2018年11月19日

下北沢X物語(3646)−東附30回生へ:君らの一人の先輩−

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(一)先日17日、かつての勤め先の学校の同窓会が新宿であった。会場に入ったとたん、「先生、覚えていますか?」と問うてくる、「誰だっけな?」と。多くが分からない。しかし名前が分かってくると不思議なものだ、数十年前の情景が思い起こされる。あの子は前の方、この子は後ろの席だった、やんちゃなやつだった、可愛い子だったなどと。

還暦を前にした君たちにメッセージをスピーチで贈った。
 もう一つ、君たちに杉村裕さんの話しをしておこう。誰も知らない話だろう。
 彼は日記を残している。昭和二十年六月二十四日に書いた一節だ。

一切の偉大なるものは認めさへすれば教養になる。
 色々の事のあつた高校時代。怒り笑ひ喜び泣いた、あの頃つまらぬことに大いに憤慨したが、一番懐しい時代。亀尾さん、俺の思想の根底は彼及び独逸語で造られたのを想ふ。そして俺が始めて人の世への眼をあけたのも、あの時代だ。


 得てして我々は若いときは権威への反発から偉大なものへ反発する、しかし、ふと気づくことがある。それをそれとして認めれば自分の体系の中にそれは組み込まれて知識になる。
 彼は高校時代という、グランドがやたらに広い。そしてプールがやたらに深い。エリート校の体育施設の特徴だ、国家を担う者はプールで溺れるようではいけない。学校のプールが深かったことを覚えているだろう。杉村裕は東京高校在籍者だ、君たちと同じ校舎で学んだ者だ、君らの先輩だ。

彼は昭和二十年六月二十九日の日記にこう書いている。駅まで送ってくれた母多恵と別れ上野行きの列車に乗る。これが母との最後の別れだ。こう記す。

『特攻隊ニ行ク人ハ本当ニ新聞ニ書イテアル様ニ喜ンデ行クノカ聞イテクレト誰カガ言ツテヰタ。』ト母ノ言ニ一寸憤慨シタ。少クトモ私ハ喜ンデ行キマス。ソレガオ国ノタメト思フカラ、ソレガ日本人トシテノツトメデアルト思フカラ。

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2018年11月18日

下北沢X物語(3645)−芝川・隠田川・まち歩き人生歩き−

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(一)昨日、恒例のまち歩き、今回は梶山公子さんの案内で芝川・隠田川を歩いた。今回で144回目となる。月一回と勘定すると12年目となる。出発は小田急線南新宿から「寛永江戸全図」を頼りにして川跡をたどった。代々木近辺の谷を巡り、原宿へ、今日現代の最先端のまち、若い男女が行き交う。その中で我らドブネズミ部隊は異様だ。終着地の渋谷には超高層のビル群、圧倒される。その足で私は新宿に出た、元勤め先の東附の同窓会である、この頃では誘いが来ても行かなくなった。が、今度のは自分が初めて担任をした学年でひとしお思いが深い。三クラス、六年間で九人の教員が受け持った。もう三分の一が物故され、生徒120名のうち7名が亡くなったと。そしてまた驚いたのは彼らが後三年ほどで還暦を迎えると。酒を酌み交わしながらこもごもの人生を語る。時の流れはとうとうと流れゆく。「先生覚えていますか、俺の胸ぐらをがっすと掴んで、おいおい泣き出したんですよ」、言われて遙か遠い昔を思い出した。自分も若かった、彼らもまただ、何だか涙が出そうになった。「俺も歳を取ったなあ」と感慨深く思った。

 南新宿から我々は歩き出した。
「ここは昔は、小田急本社前と言っていました。場所はずれていますけど」
 新宿から一つ目の駅は、開業時は、千駄ヶ谷新田と言った。つぎが山野駅だ。
 この辺りは鉄道線が敷設されることで急速に宅地開発が進んだ。南新宿の駅近くに田山花袋が住んでいた。彼に『少女病』という私小説がある。

この男はどこから来るかと言うと、千駄谷の田畝を越して、櫟の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、樫かしの大樹に連なっている小径こみち――その向こうをだらだらと下った丘陵の蔭の一軒家、毎朝かれはそこから出てくるので、丈の低い要垣を周囲に取りまわして、三間くらいと思われる家の構造つくり、床の低いのと屋根の低いのを見ても、貸家建ての粗雑な普請であることがわかる。

田山花袋は、明治39年12月に、ここ渋谷村代々木山谷に新居を建てた。その様を描いたものだ。郊外の畑の中に一軒ぽっつりとあった。家々がようやく建ち始めた頃だ、まわりには牧場があった。木々の緑がある、いわゆる武蔵野だ。
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 このときの彼の最寄り駅は甲武鉄道代々木駅だ、この39年10月には国有化されている。この一帯が切り開けたのは甲武鉄道の開通が大きい。これをシオに開発が進む。同著では「今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角かど、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟くぬぎの大並木の間からちらちらと画のように見えるころ」と記している。

 明治期の古地図を見ると代々木の谷はほとんどが自然のままで、いわゆる武蔵野であった。沢スジには小川が見える。これが芝川である。谷筋から流れてきた水を集めて、流れていた。これが田圃を潤していた。

「東京が日々攻め寄せる」と言ったのは徳冨蘆花だが、代々木あたりは真っ先に攻められた。宅地開発が進むと小川は責め立てられてたちまちに埋められる。その川跡をたどっても微かにドブの匂いがするだけでほとんど痕跡はない。


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2018年11月16日

下北沢X物語(3644)−代田北沢電車線文化論−

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(一)文化論はおもしろい、土地固有の匂いだからだ、が、嗅ぎつけられないとおもしろくない、嗅ぎつけて分かってくるととんでもなく楽しくなる。それで何時も聞かれる「なぜにここの文化を調べ始めたのか?」、もう数えきれないほど応えてきた。「前に自転車通勤していました。このときいつも足止めを食らったのが小田急線東北沢四号、交番前の踏切です。待っている15分がもったいない、ということで近辺をぐるぐる回ったのです、その時に嗅いだのはドブ川と鉄粉の匂い、それと路地の生活臭ですね」。ドブは地形と直結する、即ち沢地形だ、鉄粉は鉄道、電車は止まるときブレーキシューで車輪を締めつける。このときに鉄粉をまき散らす。前は駅構内の線路は鉄さびで黄色に染まっていた。上には井の頭線、下には小田急、鉄粉濃度が濃かった。路地にはカレーや焼き魚が臭った。この地域の特色は三つ、鉄道と沢と路地だ。近代の鉄道と武蔵野の名残の沢と路地。
 
レイモンド・ウィリアムズは『共通文化に向けて』(川端康雄 編訳 みすず書房 2013年)ではこう述べる。

 文化とは普通のもの−これをわたしたちの出発点としなければならない。あの地方で成長することは、一つの文化の形成と、その変化のさまざまな様態を見ることだった。


 文化とは格別のものではない普通のものだ。ごくごくありきたりのものがその土地で芽生え成長していく。大事なのはプロセスだ。これを文学にスポットを当てて論じるのは難しい。膨大な著作から書き手が成長する様を分析しなくてはならないからだ。

 しかし、このマチがどう形成されてきたか、変化してきたかはある程度は分かる。それは出発点がはっきりしているからだ。昭和2年(1927)4月1日だ。この日「新宿駅七時十五分発の開通祝賀電車」(小田急五十年史)が発車した。一番電車はヘッドマークをつけて装いを凝らしていたと思われる。
 神奈川県の方では各駅で盛大な祝賀行事が行われた。「花火打ち上げ、大神楽、浪曲、安来節や相撲」などだ。当地北沢、代田でも何らかの祝賀行事が行われたと思われる。

 とくに世田谷中原駅(代田駅)では何かの行事が行われたはずだ。土地柄が古いからここではだまってはいられなかったろう。地上駅の世田谷代田駅が地下化によって廃止になるときはやはり記念行事を行った。2019年度、世田谷代田駅に駅前広場が完成し、ここにダイダラボッチの足跡がモザイク模様で描かれる。わたしたちも準備会に入っているが三土代会による餅つき、神輿などが予定されている。開通日当日は花火の打ち上げがあって大変な賑わいだったのではないか。沿線にはゴザが敷かれ、そこに人々が待っていた。

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2018年11月15日

下北沢X物語(3643)−代田・北沢文化の源:研究大会の過程から−

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(一)北沢、代田の地域文化をテーマに研究会を開いてきた。今年は夏に第4回を開催した。「下北沢の戦後を語る」であった。「焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム」の発行がきっかけだった。会での発表を通して認識したことは、「屋根のある家で文化活動は育まれた」ということだ。戦災で焼け遺ったまちで文学、芸術、演劇活動などが始まった。雨露を凌げる空間がどれほど大事だったか。戦災と文化という切り口は我々に視点を与えた。我らがフィールドとしている鉄道交差部周辺には日本の近代文化が濃縮されている。吹きだまりとなったここには価値が価値づけられていない逸話が果てもなく埋まっている。今、第5回を計画している。今度は「世田谷代田の歴史文化」をテーマとする。北沢は近代が核だが代田は古代が入ってくる。当地に潜んでいる文化の源は何か。一つは、境界であり、一つは地形であり、もう一つは交通ではないかと考える。

 研究会は我らがフィールドワークしている場で開いてきた、第一回が北沢小、第二、三は北沢タウンホール、第四回目はカトリック世田谷教会、これらは下北沢の中心部にあたる。今回、第5回目は梅丘パークホールでの開催を予定している。

 北沢東端、北沢中心、そして今度は代田西端となる。北沢小から梅丘パークホールまでの距離はたった二キロだ。土地の起伏があるが、このたった2000メートルに濃厚な文化が土地の皺に埋まっている。

 北沢小のすぐ東は渋谷区だ。間に玉川上水が流れていた、掘り向こうは豊玉郡、こちらは荏原郡だ、つまりは境界に位置する。北沢小学校の男児にとっては掘向こうは異界だった。大きなお屋敷があって森陰の湧水池には小魚が群れをなしていた。目の青い外国人もここに住んでいた。もっとも怖かったのは幡ヶ谷の火葬場だ。
「戦後のことですね、掘向こうに住んでいる外国人が絨毯を抱えて通っていくのですよ。下北沢のヤミ市で売っていたみたいです」
 北沢東端に住む人の証言だ、この人、掘向こうはもう異界だったと。こちらからあちらへと流人がゆく。その一人は大空詩人の永井叔だ、こういう流浪の旅人が北沢小の音楽講師となって子どもらにマンドリンの弾き語りをしていた。
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2018年11月13日

下北沢X物語(3642)−瓢箪から駒:ダイダラボッチから菊田一夫−

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(一)長い間、ダイダラボッチを取り上げてきた。今日の記事のエントリー数は、3642回目だ、過去をさかのぼると04年10月1日に「だいだらぼっち伝説を求めて」とある。ここでは風景と伝説とを絡めて論じている。かつて代田の丘からは遠方の山々が望見された。富士、丹沢、秩父、筑波山などだ。これは巨人を想像するときの手がかりだった。それで古代代田人は天という空間を物語の素材に使ってきた。「代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうに吸っていました」(『改訂世田谷の民話』)もこの一例だ。現代でも富士や丹沢は見えるが建物が高くなっていてその存在感は薄い。ダイダラボッチ伝説も希薄になってきている。今回のダイダラボッチの有形化をきっかけにこの貴重な伝説をどう後世に伝えるか。「ミュージカルってどうかしら?」と準備会で。これは代田SAPの女性たち。

 伝承を劇仕立てにするのは賛成だ。やはり大事なのは人が面白がることだ。それでダイダラボッチ伝説をミュージカル風に仕立てる。
「代田小の子どもたちがやるんですから大勢が出られる方がいいですね」
 代田SAPは代田小の保護者やOBの会である。この学校には和太鼓倶楽部もある。駅前広場のお披露目のときも彼らの出演も考えられている。

 ミュージカル「ダイダラボッチ」、発想としてはおもしろい。緑の丘にダイダラボッチが出現する。さわやかな印象での登場も悪くはない。小田急が開通して当地は開けた。緑の木々の間に赤い屋根の家、そしてとんがり帽子の中原教会の塔……あの思い出深い『鐘の鳴る丘』が思い浮かぶ。

 緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台/どんがらどん/ダイダラボッチの足音が聞こえます……

 元歌は、菊田一夫作詞、古関裕而作曲だ。この二人、代田に居住していた。ところがこの話に関わることでことでびっくりしたことがあった。

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2018年11月12日

下北沢X物語(3641)−有形化されるダイダラボッチの課題−

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(一)2019年度内に世田谷代田駅前広場は完工する予定だ、ここにはダイダラボッチの足跡がモザイク紋様で描かれる。当地代田の語源はこのダイダラボッチから来ている。しかし一般的に誰でも知っている話ではない。密かに逸話として伝わってきた。が、今度はこのダイダラボッチが具体的な形としてデビューする。晴れの場、駅前に登場した彼は歌って行かなくてはならない。が、ダイダラボッチ本人は歌わない。デビューさせたら私たちが歌っていかなくてはならぬ、つまりは、ダイダラボッチ、巨人伝説の継承である。

 柳田国男は「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地」(『ダイダラ坊の足跡』)だと述べた、彼自身、実踏をして当地に足跡の痕跡をはっきりと認めた、まさにその中心地が代田である。その駅前広場に巨人の足跡をかたどった大きなモザイク紋様が出現する。

 私は全国の鉄道線は大体乗っている。各駅ホームには白い鳥居型の案内板がある。「ダイダラボッチ・巨人の足跡」下車駅などと書かれた看板は見たことがない。全国でも珍しい駅となるだろう。その新装される駅のオープン時には地域でイベントを行う。その準備会が動き始めた。餅つき、神輿、和太鼓演奏などが候補として挙がっている。ハレの場は賑やかな方がいい。

 が、大事なことはハレの次ぎにはケが巡ってくることだ。準備会に出席していた区の関係者からは、一回こっきりではなくて未来に繋がっていくといいと。そうだ、形を作ったらこれを伝承していなかくてはならない。他に類例のない名所ダイダラボッチは由来、歴史を継承していかなくてはならない。

 ダイダラボッチの根源を溯ることは困難である。何しろ話が古いからだ。が、まず開村から始まる。『世田谷の地名』、所収の「代田略年表」には、1590年、天正18年に吉良家の家臣だった七家、いわゆる代田七人衆が帰農して開墾を始めた。が、代田という地名はすでにあった。「この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)」(『ふるさと世田谷を語る』代田など)とある。

 記録は永禄12年、約450年ほど前までは遡れるが、これ以前は分からない。しかし、あるとき忽然と地名ができたわけではない。当地に、巨人の足跡があって人々はそれをダイダラボッチと呼称してきた。言い伝えは500年程度のものではなくて1000年ぐらいは遡るだろう。

 その理由は、ダイダラボッチと言われているところには必ず古蹟があることだ。つまり旧石器や縄文などの痕跡である。
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2018年11月10日

