2018年09月20日

下北沢X物語(3605)−手作りオペラの脚本提供−

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(一)
 Opera『鉛筆部隊と特攻隊』をなぜ作ったか。十数年の経験から生み出したものだ。私は、毎年『戦争経験を聴く会語る会』を行ってきた。今年は十一回目だった。が、これは開催が困難になってきている。戦争経験者の減少、戦争から七十三年も経ってのこれの風化、それともう一つ、伝承を継続していくべき若い人達の関心のなさである。今年は村上啓子さんが悲痛な被爆体験を語られた。が、参加者を十分に集められなかった。体験者の話を聴くというのも曲がり角に来ている。人の興味を集めるためには工夫せねばならない。その思いから劇仕立ての戦争伝承劇を作った。寄せられた反応からすると一定の成果は上げられた。「台本を区の学校の演劇部などに配布してはいかがでしょうか。多くの若い人たちに伝えたい内容でした」と感想にはあった。今回はたまたま私達が演じた、誰か別の人、学校演劇部でも、一般の人でも構わない。Operaでなくともよい、朗読劇として取り上げて各地で公演してほしい。要望があれば脚本は提供したい。

公演当日に配布した文書がある。これにこう書いた。

『鉛筆部隊と特攻隊』はフィクションではなくノンフィクションである。このオペラの核となっているのは三通の手紙である。昭和二十年浅間温泉で学童たちと一月あまり生活を共にした特攻隊、誠第三十二飛行隊(武剋隊)は沖縄へ出撃し特攻戦死した。その彼らが出発後に出した手紙である。この劇では字句修正することなく手紙をそのまま使っている。特攻は生身の人間を武器として使った過酷な戦法である。戦争は惨いものである。こういう戦争は二度としてはならぬ。

一般に劇は、虚構仕立てが多い。が、Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は、ほとんどが実話を元に書いている。第二次大戦中に実際に起こった出来事である。特攻隊と学童たちの出会いともの悲しい別れを描いたものだ。

 これは特攻を賛美するものではない、が、命を受けて自らの身体を武器にして敵の艦船に体当たりしていった若者がいたことはぜひ知っておいてほしいことである。戦争中に起こった出来事としてこの劇を通して伝えてほしい、そういう願いが私にはある。

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2018年09月19日

下北沢X物語(3604)−下北沢力に助けられた公演−

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(一)オペラ公演は終わった、余韻はまだ残っている。昨日、駒沢公園に散歩に行ったとき保育園児に出会った。女の子がドロ団子を作っていた。「おじちゃん、私の名前リエっていうのね」と言って笑顔を見せる、子どもは可愛いものだ、浅間温泉で学童らと接した特攻兵ははつらつとした姿に英気勇気をもらった。「おじちゃん、何しているの」「散歩の途中……」と言いかけて止めた。自分が散歩しながら校正していることを話しても分からない。「おじちゃんね、一昨日オペラで歌ったの」、「オペラって何?」、「こうやって手を広げてね、『時枝は出発の際までみなさんと楽しく遊んだことが非常に嬉しかった』と言って歌うのさ、リエちゃんドロ団子持ったままポカンと見ていた。自身は適当に節を付けて歌っている、オペラと言ってもドロ団子のようなものだ。昨日もらった池田あすえさんからのメールには「手作りのオペラの舞台を観せて頂きありがとうございました」とあった。つまりは土臭いオペラということではないか。好意的な批評だと思った。

 人間の願望や欲望は膨らんでいく、当初はこぢんまりと公演するつもりだった。が、一日一日過ぎていくうちに自然と夢は大きくなった。それは脚本が他人の目にさらされたからだと思う。関根神父さんが監修に、それから若桑比織さんが演出に入られた。これによって質が高まった。当方は、読者目線で文章を書いている、が、二人は観客目線で批評する。ここは大きな勉強になった。

 すべてが綱渡りだった。人は楽観的な見通しを持つ、何とかなると。しかし、そううまくは行かない。最初のトラブルが音楽だった。当初参加することになったチェロの奏者が駄目になった。公演に音楽は欠かせない。困っていると関根神父さんが紹介してくださったのは内村真由美さんだ。今回はサヌカイトを叩き、ピアノを弾かれた。感想には「オリジナルか?」との質問があった、彼女これが即興である。続きを読む

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2018年09月17日

下北沢X物語(3603)−戦争オペラ:生と死と鎮魂を歌う−

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(一)歳を重ねると、ときめきが薄れてくる、が、昨日一日は心の弾みを押さえられなかった。過ごしている時間が今にも破裂してしまうのではないか?人生の中で一番長い日だった。公演が終わって、「きむらさん、どうなるかと思っていたけど見違えるようになったね」と関根神父さん。褒められれば人間は誰でも嬉しい。演劇人は心を空洞化して舞台に臨む、あなたは雑念や色気がありすぎる、クールに演じることだと指摘された。鉛筆部隊はどしどし書いて上達した、自身もまた毎日どしどし読んで練習に励んだ、そうした上で舞台に立った。前日、神父さんとの打ち合わせ、「田中幸子さんの戦争を二度としてはいけない」はしつこすぎる、一回でよい、「特攻はむごいものです……」で終わる。そこに間が空く、ここに子どもの歌が入るとよい。夜になって石坂悦子さんに相談すと「『故郷』は一番しか歌っていないわね。二番を歌えばよいのよ」と即座に決定。舞台が終わって、神父さんが「みなさん故郷を歌いましょう」で、この歌が聖堂に響く、一番のみならず三番までの大合唱、感動した。特攻兵の物語がこれを歌わせた、彼らは誰よりも強い強い郷愁をもっていたのだと気づいた。

「今日って何人ぐらい見えていたんですか?」
 長野からきた新聞記者。
「何人ぐらいだったかな?矢花さん何人ぐらいでした」
 山梨からきた彼に聞く。
「50人ぐらいじゃないですか」
「50人だって、50人って書くと嘘くさいから、51人と書くといいですよ」と私。
「私は県内のTSBさんのテレビニュースでこれの開催をしったのです。公開練習公演みたいなことを言っていましたが、もうこれ本番に近いですよね」
  当初はそのつもりでいた。が、段々に実験を通り越して本番そのものになってしまった。

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2018年09月16日

下北沢X物語(3602)−Dr.オースティン写真ツアー−

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(一)昨日、15日、第142回、まち歩きは、「下北沢のDr.オースティン写真」の跡を歩いた。その結果得られたことは、1、過去から現在への時空旅行であったこと、2、まちの再認識となったこと、3,参加した人が面白がっていたこと。である。「今という時間の中にまちがありますが、電信柱や道の曲がり方、路地の佇まいなどが70年前の写真から発見できたことは興味深い点だった。一種のまち再認識ツアーとしてはおもしろい、定番としてこれを来年も続けたいと思う」と言った。萩原朔太郎はこのまちを舞台として小説「猫町」を書いている。彼が通っただろう道を通る、多くは路地だ、これはどこかで表通りと交わる。暗から明へ、そのときについ仕草をしてしまう。左右に自然に視線を送ってしまう。まるで幕府の密偵になったように思う。路地に入ると人は、漂泊者になるのかもしれない。「ああ、汝漂泊者よ」と口を衝いて彼の詩の一節が浮かんでくる。路地は人を漂泊者にするのかもしれない。まちあるきの効果か

 ツアー始まりは下北沢駅北口だ、もうそこがDr.オースティンの写真撮影現場である。多くの物語があった現場である。いつも言うが、「ここはマコト、マコトにマコトがあった場所です」と、戦後駅前にあったカフェーである。戦後の文化交流の接点だった、撮影を終えた監督たちがわざわざここまで足を延ばして一杯の珈琲を飲んだ、本物の珈琲が飲めるのはここだけだった。強烈なライトをスタジオで浴びてきた彼らは大きなストレスを抱えていた、が、一口苦い珈琲を飲むと、それが雲散霧消し、新たな意欲とアイディアが浮かんだ。刺激的な場所だった。

 オースティン写真には駅前にあったパンの近江屋の看板が撮られている。この近江屋は、淡路町の近江屋菓子店から来ている。ここの職人だった人が、お店を開いた。パンを売ると同時に、洋菓子も売っていた。

 敗戦からもう三四年は経過している。このパン屋もアメリカ文化の大きな影響を受けている。オースティン写真アルバムにはまちのあちこちにパン屋が写っている。
 
 敗戦を契機にまちは変わった。近隣の邸宅が米軍によって接収されたことで米兵がまちなかを歩く姿が認められた。が、ついこの間まで戦っていたアメリカだ、物量豊かな国の文化にどんどん圧倒された。
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2018年09月14日

下北沢X物語(3601)−鉄道交点文化と疎開学童−

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(一)演劇とは何か、「個人を空洞化することだ」と。これが難しい。個々人に嗜好はある、アジフライ、イカ刺し、鯖の煮付けが好きなどというのはある。歳を重ねれば錆び付いてもくる、そういうものも捨て去ってクールに役を務める。しかし「鉛筆部隊と特攻隊」は難しい。言葉につい引っ掛かる、オペラは哀しみや愛を歌うものだ、ところがこの物語の主調音は哀しみである。それも特攻兵が「鉛筆部隊」に宛てた生の手紙である。「心を空洞化」しようとしているが、言葉が邪魔をする、「兵隊さんは散っても、魂はいつも皆さんの幸福を願っています」とあると、アジの小骨が喉に引っ掛かったことや鯖の煮付けの腹から小魚出て来たことなどがひょいと浮かんできて、声は高調子になってくる。リハの代役だった五十嵐ママさん、彼女が読んだ「君が為、南十字星の下遠く花と散るらん大和益荒男」が五来軍曹が書いた本物の言葉だと知って青ざめ、涙を流した。死んだ後に舞い込んできた手紙を全部歌いあげるが、至難である。心の空洞化を許さない雰囲気がある。今回のOpera、彼らの霊魂との闘いである。

 何だか不思議だ、これも霊魂繋がりか。演劇人、音楽家が次々にサポーターとして現れた。代役で出てきた人が難なく、セリフをこなし、ピアノを即興で弾き、こちらをうならせる。この土地は異常な空間ではないか。

 そう思い出した、いつも下北沢には下61、北沢タウンホール行きのバスでくる。リハのとき、終点直前のビルの谷間で壁に向かって手足を動かしたり、叫んだりしている若者がいた。最初は一人が見えた、予測がついた。やっぱりもう一人がいた。コンビが練習をしていた。前は、茶沢通りの東北沢4号踏切で電車に向かって練習をしていた。今はビルの谷間で行うようだ。

 当地は人材が豊富だ、最初教会で簡単な練習をした。そのときにこれを見ていた男女の若者に声を掛けた。一人本物の声優、もう一人も音大出の弾き手、「やてくれませんか」、男子には語りを、女子には音楽を頼んだ。が、前者は所属事務室から駄目と言われたと。後者は腕に怪我をして弾けなくなった。

 今は人手不足だ、が、吾等のオペラはすぐに人材が集まる。この間のリハのときも子役についてきたママに、代役を頼んだら難なくこなしていた。

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2018年09月13日

下北沢X物語(3600)−人生山あり谷あり脚本家入門−

DSCN0558(一)瓢箪からオペラ、文章を見せる側から演技を見せる側に立った。連日カルチャーショックに陥っている。「雑念を捨てなさい無心に演ずるのです」と言われる。ところがエモーションのコントロールができない。肝心なところだ、教会でひょいと出会った人、ただ者ではない、演出の彼は私にこういう、「内圧の高い話し方、自意識の高い動き方、そして過度な心象表現、それらをなるべく省いて、個人を空洞化して意味の入れ物にする、純粋な演技演出で伝えるのが舞台です」と。私への的確な批評、哲学的だ。

1、目立とうとして大きな声を出そうとする。(教員経験が今は仇だ)
2、自分を格好良く見せようとしてトーンに抑揚をつける。
3、言葉に思い入れをして一つの言葉を際立たせてしまう。


 文章を描く場合は、言葉という文字が人に伝わるかどうかを優先する。ところが演劇は目で見て、耳で聞いて理解する。観客は敏感である。役者が舞台上でどう動くか、セリフは耳で聞いて心地よいか、ということで劇を評価する。「舞台のどこに立つかでも印象は違う、立っている場合と坐っている場合も違う」と若桑比織さんは教えてくれる。

 台本も私だ、これについても厳しい。「今回は時間と人材が限られています。そこで、とりあえず、全体の中で、重複する表現や形容詞を整理する、というのはどうでしょう。たとえば、汽車が「ポーッ」っというのが二回出ます。」と、鋭い指摘だ。

 書き手は思い入れで書いている。汽車の汽笛にはこだわりがある。疎開学童は浅間温泉で生活を送り始める。音が彼らの感情を刺激する。果たして汽笛は聞こえていたのか、松本駅から温泉は離れている。
「いや、夜になると遠汽笛がよく聞こえてきました」
 これは地元の人だ。寂しい思いをしているときに汽笛が鳴る、一層に孤独感を募らせた。それでこれを使った。一度目だ。

 おもしろい回顧談がある。子どもらを喜ばせようと松本城に連れていった。すると天守閣から松本駅が見える。汽笛を鳴らして機関車が行き交う。学童らはそれを見てたちまちに帰郷心を募らせた。
「まったく逆効果で、なだめるのに苦労しました」
 引率の先生の思い出だ。

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2018年09月11日

下北沢X物語(3599)−「鉛筆部隊」の物語は音楽から−

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(一)都からの小さな落人が故郷を思う歌をうたった。これを聞いていた土地の幼児が強く胸を締めつけられた。それから60年経過して心のうちに記憶されたその歌が懐かしくてたまらない。口ずさむと断片的にしか浮かばない。彼は全部の歌詞を知りたいと思った。それでネットに問いかけた。「代沢国民学校の疎開学童が歌っていた寮歌の歌詞を知りませんか?」と。この歌をうたっていたのは「鉛筆部隊」だ、この彼らは空襲の恐れがでてきたことから浅間温泉から田舎の村、広丘に再疎開した。さらなる都落ちだ、寂しさが募る。引率教員は彼らを励まそうと寮歌を作った。最後の四番の締めくくりは「ぼくたちの明るい声を/ふるさとへ風が運ぶよ」だ、ふるさとこそは下北沢だ、切ない思いはメロディに乗ってそこらじゅうに響いた。都会のお兄ちゃん、お姉ちゃんの歌う声は素晴らしかった。声もそろい、ハーモニーも美しい。都会のにおいのする歌をかっこよく決めて歌った。聞いている方はどきどきした。幼少時に心に突き刺さった歌、忘れもしなかった。これが「鉛筆部隊」の発端だった。

 二三日前、地元新聞社の記者から「鉛筆部隊と特攻隊」の引用の許諾を求めてきた。疎開先の村の寺に、寮歌を刻んだ歌碑ができた。これを取材してのことらしい。また昨日は別の新聞社からオペラについての照会があった。取材したいとのこと。「鉛筆部隊」が地元で話題になっている。ところがこれは今に始まった話ではない。

 「鉛筆部隊」の発端となった「寮歌は知らないか?」は、何時寄せられたのか。期日を調べてみると2007年12月14日だ、今日は2018年9月11日だ。もうこれから十年が経過した。そして今になってこれがオペラとして上演される。発端と結末を結びつけるのは歌、音楽である。

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2018年09月10日

下北沢X物語(3598)−「鉛筆部隊」のリハは波乱万丈−

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(一)昨日(9日)、世田谷カトリック教会の坂を上っていくといい角度でテレビカメラを構えている人がいた。下から見上げる形の撮影だ。坂は物語が転げ落ちてくるところだ。それをさりげなく写して人に見せる、何のことはない、見知った人、テレビ信州の藤塚隆さん、古参のカメラマンだ。世田谷カトリック教会で行われるオペラ「鉛筆部隊と特攻隊」のリハーサルを撮るために彼は長野から来ていた。この劇の台本には疎開学童の手紙が使われている。「世田谷区北沢四ノ三五三」へ鉛筆部隊の立川裕子さんが出した手紙だ。カメラマンが撮っていた坂の上がこの住所に該当する。彼はそれは知らない、が、長年多くの逸話を撮ってきて、いい角度の坂にはいい物語が転がっていることを感覚的に知っている。プロの技だ。

 オペラ「鉛筆部隊と特攻隊」は、奇遇から生まれた。歌手と、またチェロ奏者と出会った。人がどんどんと集まってきた。関根英雄神父は監修、また若桑比織さんが演出に加わった。ベテランの批評を得て台本を削り、演出に工夫が加えられた。

 が、トラブル続きだ、チェロ奏者が手に怪我をして参加できなくなった。おろおろしていると神の助け、神父さんがピアニストの内村真由美さんを紹介してくださった。土曜日は、そのピアニストと私と高桑さんでリハーサルを行った。彼女、サヌカイトの奏者でもある。導入部はこれで展開する。妙なる音色で劇が始まる。その後はピアノだ。台本をさっと読んだだけで即座にその場にあった音を醸し出す。これもプロだ。

