2016年07月25日

下北沢X物語(3083)〜改定七版へ:下北沢文士町文化地図〜

CCI20160725_0000(一)「下北沢文士町文化地図」第七版の発行を決めた。われ等の会、北沢川文化遺産保存の会は、平成28年度、世田谷区地域の絆ネットワーク支援事業に応募していた。このほど採用決定通知があった。それで重版発行を推進することにした。

 今回、地域の文化を再興するということで二つの事業を考えていた。一つが「下北沢文士町文化地図」七版の発行だ。これは改定に改定を重ね、四万八千部を発行していた。次七版では総数、五万八千部になる。「文士町」がまた広く認知される。

 地図は七版だが、実は初版の前に零版がある。2006年5月31日に発行した「北沢川文学の小路物語」の表紙の裏にこれが印刷されている。デザインを担当した東盛太郎さんが作成したものだ。彼はこの後に急逝してしまう。

 地図は彼が遺した遺産だ。現今のものはこれを基にしている。毎版ごとに順次見つかった文芸人の旧居などを書き込んできた。改版は時の経過を表わすものだ。

 こういうこともあった。五版目ぐらいだったろうか。地図を見た人が驚いていた。
「こんなに著名人が住んでいたのか知らなかった。しかし、これ以上は探すな…」
 そんな忠告をした人がいた。地図作りを進めていくと、地点やポイントを集めようという気持ちが働く。彼が言うのは、これ以上調べると「同人誌級の作家となる」と。つまり、記録してきたものの価値が薄まっていくという指摘である。

 しかし、この改版の背景にこそ、「文士町」の特異性がある。この認識も十年に及ぶ経験からきている。旧居調べは隣接する区域にまで及んでいる。隣町の三軒茶屋もそうだ。最近見つけたのは山田風太郎旧居だ。

 文化的な観点での比較でいうと、三軒茶屋は商域や街としては下北沢よりも広い。が、旧居密度は後者が断然濃厚だ。このことによって文士町の特異性が浮かび上がってくる。

 端的に言えば、文士町の全貌は分かっていないことだ。改版を重ねていくうちに少しずつ分かってきて、それが改版につながっていることだ。版を重ねられる街、そういう観方ができる。

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2016年07月23日

下北沢X物語(3082)〜都市論としての「夜霧の第二国道」供

DSC_0021(一)「夜霧の第二国道」は、名前がいい。一級から落ちる点がローカルで裏さびれている。落魄行である。物寂しさや哀れさが滲み出ている。フランク永井の大ヒット曲である。昭和三十一年の高度経済成長時代、金銭的には潤ってきた。しかし、庶民の多くは心が満たされないでいた。かろうじて生きながらえている者もいた。ネットで見ていると、やはり、この曲は懐メロとしては人々の心に生きている。とある人が、「むしろ、ある喪失感、下降する人世の、辛い、甘美な肌合いだけは、いまも鮮明に僕の心に残っています。」と書いている。働けど働けど、思いは報われない。ネオン街で恋人を見つけることもできない。社会を支えている男たちの郷愁歌であったのだろう。恋もままならぬ青年たちがせめてこの歌をうたうことで憂さを晴らしていたのかもしれない。

 ネオン街に後ろ髪を惹かれながらもそれを捨てて第二国道を行く、これも男気の一つだったのかもしれない。そういうことでは、ここのサビは泣かせる、「バック・ミラーに あの娘の顔が 浮かぶ夜霧の ああ 第二国道」である。気温の差があって、海岸部の第一国道では霧が出ないのかもしれない。武蔵野の起伏には多摩川からの川霧が押し寄せ霧が出たのかもしれない。

 彼が乗った車、コロナか、二国を走っていく。折々にミラーを眺める。後続車のヘッドライトの向こうには都会の明かりも見える。そこに捨ててきたはずの「あの子の顔」が浮かぶ。本当は好きだったのだけど行きがかりで、「オレはおめえなんか嫌いなんだから」と粋がってみせてしまった。が、二国まできて思う。関心は深かっただけにその女を思う。バックミラーに彼女の横顔が浮かんでくる。「おお、幸子!」とか、ところが無惨にも夜霧がこれをさえぎってしまう。

 バックミラーの守備範囲はある。彼女の顔が浮かび、都会のネオンの光彩映る。距離でいうと環八ラインでないだろうか。つまりは都鄙境である。物語が湧いて消えるところだ。具体的な場所を言えば、松原橋だ。環七を越えていく橋だ。東京外郭環状線である。

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2016年07月22日

下北沢X物語(3081)〜都市論としての「夜霧の第二国道」〜

DSC_0019〇今日から都市の風景が変わった。街や公園の一角に大勢がたむろしている。若者が中心だ。それぞれがスマホをかざして懸命に画面を見ている、折に画面を見せ合う場合もあるが、個々別々の作業にふけっている。その場に居合わせている人間同士だが、つながりは希薄だ。その彼らは探すことに熱中している。得体の知れないものがこの人々をどこかで操っているのではないか。空を見上げるが黒幕は見えない。社会は何か恐ろしいものに引っ張られているのではないか?今日、駒沢公園で出会った異風景である。

