽性を指摘しているようだ。
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2022年11月23日

下北沢X物語(4595)―吉増剛造『氷島』論―

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(一)言葉は世界を映す鏡である、地図もまた同じである、我々は「下北沢文士町文化地図」を作ってきた。今回新しく「三軒茶屋文士町文化地図」に挑んだ、後者は締め切りを迎えたところから21日に印刷所に入稿した。これまではAがあった、今度はBができる。見本刷りを見ただけで地域の文化の差異が視覚的に見られる。大きな違いは道である。Aの場合は碁盤目状である、Bの場合は乱雑で屈曲している。街の形成過程が一目でわかる。言わば災前、災後の差違である、耕地整理をする間もなく震災避難民が玉電で押し寄せてきた三軒茶屋一帯、大地震後鉄道が開通して開拓され始めた町との差である。

 「萩原朔太郎大全2022」で朔太郎詩が全国的に大きな脚光を浴びている。代田・下北沢は詩人終焉の地である。昨日、たまたまLADY JANEのオーナー大木雄高さんから電話があった。ふと思いついた。

「萩原朔太郎大全2022IN LADY JANEという企画を立てれば面白いですよ。先だって吉増剛造の講演会に行ったときに自身では『下北沢の至るところに空いている次元の穴』のことを話題にしたんですよ。彼の詩人は当町で晩年の詩集『氷島』が書かれたこと、そして『猫町』が案出されたことに深い感銘を受けたところから『次元の穴』は発想されたのです。朔太郎没後80周年で全国規模で朔太郎関連の催しが開催されています。地元としてもアピールするとよいですよ。『氷島』のいくつかを選んで歌詞をつけて歌わせる、おてのものでしょう。そして『猫町』は手練れの女優に朗読させる……」
 というアイデアを電話での長話の途中しゃべっていた。が、彼はどこまで聞いていたかわからない。

「下北沢演劇の嚆矢は『ザ・スズナリ』と言われているけどもその前に俺達が下北沢で初めているんだから……」
「ああ、萩原葉子さん、ダンスやっているときはよく家の店にもダンスの有名な先生ときていたよ」

「大木惇夫と北原白秋の関係については親から間接的に聞かされているんだ。大木惇夫には娘が二人いて有名なんだ、妹は宮田鞠絵、編集者でエッセイスト、『忘れられた詩人の伝記』とか書いているんだよ」
「お元気ですか?」と私。
「元気、元気」
「お話を聞かせていただきたいですね」

「下北沢の次元の穴も、ほら町がきれいになったでしょう。穴が少なくなったんですよ」
「ああ、あれね」彼の反応は鈍い。 
 下北沢線路街を含めての町の再開発が進行している。大木さんは道路造り反対派として活動してきた。今の町への思いは強くあるように思った。

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2022年11月21日

下北沢X物語(4594)―世田谷の尾根を歩く 下―


P1050569(一)現今武蔵野は近代化された。飲料水は水道から流れ出る、が、一昔前は井戸である。居を定めるときに水が出るか出ないかは大きな問題だった。が、今は住宅地である。かつては一帯は農耕地、しかも作物を作るのに適してはいない、例えば地勢全体を記録した『東京府史了』では土地の特徴を言う、ほとんどに見られるのが「高燥ナリ」と記される、土地が高くて土地は乾燥していると。それゆえに水は命だった。小河川の源流にある湧水地は弁財天を祀って大切にした。一方の面的な水源は用水路に頼った。世田谷のど真ん中を流れているのは品川用水である、名称のとおり品川に送る水ゆえに途中の世田谷でこれを利用できなかった。世田谷区内には「盗水」を戒める高札が三箇所も掲げられていた。

 我らは、世田谷の尾根を通った。谷亀氏はこれを図示されたが品川用水は地形を見事に活用している。
 まず荏原台の尾根が活用されている。図示するとよく分かる、荏原台は淀橋台から派生して南東方向に流れている。その尾根を巧みに使った水路が品川用水である。地形地質的にも荏原台は淀橋台は親戚同士だ、南東に派生した荏原台は左に烏山川低地を、蛇崩川低地を見て尾根上を曲がりながらもおねおねと続いて行く。

 品川用水は何度か歩いている。会友には渡辺一二氏がおられる。

「品川用水の特徴というのはどういう点が言えるのですか?」
 私は聞いたことがある。
「他の用水に比べると築堤造作箇所が多く、人工築堤が最も長いと思います…」
 本流である玉川上水はいわゆる淀橋台の背尾根を堂々とたどっている。地形通りに水を流せば何の問題もない。ところが品川用水の場合は骨格となる背尾根が見つけにくいという難点がある。背尾根から背尾根を渡って行くというのも品川用水の特徴だ。綱渡り的な用水だ。

 千歳村粕谷に住んだ徳富蘆花は、「みみずのたはこと」の中で用水のことについて触れている。

 家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何なァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲む役を引受けた。

用水は汚すなというお触れが出されているが住民は守らない。
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2022年11月20日

下北沢X物語(4593)―世田谷の尾根を歩く 上―

P1050558
(一)歩きから詩が生まれる、必然である、景色のトンネルを潜り抜けていくのが歩きだ、それは千変万化する、車移動では情報を捨てながら移動する。日の光を浴びた紅葉、青々とした山々はうっちゃって行くしかない、が、歩きでは生の情報が身体全身に降りかかる、脳は最も活性化する、用水筋の尾根歩きの場合、土地の傾斜に敏感でなくてはならぬ。これを続けていると土地の魂への共感が湧いてくる、品川用水、ミリ単位で尾根を見分けてこれを通水させた。昨日、当会会長の谷亀冢困皆を用水の旅へと導いた。彼は用水上の道の左右の遊歩道を作るときの現場責任者として関わっていた。歩道には桜を植えたが、長い年月で見ると落葉や剪定などには問題があったという。

 小田急線千歳船橋から歩き始めた。しばらくして
「古道ですね、ゆうに千年は使っていますね」
 案内者の谷亀氏が言う。その幅といい曲がり工合といい、それらしい風格がある。
「ここら辺の中心地はどこでしたか?」
「府中!」
 東から西の府中へ行く道は重要道である、旅人も通ったが物産の出荷ルートでもある。

 千歳通りは、品川用水に沿った道だ、元は両脇の歩道はなかったがここに歩道を設けたこれに関わったのが谷亀さんだった。
 この通りで特徴的なのは、右岸の玉垣である。河原のごろごろした石をそのまま積み上げて塀が作られている。
「かつての玉電で運ばれた石でしょう」と。

 用水は丘陵の間を流れている。勘が働く、この台地上には遺跡があると。調べると左岸には「桜木遺跡」があった。以前、発掘中に見にきたことがある。調べると古い。

[旧石器時代][縄文時代(早期〜後期)][弥生時代(中期)][古墳時代][平安]

見学に来たときに集落跡が多数あったのを印象深く覚えている。彼等古代人は水辺には住まない、水害を恐れ高台に住む。水は高台を降りて沢から運んでいた。後に江戸になって用水ができる。

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2022年11月18日

下北沢X物語(4592)―吉増剛造、朔太郎を熱く語る 2―

P1050547
(一)詩は活字になって詩集に蓄えられている。これに読者が触れることによって詩は息を吹き返す。声に出して読むと行間から音が聞こえてくる、常々自身は『氷島』の「自序」に接してはここに高圧線に吹きつける風のうなりや、青い火花をジィジリと放つ鉄塔の音を想像していた。ところが何と吉増剛造氏、まさにその自序を取り出してここから聞こえる音について言及された。この自序は、書かれた時と場とがはっきりと明示されている。「昭和九年二月」と。間違いなく世田谷代田の家の鉄塔の真下で書かれたものだ。「あの高圧線の電気は前橋から来ていますね」と私は氏に質問しながら言っていた、「あんた、こっちへ来て説明しなよ」と言われた。私は深い共感と共鳴を氏に感じたように思った。

 氏は、「『氷島』『猫町』を書いたのを知ったことは」事件だったと言われる。それは自序の末尾にある、「昭和九年二月」が端的に証明している。萩原朔太郎は『氷島』をここ代田で間違いなく編集していた。詩集の冒頭詩は、『漂泊者の歌』である、この作品、言わば総括詩である、よってこれも編集時に詠まれたのではないかと想像する。

 小説『猫町』は、「昭和十年十一月、版画荘」より刊行されている。当地で『氷島』は編集され、『猫町』はここで書かれている。昭和九年や十年は朔太郎は近隣付近を漫歩しながら想を得ている。自身、書斎ではなく付近をほっつき歩きながらこれを行っていたと書いている。そして、先の「漂泊者の歌」冒頭だ。

日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。


 まさにこれは自人生の総括である、付近を漫歩しながら人生を振り返り、思いついた詩句をメモに書き上げた。結構の整った漢文体である。

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2022年11月17日

下北沢X物語(4591)―吉増剛造、朔太郎を熱く語る―

P1050545
(一)言葉とは何か?、現今、言葉が陳腐化、形骸化しつつある、世界は嘘に満ち満ちている、そんな中で一人の詩人にスポットを当てて詩とは何かを問う運動が行われている。萩原朔太郎大全2022である。全国52カ所の文学館や美術館、大学等が参加している。朔太郎没後80年を記念しての催しだ、この運動の一環として昨日16日、「萩原朔太郎大全2022 in 大正大学」が開催された。吉増剛造氏、萩原朔美氏らの講演や対談を軸としたものだ。吉増剛造氏は「下北沢には至る所に次元の穴が空いている」と指摘しておられる、これに深い興味と関心を持っていた。講演後「何か質問はありませんか?」と。好機到来、千載一遇のチャンス、次元の穴について真っ先に質問をした。問題の核心はおおよそ了解はしていた、街の物影に潜む朔太郎の陰翳のことである。彼の言、「下北沢が『猫町』であることを最初に言ったのは私です」と、詩人の鋭い感性はニャント猫町のツボをしっかりと押さえておられた、感動したことだ。

 これまで何千もの人に出会ってきた、しかし、本当の詩人に出会ったのは初めてである。詩人は単に言葉の手練れではない、言葉に潜むデーモンを掴んで、さりげなくそれを垣間見せる。

 彼から教わったのは詩とは何かということだ。詩は単なる文字列ではない、言えば各自に与えられた台本だ、これを声に出すことで詩がイメージを現出する、詩は生き物なのである。読み上げられた音韻が発信者の心の陰翳や叫びを人に伝えてくる。

 氏は、朔太郎詩から
 
聞こえない風の楽器の音色を聞き取る

というようなことを言われた。詩が奏でる音のことを言われているようだ。

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2022年11月15日

下北沢X物語(4590)―三軒茶屋文士町文化地図最終編集会議 2―

P1050144
(一)三軒茶屋は歴史の荒波を潜り抜けた町だ、世田谷では江戸・東京に接する最も近い町だ、近代に起こった事件としてはまず震災がある、「東京市内の罹災者は延々続々と道幅一杯に通過し、三軒茶屋に居を定める者も亦多く、忽ちにして人口過剰の町になってしまった」(『石橋楼覚え書き』)玉川電車が早くも通じていたことは大きい。太子堂や三宿などの街並形成はこれによることが大きい、区画整理なしに乱雑開発された様子が今なお残っている。町全体の雰囲気に下町が匂うのもこの影響がある。人との繋がりが熱い。震災後の大正十四年のことだ。壺井栄は『太子堂のころ』という随筆で「太子堂の市場前で売っていた今川焼は、一つ一銭で、十銭買うと十一個くれた。私たちはそれを買って飢えをしのいだことも度々あった」と芙美子との暮らしを描いている。大正時代の話であるが今も町には下町的雰囲気が漂っている。

 世田谷東部の江戸や東京に接していたところだけに情報は真っ先に入った。基本矢倉沢往還が通っていたことは大きい。東西の物流が行き交った、これら車馬によって物資がもたらされると同時に江戸や東京の情報が真っ先に入ってきた。言わば三軒茶屋は当地の情報のアンテナ役を果たしていたと言える。

 資料として有名なのは太子堂の森家文書である。図書館には世田谷叢書として旧太子堂村森家文書として多くの記録が残されている、また世田谷郷土資料館には文書に収めきれなかったものがデジタル化されて残されている。

 三軒茶屋は地政学的に重要な地点であったことがこれらからも分かる。単に江戸期のものだけではなく、明治大正のも残されている、当地に敷設された東京電灯が高圧線電線を敷設するに当たって農民との闘争があったこれも記録されている。大正デモクラシーの息吹を伝えるものである。

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2022年11月14日

下北沢X物語(4589)―三軒茶屋文士町文化地図最終編集会議―

P1050504
(一)公益信託世田谷まちづくりファンドの助成を得て地図づくりをしている。情報収集や記入記事などが集まってきたところから昨日は編集会議を開いた。今回は、下北沢文士町文化地図からシフトして新しく「三軒茶屋文士町文化地図」造りにチャレンジをした。地域や分野を変えると見えなかったものが見えてくる。当然のことながらAとBとの比較になる、比較文化、比較文学である。一番強く感じたのは歴史の深さと重みである。下北沢の場合は鉄道の歴史から入ればよい、ところが三軒茶屋は歴史がもっと深い。当地を通る道は、大山道、厚木街道と呼ばれるが 律令時代は駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道に当たった、矢倉沢往還ともいい東海道の脇往還としの役割を果たしていた。しかし何といっても大事なことは当地に追分ができたことである。これが当地の歴史文化の源泉だと言ってもよい。

 地図を作る場合は何をマークして、地図上に落とすかという点はある。神社仏閣はその点重要なポイントである。
「一つの違いですけども三軒茶屋というのは教会が少ないですね」
 下北沢では教会はマークしいてすべて載せてある。が、三軒茶屋地区ではこれを見落としていた。が、そもそもがこれが少ないのである。四つぐらいである。比較すると下北沢の教会の数は多い。
 下北沢ではほとんどの教会の牧師さんや神父さんに当地に教会が来た理由を問うている。「神の思し召しで当地に参りまして信仰の普及に努めております」との答えてもあったがこればっかりは信じられない。

 下北沢に教会が参集、蝟集したのはなんと言っても交通の利便性である。
 キリスト教信者は知性の高い人が多い、電車の利便性が世田谷知性を集めた。それで下北沢には教会が多い。

 三軒茶屋の町の性質もある、庶民階級が多い。大概は仏教系である。庶民電車玉電は仏教系を多く運んだのであろうか。

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2022年11月12日

下北沢X物語(4588)―女流汽車文学:林芙美子 5―

D51バック東調布公園
 一家三人は(尾道)この町に腰を落ち着けることになった。それで尾道尋常小学校に入学するために父と行った。

父は、着物の上から、下のおじさんの汚れた小(こ)倉(くら)の袴(はかま)をはいて、私を連れて、山の小学校へ行った。
 小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏に陸橋があって、下を汽車が走っていた。
「これへ乗って行きゃア、東京まで、だまっちょっても行けるんぞ」
「東京から、先の方は行けんか?」
「夷(えびす)の住んどるけに、女子供は行けぬ」
「東京から先は海か?」
「ハテ、お父さんも行ったこたなかよ」
 随(ずい)分(ぶん)、石段の多い学校であった。父は石段の途中で何度も休んだ。学校の庭は沙(さ)漠(ばく)のように広かった。 放浪記  林芙美子 岩波文庫 二〇一四年刊