 もう十三年間、文学や文化人系統の人々と出会って、過去のことを調べてきた。
「下北沢は何といっても演劇のまち、ここにスポットを当てないとまちの本質は捉えられませんよ」
 仲間の別宮通孝さんに言われていた。演劇や音楽に疎い。だが、オペラをすることになってこの方面の繋がりができてきた。
 この間もびっくりすることが起こった。北沢タウンホール前のブティックに石坂悦子さんとビラを配りにいった。何と女店主は、元青年座の女優だった。石坂さんの夫もやはり演劇人、石を投げれば役者に当たるという話は嘘ではない。
 昨日はリハーサルで暗礁に乗り上げた。が、リハの現場は下北沢の教会だ、神域、かてて加えて芸域、神に人に助けられた。困ったときにそばにいる人に頼む。
「お願い!」
「いいわよ」
 全く劇的な展開だ、当地には生の物語がごろごろとある。

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2018年09月08日

下北沢X物語(3597)−誠第32飛行隊「武揚隊隊歌」−

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(一)浅間温泉において学童や航空兵は歌に明け暮れていた。学芸会やお楽しみ会では歌ったり、踊ったり、楽器を鳴らしたりした。親元から離れて生活している疎開学童には必要な娯楽だった。昭和二十年二月、浅間温泉の疎開学寮に若い航空兵がやってきた。彼らもこれに加わって歌った。第32飛行隊の隊長は駒繋国民学校の子どもらと遊戯にふけった。第31飛行隊は東大原国民学校の学童と交わった。陸軍松本飛行場を飛び発つ前の日、大広間で彼らは別れの歌をうたった「浅間温泉望郷の歌」だ。これは偶々疎開学童の女児が歌詞とメロディを覚えていて、吾等関係者の手によって蘇った、今回のOperaでも歌われる。この第31飛行隊の行状については四国小松島の山本富繁(武揚隊隊長山本薫中尉の甥)さんから「菱沼俊雄手記」が送られてきたことで全貌が分かってきた。これによって武揚隊隊歌があったことが分かった。今回、「鉛筆部隊同窓会」に参加された山本さんからはその歌詞があったことを知らされた。

 満州新京発足の特攻四隊は、新京を飛び発った後、それぞれのコースをたどって最後に沖縄に突撃している。扶揺隊の生き残り久貫兼資さんには直接取材した。近作の『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を送ったところ奥さんから、当人が亡くなったことを知らされた。この扶揺隊については久貫兼資さんが記録を残している。『憧れた空の果てに』(菅井薫著 鳥影社 1999年)には彼の日記が載っている。この著作では「扶揺隊隊歌」があってこれが記録されている。

 このことから他隊も作っていたことが想像できる。

 昨年末、上梓した「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」は、山本家に残されていた「菱沼俊雄手記」を全文採録した。ここに「高畑少尉、五十嵐少尉が作詞作曲した武揚隊歌を教へて貰つて合唱致しました」という記述があった。
この武揚隊、隊歌は浅間温泉での壮行会で歌われたものだろう。


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2018年09月07日

下北沢X物語(3596)−TVNEWSで話題「Opera鉛筆部隊と特攻隊」−

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(一)Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は地方で評判になった。昨日、長野県内で夕方のニュースの時間に「戦争の記憶…鉛筆部隊オペラで継承」というタイトルの特集が流された。Operaの主舞台は長野県の浅間温泉である。先だってここの目之湯旅館で「鉛筆部隊同窓会」を行った。このときも取材カメラがきていた。地元の人もあまり知らない話を取り上げて地元に流すというのは地元メディアの果たす役割だろう。「鉛筆部隊」の話は、都会と地方の文化がふれ合った話だ。都会のおしゃまで可愛い女の子と田舎出の特攻隊のあんちゃんとが出会って織りなされた物語だ。片方は死が運命づけられている身で、片方はこれからを生きていく子どもたちだ。死と生と愛とがくっきりしている。Operaは人間の愛と悲しさを歌いあげるものだ。この物語の核は異文化の出会いだ。知性のふれあい、子どもらは小さなエリートであり、航空隊員は特別に選抜されたエリートだ。今に思うと、この彼らは、相当に気位が高かった。それは特攻隊員としても例外的な存在だったからだろう。
 
 誠第31飛行隊、誠第32飛行隊は特別な隊だった。満州新京発足の他の二隊を加えて特攻四隊という。この隊は菊水作戦、すなわち、敵の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。この先陣を司った隊だ、大本営、中央配属の十一隊の四隊だった。別格的な扱いを受けていた。

1、満州新京で盛大な壮行会が行われ、全員が満州国皇帝に拝謁した
2、全員が新京放送局に赴き、三分間マイクに立って故郷へのメッセージを送った。
3、各隊十五機だがこれには各機に一人の整備員が付いていた。責任者を置き、その階級 は少尉だった。
4、搭載爆弾は通常は250キロだが、これを500キロを搭載できるように松本で改造した。


 大本営直属の彼らは沖縄特攻の初陣を飾る機として位置づけられていた。

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2018年09月05日

下北沢X物語(3595)−災害戦争勃発、我々はどこへ?−

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(一)今年、2018年は明治150年だ。明治、大正、昭和、平成、たった150年の間に急激な進歩発展を遂げた。長野県安曇野市に「飯沼飛行士記念館」がある、偶然通りかかって入った。飯沼正明飛行士は純国産の軽飛行機、朝日新聞社機「神風」号で東京ロンドン間を51時間で飛行し世界記録を打ち立てた、日本国中が沸いた。が、これからたった81年しか経っていない、なのに大型旅客機が今や世界中を飛んでいる。恐ろしほどの進歩発展だ。表題に掲げた「汽船、高架橋、鉄道」は、175年前に亡くなった詩人ウィリアム・ワーズワースが詠んだ詩である。機械近代を讃えたものだ。昨日、台風21号の被害の様子報道された。関空に繋がる高架橋に大型汽船が衝突した場面が写し出された。即座に思い出されたのがワーズワースのこの詩だ。人類の進歩発展を高らかに謳っているが、私には人類の技術が自然に敗北した光景に見えた。新たな戦争が起こり始めた。

 今年は異常気象が続いている。異常が異常でなくなった。車が風に吹き飛ばされて模型の車のようにコロコロと転がって行く、大きな屋根が強風に煽られて一気に吹き飛んでいく。「経験したことのない風」、「生まれてこの方、こんなひどい風に遭ったこともない」とマイクを向けられた人々は答えていた。

 災害時に写し出される光景がある。3、11の時空撮で沿岸部の道路を写していた。内陸部の海と平行に走っている道路には数多くの車が行き交っていた。その横軸に対して、津波は縦に襲っていく。空撮は、神の目だ、人と自然とをありのままに写しだす。
「横に走っては駄目だ、車から降りて奥へ逃げろ!」
 そう叫んだが、聞こえるわけはない。津波は無惨にもその車に平然と襲い掛かった。

 私は、日々歩いている。車とはよく遭遇する。人間を覆っているのは皮一枚だ、が、車を覆っているのは鋼鉄の皮だ。歴然とした差があるのに、運転士は傍若無人だ。ひき殺されそうになった経験は誰にでもあるだろう。歩いていて思うのは道路行政の貧困だ。車道は広いのに歩道は片隅にしかない。そこに電柱がでんとあるから怒りたくなる。脇へよけたときに車は人を殺す、何人の小学生が犠牲になったことか?高速道路を作る金があるなら歩道を作れ!」

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2018年09月04日

下北沢X物語(3594)―戦時資料をどう残していくのか?−

CCI20180904(一)昭和20年8月14日、閣議で公文書の焼却せよとの命令を出したことはよく知られる。国を挙げての証拠隠滅を図った。このことで戦争史は失われた。「鉛筆部隊」の調査から多くの聞き書きをした。浅間温泉に疎開していた学童や松本中学のOB、それと関係者から話を聞いた。それで分かったのは、昭和20年、2、3、4月には沖縄に出撃していく振武隊や誠隊が多く浅間温泉に来ていた。陸軍松本飛行場が沖縄総攻撃をする際の一大後方拠点となっていたことが分かってきた。その記録は日報に記録されていたはずだが公的記録はない、証拠品は焼却された。沖縄特攻は一種の自爆攻撃だ、関係者はアメリカ軍の追及が及ぶとみて念入りに証拠は焼却した。このことによって近代戦争史は失われた。民主主義は自分たちがどのように生きたかを閲して次ぎに進む、記録はその大元となるものだ。国民共有の知的資源となるものだが、これに対する公の意識が低い。今日の新聞経産省の「個別発言の記録不要」との見出し。文化レベルの低さは今も変わらない。

 今、戦時記録が危うくなってきている。戦後73年、戦争体験者がどんどん高齢化して次々に亡くなっている。持ち物の中に手紙、日記、写真など戦時資料が多くある。が、資料的価値が分からないまま焼却されたり、捨てられたりしている。

 独り身で死亡される場合も多い、その場合、遺品整理業者に託される。遺品はゴミとして処分される。貴重な戦時資料がどんどんと失われているのが現状である。遺品があってもそれをどこへ持っていくべきなのかという問題もある。先だって行われた鉛筆部隊同窓会でも大きな問題となった。

 私は、信州特攻四部作をまとめた。第一巻目となるのが「鉛筆部隊と特攻隊」である。これが発信となって、埋もれていた資料が数多く日の目を見た。「ラジオ深夜便」では、全国に眠っている資料を呼び掛けた。すると具体的な資料がみつかった。浅間温泉に泊まっていた特攻兵の遺墨と写真と手紙が寄せられた。

 「鉛筆部隊と特攻隊」の基軸となったのはやはり戦時資料の発掘からだ。所持者は立川裕子さんだ。彼女は八王子のマンションでの一人住まいだった。その彼女は亡くなった。遺品整理業者が持ち物を処分した。彼女の手紙類は戦時中に出されたものであることから郵趣品として値がついた。それで骨董品として出回り、山梨県在住の矢花克己さんがこれを手に入れた。やはり郵趣品としては価値あるものだとのこと。

 ところが、ここに「鉛筆部隊」と捺された葉書が多くあった。「何だろう?」ということから「鉛筆部隊」検索に掛けたところこのブログが引っ掛かった。私はすべてに目を通したが戦時疎開資料としては価値が高いものである。

 「鉛筆部隊と特攻隊」の大きな逸話として有名になった。矢花さんは郵趣品として処分はしないで市立松本博物館にこれを寄贈した。

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2018年09月02日

下北沢X物語(3593)―浮かばれない兵の霊魂がさまよう−

CCI20180902(一)戦争の八月が終わった。が、今年新手の戦争が加わった、災害戦争だ。かつて七十三年前は大空を覆った巨大重爆撃機に怯えた。B29は天空から焼夷弾の雨を降らせた。が、今、天の神は、これでもこれでもかと思うほどに大雨、大風で我々を襲ってくる。産業革命時代、「自然は、人間の嫡子の技術を抱擁している」(注1)とウィリアム・ワーズワースは高らかに謳った。が、いまや人間の技術が自然を破壊し、荒廃させている。そのしっぺ返しを人間は受けている。災害戦争は、天の啓示でもある。自然は「お前達新しい生き方をせよ」と警告を発している。が、人間はとんと無頓着だ、新聞は、「新国立の建設、熱帯林の木材使用に批判 東京五輪に課題」と問題を投げかけている。天候災害の元凶に地球温暖化がある。海水温の上昇によって台風は多発している。熱帯雨林は地球温暖化を防いでいる。それを我々は長い間、養殖エビのため、オシャレな家を建てたいため、いともあっさりと破壊してきた。人ごとではない、日本人も地球温暖化に大きく加担してきた。それは今も止まない。

 八月は戦争は月間だった。8月15日に終戦記念日を迎えることから「戦争」がお決まりのものとして取り上げられる。しかし様相が変わってきている。
 新聞評に「テレビでは戦争関連の番組を流すが、近年の関心が低下気味だ」と、出版物も同じで戦争関連の本は売れなくなった。数冊出しているのでそれは肌身で感じる。

1、戦争を経験してきた世代がいなくなった。
2、戦争から73年も経過し、戦争が記憶からなくなってきた。(風化)
3、ネットの普及でメディアとしてのテレビや出版が影響力を低下させている。
 

戦争がもたらしたものは大きい。新聞では、興味深い記事があった。「定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』(注2)という。この点、我々が聞き知る範囲からすると政府や軍の戦争指導部は愚かで、兵士はその被害者だったと言える。
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2018年09月01日

下北沢X物語(3592)―会報第146号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第146号    
           2018年9月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』初公演!

 戦争が終わって73年が経過した。惨いのは終戦間際になって落とされた原子爆弾だ。五月末には首都東京は壊滅していた。完全な敗北だった、が、戦争は終わらなかった、廣島長崎に原爆が落ちて終戦となった。何故早くに戦争を終えられなかったのか?被爆者を生まなくて済んだのではないか?。

 いずれにせよ戦争は惨いものだ。が、戦争から月日が経ち、また経験者も居なくなってきている。「戦争はしてはならぬ」という経験者の遺言はこれからも伝承していかなくてはならない。が、「戦争経験を語る会、聴く会」も十年以上開いてきたが曲がり角にきた。戦争は悲惨だった、過酷なものだったという話を聴いても人は心動かされなくなった。
 はっきり言うと人はもう戦争に興味を示さなくなった。が、だからと言って「伝承」を断念するわけにはいかない。ではどうするか。
 戦争を伝えるための工夫が必要だと考えるようになった。体験者がいなくなってきた。

1、子や孫世代が伝承に参加して戦争を伝える。
2、口話が困難であることから劇や音楽で伝える。
3、何とかして若い世代に入ってきてもらい伝える
 

我らの会は十数年間、文化活動を行ってきた。そのことを人は知っている。それゆえに困ったときに人が現れる。戦争経験を聴く会を続けてきて、継続が困難になってきた。そんなときに救世主が現れた。若い歌い手さんである。

 「私歌えるのです」、「では戦争を歌ってくれませんか」、「いいですよ」、冗談とも真面目ともつかないやりとりが続いて、この話が現実味を帯びてきた。

 Operaと言っても基本は台本だ、それがないと始まらない。しかし、Operaの台本など書いたこともない。自分自身のイメージで書いてしまった。しかし煙のないところに火は起きない。ある種の感触があった。歌の魂を持った言葉だ、それが「鉛筆部隊と特攻隊」の中にあることを感じていた。
 疎開地で鉛筆部隊は偶然に特攻兵と遭遇する。一月あまり過ごした後に彼らは出撃していく。しばらく経って彼らから鉛筆部隊に手紙が送られてくる。ポイントは、「鉛筆部隊の諸君」と書かれていることだ。学童らを勇気づける手紙だ、しかし、「この手紙が着く頃にはもうこの世にいないと」と書かれている。この世にいない人からの伝言は誰が聞いても悲しい。感情をゆさぶるものがある。その手紙は三通ある、言葉で書かれているが歌になる。この手紙を通して戦争を考えるというのもいいのではないか。歌物語の核となるものだと思ってこの三通を中心に台本をまとめあげた。
 すべてが暗中模索だ、劇なるものは発信物だ、書いたものがどう伝わるかといことは大きな問題だ。しかし、分からないものでも形になると全体が見えてくる。その形が人に触れることは必要だ、批評である、世田谷カトリック教会の関根英雄神父は、「長い」との評だ、また若桑比織さん、「観客に訴える核」の工夫が必要だと、劇は劇を生む、神父さんは監修を、若桑さんは演出を。こういう人が出てきて批評されることは大事だ。
 一次稿に始まり、ついには五次稿となった。セリフを削りに削る、この過程で分かったことは、観客に負担を掛けなということだ。神は細部に宿ることを信じてついこれを書きがちだが、劇の場合はこれは捨てた方がよい。細部の説得力よりも感動の説得力だ。
 Operaなど、まったく初めてのことだ。が、文化は固有のものである、この話、昭和19年8月12日、代沢国民学校の学童が下北沢駅を出ていったところから始まる。当地域に存在した歌素養、教養、親の家庭環境などが背景にある、地域に立脚したドラマである。地域文化の新しい掘り起こし実験でもある。新しい文化体験だ。皆さん、来場あれ!

