2017年01月23日

下北沢X物語(3204)〜再び田端へ:文士町&文士村比較供

DSCN0137(一)田端は規範的、模範的な文士町だ、田端文士村記念館は当地を「田端文士芸術家村」と呼称している。文学芸術が寄り集ってそしてそれぞれの分野の作品造りに刺激を与えている。文士や芸術家の関係性が濃密で濃厚である。

 私たちは、歩き終わった後、お茶を飲んだ。田端文士芸術家村の空気に当てられたか、青年に立ち返って文学論議をしたことだ。土地土地の文学はありうるとの話は面白かった。
「この田端には中野重治がいたでしょう、彼は後に豪徳寺に住んでいるんですよね。それでこのことを調べていたときに『豪徳寺詣で』という符丁があったと知りました。豪徳寺にはプロレタリア関係の作家や評論家が多く住んでいて、編集者がそこに行くことを『豪徳寺詣で』と行っていたようなんです…」と私。
「確か井伏鱒二が言っていたように思います。馬込は流行作家が住むところで、プロレタリアは世田谷で、二三流文士は中央線、それで彼は阿佐ヶ谷に住んだと…」と原敏彦さん。
 世田谷豪徳寺になぜプロレタリアがというのは興味深い。
「世田谷は道が入り組んでいて幕府の隠密も迷ったという話がある。プロレタリアは官憲に追われることが多いから、すばやく逃げられるように世田谷に住んだのかも?」
「古本屋の親父になって何気なくしのぎが稼げるから?」
 下北沢南口の大地堂の店主は、プロレタリア歌人渡辺順三である。彼は豪徳寺にも住んでいた。

「田端文士村には我らの関係では萩原朔太郎が住んでいました。私はどうも朔太郎がこの地を好んでいたとは思えないんです…」
「いや、そんなこともなかったと思いますけど」と原さん。
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2017年01月22日

下北沢X物語(3203)〜再び田端へ:文士町&文士村比較〜

DSCN0141(一)鉄道と文士村、興味深い問題だ、近代交通が形成されたことで文士が集まる場ができた。昨日、第124回目の街歩きは田端文士村だ、秋に回りきれなかったところから再度、講師の原敏彦さんにお願いして再訪となった。集合は田端駅だ、この駅の歴史は古い、明治二十九年(1896)に日本鉄道の駅として開業している。文士村と鉄道開業は縁が深い、馬込文士村は大森駅、我らが文士町は下北沢駅等、数多い。が、ここは違う。汽車、電車ではなく市電が大事な交通機関だった。

 田端文士村の呼称は「田端文士芸術家村」と称されている。この解説に言う。

 明治中期まで、田端は閑静な農村でしたが、明治22年、上野に東京美術学校(現・芸大)が開校されると、徐々にその姿を変えて行きます。上野とは台地続きで便がよかったことから、美校を目差し、学び巣立った若者たちが田端に住むようになるのです。

 日本の中心都市となった東京に美校ができる、志のあるものは憧れてやってくる。多くは地方からだった、この場合住む場所が必要だ。元々は畑だった場所には、下宿屋ができる。上野近辺の下宿屋よりも低廉である。仕送りで生活している彼らには親元に負担をかけないようにということで費用が安い、ここに集ってきた。芸術志望の青年たちがたむろする町は更に変化をする。解説は更に続く。

 大正3年、ひとつの転機が訪れます。当時学生だった芥川龍之介の転入です。5年には室生犀星も田端に移り住み、競うように作品を発表、名声を高めていきます。ふたりを中心に、やがて菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明らも田端に居を構えるなど、大正から昭和の初期にかけて、田端は(文士村)となったのです。

先回、秋に来たときは回りきれなかった。引率講師の原敏彦さんは、あちこちで立ち止まっては解説を施す。が、彼の場合、通り一遍ではない人間関係を説くのである。人脈である。その彼の解説によって浮かび上がってくることがある。当地では人間関係が濃厚であったことだ。

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2017年01月20日

下北沢X物語(3202)〜世田谷まちなか観光メッセ:プレゼン〜

2b175df2.JPG (一)第二回世田谷まちなか観光メッセが明日、21日開催される。今回は、「まちあるきコースのコンテスト」がある。我らの会は「シモキタザワ猫町散歩」(萩原朔太郎の『猫町』を歩く)でエントリーしている。全体では23の団体が応募している。予想を超える応募となったのであろう、当初は5分間のプレゼンとあったが、これが半分の2分半になった。150秒でアピールするのは至難だ、23団体が論陣を張っての闘いだ。どうなるのだろう、場所は三軒茶屋、キャロットタワー四階のワークショップルームで行われる。10時から、我らの会は早い。一番目が駒沢給水塔、二番が我々だ。10時16分30秒から19分までと細かい。さてどうなるだろう?
 
 今回のコンテスト、我らの活動に関わる団体の参加が多く見られる。北沢川緑道に文学碑四基を建立し、ここを「北沢川文学の小路」と名づけた。まずこのコースを推奨しているのが二団体もある、嬉しいことだ。

10時30分30秒から行われるのは「ふれあいの水辺と文学の小路」だ。長年北沢川緑道に携わってこられた元世田谷区議の廣島文武さんが提出されている。文学碑を緑道に建立するに当たって、区との交渉に当たってくださった方だ、もう引退されたが思い入れは人一倍であろう。どんなプレゼンをされるのか。

 11時10分から行われるのは「北沢川緑道を106センチ目線で歩く」だ。これはNPO法人 車椅子社会を考えるの篠原 博美さんがプレゼンをされる。12月に下北沢の古写真の跡を訪ねるに車椅子で参加された。これをきっかけに我らの会の街歩きにも参加されたいとのこと。今年の抱負を次のように言っておられる。

 当会の今年度の活動目標は『車椅子利用者の外出機会を作ろう』です。
ますます増える高齢者、障がい者車椅子も高性能化しておりますので、私自身もきむらさん主催の散歩の会等に積極的に参加し一般の方にも車椅子のことを認知してもらおうと思っています。


 今回は、車椅子目線で楽しめる文学の小路ということでエントリーされている。文学碑は、緑道沿いに設置しているが車椅子からでも碑文は読める。そこを上手く活用したものだ。
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2017年01月19日

下北沢X物語(3201)〜梶井基次郎:荏原都市物語と長者丸線〜

DSCN0131(一)昨日、近代戦争史の秘密を解こうと国立国会図書館に行った。ところが休館日だった、人間切り替えが大事だ、すぐさま皇居を経由して日比谷線で広尾へ。ここから歩き始めた、まずは天現寺橋まで、こここそが恵比寿長者丸線の始発駅だった、梶井基次郎がこの線に親しんだのは大正十三年(1924)、もう九十三年も前のことだ、かつてはこの線に「旅情」があったという。その面影は残っているのか、これを探る、恵比寿長者丸線幻想行に及んだ。

 『路上』では、「EとTとの間を単線で往復してゐる」とある。いわゆる盲腸線である。閑散路線なので旧型の単車が走っていた。ごっとんごったんと音を立てる、左右に揺れる。ここには専用軌道があった。

 窓からは線路に沿った家々の内部が見えた。破屋というのではないが、とりわけて見ようというやうな立派な家では勿論なかった。然し人の家の内部というものにはなにか心惹れる風情といったやうなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、ある日その沿道に二本のうつぎを見つけた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 文学に描かれている汽車、『音の鉄道文学史』はそれを網羅したものだ、梶井基次郎は項目立てはしていない。が、彼には汽車の走行場面を描いた心ときめく一文がある、これは引用をしてある。汽車と文学というの長年調べている、線路工夫の手練れはミリ単位のレールのゆがみが見える。自身も汽車文学と長年つきあってきて分かることがある。汽車の窓から見える景色関心が深い作家は汽車好きだということだ。梶井基次郎もその点間違いなく汽車好きだといえる。
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 「窓からは線路に沿った家々の内部が見えた」は、懐かしい。
 人家というのは通りに面して建てられている。表側は澄ましているが裏側はあけっぴろげである。人々は油断している。常々汽車が通っていれば気を引き締める。ふんどし姿一丁、シュミーズ姿のあられもない恰好などはしない。ところが閑散線区では人々は開けっぴろげだ。食卓を囲んで食事をしている場面が汽車のまどを掠めていくなどというのはよくあった。が、昨今の電車は高速である、おばさんがあられもない恰好をと思ってもすぐに過ぎてしまう。
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2017年01月17日

下北沢X物語(3200)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く供

DSCN0124(一)荏原都市物語の根幹は際、都鄙境界にある。梶井基次郎の『路上』は目黒川左岸でのドラマだ、いわゆる目黒川左崖線は東から押し寄せてくる都の防御ラインでもあった。都心と郊外との境界である。その際は何か、鏡である、自分を映し出す鏡面だ。『路上』では彼を映し出している、鏡には孤影が映ってみえた。

 梶井基次郎作品『路上』は短編である。この書き出しはこうである。

自分がその道を見つけたのは卯の花の咲く時分であつた。
 Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較にならないほど近かつたからだった。ある日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思う方角へ歩いて見た。しばらく歩いているうちに、なんだか知つているような道へ出て来たわいと思った。気がついてみると、それはいつも自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながつて行くところなのであった。小心翼々と言つたようなその瞬間までの自分の歩き振りが非道く滑稽に思へた。そして自分は三度に二度というふうにその道を通るようになつた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 梶井基次郎が中目黒に引っ越してきたのは大正十三年十二月のことだ。翌年五月に飯倉片町また引っ越す。大正十四年初夏の頃の話だ。彼は都電を利用していた、当初は、Mから電車に乗っていたらしい。これは目黒駅だ。

 一方時が経ってもう一つの経路を発見した。E恵比寿長者丸である。これまでは家からM、目黒駅へ行っていた。ところがこれよりも案外に便利な線が走っていることを聞き知った。それでこれで帰ってみた。終点で降りる。辺鄙なところだ。ここで降りて西に行くが尾根を越えていく、まず鉄道線路を渡る、そして坂を登ったところで南北に走っている道に出くわす。これがMへ行くときの道だった。

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2017年01月16日

下北沢X物語(3199)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く〜

DSCN0122(一)荏原都市物語の探訪は果てがない。随所に素材が転がっている、その一つ一つを見つけてはドラマを楽しむ、今回は荏原目黒川左岸に落ちている地形物語だ、彼の鋭い感性は類い希だ、それは梶井基次郎である。

 基次郎、文士町繋がりで言えば、三好達治と宇野千代がいる。前者の文学碑を我々は鎌倉橋に建てた。彼の代表作は『測量船』だ、この冒頭は、「春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも」だ、リズム、情景が素晴しい。これは結核療養中の梶井基次郎を伊豆に見舞っての帰りの船路で詠んだものだ。また宇野千代は梶井基次郎に小説の題をつけてもらった、『罌粟はなぜ紅い』だ。このときに筋立ての参考にしようと心中事件を起したばかりの東郷青児に取材した。男と女は心中現場の血のついた布団の上でたちまちに結ばる。これがきっかけで世田谷山崎、そしてついには淡島にコルビジェ風の家を建て住むことになる。

 梶井基次郎は、短期間だが荏原の一角に住んでいた。「荏原郡目黒町中目黒八百五十九番地」である。この旧番地なるものがくせ者だ。ここをピンポイントで探し当てることは難しい。ところがこの間、大田区の図書館で『わが町あれこれ』(14号)という雑誌を手に取った、するとここに「目黒区文士往来年譜」があった、何と梶井基次郎旧居住所と現住所とが記されていた。何のことはないが、私には得がたい情報だった。

 私は、土地の文化と文学に対して深い関心を持っている。文人詩人歌人など、作品の中に居住地の坂や川や橋が書かれたり、詠まれたりしていないか?これには深い関心がある。

 例えば文士町で言えば、尾山篤二郎だ、著名な歌人で北沢に居住しているときに多くの歌を詠んでいる。当地の家を「北沢草堂」と称している、詠歌をチェックしていくと
「ある、ある、ある!」
 居住地の隣は地主の安野さんだ、そこの柿や欅や樫が歌に詠み込まれていた。もう木々は無くなっているが、その場所に行って痕跡を探す、これほど楽しいものはない。

 梶井基次郎の中目黒の住まいは前々から興味を持っていた。彼がここにいたときのことを描いた作品がある。これに電車線の話が出てくる。停留所名はローマ字の頭文字で書かれていて、そこがどこなのかを知りたかった。

 住所が中目黒であることから、いわゆる都電、中目黒線ではないかと思っていた。ところがその現住所が分かってみると、疑問に思っていたことがたちまちに氷解した。
「現住所力だ!」
 
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2017年01月14日

下北沢X物語(3198)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考・了〜

DSCN0118(一)ダイダラボッチ伝説は口承説話である、口から口へと伝えられていた間は人々の心に生きていた。が、荏原一帯は東から攻めてきた都市がダイダラボッチを消してしまった。民族学者が代田ダイダラボッチは重要なところだ、それをしっかりと伝承しておくべきと当時主張していたが昭和期になって笹塚の桜護謨から出る石炭殻で埋められてしまった。一万年もの間、口から口へと伝えられたダイダラボッチはその精神とともに終焉を迎えた。近代化がダイダラボッチを消し去ってしまった。大正期はダイダラボッチが生きていた最後の時代である。

 谷川磐雄は雑誌『武蔵野』に「武蔵の巨人民譚」を書いたのは大正八年十二月のことだ。この時代にはダイダラボッチは生きていた。「大岡山小字擂鉢山」と「千束村狢窪」は「昔しダイダラボッチが足をふんばった所」だと。彼は「農夫から聞い」ている。
 谷川は大岡山の近くに住んでいたと思われる。ダイダラボッチに深い関心を持っていたゆえにその箇所を訪ねている。そして「その足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」このときのことだろう。畑を耕していた農夫がダイダラボッチについて話をしてくれた。

「爺さんから聞いた話だけど、ここの山の摺鉢山とあっちの千束の貉窪に巨人が立ってな。小便をしたら洗足池となったというんだ…」
「南向きですね、ふぅんなるほど、そうするとダイダラボッチは男ということになりますね?」
「まあ、そうだろうな。女だったら直下あたりが水浸しになるからな」
「やっぱり窪みがあるのとないのとでは違いますか?」
「それは違うよ、ダイダラボッチの耕し方というのがあってな、ことに斜面の耕し方だ、あっちの谷畑のダイダラボッチは斜面がきつい、だから耕すときは土を上に持っていくようにする。でないと雨が降ると土が流れるからな…」
 谷川磐雄と農夫とがどんな会話をしたのか分からない。が、ダイダラボッチの土地土地の固有性はあったはずだ。

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2017年01月13日

下北沢X物語(3197)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考検

DSCN0117(一)ダイダラボッチは遙かな時空を生きてきた巨人だ。千年でもない、五千年?、いや一万年かも知れない。この伝説は縄文時代まで遡る。「武蔵の巨人民譚」(『武蔵野』第二巻三号)をまとめたのは谷川磐雄だ。「私はその足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」という。その足跡地こそは「荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村貉窪」である。後者の近くには「洗足池公園付近遺跡」があって縄文時代中期のものだ。前者は「大岡山遺跡」と称される。縄文時代前期から後期にかけてのものだ。出土したのは土器、石斧、石鏃、石槌など。こちらは呑川左岸の崖線で、いくつもの遺跡が連なっているところからこちらの方の話であろう。ダイダラボッチ伝説は万年まで遡る話だ。スケールが他の伝説とは異なる、それゆえに多くの民族学者がこれに注目した。

 が、このことは一般的には理解されていない。ダイダラボッチはおもしろおかしく語られる。『東京の民話』(中村博編 一声社 一九七九)はそうだ。「馬込のダイダラボッチ」についてはこう語られる。

うまく体のバランスをあわせるために、ちょいと足のこゆびをついたところが、洗足池だというんだから、いまの東京のいこいの場所は、どれもこれも、みんなダイダラボッチがつくってしまったのかもしれん。

 軽い軽いお話だ。が、この伝説は新手だ、典拠は何によっているのだろう。代田橋についてはもう全くおもしろおかしく語られている。

 世田谷にも代田橋なんていうところがあるじゃろ。あれはな、世田谷に川が流れておってな、橋がないので住民が不自由しとったんじゃ。それを空の上からながめておったダイダラボッチが、ちょいとどこかの木をおってきて、橋を架けてくれたというのじゃ。ダイダラボッチがかけた橋に、そこに住んでいた者たちはよろこんだのなんの。それが何百年とたつうちに、代田橋とというようになったというんじゃ。

 
 代田橋はダイダラボッチが架けたというのは有名な話だ。これを紹介している。が、柳田国男はこれを「巨人の偉業としては甚だ振はぬもの」(『ダイダラ坊の足跡』)という。万年単位の伝説がある彼の事業としては、やはりみみっちい、承応2年(1653)に一年足らずで開削された玉川上水に橋が架かったということだが、ダイダラボッチ伝説の根源は一万年も遡るというのにたかだか三百六十年前の話、しかも玉川上水の架橋などは十数メートルのものだ。富士を築いた彼の偉業とくらべるとお話にならない。