小学校は山の上にある、途中、鉄道をまたいだ。ちょうどそのときに駅を出たばかりの上りが通った。機関車の煙が顔にかかって石炭が匂った。カタタンカタタンと線路を響かせて列車は通った。芙美子はじっとそれを見ていた。
 汽車に乗れば何もしなくてもあの東京に行ける。その東京の先はどうなっているのか。父は化け物でも住んでいるように言う。と、そのときに見送っていたテールランプが山陰に消えた。十四歳の少女はるか遠い東京を思った。
この「風琴と魚の町」の末尾には昭和六年四月とある。タイトルは尾道という町を印象批評的に捉えたものだ、回想文である。林芙美子が少女時代の自分を思い出して書いている。冒頭山陽線の汽車が糸崎から尾道へ続く海岸線を走って行く様が描かれる。彼女にはその景色が「壁のように照り輝いて」見えた。
 この道行きでは、細かな変化は書き記されない。が、分かることがある。彼女は小さい頃から汽車に乗っていた。窓辺に見られる「廻り灯籠の画の様に/変わる景色のおもしろさ」に何時も見とれていた。少女時代、彼女は本を貪り読んだ、が、想像できることは汽車に乗ったら本は読まなかったろうと思う、常に窓辺に席を取り移りゆく風景を見ていた。 途中途中、汽笛や車輪の響などは記されない、が、それは自明のことであった。更に言えばそれらは邪魔にならない音、思うに心地良いカダンスとして彼女には響いていたように思われる。

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2022年11月11日

下北沢X物語(4587)―鉛筆部隊の語り部再要請―

P1000492
(一)十八年間、町出会った古老に話を聞いてきた、が、この頃では問いかけると自分より年齢が若い人が多くなった、気づいて見るといつの間にか自分が古老になっていた。昨日電話があった、鉛筆部隊の母校の代沢小である。「高学年の学童に鉛筆部隊の話を聞かせていただきたいのです」との依頼だ。代沢小では疎開経験者に話を聴くことを行ってきた。かつて鉛筆部隊の一員だった松本明美さんがこの役を担っていた、「松本さんもご高齢になられて……」と。この鉛筆部隊の話は三年前ほどに代沢小で既に行ってきた、コロナ関係で外部講師を招いての講演は中断していた、再度復活させようと決まり私への依頼となったのだ。何のことはない、気づいてみると自身が古老、語り部になっていた。

 鉛筆部隊の物語の発端は、ネットから始まった。自身はブログを運営している、そこにあるとき見知らぬ人からコメントが入った。すべての発端がこれである。

  昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(郷福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
”広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、父母の声、風が運ぶよ…… 
 Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20


もう十五年前である、まずこのコメントも意味が分からない。これは私が代沢小について書いた記事に寄せられたものだ。質問して来た人は私を代沢小の関係者と思ったのであろう。

 そのコメントには切実さを感じた、本気で調べていることが伝わってきた。それを汲んで当方でも調べた。すると段々に事情がのみ込めてきた。

 代沢国民学校は昭和19年8月に長野県浅間温泉に疎開していた。
 東京が空襲で襲われるということで学童は学校単位で地方に疎開をした。ところが浅間温泉も安全ではないということ塩尻市近辺のお寺に翌年4月に再疎開をした。
 お寺に分散宿泊をして疎開生活を送った。その一隊が塩尻市広丘村の郷福寺だった。ここの引率を担当していたのが柳内達雄先生という国語の先生だった。この先生が鉛筆部隊を引率していた。

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2022年11月09日

下北沢X物語(4586)―鉄道百五十年:汽車の音と文学 2―

P1020033
(一)足が長い人間は速く走れるように汽車の速度も動輪直径などその構造によって大きく左右される。狭軌は単に線路幅が狭いということに止まらない、動輪の大きさ、ピストンの長さと結びついてくる。このことは汽車全体の発する音も影響を受ける、言えば我らは狭軌鉄道が発する音声に馴染んできた。狭軌鉄道は狭い、揺れる、ガタゴト、ガタゴトという音を聞いて旅をしてきた。線路の長さは二十五メートルだ、車輪は継ぎ目を刻んで走る、この走行音はいやでも耳に聞こえる、単車時代はガタゴトだった、ボギー台車になってから、カッタン、コットンと音楽性が高まった、実際これを音楽と捉えた者がいる。北原白秋である、彼は汽車がレールを刻んでいく音を、カダンスと言った。もともとは馬術用語である。弾むアクセントのある動きを形容するものだ。このリズムを伴う音を北原白秋はカダンスと形容している。狭軌鉄道が発する音楽である、これが吾々の感性にどう影響してきたであろうか。

 北原白秋は、 大正七年(1918)十一月発行の「白光」に「伝肇寺より」というエッセイを寄せている。この冒頭は、「樹高山伝肇寺(でんでうじ)は小田原は箱根口のとある山上にある荒寺である。その寺の二た間を借りて住居する事になつてからもう十日の余にもなつた」とある。小田原住まいの近況を綴ったものだ。 

 いかにも山の上だけあつてシインとしてゐる。それでも電車の音や汽車のカダンスが幽かにきこえて来る。それもいヽものだ。波のおとも幽かになつたり、近くなつたりする。早川口へその音が寄つてゆくと、明日は晴れるが、酒匂口の方で騒立つと雨になるといふ話である。
 白秋全集35 小編一 所収 一九八七年刊 岩波書店


山間から聞こえてくる汽車の響きを彼は気に入っていた、「カダンスが幽かにきこえてくる」と、音楽的な魅力を感じていた。
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2022年11月08日

下北沢X物語(4585)―鉄道百五十年:汽車の音と文学―

P1020014
(一)幕末、万延元年(1860)米国に渡った遣米使節団はこのときに初めて汽車に遭遇する。武士たちはこれに乗って驚嘆した「車の轟音雷の鳴はためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木もしまのやうに見へて、見とまらす」(村垣日記)と言う。汽車は動き出したとたん雷が鳴るような轟音を響かせた。腰を抜かすほどに怖かった。ようやっと座席に腰を落ち着けて窓辺を眺めると縞模様が流れていく。怪物との遭遇である。これから十二年後の明治五年、日本で汽車が初めて走った、これを見学に来た人々は、こつ然と空気を破って現れたこれを見て「火龍だ」と叫んで逃げた、腰を抜かした婆さんは、その場にへたり込んで「もう死ぬところだった」と恐怖を語った。汽車は恐ろしいものだった。

 明治五年、汽車は走り始めた、が、人は場慣れしてきた。
「窓を見るときは下を見ないで遠くを見るのだ、な、しばらくすると左手に日に当たった大森田圃が見えてくる、きれいだぞ」
 やはり縞模様に驚いていた人々ももう驚かなくなった。汽車は楽しいものだ、これが定着して唱歌でも歌われる。「汽車」の三番だ

廻り灯籠の画(え)の様に
変わる景色のおもしろさ
見とれてそれと知らぬ間に
早くも過ぎる幾十里


 汽車の楽しさは、車窓美にある、「廻り灯籠の画のような」は、唱歌「汽車」で描かれる主題だ、車窓に山や浜の美しい風景が居ながらにして映し出される。人々はこれに魅せられた。この廻転していく美しい絵をどう描くか?文学はこれと苦闘した。

 車窓をどう描くか、文学の課題だ。石川啄木『一握の砂』の有名な一首である。

雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間やまあひの町のともしびの色


 鉄道の車窓を描いた秀逸な一首である、描かれているのは夜景である。山間にポツンと点った灯りがものを思わせる。読み手の想像も膨らむ、山間を走る狭軌である、多分登りにかかっていて速度は遅い。ゆっくりである、カタコット、トコトット、時速は三十キロぐらいではないだろうか。
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2022年11月06日

下北沢X物語(4584)―東京荏原都市物語資料館検索逸話―

『下北沢X惜別物語』
(一)18年間文化探訪を続けてきた、何をしたか、まず歩いた、日々歩かない日はない。社会の変化を見て来もした。6577日間で変わったのは老齢化である、豆腐屋、八百屋など個人商店が街から消えた。「うちはね、朝が嫌いだから絶対に継ぎたくない」と言ってますから店は閉めるしかありませんと高齢化した店主は言う。これと関連するが、老人ホームがやたらと増えたことだ。荏原南西部だ、便利がよい、緑が多く残っている、余生を送るには好都合である。しかし、これは蓄えのある人向けのものだ。造りが豪華だ、ロビーにはピアノがある。庶民が入れる施設ではない。日本の老人は金を持っている。これが目当てだ、広い敷地の緑が伐り倒されるとマンションではなく高級老人ホームが建つ、日中、介護士に連れられた老人たちが公園をよく散歩している。保育園児の散歩と老人の散歩、好対照の風景が日々見られる。

 三食昼寝つきの老人ホーム生活、自分には耐えられそうにもない。
「歳をとって大事なのは二つだけ、身体を動かすこと、頭を働かせること、この二つだ」
 自身歩き回る、雨が降っても雪が降ってもだ。歩かないとおかしくなる。近隣はくまなく歩いている。

 前はよく旅に出た。汽車が好きだったからだ、家の前には呑川が流れている。一つのコースはこれを南下する。途中、石川台の呑川右岸の十三階建て高層マンションはいつも眺めて行く。詩人の終焉の地である。石垣りんである。教科書には彼女の「崖」という詩が必ずと言っていいほど出てくる。が、難解だ。とくには「崖はいつも女をまっさかさまにする」である。これを検索に掛けるとトップに出てくるのが当ブログだ。

 自身教師時代、解釈に困ったことから、分かりやすくこれの解釈を試みた。教壇に立った人の助けになると思って書いた、ときどき検索で閲覧されているようで所期の目的は達せられているようだ。

 教科書の文言では「石炭をばはや積み果てつ」、鴎外『舞姫』冒頭の一文だ、このたった九語の言葉の巧みさを知ったのは晩年になってからだ。娘は森茉莉『贅沢貧乏』を表した、このことから「贅沢をばやはや積み果てつ」を話題にした、これは完全に「ネットへの与太飛ばし」だ、Googlecrawlerはしっかり拾っていて検索トップに来る。
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2022年11月05日

下北沢X物語(4583)―文化発掘は検索こそ命なり―

P1000478
(一)二三日前、見知らぬ人から長谷川信少尉の墓所と記念碑の場所を教えてくれとの連絡があった。旅先からだという、容易に想像できたのは検索情報を得てのコンタクトだろうと思った。案の定、Google検索で「長谷川信少尉」と引くとページトップの一、二番にトピックが出てくる、トップ記事は「長谷川信像検証の試み」だ。自身文化事象を多岐に亘ってネットに放り込んできた。この行為を「ネットに与太を飛ばす」と言っている、念のためと思ってこのフレーズも検索する、つい笑ってしまった、これも検索ページのワン、ツーを占めている。まず、「ネットに与太を飛ばす」だ、つぎに「ネットに与太を飛ばして生きてきた」である。後者は当たっている、ネットに自身の造語をめったやたらと投げ込んで人生を遊んできた。このことが発端になって多くの物語をネットから拾った。
ネットで生き生き人生経験、本にすれば売れるかも?

 近々発刊される著作には、第五弾とのキャッチが書き込んである。このブログを通しての発見が発端となって本を纏めた。しかし、実数を言えば第七弾となる。

 ネットに言葉を放り込み始めたのは2004年8月31日だ。ということは十八年間継続してきたことになる。記念すべきこのタイトルは、「分けて分か去れしるべ道ー信濃追分ー」である、これも念のためと検索に掛けてみる。やっぱりこれがGoogleトップに来るではないか!恐ろしい。

今日のブログのエントリー数は、4583である。これまでの記事分量はいかほどのものか、平均して原稿用紙六枚分ほど書いているのではないか?2400文字だ、その総計はかけ算すると109999200語となる。つまり、壱億九百九拾九万九千二百語となる、気が遠くなりそうだ。

 不思議なのは、この語がネット世界に貯め込まれていることだ。どこに倉庫はあるのだろう?
 この語を集めているのはロボットである、crawlerである。これが絶え間なく発信元を巡っては語を集めている。

彼は何回来ているのだろう、その訪問回数は調べられる。昨日のを点検してみる。やはりGoogleは、ダントツだ、 googleクローラー(*.googlebot.com)の訪問回数は358である。絶え間なく訪れているのだ。

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2022年11月03日

下北沢X物語(4582)―文化に浸って18年!―

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(一)我らの会は、「北沢川文化遺産保存の会」である。発足は2004年12月だ、間もなく満18年を迎える。ひたすらに失われた文化を掘り起こし続けてきた。それは人々の精神的な営みである。ところがこれは儚いもので時が経つとともに消えていく、ふと気づくと礎石や痕跡すらもたちまちに忘れられて消えていく。それを何とか残そうと奮闘してきたきた。その一例が碑の建立だ、北沢川べりに代沢小がある、ここで作家の坂口安吾は教鞭を執っていた、「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」などと学童に教えてきた。この作家の大田区の旧居に家の門柱が残っていた。これを譲り受けて文学碑を作り、碑として残した。文化活動の一端だ、が、立体物を作ることだけが活動ではない、大切なのは記録である、それで『下北沢文士町文化地図』を発案してこれを作成した。版は改版を重ね、ついには今で8版を数えている。この地図には文化が凝縮している。下北沢一帯の様々な文化事象を地図に落とし込んできた。地図から文化がこぼれ落ちるほどになった。

「この地図そのものが文化遺産ですよ、すばらしい!」
 世田谷文学館では萩原朔太郎没後八十年を記念して展覧会が行われている。これに関連して下北沢を巡る文学散歩を行った。そのときに参加者に『下北沢文士町文化地図』を配った。一人一人はこれを眺めては感動していた。

 十八年間の努力の所産である、嬉しい。どこに何があるか、これはひたすら足で稼いで調べてきたものだ。自転車で走り回ったり、歩いたりしてチェックしてきた。この一つ一つにドラマがある。

「この地図にある下北沢仙泉閣、これってすごいところですね、満州国皇帝溥儀の弟が住んでいたのですね」
 先日も言われた。

 地図には「代田連絡線」の跡が描かれている。「戦時応急車輌運搬線」だ、1945年5月25日、山手大空襲があった。これによって永福町車庫が焼けて帝都線(井の頭線)の電車が焼けた。
「車輌がない、これでは帝都は滅びてしまう、至急車輌を手配しろ!」
 帝都線へ車輌を搬送するために世田谷中原(代田)から代田二丁目(新代田)へ仮設の搬送線が津田沼の鉄道連隊の手によって敷設された。戦争の歴史ドラマだ。(注:船橋の鉄道連隊としていたが指摘を受けて訂正した)
 コメント指摘も記録になるので最後に貼り付けで参考情報として載せた。2022/11/05

(二)
 「下北沢文士町文化地図」には薄いピンクで彩られた箇所がある。それは空襲を受けて燃えた箇所である。これは街並の歴史を知るには便利なものだ。
 下北沢一帯は白である、つまりは大半は焼けなかったことである。日常生活を営める家が残ったことは大きい。
 みんな焼け跡では、焼けたトタン屋根の下で窮乏生活をしていた。大原に住んだ詩人の福田正夫は、トタン屋根が風に吹かれて鳴る音を、「キリヤコンコン」と描いた。焼け跡に文学も生まれた。が、家を失うとわびしい。
 屋根があれば雨露を凌げる、商売もできる、下宿屋もできる。
「連れ込み旅館にしよう」
「出版社を興そう」
 焼けなかったことで活力が生まれた。

