2016年05月25日

下北沢X物語(3043)〜原爆謝罪を求めないのは日本の得点か?〜

P1050980(一) 「The Emperor's Tram Girls」、和名「皇国少女」というドキュメンタリー番組がある。自身の発信が契機となって作成されたドキュメンタリー番組だ。この末尾で私の詩作品がゆっくりとテロップで流れてゆく。

ピシュリ 赤青(せきせい)の閃光(せんこう)が全天に光る
ドグワン 爆裂(ばくれつ)の音響が地軸(ちじく)を裂(さ)く
ピシュリは地上の砂を燃やし鉄を溶かし命を焼いた
ドグワンは地表の命と物とをことごとくに粉砕(ふんさい)した
炎熱火球(えんねつかきゅう)がたちまちに人を街をぐわぼりとひと呑(の)み

市街の中心 相生橋(あいおいはし)近くに
たった一機の飛行機が平然(へいぜん)と悠然(ゆうぜん)と
途方(とほう)もない悪意のエネルギーを投擲(とうてき)した
ピシュリ ドグワンのその刹那(せつな)
幾万もの人々の希求(ききゅう)がうち砕(くだ)かれた
近辺の元安川(もとやすがわ) 本川(ほんかわ)の土手筋一帯
建物疎開(たてものそかい)に動員された学徒は数知れず
無念累々(むねんるいるい) 内蔵赤赤(ないぞうあかあか) 肉塊黒黒(にっかいくろぐろ) 瓦礫延々(がれきえんえん)
遠く見晴るかす安芸小富士まで
茫漠(ぼうばく)と広がるのは宇宙人類の屠殺場(とさつじょう)
各々(おのおの)の死装束(しにしょうぞく)は焼焦げの一枚の皮膚 
天を恨むか 敵を恨むか
真黒(まくろ)い男根(だんこん)が空を指さす


かつて広島原爆を素材として作品『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』を書いた。偶然、これを知った記者が広島から取材に訪れた。広島版掲載の記事だと言っていたが、1999年8月5日の『読売新聞』夕刊三面トップ記事にこれが載った。英字紙にも転載されたことから英国のドキュメンタリー監督が通訳を連れて来てこの逸話を撮りたいと言ってきた。それが、「The Emperor's Tram Girls」である。大手メディアの売り込み版だ。その後の子細経過はよく分からないが日本側のデレクターからはBBCがこれをもとに本編をつくり、それをベースにしてTBSが、「“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた」を作った。実際、当方の取材相手、藤井照子さんがメインとして出てきた。そして原爆製造に関わった物理学者と対峙し、「謝れ」と迫った。この話は有名になった。

 自作品『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』は、一人芝居で演じている人がいる。これを東京世田谷代沢小でも演じた。
「原作が、きむらけんとなっていますが、下北沢の文学を調べている、あなたと一緒ではないですよね」
 当時のPTA会長から尋ねられたことがある。一緒だと知って非常に驚いていた。
 戦争と広島原爆、そしてまた代沢小での劇公演、それでふと「The Emperor's Tram Girls」のことを思い出し、ユーチューブで検索したらこれが公開されていた。世界中どこでも見られる、再生回数は、74997となっている。この作品の最後にテロップで流れて行く詩は、自作詩である。
P1050981

(二)今アメリカのオバマ大統領が被爆地広島を訪れるということで大きな話題となっている。アメリカ国民の認識としては広島に原爆を投下したことで戦争を終結させられたということで多くが「原爆投下は正しかった」としている。

 今朝の新聞(『朝日』)には、「オバマ大統領の迎え方」として、一人の作家の意見が取り上げられている。その見出しは「無言で静かに原爆の謝罪を求めず日本の『得点』の鍵」とある。政治的配慮として謝罪を求めない方が得点になるという考えだ。ここの部分、損得勘定に大きな違和感を持った。

 アメリカは、国際政治を問題にする場合、「人権」を楯に他国のあり方を非難する。個個人は人間としての生まれながらにして権利を持っている、何人も他者の強圧的な介入なしに人々が自由に振る舞える。これは尊重されなかれればならない。

 つい最近沖縄の若い女性がアメリカ軍属の男に乱暴されて殺された事件があった。同類の事件はこれまで当地では度々起こってきた。その度に綱紀粛正ということが言われたが何等変化はみられない。しかし、今度の事件を通して明確にあぶり出されたことは、アメリカ駐留の米兵や軍属などによって、沖縄での「女狩り」が公然と行われていることである。アメリカ優先の地位協定によって在沖米人は優遇されている。それが米兵、軍属に考えの根底にないか、これによって野獣性が野放しにされている。それで「女狩り」が普通に行われているのではないか、ここに沖縄の人々が差別意識を持つのは当然だ。一女性が自国に生きていて自由に空気を吸いたい、自由にジョギングしたいと思うのは当然の権利だ。それをアメリカは侵していると言っても過言ではない。地位協定を改めるのは人権という観点からしても当然のことではないか。

(三)
 オバマ大統領の「プラハ演説」は高らかに「核廃絶」を唱えた。なぜ、これを無くさなくてはいけないか。たった一発の核兵器が一瞬にして何十万の命を奪うからだ。個々の人間が、人を恋したり、物を考えたり、好きなものを食べたり、そんなささやかな自由を有無なく奪ってしまう極悪非道な兵器であるからだ。

 あの広島の惨状を思え、鉄砲を持った兵士へのしうちならまだしも一般市民を一気に焼き殺し、滅ぼしたことは到底許せないことだ。昭和二十年五月末、東京も壊滅した。全国各地の主要都市はほとんどB29によって焼き滅ぼされている。日本はすでにこてんぱんに打ちのめされている。真珠湾奇襲攻撃への仕返しだとしても原爆使用はあまりにも酷い仕打ちだ。「黄禍」、東洋の小憎らしい黄色人種への差別意識から日本を標的として原爆を投下した。白人に対しては決してしなかったろうと言われる。

 しかし、原爆の惨状はあまりにもひどい。八月六日爆心地近辺には類焼、延焼が広がらないようにと建物疎開をするために大勢の学徒が動員されていた。未来ある若者が数知れないほど被爆して死んだ、元安川には水を求めて彼らが殺到し、ここで息絶えた。恐ろしい数の遺体が地表を水面を埋めていた。爆心地では人が溶けて蒸発した。

 むごい、むざん、ひどい、原爆被害は実は言葉に言い表しようがない。さきに自分は詩を描いたが、被害の一毛を描いたに過ぎない。

 原爆はどうあっても使ってはならぬ。使ったら人権という人間が考え出した叡智はたちまちに砕け散る。核兵器、これに手を染めてはならぬ、これに手を出したとたん、人間は人間でなくなる、人間の尊厳などとは言えなくなる。

 ゆえに。日本の「得点」になるから米国大統領を刺激するのはやめようという発想はどうなのか。一つの戦術としての、得点稼ぎというのは原爆で非業の死を遂げた人々の思いとはかけ離れてはいないか。私は謝る、謝らないの問題を言っているのではない。得点を超えたもの、核を命を懸けてでもこれを廃絶しようということの方が大事だ、これがヒューマニティというものではないだろうか、それこそ核使用国と被爆国とが共同宣言を出して世界に向けてこれを誓う、これが引いては核抑止に繋がるのではないかと思う。

 戦後71年ともなる、あの悲惨さ、惨さ、被爆後、市内各所の焼けた電柱からは随所で煙が立ちのぼっていた、それは広島での爆死者を弔う荘厳な線香のようだった。

 原爆は許してはならない。これを所持する限り、核と核とで対峙する世界は変わらない。原爆被害の惨さを、世界で唯一体験した日本は、これを伝え続ける責務がある。
(写真は、上は「皇国少女」の最終部で流されている私の詩である。下はドキュメンタリーの表題、故藤井照子さんの若いときの写真だ。)

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月24日

下北沢X物語(3042)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会供

P1050975(一)継続的に会を開いてきて何を学んできたのかが問われる。一年一年の教訓を次世代への「伝え」として箇条書きにしてきた。現在の三つだ。

一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでもいつまでも続く。
二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言がいえなくなる。


 この後続くが、今回は何を学んだだろうか?

今回は「戦争と音楽」がテーマである。何を伝えたかったか、一つには、児童、学童が歌をうたうことで苦難から解放されたということ、もう一つは音楽には国境がないということだった。それで代沢小の学童に「代沢浅間學園の歌」、「聖丘学寮の歌」、「真正寺学寮の歌」を歌ってもらった。前者は第一次疎開先の歌、後者二つは再疎開先での寮歌である。

「昭和二十年四月、浅間を離れて塩尻市を中心とした村々のお寺に学童は疎開していきます。ここには子供たちの戦争が待っていました。二つの各寮歌はそのドラマを秘めたものです……」
 
「最初の疎開先は世田谷から来た2500名ほどの疎開学童で溢れていました。どこに行って同じ仲間がいた。ところが再疎開先では疎開学童は少数派となってしまう。地元の子に混ざって勉学をするのです、ところが学童はみるみる生気を無くしていきました。子ども同士の戦争です、東京からきた子たちはアカ抜けていて、こざっぱりしている、しかも成績がいい。たちまちに虐めに遭うのです。そういう学童を見かねて引率の先生は歌でもって子供を励まそうと独自の寮歌を作って歌わせました。この歌の中には『鬼畜米英撃ちてしやまん』などの歌詞はいっさいなくリズム全体が軽快で明るい」
 疎開学童を勇気づけようとした歌であった。ところがこれが却って村の子達を勇気づける結果となった。学童をいじめていたその子たちが歌を聞きにきた、町のこよりも村の子がこれに馴染んでしまった。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月22日

下北沢X物語(3041)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会〜

P1050974(一)5月21日のことだ。代沢小の学童13人の歌声が、下北沢東京都民教会の会堂に響いた、71年前疎開学童によって歌われていた歌だ。「代沢浅間學園の歌」、「聖が丘学寮の歌」、「真正寺学寮歌」である。歌詞に籠められた思いが伝わってくる、生命の輝きを持った学童が歌うと胸裏に歌曲がツゥンと響いてくる。今朝早々に届いた矢花克己さんからのメールには「素晴らしい会でした」とあった。今回の「戦争と音楽」という新しい試みは成功だった。
 
  歌が人間を勇気づける。今回、三つの歌が蘇った。が、この個別の歌は苦難の末に再現されたことを改めて知った。

それぞれの疎開寮歌の音楽物語

・「代沢浅間學園の歌」 作曲 浜館菊雄 作詞 柳内達雄

 代沢国民学校は1944年8月13日、淺間温泉に到着する。そして六つの学寮に分宿して疎開生活を送る。このときの全体の学寮歌がこれだ。

 昨日の会でこの歌にまつわる話が静かに披露された。「浅間楽団」に加わっていた加藤景さんの話である。
「私は当時四年一組、担任は浜館菊雄先生でした。が、楽団に参加しようとしたら浜館先生に『キミのはト調のハモニカだから無理だ』と言われて、それでハ調のを送ってもらいました。やっと練習に参加しました。ところがなかなか吹けません…あの頃は苦しかったですね。小さいときから病弱でした。同室の六年生にはいいカモとばかりにいじめられました。友だちもいなくて、60人いた楽団のメンバーと誰とも会話を交わした記憶はありません…」

「楽団の練習では、『聞こえてきた音をだしてごらん』と言われるだけであそこがだめで、ここがこうとは教えてもらはなかったのです。しかし自分でひたむきにこれを練習しました。そしてようやっと吹けるようになったのです。私は音楽が嫌いでそののち音楽とは無縁の生活を送っていました。ところが大人になって子供時代のことがしきりに思い出されたものですからどこかに譜面がないかと探したのですがありません。それで自分でこれを思い起こしてそしてこれを楽譜に落として、知り合いに頼んでCDを作ったわけです。そして、これを持って浜館先生が眠っている小平霊園の墓地に行ってこれを墓前で再生いたしました。数十年ぶりの再会でした…」

 「代沢浅間學園の歌」、このメロディを何とか吹けるようにと病弱だった私は一生懸命練習しました。そのことによってあの苦しい疎開生活を乗り越えることができた、そして今日の自分があると思いました。あの頃、習っていたころはぶっきらぼうでとっつきにくく、茶目っ気のある先生でしたが、今になって思うととても懐かしく思われるのです

 分かったことは、13人の学童が歌ったこの楽譜は、実は加藤景さんの努力によるものだった。今回初めて知ったことであった。

続きを読む

rail777 at 16:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月21日

下北沢X物語(3040)〜丘の街・代官山の一夜〜

CCI20160521_0000
(一)お決まりの名台詞があった。「ある時は片目の運転手、ある時はしがない私立探偵多羅尾伴内、ある時は流しの歌い手、しかしてその実体は……正義と真実の使徒、藤村大造!」これを思い起こす、「あるときは踏切を、例えば、それは『蛇窪の踏切』だったり、あるときは鉄塔を、『駒沢線』だったり、『都南線』だったり、またあるときは『ダイダラボッチ』を調べたり、自分で自分の正体がわかりません…」と思っている。ところが、その会に参加してみると、自分の肩書きが「荏原郡史家」になっていた。

 「自分はこの先どうなるのだろう?」、若い頃思い悩んでいた場所が代官山だった。アパートの一室からのぞき見える風景はいまだ忘れられない。
「ふと思い出したことがあります、私は東京に出てきたばかりの高校生のとき代官山25番地に住んでいました……」
 自己紹介の順番が回ってきてこう切り出した。
 
 昨日、代官山ステキ総研の懇親会に仲間のきむらたかしさんとともに招かれた。そのときのことだ。会は、ヒルサイドテラスで行われた。始まりは代官山の街作りについての意見交換から始まった。枕には新しい素材、ガラスを用いてはどうかという最先端の技術の紹介があった。代官山という場、ならではの話だと思った。
「そのことは代官山の固有性とどういう関係があるのですか」
 他の委員の一人が問うた。このことから代官山と自分ということが思い浮かんだ。

「東横線が山の手線を越えていく鉄橋がすぐ近くにありました。渋谷行きの電車が鉄橋に、差し掛かると、ぐったんがったんと大きな音がします。渡りきった左手に『東横食品』の大きなネオンがありました。その脇を通り抜けて行きます。すると電車は並木橋上の急カーブにかかって、キュゥィン、キュゥィンという軋り音を立てました。それが消えるとネオンの音がジジジ、ジジジと聞こえてきました……」
 東急C曲線を渡っていく楽音は忘れられない、が、ついこの間、2114年3月、東横線は地下化した、同時にその音も消えてしまった。

「今日、頂いた資料の中にある『研究・運営アドバイザー』に『荏原郡史家』と記されています。こういう名称には初めて接しました。が、こういう呼び方もあるかという思いはします。この荏原をひたすら歩き回って色々なことを調べています…それは事実です」

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月19日

下北沢X物語(3039)〜巨人伝説の景:代田にはなく野沢に供

P1050968(一)自分の足で歩いてその土地の固有性を知る、土地の陰影、佇まい、古道の走り具合に真実が潜んでいる。「ダイダラボッチ」も同じだ。調べ尽くすことでその本質が見えてくる。この件に関しては荏原中を歩いている。ゆえにダイダラボッチの景と言ったときに幾つもが浮かんでくる。そう、記者が撮って、おおこれこそダイダラボッチというものは世田谷代田にはない。

 地元の世田谷代田図書館がダイダラボッチの足形をかたどった椅子机を館内に設置したこと、そして足跡を床にデザインしたことは素晴らしい。が、どうもスケールガ小さくて「巨人の偉績」を称えるには「甚だ振るわぬもの」である。

 現今、世田谷代田駅の新駅広場の計画が検討されている。前に、駅前にぜひダイダラボッチ像をとの話をしたことがある。が、そんな予算はなく、結局広場に足跡をかたどることにしたとのことだった。

 今回の記者は、事前に調べたそうである。茨城の大串にも、それから相模原市のデイダンボッチ伝説にも既に取材に行って来たとのことだ。その中で世田谷代田のダイダラボッチを中心にして特集をまとめたいということで当方への依頼があった。

 世田谷代田のダイダラボッチへの関心は高まっている。しかし、ここに景がないというのは残念である。それで代田での痕跡探訪は諦めて痕跡のある場所を求めることにした。
「ダイダラ坊の足跡」には世田谷代田を調査した後、南下している。それはつぎのように書かれている。

あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いていた。それを読んでゐた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向かって巡礼を続けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。

この記述の中の、「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった」は、ダイダラボッチ痕跡を探るのに重要なヒントになる。これを確かめるために何年も歩き回ってきた。距離の単位「一町」がくせものでこれに戸惑わされていた。

 しかし、資料を漁っていってようやくここを特定できた。ポイントは「小学校と村社との中ほど」である。ここを探し当てたときは感動があった。ゆえに記者をそこへ誘った。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月18日

下北沢X物語(3038)〜巨人伝説の景:代田にはなく野沢に〜

P1050965(一)「ダイダラボッチ」は深遠なる伝説である、しかし、これを何も知らない人に伝えるのは難しい。必要なのはその現象を簡単に掴めるもの、絵風景だ。この伝説への取材の申し入れがあって、記者とともに半日現場をフィールドワークした。このときに絵を探した。が、巨人伝説の本家本元中心地代田ではこれがみつからない、それでさんざん探し回った揚げ句、雨中夢中、とうとう野沢まで歩いていってようやくこの絵を手に入れたことだ。
 
昨日は雨だった。久しぶりに代田橋へ行った。明大前駅で乗り換える。ここではいつも不思議なことが起こる。井の頭線から乗り換えて京王線ホームで待っている。すると電車が思っていた方向とは逆からくる、「これまたどっこい」と、それで頭がくらくらしてしまう。明大前乗り換えは鬼門だ。これは初手からダイダラボッチのいたずらの仕掛けか?