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2017年01月11日

下北沢X物語(3196)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考掘

DSCN0120(一)馬込ダイダラボッチは、なぜ東工大構内の出穂山稲荷大明神にどぼどぼと小便を垂らさなかったのか?「それは困ります、構内には化学薬品が何千本と保管されていて、酸を含んだ小便をどぼどぼと注ぎこまれると化学反応が起きて危なくなります」、ダイダラボッチ巨人はやむなくその話を聞いて自らのホースを手に取って、南方向に射出角度を変えて放尿した。それによって無事に洗足池に放水が届き池が出来た。めだたしめでたしだ。
 
 が、しかし、もしかしたらダイダラボッチはそんな小細工をせずに小便を垂らしたかもしれない?。今日、大明神を検証してきた。その場所は背尾根、呑川と洗足池の分水嶺に当たる、この東斜面にねらいを定めて放出すれば自然と池に流れこむ。流路には池への沢筋がちゃんと今もある。

 しかし問題は何かだ。ダイダラボッチ伝説で大事なのは何と言っても窪みである。これが基盤であり、基礎である。まずダイダラボッチはそこに立つ。馬込ダイダラボッチではちゃんと二箇所あるというのは大事だ。世田谷代田は一つしかなかった。しかし、片足の巨人はいない、もう一つの足跡がどこかにあるはずだと柳田国男は探した。
DSCN0119
 民族学者は対になる窪みを探したところ、それは見つからず、駒沢で別の足跡を見つけた、それで彼は驚愕した、この東京には巨人があっちにもこっちにも往来していたのだと知った。それが巨人来往の衝である。

 とこが馬込ダイダラボッチは確実に一人だった。個性を特定できる巨人だ。変な伝説が生まれないように棹を操作してちゃんと洗足池に小便が流れるようにした。また、彼は身を支えるために杖を持っていた。
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2017年01月10日

下北沢X物語(3195)〜荏原ダイダラボッチ再考供

DSCN0101(一)荏原東南部に伝承されている「馬込のダイダラボッチ」は巨人伝説を解く上で重要だ。まずダイダラボッチとは何かという問題がある。間違いなく言えることは人間の想像力の所産である。が、これを生み出す契機が必要だ。それは我らが住む地上にある不思議な痕跡である。形としては足跡だ、そして、「長さは百間」も!「恐ろしいほどの巨人がいたのだ!」、ここが想像の出発点だ。
 
 人間の形をした大男、当然かれも人間的な営みはするだろうと、技をさせる。誰もがする小便である。さぞかし分量は多いはずだ。どぼどぼと垂らすと池ができた。これによって洗足池はできたという。この場合大事なのは巨人の立ち位置だ。右足は大岡山摺鉢山、左足は千束の貉窪だ。今でもそうだが確かにここには大きな窪みがある。が、待てよ、実際のその場所に巨人を立たせてみると「池のできた場所が変だ」、彼は西南を向いているそのままどぼどぼとやると東工大構内の出穂山稲荷大明神あたりにこぼれるはずだ。
「そうかダイダラボッチは畏れ多いということで砲口を左手に持ってぐっと南に向けた。それでようやっと洗足池にほとばしりが届いた。とするなら杖はどうか、右手が竿先を持っているとすればこれは左手か?」
 次からつぎに疑問が湧いてくる。口承伝承はちょっとずつ違っている。「馬込のダイダラボッチ」につけて加えて、「片手で土を採り、片方に置いたのが、品川湾と富士山である」と。ということは棹を離して右手で手をのばしたようだ。海を掘った、その土を手に持って西に放り投げた。東京湾の穴子やボラが今でも富士に埋まっているのか?

 伝説は伝説である、細かに分析する必要はない。が、こういうことは言える、出発点は足跡だ。この場合、大事なのは世田谷代田や野沢と違って、かっちりと二つあることだ。「馬込ダイダラボッチ伝説」の基盤である。巨人を立たせれば動く、まず手始めに小便をする、つぎにそれだけでは芸がないと土地を掘って富士を創る。尾ひれが二つ付いて、話は決着する。

 まず言えることは基本基盤は、大地に刻まれた大男の足跡だ。これを説くのは誰か、人生の体験を重ね、そして霊的能力を備えが老媼である。
「まあまあ、孫達は今日は寝つかれないでいることだ、一つお話をして進ぜよう」
 マキがはぜるいろり端で彼女は「ダイダラボッチ」を語る。

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2017年01月08日

下北沢X物語(3194)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考〜

DSCN0108(一)実地検証は重要だ。昨日、ダイダラボッチ伝説の地、北千束・狢窪を訪ねた。当地の住人との会話で四身一体としての巨人像を実感した。ちょうど家で車を洗っていた人に聞いてみた。「ムジナクボですか?」と七十三歳になるその人は「よくぞ聞いてくれた」と笑顔を見せる。「私が小さい頃まではみなムジナクボと言っていました。それでね、その証拠なんですけどそこに電柱が建っているでしょう。あれに掛かっている札にちゃんとムジナって書いてあるんですよ。昔はこの辺り狸が出て化けていたとかね、そんな話は聞きましたよ」、とびっきりの美女が現れて、いい湯がありますよという、ふらふらっと誘われて入る。何ともいい湯加減だとタオルで顔をこすると臭い…「コ、コエダメだ!」

「ダイダラボッチ伝説って知っていますか?」
「いや聞いたことはありません」
「巨人伝説ですね、右足があっちの東工大の方…」
 東工大の敷地の北側に摺鉢山があった。今でもその形状ははっきりと残っている。
「そうなんですか?」
「左足は、ここムジナクボです。それで男は小便をする、その跡が洗足池なんです」
「へぇ、そうなんですか、初めて聞きました」
「どうして右足と左足がわかるんですか?」
「逆だと池ができないんですよ、ほらマラは南を向いて、用を足すとドボドボと…」
「うん、そうするとこうですか?」
 彼は地図地形を思い描きながらその場で四股を踏むようにした。正面は南で、北を背にした。
「ああ、なるほどね、そういうことか?」
 彼は総てを了解した。
「それでそのダイダラボッチは杖を持っていたんですね、それを突いたところが洗足小池なんですよ…」
「へぇ、よくできていますね」
 そう左右の脚、そして逸物、加えて手に持つ杖、まさに<四身一体>でダイダラボッチの痕跡は地形として今も残存している。
 
 このところダイダラボッチ伝説に関わりの深い、洗足池はよく行く。大田区の図書館のカードを作ったこともある。池のわきに洗足池図書館がある。地域資料を見るのが楽しい。
 大田区の文化財(昭和六十一年) 第二十二集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)などは民俗学の宝庫である。

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2017年01月07日

下北沢X物語(3193)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29掘

DSCN0105(一)終戦、末期圧倒的な物量で敵は攻めてきた。が、軍部は大丈夫だ日本は負けることはないと言っていた。前に松本中学の望月照正さんから取材したことがある。陸軍松本飛行場で大東亜決戦号、疾風を見学したと。B29も撃墜できるという新鋭機だ。望月さんは、戦うには燃料が不足しているのではと問うた。すると、若い中尉のパイロットが言った。
「そんなことはない。燃料はある山の麓にたんまりと埋蔵してあって、三年は十分に戦える。飛行機も間もなく、この大東亜決戦号が量産され出すし、乗鞍で実施しているロケットも完成近いから、日本は必ず勝つ」ときっぱり言ったと。油は、金はたんまりあるという言いぐさに我々は弱い。もう一つ、ここに神が絡んでくるとますます弱くなる。「いずれは神風が吹いて必ず勝つ」、言い古された語だ。戦争末期根拠のない話に我々は踊らされた。信じやすいという国民性を見抜いて政治家は我々を常に騙す。
 

  戦争とは何か、憎しみの暴発だ。こう言ったのは武揚隊、隊員の長谷川信少尉だ。「今次の戦争には、もはや正義云々の問題ではなく、ただただ民族間の憎悪の爆発があるのみだ。」といい、こう結論づける。「恐ろしき哉、浅ましき哉、人類よ、猿の惑星よ。」と。

 戦争末期、昭和二十年、五月二十四日、二十五日、東京西部に飛来してきたB29は両日に亘ってB29は、6,900七トンもの焼夷弾をくまなく落とした。根底にあるのは憎しみだろう、「真珠湾攻撃奇襲」に対するお返しだ。憎らしい敵の首都を壊滅させてやる、そういう強い意志からの緻密な作戦だった。

 東京大空襲の焼夷弾投下トン数、1600トンを遥かに上回る攻撃だった。ねらいは何か、日本の頭脳中枢を狙ったものだ。実際に新聞社が被害を受ける。それで五社共同で「共同新聞」を発行する。その五月二十五日の報道だ。

 大本営発表南方基地の敵B29二百五十機は昨五月二十五日二十二時三十分頃より約二時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。右により宮城内表宮殿其の他並に大宮御所炎上せり。都内各所にも相当の被害を生じたるも火災は本払暁迄に概ね鎮火せり

 「無差別爆撃」は、戦争を遂行する側の立場を描いていて興味深い。戦争というものは軍人、軍施設、民間人、民間施設を弁別して戦うものだ。敵はそれを逸脱していると非難している。しかし、軍はそんな紳士的な態度であったのだろうか。この書き方は、皇居襲撃をするなんてけしからんと言っているのではないか?
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2017年01月05日

下北沢X物語(3192)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29供

DSCN0107(一)荏原逍遙からの帰り、外車販売店に「駆け抜ける歓び」とあった、自分では免許は返上している。かっこいい外車で野山をふっとばすことはない。が、「駆け抜けない歓び」があると思った。日々の歩きこそはわが命だ、昨日は多摩川まで富士を見にいった。鉄橋上を新幹線がきぃんきぃんと音を立てて疾駆していく。「どうしてあんなに急ぐ必要があるのか?」と思った。機械文明と遭遇したとき守旧派が「一日馬車一二台の変化でいいではないか」と。今となっては至言である。我らは闇雲に急がされている。踊らされている。昨日の新聞では、「この25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がりの経済成長を取り戻そうと政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である」、なのにこの上、新しい新幹線を、またリニアを作るという。もう「我々は急ぐ必要はない」、新聞では、「低成長を受け入れる成熟こそ、今のわたしたちに求められていることではないか?」という、低成長は低速度でいい、闇雲に駆け抜けない、プロセスを楽しむことが今は求られている。

 高速度、急成長時代ではダイダラボッチは生まれない。車で駆け抜けることなく、深い窪みに出会ったら想像を巡らす。私は近間では谷畑(現自由が丘)の不思議な窪みに行き会うと立ち止まって想像する。これは右足だ、するともう片足がどこかにある。すくっと立てば雪を戴いた富士が見える。「大沢崩れもだいぶひどくなったな、このままでは山体ゆがんで醜くなる、いっちょう岩を担いで山を修復してやるか…」
 妄想的ダイダラボッチ論は気持ちを豊かにする。

 B29の痕跡を求めて荏原台、久が原まで行った。形はインド半島に似ている、ここは伝説の宝庫でもある。古代から人々が住んでいた地域だ。久が原半島の先端部に池上警察署がある。こういう口承伝承がある。

ダイダラボッチの一族 (池上三丁目付近)

 久ヶ原の池上警察署があるところは貝塚で、大昔ダイダラボッチという大男で手の長い一族が住んでいた。火がない頃で海の中に入って貝をとり生のままで食べて暮らしていた。その食べ残した貝を捨てたところが久が原の貝塚だという。ダイダラボッチの一族が手がとても長いのは、毎日毎日手を海の中に入れて貝を探していたからだという。原
なるほど目先の変化ばかりに囚われていて心が貧しくなっていないか?。
大田区の文化財 第二十二集 口承文芸 大田区教育委員会 昭和61年


 『常陸国風土記』に同じ口承伝承が採録されている。

 上古人あり。体は極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海浜の蜃を摎りぬ。其の食いし貝、積聚りて岡と成りき。


 久が原人は手が長いというがどうだろうか。
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2017年01月04日

下北沢X物語(3191)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29〜

DSCN0100(一)新春、一月一日は晴天だった、自宅近くの富士展望台は呑川左岸、東工大の崖線だ。雪を戴いた富士がよく見えた。平和な年明けだ。しかし、世界情勢は波乱ぶくみだ。イギリスのEU離脱、そしてトランプ政権の誕生、いずれも自国利益を最優先する、外との障壁を作るという、世界の潮流が大きく変わってきた。不安な年明けだ、崖線から広い空を見ながら平和の破綻を想起した。忘れてならないのはこの武蔵野の空一杯を巨大な爆撃機が空を覆っていた時があったということだ。心底震え上がるほどの光景だった。


 昭和二十年五月二十四、二十五の両日に亘って圧倒的な物量でアメリカは東京を襲った。第一日目は558機、焼夷弾投下3645,7トン、第二日目は、498機、焼夷弾投下3262トンだった。非常によく知られている東京大空襲の時は、325機で、焼夷弾投下トン数は、約1600トンと言われる。山手大空襲は両日で6,907トン、これで東京は壊滅し、爆撃リストから外された。首都は完全に廃墟と化した。が、戦争は終わらなかった。戦争指導者の判断の先送りが後の広島、長崎への原爆投下と結びついていく。東京大空襲は忘れてはならないが、この山手大空襲も決して忘れてはならぬ。今もって問題の先送りをする気風、気質がないか?

 呑川左岸崖線から富士はよく見える。東工大のすぐ北には摺鉢山がある。ここはダイダラボッチの右足、左足は、東工大のすぐ東の狢窪、両足ですっくと立つと一物は南を向く、そこでダイダラボッチは小便をした、その跡が洗足池である。持っていた杖をついた跡が洗足小池だと言われる。

 ダイダラボッチ伝説は富士なしには考えられない。この近隣の丘に立てば、遙か西にとてつもなく大きな山富士が見える、これと対比させて人間は、巨人ダイダラボッチを想像した。

 古代の巨人ダイダラボッチ、近代の巨大爆撃機B29、視界に入る富士はものさしだった。後者は東京を襲うときの目印だった、マリアナ諸島を飛び立った爆撃機は富士をめざした。そしてここを回り込んでうまくジェット気流に乗り、東京を襲撃した。が、東京の空の防衛力が薄弱だと知って、富士を目標物にしないで直接南から、東から襲ってくるようになった。

 近隣では五月二十四日に世田谷区赤堤に、二十五日に大田区久が原にB29が墜落した。前者は何度も訪れた。後者については新しい資料を発見したことから大岡山から南下し久が原を訪ねた。
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2017年01月01日

下北沢X物語(3190)〜会報第126号:北沢川文化遺産保存の会〜

DSC_0065
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第126号    
           2017年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
     東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
   あけましておめでとうございます
   
    ことしもどうかよろしく
                
         お願い、申し上げます。


           北沢川文化遺産保存の会

1、文化活動を続けて十二年(都市文化の源流を求めて)


 昨年暮れは、恒例の忘年会を北沢タウンホールで行った。お弁当の名は、「北沢川文化遺産保存の会 創立12周年記念弁当」だった。2004年12月に、代田信濃屋の会議室で設立総会を行って、満場一致で会の創設は決まり、会は発足し今日に至っている。

 十二年間は長い、が、この間たゆみなく文化を耕してきた。地域固有のにおいを掘り続けてきた。このにおいこそが地域を決定づけるものだ。では何が匂ったか。北沢八幡神社の前ではお菓子を焼くにおいがした。ユーハイムがあったからだ。これを作品の中に巧く取り込んでいるのが森茉莉である。『恋人たちの森』の冒頭に描かれている。「ユーハイム」は『ロオゼンシュタイン』という名に変えられている。しかし小説の発想は間違いなくにおいからきている。彼女は常々ここを通っていた。バターの甘いかおりを嗅いでいたゆえに、甘い恋の物語にこの菓子工場を持ってきたのではないだろうか?
 甘いにおいもあれば、くさいにおいもある。

 仔犬らが家のめぐりにまり散らす尿臭風の涼風ぞ立て

 
 北沢草堂、北沢四丁目在住の尾山篤二郎の詠である。昭和十四年。今のように犬をつないでおくという習慣はなかった。犬たちは附近を遊び回り、いい犬をなんぱしては子を何匹も産ませていた。その仔犬たちがあたりに糞をまき散らす。かなわん、かなわん。
 
食べ物のにおいでいえば小田急下北沢二号、三号踏切あたりではメンマが匂った。これはけっこう強烈だった。「あれはくさかった」、この語り草ぐさも消えつつある。
 踏切のそばでいえば井の頭線下北沢二号に煎餅工場があったと。
「学校の授業中に火事があって燃えたもののにおいで、どこが焼けたかわかったんですよ。」「これはせんべいのにおいだ、あっ、ほらあそこの踏切脇の工場だよ!」
 生徒たちは火事現場を鼻で言い当てた。鼻よりせんべい。