下北沢X物語(3640)−文化地図改訂八版に向けて−

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(一)「下北沢文士町文化地図」と銘打って2006年12月以来、これを改訂しながら発行してきた。現在のは改訂7版だ。(2013年3月)初版からの総発行枚数は6万部となる。これは下北沢鉄道交差部を中心とした文化地図である。毎年変化が激しい、これまではその都度、新しく見つかった作家旧居や文化関連旧跡を入れ込んできた。過去は過去で我々が生きてきた証として記録しておく必要がある。記録したことで歴史への関心が深まった。ダイダラボッチの跡、帝国音楽学校跡、店員道場跡、映画館跡などだ。2019年度に世田谷代田駅前に広場ができる。ここには念願のダイダラボッチの足跡が描かれる。これを機に動作が鈍くなった地図ソフトを入れ替え、新しいのにしたい。そのためには旧来の地図に載せていた痕跡をすべて閲する必要がある。完成すればまちの基礎資料となる。改訂八版に向けた意気込みだ。

 世田谷代田地区では駅前広場が完成し、下北沢とつながる遊歩道もできる。地図にはこれを記すつもりだ。遊歩道がかつての代田連絡線後を通っている。今日、北沢タウンホールで広場開園記念行事に向けての準備会があった。
 ひとしきり、代田連絡線で盛り上がった。そんなことからぜひ「代田連絡線」の案内看板の設置をしてほしいと要望したことだ。

 地図には新しくできる施設は記録される。が、消えていったものも大事だ。それが文化的に関わるものであればなおさらだ。現在地図に記録してほしいと要望が出ているのは、ジャズ喫茶「マサコ」だ。長年当地にあって文化発信を続けてきた店だ。これは地図に記録したい。今までは痕跡は載せていたが存続期間は載せていない。マサコは1953〜2009だったという。下二桁の年号ぐらいは載せられないか。


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2018年11月09日

下北沢X物語(3639)−夢か悪夢かリニア新幹線−

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(一)国中の空気が淀んでいる。天災続きもあるが一番は民意がないがしろにされているからだ。辺野古の工事再開、四十年超の原発再稼働の認可など次々に権力側が人々を圧しはじめている。一私企業が国家の後押しを受けて、超大工事リニア新幹線を推進している。これも十分な説明もないままに工事が強行されている。先だっての講演会の後、各地市民団体から実情の報告があった。共通していたことは、JR東海の誠意のなさだ。見通しなど十分に住民に説明がないままに工事は始まっている。各地で深刻な問題が起こっている。夢の新幹線は、悪夢の新幹線だ、報道はこれによって起こっている深刻な問題を取り上げない。今、市民が自由に空気を吸ったり、考えたりすることが窮屈になってきている。下手に反対すると叩かれる、そんな風潮すら感じられる。

 長野県大鹿村の例が報告された。ここは、南アルプストンネル工事の長野県側坑口である。この大鹿村では現在、二つの非常口(作業用トンネル坑口)で火薬による発破掘削が進行している。
「もう四六時中、発破の音がしてすごいのですよ。『ドーン』と雷のような音がして家が揺れるのですよ。平和だった村が戦場になったよう」

「発破が始まると、風呂場の床がひび割れたり、家の石垣が崩れたりしているんですよ。被害は訴えているんですが認めてくれないんですね」

「工事車両を通すための道路が土砂崩れで通れなくなったのですよ。そうすると村の狭い道路にダンプが入り込んでくるのです。これがすれ違えないのですね。通勤とか通学とかにさしさわりが出ています」

 大鹿村には中央構造線が走り、赤石構造帯などの多くの活断層があるとのことだ。
『総点検・リニア新幹線』(リニア・市民ネット・編著 緑風出版 2017年)にはこうある。

 このように活断層もあり、残土捨て場もない谷間に、実際山体が崩壊して大災害を起こしている地域、その大鹿村にトンネルを開けてしまうことは危険極まりなく、日本一美しい村の景観も壊してしまうことでしょう。
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2018年11月07日

下北沢X物語(3638)−リニア新幹線は本当に安全か2−

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(一)中央線笹子トンネル西口には「代天工」という扁額が掛かっている。「天に代わって工事する」、主語は明治の鉄道技術陣だ、「私どもが偉大なる天に代わって隧道を掘り奉ります」。自然を敬う思いが見られる。笹子トンネルは、4,656メートル、一方 南アルプスを貫く長大トンネルは20キロもある。リニア技術陣はどれほどに天を敬っているのか、ここには地震の巣となる多くの活断層がある。トンネルはこの地震に耐えられるか?また最も危惧されるのは掘ったときの膨大な残土(掘削土)をどうするのか。自然環境を破壊しないで処理できるのだろうか。知れば知るほど疑問が生じてくる。

講演をされたのは地震学者の島村英雄先生だ。「高速鉄道のトンネル……地震の危険性」という題で話された。5月に17日に行われたJR東海の、「中央新幹線品川・名古屋間における大深度地下使用の認可申請に関する説明会」では、「地震への対応方針」としてはこうあった。

・トンネルは、地盤に追随して揺れるので
 地表構造部に見られる振動の増幅が生じません。
 また、一般に、地震の揺れの大きさは地下深くなるほど小さくなる傾向にあります。


 私たちの認識としては地下は地盤と一緒に揺れるので揺れは地表よりも少なく、むしろ地下だから安全だという会社側の説明を鵜呑みにしていた。が、トンネルは決して安全ではないことを知った。その例示として丹那トンネルの話をされた。

◊丹那トンネルは、丹那断層というA級の活断層があって知らずにこれを貫通していた。
◊おびただしい出水が生じ芦ノ湖の水量の三倍にも達した。
◊トンネル上の盆地には渇水が生じ不作の被害が生じ一揆までおきた
◊工事中にこの活断層が地震を起こした。


 因果関係はわからないが工事によってひずみが生じたのかもしれない。
 が、ショックだったのは、「掘削中のトンネルが2,7メートル近くも左右に食い違ってしまった」とのことだ。

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2018年11月06日

下北沢X物語(3637)−リニア新幹線は本当に安全か?−

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(一)近代の論理とは何か、よく分からないことがあってもあたかも分かっているかのように説明することではないか?南アルプスの断層に長大トンネルを掘ってリニアを通そうとしている。施行側のJR東海は「安全」だと説明している。が、地震学者の講演を聴いて、「安全かどうかはよく地球と相談してからでないと回答できません」というのが本当のところではないかと思った。地震はいつどのようにしてどこで起こるか、そのメカニズムは分かっていない。地中深くリニアは通るから大丈夫だと回答しているがどうもそうではない。最も危惧されるのは大規模工事によって起こされる、自然環境の破壊だ。市民の一人として見過ごせない。

日々荏原を逍遙している。この地域をリニア新幹線が通るということは聞いていた。どこを通るか分からなかった。そんなときにフェイスブック友からこの説明会があるとの情報を得た。5月17日に奥沢小学校に聞きに行った。「大深度地下使用の認可申請に関する説明会」だ、着工を前提としたものだ。疑問が噴出したが聴衆は十分に納得したとは言えない。超巨大大工事への疑問は拭えなかった。

 このとき配られた資料によってコースが分かった。日々歩いているところだった。昨日も行った。自宅前の遊歩道を南下する、目黒線にぶつかるがここを地下道でぬける。地表には小さな公園がある。保育園児のたまり場だ、そこでおじいさんが園児に構っていた。
「あのねえ、君たちこれからが大変だよ、私はね、75年間苦労してきた。人生は大変だ、問題はこれからだよ、いいか覚悟しておけよ!」
 孫に小判?、園児たちはポカンとしている。保育士の先生は苦笑していた。これまでを生きてきた人、これからを生きる子との出会いだ。これからが大変は、よく分かる。多くの大問題が先送りされてこの子たちの肩にのしかかってくる。問題は、巨大工事での失敗は責任は誰も責任を取らないことだ。担当者が職務についている期間だけ無事であればよい。後は野となれ山となれだ。

「あんた、平日は大変だよ、中間貯蔵施設に除染した土を運ぶんだけど道はダンプで一杯だよ。三十年であれをまた県外に運ぶって、それはどう転んでも無理だよ」
 先だって福島県白河市に行ったときに地元民から聞いた。お互い無理と分かっていながら空約束をする。恐ろしい現実だ。
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2018年11月04日

下北沢X物語(3636)−文士町の陰翳と城ヶ島−

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(一)文化は固有的だ、鉄道交差部には鉄粉が匂い、浜辺には潮の香りがする。前者は都会的なきな臭さだ、これを嗅いでいると海や山が思われて、人はさすらいの旅に出たくなるのかもしれない。文化の日、城ヶ島を訪れて、我ら文士町の根源に触れたように思った。当地で出会ったのは北原白秋と宮柊二だ。文士町との繋がりが濃厚な歌人である。

「白秋先生は、一所に腰を落ち着けないで転々としておられたでしょう」
 城ヶ島白秋記念館の管理人の女性は言う。
「世田谷でも転居先が二箇所ありますね、若林と砧」
「そうそう最後は阿佐ヶ谷でしたね……今日は残念ながら曇っていますけど、この西、ちょうど真正面に富士が見えるのですけどね」
「ああ、じゃあ、そこに建っている碑は富士を向いているのですね」
 野毛山古墳に埋められた埋葬者は富士を向いていた、歌碑も霊峰を向いて建てられるようだ。
 白秋は大正二年(1913)に一年あまりこの三浦三崎に居住する。日々海岸から富士を見ていた。このときのことが詠まれているのは『雲母集』(きらら)である。ここに「不尽抄」として数首富士を詠んでいる。

わがこころ麗(うら)らかなれば不尽の山けふ朗らかに見ゆるものかも


前年の明治四十五年人妻と恋に陥り、その夫から姦通罪で告訴されるというスキャンダルを起こしていた。富士を眺めることで気持ちがほぐされたものだろう。

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白秋碑は、砂浜に建っていた。「城ヶ島の雨」が刻んである、根府川石で彼は、「帆型の石が荒磯に突き差したように」との希望があったようでそれを形にしたものだ。

雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる

 歌碑を見ながら思ったことは、さすらい人の歌ったものだと思った。住んでいる人にとって雨が降ったとしても格別な感慨はない。が、エトランゼにとっては詩であった。

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2018年11月03日

下北沢X物語(3635)−近代日本カダンス文学論−

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(一)日本人の近代の情調を築いてきたのは汽車のカダンスだ、旅人の哀しみを、喜びを刻み、そしてまた欲情を喚起させもした。しかし、音律ははかない、たちまちに消え去る、汽車の響きのその音韻史を提起するものだ……

 音ほどはかないものはない、発生したとたんに消えて行く、時代時代には固有の音があった。物売りの声、ゲタの音、荷馬車の音。が、これらは記録されない。音にまつわる話は時代の闇に消えていくばかり、その一例だ、松本浅間温泉に疎開した学童は夜になって遠汽笛と微かな汽車の響きを聴いた、山の遙か向こう東京には父母がいる。上りはそこへ向かっている、音を聞きさして哀しみがこみ上げてくる。上級生は肩をさすって下級生を慰めた。汽車の音は遙かの父母を思わせる。

 幾多の音物語が編まれ、消えていったろう。それでも文学作品端々にはひっそりと音が記録されている。『東京に近づく一時間』という作品がある。その一節だ、「睡っている連中が多い。それだもんで、喋っている一組の男の声だけがさっきから、車輪の響きや短い橋梁をわたるゴッという音の合間に私のところまで聞えて来るのである。」。三等車の床下から絶えずカッタン、トッタンという響きが聞こえてくる。子守歌は大人まで眠りに誘う。情景が浮かんでくる。

 座席の青いモケットを陽が過ぎていく、車内に漂う薄青い煙草の煙、そして鼾、そこへ牛乳瓶が床を転がる、と、グワグワと音が響く、短い橋を渡る音だ。雑然とした車中で一組の男の対話だけが聞こえてくる。カタカタ、トンタンというカダンスがこれを際立たせる。旅の情調をこれが刻む、宮本百合子が記録した汽車の音の破片だ。

文学作品には汽車の響きが描かれる。が、総じてそれは男性の書き手だ。が、一人宮本百合子は別格のように思われる。しばしば味わい深い鉄道場面を描いている。『播州平野』は、その一つだ。
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2018年11月01日

下北沢X物語(3634)―会報第148号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第148号    
           2018年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、代田の呼称は「ダイダ」

 2019年度には、世田谷代田駅前広場が完成し、ここにはダイダラボッチの足跡のレリーフが完成するという。それで俄然、我らの会でダイダラボッチ熱が高まってきている。これに触発されてダイダラボッチ伝説のある場所を調べた。
 ダイダラボッチに関しての論考は、『ダイダラ坊の足跡』である。柳田国男が昭和二年に書き表したものだ、彼は世田谷代田に残っていたダイダラボッチの足跡を実際に訪ねて調査をしている。二番目に訪ねたのが野沢にあるダイダラボッチである。これは現在の鶴ヶ窪公園のある場所だ、沢のどんづまりになっていて池がある。現在は循環水が使われているが当時は水が湧き出ていた。この水を守るために弁天様が祀られていたが今もなお現存する。
 大正年間にこの脇を通り掛かった武蔵野会の会員鈴木堅次郎氏はここのことを「ダイダクボ」と記録している。漢字表記では「代田窪」と書く。さいたま市には「太田窪」という地名が今も残っている。やはりこのダイタクボもダイダラボッチ伝説から地名は生じているとのことであった。しかし、地元の人に何人にも聞いたが地名がダイダラボッチに基づいているということはほとんどが知らなかった。
 次ぎに訪れたのは、石岡市だ。ここに代田という地区がある。この読みは「ダイダ」である。みんな「ダイダ」と言う。やはりここもダイダラボッチから地名は来ている。伝説によると代田地区にダイダラボッチの足跡があったらしい。
 ここでは大きな特徴がある。毎年、ワラや杉の皮で作った大人形を作る。これを村の辻に立てる風習がある。市作成の資料によると、「天明の大飢饉の後、疫病などの災厄がムラに侵入しないように、藁製の大きな人形を立てるようなったのが始まりと伝えられる」とある。この人形をダイダラボッチと称している。
 今も三つの集落でこの風習が続いていて、行くと辻にこれが飾ってある。このことは近隣の人はよく知っている。代田がダイダラボッチから来ていることも多くが知っていた。しかし、農村地帯であるこの地域は人口が減少してきている。それで去年まではダイダラボッチも四体が作られていたが今年は一つ減って三体になったそうだ。ダイダラボッチの伝承も次第次第に消えつつある。

 世田谷代田駅前にダイダラボッチの足形のレリーフが作られる。このことから自身ネットでは連続してこの話を書いている。これを読んだ谷亀緑郎さんから「先先代の当主の斎田平太郎氏が平素代田のことを『ダイダ』と言っていたという」という情報を得た。非常に興味深く思ってこれを調べたことだ。茨城県石岡市の代田はやはり「ダイダ」だった。ダイダラボッチを由来としていることからである。

 世田谷代田は、ダイタと今は読んでいる。が、これはこう呼びましょうと決めたからであって、たまたまそう呼んでいるに過ぎない。茨城県の代田は、地名由来に基づき「ダイダ」と言っている。世田谷代田もかつては大斎田家の当主、この人は当地の歴史に詳しく、円乗院遺跡のことについて論考を書いておられる。根拠あって「ダイダ」だと言っておられたのであろう。
 この地名に関して調べると色々とおもしろいことが分かってきた。「代田橋」は、ダイタバシと読むのが読みにくい、代田+橋という連語の場合はどうしても濁ってくるようだ。代田橋のマンション名は、「ダイダ橋」と呼んでいる建物が多くある。
 代田大斎田家の前に歩道橋がある。ここの橋の名前がおもしろいよと邪宗門のマスターの息子さんに言われていってみた。「だいだみやまえほどうきょう」とあった。何のこともない、今も人によっては「ダイダ」と濁って言っている人が結構いる。
 ダイダラボッチが地名の語源だとすると「ダイダ」が正しいのだろう。