 代田橋駅で記者と待ち合わせた。「ダイダラボッチ伝説」を探訪するときの巡礼行路は決まっている。まずは代田橋駅で降りる。柳田国男は代田のダイダラボッチに訪れたことがきっかけとなって『ダイダラ坊の足跡』をまとめた。彼の探訪はこの駅から始まっている。これに倣ってのことだ。

 論考の、まずは最初の見出しだ。「巨人来往の衝」である。彼の感動でもある。

「私はダイダラボッチは一人ぼっちと思っておりました。ところがまず一番目の世田谷代田の足跡を訪ねたところこれが右片足だと確認しました。そしてもう一つ、駒沢のダイダラボッチ跡を確認したところ、驚いたことに足の向きが違っているではありません。おどろきましたね、ダイダラボッチはひとりぼっちではないのです」


 彼は深い感銘にとらわれてこう述べた。

 我等の前住者はかつてこの都の青空を、東西南北に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである。
 
 柳田国男は、「その旧跡に対しては冷淡でありえなかった。」、機会があったらぜひに巡ってみたいと思っていた。それで代田橋駅に下車した。

 私たちも彼の面影をたどり、まず代田橋跡に行く。そこには歩道橋があるばかりである。
「この歩道橋はちょうど背尾根にあってここに代田橋があったと思います。それでダイダラボッチ歩道橋と呼んでいますが…」
 甲州街道を流れる車が通っているきりでなんの面白みもない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月16日

下北沢X物語(3037)〜世田谷江戸道小径、蒔田道〜

P1050951(一)私たちは地歩を固めて、歴史という道のりを一歩一歩あるいてきたと思う。が、その歴史ほどあやふやなものはない。思うに私たちは、今という世界をとりあえず意義づけて暮らしているのだと思う。現実は、虚構的であり、物語的である、実は色づけされた向こうに真実が眠っている、そう思って歩くことはスリリングだ。我等、「都市物語を歩く」第117回目は、5月21日実施した。うち捨てられた小径、世田谷江戸道をこっそり、ひっそりと歩いたことだ。

 まず、大井町線等々力駅に集まって、ここから北上し歴史に埋もれた江戸道を歩いた。
案内者は、木村康伸さんだ。いつもどおり資料は充実している。これにはつぎのように説明がされている。

■世田谷江戸道とは

 世田谷江戸道は、世田谷区の南部を南北に貫く室町・戦国時代の古道であり、世田谷吉良氏にとって重要な道であった。
 世田谷城から南へ下り、深沢、等々力を抜けて多摩川の「野毛の渡し」につながっていた。多摩川を越えると、吉良氏の拠点の一つである泉澤寺を経て、蒔田城まで続いていたと考えられる。
 世田谷から矢倉沢往還(大山道)を経て江戸へと続いていたことからこの名がある。


 道は時代とともに呼び名が変わる。江戸を中心地と考え、そこへ行くから「江戸道」だ。が、この道は、世田谷吉良氏の時代は間違いなく世田谷城に繋がる要道だった。

 この世田谷江戸道についてはもうだいぶ前から慣れ親しんだ道だった。最初にこれを教えてくれたのは亡くなった丸山さんだ、「ここが江戸道だ」と聞かされたときに面食らった。どこからどこへ通じているのか全く分からなかった。しかし年月を経るにつれ「ああ、なるほど」と分かってきた。そして、何度も歩くうちにこれが「巻き道」だと気づいた。そのことから重要道ではなかったかと思うようになった。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月15日

下北沢X物語(3036)〜告知:第9回「戦争経験を聴く会・語る会」〜

代沢小器楽バンド昭和15年(一)戦争の風化が進行している。あの惨たらしくて、悲惨な戦争から遠ざかっているからである。数知れないほどの戦争経験者と出会った。「どうあっても戦争はするな!」、誰もが口を揃えて言った。戦争は一旦始まると、人間はゴミくずになる、人が死のうと、女が犯されてようと、子どもが殺されようと人は何とも思わなくなる。人間の感情は当てにはならない、私たちは痛みを忘れる、ゆえにこれを防止する刺激が必要だ。そのために毎年、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いてきた。今回、5月21日(土)には九回目を開く。それで告知するものだ。世田谷区の広報誌「せたがや」には今日載った、世田谷区教育委員会後援を受けている。
 
今年は、戦後71年となる、戦争経験は人々の記憶から消えて行く。これはいかんともしがたい。それでも戦争経験の悲惨さを継承していくことは必要だ。そのためにはどうするかは私たち生きているものの大きな課題である。

 戦争経験を伝えるためには工夫が必要だ。「とても辛かった」、「苦しかった」、「悲しかった」という話を好んで聴きにくる人はいない。本当は、若い世代に戦争経験を伝えたいのだが、過去の時代の苦しい経験を敢えて聴きに来ようという人はいない。何とかして人に来てもらいたい。ということから工夫したのが「戦争と音楽」である。

 音楽を通して、平和を考えようという試みだ。とくにはこの音楽を子どもたちに歌ってもらう、これを通して戦争と平和とを考えることにしたい。

これを取り上げるには身近なところに好例があった。「戦火を潜り抜けてきた児童音楽隊」である。これは東京世田谷の代沢小に歴史事実としてあった。

 戦争の最中、都市は爆撃される危険が高まった。それで国民学校児童は地方に疎開した。長野の浅間温泉には世田谷から2500名が疎開した。この中の代沢校の話である。
 昭和十四年四月、当校の音楽教師浜館菊雄先生は、器楽演奏を行うバンドを創部した。ところが戦争が始まった。が、音楽演奏は続けていた。ところが疎開命令が出る、疎開先で音楽活動を行うことは困難である。しかし、浜館菊雄先生は、こういうときにこそ音楽は心の糧になる、そういう強い信念を彼は持っていた、それで、異論を押しのけて疎開先に楽器を運んで練習を続けた。
CCI20160430_0000

(二)「代沢浅間楽団」と呼んでいた楽隊の総勢は60名もいた。彼らは音楽会を開いたり、また当地陸軍部隊の、陸軍病院や決戦部隊の慰問に出かけて、辛い苦しい生活を送っていた兵士たちの気持ちを慰めた。

 ところが昭和二十年四月になって浅間温泉も爆撃の可能性がでてきたところから、代沢校は塩尻近辺の寺に分散疎開する。再疎開である。楽団員はバラバラとなる、それで楽団は解散かと思われたが浜館は、同僚に訴えて団員を一つの寺に集めたいと提案した。それが認められて洗馬真正寺には音楽の好きな子が集まった。「真正寺楽団」である。

 再疎開先で学童たちはなじめなかった。個別個別の寺に分散して地元の学校に通う。ここで起こったのが孤立化だ。地元の子どもには体力的にも敵わない。また疎開っ子としていじめられた。疎開学童はますます元気を失った。

 浜館はなんとか彼らに勇気を持たせたい。ということで彼らを励ますための学寮歌を作った。前の浅間では、全校の学寮歌、「代沢浅間學園の歌」があった。歌詞には「鬼畜米英撃ちしやまん」など勇壮な歌詞があた。

 ところが「真正寺学寮歌」はひたすらに明るい、これを本堂で練習し歌った。音楽の好きな子たちの歌は、やはり美しい、丘上にある寺からこれは転がり落ちて村の子に届いた。これを聴いた彼らは胸ときめかせた。

 不思議なことが起こった。疎開の子と村の子は、言ってみれば戦争状態にあった。ところが歌が彼らを取り持った。自校の学童に勇気を与えようとした歌が、地元の子を勇気づけてしまった。彼らは音楽の時間になると数多く歌を聴きに集まってきた。が、ようやっと慣れ親しんだ両者も、敗戦によって疎開学童が東京に帰ることになり、別れ無ければならなかった。

(三)戦前、戦中、戦後と継続してきた器楽バンドは、戦後になって「ミドリ楽団」として発足する。継続は力、たゆまざる訓練をして音楽の力を高めていた彼らに米軍からオファーが舞い込んだ。「ミドリ楽団」は存分に力を発揮し、大評判となる。

 彼らは、アメリカンスクールや米軍基地での慰問活動を行う、国内向けには、上野動物園へ行き音楽会に参加したり、台風災害被害者への慰問などを行った。

 ますます評判は高まり、昭和23年9月には、あの大劇場「アニー・パイル」での三日間連続公演を行った。彼らの活躍は全米にまで伝わり、昭和25年のクリスマスには彼らの演奏した歌が米国全土にラジオで流れ、そして全土にテレビ放送として流された。

(四)「音楽に国境はない」と考える、浜館菊雄は、戦前、戦中、戦後と子どもたちとともに戦争を生きて来た。そういう類まれな例がこの世田谷にあることを今回の会を通して、人々に伝えていくものだ。

 もっとも大事なことは、この会に学童が参加して加わってくれることだ。今回は、世田谷区教育委員会の助力もあって、子どもたちを参加させることができた。

  代沢小、山崎小の児童学童十数名が呼びかけに応じて、戦争中の寮歌を歌ってくれることになった。予定されているのは「代沢浅間學園の歌」、「聖が丘学寮の歌」、「真正寺学寮歌」それに童謡数曲だ。

 音楽を通して平和を考える会を開催する。

戦後71周年記念

  薄れゆく戦争の記憶を残すために

子どもが歌う、戦争と平和


第9回 戦争経験を聴く会・語る会
戦争秘話を証言と歌と演奏とで伝える試み
戦争と音楽−−戦火を潜り抜けた児童楽団(代沢小ミドリ楽団)


第一部 ミドリ楽団の歴史と学童による「寮歌」披露
第二部 ミドリ楽団の記憶をたどる、証言者の話
      ミドリ楽団の音源を聴く、ミドリ楽団のその後


日時 2016年5月21日13時30分より(開場13時)
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 世田谷区教育委員会
協力 世田谷ワイズメンズクラブ リベラル日本研究会
会場 下北沢「東京都民教会」 世田谷区代田5-35-2 
京王井の頭線 下北沢駅 西口から徒歩4分
入場 無料
定員 70名、先着順受け付け。開場13:00 開会13:30
問合わせ先 きむらけん &Fax03-3718-6498
      星野弥生  &Fax03-3427-8447

(写真は、代沢小器楽バンド、昭和十五年のものだ。片山淳子さん提供)


rail777 at 09:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月13日

下北沢X物語(3035)〜推敲、推敲、「ミドリ楽団物語」〜

CCI20160513_0000(一)いつもそうだ、小河小説を書いていると、しまいには大河小説になってしまう。コンパクトにすべきなのにそれができない。本は売れない時代だ、読みやすさが尊ばれる、本は分厚いが活字数は少ないというのが時代の流れである。傾向としては余白も多い。一行が「はい」と主人公の返事だけで終わっているという場合も珍しくはない。が、ここは「もったいない」、行が空いているとつい、空白を埋めてしいまいたくなる。

 連休開けに脱稿するはずだった。が、登場人物の調整がつかずにもう一週遅らせてもらった。人物の全体の配置表、それに各人の癖などをあらかじめ作ってから創作にかかる、普通はそうかもしれない。が、構想表なしにやっているから完成したときに問題が生じてくる。

 「ミドリ楽団」が活躍した時代は長い。これを物語として書く場合は、時代を区切って書かないと物語としてまとめるのは困難だ。そこで疎開に行く昭和19年8月を冒頭とし、最後を昭和23年11月とした。五年間にまたがる物語だ。

 書いて行くうちに段々困ってきた。人材が払底してくるのだ。学校現場の変化を余り考えないでどんどん書き進めていた。ところが学校は、一年経つと卒業をしていく。大体上級生が重要な役割をする。

 指揮者は一つのポイントだ。「ミドリ楽団」のタクトの握り手は女の子である。後ろ姿がすらりとしていて見栄えのする者が宛てられている。これも入れ替わっていくから早い段階、これに目をつけていて、何かを言わせたり、また体の特徴を書いて置いたりせねばならない、重要な伏線だ。

 書き始めるとき大太鼓の存在はさほど気にしていなかった。ところが仕上げ近くになってこれが重要な楽器だと気づいてきた。それで書き直して、冒頭場面はこれをOBたちが新宿に届けるというところから始めた。戦争末期、サイパン陥落のすぐ後だ、夜闇に紛れれて新宿駅まで持って行くことは困難だった。憲兵による誰何を恐れた。しかし、物語としては面白い、これが果たしてちゃんと着くのか。

 他の楽器も順次、その楽器に習熟した子が三月末には去って行く。低学年から高学年へ子どもは成長していく。そこが面白さでもある。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月12日

下北沢X物語(3034)〜下北沢代田界隈狐狸伝説掘

CCI20160512_0000(一)「伝説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なる産物だった」と柳田国男は言う。「狐狸伝説」これを信じたいと思っている人には現れる。「化かされて」一人前だったのかもしれない。

 往時の古老たちは語る、「木々がこんもり茂っていた出頭山や守山は、狐が住んでおっての、あの辺りでよく化かされたもんだよ」と古老たちが語るとき、嬉しそうだった。彼らに対するエールでもある。得も言われぬ世界が、暗がりの向こうに存在した。怖くはあるが希望だったのかもしれないと思いもする。

 現今、我々が生きている希望は何か。ハートというハートではなくて、どこまで行ってもハードとうハードである。人間に代わってすべてを機械が行う、このことへの期待が未来への希望として語られる。これが人間の幸福追求なのだろうか、甚だ疑問である。人間は、営為の動物だ、「する」ことがあっての人間なのだだと思う。機械は専一に「する」ばかりで、振り返りはしないし、郷愁も持たない。彼らの脳裏には走馬燈はない。

 狐狸伝説の信奉は、これを信じたいと思う人の産物だった。が、彼らが跳梁する場もなくなって化けて出てくることはなくなった。狐狸的な世界を喪失した我々はこれからどこへ向かうのだろうか。

 一杯引っ掛けていい気分で帰るときにタクシーを拾った。が、運転士はいない。狐に化かされたかと思うと「機械運転でお客様は運ばれています」と機械音声での案内が流れる。
狐が出てくる出番はない。昔話を信じようと思っても信じられなくなっている。

 さて、羽根木の細野巌さんである。出頭山や守山あたりで狐に化かされたらしい。

 暮方になり丁度御地蔵様があるところに出て淋しいなと思ったとたん急に歩けなくなり眠いような酒に酔ったような変な気持ちになり頭がもうろうとなってきた。仕方なく道路にカヤの株があったので腰を掛けたが、何だか急に寒気がする。是は狐にやられたなと気がつき、不断から煙草を吸うと良いと聞いていたので、ちょうどゴールデンバットを持っていたので一本取り出し吸いはじめた。

 細野さん守山田圃の野道をゆき尾根筋の道に出たらしい。ここの代田大原境に今も地蔵尊がある。淋しい古道が伸びている。その回りが木々が生い茂っている。ここで彼は異変に遭遇する。「どうも狐に化かされたようだ」と気づく。かやの古株に掛けたというのも尾根筋道であるらしい。狐は煙草の匂いを嫌う、それでゴールデンバットに火をつける。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月10日

下北沢X物語(3033)〜下北沢代田界隈狐狸伝説供

CCI20160510_0000(一)私は毎日歩いている。この頃は世田谷江戸道へよく行く、この古道ほとんど痕跡が残っていない。が、そこへ行くとそこはかとなく道が曲がっている。僅かな手掛かり見つけて心ときめく。もう一つ歩いているものがある。過去の断片を材料に昔の真実を追っていく、想像上の道をゆく旅だ。これも計り知れないものがある。

 連休明けは、今書いている物語の脱稿をするはずだった。が、締め切り間際になって新資料が送られてきた。それで大慌てとなって今日に及ぶ。
「おおよそ何枚ぐらいになりましたか?」と編集者。
「約600枚弱です」
「長編大作ですね…」
「そうなっていましたね」
 自身、いつもそうだ。取り憑かれたように熱中する、気づいてみると膨大な作品になっていた。「ミドリ楽団物語」だ、つい、数日前、写真が送られてきた。「音楽と舞踏」と書かれた幕の前で代沢小のバンド部員が記念写真を撮っている。五十名近くがいて手に手に簡易楽器をもっている。女の子は頭に大きなリボンつけている。みなおしゃれである。

 この日付を見て驚いた、昭和15年である。「ミドリ楽団」の前身だ。細細と発足したのかと思ったらそうではなかった。関係者の証言よると、「音楽と舞踏」、両方をやっていたようだ。演奏して踊ってみせる。勝れたパフォーマンスだ。彼女らの出で立ちから舞踏の様子も伝わってくる。思いっきり踊ってはそれを観客に見せていたに違いない。もう洋舞がこの地域に入ってきていたと分かる。

 「ミドリ楽団」を追っていて思うのは学区域一帯、鉄道交点の文化風土だ、その写真一枚に当地の濃厚な芸術文化が映っている。思ったことは、昭和八年に下北沢で鉄道が交差し、利便性が増して人々が多く集まってきた、写真に写っているおしゃまなお嬢ちゃんとお坊ちゃんは鉄道交点の産物だったと。

 「下北沢代田界隈狐狸伝説」、これへの反応が興味深い。北沢住まいの古老、三十尾生彦さんの感想だ。

  田んぼ 畑 雑木林 竹林 点在民家 細流 大正・昭和の初期の頃は妖怪の世界だった。

 このコメントを読んで、「やっぱりそうだったのか」と思った。一帯には暗がりの道があって、雑木林には息を潜めてキツネが待っていて人間を化かそうとしていたのではないか。あそこにもここにも妖怪がいた。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月08日

下北沢X物語(3032)〜下北沢代田界隈狐狸伝説〜

CCI20160508_0000(一)「明治妖怪ニュース」(柏書房)がある。明治という時代妖怪達が跋扈していてそんじょそこらどこにでも現れていた。それが地方紙にニュースとして多く載っている。これをまとめたものだ。かつて自然が豊かだった時代、狐狸達は大活躍をしていた。彼らにだまされた人間たちがいかに多かったか。

 私は、狐狸話は好きだ。この妖怪が跋扈する世界から抜け出ることによって近代日本は生まれた。その痕跡を求めて山北や碓氷に取材したことがある。この代田でも狐塚を訪ねたことを記した。検索で拾ってみると、2005年03月25日の記事にあった。189回目に「今日は代田狐伝説を訪ねる旅だ」として書いていた。もうあれから十年が経つ。

 最近知ったのは、羽根木在住の細野巌さんが下北沢代田界隈で「狐に化かされた」という。彼は明治三十一年生まれである。西暦では一八九八年である。「私が二十二三歳の頃」とあるので、単純な足し算で時代が分かる。大正十年だ、既に鉄道時代は到来していた。南には玉電、北には京王線が走っていた。ところが当時の常で、電車には乗らない。みな歩きである。歩行ゆえに価値がある、歩きだからこそ化かされたのだと思う。

 どこで化かされたか興味深い問題だが、その日の道行きの径路が記されている。当時の交通ルートが彼の足取りをたどることによって見えてくる。出典は、『羽根木−明治末期からのあれこれ』(細野巌著 昭和47年刊)である。


 秋の初めの頃、商用で歩いて上馬引沢から三軒茶屋に出て太子堂、池尻を廻って帰り道のことである。当時でも玉電通りにはかなりの人家があったが、少し手間取り帰りが遅れ夕方になった。太子堂から下北沢の三軒家に出て代沢小学校の横を貫け、外乱塔の墓場の前を通り西山谷の下に出た。

 彼の家業は「小規模の醤油製造業を営ん」いたとある。その場所は羽根木一丁目だ、番地枝番を「ゼンリン住宅地図99」で確認する。当該番地、敷地はあって草マーク、時代の流れを思う。