 焼けたことに関しては、我々は「焼け遺った街 下北沢の戦後アルバム」を作った。フロリダ大学にお願いして印刷の許可を得て、オースティン博士が撮影したカラー画像をアルバムに印刷して配った。
 大きな反響があった、テレビや新聞でも大きく取り上げられた。この冊子人気でたちまちになくなった。追加でもう一万部印刷したがこれももうなくなった。
 つい数日前も、SNSで「地図は残っていませんか?」と問い合わせがあった。
「世田谷の全図書館に寄贈分があるので、それで閲覧してほしい」と伝えた。

 先だって若い役者俳優が下北沢に興味を持って私に会いにきた。
「下北沢文士町文化地図は、文士町と呼んでいます、これは私がつけました。普通は文士村ですね、誰か中心なる人がいてその人のところに集まってきます。馬込文士村だと尾崎士郎、田端文士村だと芥川竜之介だというふうに、下北沢も核になる人物がいないわけではありません、代表格は横光利一です。しかし、新感覚派の括りではここの文学は全部カバーできないのですよ。ジャンルが入り乱れている、とくに多いのは詩人系統ですね、今はちがいますが、かつては詩人密度は日本一だったのですよ。

(三)
 文化というのはその地域だけでは完結しない、とくには今はネット時代だ、このブログ「東京荏原都市物語資料館」は世界発信をしている。世界中で見られている。

「おかあさん、きむらけんさんのブログ、今日はお母さんのことが載っているわよ」
 ロンドンにいる娘さんが東京にいるお母さんに携帯で知らせてくる。
このお母さんというのが東大原の疎開学童の秋元佳子さんだ。

 昨日だった、見知らぬ人からメールがあった。これから長谷川信少尉のお墓と記念碑に行こうと思いますので場所を教えていただけませんか?
 この長谷川信は浅間温泉の富貴之湯で秋元圭子さんと出会っている。そのことから私は長谷川信少尉を知り、調べあげたものだ。

 文化は因縁なしに繋がりえない。
 我らは「下北沢文士町文化地図」を作っている、挑戦は続く今「三軒茶屋文士町文化地図」にチャレンジしている。


〇代田連絡線についてのコメント
 いつもブログを見て戴いている、奥谷民雄さんからコメントがありました。

「・・・仮設の搬送線が船橋の鉄道連隊の手によって敷設された」と記述されていますが、手持ちの資料で代田連絡線の工事を担当した鉄道連隊名を探しましたが、「陸軍鉄道連隊」としか記述されていません。まだ調査は続けますが・・・

 鉄道連隊は、第1と第2が有名ですが、1945年頃には多数設立され、主に海外に派遣されていました。第1鉄道連隊は千葉(都賀村作草部)、第2鉄道連隊は津田沼町谷津です。
現在の船橋市は、津田沼駅の北側まで区域ですが、鉄道第2連隊のあったのは南側の津田沼町谷津です。津田沼町は、戦後、習志野市に表記が変更になっています。

 鉄道第2連隊の用地は、津田沼駅の南側の広大な区域でしたが、この一部は、現在千葉工業大学のキャンパスになっています。代田連絡線の工事に動員されたのが、鉄道第2連隊であるならば、「津田沼(現習志野市)の」ではないでしょうか?




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2022年11月02日

下北沢X物語(4581)―ある役者俳優との鉄道X点文化談義 2―

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(一)人生、おもしろがればおもしろくなる、彼青年俳優は土地の文化を楽しんでいる。「ダイダラボッチと町の形成に関係ありませんか?」、「鋭い質問ですね、そんなことを聞いてきた人は初めてです、地図を見ますね、そうすると代田のダイダラボッチの足跡部分を道が回り込んでいるでしょう。足跡は湿地ですから道は避けます。それで弧を描いて廻りこみ、そしてこの道が東南方向に斜めに流れていきます。この道こそは現在の下北沢一番街ですね、この斜めの道を基準に一帯の土地が区画されています。とくには北側です、野屋敷といいますが碁盤目状に区画整理されています。ここは高級住宅地ですね。クリエーティブな人が多く住んでいました。ダイダラボッチの陰翳といえば陰翳ですね、が、そんなことに注意を払う人は皆無ですね……」

 青年俳優が持ち出した袖論も面白い。いわばタメであり、結節点である。
「私は今、三軒茶屋の地図を作っています。この町の根幹は、追分ですね、Yの字をしているでしょう。昔は、これが一本でした。矢倉沢往還という古東海道ですね、もともとは三軒茶屋では一本だったのですよ。しかし、江戸時代中期なって追分ができた。単なる通過点だったところが分岐点になった。結節点ですね、人々が立ち止まるようになって、接待所ができた。つまりは三軒茶屋ですね、昔はみんな歩きですからね、結節点では立ち止まるのですよ。『お茶でも飲もうか』ということで茶屋ができた。これが発端となって町が形成されたのです。後に電車も通りますが電車線もまたここで別れた、鉄道線路はY字をしていましたね……」
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2022年11月01日

下北沢X物語(4580)―ある役者俳優との鉄道X点文化談義―

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(一)出会った彼は理知的な青年俳優だった。さっそくの文化談義だ、始まったのが「袖論」である、「本田劇場の本田一夫さんが舞台袖はとても大事だと言っておられました」という切り口から始まった。袖は中心ではない。能舞台では、舞台袖に「鏡の間」がある。演者が最後に装束を直し面を付けて役者になりきり晴れ舞台に出ていく。たとえ面をつけなくとも袖は大事だ、素顔から俳優になる、心を切り替えていく場だからだ。言わば、袖は結節点である。つまりは繋ぎ目である。このことから都市文化論に発展した。それはYであり、Xである。つまりは三軒茶屋であり、下北沢である。

 演劇人の彼が下北沢を案内することになった。それで町の文化について勉強をした。そのときに世田谷カトリック教会で関根神父から『下北沢文士町文化地図』を紹介してもらったと。それで地図奥付に書いてある事務局邪宗門を訪ねて、私を知ったという。30日月末は会報を発行して事務局に届ける、それで彼はこれに合わせて店にやってきて。文化談義となった。

 既に彼は地図を参考にして町を歩いていた。
「この地図を見てこの一帯が文化的に非常に面白い地域であることを知りました。びっくりしたことは冒険家の川口慧海がここに住んでいたのですよね」
 『下北沢文士町文化地図』は多くの文化人の居住地域を網羅している。川口慧海に驚いたという人は数名いた。知的な好奇心が旺盛な人だ。日本で学んでいた経典に疑問を持ち、仏教の原点を求めてヒマラヤ山脈を越え、鎖国状態にあったチベットに日本人として初めて入国をした。その彼の冒険に感動を覚えた人は少なくない。彼もその一人だった。
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2022年10月30日

下北沢X物語(4579)―会報196号:北沢川文化遺産保存の会

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第196号    
           2022年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館   きむらけん
 
 世田谷文学館では、萩原朔太郎没後80年を記念して展覧会が開催されている。今度の展覧会は特別で「萩原朔太郎大全2022』と称したキャンペーンが張られている。全国の52館で朔太郎関連のイベントが開かれると言う。これら全国展の中でもここ下北沢、そして代田は別格である。朔太郎は最晩年の11年間を当地で過ごしていてその痕跡が一帯のあちこちにあるからである。
 10月10日、12日、二日に亘って萩原朔太郎展に関連して世田谷文学館友の会主催で文学散歩が開催された。下北沢の居住跡、世田谷代田の終焉の地を巡る小旅行である。 今回、面白いことに気づいた、世田谷文学館のポスターは「月に吠えよ、萩原朔太郎展」では大きく猫のイラストが描かれている。「月に」は犬である。全国レベルで言うとなぜ猫が描かれるのか分からない。
「ポスターになぜ猫が描かれているのでしょうか?実際に歩いてみて改めて感想を伺いましょう」。そう伝えて町を歩いたことである。
 詩人は最晩年を世田谷代田と下北沢で送った。この間十一年間でなされた仕事はいくつかある。一つは詩集『氷島』の編集である。この中に収められている「新年」は、「昭和七年一月一日」とある、下北沢在住時である。木造家屋の二階が彼の書斎だった。ここで書かれたものである。この詩は、四番目に配列されている。
代田在住時に『氷島』は編集された。「自序」の末尾には「昭和九年二月」と記録されている。この締め括りとしては、「我が新しく心泣かんとす 冬日暮れぬ思ひ起こせや岩に牡蠣」とある、『氷島』を締め括るにあたっての感懐である。
 詩編集に当たって腐心したのは詩の配列だ。冒頭には「漂泊者の歌」を持ってきている。自らを「ああ汝 漂泊者!」と描く。『氷島』主題の提示である、想像するにこの冒頭詩は代田在住時に詠まれたものではないかと思いもする。
 下北沢及び代田在住時の日々の行動がこの冒頭詩から、透けて見えるように思う。ここで自身を漂泊者と述べるが、弟子の三好達治は、師を「旅行嫌いの漂泊者」と批評する。ここが面白い、代田居住時代に書かれた『秋と漫歩』では、「私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである」と述べる。さらに当地で書かれた『絶望の逃走』の序では、「大部分のトピックは、たいてい戸外の漫歩生活」で得たとも記している。
 有り体に言えば、自宅を中心とした戸外の漫歩生活において思い浮かんだトピックが元となってアイディアが生まれ、それが文章化されたという。
 典型的なものは『猫町』である、昭和10年代田在住時代に書かれた短編小説である。表題には「散文詩風な小説(ロマン)」とある、虚構である。最後の場面では北陸地方のU町が舞台となる。ここでとんでもない数の、猫、猫、猫、猫の大群に遭遇する。その町へは軽便鉄道が走っていて主人公はそこを偶然訪れて異変に出会う、結末が巧い。

 私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理窟りくつや議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑している特殊な部落。猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必らず実在しているにちがいないということを。

 あたかも実在したかのような「猫町」が見事に描かれている。詩人は北陸への旅行経験はない。虚構想像だ、これも近隣を漫歩しているときに思いついたものだ。
 小説『猫町』の場面設定は二つだ、前半は居住地近くの町、後半は裏日本のU町である。さきにすべては虚構だと述べた。が、実際には現実の町をモデルにしているように思われる。それは彼が住んでいた下北沢であり、代田である。

 主人公の私は、「運動のための散歩」を医師に勧められ、その忠告に基づき、「毎日家から十、四五町(三十分から一時間位)の付近を散策していた」、虚構ではあってもつい現実を想像する。出発地点は代田だと。詩人は、その散歩途中の様子を具体的に描いている。それが近隣の町である。一帯を散歩途中に不思議な経験をする。「樹木の多い郊外の屋敷町を幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと賑やかな往来に出た」、驚いたことにそこには見たこともない美しい町があった。ところがそれは幻影であった。「気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである」と。
 そこは自宅から約1600メートルほどのところにある町だという。散歩の起点を居住区代田だとすると下北沢がピタリと当てはまる。

 吉増剛造は下北沢には『次元の穴』が各所に空いているという。朔太郎の魂の存在が想像できる場である。確かに朔太郎陰翳は各所に認められる。先だって、猫町を巡る文学散歩を行った。下北沢旧居があり、ここの裏木戸から詩人散歩コースが辿れる。表通りは下北沢一番街だ。ここは戦災で焼け遺った。昔の街並も残っている。一番街裏手の野屋敷に行くと緑多い迷路的な小路が残っている。彼は、「小路から小路へ」とさ迷っていた。そういう道を辿って文学散歩では「代田の丘の61号鉄塔」へ着く。萩原朔太郎、葉子の生存痕跡を唯一残すものとの我らの提案が通り世田谷区地域風景資産に選定されたものだ。
 下北沢や世田谷代田には萩原朔太郎の面影が偲べる場所が随所に残っている。愛用の煙草を買った店、常日頃出していた郵便ポスト、ヒマラヤ杉の大木、建築家が建てた家には奇妙なデザインの丸窓などが残っている。踏切地蔵など、彼をイメージできる場が立体的に残っている。まさに『下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館』である。

2、篠の井線でのこと  寄稿 ごうだゆうき

 私は時々、松本に用事があって何泊かする。
 それは、約束の場所へと向かう、篠の井線でのことだった。日ごろ都会にいるとしょっちゅう聞こえる、自分を責めたり急かしたりしてくる声が、このとき一切聞こえなくなる現象が起きた。
 普段乗っている電車とはちがって、懐かしくやさしい気持ちになった。トトロに出てきそうな山や森や、古くなってもう誰も住んでいない空家の密集した景色をながめていると、いちばん古い、もしくはいちばん最後の自分と会っているかのような、不思議な感覚に陥ったのだ。ただの電車ではなく、人生をともに歩んでくれているかのような、というより人生そのものみたいな電車だった。
 すばらしく綺麗な景色が見えたり、地味で陰鬱な景色に出会ったり、それから長いトンネルをやっとぬけた!と思ったらまたすぐトンネルに入ったり、本当に人生みたいだった。
わいてくるネガな声に対しても、「それで?それで?ほらほらもっと言ってみて。もっと嫌味を言ったり罵倒したり掴みかかったりしてごらんよ」と悠然と構えていられるようになり、それらはもはやなんの意味も持たない、霧のようにスッと消える声でしかなかった。
 いやな思い出に対し「それで?」と問い続けられるようになり、思い出はあくまでも思い出でしかなく、それ以上自分に襲いかかってくることはできないという、極めて簡単なことがわかって、そこでピタッととまるのだった。
 映画のスクリーンのなかの家が燃えていても、消防車を呼んであげることができないのと同じように。これが都会の喧騒ではわかりづらい。
 誰かがちょっとやそっとミスした程度で誰も腹を立てないし、気にもとめない大らかさがあの街、もっといえばあの車内には漂っていた。それは無関心とはまたちがう、いいよ、という無言の優しさだった。私が普段、努めて見るようにしている神様の視点に、自然に立つことができる車内だった。
 都会は、他人の声ばかり聞こえて、自分の声が聞こえづらい。良い意味で、目には見えない霊的な存在が宿りやすい地域というのはたしかにあって、できるだけそういう場所に身を置きたいと思った。それはただの現実逃避ではなく、人は本来そういうふうにつくられているということを思い出させてくれる体験だった。
 ちがうバージョンの自分が街を歩いたり、車を運転したりしていて、みんなわたし。わたしでない人は一人もいない。叶っていない夢もない。そもそも全部持っていたんだと思い出させてくれるから、長野を、この土地を好きなんだと気付いた。

3、忘年会開催のお知らせ 

 12月10日(土) 時間17時〜19時 場所 三軒茶屋1-34-11萩原ビル1F
店名 お山のすぎの子(手打ちうどんと肴)03-5486-0094 費用4,500円(ドリンク込み)
 年末繁忙期なので参加人数を早めに把握して店に連絡しようと思います。席数に限りがあります。参加される方は11月15日まできむらにメールでお知らせください。当日は町歩きもあります。雨天で散歩は中止される場合もありますが、忘年会は雨天決行です               忘年会 幹事 幾田充代・きむらけん