地名の由来については、「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成9年3月発行)」にはこうある。

この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は、「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから、大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し、「だいた」になったというものです。

2、戦争経験を伝承する会

 私達は、毎年「戦争経験を聴く会語る会」を開いていた。今年で11年目となる。が、あの戦争から73年も経った。体験者はいなくなり、戦争も遙か遠くになってしまった。しかし、戦争の緊張は今も続いている。あの戦争を忘れないでいることは我らに必要なことである。これからも継続したい。
 しかし、通常の方法では困難になっている、経験者がいない。それでこのところ歌をうたったり、劇を行ったりしている。つまりは戦争第二世代が、戦争伝承をするようになったということだ。伝承に第二世代が加わって戦争を伝えていくことは大事だ。
 それでこれまでは「戦争経験を聴く会・語る会」としてきたが、これからは名称を変更して「戦争経験を伝承する会」にしたい。来年は第12回を開く。

3、実験オペラ反省創作会

「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」の公演は無事終わりました。課題は、戦争をどう伝承するかだ。先だっての公演を踏まえて今後どうするか。楽しく語り合いたいと思います。
 打ち上げを兼ねた「実験オペラ反省創作会」を開くことにしました。飲んだり、食べたりしながら今回の実験を今後にどう生かすか、楽しく語りたいと思います。
なお、この会は戦争伝承を歌や朗読で行う、音響のいい教会を使って行おうというねらいもあります。
 興味ある人は参加できます。
・今後公演をするに当たってどんな工夫が必要か。
 参加された方々の意見はぜひ聞いておきたい。
・今回はカトリック世田谷教会の協力で戦争伝承ができた。この伝承を伝えるための工夫。 市民が参加して表現して伝える。さまざまな伝承の方法を考える。
〇開催日
 11月23日(祭日) 17時から世田谷カトリック教会食堂で
〇会費 1000円 飲み物、つまみなどの差し入れ大歓迎 ゴミは持ち帰る。
 申し込み先 きむらけんへ なるべく早めにメールなどで


4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。


第145回 12月15日(土)13時 笹塚駅改札前
案内人 赤坂 暢穂(のぶお)さん 森厳寺川を歩く
森厳寺川は北沢中学辺りを源流とし、代沢小の東で北沢川に合流している支流です。ひっそりと流れている川ですが、沢山のドラマが眠っています。北沢四丁目に住む赤坂さんは子どもの頃から慣れ親しんできた川です。この昔の姿を彼の案内により辿ります。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

5、まちあるき検討会

 忘年会が行われるが開始に先立って短時間、話し合いを行いたい。
 ・関係者で集まって企画会議みたいものを行い。そこでコースや案内者を決めていくこ  とにしたい。毎回は大変なので年二回ぐらい行う。
 ・極力地域にシフトしていく。つまりは世田谷地域だ。が、格別関心の深い地域につい  てはこだわらない。水系、玉川上水、三田用水など
 ・一箇所に絞って、そこを集中して歩く、研究会的なもの。
この件は、忘年会で冒頭で若干議論してもらえたらありがたい。今回12月までは載 せている。前に松山信洋さんに品川宿を歩くを頼んでいたので 一月はこれでよいので はないかと思う。

6、北沢川文化遺産保存の会忘年会

 期日 12月1日(土)
 場所 北沢タウンホール三階ミーティングルーム
 時間 17時40分から *一品持参 オークション品も
 会費3000円 「祝!創立14周年」弁当
  アトラクション ロス・コンパニェロス再度登場
*申し込み締め切り11月28日(水) 弁当を信濃屋に発注する。


申し込みは 連絡幹事の米澤邦頼へ 090−3501−7278
または、きむらけんにメールで k-tetudo@m09.itscom.net
◎会場は公共施設でゴミは自団体での処理が義務づけられている。これまでは一部の人に負担を押しつけていた。基本、ゴミは持ち帰ることにしたい。協力を。

■ 編集後記

▲ 漆の玉手箱展 当会会友の矢花克己さんの知人伊藤猛氏が羽根木で個展を開くとの案内。世田谷区羽根木1−21−27 Wasabi-Elisi+atolyeB  期日10月24日(水)〜11月5日(月) 時間11:00〜17:00 主催者の伊藤猛さんは漆で五輪メダルを作っておられる方で、その展示もされる。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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2018年10月31日

下北沢X物語(3633)−抒情的機械音の喪失と日本人−

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(一)明治150年という、近代日本が動き始めての経過時間である。劇的な変化は鉄道の開通によって起こった。西欧で生まれた汽車が日本でも走り始めた。その出現は驚異だった、ところがこの汽車旅もすっかりと日常化してゆく。この中で無意識裡に築かれたものがある。機械という汽車は走る、この時に音を発する、律動音である。我々は長い間この音に耳を傾けてきた。無意識裡にこれが定着してしまった。が、この音こそ旅人の抒情性を深めていた。1945年5月25日に山手大空襲があった。荏原区尾山町で家を失った星野淳代さんは汽車で田舎に帰る。「春の遅い東北の野は緑であった。夜明けの空気が冷たくさえ感じられた。何年も味わったことにない心地よさ。カッタン、コットン、小さな汽車はやがて駅へ運んでくれた」(『東京大空襲・戦災誌』2)と。彼女は耳に響く律動音を聞いて心底安心した、機械が放つ音、カダンスだ。郷愁音だ、これが我々の精神生活を刻んでいた。が、このことを我々はすっかり忘却してしまった。抒情的機械音、音楽は我々の心の歴史を刻んできたものだ、というのが私の主張だ。

 幼少時から汽車は憧れだった。これを遠望していた、鬼灯色に染まった上りの列車が去ってゆく、赤い尾灯がすうっと夜消えていく、その向こうにある世界を思って心ときめいた。自閉症の私を可愛がってくれた兄がいた。その彼が上りに乗って去っていく。その別れの寂しさを描いたのが『走れ、走れツトムのブルートレイン』だ、これによってようやっと童話大賞を得た。自身の経験を描いたものだ。

 汽車に乗ってぼんやりと車窓を眺めることを無上の楽しみとしていた。「廻り灯籠の絵のように」車窓がめくられていく。このときに必ずついてまわったのが、「カッタン、コットン」だ、音楽的響きを持ったカダンスである。誰もが聴いてきた音律である。が、この音は皆違って聞こえた。折々の気持ちが、その音に色づけをしていた。ジャズに、ノクターンに、セレナーデに……

 人々はカダンスを自分流に聞きなしていた。それは音の調子が一律だったからだ。それはレールの長さと関連する、いわゆる定尺レールというものだ。機械的に扱い易いということで25メートルと定められていた。これによって音律が決まってくる。この音を計測すると速度が分かった。

 線区によって音には固有性があった。幹線や支線、それぞれに違っていた。汽車が走り始めたころは単車、四つ車だった。それがボギー台車に変わる、二軸ボギー車になると「カタカタ、コットン」と変わっていく。この音楽リズムは、深く深く我々の心に刻まれてきたものだ。

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2018年10月29日

下北沢X物語(3632)−秋のんびり喜多見探訪行−

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(一)
江戸という地名は誰もが知っている。この地名は、江や川を言い、戸は入り口を意味する。つまりは「江の入り口」である。喜多見は一族の名である、前は江戸を名乗っていた。江戸郷を領して江戸を興した。その居城が江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上であったとされている。武蔵野台地の東端だ、ここの城からは江戸湾の入り江がよく眺望できたろう。ゆえにそこを江戸郷と名付けたのか。後になってここに徳川家康が江戸に入城してくる。彼の家臣となった江戸氏は喜多見に所領を与えられ姓を江戸から喜多見に改めたという。眺めのいい場所、見張るにもいい場所を取り上げる、その場合、貧相な、地味の痩せたところは与えられない。古くから人が住み、地味も豊かで作物もよく獲れる喜多見の地が与えられたのではないか?、

私達は、氷川神社を見たあと隣接する慶元寺に行った。ここに江戸氏の墓があってこれに詣でた。地味な墓である。それには理由があった。wikiにはこう記される。
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 勝忠から数えて3代目の喜多見重政は徳川綱吉の寵臣として旗本から累進し、天和3年(1683年)に譜代大名となった。江戸郊外喜多見の地に1万石(のち2万石)の喜多見藩を立藩、初代藩主となり、築城すら許されその費用を綱吉から与えられた。貞享2年(1685年)には側用人となるなど綱吉の寵愛は深かったが、城の完成を見ることはなく元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(改易の原因は不明)。

家臣達は改易によって帰農した。香川家はその一つだという。池田さんの墓も江戸氏のすぐ近くにあることから帰農した一人ではなかったかという。

 慶元寺には多くの墓石が林立している。この寺は、「江戸城内紅葉山に開基した江戸氏の氏寺」(『喜多見散策案内』)だったという。その墓は、多くの物語を生きてきた人だろう。まさにここは、「大都会の生活の名残と田舎の生活との余波とが此処で落ち合って、緩やかにうずを巻いている」(国木田独歩『武蔵野』)ところだ。


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2018年10月28日

下北沢X物語(3631)−喜多見探訪行:古代と近代との遭遇−

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(一)第143回のまちあるきは「喜多見を歩く」だ、地元農家の池田あすえさんが案内してくれた。当地の歴史は古い、遺跡地図で見ると一帯はまっ赤な色掛けがしてある。石器時代、縄文時代、そして古墳時代の古墳も随所に残っている。この土地の生産性が豊かであったことが分かる。現実の景色の中にもこれが現れている。しかしここにも時代の波が押し寄せている。糟屋に住んだ徳冨蘆花が「東京が日々攻め寄せる」と書いている。巨大都市が近郊の農村部をどんどん飲み込んでくる恐怖言ったものだ。喜多見もまた同じだ、「畑地がたくさんあったんですけどね、それがどんどん少なくなっていくのですよ」と。それは風景の喪失だ。国分寺崖線に古墳発見との報を得て訪ねた。ここの魅力は崖線の緑だ。ところが自然豊かな野川が高いフェンスに覆われていた。崖線ラインはもう全く見えない。東京外郭環状道路のジャンクションがここに作られている。工事中に遺跡が出たというので池田さんの誘いで二度訪れた。が、景観は一変していた。美しい農の風景が喪失していた。ここでも巨大工事が始まっている。いわゆる大深度工法で地下深くを掘っている。同じ工法で工事を推進しているのはリニア新幹線だ、奥沢小学校で説明会があった。当局者は絶対に安全だと言った。そのとき会場の一人が、「原発と一緒だ」とヤジを飛ばした。巨大工事、施行側は「安全」だというが、狼少年がいうことばと一緒だ。思うに国家総体のビジョンがなく次々に金目スジの施策を繰り出している。不安が先に立つ。この国は大丈夫なのか?

喜多見駅前広場からの出発だ、ここにはハロウィーン衣装に着飾った小さな子どもたちがたむろしていた。すっかりこの国に定着してしまった。
 先だって、ダイダラボッチの痕跡を茨城県石岡市に訪ねた。当地の代田ではダイダラボッチという大人形を作る習慣があった。ところが農村の過疎化でこれも廃れてきているという。

 ハロウィーンは完全な外来文化だ、儲けスジの外国物にすぐに飛びつく習慣が国民にはあるのだろう。自国の文化を顧みないで、上っ面の雰囲気に流されているように思われる。
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2018年10月26日

下北沢X物語(3630)−戦禍と文化:三軒茶屋と下北沢−

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(一)『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』は、今年3月31日に発行した。が、半年余で五千部がなくなった。それで増補版2版を作った、来月には事務局で配布することになろう。人気があったのはなぜか、それは人々の熱い郷愁があったからだ。まちが焼け遺ったゆえに戦前から続く空気感を視覚的に確認できる。萩原朔太郎は下北沢すずらん通りをふらふらしていた。その道と建物とがそっくりそのまま残っている。詩人は代表詩集『氷島』に「新年」と題する詩を載せている。「新年来り/門松は白く光れり。/道路みな霜に凍りて……」と続く。昭和七年一月一日に読んだものだ、『アルバム』にはその道路がそっくりそのまま写っている。まちの雰囲気や佇まいなどが当時と寸分違わず残っている。現実の家並みには往時そのままの建物も残っている。文化は継続し踏襲して残っていく。下北沢というまちの多くが焼け遺ったから芸術文化も戦前、戦中、戦後と伝わった。下北沢文士町が隆盛したのはまちが焼けなかったからだ。

 三軒茶屋や太子堂が空襲によって焼けたのは、当地に軍事施設があったからであろう。この南に駒沢練兵場や野砲兵聯隊があったからだ。これらが襲われたさまが昭和22年の航空写真で見られる。大山街道、現国道246に面した近衛野砲兵聯隊は消失している。が、その後方にあった野戦重砲兵第八聯隊と野砲兵第一聯隊の兵舎は残っている。

 昭和20年5月25日、深更にB29の大軍がここを襲った。世田谷区太子堂町二七八番地から見ていた十四歳の中学生片野君はこう書いている。

 寝てすぐだったので11時頃だと思う。やはり不気味なサイレンに起こされて外に出てみると、月夜に照らされてB29の編隊が東南から私達の方向に進んで来るのが見える。高射砲弾が敵機の周囲で炸裂する。不気味にも凄まじい落下音を発して空気を引き裂き、小型焼夷弾が落下してくる。
  「東京大空襲・戦災誌」第2巻 1975年


 当日、太子堂を襲ったB29の編隊は東南から侵入してきた。東京湾方向からである。各機にはあらかじめ焼夷弾投下地点が指令されていた。ノルデン式爆撃照準機は精巧であった。決められた箇所を正確に爆撃できた。が、風の影響は避けられない。目標として
野戦重砲兵第八聯隊と野砲兵第一聯隊を爆撃するはずだった。南風が吹いていて焼夷弾はここに当たらなかった。ということは順次投下範囲が北にずれた。実際、太子堂の北部に位置する北沢などには流れ弾が飛んで来ている。が、流れ弾ゆえに散発的で大事にはいたらなかった。

 季節は五月末だ、季節風は南から吹き付ける。ここがポイントだ。山手空襲は、各機に絨毯爆撃をするように指令していた。が、代々木大山町辺り一帯は爆撃しないように指令が出ていたらしい。米軍は戦後に備えて、代々木練兵場に近い邸宅街の爆撃は避けた。北沢地区が標的にならなかったのは南風で弾が流され邸宅街を焼く危険があったからからだろう。
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2018年10月25日