2、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』の実験公演

 まず、9月9日(日)午後1時から通し稽古を行う。見学可である。(場所 聖堂)

本公演
日時 9月16日(日)開場13時 開演13時30分 無料
 場所 カトリック世田谷教会 (世田谷区北沢1丁目45−12)
 出演 歌 山本 愛歌  語り きむらけん 鉛筆部隊:田中幸子
    子役 五十嵐ひまり・まりえ 音楽(チェロ) 諏訪 雪子
監修 関根英雄 演出 若桑比織


*当日は受付ノートを置き、名前を書いていただく。特別な準備は要らない。
 
3、2019年第5回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会の構想


私たちは、代田、北沢、代沢の歴史、文化を掘り起こしている団体だ。毎年、研究大会を開いてきた。第1回「北沢川流域の文化」、第2回「下北沢のDNAを探る」、第3回「世田谷代田の音楽学校の歴史を知る」、第4回「下北沢の戦後を語る」。来年は、第5回目となるものだ。これについての構想を提案するものである、そのあらましだ。

 来年、世田谷代田駅駅舎が完成し、広場には当地の語源となった「ダイダラボッチ」の足跡がレリーフとして設置される予定だ。これをきっかけに歴史文化が濃厚な当地を発信したい。それでテーマを「世田谷代田の歴史文化とまちづくり」(仮題)として掲げる。
 開催期日は、毎年8月第一土曜日としていた。が、これは「せたがやふるさと区民まつり」と重なる。それで保坂区長の参加は遅い時間となった。代田の関係者も「区民まつり」があって参加できなかったと聞いた。それで七月第四土曜日に実施日を移した。

開催期日 2019年7月27日(土)13時30分より
開催場所 梅丘パークホール
発表内容 世田谷代田の歴史文化とまちづくりをテーマとした発表を行う。
 構想、当会発表者2名、地元発表者3〜4名 各人30分程度


 タイトル例、代田の歴史。代田の文化。ダイダラボッチ、代田七人衆、小田急開通後の代田、これからの代田のまちづくりなど
◎第4回大会においては学生ゼミの発表が好評であった。この活用。また、地域の若手が参加してまちづくりへの展望などがあるとよい。代田商店会では若手を出すとのこと。 
 後援、協賛、協力についてについて、第4回同様、区の後援、私企業の協賛、また代田の各団体の協力を得たい。
◎課題としては、
 1、経費の問題がある。梅丘パークホールは、昼、夜使うと43000円である。区の後援があれば3割の割引きになる。今年度同様各方面からのサポートを得たい。
2、催しをする場合は広報が大事だ。多くの団体が協力してくれるとありがたい。
 3、運営について。機器の設定、椅子机の配置、懇親会の手配、またゴミの片付けなどは大変だ、人的な 協力がほしい。
注、梅丘パークホールはプロジェクターがないが信濃屋で貸してくれるとのこと。

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第142回 9月15日(土) 13時 下北沢駅北口広場
案内人 米澤邦頼さん・作道敬子さん 下北沢のオースティン写真を巡る
*『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に掲載された写真の跡をたどる。
コース:下北沢駅北口→萩原朔太郎旧居→下北沢一番街・旧宮田家具店→栄通→旧東北沢6号踏切→下北沢駅南口→下北沢南口商店街→旧砂場跡→庚申堂前
 順次写真の跡をたどる。


第143回 10月27日(土)13時 小田急線喜多見駅改札前
案内人 池田あすえさん 喜多見の歴史を辿る 日にちが変更になった。
コース案:駅→次大夫堀公園→慶元寺→氷川神社→須賀神社(古墳)等々の見学を予定している。喜多見は民俗学的に面白いところだ。池田さんは当地で野菜を作っておられる。その新鮮野菜も手に入る。
第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲会の活動の課題 先号でこの課題を提起した。一人からは熱暑が原因で参加者が減っているのではとの声があった。自身の提案は、地元回帰だ。とは言っても興味は興味ととしてある。まずは北沢川文化遺産繋がりということがあれば続けたい。それは宿場、用水などである。区内であれば全く問題ない。奥沢を調べている人いるがおもしろい。今回、十二月は計画に記さなかった。考えているのは「森厳川を歩く」だ、地元の赤坂暢穂さん、幼少時のこの川の記憶が鮮明だ。一応予定しているがニューヨーク行きと重なるかもしれないとのことで入れていない。松山信洋さんには品川宿をと提案していた。これも宿場繋がりで近いうちに実施したい。プロデュースをするのがいつも一人である。一人で苦戦しているということもある。ぜひ提案を。
▲今回、自宅郵送分は3ページとなっている。ネット版では一ページ増やした。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2018年08月30日

下北沢X物語(3591)―近代戦争史を解き明かす一片の布−

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(一)現今の平和とは平均的なのか?
「武剋隊の今西軍曹からもらったお歌は黄色い布に書いてあります。満州国皇帝溥儀から戴いたものだとおっしゃっていました」と立川裕子さんは言った。鉛筆部隊の一人は渋谷の日赤入院していた。お見舞いに行って聞かされた言葉だ。この説明に面食らってしまった。武剋隊の隊員がなぜ満州国皇帝からもらった布を持っているのか、さっぱりわからなかった。が、これの意味が次第に分かってくる。まず松本にやってきた特攻二隊は満州新京で発足していた。昭和20年2月10日、当地で他の二隊とともに編成された。このときに満州国皇帝溥儀に拝謁し、恩賜の煙草を戴いている。これを包んであったのが絹でできた黄色の布だ。一隊十五人編成、六十人が戴いた。そのうち二隊、三十枚が戦闘機とともに松本に飛んできた。満州国皇帝は特攻隊と距離を置かなかった。が、天皇は距離を置いた。日本では特攻隊が天皇に拝謁することは全くなかった。

 この間の鉛筆部隊同窓会での田中幸子さんの話だ。
「今西さんは、私と立川さんに黄色の布にお歌を書いてくださました。私は、戦後になってその布と時枝宏軍曹からもらった木彫りの鳥を燃やしてしまったのです。大変申し訳ないことをしました。」
 彼女の家は今の北沢タウンホールのすぐ近く、あづま通りに面してあった。

 布に関しての新しい情報だ。これは山本さんの奥さん。
「先生、この間知覧特攻平和会館に行ったときに長谷部良平さんの遺墨が飾ってあって、それがやはりあの黄色の布に書かれているのですよ。軸装されていましたよ」
 つぎのように書いてあったそうだ。

武揚 必中必沈 陸軍特別攻撃隊 武揚飛行隊
                長谷部良平


  松本陸軍飛行場を発った武揚隊は一旦、各務原に立ち寄った。ところが彼の乗機、九九式襲撃機はエンジンが不調だった。それで彼は残った。家が近いところから彼は故郷に帰った。そのときに黄色の布に決意を書き認めたものだろう。
 取り残された彼は、単機で知覧に辿り着いた。誠第31飛行隊に属していた彼は、呼称を第31飛行隊と変えて一機で4月22日に出撃している。
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2018年08月29日

下北沢X物語(3590)―「鉛筆部隊」教育考―

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(一)『鉛筆部隊と特攻隊』は、「ペンは剣よりも強し」を想起させる。一見、鉛筆が平和に結びつくようだがそうではない。分かってみると「鉛筆部隊」は皇民化教育の一端だったことが見えてきた。「鉛筆部隊同窓会」では、初めての試みとして懇談会を持った。いつもは夕刻の会食に集まったときにこれを行っていた。今回は記録用のカメラが入ることから敢えてこの会を設けた。全員が関係者だ、現役の鉛筆部隊隊員もいる。しらふで語ったことはよい結果を生んだ。記録者側からは「目の湯で皆様方のお話を伺い、改めてこの史実と先生方の活動を広く知ってほしいと思いました」との反応があった。戦時中、偶然、疎開してきた学童と特攻兵とがふれ合った。それがどんな意味を持ったか?彼らの死は何だったのか?鉛筆部隊にはどんな意味があったのか?など議論が弾み、一時間の予定が大幅に延びた。物語の発端は2008年、それから10年が経過した。月日が経って現象を俯瞰できるようになったと思った。

 「鉛筆部隊」という四文字は人の記憶にインパクトを与えるものだ。矢花克己さんは山梨県護国神社の骨董市で古手紙を購入した。郵趣品としての興味からだ。ところがその手紙には「鉛筆部隊」という判子が捺してある。
「不思議ですよね、何枚も捺してあるんですよ。『鉛筆部隊』なんて聞いたこともありませんしね、それでネット検索にかけたらたちまちに一つのブログに行き着いたのですよ」
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 自身が担当することになった疎開学寮の一つのグループを「鉛筆部隊」と名付けたのは代沢国民学校教諭の柳内達雄先生だ。彼は、早くから綴方教育に熱心であった。
 戦時中の昭和17年、「鉛筆部隊 : 少国民の愛国詩と愛国綴り方」(百田宗治)がある。百田は綴り方では先導的な役割を果たしていたことから、「鉛筆部隊」は、百田の著作からとったものと考えてよい。
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2018年08月27日

下北沢X物語(3589)―2018年「鉛筆部隊同窓会」―

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(一)鉛筆部隊は何だったのか?\鐐荵砲魴,蟲こした−陸軍松本飛行場が大戦末期において沖縄攻撃の重要な後方拠点基地であったこと。▲優奪箸鯆未靴橡笋發譴討い浸駑舛多数見つかったこと。−立川裕子手紙資料・高山宝子資料・日比野貴和子資料・菱沼俊雄手記(ウィキペディア鉛筆部隊参照)人と人とのネットワークが構築されたこと(鉛筆部隊同窓会が毎年開かれている)な顕修生まれている。「ラジオ深夜便」、「奇跡体験アンビリバボー」での紹介、Opera「鉛筆部隊と特攻隊」が生まれ、来月9月16日に下北沢のカトリック世田谷教会で実験公演が行われる。現在某局がこれをドキュメンタリーで追っている。

(二)
 毎年行っている「鉛筆部隊」同窓会を25日、浅間温泉「目の湯」で開いた。東京から神奈川から、山梨から、果ては四国小松島から、そして長野県内からも集まってきた。

 今回は初めて、「鉛筆部隊懇談会」を行った。いつもは会食の席で顔を合わせて皆で久闊を叙していた。矢花克己さんの調べでは2012年から集まりは始まり、今回ので10回目になるという。回数を重ねると振り返りができる。参加されたのは何らかの形で「鉛筆部隊」に関わっている人だ。その発言が記録となるものだ。「鉛筆部隊」のドキュメンタリーを追っているカメラも今回は入った。

25日に参加された人。
・矢花克己さん:奇跡体験アンビリバボーの冒頭場面で有名になった人。山梨県護國神社の骨董市で「鉛筆部隊」の判子を捺された手紙を購入する人として出てくる。本物の矢花さんか?との質問が多くあったと聞く。鉛筆部隊の存在がこの判子によって明らかになる。
・丸山修さん:高山宝子さんの資料の存在を当方に知らせてこられた安曇野市在住の人だ。武揚隊が浅間温泉に滞在していたことを明かす一時資料となった。
・田中幸子さん:鉛筆部隊の田中幸子さんでもうよく知られている。彼女がいつも幹事役を引き受けてくれている。
・鹿子木真理子さん:鉛筆部隊の鹿子木幹夫さんの奥さんである。
・高田さんご夫妻、ご主人は「僕のお嫁さんになってね」という「鉛筆部隊と特攻隊」をもとに絵本を去年出された。
・山本さんご夫妻:と号第三十一飛行隊(武揚隊)の隊長の甥御さんが富繁さんだ。「鉛筆部隊」が発端となって家の蔵に眠っていた資料が私のところに届けられた。
・小林梅恵さん:武剋隊が泊まっていた千代の湯旅館の元女将。
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2018年08月26日

下北沢X物語(3588)―ラグーザお玉の汽車遭遇衝撃2―

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(一)
 私達は、すべてを忘れてしまう、かつてはいたるところに音があった。典型例はゲタだ。温泉地などでは地元民はうるさいと感じていたようだ。が、ゲタの音で曜日が分かった。土曜日はゆっくりで、日曜日はせわしい。帰らねばならないからだろう。「やっとん、こらせー」というかけ声を覚えているだろうか。線路工手の歌だ、鉄道線路では必ず聞かれた。協働するために歌は欠かせない。歌が響いて心意気が合うと仕事がはかどる。が、これも今は機械が線路の補正修理を行う。歌は死滅した。「がったん、ごっとん」というのは車輪がレールの継ぎ目を刻む音だ。カダンスという、乗客はこれを聞いて旅をした。汽車旅の音合いだ、これが喜怒哀楽を刻んでいた。「日本鉄道文学音紀行」の中心となる核だ、が、カダンスも今は消えた、ロングレール化によってあの歌は消えてしまった。いわば鉄道音楽だ、この喪失によって我らは「こぅくくっく」という味のない新幹線走行音を聞かされるようになった。

 ラグーザお玉は幼い頃に経験した汽車遭遇経験を持っていた。これを求めて「ラグーザお玉 自叙伝」を点検した。が、残念ながらこれにはなかった。そんなはずはない、改めて図書検索をする。すると「ラグーザ・玉 女流洋画家第一号の生涯」が見つかった。これならばあるだろう、これも借りて点検した、が、求めていたお玉汽車遭遇記述はなかった。絵と汽車とは縁がないようだ。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーとは違う。この彼の絵「雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道」は素晴らしい。霧の中から現れる汽車出現は見事だ。

 困ったときは、きむらたかしさん、我々の中の合いことばだ。そのたかしさんに「困った」とメールを送ったところ、すぐに返事がきた。

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2018年08月24日

下北沢X物語(3587)―ラグーザお玉の汽車遭遇衝撃―

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古代の旅は遙かだった。例えば、平安時代の旅だ、『伊勢物語』の「東下り」である。都を発った男は新天地を求めて東国へと向かう。そして、「行き行きて、駿河の国にいたりぬ」、今の静岡県にたどりつく。「行き行く」は、「道をひたすらに歩きに歩いてゆくと」という意だ、言葉に旅人の息づかいや汗が思われる。旅は辛く苦しい、一時も気を抜けない、「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく」と続く、そして「すずろなるめを見ることと思ふに修行者あひたり」、山中でばったりと一人の修行僧に出会った。人という温もりに出会って張り詰めた思いが一気に解けた。

(一)
「日本鉄道文学音紀行」の冒頭だ、明治、大正、昭和に描かれた文学作品の鉄道場面を丹念に追って調べ上げた。汽車のカダンスが時代を刻んでいたという発見を得た。壮大な文学汽車紀行を終えて冒頭に戻った。序章からの点検だ、が、「ゆるい!」と思った。まず、ここでは読者にガツンと伝わるものがなければならない、パンチがない。

 古代から近代への激変は汽車によってもたらされた。徒歩行から機械へ、この転換は衝撃的なものだった。枕はこれから入って行くべきだ。大事なことは汽車と遭遇しての人々の驚きだ。

 それはとんでもない変革だった。鉄道敷設は人々に驚嘆をもたらした。「時間と空間の抹殺」であった……。

 まだこの方がましだ。しかし、普通の人には何を言っているのか分からない。大事なのは具体例だ。人が始めて汽車に接してどう感じ、どう思ったか。このことを調べて気づいた、日本人が外国に行って汽車に出会ったという例は多く記録がある。遣米使節団などでは複数がこれを書いている。

 ところが日本の汽車が動いたときに人はどう思ったかという記録は少ない。新聞記事には開業初日の人々の反応というのはある。

 (明治五年五月七日横浜品川間の仮開業が行われた)この運転では、陸蒸気見物のための沿線にむらがった人々が、はじめてみる異様な文明の利器に驚嘆の目をみはった。
 「日本の鉄道」100年の話 沢和哉 築地書館 1972年


 当方が知りたいのはここに書かれる「驚嘆」の具体例だ。始めて動き出した汽車に人々は驚いたという記述はいくらでもある。が、この衝撃を描いたのはあまりない。

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2018年08月23日

下北沢X物語(3586)―日本の怨念の穴ぼこ白河の関―

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(一)「東北勢、越すに越せない白河の関 快進撃・金足農も『通行手形』効かず」と、どうやら白河の関にある白河神社はお守りの「通行手形」を金農に贈ったらしい。
 このところの新聞の見出しに、「白河越え」が躍っていた。記事には「深紅の大優勝旗が『白河の関』を越して東北の地に降り立ったことはなく積年の悲願だ」と。待てよ、奥州への関所は、三関ではなかったか。常陸の勿来の関、羽前の念珠が関、鼠ヶ関ともいう。高校野球決勝に進んだ「金足農」は秋田県だ。こちらルートとしては鼠ヶ関に近い。「快挙、深紅の大優勝旗鼠ヶ関を越える!」でもよいが、こちらの関は全国区ではない。やはり、「白河越え」がメジャーである。今年の甲子園での高校野球観戦者は100万人を超えたという。ファンの多くは「白河越え」の意味を知っている、が、実際に行った人は少ない。白河の関は、寂しいところだ。蕎麦を頼んでも赤いプラスチックのタレ入れ、その蓋にネギが少々、こんなことは誰も知らないだろう。
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 しかし当関は、遺跡としては重厚である。歌枕としても有名である。当地を詠んだ短歌は恐らくは百首はあるだろう。「陸奥」は、みちの奥、遙か遠くの辺境で、その関門である、さすらい人の誰もが憧れたところだ。近代においてもさすらいの地の原点として国民にも強く意識されている。日本の近代化は峠を克服することで可能となった。典型的なのは箱根と碓氷である。が、いまだに「大深紅旗、白河越えなるか」が大きな話題となる、越すに越されぬ白河の関、ここには古代以来の怨念の穴ぼこが空いているのやも。

 今回の旅で気づいたことは、「白河の関」という言葉は通行手形だと思った。東北線白坂駅から歩いた。集落から集落は遠い。家があっても人がいない。たまに畑仕事をしている地元民に出会う。一人歩きのさすらい人は警戒される。が、「白河の関はこっちでいいのですよね」と話し掛けるとたちまちに相好を崩す。「あんた、行ってもめぼしいものは何もないんだから」と笑いながら応ずる。