4、新刊発行のお知らせ。
台湾チラシ修正
  北沢川文化遺産保存の会の活動過程において掘り起こした歴史事実を、これまで本にまとめてきました。第五巻目は『台湾出撃沖縄特攻−陸軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)が十一月末に発刊されます。売価は2500円。希望される方にはサインをしてお渡しします。忘年会の時に渡せると思います。邪宗門受け取りもできると思います。希望される場合にはこれも私にメールをください。

5、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第179回 11月19日(土)世田谷の尾根を歩く(品川用水)
 案内者 谷亀冢困気鵝陛会会長) 千歳船橋駅改札口 13時集合
 地形と文化は切り離せない、世田谷の背尾根を歩いて世田谷を知るという試みだ。
 小田急線千歳船橋駅から田園都市線駒沢大学駅まで歩く。品川用水跡である。
・コースポイント:千歳船橋駅→千歳通り(玉石垣区間)→長島公園大榎公園(北見橋の礎)→千歳通り→北見橋跡(世田谷通り交差部)→蛇崩川最上流部(盗水?)→大山道交差部→246旧道(北側歩道)→品川用水単独区間(246北側)→旭橋→駒沢大学駅


第180回 12月10日(土)大山道をてくたくぶっくで歩く
 案内者 木村康伸 東急田園都市線用賀駅改札口 13時集合
・用賀駅→玉電用賀駅跡→大山道追分→真福寺→無量寺→田中橋→延命地蔵→大空閣寺→将監山遺跡→慈眼寺→瀬田玉川神社→次大夫堀→砧線中耕地駅跡→南大山道道標→江戸道→二子の渡し跡→二子玉川駅
 今年の歩き納めとして、玉川の郷土を知る会が建てた石碑を道しるべに、いま会で話題の大山道の一部を歩いてみましょう。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090-3501-7278

■ 編集後記
▲毎回、投稿を募っています。恐ろしいことに間もなく「200号」となります。12で割ると16年半となります。ぜひ投稿してください。
▲「鉛筆部隊同総会」コロナ禍で途切れていました。12月2日 歌手の寺尾紗穂さんが浅間温泉で武揚隊の「浅間温泉望郷の歌」を歌われる。これを聞くのと折からの新刊敢行を祝って浅間温泉目之湯旅館で開催する。参加希望は受け付けます。記事追加
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506  ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ



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2022年10月29日

下北沢X物語(4578)―九品仏と菊田一夫―

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(一)検索で「萩原朔太郎 菊田一夫」と引くと当ブログがトップに来る。二人の関係に興味を持って調べた。そのことを記事にしている。菊田一夫は17歳で神戸から上京してくる、そのときに鎌倉材木座に住んでいた萩原朔太郎に会いに行った。若い少年は文学に憧れていた。興味深いことがある、大正期の無名詩人を調べると多くが詩に憧れている。詩は麻薬みたいなもので青年心を熱くした。間違いなく萩原朔太郎の影響を受けている。詩人志望の少年が真っ先に訪れたのが鎌倉材木座に住んでいた詩人である。菊田一夫評伝では「上京した彼はたちまちに朔太郎に心酔した」とある、頷けない、地方にいて朔太郎詩に触れて心酔したというのが本当だろう。

 鑑賞日本現代文学「萩原朔太郎」(角川書店 1981年)に菊田一夫のエッセイが載せられている。それは「鎌倉材木座-ある日の萩原朔太郎先生」である。萩原朔太郎が鎌倉材木座に住んだのは大正14年(1925)だ、菊田一夫は17歳だ、彼はこの年に神戸から上京してくる、詩人になろうと思いからだ、「評伝」では、「当時の、若い詩人がそうだったように、上京した彼はたちまちに朔太郎に心酔した」、それで思い切って鎌倉材木座にいる朔太郎を訪ねたものだろう。

大正十四年(1925)八月に『純情小曲集』は出ている。自序では、「何となくあやめ香水の匂ひがする」と詩人は書いている、菊田一夫はこれに当てられたのである。神戸では折々に東京行きの急行列車の尾灯を見て、都会と詩とに憧れた。『純情小曲集』トップを飾るのは「夜汽車」である。菊田一夫は何度も読み、すっかり暗唱するほどにもなった。この詩が契機となって彼は大成した。汽車なのである。

 九品仏浄真寺に加藤楸邨の墓がある。これを知ってここを訪れやっと墓を見つけた。この過程でここに菊田一夫の墓があることを知った。

 萩原朔太郎と菊田一夫との関係を調べていたゆえに身近なところに墓があることに興味を持った。一回目は見つからない、昨日も行ってみた。この墓地探訪はもう五六度に及ぶ。

 境内への立ち入りは自由である、その延長で自身墓地へ入っていた。しかし、昨日気づいた。
「関係者以外の立ち入りを禁止する」
 との看板が目に入った。見かけない看板だ。
 都営霊園などでは著名人の墓の場所を記した地図さえある。が、ここは違う。
私は「別格官幣大社」を想像した。
 死者にも格差がある、ここは上級者が埋まっているところだ、めったやたらと入るではないとのお触れである。
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2022年10月27日

下北沢X物語(4576)―北千束の加藤楸邨と中原中也―

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(一)2006年5月「北沢川文学の小路物語」を発刊した、この中で「代沢の大欅と俳人物語」としたのは加藤楸邨の当地逸話である。この地で詠まれた句の中で最もよく知られているのが「十二月八日の霜の屋根幾万」である、この日開戦を告げる大本営発表がラジオで流された。全国民は「いよいよ来たな」という悲壮な感慨を持った、これを句にしたものだ。その俳人は四年あまり当地で過ごした後に転居した。1945年3月に代沢から西小山に転居している。当地も空襲に襲われるが俳人の旧宅は焼けなかった。ところが5月24日西小山一帯は空襲ですっかり焼け払われた。この時、俳人も火中彷徨し「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」と詠んだ。家族もちりぢりになったようだ。それで「明け易き欅にしるす生死かな」家の傍らにあった焼けた欅に、家族の動向を記した紙を貼って知らせたという。一番大きなショックは一切合切が烏有に帰したことだという。蔵書や原稿も燃えてしまったという。

 ここ数日、北千束をうろうろしている。住宅街でひっそりしている。ずっと前に横光利一旧居を求めてうろうろしているときに近所の人から不審者だと思われ、声を掛けられたことがある。

  俳人は1993年(平成5年)7月3日に亡くなっている。楸邨年譜(『加藤楸邨』田川旅飛子 1985)にこうある。

昭和二十三年(1948)四十四歳
大田区北千束六一五に新築した家に転居。


 この旧番地がくせ者だ、いままでどれだけ苦労しきたか。探し当てるのは至難である。番号の振り方が合理的ではない。その番地が指す範囲が広くて、その場所を特定することは困難である。
 新番地は北千束一丁目四十三番である。この一角が広い。枝番が分かればいいが分からない。これまでの経験では住民証言が一番である。
「この辺りに昔、小説家が住んでいましたが、そのは家わかりますか?」
「そこそこ、ほら見越しの松が玄関に植えてあるとことだよ」
 住民の証言が一番だが、そう簡単ではない。
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2022年10月26日

下北沢X物語(4575)―加藤楸邨九品仏墓碑句碑―

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(一)つい最近脱稿した作品のあとがきに当ブログを「もう一つのメディア」だと述べた。従来のメディアは単方向発信だ、が、ブログは双方向発信である。つまりは受信側からの反応があることだ。当方は数多くの現象事象を記事にしてネットに放ってきた。一例が駒沢高射砲陣地だ、偶然にこの実在を知って調べた。ところがよく分からない。その経過をネットで伝えていたところ、陣地の隊長は高齢だが今も健在であるとの応答があった。当人は長野県佐久穂町に住んでいると言う。そこで現地まで出かけて行き、直に面会して陣地の全貌を聞き取った。当方の発信がきっかけだ。反対に先方の発信に応える場合もある。加藤楸邨の墓に刻まれている句、これについての質問に応えていた。なんと十年も前のことだ、すっかり忘れていたが、検索によってこれを知って心底驚いた。

 九品仏浄真寺の加藤楸邨の墓の脇に確かに句碑はあった。これはプライベートなものだ、パブリックなものは境内にあって。以前、これについて記事を書いた覚えがある。Google検索で「加藤楸邨 句碑」と入れてみた。するとなんと自分の書いた記事がトップに出てきた。そのタイトルは「加藤楸邨の句碑を訪ねて」だった、期日は2006/06/17である。なんとこちらは十六年前のことである。

しづかなる 力みちゆき 螇蚸とぶ  楸邨

昆虫の飛び発った瞬間を見事に描いている。螇蚸の細い四肢が目に浮かんでくる句だ。

 さて一方、今度は十六年後に新たに見つけた墓碑に脇に刻まれた句だ。

落葉松はいつめざめても雪降りをり (楸邨)

どういう情景を描いたのかだろうか?
 辞世の句なのだろうか?
 まず、この句を検索にかけてみた。いくつかが引っ掛かった、その四番目である。
なんとこれもまあ、これも自分の書いたものだった。

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2022年10月24日

下北沢X物語(4574)―文士町の樹木因縁:加藤楸邨 2―

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(一)加藤楸邨の句に「転校の子に泣かれゐる雪の中」というのがある。その子は加藤穂高さん、「代沢小はが勉強が進んでいて追いつけなかったから」と。代沢小への転校は昭和十六年二月、三年後の八月十二日、加藤穂高さんは長野県浅間温泉に疎開した。翌年塩尻市広丘郷福寺に疎開した。この組を引率していたのが柳内達雄先生である。学童を鉛筆部隊と名づけた人だ。このことを私は『鉛筆部隊と特攻隊』にまとめた。これを書くに当たって私は加藤穂高さんに取材している。「消え去ろうとする記録をよく留めてくれた」との穂高さんの批評。彼には前にも高い評価を戴いた。『北沢川文学の小路』という冊子を出したとき、「よくある郷土史家の土地愛を脱却して文学を語っている」と。加藤楸邨は下北沢文士町の重要な一員で私もだいぶ調べ上げた。そんなことから句碑建立へと行き着いた。碑ができたら九品仏にお参りに行きましょうと穂高さんとは話していたが、計画が挫折したことから話は立ち消えになった。が、新たな機縁から墓参りを思いついた。

 九品仏は家の近くで散歩ではよく行く。ところが墓地に入ったことはなかった。事前に得ていた「奥まった細い道の壁際」を頼りに行った。しかし、なかなか分からない。墓地中を歩き回った。途中墓参に来た人に、「俳人の加藤楸邨の墓は知らないか?」と聞いたが、「さあ」と。何千と遺骨が眠っている、偶然でもない限り分からないだろう。
「寺の受付に行って聞いたらいいですよ」とその人が助言をしてくれた。言われるとおりにそこへ行った。
「俳人の加藤楸邨のお墓を教えていただきたいのですが……」
「個人情報ですからそれは教えられません」
 恐らくこういう手合いはよく来るのだろう。受付女史のあしらいは手慣れたものだ。
 応対の係は三人もいた。その様子を見て感づいた、ここが別格寺社なのだと。

 我らの会には墓に詳しい人がいる。林立する墓を分け入って、ここだと。余程の手練れである、これまで数ヶ所の有名墓地へは行っていた。が、当、九品仏は都営霊園とは違う。墓の建て方、大きさなど風格がある。ステータスを持った人がここには眠っている、
「めったなことでは墓は教えられません」
 女史の応答ぶりを聞いて思った。取り付く島がない。
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2022年10月23日

下北沢X物語(4573)―文士町の樹木因縁:加藤楸邨―

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(一)おおよそ18年間、文学に映じた土地の文化を探してきた。やはり散文よりも詩にこれは現れる。端的に言うとこれは樹木だ、短歌や俳句という短詩形に著しい。北沢五丁目に住んだ歌人の尾山篤二郎は北沢を歌枕として詠んでいるほどだ。歌人は「北澤の澤に落ち込む岡なだり木立は赤く青く芽ぐみぬ」と詠んだ。「岡なだり木立」は対岸の景色、これは北沢四町目のこんもりした樹木を指す。場所は野屋敷だ。ここはお屋敷町緑がこんもりと茂っていた。ここに俳人の中村草田男が住んで居た。彼の句で教科書にも載っている有名な句がある。「万緑の中や吾子の歯生え染むる」、実はこの万緑は具体的には北沢四丁目の木々の緑である。折々文学散歩で当該箇所を通るが、草田男の万緑は、ここの緑だと説明する、下北沢は箱庭文学館と私は言っているが、この箇所もその一つだ。が、すぐそばにあった大島家のヒマラヤ杉も切り倒された。一帯の樹木は一層に色合いが薄くなってしまった。

 つい最近、仲間の幾田充代さんから『俳句といのち』(新堀邦司著、里文出版)を見せてもらった。ここに「万緑の中や」が取り上げられている。

 (昭和十四年)この年の一月草田男には次女が誕生している。生後半年、次女には可愛らしい歯が生えはじめ、すくすくと育っている。二児の父親となった喜びが伝わってくる。生命賛歌とも呼べる作品である。

 この昭和十四年は北沢四町目、篠山さんところの家作を借りて俳人は住んでいた。きっと休みの日だろう、生まれたばかりの次女を抱きながら近所を歩いた、あやすと喜んだ、とふと口の中に緑に光ったものが見えた、何とまわりの木々の新緑に生え始めた歯が光って見えたのだ。やはり季語の万緑が効いている、これは野屋敷の緑に違いないのである。

 萩原朔太郎『猫町』は虚構である、が、近隣の環境が微妙に反映されている、文中に「そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た」とあるが、「樹木の多い郊外の屋敷町」は、野屋敷の緑がぴったりと当てはまるのである。

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2022年10月21日

下北沢X物語(4572)―大人の遠足、丹沢大山へ・下―

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(一)神様はうさんくさい、とくには神社である、日々荏原逍遙をしていると出会うのが神社である、その由来が麗々しく掲げられる。義家・頼義東征の折戦勝祈願を行った、奥州藤原氏征伐の途次頼朝が戦勝祈願をした。判で捺したようにこのことは謳われる。あっちでもこっちでも誇らしげに書かれる、その範囲や幅などを考えるとつじつまが合わない。神は由来を飾り立てて荘厳さを演出している。今回感じたのは神社支配の優位性である。明治になって国家は全体の統制に力を注ぐ。とくには明治3年に出された大教宣布詔だ、天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。これに端を発して廃仏毀釈運動が起こり、大山信仰の中心だった大山寺は多くの暴徒に襲われ、本堂伽藍をことごとく壊されてしまった。その跡に建てられたのが現在の阿夫利神社下社である。一方山頂にあった大山寺本宮(石尊社)は大山阿夫利神社本社となった。

 別宮通孝さんは、遠足のしおりを作られた。廃仏毀釈のことをこう説明している。

 明治維新になると突如として廃仏毀釈・神仏分離の嵐が全国的規模で吹き荒れます。ここ大山寺もも1868年(明治元年)国学者・神道家の権田直助に率いられた右翼の暴徒集団数百人が押しかけて大山寺不動堂が瞬く間に破却されてしまい、その場所が現在の大山阿夫利神社に変わってしまいました。
 
 我らは、大山ケーブルに乗り、大山阿夫利神社駅で降りた。道なりに行くとその当に大山寺が打ち壊された跡に建った大山阿夫利神社下社に着く。展望台からは相模湾が見渡せた。真っ正面に江の島が見える。
 下社拝殿には柏手を打ってお参りする。この地下に行くと湧水がこんこんと湧き出ている。御神水だ。弘法大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となったという、その伝説の井戸なのだろう。