下北沢X物語(3629)−戦禍と文化:Y&X−

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(一)何気なく寝返りを打ったときに直感が働いた。「YとXの文化の根源には戦禍の作用がある!」と。そう思った瞬間、足がうずく。現場を見ないといけない。地域には土霊が今も残る。確かめないといけない。昨日、YからXへと実地検分をした。まずはY、三軒茶屋で電車を降り、太子堂へ。第一幕は「富士見湯」前劇場だ、「空襲か、おれんところは池尻、ひどかったよ」、もう一人は「おれは下代田だ、やっとのことで焼け遺った!」。一番湯を浴びに来たおじさんたちからは土が臭う。第二幕は、「下北沢亭」だ、こちらは「りりすの会」の本物の劇だ、小劇場は超満員だった。焼け遺った北沢の一角がお座敷劇場として使われたことを連想した。Yは焼けて屋根がなかった。Xはこれがあった。文学や芸術は屋根の下で営まれる、焼ければ作品は灰燼に帰する、戦禍のあるなしが文化に大きく影響してくる。YとXとの文化比較に深く関わる事項だ。

 Yは文字通り分か去れ、追分だ、大山道と富士道(世田谷・登戸)とが分岐する地点だ。古代からあった道だ、ここに覚志郷(かがし)があったとされる。かがしの語源は輝くからきていて、それは星だという。北斗七星をあがめる土俗信仰を持った部族がいた。が、これは大和政権の東進によって滅ぼされたという。(『世田谷の地名』上)つまりは早くから開けていた地であることだ。Xよりも深い歴史がある。YはXに隣接している。それで調査はしている。が、近代文化、詩歌や散文の詠み手はXに多い。Yは著しく少ない。これは震災と戦禍とが影響している。
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 灰燼に帰するとすんでの所で残ったというのは違いが大きい。前者は壊滅であり、消失である。作品や記録などが一切失われる。
 詩人の福田正夫は大原に住んでいて戦禍に遭った。彼の息子の福田達夫は「戦争が終局近づいた二十年の五月二十五日、家は焼けてしまった。震災以来、蓄積した二万からあった書籍も焼けて煙になった」(『追憶 福田正夫』 冬至書房新社)と記す。作品づくりの種ともなる書籍も、自分の書きためたものも一切が消失する。

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2018年10月23日

下北沢X物語(3628)−Y(三茶)とX(下北)の文化比較−

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(一)
 地図配りは最高の文化活動だ、もらった人が刺激を受けて新たな情報をもたらす。地図が過去という畑を耕してくれる、これによって多くの情報を得ていた。が、これは下北沢の話で、三軒茶屋では通じない。反応が鈍い。先日、21日、日曜日、世田谷アートタウン2018 『三茶de大道芸』があった。関連行事としてパオフェスタが行われた。キャロットタワー3階の市民コーナーが展示会場となった。我ら、北沢川文化遺産保存の会は、お店を出した。が、客層ではミスマッチだ。我らの本拠地はXだ、が、ここはYの町。XとYは鉄道の形状を示す、小田急と井の頭とが交差する下北沢をXとする。Yは鉄道が分岐する駅三軒茶屋である。両町は相互補完の関係にある、仲を取り持っているのは茶沢通りを走る下61、北沢タウンホール行きのバスだ。常日頃利用しているが、YとX間の乗車率は高い。Xには日常生活を支える店が少ない、それで買い物にYまでやってくる。物価も安い。野菜と果物の廉売をしている「フルーツ&ベジー太子堂村」には毎日長蛇の列ができている。

YとXの町の文化比較は興味深い。交通や地形が関係してくるからなおおもしろい。「極貧貧乏」と「贅沢貧乏」という観点での比較もできる。前者は三軒茶屋領域、後者は下北沢領域だ。この具体的な距離は、直線距離ではわずか438メートルである。「極貧貧乏」は林芙美子が住んだ場所だ。彼女は『放浪記』の中でこう書いている。

 梟の鳴いている、憂欝な森陰に、泥沼に浮いた船のように、何と淋しい長屋だろう。屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。


『放浪記』は、「女人藝術」に連載された。それは「1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号」である。昭和初期の太子堂での生活を述べている。
 「屍室」は、すぐそばにあった陸軍病院の死体安置所、「墓地」は円泉寺の墓場である。昭和に入って急速に開けた場所だ、要因は、1923年(大正12年)9月に起こった関東大震災である。被災民が多く流れ込んできた。当時の交通機関は玉川電気鉄道だ、三軒茶屋を中心に人々がなだれ込んできた。建て増しに建て増しを重ね、竹の子栽培の畑はたちまちにバラックが建ってしまった。太子堂界隈は今でもその名残がある。家々がびっしりと建っている。
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2018年10月22日

下北沢X物語(3627)−秋の日の熱い文化論、風景論−

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(一)土日は会合で多くの人と出会った。文化を、風景を、人生を語った。「文化は人との関係を耕すことだ」と思った。五十歳を過ぎると人との関係性が冷え込む、するとどんどん孤立化していく、人間は関係の動物だ、コミュニケーションが不足すると年老いて活力を失う、が、文化に関心を持てば人生が違ってくる。大事なことは面白がることだ。大学生と小学生をけしかけた。まず保育士志望の彼女に、「どんな話をすれば子どもを面白がらせることができるか、それを常に考えて、思いついたら抽出にしまう、子どもに向かって話すときにそこから一つ取り出して、『みんな聞いてとんでもないお話があるんだよ』といって話しだす。子どもの目がキラッと輝いたら成功だよ」と。昭和女子大附属の小五には、「いいかい?鉛筆で字を書くだろう、すると手の神経が脳に伝わるんだ。繰り返し使うと神経のパイプが太くなっていくんだ、言葉をどしどし書きまくると、あら不思議、ことばがうまくなるんだよ、頭がよくなるのさ、いいか今日から鉛筆を持ってどしどし書け」と。いつの間にか私は準古老になっていた。

 20日、土曜日は下北沢タウンホールで世田谷区地域風景資産の会合があった。
「最近おもしろい経験をしました。世田谷代田というのは語源はダイダラボッチから来ています。が、これを知っている人はいません。ところが茨城県の石岡市代田ではみんなダイダラボッチを知っていました。ダイダラボッチをかたどったお人形を守り神として作っているからです。こんど来年度、世田谷代田駅前広場に大きなダイダラボッチの足形が完成します。無形の伝説だったものが有形になるのです。これによって伝説がきっと受け継がれるでしょう。『世田谷代田駅のダイダラボッチの足跡と富士』は新しい風景となるでしょう、『代田の丘の61号鉄塔』に続いてこれを申請しようか……」
 情報交換会でこの話をしたらダイダラボッチで盛り上がった。ダイダラボッチ音頭があると話したら、
「みんなで見ましょう、アクセスが20は増えるでしょう」
 都市計画課の区の職員。
YouTubeを確認したら1610だったのが1622になっていた。みんな見てくれたんだ。

「抽出の一つにダイダラボッチをしまっておいて話すのもいいよ。『みんな聞いてとんでもない話があるんだよ!』、『どんな?』、『ダイダラボッチという巨人はびっくりするもないものを背負ったの!』、『ブルトーザー?』、『違う、富士山よ!』、『ギョへー!』、『穴を掘ったら琵琶湖になり、その土は富士山になったの』……」
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2018年10月20日

下北沢X物語(3626)−駅に代田連絡線の案内看板を!−

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(一)先だって、世田谷代田駅開駅記念行事準備会が行われた。このときに駅前広場の計画図面を見て、「あれ、遊歩道は代田連絡線の跡地に計画されている!」と我らの仲間、米澤邦頼さんが言う。まさにその通りだ、跡地を通るのだったら「代田連絡線」の説明板を建ててほしいと我らは要望した。区の担当者もいて検討したいとの回答だ。この案内板の設置も長年考えてきたものだ。連絡線跡に春宮さんの家があって壁が広く空いている。「ここに代田連絡線の由来を記した看板を建てたいのです」、何度も彼に言ってきた。が、住宅街だこれをわざわざ見に来る人はいない。しかし、遊歩道であれば目立つ、しかもそこが線路跡地であればなお一層効果的だ。

 戦時応急連絡線、代田連絡線も時が経つにつれ、記憶から忘れ去られつつある。前はまちあるきのコースに組み入れていた。ところが跡地の改築、そして小田急線の地下化などによって痕跡がなくなってきた。それでこの歩きも行わなくなった。それとこれを記憶している人がいなくなった。前は代田連絡線のことを記憶している人がいた。応接室が敷地に当たって壊された、ときどき夜中に回送電車が通っていたなどと。

 昭和20年5月25日の空襲で帝都線:井の頭線が不通になった。車庫のあった永福町駅がB29に襲われた。深夜であったことから車庫には29両の電車が留置してあってそのうち23両が焼けてしまったという。渋谷と新線の間に留置してあった二両のみが助かったとされているが。

 この爆撃被害よって帝都線は停まった。動かそうにも車輌がない。
「あのとき、屋根も椅子もない電車が来たんだ。乗ってどこに掴まったらいいか分からなかったね」
 下北沢在住、『薔薇族』編集主幹伊藤文学さんから直に聞いた話だ。

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2018年10月19日

下北沢X物語(3625)−ダイダラボッチ伝説総集編−

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(一)2019年度に世田谷代田駅前広場が完成する、ここには地名の元となるダイダラボッチ、その足跡の大きなレリーフが描かれる。我らの念願だった、このダイダラボッチ伝説をこのブログで取り上げたのが2004年10月1日だ、「ダイダラボッチ伝説を求めて」という題だ、もうこれから14年も経った。この間、ダイダラボッチを主題として劇を行ったり、歌を作ったり、まちあるきをしたりしてきた。YouTubeには「ダイダラボッチ音頭」をアップしているが1610回も視聴されている。代田のダイダラボッチが徐々に認識されてきている。駅前ダイダラボッチの完成までのタイムスケジュールが見えてきたことから一層に深い興味を持った。それで埼玉、茨城のダイダラボッチ伝説を訪ねた、この比較を通して見えてきたものがある。今回はそのまとめだ。

 世田谷代田のダイタの地名は、ダイダラボッチから来ている。今回、ダイダラボッチを由来とする土地を二箇所訪ねた。まずはさいたま市の太田窪である。読みはダイタクボである。なぜここを訪れたかというと野沢のダイダラボッチを、ダイダクボと呼んでいたからである。漢字で書き表した用例もあって、これは代田窪と書く。これを用いた人は郷土をよく知る鈴木堅次郎氏である。
 たまたま野沢のダイダクボ脇を通りかかって説明したものだ。大正時代、ダイダラボッチのことを別称ダイダクボと呼んでいたと思われる。

 さいたま市の太田窪と野沢の代田窪はやはりダイダラボッチを語源としている。前者の太田窪は表記はダイタクボであり、野沢はダイダクボである。しかし、この表記は便宜的なもので絶対的なものではない。現地のフィールドワークで分かったことは、ダイダラボッチを語源としている場合は、古音は「ダイダ」だった。太田窪も同じだったと考えてよいと思われる。

 太田窪の人々は、地名がダイダラボッチ由来だとは知らなかった。次ぎに訪れたのが茨城県の石岡市の代田だ。ここでは多くの人に聞き込みをした。ダイダラボッチを皆が知っていた。伝承が濃厚に息づいていた。
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2018年10月17日

下北沢X物語(3624)−東京と茨城のダイダラボッチ−

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(一)土地には固有の匂いがあり、そして時間もある。代田の辻に立っている大人形ダイダラボッチを見ていると静寂が襲ってくる。耳がツゥンとしてくる。太古以来の時間が今も流れている。都会を歩いていると常に律動やリズムを感じる。私達はそこに安心を見つけているのではないか?萩原朔太郎は「田舎を恐る」という詩で「田舎の人気のない水田にふるへて、ほそながくのびる苗の列をおそれる」(『月に吠える』)と述べている。都会時間をかじった詩人の思いだ。が、本当の田舎の時間はびくともしない。その中で人々は暮らしてきた。ありきたりの生活の中に潤いを求めて想像を巡らした。茨城・常陸には湖沼が多い、その凹みを巨人の足跡だと、また峯を二つ持った筑波嶺は巨人が腰掛けたものだと想像した。ダイダラボッチだ。茨城県には至る所にダイダラボッチ伝説がある。石岡代田のダイダラボッチは典型的な一例だ。

 柳田国男は『ダイダラ坊』の足跡の冒頭で「巨人来往の衝」と書いている。この東京の空に巨人が行ったり来たりしていたのだという驚きだ、それで、「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」と言い放った。が、これは代田と野沢の足跡の二三を見てのことである。一方、茨城は東京と比べものにならないほどに足跡は多い。「茨城県は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」だと言える。あそこにもここにもある。太古の昔、何人もの巨人が行ったり来たりして、至る所に足跡を残している。

  昨日のことだ、都道府県別魅力度ランキングなるものが発表されたようだ。茨城県は47位、最下位だったと。5年連続だとのこと。魅力に欠けるのだろうか。先だって、石岡代田から帰るときに石岡駅の観光案内所に立ち寄った。二人の女性がいてお客さんはいない。代田大人形のことを聞いたら、知らないとのこと。

「私は、ダイダラボッチのことを調べています。どこへ行ってもみな知りませんね、ところが石岡代田のダイダラボッチは多くの人が知っていました。驚きですね。伝承として消えかかっているのですがここは違いますね。一番のポイントはダイダラボッチをかたどった人形を今も伝え続けているのですね、茨城県はどこへ行ってもダイダラボッチの伝説がありますね。大串貝塚ふれあい公園にはダイダラボッチ像までありますね。全体を有機的に結びつけるといいですね。私は、世田谷代田のことを調べていますが、前にアィディアとして言ったことがあるんですよ。ダイダラボッチサミットを開いてダイダラボッチを共有するとか……」
「おもしろいですね」と彼女ら。
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2018年10月16日

下北沢X物語(3623)−ダイダ:濁点一つの真偽を求めて−

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(一)地名の濁点一つを追い求めて旅に出た。が、濁点一つにも五分の魂、地名文化史の一ページを開くものとなった。結論を言うと代田は「ダイダ」であった。根拠はつぎの通りだ。石岡代田は歴史ある土地だ、古いままの音を地名に託して残していた。これも言われがある。当地にはダイダラボッチの足跡があって、これに基づいて代田とした。そしてあるとき災厄が生じた。これから土地を守ろうと、巨人を模した人形を作るようになった。これをダイダラボッチと称した。地名は由緒に基づき地域の人々は「ダイダ」と呼んできた。この経過に倣うと世田谷代田も古音は「ダイダ」だった、そう結論づけられる。

 世田谷代田の場合を整理しておくと。
1、代田七人衆のうちの斎田家(大斎田)の先先代の当主の斎田平太郎氏が平素、「ダイダ」と呼んでいたこと。
2、荏原の名士鈴木堅次郎氏は野沢のダイダラボッチを「代田窪」(ダイダクボ)と称していた。この呼称は荏原のダイダラボッチ一般を呼んでいたものと考えられる。
3、江戸期の地誌『紫の一本』では、ダイダラボッチの説明があるが、見出し語は
 「だいだばし」である。
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2018年10月14日

下北沢X物語(3622)−驚嘆:石岡代田ダイダラボッチ−

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(一)世田谷代田は「ダイタ」と読む。ところがつい最近分かったことは当地古老は「ダイダ」と呼び習わしていたという。ここで湧いてきた疑念だ、もともと「ダイダ」ではなかったのか?この同じ地名を「ダイダ」と呼び習わしている地域があると聞いて昨日現地を訪れた。ここにはダイダラボッチ伝説の条件が全部揃っていた。まず、代田をダイダという、次ぎにダイダラボッチを模した大人形がある、そしてダイダラボッチの足跡もあった。さらにびっくりしたのは聞いた人全部がダイダラボッチを知っていた。石岡代田は何もかにもが揃っている典型的な「ダイダラボッチの里」だった。