 それはさておき、作家や歌人が集まる街でもあり、家内工業も集まってきていた。そういえば思い出した、家の中からクキィィンという耳障りな音も聞こえていた、レンズみがき工場もあったなあ…ほかにまだまだあった。あんこやもやし、それにソースのにおいなどもあった。

 しかし、当地を特徴づけているのは「ひしゃげた座標軸」だ、つまり小田急線と井の頭線が交差していた形だ。街の発展と形成はここにある。鉄道の交差による利便性の高まりが人を集め、さまざまな価値をも集めた。
 ここでのにおいの中心は何か、それは鉄の粉のにおいだ。かつて電車の制動にはブレーキシューが使われていた。車輪を制輪子で挟んで止めていた。電車が止まるたびに鉄粉が散った。駅の線路はいつも赤さびていたが、これが色の正体だった。
 かつては鉄粉が多く飛び散る街であった。線路が上にも下にも通っていたからだ。これを子どもたちは「上の電車、下の電車」と言っていた。一種の電車批評だ。『小田急五十年史』のコラムにはこんな記事が書いてある。

 昭和十年代の後半、下北沢周辺の子どもたちの間に「上の電車」「下の電車」という言葉が使われていた。ガードの上を通る前者の方が、車体がスマートで軽快、警笛がステキ、運転台が、正面下まで座席がある、ドアエンジンが完備している、などなどの理由から、人気が高かった。確かに窓一つをとってみても「下の電車は」は枠が小さくて、それも下へ落とす旧式の一枚窓なのに、「上の電車」のほうがすべてにアカ抜けていて評判がよかった。しかし、「下の電車」には急行があり、列車種別、編成がバラエティに富んでいるうえ、路線が汽車のように長くて、車窓の眺めが美しいことを知っている子供は「下の電車」にも高い評点をつけていたものである。「上の電車」は帝都電鉄、「下の電車」は小田急電鉄であった。

大事なことは異線が交わっていたことだ。異なった文化を持った線が結び合わさっていたことである。例えば自由が丘は異線が交わるということでは同じだ。しかし、いずれも東急線だ。同じ文化を持った社線の結びつきには固有性は薄い。違った車種や人、上の電車には女車掌が乗っていた、が交わることで交差というものが際立つ。街もまた違ったものになってくる。今でも小田急カラーと京王カラーとでは違う。(もともと両線は系列は同じ会社ではあった、小田急線と帝都線…説明が長くなるのでこれは省略)
 繋がった先も関係する。小田急線は新宿であり、井の頭線は渋谷である。東京西郊の二大副都心はカラーが異なる。松林宗恵監督が本社に行くときは小田急線に成城から乗って下北沢で降りた。すぐに乗り換えないで駅前の「マコト」でコーヒーを飲んでから井の頭線に乗り、渋谷で地下鉄に乗り換えて日比谷に行っていたと。
 一拍置いたり、気を休めたりした場が下北沢だったという。

十二年間の調べで誰もが発見しえないことを我らは調べあげた。昭和十九年夏千人ほどの学童が下北沢駅から電車に乗った。代沢国民学校と東大原国民学校の三年生から六年生である。行き先は松本郊外の浅間温泉である。折々の寂しさを紛らわすためにしばしば演芸会を行った。ところがこれが上手い。楽器を演奏させても、歌をうたわせてもうまい。中には洋舞を踊ったり、日本舞踊を披露したりして地元民をうならせた。疎開学童の音楽文化の反映は鉄道交点一帯の文化を映し出していた。
 代沢校に「ミドリ楽団」があって占領駐留軍に重宝された。評判が広がり、ついには全米に演奏が中継された。この地域に音楽文化が育っていたからこそのことだった。文学、詩歌、芸術、演劇などの根源は鉄道が交差したことで深く大きく広がっていた。

2、改訂第七版「下北沢文士町文化地図」


 今年度、世田谷区地域の絆にこの地図の申請をしていたがこれが認められた。三月末までに最終校正の詰めをしてこれを発行したい。今度のは改訂七版となる、発行部数は10000部だ。初版からの発行総数はこれで58000部となる。
 毎回、工夫を重ねながら作っている。新地図に入れてほしいものについてはこの広報で募集している。先だってあったのが「円乗院遺蹟」である。範囲が広いので色を変えて表示しようかと考えている。変更点では、学校の名前である。今年度、東大原小学校が守山小学校と合併して下北沢小学校となった。が、これも仮移転して今は守山小学校にある。来年度については代沢小学校と花見堂小学校が合併して代沢小学校となる。が、これも仮移転で花見堂小学校の跡地で授業は行われる予定のようだ。表記が難しい。
 花見堂は古くからの地名でこれは地図には名前だけは残しておきたいものだ。

 作家、詩人などでは域内に二つ居住跡が記されているものがある。萩原朔太郎、中村汀女、石川淳である。これなどは古い順に、´△犯峭罎鮨兇譴个いい里任呂覆いと考えている。旧跡に関しては何時から何時までというのは重要だ。無くなった学校としては海外植民学校、帝国音楽学校、下北沢店員道場がある。前者二校について西暦で創設と廃校を入れたい。店員道場について歴史が明確でない。ぜひ情報を。
明治時代の小説家生田葵山が下代田に居住していた。おおよその場所は分かっているので(推定)を入れて、旧居跡を記したい。
 毎年四月に安吾文学碑前で「文化地図」を配布している。が、代沢小は花見堂小へ仮移転する。いつも椅子や机は代沢小で借りていた。それで来年度は机二脚、椅子十脚とリヤカーを移転先から借りたいとの要望を廣島文武氏を通じて出し、これが了承された。

3、都市物語を旅する会
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
 田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
 十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
 芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館


・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さんによる案内
スタート→旧甲州街道→烏山神社→烏山北住宅(烏山川暗渠)→烏山寺町(高源院など)
→区民集会所→西沢つつじ園→北烏山屋敷林→ゴール(予定)
・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。
・第127回 4月15日(土) この月の企画については、山梨県方面を予定している。土地在住の矢花克己さん案内によるもの、桃の花の季節だ。当初自家用でと考えたが団体で事故が起こった場合のことを考えると鉄道がいい。明大前待ち合わせで京王線→中央線と考えている。この場合は朝で、コースについては検討中だ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲インターネット「北沢川文化遺産保存の会」の掲示板は自由に書き込める。また、フェイスブックについても「北沢川文化遺産保存の会」として入っている。これは申請した人が活用できる。連絡や要望、意見などはここに書き込んでほしい。
▲新春から原稿用紙二枚程度の小研究、あるいは話題を募集します。会報は図書館所蔵、ネットへのアップなどで広く行き渡るようになりました。原稿はメールで送付してください。この会報にぜひ載せたいと思います。また、会員が関わる行事は会報に掲載します。
▲世田谷まちなか観光協議会主催の「まち歩きコースコンテスト」に当会として応募しました。1月21日に「世田谷観光メッセ」が三軒茶屋キャロットタワーで開かれます。当会の地図も提供します。コンテストの審査ではプレゼンテーションを行います。時間などについては当会掲示板にてお知らせします。
▲年が改まりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。幹事の米澤やきむらも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2016年12月31日

下北沢X物語(3189)〜地域文化的『猫町』私論供

DSCN0061(一) 『猫町』は不思議な小説だ。一種の街論でもあり、旅論でもある。まず彼は街について、「街全体のアトムスフィアが非常に繊細な注意によって、人為的に構成されている」と指摘される。すぐに想起されるのがこのところ話題になっているDr.Austinが戦後に撮った下北沢の写真だ。まさにアトムスァイア、空気感まで映し出している。焼け残った街には「あらゆる町の神経が、異常に緊張して戦いて居た」その秘密めかした空気に敏感に反応して彼は何枚もの街の写真を撮ったのでは?。つぎに旅だ、これは現代人が陥っているお仕着せの旅への懐疑だ。旅への誘いはしばしばある、が、「何所へ行って見ても、同じような人間が住んで居り、同じやうな村や町やで、同じやうな単調な生活を繰り返している。」同感だ、このところどこ商店街に行ってみチェーン店の、おなじみの看板が目につくばかりだ。そこに同じような服装をした人がみな申し合わせたように入っていく。文化のかけらもない。通例の旅はもうもう飽きてしまったと。


 彼は、おしきせ、ありきたりの旅ではなく、新しい旅を提案する。それは、次だ。

 あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。

 乗り物で遠くに行くのではない、近隣の散歩でいいのである。この場合、地域文化的には「小路」が似合う。ここを行く朔太郎である。

 『猫町』には、街論、旅論、加えて路論がある。世田谷代田には朔太郎を慕う三好達治が住んだ。彼が朔太郎の行状を綴った「師よ 萩原朔太郎」は、小路と朔太郎の関係を巧みに表現している。まずこう述べる。

「ああ、げに あなたは影のやうに飄々として いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる」
 
朔太郎は書斎派ではない、机に向かっているときでもふっと思いついて外に出てあたりを徘徊する。北沢川べりを、また下北沢の街を歩いている姿が人に見られている。通っていく路は、「うらぶれた裏町の小路」である。北沢古老の三十尾さんは東北沢から二子道に抜ける小路は、それこそ「うらぶれた裏町の小路」だったと。
「おにいさん、よっていかない」
 通りにある、カフェの女給が声を掛ける。誘われて入りビールを飲む。

女等群がりて卓を囲み
我の酔態を見て憐れみしが
たちまち罵りて財布を奪い
残りなく銭を数へて盗み去れり。
 『氷島』 「珈琲店 酔月」
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2016年12月30日

下北沢X物語(3188)〜地域文化的『猫町』私論〜

DSCN0097(一)萩原朔太郎には『猫町』という短編小説がある。副題は「散文詩風の小説(ロマン)」だ、出版されたのは、昭和十年(1935)、世田谷代田居住時代のものだ。とりわけ興味深いのは居宅からの散歩が描かれていることだ。ロマン、物語ゆえに現実の場を考えることはない、しかし、この漫歩における出発点は自然と居宅が思い浮かんでくる。筆者の習慣として、「毎日家から十四、五町(三十分から一時間位)の附近を散歩してゐた」とあるとますます居宅が現実味を持ってくる。

 詩人が居住していた旧番地は、世田谷区代田一丁目六三五番地である。ここに何の痕跡もない。「日本近代詩の父」と言われる彼は当地で終焉を迎えている。代表詩集の一つは、『氷島』である。この「自序」には、期日が記されている。「昭和九年二月」と。つまり、この詩集はここで編まれたものだ。

 居宅があった箇所の地形は興味深い。淀橋台から枝分かれした台地は北沢川にぶつかってここになだれこむ。この丘の裾に家はあった。そしてすぐの上手のヒルトップには鉄塔が高々と聳えている。昭和二十年五月二十五日の山手空襲で焼けた家は、朔太郎自身の設計によるものだ。彼の娘、萩原葉子はこの家を『蕁麻の家』と題して小説を描いている。

 洋之助の設計の家は、東ヨーロッパ風の新鮮な感覚であった。南側から見ると中世の城と寺院とを取りまぜたような急勾配の屋根が高く見え、遠くの方からもすぐそれと分かった。 講談社学芸文庫 一九九七年刊

 『蕁麻の家』は小説、物語だ。それで父のことは洋之助と置き換えられている。が、家は現実のものだ。「遠くの方からもすぐそれと分かった」と、それは間違いない。が、家だけが目立つのではなく丘上の鉄塔との対比によってより目立った。高々と聳え建つ銀色の鉄塔の側に建つ家は朔太郎自身の好みの反映でもある。
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2016年12月28日

下北沢X物語(3187)〜電柱基準風景論〜

DSCN0088(一) 長年、そのことに携わってくると人には見えないものが見えてくる。九十歳になるという石川さんは電気の仕事に就いていた。通勤のため下北沢駅に行くときも路傍に建っている電信柱を眺めならが行った。僅かの変化も見逃さない、「あそこの電柱は腰が据わっていない」と思うことがある。
「電信柱は真っ直ぐに建っていればいいんじゃないんです。隣の電信柱との張力もある。あんまりぴんぴんでもいけない。地震のときには揺れる、余裕がないと引っ張りあって倒れることもある。それと電柱一本、一本は重心が異なるのですよ。よく傾いている電柱を見ることがあるでしょう。あれは上に載っているトランスの重量をうまく支えるためなんです。やはりね、電柱を見て腰がしっかりと坐っているのを眺めるのは気持ちのいいものです。腰が据わらずに、変に立っていると何か落ち着きがなくなりますね」
「そうすると、地域地域って建てる人が違うでしょう、ときにはばらつきというものはあるのでしょうか?」
「それはありますよ、Sさんというベテランがいて、建て方に寸分の狂いもない。そこに張り巡らされた電線もしっかりしています。電線にしまりがあると街並が安定してみえるのですよ。なんといっても街は電信柱がしっかりと建っていないとね」
 私は石川さんと想像的な会話を交わしている。類例はどこにでもある。


 例えばこんな話がある。機関士は汽車を走らせていて、線路の滑り具合が分かるという。
「小牛田保線区の管内に入ると、まるで座敷に上がったみたいに、もうまっさらなんだからねえ。音で分かるんだよ」
 機関士の語りぐさだった。この保線区には、補修の神様がいて寸分の狂いもなく線路がまっさらだったらしい。管内に入ると車輪の音でそれが分かったという。

 電信柱が建っている風景も、全体として安定しているのかそうでないのか専門の人がみると分かるようだ。彼に取っては電柱全体の張り巡らし方については常に緊張を保って見張っていたのではないか。

 萩原朔太郎の『猫町』では、「町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されている」と述べる。さらに続けて彼はいう。

単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。空気のいささかな動揺にも、対比、均斉、調和、平衡等の美的法則を破らないよう、注意が隅々すみずみまで行き渡っていた。

 詩的調和ということはある。電線的調和もあるかもしれない。「街全体のアトムスフィア」が、ちょっとしたひずみである瞬間崩壊するかもしれない。安定した電柱の建て方、電線の張り巡らされ方で街は平穏を保つ。
 きむらたかし氏が紹介しているつぎの写真。

16・南口通り商店街南端付近から南方向〔画面奥の支柱付きの電柱の場所が膳場青果店
 
 電信柱と電信柱に張り巡らされている電線は美的な調和をもって張り巡らされている。
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2016年12月27日

下北沢X物語(3186)〜荏原狐狸的電柱風景論〜

DSCN00861(一)荏原都市物語は禁断の実だ、一つ囓ったら最後、果てもなく実をもがなくてはならぬ。ついこの間、高畑で狸が出たと知った、「ええっ!、どこだ?」、この話聞きつけるとたまらない、狸が汽車に化けた話となると血が騒ぐ。この話大好きだ、誰も信じないが、近代日本の黎明期は狐狸との闘いだった、彼らが野山に跳梁跋扈していた、その彼らに打ち勝っことでようやっと近代は形成された。代表事例は日本の二大天険、箱根と碓氷に巣くう狐狸である。これを汽車が打ち負かすことで鉄道の大動脈は保たれた。これによって近代化の道が切り開かれた。その人間と狐狸との闘いを大まじめで書いたのが『峠の鉄道物語』(JTB)だ。ゆえに狐狸譚には目がない。荏原では品川の権現山に狸が出現したのは知っている。これに加えて高畑にいたとな。

 狸が出現する場は山だ、「羽根木周辺にも、守山とか六郎次山のような丘のある森林があり、狐や狸の住家である。横山が幾つもあった。」と、羽根木在住の細野巌さんは自著『羽根木』で述べている。彼は守山と出頭山の間で狐に化かされたそうだ。狐狸は山にいるということからすると高畑は山なのではないか。

  調べてみるとそうではなかった。多摩川の国鉄線の近くの土手に近い。なるほどあのあたりだったか。大田区サイクリングコースがあって何百回も通った。地形的に不思議なところだ、多摩川が大蛇行して川崎側に、U字状に大きく流れが食い込んでいる。ちょうどそこを横断する形で日本最初の鉄道は敷設された。

 この蛇行はなぜか、多摩川から流れた土砂が堆積して膨らみを作っていたことが想像された。おそらくこの地名はそこから来ているのではないか、フラットで高いところに畠が広がっていた。以前は木々が生い茂る森だったのではないか。そこが壊されて狸たちは怒って偽汽車を走らせた。「陸蒸気の開通を許さないぞ」、右手をぴょこんと上げて、連日抗議に及んだ。

 しかし、当初、この陸蒸気を運転していたのはお雇い外国人だった。青い眼の外国人に狸は恐れをなした。術を掛けても青ビームでにらみつけられたら一発だ。日本の狸の術は外国人には効かない、彼らが知ったかるっちゃーショックだった。

 彼らが復讐をするまでには時間が掛かった。が、好機は到来する、お雇い外国人のギャラは高い。いつまで彼らに運転させておくわけにはいかない。鉄道省上層部は、お雇い外国人に懇願して、日本人機関士を育てた。これによって青い眼は機関車を降りた。