 商人だった細野さん、羽根木からは堀之内道を通って上馬に出た。そして左折して大山厚木街道をゆき、そのまま池尻まで出た、ここで引き返す、その通りはにぎやかだった。南手には駒沢練兵場、そして野砲兵兵営が続く。そして三軒茶屋だ、ここから下北沢へ向かう。なるほど「下61」現在の小田急シティバス、北沢タウンホール行きと同じだ。が、問題はここだ、今で言えば「茶沢通り」に当たる、しかし、当時これはない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(5)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月07日

下北沢X物語(3031)〜陸軍獣医学校動物処分補遺〜

CCI20160507_0000(一)地域の些細な出来事に歴史が潜む、これらを地道に拾っていくと発見がある。支流エピソードが本流の歴史へと繋がっていくからだ。北沢にあった「東京セロファン工場」などもその一つだ。この社史が少しずつ分かっている、東京近郊工業勃興史に位置づけられる。が、現実にはうち捨てられている。

 代沢小「ミドリ楽団」の歴史を調べている、これも児童楽団音楽文化史の嚆矢として位置づけられるものだ。疎開時代の音楽会には学校近隣、土地の芸術文化が色濃く反映されている。出し物としての日本舞踊を一人が演じると息を飲むほどに所作が美しく、地元民などは度肝を抜かれた。藤間勘七龍に習っていた子だ。この流派今も下北沢「オオゼキ」裏手にある。また、レコードの軍歌に合わせて兵隊服の女子が洋舞を舞った、「ギョへー」と誰もが驚く。

 「ミドリ楽団」は、米軍慰問だけではなく、カスリーン台風での被害者、また上野動物園来訪者に向けて音楽演奏をしていた。後者では猛獣舎にはブタばかりで驚いたとの証言があった。もとをたどっていくと上野動物園での戦時における猛獣処分の問題に行き着いた。これに深く関わっていたのが代沢小の学区域にあった陸軍獣医学校だった。

 運命の糸である。下北沢頌栄教会の側に住んでいた立川裕子さん木村みどりさんに宛てて手紙を出した。昭和21年の1月に出した手紙は宛先不明で戻ってきた。当の木村さん、父親が陸軍獣医学校の教員だったが満州に行かされた。みどりさんは日本に帰国するために朝鮮半島を苦闘しながら南下していた。このみどりさん、拙著『鉛筆部隊と特攻隊』の中に自分宛の手紙を見て心底驚いた、これはもう二年前のことだ。

このいきさつについては「68年の時を越え、友の手紙が手元に」という記事で、「デーリー東北」(2014年9月15日(月)09:00)に掲載されている。


 さきの上野動物園の戦時猛獣処分の話だ。当会役員だった獣医の広島文武氏から聞いていた話があった。殺処分された動物は陸軍獣医学校で解剖されたとあったが、生きたままここに連れてこられていたとの話を聞いていた。この話を裏付ける記述を妙なところで見つけた。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月05日

下北沢X物語(3030)〜タンチ山高射砲は都市伝説〜

P1050947(一)荏原一帯をさるき歩いてきた、面白いのは至る所に都市伝説が転がっていることだ。変貌が激しくて一つ一つを検証する間もなく歴史が流れて行く、日々を生きていくには主観的に上っ面だけを理解するしかない。伝説が生まれる所以である。

 昭和二十年五月二十四日「通称タンチ山に新設された高射砲陣地が猛烈な射撃を開始した」というのもどうやら都市伝説である。これを記述した文章は、こう続く。

 駒沢のこの高射砲は、本来は海軍の高射砲で、陸軍のそれに比して口径が大きく有効射程距離が九千メートルあるという噂だった。B29は、ライトの中を悠然と高度を保ち東にすすむ。サーチライトは機体をがっちりと捕らえて中天で更に東のライト群に渡し、大急ぎで西の空をかき回しては新しいB29を探し出して捕捉する。とたんに高射砲群が激しく撃ち出す。まるで流れ作業だ。
『戦争中の中学3年生』−私立日本中学校 勤労報国隊の記録−日本中学校昭和21・22同期会編集委員会


 初めて聞く噂だ、「駒沢高射砲陣地の高射砲は海軍のもので成層圏を飛ぶB29を撃ち落とすことができたのだ」と。ところが残念、現場の長である、中隊長だった内藤悌三さんは、「幾ら撃っても当たることはありませんでした」と。高射砲第一師団陣地一覧表によるとここの高射砲は「七高」と記されている。内藤さんは、これは「八八式7.5cm野戦高射砲」のことだと言われる。残念ながら高高度を飛ぶB29は撃ち落とせなかった。

 この筆者は、駒沢高射砲陣地の砲が五月二十四日に敵機にボンボンと撃ったという。この日のことを彼はこうも書いている。

 弟と二人で屋根に上って見ていたが、時々高射砲弾の破片がガッチと屋根に当たるようになったので慌てて防空壕に入る。破片で大怪我をした人の話を思い出したからである。ズンッ・ズンッ・ズンッと壕がゆれる。 

当初は屋根の上で高みの見物と決め込んで、B29飛来の様子を眺めていた。ところが応戦する高射砲弾の破片が飛んでくるようになって防空壕に入った。この場合の破片は文脈からすると駒沢高射砲陣地からのものである。

 「俺たちの戦争」を書いた筆者がどこにいるのかも問題だ。首都決戦部隊が「わが家から二百メートルほどの駒繋高等小学校にも駐屯して毎日訓練していた」とのこと。この学校現在の三軒茶屋小学校のところにあったようだ。筆者は終戦後、家の神棚をおろして「百メートルほど離れた蛇崩川」にほうりこんだとある。見当がつくのは今の三軒茶屋小学校の近くの蛇崩川沿岸に住んでいたようだ。駒沢高射砲陣地はこの蛇崩川をさかのぼったところにある。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月04日

下北沢X物語(3029)〜憲法記念日とタンチ山と探知者〜

P1050949(一)探知探訪は果てがない、このところタンチ山のタヌキを追っている。が、5月に入っての2日、3日は別の探知で忙しい。

 2日は代沢小学校で第九回の「戦争経験を聴く会、語る会」の打ち合わせを行った。「戦争経験」の伝承がどんどん希薄化する中でこれをどう伝えるか課題だ。世田谷区教育委員会の助力を得て、学校児童に戦時の歌をうたってもらえないかと相談していた。この代沢小には知られざる戦争秘話が眠っている。音楽逸話、「戦火を潜り抜けた児童音楽隊」のことは全く知られていない。この逸話を核に今回、第九回目を迎える「戦争経験を聴く会、語る会」を5月21日に開催する。学童が加わって歴史を紐解くという試みだ。


 当日は、溝口校長先生と音楽担当の先生との打ち合わせである。持参した「ちらし」の写真に目を留められたのは音楽の先生だ。「ミドリ楽団」が舞台で演奏している場面だ。
「この写真アニーパイル劇場の公演風景ですか」と女の先生。
「よくぞ聞いていただきました。これは米軍が接収していた横浜の劇場です。『オクタゴン劇場』といいます。観客が千人、米兵がぎっしりと入ったみたいです。ステージには、『THE DAIZAWA SCHOOL CHILDREN'S BAND』と横断幕が飾ってあるでしょう。私は、この『ミドリ楽団』が演奏しおわった後、日本のジャズメンが演奏したのかと思っていたら、さにあらず、『イースター・パレード』が上映されているのです。ミュージカル映画ですね、ジュディ・ガーランドとフレッド・アステアが出演しているんですね。これ驚いたことにいわゆる総天然色ですね、『ミドリ楽団』の連中はこの映画を見ているのですよ」
 
 このときどんなショックを受けたろうと思う。この『ミドリ楽団』の話は、すべて異文化衝突である。成長途上の子どもたちがつぎつぎにアメリカ文化に出会って仰天していく。

「代沢小にそんな驚くような歴史があるのですか」
 音楽担当の女の先生の言である。過去の情報に触れることによって知られざる児童音楽文化史が明らかになりつつある。

 3日は『憲法記念日』、毎年この日「リベラル日本研究会」の催しが続けて開かれている。今回のテーマは、「公文書管理・情報公開・秘密保護法の現在とこれから」である。狙いの趣旨は、「政府情報の適切な公開がなければ、憲法の定める国民主権も絵に描いた餅」と記されている。それで、『政府情報公開』をテーマに取り上げ」たとのこと。この会が下北沢、北沢タウンホールで開催された。

 今朝の新聞を見る。昨日の憲法記念日ついては「憲法改正の是非 正面から」とあり、一方は、「改憲派『緊急事態条項を急げ』」と、もう一方は「護憲派 『戦争を絶滅させよう』」とある。ホットな話題を提供して読者を惹き付ける。その点からすると、「公文書管理・情報公開・秘密保護法の現在とこれから」は地味である。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月02日

下北沢X物語(3028)〜タンチ山高射砲伝説を追って掘

P1050946(一)このところずっと続けてタンチ山を探知している。疑念が晴れないからだ。タンチ山そばの駒沢高射砲は解体され、貨車で運ばれ、昭和二十年の五月末には富山の伏木港に移駐して据えられた。隊員自らモンケン打ちで基礎を築き据えられた。よって山手大空襲時には世田谷にはないはずだ。なのに大挙して押し寄せたB29に向かってボンボンと砲が発射されたという、大きな謎だ。真相を求めて聞き込みを続けている。

 しかしだ、あれからもう七十一年も経過している。「その頃のことを覚えている人はもういなくなっちゃったね、あの人も死んだし、あの人も病院に入っているし…」とのこと。そしてまた多くが新住民で、往時を知るものはいない。


「近所に駒沢高射砲陣地のことを覚えておられる方がおられます」
 朗報が電話であった。探訪行のとき、駒沢地区会館の世田谷区の吏員と出会った。この方、親切な人で近隣に古老がいないか当たってくださった。駒沢3丁目におられるという。この東どなりの2丁目に駒沢高射砲陣地はあった、至近距離である。

 田中重明さんは、大正15年生まれの89歳、まさに古老である。玄関でちょっと数分のつもりがつい長引いて一時間以上も話を聞いた。この方、わかってみると「特幹」だった。いわゆる特別幹部候補生である。戦争末期、下士官が払底してきて戦争遂行が困難になってきた。それで新制度を昭和18年12月に制定し、短期間でこれを促成教育し、戦場に送り込んだ。
 船舶と航空の操縦要員は陸軍海上挺進戦隊など特別攻撃隊員として戦死した者も少なくない。兄を水上特攻で失ったという人とも過去には出会っていた。

 田中重明さんは、この陸軍特別幹部候補生に応募した。憧れの飛行操縦士をめざしてのことである。が、適性検査ではねられ、通信要員として茨城県東茨城郡の陸軍航空通信学校長岡教育隊で教育を受けた。
「昭和20年3月10日のときは水戸の通信学校にいましてね、夜、西の空が恐ろしいぐらいに真っ赤に染まっていましたね…それで長岡教育隊で教程を終えたのです。ここへの入校が昭和19年の4月、水戸に行って通信教育を習って、長岡に戻りました。これが19年の12月です。このときに配属が決まって南方へ、満州へと振り分けられたのです」「ああ、南方に回された人は悲惨でしたね、任地に赴く船の多くが沈められて通信隊終了組は死んでしまったんですよね…」

「そうそう南方に行かされた者、満州に行かされた者、多くの戦死者が出ています、私は行き先が決まらず遅くになってようやっと北海道に行かされたのです、それで助かったのです…」
 陸軍特幹の逸話には方々で出会ってきた。「特幹の歌」というものもあった。松本浅間温泉にいた疎開学童は兵士たちが歌うこれを聞いていた。長野山中にも様々な形でこの特幹が入り込むでいた。新鋭機の「飛龍」に要員として乗り組み陸軍松本飛行場に来ていたものもいた。続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年05月01日

下北沢X物語(3027)〜会報第118号「北沢川文化遺産保存の会」〜

CCI20160322_0002
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第118号 
               2016年5月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
                  
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                  会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
一、戦争と音楽〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜代沢小ミドリ楽団

1、山手大空襲を記念して

また再び五月が巡ってきた。毎年、この月に「戦争経験を聴く会語る会」を開いてきた。今度でもう九回目である。当初、こんなに長く続くとは思わなかった。やはり継続は力、続けると続いていく。
 どうして五月なのだと問われる。昭和二十年五月末に当地一帯は空襲を受けた。山の手空襲と呼ばれるものである。いわゆる東京大空襲とは違うものだ。が、この大爆撃によって日本国家が息の根を止められた、この事実は知られていない。
 戦争の記録については、敗戦国側の資料はあてにならない。終戦前日に戦争に関わる文書の焼却が命ぜられて多くは灰となってしまい、過去資料はこれで失われた。皮肉なことに敵の資料によって真実を知るということになる。
 米軍資料『日本空襲の全容』−マリアナ基地B29部隊−小山仁示訳 東方出版
1995年刊には山手空襲の実情が詳しく記録されている。要点だけ抜き出そう。

〇作戦任務大181号
 1,日付 1945年5月23日
 2,目標 東京市街地
 4,出撃機数 558機
 *合計3,645,7トンの焼夷弾が第一目標に投下された。
〇作戦任務大183号
 1,日付 1945年5月25日
 2,目標 東京市街地
 4,出撃機数 498機
 *合計3,262トンの焼夷弾を第一目標に投下し、甚大な被害を与えた。


上記を総計すると二日に亘る空襲では、飛来機数は1056機で、爆弾投下トン数は、69007トンである。一方、いわゆる東京大空襲の場合は、飛来機数は325機、焼夷弾投下トン数は1793トンだった。こちらの人的被害は甚大で十万人が亡くなったとされる。
 が、物量的には山手空襲の場合の方が空襲の規模は遥かに大きい。爆弾投下トン数だけみても三倍以上の上る。しかも二日に亘って爆撃を実施した。緻密に計算された爆撃だった。例えばこんな話がある。
 「進駐軍による大山町の家屋接収」には、こんなエピソードが記されている。「軍の宿舎用に、大山町・松濤町など焼かないで残した」と米軍の関係者が言ったとされている。代々木練兵場を駐屯地としその回りにある高級住宅地は将校用の宿舎として使うために爆撃リストから外したというものだ。

 しかし、五月末に千機を超す重爆撃機を飛ばし、七千トンもの焼夷弾を落としたことは米軍に大きな狙いがあったからだ。東京大空襲によって下町は壊滅した。残るは東京西部だ、こここそが首都東京の心臓部だった。これを徹底して叩くことで日本の国家の象徴である東京を壊滅させる、そのことによって終戦を迎えるだろうと。実際にこれは大きな成果をあげた。米軍は山手空襲を敢行しことごとく東京を焼き払った。これによって東京を攻撃目標のリストから外した。しかし、軍部は、本土決戦を主張し戦争は終わらなかった。ついには八月六日広島に、九日には長崎に原爆が投下された。多大な犠牲を払って八月十五日に戦争は終わった。

2、戦争と音楽−新たな試みとしての戦争伝承

 戦争から七十一年が経つ。戦争経験者も老化する一方である。そのことは何を意味するか。体験を語る人がどんどんいなくなっていることだ。第一回目頃は戦争に参戦した人からの話もあった。が、経験者の高齢化が進行することでそういう人もいなくなってきた。こうなってきたときに必要なことは工夫である。人が行ってみようかと思うような会の工夫が求められる。それで、テーマを「戦争と音楽」にした。それが以下である。

戦後71周年記念
薄れゆく戦争の記憶を残すために! 子供が歌う、戦争と平和


第9回 戦争経験を聴く会・語る会

戦争秘話を証言と歌と演奏とで伝える試み

戦争と音楽−戦火を潜り抜けた児童楽団:ミドリ楽団



戦争中の音楽文化史の秘話だ。代沢小の音楽教師浜舘菊雄先生は全国に先駈けてバンド部を作った。が、折悪しく戦争に突入した。それでも先生は音楽は人の心に勇気を与えると疎開先に楽器を持込みんだ。陸軍決部隊などを慰問しもした。再疎開では楽団は真正寺に集まり演奏技術を保った。戦後、ミドリ楽団と名を代えたバンドはアメリカ軍の病院慰問をきっかけに評判は広まり、ついにはアニーパイル劇場での三日間連続の公演が実現する。そして「昭和二十五年十二月十六日に、極東に駐在する全米軍に向けて、進駐軍放送AFRSから放送されたみどり楽団のクリスマスソングや日本の歌は、同時にテレビニュースとして収録、クリスマスの日に全米にテレビ放送され」た…。

3、当日のあらまし

・第一部 戦争経験を聴く会を開いてきた意義
「戦争と音楽」を「戦火を潜り抜けてきた児童音楽隊」を実例として取り上      げる。その具体的なことの一端を代沢小の学童の歌を聴いて知る。
 ・第二部 「ミドリ楽団」の関係者に実際の証言をしていただく。
      「ミドリ楽団」の演奏レコードを聴く
      「ミドリ楽団」の戦後の活躍について説明   
 今回は、代沢小学校が疎開先で歌っていた校歌、「代沢浅間學園の歌」、また再疎開先で歌っていた寮歌、「聖が丘学寮の歌」、「真正寺学寮歌」を代沢小の合唱団に歌ってもらう。また、ミドリ楽団がよく演奏していた童謡数曲も彼らに歌ってもらう。
今回、世田谷区教育委員会を通して代沢小や山崎小に合唱団の臨時編成をお願いしたところ両校は快く引き受けてくださって今回の会を開くものである。

日時 2016年5月21日13時30分より(開場13時)
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 世田谷区教育委員会
協力 世田谷ワイズメンズクラブ リベラル日本研究会
  会場 下北沢「東京都民教会」 世田谷区代田5-35-2 
京王井の頭線 下北沢駅 西口から徒歩4分
◎定員70名、先着順受け付け。開場13:00


 問合わせ先 きむらけん Fax03−3718−6498
          星野弥生  Fax03−3427−8447
〇入場無料 なお、当日会場準備、整理などボランティアが必要です。お手伝い下さる方は12:30分に教会に集合してください。

二、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第117回 5月14日(土)午後1時 東急大井町線等々力駅改札(注意:第二週)
 世田谷江戸道を歩く(付:グルメ旅) 案内人 木村康伸ほか
コース:等々力駅→満願寺→野毛道・江戸道交差部→満願寺坂→等々力不動(モンターボ・パン)→秋山の森(日の出納豆)→庚申塔→大山厚木街道交差(神田屋に立ち寄り新鮮な魚)→駒沢給水塔→向天神→駒沢高射砲陣地(パオン・アップルパイ)→駒沢大学駅。