 ダイダラボッチ民譚の探訪に出かけた、常磐線高浜駅だ、まず驚いたのは駅前の駐車料金が200円であったことだ。これによって地方度が分かる。駅前は閑散としていた。が、土地の古老はここが霞ヶ浦、利根川水運の要港で賑わっていたという。行き行くと、こんもりとした杜が見えた。行くと茅葺き屋根の立派な神社があった。高浜神社だ。
「この高浜は常陸国府が石岡にあってな、その外港だった、国司が役目に就くと鹿島神宮に必ず詣でたんだ、だがな、悪天候のときは渡れない、それで仮の社をもうけた、これが始まりだ……」
 歴史は律令時代に溯る、当人は八十歳の金子さん、金子家当主で神社脇に立派なお家があった。もう一人は、藤井幸雄さん、こちらは八十一歳だ。土地の古老の話はおもしろい。

「昔、ここに海軍百里原飛行場があった。小さい頃、壊された戦闘機の残骸をここの高浜駅から貨車に乗せて運んでいた、おれらな、こっそりとジュラルミンなどの金属を手に入れて売り払っていた、小遣いなんかくれない時代だよ。手に入れたお金で御菓子を買ったな、あっははは……」
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 金子さんは、若い頃東京で働いていたそうだ。
「あれ、我孫子を過ぎて利根川を汽車が渡るときにガタドンデンって音がするでしょう、ああ、故郷に帰ってきたなあって思うのですよね」と私。
「ここに白菊酒造があって、珍しくネオンがついていたんだ、赤、青の夕方帰ってくるとなんかね、これが見えると懐かしかったね」
「ここらへんは遺跡は多いよ、南にいけば貝塚もあるし、前方後円墳もあるしね」
 これは藤井幸雄さんだ。ダイダラボッチ伝説と古蹟は欠かせない。その裏付けだ。二人とも代田のことはよく知っていた。ダイダといい、ダイダラボッチも知っていた。

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2018年10月13日

下北沢X物語(3621)−代田の呼称はダイタか?ダイダか?−

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(一)ダイダラボッチ由来のダイダクボ訪問記を報告した。ところがこれに新たな情報がもたらされた。代田の呼称を巡っての指摘だ、郷土史に詳しい人からだ、おもしろい問題で早速に調べた。まずは電話調査だ、「伺いたいことがあります。そちらに代田って地名がありますね、これはダイダって濁りますか?」、「はい、濁りますよ」と市の担当者の回答だ。「そちらの代田の由来はダイダラボッチから来ていますよね?」、「はいそうです」、「あれは人形のようですがいつでも見られますか」、「八月に作ってそのまま据え置かれます。置きっぱなしだから朽ちてきます」、「井関というところに足跡があるとか?」、「何か地元の人によると田圃の低くなっているところがあるそうなんですよ」……相手は茨城県石岡市の文化振興課の人だ。なぜこんなことを聞いたかというと、地元世田谷代田の人から指摘があった。当方の一連の記述を見て「代田は、ダイダだった」との情報を得たからである。

 これを指摘したのは地元の郷土史に詳しい谷亀緑郎さんである。メッセージではこうあった。

今、ふと思い出したのですが、斎田家(大斎田)の先先代の当主であられた、斎田平太郎さんが、いつも『代田』のことを、『ダイダ』と発音されておりました。当時は、年寄りだからと気にも止めませんでしたが、最近のキムラさんの投稿を見て、思い出したしだい。代田は、ダイダですよ。

代田が「ダイタ」なのか、「ダイダ」なのか、これはあまり意識していなかった。「ダイタクボ」についての一連の報告にも自身混同して書いている箇所があった。

「ダイタクボ」を調べるきっかけとなった「武蔵野」所収の「駒澤行」の原文を当たってみた。やはり「ダイダクボという凹地」と書いてある。この報告を書いたのは鈴木堅次郎氏である。彼は当地、荏原の歴史、文化、民俗に深い興味を持っている。ダイダラボッチに関しても深い造詣を持っている。

 昭和二年に出された柳田国男の「ダイダラ坊の足跡」は、ダイダラボッチ伝説を体系的にまとめたものとしてよく知られている。この民俗学者も先行文献である「武蔵野」に載ったダイダラボッチに関する論文を参考にしている。鈴木堅次郎氏の「駒沢行」も間違いなく目を通しているはずだ。
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2018年10月11日

下北沢X物語(3620)−ダイダラボッチ由来ダイダクボ−

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(一)ダイタクボとは何か?興味の発端は、世田谷野沢のダイダラボッチをダイダクボと呼んでいたいたことだ。これと全く同じ音のダイタクボがさいたま市にあった。これもやはりダイダラボッチ伝説に由来するという。例が二つあったことからダイダラボッチをダイタクボと呼ぶ場合があったと言ってよい。どうしてダイダラボッチと呼ばずにダイタクボと呼んだのか、民俗学上の課題ではないだろうか。

 まず、表記の問題だ、野沢は代田窪、さいたま市は太田窪と書き表した。後者では有名な話がある。もともと「太田窪」は「大田窪」と書き表されていた。「天保八年皆済目録に誤りて太田窪と書せしより因習として太の字を用ふ」、つまり代官所の誤記がそのまま踏襲されたとのことだ。(『さいたま市地名の由来』 青木 義脩著 幹書房 2013年)

ダイタクボについては言葉としての呼び方、音が先にあった。それが文字に書き表される場合に代田窪になり、太田窪となった。呼名は戦国時代まで遡れるものだ。

 ダイタクボの意味は、ダイタはダイダラボッチだろう、クボは窪、窪み、巨人がつけた足跡の窪みである。

 推論であるが、ダイダラボッチには海浜系のものと、内陸系のものがあるように思われる。「常陸国風土記」に記述されているのは「體極長大」、身体が極めて大きな巨人である。腕を伸ばしてハマグリを採り、それを食したものが貝塚となった。大櫛貝塚のことである。この場合、足跡がどこにあったとかは記されないが、「巨人の足跡は長さ四十歩余、幅二十歩余」とされている。貝を食っていた巨人がいて辺りをのっしのっしと歩いていたらしい、従ってこれがどこにあったかは問題にしない。大櫛遺跡のあるところは丘陵地帯である。

 太田窪も足跡の特定はされていない。一帯には久保と名のつくところがある。「樹枝状の開析谷の繰り返し」で至る所に窪がある。つい最近、南方熊楠が書いた「ダイダラホウシの足跡」をきむらたかしさんが送ってくれた。論考にはBenjamin Taylorの引用がされていたが「丘陵の大窪はすべて巨人の足跡なり」とあって、なるほどと思った。

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2018年10月10日

下北沢X物語(3619)−縄文海進とダイダクボ−

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(一)日本中に二例しか見つからない、「ダイタクボ」とは何か、現地に行って分かったことは、一つはダイダラボッチ伝説に、一つは窪みに、もう一つは古代遺跡に関係していたことだ。途中で出会った旧家の女性は自宅から古代土器片が出たという。縄文遺跡かと思っていると違った。意外だった、太田窪貝塚だった。当地で降りたのは東浦和駅だ。地名としての浦和は貝塚と深く関係していた。浦和は、入り江の多い浦曲(うらわ)だった。巨人伝説の始祖は、ムシャムシャと食って捨てたそれが貝塚になったという。「常陸国風土記」の逸話を思い出した。

 何百編も高崎線に乗り、浦和は度々通った、浦和の浦は、海の浦だったというのは今回初めて知ったことだ。いわゆる縄文海進で海の水が内陸深くまで入っていた。この浦和も海だった。内陸ダイダラボッチ伝説だと思ったら海浜のそれだった。

 意外に思ったことは二つある。「ダイダクボ」はダイダラボッチから来ている。住民はこの伝説はよく知っているだろうと思っていた。が、十数人から聞いたがほとんどが知らなかった。

 もう一つはダイダクボに関わるダイダラボッチ伝説の資料があまりなかったことだ。事前の図書検索で目星をつけていたものは、『浦和市史』民俗編だ。が、期待に反してあっさりと触れられているだけだった。

太田窪
 太田窪という地名は、戦国時代の文書、記録にはすでに見られ、非常に古い地名であることが知られる。読み方もはじめから「だいたくぼ」である。その地名のいわれは今に伝えていないが巨人伝説ダイタ坊(ダーダラボッチ)に由来すると思われる。


 ダイダクボという名が戦国時代の文書に見られるというのは情報だ。太田窪は大宮台地にあって古くから人が住み着いていて、人々は当地を太田窪と呼び習わしていた。
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2018年10月08日

下北沢X物語(3618)−大発見:ダイタクボにはサミットストアー−

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(一)地名呼称として同音の語がある。ダイダクボだ、共通する点は、ダイダラボッチに結びついていることだ。これは太古の伝説で縄文時代まで遡ると思われる。文字がなかった時代の呼称だ、人々はその土地の伝承ををもとにそこをダイダクボと称していた。これが後になって文字に表された。世田谷では代田窪になり、さいたま市では太田窪になった。大事なことは文字よりも音である。ダイダラボッチがダイタクボと称されていた。たまたまそれが世田谷代田とさいたま市にあった。二例あれば三例、四例もあるはずだ、世田谷の場合、大正期の文献にダイタクボが現れている。この時代までダイダラボッチをダイタクボと称する言葉が生きていた、そう考えられる。

 太田窪をフィールドワークした。このときに大いに役立ったものがある。我らの紀要第5号である。表紙には大きく「代田のダイダラボッチ」と書かれている。これを提示することで人に怪しまれずに話が聞けた、言葉だけで説明しようとすると新手の詐欺ではないかと疑われたのではないか。「ダイダラボッチを語る詐欺」として真c町中に噂が広まったかもしれない。しかし、ダイダラボッチ伝説が伝えられている区域では我らの紀要が名刺代わりになる。

 太田窪の裏道で女子中学生と出会った。
「一つ聞きたいのだけど、この太田窪は、ダイダラボッチの巨人伝説から来ているんだけど、聞いたことある?」
 紀要の表紙を見せながら聞いてみた。
「知らない!」
「聞いたこともない!」
「そんなの初めて知った」
 三人はおじさんの説明を興味を持って聞いていた。土地のいわれが三人の中学三年生に伝わった。ダイダラボッチのことを調べに行ったのにいつの間にか布教者になっていた。
「今日ね、何かよく分からないけど、緑色のパンフ持った人が、この太田窪はダイダラボッチ教の聖地だと言っていたよ」
 家に帰ってそんな話をしたかもしれない。
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2018年10月07日

下北沢X物語(3617)−ダイタクボの謎を求めて−

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(一)おやと思うことを調べるのは楽しく、おもしろい。自身の歩きの原動力だ、文化事象を調べるには、まず歩く、そして人に話を聞く、最後に地元図書館に行って地域資料を閲覧する。昨日、フィールドワークに出かけた。思いがけず一人の女性と出会った。戦国時代から続く旧家のお嫁さんだった。彼女は嫁いでからの45年間を語る、都市近郊の移り変わりだ。そこはさいたま市、やはり「武蔵野」の一隅だ、独歩が語ったのは明治の都鄙物語だ。が、彼女が語る話は、昭和平成の都鄙物語だ。「お嫁に来たときはうちの吉野と高橋さんの二軒だけだったの」、それからどんどんと都市近傍の住宅地として開けたという。地名はダイダクボだ、この名前からしてダイダラボッチは誰も彼もが知っていると思っていた、ところほとんどが知らなかった。当てにしていた資料も調べ甲斐がないほど少なかった。ダイダラボッチ伝説は代田は濃厚、太田窪は希薄、その違いは江戸東京からの距離にあるのではないかと思った。つまり物好きな人士が前者は歩いて来られる範囲にあったからではないか?

 訪れたのは、さいたま市にある「ダイタクボ」である、ネットでは、世田谷代田と太田窪の例が、よく並べて説明されている。

 東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)や]、さいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。(wiki)

代田も太田窪も地名がダイダラボッチから来ているという。自身が関心を持っているのは呼称の問題だ、「ダイダクボ」だ、世田谷野沢のダイダラボッチは、「ダイタクボ」とも呼んでいた。これは文献から二例得ている。さいたま市の太田窪は、「ダイタクボ」と読む。この呼称の共通性に深い興味と関心を持っていた。ダイダラボッチの謎を解く鍵がありそうだ。

 ダイダラボッチの足跡を、ダイタクボと称している箇所が全国に二箇所ある、ダイダクボというのは何なのか?
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2018年10月05日

下北沢X物語(3616)−ダイダラボッチ:巨人来往の衝−

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(一)柳田国男はダイダラボッチの跡を訪ねていくことを巡礼と称している。自身、毎日これをしているようなものだ。日々の散歩の、至る所にその痕跡がある。一つ目、今朝の広告に明日、明後日と開かれる「自由が丘女神まつり」の案内が入っていた。隣町が自由が丘だ、ここにもダイダラボッチの跡がある。文献には「谷畑のダイダラボッチ」とある。自由が丘の旧町名が谷畑である、散々歩き回ったあげく、ここしかないという窪地を見つけている。が、誰もこれを信じない。二つ目、大岡山のダイダラボッチなどはほとんどが知らない。「大岡山の擂鉢山、ここが右足で、左足が大田区千束の狢窪、ここにずどんと立ってダイダラボッチが小便をした、垂れたところが洗足池……」というと人は目を丸くして驚く。

 三つ目、野沢にはよく行く。スーパーサミットがあるからだ。ここのポイントカードを持っていて、あと80ポイントで満額になる、一万ポイントでレジ打ちの人が手を挙げる。「この人、ダイダラボッチを探している人、満額!」
 そんなことをレジ打ちのおばちゃんが言うわけはないが、野沢にはダイダラボッチの痕跡がある。今日もそこに行った。子どもを遊ばせているお母さんが池の側の弁財天の祠を覗いていた。
「ここは、絵本に出てくるダイダラボッチの足跡なんですよ」
 口まで出かかったが言わなかった。皆、信じないからだ。変なおじさんと思われるのもいやだ。
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2018年10月04日

下北沢X物語(3615)−何といっても世田谷代田はダイダラボッチ−

世田谷代田駅前ダイダラボッチ
(一)このところ代田のダイダラボッチが熱い、ダイダラボッチが現実味を帯びてきたからだ。小田急線の地下化工事が終わり、工事は地表に移ってきている。昨日、そのスケジュールが分かってきた。世田谷代田駅前広場(中央部)が2019年度には完成するとのこと。地元では広場開き行事が計画されている。この準備会が動き始めた、私達北沢川文化遺産保存の会もこれに加わることにした。何と言っても嬉しいのは長年の念願が叶うことだ、駅前広場には「ダイダラボッチの足跡」をかたどったがレリーフができる。世田谷区北沢総合支所街づくり課で出している「世田谷代田駅駅前広場整備イメージ図」には足跡がくっきりと記されている。完成が近づくとイメージも具体的になってくる。が、これに鋭い指摘をしたのが会の、きむらたかしさんだ、古代人の足跡と違う!‥‥