 一人でうろうろしている者は怪しい、「詐欺か」、「物盗りか」などと想像するのだろう。が、当人が「白河の関」を目指していると知ると、安心するようだ。
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2018年08月21日

下北沢X物語(3585)―さすらい人の聖地白河の関―

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(一)
 白河の関へはひたすらに歩いた、行けども行けども道は湧いてくるばかり、雲もまた湧いてきて青空に遊ぶ、道の辺に虫の音がすだく、シャシュショと足音が森に響く、さすらいの旅は五感とともにある。この過程をいくことが旅であると実感される。そんなときにふと思ったのは、白河の関というのは到達点ではなくて通過点だと。能因法師が詠んだのは「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」だ。時の経過が主題だ、歩いて行く過程で春、夏の景色を眺め、辿り着いた関で秋風の冷たさを知った。彼の旅の味わいは、真白き富士をみたこと、葦の生い茂る武蔵野を通ったことだ。白河の関は過去を振り返る結節点だ。歩きに歩いて白河の関に辿り着いてみても深い感動は湧かない。きっとさすらい人の霊魂がひしめいていいるだろう。そう思っていたら「白河の関跡」という標柱の近辺には閑寂が漂っていた、そこにあるのは石柱や歌碑である。言霊は漂っているが、他に取り立ててみるべきものはない。ここがかの有名は「白河の関」、何やら肩すかしを食ったように思った。

 今日21日は、高校野球の日本一を決める試合が行われる。大きな話題となっているのは「深紅の大優勝旗」が白河の関を越えるかどうかだ。

 夏の全国高校野球で東北6県の悲願、優勝旗の「白河の関越え」がついにかなうのでしょうか。「白河関跡」にある白河市の白河神社では、秋田の金足農業が決勝進出を果たしたことを受けて21日の試合に向けて宮司が必勝祈願を行いました。
NHK NEWS WEB 福島 


 白河の関は、日本列島の北と南とを分ける境界だ。日本人が持っている境界意識と繋がる。高浜虚子は「1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校に転入」した。そのときの思いを「子規居士と余」という随想に記している。

 汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条として、我らは左遷されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来なかった。乗客の中うちにだんだん東音の多くなって来る事も物淋しさを増す一つの種であった。
「回想 子規・漱石」岩波文庫、岩波書店


白河の関を越えると空の色が違ってくる。また、乗客が交わす会話は東北弁になってくる。すれば都落ちの感がして寂しさが募った。

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2018年08月20日

下北沢X物語(3584)―憧憬:イタリアと白河の関―

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 歳を重ねてくると行きたいと思うところが無くなってくる。今行きたいところは二箇所、イタリアと白河の関だ。後者は古典文学の聖地、松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭文は有名だ、「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ」、関がさすらいの旅に誘った。彼の地へ強い思慕だ。多くの歌人が関のことを詠んでいる。一生に一度は行ってみたい、さすらい人の聖地だ。問題はどう行くかである、関が関であった時代は皆歩いた。自らの力で行ってその場所を確かめてこそ意味がある。車で行ってはならぬ。自身の足で辿り着いて彼の地の土を踏んでみたい。8月18日、年来の願望、白河の関行きを敢行した。が、結果は「狐につままれてしまった」
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(一)
 自身は今壮大な想像の旅をしている。「日本鉄道文学音紀行」である。文学作品に描かれた鉄道音響をたどる旅だ。一つ一つの作品に当たっていくうちに大きな発見があった。近代の旅における音響は人々の思念の区切っていたことだ。「日本鉄道詩紀行」(集英社新書 2002年)を上梓して以来、かれこれ16年ほど文学の襞に眠っている音を拾い上げてきた。仕上げが泉鏡花であり、内田百里任△襦この旅もほぼ書き終えた。総仕上げにおける鏡花は、超難関だった。中でも「銀鼎」の読みは難しかった。この作品芭蕉追慕の旅である。白河の関が山場だ、この場合は鉄道での関越えだ。文中に、
「白坂だ、白坂だ。」
 という記述が出てくる。深夜汽車で寝ていた男が、ふと目覚める、「どこを走っているのか?」と同室の主人公に聞くと「二本松を越したようだ」と。旅の手練れは腑に落ちない、が、とある駅を通りかかった。それを白坂駅だと判定する。

 男は、白河さえ着いていないのに二本松はあり得ないと思った。彼は神経を研ぎ澄ました。そのときに駅を通りかかった、彼は走行音で判断したように思う。「勾配・曲線の旅 日本鉄道名所2」(小学館)で勾配を確かめる。すると白坂はサミット駅だった。確実に音が変わるところだ。

 この白坂駅から白河の関まで歩くことに決めていた。サミットのトンネルを潜り抜けると電車は軽快な音を立てた、思った通り下り勾配だった。カタタン、コトトンというかつてのようなカダンスは聞こえない。滑るように下ってひっそりと駅に着いた。下車したのは二三人だった。駅は無人駅だ。数軒家はあるが人がいない。
駅から国道伝いに行く。人がいたら道を聞こうと思うが、人がいない。国道188号から国道388へ、道が狭くなって歩道がない、車がすっ飛ばしていく。怖いほどだ。
 途中、矢印があって標識には「東北自然歩道」とある。→白河の関跡6,3キロ。国道よりよほどよい。
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2018年08月18日

下北沢X物語(3583)―演劇、演出、鉛筆部隊2―

Opera「鉛筆部隊と特攻隊」
舞台は舞台に限らない。突然、二階のテラスから声が響く、ときには客席からも。全体が舞台です。役者というのは頭数というのではありません。一人一人の個性が声に出るのです。子供がいれば子供の声、これは世の中の現実相を写すのに重要です。年寄りがいてもよいとのこと。今回のでは、鉛筆部隊の田中幸子さんのセリフがある。「過去を体験してその現場の目撃者がいればその出演はインパクトがあります」と若桑さん、「それで田中幸子さん、劇に出ることになったのですが?」、「えっ!」84歳は電話の向こうで驚いた。

(一)
 劇の監修者や演出家は、批評家である。彼らの話を聴くと、忸怩たるものがある。「朗読劇 ダイダラボッチ」を作って皆に演じてもらったことがある。このときは批評家もおらず、恣意的作ったものだ。言ってみれば学芸会である、が、今度のは演劇だ。ないがしろにはできない。まず、セリフを切り詰めた。そして、構成を工夫した。子役を使っての見せ場をつくる。

 舞台台本三次稿を作る、セリフを削る、子役の工夫をする、導入の工夫をする、これによって一ページぐらいは削った。演出の若桑さんから早速の反応があった。

新台本、拝見しました。
舞台らしい脚本だと思いました。
現役の子供さんと、
体験者ご本人の登場は、
それだけで感慨深いもので、
その事そのものが一番、
リアルなメッセージなので、
余計な説明も、過剰な演出も、
それと比べれば無力なくらい、
説得力があると思います。


 「舞台らしい脚本」になったとのこと。大きいのは子供を配役に加えたことだ。これによって舞台の色合いがだいぶ違ってくる。この話の根幹は、青年と子供たちとのふれあいだ、一方は死んでしまう、が一方は生きていく、その対照は大きい。子供というのは希望である。声を聴いただけで元気が出るということはある。

 当事者である人が出てくるというのも大きい。当初は、セリフを歌姫に歌ってもらう計画だった。それを変えて本人出演とした。体験者の生の声というのは重みがある。子供なり、田中さんなりは何も飾らなくてもよい。そのままが絵になる。

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2018年08月17日

下北沢X物語(3582)―演劇、演出、鉛筆部隊―

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 舞台は小宇宙である、それを創り上げるのが役者で、それを支えるのが台本だ。観客を意識して緻密に造りあげねばならぬ、とくには導入だ。今の台本の始まりは「それは遠い昔、戦争中のこと、鉛筆を握って戦っていた子どもたちがおりました。『鉛筆部隊』です」となっている。こういう説明ではだめだ。のっけから劇なんだから劇がなくてはならない。そのためには仕掛けが必要だと。演出家の意見は手厳しい。下北沢で出会った人だ、こういう人が当地にはゴロゴロいるから怖い。

(一)
 一つの出会いから劇は生まれた。一人の女性、「私歌うのです」、「じゃあ、オペラを歌ってください」と返す。ところが「いいですよ!」と。偶然から Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は生まれた。アッという間に決まった。こちらも慌てて台本を作った。ちょっと練習してみよう。カトリック世田谷教会で試みに彼女が歌をうたった。よく声が響く、するとまたそのときに「私チェロを弾いてもいいですよ」と。また台本を読んだ教会の関根神父さん、「セリフをもっと削りこまないと」と。では「監修」をと言うとOKだ。話がトントン拍子に進んだ。

 神父さんからメールをいただいた。「読み出したら、いろいろ感想が増えました。邪宗門で今日の午後にでもお会いできませんか?」と。この日邪宗門は定休日、それで翌日10日になった。行くと新手の人もいた。若桑比織さんだ。彼の言葉が冒頭に繋がっていく。

 この9月16日にカトリック世田谷教会でOpera「鉛筆部隊と特攻隊」を公開することにした。関根英雄神父の協力によるところが大きい。この逸話下北沢と長野を繋ぐ物語だ。
代沢国民学校の学童が下北沢から松本市外の浅間温泉に疎開する。その宿に、偶然に特別攻撃隊員が現れる。若い命と出会った彼らは気持ちを新たにして出撃していく。沖縄で彼らは突撃戦死する、ところが十数日経って彼らから手紙が送られてくる。

 神父さんは長野県出身でこの話に深い興味を持っておられる、それで知り合いの演出家に手伝いを頼んだのだ。
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2018年08月15日

下北沢X物語(3581)―平和にもっと金をかけよう!―

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 戦争による犠牲があったから今の平和はある。この言い方は好きではない、死ななくてもよかったのに戦死したり、野垂れ死にしたり人も多くいるからだ。粗雑な戦略を組み立てた人、いいかげんな指揮官もいた。が、我らは戦争責任を問わない。戦争で死んでしまった人が報われないように思う。今回調べて分かったのは、8月10日にポツダム宣言が受諾されたと聞いて早くに敗戦を知っていた人もいたことだ。待てよ、大阪に空襲がなかったか、これは8月14日だった、京橋駅空襲とも言われる。駅付近で多くが犠牲になったからだ。8月10日には戦争は終わると分かっていた。14日の空襲で死んだ人の犠牲は何だったのだろう?

(一)終戦記念日は8月15日だが、8月10日に日本の敗戦を知って人々が喜んでいたという。「レイテ捕虜収容所」である。

 忘れもしない、「ポツダム宣言は、天皇の国家統治の大権に何等の変更を加えずとの了解のもとに受諾す」との日本国政府の回答が、連合国側に送られた昭和二十年八月十日夜のレイテ捕虜収容所の光景である。
「八月十日の夜」関山栄次 21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年


この捕虜収容所に日本人が多く収容された。ここでは皆姓名が記録された。同姓同名が数多くいた。「長谷川一夫」である。日本人は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に洗脳されていた。それで本名を名乗らないで有名な映画俳優の名を申告した。
 捕虜として捕らわれたとき日本人以外の外国人は口々に喜びを口にした。ところが日本人は青ざめたという。生きて恥をさらせない、自決を考えたからである。

 「終戦日、つきが落ちた」と書いている人もいる。海軍経理学校の生徒だった長谷川昭さんだ。八月十五日、玉音放送を聞いた。
 
 (玉音放送の)後半に至って日本が負けたといことが理解できました。前の方で教官の一人が泣いていたようでした。あたりはしんとして、蝉の声だけがジージーと聞こえていました。私の心に最初にうかんだのは「生きられる」ということでした。死ななくていいんだ、命が助かったんだ、という思いは、日本敗北を悲しむよりはるかに強く、嬉しさがこみあげてきました。そして次ぎに、「なんだ日本は神国では無かっただ、普通の国だったんだ」と、なにかつきが落ちた気分になりました。
 21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年


 彼は、常日頃「我国ハ神国ナリ」という教育を受けてきた。日本が特別な国家だと覚え込まされてきた。その国家が負けた。この時に人の思いは様々だったろう。「ああ、これで生きられる」という思いは特別のものだった。が、ここでいう憑き物が落ちたということは大事だ。

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2018年08月14日

下北沢X物語(3580)―文士町出版社の盛衰:斎藤書店―

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(一)土地の土地での出来事はうち捨てられて闇の中に消えて行く。が、足下には歴史が眠っている。これを知ることで自分たちが歩いてきた道を知ることができる。先だっての四日、「下北沢の戦後を語る」というタイトルで研究大会を開いた。戦後を見つめ直すというものだ。私は「下北沢の戦後文学」を話した。焼け遺ったまちにはこれを活用した知的産業が興った。出版社だ。屋根のある家と机と椅子があれば十分だ。ここが編集室となり数多くの本を出した。日本全国の活字に飢えていた人々へ知の栄養を届けていた。
 
 戦後、あらゆる束縛から解放された。ところが人は価値再構築をしなくてはならなかった。手がかりになるものは書物だ。ところがこれが不足していた。出版ブームはこれで起こった。何としてでも本を出したい。が、東京の中心部はあらかた焼けていた。ところが当地は焼け遺った。屋根のある家があれば何とかやっていける。それでここに小出版社が興った。文潮社、黄蜂社、第二書房、そして斎藤書店などだった。

 書物への飢餓感を一人の学徒兵、金子鉄朗氏がこう述懐している。

 敗戦を契機として急激に自由の大地に押し出された私は、深い絶望感に襲われた。理想と希望を喪失し、精神的支柱を求めた。過去のあらゆる権威とモラルが崩壊したあと、重苦しい虚脱状態と、耐え難い自戒の中から自己を見いだすために、心のよりどころがほしかった。
 21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年


 敗戦は思いもよらぬものだった。「負けると思っていたんだ」ということを当事者からよく聞いた。しかし、結果論であって多くは日本が勝つと信じていた、信じ込まされていた。そして迎えた8月15日、誰もが呆然自失となった。

 折からの用紙難で哲学や教養書は本屋の店頭から姿を全く姿を消し、手に入れるのは容易ではなかった。神田の古書店街は戦災を免れたが、書棚はガラガラ。神保町の岩波書店小売り部では、朝早くから学生が長い行列をつくり、「西田幾多郎全集」「善の研究」「三太郎の日記」など争って買い求めた。紙質や体裁などは問題ではなかった。しかし瞬く間に売り切れ、むなしくひきかえしたこともあった。
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 学徒動員くずれは文学書ではなく、即、哲学書を求めた。なにもかにもわやくちゃになりどう生きていったらいいか分からない。それで西田幾多郎に走った。

 斎藤書店もこれに応えている。昭和22年には「西田幾太郎の手紙」を出している。この出版社は、北沢川べり、世田谷区代田一の六五三の二にあった。
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2018年08月12日

下北沢X物語(3579)―辺野古の海を埋め立てるな―

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(一)日本国憲法が高らかに謳うところの基本的人権は誰であろうとも等しく享有されるべきだ。自由権、平等権は侵してはならない。しかし、沖縄では国家がこれを踏みにじっている。民意が望まない辺野古新基地を国が強権的に推進している。人々の思いを力で蹴散らしている。基地建設を推進するため「沖縄防衛局が8月17日にも辺野古海域に土砂を投入する」と通告して来ている。思い起こすのは昭和二十年三月のことだ沖縄沖に米軍の艦船が雲霞の如く押し寄せた。特攻機がこれらに数多く突っ込んだ、その一人、長谷部良平は「当たって皆を安らかにせん」と書き残し突撃した。この皆には、本土人も「うちなんちゅう」も含むものだ。が、今、辺野古の海を取り囲んでいるのは海上保安庁の船だ、沖合にずらりと並んだ船を見て、戦争中の米軍の艦船を思い出した島人もいた。本土の船がうちなんちゅうを攻めようとしている。「船で当たって国家を安らかにせん」とばかりに、政治家の夢見をよくするために沖縄の人々はまた再び本土の犠牲になろうとしている。欠けているのは沖縄の人々の心の痛みに対する本土の人々の想像力だ。

 今、政府は、多くの民意とは反対のことを強引に推し進めている。過酷事故を起こした福島第一原発の例から、一度あることは二度あると学んだ、それで国民は原発再稼働に否定的だ。実際、すでに原発から排出される高レベル放射性廃棄物は行き場を失っている。その見通しもない。このシステムはもう詰んでいる。が、依然としてこれを推進させようとしている。

 不合理で不平等なことが各所で起こっている。これに対しての集会やデモがフェィスブックで流れてくる。その一つ一つに付き合えない。しかし、「埋めるな!辺野古 沖縄県民大会に呼応する8.11首都圏大行動」の知らせには心が動いた。辺野古新基地建設は、あまりにも強引だ、人一人が行ってどうにかなるものではない。が、行って意志表示をすることも大事だ。
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 東池袋中央公園はどこにあるか知らない。サンシャイン60の側だという。そちら方面に向かう。土曜日の池袋は人が多い。が、ふと気づいた。歩く人の中にドブネズミっぽい服装の人がいる。地味なシャツにズボン、そして頭には帽子、背中にはリュック、これがすばしっこい。人垣を縫って前へ前へ進んでいく、同類だった。自分の鏡を見るようだった。この集会、沖縄でも行われる。が、沖縄までは行けないが東京でもある。ならばそこへ。
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2018年08月11日