・第118回 6月18日(土)午後1時
 東急目黒線/都営三田線/東京メトロ南北線目黒駅地上正面口前
 恒例三田用水を歩く(第3回目)  キュレーター きむらたかし氏
前回からの「順番」からすると恵比寿ガーデンプレイス→五反田駅となる。が、戦前からの道路計画が動きはじめたため、近々三田用水の「遺構」が数多く消滅するおそれがあることからこちらのエリアを先行探査したい。
コース:東急等目黒駅前−山の手線水路橋跡−鳥久保分水口跡−妙円寺脇分水口跡−今里橋遺構−久留島上口分水遺構−今里村築立場跡−今里地蔵−久留島上口新右岸分水跡−雉子神社−JR/りんかい線大崎駅(午後5時ころ解散予定)
・第119回 7月16日(土)午後1時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
 恒例駒沢練兵場を歩く 案内者 世田谷道楽会 上田暁さん
三軒茶屋駅→昭和女子大野砲兵碑→韓国会館(元兵営建物)→下馬馬魂碑→世田谷公園(駒沢練兵場跡など) 昨年、世田谷平和資料館が開館した。館の会議室が使えるよう交渉中である。  
・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒Q 新庄靖弘さん
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く
・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線 大森駅西口改札口前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
シモキタ猫町文学散歩(仮)     案内者 きむらけん
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記

▲第2回北沢川文化遺産保存の会研究大会 テーマ シモキタらしさのDNAを語る  副題 消えゆく街の歴史を残そう 開催日時2016年8月6日10時00分より(
場所 北沢タウンホール 12階 スカイホール 会費500円 納涼会3500円
▲毎月、街歩きを行っている。第116回から「行事保険」に加入することにした。一人30円だ。実数が掴めず予測で支払いをするのでロスが出る。また計算も面倒なので50円としたい。したがって歩く会参加費は資料代、保険代含めて550円とする。できるだけ実数を把握したいので五日前までに申し込みをするということにした。皆さん、ご協力ください。お名前はフルネームでお願いしたい。事故があった場合に必要になる。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。

〇写真は、横浜オクタゴン劇場で演奏する「ミドリ楽団」(片山淳子さん提供)




rail777 at 07:18|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月29日

下北沢X物語(3026)〜タンチ山高射砲伝説を追って供

P1050944(一)タヌキが汽車に化けるという話は全国各地にある、が、タヌキが高射砲に化けたという話は皆無だ。しかし、昭和二十年五月二十四日、「通称タンチ山に新設された高射砲陣地が猛烈な射撃を開始した」との記述に出くわした。しかもこの記述者は、「下っ腹に響く高射砲の連続発射音」を受けている。居住場所が陣地にかなり近かったらしい。高射砲の発射音を腹部に感じていたようだ、ところがこの時期、この隊は遠く富山県高岡に既に移駐している。陣地はモックアップを置いてカモフラージュはしていた。実質はもぬけの殻だった。それで妄想が浮かんで来た。応戦したのはタンチ山のタヌキたちだったのではないか。 

  人間勘違いということはある。それで記述者の居場所が問題になる。つまり、当地から離れていれば別の高射砲陣地の応戦を駒沢のと勘違いしたかもしれないと思った。文集に『俺たちの戦争』を書いた舟生禮二さんはどこに住んでいたのか。そこを解明する手掛かりとなる近隣の様子を描いている。当時、近くに「首都決戦師団」の駐屯部隊が自宅近くにあった。こう書いている。

 東京の場合は第百二十一師団などで、別枠を「首都決戦師団」という。わが家から二百メートルほどの駒留高等小学校にも一個中隊が駐屯して毎日訓練していた。つぎはげだらけの軍服を着せられた兵士たちは戦車に見立てたリヤカーに駆けより背中に「かます」を背負ったままリヤカーの下に滑り込むのである。詰め襟の、おっそろしく時代がかった軍服をつけた、ほどんど「じいさま」のような大尉どのが、兵士がヨタヨタとリヤカーのそばにうずくまるたびに「爆破フセイコウ−、敢闘精神に欠けとーる!」などしおから声で怒鳴るのである。

 かり集められた年を食った応召兵が本土決戦に備えて訓練をしていた。当人達は大まじめである。が、既に勝敗は決している。が、軍部は頑なに本土決戦を主張した。リヤカーを戦車に見立てての訓練はいじましい。

 筆者は駒留小学校の近くに住んでいた。これはどこか仲間のきむらたかし氏の調べでは、世田谷小学校ではないかと。現在の三軒茶屋小学校にあった学校ではないかと。上馬に隣接していて駒沢高射砲陣地とも近い。ここに住んでいるとすれば他の高射砲陣地と間違えるはずはない。

 居住区を当てるもう一つのヒントは川だ、終戦後彼の父は神棚をおろして「俺に担がせて百メートルほど離れた蛇崩川に来」ここにほおりこんだとある。蛇崩川沿岸だったと分かる。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月28日

下北沢X物語(3025)〜タンチ山高射砲伝説を追って〜

P1040751 山手空襲時に駒沢高射砲陣地ではB29に応戦したという、もしかしたらタンチ山のタヌキたちが化けて現れて砲を操作したのかもしれぬ、タンチ山高射砲伝説が思われた。

(一)駒沢高射砲陣地の全貌については当隊の中隊長にじかに話を聞くことでわかった。彼らは昭和二十年四月末に陣地の砲を分解して氷見線能町へ貨車で送った。これを組み立てて伏木港防衛の任務に就いた。ゆえにこの年五月末の東京山手空襲のときは駒沢にはいなかった。ところがとある資料に行き着いた。これには当夜の空襲で駒沢の高射砲が火を噴いていたとあった。「えっ?」、駒沢高射砲隊が去った後に新たな高射砲隊がやってきたのだろうか、謎である。

世田谷弦巻のタンチ山は伝説の地だ。しゃれで言ってみると、タンチ山は探知山だ、これのルーツを探し求めて行くと伝説にぶつかる。

 まず古い話だ、当地に長徳寺という寺があった。世田谷吉良家の息の掛かった寺だ、世田谷城第二陣の砦として設えられた、が、吉良氏は水軍の出先機関本芝にこの寺を移転させた。横浜蒔田を氏は支配していて「蒔田殿」と言われていたことは有名な話だ、本芝は横浜蒔田との交流の基地であった。時は移り、戦国時代から一気に飛躍して戦後になってこの寺は世田谷上北沢に移転してくる。面白い展開だ、で、タンチ山の真偽を確かめようとこの寺を訪ねた。この住職さんは日本中学出身者だった。帰り際に二冊の資料をいただいた。その一冊が、『戦争中の中学3年生』−私立日本中学校 勤労報国隊の記録−日本中学校昭和21・22同期会編集委員会(1999年12月発行)の文集だった。

 この四月、東大原小がなくなり下北沢小学校になった。これに伴って『さようなら 東大原小学校』という文集が送られてきたことから思い出したことがある。東大原小、第三荏原から日本中学へは一つのコースだった。この関係で頂いた二冊の日本中学の文集を思い出した。これでなにげなく見ているとタンチ山のことが出ていた。

 この文集の中で舟生禮二さんは「俺たちの戦争」として自身の戦争経験を語っている。昭和十七年四月十八日の忽然と襲ってきたドーリットル空襲をも記述している。新聞の見出しである。

「帝都空襲の敵機撃退・九機撃墜我方損害軽微・皇室御安泰」
 
 事実は、「対空砲火、防空戦闘機によって撃墜された事実はないのである」と彼は記す。大本営発表、新聞
報道は嘘、虚構を記して国民を欺いた。体制側は国民を騙す。昨今、秘密保護法などによって国民の知る権利が侵されつつある。黒塗りの書類を見せながら「我方損害軽微農民農家御安泰」と言ってTPPに関する情報開示を拒んでいる。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月26日

下北沢X物語(3024)〜「ああ、第三荏原」、さようなら東大原小検

画像2 069(一)近代時間は高速で流れて行く、事象を深く考えることが困難になってきている、が、必要なのは自分の心のうちに自分を批評する目を育てていくことである、それが民主主義だ。これを怠ると人は権力側に都合良く使われる、場合によっては命を使い捨てにされる。その歴史を考える上で「奉安殿」は忘れてはならない。

 もう「奉安殿」は死語に等しい、人は既にこれを忘れている。が、下北沢一番街大月菓子店の大月文子さんは、よく「東大原小」の奉安殿の話をした。

 奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。

 今回の『さようなら東大原小学校』には彼女が言ったことばが載せられている。インタビューを受けているが、やはり「奉安殿」のことは忘れられなかったようだ。彼女の東大原への思いはこれに尽きる。

 (アルバムに)奉安殿と校門前の築山が写っているでしょう?毎朝校門を入るとこの築山のあった二宮金次郎さんの像に礼拝して、そのまま校庭を突っ切って奉安殿に行き、拝礼をしてから校舎に入っていきました。雪のときなんか校庭がぬかるんで奉安殿に行くのが大変だったのを覚えています。この前で「皇紀二千六百年」って歌っていたんです。

 大月文江さんは律儀だったことがわかる。彼女北沢郵便局に勤めていてとなりのご主人に見初められて結婚したようだ。一つ一つをおろそかにしない商売人のご主人はそれを見抜いていたのだろう。彼女は温かい心を持っていた、大月菓子店は心の交流の場だった、人が多く集まるから情報も集まる、文化探訪の過程で何千人と出会った、筆頭に思い出されるのは彼女だ。

 建築家今井兼次さんの息子さん兼介さんとはここで知り合った。
「父はね、原爆ドームのはす向かいにある本川小学校の奉安殿を設計しているのですよ…」
 原爆資料館には大きなジオラマがあった。本川小学校の奉安殿だけはぽつんと建っていた、そんな記憶がある。

 東大原小の奉安殿についてもう一人の人が記している。福田達夫だ。

 六年生になる時、第三荏原小学校は東大原国民学校と名前を変えた。校庭に立派な奉安殿が建って神格化された天皇皇后の写真が収められ、毎日の登下校に拝むことになった。
 先日、北朝鮮の金正日を称える為の小学生達が歌っている映像がテレビに写っていたが、繰り返し誕生日を暗誦し尊敬を誓うかん高い合唱を聞いているうちに、過ぎし日の奉安殿や「日の出だ日の出だ、鳴った鳴ったサイレン、皇太子はお生まれになった……」と唱った昭和九年の幼稚園児だったことを思い出し憂鬱になってしまった。  『戦争中の中学3年生』−私立日本中学校 勤労報国隊の記録−日本中学校昭和21・22同期会編集委員会


 人間を一色に染め上げる教育、皇民化教育である。そのシンボルが奉安殿であった。特定の人物を国家が崇め奉るようにする。我々は北朝鮮の施策を嗤い、非難するがついこの間まで同じようなことをしていたことは忘れてはならぬ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月25日

下北沢X物語(3023)〜「ああ、第三荏原」、さようなら東大原小掘

CCI20130515_0005(一)近代戦争史は日々闇の中に包まれていく、浅間温泉富貴之湯には昭和二十年三月末、大勢の特攻隊員たちがいたことは分かっている。ここにいた武揚隊だけは調べることでだいぶ分かってきた。が、この隊だけではなく大勢の航空兵が泊まっていたがその全貌はわからない。その手掛かりはたった一つとなった。当時ここに滞在していた人の記憶である。

 当時、浅間温泉で一二を争う大旅館だったが、今は経営者も変わっている。東大原小の疎開学童の一人はここの経営者と親戚関係にあった。その方に取材する機会があったが代が変わり経営も変わり当時の記録も殆ど残っていないと言われた。残すところ当時まさにどんぴしゃり、ここに生活していた東大原国民学校の人の記憶しか残っていない。

 今回『さようなら 東大原小学校』では『特集 学童疎開』が組まれ、数人の証言が掲載されている。これらを読んで、ここに書かれたこと以外を覚えていないだろうか、興味を持った。19回生の岩谷豊彦さんは克明な日記をつけておられる。これによって東大原が昭和十九年八月十一日に疎開に出たことを知った。この日記には他の重要なことも書いてないか、電話で聞いてみた。彼の学寮は「栄の湯」だ。

 昭和二十年一月一日のお正月は特別で餅米の配給米が入って各学寮雑煮の入った餅を食べられた。このとき淺間温泉「千代の湯」では「おほきなお餅が三つはいっていた」、となりの「蔦の湯では七つ」も入っていた。岩谷さんは「栄の湯」だった。ここでは「五ケ」入っていた。当日のお餅の数を調べているわけではない、歴史とは無関係なことばかりが分かってくる。

「あの当時、寒かったこともあって外に出ることはありませんでした。航空兵の兵隊さんが町中を歩いていたなんか覚えはありません」
 男子と女子とでは違う。女子の宿泊所にしか航空兵はいなかった。彼ら男子は特攻隊員を目にしていなかった。71年経って、彼は驚いていた。
「浅間にはそんな大勢の特攻兵た来ていたのですか!」。

 戦争から71年経った。記憶は薄れつつある、東大原の浅間疎開組みを懸命に調べていたときがあった。その場合は、人から人だった。が、今になって考えると「同窓会名簿」を活用していればよかったと思った。これは前から持っていた。今回『さようなら 東大原小学校』を頂いてこの手法を思い出したのだ。
続きを読む

rail777 at 08:10|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月23日

下北沢X物語(3021)〜「ああ、第三荏原」、さようなら東大原小供

P1000490(一)学童疎開は遠い、過去の話となった。が、私は常々想像の中でこのときの情景が忘れられない。往時のことを想像して書いているからだ。まず、下北沢を出て行った日、代沢国民学校の場合は昭和十九年八月十二日だった。この日の夜のことはあらゆる記述に当たった。今では疎開経験者以上に知っている。
「あなた、あのときにそこにいたのですか?」
 こう聞かれることは何度もある。
「お宅何回生ですか?」
 昨日、電話したときにも東大原の同窓生に問われた。が、無関係者であるが深い興味を持っている。

 疎開学童の出発に関してはかねがね疑問思っていた。東大原と代沢の疎開出発が重なっていたのではないかと。東大原は生徒の実数だけでも596名だ。代沢は468名である。これに引率など付き添いが加わる。当時、疎開出発の夜は学校の校庭で壮行会が行われた。父母の見送りは学校までと決められているが、もう二度とわが子と会えないのではないかと駅まで親が付いていった。人はこれだけではない、町会上げての見送りで校門出たとたんに道の両脇を群衆が埋めていた。真ん中に開けられた通路を学童達は、提灯の灯りを先頭にして駅まで行った。

 八月十二日は東大原と代沢で下北沢駅は大混乱だったのではないか?過去のことながら私は心配していた。ところが『さようなら東大原小学校』にはちゃんと記録があった。一九回生の岩谷豊彦さんは「集団疎開の日記から」ということでこれを転載されている。

 昭和十九年八月十一日(金)
 新宿から松本駅へ児童をのせて行く臨時列車この時、十二時十五分懐かしい東大原、東京との別れの時間。


 この記録を見て安心した。しかし、十一日もまた大混雑だったろう。疎開学童約600名、付き添いそれに見送りは親兄弟1000名、隣組なども加わり大混雑だったはずだ。

 21回生雫石幸子さん、「夕方校庭に集まり、暗い中を列をつくって、下北沢駅へ行き大勢の親たちの見送りを受けて新宿へ」とその手順が記されている。この夜もおおよそ二千人以上が彼らを見送った。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 

2016年04月22日

下北沢X物語(3020)〜「ああ、第三荏原」、さようなら東大原小〜

さようなら東大原小学校(一)つい二三日前、文集『さようなら 東大原小学校』が送られてきた。東大原小同窓会の臼井良雄さんが送ってくださった。「閉校記念文集ができました。学童疎開の文も多く集まりました。寄贈いたします」とあった。伝統ある学校東大原小が学校統合により名が消えた。在校した多くの人々の思い出がここには綴られていた。めくると懐かしい名前が散見される。十四回生 大月文江さんの名もあった。

 彼女は下北沢一番街で「大月菓子店」を営んでいた。私はここに度々行っては多くの人を知った。文江さんの紹介によるものだ。それが皆、東大原小の同窓生だ。

 東大原小のすぐ近くにダイダラボッチの跡がある、ここを「東京府巨人伝説の一個の中心地」だと柳田国男は述べている。これをもじって言えば「東大原小は東京の歴史文化伝説の一個の中心地」といえる、私は卒業生の証言から見落とされていた近代文学史の一端を、また近代戦争史の欠落した部分を拾いもした。東大原小の卒業生は、質の高い歴史文化逸話を頭脳に宿している。

 昨日、この文集を読んでいて、気になることがあった。かつて読んだことのあるエッセイ『運河のある風景』だ。書いたのは福田達夫さん、詩人福田正夫さんの御子息である。
 
 この彼のことを紹介してくださったのが彼の同級生、今井兼介さんである。その彼は、分厚い冊子、『戦争中の中学3年生』(私立日本中学校 勤労報国隊の記録)を取り出してきた。
「福田君、ここら一帯の戦争時代の様子をこれに詳しく描いていますよ」
 私はこれの複写を持っていた。改めてこれを読むと、開戦時の東大原小の様子が書いてあった。
「あのころね、何人か集まって同人誌を出していましたよ」
 小学生にして同人誌、ませていた。知的好奇心が旺盛だったようだ。今井兼介さん、それと福田達夫さん、東大原から日本中学に進学している。「第三荏原」から日本中学へは一つのエリートコースだった。

 さて、『戦争中の中学3年生』には因縁がある。以前「タンチ山のタヌキ」について調べたことがある。弦巻には長徳寺があってこれが本芝に移転する。弦巻時代にタヌキ伝説が生まれている。この寺今は世田谷の上北沢に移っている。何年か前、ここを訪ね、住職からタンチ山のタヌキ伝説の委細を伺った。

 帰り際に資料といって二冊の文集を渡された。そのうちの一冊が、なんとまあ先の『戦争中の中学3年生』だった。彼もまた日中出だと知った。

 私はここに載っているものでは、福田達夫さんの複写しか持っていなかった。「そういえば」と思って、改めて全体が載っているものを昨日、点検した。

 日本中学に在校していた彼らが戦争時のことを手記形式で書いている。読んでいるうちに『運河のある風景』の後に載っている舟生禮治さんの手記に目を惹かれた。『俺たちの戦争』という題だ。冒頭に日本中学の校門を出た後、「玉電の七軒町に向かって歩く」とあった。なるほど日本中学の連中は「七軒町電停」から乗降していたのか!、これは個人的な感動だ。

 しかし、もっと驚いた箇所がある。ここに至って椅子から転げ落ちそうになった。お〜い、歴史はどうなっているのだ?