 ここ数年、北沢川文化遺産保存の会は、研究大会を開いている。第一回は北沢小でささやかに発足した。年々規模が大きくなってきた。今年第四回は「下北沢の戦後を語る」とい題で会を開催した。特記すべきことは若者が多く参加したことだ。成城大、法政大のゼミ生だ、前者のタイトルは「創造性のあるまち、商店街づくり−下北沢と成城70年間の変遷をふまえた提案」である。これをさらにブラッシュアップしてこの夏、諸大学参加の経営学合同ゼミで発表し、優秀賞を受賞したとのこと。我らの研究大会が契機になっていることは喜ばしことだ。

  私たちは地域と密着した研究大会を開いている。この認知度がアップしてきたことは確かだ。
第五回についてはすでに構想されている。来年度、世田谷代田駅前の広場が完成し、「広場開き」が予定されている。これの側面サポート企画として「世田谷代田の歴史文化とまちづくり」を考えている。すでにこれは地元関係者には伝えてあって日にち、会場(梅丘パークホール)も決めてある。開催に関しては多くの地元団体の協賛や協力が得られそうである。

 数回の経験で分かってきた。研究大会を活性化するには若者を呼び込むことが一番であることだ。実際彼らの提案は新鮮でういういしい。私は、成城大のゼミ生の受賞を知って、会の掲示板にこう書いた。

 朗報ですね、下北沢のフィールドワークを通してまちの特徴を掴み、まちが「地域性」を失って「新宿化」してはならぬという提言は説得力がありました。若者の発表でいいのは未来を考えていることです。吾等はどうしても過去思考に偏りがちです。まずは彼らに拍手を……
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2018年10月02日

下北沢X物語(3614)−ある邸の歴史:玉翠園から晴光園へ−

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(一)「焼け遺ったまち 下北沢の戦後のアルバム」は、5000部印刷したが好評でたちまち底をつき、改訂新版を出すことにした。かろうじて焼け遺ったまちが一外国人、 Dr. オリバー L オースティン Jr.によって鮮明なカラー画像として残されていた。記録資料として第一級のものだ。まちが焼け遺ったこともドラマだった。1945年5月25日、約500機のB29が襲来した。このときに東大原国民学校が焼夷弾の直撃を受けたという。これによって起こった「火災が西風に乗って北沢地区を襲ったが、火によって風が渦を巻き南風となったため、北沢地区は東北方向に向かって一部を消失したが、大部分は焼け残った。」(まちづくりの中の防災 今井兼介)という。一方、焼けてほしいと願っていたのに焼けなかったのが北沢の丘の大邸宅である。今回は忘れ去られてしまった家の物語だ。

この八月に第4回北沢川文化遺産保存の会の研究大会を世田谷カトリック教会で開いた。そのときに参加された一人が大きな絵を持ってきてくださった。それは何と件の大邸宅を描いた絵だったのである。

 この家についてとある作家がこう書き残している。タイトルは「湿った家」だ。

 あの家が「玉翠園」の看板を掲げたのは、敗戦の翌年の春だった。もう四十年も昔のことになる。
 井の頭線で渋谷から三つ目の池ノ上で下車し、線路の北側を三、四分行くと、前方が開け、下北沢の繁華街を見下ろす斜面に出る。視界のよい日には富士山も見える。そこにあの家がある。敷地は八百坪、西洋館と日本建築を会わせた大きな二階建ての甍が避雷針を突っ立って、ひときわ抜きん出た屋敷である。
ベスト小説ランド 角川書店 1987年


  絵を見るとなるほど宏壮な邸宅だ、避雷針もしっかりと描かれている。

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2018年10月01日

下北沢X物語(3612)―会報第147号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第147号  
  
         2018年10月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』初公演!

 9月16日、カトリック世田谷教会で我々の手作りのオペラを演じた。当日、長野県から二社のマスコミが取材に来た。テレビ信州のデレクターとカメラマン、読売新聞松本支局の記者が取材にきた。テレビではOpera『鉛筆部隊と特攻隊』については追跡取材をしていて、ドキュメンタリー番組を予定しているとのことだ。
 今回、リハーサルは十分でなく際どい綱渡りで公演を行った。
その感想はつぎのようであった。

・オペラを拝見しました。できがどうとかというよりもこうした試みをされた皆様のご努力を多としたいと思います。
 技術的に言えば歌姫を演じられた女性はすばらしい声を聞かせていただきました。この脚本をもとに工夫を加えていけば、もっともっと人に訴えるものができるように感じました。例えばもう少し出演者を加える、子どもたちの場面を増やす、歌をもっと効果的に入れるなどが思い浮かびました。

・学童疎開のことはTVで見たことがありましたが、今日はオペラで初めてみせていただいて胸に迫るものがありました。ありがとうございました。

・ありがとうございました。
 山本さんの声がうつくしく教会という場に響き渡りました。写真パネルなど少しあるといいかなと思われました。小学校の体育館の舞台などで演じてもよいのではないかと思いました。
 台本を区の学校の演劇部などに配布してはいかがでしょうか。
 多くの若い人たちに伝えたいないようでした。
 ご準備された皆様に感謝申し上げます。

・一冊の本が立体化されようとして声と音楽で伝えられたこと、伝達の方法の拡がりが見えてとてもよかったです。
 あれから70余年後の色々なメディアでやテクノロジーで日本中の学校や団体に広がるといいと思う。
 ピアノがよかったです。オリジナルでしょうか。

・長さは聴き手の側からするとちょうどよい長さだと思った。セリフも効果的なつながりがあるもので良かったと思う。子どもの目線、例えばさみしさなどを歌で表現できている。 リアリティをどう伝えるかという問題、写真や彼らの写真や遺墨を使うなどするとよいのでは。

・僕はこの楽劇は、特攻兵の手紙などをきちんと聴衆の耳の届けることが大事だと思います。それをオペラにしてやるのはとても難しいチャレンジだと思います。なぜならばオペラでは言葉が伝わりにくいからです。より直接的に事実と感動を与えるなら、はっきりゆっくりとセリフをマイクを通しながら語る朗読劇がいいと感じてしまいました。もちろん雰囲気を盛り上げる音楽はあった方がいいと思います。とても感動的な内容なので、なんとかもっと聞きやすい公演にしていただきたいと思い、思ったままを失礼を顧みず書かせていただきました。

当日、我らの会の顧問格の廣島文武獣医がきておられた。

・木村先生の語り感銘しました。オペラ公演は新築なった代沢小の講堂でやって下さって結構だと伝言し去られました。

 代沢小の溝口先生が来ておられて伝言を残された。学校は2019年秋に落成の予定である。全校生徒、保護者に公開することになる。来られなかった人からの再演の希望があることから、まず恒例の5月末の第12回、戦争経験を聴く会、語る会での公演を予定している。人材が不足しているのでぜひ手助けを。

2、実験オペラ反省創作会

「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」の公演は無事終わりました。監修、関根英雄神父、演出若桑比織さん、お二人の力でだいぶ円滑に行きました。歌の山本さん、子役の五十嵐姉妹、鉛筆部隊の田中幸子さん、ピアノの内村真由美さんの活躍もあってのことです。
 要請があって来年秋、代沢小での公演を求められました。また来年5月の第12回、「戦争経験を聴く会語る会」での再演を予定しています。ついては打ち上げを兼ねた「実験オペラ反省創作会」を開くことにしました。飲んだり、食べたりしながら今回の実験を今後にどう生かすか、楽しく語りたいと思います。
なお、この会は戦争伝承を歌や朗読で行う、音響のいい教会を使って行おうというねらいもあります。
 興味ある人は参加できます。
・今後公演をするに当たってどんな工夫が必要か。
 参加された方々の意見はぜひ聞いておきたい。
・今回はカトリック世田谷教会の協力で戦争伝承ができたが
 戦争はしない、これの伝承をどうするか。
 自身では自著「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」をオペラに考えていた。
 伝承の方法としてミュージカルもあるのではと?
・奉仕活動として行っているがいいのか。
 場合によっては500円ほどとって奉仕者の電車代にするとか?
・気づいたことは聖堂の音響が素晴らしい、音楽や朗読をとおしての伝承にふさわしのでは、使い方の工夫も考えたらと神父さんは言われる。

〇開催日
 11月23日(祭日) 17時から世田谷カトリック教会食堂で
〇会費 1000円 飲み物、つまみなどの差し入れ大歓迎 ゴミは持ち帰る。
 申し込み先 きむらけんへ なるべく早めにメールなどで


3、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第143回 10月27日(土)13時 小田急線喜多見駅改札前
案内人 池田あすえさん 喜多見の歴史を辿る
コース:喜多見駅から氷川神社、慶元寺、第六天塚古墳、古墳公園、農業公園、次大夫堀公園民家園、野川、外かく環状道路の工事現場へ。
喜多見は民俗学的に面白いところだ。池田さんは当地で野菜を作っておられる。その新鮮野菜も手に入る。


第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第145回 12月15日(土)13時 笹塚駅改札前
案内人 赤坂 暢穂(のぶお)さん 森厳寺川を歩く
森厳寺川は北沢中学辺りを源流とし、代沢小の東で北沢川に合流している川です。北沢四丁目に住む赤坂さんは子どもの頃から慣れ親しんできた川です。この昔の姿を彼の案内により辿ります。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

3、まちあるき検討会
 先だってオースティン写真の痕跡を歩くを行った。その時に会員数名で今後まちあるきをどうするかの話をした。自身がコーディネーターを行ってきたが仕事が大変になってきた。そのことを話したら、おおよそつぎのようになった。
 ・関係者で集まって企画会議みたいものを行い。そこでコースや案内者を決めていくことにしたい。毎回は大変なので年二回ぐらい行う。
 ・極力地域にシフトしていく。つまりは世田谷地域だ。が、格別関心の深い地域につい  てはこだわらない。水系、玉川上水、三田用水など
 ・一箇所に絞って、そこを集中して歩く、研究会的なもの。
この件は、12月の忘年会で問題提起する。冒頭で若干議論してもらえたらありがた い。今回12月までは載せている。前に松山信洋さんに品川宿を歩くを頼んでいたので 一月はこれでよいのではないかと思う。

4、北沢川文化遺産保存の会忘年会
 
 期日 12月1日(土)
 場所 北沢タウンホール三階ミーティングルーム
 時間 17時40分から *一品持参 オークション品も
 会費3000円 「祝!創立14周年」弁当
  アトラクション ロス・コンパニェロス再度登場
*申し込み締め切り11月28日(水) 弁当を信濃屋に発注する。

■ 編集後記
▲現在、(仮)世田谷代田駅前広場、広場開き行事が計画されている。当会もこれに参画する予定である。当方の案だが、第五回、北沢川文化遺産保存の会の研究大会を「世田谷代田の歴史文化・まちづくり」にしたい。また来年度、世田谷代田駅開駅記念「下北沢文士町文化地図」(第8版)を考えている。テレビや新聞で報道されて「下北沢の戦後のアルバム」はたちまちに在庫が無くなった。今年度は増補改訂版二版を作ることにしたい。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2018年09月29日

下北沢X物語(3611)−鉛筆部隊考察新事実−

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(一)疎開学童の記録が歴史真実を解き明かす。昭和二十年三月二十七日、一疎開学童が日記に「吉原さんが飛行機で富貴の湯のうえをちゆうかへりもした」と書き残した。この事実は動かしようがない。誠第31飛行隊・武揚隊に所属する吉原薫軍曹が、子どもたちを驚かそうと曲芸飛行をやってみせた。武揚隊の動向は謎である、が、この記録は沖縄に飛び発つ彼らが三月末まで浅間温泉に居たことを証明している。一方、この隊の兄弟隊の武剋隊は浅間温泉千代の湯にいた。鉛筆部隊が宿泊していた旅館だ。新たに見つかった手紙がある。武剋隊前半隊は三月二十七日未明に沖縄慶良間列島沖の敵艦船に突撃している。手紙の記述によって分かったことがある。翌二十八日に「十機十艦をよく屠る」という報道事実を学童は知っていたことだ。このことは歴史記録として伝えられていることとは違っている。ということは、疎開学童は事実を書き記し、報道は嘘をついていた、ということになる。

 報道は、昭和二十年五月六日号の「週刊少国民」だ。ここに書かれた記事には、「四月一日の夜、ラジオの少国民シンブンに聞き入つていた学童たちは『アツ』と思はず声を立てました」とある。前半隊の「十機十艦よく屠る」というニュースのことだ。鉛筆部隊は、このニュースをこのとき初めて聞いて、宿中に歓声を響き渡らせた。驚きのニュースだ。が、これは嘘で、彼らは、もう四月二十八日の段階で知っていた。

 なぜ、こう書いたか。記事のタイトルは「神鷲と鉛筆部隊」だ、選抜された特攻隊員たちと鉛筆部隊とが出会って、別れたという話である。報道を通りこしたドラマである。

 学童たちが報道を四月一日に知った、というよりか知ったことにした。その方がドラマが盛り上がるからである。

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2018年09月28日

下北沢X物語(3610)−歴史片鱗が潜む交点の小学校−

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(一)文化探訪のきっかけは単純だ。自転車で通勤の途中、開かずの踏切東北沢4号で足止めを食らったことが発端だ。この町、変ではないか?ここから土地の文化に興味を持った、遮二無二ペダルを漕ぎ、そして歩き回ってきた。恐ろしいことだ、もう十四年になる。ひたすら聞き回った。多くの逸話を拾ってきた。その蓄積は、このブログの今日の数字3610がはっきりと示している。探し当てた事実は、国木田独歩が「武蔵野」でいうところの「小さな物語、しかも哀れの深い物語」に当たる。聞き出したさりげない事実が歴史に繋がっていく。下北沢小学校同窓会から講演を求められた、このことを地域の人々にどう話そうか?