 日本の鉄道は明治十二三年頃よりようやく日本人の手によって運転されるようになったのであった。ここに至って狸も狐も昼寝から起ち上がり、偽汽車を走らせはじめたのではなかったか。『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』 現代民話考 松谷みよ子
   立風書房 1985年刊


 好機到来、狐狸は立ち上がり、積年の恨みを晴らすために偽汽車を走らせた。狐狸による特攻作戦だ、つぎつぎに偽汽車を繰り出した。向こうから汽車が来ると、「えぃ!」と術を掛けて自らが汽車になり、向こうからやってくる汽車に全速で向かった。
 当の機関士は驚嘆する、来るはずもない対向列車が走ってくる、機関助士が目を剥いて「し、しょめんしょうとつです、ぎゃぼぼぼぼぼ…」と叫んだ、偽汽車で最も有名なくだりだ。狸たちはことごとく討ち死にして亡くなった。が、機関助士の叫んだ、この場面だけは語り草として今に伝えられている。

 荏原地域における「偽汽車」の出現地点は、裏歴史として記録されるべきだ。
 明治十二三年頃、多摩川土手付近でも狐狸と汽車との闘いがあったと。
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2016年12月25日

下北沢X物語(3185)〜「ミドリ楽団物語」へのXmasプレゼント〜

CCI20160508_0001(一) 『ミドリ楽団物語』について読者からの手紙が寄せられた。私宛ではない、出版社宛である。「良書を世にだしていただいた」という御礼である、「えにし書房」編集者の塚田さんによると匿名で、この方の住所も分からないという。以下、その文面だ。

 前略
 『ミドリ楽団物語』という大変素晴しい本を読みました。何度も涙ぐんでしまいました。
 昭和23年生まれの私の知らない「疎開」のことが書かれていました。たくさんの人がこのことを書いていますが、どれもがフィルター付きで書かれています。だからもう私は読まないことにしていたのですが、『ミドリ楽団物語』は違いました。

 子供たちの心が活写されていました。ああきっとこうだったに違いないと深く共鳴しました。それは文体が素晴しいからだと思いました。日本語は、ジメつく場面向きのもので、心や場が弾むように書くのには向いていないのです。しかし、この文体はそれができている。


 8年前まで37年間、都の公立中学の教員をしていました。だから私も子供の心も生活もよく知っています。この本では子供が真に子供らしく描かれていると思います。うらやましいくらいで、私もマネをしていこうと決めました。

 ここ数十年でこれほど感動した本は2010年の『百年前の女の子』(船曳由美)だけです。時代と子供が生き生きと描かれている点で共通しています。歴史的史料としても貴重なものです。

 別紙の個人的ランキングの2位か3位にこれは必ず入ります。良書を世に出していただき、本当に感謝いたします。
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2016年12月24日

下北沢X物語(3184)〜歳末年末荏原都市風景〜

DSCN0060(一)師走、時が急ぎ足で駈けてゆく、街もまたせわしく変化していく。その変化を観察していく一人街歩きが楽しい、気の向くままに南へ北へ、すると偶然に洗足池河畔で「斜陽」という言葉に出会った。太宰治の「斜陽」これの元になった太田静子「斜陽日記」はここに住んでいた。池の最寄り駅は池上線の洗足公園駅だ、三両編成の電車が長閑に通る。ここからすぐ近いところに洗足駅がある。昨日ここは通った、田園都市株式会社が分譲した高級住宅地の先駆けだ。静寂に満ちていた。が、それは斜陽都市荏原の一端のように思えた。お爺さんが築いた地位や財産をその子孫が保持するのは今は困難だ。200坪が100坪になり、さらにこれも細分化されている。早くに開業した荏原南部の山の手は「斜陽」というイメージが合っている。何よりも池上線の三両編成が長閑だ。

 街は変化しつづけている。池上線で言えば、石川台駅、ここはよく行く。目黒の自宅前の遊歩道を下るとここに着く。小説で話題になった『ちいさいおうち』の映画は、この辺りに家はあったとしている。呑川左岸の丘上だ、多摩川や川崎の高層ビル群が望める展望のいい場所だ。が、三両編成に代表されるように一帯は閑雅だ、坂を下ると希望が丘商店街があるが、没落商店街の一つだ、シャッターを閉めた店が目立つ。

 シャッター街では、自身の隣町の深沢にあるエーダン商店街が典型的だ。何十年と通っている。パン屋も豆腐屋も肉屋も、みなそろっていた。が、それがつぎつぎに店をたたんでしまって商店は数えるほどだ。散歩の折り、好んでここを通る。『方丈記』、冒頭が浮かんでくる。

 昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける


 斜陽都市をまさに表している。商店どんどん廃れていく。そうだジャムカステラがおいしかったパン屋のおじさん、豆腐屋のかみさんももう見かけない。
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2016年12月22日

下北沢X物語(3183)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く検

DSCN0071(一)戦後に撮られた鮮明な画像を手にしながら街を歩いた。その写真で過去と現在との比較ができた。「焼け残りし街」には方々から音が聞こえ、においも漂ってきた。もちろんそれは想像である。が、我々は不思議な体験をした。過去と現在との往来だ。関連づけるとすれば、萩原朔太郎『猫町』である。この内容は、一種のロードムービー、小旅行体験である。朔太郎は晩年になって当地に越してきた。が、詩人の先鋭な感性はささくれてもきていた。「私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスを無くした」と述べている。が、彼はこのころ独自の旅を編み出していた。「あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶ」という方法だ。まさにこれこそは彼が書いた『猫町』世界そのものだ。この作品は当地を舞台としたものと考えられる。Dr.Austin氏が撮った写真で確認できるが、家並みとか通りの風情には朔太郎時代の面影がいまだに残っている。「Dr.Austin」写真とからめた「シモキタザワ猫町」散歩も面白い。


 今日は12月22日である。1月21日に行われる「観光メッセ」では「まち歩きコースコンテスト」を募集している。我らの知人や知り合いも応募するとのこと、一つは「下北沢の教会巡り」である。また、今回、NPO法人車椅子社会を考える会の篠原博美さんも「北沢川文学の小道」を車椅子目線でたどれるコースということで申請を考えられていると聞いている。

 当方、は『シモキタザワ『猫町』散歩』でエントリーをした。すでに19日に提出し終えた。副題は、 

〜 萩原朔太郎の『猫町』を旅する〜

下北沢はシュール小説『猫町』の舞台なのだ!

 肝腎かなめは、
    
 「あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、

主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。」

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 眼前、目前にある風景を素材として夢、現の世界を遊ぶという旅である。小説『猫町』にいう、「余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ」て歩いて行く。すると、とある瞬間、「私のよく知ってる、近所のつまらない、有りふれた郊外の町」も忽然に変化する。「ぎょへえ!」。「それはまったく私の知らない何所かの美しい町」に変貌するのである。

 私達はこれまでこの猫町散歩を繰り返してきた。その結果、とある瞬間、ある錯覚が襲うということは既に実証済みだ。思うに路地時間と表通り時間とが異なる。ゆったりした路地時間から抜けたとき、往々にして不思議や異変が起こる。路地迷路があってこその話である。
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2016年12月21日

下北沢X物語(3182)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く掘

DSCN0067(一)Dr.Austin氏が撮った下北沢のカラー写真は見事に時代を捉えている。焼け残った古い街が新しい装い、化粧を凝らしている。茶色の木造家屋がカラフルな広告で飾られている。木製のくすんだ電柱とは好対照だ。カラー現像技術の高さが目に見えないものまで写している。写真に音やにおいはレコードされていない、が、しかしこれに撮られた街並から今にも音が聞こえてきそうである。店主の売り声、街行く人の足音、そして電車のタイホンなどだ。また八百屋の店先では野菜が、総菜屋では揚げ物のにおいがした。当時の音やにおいは残されてはいない。しかし、この戦後すぐに撮られた十六枚の写真からは匂いが立ち、音が聞こえてくる。街を記録したものとしては貴重だ。

 今回の街歩きの最後は、北沢三丁目の「東京セロファン工場」の跡地だった。ちょうどここの向かいに古老の三十尾生彦さんが住んでおられる。呼び鈴を押すと、ガラリと二階の窓から顔を覗かせて「その突き当たりの左が工場だった」、「そうその角が女の子のいるカフェだった」と。

 その三十尾さん、フェイスブックでこちらの街歩きはチェックしておられる。「当時の写真からは失われた多くの音が想像できた」と私は述べた。これに対して三十尾さんは刺激を受けたらしく「音のリストを作ってみようかと思った」とのコメントがあった。

 九十三歳になる三十尾さんは長く生きてきた分、多くを見聞きしている。
「今と違って町角にはたくさんの音が聞こえてきましてね、今思えば懐かしいですよ。みんな流しでしたね。行商人や芸人とかがそこの道を抜けていくのですね…」
 下北沢は鉄道の街ではあるが道の分岐点でもあった。この指摘は大事だ。南から北へ、北から南へ人々は抜けていった。二子道をそのまま北上していくものがいたり、また堀之内道へ通ずる本通りを北西に抜けていったりもした。行商だからみな歩きだ。

 多くの売り声が音楽のように町中に響いていた。
「よくね、地方までいくんですけどね、下北沢は音楽の町と言われているんですよ。この辺り芸人とかが通っていったんでしょうけどね、どこを通ったのですか。」
 これは歩く会に参加していたアコーデオンのヤギさんだ。この街の流しとしてよく知られている。

「やっぱりね、今の一番街を抜けていったんだね」と私。
「十月になると家の前を鉦太鼓がどんつくどんつくと通っていきましたよ」
 大月商店のおばちゃんの言葉を思い出した。旅芸人も通っていったろうと思う。

 やはり音のリストは大事だし、貴重だ。三十尾さんの応答を待っていると、それが送られてきた。そのタイトルには、「道行く人生」とある。下北沢を行き交った人々が発した音模様である。

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2016年12月19日

下北沢X物語(3181)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く供

DSCN0081(一)「戦ひの火に遇はざりしこの区画冬靄やさしき高きにみれば」と詠んだのは下北沢在住の歌人堀内通孝だ。「し」は、過去の助動詞、「き」の終止形だ、ここに深い詠嘆がこめられている。東京の他の街は焼き尽くされた。が、この街は焼け残ったんだなあ。一方、Dr.Austinはこの街に古い東京郊外の情緒を見出して絵を撮った。街角に漂っている時代の空気を見事なまでに写している。興味深いのは北口と南口では空気感が異なる。南口の方には新開地的な雰囲気が漂っている。
 
 十六枚の一枚は、現在の駅南口のところが撮られている。右手はパン屋である。二階前面に色ペンキの広告が描かれている。真っ白のコック服を着た男が左手に食パンを掲げている絵である。白に生えている褐色、黒人のようでもある。店の名は「国際ベーカリー」である。
 一階の店には白いのれんが掛かっていて、そこには上に「国際ベーカリー」と描いてあって、縦に、左から「和菓子」、「喫茶」、「パン、ケーキ」とある。よく見ると「皆様の茶寮」とも書いてある。

 その隣にはのれんがあって、看板が掲げられている。メニューとしては、「うどん 鍋焼きうどん 花家」とある。駅前ゆえに食べ物屋が商売になる。

 全体に文化の混在が面白い。駅前の喫茶店である。そこではパンも和菓子も供された。また隣の食堂ではうどんも食べられた。このように和洋が入り交じっているところにDr.Austin惹き付けられたのかもしれない。

 今、茶沢通りに抜ける道はふさがっていてバラックのような家が建っている。「衣類買い入れ専門店」とある。「絶対にご希望にそいます」のようなウリが書かれている。時代を端的に表す店である。戦争によって工場は軍用品の生産に追われた。人の着る衣服まで手に回らない。戦後は、この衣類がお金になった。箪笥の奥にしまってある着物などの衣類をリュックにつめこんで電車や汽車にのって田舎に行った。これで農産物を手に入れていた。この店の看板の上には洗濯物が干してある、生活がリアルに見える、男物のしたぎにおんなものの下着だ。主人と奥さんのものだろうか。

 現在のマクドナルドのあるところが八百屋だ。というよりも駅前によくあった果物屋である。「果実の丸万」とある。駅で降りて、ここで果物買い、訪れていく家へのおみやげとした。黄色い蜜柑が山積みになっている。

「しかし、驚きですね、こんなに街は変わってしまうのですか?」
 参加者の一人が言っていた。路地を通っていくのは若い女性、着ているものが華やかだ。

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2016年12月18日

下北沢X物語(3180)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く〜

DSCN0076
(一)戦後の下北沢の街角を撮ったカラー画像がある。当時の空気感までもが漂っている写真だ。これからは音やにおいまでもが漂ってくる。下駄の音、電車のタイホン、「やすいよ、やすいよ」という八百屋の親父さんの呼び声、ときとしてなぜかコケコッコーという鶏の鳴き声が聞こえてくる。何か不思議な旅だった。時空を超えて旅をしているようだった。時を経ての変化が足で実感できた旅だ。驚きの発見も幾つかあった。うち捨てられていた七十年ほど前の空気を嗅いでいく、新鮮な街歩きだった。

 昨日、我らの会の恒例の街歩きだ。第123回となる。「下北沢の終戦直後のカラー写真を歩く」がテーマだ。キュレーターは、きむらたかしさんだ。街を写した写真は十六枚ある。それらははっとするほどに鮮明だ。容易に分かった場所もあったが、どうしても分からないところがある。仲間が聞き込みをしてくれた。それらの情報収集を踏まえてその場所、場所でキュレーターからの説明があった。

 この写真を撮ったのは、Dr.Austin である。撮ったときから七十年近く経って、彼の写真を検証するツアーを行った。そんな企画がなされるなど夢にも思わなかったろう。が、彼は間違いなく終戦直後の下北沢の街の姿を記録していた。

 これら写真を見て一番感心したのは技術力である。たかしさんの説明では、撮ったフィルムは空輸してアメリカに送られて現像されたものだと。
「日本が戦争に負けるわけだ!」
 金子善高さんがそんなことを言っていた。終戦後において技術力は比べものにならないほどアメリカの方が高かった。

 昭和二十年五月二十四、二十五日の夜、敵爆撃機がこの一帯の空を覆っていた。巨大なジュラルミンは地表の火災を写して腹は赤かった。それがつぎつぎに湧くように飛んでくる。圧倒的な技術力の差だ。B29に積まれているノルデン爆撃照準器の正確さだけでなく現像技術もはるかに日本を凌ぐものだった。

 11月1日、東京上空に敵機がやってきました。日本軍は地上から高射砲で応戦したのですが、そのとき不発だった砲弾の破片で負傷者が出ました。聖路加国際病院にその患者さん4名が入院しました。
『戦争といのちと-聖路加国際病院ものがたり』 日野原重明著 小学館 2015年刊


 高高度一万メートル上空にB29が東京上空に姿を現した。首都防衛に就いている高射砲隊はたまらず砲を放った。が、全く届かない。皮肉だ、撃った弾の破片が地上にいる仲間を傷つけた。

 最初にお目見えしたB29は写真偵察のためだ。彼らは空撮した映像にもとづき、空襲の計画を立てた。いまも驚くほど鮮明な写真が残っている。

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2016年12月16日

下北沢X物語(3179)〜洗足池空襲とB29供

DSCN0062(一)水面と木々の緑が眺められる場というのは安らぎを与える。東京西郊の洗足池は早くから別荘地として開発されたようだ。明治四十年に発表されたのは江見水蔭『蛇窪の踏切』だ。露代という女性がここを訪ねてくる。「あの娘は、洗足大池の、新しい別荘へ来た客人だ。何でも別荘の奥さんの妹とか云ふ事だァ」とある。そういう別荘群が昭和二十年五月二十五日の山手大空襲によって燃え上がった。

 セピアと、白の諧調の瀟洒な洋館の小林病院長のお宅も焼けた。正宗先生の裏の洋館の家も焼け、日本風の有田さんも焼けた。さくら山の真向かいの、あの辺りで一番大きい洋館も、黒猫の別荘と言われていた家も焼けたとのことであった。
  『斜陽日記』 太田静子 小学館文庫 一九九八年刊

 洗足大池のまわりには別荘群があった。しゃれた洋館が多かった。ここで食事に供されるのは味噌汁ではない、やはりスープが似合う。太宰治はこの「斜陽日記」のイメージを巧みに下敷きにしている。つとにしられた『斜陽』の冒頭だ。

  朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 と幽かすかな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。


 洗足池の別荘的生活の一端でもある。太宰の「斜陽」は没落していく人々を描いた太宰治の代表作と言われる。その書き出しだ。この場合は東京ではない、戦後東京での生活に見切りをつけ伊豆の別荘で暮らす。その一端である。この小説の全体の雰囲気は、「斜陽日記」そのままである。太宰治の感性と太田静子のそれとがうまくフィットしている。