 この舟生禮治さんは戦争の当時の記録を丹念に書いている。五月二十三日の山手空襲のこともあった。読み進めていくうちに、「ガーン」、この記録から鉄拳が飛んできた。なんと、

「山本(茂)君の家の裏手の通称タンチ山に新設された高射砲陣地が猛烈な攻撃を開始した」
 こう書いてあるではないか!。駒沢高射砲陣地に関する記録だ。

 「昭和二十年四月末に私たちは駒沢高射砲陣地の砲を分解してそれを伏木港に運び、ここで再度組み立てて五月には港の防衛任務に就きました…」
 ここの中隊長をしていた内藤悌三さんから証言を得ている、駒沢高射砲陣地は五月は、不在だ、木製のモックアップはあったかもしれないが本物はない、なのになんで弾を撃つのだ?、おいおい、一体歴史はどうなっとるんだい?

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月20日

下北沢X物語(3019)〜世田谷吉良氏を巡る旅掘

P1050941(一)世田谷吉良氏時代は、その連絡路は縦横的である。それは世田谷城近辺を歩けばたちどころに分かってくる。東西南北から道が集まってきている。案内者の木村康伸さんは「繋ぎの城」を吉良氏を読み解くポイントとした。即ち、本城と支城、砦、番所との間の連絡を保つ役目の城だ。いち早く情報を手に入れてそれに対応して機敏に動く、道は情報伝達の重要な役割を果たしていた。

 以前にタンチ山伝説を調べた。世田谷弦巻にあった寺にまつわる話だ。長享2年(1488)に武蔵吉良当主成高によって長徳寺は建立されている。この寺の位置だが蛇崩川の本流、支流に挟まれた舌状台地の背尾根にあった。その場所からして世田谷城の番所だったのではないかと思われる。この寺は成高の子、吉良頼康が江戸本芝に水軍の基地を設けたために芝に移転したという。永禄2年(1559)のことだ。

弦巻の長徳寺があった場所は世田谷城に通ずる古道の背尾根にあった。ここを通っている古道は、六郷田無道だ。品川道の一つだったと考えられる。世田谷吉良氏は海へ通ずる連絡通路を大事にした。吉良氏は水軍を持っていたからだ。

 世田谷城近辺に吉良氏は多くの寺院を配置している。これも繋ぎの城の一環、寺が防衛拠点になっていたと考えてよい。長徳寺は背尾根にあった眺望のいいところに見張りを兼ねた寺を配置したと考えてよい。

 先だって話題になったことは多くの寺社を城の周りに配置する場合は、その材が必要だ。それを運ぶための道がなくてはならない。川や海へ出る連絡路は重要だ。多摩川に出るルートは世田谷江戸道だ、本芝は水軍の拠点ここへも間違いなく道は通じていたはずだ。

 吉良氏は材を豊富に扱える財力があった。こういう逸話が記されている。吉良家は北条氏についていたことはよく知られる。その北条氏綱が鶴岡八幡宮の造営に着手する。天文9年(1532)である。造営には九カ年かかったという。

 この造営に吉良氏は横浜市の屏風ヶ浦にある杉田の湊に多くの材木を集積して、これを海上を三浦半島に迂回して鎌倉材木座の沖へ回漕した。これに要した人夫は延べ五万人であり、材木は・杉・檜・樅などの巨木を揃えている。
  『せたがやの歴史』(発行編集世田谷区、昭和五十一年刊)


これらの材はどこから運んだのか。多摩川にはいかだ道がある。奥地の材木を筏に組んで流した。その船頭がもどっていく道のことだ。江戸時代からのものと言われるが物流はこれ以前からあったのではないか。
続きを読む

rail777 at 09:24|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月19日

下北沢X物語(3018)〜世田谷吉良氏を巡る旅供

P1050932(一)中世吉良氏の痕跡をたどる旅には思いがけない発見があった、かつて交通路は縦横的・複合的であった。ところは現今は横断的・単一的であることだ。どういうことか。吉良氏時代、世田谷の交通路は縦横的だった。が、江戸幕府成立以降、交通路は江戸を起点とした街道が中心となり、当地交通は横断的となった。これは今も踏襲され交通路線は東西連絡が主となっている。人が環境の動物だとすると歴史観や文化観はこの横断線によって形成されているのではないか?

 つい最近出会った興味深いエピソードを紹介しよう。
 先だって「街を巡っての自由討議しませんか」との誘いがあった。代官山ステキ総合研究所の理事長、岩橋謹次さんからである。楽しくておもしろそうだ。それで会の仲間きむらたかしさんと二人で代官山を訪ねた。そして思い思いに語ったことだ。

 岩崎さんの話では先の三月、「代官山フォーラム」を開催したという。五校ほどの大学のゼミの学生が集まって研究発表を行ったと。これを聞いてふと思った。
「代官山と下北沢の街について比較研究したなんてことはないですか?。この夏に当方で研究会を開くのでそんな若い学生がいるといい思って…」と私。

「いませんね」と岩橋さん。
「そうですか?」
 当方、私は縦横的な発想でイメージを結びつけた。実は、北沢と代官山は繋がっている。それは水路、三田用水である。自由討議の原点はここにあった。
P1050936
「あっ、『代官山・自由が丘比較論』ってありますね、しかも2ってありますね!」
 彼ら学生の研究発表テーマの中にこれをみつけた。二つの街比較は面白い。しかし、これは東急東横線で繋がっている街比較である。先に述べた我等の既成的街観、横断的な例の一つではないだろうか。
「代官山と下北沢の比較は私は個人的には面白いと思いますが、丘と沢の街ですよね…」
 この自由討議はこの後ずっと続いたが…
 
 思うことはこの荏原一帯の比較文化は常に横断的である。本当は縦横的である方が面白いのだが…」
「いやね、その荏原というのが若い人たちには通じないのですよ」
 岩崎さんが言う、これを聞いて私ときむらたかしさんは苦笑したことだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月17日

下北沢X物語(3017)〜世田谷吉良氏を巡る旅〜

P1050942(一)テレビはこのところ連続して熊本地震の被害状況を伝えている。橋が落ちたり、建物が潰れたり、道路が陥没したり、人間が創った構造物のあっけない崩壊を目にして、人工物の脆さを思う。私たちは自然を征服できるものとして開発を推進しているが、大自然への畏敬の念をもっと持つべきではないかと思いもする。

 英国の詩人、ウィリアム・ワーズワースは「汽船、高架橋、鉄道」で文明を讃える。

自然は、人間の技術の嫡子を
抱擁している。そして時間は、なんじらが
その兄弟である空間に勝利したことを喜び、
大胆な手が差し出す希望の冠を受け取り、
気高い表情でなんじらにほほえんでいる。


 詩人は、「汽船、高架橋、鉄道」という文明を高く評価し、自然はこれらを抱擁していると誉め讃える。しかし、自然は無慈悲である。強烈な地震を見舞って文明をたちまちに崩壊させてしまう。自然と人間との乖離が思われた。

 昨日、第116回街歩き、世田谷の戦国時代を巡った。ポイントは自然地形である、徹底してこれを尊重している。城にしても砦にしても寺にしても、最大限あるがままの自然を利用している。

 世田谷城、砦、また防護拠点ともなる寺院などは、みな武蔵野台地の地形を巧みに活用している。昨今であれば即座に重機で壊してしまうところだ。が、当時はそんなことはしない。むしろそのままの自然地形を生かして活用する。奥沢城、深沢城、世田谷城、いずれも舌状台地を活用している。

 まず、我々は桜新町に集まった。今日の案内人は、前回の続きで木村康伸さんである。
 ここに集合した皆が、来るのに不便だと言った。世田谷の古跡を巡る場合、東西方向よりも南北方向に行く場合が多い。ここは一つのポイントだ。現今の交通機関は横連絡、世田谷の戦国時代の交通連絡は縦である。人間の足と文明の足とがミスマッチしている。それが歴史を紐解くキーでもある。

 都市近代の郊外は東西連絡を中心にして肥え太ってきた。現今の鉄道は申し合わせたように並行的に敷設されている。南から東急、小田急、京王である。それぞれの線の駅から縦にこようとするが行きにくい。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月16日

下北沢X物語(3016)〜一枚の葉書から特攻戦史の一端を繙く〜

P1050920(一)一枚の葉書の発見は自身の歴史認識を改めさせた。「鉛筆部隊」の一人である高島千恵子さんが東京世田谷区北沢の父親に送った手紙だ。表にはわざわざ二重線を引いて「昭和二十年三月二十八日」と記入してある。書き手に強い記録意識が働いたと思われる。

 代沢小四年生だった彼女は何を伝えたかったか。宿で生活をともにしていた六人の航空兵五人が特攻突撃をして亡くなったことを書いてある。その宿とは淺間温泉の千代の湯旅館である。彼女は武剋隊兵士、六人と三週間ほど起居をともにした。

「私自身は全く覚えていないのですが、妹は兵隊さんが出撃していなくなるという前の晩、先生からの許しが出て部屋で雑魚寝をしたと言っています」
 千恵子さんの姉、田中幸子さんの話だ。彼女も同じ旅館にいた。

 六人のうち五人は三月十八日に陸軍松本飛行場を飛び発っている。前夜は十七日ということになろうか。その彼ら武剋隊は三月二十七日未明に沖縄慶良間列島沖に展開する米軍艦船に特攻突撃して帰らぬ人となった。彼女はそのことを知った日としてわざわざ二重線を引いて葉書に書き手紙を送った。消印も残っていて、これは三月二十九日になっている。二十八日に投函されたことは間違いない。

 注目すべきは「十人航空母艦を十艦やつつけたのです」とあることだ。前日未明の戦果を翌日に知っていたということになる。従来の認識は『週刊少国民』が報じる記事に基づいていた。そのタイトルは『神鷲と鉛筆部隊』だ、この冒頭だ。

 ここは東京都世田谷区代澤国民学校の疎開学寮です。四月一日の夜、ラジオの少国民のシンブンにに聞き入つてゐた学童たちは、「アッ」と思はず声をたてました。
 (「週刊少国民」昭和二十年五月六日号)


 今まではこれをもとに彼ら疎開学童は数日後に突撃を知ったのだと思っていた。ところが、学童ははやばやと事実を知っていた。三月二十八日の新聞には、彼ら武剋隊の戦果が「十機よく十艦を屠る」と書かれている。いわゆる沖縄特攻作戦緒戦の大戦果である。いえば特攻作戦の奏功を高らかに謳ったものだといえる、有効性が意義付けられたことでより強くこの作戦が推進された、そういう点はあるだろう。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月14日

下北沢X物語(3015)〜鉛筆部隊と武剋隊〜

P1050922(一)「戦争には負けると思っていたよ」、生まれてこの方この言葉を何度聞いてきたろうか。「やっぱりなあ」とこちらも思っていた。しかし、時代の空気はそんなものではなかった。鉛筆部隊の一人だった高島千恵子さんの手紙を紹介しよう。新資料だ、昭和二十年三月二十八日に浅間温泉「千代の湯」から出された手紙だ。

 おばあちゃん、お父さま、お母さま元気ですか。
 私も魚のやうにぴんぴんしてをります。今まで千代の湯に航空兵の方、六人いらつしやいましたが、五人は先にどこかにいらつしやつてつて、そのつぎに九州にいらつしやつてどこかの海に航空母艦がいたのでたいあたりをしたのです。千代の湯にいらした方五人としやうこうさん、三人に大尉さん一人に、兵長さん一人に十人航空母艦を十艦やつつけたのです。のこつていらつしやる時枝軍曹さんは、飛行機の都合でいかなかつたのですが、今日飛行機が少しこはれていたつて、いつてしまふからかへつていらつしやらないとおつしやつたので、お別れなので時枝さんは、自動車で私たちにみんなみえなくなるまで手をふりました。あんなせんかはさうたうなものなのでびつくりしました。今までやさしくしてくださつた兵隊さん、靖国神社にまつられるのです。さやうなら。


疎開学童たちは父母に手紙を出した。
 この葉書は「世田谷区北澤三丁目九六五」に住む父親に宛てられた葉書である。「長野県浅間温泉千代の湯 高島千恵子」とある。表書きに「昭和二十年三月二十八日」と下線まで引いて日付が記されている。消印は翌日の二十九日となっている。

 浅間温泉千代の湯には「航空兵の方、六人がいらつしやつた」とあるが、これは誠第三十二飛行隊・武剋隊隊員のことである。彼らが逗留していた。出戸栄吉軍曹、今西修軍曹、島田貫三郎軍曹、今西勝郎軍曹、大平定雄伍長、そして時枝宏軍曹である。

 まず、時枝宏軍曹を除く五人が宿を立った。一方目之湯に泊まっていた広森達郎中尉、清宗孝己中尉、林一満中尉も加わっての八人、武剋隊前半が陸軍松本飛行場から各務原に飛んだ。そして九州熊本の健軍飛行場に、さらにここを出て沖縄中飛行場に着陸した。

 三月二十七日未明ここを離陸し慶良間列島沖に展開する米軍艦隊に特攻突撃を行った。これには他隊の二機も加わった。総計十機である、これが果敢に体当たりして戦果をあげた。「航空母艦を十艦やつつけた」のである。鉛筆部隊の高島千恵子さんは翌二十八日にこの驚きにニュースを知っている。これは認識を改めなくてはならぬ、もっと後の四月一日に疎開学童はこのニュースを知っていたことになっていたからだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月13日

下北沢X物語(3014)〜鉛筆部隊:子どもの戦争批評〜

P1050912(一)戦争中、人々は子どもも含めて戦争に対して批判的だったと思い込んでいる、先入観である。今もこれは根強く存在する。現代人のこの好都合な考えを取り除くことこそが本当の非戦につながるものだと考える。私自身の再認識でもある。

 先の土日淺間温泉を訪れた。『鉛筆部隊と特攻隊』を著したときに取材した人々と旧交を温めるためである。行けばいったなりに新たな事実が分かってくる。

 折も折、『ミドリ楽団物語』を書いている、戦火を潜り抜けた児童楽団である。この部員たちは、「浅間楽団」として当地でも練習に励んでいた。代沢校六学寮のうち一番大きな旅館『井筒の湯』の大広間で練習をしていた。が、今回行くとその宿があった場所は更地になっていた。私はそこに佇んで歴史の変転を思った。

 この大広間で撮った写真がある。総勢六十名である。皆、手に手に楽器を持っている。練習風景を写したものだ。音は聞こえない、が、総勢六十名がかき鳴らす音は相当なものだったろう。昭和二十年八月、当地に2500名、世田谷の疎開学童がやってきた。こまっしゃくれたお嬢ちゃん、お坊ちゃんだ。地元の子にとってはカルチャーショックだった。『井筒の湯』のとなりには降旗少年がいて、色の白いお人形のような女の子を見て強烈なショックを受ける。後年映画監督になった彼はこのことをエッセイで述懐している。音楽のことは書いていないが総勢六十人が鳴らす音響も衝撃だったろうと思う。

「月日が経ってみて新たに分かってくるということはありますね」
 当地に滞在していた特攻隊で唯一隊の名前がわかっているのは武剋隊と武揚隊だ。彼ら隊員は訓練を経て操縦士となっている。

 九日「目之湯温泉」で旧交を温めたときに千代の湯の女将だった小林梅恵さんが一枚の写真を持ってきた。なんと上原家の家族で撮った写真である。
「一番小さな子が上原良司さんです…」
 特別操縦見習士官として特攻突撃した上原良司である。このおじいさんが俳人の上原三川で千代の湯を定宿にしていた。写真は淺間温泉「玉の湯」滞在時のものだ。
「淺間温泉の玉の湯には上原良司、富貴之湯には長谷川信…」
 この二人は『きけわたつみのこえ』の双璧である。飛行学校も同じだった熊谷陸軍飛行学校館林教育隊である。この熊谷陸軍飛行学校は多くの分教場がある。原ノ町にもあった。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月11日

下北沢X物語(3013)〜ダイダラボッチと特攻隊供

P1050906(一)人間は正確な歴史を記録できるだろうか?過去を意欲的に探ろうとする者は、得てして思い込みを持っているものだ。当時者は遭遇した事件については必ず鮮烈な印象があるはずだと。これが歴史事実をねじ曲げているということはある、取材者の批評眼は常に問われる。

「特攻隊が敵艦船に突撃したとの報を聞かれてどのように思いましたか?」
 高田充也さんは田中幸子さんに聞いた。彼は代沢小の疎開学童と特攻隊とのふれあいを素材として絵本を書いている。
「…………」
 田中さん七十年も前のことを聞かれてとまどった。
「そのときの印象はどうだったのか、覚えていないと思いますよ」
 私は助け船を出した。しかし自戒しなくてはいけないと思った。自身も多くの人に取材してきた。高田さんと同じような先入観を持って話を聞き出してきたように思う。
「私は戦争反対という立場で、この話を書こうと思っているのです」
 高田さんはそう言われる。
 昭和二十年三月二十七日に敵艦船に突撃した特攻隊員から代沢小の学童たちに手紙が届く、これには桜の花びらが一枚同封してあった。高田さんは「戦争はいやだ、どうしてお兄さんたちを殺してしまったのだ」と草稿原稿では記していた。
CCI20160411_0000
 この土曜日、9日淺間温泉目之湯に行った。『鉛筆部隊と特攻隊』を書いたときに取材した人々と旧交を温めるためである。この旅館は、特攻隊武剋隊の将校たちが滞在していた旅館である。
 高田さんは鉛筆部隊関係者が来淺することを知ってここに訪ねてこられたのだ。八十九歳になられる彼は元気である。松本市中山鉢伏山の麓からこられた。ダイダラボッチ・巨人がこの山を枕にしていたという伝説がある。これを絵本にしておられた。この度、郷土の戦争逸話『鉛筆部隊と特攻隊』をぜひ絵本にしたいとのこと。

 旧交を温める、もう一つの目的があった。昨年秋に、長野県護国神社に「特攻勇士之像」の像が建立された。碑文には世田谷の疎開学童と特攻隊とがふれ合ったことが書き記されている。『鉛筆部隊と特攻隊』の逸話を踏まえてのことだ。それゆえみんなでお参りしようということもあった。


続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月10日

下北沢X物語(3012)〜ダイダラボッチと特攻隊〜

CCI20160407_0000(一)文化探訪は果てがない、高射砲探訪、水路探検、戦跡散策など幾らでも話題が転がっている。文化を求めて三千里、嘘ではない、このブログいつの間にか三千エントリーを超えている。これまでの道程は、はるかである。多くを渉猟してきただけに多くのドラマに遭遇してきた。今回のもその一つである。結び付くはずのないものが偶然結びついた。