 鉄道交差路には人が集まってくる。ここを中心として幾つもの学校が創設された。が、人口減少時代の今、この学校が統廃合の憂き目にあっている。私に話があったのはその余波である。東大原、守山、北沢の三校は統合して下北沢小学校となった。各個別の学校の同窓生には有名人も多い。が、特定の一校に絞るのは難しいことのようで、私に講演の話が回ってきた。三校偏りなく話すのもこれまた難しい。現学校が位置するのは旧守山小学校だ。このすぐ裏手がダイダラボッチの足跡があったところだ。聞くところによると聴き手は、中学一年生から八十歳台までと幅広い。無難にこなせるのはダイダラボッチである。が、メールでのやりとりでは疎開のことも入れてほしいとのこと。
「さて、どうしたもんか?」

 絞っていくとどうしても一校の話になる。東大原小である。ここの卒業生からは多くの話を聞き取った。建築家今井健次の息子さん、兼介さんからは数多くのことを学んだ。

 当学校通学区域には多くの逸話が眠っている。この兼介さんの家の裏手にかつて住んでいたのが太田幸子さんだ。この彼女は浅間温泉に疎開していた。そのときの話が聞きたかったがなかなか会えないでいた。彼女の話で非常におもしろい話がある。この一つに絞って話をしよう。

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2018年09月26日

下北沢X物語(3609)−荏原都市時間論−

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(一)荏原都市には固有の時間がある。古代から近代に時代が変わるにつれ時間内容が変化した。前者は土地を基軸にした時間で、後者は東の、江戸や東京が意識された時間である。古代においては時間は濃厚で、これが近代、現代になってくると希薄になってくる。
 まず古代時間だ、家の近くに万葉歌碑があって歌が刻んである。

草枕旅行く背なが丸寝せば家なる吾は紐解かず寝む

荏原に住む女性が防人に行った夫を偲んで詠んだ歌だ、私の夫は遙か遠く筑紫の国に防人として旅立った。途中では着替えることもなく野辺にごろ寝しては旅を続けている。家にいる私も衣の紐を解かずに寝ましょう。操を立てる誓いだ。苦難、困難を乗り越えて旅をする夫への思いだ。その筑紫の博多へは今は、東京駅から新幹線に乗ると五時間ほどで着く、安心、安全、便利だ。新幹線を見送った後、目黒の自宅に帰って衣を着替えても何の問題もない。女は紐をするりと解いて、テレビでメロドラマを観る。旅への思い、夫への思いはたちまちに忘れ去る、1200年前の思いは濃厚だった。熱い恋であり、熱い時間だった。

 この2018年は、明治150年だ、その昔、明治五年に汽車が初めて走った。ラグーザお玉はこれの試運転を荏原大森まで見にいった。得体の知れない怪物が忽然に現れて自分を襲ってくるようだったと。が、今は新幹線が矢のように走ってきても誰も驚かない。この150年の進歩は恐ろしいほどだ。

 初めて出現した汽車。とんでもなく新しい機械だ。蒸気機関車だけを機械とは言わない、線路と一体になったというものを言う。これが機械のアンサンブルだ。汽車が動いて継ぎ目で音を立てる、機械の合奏音だ、これが近代の今日を形成していた、近代時間観の根本には汽車がある。

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2018年09月25日

下北沢X物語(3608)−印象批評的荏原都市論−

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(一)日々荏原都市を歩いて逍遙している。目や口や足がその変化を感知する。先だって基準地価が発表された。東京は軒並み値上がりしている。地価ランキングでは目黒10位、品川11位、世田谷13位、大田21位である。土地需要が高いことからどこでもここでもマンション建築が盛んだ。とくに駅に近いところは建築ラッシュが起こっている。線でいえば東横線、田園都市線、小田急線である。これに比べると池上線などはだいぶ落ちる。昨日石川台駅へ行った。希望ヶ丘商店街がここにある。かつては賑やかだったが今はシャッターを閉めた店が多い。この左手の雪が谷の高台は古くからの高級住宅地だった。が、住んでいた人は現役を終えて家を始末してどこかに行った。移転先は全く分からないと地元の地主の言、ちょうどその折に湘南海岸に行った。平日なのに海岸にはごま粒を撒いたように人人人、上がってきたサーファーは白髪頭、脳裏に浮かんだの土地の売主だ、彼らは人生の余暇を波乗りで過ごしているのでは?、荏原では都心に近い品川、そして山の手の目黒、世田谷の地価が高い、大田は早く開けた分、高齢化が進んでいる。その変わり身は早いのかもしれない。

 自身の荏原逍遙は遊歩道がコースとなっている。桜並木が続く、景観の良さからここに新築の家を買い求める人が多い。緑道は人を惹きつける、が、川跡であることは知らない。建ぺい率の関係から車庫は半地下にする、大雨のとき川が溢れる、真っ先に水が高級車を沈める。

 遊歩道は、保育園児の遊び場だ、子どもは可愛い、遊歩道で行き会うとご挨拶、誰彼構わずに「バイバイ」をする、釣られてバイバイと返す。ふと疑問。
「なぜ幼児はバイバイを真っ先に覚えるのか?」
 人間哲学の領域だ。
 もともと社会は世知辛い。人はこだわりを捨てバイバイというサインを送って日々を生きていく、いつも思い出すのは田中英光の言葉だ。彼は「さようなら」というエッセイでこう書いている。

「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。

 幼時は、何が何でもバイバイを覚える、「こんにちは」には用はない、別れて個別に生きることが我々社会の宿命と思いもする。

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2018年09月23日

下北沢X物語(3607)−我ら手作りオペラへのオファー−

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(一)代沢の獣医廣島文武さんは、オペラ『鉛筆部隊と特攻隊』の感想を記しておられる。1,木村先生の語り感銘しました。2,オペラ公演は新築なった代沢小の講堂でやって下さって結構だと伝言し去られました。代沢小の校長、溝口先生が観劇に来ておられた。その伝言である。現在代沢小は改築中である。完工が2019年秋になるらしい。この時に創立140周年を迎えるようだ。記念イベントの一環として公演したらどうかという提案である。旧校には講堂はなかった。新校舎にはこれが作られるらしい。保護者、在校生の前でオペラ『鉛筆部隊と特攻隊』を演ずる。学校は子どもの人材が豊富だ。童謡を歌う場面が幾つかあるが学童が加わって歌ったらどうだろうか。また、セリフも多くの子どもが言えるようにしようか、構想や夢が膨らんでくる。

 先だって、このオペラを見に来た長谷川直樹さんからメールをもらっていた。彼は山崎国民学校の疎開学童だった。浅間温泉で武揚隊は富貴の湯に泊まっていた。この真向かいにあるのが小柳の湯である。彼はここにいた。彼もまた特攻隊との付き合いがあって、新田原から出撃直前に彼に手紙を寄越している。「新聞をよく見ていてくれ」と書いてあったが、その後の行方は分からない。私は手紙が発信された佐土原長の紫明館を訪ねて取材に行ったことがある。この隊の正体は全く分からない。

 昨日は、とにかく熱演お疲れ様でした。
テノールで歌うきむらさんには姿勢を正す思いでした。そして山本愛花さんのソプラノと語り。

演技の評価はこの際問いますまい。73年前、浅間温泉であった『鉛筆部隊と特攻隊』との歴史的記録を伝えたいという熱意は、観客の胸にずしんと届いたと思います。
 課題は、きむらさんたちの熱意にも拘らず、特攻隊員たちが切望した「次の世の」若い世代の参加者の姿が見受けられないことでした。このことは、高齢者の「疎開協」や「戦争を語り継ぐ」様々な会の最大の悩みです。

 ところで常々気になっていたことです。困難なことは重々承知の上でのお尋ねです。
配布されたチラシに協力世田谷カトリック教会とありました。が、500人近い学童が集団疎開をした代沢小学校同窓会の名前がないことでした。そして鉛筆部隊の田中幸子さん一人?しか参加していない。かっての同級生たちは?

創立100年を超す世田谷区の名門校に、いま、同窓会はないのでしょうか。アプローチをしたが協力を得られなかったのか。来年も、きむらけんさんの主体的働きで「戦争を語る会 聴く会」が検討されることと思います。

最大の課題は、いかに若い世代に参加を呼び掛けるかではないでしょうか。思い付きですみません。例えば国士舘大学のジャーナリズム関係のゼミの先生にコンタクをして、一度きむらけんさんの想いを伝え協力を求める、という考えはいかがでしょうか。
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2018年09月22日

下北沢X物語(3606)−TVカメラが鉛筆部隊を追跡−

DSCN0575
(一)よく聞く言葉に密着取材というのがある。あまり使いたくない語だ。取材者が対象者に密着して独占的な取材をする。「おれたちだけよ」という矜恃が見えていやらしい。が、地方テレビ局が真面目に「Opera鉛筆部隊と特攻隊」を追跡取材している。デレクターとカメラの二人でこれもまた手作り、好感が持てる。局では「鉛筆部隊と特攻隊」を軸にドキュメンタリー番組の構想があった。これが本決まりになったのは当方が企画したオペラが
決定打となったようだ。デレクターの河野さん、歌姫の山本さんが打ち合わせで会ったのが新宿のカラオケ店だった。このときに初めて彼女の歌声を聞いた。Operaなどはイメージでしかなかったが初めて劇のイメージが生まれた。河野さんも同じだったろう。もうこの時以来、長野から何度上京してこられたことだろう。夏の研究会にも取材に見えた。会の活動の一端を紹介するのだろうか、この懇親会で彼女は皆の前で初めて歌った。恐らくここでの絵はTVで紹介されるだろう。

 9月6日に長野県内でニュースが流された。「鉛筆部隊がオペラ化に」というタイトルだったらしい。構成としては、「オペラ化の話を軸に」

1,鉛筆部隊と特攻隊の史実の説明
2,浅間温泉での同窓会
3,オペラ化への動き
4,下北沢での練習
5、まとめ


8月末に、鉛筆部隊の同窓会が行われた。このときの様子も撮った。関係者が集まって懇談会を持った。鉛筆部隊の田中さんが自分の役のところのセリフをこのときに披露した。彼女の出演は異例だ、実際の当事者である。
「体験者が出てくるだけで劇に説得力が生じますよ」
 これは演出の若桑比織さんが言っていた。
 下北沢での練習は、研究会の合間に行ったものだ。聖堂で試みに歌ってみた。教会は音がよく響くようにできている。お寺とは全く違う、オルガンや賛美歌が響いて人の気持ちを和ませるようにできている。オペラを行うにはうってつけだ。
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2018年09月20日

下北沢X物語(3605)−手作りオペラの脚本提供−

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(一)
 Opera『鉛筆部隊と特攻隊』をなぜ作ったか。十数年の経験から生み出したものだ。私は、毎年『戦争経験を聴く会語る会』を行ってきた。今年は十一回目だった。が、これは開催が困難になってきている。戦争経験者の減少、戦争から七十三年も経ってのこれの風化、それともう一つ、伝承を継続していくべき若い人達の関心のなさである。今年は村上啓子さんが悲痛な被爆体験を語られた。が、参加者を十分に集められなかった。体験者の話を聴くというのも曲がり角に来ている。人の興味を集めるためには工夫せねばならない。その思いから劇仕立ての戦争伝承劇を作った。寄せられた反応からすると一定の成果は上げられた。「台本を区の学校の演劇部などに配布してはいかがでしょうか。多くの若い人たちに伝えたい内容でした」と感想にはあった。今回はたまたま私達が演じた、誰か別の人、学校演劇部でも、一般の人でも構わない。Operaでなくともよい、朗読劇として取り上げて各地で公演してほしい。要望があれば脚本は提供したい。

公演当日に配布した文書がある。これにこう書いた。

『鉛筆部隊と特攻隊』はフィクションではなくノンフィクションである。このオペラの核となっているのは三通の手紙である。昭和二十年浅間温泉で学童たちと一月あまり生活を共にした特攻隊、誠第三十二飛行隊(武剋隊)は沖縄へ出撃し特攻戦死した。その彼らが出発後に出した手紙である。この劇では字句修正することなく手紙をそのまま使っている。特攻は生身の人間を武器として使った過酷な戦法である。戦争は惨いものである。こういう戦争は二度としてはならぬ。

一般に劇は、虚構仕立てが多い。が、Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は、ほとんどが実話を元に書いている。第二次大戦中に実際に起こった出来事である。特攻隊と学童たちの出会いともの悲しい別れを描いたものだ。

 これは特攻を賛美するものではない、が、命を受けて自らの身体を武器にして敵の艦船に体当たりしていった若者がいたことはぜひ知っておいてほしいことである。戦争中に起こった出来事としてこの劇を通して伝えてほしい、そういう願いが私にはある。

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2018年09月19日

下北沢X物語(3604)−下北沢力に助けられた公演−

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(一)オペラ公演は終わった、余韻はまだ残っている。昨日、駒沢公園に散歩に行ったとき保育園児に出会った。女の子がドロ団子を作っていた。「おじちゃん、私の名前リエっていうのね」と言って笑顔を見せる、子どもは可愛いものだ、浅間温泉で学童らと接した特攻兵ははつらつとした姿に英気勇気をもらった。「おじちゃん、何しているの」「散歩の途中……」と言いかけて止めた。自分が散歩しながら校正していることを話しても分からない。「おじちゃんね、一昨日オペラで歌ったの」、「オペラって何?」、「こうやって手を広げてね、『時枝は出発の際までみなさんと楽しく遊んだことが非常に嬉しかった』と言って歌うのさ、リエちゃんドロ団子持ったままポカンと見ていた。自身は適当に節を付けて歌っている、オペラと言ってもドロ団子のようなものだ。昨日もらった池田あすえさんからのメールには「手作りのオペラの舞台を観せて頂きありがとうございました」とあった。つまりは土臭いオペラということではないか。好意的な批評だと思った。

 人間の願望や欲望は膨らんでいく、当初はこぢんまりと公演するつもりだった。が、一日一日過ぎていくうちに自然と夢は大きくなった。それは脚本が他人の目にさらされたからだと思う。関根神父さんが監修に、それから若桑比織さんが演出に入られた。これによって質が高まった。当方は、読者目線で文章を書いている、が、二人は観客目線で批評する。ここは大きな勉強になった。

 すべてが綱渡りだった。人は楽観的な見通しを持つ、何とかなると。しかし、そううまくは行かない。最初のトラブルが音楽だった。当初参加することになったチェロの奏者が駄目になった。公演に音楽は欠かせない。困っていると関根神父さんが紹介してくださったのは内村真由美さんだ。今回はサヌカイトを叩き、ピアノを弾かれた。感想には「オリジナルか?」との質問があった、彼女これが即興である。続きを読む

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2018年09月17日

下北沢X物語(3603)−戦争オペラ:生と死と鎮魂を歌う−

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(一)歳を重ねると、ときめきが薄れてくる、が、昨日一日は心の弾みを押さえられなかった。過ごしている時間が今にも破裂してしまうのではないか?人生の中で一番長い日だった。公演が終わって、「きむらさん、どうなるかと思っていたけど見違えるようになったね」と関根神父さん。褒められれば人間は誰でも嬉しい。演劇人は心を空洞化して舞台に臨む、あなたは雑念や色気がありすぎる、クールに演じることだと指摘された。鉛筆部隊はどしどし書いて上達した、自身もまた毎日どしどし読んで練習に励んだ、そうした上で舞台に立った。前日、神父さんとの打ち合わせ、「田中幸子さんの戦争を二度としてはいけない」はしつこすぎる、一回でよい、「特攻はむごいものです……」で終わる。そこに間が空く、ここに子どもの歌が入るとよい。夜になって石坂悦子さんに相談すと「『故郷』は一番しか歌っていないわね。二番を歌えばよいのよ」と即座に決定。舞台が終わって、神父さんが「みなさん故郷を歌いましょう」で、この歌が聖堂に響く、一番のみならず三番までの大合唱、感動した。特攻兵の物語がこれを歌わせた、彼らは誰よりも強い強い郷愁をもっていたのだと気づいた。

「今日って何人ぐらい見えていたんですか?」
 長野からきた新聞記者。
「何人ぐらいだったかな?矢花さん何人ぐらいでした」
 山梨からきた彼に聞く。
「50人ぐらいじゃないですか」
「50人だって、50人って書くと嘘くさいから、51人と書くといいですよ」と私。
「私は県内のTSBさんのテレビニュースでこれの開催をしったのです。公開練習公演みたいなことを言っていましたが、もうこれ本番に近いですよね」
  当初はそのつもりでいた。が、段々に実験を通り越して本番そのものになってしまった。

