2024年04月14日

下北沢X物語(4921)―疎開学童日記から歴史を読み解く 3―

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(一)疎開学童の日記に「ちゅうかえり」という言葉があった。特別攻撃隊の隊員が旅館上空で宙返り飛行をしたという。この一語には含蓄がある。多くの日記資料を見てきたゆえにそう判定できる。浅間温泉では疎開学童と特攻隊員とがふれ合った。心が通じ合ってくると学童らはついおねだりをするようになる。飛行機は憧れだ。その思いが募って「ねえ、お願いだから飛行機で飛んできて」と。学童ばかりか旅館の女中さんもねだった。後者では大型爆撃機「飛龍」で旅館の屋根すれすれを飛んで脅かしてやったとの証言もある。どうやら吉原軍曹も学童にせがまれて宙返り飛行を敢行したようだ。彼は学童とは数十日間つきあってきた。近々出撃も迫ってきていた、永久の別れだ、約束を果たそう。

「吉原さん、操縦がうまいという噂ですよ、宙返りをしてみせてよ」
 武揚隊の構成は隊長の中尉、陸士出だ。その次が少尉、操縦見習い士官・学徒兵、さらに軍曹、伍長と続く。
 吉原香軍曹は、運輸省航空養成系の航養、出身だ。操縦は巧い、「宙返りなんかお茶の子さいさいだ」とでも自慢したのだろうか。
「しょうがない、まあ、慣れ親しんだ君たちともお別れだからな」
 吉原さんは約束をした。いついつに飛んでくるからと学童に伝えた。これを聞いて皆は歓声を上げた。

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2024年04月12日

下北沢X物語(4920)―疎開学童日記から歴史を読み解く 2―

戦争と平和展:松本博物館
(一)我らの文士町も全国的になった。北陸からは新地図をぜひほしいと。今日は今日で神戸から来訪された研究者を案内した。代沢小の近くで学童に出会った。「何年生?」「六年生!」「じゃあ、鉛筆部隊は知っているよね」「知らない!」「ああ、そうかキミらは新六年なんだ。前の六年生には鉛筆部隊の話をしたんだよ。きっとね年末にはキミらに会うことなると思うよ」と言って別れた。何とまあ歳月のはやいこと、気持ちが追いついていかない。こちらは回想にふける。80年前の8月12日のことだ。この日の夜、代沢国民学校は浅間温泉への疎開に旅立った。先導する教員は提灯を持っている。下北沢駅へ向かう坂を行列がさわさわと足音を立てて進んだ。

当夜が運命の別れ道だった。夜9時に壮行式が行われた。このときに浅間温泉の分宿する六つの旅館ごとに列に並んだ。各旅館はあらかじめ地区別に分けられていた。
「私と立川裕子さんは北沢四町目だったのだけど、いいからいいからと下代田の組に入れられてしまたのですよ。それが千代の湯だったのです」
 故田中幸子さんがそう証言していた。その千代の湯こそが疎開学童と特攻隊の出会いの主舞台となった場である。二人は特攻隊員と出会って、いたく可愛がられた。

 学校ごとに行った先の旅館でもそれぞれに運命の出会いがあった。東大原校の大田幸子さんは富貴の湯に滞在した。彼女は疎開初日から日記を書いた。とても几帳面で細かなことまで記録されている。

 昨日の記事にコメントがあった。「太田さんは今でも健在でしょうか?」と長年のフェィスブック仲間の野沢有さんからである。
 下馬の大田幸子さんに取材したのはもう十年前だ。「学童疎開80周年」ということから日記の行方が気になっていた。世田谷平和資料館の帰りに下馬を通り掛かった。そのときに久しぶりに家を訪ねた。
「母は、骨折しまして今入院しています。そうですか母の日記が気がかりで来られたのですね、母に伝えておきます」
 息子のお嫁さんが言う。
(上段ポスター写真、兵隊に腕を首に巻かれているのが大田幸子さん)

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2024年04月11日

下北沢X物語(4919)―疎開学童日記から歴史を読み解く―

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(一)歴史の礎となる記録は大切だ、これを基点に過去や未来が考察される。が、我々はこれを大事にしない。好例が終戦時にポツダム宣言受諾した後に公文書を焼却したことだ。私は当ブログを運営しているが、あるとき問い合わせがあった、これがきっかけとなって過去に埋もれた歴史を調べることになった。戦時中、世田谷の学童は松本市外浅間温泉に疎開した。昭和二十年春、当地に飛来してきた特別攻撃隊の隊員は泊まり合わせた学童と知り合った。が、特攻隊の動向を記した公文書は残っていない。しかし疎開学童が書き記した日記や手紙、新聞記事などの記述から、松本陸軍飛行場に飛来してきた特攻隊のことが次第に明らかになってきた。小さな記録が歴史真実を紐解いたのである。

 私は、2012年『鉛筆部隊と特攻隊』を発刊した。鉛筆部隊とは、代沢国民学校の疎開学童である。浅間温泉に疎開をして分宿をした。その一つが千代の湯旅館である。ここを受け持った柳内達雄先生が学童たちを鉛筆部隊と名づけた。
 疎開出発は、1944(昭和19)年のことだ。

 八月十二日 土曜日 天候晴
 疎開児童四百五十名並ニ派遣教官十名及付添教員三名午後十時校庭出発。


 学校日誌に記録されている記述だ。公的機関、学校であれば学校日誌に一日の重要な出来事は記される。
 松本には陸軍飛行場があった。当然のことだが「飛行場日誌」や「陣中日誌」があったはずである。日々の出来事、〇月〇日 午後15時、特攻機飛来 十五機、機種、九九式襲撃機、引率隊長〇〇〇〇中尉 などと最低限のことは記したろう。

 代沢国民学校の鉛筆部隊は1920年4月10日、浅間温泉から広丘村に再疎開する。宿泊したのは郷福寺だ。このことを知って現地調査を行った。その時に出会ったのが代沢国民学校の疎開学童と出会ったという人だ。
「終戦になってから飛行場の方から黒い煙がぼうぼう上がったのを見ました。敵に渡ったらまずいというような書類を燃やしたと聞きました。」
 公文書の焼却であろう。

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2024年04月09日

下北沢X物語(4918)―疎開学童80周年―

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(一)歳月は矢のように過ぎ去る。思いが時間に追いつかない。あの80年前の苦難は消えがたい思いとして疎開経験者には記憶が残っている。「最後のチャンス、80年を振り返ってみたらどうだろう?」と私。「きむらさんに言われて心当たりに当たってみたけど、皆ね、その気になれないのですよ。何せ皆年ですよ。六年生だった人はもう九十越えていますからね……」山崎小学校のOB長谷川直樹さんの話だ。彼は疎開協の役員をやっていた。活動もやめたという。「しかし、ラストチャンスですね、浅間温泉に世田谷から行った学校は、七校ありますよ。同窓会もあることだし連絡を取り合って最後の協議会をやったらどうですか」と私は提案している。昨年の学徒動員80周年は話題になった。ところが疎開学童80周年は盛り上がらない。心は動いても身体は動かない……何とかできないか?

疎開は、敗退の予兆である。いわゆる絶対国防圏が敵によって攻められ落とされた。その一つがマリアナ諸島だ、敵はここに飛行場を作った、これによって大型爆撃機は日本本土をダイレクトに襲うことが可能になった。日本の諸都市が爆撃を受ける、この難から学童を守る。そのために学童を地方に強制疎開させた。縁故疎開も行われたが、それにも行けない者は学童集団疎開に参加した。

 戦争は決してやるなと体験者は言う。戦争は融通が利かないことを知っているからだ。
どんなに戦況が不利になっても戦いは継続される。絶対国防圏が打ち破られたことは戦況にとって大きな綻びだ。が、戦争指導部は勝利への執念を燃やす。人間の習性だ、ファィティングポーズを取るとコブシが降ろせなくなるのだ。最近俄にきな臭さを感じるの敵基地攻撃能力だ。「おれたちだって戦争はやれるんだぞ」とい裏が見える、危険だ、戦争にならないようにする努力が一番だが、大人は恰好をつけたがる。人に潜む獣性は制御が効かない。
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2024年04月08日

下北沢X物語(4917)―文士町における啄木の系譜―

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(一)伊藤文学さんから下北沢に啄木の係累がいることは聞いていた。詳しくは分かっていなかった。が、代沢小の疎開関係の資料から啄木係累と当地との繋がりが見えてきた。啄木の研究家の須見正雄は啄木の娘京子と結婚し,石川家に入籍して養子となり石川正雄となった。二人の間には晴子と玲児がいた。京子は昭和5年に急死した。正雄は後妻を娶り靖児を設ける。居住したのは北沢2−224、森厳寺に接した地所である。正雄と京子夫妻は函館から上京し協力して啄木研究雑誌『呼子と口笛』を創刊する。石川の自宅では啄木忌も開いていた(1955年4月13日)。三男の靖児は代沢国民学校の疎開学童として浅間温泉に行き浜館菊雄引率の蔦の湯、また再疎開先ではやはり浜館の真正寺で過ごしている。ネットには「昭和館」が後妻の節子と靖児との往復書簡をネットで公表している。正雄は北沢2−224で死去し、ここが終焉の地となっている。
(参考「石川啄木をめぐる人々考」(岐阜成徳大学国語国文 2004年3月刊 貞光 威 )

 石川夫妻は上京し協力して啄木研究史『呼子と口笛』を発刊するが京子の急死によって昭和6年9月発行の第2巻9号で終刊をしている。この後、石川正雄は啄木研究家として啄木関係の著作刊行にたずさわっている。彼は昭和43年4月10日に69歳で死去している。

先に述べたように石川宅では、啄木忌が開催されていた。啄木を思慕する関係者が集まっていた。宮崎緑雨や野田宇太郎などである、当地域の啄木研究家の集いでもあった。石川正雄宅が拠点になっていたのではなかろうか。

 石川正雄と石川京子は、啄木の業績を残そうと「呼子と口笛社」を発足させた。これの本拠地はどこかは分からない。しかし、編集などは自宅で行っていたと思われる。啄木の集いは函館が盛んだが東京では石川正雄宅ではなかったろうか。

 伊藤文学さん、石川正雄のことはよく知っている、今日電話を掛けてみた。
「介護に行っていましてね」
「帰ってこられて電話でお話できますか?」
「いやあ、どうだか、もう92歳になりましてねてね……」と奥さん、電話取材も難しいようだ。

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2024年04月06日

下北沢X物語(4916)―文士町文学論文化論:了―

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(一)コロナ明けの地図配りの再開だ、以前との変化はある。外国人が増えたことだ。町会のおばさん、「増えたわね、ここの緑道の花壇の手入れをしていますが、外国人はよくとおりますね。ジョギングの人も多いですよ」と。外国人といっても多様だ。下町から来た人はあちらではアジア系、中国人やベトナム人である。ここ北沢緑道で目につくのは色白金髪の西欧系が主流である。昨日、北沢4丁目に住む赤坂暢穂さんからのメール。「確かに外国人が増加しています。拙宅の近所には民泊があるようです。我が家の西の道、茶沢通りを良く外国人が通ります。また外国人の定住者も増えています。戸建は2,3億円すると思います、格差社会の例が顕在化しているのでしょう」と。外国人の下北沢人気、それは民泊が対応している。外資系の高級取りは区域のマンションに入って来ている。下北沢へ若者が来はするが家賃が高く定住はできない。「下宿と定食は下北沢」は既に過去。

 先の代沢の堀江さんの話だ。彼は出戻り、一旦当地を離れていた。親が亡くなったことから土地を相続しなければならぬ、居住すると税が安くなる。やむなく戻ってきたと。
「同級生は皆同じですね、親父さんが昔、ここが便利だというので引っ越してきたんですよ。多くが戸建てでした。地価が上がっているから皆相続で苦労しています。
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2024年04月05日

下北沢X物語(4915)―文士町文学論文化論―

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(一)地図配りでは見知らぬ人と地域文化を語るの楽しい「この一帯に居住していた文化人を地図上マークしているのはお宅の会だけですね。ある意味、地図にマークされるのはステータスを得た人ですね。が、けれどもこの町には名もない芸術家というか、音楽家や詩人や俳優は多く居ますよ。先々はどうなるか分からない、だけど夢を追って生きているんです。短時間でもステージに立ったり、舞台に出たりする、それが花なんです、生きている実感を得られるのです。そしてね舞台が跳ねた後に、安酒飲んで仲間と語り合うのですよ。『今日のやっくんは音が立っていて、銀ちゃんのは音が寝ていた』とミュージシャン。『桜子さんのセリフはキレがあった。けど、吉ちゃんのは言葉が死んでいた』と劇団員。言い合って時が過ぎていく、それが青春だ。当人が有名になってこの土地にマークされるかなんてこれっぽっちも考えていない。『下北沢芸術町混沌地図』というのがあるんだよ!」

「そう世の中、認知されない若い人は、ここには大勢いますね。有名と無名の境に生きている人です。自らの発信が世の中のどこかに微かに響いているという認識が彼らのレーゾンデートルになっているのです。つまりはこの地図からこぼれ落ちている人がここには蠢いているのです。YouTube的有名人なんかざらにいますからね」
 
文士村と文士町はことなる。
この4月3日、読売新聞オンラインが田端文士村を取り上げている。その見出しだ。

板谷波山や芥川龍之介ら100人超…「文士芸術家村」田端の魅力は美術学校に近く手頃な家賃

若くて大成することはない、文士芸術家は貧乏だ。衣食が低廉であることは必須だ。この下北沢にいたこともある井上靖は、「下北沢は下宿と定食屋の町」と言っていた。ここには学生や若い勤め人が多い。下北沢は沢筋だ、丘上は邸宅地で地価も高い。が、川筋は地価は安い、そこに建つ家は一階は店舗や住宅とし二階を下宿部屋としていた。若者がここに住んだ。そういう者を相手にする定食屋は安い。地の利がよくて大学に通うのに便利だということで若者が大勢住んでいた。
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2024年04月03日

下北沢X物語(4914)―気の集結地点としての文士町―

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(一)下北沢文士町は、文化人密度が濃い地域だ。知性のある人々が当地域に参集してきたのは鉄道交差という利便性があったからだ。この知の集積には継続性がある。一つには受け継ぎがある、文士町という町場で受け継がれた血統である。当地域の学童が疎開したときに行った先では彼らがショックを地元に与えている。当地で育まれた都会的感性が田舎では光って見えた。作文を書かせると巧い、歌を歌わせるとハーモニーが素晴らしい。知性ある親から受け継いだ遺伝子である。当地における気の集積はある。この気が論ぜられることはない。しかし、文士町にはこの気が張っている。地図配りのときに通り掛かった祈祷師「沢というところは人の気が集積されるところだ。歩いてみれば分かるよ」、気が充満している文士町はクリエイティブな気に満ちている。

 代沢小安吾文学碑前で我らは地図を配った。今度の新地図には代沢小に関しては新しい情報を加えた。「鉛筆部隊の母校」である。この鉛筆部隊はWikiにも詳しく載っている。私はここ三年ばかり6年生に「鉛筆部隊と特攻隊」の話をしている。

 昨年十二月に「鉛筆部隊と特攻隊」というテーマで授業は行った。百数名の六年生は授業の感想文を書いてくれた。一人一人が丁寧に感想を書いていた。私は、自身鉛筆部隊の伝承者だ、やはり思いが伝われば嬉しい。それで全ての感想文をワープロで起こし、これをこのブログにすべて記した。記録としても貴重と思ったからだ。

 「鉛筆部隊と特攻隊」では、核になる部分がある。特攻隊員が鉛筆部隊に手紙を出す。「この手紙が着くころにはこの世の人でない」と書いてあった。「皆さんに後の世を託します」と締め括っている。

 今回、六年生が書いた作文の中に「後の世はまかせてください」と書いた者が三名もいた。心温まる思いが感想を通して伝わってきたことだ。私自身、思ったことは当地における気の伝承である。気概とか、気脈とか……
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2024年04月02日

下北沢X物語(4913)―やはり人は地図を配って死ぬ―

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(一)我々の地図をAIに問うてみた。「『下北沢文士町文化地図』は、改訂九版で、下北沢の文士たちの足跡をたどるのに役立つ貴重な情報源です。興味深い文学碑や旧居跡を探索する際に、ぜひご活用ください 」と。九版を認識しているのは驚きだ。この地図配りを30日31日と行った。北沢川緑道安吾文学碑前だ、桜は咲き始めたばかりで人通りは少ない。しかし、好天気で暑いほどだ、人はそこそこに通る、子犬を連れての散歩人、足早に歩く外国人などだ。時に立ち止まった人と雑談をする。「ここを一旦離れたのだけど、親が亡くなり,相続税を払わなくてはならない、住めば税が安くなる」という出戻りの人も。緑道沿いは公示地価が軒並みアップした地域だ。新築一軒屋は皆一億円を超える。並みの給料では買えない。
「若者が住もうと思ってもここには住めませんね」と言った人がいた。

 我々の地図配りはボランティアである。地図を配ってもいいし、配らずに椅子に座ってぼんやりと道行く人を眺めていてもいい。とがめだてられることは何一つない。
「ここに何もしないで居られるというのは幸せですね」と幾田さん。
「それは名言ですね」と私。
 言わば黄金時間である。先年、地図配りでの記念写真を取り出してきたら、なんと九人写っている中で五人も亡くなっていた。ここから「人は地図配りをして死ぬ」というフレーズが浮かんで来た。実際ボランティアをしてみると皆がこの活動にやってきた理由が分かる。何をするでもないが、ここに居るという時間は安らぎだ。歩く必要もない。ただのんべんだらりと桜を眺めて座っていてもよい。

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2024年03月31日

下北沢X物語(4912)ー北沢川文化遺産保存の会会報第213号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第213号    
           2024年4月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1,三軒茶屋追分考
                       木村 康伸
 三軒茶屋の街は、当会にとって下北沢に次ぐ重要なフィールドである。ちょうど一年前には「下北沢文士町文化地図」の姉妹版である「三軒茶屋文士町文化地図」も発行された。
 この三軒茶屋は江戸時代後期、ここを通る大山道(相州往還)の追分(分岐点)が発生したことにより生まれた街である。用賀との間を結ぶ新道ができ、旧道と新道の追分に三軒の茶屋ができたのが街の発端である。
 ではなぜ、三軒茶屋と用賀の間の新道は生まれたのか。それには三つの理由が考えられる。
 一つめは旧道にある世田谷の位置付けの変化である。交通の要衝であった世田谷は吉良氏の城下町として発展し、かつては「荏原郡・多磨郡ノ内ニテハ第一ノ交易ノ所ナリ」と言われた。戦国時代、そこに目を付けた小田原北条氏は、ここに新たな宿場町(世田谷新宿)を作り「六斎市」を始めた。いわば楽市であり、現在まで続くボロ市の起源である。
 ところが江戸時代になると世田谷は衰退する。彦根藩世田谷領(江戸賄料)の代官屋敷がこの地に置かれたものの、それはいわば一地方の出先機関に過ぎなかった。世田谷は、江戸と相州を往来するのに、必ずしも通らなければいけない場所ではなくなった。そこで、世田谷を通らない新道ができたと考えられる。
 二つめは川との関わりである。旧道と新道の間には、蛇崩川という川が流れている。旧道は、この蛇崩川を避けるように弦巻付近で川の谷頭を横切っている。かたや新道は、だいぶ下流の上馬引沢(上馬)付近でこの川を横切っている。かつて蛇崩川はその名の通り暴れ川で、源頼朝が馬を引いて渡ったという故事に因んで馬引沢という地名があるくらいなのだが、江戸時代も後期となれば蛇崩川の治水や灌漑も進み、上馬引沢あたりの流れもだいぶ落ち着いていたのではないか。実際、江戸時代後期に作られた『目黒筋御場絵図』には、蛇崩川上流に「水溜」が描かれている。こうした蛇崩川の整備が進んで、新道が通れるようになったと考えられる。
 三つめは品川用水の存在である。戸越にある細川家下屋敷の庭園に水を引くため江戸時代初期に作られたこの用水に、新道は沿っている。また、新道の途中にある世田ヶ谷新町(現在の桜新町)は、江戸時代になって開かれた町である。道が先か用水が先か、はたまた道が先か新町が先かはわからないが、用水開削、新町開発によって新たな道が生まれたことは確かであろう。
 江戸時代を通じたこのような変化により、大山道(相州往還)の新道は生まれ追分ができ、三軒茶屋の街ができた。そんな街の生い立ちも考えながら「三軒茶屋文士町文化地図」を手に、この春改めて文士町三軒茶屋の街を散策してみてはいかがだろうか。