 一冊の絵本が送られてきた。「だいだらぼっち」である。長野県在住の童話作家、高田充也氏からである。この方も偶然当方の情報を見つけられたようだ。

 浅間温泉、千代の湯旅館は戦時中、武剋隊が宿泊した。ここに疎開していた代沢の学童とたまたま出会った。彼らは出撃までの一時を彼らと遊び戯れた。ここの宿の引率教員が代沢小の柳内達雄先生だった。鉛筆部隊の隊長である。わかってみると面白い、何と高田さんは柳内達雄先生とは旧知の間柄だった。彼が幹事を務める「赤とんぼ会」の会員で信州には折々に柳内が来訪してきていたそうである。手紙にはその経緯が書かれている。

 柳内先生には学生時代詩の勉強をしようと思い、東京ではもちろん長野県へ帰ってからも先生といっしょに泊まったりしたので絵本を書くにも張りがでます。

 高田さん長い間長野県の小学校の教員をやっておられた。校長などを歴任されたのちに退職されてから郷土の民話などを中心に絵本にしてこられたようだ。

 先の、千代の湯のお上さん小林梅恵さんはかかりつけの医師のところに『鉛筆部隊と特攻隊』を寄贈された。それを高田さんが読まれたようだ。手紙にはこう書いてあった。

 先生のお書きになられた「鉛筆部隊と特攻隊」の御本を読ませて頂き、どうしても子どもたちに戦争の悲劇を伝えなければと思い絵本を書いてみたいと思い絵本のあら筋十六場面で書いてみました。

 御手紙には、下書き原稿、「一ひらの桜のはなびら」−特攻隊と疎開児童とのふれあい−と題された原稿が入っていた。この花びらは象徴的なものである。

 千代の湯にいた武剋隊は昭和二十年三月二十七日未明、沖縄列島慶良間沖にに展開する米艦船に特攻突撃をして亡くなった。それから数十日後に学童たちに手紙が送られてくる。今西軍曹のには次のようにあった。

 我々も命令により、ただいま沖縄に向かって出撃します。〇〇では、道端にれんげや菫の花が美しく咲き、桜も咲いています。桜を一ひら同封しました。

 彼ら武剋隊が滞在した本土最後の飛行場は熊本健軍である。ここに咲いていた桜の花びらを子どもら送った手紙に同封したものだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月08日

下北沢X物語(3011)〜北沢代田地域史を渉猟する供

DSC06321s(一)鉄道交点開学史というのは興味深い観点だ。まず小田急が、つぎに井の頭線が開通する。これによって利便性が高まる、すると人々が多く集まってくる、家が建つ、子が生まれる、学校ができる。下北沢鉄道交点を中心に順次学校が開学していく。このプロセスに文化が潜む、文化とは固有性だ、土地のチに智が加わってくる。智地文化とでも言うのだろうか。

 この辺り一帯で創立が一番早いのは、代沢小学校だ、明治十三年(1880)に代沢学校として創立している。つぎが大正十五年四月(1926)に「荏原尋常小学校大原分教場」が開設されている、東大原小だ。ちょうどこの一年前に坂口安吾が代沢校に代用教員として赴任してきている。そのときのことを『風と光と二十の私と』に書いた。ここに頻繁に出てくるのが主任だ。人物像はこう描かれる。

 非常な癇癪もちで、だから小心なのであろうが、やたらに当りちらす。小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。

 何かと言うと有力者の家へ茶のみ話に行く、この場合有力者というのは地主である。単に茶飲み話をするわけではない。政治的でもあった。この主任学校創設に関わっていたようだ。事実、大正十五年に大原分教場が開設されたときにここの教員として加わっている。八人のメンバーの一人が、「訓導 石野則虎」と記録されている、主任のことだ。

 当地一帯の人口が増え始めた要因は、まずは大正十二年発生の関東大震災がある。下町で被災した人々が地震被害の少なかった東京西郊に押しかけた。子どもの数も急増している。この震災、そして鉄道開業がますます人を呼び込むことになる。

 地域が鉄道によって開ける。すると人々が多く住み、その子弟たちが学校に通うようになる。どんな人が居住するかということもある。

 地域史渉猟、昭和58年11月10日発行『ミニコミ7』誌には「私の代沢」と題してエッセイを書いている人がいる。三本杉顕浄という人である。どこかで聞いた苗字だと思っていると何のことはない、第四代代沢小三本杉国松校長の息子さんだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月07日

下北沢X物語(3010)〜北沢代田地域史を渉猟する〜

P1050905(一)Cultureは耕す、鍬を当てるとそれぞれで土の硬さが異なる、すると刃先が違ってくる。その固有性こそが文化である。これを鍬ではなしに足で掘ってきた。その到達点が文化地図である。掘っては加え、掘っては加えしてきた。これはいまだに続いている。もう十年にもなると密かに知られてくる、何かが出てきたりすると「あそこに持っていけばよい」ということで資料が集まってくる。

 私たちが面白いと思うのは地域誌だ。多くの人が知らないことがこっそりと載っているからだ。地図配りイベントのとき会員の及川園子さんが北小卒業生から譲られた資料を持ってきた。これを借りてきて読んでいる。世田谷第七出張所に編集事務局をおいていた『ミニコミ7』がある。極めて限られた地域に配布されていたこれなどは面白い。

 このところ陸軍獣医学校にスポットを当ててきた。戦時中に上野動物園で行われた猛獣処分はこの学校が深く関わっている。毒殺用の薬を投与したり、あるいは処分した動物をここに運んで来ては解剖したりしている。ライオンは生きたまま学校ここの防火用水で溺死させられたと。

 戦前、今の富士中、駒場学園、都営住宅の場所には陸軍獣医学校(明治四十二年)があって、カラタチの生垣の土手に囲まれており、バス通りの古い門柱は当時の名残です。

 60年9月10日発行の『みにこみ7』に載った記事だ。何のことはない、が、この短い記事からおぼろげながら山手空襲によって焼失した獣医学校の面影が偲ばれる。焼失前は多くの建物があった。多くは木造だったようだ。私有地との境界には「カラタチの生垣の土手に囲まれて」いた。

 カラタチは鋭い刺がある。それで外敵の侵入を防ぐということで生垣によく使われた。獣医学校である、多くの動物を飼っていた侵入して近づく者もいる。それでこれは造成された。この生垣かなり多くあったが、このトゲが嫌われて今はほとんどなくなった。

 この陸軍獣医学校の区画割りはGHQが介入した。日本の軍国化の芽を摘むために平和的なものを建てる。学校と住宅だ。南の方の駒沢練兵場跡も同じだ。

 この陸軍獣医学校の跡地には新制中学ができた。富士中である。『みにこみ7』には「学園めぐり」というコラムがある。これによると発足当初は「下代田中学」と言われていたという。代沢小『ミドリ楽団』の六年生は二十三年からここに通う。富士中としていたが当初は「下代田中」だった。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月05日

下北沢X物語(3009)〜文化地図は文化を掘り起こす鍬だ供

DSC06292s(一)我等の会もグローバルになってきた。米GOOGLで引くと、「Kitazawa River meeting of cultural heritage preservation 」と訳される。会則では理念を謳っているが、それが「It is free.」として出てくる。実際、地図配りをしているときに外国人から国際的な観点での批評を受けた。グローバル化する中で文化地図発信のあり方を考えるきっかけとなった。

 「我等は自由である」というときに必要なことは聴く耳を持つということである。その一人の外国人と議論をした。長い議論だった。が、最後は互いに握手をして別れた。彼は日本に長いこと在住している人だ。世田谷区に。
「世田谷のこの辺り一帯の空気が自由だということはよく承知している。それゆえに私も好きだ。それでこの地図で言い表そうとしていることは分かる。価値のあることだと思う。ただ一点だけ、最初に載せている写真はこの価値を損ねている」
 文化論、議論の始まりはここであった。ただ、私自身が細かなメモを取ったわけではない、記憶に基づいて再現したものだ。発端となった写真は街の歴史の一端を記録したものだ。外国軍隊のミリタリズムの断面を象徴的に表したものである。

「歴史事実としてこれは載せてあるものです」
 我等の仲間が言った。
「しかし、これはダメですよ…自由を阻害するものです…」
 彼も譲らない。
 しかし、この議論の過程で興味深いことが分かった。彼の考えの中で区域や地域が明確に意識されていたということだ。
 彼自身の職場は都心に近いところらしい。長年この日本に住んで居るがどうも自由の空気が狭まっていると感じているらしい。右傾化である、その点、都心から離れたこの地域はまだ自由だ。だからよけいに引っ掛かるのだという。地域にこだわるからこそに意識化された問題だ。

 彼は日本語が達者である、が、筋道を立てていい始めたところでは英語になった。
「誰か英語のできる人はいないか?」
 仲間に問いかけた。するとすぐに一人がやってきて互いに話しはじめる。面白いことだと思った。我等の会は職業や前歴などはほとんど問題にしない。たまたま何かのきっかけでその人の職業が分かるということがある。その仲間が英語に堪能だとこのときに気づいた。

 対話は弾んだが彼は引き下がらない。その写真一点は地図の汚点だと彼はいう。これ以外に描かれていることが貴重だけに私は言いたいとのことだった。この地図の著作は自分となっている。構成や配置などは仲間と相談して決めた。

改訂に改訂を重ねてきただけに発信物の構成の重要さについては知っている。いわゆる掴みとしてこの写真を持ってきたということはある。街の歴史断面を鮮やかに浮かび上がらせようとのねらいはあった。が、彼みたいな人がいたことは驚きだ。もともと地図を発行するに際しては主には国内を意識していた。グローバルな観点で考えてはいなかった。ゆえにだ……

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月04日

下北沢X物語(3008)〜文化地図は文化を掘り起こす鍬だ〜

DSC06288s(一)この2日3日、代沢小学校安吾文学碑前で約1300枚「下北沢文士町文化地図」を配った。恒例の桜祭りにおける活動である。地図を作っては配る、これを七八年も続けている。累積情報の伝えだ、「え、そんなことがあったのか!」が、「こんなこともあったんだよ!」となる。発信は発掘に繋がる。文化地図の効果、効能である。

 気持ち温まるエピソードを記そう。小学生の女の子がやってきて募金箱に十円を入れてくれた。渡された地図を親子で見て話合ったのだろう。親の感想、それへの子どもなりの思いを持ったとみえる。わざわざ戻ってきて手に持った硬貨を入れてくれた。ビンの底で「コリリン」鳴った。こちらの気持ちにも響いてきた、文化は響き合う音でもある。

 ネット繋がりの効用もある、地図配りをネットで知った方がおられた。紀要1号から4号までが手に入るというので人を介してこれを求めにこられた。当方の文化活動をブログ閲覧を通して注視しておられるからであろう。

 最近会員に加わった若い方は言う。
「昼休みに御飯を食べながら、ブログをいつも読んでいます。ときどき子どもにも知ってもらおうというところもあって話を聞かせることもあります。この間は、事務局の邪宗門に子どもを連れていきましたよ」
 子どもに伝わっていくといのは嬉しいことだ。
「代沢小の子どもに疎開時の歌をうたってもらえないかを募って、合唱団を作るというのは話として伝わっています。5月21日の戦争経験を聴く会、語る会は楽しみにしております」
 代沢小の校長先生と副校長先生が替わられた、地図配っている我々のところに挨拶に見えた。これは校長先生の言葉だ。
 「戦争と音楽」ということで代沢小「ミドリ楽団」の歴史を取り上げる。戦前から戦後へと活動した楽団だ、これは学校の歴史の一部だ、これの再現に学校の子どもたちが関わる、すばらしいことではないか。

 「ミドリ楽団」関係者では、ダンサーとして著名な野坂公夫さんも来られた。やはり米軍の慰問にも行かれている。
「覚えているのは銀座のヤマハホールに行って『ウイリアムテル序曲』を演奏しました。代々木のアメリカンスクールにも行きました。代沢小に迎えにきたのは米軍の大型バス二台でした」
 
「昭和25年に、シアトルから市長を団長にして六人の議員がこの代沢小を訪れて、『ミドリ楽団』に多くの楽器を寄贈しているんですよ。その写真が手に入ったのです。その楽器に『ヤマハ』と書いてあるんですよ、てっきりアメリカのかと思ったらそうではないんですね」
 元ヤマハの重鎮だった張替滋夫さんがこられたのでそう伝えた。
「会社もそのことは把握していないと思いますよ。伝えておきます」
 思いがけず楽器会社の歴史の一端までも見えてきた。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月02日

下北沢X物語(3007)〜荏原トライアングル都市紀行供

P1050902 今日2日、北沢川緑道での「下北沢文士町文化地図」(改訂6版)の配布活動を行った。750部ほどさばけた。多くの人と出会った、保坂展人区長や坂東眞理子昭和女子大学長に会ったりもした。なかんづく外国人との出会いも大きい、衝撃的だった。彼は地図に対する批評を直接的に我等にぶつけてきた。これによって文士町発信もグローバルになってきたと実感したことだ。加えて言えば、ネットで当方の発信を見て、全部の紀要を求めに来た方がおられた。明日もこの活動は行う。代沢小安吾文学碑前、10時から15時30分までだ。(今日の記念写真)

(一)風景は時間を包含している、結節点となるトラアングル都市を巡った。渋谷、二子玉川、自由が丘だ。ここに時間の差はない。まっさらな都会時間が過ぎているのを感じる。例えば、二子玉川の川向こう二子新地に行くと鄙時間がある。都会中心時間よりも二三秒遅れた感じがする。面白いことにトライアングルの中でもこれはある。世田谷深沢の秋山の森あたりではゆったりした鄙時間、田園時間が流れている。

 風景とは何か。「風景とは、一つの見方であり、対象を指ししめすのと同時に表象である」(『自然の風景論』西田正憲)という。つまり、風景を見る側の一つの見え方であり、イメージであるというものだ。断面的なものに過ぎない。この風景は時間の経過で変わってくる。

 例えば今の渋谷だが過去のとは全く違う。渋谷風景に入って行くドラマがあった。電車は代官山を出て、山の手線の上の鉄橋を渡る、床下にぐどんぐどんと言う音を聞くと、渋谷が近いことを知る。そして渡りきったとたん電車は左カーブを切る、このときに特有の軋み音を立てた、自分では渋谷高架橋C曲線音楽と言っていた。これを聞いて渋谷駅に着くと、到着感があった。今はめりはりもなく地下を通って駅に滑り込む。ここからして違和感を覚える。

 風景はどこへ向かうのか?分からない。「風景とは一つの見方」である、個個人固有の風景はありうることだ。私のように長い間、鉄道に乗って旅をしてきて身に染み付いているものがある。車窓がカダンスによって刻まれていたという認識である。

 カダンスは、一定の長さを持ったレールを踏んで走るリズムである。かたとっと、とてっとという音がかつてはあった、これを耳に聞いているうちに車窓は変化していった。

 ついこの間まであった渋谷高架橋を通過しての渋谷入りにはこのカダンスがあった。が、予告もなく地下ホームに滑り込む。ドアが開いて放り出される。たちまちにここから流浪人になる、「井の頭線ホーム」へ、「JR線ホーム」へはどういくのか、前者へはとてつもなく遠くなった、ウナギの寝床を人にぶつかっていってようやっと着く。
P1050896
 「渋谷は変わりつづけます」という。超高層ビルがどんどん建って超最新式の街になるという意味だろう。私、天の邪鬼は拗ねて「別にかわらなくていいよ」、変化にどんな意味があるのか?と思いもする。

続きを読む

rail777 at 20:41|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年04月01日

下北沢X物語(3006)〜荏原トライアングル都市紀行〜

P1050890(一)「TRAIANGL TICHET」を一枚もらっていた。期限は3月31日までだ。そのトライアングルは渋谷、二子玉川、自由が丘を結ぶ三角地帯だ、この路線はフリーで乗れる切符である。このトライアングルに囲まれた地は、世田谷区、目黒区、渋谷区である。欠かすことなく日々頃歩いて回っていて地域だ。ゆえに内部は分かる、目に付いていることを述べる。

一、縦横に張りめぐらされた川跡の遊歩道・公園には非常にたくさんの保育園児が遊んでいる。園児のグループがあっちにもこっちにもいる。この一帯は人口が増えている地域でいわゆる待機児童が多い区域である。

二、戸建てや建て売りの建設、そしてマンションの新築が至る所で行われている。

三、上記の傾向とは反対だが空き家が多い。これも目に付く。

四、外縁部のターミナルには高層ビルが建ち、ショッピングモールができてきている。
 内部にある小さな商店街はどんどんさびれていく。例、深沢エーダン商店街


 このトライアングル地帯は地価上昇地帯である。住宅需要が多い、人口の流入があるからだ。それに伴って乳幼児も増えている。

 人口減少時代に入った。五年前と比べると100万人も少なくなったという。が、当地荏原トライアングル地帯はこれとは無縁だ。人口が増えている。それはどこから来るのか、地方からである。

 つい先頃、北海道新幹線が函館まで乗り入れて地元は湧いているとの話があった。が、経営的には困難で赤字が予想されているという。「北海道新幹線開通」はフレーズとしてはいいがさほどのインパクトはない。地元が浮かれるほどに人は行かないのではないか。
北海道新幹線の予約率が25パーセントとふるわないのもその実情を著している。

 自身の歩行範囲では大学関係がある。いつも目にする某私立大学は大がかりな増改築を行っている。受験生が増えたからだろう。
 下北沢に行くときに家から野沢龍雲寺バス停まで歩いていく。その途中に広大な敷地があった。たちまちそこが更地になってこの三月末に建物ができた。某マンモス大学の寮である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月30日

下北沢X物語(3005)〜鉄道交点の文化と「ミドリ楽団」〜

CCI20140925_0000(一)「星条旗新聞」は、「ミドリ楽団」の演奏技量を高く評価している。この記事は昭和二十三年八月時のものだ。戦争が終わってちょうど三年目である。が、忽然と技量が高まったわけではない。ここには戦前、戦後を通しての努力があったからだ。

The players perform with verve and enthusiasm. The over-all impression is that they are a well-trained and talented group. One of the accordion players who attracted special attention is Kyoko Tsunoe, diminuitive eight-year old child whose sister also plays in the band. Kyoko's performance gives an impression of great nonchalance and ease. She has played with the group for the past year.