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2018年09月16日

下北沢X物語(3602)−Dr.オースティン写真ツアー−

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(一)昨日、15日、第142回、まち歩きは、「下北沢のDr.オースティン写真」の跡を歩いた。その結果得られたことは、1、過去から現在への時空旅行であったこと、2、まちの再認識となったこと、3,参加した人が面白がっていたこと。である。「今という時間の中にまちがありますが、電信柱や道の曲がり方、路地の佇まいなどが70年前の写真から発見できたことは興味深い点だった。一種のまち再認識ツアーとしてはおもしろい、定番としてこれを来年も続けたいと思う」と言った。萩原朔太郎はこのまちを舞台として小説「猫町」を書いている。彼が通っただろう道を通る、多くは路地だ、これはどこかで表通りと交わる。暗から明へ、そのときについ仕草をしてしまう。左右に自然に視線を送ってしまう。まるで幕府の密偵になったように思う。路地に入ると人は、漂泊者になるのかもしれない。「ああ、汝漂泊者よ」と口を衝いて彼の詩の一節が浮かんでくる。路地は人を漂泊者にするのかもしれない。まちあるきの効果か

 ツアー始まりは下北沢駅北口だ、もうそこがDr.オースティンの写真撮影現場である。多くの物語があった現場である。いつも言うが、「ここはマコト、マコトにマコトがあった場所です」と、戦後駅前にあったカフェーである。戦後の文化交流の接点だった、撮影を終えた監督たちがわざわざここまで足を延ばして一杯の珈琲を飲んだ、本物の珈琲が飲めるのはここだけだった。強烈なライトをスタジオで浴びてきた彼らは大きなストレスを抱えていた、が、一口苦い珈琲を飲むと、それが雲散霧消し、新たな意欲とアイディアが浮かんだ。刺激的な場所だった。

 オースティン写真には駅前にあったパンの近江屋の看板が撮られている。この近江屋は、淡路町の近江屋菓子店から来ている。ここの職人だった人が、お店を開いた。パンを売ると同時に、洋菓子も売っていた。

 敗戦からもう三四年は経過している。このパン屋もアメリカ文化の大きな影響を受けている。オースティン写真アルバムにはまちのあちこちにパン屋が写っている。
 
 敗戦を契機にまちは変わった。近隣の邸宅が米軍によって接収されたことで米兵がまちなかを歩く姿が認められた。が、ついこの間まで戦っていたアメリカだ、物量豊かな国の文化にどんどん圧倒された。
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2018年09月14日

下北沢X物語(3601)−鉄道交点文化と疎開学童−

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(一)演劇とは何か、「個人を空洞化することだ」と。これが難しい。個々人に嗜好はある、アジフライ、イカ刺し、鯖の煮付けが好きなどというのはある。歳を重ねれば錆び付いてもくる、そういうものも捨て去ってクールに役を務める。しかし「鉛筆部隊と特攻隊」は難しい。言葉につい引っ掛かる、オペラは哀しみや愛を歌うものだ、ところがこの物語の主調音は哀しみである。それも特攻兵が「鉛筆部隊」に宛てた生の手紙である。「心を空洞化」しようとしているが、言葉が邪魔をする、「兵隊さんは散っても、魂はいつも皆さんの幸福を願っています」とあると、アジの小骨が喉に引っ掛かったことや鯖の煮付けの腹から小魚出て来たことなどがひょいと浮かんできて、声は高調子になってくる。リハの代役だった五十嵐ママさん、彼女が読んだ「君が為、南十字星の下遠く花と散るらん大和益荒男」が五来軍曹が書いた本物の言葉だと知って青ざめ、涙を流した。死んだ後に舞い込んできた手紙を全部歌いあげるが、至難である。心の空洞化を許さない雰囲気がある。今回のOpera、彼らの霊魂との闘いである。

 何だか不思議だ、これも霊魂繋がりか。演劇人、音楽家が次々にサポーターとして現れた。代役で出てきた人が難なく、セリフをこなし、ピアノを即興で弾き、こちらをうならせる。この土地は異常な空間ではないか。

 そう思い出した、いつも下北沢には下61、北沢タウンホール行きのバスでくる。リハのとき、終点直前のビルの谷間で壁に向かって手足を動かしたり、叫んだりしている若者がいた。最初は一人が見えた、予測がついた。やっぱりもう一人がいた。コンビが練習をしていた。前は、茶沢通りの東北沢4号踏切で電車に向かって練習をしていた。今はビルの谷間で行うようだ。

 当地は人材が豊富だ、最初教会で簡単な練習をした。そのときにこれを見ていた男女の若者に声を掛けた。一人本物の声優、もう一人も音大出の弾き手、「やてくれませんか」、男子には語りを、女子には音楽を頼んだ。が、前者は所属事務室から駄目と言われたと。後者は腕に怪我をして弾けなくなった。

 今は人手不足だ、が、吾等のオペラはすぐに人材が集まる。この間のリハのときも子役についてきたママに、代役を頼んだら難なくこなしていた。

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2018年09月13日

下北沢X物語(3600)−人生山あり谷あり脚本家入門−

DSCN0558(一)瓢箪からオペラ、文章を見せる側から演技を見せる側に立った。連日カルチャーショックに陥っている。「雑念を捨てなさい無心に演ずるのです」と言われる。ところがエモーションのコントロールができない。肝心なところだ、教会でひょいと出会った人、ただ者ではない、演出の彼は私にこういう、「内圧の高い話し方、自意識の高い動き方、そして過度な心象表現、それらをなるべく省いて、個人を空洞化して意味の入れ物にする、純粋な演技演出で伝えるのが舞台です」と。私への的確な批評、哲学的だ。

1、目立とうとして大きな声を出そうとする。(教員経験が今は仇だ)
2、自分を格好良く見せようとしてトーンに抑揚をつける。
3、言葉に思い入れをして一つの言葉を際立たせてしまう。


 文章を描く場合は、言葉という文字が人に伝わるかどうかを優先する。ところが演劇は目で見て、耳で聞いて理解する。観客は敏感である。役者が舞台上でどう動くか、セリフは耳で聞いて心地よいか、ということで劇を評価する。「舞台のどこに立つかでも印象は違う、立っている場合と坐っている場合も違う」と若桑比織さんは教えてくれる。

 台本も私だ、これについても厳しい。「今回は時間と人材が限られています。そこで、とりあえず、全体の中で、重複する表現や形容詞を整理する、というのはどうでしょう。たとえば、汽車が「ポーッ」っというのが二回出ます。」と、鋭い指摘だ。

 書き手は思い入れで書いている。汽車の汽笛にはこだわりがある。疎開学童は浅間温泉で生活を送り始める。音が彼らの感情を刺激する。果たして汽笛は聞こえていたのか、松本駅から温泉は離れている。
「いや、夜になると遠汽笛がよく聞こえてきました」
 これは地元の人だ。寂しい思いをしているときに汽笛が鳴る、一層に孤独感を募らせた。それでこれを使った。一度目だ。

 おもしろい回顧談がある。子どもらを喜ばせようと松本城に連れていった。すると天守閣から松本駅が見える。汽笛を鳴らして機関車が行き交う。学童らはそれを見てたちまちに帰郷心を募らせた。
「まったく逆効果で、なだめるのに苦労しました」
 引率の先生の思い出だ。

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2018年09月11日

下北沢X物語(3599)−「鉛筆部隊」の物語は音楽から−

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(一)都からの小さな落人が故郷を思う歌をうたった。これを聞いていた土地の幼児が強く胸を締めつけられた。それから60年経過して心のうちに記憶されたその歌が懐かしくてたまらない。口ずさむと断片的にしか浮かばない。彼は全部の歌詞を知りたいと思った。それでネットに問いかけた。「代沢国民学校の疎開学童が歌っていた寮歌の歌詞を知りませんか?」と。この歌をうたっていたのは「鉛筆部隊」だ、この彼らは空襲の恐れがでてきたことから浅間温泉から田舎の村、広丘に再疎開した。さらなる都落ちだ、寂しさが募る。引率教員は彼らを励まそうと寮歌を作った。最後の四番の締めくくりは「ぼくたちの明るい声を/ふるさとへ風が運ぶよ」だ、ふるさとこそは下北沢だ、切ない思いはメロディに乗ってそこらじゅうに響いた。都会のお兄ちゃん、お姉ちゃんの歌う声は素晴らしかった。声もそろい、ハーモニーも美しい。都会のにおいのする歌をかっこよく決めて歌った。聞いている方はどきどきした。幼少時に心に突き刺さった歌、忘れもしなかった。これが「鉛筆部隊」の発端だった。

 二三日前、地元新聞社の記者から「鉛筆部隊と特攻隊」の引用の許諾を求めてきた。疎開先の村の寺に、寮歌を刻んだ歌碑ができた。これを取材してのことらしい。また昨日は別の新聞社からオペラについての照会があった。取材したいとのこと。「鉛筆部隊」が地元で話題になっている。ところがこれは今に始まった話ではない。

 「鉛筆部隊」の発端となった「寮歌は知らないか?」は、何時寄せられたのか。期日を調べてみると2007年12月14日だ、今日は2018年9月11日だ。もうこれから十年が経過した。そして今になってこれがオペラとして上演される。発端と結末を結びつけるのは歌、音楽である。

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2018年09月10日

下北沢X物語(3598)−「鉛筆部隊」のリハは波乱万丈−

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(一)昨日(9日)、世田谷カトリック教会の坂を上っていくといい角度でテレビカメラを構えている人がいた。下から見上げる形の撮影だ。坂は物語が転げ落ちてくるところだ。それをさりげなく写して人に見せる、何のことはない、見知った人、テレビ信州の藤塚隆さん、古参のカメラマンだ。世田谷カトリック教会で行われるオペラ「鉛筆部隊と特攻隊」のリハーサルを撮るために彼は長野から来ていた。この劇の台本には疎開学童の手紙が使われている。「世田谷区北沢四ノ三五三」へ鉛筆部隊の立川裕子さんが出した手紙だ。カメラマンが撮っていた坂の上がこの住所に該当する。彼はそれは知らない、が、長年多くの逸話を撮ってきて、いい角度の坂にはいい物語が転がっていることを感覚的に知っている。プロの技だ。

 オペラ「鉛筆部隊と特攻隊」は、奇遇から生まれた。歌手と、またチェロ奏者と出会った。人がどんどんと集まってきた。関根英雄神父は監修、また若桑比織さんが演出に加わった。ベテランの批評を得て台本を削り、演出に工夫が加えられた。

 が、トラブル続きだ、チェロ奏者が手に怪我をして参加できなくなった。おろおろしていると神の助け、神父さんがピアニストの内村真由美さんを紹介してくださった。土曜日は、そのピアニストと私と高桑さんでリハーサルを行った。彼女、サヌカイトの奏者でもある。導入部はこれで展開する。妙なる音色で劇が始まる。その後はピアノだ。台本をさっと読んだだけで即座にその場にあった音を醸し出す。これもプロだ。

 もう十三年間、文学や文化人系統の人々と出会って、過去のことを調べてきた。
「下北沢は何といっても演劇のまち、ここにスポットを当てないとまちの本質は捉えられませんよ」
 仲間の別宮通孝さんに言われていた。演劇や音楽に疎い。だが、オペラをすることになってこの方面の繋がりができてきた。
 この間もびっくりすることが起こった。北沢タウンホール前のブティックに石坂悦子さんとビラを配りにいった。何と女店主は、元青年座の女優だった。石坂さんの夫もやはり演劇人、石を投げれば役者に当たるという話は嘘ではない。
 昨日はリハーサルで暗礁に乗り上げた。が、リハの現場は下北沢の教会だ、神域、かてて加えて芸域、神に人に助けられた。困ったときにそばにいる人に頼む。
「お願い!」
「いいわよ」
 全く劇的な展開だ、当地には生の物語がごろごろとある。

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2018年09月08日

下北沢X物語(3597)−誠第32飛行隊「武揚隊隊歌」−

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(一)浅間温泉において学童や航空兵は歌に明け暮れていた。学芸会やお楽しみ会では歌ったり、踊ったり、楽器を鳴らしたりした。親元から離れて生活している疎開学童には必要な娯楽だった。昭和二十年二月、浅間温泉の疎開学寮に若い航空兵がやってきた。彼らもこれに加わって歌った。第32飛行隊の隊長は駒繋国民学校の子どもらと遊戯にふけった。第31飛行隊は東大原国民学校の学童と交わった。陸軍松本飛行場を飛び発つ前の日、大広間で彼らは別れの歌をうたった「浅間温泉望郷の歌」だ。これは偶々疎開学童の女児が歌詞とメロディを覚えていて、吾等関係者の手によって蘇った、今回のOperaでも歌われる。この第31飛行隊の行状については四国小松島の山本富繁(武揚隊隊長山本薫中尉の甥)さんから「菱沼俊雄手記」が送られてきたことで全貌が分かってきた。これによって武揚隊隊歌があったことが分かった。今回、「鉛筆部隊同窓会」に参加された山本さんからはその歌詞があったことを知らされた。

 満州新京発足の特攻四隊は、新京を飛び発った後、それぞれのコースをたどって最後に沖縄に突撃している。扶揺隊の生き残り久貫兼資さんには直接取材した。近作の『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を送ったところ奥さんから、当人が亡くなったことを知らされた。この扶揺隊については久貫兼資さんが記録を残している。『憧れた空の果てに』(菅井薫著 鳥影社 1999年)には彼の日記が載っている。この著作では「扶揺隊隊歌」があってこれが記録されている。

 このことから他隊も作っていたことが想像できる。

 昨年末、上梓した「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」は、山本家に残されていた「菱沼俊雄手記」を全文採録した。ここに「高畑少尉、五十嵐少尉が作詞作曲した武揚隊歌を教へて貰つて合唱致しました」という記述があった。
この武揚隊、隊歌は浅間温泉での壮行会で歌われたものだろう。


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2018年09月07日

下北沢X物語(3596)−TVNEWSで話題「Opera鉛筆部隊と特攻隊」−

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(一)Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は地方で評判になった。昨日、長野県内で夕方のニュースの時間に「戦争の記憶…鉛筆部隊オペラで継承」というタイトルの特集が流された。Operaの主舞台は長野県の浅間温泉である。先だってここの目之湯旅館で「鉛筆部隊同窓会」を行った。このときも取材カメラがきていた。地元の人もあまり知らない話を取り上げて地元に流すというのは地元メディアの果たす役割だろう。「鉛筆部隊」の話は、都会と地方の文化がふれ合った話だ。都会のおしゃまで可愛い女の子と田舎出の特攻隊のあんちゃんとが出会って織りなされた物語だ。片方は死が運命づけられている身で、片方はこれからを生きていく子どもたちだ。死と生と愛とがくっきりしている。Operaは人間の愛と悲しさを歌いあげるものだ。この物語の核は異文化の出会いだ。知性のふれあい、子どもらは小さなエリートであり、航空隊員は特別に選抜されたエリートだ。今に思うと、この彼らは、相当に気位が高かった。それは特攻隊員としても例外的な存在だったからだろう。
 
 誠第31飛行隊、誠第32飛行隊は特別な隊だった。満州新京発足の他の二隊を加えて特攻四隊という。この隊は菊水作戦、すなわち、敵の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。この先陣を司った隊だ、大本営、中央配属の十一隊の四隊だった。別格的な扱いを受けていた。

1、満州新京で盛大な壮行会が行われ、全員が満州国皇帝に拝謁した
2、全員が新京放送局に赴き、三分間マイクに立って故郷へのメッセージを送った。
3、各隊十五機だがこれには各機に一人の整備員が付いていた。責任者を置き、その階級 は少尉だった。
4、搭載爆弾は通常は250キロだが、これを500キロを搭載できるように松本で改造した。


 大本営直属の彼らは沖縄特攻の初陣を飾る機として位置づけられていた。

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