 「斜陽日記」には、こんな場面が出てくる。とある日の夕方、正宗白鳥の奥さんが言ったという。

「いまにわたしたち、みんな、木の根や草の根を、食べなくてはならなくなるんですって。」
「先生がそうおっしゃいましたの?」
「ええ。このまま戦争を続けて行ったら、来年のいまごhら、私たちは、本当に、木の根が草の根をたべて、けもののように、この辺の草はらをうろついているでしょうって。」

 
 この話を聞いて、太田静子はこう思ったという。

 私は、ふと、早く、けものになって生きてみたいと思った。はだしになって、草の香りを嗅ぎながら、けものになって、生きる。静子は、けものになって生きられると思った。

 
 本然と湧いてきた気持ちだ。けだものけものになって生きてみたい。放埓さ、何かほとばしる感情を持った女性のように思った。

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2016年12月15日

下北沢X物語(3178)〜洗足池空襲とB29墜落〜

しりとりしりとりすっとことん(一)荏原都市物語は禁断の果実だ、つい口をつけてしまったがゆえに止められない。つい先ほども事実を確かめたくなって近隣の図書館まで走った。洗足池にまつわる話だ。帰り道々思ったことは、人間は美しい風景と愛欲は見たがるものだと。池は近隣では有数の風景だ。これに愛欲がついてくると知りたくなるものだ。『斜陽日記』を借りてきた。

 洗足池は愛着の深い場所だ。かつては自転車だった、が、今は歩きでここはよく行く。歴史を振り返る、まず賞金の話だ。最初にここに来たとき「えらく谷の深いところだ!」と思った。今にして思うとここも馬込九十九谷の続きだったと思う。急坂をどんと下るとまた急坂、そしてもっと深い谷に突っ込む。そこに池があった、洗足小池だった。1993年5月のこと、今から23年も前のことだ。上池台にあった学研本社に童話原稿を届けにいったことがある。「読み特賞」を受賞し賞金15万円をもらった。

 つぎは愛着のある人の話だ。自分が世話になった小父の西島千里が洗足池駅の直ぐ脇に住んでいた。満州帰りの彼は大地に沈む太陽の荘厳さを何度も語った。その小父も近くのの荏原病院で亡くなった。朝、洗足池駅へ歩いていくとき物干しに乳房を丸出しにした女の人が洗濯物を干していた。

 三つめ長原のオリンピックの新春売り出して羽毛布団を手に入れた。これを持って帰るときに洗足池わきの坂ですっころんでけがをしたことがある。

 この洗足池近辺は慣れ親しんだところだ。池の周りは緑が多い。ここが空襲を受けたことは思いもよらなかった。これはつい数日前に知ったことだ。池の近くの緑豊かな丘の上にあった正宗白鳥邸も焼け落ちてしまったという。

 ネットで調べると逸話は多くあった。淡谷のり子邸もこの近くにあってやはり焼けて、「愛する衣装、ピアノ、車、そして藤田嗣治、東郷青児、竹久夢路などに描いてもらった肖像画の数々、そのすべてが灰となった」とあった。

 荏原都市者物語は一つ引っかかるとつぎつぎに話がつながっていく。洗足池がらみでは都市物語の魚がつぎつぎに引っかかってくる。
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2016年12月13日

下北沢X物語(3177)〜洗足池妄想幻想行供

DSCN0065(一)荏原都市物語は禁断の果実であった。一旦囓ってしまうと味のとりこなってつぎつぎにこれに手を出してしまう。言ってみれば東京西郊の荏原は明治維新以来、百億万もの物語を埋めてきた場である。それは宇宙ほどの広さと深さを持つ。ここには物語鉱脈が果てもなく埋まっている。今探訪している洗足池も一つの小宇宙だ。「洗足池界隈文士往来年譜」を見ると我ら文士町に関係した人の名が散見される。例えば正宗白鳥の名があった。

 私は浦和から東北沢へ通った。途中の渋谷駅前は焼けていた。だが、東北沢の池沢さんの近所は焼け残っていて、下北沢の商店街も健在だった。住宅街に「名月」という宿があった。普通の住居を連れ込み風の宿に改造した年配夫婦の経営であった。〜中略〜正宗白鳥先生が軽井沢から上京され、この宿に泊まって「不徹底なる生涯」を口述されたのもその年であった。 私版『東京図絵』 水上勉 朝日文庫 1999年刊

 水上勉の修業時代の話だ。戦後東北沢に創設された文潮社に拾われて仕事をしていたという。下北沢にあった改造連れ込み旅館「名月」で正宗白鳥の口述筆記を行ったと。

 季刊「わが町あれこれ」第14号の「洗足池界隈文士往来年譜」にこの正宗白鳥の名があった。

一九三二(昭和七)年
 正宗白鳥(劇作・評論・小説家 55歳)洗足池畔の南千束町二三七に家を買い大磯から転居。


 この正宗白鳥、戦争中はここから軽井沢に疎開していたようだ。そのときに下北沢「名月」へやってきた。が、住まいは洗足池そばにあった。

 洗足池から北に一丁ばかり離れた二三七番地に……小説に評論に(戯曲もかなり書いて居る)六○年になんなんとする歳月を生き抜いてきた老大家正宗白鳥が住んでいた。この文学ひとすじにつらぬいてきた偉大な作家の未だみぬ面貌をしのびつつ、その門前をむなしく徘徊したのは、ひとり若き日の猪野謙二ばかりではなかったろう。洗足池近くにすんでいたあれこれの無頼な文学青年なら、おそらく、あこがれに似たむなしいこころをいだいて、いくたびか徘徊したに違いない。 「正宗白鳥の死」 染谷 孝哉


 そうだったのか、私は、洗足池池畔に住む正宗白鳥のことは全く知らずに、ここ十数年徘徊していた。

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2016年12月12日

下北沢X物語(3176)〜洗足池妄想幻想行〜

DSCN0063(一)家の前は呑川遊歩道だ、足が左に向かうと下流の大田区、右だと上流世田谷区だ。その日の気分によるがこのところ南を選択することが多い。遊歩道沿いにいくと目黒線、ここを越えると開渠になって川が姿を現す。すぐに大田区に入る。石川台まで下ると鉄橋が見えてくる。この右手に十六階建てのマンションが聳えている。いつも必ず見上げる。詩人石垣りんが住んでいた。「私が住んでいるアパートの三階と平行の高さで、少しはなれた土手の上を、私鉄の電車が横一文字に走っている。」(『焔に手をかざして』)その電車は池上線だ、三両編成がのんびりとコトコトと走っている。石垣りんという詩人と池上線の三両編成は絵としても詩としてもフィットしている。この頃思うのは大田区が老熟した文化都市であることだ。

 のんびり感漂う、大田区、その象徴が池上線である。東急線ではある、本線は東横線である。こちらの線には各駅ごとに東急ストアがある。が、池上線にはない、東から順にスーパーの名を言うと長原駅は、オリンピック、洗足池駅は、トップ、石川台駅はピーコック、雪が谷大塚は、オオゼキである。スーパーの出店風景にローカル感が滲み出ていて興味深い。

 石川台駅には希望ヶ丘商店街がある。キャッチは、「未来をみつめてウィルビーロード」である。今は歩きでいくが、自転車時代からよく通る街だ。
「なんかここもすっかり寂れてしまいましたね」
 数ヶ月前だ、会員の川口信さんに出会った。彼の家は近い、洗足池でもよく彼にあった。この頃は姿を見かけない、どうしたろうか?

 昨日は、洗足池まで行った。私が歩く範囲でもっとも風光明媚なところは洗足池である。東横線学芸大学そばの碑文谷弁天池もよく通る。この間、ここに切り刻んだ死体を池に捨てた若い男がいた。池の亀が肉片を食っていたと。捨てられたみどり亀がうようよいる。亀の天国は、どぶ臭く、かつ閉塞感がある。ボートに乗るなら、何といっても洗足池だ。

 地理的には南から順に大田区、目黒区、世田谷区となる。開けたのは南部が先だ。文学の舞台としてもここは明治期の作品に出てくる。一番驚いたのは、明治四十年六月に発表された江見水蔭の『蛇窪の踏切』である。何とこの書き出しは「洗足小池」から始まる。

 主人公は露代、姉が洗足池に別荘を持っていて、そこを訪ね、助力を乞うがけんもほろろ、この露代、結核を患っていた、大池、小池からは品川道の稲毛道があって道なりにいけば東海道線にぶつかる。ここの踏切で自死するという話だ。
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2016年12月10日

下北沢X物語(3175)〜廣部谿香園の謎供

DSCN0001(一)荏原は都鄙境にある、都市辺境の物語が幾万、億万も埋まっている。常日頃、ここを逍遙して歩いている。朽ち果てた邸宅があったり、思いがけずかつてのままの武蔵野が残っていたりする。街区街区に物語が刻まれているが人は忘れる。主人が若い妻を猟銃殺害した事件があった、田園調布。長尾よねが近衛文麿首相に青酸カリを渡したところ、深沢。終戦の詔を清書した若林の邸宅。元連合艦隊司令長官の旧居、下馬。至るところに物語りが編まれた場がある、しかし、それらは朽ち果てていくだけだ。それが都会だ。


 廣部谿香園の場所は、見当がついた。が、これは何だったのか分からない。大事なことは現場である。そこがどうなっているのか観察すると見えないものが見えてくる。この場所を知ったとき直感的に淀橋台物語の一環だと推理した。

 目黒川左岸崖線の物語だ。ここは淀橋台から派生した台地が高度を保ちながら南部御殿山方向へと流れている。この尾根筋の高みを活用して三田用水が流れている。目黒川左岸の崖線は険しい。この坂を上る道は何れも険しい、昔から難儀した坂がある。

 地形は険しく坂など上るには難儀する、が、この高みこそは得がたい眺望である。丘上には豪壮な邸宅がある。眺望絶佳、遙か向こうには神々しい富士の姿も眺められる。ここの丘上は高級マンションや邸宅が建ち並んでいる。

 昨日、目黒の自宅から現場まで歩いた。まずは駒沢通りを通って目黒台を抜けていく。この大地はフラットだ。が、目黒川を渡ると左岸崖線は急峻だ。北から派生してきた淀橋台が崖を作っている。急斜面はだいぶ開発されたがおおくそこには緑が残っている。廣部谿香園の名前は、この地形にこそヒントがある。

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2016年12月09日

下北沢X物語(3174)〜廣部谿香園の謎?〜

DSCN0002(一)これまでにない大きなうねりが我々を襲っている。既存の価値観、あるいは体制がこれによって揺らいでいる。ネットが既存の垣根を壊したことも大きい。誰もがネットを通して容易に情報を得られるようになった。自分のデスクの向こうにいる人と瞬時に繋がって新しい発見に結び付く。自身、十二年に亘るブログ発信で多くの情報を得てきた。隠れていた情報を幾つも掘り起こしてきた。近代戦争史の一ページが開かれもした。

 当方のブログ名は、「東京荏原都市物語資料館」である。自身はちょうど旧荏原郡の真ん中に住んでいる。南へ行けば大田区、品川区、一昨日はこの方面だった。昨日は北の世田谷区だ、そして今日は自区、目黒区の東に行った。足で地形を確認するためである。

 発端はメールで寄せられた情報からだ。新井真理子さんという方からだ。

 初めまして。
神奈川県在住の新井と申します。
祖父の備忘録的な手記が父の遺品にありました。
昭和六年頃の箇所に、中目黒二丁目392番地の廣部谿香園という名称が出てきます。
廣部銀行関係者が所有した施設か何か、かと思いますが、何かご存知でしょうか?
もし、お心当たりがございます場合、ご一報頂けますと幸いです。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます


これに関しての情報は何も持ち合わせていない。が、住所からすると目黒川の左岸である。いわゆる淀橋台の尾根筋が南に延びているがその中腹辺りらしい。尾根上には三田用水が流れていた。この辺り詳しいのは、きむらたかしさんである。それでこのメールを彼に転送した。いわば丸投げである。

するとたちまちに応答が返ってくる。一つは、当該番地の古地図である。そして解説も。

 たまたま手許にある3000分の1の範囲なのですが、中目黒駅の南、三田用水の崖下のごく普通の住宅地、やや庭の広い建物があるようですが、それ以上の情報の記載はありません。なお、広部銀行は昭和4年廃業のようです。


この頃思うのは、「きむらたかし力」である、私自身は主観主義、が、彼は徹底した実証主義である。得がたい人である。

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2016年12月07日

下北沢X物語(3173)〜歌おう、踊ろう「ダイダラボッチ音頭」掘

15355671_1170786726368109_3841677074640152072_n(一)ダイダラボッチは不思議だ、まずその奇妙な音韻だ、他の日本語に類例をみない。これをつなげただけで不思議な調子がかもされる。今回初めてのダイダラボッチ音頭の披露であった、気づいたことはこれを踊ると朗らかになり、元気になるということだ。踊っている写真を見ると皆笑顔で笑っている。普通の音頭ではこうはいかない。なぜだろうか、とくには互いの仕草を見て笑っている。歌詞にでてくる「筑波嶺にダイダラボッチのふんどしがひらひらしている」ではこれが想起されるのだろうか、やや黄ばんだそれにダイダラボッチボッチの人間性を感じてつい微笑んでしまうのかもしれない。
15253385_1172876606159121_5383639750674427963_n

ダイダラボッチには人をおかしみに誘う魅力がある。彼は孤高的でやさしいとされる。民話では、「男体山と浅間山の頂に、棹をかけて、大きなもめんの着物で北風をふせいでいる」(『改訂版世田谷の民話』とされる。その作業は単独だ。ダイダラボッチは寂しい。
15326468_1172876502825798_3518640200070548000_n
 「ダイダラボッチの春」という歌曲がある。合唱コンクールでも歌われる。

だいだらぼっち だらぼっち だいだらぼっち だらぼっち
一人ぼっちで どこにいる
出てこ〜い 出てこ〜い 出てこ〜い
出てこ〜い 出てこ〜い 出てこ〜い

 この歌、ダイダラボッチの音から入っていく、作詞者は心得ている、これを繰り返すと不思議な力が湧いてくることを。奇妙な音空間が創られ、人を引込んでいく。ダイダラボッチの音韻の魅力である。ここにこそ祖先がこの語を創作した秘密がある。
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 そしてまたダイダラボッチは独り者である。かわいそうでなんとかしてやりたい。ところが、彼は恥ずかしがり屋。人が叫んでもでてこない。歌物語はそうである。が、世田谷代田、ダイダラボッチ伝説は複数説である。

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2016年12月06日

下北沢X物語(3172)〜歌おう、踊ろう「ダイダラボッチ音頭」供

DSCN0059(一)創設12年は何だったのか?一言で言えば「軌縁」である。自身が進み行く道を軌道敷が塞いだことが文士町を探訪するきっかけとなった。茶沢通り、東北沢4号踏切である。自転車通勤途中にここで何度も足止めを喰らった。待っていてはもったいない、近隣をぐるぐる回った。沢があり、谷があり、路地があり、そして数多くの踏切があった。踏切には霊魂が、路地の奥には朔太郎の影が想像された。おもしろい!