 大山寺跡に下社は建ったという、伽藍は壊されたが井戸は残って今も使われている。かつては代参で大山詣をした人は、これを地区に持ち帰って分け与えたという。我らの仲間はこれを汲んだ。別宮さんはこの水でウィスキーを割るとうまいという。
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2022年10月20日

下北沢X物語(4571)―大人の遠足、丹沢大山詣・上―

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(一)かつて大山道と名のつく道は八本ほどもあった。「すべての道は大山に通ずる」、人々はこの道を通って霊山に参詣した。今回、19日に第178回目町歩き、大山詣を別宮通孝さん引率で行った。初めての山行である。慣れないゆえトラブルもあった。電車集合がうまくいかない、また、自宅最寄り駅近くで自転車で転倒し怪我をしたという人もいた。それで大山詣の後は精進落とし、かつては江の島まで行ったそうだが、我らは山上から見える江の島を肴に一献傾けたことだ。話題になったのはやはり現地に来てみることの大事さである。我ら今年のテーマは三軒茶屋である、ポイントは三軒茶屋追分だ、大山詣での参詣人の増加によって分岐ができた。人々の行き着く先は大山であった。往時は皆、不動明王を祀った寺を目指した。が、山にどでんと控えていたの大山阿夫利神社であった。

大山は、別名、あふりさん、雨降山という。関八州の雨乞いの霊場だ。潤沢に雨が降る、ゆえに日照りが続くと関東一帯の農民はここに人を送り、雨が降るようにと祈らせた。

 大山に登ると相模湾がよく見える。真南に江の島が望める。大山はこの海がポイントだ。相模湾の海が温められ水蒸気が発生し雲が湧く。これが南風に乗って丹沢連山にぶつかって雨を降らせる。地勢が大きく関係している。その仕組みを知った農民は、この山で天気観望を行った。
「大山の山頂に雲がかかると 雨が降る」

我らの会の坂口安吾文学碑は門柱を活用して造られている。表札地名には「矢口」と書いてある。彼の作品に『明治開化 安吾捕物』にこういう記述がある。

矢口のカミナリは主として大山の方角に発生した雷雲が横浜経由でのりこんでくるのである。一ツの地域へ五六年もすめば、それぐらいのことは分るようになる。
『坂口安吾全集 10』筑摩書房 1998(平成10)年


荏原では天気観望するのに大山は使われていた。

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2022年10月18日

下北沢X物語(4570)―若者の理想は隠遁DIE生活―

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(一)メディアが大きく変わった。これまでは新聞やテレビが最大の情報源だった。これらは表街道だ。晴れ舞台でもある、が、これらへの興味は薄れた。視聴時間が大きく増えたのはYouTubeである。多くのジャンルがあって好きなものを選べる。よく視聴するのはリベラル系の討論番組である。表街道では出てこない話がまな板にのせられて鋭く突っ込みで料理される。遠慮会釈ないところが痛快だ。現今社会は依然建前が支配している。旧弊が相変わらずはびこっている。鉄壁の男社会が厳然としてある。今朝の新聞、女性自衛官が同僚に性暴力を受けていたことを大きく伝えている。四人が代わる代わる犯したと。この事件一旦は不起訴になっている。検察審査会で再度取り上げられ起訴となった。男優位社会の片鱗が覗いている。「男女格差、日本は世界120位 G7で最下位」だと、いまだに発展途上国である、旧弊の思考や思想がこの国に色濃く残っていることの反映だ。

 YouTubeを見ていると社会が分かる。これも男社会の別の片鱗なのかもしれぬ。
 発動機おじさんが多くいる。第一線から退いた農家のおっさんたちが納屋に眠っている発動機をリペアーして動かす。そして折々仲間で集まっては互いに見せびらかす。焼き玉エンジンの音は確かに懐かしい。動かないエンジンをやっきになって調整し最後には集まった者が拍手する。リタイア後の気晴らしとしてはいい趣味だ。

 リタイア後の生活は、発動機を動かしてのんびりする、理想的な隠遁生活である。が、趣味的に生活を生きる、これは若者たちの願望でもあるらしい。
 
 働いて暮らす、普通のことであるがこれも現実はなかなか厳しくなっている。競争が厳しいからだ。社会経験の少ない若者にとっては生きづらいということはあるだろう。かつては努力をすればそれなりに報われもした。が、今はそうではない。

 人は夢を食って生きる動物だ。YouTubeを見てその夢の一端を知った、現実が生きづらいから隠遁する、隠遁生活に自分の理想を見出す者が増えている。

 DIY(ディー・アイ・ワイ)が流行っている。面白い。ストーリーはこうだ。

 田舎の一軒家が売りに出されている。まずこれを安く買うところから始まる。長く人が住んでいないからぼろぼろである。幸運なことに前住民の持ち物がそのまま残っているという場合もある。さて始まりだ、片付けだ。これがまた見ものである、箪笥からお宝が出てきたり、場合によってはへそくりが見つかったりもする。これらは言えば、物語の材料である、個々人の技倆によるが意図して順序だてて撮影していくとこれが金の卵を産む。

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2022年10月17日

下北沢X物語(4569)―時代転変激変異変―

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(一)「トタン屋根にパラパラッと小石が落ちてきたと思ったらいつの間にか戦争になっていた」と、ある人が言っていた。が、この頃の時代の変化は激しい。トタン屋根に大石がドカンドカンと降ってきて穴が空いている。ところが日常では旅行支援が再開され行楽地が観光客で賑わっているとハッピーな情報が流れている。この旅行支援の原資は税金である。国家財政は破綻しかかっているのにと思う。財源が不足すれば国債発行で補う魂胆だろう。が、ニュースでは大きく報道されないが、「長期金利の指標となる新発10年物国債は業者間の売買を仲介する日本相互証券で取引が成立しなかった」と。国債をバンバン発行して予算不足を補うことへの赤信号が点った。浮かれてはいられなくなった。根幹は日本の魅力がなくなったことだ。危惧を持つのはこの国は沈みかけているのではないか?貧すれば鈍する、窮乏すると心までおかしくなる、このところ政府は民意とは全く反対の施策を矢継ぎ早に出してくる。国葬はその典型例だ。

 今、多くの問題が噴出してきている、そんな中で異様と思ったのは、「岸田文雄首相は4日、政務秘書官に長男で秘書の翔太郎氏」を起用したことだ。現今政治システムの大きな問題は世襲議員が多いことだ。二世もいれば三世もいる。権力や権威が禅譲で成り立っていて新しい血が流れないでいることだ。

 私は日々散歩する。ときどき家の前にポリスボックスをおいている家がある。「桜荘アパート」の前には置かれることはない、政界の重鎮の邸宅である。与党議員は金持ちである。

 よく通るのは首相候補にもなった故大臣の家である。興味深いのはまわりにある家の表札を見ると同じものを掲げている。居住区の地主名であれば普通である。当地では根岸家などはその一例だ。が、故大臣は地主ではない、親が住み、そのまわりを親戚縁者が取り囲む。与党政治家を務めると実入りが多いということが推測できる。

 今、若者たちは希望を失っている。この頃の現象をある批評家がこう述べていた。

「いわゆるネトウヨですね、世の中に希望を持てないで暮らしていて、まっとうな物事に対してイチャンモンをつけることで生き甲斐を感じている人がいる。いえば社会がそこそこ希望を持って暮らしていけなくなっているのですよ……」
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2022年10月15日

下北沢X物語(4568)―代田・北沢:萩原朔太郎の箱庭文学館 2―

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(一)北沢・代田における萩原朔太郎、大きなトピックとしては『氷島』であろう。これには下北沢在住時に詠んだ「新年」も含まれている。編集の最終チェックは世田谷代田で行われた。巻頭の「自序」の末尾には、「昭和九年二月」と記されている。ここでは思いが熱く語られる「著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を敍べるのである」と。それこそ自己のイマージュだが、詩人の「心の上」に実際に有った高圧鉄塔線が思われる。至近の一本、「代田の丘の61号鉄塔」が世田谷区地域風景資産に認定されている。この関係で東京電力に何度か伺った。「区内には前橋線があったな」と係官。電気は水源の上流で起こされる。利根川水系だ、これによって起こった電力が東京へ送られてきていた。詩人の頭上渡されている高圧線は故郷に通じている。二月季節風が電線を唸らせる、そしてジリジリと青い火花を散らせる……『氷島』序は頭上を通過する線が意識されていたのだとの妄念は今も消えない。

 詩集、『氷島』は、昭和九年六月に第一書房から出されている。
 雑誌「薔薇族」を出して評判を高めた下北沢の伊藤文学さん、彼の親父さんは伊藤祷一さんだ。第一書房の社員である、住まいは朔太郎邸の至近距離にあった。その彼が朔太郎邸に行き、印紙に『萩原』という判子を何枚も捺していたという。

戦後、伊藤祷一さんは、詩人の田中冬二と美装本で有名な第一書房を再興しようと画策した。が、それがうまく行かず、伊藤祷一さんは、下北沢に第二書房を起こした。この会社を継いだのが息子の伊藤文学さんである。

 朔太郎陰翳が、下北沢の出版物語につながっている。戦後、本は飛ぶように売れた。下北沢でも小出版社が続々と興された。が、なかなかうまくいかず倒産してしまったところも少なくない。

「朔太郎先生、家の前を通って東に行かれました。多分、淡島からバスに乗って渋谷に行かれたのでしょう……」
 伊藤祷一さんの目撃談である。詩人が渋谷に行くときの裏ルートらしい。

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2022年10月14日

下北沢X物語(4567)―代田・北沢:萩原朔太郎の箱庭文学館―

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(一)世田谷文学館で萩原朔太郎展が開催されている。今回のは特別だ。萩原朔太郎没後80年を記念して全国規模で文学館や美術館など52館が参加して行われる。これに関連づけての文学散歩が世田谷文学館友の会主催の文学散歩が10日12日の両日に開催された。手慣れた散歩だが、朔太郎展が全国規模で行われていることを知って観点や視点が広くなった。朔太郎最晩年の地は北沢・代田である、全国にはここ一箇所しかない。実際に代田や北沢の居住場所は存在する。彼は言う、ここを出ての漫歩から文学の発想やインスピレーションを得たと。容易に想像できるのは路地から路地へである。巡り巡ってまた戻るときに迷ってしまうがそこには立派な目印がある、「代田の丘の61号鉄塔だ」、二回の町歩きを通して当地が他に類例を見ない「萩原朔太郎箱庭文学館」だと認識した。核となるのは我らの手になる「下北沢文士町文化地図」である。

 東京都内で文学館があるのは世田谷区だけである。会員数も多い、ゆえに実施する文学散歩も二回に分けて行う。会員は区内に限らない都区内また他府県にまで及んでいる。
ある参加者の言である。
「私のところは葛飾です、松尾芭蕉と寅さんぐらいなんですが、この地図に記されている文化人はすごいですね」
「確かにね、関東大震災の影響がありますね。東京東部に住んでいた人々が地盤の堅固な西の武蔵野に逃げてきたのは大きいですね」
 地域文化発信の好材料ではないか

別の参加者の言である。
「この地図は感動しますよ、作家などの数の多いこと、第一級の文化人がこんなに多くいたのですね。全く知りませんでした」
 そう言えば思い出した。我らの地図を北沢川緑道で配っているときの話だ。
「私は、前橋から来ました。萩原朔太郎は地元ですからよく知っていますよ。しかし、萩原朔太郎がここで亡くなっていることは初めて知りましたよ」
 どこもそうだが郷土の誉れは、その地域を中心に考える。文学はそれは出自も大切だが、過程も大事だ、プロセスを通して成長する。ゆえに終焉の地も大事である。

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2022年10月12日

下北沢X物語(4566)―下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館―

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(一)「萩原朔太郎没後80年を記念して萩原朔太郎が開かれています。今度の展覧会では「萩原朔太郎大全2022』と称してキャンペーンが張られています。全国の52館で朔太郎関連のイベントが開かれるとのことです。それら全国展の中でもここ下北沢は別格ですね。朔太郎は最晩年の11年間を当地で過ごしています。今でも当時の密やかな痕跡が残っています。それで私は、『下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館』と言いました。随所に痕跡がある、愛用の煙草を買った店、常日頃出していた郵便ポスト、ヒマラヤ杉の大木、奇妙なデザインの丸窓などが残っています。それらこそ彼のとっかかりである。当時の彼の生活は漫歩であり、徘徊である、ここから文学が生まれています。これから路地を巡っていきますが、路地の陰や木々の陰などにぽっかりと穴が空いています、詩人の吉増剛造が言う、『次元の穴』です、言えば詩人の霊魂が宿る場所……

 北沢、代田で彼詩人は最晩年を過ごした。大きな仕事の一つが詩集『氷島』の編集である。終焉の地で編まれ、そして発刊された。昭和九年である、この詩の冒頭に持ってきているのが「漂泊者の歌」である。自らを歌っている。「ああ、汝漂泊者よ」と歌う、自分自身のことである。さすらいびとである。

 漂泊者というと旅から旅へということがイメージされる。が、弟子の三好達治は、師匠を評して「旅行嫌いの漂泊者」と言っている。いえば遠くに行かないで近所をほっつき歩いていた。その近所はどこか、それは界隈である。

萩原朔太郎が、どうして下北沢や代田に住んだか?一番は便利だからである。ことには新宿、渋谷である。電車に乗ればすぐにいける。

 よし、今日は東京急行電鉄にでも乗ってこよう。

特に武蔵野の平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷、武蔵小山、戸越銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高く聴きこえているのである。
「猫町 他十七篇」岩波文庫、岩波書店 1995年刊


近隣の電車線巡りというのも面白い。
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2022年10月11日

下北沢X物語(4565)―朔太郎の『猫町』散歩本番 1―

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(一)昨日のことだ、駅前で、「詩人の吉増剛造は下北沢には次元の穴が至るところに空いていると言います。詩人の痕跡が各所にこそっと存在することを暗示しています。小田急の地下化によってこの町は大きく変わりました。こぎれいになった分、次元の穴が少なくなりました。それでも町の物影に路地に『次元の穴』らしいものが空いています。そこを求めての散歩だと言えます。本館では「萩原朔太郎没後80年展」が開かれています。言えば、当地は別館、「下北沢は萩原朔太郎の箱庭文学館」だと言えます。次元の穴はぽっかりと空いていません、ひっそりと物影にあります。みつけようと思えば、至るところに空いています、では次元の穴探検にこれから出かけましょう」

「皆さんは、『萩原朔太郎展』のポスターをご存じですね、キャッチが『月に吠えよ、萩原朔太郎展』です。詩の本当の題名は、『月に吠える』です。が、ここでは命令形にしています。なぜでしょうか?」