下北沢X物語(3578)―まち論:学生たちの熱い発表―

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・恒例の北沢川文化遺産保存の会の研究大会を8月4日開催した。テーマは、「下北沢の戦後を語る」である。きっかけは、オリバー・L・オースティン博士写真を掲載した『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』が大きな話題となったからだ。これには戦災を免れたまちが鮮明に写されていた。戦前の建物がそっくりそのまま活用されている。そこに平和があった。あれから70余年、まちは焼け遺ったことが原動力となって今日に至った。文学、芸術、演劇などの文化が戦災を免れた幸運の中で生まれ、それが引き継がれてきた。若い学生が丹念にまちを調べ、その成果を発表した。当日限りのもので終わってはならぬ。記録を残すべきだ。紀要7号は「論考 下北沢の戦後」(仮題)としてまとめることにしたい。

(一)カトリック世田谷教会を会場として使ったのは初めてだ。きっかけは、昨年11月教会で、「下北沢青空マルシェ」が行われた。私は地図配りで参加した。そのときに関根英雄神父と話す機会があった。戦争は大きな節目でこれが今日の時間に繋がっている。戦後とは何であったかを考えることは重要だ、地域の文化を掘り下げて発信するのが教会の役目でもあるとのこと。会場を積極的に貸してくださることとなった。

 今年は四回目である、地域の文化をトピックに取り上げて研究会のテーマとしてきた。地域文化を掘り下げる場合、年齢層が限られる。人生のベテランが集まることになる。問題は伝承だ、長く生きてきた者が体験を語ってそれを若者に引き継いでいく。大切なことだ。後に体験者がやはり必要なのは若者の参加である。

 このところ代官山ステキ総研主催の「代官山大学」に参加している。数校の大学のゼミが参加してまちづくりの提言をする。溌剌とした若者の発表には刺激がある。ゼミ生に参加してもらって研究会を盛り上げられないかと考えた。今回はこれが実現した。

 まず、法政大大学院建築学科の学生である。「図面なき教会を測って」という題で同大の磯目知恵さんが発表された。カトリック世田谷教会の建物の保存に向けた調査が行われたが図面がなかった。そこで彼らが協力して図面を作った。
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 聖堂の建築資材は、戦争中の昭和18頃、フランスから船便で送られた。図面はなく、棟梁等は送られてきた材料を元にイメージで建築した。彼らはどのように建物を作ったのだろうか?取りかかったのは全体を測ることであった。丹念に調べて図に落とす。それができあがると棟梁たちの意図が分かってくる。一番大きいのは、日本の神社仏閣などとの建て方の違いである。そこからいくつかのヒントが生まれたという。「未来の遺産となる建物は」という課題である。

 彼らは、聖堂やカマボコ兵舎の模型を作った、当日はそれを提示しての研究発表を行った。図面のない建物の図面を作って棟梁たちの建築に対する思いを知ったとのことだ。

 当初は、中西邸という私宅の二階で教会の集まりは始まった。信者が増えて建物がきしむほどだったという。そういう経緯から献堂に至ったようだ。

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2018年08月09日

下北沢X物語(3577)―小田急貨物での米軍の東京進駐―

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アメリカ文化の浸透というのは鉄道交差部では早かった。一人の少年は、近隣の接収家屋にいるアメリカ人から綺麗なクリスマスカードを貰った。彼は思いを寄せている彼女宛てにそれをこっそりと届けたという。鉄道交差部は、線路で四通八達、ヤミ物資が容易に手に入った。下北沢駅前北口には本物の珈琲を飲ませるカフェができた。砧の撮影所では強烈なライトを浴びさせられる。すべてのライトが消えて天井の灯りだけになるとホッとした。誰からもなく「マコト」に行こうやと声がかかる、すると「おう」と応える。「マコト」では、監督連中は熱く映画論を戦わせた。「ローアングルだ」、「いやひきのアングルだ!」

(一)今日8月9日は長崎原爆記念日だ、中学2年のときに長崎原爆資料館に行って強烈なショックを受けた。恐怖が鉛筆を走らせた。その感想文は十数ページに及んだ。それを担任の先生はガリ版で刷って皆に配ってくれた。往時、不良だった自分が目覚めた。被爆によってひんまがったラムネ壜、焼け焦げた死体の山、全身アザだらけの肉体今でも鮮やかに記憶に残っている。

長い間、原爆のことはいつか書こうと思っていた。1999年にこれは実現した。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』だ。このときに取材をしたのが藤井照子さんだ。彼女はこれがきっかけとなって語り部となった。そして大型番組に出演した。TBS 戦後60年特別企画「ヒロシマ〜あの時、原爆投下は止められた」である。そのときに彼女は原爆を投下した科学者と対峙した。彼女はこう言った。

 「日本が真珠湾攻撃したから、アメリカも仕返しをするという意味で、科学者として、どの程度の威力があるということをご存知でありながら、日本には、原爆を一発落として、本当に一瞬にして、街は焼き尽くされ、人々は木の葉のように焼かれるような状態であっても、そういうことをしなくても、日本には、もう兵器もないし、降伏する状態にあるのではないかということを、B29は何回も偵察に来ているのに、それがわからなかったのか、と思うし、原爆を落としたために早く終戦になって、穏やかな暮らしを今、皆がしている、と言う風に思っておられるということに、怒りを覚えます」
核兵器をめぐる深い溝〜抑止と廃絶の間…TBS外信部デスク 萩原豊

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 「原爆の投下が戦争終結を早めた」ということに対する非難だ。アメリカはB29によってすっかり全国の諸都市を壊滅させていた。敗戦は時間の問題だった、なのに皆殺し兵器原爆を使ったと怒った。が、科学者のハロルド・アグニューは謝罪しなかった。
アメリカの非人道的な処置に対して怒るのは当然だ、が、もう五月の時点で首都東京は焼き払われていた。ぐずぐずと敗戦を遅らせた戦争指導者たちの責任も責められるべきである。

 藤井照子さんは残念ながら亡くなった。自分の構想の中で『皇国電車少女物語』があった。戦時中に懸命に広電を動かそうとした乙女らの物語だ。彼女からも取材してあった。彼女もこれの完成を楽しみにしていたのだが……
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2018年08月08日

下北沢X物語(3576)―敗戦からの出発そして今日―

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研究会のまとめ 内容は濃厚だった。神父さんは言われる「歴史を掘り起こすことは新しい未来を切り開く第一歩」と。歴史の原初は戦前のまちだった。それを撮ったのは、オリバー・オースティン博士だ。これは『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』に載せた。道路、街灯、路地など今も痕跡が残っている。長い間人々が歩いてきた場だ、路地の陰に今もなお多くの物語が潜んでいる。「怪」は、手でそこの土塊を広い、「何だこれは」と思うことだ、それが文化である。まちの至る所に歴史の片鱗が残っている。それがおもしろいし、たのしい。

(一)文学と演劇との接点
・文学 焼け遺ったまちに出版社ができた。屋根のある家の使われ方として一つである。出版社ができてこの関係で著名な作家が来訪したり、滞在したりした。そのときにしもたや改造の「連れ込み旅館」(名月)が、作家達の缶詰宿となった。出版物を待ち望んでいた人々に当地から多くの文学書が生み出されて、敗戦下の国民に届けられた。
・演劇 ザ・スズナリの責任者の野田治彦さんが「戦後の演劇史」を語られた。順序としては児童演劇が出発点となって、つぎにいわゆるアングラ劇場ができ、そういう経過を経て今日に連なっていると。
 劇団「風の子」の創設者は多田徹さんだという。調べると彼は、東大原小の13回生で昭和15年3月に卒業されている。住所は北沢4の21である。ここに劇団「風の子」があった。ここをお座敷劇場「六畳が舞台で八畳の方が観客席」(『証言児童演劇』多田透)として使っていた。ここと隣接した番地北沢4の12には俳人の中村草田男が住んでいた。5月末、大空襲。自宅付近に落ちた焼夷弾を消し止め、未明まで奮戦し類焼を免れた」(『中村草田男全集別巻』)と記している、一帯は焼け遺った。
 ◎焼け遺ったまち が、出版社、作家の缶詰宿、お座敷劇場として使われた。 勃興した文化の根が繋がっている。

・貧乏人に優しい町でありつづけたい
「今日聞いた話からすると、言えることは多様であること、それでいろんな人がやってくる。それで思うのは、貧乏人に優しい町ということです。それでやっぱり若い人は貧乏ですが、そういう人たちがやってきて将来の夢を追っかける。これから十年後も二十年後も三十年後もありつづけてほしい。」
 会場からの意見である。野田さんの話の中にいわゆるお店やさんが役者に優しいということを言われた。例示として「δ 」があがった。
古老の三十尾さんがよく言われる。沢スジは庶民の町で人情に厚い。
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・若者が定住できる町に

 この一帯に小学校が三つあった。それがどんどん統合されてとうとう一つになってしまった。下北沢小学校である。まちに活気はあって若者がくるけれどもその人たちが町に住まない。何とか住んでもらえるようにしたい。
根本的な問題である。一帯が発展したのは鉄道によるところが大きい。小田急であり、井の頭線である。これらが敷設されることで、とくにこの二線が交わることで人が増えた。交差部を取り囲むように小学校が開学していった。ところが今はこれがどんどん閉校に追い込まれている。

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2018年08月06日

下北沢X物語(3575)―戦争からの解放とまちの原動力―

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(一)今日は73回目の原爆忌だ、原爆はためらいもなく人間の営みをことごとく破壊する。爺さんも婆さんも乙女も赤ん坊も一切合切を死滅させる。悪魔の兵器だ。しかし現実にはこの核を肯定させられている。我々はアメリカの核の傘によって守られているからだ。このことで唯一の被爆国である我が国は、「核兵器禁止条約」に反対し、加盟しなかった。被爆者団体はこれに憤っている。あの広島の、あの長崎の惨状を知っている日本は何としてでも核廃絶を提唱すべきだ。そうでないと被爆で死んでいった人々の魂は報われない。「我が国は絶対に核は持たない」と主張し、東アジア非核武装地帯をと提案してほしい。

 四日に、私たちは、「下北沢の戦後を語る」という研究会を開いた。当地で起こった文化活動は戦争の影響を大きく受けている。この東京は戦争の惨禍に遭っている。発表の中でカトリック世田谷教会の関根英雄神父は米軍による「無差別爆撃」を指摘された。東京空襲、山手空襲はその無差別爆撃だ。前者はその典型だ、東京下町には多くの市民、一般人が住んでいた。木造密集地帯を真っ先に襲って見せしめとした。山手空襲でも表参道の惨劇というものがある。あの広い通りを炎火が舐めて人々を襲って殺した。

 現今に残されている、「帝都近傍図」の戦災地図を見ると、緻密な計画のもとに東京の西と東とが爆撃を受けていることが分かる。読み取れるのは米軍の東京への、日本への憎しみである。
「おれんところの庭先の、パールハーバーを襲うなんてとんでもないジャップだ」
 彼らの憎しみによる報復は執拗である。全国のほとんどの都市がB29の空襲を受けている。悲惨だったのは沖縄戦だ、艦載の大砲からとんでもないトン数の砲弾が撃ち込まれている。この地上戦では沖縄県民の三分の一が犠牲になっている。

 米軍爆撃機、艦船によって国土が焦土と化した。が、北沢の多くは焼けなかった。なぜか。度々この推理を巡らせてこの理由を書いてきた。アメリカ軍は、終戦後にキャンプ地と隣接する渋谷区大山近辺の邸宅街を接収を予定していた。それでここは爆撃しなかった。北沢はこの地域の風上に当たる。弾を落とせば北沢の東北に落下する、それで北沢は狙いからは外された。こう推理していたが、これを裏付ける証言をきむらたかしさんがコメントで寄せてきた。当方、驚いたことだ。
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進駐軍による大山町の家屋接収

町内在住の南部さんの話によりますと…
『戦後すぐ接収の通知が来て、父はG.H.Q.に乗り込んで直談判に及ぴました。そのためか接収は家屋の半分で済んだのですが、その時、向こうか「軍の宿舎用に、大山町・松濤町など洋館の多い地域は焼かないで残した、前から決まっていたので変更はできない』といわれ家屋に番号のついた地図を見せられた、と話しておりました』とのことです。」 (野口正吉・編「渋谷区大山町誌」同町会/H16・刊 p.40)
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2018年08月05日

下北沢X物語(3574)―猛暑に負けない熱い文化研究―

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(一)オリバー・L・オースティン博士は、下北沢の戦後を活写した写真を残した。その時から70余年が経過した。我らは、これを『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』として発刊した。反響は大きく写真が発端となってまちの戦後史が随所で話題となった。そのことから夏の研究大会のテーマを「下北沢の戦後を語る」とした。昨日、4日。カトリック世田谷教会で研究会を、北沢タウンホールでは懇親会を開いた。夜も昼もすべて文化漬け、濃厚な一日だった。特記すべき点は、大勢の若者が加わって議論が深まったことだ。法政大学の院生は、まちの歴史建築物を、成城大学の学部学生は、フィールドワークを通してのまち観察を熱く語った。若者たちの新鮮な発想に会場から熱い拍手が湧いた。今回で四度目となる北沢川文化遺産保存の会の研究大会だが、最高に充実した会となった。(参加者60数名)、そして何と、結末もびっくり、会の懇親会に、保坂展人世田谷区長が挨拶に見えた、我らの活動を区内での有意義な活動だと認めておられた、嬉しかった、みんなで記念写真を撮ったことだ。

 昨日のプログラムである。

 _舎迷瑤寮鏝 コーディネーター  きむらたかし 13:05〜13:45
◆_舎迷瑤寮鏝緤験  きむらけん  13:45〜14:15
 下北沢の戦後の演劇史 野田治彦      14:25〜14:55
ぁ.トリック教会の献堂と下北沢の未来 関根英雄神父 14:55〜15:25
(図面なき教会を測って 法政大学建築学科 磯目知恵 10分)
ゲ舎迷瑤里泙繊商店街 70年の検証
 〜オーティン博士の写真とインタビューで辿る今昔を中心に〜成城大学境ゼミ
発表者:倉田 慎一朗、長沼 美優、大西 由希子、福井 千智、根本 澪、野呂 友希子、渡辺 航世、高橋 舞、五十嵐 健人、堀口 由理香、梯 愛香


 表題、タイトルだけでも内容が濃い。三十分単位での発表である。息をつく間もないほどだった。

 しかし、大事なことがある。オリバー・L・オースティン博士の写真は、鍬であったことだ。鍬の一振りで、過去の文化が耕されたと言ってよい。

 私にとっても興味深いことが幾つかあった。
 私は、「下北沢の戦後文学」というタイトルで話をした。焼け遺ったまちがどんな働きをしたか。その一つは、いわゆる「しもたや」が旅館業をはじめたことだ。例として「晴光園」を取り上げた。宏壮な日本家屋、何とこれを描いた絵画を自宅から持ってきて下さった方がおられた。
 この家こそ、衆議院議員宮脇長吉の家、その息子が紀行作家の宮脇俊三である。彼は『時刻表戦後史』の中で、この家が早く焼けてほしいと思ったと書いている。が、焼けずに遺って、日本旅館となった。

 懇親会には、衆議院議員の落合貴之さんが参加された。秘書の方が「北沢川文化遺産保存の会」紀要 第4号(2015年8月15日)『戦後70周年記念戦争記録集』で駒沢高射砲陣地の記事を見て議員に伝えたようだ。
「うちのおじいさんは、駒沢の高射砲陣地で高射砲を撃っていて、なかなか飛行機に当たらなかったと言っていました」
 落合貴之さんの話だ。

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2018年08月03日

下北沢X物語(3573)―再論:北沢はなぜ焼け遺ったか―

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(一)首都東京はB29による攻撃で集中攻撃を受けた。その被害を表したのが−戦災焼失区域表示−「帝都近傍図」だ、絨毯爆撃の跡が一目で分かる。敵の狙いは帝都壊滅だったと分かる。その赤色の一片一片の声が、『東京大空襲・戦災誌』第2巻に記録されている。被災民のうめきだ、が、表題には「これで人並み」、「これでみんなの仲間入り」とある。焼けて一人前、悲しい声だ、焼け遺ったことは誇れなかった。しかし、オリバー・オースティン博士の写真『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』見ると焼け遺ったまちは活況を呈している。生き生きとしたまちの活力が活写されている。が、なぜ当地は空襲を免れたのか?