 軌道というのは線路のことだ。これが交差してあることでドラマが生まれた。言えば、「さようなら」の方向が四つある。四方向から来られる、逃げられる、その便利さは命だった。いつも思い出すのは田中英光のことだ。下北沢駅北口の屋台で水上勉と焼酎を飲んでいた。ところが、「四十がらみの親父さんと英光さんに意見の食い違いが生じた」(『私版 東京図絵』水上勉)、この内容は分からない。「酒が薄いのではないか?」、「いやそんなことはない」と親父、そんなことに原因があったのではないか。田中英光は水上勉に目配せした。駅の方に気を配る、電車の音に注意を向ける、「ぱひゅん!」とタイフォンが聞こえてきた。上り電車の接近だ。やがて世田谷代田方向から下ってきたヘッドライトが見えてきた。
「よし!」
 元オリンピック選手急に「カウンターの板を両手で持ち上げると、車ごと屋台が傾いた。
六尺男の大力だった」(同上)一升瓶がガリ、バリと割れる音、そのとたん二人は駈けた。そして木造跨線橋を一気に駆け上り、そして改札を抜けてホームに出た。そこへやってきた上り新宿行に乗り込んだ。笛が鳴ってドアが閉まり、電車は動きだす。これも軌道物語である。何れにも容易に逃げやすい。

 この駅前辺りでは、軌縁物語が幾つも転がっている。「マコト」もその一つだ。この店の名を教えてくださったのは松林宗恵監督である。「ここにあった」とその場所まで教えてもらっていた。が、その証言だけで裏が取れなかった。が、「マコト」は「誠」だった。本当にあったのだ。そして今回また、偶然、会に参加されていた古老三十尾生彦さんからまたこのマコトの逸話がこぼれ出てきた。

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2016年12月04日

下北沢X物語(3171)〜歌おう、踊ろう「ダイダラボッチ音頭」〜

DSCN0052(一)場の固有性こそは文化である。清水博子は「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわとしめつけてくる」(『街の座標』)と土地の霊力を見事に捉えている。ひしゃげた座標軸の片方は地下化した。しかし、当地には吉増剛増いうように次元の穴が至るところにぽかすか空いている。Xは不可視化したがこっそりと心象シンボルとなっていまだにひしゃげた座標軸は街に埋まっている。これを鎮めるためには土地に潜むものをあがめて踊りを踊る、すれば地は鎮められ、人も心の安定を得て気持ちよくなる。その踊りこそは、『ダイダラボッチ音頭』である。昨夕、我々は「ひしゃげた座標軸」のすぐそば北沢タウンホールで、初めてこの踊りを踊った、すると何と不思議体のあくが抜けていくような爽快感を覚えた。
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 気づいてみたら我らの会、「北沢川文化遺産保存の会」はこの十二月で十二周年を迎えていた。昨日、忘年会を開催して節目を楽しんだ。
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 この十二年間は何だったのか、会が始まる冒頭で私は話をした。「情報の集積」ではなかったか?と指摘した。我らの会は、北沢・代沢・代田に潜む文化を掘り起こして記録している。これを活動の原点にしてきた。この十数年間、一帯に眠っている臭いや音や色、五官に訴えるものも含めてこれらを渉猟してきた。
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 「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」という音もそうだ。
 深夜小田急の砂利運び貨物列車が世田谷代田からの25パーミルの坂を下ってくる。すると貨物が重みで軋んでこんな音を立てる。沿線の家々は揺れた。このときに音が聞こえてきた。
「私はね、びっくりしましたよ。まさにあの音ですよ、それが書かれているのを見てびっくりしましたよ」
 黄金井達夫さんが言っていた。『下北沢X惜別物語』に私はそう書いていた。
 音もあれば臭いもある、そう小田急下北沢三号踏切あたりにも往事強烈な臭いがただよっていた。
「そうだ、あそこの近くにメンマ工場があったよ」
 臭いや音の記憶は人々を過去へ誘う。
「そうそこの築堤の土手上でのことだった後ろから電車が追突してきて、ものすごい音がした。けが人が一杯出てそこらじゅう転がされていた。おれはあれ以来シャケが食えなくなった」
 土地固有の物語だ。が、その築堤も踏切ももうなくなった。
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2016年12月03日

下北沢X物語(3170)〜「ミドリ楽団物語」を読んで:大槻 統〜

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 一体あの戦争とは何だったのだろうか? 昭和20年8月のあの日を境に、価値観は全く変わり、生まれながらに一方的な教育をされてきた10歳の子供には大きな衝撃でした。
未だにその違和感は81歳になる自分のどこかに残っているような気がします。
小生にとって昭和20年は生涯忘れられない一年であり、戦後50年の1995年に「僕の昭和20年」というメモを作っています。(ご参考までに添付します)

 小生は読書をする時 何時も“著者あとがき“を最初に拝見します。それは著者がどのような思いで執筆をされたかを感じ、その気持ちを共有しながら読書をしたい思いからです。今回も同じでした。

思いつくままに小生の感想を以下述べさせていただきます。

(1) 全体
“あとがき(おわりに)“ にも述べられているように、乏しい資料や証言などを物語として構成されたのは大変素晴らしかったと思いました。特に殆どが子供達の生き生きとした会話から成り立っているのが臨場感を一層際立てたものと思います。
 ドキュメンタリーやノン・フィクション風の構成は時には退屈な事実列挙に終わってしまうケースもありますね。

(2) 小生の知らない浅間温泉時代
 昭和19年8月から昭和20年3月末までの浅間温泉における学童疎開を経験していない小生は、その期間の疎開学童達や真冬の浅間の様子等々を非常に興味深く拝見しました。
 小生の1歳上の姉(故人)はこの時期も経験しており、日記も欠かさず書いているのでもう一度読直してみようと思っております。

(3) 代澤小学校のこと
 小生は昭和20年3月24日に浅間温泉に疎開しましたが、代澤小学校が僅か2週間後くらいの4月10日に再疎開のため浅間を離れていったことを改めて思いました。他の小学校のことはあまり憶えておりませんが、短期間ながら何故か代澤小学校のことは印象に残っております。

小生の思い違いかもしれませんが、起床、食事・・等のたびに太鼓を鳴らして合図をしていたと記憶しております。起床からラッパで始まる記述がございましたが小生は記憶がなく、或は太鼓は別の小学校だったのかもしれませんね。

ただ、今回の「物語」に“代澤浅間学園の歌”の楽譜、歌詞が掲載されており、或る事を懐かしく思い出しました。 この歌を耳にしたことはよく憶えておりますが校歌かと思っていました。
 ある日 悪い上級生が「この歌の最後をよく聴いてみろ」、そして「代〜澤の〜まくえん(脳膜炎)と云っているぞ」と云いました。勿論「浅〜間の〜学園」です。

(4) 音楽
「ミドリ楽団物語」は音楽がテーマです。熱心な浜館先生、そして子供達が音楽を作り上げてゆく物語で小生は特に興味がありました。素晴らしい事実の「物語」です。あの時代に信念を貫いた浜館菊雄先生とはすごい指導者だと再認識しました。

ただ「ミドリ楽団」のこと、その活躍は残念ながら存じ上げず木村様のサイトで何年か前に初めて知りました。

小生は音楽好きの父の教育(強制?)で軍国少年の戦時中(昭和17〜19年)嫌々ながらバイオリンを習いに姉と一緒に行かされていました。楽器を持って歩くのも恥ずかしいような時代でしたので、電信柱2本の間 楽器を持って歩いたら姉と交代するということもやりました。やがて東京も空襲が近づき、これ幸いとバイオリンレッスンは中断しました。

  昔の音楽家ですのでご存知ないと思いますが、後の有名なバイオリニストの鈴木秀太郎さんが2級下におりました。学芸会で一緒にバイオリンを弾いたこともありました。彼とは学童疎開も一緒でしたが、流石に彼は疎開先にも子供用のバイオリンを持参してきていました。

 昭和20年6月に小生達は長野県下伊那郡喬木村阿島にある安養寺に再疎開しましたが、学年別に3箇所ぐらいに分散し、行き来をするにはかなり距離もあり子供の足で一日掛かりでした。食事も住まいも悪くなり浅間時代とは全く異なりました。そして安養寺で終戦を迎え、代澤小学校と同じように11月に焼け野原の東京に帰ってきました。

終戦までは「勝利の日まで」「ラバウル海軍航空隊」等々の軍歌を連日歌っていましたが、戦争が終わると安養寺での状況が変わり始めました。小生の担任だったN先生は音楽の先生でした。貧しい夕食の後はN先生が持っておられた手回しの蓄音機とレコードで軍歌でない外国の民謡を聴たり、「旅愁」「埴生の宿」など初めて知る曲を皆で合唱するような変化が出てきました。ミドリ楽団が戦後に演奏するような米国民謡なども、その頃に知りました。

色々な思いもありましたが、やがて小生は高校生になるとバイオリンを再び始め、学生時代からは下手なチェロに転向し、今でも補聴器を入れながら月3回のチェロレッスンは続けております。そろそろ限界ではありますが。

(5) 戦後のこと
アーニーパイル劇場、ワシントン・ハイツ、アメリカン・スク−ル・・・どれも記憶にある懐かしい名前ですが、「ミドリ楽団」の戦後の活躍は本著で初めて知りました。
楽器を習ったごく一部の学童達ではありましたが、やはり戦後の歴史に残る偉業であったと思います。御著ではミドリ楽団の活動を昭和23年頃まで語られていますが、その後も活動が昭和30年代にまで続いたことには驚きました。

ミドリ楽団の児童達がアメリカ人、アメリカ文化に初めて接した驚きなどもよく描かれていますね。小生も同じ驚きを体験した一人です。戦後2〜3年ほどしてワシントン・ハイツに住んでいたルイスさんというアメリカ婦人に英語を習いに行っていたことがありました。ワシントン・ハイツの守衛所(原宿)を抜けるとそこは別世界、広々とした緑の芝生、白い家々、子供達が太いタイヤの自転車で走り回っている、そしてルイスさんの家のドアーを開けると美味しそうな食べ物の香りがする・・・・やはり驚きの別世界でした。コカコーラもここで初めて味わいました。

チョコレートやチュウインガムの包み紙を大事にとっておき時々その香りを楽しむことも
よくやりました。アメリカのマッチ棒の太さ、黄燐マッチにも驚きました。

 このような物の豊かさを見るにつけ、子供ながらに日本が戦争に負けたことを自ら言いきかせるような気持ちになったことも事実でした。

(6)最後に御著を拝読しながら、ちょっと気になった字句などを2〜3記しておきます。
ただ、ノンフィクションでもありませんし、又子供同士の会話の中などもありますので無視していただいて結構です。ご参考まで。

176頁:「The Daizawa School Chirdoren’s Band」
     146頁の写真、191頁にある Children’s ですね。

196頁:「Radio TOKYO」
     Radio TOKYO という進駐軍放送があったのか憶えていませんが、憶えているのは277頁にありますAFRSや後の名称FEN(Far East Network)です。 

259頁:「星条旗よ永遠なれ」アメリカ国歌
     「星条旗よ永遠なれ」はスーザが作曲した行進曲で、アメリカ国歌ではありません。
     アメリカ国歌は「Oh, say can you see・・・」で始まる「星条旗」です。

     小生は仕事のため米国で8年余生活しましたが、プロ野球の試合開始前など
     大勢の人が集まる場所では 必ず「国歌」が演奏されるか、歌われていました。
息子はアメリカの公立小学校を卒業しましたが、毎朝学校では 米国国旗に
忠誠を誓う言葉から 授業が始まっていたのを思い出しました。

                                                    以上
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2016年12月01日

下北沢X物語(3169)〜創立12周年&大月文子おばあちゃん供  

P1000495(一)「おばあちゃんがいたお陰で近代戦争史の隠れた話を見つけることができたんだよ」そう言っても理解してもらえないかもしれない。おばあちゃんの人脈ルートで多くの人を知った。まずは今井兼介さんである。父親は著名な建築家今井兼次氏である。謙介さんは父親譲りなのか文化を熱く語る人だ。その今井さんお隣の篠山さんの家は俳人の中村草田男に家を貸していて家賃控え帳が残っている。それには大勢の有名人の自筆サインがあると。それをぜひ見たいということでお宅にお邪魔した。その時に「うちの妹は浅間温泉富貴の湯に疎開していて特攻隊と一緒になった」との話だった。

 最初から特攻隊の話を調べていたわけではない、偶然このことを知ったのだ。浅間温泉には世田谷から七校、二千五百名ほどの学童がここに疎開していた。昭和二十年二月ごろから急にここに航空機乗組員が増えてきた。沖縄戦を控えて当地飛行場に数多くの特攻機が飛来してきていた。富貴の湯に滞在していた兵も特攻要員である。ここに疎開していたのは東大原国民学校の学童である。当時のことが聞きたいと、この旅館にいた人をずっと探していた。ところが、篠山さんのお宅に伺って容易にその情報が得られた。
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 篠山さんの紹介で下馬の妹さん、太田幸子さんのところに伺った。すると一枚の写真を見せられた。それは特攻兵と疎開学童とが一緒になって写っている写真だった。

 この写真は今では歴史的な写真となった。博物館のパンフレットになったり、テレビで紹介されたりもした。世田谷の疎開学童と特攻隊との交流を表す象徴的写真となった。

 実はこの写真、どういうものなのかは分からなかった。が、先月、松本まで行って関係者に会って取材した。飛行帽をかぶって女の子を抱いているのは飯沼芳雄伍長だということが分かった。彼の妹さんが教えてくれたのだ。これで分かったことは東大原小の学童と一緒に写っているのはどうやら武揚隊隊員だということが…。

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2016年11月30日

下北沢X物語(3168)〜創立12周年&大月文子おばあちゃん〜

P1000489(一) 「今度の忘年会の弁当の名前は何にします?」と米澤さん、「何にしよう?」、夏冬の懇親会の弁当には名前をつけていた。先回納涼会のは、名前の在庫がなく「ミドリ楽団物語弁当」にした。さて今回は?と思ったとき「そうだ、創立が2004年12月だった」、「よし決まりだ、『創立12周年記念弁当』にしよう」、月日の経つのは恐ろしく早い、我らの会を打ち立ててからもう12年になった。驚きだ。

 十二年は長いようで短い。鉄道交点一帯の文化、歴史探査を続けてきた。途中出会った印象深い人は何人もいる。しかし大きな存在としては大月文子さんがいる。下北沢一番街大月菓子店のおばちゃんだった。残念ながら店は閉めてしまった。掲出した写真の年号は2009年3月となっている。

 長年一番街で菓子店をやってきた大月さんは顔が広い。おばちゃんを通して多くの人を紹介してもらった。特に大事な点は、我らの本部は下北沢南部の「邪宗門」だ。南部情報は眠っていても入ってくる。
「中村汀女の北沢の家は、ご自分が貸しておられたところですからそこがその家ですよ」
 お客さんとしてやってきた人が長い間分からなかったその家を教えてくれた。
 中村汀女は仙台から世田谷北沢の家に越してくる。「世田谷」と部立てされたその冒頭が、「十月末北沢の家に入る」とあって、四句が詠まれている。その一句だ。

時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ
   中村汀女俳句集成 東京新聞出版局

 現代人にこの感動は分からない。当時は水道はない、家にある井戸ポンプが頼りだった。炊事、洗濯これが欠かせない。主婦である彼女は水の出が心配だった。ところがそこの井戸水は豊富だったごっきんごっきんと取っ手を上下すると清冽な水が樋からほとばしった。笑みがこぼれてくる。

 何時も思うのは俳人なり、詩人がどこに住んでいたかということだ。北沢の家の跡を知って出かけた。鎌倉通りを挟んだ丘上だ、なるほど代田吹上方向から水が流れてくるわけだ、私はそう思った。関豆腐店は井戸水で豆腐を作っていた、巧かったらしい、豆腐と俳句はどこかで繋がる。土地や地形のおもしろさはここにあり!
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2016年11月28日

下北沢X物語(3167)〜戦時小田急入線幻のC58?〜

DSCN0042(一)「夏草に汽罐車の車輪来て止る」、少年の心のときめきを描いて見事だ。蒸気機関車は懐かしい、これが近代電車線を走ってきたら心躍るだろう。世田谷代田に住む人がこれが近くの小田急線に乗り入れてくると聞いて勇んで出かけたという、戦争時代に東海道線が爆撃でやられたらその補完線として小田急を使う、それで試験的に蒸気機関車が入ってくる、そういう噂があった。さてこれが本当かどうか?


 勤労感謝の日に「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」が主催する「古老に聞く」が催された。テーマは玉電と小田急だ。話者は豪徳寺生まれ、豪徳寺育ちの千葉宏さんだ。講演会の最後に自由討議の時間があった。このときに三つの質問をした。

 1、貨物列車による進駐米軍の入京?
 2、戦時中の女性による電車運転?
 3、C58機関車の小田急入線?


 1と2は、既に記述済みだ。1については『下北沢X惜別物語』を参照されたい。(世田谷区立図書館十七冊収蔵)2についても3165回で触れた。残るは3である。

「東北沢の方を見ると坂の上から黒い煙を吐いて蒸気機関車が下ってきました」
 茶沢通り踏切のところでこれを目撃した人から聞いた。が、これは小田急線開通前のことである。架線がない時は小型の蒸汽機関車で荷物を運んでいた。
 この話、飯田勝さんから聞いたものだ。念のためと思って検索で調べたら「2013年11月22日」に他界されていた。息子さんの飯田淳さんが「飯田 勝 遺作展 『まなざし』」を「GALLERY HANA SHIMOKITAZAWA」開いていた。飯田さんの踏切のイラストが掲出されている、まさにその東北沢四号踏切だ。
「踏切の番小屋はどちら側にありました?」
「海側、スズナリ側ですね」
 飯田さんから教わった。番小屋を描いた絵が掲出されている、「1987年 下北沢茶沢通り」とある。

 そういえば思い出した。自由討議の時間、参加者の一人が
「経堂駅の構内の外れには、確かね、昭和二十五六年頃まで転車台がありましたよ」と。
 あるいは、国鉄から入線してきた機関車はここで方向転換をしたのだろうか?
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2016年11月27日

下北沢X物語(3166)〜会報第125号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第125号      
          2016年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
     東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、随想的文士町・文士村比較論

 先月の街歩きは百二十二回目で馬込文士村を、その前の百二十一回では田端文士村を歩いた。文士や芸術家が多く集まった地域を文士村と呼ぶ。下北沢も作家や芸術家の参集地点である。が、村としないで町としている。それはなぜだろうか?他と比較すると見えてくるものがある。文士村比較論である。

・地形
 共通する点がある、それは地形である。武蔵野台地の末端に位置していて谷や沢が深いことである。が、田端や馬込の場合に比べると下北沢の谷や丘は緩やかである。それでも地形というのは芸術文化に関連が深い。やはり景観が創作意欲を刺激するのではないかと思われる。この点、大森を最寄り駅とする馬込は景色の彫が深い。とば口の八景坂からはかつては海が見えていた。一帯は別荘地としても有名だった。

 萩原朔太郎は、「坂」と題してこう述べている。馬込の坂であろう。

 坂のある風景は、不思議に浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。

詩人は晩年に世田谷代田に住むがやはり谷のあるところだ。が、馬込の坂はアプローチが長い、歩いている間に考えが浮かんでくることはあったろう。代田の場合は少し下ればおしまいだ。それでも彼にとっては土地の起伏というのは郷愁としてあったろうと思う。丘上に聳え建つ代田の丘の61号鉄塔と自身が設計した鋭角的な屋根には繋がりがあったと、自分では推理している。

 いずれにしても三つに共通する点は地形の起伏だ。絵に描く場合、また、思念を深める場合、これは合いふさわしいものだったのではないか?