2,「大山道街歩き」に参加して
                       植村昭夫(世田谷区在住)
 去る3月16日の街歩きは、作年10月に行われた大山道街歩きの続編にして完結編ということでした。私は前回参加をとても楽しみにしていましたが都合がつかず、今回は満を持して参加しました。前回日没時間切れで中断した最寄り駅の世田谷線上町駅をスタートして神奈川県伊勢原にある大山への道を徒歩で辿りました。途中、用賀で一旦休憩、その後大山道の東京都側の終点二子玉川まで、寄り道を含めると全長約6kmあまりの長いコースでした。講師はきむらけん先生のご子息、木村康伸さんでしたが、探求心にあふれた解説で大変楽しませて頂きました。
 今回のコースの前半である用賀までの大山道(旧道)は、三軒茶屋から若林、世田谷、弦巻を経て用賀に至るルートですが、17世紀半ばには三軒茶屋、上馬、駒沢、桜新町を経て用賀に至る大山道(新道)が作られます。木村さんは「大山道(新道)はなぜできたか」というテーマを提示して、道を辿りながらいくつかの要素を提示してこの謎を解読していきました。コースの後半は、用賀から瀬田を通って二子玉川まで歩きましたが、途中、「瀬田はどうして世田谷の発展に重要であったか」の謎解きが行われました。史実や道に残された痕跡などから謎解きをする様子は、ブラタモリさながら、よくできたTV番組を実体験させて頂いたような気分で、街歩きの身体的運動と頭の体操が同時に出来、春の一日のすがすがしさを心から堪能することが出来ました。
 旧跡を巡る街歩きは、過去の痕跡を現在に投影して人類の歴史や発展に思いを馳せるロマンティックで知的な楽しみだと思っています。きむら先生の今後の企画を楽しみにしております。

3,ことしの桜                      
                         いわきやすお
あたたかい初夏のような気温かと思えば、翌日は急速冷凍のような寒さのぶり返しと、ジグザグ行進と乱高下のような今年の気象です。その変化は折れ線グラフを連想しました。木蓮の花が開き、沈丁花が香りで誘惑してきました。そんな東京地方にも桜が咲き、しばしのやすらぎと癒しを私たちに配達してくれます。このころに降る雨のことを桜雨と呼ぶようです。私は桜守になった気分でグーからパーになったサクラを愛でました。

先日の午後、世田谷にある北沢川緑道沿いを散策しました。気温もようやく例年の温度になりました。青空に枝と羽を広げている桜はお花見する人を淡江白色で迎えてくれました。「花のいのちは短くて・・・」と言われますが、満開を終えると桜は花吹雪となり散っていきます。花びらが流れていく様子はダイナミックで、桜が主役の舞台を繰り広げているようにも思えます。

散策の途中で学校の授業を終え、家路に向かう児童らと出会いました。赤やピンクといった色とりどりのランドセルに体を押されながら歩いて行きました。小学校生の集団下校のようでした。花びらがお土産とばかりに子どもらの肩に落ちていきました。
 
私は春の季節が好きです。まだら模様のパンジーがお日さまとコンニチハをし、菜の花は鮮やかな黄色で自己表現をしています。子どものころ、菜の花にとまった紋白蝶を指でさっと捕まえたものでした。そろそろ交替の時季かなと枝にしがみ付く椿は、終わりの紅色を絞っています。春の花メニューというところでしょうか。

地震による災害で大きな傷を負った能登地方の春はこれからですが、今年は遅れるのでしょうか。ある新聞の夕刊に、瓦礫の中からよみがえって咲く一輪の桜の写真が載っていました。希望はくじけないと健気に空を見上げているように思えました。どんな場所にも春はひとしく訪れます。

北陸の春は回り道をしていくかもしれませんが、温かく見守り応援していきたいと思います。歩道に散った花びらを寄せ集め、両手のなかでまるめてみました。桜の炊き出しで被災した人たちを癒すことができたらいいなと祈りながら。                 
4、2024年度始まる 
・世田谷区は、地域の絆連携活性化事業を行っている。当会の企画立案としては、「下北沢文士町文化地図をまちの案内表示版に」というアィデァだ。つまり、9版地図を大型のアクリル版に印刷して、これを下北沢や代田のまち案内看板としようとするものだ。北沢川緑道に既に掲出してあるがもう古くなっている。これをリニューアルして区域各所に掲示して、まちの案内版として活用してもらう。助成金は25万円である、これで何枚できるか。場合によっては小学校に寄贈し、教材として使ってもらうというのも一つの方法だ。この企画は、谷亀冢魂馗垢鮗瓦砲靴峠成を申請したい。
・今年は疎開学童80周年となる。この関連で、「2024年度 下馬図書館・平和資料館 
共同事業」として「世田谷から平和を考える − 疎開児童と特攻隊員の出会い」などが考えられているようである。まだ企画段階だが、当方に協力の要請があった。 
・戦後79年目を迎える。昨年から−鎮魂の夏、世田谷野砲兵の戦跡を訪ねる−を実施している。今年もこれを七月に町歩きの一環として行うつもりである。

5、町歩きの案内
 毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。

第194回 4月20日(土)駒沢の民族学を歩く
 案内者 きむらけん 三軒茶屋改札前 13時30分
〇旧駒沢町域にある伝説の遺跡を訪ねる。‐綰呂Δ覆蠕仞廣駒沢球場跡・薬科大遺跡跡¬鄲凜謄灰謄鷓笄D瓮久保のダイダラボッチ跡→げ芝呂梁荵阿離瀬ぅ瀬薀椒奪狙廣覚志郷の北斗星遙拝所跡?(駒繋神社)→三軒茶屋駅
コースの面白さ:民族伝承の跡地を訪ねての町歩きである。これも初の試み。
三軒茶屋一帯は千年前の覚志郷ではないかと言われています。今回最後は駒繋神社に行きお参りをします。実はここは覚志郷の遙拝所ではなかったか、つまりは北斗星を祈る場だった。古代信仰の中心地ではとの説があります。
〇駒繋神社を終点とし、三軒茶屋駅までは案内します。*もともと1月に予定していた行事ですが、荒天で中止になって実施できなかったので再実施します。


第195回 特別企画 下北沢猫町散歩−朔太郎の忌日にゆかりの地を歩く−
5月11日(土) 案内者 きむらけん 集合場所下北沢駅東口 13時30分
雨天の場合翌日12日(日)に延期。順延は一日のみ。
駅前→下北沢の旧居→一番街の十字路→旧北沢局ポスト→一本松公園→御殿山小路→北沢4町目公園→緑小路→下北沢駅西口→下北線路街→世田谷代田駅(ダイダラボッチ広場)→代田の丘の61号鉄塔(世田谷区地域風景資産)→朔太郎の代田旧居→北沢川緑道→三好達治文学顕彰碑→鎌倉通→旧静仙閣跡(北川冬彦)→下北沢駅
◎今回は、新地図「下北沢文士町文化地図」9版の完成を記念しておこなう。これには「シモキタザワ猫町散歩」のモデルコースを新たに記入した、加えて裏面全体を萩原朔太郎を特集し、下北沢・代田と詩人との関わりを中心にまとめたものだ。今回は朔太郎の忌日、5月11日(土)に日にちを設定しておこなうものである。当日雨天の場合は翌日とする。今回は区の広報にも案内を出すことにして定員を15名とすることにした。5月1日の区のお知らせ「せたがや」に掲載申請をしたい。特別企画ということで費用も資料代・保険代をひっくるめて800円とした。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用については 資料代含めて通常は500円 希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498  

■ 編集後記
▲エッセイを募集しています。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。▲新版・9版「下北沢文士町文化地図」は3月20日に発行され、市民には無料で配布している。世田谷区のホームページにこの地図はアップされている。表題は、「下北沢周辺の文士旧居跡」となっている。検索でこれを引くと地図が出てくる、ネット上でも閲覧ができるということである。なお、世田谷区中央図書館、国立国会図書館には現物を寄贈した。すでに蔵書として収められている。公的機関で寄贈の要望があれば対応したい。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。




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2024年03月30日

下北沢X物語(4911)―地図配り:18年目のミステリー―

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(一)今日は、安吾文学碑前で地図配りを行った。日和もよく暖かい。しかし、桜は一分咲きで、遊歩道の人出はまばらだった。それでも三々五々人がとおりかかる。「新しく出来た地図はいりませんか?」と声かけをする。興味を持った人が手に取る。このときに会話が始まる。「咲いていないんだけど天気に誘われてね」という御夫婦。「子どもがお外に行こうというのでつい来てしまいました」とこれは若夫婦。家の前が菊池寛の家だったのですよ」とやってきた男の人、「えっ、本当ですか!」、劇作家、ジャーナリスト,小説家、文藝春秋を興した人である。ビックネームである。

「すぐそこですよ。私は今も印象深く覚えているのは、菊池寛の表札の掛かっているところで受験前に記念撮影をしたんですよ」と彼。
「ああ、確か前にありました。ここら辺では横光利一とか、萩原朔太郎とかが表札を頻繁に盗まれるんですね。そういう名の知られた人の表札を受験生が盗むんですね。そういうのを持っていると受かるという噂がありましたね」と、私。

「記念写真を撮ったのは確かです、有名人にあやかったのですね、探せば写真は出てくるかもしれません」
「その証言は貴重ですよ。ぜひ探してください」
「はい、私が聞いているのはそこが終焉の地だということです」
「へぇ、亡くなったのですか。それはなおさら重要だ。
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2024年03月29日

下北沢X物語(4910)―人は地図を配って死ぬ 2―

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(一)人は死んで行く、が、それは実感できない。が、たまたまかつて撮った記念写真が出てきた。安吾文学碑前で地図配りをしたときのものだ。写っていた9人のうち5人もが亡くなっていた。死がリアルに感じられた。「人は地図を配って死ぬ」、深遠な哲学だ。我々は安吾文学碑を建てた。時間が経ってみるとこれも「安吾の居る風景」となっていた。前に学校が改築中で使えないときがあって他所で地図を配った。このときは気抜けがした。やはり我々の心の中に安吾文学碑が染み付いていた。この碑の文言は『風と光と二十の私』から選んだ。文学関係者が「本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる」を推挙してきた。「本当に真に生きた人は地図を配って死んだ人の中にいる」、考えてみると亡くなった5人は一刻者だった。そういう人が地図を配っていたのである。

 5人は皆思い出深い人である。この中の一人は金子善高さんである。彼は安吾文学碑の掃苔者、日々草をむしったり、苔を植えたりして保守をしてきた。
 我らは前職が何であったかは聞かない。あるとき図案が必要なことがあった。金子さんそのイメージをさらっと書いてもってきた。日立の技術者だと知った。

 死んだ人の中に田中幸子さんがいる。彼女は鉛筆部隊の一人だ。特攻隊員の一人、今野勝郎軍曹に「生きて帰ったらお嫁さんになって」と告白された人だ。
 終生このことが忘れられずに生きてきた「特攻隊員に足を向けて寝られません」と言っていた。
「母が亡くなったときは桜の真っ盛りの時でした。霊柩車が進んでいく道に、桜が咲いていて花びらが降りかかってきましたからね」
 息子さんの言である。
 特攻突撃して亡くなった今野勝郎軍曹は桜の花びらとなって舞っていたのかもしれない、そう思った。

 亡くなった今井明さんも写っている、代沢小の卒業生だ。この人からは色んなものをもらった。改札鋏はその一つだ。今も手元にある。彼は飛行機のドアを持っていた。
「あれはどうしたのだろうか」と思うことがある。

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2024年03月28日

下北沢X物語(4909)―人は地図を配って死ぬ―

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(一)代沢小安吾文学碑前で毎年、桜祭りのときに地図配りをしていた。コロナが流行ったことからこの活動を中断していた。新地図、「下北沢文士町文化地図」9版ができたこともあり、今週土日に活動を再開する。今回の参考にしようと2017年4月2日に撮った記念写真を引っ張り出してみた。驚いたのは9人が写っているが、そのうち5人が亡くなっていた、空恐ろしい真実である、ここから導かれたのが「人は地図配りをして死ぬ」というフレーズだ。が、地図を配ったら死ぬのだろうか?……この地図配りにはノルマはない。花見見物に来た人に、ただ地図を渡すだけである。が、もらった人は目を瞠る。二つ折りにした地図を広げて、そして立ち止まる、感銘の証しだ。『キミらそういうことをやっている人?』という眼差しを向けてくる、悪い気持ちはしない、人生意気に感じもする。「ここだ!」年老いてもなおこの活動が楽しかった、それで皆は地図配りに来ていたのでは?

 今回のは9版だ、初版を確認してみる。2006年12月25日が発行日だ、もうかれこれ18年前となる。この地図のタイトルは、『下北沢鉄道X交点周辺文化地図』となっている。
2版からは『下北沢文士町文化地図』と呼ぶようになった。
 
 初版から2版へ、名前を変更したのは表題が長いからであろう。しかし、初版の命名は
核心を捉えたものだ。小田急線と井の頭線の交わりを「X交点」と称した。鉄道クロッシングが文化の核である。ここで出会いがあって別れがある、機会や機縁が多く生まれる場であった。

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2024年03月26日

下北沢X物語(4908)―アニメと下北沢文士町 5―

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(一)日本SFの始祖は若林に住んでいた海野十三である。戦争記録としての「敗戦日記」の作者と知って調べたことがある。豊田有恒も彼に心酔していて故郷徳島市の文学碑にも訪れている。碑には「全人類は科学の恩恵に浴しつつも、同時にまた科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔との反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいであろうか」と刻まれている。ここから想起されたのは福島原発事故だ。我らは「科学の恩恵に浴し」てきたが今は放射能という「科学恐怖の夢に脅かされてている」、SFは先々を見通す夢である。筋立てでは原子力がよく使われた。鉄腕アトムの動力源は原子力だった。が、原発事故を契機に「原子力明るい未来のエネルギー」という標語は撤去された。

今、EXSPO 2025が大きな話題となっている。『日本アニメ誕生』では前の大坂万博のことが触れられている。

 70年の大阪万博では小松左京御大をはじめ、多くの第一世代のSF作家が。いろいろなパビリオンにかんでいた。ぼくも手塚治虫に誘われ、フジパンのロボット館というパビリオンのアイディア・コンセプトに関わり、万博会場へ通った話は、前に書いたとうりである。関西電力の美浜発電所から会場へ電気が送られていたが、場内アナウンスは科学の成果を誇らしげに歌いあげていた。
「この会場の電力は、関電美浜発電所の原子の日によって、まかなわれています」


70年3月に大阪万博は開幕した。「万国博に原子の灯を」が合言葉で、70年8月8日に美浜原子力発電所一号機は試送電を開始。万博会場に電気が届いた。会場にこのことが案内されると全員がこぞって拍手を送った。我々は原子力に夢を託していた。

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2024年03月25日

下北沢X物語(4907)―アニメと下北沢文士町 4―

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(一)下北沢文士町には多くの文化ジャンルが集っていた。この呼称は文学系統、つまりは詩歌や文学、及び絵画、彫刻などを想定していた。が、当地には漫画やアニメを核とする集団も活動していることを知って驚いた。新があれば旧もある。この対照比較から当地には文化史が眠って居ることに気づいた。始まりは1923(大正12)年、詩人の福田正夫が北沢5丁目に転居してきた。民衆派詩人の大家だ<我らは郷土から生まれる。我らは台地から生まれる>と詩霊は大地から生まれる。一方、豊田有恒が主宰する「パラレルクリエーション」は空想から生まれる。この会は1982(昭和57)年に下北沢で発足している。時は60年経過している。詩に始まってそしてアニメへ。新しいジャンルの擡頭だ、ここには大きな時代の変化がある。言葉を軸とする詩から絵を核とするアニメへ。

 文士町における人と人との交流、これは興味深い。人は様々だ、人好きのする人、そうでない人。福田正夫は親分肌である、絶えず彼のところには人が訪れていた。人好きがするから人が集まる。手元に「追悼 福田正夫−詩と生涯」(冬至書房新社)がある。彼を慕っていた仲間が彼について思いを語っている。40名もの名が連ねられている。福田正夫は町の中心人物だった。

 パラレルクリエーションの豊田有恒は前橋の医師の家系に生まれた。萩原朔太郎も同じく前橋で父親は医院を開業していた。豊田の父親は鷹揚な人だったらしい、前橋で食い詰めたら、豊田家に行けばなんとかなるという逸話を紹介していた。

 一方の萩原朔太郎である、彼の母親が来客を嫌っていたと。『父・萩原朔太郎』(萩原葉子)の中で書いている。が、朔太郎の妹と結婚した佐藤惣之助は別格だった。彼の作詩になる『赤城の子守歌』が代田の自宅で披露されて沸きたったと。
 朔太郎家には詩人が多く集うということもなかった。一方、下北沢のパラクリには千客万来、ひきもきらず同人が集まっていた。

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2024年03月23日

下北沢X物語(4906)―アニメと下北沢文士町 3―

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(一)下北沢文士町は類例のない都市だ、9版地図冒頭総括文で記した。あらゆる文化ジャンルが当地には集まって来ている。言葉芸術としての韻文及び散文、音楽芸術としての作曲家、演奏家、歌い手、絵画芸術としての日本画、洋画、これに加えてアニメがある。私は当地の呼称を文士村とせずに文士町とした。前者は一過的だ、人は集まり、別れていく、そして消えていく。が、当地は文化人の参集が継続して続いている。命脈を保って今にある、人が途切れることなく集まってきている。興味深いことは時代とともにジャンルが変わってきている点だ。今回のアニメとの出会いは、当地に文化史が存在することを知らしめた。文化百年史の嚆矢は詩人たちの参集で始まった。

 下北沢一帯に詩人や作家が集まってきた。1923年12月、「世田谷下北沢809番地」に民衆派詩人福田正夫が震災に出会って小田原から転居してきた。ここに詩人たちが集まり始めた。和暦でいうと大正12年である。大震災後のことである。

 旧番地で記されたここは、現番地でいうと北沢5丁目である。京王線笹塚駅に近い。文化人が当地一帯に集まってくるが、鉄道は大きな役割を果たしている。福田正夫は笹塚駅を最寄りとする場所にまず民衆派の基点を作った。

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2024年03月22日

下北沢X物語(4905)―アニメと下北沢文士町 2―

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(一)その訃報は大きく伝えられている。「SF作家 豊田有恒さん死去 『鉄腕アトム』の脚本家としても活躍」と。亡くなられたのは2023年11月28日だ。東京都内の自宅でとあることから北沢4丁目のことだ。その家には「パラクリ」とも略称された「パラレルクリエーション」のシンボルマークがひっそりと掲げられている。ここには多くの、SFやアニメに関係する若者やベテランが参集していた。把握されざる文化の核があったことは驚きだ。我等は「下北沢文士町文化地図」を作成している。昨日3月20日は新版「下北沢文士町文化地図」が発刊され日だ。が、これにはアニメ関係は一切載っていない。

  「パラレル・クリエーション」は、開所に当たって「記念パーティ」を開いている。

 私たちの「パラレル・クリエーション」は、一九八二年十月十四日をもって、株式会社
として発足いたしました。SFという共通項で結ばれたクリエーターが、それぞれの仕事を、パラレルに行う会社です。今後ともよろしくお願いします。