まず、彼らの演奏がエネルギッシュだったことを指摘する。つぎにプレイヤーがよく訓練されていて構成員もとても優秀であると述べる。筆者は、全体の印象のみならず個別の奏者に目を向けている。アコーデオン奏者の津野姉妹の際だった演奏ぶりについて着目しこれを指摘している。

 筆者は、 BETH EVERETTだ、当日の「ミドリ楽団」の演奏を聴いて彼女は批評している。鋭いと言える。私は彼女の批評の裏に潜む文化の背景を思う。

 鉄道交点における音楽文化の萌芽と伏在とを思う。まず第一点は彼らが演奏に精魂を傾けている点だ。このメンバーは32名だ。主には高学年が中心だが才能ある子は出演できる。津野姉妹の妹は8歳であった。

 浜館菊雄先生の指導によるところが大きいが感性や知性のある32名を集めるのは容易ではない。しかし、津野姉妹にみられるように幼少時から親は音楽に親しませている。そういう親が学区域にいたらばこその話だ。

 『だいざわ』(世田谷区立代沢小学校 創立90周年記念誌)に載せられた対談の一部である。

司会 代沢には自由教育の流れがあったようですが、それはいつ頃のことですか?
赤坂 三本杉校長が柳内、熊井、浜館などのソウソウたる先生を集めてからそういう雰囲気ができたのでしょう。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月29日

下北沢X物語(3004)〜英字新聞の「ミドリ楽団」批評〜

CCI20140928_0000(一)「PACIFIC STARS」という新聞は、「星条旗新聞」と訳されている。アメリカ国防省内で運営されている、合衆国の新聞だ。これの1948年「Aug,13」にこういう見出しの記事が載っている。「Osaka Youths' Band In Popular Demand」、これだけではわかりにくい。Osakaはホテルの名前だ。大阪ホテルだ。大阪ビルヂングが、進駐軍に接収されて米軍司令部宿舎として使われていた。ここに若い、日本の児童楽団がやってきて演奏をした。たいへんな人気だったという。それは「ミドリ楽団」のことである。

 「ミドリ楽団」の軌跡を調べている。関係者から写真や新聞などの情報提供があった。そのうちの一つがこの記事だ。彼らの活躍がアメリカ本国でも伝えられた。

 英語がすらすらと読めるわけではない。が、関心や興味が深いだけに断片的な情報から実像が見えてきたりもする。

「千夜一夜物語ってあるでしょう。原典で読んだのです、単語の幾つかしかわからないんだけど若いもんだから当然書いてある内容に興味を持ちますね、性愛的なことについては想像力が湧くんですよ…」
 人から聞いたのか、何かで読んだのか忘れてしまった。しかしエピソードしてはよく分かる。関心があれば例え全体が分からなくとも単語を通して意味を知ろうとする。

 A children's band the Daizawa Elementary School which has played twice during the past two weeks in the Osaka hotel dining room through the dinner hour has proven so popular with the sophisticated Osaka audience that they have been requested to appear again next week.
 
「ミドリ楽団」とは何か、東京世田谷の「Daizawa Elementary School」、代沢小の児童楽団である。器楽演奏クラブである。その彼らが大阪ホテルの食堂で演奏を行った。ここに出入りするのは将校級の人々だった。その彼らには「ミドリ楽団」の演奏は大変素晴らしく感じられた。演奏が終わると盛大な拍手が送られた。そういう反応をみて大阪ホテル側はぜひまたつぎもとリクエストした、というのだろうか。

 この楽団は、歴史がある。当校に浜館菊雄先生が赴任してこられてバンドを創部した。戦争が始まる前の昭和十五年である。

 が、翌十六年に戦争に突入する、そして二年後学童たちは疎開させられる。代沢小は長野の浅間温泉に疎開した。ここへ楽器へ運んでクラブの運営を浜館は続けた。再疎開で塩尻のお寺に移った。それが洗馬の真正寺である。ここには器楽クラブのメンバーだけが集められた。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月27日

下北沢X物語(3003)〜世田谷代田空襲被害者の証言掘

P1050886(一)5月24日の山手空襲によって首都は壊滅した。が、「大本営発表」は被害実態を糊塗している。「主たる被害地区=東京では荏原、品川、大森、各区一円および渋谷、蒲田、目黒、麹町各区の一部、その他十数区に軽微なる被害があった」と。たいしたことはない大丈夫だと。が、実際は太子堂、三宿、代田、松原、大原など広範囲で焼けている。が、この当時としても誰もがうさんくさいと感じていた、それで、「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている。国家権勢は自分たちに都合悪いことは隠したり、嘘をついたりする、彼らの暴走を止めるのが言論だ。それには歴史事実を知る必要がある。

 世田谷代田三丁目で空襲にあった宮崎三津子さんの証言だ。当時彼女は十七歳で女学校に通っていたという。
「戦争は酷いものです、用意も準備もなく一瞬にして人の人生を奪いますからね。それはあの夜ですね、いきなり庭に爆弾が落ちてきて、破裂したんですよ。私の父は直撃ですよ。下半身をやられてしまって血だらけでした。側にいた私もやられました。私も父も経堂の病院に運ばれました。父は、やはり爆弾で受けた傷は深く、結局十日後に死んでしまいました。父の命日は六月六日です。広田元二郎と言います。そのとき六十三歳でした」

「私も股関節が潰れて一ヵ月ほど入院しました。何とか命は助かってこれまで生きてきました。しかし後遺症があるわけですから一生苦しめられたことになります。それでも長く生きてきたお蔭で復興した日本を見ることができたのは幸せです…でも、戦争はやっていけません。ほんと一瞬で人の人生が奪われるんですから…」

「あれ戦後70年経ったといいますが、代田三丁目の家の近くでついこの間敷地から焼夷弾が掘り起こされたことがありまてね。パトカーがきましたよ…」

 世田谷代田一帯に相当数の焼夷弾が落ちた。翌、二十四日、代田の様子をつぎのように一色次郎は書いている。

 近所を歩いてみる。ほうぼう焼けている。歯が欠けたように、一軒か二軒ずつ焼けている。下町みたいに家屋が密集していないので、焼夷弾を消せなかった家の被害だけですんだのだ。ちいさな家はすっかり燃えきり、おおきな家はまだだいぶっていた。『日本空襲記』

 畑地だったところは部分部分が焼けた。が、上手の大原は家が密集していたので多くが焼けてしまった。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(3)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月26日

下北沢X物語(3002)〜世田谷代田空襲被害者の証言供

P1010689(一)世田谷代田での空襲被害者の証言は、山手空襲の戦略的な意義を改めて認識させた。

東京の空襲といえば3月10日の東京大空襲を想起する。十万人近い犠牲者が出たことからこちらの印象が強烈だ。しかし、米軍にとって山手空襲の方が戦略的な価値が高かった。それは焼夷弾投下トン数に端的に現れている。歴然とした差がある。東京大空襲は2000トン、山手空襲は6900トンである。狙いは何か首都の壊滅にあった。ゆえに後者の作戦は綿密だった。

世田谷代田空襲の被害者は、南から入ってきた爆撃機の隊列によって犠牲となったことが分かった。当方の固定観念として富士を回り込んでの東進コースというのがあったが、彼女の証言によると南もあった。調べてみるとこの当日の爆撃コースは縦横だった。極めて計画的で緻密であった。この攻撃によって東京は壊滅した。『東京が戦場になった日』(中澤昭著 近代消防社 平成十三年刊)にこうある。

 「原爆投下決定」(ギオワニチィ・F・フリード著)の中で「五月二十三日と五月二十五日夜、B29は最後の仕上げをした。東京では両日で六、九〇〇トンの焼夷弾に見舞われ、約三十平方キロの市街地が焼かれた。そして東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」とある。

 原爆投下決定までの計画や手順は綿密だった。まず首都東京を徹底して叩く。これによって壊滅させた。山手空襲で被害を受けた地域は首都中枢だった。頭脳をやられた。

 負け戦は決定的となった。が、戦争指導者は徹底抗戦を唱えた。ここに日本的抒情精神がないか、「死なばもろとも」である。国民を道連れにしての「本土決戦」である。

 知られていない逸話なので記しておこう。この山手空襲で市谷の参謀本部も空襲被害を受け、ここにあった陸軍航空本部によって世田谷代田の代田教会は接収されている。(『代田教会七十年誌』)
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月24日

下北沢X物語(3001)〜世田谷代田空襲被害者の証言〜

b14619f6.jpg(一)連日、ブリュッセルでのテロが報じられている。平和な街で爆弾が炸裂し瞬時にして多くの人が人生を奪われる、あまりにも無惨だ。身近な例もある、住み慣れた世田谷代田の庭で瞬時に爆弾が破裂し人生を奪われた人もいる、戦争時代の話だがこれも酷い。とめどもない憎悪の連鎖が無辜の人を襲う、それがテロであり、戦争だ。これが身近なところで起きて初めて「戦争は絶対にしてはならぬ」と認識する。70年前のことであってもこれを記録しておく必要がある。なぜなら人間は惨劇をすぐに忘れるからだ。

「私の頭の上でB29が突然火達磨になったのです。その真っ赤になったものが墜ちてくるのですよ。生きた心地はしませんでした…」
 七十年前の山手空襲の話だ。世田谷代田三丁目での空襲経験を宮崎三津子さんは語った。
「戦争から70年も経っても忘れられません、やっぱり今話しておかなくてはならないでしょう」
 彼女は御年85になるという。その体験は何時だったのか?それは「火達磨」が手掛かりだ。

 世田谷代田上空でB29が火を噴いてそして墜落した。この事実はあるのか?ある。昭和二十年五月二十四日だ、千歳高射砲陣地の砲が火を噴き、当該機の第四エンジンを直撃した。愛称Game Cook Charleeは世田谷赤堤に墜落した。彼女はそれを目撃したに違いない。
「その日は二十四日ですよ」と私。
「私はずっと今の今まで二十五日と思っていました」
「記録があるのです。お宅のすぐ向かいが根津山ですよね、ここから見ていた人がいて詳細な記録を残しているのです…」
「へぇ、そうなんですか!」
「あのときは爆撃機がつぎつぎにやってきたでしょう」
「そうそうやってきました」
「低空で飛んできた爆撃機の銀色の腹に地上の火炎が赤く写って見えました…」

 戦争経験はないのに体験した人よりも詳しく語れる。何百もの人、あるいは何百の資料を読み込んできたからである。

 爆撃機が、非常な低空を飛ぶようになった。このままおりてくるのではないかと思われるほど、その姿は大きく見えた。下腹に刻まれた何かの線がよく見える。そしてこの機体も、地上の火炎を受けて薄赤く光っているのであった。焼夷弾の落ちる位置も次第に近くなった。

 「日本空襲記」に書かれた二十四日の記録の一節だ。作者の一色次郎はどこにいるのか。

目の下に、小田急線の線路と、それからちいさな梅が丘駅が見える。
 
 こう記述されている、今の羽根木公園、かつての根津山に違いない。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月23日

下北沢X物語(3000)〜会報第117号「北沢川文化遺産保存の会」〜

P1050210
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第117号 
               2016年4月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 
                                      03-3410-7858
                               会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
一、観光名所「北沢川文学の小路」へ来たれ!

 桜祭り期間中に「北沢川文学の小路」観光案内所開設 観光地図の無料配布
 
東京の下北沢の南に北沢川が流れている。現在は暗渠化されて緑道になっている。ここは桜の名所だ。この近所に住んでいた俳人の中村汀女はここの桜を毎年楽しみにしていて花が咲くと必ずお花見に来ていたという。次の句は米寿のときの記念の句で北沢川の桜を素材にして詠んだものだ。
 行く方にまた満山の桜かな  汀女
 彼女は俳句仲間と連れ立ってきて、桜を詠み、その短冊を桜の枝枝に結んでいたなどという話も聞いた。桜の花の下に短冊が揺れているというのもイメージが美しい。
 この北沢川の川面を愛した文学者が彼女のみならず他にも多くいた。とくには歌人や詩人や俳人たちが多かった。知られないことでいえば日本の抒情詩人二人が当地に住んでいて折々にここを訪れていた。誰あろう、萩原朔太郎であり、三好達治である。彼らにとっては北沢川はゆかりの地である。
 「北沢川文学の小路」と名づけた約一キロには四つの文学碑が建っている。我々が努力して建立したものだ。東から順に言うと、一本橋には「横光利一文学顕彰碑」(旧宅玄関前にあった敷石が記念に置かれている)、代沢小南には「坂口安吾文学碑」(大田区蒲田にあった安吾旧居の門柱がこれに使われている)、鎌倉橋たもとには「三好達治文学顕彰碑」(これには詩人と愛犬とが戯れる写真を掲載)、鶴ヶ丘橋たもとには「代田の丘の61号鉄塔由来碑」が建っている。この鉄塔は萩原朔太郎、萩原葉子由来の鉄塔として我等が「世田谷区地域風景資産」として申請しこれが認められたものである。この碑には朔太郎詩の一節を刻んである。萩原朔太郎文学顕彰碑でもある。
 これら文学碑は文字を刻むだけではなく固有のものを活用して建立してある。これらを見学がてらぜひ来てほしいものである。

 我等は桜祭り期間中に「北沢川文学の小路」観光案内所を設け、一帯の文化地図を配るとともに案内をもしたい。
 我等の会は、「北沢川文化遺産保存の会」は、地域一帯の文化を掘り起こしている。土地の古老から取材したり、地域資料から文化を発掘したりしている。
 会員が何人も来ていることからここでは文化情報の交換もできる。ぜひ来訪あれ。
 私たちは、毎年桜の花が咲く頃に坂口安吾文学碑前で「下北沢文士町文化地図」を配布している。今年もこれを行いたい。会報116号では4月2日、3日とした。ところが桜の開花は早まり、東京の開花予想日が3月19日となった。それで当初の予定を一週間早めたい。

◎桜祭りでの地図配布活動の延期について、3月25日8:53
  下記の通り、3月26(土)27日(日)地図の配布を予定していた。

 *低温が続き桜の開花が遅れていること。
 *明日明後日も気温が異常に低いことが予報されていること

 上記の理由で一週間延期します。



・日時 4月2(土)3日(日)
・時間 10時から15時30分まで
・場所 代沢小学校「坂口安吾文学碑前」
 *雨天の場合は中止とする。

 「北沢川文化遺産保存の会」 第一号から第四号までを販売する。
 1号から3号は300円とし、4号を500円とする。会の活動資金とする。
・会場準備は 9時30分から行う。
例年のように代沢小から机を椅子を借りる。会場をセットする必要がある。手伝って下さる方がいれば助かる。安吾文学碑前9時半に集合。

今回は、「下北沢文士町地図」六版を配布する。北沢川緑道には大勢の花見客がこられる。地図をこの人々に配るものである。ただ配るというものでなく、配りながらまったく見知らぬ人と対話をする。これが楽しいし面白い。ここで意外な出会いがここで生まれる。このことによって街の新しい情報が得られる場合が多い。
 この地図配りは仕事ではない、レクリエーションだ。桜の木の下で配って人とふれ合う、これが楽しく、面白い。皆さん、遊びがてらここに来て地図配りを楽しみましょう。

二 、戦後71周年記念

薄れゆく戦争の記憶を残すために 平和を願うために


第9回 戦争経験を聴く会・語る会

戦争秘話を証言と歌と演奏とで伝える試み
戦争と音楽−戦火を潜り抜けた児童楽団:ミドリ楽団
戦争中の音楽文化史の秘話だ。代沢小の音楽教師浜舘菊雄先生は全国に先駈けてバンド部を作った。が、折悪しく戦争に突入した。それでも先生は音楽は人の心に勇気を与えると疎開先に楽器を持込みんだ。陸軍決部隊などを慰問しもした。再疎開では楽団は真正寺に集まり演奏技術を保った。戦後、ミドリバンドと名を代えたバンドはアメリカ軍の病院慰問をきっかけに評判は広まり、ついにはアニーパイル劇場での三日間連続の公演が実現する。そして「昭和二十五年十二月十六日に、極東に駐在する全米軍に向けて、進駐軍放送AFRSから放送されたみどり楽団のクリスマスソングや日本の歌は、同時にテレビニュースとして収録、クリスマスの日に全米にテレビ放送され」た…。

日時 2016年5月21日13時30分より(開場13時)
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 世田谷ワイズメンズクラブ リベラル日本研究会
  世田谷区教育委員会(申請予定) 
会場 下北沢「東京都民教会」 世田谷区代田5-35-2 
京王井の頭線 下北沢駅 西口から徒歩4分
◎定員70名、先着順受け付け。開場13:00
 
問合わせ先 きむらけん FAX03−3718−6498
  Eメール  aoisigunal@hotmail.com
〇入場無料 写真、遺物などの展示も、持参歓迎

三、第2回北沢川文化遺産保存の会研究大会(予告)

テーマ
シモキタらしさのDNAを語る  副題 消えゆく街の歴史を残そう 主催 北沢川文化遺産保存の会  共催 グリーンライン下北沢
協力 世田谷ワイズメンズクラブ
日時 2016年8月6日10時30分より(開場9:30)
場所 北沢タウンホール 12階 スカイホール 会費500円
 2016年1月9日に「シモキタの昔を古老が語る」というタイトルの会を開催した。このとき北沢の古老、三十尾生彦さんから街が形成される過程を聞いた。参加者は初めて聞く話ばかりで深い興味を持った。これがきっかけとなって街のベーシックな歴史を話したり、発表したりすることが大事ではないかということから今回の企画となった。   

第一部 シモキタの昔を語る(古老)
    10時00分〜12時00分
・北沢の昔を語る 三十尾 生彦さん(93歳)
 ・下北沢の戦後を語る  伊藤文学さん  
第二部 シモキタの歴史研究   13時30分〜16時30分
    ・下北沢を中心とする交通網の変遷(きむらたかし氏)
   ・北澤セロファン工場の歴史(石坂悦子氏か他?)
    ・下北沢地域の地名について   
・下北沢店員道場とヒトラーユーゲント来訪
ポスターセッション 3分のプレゼンあり。発表者募集中、随時連絡を
第三部 懇親会・納涼会 17時30分より
会費3500円 豪華「シモキタらしさのDNA弁当」つき
 (各部 参加自由 会費 一部二部、共通出入り自由) 
研究発表二枠未定、発表者募集中
 問合わせ先 きむらけん FAX03−3718−6498
  Eメール  aoisigunal@hotmail.com

四、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第116回 4月16日(土)午後1時 東急田園都市線桜新町駅改札
 世田谷城周辺を歩く(2) 案内人 木村康伸
 桜新町駅→弦巻神社(弦巻砦跡)→実相院→矢倉沢往還→勝光院→世田谷八幡宮→豪徳寺→世田谷城阯公園
 2015年11月21日実施の第111回「奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く」の続編。
 世田谷吉良氏の根拠である世田谷城の周辺を歩く。