 なぜ焼けなかったのか。五月二十五日の空襲の記録では、北沢四の三五三では、「五〇キロの油脂焼夷弾を敢闘して消した」(手紙)とあり、三五四では、「焼夷弾の束がはじける音、落下する音が頭上に聞え、ときにはドスンという地響きが身近でした」とある。B29が飛来してきて焼夷弾を投下している。が、それでも当地のほとんどは焼けなかった。

改めて「帝都近傍図」を見る。焼け跡をたどるとB29の飛行コースが想像できる。東南から進入してきたB29は、若林辺りから攻撃を始め、代田、大原、北沢、笹塚、幡ヶ谷と爆撃していったのではないか?
世田谷代田の杉山杜美子さんは二十四日の空襲をこう記録している。

突如、東の上空が異様に赤くなる。外に飛び出す。あー B29が一連の炎となって落ちる。あっ!空中分解する。万歳!万歳!
 妹とともに手を打って喜ぶうちにまたすぐ、一機が南の方に落ちる。高射砲の音はますますすさまじい。南の上空の敵編隊が分裂して頭上に近づいてきた。こわい!と思った瞬間、ザ、ザ、ザーッという音、見回すと北側の廊下が火の海、台所の隣の電話室の床が大きくえぐられて火を噴いている。
 『東京大空襲・戦災誌』第2巻 東京空襲を記録する会 1975年


 住所は旧番地で代田二の七二八だ。代田小学校の東隣の家だ。B29の撃墜は、この日は米軍発表では十七機だった。彼女の目撃した機は、「東」とあるところから千駄ヶ谷に墜落した機だろう。
 文章には代田を襲った機の侵入コースが書かれている。この日根津山から見ていた一色次郎は「いつもの夜と違って、侵入コースが二本あった。少し南よりから、平行して入ってくるのである。レールのように、南部の上空に、爆撃機の長い列が二列になった」(『東京空襲』)とある、杉山さんいう侵入方向と一致する。

 これらの証言からすると、南西からの侵入ルートのコースに当たったのが世田谷代田ではないか、これらが北西に向かい大原、北沢北、笹塚、幡ヶ谷と総なめにした。ここは推理だが、北沢四丁目、現在の北沢一丁目に落ちた焼夷弾は流れ弾だったのではないか。

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2018年08月02日

下北沢X物語(3572)―北沢の空襲と歴史のシッポ―

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(一)ふと気づいた、「北沢の空襲」が自身の壮大な旅の始まりだった。これが発端となって長編小説を四作まとめた。流転、変転、これらがもとになってついにはOperaの台本まで書いてしまった。この9月16日にOpera『鉛筆部隊と特攻隊』の実験公演をカトリック世田谷教会で行うことになった。旅の帰着点なのか?出発点なのか?

 北沢は全部が戦災から免れたわけではない。北部の北沢五丁目は焼けた。ここで焼け出された人がいた。その人は金子静枝さん、家が焼け明大前の知人宅に身を寄せた。その時に事件に遭遇した。彼女はこれを語るとき決まって涙を流した。昭和二十五年五月の末、彼女は二十歳だった。

「隣の奥さんがこれから息子さんが飛行機で飛んでくると言われたの。それで日の丸を持って待っていると一機の戦闘機が現れたのね。上空を旋回しながら降りてきて操縦席のお顔が見えました。懸命に手を振っておられました。お母さんは泣きながら息子さんの名を呼んでいました。そのうちに飛行機は翼を振って西の方に飛んでいきました……」
 特攻機が母親に別れを告げにきたものだった。初めて聞く話だった。世田谷区松原のその現場には何度か行った。また、『月光の夏』の原作者毛利恒之氏にも会って特攻機がどこから来たのか聞きもした。

 夢中になる性分である。これが発端となって調べた。昭和二十年三月に沖縄特攻は始まった。本州各地の飛行場から沖縄特攻へ数多くの戦闘機が飛び立って行った。関東一円の飛行場からこれらは飛び発っていた。世田谷近傍では、陸軍調布飛行場があった。ここからも数多くの特攻機が飛び立っていた。飛来してきた方向からするとここからの一機ではないかと思われた。

 昭和二十年四月五日、埼玉県桶川飛行場から第七十九振武隊、十二機が飛び発った。この飛行機に小月まで同乗した整備員の柳井政徳さんに話を伺ったこともある。操縦士は京都の風呂屋の息子さん、その煙突の周りを何度も旋回したと、彼は語った。
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2018年07月31日

下北沢X物語(3571)―「早く家が焼けろ」北沢の空襲―

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(一)8月4日の研究会が近づいてきた。「下北沢の戦後を語る」がテーマだ、私は「下北沢の戦後文学」を話す。それでこのところ改めて、北沢の空襲について資料を読み返している。やはり、あの時代は異常だったと思う。多くの家がB29の投下によって焼けた。が、当地一帯は戦災から免れた。ここに住んでいた一人は、「早く焼けてほしい」と願ったという。

 現在の北沢一丁目、頌栄教会のはす向かいに「晴光園」という旅館があった。この広告が下北沢駅構内に長い間掲げられていた。この間、こんな話を聞いた。
「晴光園は陸軍軍人の将校クラブとして使われていた。そんなことを近所の奥さんが話していました」
 カトリック世田谷教会の関根英雄神父がそう言われた。
「晴光園は衆議院議員の宮脇長吉の家だったのですよ。息子が宮脇俊三で紀行作家です。あれは旅館になったのは戦後ですよね、将校クラブというのはどうなんでしょう?」
 気になったので調べみた。すると宮脇長吉は陸軍軍人であった。その関係からこの家には軍人たちが出入りしていたのかもしれない。

 宮脇俊三の旧住所は北沢四丁目三五四である。ここに住んでいたとき、「私はB29の来襲を待ち望んでいる自分に気がついた」と書いている。

 家が焼けたと焼けないでは大違いだ。しかし、宮脇俊三にとっては焼けないで家があるということは重荷であった。彼はこう書いている。

 家を焼かれた人間には「市民権」があり、焼けない者は「不遇」をかこつような、そんな妙な関係ができつつあった。電車の中でも、「お宅はまだですか」「まだなんですよ。申しわけないですなあ」といった会話を幾度も耳にした。
 宮脇俊三鉄道紀行全集2 角川書店 平成十一年 増補版 時刻表昭和史


 電車の中の会話、これは帝都線、井の頭線だ。彼はこれを使っていた。
 この線の池ノ上と下北沢の間は築堤になっていた。ここらの眺めは良かった。電車の窓から日本家屋の晴光園はよく見えていた。宮脇俊三はおもしろいことを書いている。昭和20年3月10日は東京大空襲があった日だ、その翌日のことだ。

 私は驚いた、小田急や井の頭線が走っていることは私の家から見えるので分かっていたが、山手線や上野からの汽車が動いているのは意外だった。(同上)

 往時、家からは小田急も井の頭線も見えていた。汽車好きの彼には感動だった。私は、彼の『時刻表昭和史』の伏線だと思っている。終戦の日、彼は米坂線今泉駅で汽車を待っていた。玉音放送が終わった後の記述だ。

 いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事も無かったかのように進入してきた。

 敗戦というショッキングなことに構わずに定刻通り汽車は走っていた。この作品の名場面だ、北沢四丁目の家から出ていった旅で遭遇した事件である。
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2018年07月30日

下北沢X物語(3570)―会報第145号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第145号    
           2018年8月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、下北沢がなぜ空襲から免れたか?

 オリバー・L・オースティン博士が撮った、戦後の下北沢の写真は見事だ。その時代の空気感までが見事に写し出されている。特徴的なことは焼け遺ったまちがそのまま活用されていることだ。近隣、大原、代田、太子堂などはB29による空襲で大きな被害を受けている。なぜ当地は焼けなかったのか?
 まず近隣は何時空襲を受けたのか、昭和20年5月24日に、世田谷署管内の北沢五丁目、羽根木町、代田一、二丁目、大原町は空襲を受けている。翌二五日は、北沢、大原町、若林町、太子堂が被害を受けている(『東京大空襲・戦災誌第3巻』)。
 次ぎに空襲の様子だ。24日の空襲を根津山(現羽根木公園)から眺めてこれを記録している人がいた。一色次郎である。これによると大型爆撃機の侵入コースが四つあったことが分かる。

・「いつもの夜と違って、侵入コースが二本あった。少し南よりから、平行して入ってくるのである。レールのように、南部の上空に、爆撃機の長い列が二列になった。」
・「爆撃機の長い列は、真東の海の上からもつづいている。これは三番目の侵入口である。」
・「北北西に、四本目のコースができた。この爆撃機の列はやはり市街地の上空を通過しながら、東の海上へ出ていくのだが、その途中で私たちの真上を飛んでいくのである。」
 『日本空襲記』 一色次郎 文和書房 昭和47年


 この四本目のコースを通っていたGamecookCharlieは千歳船橋の高射砲で被弾し、代田上空を旋回して赤堤に墜落している。代田では積載していた焼夷弾を捨てている。
 当日の天候であるがこれは重要だ、とくには風の向きだ。
 24日 風速2.5メートル(4メートル)    風向東南東
 25日 風速3.7メートル(11.8メートル) 風向南南東
(『東京大空襲・戦災誌 第3巻』

来襲機数である、米軍資料『日本空襲の全容』東方出版 1995年による。
 23日(24日)が558機 25日が498機となっている。高度に関しては、23日が、7,800〜15,100フィート。25日が、7,915〜22,000フィートだ。約2400メートルから6700メートルから攻撃したということだ。平均すると約4500メートルの高さだった。

 当日の攻撃コースが四本あった。来襲機数は二日間で1056機である。これだけの数の飛行機を攻撃に行かせるに当たっては綿密な計画があった。コースの振り分け、それと機どうしが衝突しないように飛行高度も決めてあったに違いない。一機一機に攻撃範囲が割り当てられ、その担当範囲も決められていた。有名なのは皇居爆撃を除外していたことだ。「操縦士たちはワシントンの命令によって皇居攻撃を避けるように命ぜられていた」理由は日本を占領した場合、「米国にとり貴重な存在となる」(『米陸軍航空部隊史第5巻
)事前に緻密な爆撃計画が立てられていた。
 B29は戦略爆撃機である。高高度の安全なところから爆弾を投下し、すばやく逃げて機体を失わないようにしていた。が、日本軍の高射砲の精度の悪いことを知った米軍は、段々に高度を下げて攻撃してくるようになった。5月24日、根津山から見ていた一色次郎は、「爆撃機が非常な低空で飛ぶようになった」と書いている。恐らくは米軍記録にある7.800フィートぐらいではなかろうか。当然のことだが高度が下がれば下がるほど攻撃精度は上がってくる。

 昭和20年5月、さんざんに日本の諸都市を叩いた上で、最後、残っていた東京の西半分を千機の重爆撃機で叩いた。日本が白旗を上げるのは時間の問題だった。間違いなく米軍は終戦後の占領政策まで考えていた。代々木練兵場は進駐した場合の宿営地に計画されていた。これが後にワシントンハイツとなった。
 ここをキャンプ地とするとすれば将校たちの宿舎が必要だ。それで代々木練兵場近辺のお屋敷街が選ばれた。近隣には緑に包まれた邸宅が多くあった。これらは攻撃から除外された。渋谷区戦災図をみれば一目瞭然である。「戦災を免れた家屋」は赤で表示されているが代々木練兵場の西部はほとんどが赤くなっている。意図的に一帯は空襲から外された。
 代々木大山町は下北沢の北東に当たる。5月、常識的には季節風は南から吹く、B29は西南の東京湾から侵入してきた。代田や大原は指令通りに機は空襲を行った。が、東どなりの下北沢は意図的に避けたのではないか?下北沢に落とせば焼夷弾は風に流されて大山方面を焼くことになる。大山方面の邸宅地を焼かないために下北沢は空襲から除外されていたのではないか、私の推論である。
 北沢四丁目の邸宅綿谷邸は敷地も広く木々が鬱蒼と生い茂っている、ここは地上から行ってもなかなか分からないところだ。しかし、ここは米軍に接収されている。が、この邸宅航空写真で見るときれいに見える。米軍は、ここなどはあらかじめチェックしていて接収したのではないか。ここのすぐ北東が大山町である。
 
オリバー・L・オースティン博士は大山町の接収家屋に居住していた。愛用のジープで下北沢に通っていたようだ。空襲から免れた大山町そして下北沢、米軍戦略がもともとあってそれによってこの町は焼け遺ったのではないか?

2、第4回研究大会 「戦後の下北沢を語る」 
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 研究大会の要項については、前号で知らせた。今回の会の観点、視点は次ぎに示す。
 ・戦争と街の関わり ・戦争と街の建物 ・戦争と文化 ・戦争からの復興
 世田谷広報に7月15日号に掲載された。「先着70名」は、「先着50名」の誤りである。なお、当日、当会の活動状況をテレビ信州が取材するそうである。

テーマ 下北沢の戦後を語る
・開催日 2018年8月8月4日(土)13時00分より(開場12:30)
・場所 世田谷カトリック教会二階会議室 会費 資料代として500円 学生200円
・主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会 カトリック東京大教区  協賛 東邦薬品株式会社 協力:ザ・スズナリ 成城大学境研究室
 
 1,オースティン写真にみる下北沢の戦後 コーディネーター  きむらたかし
 2,下北沢の戦後文学      きむらけん
 3,下北沢の戦後の演劇史    野田 治彦    
 4,カトリック教会の献堂と下北の未来 関根英雄神父
図面なき教会を測って 法政大学大学院 磯目知恵
 5,成城大学生による研究成果のプレゼン 境ゼミ


◎懇親会・納涼会 18時
場所 北沢タウンホール2階集会室
会費 3000円
恒例の納涼会だ、弁当は「Dr.オースティン弁当」、オークションも行う。一人一品も義務ではないが行う。イベント、ロスコンパニェロスは今回は不参加とのこと。問題はゴミの処理だ。これについてはできるだけ持ち帰っていただくとありがたい。
 * 懇親会参加は8月1日まで会の連絡幹事(弁当を発注する)
 米沢邦頼 090−3501−7278 に必ず連絡を。


3、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』の実験公演

 戦争経験を伝えることが難しくなってきている。戦争を知らない若い人がOperaで戦争を伝えるという試みをしてみたい。試験的な公演だ、ぜひご来場ください。
日時 9月16日(日) 午後13時30分から 無料
 場所 カトリック世田谷教会 
 出演 歌 山本 愛歌  音楽(チェロ) 諏訪 雪子
 

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
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第142回 9月15日(土) 13時 下北沢駅北口広場
案内人 米澤邦頼さん・作道敬子さん 下北沢のオースティン写真を巡る
*『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に掲載された写真の跡をたどる。
コース:下北沢駅北口→萩原朔太郎旧居→下北沢一番街・旧宮田家具店→栄通→旧東北沢6号踏切→下北沢駅南口→下北沢南口商店街→旧砂場跡→庚申堂前
 順次写真の跡をたどる。


第143回 10月20日(土)13時 小田急線喜多見駅改札前
案内人 池田あすえさん 喜多見の歴史を辿る
コース案:駅→次大夫堀公園→慶元寺→氷川神社→須賀神社(古墳)等々の見学を予定している。喜多見は民俗学的に面白いところだ。池田さんは当地で野菜を作っておられる。その新鮮野菜も手に入る。
第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net

■ 編集後記
▲会の活動の課題 毎月の歩く会は当会の日常活動だ。この運営が難しくなってきている。場所の選定、参加者の減少、保険手続きなど課題が生じてきている。行わないというのも選択肢の一つだ。が、日常の活動を行わなくなくなったら会は衰退していくだろう。継続するなら改革が必要だ。一つの考えだが会発足の原点に返り、地域密着(区内中心)にするのも方法だ。テーマを絞った研究的なまち歩きもいいのではないか。例えば「ダイダラボッチ研究」、「紅梅キャラメル研究」、「森厳川研究」みたいな共に調べ歩きするみたいなものを行う。これであれば参加者が少なくてもよい。が、企画・計画、この改革には会員の協力が欠かせない。研究会的なまち歩きと従来のまち歩きとを組み合わせる。どうだろうか?このところ私も思い悩んでいる。ぜひ皆さんのご意見を。きむらけん
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。

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2018年07月28日

下北沢X物語(3569)―都市風景論「家屋の亡霊《代田》」―

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(一)戦争が遠くになったと強く感じる、「もう覚えている人が本当に少なくなりましたね」と邪宗門のマスター作道明さん、昨日、会報145号を事務局に持っていったとき話題になった。今回のトップに「なぜ下北沢は戦災から免れたか?」を載せた。「いやあ、あの飛行機は大きいですね、びっくりする位に大きかったですよ」、作道さんは少年時代、故郷の富山でB29をつぶさに見ていた。

「戦争の話が通じなくなりました。この頃、古老だと思って呼び止めて話しを聞くと、自分よりも若いんですよ。聞き書きを始めてもう十三年、B29とか、空襲とか、焼夷弾とか、疎開とか、多くの人に通じたのだけど今はもう駄目です。壕舎生活なんてもう誰も知りませんよね……」

 来月四日の北沢川文化遺産保存の会の研究大会で「下北沢の戦後文学」について話をすることにしている。枕に何を振るかを考えている。
 大原に住んでいた詩人の福田正夫が空襲に遭う。それで下北沢に移り住む。そこに旧知のプロレタリア歌人渡辺順三が訪ねてくる。このときに共産党の悪口を言ったことが原因で二人は仲違いをしてしまったと。当地では一刻者が多い、多くは孤高的である。文士村ではなく文士町とするゆえんでもある。