 一九八二年は昭和五十七年だ、昭和末期である、アニメの成長期、成熟期だとも言える。会の名が象徴的だ。(Wiki)」

パラレルワールド(Parallel universe, Parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。

別世界を構想したり想像したりする者たちの集まりということだ。その伝達媒体がアニメである。
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2024年03月20日

下北沢X物語(4904)―春の世田谷大山道を歩く 3―

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(一)歩けば分かる、大山道の旧道と新道、町のたたずまいをみると前者は町並みが古い、後者は田園を突っ切って、街区、中心街を避けて造営された。注目すべきはその町は北条氏の時代殷賑を極めたところ、楽市・ボロ市が開かれていたところだ。ただ単に市が立ったというだけではない。世田谷の歴史に詳しい鈴木堅次郎は『世田谷の道路と発達』(せたかい62号)で楽市・ボロ市では「未婚者の見合い」が行われたという。放射状の道路(大山道)と環状道路(鎌倉道)とが接する地点で男女が出会った。女性はおめかしをして男子は髪を刈って出かけた。心ときめく市だ、性愛は人を強く惹きつける、市の立つときはかなり遠くから人は集まってきた。ボロ市のあるときは延々と人が繋がっていたという。

 江戸期幕藩体制が確立するとすべてが江戸中心となる。江戸は栄えここを中心とする物流も増えた。大山道では相模からだけでなく伊豆や静岡方面から物が入ってきた。海産物や干物、そしてお茶である。相模からは煙草が運ばれた。相模川からは生鮎が出荷された。

 初夏になると、相模川から鮎もこの道で運ばれていった。昼漁った鮎は「わた」を抜かれて舟形籠に1側に並べられたものを20枚ずつ唐草模様の風呂敷に包み、天秤棒に二つつるして、印半天に縄の三尺、半股引に草履履きの若者によって運ばれた。
 真夜中、相模を出発、鶴間で一休み「エッサ、ホイホイ」の掛け声で、5〜6人のグループがひた走り、荏田か溝の口の中継所で、次の若者グループと交代し三軒茶屋を経て青山へ、若者はここで汗をふき、身なりを直して江戸に入り、日本橋魚河岸の午前4時の市に間に合わせたのである。
「世田谷の古道」 東京都世田谷区教育委員会 1975


田舎の若者が大山道をひたすら走ってくる。が、青山を過ぎていよいよ江戸に入るときにみなりを調えた。
「いいか、江戸に入ったら衣服を調えよ、だらしない恰好でいくと田舎もんがきたと蔑まれてしまう。そうすると鮎の値段までさげられてしまう。大事なことは新鮮な鮎同様にぴしっとすることだな」
 彼らは親方にそう言われていた。
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2024年03月19日

下北沢X物語(4903)―春の世田谷大山道を歩く 2―

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(一)古道は歴史を貯えた教科書だ、ところどころに道しるべや地蔵尊が建っていて往時を偲べる。世田谷大山道は三軒茶屋で旧道と新道の二つに分かれ、用賀で再び合流する。後者はバイパス機能を要しているがその差は290Mに過ぎない。なぜ新道を創ったのか。この課題の回答は歩けば分かってくる。旧道は元々あった、和倉沢往還と呼びかつては東海道の一部であった。新道は江戸時代、幕府の手によって造成された。これの背景には歴史がある。旧道に今も固有の空気がある、こちらには鍵型に屈曲した道がある、人のエネルギーを減殺する装置だ。途中に代官屋敷が残っていていかめしくもある。一方新道を代表する町は桜新町だ。明るくて賑やかだ、道にはサザエさん像が建つ、長谷川町子が居住した町だ、やはり漫画同様に自由性がある。新旧の古道には今も歴史が滲み出ている。

 世田谷大山道は、蛇崩川に並行している。川と道との関係は深い。旧道の場合、奥の水源に近いところで渡っている。が、新道では三軒茶屋を過ぎたところで横断する。この点は興味深い。

 蛇崩川という名称はどこから来たのか、由来には諸説ある、大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたからもその一つだ。この川の名には意味が込められている。それで蛇が崩したとの説も想像されたのだろう。

 地名は人がつけたものである。当地に最初に住み着いた人などが名付けたものだろう。命名側の見方がほの見える。決していい印象ではなかったようだ。農業をなりわいとする者には御しがたい川だったとも思える。が、時代が下るにつれ印象が変わってきた、川も改修されたのではないか。

「江戸時代になれば江戸近郊にある世田谷でも治水や灌漑が進み、蛇崩川の流れもそれなりに落ち着いたのかもしれない」と案内者の木村康伸さん、江戸期になって蛇崩川の渡河も容易になり、三軒茶屋を過ぎてすぐに河を渡れるようになった。
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2024年03月17日

下北沢X物語(4902)―春の世田谷大山道を歩く―

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(一)昨日は好天に恵まれ中、まち歩きを行った。言えば町の物語を紐解いていく旅である。歩いたのは世田谷を横断する大山道である。三軒茶屋を起点として二子玉川を目指した。今回は2回目で上町から二子の渡し場までだ。テーマはなぜに三茶追分ができたかだ。我等の仲間、故別宮通孝さんは新道と旧道の距離の差は290Mしかない。なのになぜに幕府は道普請をして新道を作ったか?その問題提起していた。時代の歴史が深く絡む問題だ。旧道はボロ市通を突き抜けていく。市は小田原北条氏が開いた楽市から始まった。繁栄を究めた市も時代が変わって江戸が中心となると廃れた。新道バイパスは廃れた町を捨て去った。つまり、江戸中心の交通観が新道造成の一因ではないか、案内人の木村康伸さんはそう説明していた。

 出発前に世田谷郷土資料館に寄って発行されたばかりの「下北沢文士町文化地図」9版を届けた。
「今回作成した9版は文化人の旧居跡が二十数個も増えました。顕著なことは世田谷代田側にマークが増えたのです。文化の中心が下北沢側から代田にシフトしてしまったのです」「もともと代田側が中心だったでしょう」
 学芸員は言う。
「そうそう、面白い話を聞いたのですよ。代田には中原商店街がありましたね。とても賑わっていたと。下北沢側に住む人は、近間には割烹着で行くのですが、中原商店街に行くときは化粧をした行ったと」
 
 下北沢には新市街ができた。小田急線敷地跡には商業施設ができて「下北線路街」と呼ばれるようになった。

「世田谷代田側も含めて『下北線路街』というでしょう、あれは変ですよ。こちら世田谷代田側の歴史が古いのですからね」と地元の人は言う。
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2024年03月16日

下北沢X物語(4901)―アニメと下北沢文士町―

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(一)新版9版「下北沢文士町文化地図」はこの3月20日を発行日とている。最終校になったとき偶然にこれまでにない文化ジャンルの存在を知って衝撃を受けた。たまたま図書館で文芸年鑑を見つけた。ここに文芸関係の住所が記載されていた。当該地区の居住人がいないかチェックをした。20年間、文化人の居住地点を調べてきた。常なる緊張があった、想像予想があった、網にかからない人がいると。ゆえに年鑑の住所を丹念に見ていった。見つかるとネットで検索した。皆、Wikiは正確性を欠くという。が、人名検索では最も頼りになるものだ。と、北沢在住の文化人を見つけた。豊田有恒の名だ、「日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家」とあった。知ったことはつい最近物故されたことだ。そしてもっとも肝心な点は「下北沢で創作集団パラレル・クリエーションを主宰」し、ここにアニメ作家が多数、参集してきていたとあった。

 下北沢における文芸拠点が思い起こされた。代田の翠月荘、ここは横光利一が中山義秀の梁山泊と言っていたという。池ノ上の見晴荘、ここは白秋門下生が集まっていた。一番街のお茶屋住吉園、ここは女流がたむろしていたという。
 これらは証言を聞いたり、資料を調べたりして分かったことだ。が、たまたま見つかったパラレルクリエーションの存在は衝撃だった。

 Wikiにはパラレルクリエーションは「1982年頃から1991年にかけて」あったという。ベテランや新人など多数のアニメーターがやって来ていたという。

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2024年03月14日

下北沢X物語(4900)―都市論音論文学論:まとめ―

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(一)音は深遠である、ただこれは瞬時に消えるものだ。が、調べると文学作品に音の記録が残っている。例えば独歩『武蔵野』だ、「屋外の風の音をきく、忽ち遠く忽ち近し。春や襲ひし、冬は遁れし。」風の音を聴いて季節を知った。また、私たちは音を通して空間認識をしていた。それは鐘の音である。複数の音が入り交じって聞こえてくる。音の方向、また音色でどこ寺のものかが分かった。かつては鐘の音を聞き分けて生活をしていた。が、これは日本だけではない、イギリスでは夕暮れになるといくつもの教会の鐘の音が響いたと。やはり、どこの教会のものだと聞き分けられた。かつては土地土地固有の音があった。鍛冶屋からは「トンカン」と、三味線の師匠の家からは、「チントンシャン」と。どこぞの家からは祝詞をあげる声が聞こえてきた。音は地域文化だったのだ。

 千歳村粕谷に住んだ徳冨蘆花は『みみずのたはこと』を残している。今、読むと、記録的な意味で貴重であることが分かる。

 四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く。鄙びて長閑な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛。うなりをうって吹く二百十日の風。音なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺の響おと。凱旋の爆竹を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨のさゝやき。東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響ひびき。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家で井汲くむ音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。
『みみずのたはこと(上)』岩波文庫 1996


 居宅にいて端然と座って物音を聞いている、家は静かだ。が、あらゆる戸外の音が響いてくる。隠遁者の彼はその音で現実世界を捉えていた。一つ一つの音に趣や風情を感じていた。
 
 「東京の午砲につゞいて横浜の午砲。」は、素晴らしい。音が一拍ずれて聞こえてきた。

(二)
  さて、鐘の音である。蘆花はこう記している。

 夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘。真言宗の安穏寺。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音は聞こえる。東覚院、これも真言宗、つい向うの廻沢にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
 『みみずのたはこと(上)』岩波文庫


夕暮れに聞こえてくる鐘の音。蘆花はこれを待ち遠しく思っていたようだ。鐘の音を聴いて物思いに耽っていたようだ。三つもあれば何かしらの差がある、今日は東覚院は遅い。当番僧が遅れたのだろうか。安穏寺のは少し間遠だ、鐘撞きは考えごとをしながら撞いているのではないか、などと鐘の音は人に物思いをさせる。
前掲同著 

 鐘の音だけが聞こえるのではない、合間に近くの品川用水しつらえた水車がこっとんこっとんと鳴る。ねぐら帰るカラスの鳴き声、そして京王電車がコッタン、コッタンと駆けていく音も。彼はあらゆる音を聞きながら、そこに所在する自分を考えた。自然音、人工音などを聞きながら……

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2024年03月13日

下北沢X物語(4899)―都市論音論文学論 2―

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(一)「下の里で赤ん坊が生まれたというので泣き声を聞きに行ったんだよ。声を聞いたのは何十年ぶりか?あれを聞くと自分まで若返ってきて、まわりの風景までが新鮮に見えてきたんだよ」と過疎地の爺さん。「公園から聞こえてくる子どもの声は耳に突き刺さってくるぐらいうるさいのよ、我慢できずに区役所に苦情の電話を入れたのよ」とこれは都会の婆さん。現今、近代は音の格差が生まれている。毎日、散歩に出かける。すぐに宮前小学校にたどり着く。校庭で二十数名が運動をしている。活発な動きを見ているとこちらも元気になる。ふと思い出したのは、世田谷から来た疎開学童と浅間温泉で出会った特攻隊員たちのことだ、彼らは子どもに出会うことで命の洗濯ができた。子どもの持つ生命力に心を打たれたからである。

 今日、散歩していて出会ったのはカラスだ、その声はうるさい、が、と、立ち止まって電線に留まっている黒い羽を観察する。身体を上下させて「カァカァ」と鳴く。多分、仲間に呼びかけているのだろう。『こっちのゴミは美味しいぞ』とでも言っているのだろうか。そんなことを思っているとカラスですら慕わしく思えてくる。

 散歩では駒沢公園にたどり着いた。カキンと言う音、金属バットにボールが当たる音だ、これは野球場。「後ろ、後ろ、ちゃんと見ろよ」とコーチの声。これはサッカー場だ。

「右は男性用、左は女性用、真ん中は共用トイレ……」
 この放送案内は都立公園仕様でどこもここも全く同じだ。毎回毎回、聞かされるので脇から入って探知されないようにしている。

 公園は都会人が息抜きをする自由な空間だ。が、施設総体としては自由に対して拒絶的である。まずベンチだ、真ん中に仕切り棒がある、また一脚一脚に「禁煙」の注意書きがある。思うに随所に日本の島国根性が滲み出ている。個々人の生活に小うるさく注意をしささいなことに干渉してくる。
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2024年03月11日

下北沢X物語(4898)―都市論音論文学論―

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(一)音というものは一瞬で消えてしまう。記憶には残らない、が、人間は音とともに生きてきた。北沢の古老三十尾生彦さん、かつては町中で物売りの声に満ちていたと。太子堂の近衛野砲兵連隊にいた田中良輔さん、「表通りを通る玉電の音を聞くと娑婆が恋しくてね」と。そう言えば東京の午砲はこの連隊の当番兵が宮城まで行って撃っていた。が、今を生きている我らはすっかり音を忘却してしまった。ここ一時間の記憶ではカラスの鳴き声、救急車の音だけだ。音というものは我等の思念を刻むものだ。言えば時の経過を知覚するものである。音を失った我々はのっぺらぼうの時間を生きている。近代時間というのはメリハリがない、光陰矢の如し、我等は一層に早く年老いているのでは。

 この間、代田宮前に住む奥谷民雄さんを訪ねた。
「斎藤寅次郎監督の住まいはどこでしたか?」
「そこそこだよ」
 彼は隣を指差した。とたんに一つの証言が身近に感じられた。斎藤寅次郎監督の息子さんは山崎国民学校に通っていた。疎開先は浅間温泉小柳の湯である。ここにも特攻隊員が宿泊していた。彼らは松本飛行場を飛び発ったとき戦闘機に乗って学童にお別れにきた。「そのときにまっ赤な毛布を持ち出して一生懸命にそれを振った者がいた。映画監督の息子だよ」
 その映画監督は誰なのかは証言者は教えてくれなかった。が、あるとき斎藤寅次郎が当地に住んでいたことを知り、直感的にかの監督の息子ではないかと思った。奥谷さんその息子さんと知り合いでこの件を尋ねたら、「そうだ!」との返答を得た。

 疎開学童と音、逸話は多くある。
1、浅間温泉では松本駅の機関車の遠汽笛が聞こえてきていた。この音を聞くと三年生の下級生は「おうちに帰りたい」と言って泣いた。それを六年生の女子が肩をなでながら宥めたという。
2、浅間には戦闘機が飛来してきていた。この音だけを聞いて男の子は機種の当てっこをしていたと聞いた。

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2024年03月10日

下北沢X物語(4897)―コブシ咲けども春遠し―

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(一)毎日歩かない日はない、日々都会の景色は変わる。目につくのは花だ、見頃だった赤い河津桜は終わりかけている。今は、白いコブシが咲いている。真っ青な空に今にも飛び発ちそうな花の小鳥たち、絵になる光景だ。が、一帯の樹木には受難が続く。広めの家が解体され、庭の樹木が容赦なく伐採される。荏原一帯建築需要が高い、戸建て、アパート、マンションなどが次々に建つ。異次元の金融緩和で金が余っている、金を借りてマンションを建てる方が税金の節約になる。耐用年数の来ていない家までどんどん倒される。そして売り出される家は一億円を超える。庶民には全く縁遠い話だ。が、連日、国会では裏金が話題になる。議員本人が問われても「私は関知していません」と平然と嘘をつく。世襲議員たちは旧来の価値観から抜け出る気配はない、大変革が求められているのに知らんぷりしている。野党もだらしないとう批評もあるが、自民公明に頼っていたら間違いなく日本は沈没する。我等にできることはえせ野党を除いた野党に票を入れることだ。

 明日は、3月11日、東日本大震災から14年目を迎える。そんな中にあってついこの間1月1日に能登地震が起きた。ここには志賀原発がある。東日本大震災の影響を受けて稼動はしていなかった。が、稼働中であればとんでもないことになっていた筈だ。想定されていない断層が動いて、2828ガルの地震が起きた。志賀原発の地震の揺れの想定. は、従来600ガルだったが、基準地震動を1,000ガルに引き上げた。しかし、これを遙かに上回る地震が起きた。

 志賀原発で事故が起こった場合に決められた経路で避難することになっていた。が、その道路のほとんどが壊れてしまい。役に立たなかった。しかし、北陸電力は再稼働を目指しているとのこと。地元では「廃炉に」との声が高まってきている。

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2024年03月08日

下北沢X物語(4896)―地形と芸術文化と代田 2―

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(一)人はか弱いものである、何かに頼って生きている。景観である富士、これを生涯の伴侶としている者も少なくない。この前、東工大構内の富士見橋で山を見ていたら高齢女性が「今日はよく見えますね。とても素敵ですね、私好きなんですよ。あれが無くなったら死んでしまいます」と。富士崇拝信仰の深さを思った。やはり荏原一帯では富士存在は大きい。世田谷代田は富士景観が得られるところとして知られている。当地一帯では昭和5年から6年にかけて耕地整理が行われた。小田急の開通が大きい、都心からのほどよい距離が魅力で中産階級の人々がやってきた。都内に勤めていて一定の実入りのある人が移ってきた。世田谷代田は緑が豊富、景観が得られるなどがあって自らが選んで移ってきた。

 下北沢文士町一帯が開けたのは何と言っても小田急の開通による影響が大きい。開業は1927年、昭和2年である。都心への通勤が便利、環境がよいということで人は移ってきた。一つは健康志向もあった。やはり都心は空気も汚れている。それに比べ、郊外はオゾンが一杯だ。子どもの健康にもいい。

 『昔の代田』を書いた今津博さんは、この冊子冒頭で当地に転居してきた理由を記述している。「ひ弱な兄弟の生育に不安を持っていた両親は、郊外住宅地への移転を考え」て代田にやってきた。開通間もない小田急沿線を選び、代田に決めた。昭和6年のことであったという。

 連れていかれた世田谷中原駅(現世田谷代田駅)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前、そして道の両側にはぼちぼち商店があるものの、畠、竹藪、こんもりとした林。それより巨大な鉄塔が建ち、線路の上空をまたいでとおる高圧線。こんな物は山の中にあるものと思っていたのに。
 僕はこんな田舎に住むの!
  『代田の昔』 今津博 2007年


昭和六年の頃は、まだ田舎であった。そこら中肥つぼもあって、子どもの頃、みなここに嵌まって臭い思いをしている。
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2024年03月07日

下北沢X物語(4895)―地形と芸術文化と代田―

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(一)下北沢文士町文化地図、当地一帯に居住した文化人の旧居が赤や青丸で表示されている。新地図9版では20名も増えている。これらマークの分布を見ると興味深いことが分かる。顕著なことは居住場所が地形と深く関係していることだ。とくにマークが密集しているのは地図の南西部である、代田地区である。ここには北沢川が貫流している。これの左岸はいわゆる崖線である、丘上で眺望もよく緑環境も豊かである。仙台から当地に越して来た中村汀女は南のり面では洗濯物がよく乾く、井戸水が豊富だということを句に詠んでいる。これで思い出すのは世田谷代田駅前にあった関豆腐店の親父さんの証言だ。「地下水を使った豆腐は評判だった、が、環七ができて下にマンホールを通したら大腸菌が増えて、仕方なく水道水に変えたよ」と言っていた。その親父さんももう亡くなった。