・第117回 5月14日(土)午後1時 東急大井町線等々力駅改札(注意:第二週)
 世田谷江戸道を歩く(付:グルメ旅) 案内人 きむらけん
コース:等々力駅→満願寺→野毛道・江戸道交差部→満願寺坂→等々力不動(モンターボ・パン)→秋山の森(日の出納豆)→庚申塔→大山厚木街道交差(神田屋に立ち寄り新鮮な魚)→駒沢高女跡→向天神→駒沢高射砲陣地(パオン・アップルパイ)→駒沢大学駅。
・第118回 6月18日(土)午後1時
 東急目黒線/都営三田線/東京メトロ南北線目黒駅地上正面口前
 恒例三田用水を歩く(第3回目)  キュレーター きむらたかし氏
前回からの「順番」からすると恵比寿ガーデンプレイス→五反田駅となる。が、戦前からの道路計画が動きはじめたため、近々三田用水の「遺構」が数多く消滅するおそれがあることからこちらのエリアを先行探査したい。
コース:東急等目黒駅前−山の手線水路橋跡−鳥久保分水口跡−妙円寺脇分水口跡−今里橋遺構−久留島上口分水遺構−今里村築立場跡−今里地蔵−久留島上口新右岸分水跡−雉子神社−JR/りんかい線大崎駅(午後5時ころ解散予定)
・第119回 7月16日(土)午後1時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
 恒例駒沢練兵場を歩く 案内者 世田谷道楽会 上田暁さん
昨年、世田谷平和資料館が開館した。館の会議室が使えるよう交渉中である。  
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲平成28年度「地域の絆ネットワーク支援事業」の募集が四月から始まる。申請をして「下北沢文士町文化地図」改訂七版を作りたい。これに入れる新情報を。
▲毎月、街歩きを行っている。前回116回から「行事保険」に加入することにした。一人30円だ。実数が掴めず予測で支払いをするのでロスが出る。また計算も面倒なので50円としたい。したがって歩く会参加費は資料代、保険代含めて550円とする。できるだけ実数を把握したいので五日前までに申し込みをするということにした。皆さん、ご協力ください。お名前はフルネームでお願いしたい。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



rail777 at 00:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月21日

下北沢X物語(2999)〜「品川用水」の痕跡を歩く供

P1050885(一)常日頃の荏原逍遙から実感しているのは「すべての道は品川に通ずる」である。道のみではない、自然河川も人工水路もである。武蔵野の地形的な特色と連関するからだ。沢にせよ、丘にせよ荏原では東南へと向いている。河川も目黒川のように品川にたどりつく、背尾根筋にある道も然り、やはりヒルトップを選ぶ用水も品川に向かう。

 品川用水は、丘陵末端地域で水の便の悪い品川区域へ農業用水を供給するために作られた。こう解説にはある。しかしこれはそんな単純なものではない。

 例えば、私は目黒区八雲に住んでいる。西隣は世田谷区深沢だ。面白いのはここを起点に品川道があったことだ。痕跡はもう殆どない。が、八雲氷川神社の西に玉垣に沿った細い路地がある。これこそ品川道だ。何故に小村から品川道が出ていたか。理由は簡単だ、深沢村は品川宿の助郷村である。品川宿で人出が必要になったときに村民は駆り出された。この品川道を通って東海道第一の宿場町へ行かされた。水の流れだけではない人の流れも作られていた点は見逃せない。
P1050882
 水に不便な品川一帯の農業を振興させるために用水は開削されたという。この用水の前身は、「熊本藩主細川綱利の弟、細川利重が細川家下屋敷(現戸越公園)の庭内泉池用水として、仙川用水から分水を受けるかたちで開削した」(ウィキ)ものだ。戸越用水といわれているものだ。が、細川家は泉水用の水を廃止する。それでこれが品川用水の発端となった。『世田谷の河川と用水』(世田谷区教育委員会)はこう述べる。

 品川用水のはじまり
 寛文7年(1663)7月品川領宿村の者共が、旱損御救いの為の用水として旧戸越用水の古堀と用水を賜りたいと幕府に出願していたものが許可されて、品川用水としての歴史が始まった。
 なお、この許可は、伝馬宿および定助郷村の救済という意のものであったと推定されている。


 荏原南端の乏水地区の救済だけではない。むしろ後者の方のポイントが大事ではないかと思われる。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月20日

下北沢X物語(2998)〜「品川用水」の痕跡を歩く〜

P1050883(一)水は高きから低きに流れる。かつての人々はこの原理を基準とした。自然流水だ。水を遠くに流す場合もわずかの斜度を見つけたり、あるいは作ったりして水路を開削した。品川用水の前身は、細川家下屋敷の泉水を引くためだったという。それが後に品川一帯の水田の灌漑用水を賄うための用水路としてできた。

 昨日、十九日、都市物語を旅する会、第116回目は「品川用水の痕跡を歩く」を実施した。案内役は長年品川用水を研究してこられた渡辺一二先生だ。天気は雨との予報だったが、幸い晴れてきて歩くのには問題なかった。

 上水の大本は玉川上水である、品川用水はこの分水の一つだ。荏原南端品川地域にとってこれは必要欠くべからざるインフラであった。

「玉川上水を基幹にとして流れている人工水路、品川用水も含めてですが自然流水を流すこの川はもっとも完成されたものです。水路の確保というのはいわゆるまちづくりの基本です。この水道工事の技法は各地での城づくり、街づくりでも生かされたものです。そういう点ではこの上水は国家の大本を造った水路だと言えます」
 歩く前の解説の枕であった。

「品川用水の特徴というのはどういう点が言えるのですか?」
 私は聞いた。
「他の用水に比べると築堤造作箇所が多く、人工築堤が最も長いと思います…」
 本流である玉川上水はいわゆる淀橋台の背尾根を堂々とたどっている。地形通りに水を流せば何の問題もない。ところが品川用水の場合は骨格となる背尾根が見つけにくいという難点がある。背尾根から背尾根を渡って行くというのも品川用水の特徴だ。
P1050879
 その例が、川を越えていく築堤の増築だ。粕屋村にはこれがあった。この粕屋といえば思い出すのが徳富蘆花である。当地に住んだ彼は水に難儀した。「みみずのたはこと」ではこう記される。

 家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何なァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲む役を引受けた。

 品川用水は灌漑用の水だ。しかしこれらが通過していくところで生活用水として使われる。どうせ下流に流れて農業用に使われるのだ。襁褓も洗い、肥桶もあらう、そして洗面もする。上流において雑廃水だ。続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月18日

下北沢X物語(2997)〜荏原地域文化:馬と沢をめぐって〜

P1050866(一)自身の居住地点は荏原の真ん中だ、ここをさるき歩く荏原逍遙は欠かさない。地形的な特質がある。それが端的に土地の名に刻まれている。深沢、奥沢、野沢、北沢などにある沢だ。起伏に富む地形だからである。もう一つ、馬も多い。駒沢は典型的な地名だ。が、これは合成地名だ。しかし、面白いのは馬と沢とを包含している。上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町、深沢村の六村を合併し、駒沢村となった。このときに馬(=駒)と野沢・深沢の沢を合わせて名付けられた。

 東西南北どっちに歩いていっても馬の痕跡ある。古代から近代に掛けてのものである。ゆえに歴史的に古い。萩原朔太郎が居住していた馬込も馬の放牧地だったとされる。詩人旧居のそばには摺墨塚がある。梶原景季が騎乗する馬だ。一方、近くの千束池そばの八幡神社には池月の像がある。これは佐々木高綱の馬だ。摺墨、生月、ともに頼朝が所持する名馬だ、これを授かった二人は宇治川での戦いで一番乗りを繰り広げる。

 『平家物語』で語られる二頭の名馬、摺墨、生月は荏原産の馬だった。ここにこそ沢が深く関係してくる。二頭は放牧地で飼われていた。一帯は平坦ではない、起伏に富んだ地形だ。ここを駆け回ることで足腰が鍛えられた。名馬となっていく所以である。象徴的なエピソードだ。東国の起伏に富んだ土地で鍛えられた馬を持っていた頼朝軍が最終的に平家を制圧する。
P1050868
 荏原の谷で軍馬は鍛えられた。近代になって駒沢練兵場が作られる。ここの南端には急坂があった。六頭だての馬車はここで訓練された。後になって大砲を牽くのは車になった。が、当初は馬たちである。駒沢練兵場の西には野砲兵営の厩が多くあった。ここら連れてこられた馬の訓練をここで行った。鉄の重りを乗せた橇を六頭がぬかるむ坂道で駆け上がる。が、土に食い込んだ橇は進まない。それで、砲兵がムチをくれてやる。「ヒヒィン、ヒヒィン」と泣き叫んで、六頭は必死で引っ張った。馬は目をぎょろつかせる。もう真っ赤だ。

「苫良号が遅れている。やつにムチをくれろ!」
 小隊長が命を下す。
「よし、一発お見舞いだ!」
 命令された兵が力一杯ムチをかます。急坂に掛かった馬体を震わせて力を掛ける。
そのとたん苫領号は前につんのめった。
「隊長、骨折です!」
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月17日

下北沢X物語(2996)〜陸軍獣医学校と地域文化〜

P1050873(一)昭和二十年五月二十四日、二十五日、陸軍獣医学校は空襲で焼失した。地図での建物配置をみると敷地一杯に多くの建物があった。密集していた。この木造建物群は焼夷弾投下によって全焼した。ここに収められていた数多くの資料は一気に燃え尽きて、貴重な資料も灰燼に帰した。

今日、「大東亜戦史に於ける獣医部の教育訓練並野戦獣医勤務の変遷」という資料が、きむらたかし氏から送られてきた。

 獣医部教育施設ハ左ノ如ク何レモ補充実施学校ヲ区分スルコトナシ。
陸軍獣医学校(東京ノ後ニ川渡)
 昭和十八年一部ヲ以テ川渡及ビ西那須野ニ疎開セシカ昭和二十年五月本校ハ空襲被害ノ為主力ヲ以テ川渡ニ移転セリ

 
既に十八年に一部を疎開させたとのこと。が、恐らく膨大な量の骨格標本などまでは持っていかなかっただろうと推測できるが。
 
 この陸軍獣医学校、何時創設されたのか?『獣医学史』(中村洋吉)に基づく。

・明治26年(1893)5月4日勅令26号をもって陸軍獣医学校が設立された。この陸軍獣医学校は校舎を荏原郡目黒村陸軍乗馬学校内に定めた。
・明治42年(1909)年12月28日移転 東京府荏原郡世田ヶ谷村下代田


 昭和20年(1945)年5月、校舎は空襲によって焼失。この間、戦況は大きく変化した。軍用動物としては馬が中心だったが、これが変化する。軍用犬、軍鶏など、あるいは砂漠などへの進行に備えて駱駝も飼っていたようだ。我等の会の古老が獣医学校で駱駝を見たとの情報も寄せられた。

 下代田に移転した陸軍獣医学校は、地図をみても分かるが敷地一杯に建物が建っている。動物や標本などが増えた。それに伴い、建て増しに建て増しを繰り返して敷地一杯に建物が建ったのだと想像される。とくには動物舎が増えた。

 ぎっしりと建っているだけに火の回りも早かった一気に燃えて、灰燼と帰したのではないかと思われる。建物は動物舎だけではなかったようだ。昨日、きむらたかし氏から資料を戴いた。この中の「昭和14年の教則」とある。この末尾にカリキュラム表があった。「学生及び獣医部下士官候補者教育科目細目表」である。課目が多岐に亘っていて面白い。課目として「軍陣」がある、その下部課目には、飼養学、管理学、輸送学、馬具学などがある。どうやって食べさせ、どうやって管理し、どうやって運ぶかなどを講義していたものだろう。
P1050872
 戦場防病学もある、化学症学、射創学などがある。化学兵器などが使われて馬が負傷したときなどにどう対処するか。銃で撃たれてケガした場合どう治療するかなどを講義したのだろう。

 軍用動物学なるものもある。馬学、軍犬学、軍鳩学である、これには「同実習」とある。。犬の特長や伝書鳩との習性などを習っていた。実習があることから動物舎には多くのシェパードや鳩が飼われていたことが容易に想像される。

 多岐に亘るカリキュラムを実施するには講義室が必要だったろう。動物舎に加えてこれらも加えたことで建て増し温泉旅館風になっていたのではないか?。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月15日

下北沢X物語(2995)〜陸軍獣医学校と「ミドリ楽団」〜

P1050851(一)昭和20年(1945)年5月24日、25日、陸軍関係の施設が多くある駒場、三宿、下馬、下代田地区はB29の空襲を受けた。このとき陸軍獣医学校は炎上し建物は焼けた。学校は明治42年(1909)に当地に創設された。以来、建て増しに建て増しを重ね、空襲時には多くの建物があった。これらはほとんどが木造で炎上した。北側には五棟の動物舎、厩舎があってここに多くの動物たちがいた。いわゆる実験のための軍用動物である、軍犬、軍鳩、軍鶏、驢、騾、牛、水牛、駱駝などだという。空襲当日、多くの動物は焼け死んだ。想像するに当夜は苦しみもがく動物たちの鳴き声が聞こえたはずだ。翌日は辺り一帯に獣を焼いた臭いが充満していた。

 このときに多くの動物が失われたが資料や標本類もなくなった。上野動物園で薬殺された動物の骨などもたくさんあったはずだ。また、オリンピックで金メダルを取った西大佐の愛馬ウラヌスの骨格標本も焼けてしまった。
「陸軍獣医学校の資料というのはほとんど残っていませんね、だから調べようがないのですよ」
 広島文武獣医は言っていた。89歳の彼はここの学校のことを知る古老である。
「陸軍獣医学校の跡地を徹底して巡ってみる歩く会をやってみたいものです」
 私の発案だ。
「いいですよ、かまいませんよ」
 彼は肯った。当面は、通例行事で埋まっている。早い機会に計画してここを歩きたい。
P1050856
 陸軍獣医学校跡の北端には厩舎などがあった。ここに建ったのが富士中である。設立年月日は昭和23年(1948)2月5日である。この年の4月に第一回生が入学している。
続きを読む

rail777 at 09:32|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月14日

下北沢X物語(2994)〜下代田の陸軍獣医学校検

CCI20160314_0000(一)戦争終結の二年前、上野動物園の猛獣を処分せよと命が下った。昭和十八年八月十六日のことだ。理由は、「空襲で檻が壊されたりすると、猛獣が市中に出てしまい、危険だ」(『わたしの見た かわいそうなゾウ』澤田喜子)からと。が、真意は別にあった。この頃戦況は悪化していた。ところが多くの都民は戦争に勝っていると思っていた。そういう中で大達茂雄都長官(都知事)は命令を出した。「動物園の猛獣を処分するということにより、国民に警告を発するという方法をとった」と当時、陸軍獣医学校の教員であった古賀忠道は書いている。「象や虎や熊を殺さねばならぬほど戦況は悪化しているのだ」という発信、見せしめだ、しかし薬殺や毒殺は、人々にその惨さを印象づけた。戦後『かわいそうなゾウ』(土家由岐雄)が発刊された。この童話は、二百万部も売れたベストセラーとなった。あの戦争の悲惨さを象徴するできごとだったからだろう。
 
当地の文化探訪をしているうちに陸軍獣医学校に行き着いた。この学校が上野動物園の猛獣処分に深く関わっていたことを知った。薬殺された動物は 昭和十八年八月十八日トラなどは動物園で「硝酸ストリキニーネで毒殺」され、そして「これら動物の死体は8月19日、陸軍獣医学校に運ばれて解剖され」ている。トラは皮晒しとなった。(『上野動物園百年史』)

 このライオンの処置に関して異説がある。広島文武獣医の話だ。彼は今年で89歳となるという。獣医学校跡に装蹄学校ができたがここに五年ほど勤めたという。五頭の馬がいたが科の廃止で日大に譲って学校を退き、旧陸軍獣医学校の側に動物医院を開業したという。
「ライオンは生きたまま連れてこられて、最後は学校内の防火用水に沈められて溺死させられて殺されました」
 陸軍獣医学校の先生は忍びなく思って当校に連れてきたのか?が、命令がでているのでやむなく最後は溺死させた。解剖して皮を剥いだのだろう。
「もう誰から聞いたのか忘れてしまいましたね、古賀先生(忠道)から聞いたようにも思うのですが…記憶ははっきりしません」

 上野動物園の猛獣は多くがここの学校で解剖された。研究材料である。動物の骨などは多く残してあったのではないか。

 ところがこの学校は昭和二十年五月二十四、二十五日のいわゆる山手空襲で校舎が焼けた。このときに多くの標本も焼けてしまった。広島文武獣医はさらにこう証言する。これも意外な話だ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年03月12日

下北沢X物語(2993)〜下代田の陸軍獣医学校掘

P1050864(一)鉄道交点の因縁の糸は果てがない、こっちを調べているとあっちへと繋がる。陸軍獣医学校のことは文化探訪の果てにたどり着いた。今一つの糸、代沢小「ミドリ楽団」の事績をまとめている。終盤に差し掛かって認識したことは、「もう一つの戦後史」だということだ。児童らによる高度な音楽活が人々の生きる勇気を高めていた。団員は米軍のみならず台風被災地、あるいは上野動物園での慰問公演を行っている。この中で動物園への慰問は興味深い、何時のことなのか?手掛かりは「猛獣舎にはブタばかり」だったという証言だ。猛獣がいるはずの檻にはブタばかりだった。理由があった、戦時における猛獣処分である、これに深く関わっていたのが陸軍獣医学校だった。

 『上野動物園百年史』は、園の歴史を網羅している。「猛獣処分」については詳しく記録している。この項の冒頭に「昭和16年8月、古賀園長の応召によって、園長代理となった福田三郎技師は日記を欠さず書いている」とある。この園長は初代上野動物園の園長古賀忠道である。そして、「当時(18年6月)古賀忠道は、すでに南方より帰還し、世田谷の陸軍獣医学校に教官として着任しており、時々獣医学校の生徒を引率して上野動物園に来園したほか、時折福田三郎および公園課長井上清などより、相談をうけていた」と記される。

 初代園長は応召から戻り、陸軍獣医学校の教官として赴任していた。動物園との深い関わりがあることから折々の学生を引き連れて園に訪問していた。このときに園の関係者から多くの相談を受けていた。そして「昭和十八年(1943)八月十六日(月)曇」の日がやてくる。獣医学校の古賀忠道は東京都の公園課長に呼び出される。

 興味深い点があって脇道にそれるが、この説明の中で、「古賀忠道は、当時陸軍獣医学校で軍犬軍鶏の教育の仕事に当たっていた」と書いてある。陸軍獣医といえばまっ先に想像するのは馬である。ところがそうではなく、軍犬軍鶏の教育に当たっていた。厩に馬がいるだけでなく、軍犬、シェパードや軍鶏、シャモがいた。
「そういえば、獣医学校には大型の軍用犬がいてよく吠えていた」
「なぜか知らないが、シャモがいましてね、これもよく鳴いていましたよ」

 当時犬と言えばシェパードである。下北沢二号踏切そばの佐山さんもこれを飼っていた。ところがこれが軍用犬として徴発された。代金は十円、腹を立てた彼はどぶ、ダイダラボッチ川に棄てた。ふと思ったのは獣医学校に連れていかれたのではないか?
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化