 福田正夫は大原では壕舎生活を送っていた。その一端を詩に描いている。焼けたトタンでバラックを作りそこで生活をした。風がトタンを鳴らす。その音を詩にしている。

キリヤコンキリリコンコロロン
壕舎は啼きますうたひます。メゾソプラノのトレモロと擅音で
うたはせるのは風なのですね
 福田正夫全詩集 福田正夫全詩集刊行会編 昭和59年


 この音、侘しく、寂しい、それでいて音色がいい、詩人だなあと思わせる詩である。

 大原の南は代田、この南北を高圧鉄塔の駒沢線が貫いている。これに沿って空襲を受けている。詩人や作家の家も焼けた。代田の萩原朔太郎邸、安岡章太郎邸、大原の福田正夫邸などだ。

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2018年07月27日

下北沢X物語(3568)―文士町自由研究の手引き2―

DSC_0031富士見丘教会聖堂内部
(一)「下北沢文士町文化地図」(第7版)は、名の通り、文化の痕跡を記したものだ。この地図がヒントにして自由研究を行った小中高生がいた。次代を担う中高生が文士町から研究のテーマを見つけてもらえると嬉しい。文化とは個々人がおもしろさのしっぽを掴むことである。地図上にはそのしっぽが至る所に記録されている。

 下北沢は、沢の町だ、いくすじも川が流れている。この川をたどるのもおもしろい。

・川跡探訪
.瀬ぅ瀬薀椒奪狙遒鬚燭匹
  この川の名称は俗称だ。水源は現下北沢小学校のすぐ北だ。ここがダイダラボッチ跡だとされている。谷と谷の間に凹みがあってそこに水が湧き出ていた。水の守り神弁天様がここには祀られていた。昔、一帯の人々は水に苦労した。ここの湧き水は命を支える水で人々はこれを大事にした。
 沢の湧き水だ。北には出頭山がありこの南手の沢がダイダラボッチだ。この縁に庚申様と地蔵尊が祀られている。このすぐ西の道沿いに出頭山というマンションがある。この辺りの山の名を取ったものだ。
 凹み沿いを下ると、井の頭線にぶつかるそこに開渠があって今も水が流れている。さらに凹み沿っていくと東京都民教会に行き着く。この南手を守山田圃といって斎田家が稲を作っていた。代田5丁目20番地だ。ここの変化は超面白い。
 田圃→百貨店→スケート場→軍事用三輪車置き場→書店倉庫→メンマ工場→フィットネスクラブ→現工事現場

かつての小田急線の跡を越えて行くと、低いところに道がある。川跡だ、ここをたどっていくと代沢三叉路となる。茶沢通りを渡ると遊歩道がある。ここで北から来た森厳寺川と合流する。川跡では地形の変化が楽しめる。
 文化のしっぽを捕まえるには地元の人に話を聞くことだ。川のあった時代を聞いてみるとよい。
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⊃晃契遒鬚燭匹
 この川の源流は北沢中学である。ここに大きな池があった。この川の特徴は谷が深いことだ。両方の丘から水が湧いてきて、ここに流れ込んだ。北沢四丁面赤坂さんの証言。
「ここは狭い谷になっていて両方の丘から水が湧いてきた。それでこの辺りの人は池をもっていてそこに鯉とか金魚を飼っていた。洪水になるとそれが流されちゃってね」
 井の頭通りに接したところには釣り堀があってここの魚もよく洪水で流された。
 小田急線の線路を越えるときつい斜面の崖がつづく。かつてはこの一帯みな赤松林だった。ここの特徴は、左岸の崖上が邸宅、川沿いは庶民街。
川は、西から来たダイダラボッチ川と合流し、そして本流にぶつかっておしまいこれが北沢川だ。

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2018年07月25日

下北沢X物語(3567)―文士町自由研究の手引き1―

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(一)これまで夏休みの自由研究で私たちに何度か問い合わせがあった。今回は、当方が発行している『下北沢文士町文化地図』に基づき、こんなテーマで自由研究ができるよ、ということをネット上に公開したい。なお、地図については無料で、北沢タウンホール一階、世田谷代田邪宗門で配られている。
 
 文化は何かというと難しい。が、分かりやすくいうとその土地のにおいをいう。今、川は暗渠化されている。それでも北沢川、呑川を下ると前者では池尻あたり、後者では緑ヶ丘あたりからは川として流れている。呑川の開渠あたりに行くと「ああ、呑川のにおいだ」と何時も思う、土地土地には固有のにおいや特色がある。下北沢はまず地名がおもしろい、とくには「沢」だ、これは、「細い川、もしくは短い川の通称」だ。かつては至る所に小川、ドブ川が流れていた。これらは暗渠化して今は見られない。しかし、沢はVの底である。このV字やU字地形は至る所に残っている。

 大きな流れとしては南を北沢川が横断している。これは北沢川緑道として残っている。ここに北からきた支流が流れこんでいる。私たちはこれを森厳寺川、ダイダラボッチ川と呼んでいる。この町はこの凹凸によって形成されている。

 北沢四丁目の古老、三十尾生彦さんは、川には魚がどっさりいた。ホタルが群れていたとのこと。そんな川がどう変わったかなどを調べるのもおもしろい。
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(二)
〇自由研究のテーマとしてどんなことがあるか?。思いつくものを挙げてみる。

・北沢川緑道の文学碑
 東から順に、横光利一文学顕彰碑、坂口安吾文学碑、三好達治文学顕彰碑、代田の丘の61号説明板。
 最後の看板にはここで亡くなった萩原朔太郎の詩の一節が刻まれている。一つ一つの文学碑には由来が書かれている。文学と地域をこれで知ることができる。以前、吉祥寺から来た高校生が自由研究でテーマとして選んだことがある。

・北沢川緑道の生物
 ここには落合浄水場の水を使って小川が再現されている。この人工の川にも生物が住んでいる。これを代沢小の一人の学童が自由研究に選んだ。
 そのときは、緑道のことをよく知っている人を当方で紹介したことがある。
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2018年07月24日

下北沢X物語(3566)―小学生諸君、「鉛筆部隊に入ろう!」―

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 小学生の皆さん、夏休みが始まりましたね。毎日毎日暑い日が続いていて一日を過ごすだけでも大変ですね。これからの長い夏休みをどう過ごしたらいいか?
 そのヒントになるお話をお話しましょう。


(一)皆さんは、戦争は知っていますか。もう73年前のことですが日本はアメリカと戦って負けました。間もなくすると八月十五日が巡ってきますが、この日が終戦記念日だということはよく知っていますね。

 これから私がお話するのは戦争中のお話です。
 戦争も終わりかけた頃、アメリカの爆撃機が東京を襲ってくる危険が高まってきました。それで都会に住む学童たちは地方に避難しました。これを疎開(そかい)と言います。

 東京世田谷の代沢小学校、その頃は国民学校と呼んでいました。この学校は、「長野県松本市外浅間温泉に疎開しました。ここで六つの旅館に別れて分宿しました。そのうちの一つが「千代の湯」でした。引率は柳内達雄先生でした。

 この先生は、自分が受け持った学童たちを「鉛筆部隊」と名付けました。小学三年生から六年生の学童たちです。この子どもらは武器を持って戦えません。それで先生は、鉛筆でもって戦う学童部隊を作りました。


 銃後ということばがあります。銃で直接戦う場を前線といいます。この反対が銃後です、学童たちは、その銃後に控えて前線を支えていました。ここで成長し、そしていずれは大人になって日本を守っていくようになる、子どもらにはしっかりと育ってほしいという願いがありました。
 
 昭和十九年八月十三日、疎開生活の第一日目が始まりました。
「皆さん、いいですか、疎開生活が今日から始まりますが、君たちを『鉛筆部隊』と名付けました。どうしてか、君らは鉄砲を持って戦うことはできません。しかし、鉛筆を握って戦うことはできます。鉛筆でどしどしと日記を、手紙を書きなさい、そして東京で心配しているお父さん、お母さんを安心させるのです。また兵隊さんにはお手紙を書いて励ますのです。書いて書いて書きまくるのです。それが君たちの任務です」

(二)
 私が、このメッセージを書こうと思ったのは昨日、テレビで卓球の早田ひなさんのインタビューを聞いたことがきっかけです。彼女の両親は卓球とは無縁でした。だから独りで自分を成長させるしかなかったと。世界有数の選手になるには努力が必要でした。
「日記を書きました。毎日書きました。それがこんなにたまっているのです」
 彼女は成長過程において必死に日記を書いたと言います。
「なるほどなあ」と私は思いました。日記を書くことで自分が見えてくるのです。これがいかに大事かを改めて知ったことです。

 「鉛筆部隊」の学童は、先生に指示された通り、どんどん、どしどし手紙を日記を書きまくりました。さてそれでどうなったでしょう。
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 あるとき見知らぬ人から電話がありました。
「山梨県の護国神社の骨董市で古手紙の束を手に入れたのです。その手紙には『鉛筆部隊』というハンコが押されていました。『鉛筆部隊』で検索したらそちらのブログに行き着いてこうしてお電話を差し上げました……」
 驚きだ、書いて書いて書きまくったその現物が残っていたというのだ。笛吹市在住の矢花克己さん、これを早速に私に送ってくれた。そのすべては小学五年生が書いた手紙の山である。名は立川裕子さんという。
 一番の驚きは、手紙の内容の濃さ、レベルが高いことだ。父親や母親に宛てた手紙だが意を尽くして書いている。小学五年のレベルを超えていた。

一例だけではない、鉛筆部隊員として日記を書きまくった鹿子木幹夫さんが書いたものも手に入った。疎開以来、丁寧に日々の出来事を記録していた。素晴らしく批評精神に富んでいて小学生とは思えないものであった。
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2018年07月23日

下北沢X物語(3565)―都心地下街まちあるき―

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(一)熱暑、炎天が続いている。「不要な外出は控えよう」との注意喚起まで出されるようになった。報道では熱中症での死亡例も増えていると。実際に外を歩くと熱気が凄い、照り返しもきつい、たちまちに汗まみれになる。異常な暑さだ、この炎暑が原因でイベント企画が次々に中止されているという。今までにないことだ、天候災害戦争が始まった。が、戦争には敵がいる、それは誰か、我々人間自身ではないか?

 七月のまち歩きは、炎暑を避けて地下道を歩くことにしている。「不要な外出は控えよう」とのこと遠因か、地下鉄日比谷駅に集まったのは四人だ。

 まずは、最近できた「東京ミッドタウン日比谷」から歩き始めた。「ミッド」は、中央、真ん中、まさに都心に当たる。地下に入ると冷房がぐんと効いてくる。そこに人々が行き交っていた。殺人的な豪雨、地獄の炎熱もここは無関係だ。まさに平和がここにある。

 私は常日頃都鄙を渉猟している。空気感、時間感が違う。

 一つ、微かな匂いがすることだ、着飾った女性達の香気なのだろうか。
 一つ、多くが装飾的だ、建物、看板デザイン、そして行き交う人々の着ているもの。
 一つ、時間差だ。居住地よりも二秒ほど時間が早い。言えば最新時間が生きている。
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 日比谷で思い出した。地下鉄日比谷駅で降りて東京會舘に行ったことがある。スニーカーで行って席についた。何も考えずに一番前に坐った。ややあって「殿下のおでまし」との案内、「えっ、そんなところだったの!」、慌てて脚を引っ込める。後ろの席で人が話をしている。「わたしはこれに参加するためにニューヨークから来た」、「えっ、そんな会だったの?」。自宅最寄り駅から日比谷まで310円かかった。地下鉄は高いと思った自分が恥ずかしくなった。全国読書感想文コンクールの表彰式でのできごとだ。

 「日比谷のヒビは、粗朶ですね」
 案内人の木村康伸さんが説明する。この一帯、日比谷入り江で遠浅だった。それでヒビを立てて海苔を養殖していた。
このヒビの材に欅が使われる。梅丘の宇田川家で欅の剪定をやっていた。
「昔はね、大森の漁民がこれを買いにきていたんだ」と主人。
 ヒビは内陸部から運んだ。とすれば甲州街道ができる前にすでに内陸から日比谷に通ずる道があったということだ。

 ビルからビルへ、地下道から地下道へ、道は延々と続く。しかし、自分がどこにいてどう歩いているのかは分からない。都心迷宮は果てが無い。
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2018年07月21日

下北沢X物語(3564)―戦争、人権、災害、賭博―

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(一)小田急下北沢2号踏切と3号踏切の間に築堤があった。この南手の静泉閣アパートに住んでいた一色次郎は、ここから空中で繰り広げられる戦闘を目撃している。彼はそれを比喩的に「クジラの頭部で、小魚が回転しているようだった」と述べている。クジラはB29であり、小魚は日本の戦闘機である。どうにもならないけれどもどうにかしようとしていた。昭和十九年十二月二七日のことである。

 一昨日のことだ緑ヶ丘を通りかかったときに一人の男と出会った。妙なことに、ミョウガを買わないかと?家の庭で沢山成ったので8個、百円で売っていると。買うと十個くれた。ミョウガが縁となって戦争論となった。

「アメリカの海軍軍人だった人が言っていました。最初のうち日本の特攻機の襲来はとても怖かったそうなんです、しかし対処に慣れてくると煙幕を張ったり、迎撃の仕方が分かったりでほとんど命中しなくなったというのです。やってきた特攻機がほとんど撃ち落とされてしまった。その人は見ていて可愛そうで可愛そうで『せめて一機ぐらいは当たってほしい』と祈ったそうなんですよ……」

「確かに後になればなるほど命中率は低くなっていますね。特攻に行く場合は戦火確認をするための飛行機を飛ばしていたのですよ。最初のうち、余裕があった頃は、直掩機、誘導機、戦果確認機というふうに区別する言葉もあったのです。後になると飛行機が不足して付いていくのは一機だけだったんです。それも……」

 沖縄作戦初期の頃は、相次いで多数の特攻機を進発させ、護衛戦闘機が上空を掩護していったが、米軍の物量には如何ともしがたく護衛部隊の大半は常に帰って来なかった。
 『特攻』 第七号 別冊 「沖縄特攻」坂本 隆茂 一九八九年 特攻隊慰霊顕彰会


「そうだったんですか」
「だから戦果確認ができなかったのです。知覧特攻平和会館がありますが、あそこには戦果確認された人だけが記録されているのですね。1036柱なんです。米軍の餌食になって撃ち落とされた人はこの中に入っていないと思いますね……」

「私は、この辺り一帯に墜落したB29の現場にはよく通いました。痛切に感じたことは人権観が根本的に違うということを知りました」
「ここら辺でB29は墜ちているんですか……」
「世田谷区赤堤、大田区久が原、調布市国領、港区白金台など……現場にはよく行きました」

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2018年07月20日

下北沢X物語(3563)―ダイダラボッチ川文学論―

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(一)本流より支流が好きだ。支流にこそ発見がある。ここに分け入っていくと思いがけない発見がある。ダイダラボッチ川は支流とも言えない細流だ。が、あるかなきかの水路に文学が眠っている。ダイダラボッチを記述した文学作品は二つあると指摘した、ところがもう一つあることが分かった。この川をもっと詳しく説明していた。

 支流文学論は面白い。高浜虚子に、「流れゆく大根の葉の早さかな」という一句がある。「私はびっくりしましたね。ふと通りかかった小川、そこに大根の葉っぱが思いがけない早さでつつ、つうと流れていったのですよ。さてあれはどこへ流れていったんでしょう?」大根の葉の行く末が思われた、自分の運命の果ても思ったのだろう。

 この句は、「昭和三年十一月十日」に行われた「九品仏吟行」で詠まれたものという。吟行ではまず九品仏に立ち寄った。それから等々力不動尊に向かったようである。その途中で詠んだものらしい。川は、矢沢川ではないかと言われている。

 九品仏は元奥沢城、舌状台地の上にある。この寺はかつてはどこからでも入れた。ところがここで警備員がピストルで射殺されるという事件があった。それ以来塀をつくったり、門を閉めたりするようになった。きっと昭和三年頃はのんびりしたものだったろう。境内を出て等々力方向へ向かうと一面畑だった。そこに水路が流れていた。

 だいぶ前だった、そこを自転車で通ったとき小林旭に会ったことがある。彼も自転車に乗っていた。映画の中で車に乗っていたイメージがあったので何となく違和感を覚えたことだ。その辺り、今も畑が残っている。その真ん中を川が流れていた。今は緑道になっているがこれは呑川支流九品仏川である。
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 昭和三年十一月十日、台風シーズンだ、川は水かさを増していた。そこに大根の切れっ端が流れてきた。等々力に行こうとする場合はこの川は向かい合う形になる。矢沢川だと後ろから流れる形になる。この大根の葉は向こうから流れてきた方が様になる。
 この句は九品仏川だとすると腑に落ちるのだが。
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2018年07月18日

下北沢X物語(3562)―中原斎田家とダイダラボッチ―

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(一)戦前というか一昔前は、この辺りは山だったね。何も無かったからね、東大原小に通うのでもマモリヤマ通って行っていたからと佐山一雄さんは言う。これは昭和十年代の話だ、大正十四年の頃は「まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた」(『風と光と二十の私』に坂口安吾は書いている。このマモリヤマはダイダラボッチ川の左岸だ。森があったことは川も生きていた。多くの生物、昆虫が棲息していた。湧水源ダイダラボッチからは水が流れ、これが下流を潤していた。