 環七ができて世田谷代田は大きく変わった。ここには中原商店街があった。とても賑やかで繁昌していた。下北沢側に住んでいた人の話だ。
「中原商店街にいくときは化粧して行ったわ」
 この「は」という助詞の使い方が巧い。つまりは下北沢側のお店には素で行ったということである。
「商店街がずっと連なっていて色んなお店があったんだ」
 代田宮前の奥谷民雄さんがつい二三日前に話していた。
 『代田の昔』を書いた故今津博さん、「中原商店街」(戦前)として店名を記した地図を残している。貴重な記録だ。
 これを見て注目したのは和菓子店だ、「岡埜栄泉」、「虎屋和菓子屋」と書かれている。もう一つ世田谷代田駅の南側に和菓子の「香風」があった。
「お屋敷が一軒なくなると菓子の売り上げが落ちたぐらいだね」
 昔、ここの主人からこの話を聞いた。後背地のお屋敷の需要があって和菓子屋が三軒もあった。
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2024年03月05日

下北沢X物語(4894)―代田宮前という土地柄―

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(一)新地図は9版、8版と比較すると一目瞭然、東南部に文化人マークが著しく増えている。場所は世田谷代田駅の南部一帯だ。赤は文学者、青は芸術家としている。増加部には青マークが多い。作曲家、音楽家、歌手、画家、映画監督などだ。地図は「下北沢文士町文化地図」としている。文化人の居住地を網羅したものである。この文化人の参集は小田原急行鉄道の開通が最も大きな要因である。鉄道開通は1927年4月、同年12月には代田には帝国音楽学校が創立されている。土地が低廉で交通の便がいいということで学校はできた。これによって芸術家が集まってくる。古関裕而は奥さんがここに入学したことで当地代田に越してきた。歌手や作曲家が多いのも学校があったからだ。大根畑にこつ然と音楽学校が出現した。楽器の音や歌声が聞こえてくる学校は、人の耳目を奪った。土地の宣伝にもなる。人が集まってくると住宅需要も増える。魅力なのは静かな環境だ。中産階級が次第に集まってきて町は形成された。新地図を眺めていると文化の中心は代田側にあったと思えてくる。

 疑問が湧いたら現場に行ってみることだ。私は根津山から歩いて代田宮前地区へ行った。ここには地形的な特徴がある。小田急線が世田谷代田から梅丘へ急坂で下っている。
宮前には山形大石田から引き揚げてきた斎藤茂吉が住んだ。やはり根津山のことを触れている。

 近所に根津山という丘陵がある。根津家の持山であったが、戦時中荒れたし、大部分が畑になった。そこに孫を連れて行くと、孫は通る小田急電車を見て居る。パンタグラフなどという語もおぼえて、実に熱心に見て居る。レンケツデンシヤ、キユウコウ、シンチユウグンなどということをもおぼえた。
初出:『群像』1950(昭和25)年3月


 根津山は電車観望台だ、いつの時代も同じだ、動いていく電車がまず子どもには面白い。子どもが唱える言葉が面白い。レンケツデンシャ、なぜこのことを言うか。連結していない電車、いわゆる単行も走っていた。連結電車は優等列車でかっこいい、それは急行だ。この坂をすっ飛ばしていく。みていると横腹に白い帯を巻いた電車が走っていく。
「あれはな、アメリカさん、アメリカの軍人を運ぶ電車だ、進駐軍専用電車だ」
 きっと大人が教えてくれたのだろう。

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2024年03月04日

下北沢X物語(4893)―根津山から代田宮前へ―

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(一)昨日は、羽根木公園の梅祭りで地図を配り人々を観察した。日和もよく大勢の観梅客がやってきた。かつてここは根津山と呼ばれていた。その山に人々は上ってくる。そぞろ歩きに見て、「人は坂があればそれを登りつめようとする思いが湧くものだ」と思った。萩原朔太郎は『坂』という詩で、「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。」と述べる。人間の根源に潜む坂への憧れである。近隣に住む文化人は散歩では根津山を欠かさなかった。すぐ側に住んでいたのは古関裕而である。山を歩き回って家に着く。すぐに書斎に入ると五線譜を取りだして散歩中に浮かんだ曲を符に落とし込んだ。根津山での逍遙から生み出された楽曲がいかに多いか。「暁に祈る」、「荒鷲の歌」。戦後では「とんがり帽子」、「長崎の鐘」、「いよまんての夜」などだ、多彩な音符をこの逍遙の中で拾った。根津山は都会の音を拾うパラボラアンテナだった。彼はそれを刺激として多種多様な音楽を編み出した。

 「梅祭り」での地図配りは初めてだ。要領が分からない。
「汀女さんの句碑を見ている人は必ず受け取ってくれますよ」と敬子さん。
 行ってみると一人いた。
「『ほぉう』こんなものがあるんですか。私はここの代田に越してきて住んでいるのです。出身は九州ですけどね」
「九州はどこですか」
「佐賀県の小城です」
「へぇ、そうなんですか。私、隣の久保田に小さい時住んでいました。懐かしいのは山ですね、天山です」
「ああ、そうそう小城の背後の山です」
「しかし、面白いもので山というのは角度によって見え方違うのですね。長崎本線で下ってくると右窓に山が見えてくるのですよ。佐賀駅を過ぎてつぎが鍋島、そして少し行くと嘉瀬川鉄橋ですね、そこまでくると山の形が急に生き生きしてくるんです。つまりは私が常々見ていた山の形がくっきりと浮かんでくるのですよ」
「わかります、わかります」
「思い出がありましてね、あの嘉瀬川鉄橋をブルートレインの『さくら』が東京に向かってテールランプを灯して消えていくのです。最愛の兄が上京していくのです。これに発想を得て童話に書いたのです。文学賞に応募したところ最優秀賞で百万円もらえました」
「へぇ、百万円ですか!」

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2024年03月02日

下北沢X物語(4892)―下北沢文士町文化地図9版刊行―

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(一)「北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念」とした新版地図9版が完成した。表面の地図には文化人旧居マークが20も増えた。下北線路街も加えた。裏面は萩原朔太郎特集である。幻影の『猫町』下北沢〜詩人の詩魂が今も生きている町〜とした。この地図づくりは長い長い道のりであった。情報集積は20年に及ぶ。が、詩人たちが集まり初めてたときからもう百年も経っている。当地に文化の先鞭をつけたのは詩であった。が、時代ともにジャンルは移行してきた。今日近代になってアニメも集ってきていることを知った。当地には百年に亘る文化史が潜んでいるのである。いつも総括文を私は書いている。このトップには「類例のない文学都市」という表題で「文士町文学論」を書いた。文芸文化が大きな影響を及ぼして文化都市が形成されている。恐らく全国に例をみない地域であると思う。

 長年の調べで分かったのは、当地には詩人、歌人、俳人、文士が集まってきた。また他ジャンル、画家、彫刻家、音楽家、映画,そして歌手や役者など、それは多岐に及ぶ。これらの集まりをひっくるめて文士町と名づけた。普通は文士村と呼ぶ。が、村では括りきれなかったからだ。

 文士村は言えば人と人との関係性の濃さを言うものである。村であれば人と人との関係は容易にたどっていける。が、当地では町全体での人の繋がりは分からない。居住人同士にどのような交渉があったのか不分明である。一つの側面としては同じ色合いの者が町の各所に集まっていた。典型的な例でいえば池ノ上近くの見晴荘は白秋系統、同じ池ノ上近くでは雨過山房、横光利一を慕う人々が集っていた。つい最近分かったのでは北沢4丁目にはパラレルクリエーションがあった。アニメ関係の人々がここに集ってきていた。

 村は党派的だが、町はそうではない。一刻者が集まって気を吐いていた。束縛よりも自由である。町の色合いが親分色で染められない点が特徴である。

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2024年03月01日

下北沢X物語(4894)ー北沢川文化遺産保存の会会報第212号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第212号    
           2024年3月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1,徒然なるままに・・・
                  佐藤 容子(旧姓:藤原)


 人生100年時代、これまで生きてきて学んだこと・・・
“好きこそものの上手なり“
『好き』は最高の武器、世の中のあれこれは全部つながっているから、なんでも新しい知識を『知る』ことはとても楽しいこと。脳は喜びを感じ、自ずと道が開かれ自分が創られていきます。

“人を知ること(人のやさしさにふれること)は最高の幸せ”
人がそれぞれ持っている彩(オーラ)を『感じる』ことは、とても楽しい遊び。日々、触れあう方の内面を探索し想像しその人ならではの良さ(個性)を感じることができます。人として生まれてきて人の暖かさに触れる幸せは心地よく癒しになります。自分が幸せだから前向きに感じられるのでしょうか。世界の人が皆、ポジティブシンキングで生きることができたら平和な世界になるのにね・・・

 今の自分を創ってくれた大きな要因に自分の中高等学校時代があるのは当然のこと。当時では珍しかった中高6か年一貫校で、一学年120名と少なく受験校でもない自由な高風の学校で、その教師陣がまた個性が強く味がある方ばかり、その1人が“きむらけん先生”。きむら先生のオーラは、半世紀前も今と同じで兎にも角にも尖っていて真っ直ぐ。当時、先生は20歳代、「うっしー」というニックネーム(ご本人はご存じないかも!?)から想像できるように、ご自分の考えを生徒に熱く伝え、時には真正面から生徒に対等にぶつかってくる異彩を放つ国語科の先生。古典の授業は、あらぬ宙に向かって想いを語る熱いもの。私は、そんな先生に引かれて、「古典研究会」という名目で放課後に「方上記」や「伊勢物語」などを読み解く会に参加させていただいていました。「昔、男ありき」で始まる自由奔放な男の話に、古の時代から「それもありか」と当時はウブな女子学生だった私にとっては、怪しげな文面にドキドキした記憶が懐かしく思い出されます。文化祭では「瓜盗人」ならぬ「野菜盗人」というウィットに富んだ狂言を先生の書き下ろしの台本で、自前の浴衣を着て5人で演じさせてもらいました。舞台は校舎3階の端っこの教室、大道具は大きな段ボールで作った松、校舎屋上で唸りの練習をしたりしました。あ〜、懐かしや、先生は、全てにおいて押し付けることなく見守ってくださっていました。

 そうそう、とても印象深く残っている記憶は、当時、通学が東横線で先生と同じ路線だった私、1回だけ渋谷から同じ車両に乗り合わせ隣で吊革につかまりながら、先生はおもむろに定期入れから写真を取り出し見せてくれて「長男が生まれたんですよ。これが泣くんですよ。だから可愛く思えなかったんですよ。それが、1歳の誕生日を迎えたらしゃべるんですよ。たまらなく愛おしくかわいいんですよ。」と、遠い目をしながら満面の笑みで話してくださいました。「えっ、一介の私如きにそんな奥深い話をしてくださるなんて・・・」と先生の思わぬ本心の吐露に感動した強烈な思い出です。

 半世紀たって、S N Sの普及によりFacebookを通じて先生の活動を知り、母校での戦争体験の話が聞けるという会を開催当日に知った私は飛び入り参加、恩師にレクチャーを受けながら懐かしの母校を歩くという不思議な時間を過ごさせていただきました。そして、下北沢文史の街を紐解く会など自分の住んでいる地域とも近しい郷土史に思いを巡らせる素敵な時間を味合わせていただいているわけです。

 人として生まれ、いつかはいなくなる時が来るわけですが、先生が残す痕跡は永遠に残される歴史的貴重な伝承というライフワーク、恐れ多いことですが、これからも是非共有させていただき日々、知識を得る幸せを味わっていきたいと思います。
 きむらけんせんせい、これからもご活躍、陰ながら応援させていただきます!

2、文化論の切り口:世田谷と目黒
                        きむらけん


 北沢川文化遺産保存の会は2004年12月に発足した、自身の居宅は目黒区八雲である、以来ずっと目黒と世田谷を20年間往復してきた。文化発掘で大事なことは、AとBとを知ることだ。前は自転車で回っていたがこの頃では歩きである、ひたすらに歩き回っては地域地域を観察している。
世田谷と目黒は大きな違いがある。やはり一番大事な点は中心都市東京との距離である。目黒はいわゆる御府内に隣接している、世田谷は目黒の西に一拍置いて存在する。御府内の隣に位置する目黒は、市中からの訪問者が「目黒くんだり」と言った。このことから目黒の田舎意識というのは強かったと言える。それで田舎臭い名を廃しておしゃれな名にした。自由が丘は九品仏駅だ、これを自由学園にちなんで自由が丘と名づけた。隣の緑が丘は本当は谷畑だが田舎臭さを敬遠し、自由が丘に習っておしゃれな名の緑が丘にした。
 
 地域というものは同心円状に発達していく。目黒は丘があり地盤が固いことから関東大震災から逃れてきた人が多く移り住んできた。退役軍人や現役軍人も多かった。また新しい郊外として魅力があった。目蒲線や東横線などの開通も大きく影響した。
 
 時代的には東京市内に近い目黒から開けていった。庶民も住んだが財をなした人も住んだ。当然のことだが早く開けた方は、早く古びていく。町並み、それに人も年老いていく。が、今目黒区は、「都心に近く『緑が豊かで文化的なまち』、『おしゃれなまち』」と謳っている。しかし、現実には高齢化が進んでいる。
 区には高齢化した財産家がいた。その人が「2009年度。臨時収入のあった区民1人が08年度に約40億円もの区民税を納めた」。これによって東京都は同区の財源に余裕があるとみなして交付金配分を大幅に減らした。目黒区は急に財政が悪化してしまった。緊縮財政に取り組んだ。行政サービスも削らざるを得なくなった。やはり貧すれば鈍する。施策に金を掛けられない。図書館予算も少なくなる。文化レベルが落ちるなどの影響が出ている。

 両区の差は面積に端的に表れている。世田谷区は、58.08k屐‥圓寮衢面積は 9.4%で2位を占めている、一方目黒区は14.70k屬廼呂2.4%で16位である。

23区の中で目黒区の財政悪化が浮き彫りになったのは2009年度。臨時収入のあった区民1人が08年度に約40億円もの区民税を納めたことを受け、東京都が同区の財源に余裕があるとみなして交付金配分を大幅に減らした。今も財政緊縮政策は続いている。人員を削減したり、経費を削ったりしている。このことが行政サービスに端的に表れている。

 私は両区に跨がる呑川遊歩道を毎日歩いている。区境を越えると公園整備の仕方が違う。世田谷区は百万都市と言われる税収も多い、財政的にも恵まれている。それで文化施策にも投資していて文学館や美術館を運営している。演劇方面にも助成をしている。

 私は、世田谷区地域風景資産の活動人である。萩原朔太郎ゆかりの「代田の丘の61号鉄塔」を推挙し、これは世田谷区地域風景資産となった。世田谷は行政区域が広い、それだけに風景資産は各所に存在する。開発によってこれらは次第に壊されつつもある。風景は心の安らぎでもある。これを護ることは区民の精神面にもいい影響を及ぼすはずだ。

 目黒区は老齢化都市で区内各所も少し衰えかけている。区民をどう奮起させるかが課題である。歴史文化の掘り起こしも一つだ、例えば三田用水の文化を総合的にアピールするのも方法である。
 世田谷区は可能性を秘めた都市だ。文化面についても力を注いでいる。欠落していると思うのは文化史の捉え方だ。私は前から下北沢文士町を提案している。近々アニメ作家の豊田有恒氏の下北沢居住をしった。当地に、パラレルクリエーションを起き,文化活動を行ってきたようだ。
 下北沢の文化元年は、小田急開通である。昭和2(1927)年だ。もう97年にもなる。まもなく百年となる。大きな節目である。思ったことは文士町の100年である。これの通史の必要を覚えたことだ。
 
3、新地図の配布について 

 「下北沢文士町文化地図」9版は29日に刷り上がってくる。希望者には配布をしたい。3月1日から配布する。配布場所は、\づ鎮邪宗門 ∨迷凜織Ε鵐曄璽覦豎のパンフ置き場 世田谷代田吹上館、一階の地図の前を予定している。

 桜祭では例年のように北沢川緑道、安吾文学碑前で配布したい。これは町会と打ち合わせする必要がある。いまのところの予定では、3月23日、4日を予定している。

4、町歩きの案内
 毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。

第193回 3月16日(土)大山道を歩く 完結編
 案内者 木村康伸さん 世田谷線上町駅 13時30分
・上町駅→世田谷宿用賀口追分→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅→田中橋→延命地蔵→瀬田交差点→瀬田遺跡→行善寺→南大山道道標→二子の渡し跡→二子玉川駅
コースの面白さ:2023年10月に実施した、三軒茶屋誕生の秘密に迫る大山道歩きの続編である。三軒茶屋ができるきっかけとなった大山道新道開通の理由を、三つの視点から解き明かしていく。さらに、用賀から二子玉川まで歩き、途中の瀬田で世田谷誕生の秘密にも迫る。これをもって大山道を歩く旅の完結編としたい。


第194回 4月20日(土)駒沢の民族学を歩く
 案内者 きむらけん 三軒茶屋改札前 13時30分
〇旧駒沢町域にある伝説の遺跡を訪ねる。‐綰呂Δ覆蠕仞廣駒沢球場跡・薬科大遺跡跡¬鄲凜謄灰謄鷓笄D瓮久保のダイダラボッチ跡→げ芝呂梁荵阿離瀬ぅ瀬薀椒奪狙廣覚志郷の北斗星遙拝所跡?(駒繋神社)→三軒茶屋駅
コースの面白さ:民族伝承の跡地を訪ねての町歩きである。これも初の試み。
三軒茶屋一帯は千年前の覚志郷ではないかと言われています。今回最後は駒繋神社に行きお参りをします。実はここは覚志郷の遙拝所ではなかったか、つまりは北斗星を祈る場だった。古代信仰の中心地ではとの説があります。
〇駒繋神社を終点とし、三軒茶屋駅までは案内します。*もともと1月に予定していた行事ですが、荒天で中止になって実施できなかったので再実施します。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用について 資料代500円 希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。
きむらけんへの メールはk-tetudo@m09.itscom.net  
■ 編集後記
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。次
▲北沢4丁目にアニメ界の重鎮豊田有恒氏が居住していたことが分かった。居宅をパラレルクリエーションと呼び、ここに多くの文化人が集っていたと。情報があれば教えてほしい。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。年度が変わりましたので会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」
代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。

◎追加的お知らせ
 3月4日 羽根木公園 梅祭り会場での地図配り
  10時から実施します。 場所 本部テントあたり
  遊びがてらおいでください。




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2024年02月28日

下北沢X物語(4893)―文士町の文化百年史 1―

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(一)明日「下北沢文士町文化地図」9版が刷り上がる。この地図は継続して創ってきた。まずは行動が先にあった。版を重ねるうちに本質が見えてきた。言えば文化の坩堝である。その底知れぬ深みに戦くほどだ。今回9版にして文化人マーク箇所が20も増える。このことは何を意味するか、それは一過的な現象ではないことだ。直観したことのは当地に固有の文化史が眠っていることだ。町には時代時代があってはやり廃りがあった。その証拠が赤や青マークとして地図上にちりばめられている。この現象何時から始まったのか。つまりは嚆矢である。目につくのは詩人である。一番乗りは福田正夫である。1923(大正12)12月に「世田谷下北沢809番地」に転居してくる。民衆派詩人は人望も厚く、多くの詩人たちが集まるようになった。民衆派は大正デモクラシーの台頭を背景に,詩語の平明化,詩表現における社会性を重視した詩歌である。言えば文士町の百年史の始まりだ。