・間合い
 下北沢野屋敷に住む石井さんはよく言っていた。
「うちの親父がここに住むことに決めたのだが、東京駅にコンパスの針をおいて十キロの縁を描く、そうするとここの下北沢がその線上にあったというんだね」
 東京都心から下北沢は十キロ、大森の場合は十一キロ、田端は七キロだ。都会中心からの間合いも大事だ。文学や芸術はど真ん中を敬遠する、やはり一定の距離がある方がよい。きらめく光を遠望する、また遠くに都会の喧噪を聞いて絵筆やペンを走らせる。最も好んだポジションではないか。
 いわゆる都鄙、都市と田園との境目が一番よい。谷があれば斜面には緑が残っている。昭和初年代であれば畑なども多かった。のどけさがあった。静寂である。これらこそ芸術や文学の源泉ではなかったか。

・人間同士
 田端や馬込は、文士村だ。前者は芥川龍之介、後者は尾碕士郎、中心になる人物がいて多くの文士たちが集まった。人と人との関係が濃厚だった。それで彼らが集うサロンもあった。
 下北沢文士町の場合はどうだろうか。文学サロンとして知られていたのは雨過山房である。すなわち横光利一邸である。
 我らは、北沢川緑道に横光利一文学顕彰碑を建立した。これには二枚の敷石が使われている。横光家から戴いたものである。
 小説『微笑』に描かれている逸話は有名だ。「石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す」と書かれている。梶は横光利一だと考えてよい、雨過山房に玄関までのアプローチに石畳が敷いてあった。それを渡ってくる訪問者の靴音で用件が分かったというものだ。このことを知っていて多くの文士たちが心してこの石畳を歩いた、大岡昇平などはそうである。
 ただ街中に文士のサロンがあったとは聞かない。個別のグループで喫茶店に集まっていたというのは聞く話だ。パトロンみたいな形で家を貸していた人もいる。一番街のお茶屋さんには網野菊、大谷藤子、宇野千代などの女流が集まっていたそうである。
 また文芸仲間が多く集まっていたのは下北沢静仙閣や代田の翠月荘などだ。他にも北原白秋の弟子筋が集まっていた下宿屋もあった。
 下北沢での人間的な結びつきは党派的、個別的であった。また、下北沢界隈には多く短歌、俳句などの結社があってそこにそれぞれが集って作品を詠んだり批評したりしていた。詩人福田正夫の「どんぐり会」などはその一例である。

・何が文士を集めたか?
 田端や馬込は中心人物がいて多くが集った。代表格は芥川龍之介であり、尾碕士郎であった。下北沢の場合は横光利一となる。しかしこれはここでは党派的だと述べた。新感覚派もいれば、プロレタリアレ系、北原白秋系など雑多なグループがあって随所で集っていたようだ。基本何が人を集めたか?
 下北沢には教会が多い。どうしてか、とある牧師に伺ったところ「神のお導き」と言われた。が、教会のホームページには信者の交通の利便性を考えて当地に建てたとの説明がある。まさにこれが正解である。
 
小田急線と井の頭線が交差することで交通の利便性が高まった。これによって多くの人々が集まるようになった。俳句や短歌の結社があるのも人が来やすいからだ。しかし、いわゆる文士村のように示し合わせてきているわけではない、それぞれにそれぞれが自由に来ていた。だいぶ経って、下北沢駅でばったり出会って、「なんだおまえも来ていたのか?」と互いにびっくりする出会いがあった。

 昨今分かったのは世田谷代田に帝国音楽学校ができた。これは昭和二年に開校している。かつて大根畑であったところが音楽学校になった。小田急が開通したことでこれはできた。鉄道が文化や芸術や音楽を当地に集めた。気付かぬうちに誰も彼もが集っていた。そのことから「文士村」ではなく、我らは「文士町」と呼んでいる。

2、創設12周年記念
忘年会&情報交換会&ダイダラボッチ音頭踊り発表会
 

 もう十二月だ、今年もあと僅かとなった。イギリスのEU離脱、アメリカ大統領選での番狂わせなど思いがけない事態が幾つも起こった年だ。旧来の考え方や価値がどんどんと壊されいくという激動の年となった。世界は漂い始めた、基盤が失われつつあるのだろう。が、我らの拠って立つ場は、常なる文化探訪だ。これを追求きゅして止まない。土地固有ものを掘り起こす、その一つがダイダラボッチ音頭だ、今回石坂悦子さんがこれに振りをつけて下さった。ダイダラボッチ音頭の踊りでの初お披露目をする。歌おう、踊ろう、ダイダラボッチ音頭、歌ったり、語ったり、マジックをしたり、我らが集まって楽しく過ごす。それが恒例の忘年会だ。
 基本、参加した人が楽しめる会にしようとこのところ夏と冬にはずっと開いている。まずはおいしいお弁当を食べ、好きな飲み物を飲み、各自が持ってきた何か(何でもよい、手作りのパン、自宅近くの名産、亡くなった丸山さんはいつも日の出納豆持参だった)をその逸話ととも味わい楽しむ。そして語り合ったり、しゃべったり、気が向いた人は手品をしたり(今回も作道明さんが披露してくれるだろう)、歌を唄ったり、踊りを踊ったり、(ダイダラボッチ音頭の振りができているやも知れず)して楽しむものである。
 恒例のオークションも楽しめる。家でいらなくなったものを持ってきてみんなに買ってもらってその代金は会の活動費にする。夏に古い切符を持ってきている人がいてそれは忘れてしまっていた。楽しめるもの持ってきてほしい。今回はきむらたかし氏の古地図が出品。

 日時、12月3日(土) 五時半から 場所 北沢タウンホール二階集会室
 参加費 3000円 会員、非会員誰でも参加できる。
 お約束の一人一品持参のこと(義務ではない)、オークション品(自宅に何かあれば)
 申し込み締め切り 11月30日(水)までに米澤邦頼に090−3501−7278
○「信濃屋特製」豪華お弁当がつく、必ず連絡を


3、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の戦後カラー写真跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。右写真は、一例、東北沢6号踏切のところの写真だ

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・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
 田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
 十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
 芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館
・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山寺町を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さん案内
・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲保険について。今年から街歩きのときに保険代として50円戴いている。が、このところ取っていない。何回か保険を掛けるために事務手続きを行った。これを掛けるには全体参加人数の把握が必要だ。しかし、これが掴めない。結局多めに掛け金をかけてしまう。大概は予想と合わず損失が出る。そんなことが続いたことで止めにしている。街歩きはこれからも続ける。自団体主催で十数名の場合は、「交通に気をつけよ」、「危ない場合には声を掛けよ」と互いに注意しあうことで凌ぐ。他団体との共催の場合のみ保険は掛ける、いかがか?
▲インターネット「北沢川文化遺産保存の会」の掲示板は自由に書き込める。また、フェイスブックについても「北沢川文化遺産保存の会」として入っている。これは申請した人が活用できる。フェイスブックで「北沢川文化遺産保存の会」でアクセスしてみてほしい。
▲当メール会報は会友に配信しているが、迷惑な場合はご連絡を。配信先から削除したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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2016年11月25日

下北沢X物語(3165)〜古老が語る小田急物語供

DSCN0044(一)風景は客体的にあるものではない、各自がこれを解釈して自分の記憶に貯め込んでいるだけである。人によって風景は違う。色好みの人はいつか経堂駅で会った美女を、鉄道好きの人は、「井の頭線の明大前駅と一高前駅間に、電車が一台だけ焼け残っていた」(『東京空襲』一色次郎)のを記憶している。後者は昭和二十年五月の空襲で多く車両が焼けて神泉駅のトンネルにあった二両だけが助かったという説を覆すものだ。

11月23日、梅丘地区会館で「古老に聞く」が行われた。話者は八十七歳の千葉宏さんである。この日自由討議になって私は三つの質問をした。これまで多くの人から戦時中のエピソードを聞いてきた、その事実は掴んでいるがやはり裏を取っておくべきだ。記憶風景は人によって違う、個々人の願望がたまたま風景に生きているかもしれない。

戦時中、小田急電車を女性が運転していたのは本当か?


 戦争末期働き盛りの男性が出征させられた。鉄道の現業従事者も例外なく軍隊に取られた。それで鉄道を動かすことが困難なった。それで若い女性を充当した。駅員、あるいは車掌というのはごく普通にあった。が、電車を若い娘に運転させた例は少ない。

 広島電鉄は困り果ててついには広島電鉄家政女学校の生徒を運転させた。慎重を期して三ノッチまでの低速運転をさせた。いわゆる直列走行で、これ以上だと並列走行になって速度が速くなる。実際に運転していた女性は、三ノッチ以上出ないように留め金がしてあったと聞く。このような市内線を動かしたという例はあるが通常の電車を動かしたというのは聞かない。それで興味を持っていた。

小田急の電車を女性が動かしていた。この話は、世田谷代田に住む若林麟介さんが記録されていた。

山の手が大空襲を受けた昭和20年5月25日の翌日だったか、小田急が漸く動き出しました。新宿駅はすっかり焼失し尽くされ、駅の広場の屋根を支えていたレールは、まるで飴のように曲がって倒れていました。南口の橋上からの景色は、焼け野原、京王線は未だ不通、南新宿から新宿駅に入ってきた普通電車の運転手は女性でした。

 
  小田急も男性に代わって運転手を女性にさせていた。若林さん、橋上から見て運転席にいたのは女性だと認められたと言われる。このことは他に裏が取れれば間違いないこととして記録ができる。それで千葉宏さんに質問をしたのである。
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2016年11月24日

下北沢X物語(3164)〜古老が語る小田急物語〜

CCI20161124_0000(一) 「月日は百代の過客」、時間は永遠の旅人だ、が、我らが乗っている時の船の乗り心地は悪くなっている。芭蕉時代は春夏秋冬が廻り灯籠のようにゆっくりと動いていた。一秒にも命があった、一級酒の味があった、が、今の時は三級酒、日々が薄っぺらい、総てが機械に管理されるようになっている。古老はこんな逸話を聞かせてくれた。

「豪徳寺の駅は丘上の駅でした。階段を上って改札に入る、駅員が木柵に入っていて入鋏しますね…」
 情景が目に浮かぶ。硬券にパンチを入れると屑が下に落ちる、それがタタキに散らばっていた。彼は絶えず鋏を動かしていてそれがカチカチと響く。
「それで改札を抜けると線路を渡ってホームに出るのですよ。準急や急行は止まらないでしょう、これが来るときは駅員は両手を大きく広げて通せんぼしていましたね」
 懐かしい光景だ。今だと皆自動改札である。入鋏もない、通せんぼもない。

 昨日、豪徳寺駅周辺風景づくりの会主催の「古老に聞く」が梅丘地区会館で開かれた。この案内は毎回戴いていて行ったことがなかった。今回のテーマは「玉電 小田急」だった。興味深い、それで参加した。が、会場は家から行くには不便だ、東横線、井の頭線、小田急線に乗って大回りしていく。簡単なのは真っ直ぐ北上すればよい、つまりは歩きだ、目黒区八雲から世田谷区梅丘までは小一時間で着いた。

 「古老に聞く」、これは常日頃行っている。
 一昨日だった、いつもの荏原逍遙で古老と出会った。八十七歳だ、名前は聞かなかった、仮に用賀洋子さんとでもしておこう。世田谷用賀で会ったからだ。
「戦争は地獄だった…人間はね、戦争で死ぬともうゴミよ
 彼女はそういう。
「荏原中延へ勤労動員で行かされたのね。あそこは空襲で丸焼けになったからね、焼けた工場から機械を掘り出してそれの分解掃除をするの、きつい仕事だった……それで大勢が焼け死んだの、死体に鳶口を突き刺して、それでトラックの荷台にほおりこむの、見ていられなかったね…」
 人間戦争で死んだらもうゴミだ、焼き場で焼けない。広場に持っていって一緒くたにしてそこで燃やしてしまう。戦時中はごく普通に行われていた。
 戦争は地獄だ、古老の言葉は覚えておかなくてはならない。

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2016年11月22日

下北沢X物語(3163)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙供

DSCN0008(一)荏原台南端の馬込の谷は深い、この傾斜が名馬を産んだ。坂が馬を鍛て宇治川の先陣を司った「摺墨」が生まれた。朔太郎旧居のすぐそばに摺墨塚がある。この谷が人間を鍛えたか?、当地に居住した文士たちは坂を上ったり下ったりした。「坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。」と朔太郎は言った。彼方には「のすたるぢや」がある。坂は思考の鍛錬をさせていたのかもしれない。急坂を上ったり下ったりしていると物を思うことは確かだ。馬込の谷はイマジネーションを湧かせもした。

 文学と丘の上下論というのはある。文学で食うというのは大変だ、まず修行せねばならない。その場合アパートか長屋だ、大概は低地のごみごみしたところに建っている。赤ん坊の泣く声、トイレの臭いが漂うところで考えたり書いたりする。しかし丘下の貧乏長屋で苦労しても報われるのはごく少数だ。辛酸、苦渋を嘗めて、金が入るようになると眺望のいいところに居を構える。が、努力だけではどうにもならない、才能、そして運も必要だ。

 大成した作家は丘上に住む。今回、馬込の三島由紀夫邸には初めて行った。やはり丘上だった。その位置を確かめたがどうもそこからは富士が望めるようだ。日本文学と富士、そして日本の美学にはこの山は欠かせない。

「自分の家の近くに目黒区緑が丘の三島の家があって何度か訪ねたことがあるのですが、これが旧番地でよく分からなかったのですよ。現住所は分かりますか?」
 馬込文士村を歩いているときに案内人の松山信洋さんに聞いた。
「わかります」
 すぐに知らせてくれた。
 昨日散歩の途中、そこへ行った。緑が丘一丁目である、その家の前の道は古道だ。坂になっていて名がついている。「寺郷坂」目黒区教育委員会た立てた標識もある。

この坂上には立源寺があり、かつてこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。九品仏道である。 

やはり三島邸は丘上にあった。緑が丘の一等地である。恐らくここからも富士が見えたろうと思う。そこはかつての海軍村だ。海軍軍人が多く住んでいた。あるいは体がなまるから好んで住んだのではないか?三島も隣町の自由が丘のボディビルジムに通っていたという。きっと歩いていったろう。緑が丘の坂海軍軍人と肉体派作家を鍛えたか。

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2016年11月21日

下北沢X物語(3162)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙〜

DSCN0012(一)芸術や文化が生まれるときに都市との間合いというのは重要だ。都会の喧噪がさざ波のように押し寄せたり、夜には銀座の灯りが遠望できたりする都会近郊はクリエーティブな場としては絶好だったろう。そしてもう一つ大事なのは景観だ。深く抉り込まれた九十九谷の地形も見逃せない。荏原台南端の谷の上からは海が見え、そして富士も見えた。人々が憩う場としては最適だった。


 馬込文士村の最寄り駅、大森は歴史が古い。明治五年に新橋と横浜間の日本で最初の鉄道が開通する。当初、大森には駅はなかったが四年後の明治九年には駅ができる。都心と間をおいたここは別荘地として好適だった。丘上は風光明媚で外国人が別荘を作った。

 大森山王は馬込に行くときの入り口だ。外国人別荘地を通って、馬込の大根畑に行く、異国世界を通って田舎に行くというところは一つの魅力ではなかったか。

 馬込文士村と下北沢文士町は関連や繋がりがある。ここへ住んでいて後に文士町へ来た人が何人もいるからだ。筆頭は萩原朔太郎であり、三好達治であり、そして宇野千代だ。そして朔太郎の娘萩原葉子も加えられる。

 十一月十九日、松山信洋さんを案内者とし馬込文士村を巡った。タイトルは、「馬込文士村散歩〜女性・新しい時代の風」というものだ。宇野千代を初めとしてここでは女性が自己主張をなした。その辺りを問題提起していくものだ。

 文士町と比べると遥かにこちらの方が歴史が古い。一番特徴的なのはやはり地形だ。駅そのものが丘にある。そして山王に向かうがここへは急階段を上っていく。登り切ると平坦でゆったりとした敷地にお屋敷が今も建っている。

 「大森も高台の方には殊に別荘が多い」「高台一帯の住宅地は、場所によると海をみはらして景色がよい。空気も柔らかく、冬も東京の山の手などよりは暖かいから養生地にも適している」(河井酔茗『東京近郊めぐり』大正十一年)、松山さんもこれを資料としていた。歩いてみて分かる山王に住むことはステータスだった。
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2016年11月19日

下北沢X物語(3161)〜渋谷の狸と時間格差〜

DSCN0032(一)東横線から井の頭線への乗り換えは極端に不便となった。うなぎの寝床のような地下通路をぐるぐると回ってようやく乗り場に着く。多くの人がなるべく渋谷を通らないでいくようにしていると。私の愛用路線は下61小田急シティバス、北沢タウンホール行きだ。下北沢に直行するバスだ。三茶西友前では長蛇の列、お年寄りが買い物をして下北沢方面に行く。太子堂商店街は昔懐かしい売り声や食べ物の臭いがする。

 電車よりもバス、とはいうものの渋谷迷宮を通らざるを得ないときもある。この間、渋谷の狸に出会った。まず行きである、例のうなぎの寝床を通っていくとき途中丸柱の列がある。その一つ一つに着飾った可愛らしい女の子の拡大写真が貼ってある。アイドルの女の子たちらしい。ミニスカートをはいた彼女らに見とれながらいく。

 この時は、かつての職場の僚友のお通夜に行くためだ。行きと帰りでは三時間ほどしかない、ところが帰りだ。かわい子ちゃんたちが居ない。代わって今度はむくつけき男の子たちがやはり丸柱に貼られていた。男子のアイドルたちだ。通り掛かった女性がそれにカメラを向けている。かっこいい男の子ゆえに惹かれたのだろう。
「お通夜に行っている間に張替えたのか!」
 あまりにもの変わり身の早さに驚いてしまった。渋谷の狸に化かされたのか?
 