 ポスター裏面では、つぎのように説明している。

 日本の近代詩を代表する主人。 萩原朔太郎。 教科書などを通してその日の鮮烈なイメージとリズムに出会い、衝撃を受けた人も多いことでしょう。 世田谷は朔太郎が晩年を過ごした土地です。没後80年を記念して全国的に横断的に開催される「萩原朔太郎大全2022の一環として、当館でもこの。不世出の詩人に新たな光を当てます。
「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である」(『月に吠える』序文より)と書いた朔太郎の詩は、世代や立場による分断が進み、気づけば、一人、一人が孤立を余儀なくされている現在の私たちに鋭く強く迫ってきます。 しかし朔太郎は続けて、人間同士に共通するものを発見するとき「我々もはや永久に孤独ではない」とも書いています。 生活のすべてを詩に捧げた朔太郎が、孤独の先に見えたものとは…… 書き残された膨大な原稿やノートなどの資料や。 朔太郎に触発された現代の作家たちによる作品を通して見て行きます。


 現代昨今の社会では、価値観の違いから大きく分断されているという。個々人が単に「吠える」のではなく、「吠えよ」、主体的に思いを発信することで世の変化への可能性を見出せると言うのだろうか。世田谷文学館の社会への発信である。

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2022年10月09日

下北沢X物語(4564)―萩原朔太郎と代田・北沢の関係性2―

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(一)萩原朔太郎を話題にしたのは2004年10月12日、ちょうど18年前である。その最初の記事は「萩原朔太郎と下北沢」と題したものだ。その冒頭だ。「土地や風土はそこに住む人間に色合いを与える。小説家や詩人に大きな影響を及ぼす。感性を言葉に託して表現する詩人であればなおさらであろう。」と書いていた。十八年経って思うことは、朔太郎についてはここでいう「色合い」がないことである。娘の萩原葉子は、土地環境のことは具体的に描いている、家のそばにあったひまわり公園、北沢川のせせらぎの音とかを。しかし朔太郎の場合は代田、北沢の風光や風景は一つの例外を除いて一切ない。自ら「道を歩きながら瞑想に耽る癖があった」(『猫町』)と言っているが、目前の風景には目もくれないで歩いていた。土地には関心がない、詩人はいつも宙空を歩いていた。代田、北沢を歩いているが心だけが移動していたように思う。が、感覚は鋭敏だ、土地の霊は特殊アンテナで感知していたのかもしれない。

 萩原朔太郎が前橋から上京してきて大井町に居住する。家族での東京生活は感銘深いものがあった。とくに大井町は気に入っていた。この地名は度々作品の中で語られる。詩集『青猫以後』では、「大井町」をタイトルとした詩やエッセイを書いたり、詠んだりしている。大井町は彼にとっては歌枕だったと思うことから2008年11月に「近代の歌枕『大井町』を訪ねて」という記事を書いている。その一例だ。

 大井町! 
 まづしい人人の群れで混雑する、あの三叉の狭い通りはふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつている。どこへ手紙を出すのだろう。そうして黄色い貯金帳から、むやみに小銭を引き出してる。

 空にはいつも煤煙がある。屋台は屋台の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車の列がつながってゆく。
「大井町」 「詩と随筆集」創刊号、昭和三年五月号 萩原朔太郎全集第三巻


 大井町は工場街である、その雰囲気がとても気に入っていた。鉄道工廠のある町である。その町の持つ感性を「あっちこっちの屋根の上に/亭主のしゃべるが光だした」と描いている。

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2022年10月08日

下北沢X物語(4563)―萩原朔太郎と代田・北沢の関係性1―

代田の丘の61号鉄塔
(一)萩原朔太郎の没後80年を記念して世田谷文学館で朔太郎展が始まった。全国規模の大がかりなものだ。報道によると「詩人・萩原朔太郎没後80年にあたる2022年、朔太郎を介した企画展『萩原朔太郎大全2022』が全国52カ所の文学館や美術館、大学等で開催」されると。世田谷文学館もその一翼を担っている。当方はこれに協力している。館では関連企画としてコレクション展、「下北沢猫町散歩」も行う。「下北沢文士町文化地図」がここで活用されているとのこと。もう一つは世田谷文学館友の会が主催する朔太郎展関連の文学散歩を10日と13日に行うがこれの案内を務める。タイトルは「朔太郎の『猫町』から時空を超えて新開地『下北沢』を歩く」である。朔太郎が居住した代田や北沢に焦点を当てるものだ。全国52箇所中、終焉の地は当地だけである。

当地との関わりである。萩原朔太郎 四十四歳 昭和六年(1931)「九月、府下世田谷町下北沢野屋敷一〇〇八番地へ移り、母、二児、妹アイと住む」に始まる。この前の八月に東北沢へ越してきている。市谷台町からの転居だ。
亡くなったのは昭和十七年(1942)五月十一日だ、こちらは北沢に隣接した代田である。それで北沢、代田での生活は十一年間に及ぶ、晩年の地、終焉の地が北沢、代田である。

 萩原朔太郎を信奉する吉増剛造は「なぜ、下北沢などにやってきたのだろう」(『氷島・下北沢』萩原朔太郎研究)と言っている。興味深い点だ。

 やはり郊外電車の開通は大きい、四年前に小田急は開通している。武蔵野を横断する線である。おしゃれでもあった。昭和四年に流行ったのは『東京行進曲』だ、ここで歌われる「いっそ小田急で逃げましょう」は話題になった。これは駆け落ちだが、中産階級には都会の雑踏から抜け出て武蔵野の自然へ親しみたいという脱出願望はあった。

 小説家横光利一は阿佐ヶ谷からこの北沢に越してきている。阿佐谷文士村では彼は注目が集まっていた。が、ムラ社会は狭い、彼には仕事中に大声を出す癖があった。ムラではどうしても他者を慮らねばならない。不自由さを感じていたようだ、引っ越しを考えていたときに武蔵野を突っ切る鉄道線の開通を知った。翌年昭和三年に当地に越してきている。

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2022年10月06日

下北沢X物語(4562)―鉄塔のヒミツ「代田の丘の61号鉄塔」2

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(一)萩原葉子は当地に来て鉄塔に初めて接したとき「何となく暗い予感」(『蕁麻の家』)が頭をかすめたという。鉄塔ドラマの伏線だ、時が経ってその正体を知った、「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした」と認識したからである。ところが分かってみるとここにヒミツがあった。普通鉄塔は女子どもが登れるようなものではない。ところがこの鉄塔には誰もが容易に登れる階段がついていた。鉄塔のヒミツだ、なぜはしごがついているか?『鉄塔の保守点検は空中線と地下線とに分かれる。後者は空中線に不慣れだからはしごを設けるのだ』『ということは61を起点に地下線が延びているということですね、行き先は?』『富士見丘教会のすぐ東に斜めに延びている道路があるだろう。池ノ上の三角橋方向に地下ケーブルは延びて、東大航空研究所に行っていたと思うよ』電力会社を退職した古老からこの話を聞いた。

 鉄塔ドラマだ、代田の丘の61号鉄塔は、地下ケーブルの分岐鉄塔だった。
 世田谷代田の地に土地の下見にきたときのことが同作品冒頭に描かれる「青い竹はどんよりした空に向かって背高く延び」と。そこは竹藪であった。

 『月に吠える』の中でよく知られている「竹」がある。

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
萩原朔太郎 日本詩人全集 十四 新潮社 一九六六年刊


 朔太郎には独特の「竹観」がある。『月に吠える』ではこれが論じられている。「竹は天を直観する」と述べられている。彼詩人は、自らが竹になって根を想像する。竹の根がどんどん伸びていくさまが「竹」には描かれる。

 萩原朔太郎は独特のアンテナを持っている。『氷島』の「序」世田谷代田で描かれたここで歌ううたは激しい。『著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んでいる』と記される、天界があれば地上界もある。居宅下の竹の根ならぬ高圧地下ケーブルが想起される。

ケーブルは東大航研に延びて
機器をうならせる
風洞の風がかしましい
戦闘機模型が左右に揺れて飛形をつくる
流線美は敵の目を眩ませ
つばくらめののように飛ぶ

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2022年10月05日

下北沢X物語(4561)―鉄塔のヒミツ「代田の丘の61号鉄塔」―

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(一)ネットへの与太飛ばし、ふと思いついた言葉をネットに放り込むことを言う、これを何年も続けている。思い出したのは前に「鉄塔文学論」を放ったことだ。Google検索すると上位ワンツーで当方の飛ばしが並んでいる、トップにあるのは「鉄塔文学論:塔もまた漂泊者」とある、えっ!塔も歩き回るのか?……発信者の私が驚いてしまった。鉄塔は文学的なのか?が、朔太郎の盟友、北原白秋は鉄塔好きである。彼の歌集『白南風』の「序」末尾には「砧村の雲と鉄塔の下にて 白秋識」と記される。鉄塔の下で歌を詠んだと誇る。自然物と人工物は調和していたらしい。鉄塔は雲と調和していて心地良い風景を形成していた。ときは昭和九年四、この時期における詩人の鉄塔観がほのみえる。

 白秋の詩集に『海豹と雲』がある、末尾に(世田ヶ谷若林にて)とある。若林在住時代にまとめられたものだ。この中に「われは見き」という一編がある。四連からなる単短詩だ。その四連だ。

神のごと美しきもの
鉄塔のうへに坐ししを。


 銀色に光る鉄塔その上には言いがたい何か潜んでいる。詩人は鉄塔へ特別な感懐を持っていたようだ。ふと思ったのは実在鉄塔だ。若林白秋旧居から遠くないところに南北に高圧鉄塔が縦断している。もしやこの鉄塔を見ての思いかもしれないと思った。鉄塔駒沢線である、この上手に萩原朔太郎は越してきている。

 実はこの鉄塔線若林と太子堂地境を走っている。この鉄塔敷設を巡って大規模な反対運動が起こっている。大正六年、敷設に反対する荏原農民が三軒茶屋の石橋楼に集まって決起集会を開いた。
「東京電灯の横暴を許さないぞ!」
 高圧鉄塔線は既にあった。が、電力需要が高まったことから高規格の鉄塔を建て大電流を送ろうとした。ところが会社側は既存道路を利用して街の道沿いにこれを通そうとした。工事費の節約のためだ。これに対して太子堂の住民を中心に反対運動が起こった。

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2022年10月03日

下北沢X物語(4560)―文学碑「代田の丘の61号鉄塔」―

代田の丘の61号鉄塔
(一)「日本近代詩の父」とも称される萩原朔太郎は世田谷代田で終焉を迎えた。その場所はどこか、目印なるものは一切ない。会発足当初から詩人の、地元での事跡を私は調べてきた。そうして知ったのは詩人存在と鉄塔である。これは世田谷代田の丘上に聳え建っている。想起されたのは「鉄塔と詩人のいる風景」である。そこで思いついたのは、世田谷区地域風景資産へ推薦することだ。地域らしい特徴のある風景を選定してこれを保全していくというものだ。私はこれへの応募を思いつき申請をした。「鉄塔が風景資産になることはないだろう」との前評判であった。しかし、こちらの熱意が通じて塔は世田谷区地域風景資産になった。その呼称は「代田の丘の鉄塔61号」である。選定されてはや十五年、世田谷代田に生き、そして死んだ萩原朔太郎、これを偲ぶための目印として今ではすっかり当地に定着している。

 その評価である。区のHPに掲出されているものだ。

萩原朔太郎にまつわる文学的、歴史的な価値のある鉄塔である。その価値を発信するための調査や冊子づくりなどの活動を多面的、継続的に進めている推薦者の取り組みとその成果を評価した。今後も、地域の思いを集めるなどより地域に根ざした活動を進めることで、地域全体へ風景づくりの輪が広がっていくことが期待される

萩原朔太郎は当地代田で終焉を迎えた。その痕跡は皆無だ。が、昭和元年に建てられた丘上の鉄塔は今も昔と変わりなく聳え立っている。萩原朔太郎、その娘葉子の生存痕跡を残す唯一のものである。

 鉄塔が選定されるに当たって決定的なフレーズがある。萩原葉子が書いた『蕁麻の家』の中にこれは出てくる。

 あの高い鉄塔に登り、感電死するのがわたしの運命のような気がした。

 鉄塔はこれ一本ではない、他にもある。が、これは駒沢線鉄塔61号に他ならない。特徴のある鉄塔である。この記述から分かるのは自宅からよく見えることだ、実際、家のすぐ北側の真上に建っていてよく目立つ。

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2022年10月02日

下北沢X物語(4559)―没後80年記念朔太郎展へ向けて 3―

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(一)文学の凋落は著しい。読まれなくなったからだ、近未来が想像できる。偉大な現代文学者が亡くなった。愛用のパソコンが遺品として展示され、「キーボードのKが消えかかっていますが、生前の作家の生々しい指跡です」と紹介されても反応はないだろう。文学の先行きは危うい。文学というのは重いものを伝えるものだ、が、人々が求めるものは軽いものだ。この需要に合わせていくと存在価値を失う、今がそうである。大成した人の発信は重い、が、享受する側が承知している。だから強い。萩原朔太郎は相当に難解だ、が、そうだから楽しもうという人も居る。掲げたポスタ、「下北沢猫町散歩」では、「楽しんでってくれ。下北沢の懐は深く、心は温かく、道は入り組んでいる」と藤谷治氏の文言を引用している。町の文化の深さと迷路路地をアピールしている。

 「下北沢猫町散歩」は、観点の提示だ、表題が引っ張られているのは朔太郎作品の小説『猫町』である。これは純粋に虚構である。が、深読みしていくと彼が居住して下北沢や代田らしい土地の固有性が出てくる。そこを拾いながら読むと楽しい。

 この『猫町』は、三部構成となっている。二部の冒頭だ。

 その頃私は、北越地方のKという温泉に滞留していた。九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中では、もうすっかり秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。私はフランネルの着物をきて、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。
萩原朔太郎 日本詩人全集 十四 新潮社 一九六六年刊


 彼が滞在するK温泉、ここから「繁華なU町へは、小さな軽便鉄道」が出ている。彼はここではまさに不思議な経験をする。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫の大群に出会うのである。この展開から『猫町』は軽便鉄道が通じているU町ではないかと言う人がいる。

 それは決して嘘ではない、『猫町』全編は虚構である。UまちでもS町でもどこでもよい。
が、前半部は捨てがたい。ここでは不思議な経験をした、かどを曲がったとたん見たこともない美しい町に出会った。「幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた」という。ところが、とある瞬間気づいてみると。そこは「何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。」

 この作品昭和十年に書かれた、世田谷代田居住時代である。医師の勧めによって散歩に出ることしした。時間と距離が書いてあるから面白い。ポストがあったり十字路があったりするから応えられない。そしてまた大事なのは詩人は世田谷代田には下北沢から越してきている。拭いがたい経験があった。

(二)
 我らの仲間に東盛太郎さんがいた、彼も『猫町』の秘密をずっと追っていた。
「ポイントはポストだね」
「そうそうポスト」
 全部のポストの位置を調べ上げたことがある。推論では旧北沢局のポストということになった。もうその彼も物故してしまった。いい大人がポスト探しに夢中になっていた。懐かしい思い出だ。

 『猫町』にでてくる地域用語を探しているとこの地域が全部当てはまる、『猫町は下北沢でなないか?』となった。我々ばかりではないもっとディープな信奉者がいた。吉増剛造である。『氷島・下北沢』というエッセイの冒頭はこう始まる。

 いまも萩原朔太郎が下北沢の「四つ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘が坐っている」「猫町」の裏通りを黒いマントを着て歩いている幻覚が浮かんでくる。なぜ、下北沢などに朔太郎はやってきたのだろう。
 「萩原朔太郎研究」 那珂太郎編 青土社 1974年刊