 当地では詩人が集まってきたことで文化は始まった。しかしこれは胎動の一つに例に過ぎない。文化を支える環境もとても重要だ。

福田正夫の息子は福田達夫、彼は「世田谷下北沢809番地」に住んだときの思い出を書いている。

私が子供だったその頃、京王電車は一輌で走っていた。それも運転台が吹き抜けの市電の車輌であり、ステーションは低く乗る時も降りる時も一段タラップを踏まなくてはならなかった。市電と違うのはあちらが緑と黄色の鈍い色分けをしていたのに対して、京王線が焦げ茶色をしていたことだ。ギシギシと音をたてて揺れる木製の電車は走っているのを見るだけで一生懸命さが感じられ親しみのある形だった。クレヨンで描く画にもなり易かった懐かしい思い出の電車だ。戦争中の中学3年生 私立日本中学校勤労報告隊の記録 日本中学校 昭和21・22

家は笹塚駅に近かった。電車は市電と同じ単行電車だった。京王線である。これが敷設されたことで沿線沿いに住宅が開けた。小田急が開通するのは京王よりも遅い。1927(昭和2)年になってからである。文士町の中心軸も小田急開業によって南へと移動してくる。

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2024年02月27日

下北沢X物語(4892)―老いゆく者たちの遺言:二度と戦争はするな 2―

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(一)時には流れがある。人々を乗せたままゆっくりと時は過ぎて行く、が、稀に断絶がある。最も近いこれは終戦である。玉音放送が時を断ち切った。日本は勝つと信じていたが負けた。受け入れがたいものだった、とくには軍人だ、海軍第14期飛行予備学生の阿山剛男さんから直接聞いた。百里原海軍航空隊にいた彼は「天山」の偵察員席に乗り込み「徹底抗戦」というビラを首都圏上空から撒いたと。太宰治『トカトントン』が想起される。玉音放送を聴いた若い中尉が、「われわれ軍人は、あく迄までも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる」と檄を飛ばした。これを聞いた私は「死のうと思った」、それで森に行きかけたとき「トカトントン」という金槌を打つ音を聞いて正気に返った、という逸話だ。時が断絶したときに旧来の秩序が襲いかかる。現今政治を揺るがせている裏金問題、現政府は統治機能を失っていると。と、ふと秩序大激変が起こる可能性を示唆しもする。大変な状況になっている。

 昨日の散歩では世田谷観音に行き特攻観音にお線香を上げてきた。お堂の側に石碑が建つ。「神州不滅特別攻撃隊之碑」。 終戦後の八月十九日、満州派遣第1667部隊に所属した十名の青年将校が、ソ連軍戦車に向けて大虎山飛行場を発進、敵戦車群に体当たりをし全員自爆を遂げた。悲しい事件である。

 今回戴いた『最後の戦争体験記』(山梨県老人クラブ連合会発行 2024年3月1日)に終戦にまつわる逸話が掲載されていた。敗戦を肯わなかった者たちの逸話である。

終戦秘話 上野事件 甲州市 栗原 信盛

 この執筆者は、終戦当時、水戸教導航空団に所属していた。終戦直後のことである。「水戸教導航空通信師団第二中隊の一部将校の間から,終戦を不満として徹底抗戦を叫ぶ事件が起きた。「水戸教導航空通信師団事件」と呼ばれたものだ。

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2024年02月25日

下北沢X物語(4891)―老いゆく者たちの遺言:二度と戦争はするな!―

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「最後の戦争体験記」、「戦争、あの頃の記憶」、二冊の戦争文集が笛吹市の矢花克己さんから送られてきた。前者の発行は23年3月。発行は山梨県老人クラブ連合会だ、「最後」に想いが込められている。余命幾ばくもない、それで我々戦争体験者が戦争の悲惨さを伝えたい、生涯最後の願いを。序文には「遺言のような気持ちで書き残しておこう」と呼びかけて原稿を募ったと。戦争ほど悲惨なものはない絶対に二度とやるなよ。文集序文には「かつての『不戦の誓い』が、遙か彼方に忘れ去られようとしている。そしてわが国再武装論や核保有論も正当化されようとしている」とある。国会自民党の政治貴族たちが「防衛費5年間で43兆円、現行計画の1.6倍」と決めた、敵基地攻撃ができる国に、今先島諸島では自衛隊基地が陸続と建設されている。「反撃能力を行使するミサイルが石垣島に配備されるのでは?」と住民が問うと、何も決まっていないと。とぼけてみせる。はっきりしているのは沖縄や南西諸島を日本防衛の最前線にする積もりだ。これらの地域はまた日本の捨て石とされようとしている。

 グアム島最後の掃討戦 西桂町 古屋雄一 (『最後の戦争体験記』)

 最後に、米軍兵士を撃殺した時、「マリア」、「マリア」と叫んだ声が、戦後六十五年経った今でも頭の中に寂しく残る。「戦争は二度としない、起こさない」平和な日本であってほしいと心から念じる。


 平和は切なる願いである。これを保つためには軍備よりも言葉だ、戦争になったら両国とも莫大な損失を蒙る。が、為政者は恰好をつけたがる、国民を震え上がらせるには「敵が攻めてくる」と言うのが最も効果的だ。何の役に立たない「Jアラート」のテストが月一回行われる。「敵がいつ攻めてきてもよいように日頃から訓練しておくのだ」、政治貴族はプロパガンダを平然と言ってみせる。
 大事なことは戦争にならないように論陣を張ってぶつかることだ。が、そういうことは政治貴族はやりたがらない。

戦争ほど残酷なことはない 戦争ほど悲惨なことはない(『最後の戦争体験記』)
           甲州市 高橋一雄

 やがて道路には死体が多くなり、それをまたいで逃げまわるほどです。倒れかかってきた老婆が目を開いていたので、起こしてみると銀貨を握ったまま生気を失ったようでした。
 地獄絵のような道路をどれくらい走ったか、やがて上野の山にたどりつき、下を見ると見わたすかぎり火の海で、当然浅草方面も火の海で、すぐに叔母の家のことが気になりました。
 夜が明けるのを待って行ってみると、死人の山。さらに言問橋の上にもこげた人でいっぱいでした。


 三月十日の東京大空襲のことが述べられている。死者約8万4,000人に及んだ。当夜敵機B29が大挙して飛来してきて雨あられと焼夷弾を落とした。下町は軍事施設ではない、市民が多く住むところだ。米軍はこの地域を無差別爆撃をした。犠牲者を多く出して日本を震え上がらせようとの作戦だ。
 真珠湾奇襲攻撃が悔しい。アメリカは全国各地をB29で徹底的に攻撃し、襲撃した。生意気なジャップを叩きのめしてやると執拗に攻撃した。そして仕上げが広島、長崎への原爆投下である。
 が、戦後になって米軍の無謀さにいちゃもんをつけない。敗戦国日本の米国への遠慮は未だに続いている。防衛費の増額もアメリカの要請、日本の忖度によるものだ。アメリカにいちゃもんをつけることができない国家だ。米軍施設から流れてきているPFOAについても徹底的に追求しようという動きは見られない。アメリカの従属国家ではないかと山本太郎はいつも怒っている。

特攻隊要員として 山梨県 丘利重 (『最後の戦争体験記』)

 海軍といっても軍艦はなし、訓練は何をするかと思っていたら、ベニア板で戦車を作って十人ぐらいで引き回し、それに棒地雷を戦車の下に突っこむという特攻訓練です。ミカン箱くらいの箱に爆薬を詰めたものを背負って、戦車のキャタピラに突っこむというものまで、まさに特攻隊です。


 戦争末期は悲惨だ、大都市はことごとく空襲にやられてもうものは作れない。こうなったら空訓練をするしかない。ベニア板で作った戦車に突っこむ。戦争イメージ作戦である。
虚しい訓練である。

転戦(ノモハン、台湾、沖縄) 富士川町 中沢光雄(『最後の戦争体験記』)

 飛燕の乗務員だった彼は最後は石垣島に配置され、ここで多くの特攻機を見送った。それを和歌に託して詠んでいる。

南海の果てに散りにし我が友の
突入音が胸に残れり(突入音とは無線機の発信ボタンを押し放しにするため)

拳銃も太刀も不要と征つ前に
地上勤務の兵に与へる

操縦もやっと慣れたる少飛兵
離陸直後に墜落自爆


 与えられた特攻機は中古機ばかりで、離陸直後に墜落したり、また途中で不時着したりした。第8航空師団所属の特攻隊員は飛機献金をして後続に新しい飛行機が来るようにと願ったがそれは来なかった。
(写真は、駒場天覧台での記念撮影)


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2024年02月24日

下北沢X物語(4890)―近衞野砲兵連隊跡碑移築―

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(一)17日に戦跡歩きを行った。今回、昭和女子大構内の移築された碑が見学できた。今までは校地南東端に隅に置かれていたが、この1月に人の目につく「昭和之池」のたもとに移された。この碑文には、「平成2年3月吉日 元近衞野砲兵連隊将兵一同建立」とある。戦友会の手になるものだ。野砲兵連隊があった大学に歴史を忘れないために寄金を募って建てたものだ。戦後79年、もう多くが物故されている。そういう中での移築には意味がある。昭和女子大が学校の歴史として移築した。すなわち過去の事跡を学生や職員に知らしめるために創立70周年記念事業の一つとして設えた「昭和之泉」のたもとに建て替えた。見学で最も多く訪ねたのが我が会だ、石碑が表舞台に移された。我々のこれまでの活動が少なからず影響してのことである。

 これまでの十数回の見学活動によって発見したことある。

「休んだままで聞け。あそこのヒマラヤ杉(聯隊本部前の営庭に、一本大きなヒマラヤ杉がある。これは北白川宮成久王殿下と、ご結婚あそばされた、明治天皇の皇女、周宮房子内親王殿下、お手植えのものである)にむかって、あれが、第二中隊の基点。営庭がせまいから、各中隊二列縦隊。大隊ごとになり、営門にむかって集合する………」

元近衞野砲兵連隊の兵士だった人が回想録を残している。それが『近衛陸軍二等兵』(門屋古寿 1978刊)である。ここに記述されたヒマラヤ杉を私たちは特定した。

 川口信さんの父親は北白川宮家の執事をされていて資料をたくさん提供して戴いた。その中に一枚の写真があった。ヒマラヤ杉の前で撮った記念写真である。それは北白川宮成久王殿下のご子息永久王を偲んで、「昭和三十一年十月七日」に近衛野砲兵ゆかりの人たちが集って記念写真を撮ったものだ。この写真中央には、美形の女性が写っている。三島由紀夫の短編「玉刻春」に彼女の容貌の子細な描写がある。北白川宮永久王の奥方祥子殿下だ。

 永久王もまた、陸軍砲兵大尉・近衛野砲兵連隊中隊長でもあった。悲運の貴公子だ。陸軍大尉・参謀として蒙疆方面へ出征していたが、作戦任務中に事故に遭って亡くなられた。父君もパリ郊外での自動車事故で亡くなっておられる。

写真はあらゆる角度から検討し、その枝ぶりから中庭にあるヒマラヤ杉だと判定した。
「ああ、あのヒマラヤ杉は女子大のシンボルでクリスマスのときにイルミネーションで飾っていたんですよ。残念ながら病気で樹が朽ちてきてやむなく倒しました」
 総務部の比嘉さんが言われた。

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2024年02月22日

下北沢X物語(4889)―区比較文化論:世田谷&目黒 5―

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(一)国木田独歩は、「東京は必ず武蔵野から抹殺せねばならぬ」と言う。が、東京市中から離れたところの「町外れの光景」にこそ詩趣がある。御府内から外れた地域こそは武蔵野のである。目黒区は武蔵野の陰翳を保っていることから「都心に近く、『緑豊かで文化的なまち』」と謳っている、明治中期から東京市中人口は爆発的に増える。開発は真っ先に御府内の隣から始まる。それが目黒である。とくには目黒川崖線は狙われた。緑豊かで富士の眺望が抜群であるからだ。しかし、この緑は宅地開発によって激減している。都心に近いだけに土地需要が高い。とくに邸宅跡は再開発の恰好のターゲットである。この場合、庭は潰されて建ぺい率いっぱいにマンションやアパートが建つ。ネットには様々なランキングが載っている。買って住みたい、借りて住みたい ランキングというのがある、これは両方ともトップは世田谷区である、一方の目黒区は買って住みたいは21位である、借りて住みたいは20位、都区内では人気のない区である。交通面では世田谷よりも都心に近く、利便性は高いのであるが?

日々目黒と世田谷を観察しながら往き来している。頻繁に通るのは遊歩道である。樹種の主力は桜である。先に記したが寿命も尽きかけた老樹は目黒区の場合は、強剪定しながら生きながらえさせている。黒々とした太い幹、枝葉ほとんどが刈り込んである。これが一列に並んでいる様は墓標のように見える。

 年老いた桜は伐採しはする。しかし、切り株は拔根はしないで遊歩道上にそのまま放置されている。抜根は重機を出して工事をする必要がある。経費がかかるのでこれは手をつけていない。

 緑道補修は行っている。今は二箇所行っている。一箇所は補修整備を行っている。ぐらぐらになった遊歩道の柵は、一旦撤去してコンクリ基盤を補修し、その上に前の鉄柵を据え付け、色を塗り直しての対応である、低廉な工費で済むように対応している。

 もう一箇所は、これまであったアルミ鉄柵を撤去してロープを張り巡らせている。侘しい感じがする。

 すぐ上手は世田谷区だ、ここでは桜は計画的に伐採している。株は重機を出して丁寧に拔根している。そして新しい苗木を植えている。
 世田谷区と目黒区の差は、財力にある。
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2024年02月21日

下北沢X物語(4888)―区比較文化論:世田谷&目黒 4―

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(一)目黒と世田谷、前者は田舎人意識が強い、それは地理的な位置がそうさせている。つまり、目黒は御府内に隣接していて直接的な影響が大きい。一歩境を越えれば田舎、目黒のローカル性は「目黒くんだり」という言葉に端的に生きている。このフレーズ、青空文庫で調べると目黒は二例でてくる。が、世田谷は出てこない。都市は目黒から世田谷へと開けて行った。くんだりは都市が開けてくると廃れてしまった。ここは興味深いことだ。目黒は江戸に近接しているゆえに田舎度が強く意識された。これを薄めるためにおしゃれな名に変更した。それが自由が丘であり、緑が丘である。駅を大学とするとまた格好よくなる。東横線、都立大学駅は開業当初は柿の木坂駅であった。また、学芸大学駅は当初は碑文谷駅だった。二つの大学は今は移転してしまった。それで駅名変更をしようとして住民にアンケートを取ったら現状名でいいというのが大勢を占めた。しかし、駅名に釣られてきてみたら、大学はなかったというトラブルはあるようだ。

 一方の、世田谷は東京から一拍置いた場所にある。千歳村粕谷に住んだ徳富健次郎『みみずのたわこと』には東から押し寄せる東京文化について何度も触れている。その一例だ。

 東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。

世田谷の特徴は広域性があること、粕谷から東京までは三里ばかり、東京によって生活をしている。が、その影響は間接的である、目黒の場合は近接しているので東京の動きは肌身に感ぜられる。世田谷の場合は、一拍置いていることが特徴である。キーワードは「余波」である、世田谷は東京の気配、空気が余波として感じられる地域であることだ。

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2024年02月19日

下北沢X物語(4887)―区比較文化論:世田谷&目黒 3―

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(一)目黒と世田谷の文化の差異の根底には距離がある。二昔前、「目黒くんだり」という言い方があった。くんだりは、中心となる都市から離れた土地ということを強調する場合に使われる。中心となる都市は江戸だ、第一郊外が目黒だとすると第二郊外は世田谷である。進展とか発展は順次市中から郊外へ向かっていく。大正15年発表の『閣下』(佐々木邦)に「目黒もこの界隈は筍と共に軍人の古手が多い」とある、目黒は退役軍人が多く住んだ。時代が移るに連れ世田谷にも軍人が増えてくる。何を言いたいか、都市は順に開けていき、順番に古びていく。早く開けた分、町は古くなる。第一郊外の目黒、第二郊外の世田谷の現状はこの点に深く関連してくる。

 私は、毎日、目黒世田谷は渉猟している。明らかに両区は文化が異なる、小さなことで言えば、目黒では小学校の運動場は眺められる。が、世田谷では校庭を蔽うように紗をかけていてのぞけない。

 前者は健全だ、学童らが潑剌と運動している様は我等に活気を与えてくれる。紗は視界を遮って邪魔である。が、これには理由がある。

 等々力の植木屋の庭に「九品仏道」という石碑があった。「どこにあったもの?」と聞いたところ、「等々力小の側の四つ辻だ」と教えてくれた。早速に行って写真を撮っていると学校の警備員がやってきた。
「校長から、写真機を持った人には声を掛けるようにと言われています」
 腹が立って警備員と喧嘩になった。
「こちとら古道研究で調べているんだ。九品仏道なんか分からないだろう。ここを参詣道が通っていたんだ、その調査で写真を撮っているのだよ。バカ野郎痴漢と間違えるな!」 望遠で校内を撮って可愛い子ちゃんを盗み撮りする。それをネットにアップしている不届き者が世間には大勢いる。紗は痴漢よけだったのだ。では目黒区には害は及んでいないのか。そうではない、紗を張り巡らす予算がないようなのである。

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2024年02月18日

下北沢X物語(4886)―区比較文化論:世田谷&目黒 2―

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(一)文化論としての荏原都市郊外論が面白い。世田谷と目黒とを比較するのに共に鉄道交差都市である下北沢と自由が丘とを持ってきた。やはり鉄道が基軸である。線が交差すれば利便性が増す、そしてここに物や人が集まってくる。文化も集積される。しかし、物理的に単に交差するだけでは文化は生まれない。下北沢では少年たちは上の電車、下の電車と名づけた。線が異なっていることで比較が生まれる。上の電車井の頭線は「車体がスマートで軽快、警笛が軽快」など下の電車は「急行があり、車窓の眺めが楽しい」などと批評しそれぞれにファンがいた。一方、自由が丘を走っているのは同じ電鉄会社で面白味はない、乗る方もイメージが違う、小田急は小田原へ、井の頭は吉祥寺へバラエティに富んでいた。東急線は渋谷へ横浜となるが、大井町線は大井町か、溝の口、ローカルである。大事なのは隣接する大都市だ、下北沢は新宿渋谷に近い、が、自由が丘からは遠い。

 実は,昨日は町歩きだった。戦跡巡りである、最後の見学地が昭和女子大である。今回は近衞野砲兵連隊碑が学校の裏手から学校の公園の移されていて表舞台にデビューした。これを見学した。前から係担当の比嘉秀之さんにお世話になっている。親切に校内を案内してくださった。家に帰ったところ、メールがきていた。猪熊雄治先生からだ。彼は、昭和女子大学 人間文化学部日本語日本文学科 学科長をされていた方だ。「三軒茶屋文士町文化地図」を作成するに当たってお世話になった方だ。

 突然のメール、お許し下さい。猪熊雄治です。昨日今日と「東京荏原都市物語資料館」で展開されています世田谷と目黒の比較文化論、視点の設定等が大変面白く、興味深く拝読しております。今日話題にされた下北沢と自由ケ丘の対比も刺激的で成程との思いも致しました。
 そこで両者の対比ですが、地名から対比させるのも面白いかもしれません。下北沢が正式地名ではなく、通称地名として残ったのに対し、手塚岸衛が創立した自由が丘学園という学校名から始まった土地の通称名は、石井獏等の文化人たちの働きかけもあり、正式地名になっていきます。同じ荏原郡ではあっても、碑襖町から目黒区自由が丘への地名変遷と、世田谷町から世田谷区北沢への変遷とを比べれば、自由が丘の人々の地名ヘの思い入れが伺えるかもしれません。勝手な思い付きを申し上げますこと、ご寛容のほどお願い申し上げます。


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2024年02月16日

下北沢X物語(4885)―区比較文化論:世田谷&目黒―

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(一)比較するものが二つ、AとBがあれば十分だ、烏山川と北沢川の文化比較は際だっていて面白かった。世田谷東部と西部との比較考察もとても興味深かった。今回は隣接区世田谷と目黒の比較である。ネットを見ていて、「目黒区と世田谷区はどちらが都会ですか」というのがあった、「圧倒的に目黒区です」とあった。多分、若者同士のやりとりだろう。28万都市は現実には衰退している、が、百万都市は栄えている。文化の質というものは区域の歴史を負っている。家のすぐ近くには東光寺がある、世田谷城主吉良治家が亡き子の供養のために建立した寺だ。歴史的には目黒は世田谷吉良氏の支配下にあった。