 この間、興味深いことを聞いた。中原斎田家当主の斎田孝さんからだ。川が小田急線にぶつかる前の辺りは中原斎田家の田んぼだったという。この谷間にあった田んぼは守山田圃と呼ばれていた。
 斎田孝さんの話ではこのダイダラボッチ川のさらに下流、現在の下北沢王将あたりにも斎田家所有の田んぼがあったと聞いた。

農村風景と田んぼは切っても切れないものだった。しかし、当地は巨大都市東京の縁辺だった。それゆえに東京の影響を受けた。千歳村糟屋に住んだ徳富蘆花の有名な言葉がある。

東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様ようになって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分拓かれて麦畑になった。
『みみずのたはこと』(上) 岩波書店 1977年


代田は東京にもっと近いその影響は大きい。かつて農家は米作りが中心だ。代田七人衆のもやはり米が中心だった。以前に代田七人衆の末裔柳下政治さんに話を伺ったことがある。水路沿いは水田でそこから離れると陸稲を作ったと。

 しかし、当地は大消費地東京を控えていたそれで畑には蔬菜類を作って近くの市場に出荷した。これは近年になってのことだ。

 手元に手書きの「昭和初年ノ代田ノ風景(昭和三年、1928頃)」がある。柳下政治さんの証言通り北沢川沿いは水田となっている。

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2018年07月17日

下北沢X物語(3561)―ダイダラボッチ川物語―

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(一)ダイダラボッチの足跡辺りを水源とする小川がある、名も無い川だ、しかし名がないと説明しにくい、それで私らはダイダラボッチ川と呼び習わしている。全長2キロあるかないか、その程度の川だ、ほとんどが暗渠になっていて地形を便りに歩くしかない。短い小川だが多くの物語が詰まっている。

ダイダラボッチ川沿岸に作家も住んでいた。この小川のことが書かれていないか、探したことがある。私は二例知っている。

 まず、日野啓である。「踏切」という短編がある。これは井の頭線下北沢2号踏切を素材にした短編だ。この近くにある建て売り住宅を買って住んだようだ。「先住者たちへの敬意』という短編にこういう記述がある。

 そんな生きものが何匹も棲み着いているのは、十年前に新築の建て売り住宅にしては少しおかしいとは気づいている。恐らくこの近所数軒が一括して売りに出される前、線路脇のこの低い一角はドブ川が流れる窪地か余程古い広くて大きな木造の屋敷でも建っていたのだろうと想像するが、とくに調べたことはない。下北沢駅から歩いて五分という交通便利な土地に十年前までに新しい家が建っていなかったということは、それなりの理由があったからだろう。
 『俤の立つ都市 冥府と永遠の花』 2001年 集英社


 生き物というのは蝦蟇だ。低湿地のゆえよく出現したようだ。調べて見ると昭和37年度版の住宅地図では「アキチ」となっている。かつて一帯は畑だった順次宅地かされていって、残ったここに建て売りができたのだろう。
 ここに描かれる「ドブ川」は間違いなくダイダラボッチ川である。今も水は流れている。

 つぎは一色次郎である。彼は、井の頭線2号踏切よりも下手の小田急線のすぐそばに住んでいた。小田急線は地下化してしまった旧2号踏切を3号踏切の間には築堤があった。この南側に静仙閣というアパートがあって彼はここの一号館に住んでいた。一色次郎はこう記録している。

 一号館は、住友通信機製作所の女子挺身隊の寮になっている。窪地の傾斜の高いところにあるし、門が違うので、めったに顔を合わせることもないからどんな学生が住んでいるか分か私は知らない。
 『東京空襲』一色次郎 河出書房 昭和42年


 二号館は築堤のすぐ北にあって低い、この東側に川が流れていた。昭和十年十二月27日の記述に「小川にかけられた丸太を渡って、私は畦道に出ていった」とある。この小川はダイダラボッチ川である。
 この静仙閣は戦時中失火で燃えた。そのときに築堤の北側に住んでいた佐山一雄さんはバケツを持って消火を手伝ったという。

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2018年07月15日

下北沢X物語(3560)―『下北沢の戦後の歴史を語る』打ち合わせ―

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(一)昨日、14日、カトリック世田谷教会で研究大会の打ち合わせをした。昨年度末にオリバー・L・オースティン博士の写真を基軸にして『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』を発行した。新聞テレビなどでも大きく取り上げられた。アルバムには「焼け遺ったまち」が鮮明に残されていた。下北沢在住の歌人、堀内通孝はこう詠んでいる。

この駅を囲み残りし家(いえ)群(むら)よ二十年わが住みし町よ
「東京−風物歌集」(昭和二十八年発行 都市計画協会)
 

「焼け遺ったまち」への感嘆を歌っている。都内近隣は焼けたのに、当地は焼け遺った、そのことへの感動だ。今の人々にこの感銘は伝わらない、しかし雨露を凌げる家が無傷で残ったことはしあわせなことだった。現にこれを活用して多くの営みが行われた。まちの原動力となったことは知られていない。出版文化の勃興もその一つだ、活字に飢えた国民に多くの本を提供していたことは知られていない、焼け遺った家の活用法の一つだ。

 今日の、「区のおしらせ「せたがや」平成30年7月15日号」に案内が掲示された。
区の後援事業となっている。

第4回北沢川文化遺産保存の会研究大会「下北沢の戦後を語る」
8/4(土)13〜16時半(終了後懇親会あり) カトリック世田谷教会(北沢1−45) 500円 (同会 電話番号:3718−6498きむら) 先着70人


 カトリック世田谷教会の二階集会室で行われる。収容人員は50数名程度である。「大勢が押しかけてきたら?」との不安は恐らくは杞憂だろう。関根神父さんは、「急遽聖堂に移すしかない」とのことだが……

 当日のプログラムだ 12:30開場 13:00開始

 1、オースティン写真にみる下北沢の戦後 40分
      コーディネーター   きむらたかし
 2、下北沢の戦後文学      きむらけん 30分
   休 憩 10分
3、下北沢の戦後の演劇史    野田 治彦    30分
 4、カトリック教会の献堂と下北の未来 関根 英雄神父 30分
(図面なき教会を測って 法大 磯目知恵さん 10分)
5、成城大学生による研究成果のプレゼン 境研究室    30分  
6、質疑応答 30分
 

打ち合わせ 参加者
 関根英雄神父・成城大境新一教授とゼミ学生・きむらたかしさん、山本裕さん、藤井理嗣さん、私

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2018年07月14日

下北沢X物語(3559)―旧2号3号踏切一帯の変遷―

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(一)日々荏原探訪は欠かさない。沢を丘を巡る、呑川緑道では植え込みから出ているヤブガラシを引き抜いていく、一万本は抜いたのではないか?一万といえば縄文時代を思い起こす、近隣の丘にはこの旧跡が至る所にある。歩きながら一万年という時代の遙かさを思う、気が遠くなってしまいそうだ。
「父ちゃん、何かが落ちる音がしたけどあれは何?」
「まあ、あれはドングリが落ちた音だろう」
 父子の会話に一万年という時間の中での変化を思う。
 
 今年は2018年、縄文と比べるとその変化は凄まじい、激変の日々だ。人が一日に受け入れられる情報には限度がある。ドングリ一個どころの話ではない。これは一体何なのかと思う。人間はどうしても旧来の物差しで測って理解する。が、この激変はそれが通用しなくなっている。ふと点けたテレビで一人が言っていた。

「西は恐怖に陥るほどの豪雨だったのですよ。ところが新幹線で東京に来てみると晴天、全く違う世界に来たのではないか。マスコミも政府中枢も東京にあって災害情報を流したり、対策を指示したりしているが本当のことは理解していないのですよね」

 今朝の新聞は、「11万人避難指示の夜 酒席」−豪雨 政権幹部の危機意識は−という記事を載せている。5日夜、首相ら、自民党幹部が赤坂の衆議院宿舎で宴会を開いていたという。大雨に見舞われている西日本、豪雨被害のない東京では大きな感覚のずれがあった。

 西と東との民意のずれ、地域だけではない、国民一般と政治家との思いのずれは救いがたい。慎重審議を必要とするのにしない、バクチ法案、働き方改革法案、参院定数6増案など一気にこれらを採択しようとしている。

 「美しい国」という言い方がある、「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像だ、現実にはこの反対をめざしている。「汚らしい国」へのシフトである。

 思うに平穏で平和だったこの国にも大きな危機が来ている。マスコミの災害被害報道がされる。が、多分コマーシャルは全国一律で流されるのだろう。猫のエサ、化粧品、サプリメント、被災民にはおよそ関係ないものである。これらが無神経にも垂れ流されているのではないか。

 今、我々はカタストロフィ的な状況に来ているのではないか、この大災害の背景には乱開発があるように思う。が、そういうことには触れられない。何とかなると思っているがどうにもならなくなってきていないか。原発のゴミなどは典型例だ。高レベル放射性廃棄物、放射能ゴミなどは、30年で青森県外、福島県外に移すと約束しているがどうみても不可能だろう。人はさしあたっての時間が過ぎれば、後は野となれ山となれと思ってきているのではないか。

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2018年07月12日

下北沢X物語(3558)―世田谷代田駅風景の主題?―

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(一)絵画は絵解きができる、描き手がどういう思いで絵を書いたのかが想像できる。今回見つかった絵のポイントは世田谷代田駅の跨線橋である。名前を付けるとすれば「丘上の鄙びた駅」だ、賑わいや繁栄ではない、静かに佇む駅が描かれている。描き手はこれに詩情を見いだしている。そのサインは、「S.MAKINO」である。普通に考えれば、「牧野」さんだろう。

 これは描き手が慣れ親しんだ駅だ。それを描いた。直感的に思ったことがある。この人は跨線橋に何かの想いを残しているに違いないと。思いがあったらばこそ描いたと思う。

 描かれた年代も重要だ、偶々これが分かった。1958年、昭和33年だ。人々の記憶に戦争は鮮やかに残っていた。描かれた駅も空襲ですっかり焼けた、あれから13年だ。この絵には復興した駅への感懐がある。よってこの絵の主題はこうだと言える。

 戦災から復興した世田谷代田駅
 
 世田谷代田駅の駅前商店街に阿久澤理髪店はあった。描いたのはここのお客さんだ。
「この店には何もなくて殺風景だね、よし絵を書いてあげよう」
 その人は絵を三枚描いて愛久澤さんにプレゼントをした。その三枚のうちの一つが駅だ。もう一枚には、静物の日本人形が描かれている。

 地元中原商店街にあった理髪店のお客が描いた。とすれば地元に住んでいる人に違いない。牧野さんは理髪店に飾る一枚を駅風景とした。

 風景を描く場合どこを画くかというのはある。高台にある世田谷代田は絵になる景色は多い、丘上から眺めた富士などは恰好の材料だ。しかし、牧野さんは駅を画いた。思い入れが深いからだろう。日々通勤に使っていたのではないだろうか。

 駅を描く場合は、ポイントが必要だ。見栄えのする場はどこか。絵描きとして手慣れた彼にはそういう意識はあった。それで選んだのが代田小学校の脇だ、ここからだと丘上の跨線橋が映える、右手から駅へと登っていく急勾配の線路がある、これに沿った架線柱も鑑賞者の視線を丘上の跨線橋へ導く効果ある。牧野さんはプロ意識を持った画家ではないか。

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2018年07月11日

下北沢X物語(3557)―描画発掘:世田谷代田駅風景―

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(一)一枚の絵が発見された、世田谷代田駅を題材とした油絵作品だ。描かれた時代の空気感や佇まいが見事に筆で留められている。当地の歴史文化の一端を記録したものだ。我々は今年度、世田谷区の地域の絆連携活性化事業に応募している。事業の核は二つ、「下北沢文士町文化地図」第八版と紀要第七号の発行だ。地図については裏面に当地域一帯の古写真や絵画を掲載することにしている。今回見つかったものはこれに収録したい。

 発端は8日のことだ。当会の米澤邦頼さんの知り合いで帝国音楽学校のことを覚えてる人がいると聞いた。それで世田谷代田駅近くの愛久澤さんを訪ねた。
「父親がこの近くで『調髪館』という理髪店をしていたのです。その時にお客さんに伊藤久男さんがおられました。とても父親と親しくしていてよく飲みに行っていました……」
 愛久澤律子さんの話だ。

  伊藤久男は歌手である。昭和24年発売の「イヨマンテの夜」は有名だ。作曲は古関裕而である。この話上面では何も見えない、が、裏面には当地の文化風土が濃厚に臭ってくる。興味深い話だ。

  まず伊藤久男は世田谷代田の帝国音楽学校で声楽を学んだ。教えていたのは声楽家の平間文寿である。彼は駅近くに「平間聲学研究所」を開いていた伊藤はここにも通っていたらしい。伊藤、平間は福島出身の同郷だ、加えて古関裕而も福島出身だ。このことから当地では深い付き合いがあったという。
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「父の店は昭和5年6月12日に開店し、昭和25年12月31日に閉店しました」
 昭和9年生まれの律子さんの話だ。
『父は伊藤久男さんと親しくてよく飲みに行っていた』
 これはてっきり帝国音楽学校在校中のことだと思っていた。しかし、どうも在校中のことにしては時代が合わないような気がする。もしかしてこれは歌手になってからのことではないかと思った。
床屋の 開店が昭和5年(1930)年、伊藤久男の生年は明治43年(1910)年、学校時代とすれば年齢は二十過ぎとなる。23歳の昭和7年(1933)に古関裕而の勧めで伊藤久男として歌手デビューしている。

「伊藤久男さんが店のお得意さんだったという話は、歌手になってからのことではありませんか?」
 阿久澤律子さんに電話して聞いてみた。
 伊藤久男の歌のほとんどは作曲が古関裕而だ。帝国音楽学校時代から二人は親しい関係にあったが卒業後もこれは続いた。伊藤久男は学校卒業した後も代田に住んでいたのではないか、それで馴染みの床屋に通っていた。

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2018年07月09日

下北沢X物語(3556)―異常気象と荒廃国土、そして特攻兵―

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(一)人が言わないことを言う、これは書き手の務めだ。何を言いたいのか?大戦末期各地から特攻機が飛び立って沖縄に向かった。西下する道すがら麗しい自然山河を目にして死ぬ覚悟を決めた。これを守るために自分は目的地に向かっているのだと。

 偶然に疎開学童と特別攻撃隊員とがふれ合って絆を深めていたという事実を知った。これに端を発してとうとう四冊の長編小説をまとめた。資料を調べ、関係者に会い、また実際に特攻に行った人からも話を聞いた。私自身、興味を持ったのは西下する機から眼下を眺め彼らがどんな思いを抱いたかと言う点だ。結論的に言えば日本武尊が詠んだとされる国偲びの歌に行き着く。(古事記)

やまとはくにのまほろば たたなづくあおがき やまこもれる やまとしうるわし

 どこまでも続く緑、青い海原に点在する島々、緑を縁取る白い砂浜、幾重にも折り重なる山々を見て誰もがせつなくなった。

 昭和二十年四月五日、第二十九振武隊は桶川から十二機が飛び発った。このときに柳井正徳さんは整備員として同乗された。山口県の小月まで添乗していったと。この彼に直接会って話を聞いた。機上からどんな景色が広がっていたかを尋ねた。彼は京都出身の山本研一少尉機に乗った、彼の家は家業が風呂屋で煙突を目印に実家へと飛んだ。
鉛筆部隊と特攻隊
「低空飛行で家並みすれすれに、もう舐めるように飛んで、その煙突を二三周ぐらいしました。そして最後は翼を左右に振って別れの合図を送りました……」
「瀬戸内海上空は綺麗だったでしょう?」と私。
「ああ、綺麗なんていうものじゃなかった。あのときは、本州側も四国側も桜がいっぱいに咲いていましたからねえ、何しろ四月の初めでしょう」

 彼ら特攻兵は、眼下の敵ではなく、眼下の故郷をじっくりと見て行った。特攻生き残りの久貫兼資さんは、「九州山中の緑は綺麗だったね、低空で飛ぶと一人の男の子がいて懸命に手を振ってくれた。今でも覚えているねぇ」

 私は、昨年末、『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を上梓した。この冒頭部分ではこう書いていた。

 戦闘機乗員にとっては、故国と決別するための道行きだ。眼下に映りゆく海や山を目に焼き付けるように飛行した。瀬戸内海では、海に浮かぶ大小の島々が桜色に染まっていた、九州の山里では桜に縁取られた藁葺屋根や土蔵が目に染みた。思い捨てがたく編隊を解いて低空で飛ぶと、全山の桜が吹雪のように舞ったという。散りゆく桜は彼らの運命を暗示していた。

 思い起こすのは一人の特攻兵だ、神風特攻第五昭和隊の市島保男少尉だ。昭和二十年四月二十一日、筑波空を飛び発つ、このときに桜を彼の操縦席に飾ったという人からも話を聞いたことがある。

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