 そうなぜ下北沢にやってきたのだろう。

(三)
 『父・萩原朔太郎』の中で、下北沢から代田に引っ越す話がでてくる。ここに「父が小田急線では一番大好きな成城学園」と言っている。娘の葉子は父に連れられて成城学園近くに住む北原白秋の家に行って知ってもいる。

 が、成城学園というのはあり得ないと私は思う。なぜか区画整理がされすぎていて隠れるところがない。やはり『猫町』に路地は必要だ、隠れ潜む場は必須であると思うのだが。
(世田谷区地域風景資産『代田の丘の61号鉄塔』




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2022年09月30日

下北沢X物語(4558)―会報195号:北沢川文化遺産保存の会

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第195号    
           2022年10月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、世田谷旧家探訪:用賀飯田家、深沢秋山家  きむらけん
 
 新会長谷亀冢困気鵑凌郡覯茲里乃豌斑桔を行っている。まずは用賀の飯田恭次邸、つぎに深沢の秋山光男邸を訪れた。これまでわれわれは荏原東北部下北沢や三軒茶屋地区のフィールドワークを行っていた。今回の場合は地区で言えば西に当たる。用賀にせよ、深沢にせよやはり文化の色合いが明らかに違う、そこが興味深い。

 『東京府志料』がある、明治七年に編まれたものだ、各地の地誌情報を載せたものだ。いわゆる夜明けを迎えてのすぐである。
 例えば、下北沢村だ、(車馬)車 荷車一輌 農車六輌 馬六匹 牛六頭

これだけみても閑散としていることが分かる。もう一つ、興味深いのは距離である。
 下北沢村 日本橋ヨリ三里
 太子堂村 日本橋ヨリ三里  
 深沢村 日本橋ヨリ三里半余
 用賀村 日本橋ヨリ四里五町

 日本橋を基準に捉えられている。これは五街道の起点だからであろう。言えば東京都心からの距離だと言える。
 「東京が攻めてくる」と言ったのは千歳村粕谷に住んだ徳富蘆花である。一帯に都市が東から侵蝕してくる。この場合、距離というのは大事だ。用賀村は四里五町都心から離れていた。言えば東側よりも侵蝕される時間が遅い。
 用賀村は、昔の玉川村に属していた。ここで有名なのは玉川全円耕地事業である。

玉川全円耕地整理というのは、大正末期に計画された玉川地域の耕地整理事業で、簡単にいいますと、将来玉川村も住宅の町になると見越した宅地造成工事のことです。現在の世田谷区の約4分の1(1,000町歩)を占める玉川村全域を対象としたものであり、わが国の都市計画史上でも特筆に価する事業です。(世田谷区HP)

 ここでは大正末期がポイントだ、則ち大正12年9月1日、関東大震災が発生する。東京東部の被害は甚大だった、それで避難民が西部に大挙して押し寄せた。住宅需要が一気に高まった。震災直後から世田谷東部では被災民が押し寄せた、太子堂や三宿地区などはその好例だ。建て増しに建て増しを重ねてても間に合わないほどに人が押し寄せた。その痕跡が今も街並に残存している。耕地整理など間に合うわけもない。
 しかし、玉川地区は、東部よりも一里余り離れていたゆえに攻めてくる東京をいなすことができた。丘陵地帯にはまだ開発されない武蔵野が残っていた。距離が遠い分、余裕があったと言える。
 大震災によって玉川地区の耕地を整理して、道を調えて宅地として売り出したものである。この耕地整理によって売り出した土地は人気で等々力地区ではすぐに人口が二倍になったという。
 用賀の飯田家の当主恭次さん、玉川地区の文化の根底に「水」があると言われた。縦横に水路が流れ、その水面に映る景色が美しい。ここ多摩川の崖線からは富士丹沢の景色がどこからでも獲得できる。

 一方、深沢地区だ。秋山家の森は深い、かつての武蔵野がそのまま残っていると思わせるほどに趣のある森がある。
 「深沢村 日本橋ヨリ三里半余」とある、玉川よりも江戸に近い、三軒茶屋に近いと言える。戦時中、三軒茶屋地区にあった野砲兵の馬が空襲に襲われる危険があったので避難してきたという。飼い葉を用意してきたのか分からないが繋がれた馬たちは、森の樹の葉っぱを食べてしまったという。
 秋山家に行って驚いたのは、離れの応接間に飾ってあったものだ。それは水車である。これには驚いた、しかも野沢水車のものだという。荏原最大八連水車の一つである。
 会長の谷亀さんからもらった資料には持ち主は谷岡とあった。調べるとこうあった。
「明治二十九年(1896)になると、初代駒沢村長の谷岡氏によって下馬引沢との境に品川用水の水を引き入れた野沢水車が設置されたのでした」とある。
 谷岡氏というのは深沢城主の末裔で吉良氏没落後に帰農している。この一族は深沢・兎々呂城近辺に今も住んでいる。町長はこの深沢出身だった。地元つながりで秋山家と谷岡家は深い関係にあった。それで野沢水車に出資者として関わったようだ。
 長い間続いてきた旧家には多くの逸話が語り継がれている、一つ一つが地域史、文化史を物語るものである。訪問記は東京荏原都市物語資料館に記録し残しておきたい。

2、三軒茶屋富士講碑考    木村 康伸

 三軒茶屋にはかつて「山吉講富士登拝記念碑」という富士講碑があった。三軒茶屋にあった富士講の山吉講が、三十三度の富士登山の大願成就を記念して明治三十二年に建てたものである。富士信仰では、三十三回、五十五回、七十七回など、一定の回数を登山すると記念碑を奉納することがよく見られる。
 現在、この富士講碑は世田谷区郷土資料館の中庭で保存されているが、その案内板には、山吉講先達の堀江兼吉が屋敷地の一角である茶沢通り路上に建てたと書かれている。
 しかし、明治三十二年当時、茶沢通りはまだなかった。明治四十二年に測図された1万分の1地形図「東京近傍十八号 世田ヶ谷」見ても、茶沢通りはまだできていない。これは比較的新しい通りである。そのため、富士講碑を茶沢通り路上に建てたという説明には疑問が残る。
 山吉講先達の堀江兼吉の家は、この三軒茶屋の地名の由来となった三軒の茶屋の一つである田中屋を経営していた旧家であり、その屋敷地は大山道(現在の世田谷通り)にも面していた。そのため富士講碑は、その大山通沿いに建てられたと考えられる。
 大山道は大山詣の参詣道であるとともに、富士登拝への参詣道でもあった。三軒茶屋の富士講碑はその大山道を行き交う人々の目に付くように建てられ、この地の山吉講の三十三度の富士登山を道行く人に主張していたのではないだろうか。
 同じように、大山道沿道に建てられていたと見られる富士講碑がある。環七通りと交わる若林交差点の近く、今はグランメゾン三軒茶屋の杜の敷地隅にひっそりと佇む丸平講の三十三度の富士登山の富士講碑があるが、同じ場所にある庚申塔や馬頭観音は、昭和三十年頃までは世田谷通りを渡った向こう側にあったという話だ。そばに井戸もあって、道行く人々が休息していたという。丸平講の富士講碑も、もともとその場所にあって、人目に付くように建てられていたかもしれない。大山道と堀之内道の辻にも近い場所である。
 江戸時代後期から明治期にかけて、世田谷には各所に富士講が存在していたことが知られている。それらの講はみな競い合うようにして富士登山の大願成就の記念碑を目立つ場所に建てていたのかもしれない。そしてそれが各村、各町のステータスシンボルになっていた可能性がある。
 三軒茶屋の「山吉講富士登拝記念碑」も、この町に大願成就を果たした富士講ありと、誇らしげに建てられていたのではないだろうか。

3、文化話を聞くという企画

 世の中には面白い人がいっぱいいる。また隠れた古老もいる。人は一冊の文化辞典である。人間というものは素晴らしい。人によっては独特の語り口を持っている。そういう人の話を聞いて記録することも大事だ。
 ある方面について見識が深い。長く生きていて昔のことを知っている。現役から引退したがその方面では右にでる人はいなかった。街中には人材が多く転がっている。そういう人の話を有志が集まって聞くというのも面白い。
しかし、ただ来てもらって話をしてもらうというのもどうか。一つにはお茶代がある、それと幾ばくかでもお礼をあげられたらよい。
 当方、いくらかの資金がある。町歩きのお礼、講演のお礼である。これの有効活用を考えた。手持ち資金から考えてみた。
 お茶代が500円、邪宗門で行うと珈琲代520円だ、謝礼を2500円としよう。これだと何回分かはある。
 人はどなたでもかまいません。古老であるとか、隠れた大家だとか、そんな人いませんか?話しても構わないという人がいれば当方に連絡をください。
 〇月〇日に〇〇さんの話を聞く会を行う、これを会報に載せて聞きたい人を募る。話者、聞きたい人二名いれば成立する。言えば私は参加する、話者がいる。とすればあと一人その推薦者がいるわけだから自動的に成立することになる。
 ぜひみなさん、当方に情報をください。

4、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第178回 10月19日(水)大山詣
案内者 別宮通孝さん 下北沢駅8時51分発の小田原行快速急行に乗る(最前部)
 丹沢大山フリーパス切符 下北沢から2470円が便利 
下北沢8:51→9:44伊勢原10:07→10:32大山ケーブル
 まず、ケーブル終点から阿夫利神社下社を見学。ここで休憩を取り、弁当を食べる。そしてケーブルで下りて途中大山寺駅で下車、大山寺参詣、ここからは女坂をゆっくりとくだって大山ケーブルバス停へ向かう。
〇行程は、基本的に電車、バス、ケーブルを利用する。
ケーブル山頂駅→阿夫利神社下社→ケーブル山頂駅→大山寺→徒歩→大山ケーブル駅
 雨天の場合順延 20日Or21日 
*登山ですからしっかりした靴、水筒、弁当、甘味 帽子必須、長袖、雨具
◎電車を使っての遠出、混み合う土日よりも平日をということでの変更。

 第179回 11月19日(土)世田谷の尾根を歩く(品川用水)
 案内者 谷亀冢困気鵝陛会会長) 千歳船橋駅改札口 13時集合。
 地形と文化は切り離せない、世田谷の背尾根を歩いて世田谷を知るという試みだ。
 小田急線千歳船橋駅から田園都市線駒沢大学駅まで歩く。品川用水跡を歩く
 
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090-3501-7278

■ 編集後記
▲前に「三軒茶屋の歴史文化を巡るシンポジウム」を予告しました。ウィズコロナとはなったが、今年は様子見としておこうと。ぜひとの声があれば別ですが……
▲町歩き計画、この間、町歩きに参加された馬場優子さん、三軒茶屋から芝道を高輪まで辿ったと言われる、吉良氏の海の道だ、「来春にでも皆で歩きましょう」と。
▲毎回、投稿を募っています。恐ろしいことに「200号」が近づいてきています。12で割ると16年半となる。よくもまあ、続いてきたもんだ!
▲年末行事の企画:12月10日(土)(町歩き「用賀の石碑を巡る」地団協石碑を巡り
当夜三軒茶屋で忘年会を企画。会場の都合があるので参加希望だけ早めに当方へ。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ








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2022年09月29日

下北沢X物語(4557)―没後80年記念朔太郎展へ向けて 2―

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(一)岩手県花巻の「宮沢賢治記念館」に行ったことがある、全館を彼の個性が覆っている。独特の字体、固有の世界観、可視化された宇宙など見飽きない、文学館受難の時代だが彼のは永遠に残るだろ。萩原朔太郎はどうだろうか?彼も独特だ、文学館は残るだろう。思うに彼の世界は屋外に潜む。自身が感じるのは荏原である。それは三箇所だ、大井町、大森(馬込)、下北沢である。朔太郎世界の片鱗は残ってはいない、が、薄暗い大井町を行くと、「あっちこっちの屋根の上に/亭主のしゃべるが光だす」様が幻影として浮かんでくる。下北沢もそうだ、路地裏の物影に「次元の穴」が開いていて、地表三寸を歩いている詩人が想像されもする。詩的想像空間が朔太郎ゆかりの町に残存する。中でも下北沢は突出している、下北沢には彼が住み、お隣代田は彼が亡くなったところである。

 萩原朔太郎が残した多くの作品、触れると想像が刺激される。
 彼の詩に『帰郷』(詩集『氷島』収載)がある。詞書には「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る」とある、二児の一人は萩原葉子である、その時の経験を振り返り、「お父さんは嘘ばかり書いているのです」と新聞の対談記事で詩人の娘は言っていた。つい笑ってしまった。

 詩人なるもの嘘が巧くないといけない、事象、事件をあたかもそうであったかのように書いて読者を魅了する。言えば詩は嘘や虚構を楽しむものである。

 昭和十年、朔太郎は世田谷代田での生活を送っていた。この年十一月に「散文詩風な小説『猫町』を版画荘より刊行」した。下北沢の家を引き払い、自ら設計した新居に住んだのは昭和八年二月頃である。もっとも生活が充実していたときであった。

 彼はこの作品の冒頭で、従来の旅に対する失望を語っている。「どこへ行ってみても、同じような人間ばかり住んで居り」と言う。通常の旅では飽きたらない。そのための工夫がここには書かれている。

(二)
 朔太郎の最晩年の詩集は『氷島』である、彼は世田谷代田の自宅でこれを編んだ。末尾に昭和九年二月とある。気合いの入った序である。

著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、侘しい氷山の生活だつた。その氷山の嶋嶋から、幻像のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ、惱み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して來た。著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その実生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである
萩原朔太郎 日本詩人全集 十四 新潮社 一九六六年


彼の書斎は二階にある。裏手すぐには高い高圧鉄塔が聳えている。昔も今も。
 二月季節風が吹いていた。頭上には高圧線がふひゅうふひゅうと唸りをあげている。高圧鉄塔駒沢線である、絶縁物の碍子が汚れていると電流が漏れてジリジリと青い火花が飛ぶ、青猫だ。ジリジリパチパチ、そして塔に浮かぶ青猫。幻影世界が浮かび上がってくる。が、それは読者の想像力である。

 朔太郎詩によって産み出されるイマジネーションを詩に言い表して書いているのは吉増剛造である。傑出しているのは長編詩『黄金詩編』だ。この一節に、突然描かれる。

下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字
の一行だ
 現代詩文庫41 吉増剛造 思潮社 一九七一年刊


 引用詩に続いての一行には、

ここには湖がない

 とある。不思議だ、が、こちらも妖しい妄念を膨らませる。詩前半に「下宿のこの部屋」でとある。池ノ上在住時代だったらしい。「ゆるい坂道をゆっくりくだっていく」は森厳寺左岸の崖線を下っている。この場合の「ここには」は下北沢である、かつて大昔、一帯には東京湾からの海水で満たされていた。沢には満々と水に満ちていた。が、それもはるかな昔、今は湖もない、と言っているだ。
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(三)
 訳がまるで掴めない詩だが、この世界を構築している巨大な詩人を考えればすべて氷解する。それはかの大詩人に他ならない。

 当、下北沢地区、そして代田地区には恐ろしい言語構築人が住んで居て、今も現今世界に存在している。そのシンボルが世田谷区地域風景資産「代田の丘の鉄塔61号」である。認められたのは萩原朔太郎父子の生存痕跡を示す唯一の痕跡ということからだ。

 猫町散歩のポスターを見ると妄想が一層に刺激される。
(写真は上、下北沢朔太郎旧邸跡、下、旧居裏手の路地)