 世田谷と目黒では興味深い二つの文化都市がある。それは下北沢と自由丘である。共通点は鉄道交差都市であることだ、前者は井の頭線と小田急線だ、後者は大井町線と東横線である。都市部に存在する鉄道交差部は重要である。人が集まり、また価値も集まってくる。下北沢の場合は、「下北沢文士町文化地図」を作っている。文化関係はほとんどがここに網羅されている。今回間もなく9版が発行される。新版には文化人の居住痕跡は20も増えている。下北沢地区が文化密集度が著しく高いということを証明している。

 自身は自由丘鉄道交点区域に住んでいる。が、下北沢に比べるとマークすべき箇所があまりない。昨今話題になったのは。ここにあった「トモエ学園」の窓際のトットちゃんである。めぼしいものの一つではあるが、下北沢に比べると少ない。

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2024年02月15日

下北沢X物語(4884)―区境文化論:桜樹の墓標―

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(一)区境は文化の切れ目である。最近気づいたことがある、植栽の桜樹である。居宅前は呑川遊歩道で桜樹が上流に向かってずっと植えられている。上流の八雲消防出張所あたりを通り掛かって足を停めた。強剪定された老木が林立して続いている。(写真)これが不気味に見えたからだ。思い出したのは広島での聞き書きだ。「被爆後に市内に入ったところ、焼死体がごろごろと至る所に転がっていました。電柱からは煙が立ち昇っていました。それがお線香のように見えました」と。私には立ち並んだ桜樹が墓標のように見えたのである。この箇所を過ぎると区境だ、桜の植栽は続くが目黒区と世田谷区では植え方が違う。ここに文化の違いが見える。

目黒区八雲を貫流する呑川が暗渠化されたのは1972(昭和47)だという。土で覆われた川跡は緑道になり、桜が植えられた。それから52年が経った。ソメイヨシノは50年を越えると老木域に入る。実際にこの木は幹も太くなり枝も伸びている。が、緑道巾は狭い、横に伸びた枝は毎年のように剪定された。太い幹だけが残っている。が、老木は傷めつけられ無惨にも墓標のようになってしまった。見た目の樹木景観としては気持ちのいいものではない。

 緑道植栽、やはり桜は住民が楽しみにしている。とくには花見シーズンだ。目黒区のホームページにはこう謳う。

 呑川本流緑道は世田谷区新町から始まり、目黒区八雲、都立大学を経由して緑が丘駅まで続く約3kmの緑道です。散歩道として広く愛され、春には多くの桜が咲き見事な景色となります。

 このように謳うが昨今の桜はだいぶ年を取ってきた。見場がよくない。


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2024年02月13日

下北沢X物語(4883)―散歩と呑川と池上線―

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(一)秘められた都市文化の一端だ、呑川は幻影の川である、地形的にいうと本当の源流部は桜新町である。が、現在の源流部は東急大井町線、目黒線を潜ったところにある。開渠部分にはゴムのカーテンがあり、その下部からこんこんと水が湧き出している。ここには新宿落合水再生センターから送られてきた高度処理水が来ている。その量は36,300㎥/日だという。放流開始は1995年3月である。これによって川の水質が改善された。それで碑が建てられ「清流の復活」と刻まれている。が、本当に清流なのか?ゴムカーテンはこの問題を浮き彫りにしている。なぜ設置したのか、一つは臭気止め、もう一つはポンプ音を遮断するためである。高度処理水といっても真水にはならない、臭いがきつい、便所臭いのだ。幸か不幸か、栄養たっぷりの水は、川底に藻を繁殖させた。これをエサとするために渡り鳥が集まってきている。留鳥のセグロセキレイもこの藻を食んで命を繋いでいる。言えば下水処理水が生態系を支えているのである。

 呑川は世田谷区、目黒区、大田区を貫流している。しかし上流部はあらかた暗渠化しているので住民の間に、川という認識がない。川が川として流れている大田区は住民に馴染みが深い。住民は「呑川の会」を立ち上げて講演や見学会などの文化活動を行っている。

 呑川の上流部の新町一丁目で標高は44,3メートルだ。川の長さは14.4kmある。河床勾配が急だ、だから大雨が降ると水が一気に東京湾に流れてゆく。かつて上流部で大雨が降った、流れた水は下流部で工事をしていた人を呑み込んだ。大田区では雨は降っていなかったことで油断をして、その人々が呑み込まれるという事故があった。
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2024年02月12日

下北沢X物語(4882)―散歩と小鳥と洗足池―

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(一)人の歩行観というのは変化してくる。前は行く先をみつめ、「ああ、あそこまで行くのか、きついな」と思いもした、最近はあくせくしなくなった。「一歩一歩、歩いて行けば、必ずそこに着く」と。歩きを楽しめるようになった。具体的に言えば出会いである、それは景色であり、動物である。前者には地形がある、丘の凹凸は目と足とを楽しませてくれる。後者は人や動物である。人は子ども、が、この頃では鳥である。歩きながらカウントしている。鴨、目白、鴉……大概は十四、五種類に及ぶ。カイツブリなどは思わず立ち止まる、どこに浮かび上がってくるか?なかなか現れないので心配することもある。やはり散歩では変化を求める。するとコースが決まってくる。地形の起伏、眺めの変化、動物の多いところ……自宅前は呑川遊歩道、北に行けば世田谷区、南に行けば大田区である。この頃では遡行よりも、下る方が多い、そして荏原随一の景勝地洗足池に足が向かう。

 散歩コースは数種類ある、三軒茶屋コース、駒沢公園コース、田園調布コース、洗足池コースである。中でも変化に富んでいるのは洗足池コースである。川あり、丘あり、池ありと目を楽しませてくれる。もう一つあるのが探鳥である。池に行くと望遠レンズを持ったおじさんが必ずいる。ところが今年はおかしい、鳥の数が少ない。今朝の新聞にあったが全国的に異変が起こっているようだ。北帰行は早まって渡り鳥も、もういなくなったそうである。暖冬の影響である、洗足池も今年は渡り鳥の数が少なくてカメラマンも手持ち無沙汰である。

 洗足池コースである、自宅から南下する。目黒線、大井町線を越えたところで川は開渠となって流れが見える。流水は豊富だが、自然水ではない。新宿の落合下水処理場から流れてきた高度処理水がここで呑川に流されている。

 この高度処理水が生態系に影響を与えている。開渠は東京工代グランド脇から始まる。三面張り水路に処理水が流されている。ここに渡り鳥が群れている。鴨である、下流までの五六百メートルに数えると五、六十羽もいる。今日もいた。続きを読む

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2024年02月10日

下北沢X物語(4881)―寺尾紗穂さんという人 4―

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(一)寺尾紗穂さんの作品を読んで思ったのは「心と言葉と音楽」ということである。彼女の歌には透明感があると述べた。彼女はシンガーソングライター、エッセイストと紹介されている。歌をうたったり、文章を書いたりと。が、歌と文の間には境界がない、歌っている人が彼女であり、書いている人が彼女である。この二つは別物ではない。彼女の声質については特徴がある、「まるく響く声質」と評している人もいる。尖りや突起がなくて自然に耳に入ってくる。気取りがなく自然であるのだろう。寺尾さんから『天使日記』を紹介してもらった。冒頭エッセイは「子どもでいること」、ここでは霊能者に未来を占ってもらう場面が書かれる。「大事な決断をするとき八割方は決まっているが,最後のお墨付きが欲しいというような時がある」と。自分の心を預けて,最後は判断してもらう。自身の中にこういう経験は皆無だ。彼女は言葉を信じて居る人なんだと思った。先回の小6を相手の授業では言葉について話した。「言葉を信じることは大切なことだ」というのは言い忘れた。

彼女の作品では『楕円の夢』がある、やはり透明感がある。聞いていると心が穏やかになりもする。ネットでの歌の評価に、
「鬱になった時、この曲を何度も聴いていました。寺尾さんの歌に治療してもらったような気がします。」
寺尾紗穂さんの曲を聞くと鬱積した思いが溶けていくと。「まるく響く声質」の効用なのだろう。
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2024年02月09日

下北沢X物語(4880)―寺尾紗穂さんという人 3―

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(一)因縁の糸は生きながらえてこそ繋がってくる。奇遇から特攻逸話に首をつっこみ何年もこれとつきあってきた。が、糸は閲しないと繋がらない、昨年、秋に特攻隊員の一人飯沼芳雄伍長の墓参りに行った。松本蟻ヶ崎の正麟寺である。昨日何気なくネットを見ていたときの偶然この寺が引っ掛かった。川島芳子はこの寺に葬られていた。彼女は清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭である。養父は松本藩士の子、川島浪速である。この彼の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し松本高等女学校に聴講生として通学した。このときに女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したというのは有名な話だ。やがて関東軍が溥儀を執政として満洲国を樹立させると、芳子は新京に置かれた宮廷での女官長に任命されたという。新京で発足した特攻隊誠31,誠32飛行隊は溥儀に謁見した。この後、偶然に松本浅間温泉にやってきた。満州と温泉、寺尾紗穂さんは川島芳子を修論のテーマに選んでいる(『評伝 川島芳子ー男装のエトランゼ』文春新書)。この取材のために浅間温泉には何度も足を運んだと聞いている。

自身の感触だ、「支流にこそ真実が潜んでいる」。特攻に関しては総本山は知覧特攻平和祈念会館である。松本も特攻の出撃基地であった、が、一地方の陸軍飛行場である。まさに支流、末社である。が、ここには多くの事実が潜んでいた。

 2010年初めて浅間温泉に行った。特攻隊員が宿っていたという元千代の湯の小林梅恵さん宅に田中幸子さんと伺った。
「私は昭和20年に松本高女を卒業しました。卒業式のときに特攻機が飛んで来ました」
 いきなり特攻情報に出会って驚いたことだ。日付については証書を点検し、20年3月29日だと分かった。
「特攻隊機が皆さんの卒業を祝ってこれから空中旋回をしてくださるとの電話が入りました」
 小林梅恵さんの同級生は教頭先生が言ったという言葉を覚えていて彼女に教えてくれたという。松本高女生は富貴之湯に滞在している誠第31飛行隊に慰問に行っていた。多分そのお礼をかねてのデモンストレーション飛行だったように思う。

 後になって誠第31飛行隊の構成員が書き記した遺墨が見つかった。これを企画したのは松本高女生の高山宝子さんだった。彼女は先に述べた飯沼芳雄伍長と田川小学校で同級だった。
 富貴之湯に滞在している特攻隊員を慰問に行ったという数名に出会って取材したことがある。
「川島芳子さんはこの浅間温泉から馬に乗って高女に通ってきておられました。乗馬服に身を固めて颯爽といく姿は当時はとても評判でしたよ」
 証言者の一人だ。が、このとき川島芳子のことはよく知らなかったので深追いはしなかった。が、今考えると因縁は色んなところに繋がっている。

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2024年02月07日

下北沢X物語(4879)―寺尾紗穂さんという人 2―

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(一)散歩では保育園児によく出会う、アリンコと無心に遊んでいる。子どもは長じてくると仲間と一緒に遊びはじめる。「かごめかごめ」も一例だ、目隠しをした子のまわりをぐるぐる回った挙げ句、「後ろの正面だぁれ?」と謎かけをする。この返答当たる確率が高い。無垢な子どもには特別な感性が宿っている。柳田国男に言わせるとこの遊び「古い社会層の名残」(「小さき者の声」1927年)だという。「子どもが教えてくれる大人の過去は専ら信仰であり、神である」と。無垢な子どもには特有の感性が潜む……これは歌手としての寺尾紗穂さんの感性にも繋がってくる。彼女はつぎのようなエピソードを語っている。

寺尾紗穂
10月の終わりに東京都慰霊堂のイベントで音楽プログラムをやらせてもらいました。関東大震災と東京空襲を次世代に伝えるというイベントでした。予習する中で戦災孤児の子どもたちの作文など読んでいて靴磨きの少年を歌った「しゅー・しゃいん」という曲ができましたが、これなども後日立川の昭和記念公園で開かれた東京蚤の市で歌ったところ、やはりお子さん連れのお母さんが、あの歌になったら、持っていたおにぎりをものすごい勢いで食べ始めたので何事かと思いましたと教えてくれました。立川も飛行場があり、空襲もあり、米兵を客にした靴磨きの少年もいたことだろうと思い至りました。ライブと共に不思議なことがどんどん増えていきます(笑)
 うまく生き延びた子だけでなく、飢えで死んだ子も多かったろうと思うと、切ないエピソードです。


 ステージに立った歌手は、受信者でもある。冒頭の一曲で会場の気を掴む。これは人の集まり方で違ってくる。前に私は、税務大学校で講師して30年ほど教えていた。高校を出たばかりの若者だ。最初は分からなかったが、終わりの十年間では、聞き手なるものは話し手にエネルギーをくれるものだと認識をした。定年後になって世田谷の老人大学で講演を行ったことがある。後ろの席までびっちりだった。話をしていて気づいたのはとても疲れることだ。話せば話すほどエネルギーが吸い取られる、終わり頃はよたよたになっていた。講座の感想が数日経って送られてきた、「この先生は自分で酔っている」と、一時立ち上がれないほどのショックを受けたことがある。

 寺尾紗穂さんのコンサートはどうやら人を惹きつけるらしい。「しゅーしゃいん」を聴いた少年猛烈に腹が空いてきて、おにぎりをパクパク食った。

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2024年02月06日

下北沢X物語(4878)―寺尾紗穂さんという人 1―

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(一)灰田勝彦の『森の小径』にまつわるエピソードを教えてくれたのは寺尾紗穂さんである。この歌は特攻隊員の秘かな愛唱歌だったそうだ、一番は「ほろほろ こぼれる 白い花をうけて泣いていた 愛らしいあなたよ」、この曲を沖縄でのコンサートで歌ったと。これを聴いていたファン、「歌っている間中、白いもやが四方八方から寺尾さんの頭上に集まり、そこから上に上っていっていた」と。この歌は女性への思慕の情を歌っている、が、国民一般の特攻観は女々しさを嫌う。わたしの手元にある若い特攻隊員の遺墨には「散って九段の花と咲く」とある。特攻隊員はかっこよくてはならない。国民は特攻隊員は個別女性ではなく、国民を愛していたという風に思っている。しかし、寺尾紗穂さんはそれとは対極にある『森の小径』を彼らへの鎮魂を籠めて歌っている。私が偶然遭遇した『浅間温泉望郷の歌』は都会世田谷の女子学童への思慕の念を歌ったものだ。『森の小径』的な曲だ、彼女からはこれのレコード化を準備しているとの連絡があった。

 きむらさん 秋に出すアルバムに「浅間温泉望郷の歌」を収録させてもらおうかと思っています。替え歌については、原曲の作曲者に直接連絡を入れる必要があるようです。また進捗がありましたら、ご連絡します。ささやかな形になりますが、採譜者、発見者、記憶者の皆様のお名前もジャケットの中に謝意とともに記せればと思っています。

感慨深いものがある、私は『鉛筆部隊と特攻隊』を2012年に発刊した。この時に8月15日に松本博物館で講演を行った。取材過程で出会ったこの歌のことは紹介をした。歌詞の末尾には「世界平和が来ましたならば、いとしなつかし日の本へ、返りゃまっさき富貴之湯へ」と歌っている。特攻隊員たちも平和を希求していたのではないか、ぜひともこの歌は広めてもらいたいものだと会場でアピールをした。会場にはマスコミも来ていてこのときの様子はテレビでも流された。ところがこの歌あまり日の目を見ることはなかった。

 この歌、再現するまで幾多のドラマがあった。
 まず、疎開学童の秋本佳子さん、東大原国民学校の疎開学童だ。彼女に出会って取材したときに浅間温泉富貴之湯に同宿した特攻隊員たちが、最後のお別れで歌をうたったと。
「わたし、それを今でも覚えています」
 もう約70年近く経っていた。
「歌ってみてください」
 彼女はよどみなく歌った。私はそれを録音した。

 秋本佳子さんが覚えていた歌は、作曲家の明石隼太さんの協力で蘇った。これは2015年8月15日に発行した「戦後70年記録戦争記録集」(写真)に「特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る」……「浅間温泉望郷歌」にこのいきさつは記録した。
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2024年02月04日

下北沢X物語(4877)―伝承記録:鉛筆部隊の80周年 5―

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〇「鉛筆部隊」についての全感想を入力し終わってここに掲載する。選択して載せることも可能だったがそうしなかったのは学童らの熱意を感じたからだ、一生懸命に書ている。これは個別代沢小の学童だけの問題ではない。多くの学童が「言葉は歴史を知る手掛かり」だと言ったことを感想に書いていた、また、これに関連して、「言葉は自分を知る手掛かり」も多くが記入していた。「鉛筆部隊と特攻隊」は、単に特攻隊員と学童との思いの深いふれ合いを書いただけではない、子どもたちがひたむきに鉛筆を駆使して文章を書いた、特攻隊員たちもそこに感銘を受けた、だから出撃後に学童宛の手紙が来た。その冒頭は「鉛筆部隊の諸君へ」となっている。特攻突撃していく隊員に「鉛筆部隊」は心の琴線に触れるものがあったからではないか? 本のレビューには「小学校最後の学芸会で演じました」ともある。知られていないことだが小学校の独自教材として使われていることもあるようだ。

◎6年2組 小松 虎埜 16
 今回は、わざわざ代沢小学校に来て鉛筆部隊のことを話をしてくれてありがとうございます。お話を聞いて、鉛筆部隊をより詳しく知ることができました。鉛筆部隊がどれだけ頑張って鉛筆で戦ってきたのかがとてもよく分かりました。自分は平和とは人どうしが傷つけ合わなくてもいい世界だと思います。みんなみんな協力して一つに。なって戦争がなくなった時が平和だと思います。今日は鉛筆部隊のことを教えてくれてありがとうございました。

・鉛筆部隊は疎開先で日々書いて書きまくったのです、書くことによって確実に文章力があがっています。鉛筆で戦うことで、国語力がアップします。機会あるごとに書いてください。

◎6年2組 左右 真麻
 鉛筆部隊についての話を代沢小学校まで来て話してくれてありがとうございました。鉛筆部隊は約80年前の戦時中、長野県に疎開していた代沢小学校の児童のことだと聞き、親近感が湧いて、より共感しながら話を聞いたり。調べたりすることができました。言葉は歴史を知る手がかりという言葉を聞いて、本当にそのとおりだと思いました。私は歴史を調べることが好きで、よく教科書などを読んでいるのですが、誰かの手記などから情報がやはり多かったです。また、ネットなどには載っていない疎開時代の子供たちの心情など教えてもらい、理解が深まりました。これからもあまり知られてない戦争中のお話を伝え続けてください。応援しています。

・そうです、「言葉は歴史を知る手掛かり」です、記録があれば分かります。だからどんな小さなできごとでも記録しておくと後で役に立ちます。日記をぜひつけるようにしてください。
 
◎6年2組 旗本実和子
 お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。私は話を聴いて、特に印象に残っているのは鉛筆部隊の厳しい生活のことと、言葉の大切なことです。鉛筆部隊の子は少ない少ない食事からお手玉の中の大豆を食べたり、一緒に過ごした特攻隊員が散ってしまったり、心も体も擦り減ってたのを感じました。でも、きむらさんのおっしゃった「自分を高めるために言葉を使う」という言葉を聴く鉛筆部隊の子たちは言葉で強くなり、親を安心させたので、言葉は最大の武器だと思いました。きむらさんの話を聞いて平和はとてもありがたいことだと改めて感じました。そして言葉は人と人をつなぐ架け橋で良い形で人がつながると良いなと思います。