 葬式への往復で出会った変化だ、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」という世の無常をいう言葉を思い出した。何たる変化の激しさだろう。都市は変化を見せつけて飽きさせないところだ。しかしこんな変化は必要なのか?近代都市人は時間をも食いつぶしているのではないかと。

 ある人にこの話をしたら、「あれは照射だ」という、天井に機器があってそれが映像を切り替えているのだと、渋谷の狸説は、いとも簡単に崩壊した。

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2016年11月18日

下北沢X物語(3160)〜死ぬまで歩きたい、書いていたい〜

DSCN0002(一)我らの会の街歩きに参加されていた九十歳を過ぎた人が、「死ぬまで歩いていたい」と。同感だった、日々私も歩いている、そして書いている。この二つが生きる糧だ。それで「死ぬまで歩きたい、書きたい」というのは私の願望だ。気付いてみると自分もそう長くないと思ってきた。この間、京王線布田のお寺まで行ってきた。かつての同僚のお通夜があった、私よりも彼は若い。遺影に手を合わせながら、やがては自分の番が回ってくると思った。帰りの電車の中で、はかない命だ。「それまでは歩きを楽しもう、また書くことに燃えよう」と決意した。しかし、後者は何でもいいというわけではない、興味を持って熱意を注げるものでないと難しい。


 歩くのは身体を動かせばいい、が、書くのは考えを要する。自分の関心が持てるものでないと意欲が湧かない。もともと私は鉄道が好きである。鉄道童話を書いたり、鉄道文学を著わしたりしてきた。ここのところずっと歴史物に手を染めていた。これらに一区切りついたことから年来のテーマに取り組もうと思った。

 『音の鉄道文学史』である、レールを刻む音が実は、我々の心を刻んできたのだという自分の鉄道観である。明治、大正、昭和の文学作品に鉄道の響きが記録されている。これを順次追っていけば『音の鉄道文学史』ができる。少しずつ書きためてきた。おおよそ八割方はできていて企画書もまとめた。反応は悪くはない、どこかが手を挙げてくれるだろうと思う。

 自分の人生もそう長くはない、店じまいに備えてやることはやっておこう。鉄道文学史は自分のライフワークである。が、これまでを俯瞰するとやり残したことがある。十年来、取り組んできた文化探査だ。下北沢文士町の探訪である。懸命にやってきて四基の文学碑を建立してきた。また文士町地図も改版に改版を重ねてきた、その経緯を含めて『下北沢文士町物語』としてまとめることはできる。しかし、これはエベレストに登るような困難さがある。自分で築いてきた山が途方もないものになった。今日のブログのエントリー数が「3160」だ、膨大な言葉の山の下に、物語や逸話が書き留められている。これを整理することは超難題だ。

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2016年11月16日

下北沢X物語(3159)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風供

ミドリ楽団アニーパイル劇場(一)この東京世田谷上空を心底気持ちが悪くなるほどに敵機が覆った。その巨大な重爆撃機が次から次に現れる。1945年5月24日、今の羽根木公園、根津山からこれを見ていたのは一色次郎だ。「今夜はいったいどういうことなのだろか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうしてこんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。私は首をかしげないではいられなかった。」(『東京空襲』)、巨大重爆撃機はサーチライトで照らされている、ジュラルミンでできた巨大鯨だ、それが次々と湧くように現れる。まさに「偉大なるアメリカ」が、圧倒的な物量を見せつけた日だった。あれから71年、アメリカは凋落した。貧すれば鈍する、次期大統領候補は人種差別を公然と言い放つ、「民主主義や人権、法の支配の尊重という米国の基本」すら危うくなってきた。

 覚えておかなくてはならないことがある。敵だったアメリカは軍国主義に染まっていた日本を解放した。軍部は徹底抗戦を叫んでいた、一億総特攻である。気が狂っているとしか思えない。そんなときに空から降ってきた伝単には何が書いてあったか?今、これを注目すべきだ。B29から撒かれたビラである。

日本国民は次の自由(私権)を享有すべきである。

一、欲望の自由
一、恐怖からの自由
一、言語の自由
一、圧政からの自由

 右の自由を得る道はただ一つである。

 この戦争を惹起した軍閥を除去し、自由国民の仲間入りをし給へ。



 この頃軍部は敵の圧倒的な戦力にこてんぱんにうちのめされているにも関わらず、「被害軽微」などとラジオで伝えていた、「大本営発表」を平然と流していた。そんな圧政に強いられている国民への呼びかけだ。この頃の敵の偉大さだ、「民主主義や人権」を説いている。

 しかし、空と地上では人々が吸っている空気はまるで違っていた。我々は飢えに苦しんでいた。が、上空の空飛ぶ要塞では快適だった。設備として紅茶か珈琲を選んで飲める給湯器が備えられていた。圧倒的に豊かであり、かつまた強かった。

 そういうアメリカに帰ろう。"Make America Great Again"という呼びかけだ。アメリカ人大衆はそれに乗った。が、方向がおかしい、民主主義にや人権尊重という基本理念と逆行しはじめたようだ。

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2016年11月15日

下北沢X物語(3158)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風〜

2シアトル市長など代沢小へ楽器寄贈(一)アメリカ大統領選の演説でトランプは、「Make America Great Again」と訴えた。偉大なアメリカを取り戻せ、である。結果として予想は覆り、クリントン氏を打ち破ってトランプ氏が大統領となった。本国アメリカ、また日本でも激震が走った。速報を聞いて思い返したのは、「ミドリ楽団」の団員のことだ。この夏「ミドリ楽団物語」を上梓した。この物語の核は楽団団員たちがグレートアメリカに遭遇したカルチャーショックだった。

 グレートアメリカ、それは物資の潤沢さ、人々の明るさ、そして、自信だった。疎開先で窮乏生活を送っていた疎開学童たちは、1945年8月15日に日本が戦争に負けたと知らされる。男子は悔し涙を流した。土手に集合を掛けたり、本堂の片隅への参集を呼びかけたりした、そして皆で指切りげんまんをした。日本を滅ぼしたアメリカへの復讐を誓った。

 代沢小に赴任してきた浜館菊雄先生は、戦前にバンドを結成した。が、たちまちに戦争に突入する。歌舞音曲は慎まなくてはならない、しかし、楽器は親から離された子の心を慰めるものだと強く主張して疎開先にこれを持ち込んだ。第一次疎開先では、浅間楽団、第二次疎開先では、真正寺楽団とし、練習を重ねた。

 戦争中であったが、演奏技量がこれによって保たれた。戦後になって活動を再開する、たゆまぬ練習が功を奏する、児童楽団の演奏技量を聞きつけた米軍から慰問のオファーを受ける。「ミドリ楽団」として再発足した彼らは聖路加国際病院での初演奏に臨む。傷痍軍人の慰問だ。

 病院には礼拝堂がある、そこのホールで演奏は行われた。大きなソファーに大きなおしりを乗せた白人がどでんと座っている。また、松葉杖をついた黒人もいた。髪の毛が金髪、ブロンド、そして黒、また目の色も違う。それだけでも緊張したものだ。
 
 しかし、彼らはひるまなかった。音楽に国境はないというのが指導者の浜館菊雄の口癖だ。心を込めて演奏すれば必ず成功すると。それで彼らは懸命に弾いた。編曲の手練れは彼らの一人一人に楽譜を持たせていた。木琴、ハーモニカ、アコーデオンが中心である。が、単に弾いたり、吹いたりするわけではない、各楽器には出番がある。木琴がリードするとつぎにハーモニカの番になって、そして、アコーデオンに移る。音楽演奏のキレのよさは聴衆の耳を射た。
「アメリカ人の反応が日本人の三倍!」
 大きな手で彼らは拍手した。松葉杖をついた者も立ち上がって手をたたいた。この病院での演奏は大成功だった。彼らのデビューはこれがきっかけだ。
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2016年11月13日

下北沢X物語(3157)〜機縁因縁安吾文学碑〜

DSCN0034(一)私達の乗った人生の船はさ迷い漂流する、そして突然に思いがけないところに寄港する。昨日は四人の方々を文士町案内に誘い、坂口安吾文学碑までたどり着いた。近代戦争史の発掘の旅は碑が据えてある代沢小から始まった。ここの学童は浅間温泉に疎開した。分宿した先の千代の湯班は引率の先生によって鉛筆部隊と呼ばれた。その学童たちと偶然に立ち寄った特攻隊員との交流がなされた。その一人時枝宏軍曹は、出撃時に僚友に子どもへの言づてを頼んだ。「出発の際まで皆さんと楽しく遊んだことを非常にうれしく」思っていたと。これを頼まれたのが「自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹」である、これを手がかりにしてひっそりと消えて行こうとしたこの隊を追った。そして、昨日はその関係者を安吾文学碑へと案内した。誰あろう?武揚隊の隊長山本薫中尉の末裔である。弟の長男ご夫妻と、そのお子さん二人である。

  この坂口安吾文学碑は我々が尽力して建立した。文学碑第一号である。安吾はこの学校で代用教員として務めた。そのときの思いを「風と光と二十歳の私と」作品に編んだ。その一節、「人間の尊さは自分を苦しめることにある」を刻んだ。因縁の彼ら武揚隊隊員はあまりにも出撃までが長引いた。死のうとするのに死ねないところが苦しく、辛かったようだ。

 出撃せねばならないのにできない、覚悟ができているのに死ねない、死ぬことを猶予されて長く生を生きた。難行苦行の末に最期を迎えている。こういうことは全く知られていない。戦場の影に潜む逸話に私は深い興味を覚える。

「先生、彼らの霊が取り憑いているのですよ」と皆がいう。

 昨日、山本さんのご家族を案内して事務局の邪宗門行った。ここで記念写真を撮ったときのことだ。
「あれ、何か変な影が写っていますよ。やっぱりこれは霊ですよ」
 写真を撮ってくれた仲間の米澤邦頼さんが云う。

 この武揚隊、最後は台湾の八塊飛行場から沖縄へ向かって特攻に行った。隊長の山本薫中尉もそうだ。ついこの間、家族でここに行かれたそうである。
「最後に歩いた地を歩きたい」
 奥さん、山本記美代さんの願いから現地訪問された。
「飛行場跡は防衛大学になっていて中には入れません」

 縁戚の隊長の足跡をたどる、すれば関心が深まる。やはりネットで調べられたようである。
「ただ台湾から出撃したということだけが念頭にあったのです」
 私が書き記しているもので満州からの苦難の道程が分かった。それで私に会いたいということで資料を持って上京された。四国からである。(代沢小安吾文学碑前で山本家の皆さん)
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2016年11月12日

下北沢X物語(3156)〜歴史的写真の謎いま再び〜

IMG(一)偶然に発見した写真は歴史的な写真となった。航空兵と疎開学童とが一緒になって写った写真だ。博物館の正面玄関に掲げられたり、ポスターになったり、テレビでも放映されたりした。が、この写真の真相は分かっていない。ところが謎が少し解けてきた。

 松本浅間温泉で疎開学童と特攻隊とが深い関係を持っていた。それをシンボライズするものとして今は使われている。今考えると不思議だ。全く同じ写真だがつぎつぎに見つかって、今度また三枚目に出会って、謎の一端が解けた。

 まず一枚目だ、世田谷下馬の取材先の家から発見された。「こんなものがあります」と太田幸子さんは言って一枚の写真を出された。そこには疎開学童の女児と航空兵とが一緒になって写っていた。

 彼女は東大原国民学校の疎開学童である。浅間温泉富貴の湯に滞在していた。写真はその庭で撮ったものである。太田さんの肩に一人の兵士が手を掛けている。この兵士は誰なのか?またもう一人、飛行帽を被った兵士が女児を抱くようにして写っている。この兵士は誰か、もっといえばこれの部隊名は何というのかよく分からなかった。

 つぎに二枚目だ、自身のブログでの情報発信がこれまた歴史資料の発掘に繋がった。検索でこのブログを見つけた安曇野の丸山修さんが手元にある資料の存在を知らせてきた。それは二つだ、一つは浅間温泉富貴の湯にいた武揚隊隊員に揮毫を頼んだようで、和綴じ帳には各隊員が書き残した言葉が書かれていた。もう一つはアルバムだ。多くの兵が写っていた。その中にこの一枚が挟まっていた。
写真裏書き。富貴の湯にて
 これの持ち主は高山宝子さんだ。彼女は富貴の湯に来ていた特攻隊員飯沼芳雄伍長の小学校時代の同級生だった。そのことからこの旅館には度々慰問に訪れていた。それで遺墨と写真とを持っていた。後者には多くの航空兵が写っていた、その中一枚としてこの写真があった。
 どうやら疎開学童たちや地元の関係者にはこれが配られていたようだ。

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2016年11月10日

下北沢X物語(3155)〜第10回記念「戦争経験を聴く会・語る会」〜

080524戦争経験 008(一)戦争はすべてを破壊する。一旦これが始まれば人間が人間でなくなる。日常の法は役立たなくなる、人が死んでも殺されても何とも思わなくなる。が、あの戦争から遠ざかり、これも忘れられつつある。浸透してきているのは核には核で対峙しようという人間のおごりだ。たった一発で何十万人を殺すという悪魔の兵器だ、広島、長崎の惨状は忘れてはならぬ。ところが事態は急変した。日本もその核を持てと主張する人物が昨日、アメリカの大統領に選ばれた。恐ろしい時代になった。が、どうあっても戦争しない、これを忘れないようにしなければならない。そのために山手空襲があった日に合わせ、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いてきた。来年はとうとう十回目を迎える。

 継続は力とはいう、が、戦争経験を継承することは困難になってきている。一つは時間経過による体験の風化、一つは戦争体験者がいなくなっているからだ。そういう中でこれをどう開くのか大きな課題である。

 これまで開いてきた十回であるが、近代戦争史の隠れたページを開いた。昨年、長野県護国神社に特攻勇士の像が建立された。この碑文には松本浅間温泉に滞在していた特攻隊と世田谷の学童とがふれ合ったことが刻んである。これも発端はこの会で発信されたことが大きい。

 疎開学童と特攻隊はこれまでの会ではしばしば話題になった。要点は、世田谷の疎開学童が戦争近代の隠れた逸話を切り開いたということだ。

 戦時中、世田谷からは七校が浅間温泉に疎開した。その数なんと2500名ほどだ。昭和二十年二月から三月にかけて沖縄戦に向かう特攻機が陸軍松本飛行場に多数飛来してきていた。その戦闘員、航空兵がこの温泉に数多く滞在していた。ところが往事記録にはこれがない。公的な資料はほとんどが焼却された。しかし失われないものがあった。

 疎開学童が書き残した手紙、日記などである。これは個別的に所持しているものだ。これらの記録を丹念に見ていったことで歴史事実が明らかになった。ここにこそ忘れられた戦争の真実が眠っていた。世田谷の疎開学童が戦争近代の歴史を紐解いた。記念大会ではこれに焦点をあててみてはどうか?ということになった。

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