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2022年09月27日

下北沢X物語(4556)―野沢水車の謎 2―

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(一)野沢水車は、明治十四年五月に水車使用許可を出して、翌々年に許可が下り稼動し始める。ところが新たな設置は容易ではなかった。すでに品川用水では十二箇所で用水が稼動していた。野沢水車はそこに割って入ることになる、用水は飲み水や農業用水を送るためのものだ。その用水を他用途に用いるのは好ましくない、が、水路浚渫や修繕費に経費がかかる、水車利用を許可制にして金を取れば、経費が出る。それで許可をしていた。用水組合は既存の水車使用者に了解を取る必要があった。それがうまく行かなかった。ところがこれの許可が下りた、わかってみるとなるほどだ、野沢水車の許可申請者、谷岡慶治と秋山紋兵衛は土地の有力者で、政治力に長けていたようだ。

 谷岡慶治と秋山紋兵衛は当時有名人だった。
まず、前者である、「全国篤農家列伝」(明治四十三年)に彼の名がある。

荏原郡駒沢村の人、資性温厚慶應元年名主役となりしより、以来戸長、村長となりて今日に至る。

 彼は府会議員も務め、駒沢町町長にもなっている。彼は兎々呂城、深沢城の城主の末裔である。その跡が今、都立園芸高校になっている。彼は地元の長として「我邦の園芸業の不振を憂い」、一方府知事には園芸学校の奨励推進をするよう求め、ついには念願が叶い、「府立園芸学校の駒沢村の深沢に建設す、是我邦園芸学校の嚆矢なり」とある。現今の園芸学校の創設に関わったのが彼だった。

 一方の秋山氏の話だ。ネットには相続税の話が載っているが、「西の横綱は大正製薬の名誉 会長だった故上原正吉氏であった。西の横綱は新たに世田谷区の大地主、秋山紋兵衛 氏が占めるにいたった。」とある。やはりこちらも土地の有力者であった。

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2022年09月26日

下北沢X物語(4555)―野沢水車の謎―

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(一)深沢秋山家を訪問して驚いた。何と別棟の応接室の壁に大きな水車が掛かっていたからだ。「どこの水車ですか?」「野沢水車のです」と秋山光男さん。ここの水車の経営に関わっていたからだとのこと。が、これがうまくのみ込めない。どうして秋山家に水車が置かれているのか?謎だった。秋山家訪問時に同行された当会会長の谷亀さんから情報を得た。水車経営者の一覧だ、所有者は「深沢371 谷岡慶治」とある。秋山家の名はない。謎は深まった。それで調べることにした。

以前に野沢水車のことは調べたことがある。検索で調べてみると2007年02月15日の「荏原南北ペダル漂泊行(2)」に記述があった。もう15年前のことである。

鶴ヶ久保公園の南東、700m余りのところだ。野沢3丁目10番である。品川用水の流れを利用した「荏原最大の水車」があった。そこに手書きの案内図がある。「川の流れを利用した工業で精米麦製粉として水車が有った。野沢水車は荏原最大で明治14年から大正末まで営まれた。水輪の直径5m石臼6個杵20本落差を利用した上がけ式水車建物22m×13mと云う大きな『カヤ』屋根の建物であった。」

ここに記した案内図は今もある。確か詳しい解説もあった。行けばきっと手がかりを得られるだろうと思った。水車は品川用水の流れを活用している。

 品川用水は、多摩郡境村(現武蔵野市境)の分水口から玉川用水から別れて荏原台上を流れていく。尾根筋を通っていた用水は野沢3丁目で左折して南東方向に進路を変える。荏原台の台地を降りて目黒台方向に流路を変える。いわば最大斜度がここで得られる。そのことからここに野沢水車を作った。

 現場を訪れるに限る。が、品川用水の水路跡は今はほとんど残っていない。それでも流路はほとんどが道として使われている。そこを辿ってみる。野沢龍雲寺バス停から南に向かう。すると野沢交番前で南東に向かう道がある。下り坂だ、ここが荏原台を降りていく傾斜である、用水の流路跡だ。その坂を下ると降りるとバス停がある、水車橋だ。ここの脇に私製の看板が建っている。

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2022年09月23日

下北沢X物語(4553)―野砲兵の軍馬のゆくえ?―

P1050442
(一)三軒茶屋に残る旧軍の痕跡を巡った。もう十数回、戦跡歩きは行ってきた、が、全く欠落していたことは馬たちの行方だ。下馬に残存する馬魂碑は昭和十四年十二月に建立されている。これには「野砲兵第一連隊留守部隊長」の名が刻まれている。本隊の方はソ連国境満蒙に派兵されていた。最前線は悪路だ、砲兵隊に馬は必須だった。人馬ともに海を渡っている。さらに戦争末期になって戦況が悪化すると満州に派遣されていた部隊が南方戦線へ転進させられていた。野砲兵第一連隊はレイテに送られた、大陸から南方へは海路を行く、輸送船での軍馬の移動は困難で数が制限されていた。それでも馬も渡っている。レイテに何頭送られたか分からない。が、大陸から沖縄に移駐した野砲兵は馬を帯同している。その馬たちの末路は哀れだ、馬は悪路を克服する戦力だったが、食糧が不足する沖縄では馬肉として食われてしまっていた。

 戦争の真実はわからないことが多い。我らもフィールドワークを通して多くのことを知った。今になって考えると馬の行方を考える事実を把握していた。以前のブログに記録があった。

駒沢練兵場の東南隅の下馬寄りに、鉄道貨車に馬を乗せる訓練のために、鉄道貨車二両が置かれ、乗せ降ろしの訓練が行われていた。(「しもうま」下馬史跡保存会発行)

 これは「石橋楼覚書」にも、「下馬寄りにはどこにも繋がっていない線路とプラットホームがあり、軍馬を積み込むためのデリック(起重機)と貨車が訓練用に設けられていました。」とほぼ同内容のことが記されていた。

 練兵場では貨車へ馬を乗せ降ろしの訓練をしていた。そのためのプラットホームがあり、また、家畜車が二両用意されていたという。貨車記号は「ヨ」だったのだろうか。家畜車は車体がすかし張りになっている。かつて、ホームに停まったそれからは牛の目や鼻を見たことがある。


野砲兵各隊に配置されていた馬は、いわば仮寓に置かれたものたちだ、派遣が決まると人馬ともども当地を離れた。最寄り駅は渋谷か恵比寿だ、いずれも貨物線、引き込み線があった。港は様々だ、芝浦、宇品、新潟などがあった。

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2022年09月21日

下北沢X物語(4552)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる 3―

P1050429
(一)三軒茶屋は軍都だった、往時は三つの兵営がひしめき、各隊のラッパが入り乱れて鳴っていた。が、その痕跡はわずかだ、韓国会館の建物と馬魂碑ぐらいである。今回これが重要であることを知った。当地には近衛野砲兵連隊、第一野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊がいた。この中で第一野砲兵連隊はレイテで全滅している。近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊の碑は建てられている。が、全滅すれば碑を建てる人もいなくなる。当地に辛うじて残った建物と碑は彼等の存在を遺すものだ。第一野砲兵連隊は意図的に冷や飯を食わされた、まずは北満のソ連国境防備に就かされ、一転昭和十九年に南方派遣を命ぜられ彼のレイテ島に征かされほぼ全滅している。冷遇の因は226事件に加わったことから来ている。

 我らは三連隊の痕跡を巡った、近衛野砲兵連隊、第一野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊、それぞれの跡だ、各隊生死を分ける苦難があった。それでも生き残った者がいれば碑が建つ、が、皆が死ねば碑は建たない。

 三隊のうち一隊はレイテで全滅し戦後当地に碑は建っていない。それは第一野砲兵連隊である。近衛野砲兵連隊跡は昭和女子大に碑が建っている。当地には自衛隊三宿駐屯地がある。ここには立派な近衛野砲兵連隊記念碑と野戦重砲兵第八聯隊碑が建っている。弔う者がいなければ碑は建たない、悲劇である。レイテで玉砕したのは第一野砲兵連隊である。が、皮肉である。今も建物があり、馬魂碑がある、これは第一野砲兵連隊関係のものである。ゆえにこの二つの残存物は重要である。

 昭和女子大を跡にして韓国会館に行く、唯一現存する兵営である。当地に残っていた旧兵営はことごとく壊された。辛うじて残っているのが韓国会館の建物だ。
案内者の上田暁さん、当日配布した資料にこれを記述している。

 馬の鞍を作る工場だった。
 建物は洋式小屋組木造トラス瓦葺き屋根。外壁はドイツ下見張り。軒裏のモールディングに注目。
 
 〇野砲兵第一連隊の碑が日本にない事と隊長熊川大佐の敵前離脱の関連。
レイテ島リモン峠には砲一会が設けた鎮魂の碑がある。


韓国会館の現存建物は半分は使われているが、後半分は朽ちるままだ。野砲兵第一聯隊の痕跡は日本にはなにもない。保存すべきだ。
 上田さんの言う熊川大佐離脱は、当隊はリモン峠に取り残された。「12月6日には完全に孤立してしまい、連隊長熊川致長大佐以下の残兵は独断で西方山地に脱出しました」とネットにはある。
砲一会は、かろうじて残った者たちで結成されたようだ。仲間の霊を弔おうと苦心して慰霊碑を建てた。これにはこう刻まれている。

 日本陸軍最古の栄誉に輝く野砲兵第1聨隊は太平洋戦争に於いてレイテ決戦に参加し勇戦敢斗の末聨隊長以下カンギポット山麓に玉砕した
本決戦最大の激戦地リモン峠周辺第1師団の戦斗に際し聨隊主力の陣地であった此の地を砲一台と名付け碑を祀り鎮魂の祈りを捧げると共に日比親善と世界平和の礎石たらしめんとするものである

昭和57年11月建之 砲一会

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2022年09月20日

下北沢X物語(4551)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる 2―

P1050420
(一)北白川宮家は不運の宮家だ、ゆかりの樹木が昭和女子大構内にあった。この17日訪れると跡形もなく消えていた。老齢木は菌に冒されやむなく伐り倒したとのこと。このヒマラヤ杉は北白川宮成久王殿下と奥方の明治天皇の皇女周宮房子内親王殿下とがお手植えをされたものだ。成久王殿下は、1923年(大正12年)フランスで自動車事故で亡くなる。成久王の第一皇子は、北白川宮永久王である、陸軍砲兵大尉として近衛野砲兵連隊に勤務していた。やがて蒙疆方面へ出征をしたが、演習中に航空事故に巻き込まれ1940年(昭和15年)3月殉職されている。1956(昭和31年)に永久王を偲んでの集まりがあり、ヒマラヤ杉を背景にして参会者全員と北白川宮皇族とが一堂に会して記念の写真を撮った。ヒマラヤ杉の最高の晴れ舞台であった。

 北白川宮永久王は宮家の若きプリンス、その妃は男爵徳川義恕の次女祥子、評判の美女である。彼の急逝は全国の高等女学校の才女たちを嘆かせた。その彼女たちの多くの思いを三十一文字に編んで載せた。『仰徳集』である。涙ながらに死を悼む高女生の作品群が溢れるほどに載っている。

 貴公子は居宅に近い品川駅から列車に乗った。旧友が駆けつけ、その折の心情を詠んだ。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

image003

 偶然これを息子さんが見つけられコメントしてこられた。
 
 私は上記の糸賀公一の息子です。父は現在体が不自由で介護施設に入居していますが存命です。
 北白川宮さまとは陸大の同期と言っておりましたので、間違い無いと思います。記憶はまだしっかりしていますので、この記事を知らせてやろうと思っています。懐かしく思い出し元気を出してくれると思います。ありがとうございました。
Posted by 糸賀成三 2009年12月31日 13:24


続いてこの顛末だ、

  昨日この記事をコピーして父に会って来ました。大変喜び、こうして情報を提供していただきました皆様に、くれぐれもお礼をと言うことで、再度ご連絡を致しました。
さすがに高齢ですので(98歳)自分の詠んだ歌の文言までは憶えていないようでしたが、品川の宮邸に何度かお邪魔した事、また運動会があった事など思い出したようです。
蒙彊の地でご逝去された時には父は、東京から出張のおり現地に伺ったと、話して居りました。また宮様は演習中に自国の飛行機に突っ込まれて亡くなられ、宮様の父君、祖父君もいずれも不慮の死に遭われていたので、宮様自身日ごろから、注意されていたにもかかわらず、あのような事になってしまって、あの無念さは忘れられないと言って涙ぐんでいました。
 日ごろは単調な療養生活ですが、父はこの記事は何度も私に読んでくれるように要求し、昨日は思いがけず充実した日となった事でしょう。ありがとうございました。
Posted by 糸賀成三 2010年01月12日 14:23
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2022年09月18日

下北沢X物語(4550)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる ―

P1050421
(一)三軒茶屋は軍都だった、が、ことごとくその痕跡は消えてしまった。わずかに残った跡を皆で歩いた。当地で息づいていた兵士や軍馬、その面影を巡っての追悼の旅である。まず近衛野砲兵連隊跡である昭和女子大学構内を訪ねた。が、異変に気づいた。「景色が変わった!」、何と大学のシンボルツリーが無くなっていたことだ。それはヒマラヤ杉である。北白川宮成久王殿下と明治天皇の皇女、周宮房子内親王殿下のお手植えのものだ。戦友会盛んな頃、この樹木をバックに記念撮影をしていた。ゆかりの皇族も写っている。前列真ん中に美貌の女性、成久王の御子息永久王の奥方だ。王は近衛野砲兵連隊中隊長としてここに務めていた。が、蒙疆方面へ出征中不慮の事故で亡くなられた。その奥方が祥子殿下である。三島由紀夫の短編「玉刻春」に彼女の容貌の子細な描写がある。三島の初恋の人だった。昭和女子大、ヒマラヤ杉物語の一端である。(昨日17日実施案内者 上田暁さん)

 このヒマラヤ杉、クリスマスシーズンにはイルミネーションで飾られていた。若い女子学生がこの木の下を、友だちと恋バナを語りながら通り過ぎていった。

 自身には欠落感が生じていた。皇室縁のお手植えのヒマラヤ杉ということを発見したのは私であった。きっかけは、『近衛陸軍砲兵二等兵』(門屋 古寿 昭和五十三年刊)にこのヒマラヤ杉について書かれていたからだ。

 門屋二等兵が、この連隊に入営したときに営内の説明を受けている。そこにつぎのようなくだりがあった。

「休んだままで聞け。あそこのヒマラヤ杉(連隊本部前の営庭に、一本の大きなヒマラヤ杉がある。これは北白川宮成久王殿下と、ご結婚遊ばされた、明治天皇の皇女、周宮房子(かねのみやふさこ)内親王殿下、お手植えのものである)にむかって、あれが、第二中隊の起点。」

 近衛野砲兵連隊は誉れ高い部隊である。天皇をお守りする役目を持った隊だ。兵営のシンボルがこのお手植えのヒマラヤ杉だった。このことを記した門屋古寿氏は、昭和十四年(1939)一月十日入営している。

 昭和女子大構内のヒマラヤ杉がなぜお手植えのものと分かったか。昭和30年代、戦友会で集まったときこの杉の前で記念写真を撮っていること。その樹形が残存杉と一致したからである。
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