・「言葉は人と人とをつなぐ架け橋」はとてもいいですね、標語になりそうですね。言葉は本当は自分たちから離れているのですね、ですが使えば使うほど身近になります。言葉と友だちになってください。

◎6年2組 小笠原 悠 
 先日は代沢小学校に来て頂き、さらにありがたいお話をしていただきありがとうございました。私はきむらけんさんのお話を聞き、思ったことは自分がしっかり言葉を大切にし。自分の身内にあったことや出来事などを記録することが良いことだとわかりました。それはきむらさんがおっしゃった、一行でも記録しておくと歴史的大発見につながる可能性があるように、自分も一行でもいいから日記を残したりすることで、誰かの役に立ったり、誰かを楽しませてあげられる日記や言葉の素晴らしさを感じることができたからです。もうすぐ冬本番で寒くなってくると思います。お体にお気をつけてお過ごしください。

・何気なく見過ごしていますが、記録は大事です。時間は経っていきますが、書いたことはそのまま残ります。後で見返して、ああそうだったか、ではこれからは……となります。言葉を大切に

◎6年2組 森下
 いよいよ外も寒くなり、花も散る季節になりました。きむらさんはお元気ですか?前は鉛筆部隊のことについて詳しく教えてくれまして、誠にありがとうございました。代沢小の先輩が作ってくれた「鉛筆部隊」という歴史。この歴史を教えてくださったのは、まぎれもなくきむらさんです。ここできむらさんが申し上げてきた言葉を引用します。「言葉は歴史を知る手がかりである」つまり、これは歴史を教えてくださったきむらさんは『言葉』なのです。私はきむらさんの話について言葉のように尊い話だったと思います。なので平和について言葉でできた尊い時間と思い。生きて行きます。体には気をつけてください。

・「きむらさんは『言葉』です」と書いてあってびっくりしました。でもわたしの言ったことをしっかりと受け止めてくれたのでね、そうです言葉が歴史をもともとは作ったのですね。

6年2組 高村 光
 この前、僕たちにいろいろなことを話してくださってありがとうございます。鉛筆部隊やその時の様子、大切なことを教えてもらって、すごくなるほどなと思いました。僕が印象に残ったことは二つあります。一つ目は言葉の大切さです。言葉は気持ちを伝えたり、「手がかりになる」とおっしゃってました。僕はその時、初めて言葉の素晴らしさに気づきました。言葉が無ければ意思を通ずることもできない。そうしたら大変です。二つ目は、疎開の際に親が駅までついて来たという話です。今、それが起こったらと考えると、ものすごく大変なことです。戦争のつらさ子の大切さというのがよくわかりました。僕はきむらさんがおっしゃっていたことを周りの人に伝えていこうと思います。もう二度とこんなことをもう二度と起こさないためにも。元気にいてくれたら嬉しいです。

・人に物事を伝えるとき、要点を整理してと言いましたが、ちゃんと一,二と要点を分けて伝えてあります。すばらしい。そうですね、今回のお話でえ感銘を受けたことは、ぜひ他の人にも伝えてください。

◎6年2組 たかはし かいせい
 この間は、鉛筆部隊や特攻隊の話を分かりやすく、そして詳しく話してくれてありがとうございます。僕はきむらけんさんの話を聞いての感想が三つあります。一つ目は『言葉と友達になろう』ということで、そうなるために僕は大事日の日記を書いたり、何も起きなかった日でもきむらけんさんが言ってたように少し違う書き方で頭に残したいと思います。二つ目は『記録が大事』ということです。ぼくは記録にあまり意味を感じていなかったのですが、きむらけんさんの話で自分や歴史を知るために必要ということが分かりました。三つ目は、特攻隊の『次の世を任せますと』いうことです。僕はこの言葉を聞いて任されたという実感が湧きました。このような話をきむらけんさんから聞いて、ぼくは平和とは誰もが望んでいることで当たり前ではないというふうに考えました。

・話をよく聴いていましたね、物事を伝えるときに要点を三つ述べて語れと。そのとおりに書いてあってとても感心しました。そうですか、特攻隊員が言っていた『つぎの世をまかせます』と言ってましたが、この思いを引き継いでくれるとのこと、嬉しいです。

◎6年2組 石河 真佳
 45分間のとても貴重なたくさんの話をしていただき、誠にありがとうございます。私はお話を聞いて、『言葉は歴史を知る手がかり』『言葉は自分を知る手がかり』ということと『言葉と友達になってほしい』と言うことを聞いて、言葉は大事であることと記録は大切ということがわかりました。私は平和は全世界に生きる生き物が、人でいう人権を持って暮らせているということだと思います。それをやるのはとても難しいし、はかない理想であるということは重ね重ね承知してるけど、私は生存競争、自然の摂理などを除いて上記のことが達成できて初めて平和と言えると思います。それを達成するには、きむらけんさんが言ったように人間の一人ひとりが平和という気持ちをみんなが持つということが平和の第一歩だと思います。思います。私はまず身の回りの小さな争いを無くしたりしていきたいです。私も作家を目指しているので、きむらけんさんの話はとても貴重な経験となりました。それではお体に気をつけて毎日をお過ごしください。

・話をよく聴いていましたね、核心がしっかり捉えられています。平和への希求をどうあっても思い続ける,大事ですね。作家を志望しているとのこと、大事なことは言葉と友だちになることです、友だちになって自在に言葉が操れるようになって、作家の道が開けてきます。頑張ってください。

◎6年2組 横須賀 あさひ
 師走を迎え、きむらさんにおかれましてはいっそうご隆盛のこととお慶び申し上げます。お変わりなくお過ごしでしょうか?先日は大変お世話になりました。お話を聞き鉛筆部隊についてや平和についてなどさまざまなことを学べました。とても感謝しております。短い時間でしたが、いろいろなことを知りました。特に初めの時に話していた『言葉とは』という話がとても興味深く楽しかったです。そして私は文章や作文を書くのがあまり得意ではないのですが、次からは言葉と友達になって書きたいです。そして平和についても考えてみました。平和を保つために私は相手の意見を否定するだけでなく、認めて聞いてあげるようにしたいです。また、平和のために昔と同じ轍を踏まないように、次世代へ戦争の悲惨さや学んだことを語り継いでいきたいです。最後ですが、お風邪など召されませんようご自愛くださいませ。

・わたしが言葉について話したところが一番興味深かったとのこと。鉛筆部隊は銃剣を持って戦いはしませんでした。しかし、鉛筆を握って言葉と戦いました。そのことによって言葉と友だちになったのです、書き方がうまくなりました、また物事を考えるときに役立つようになりました。基本は練習です、言葉に慣れれば友だちになれます。

◎6年2組 丸山 奏奈 23
 鉛筆部隊について教えてくださり、ありがとうございます。きむらさんの話で鉛筆部隊の様子や特攻隊の様子が見えました。特攻隊の手紙で特攻隊は命を懸けて戦っていたと思います。きむらけんさんの話は分かりやすく、上手で面白かったです。私の思う平和はお互いに争わず戦わないで話し合っていき、世界が平和になることが平和で、みんなが幸せに生きてたくさんの人を死なに行くことが本当の平和である。だから平和っていうのは、みんながみんななが幸せに生きていくことだと思います。

・お話をよく聞いてくれてありがとう。今回の話を通して知ったことをお父さんお母さんなどにぜひ話してください。

◎6年2組 根岸 かのん
 先日はお忙しいなかありがとうございました。私は事前に授業で調べたつもりでしたが、インターネットに載ってなかったことをたくさん知ることができました。例えば、都会の子たちが歌を歌っていることや、汽車の音を聞くと泣いてたことなどです。また、アンビリバボーの動画のために汽車を動かしてくれたという裏情報を知れて嬉しかったです。私は平和な時に生まれましたが。もし戦争の時だったのならば、私はすごくつらかったと思います。なので、今の平和に。感謝をして、もっと平和について知ろうと思います。ありがとうございました。

・低学年の子は汽車の音を聴くだけで親が恋しくて泣きました。それを上級生の女子が慰めていたのです。そうですね、平和についてぜひ知ってください。

◎6年2組 勝野 佑人
 昨日はお忙しい中、特別講演会をしていただきありがとうございました。僕たちは事前に鉛筆部隊について調べてみましたが、実際に説明していただくと調べていたもの以外のものがたくさんあり、新しい発見になりました。例えば、戦時中の公式記録をすべて焼いてしまったとか、鉛筆部隊が手紙を書いているうちにだんだんと手紙を書くのがうまくなっていたなどのことを新しく知りました。また、きむらけんさんをお話しいただいて、平和について考え方も変わりました。最初は平和大事だと思っていましたがお話を通して改めて平和はとても大事だと思いました。いい勉強になりました。ありがとうございます。

・手紙は書けば書くほどうまくなります、日記も書けば書くほどうまくなります。ぜひとも日記をつけるようにしてください。

◎6年2組 内田 航大朗
 先日はお忙しい中、わざわざ代沢小で特別講演をしてくださり、ありがとうございました。僕は鉄道に関する質問をさせて頂いた内田航大朗です。鉛筆部隊については事前学習で調べて知ってるつもりでしたが、実際にお話を伺うと。インターネットに書かれていない話を知ることができ、とても興味深かったです。例えば、疎開学童たちが疎開先で歌を歌っていたことや、僕も鉄道好きなので、中央線にスイッチバックがあったことなどが印象に残りました。僕は平和な時代に生まれましたが、戦争中に疎開した子供達は親にもう会えないかもしれず、毎日不安だったと思います。そう考えると、僕たちは幸せなんだと思い、平和を大切にしようと思い考えました。そのためにはきむらさんがおっしゃってたように話し合いが大切です。だから受験勉強やそれが終わったのち、日記を通して国語力を磨いていきたいです。今度お会いできたら鉄道好きの身として下北沢昔の鉄道についてのお話をお聞きしたいです。どうぞよろしくお願いします。最後になりますが、きむらさんもお体を大切にしてお過ごしください。

・下北沢の鉄道については、「下北沢X惜別物語」が世田谷区の全部の図書館にあります。ぜひ見てください。日記はぜひ書くようにしてください。

◎6年2組 本田 萌杏
 火曜日の5時間目にさまざまなことを教えてくれてありがとうございました。今の日本では信じられない悲惨な出来事が79年前にあったということを改めて感じられて良かったです。親と離れて過ごした日々。空襲にあいながら過ごした日々、協力して過ごしてた日々は忘れてはならない出来事に思います。なので、私にできることを考えていけたらいいです。例えば、人々に鉛筆部隊のことを教えたりすることです。教えながらも少しでも知ってもらえて次の人へと伝わっていったらいいと思います。自分の人生には起きないと思える悲惨な出来事、戦争のことを教えてくれてありがとうございましたこれから。これからもこの大切な授業を生かして総合の授業で。(ほかの授業もだけどメインで)頑張っていきたいです。
質問。合計で何枚ぐらいの手紙を書いて、どうやってそれを送ったのか?

・答え、手紙の枚数は人によって違います。多い人は百何枚も。少ない人は数十です。送ったの郵便ですね。お願い、ぜひ鉛筆部隊のことは知らない人に教えてあげてください。

◎6年2組 栗原花林
 昨日は一時間鉛筆部隊について話してくれてありがとうございました。自分たちで話を聞く前に、特別攻撃隊や戦争中の生徒の様子など調べましたが、きむらさんの話を聞いて、より戦争のことが分かりました。そして話をしながら動画を出してくれたり、資料を見せたりしてくれたので。とても話が分かりやすかったです。これからも体調に気を付けて、下北沢文化などの研究や本を書くことを頑張ってください。

・ありがとうございます。「下北沢文化」は一生懸命調べています。この春には新しい地図を発行します。卒業式に間に合えばいいですね、今度の6年生にはわたしから全員にプレゼントしましょう。先生に連絡をとってみてください。

◎6年2組 鈴木 明日香
 お忙しい中講演会を開いてくださり、ありがとうございます。私はこの講演会を通じて。鉛筆部隊の気持ちや想いが想像でありますが、伝わりました。インターネットで特攻隊や鉛筆部隊などのことを調べたけれど。きむらけんさんが鉛筆部隊が国語力は向上していき言葉と友達になったと言うことを聞かなければ、未来へつなげることができなかったと思います。なので、これからは毎日できる限り日記をつけたり、字をきれいに書いたりして、鉛筆部隊の後輩として頑張っていきたいと思います。そして特攻隊と鉛筆部隊が関わったことで、鉛筆部隊が成長していって未来につながったのかなと思いました。私は、きむらけんの話を聞いて、平和とは言葉を伝え合うことだと思いました。なぜなら、戦争とは言葉のぶつかり合いで言葉を伝えあうことができたから、戦争が終わることができたんだと思いました。きむらけんさん講演会を開いてください。本当にありがとうございました。

・平和の基本は、武器を使うことではありませんね、『平和とは言葉を伝え合うこと』に尽きますね、なんとか話あって平和を築いてほしい、私たちの願いですね。そう、ぜひこれからは日記をつけてください。

◎6年2組 松沼 一
この間、私たちのために時間を空けてくださってありがとうございました。僕が思ったことはもし自分にきむらけんさんが言ってたいたようなことが起こったら必ず困惑します。当時の子供たちを考えるとすごい勇気があると思いました。今も様々な国で戦争や内戦が続いてますが、僕は日本で起きたことを外国に伝えることが大切だと思います。なぜなら、日本での。経験を生かして国外の戦争を止めることは充分にできるからです。

・日本は唯一の被爆国です、いかに原爆が悲惨だったか、このことを訴えて世界平和に寄与したいのですね。

◎6年2組 高橋 しう
 鉛筆部隊についていろいろ話してくださってありがとうございました。きむらけんさんのお話のおかげで、鉛筆部隊の自体の細かい部分までいろんなことを知れました。鉛筆部隊できむらけんさんが話してくれたことで気になったのは、下北沢から浅間温泉まで時間が今より長くかかっていたのが気になりました。平和については戦争を続けている人が今は多くなっているのでこれから後もずっと平和でいられたらいいですね。鉛筆部隊のことをいろいろ教えてくださってありがとうございました。このことを生かして平和のためのボランティア活動や募金活動をしていきたいです。

・昔は松本まで夜行列車で一昼夜かかって行きました。今は中央線の特急では短時間で行けます。技術が格段に進んだのですね。鉛筆部隊の子どもたちを思い出しボランティアに励んでください。



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2024年02月03日

下北沢X物語(4876)―伝承記録:鉛筆部隊の80周年 4―

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◎代沢小の六年生全員に「鉛筆部隊」について話をした。その感想文を戴いた。学童のほとんどが感想で「平和」について触れていた。それぞれが率直に感じたことを書いていた。自身が話したことが多くの子に伝わっていた、教育現場の最前線の教壇に立ったという実感を持った。感想というボールの重さを思った。それで選んで載せることはしないで、全員の文を活字化して載せることにした。もう一回続いて終わりとなる。「わたし、小説家志望なのです」という感想があった、いいなあ、これから少年少女は何にでもなれる。大事なのは夢を持つことだ、少年よ夢を抱け!


◎6年2組 若目田 旭飛
 
 先日は鉛筆部隊や言葉に関する説明会を開いていただき、ありがとうございます。私のメモ書きで表面と裏面で三分一が埋まるほど書かせていただきました。どれも調べたサイトには出てこなかったことばかりでした。感想としては、今の常識も戦時中では非常識になることもあるということがよくわかりました。また、言葉や字は人に何かを伝えるための方法だということも分かりました。なので、言葉や字は戦時中の子供達にとってはとても大事な希望と考えると、先日の説明会でおっしゃってたこともつながっていると思いました。そして、平和とは誰も欲張りすぎないことが平和だと思います。なぜなら、戦争は獲物や領土の取り合いなどの少しくだらないことから始まることが多いので、結論から言うと。誰も欲張らなければ戦争など起きるわけではなく、常に平和が続き、今の日本のような平和がどの国にももありつづけると思ったからです。

・「平和とは誰も欲張りすぎないことが平和だ」というのは自分の発見ですね、ここは誉めたいと思います。そうですね、言葉は戦時中の子どもには希望だったのでしょう、東京の親に手紙を書けば思いが伝わる、そしてまた返事も帰ってくる。まさに希望です。

◎6年2組 久保田 晴己 
 先日は香港で特別講演会を開いてください。誠にありがとうございました。講演会では僕が事前学習の調べで見つけることができなかった新しい知識をたくさん得ることができた(吉原軍曹が宙返りしたこと、スイッチバックのこと、下級生の3年がよく泣いていたこと、トイレ斥候のこと、3月5日から出撃のことを知っていたこと、兵隊の6名は満州から千代の湯まで来ていたこと。疎開学童が郷福寺で聖丘学寮の歌を歌っていたことなど。)吉原軍曹が宙返りをしたことを書いた日記を見つけたとき、そこから様々なことが分かると聞き、「小さな発見でも歴史的に大きな発見になることもある」と知りました。最後に講演会を終えて僕は今は戦争を体験してない人が多いので、戦時中の映像やその時の人が書いた日記などを読み、平和の大切さ,ありがたさについてあらためて考えてみるべきだと思いました。まだあまり手紙を書いた事が無く、文も下手な僕ですが、これから頑張ろうと思います。講演ありがとうございました。

・一つ一つの小さな話をよく聞いていましたね、文章には日頃の真面目さが表れているように思われました。文字をたくさん書いて、言葉と友だちになってください。ぜひ日記を書いてください。

◎6年2組 佐々木 泉
 まず忙しい中鉛筆部隊のことについてお話を聞かせてくれてありがとうございます。とても楽しくてワクワクしました。鉛筆部隊の当時の話をとても詳しく聞けて、戦争のこと。言葉を言葉と友達になることをより考えたくなりました。私はもし疎開すると言われたら絶対できないと思いました。だけど、その頃の小学生の気持ちは、「お父さんや母さんが戦ってくれているから、私たちも戦う」と弱音を吐かず「自分たちも戦う」とプラス思考なのはすごいなと思いました。私にとって「平和」とは「戦争をしない世界」だと思ってます。「鉛筆部隊」のようにお父さん、お母さんと離れ離れに暮らさず満足に食べ物を食べられる、そんな世界になればいいと。願ってます。

◎6年2組 名雪 こうめ
 この間、とても丁寧にお話をしてくださってありがとうございました。鉛筆部隊の話を詳しく聞けて嬉しかったです。そしてとてもわかりやすくて聞いて、とても楽しかったです。話を聞く前は言葉と友達になるなどがあまりわからなかったです。ただしだけどきむらけんさんの話を聞いて、言葉と友達になるという意味が分かり、自分でも言葉と友達になることについて考えるきっかけになりました。そして言葉の大切さ。駅に見送りに来た親たちの気持ち、戦争のことについて深く知りました。研究頑張ってください。

・そうです言葉と友だちになると言葉がますますうまく使えるようになります。これからの人生で言葉はとても大事なものです。ぜひ仲良くなってください。

◎6年2組 川崎 日奈
 先日はお忙しい中代沢小に来てくださり、ありがとうございました。私はきむらけんさんが話してくれた鉛筆部隊のことを聞いて嬉しかったです。とくに話を聞いて、なるほどと思ったことは「言葉と友達になってほしい」という話の時。言葉は手がかりこれからも大事と言ったとき自分は言葉を大事にすれば、言葉と友達になれるんだなと考え、中学生になったら部活日記や生活日記をつけたいなと思いました。平和について自分が考えた時、「昔は平和が夢のようだったけど、今は平和が当たり前になっている。そして戦争の経験をした人は、平和が当たり前のように感じている。若者は感謝の気持ちがないけれど。経験した人は平和に感謝の気持ちがある」と考えて、きむらけんさんの話を聞いて他の考えが思いつきました。今日は学校に来て頂きありがとうございました。

・そうです、「言葉と友だちなる」大事ですね、使い慣れる、書き慣れる、すると言葉力が向上します。言葉と友だちになってください。部活日記や生活日記はとてもよいアィデァです。日々書いて書いて,言葉と友だちになってください。

◎6年2組 加藤 響
 わざわざ代沢小学校に来てくださってありがとうございました。僕はきむらの話を聞いて、二つのことを感じました。一つ目は、言葉や文字についてです。先生の話を聞くまで当たり前過ぎて気づいてなかった言葉や文字の大切さに気づきました。いつもはなぜノートを書かなければいけないのかが分かってませんでした。でも書くことで頭が良くなることがわかりました。これからは漢字をちゃんと書くことにします。2つ目は平和のことです。戦時中、厳しい環境だったことを知って、平和な暮らしがいかに大事かということが分かりました。

・言葉や文字について認識を改めた点はよかったです。ええ、自分の手で漢字を文字をどんどん書いてください。頭がよくなりますよ。

◎6年2組 鎌瀬 千尋 
 私はきむらけんさんの話を聞いて、鉛筆部隊で調べても出てこなかったことを知ることができたり、きむらけんさんに鉛筆部隊を調べることにしたきっかけや、生きることで何が大切かなどを教えてもらえました。いろいろなことを調べてくださり、ありがとうございました。すごく楽しかったです。私はきむらけんに言われて、気づいたことは言葉の大切さです。きむらけんさんが言葉は記号だとか、言葉を知ること、書くことが大切、脳が字を書いてるうちに字を覚える。書けば書くほど神経が太くなって通りがよくなり、頭が良くなるなど、鉛筆部隊が戦時中に武器が使えない分、鉛筆で戦ったときみたいに字を書き続けることの大切さを知りました。なので少しの出来事でもメモを取ったり、日記を書いたりしてみようと思いました。私に平和について考えたことは戦争がないと平和で幸せ、戦争があると平和じゃなくて不幸とかはよくわかりません。ですが、人間として最低限の生活ができて穏やかな状態だと思っています。

・鉛筆で字を書くことが大事です、手から脳につながった神経の通りが良くなると自然に頭もよくなります。ぜひ日記をつけるようにしてください。

◎6年2組 菊池 愛加 
 今回は代沢小学校に来て鉛筆部隊のことについて教えていただき、誠にありがとうございました。話を聞いて言葉の大切さ、鉛筆部隊のすごさ、戦時中のつらさや大変さ、疎開した子供たちの親の気持ち。特攻隊の人たちの大変さ、疎開先での生活を教えてもらえてよかったと思います。今の生活は全然違くて、昔ではなく今の時代に生まれてこられて良かったです。今の時代は昔と違い、食事はご飯をたくさん食べれるし、戦争はないし、不便なく暮らせていて、今は昔に比べてもっと平和だと思いました。今回は本当にありがとうございました。

・今の平和がどんなに大事か、平和というのは人々が努力してこそ保たれます。そのことを知った上で皆さん、努力して平和を護ってください。

◎6年2組 塚谷 笑理
 先日はお忙しい中代沢小学校へ来てくださり、ありがとうございます。アンビリーバボーの動画を見たり、鉛筆部隊についてインターネットや資料で調べていましたが、わからないこともたくさんありました。例えば、子供が疎開するときに時にお見送りをした母親と、父親の思いや子供の空腹をしのぐ方法(お手玉の中の小豆大豆を食べたり誰かの食事を抜きにして、自分たちが多く食べられるようにしたりする)などは話を聞かないと分からないことだと思いました。これからどんどん戦争を知らない人が増えていく中で、自分で調べたこと、きむらけんさんから聞いたことをしっかりと心に留め、これから生活して行きたいと思います。貴重な機会を本当にありがとうございました。

・経験はどんどんと忘れられていきます。今回、お話を聞いて、心に残ったことについてはまわりの人に話してください。そうすることでつぎに伝わります。これは伝承といいます。時は移っていきます。ゆえにそのときそのときで人に伝えることは重要です。

◎6年2組 中川 結愛
 先日はボランティアで鉛筆部隊の講演をするために代沢小学校にご来校くださり誠にありがとうございました。きむらけんが話してくれて、平和の大切さや言葉を書くと、指から神経に伝わり脳に伝わり、それを続けると神経が太くなり、頭の回転が速くなるということを知りました。なので私は、平和や言葉の大切なことをもっと詳しく調べ、それを伝えられるような人になりたいと思います。これからもどうかお元気にお過ごしください。

・とても大事なことを勉強しました。書くと神経を通して電流が脳につながり、脳を刺激します。この繰り返しによって言葉が自分のものになるのです。そうです、言葉をしっかり勉強してください。

◎6年2組 西村 星ノ助
 鉛筆部隊ことを教えていただきありがとうございました。きむらけんさんの話を聞き、戦争の時に子供がどのように生活をいたのか、手紙を見て特攻隊の人と子供たちの気持ちが分かり、昔の大変さや苦労を知ることができました。昔の人のために僕も頑張ろうと思いました。きむらけんさん、先日はありがとうございました。体調に気をつけて元気に頑張ってください。

・昔生きていた人たちのことを言葉で伝える、とても大事ですね、これを伝承といいます。
ぜひこれからの人に伝えてください。

◎6年2組 近藤 蒼真  
 鉛筆部隊などのたくさんの貴重なお話を伝えるため来ていただき、本当にありがとうございました。お話を聞いて、ぼくは鉛筆部隊や特攻隊の気持ちや生活、また鉛筆部隊の親などの気持ちもより詳しく具体的に知ることができました。鉛筆部隊以外にも、言葉や記録はいかに大事かということおよくわかりました。これからはきむらけんさんの言ってた鉛筆部隊のように言葉と友達になって言葉を大事にすることを意識して行こうと思いました。そして僕は平和もすごくありがたいものということを実感しました。今平和のありがたさを忘れてしまっている人たちがたくさんいるので、その人たちに平和のありがたさを伝えていこうと思います。改めて平和について考える機会を与えてくださって本当に?ありがとうございました。

◎6年2組 原口 ゆうか

 忙しいなか、代沢小学校まで来てくださってありがとうございました。私はきむらさんのお話を聞いて、戦争の悲しさや怖さを知ることができました。あと言葉の大切さもよく分かりました。鉛筆部隊が毎日手紙や日記を書くことで、家族や兵隊さんたちを喜ばせているのが。すごいなと思いました。言葉だけでも「自分は元気で暮らしている」と伝えるだけで安心させられたら、それだけで手紙を書くかいがあったと思います。平和について私は戦争のない世界だと思っていました。だけど、戦争しないことだけが平和ではないと思いました。きむらけんさんの話を聞いたのちは、平和のために言葉でつながることも大切なんだと思いました。卒業までもう残り少ないですが、鉛筆部隊の後輩としてこれからも代沢小の下級生を引っぱっていけるように頑張ります。

・「言葉の大切さ」は本当にそうですね、言葉をじっくり考えてみてください。
代沢小は言葉の学校だったのですよ。

◎6年2組 小島 奏姫 
お忙しい中代沢小学校に来て講演会を開いてくださりありがとうございます。事前に鉛筆部隊について調べていたけれど、ネットだけで知ることができない情報まで教えてくださり、ありがとうございます話を聞いてきむらけんさんが鉛筆部隊はずっと書いていたから、だんだん上手になっていったということ。成長するには日記を書くと言っていたのが、とても心に残ってます。私は文を書くということが苦手なので、今日のことを毎日日記をつけることを頑張り書き方を上手にして行きたいと思います。そして、書くときには字をきれいにて書いて誰が見ても読めるような字にして書きたいと思います。本当に来て貴重な話をしてください。ありがとうございました。

・大事なことは慣れることです、書かないから書けないかったというのはあると思います。これからはぜひ毎日日記をつけるようにしよう。だらだら書かない、頭で整理して書くことです。

◎6年2組 横尾 佳穂 
 お忙しい中、代沢小学校にお越しくださりありがとうございました。お話を聞いて、私は今の日本がとても平和だなと。まず感じました。そして戦争中は食料が足りなかったり、人が亡くなったりして大変だったし、つらいことがたくさんあったと思います。でも、兵隊の方が国のために命がけで戦ってたり、現在代沢小学校の長野へ疎開した鉛筆部隊の人は手紙を出したりしてがんばっていたことを考えると凄いなと思いました。世界にはまだ戦争している国があって昔の日本のように大変なことが起こっていると思うので、自分でできることを少しでも何をすればいいのか考えていきたいとです。

・何事も勉強ですね、一つのことを知ると次が知りたくなります。大事なことはおもしろがることです。


rail777 at 17:48|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2024年02月01日

下北沢X物語(4875)ー北沢川文化遺産保存の会会報第211号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第211号    
           2024年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、下北沢文士町文化地図大改訂9版の発行 きむらけん

・文化地図の校訂作業も大詰めだ、名称を改訂としていたが気づいてみると旧版を大幅に変更していた。それで呼称を変更し大改訂とした。顕著なことは文化人旧居跡の増加である、これが20名も増える。作成当初から文士町と呼称をしている。理由は歴史所産をいう文士村ではないからだ。この村の形成はある地域で中心人物を核にして文士が大勢集まった。馬込文士村や田端文士村である。これらは歴史過程においての一過的な現象である。
・ところが下北沢文士町での文化人の参集は一時期では終わっていない。昭和2年に小田原急行鉄道が開通し、これをきっかけにして武蔵野郊外のこの土地に文化人が集まってきた。一番乗りは、北沢の丘に越してきた横光利一だ、ここに彼を慕う文化人や文学者が集まってきた。この時点では文士村だったと言える。
・文学の神様だとも評された横光利一は 戦後すぐ1947〈昭和22〉年12月30日に亡くなる。戦争中の言動を左翼に叩かれたこと大きいようだ。一番街の住吉園の親父さんは家の前で倒れた彼を介抱したと住吉園の娘さんだった人から聞いている。
・戦後、当文士町では多くの文人、文化人が居住した。横光利一は一時代を築いたが、その後、陸続と多くの人々がやってきて住み、当地で執筆活動を行った。今回、私は総括文で、「類例のない文化都市」として文章をまとめた。それは一過的な文士村ではなく、継続して続いている文士村という言い方をしている。この版の名前を「文士町」としていたのはそのためだ。
・今回、文士町に新しくマークした人は20名である。その内訳だ。増えた理由は二つある、一つは物故者の付け加えである。半藤一利氏、矢吹申彦氏、服部克久氏、和田誠氏、松林宗恵氏などである。新たに住まいが分かった人もいる。川田正子氏、音丸、宮柊二氏、小野佐世男氏、ダン道子氏、柿本七郎氏、斎藤寅次郎氏、桑原ウメカ氏、杉本久英、高柳健次郎氏、今井兼次氏、杉森久英、森敦(晴保荘)などである。さらには校正段階に入って八幡白帆(日本画家)、斎田東野(学者)、斎田雲岱(画家)を付け加えたことだ。

・今回、旧居表示が大幅に増加した。文化人居住密度が深まったと言える。ただ苦労もあった。物故者の旧居を地図上にマークするのはプライバシーに関わる。それで了解が取れるお宅には許可を取った、半藤一利さんの奥さんには、作道敬子さんが許可をもらいいったとき世間話をしたという。これを聞いてそのとき私も行けばよかったという人もいた。奥さんは夏目漱石のお孫さんである。松林宗恵監督の息子さん、地所は売却したので父がここにいたというマークは遺族としてもありがたいと。川田正子さんの場合、ご主人が出てこられたと。私もその場に行き会わせていれば話を聞きたかったと思う。
・今回人数が増えたことについては奥谷民雄さんの功績が大きい。彼は代田八幡宮の前、宮前に住んでいた。それで一帯に住む文化人をよく調べていた。音楽関係者が多いのは帝国音楽学校との間接的影響があったのではないかと。
・最後の最後になって斎田記念館に電話をした。斎田小枝子さんだけが載っていることが
不思議だと言われた。そんなこともあってマークを二つ増やした。斎田東野(学者)と斎田雲岱(画家)である。
・居住が分かっていたがその居住場所がわからなかったので載せていない人がいた。八幡白帆や宮柊二である。
・「下北沢文士町文化地図」改訂第9版、累積発行部数が9万部、改めて内容を閲してみる。表面は地図である、ここには「猫町」散歩コースを新たに書き入れた。裏面はすべてが萩原朔太郎の特集記事だ。「萩原朔太郎」−幻影の「猫町」下北沢−である。
・我等は妙なこだわりを持っている。寮の存在だ、今回も「虎の門タイピスト学校寮跡」を加えた。かつて当地には寮が多かった。「七島学生寮跡」、「飯塚嘉穂学寮跡」などを記している。ここに潜むのは数多くの青春物語である。この二つの寮の名を聞いただけでせつなくなる人がどれだけいるか。前者は伊豆七島が共同運営していた寮である。後者は産炭地、飯塚市が所持していた寮である。共同体の存続を狙いとしていたのではないか、若い者が東京に遊学して戻ってきて地方を支える。
・「虎の門タイピスト学校」なども数多くの青春ドラマがあったろう。
「私は男だったけども必要に迫られてブラインドタッチを学びたくて門戸を叩き、入学したちまちにして習熟ができた。米国での生活も無事過ごせた、これもタイピスト学校に行ったお陰です」というような話だ。
・今回の地図作成に当たっては、多くからサポートを得ている。一つは世田谷ファンドである。今回も新地図作成に当たってはファンド企画に応募した。無事に審査が通って助成金をいただけた。ところが地図を作成するに当たっては、ファンドの助成金だけでは不足であった。それでいつもお世話になっている東邦薬品株式会社に協賛をお願いして、これも得られて今回の地図発行に結びついた。
・特記すべきは邪宗門作道敬子さんの働きだ。彼女はエクセルを勉強して、関係箇所を丹念に調べてマークしてくれた。現地踏査をしたり、遺族との連絡をしたり、八面六臂の活躍であった。

2,「猫町」散歩雑感 松山信洋
 
 去年12月16日(土)の午後1時30分、下北沢東口に出かけた。毎月恒例の散歩に参加するためである。テーマは「猫町」。案内人は木村先生。総勢11名、萩原朔太郎の下北沢の住居から野屋敷をめぐり、鉄塔を見て終焉の地に至り、最後は北沢川の記念碑の前で解散、というコースである。
ところで改めて「猫町」とは何か。昭和10年朔太郎が書いた短編による。主人公は北越地方のKという温泉に逗留していた。9月も終わりに近く、すっかり秋の季節になった湯治場は避暑客も少なくなっていた。秋の日影が深まる中、主人公は一人裏山などを散歩しながら無聊をかこっていた。ある日、彼は山道で道に迷ってしまう。そして見たこともない美しい街に迷い込む。人々は賑やかに雑踏していたが、少しも物音がなく、「閑雅にひっそり」、「深い眠りのような影を曳いていた」。しかしそこには何か不安が内包されている様な気がした。すると突然、周囲の様子が一変する。「猫、猫、猫、猫」、街路に猫が充満して、うようよ歩き回っているのだ。意識がバランスを失って、破滅が迫って来るのを感じる。だが、次の瞬間、意識が回復すると、不可解な猫の姿は消え失せ、街には何の異常もなく景色は一変していた。普通の平凡な田舎町、しかも彼のよく知っている町であった、という話である。
ではどうしてこんな不思議な小説が着想されたのか。朔太郎の説明はこうである。彼は、毎日、家から30分あるいは1時間くらいの場所を散歩していた。ある日、ふと知らない横町に入り込み道を間違え、方角を見失ってしまった。あせった彼は当推量で家の方へ帰ろうと急いだ。すると、ふと、にぎやかな通りに出た。それはまったく、自分の知らない美しい街だった。夢を見ているようだった。現実の町でなく、幻燈に映った影絵のような街にみえた。しかし次の瞬間、そこが自分のよく知っている、ありふれた街にすぎないことに気づく。その錯覚は道に迷って、方位が混乱したことが原因であった。「いつもは左側にある街路の町屋が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、凡ての町を珍しく新しいものに見せたのだ」。この偶然の発見から朔太郎は故意に方位を錯覚させて、しばしばこうした「ミステリーの空間」を旅行するようになった、という。
こうした創作の発想の源を実地に歩いてみようというのがこのコースのテーマである。「猫町」散歩はこれまでも何度も企画されていて、私も以前一度参加したことがある。前回は私自身初めてでもあり、見知らぬ場所をめぐる散歩であったため新鮮な興奮を感じたものだ。実際、歩いてみると、朔太郎が錯覚した体験を、私自身、追体験するような気がした。今回そうした興奮はなかったけれど、木村先生の説明は経験を積んでだいぶ手慣れたものになっている印象だった。思い返せば私はこの会の存在を偶然知り、毎月行われる散歩に参加させてもらい、「散歩」の面白さ、奥深さを知った。そのことでは本当に会に感謝している。とりわけ「猫町」散歩は木村先生の着想から生まれた素晴らしいテーマであると改めて思う。ただ名所旧跡を巡るだけではなく、小説の生まれた発想を実地に歩いて確かめてみる、このユニークなテーマは誇るべき会の財産と云ってもいい。であればこそ、この財産をこれからどう受け継いでいったらいいのか、それが問われるのではないか。

3、会友別宮通孝氏の死を悼む

新年になって訃報が届いた。「病気療養中のところ 夫通孝が 昨年十二月二十六日に七十九歳にて永眠しました」と別宮通孝さんの奥さんからの知らせだ。ここ十数年つきあっていただけにやはり悲しい。世田谷一帯の地域文化に詳しく、我等の会の町歩きでは何度も案内役をやっていただいた。懇親会には欠かすことなく出席されて文学や文化や歴史、「五街道を歩いた達人」というのが通り名だったが、亡くなってしまわれるとその不在が悲しく思われる。心より、ご冥福をお祈り申しあげます。(K)

4、町歩きの案内
 毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。

第192回 2月17日(土)駒場・池尻・太子堂の戦跡を歩く
案内者 上田暁さん 池尻大橋駅改札前 13時30分
 騎兵学校跡→輜重兵跡→駒場天覧台→旧第一師団騎兵第一連隊跡→池尻神社→駒沢練兵場馬糧倉庫連隊跡→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→三軒茶屋駅
見所:戦争から79年、記憶がどんどん薄れつつある。戦跡もあらかた消えてしまった。それでも探せば、遺構は見つかる。今回は、駒場池尻太子堂の戦跡を訪ね、思いを新たにするものである。


第193回 3月16日(土)大山道を歩く 完結編
 案内者 木村康伸さん 世田谷線上町駅 13時30分
・上町駅→世田谷宿用賀口追分→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅→田中橋→延命地蔵→瀬田交差点→瀬田遺跡→行善寺→南大山道道標→二子の渡し跡→二子玉川駅
コースの面白さ:2023年10月に実施した、三軒茶屋誕生の秘密に迫る大山道歩きの続編である。三軒茶屋ができるきっかけとなった大山道新道開通の理由を、三つの視点から解き明かしていく。さらに、用賀から二子玉川まで歩き、途中の瀬田で世田谷誕生の秘密にも迫る。これをもって大山道を歩く旅の完結編としたい。
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用について 資料代500円 希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498  
*1月20日、遙かな古代を求めて−駒沢の民族学を歩くは、雨との予報が出たことから中止をした。希望者も多くいたことから4月20日に再チャレンジすることにした。 

■ 編集後記
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。次回掲載エッセイ予告。「徒然なるままに」 佐藤容子(旧姓 藤原)東大附属卒業生
▲スペシャリストを募集、地域のあることについて語れる人。地区会館の部屋を借りて話を聞く会を行う。下北沢の地下道、清水バラ園などなど。古老幸田さんの話は中止とした。
▲二万部印刷した「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」は、下北沢小で在庫が見つかった。8版地図も残部があった。必要とされる方がいれば邪宗門へ、無料である。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。年度が変わりましたので会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。



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