(一)テレビチャンネルを回していたら懐メロが聞こえてきた。「夜霧の第二国道」である。これを聞きながら思った。
「なんだあ、これは荏原都市論じゃないか!」

 歌謡曲は情緒性が必要だ、名前はとくにそうだ。これは地理的には「中原街道」でもよい。しかし、「夜霧の中原街道」ではあまりにも田舎臭い。一国はどうだ、「夜霧の第一国道」、これはおしゃれ度が過ぎてフィットしない。やはり抒情といのはある種、臭みが必要だ。場末的な情緒である。一級酒よりも二級酒が訴える。が、これに足を取られると心もおぼつかなくなる。飲酒運転ではまずかろう。ところが「夜霧の第二国道」をゆく運転手は素面のようだ。

 歌にうたわれる、「夜霧の第二国道」はどこだ。国道二号というのがある。これは山陽道を走る、国道だ。この第二国道は、国道一号のうち、東京都品川区西五反田から神奈川県横浜市神奈川区までの区間における道路通称名である。つまり、第一国道の補完道路である。それで人々は「ニコク」、「第二京浜」と呼びならわしていた。

 この「夜霧の第二国道」昭和三十一年(1956)に発売されている。高度経済成長が始まった時期と重なる。また二年後には映画として昭和三十三年(1958)年二月に封切られている。主演は小林旭だ。歌手のフランク永井も、芸名で出演し歌を歌っている。作詩:宮川哲夫 作曲:吉田 正である。

つらい恋なら ネオンの海へ
捨てて来たのに 忘れてきたに
バック・ミラーに あの娘の顔が
浮かぶ夜霧の ああ 第二国道


鉄道にしても車線にしても上り下りというのがある。この車の運ちゃんはどちらへ向かっているのか。これは間違いなく下りである。彼、主人公の男は「ネオンの海へ」つらい恋を捨ててきた。「バカ野郎、おめえなんか嫌いだよ」と言って車に乗り込んだ。車種はコロナだ。ひたすら西へ向かう。まずは桜田通だ。五反田手前の坂を下っていく。山手線のガードを潜り、目黒川の橋を渡り、山手通りを過ぎてやっと「第二国道」に入る。

 都心から遠ざかれば遠ざかるほど「あの娘」が思われる。折々に彼はバックミラーを覗いてみる。このあたりでは明りが見える。

 不図見ると、東京と思う方は、宛然火事でも有るかの様に、明るさが空に映じて居た。瓦斯燈、電気燈、軒に並ぶ街燈、道行く提灯、虚飾と実用とに論なく、戸外に於て輝き合せ、夜の東京をして一層多忙ならしめて居る。その集団の遠き火光が、自づから大いなる背景を造つて、近き大崎田圃の発電所の大煙突二本を、切組絵の様に浮出さして居た。
 明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」


 明治四十年発行の「蛇窪の踏切」である。大体位置的には二国に入ったあたりのである。都心の明かりが煌々と空を染めている。この時代は煙突の煙がガスとして舞っていた。が、昭和三十年では、多摩川の川霧が漂ってきたのだろうか。

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2016年07月19日

下北沢X物語(3080)〜第10回「世田谷の戦跡を歩く」〜

P1060039(一)駒沢練兵場を歩く、いつの間にか九回目を迎えた。恒例行事である、野砲兵、そしてけん引する馬、人馬が汗した場だ。ここの近衛野砲兵は皇居の「午砲」(ドン)の担当をしていた。昼時をこの砲兵たちが知らせていた。また三軒茶屋に繰り出して憂さを晴らした第一野砲兵連隊の兵士はレイテに行ったまま帰ってこない。忘れ去られた彼らを追慕する行事だった。来年は十回目となる。

 先の「戦争経験を聴く会語る会」、九回目だった。十年は一つの大きな区切りである。しかし、われらは義務ではやってこなかった。これがねばならないというと辛くなる。先が持たない。
「必ずしも十回目を開催する必要はないと思います」
 これは私の意見だ、先の五月の「戦争経験を聴く会語る会」は、多くの方々が支えてくださった。準備会も何度も行い、反省会までした。
「地域の子どもが入って会をやることは素晴らしい。しかも彼らが自分たちの古い先輩方が歌った疎開学童歌をうたったんだから意味がありますよ」
 サポートした人々の意見だ。それで、来年第十回は目は、五月二十七日に開くことを決め会場も予約した。

 「駒沢練兵場を歩く」はどうするか。九年間行ってきてマンネリ化している。追悼、追慕というベーシックなものがあるゆえに致し方がない面はある。が、続けてくることで知ったこと、発見したことは多くある。今回は、世田谷平和資料館ができてこれをうまく活用できればトピックになりうると。最後にここに着いてここのホールで戦争経験者から一帯の昔の様子を聴くことを考えていた。が、できないらしい。

 継続するとすればどんな工夫があるだろうか? 
「この駒沢練兵場は大体がフラットで歩きやすい、反面景観性に欠けているように思います。」
 蛇崩川と北沢川とに囲まれた台地の上にここは広がっている。それで練兵場と兵営を築いたのである。歩いていくときの楽しみは景観である。これまでので言えば、今も往時の兵舎が残る韓国會館は歩きの中でのトピックだ、年々朽ち果てていくさまがみられる。哀れである。駒沢練兵場の西、昭和女子大構内の記念碑、そして木造兵舎、馬魂碑は戦跡景観としては見るだけの価値はある。

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下北沢X物語(3079)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場供

image006(一)戦後71年、戦争の風化は著しい、昨日、疎開学童連絡協議会の長谷川直樹さんからメールには、「疎開体験を語り継ぐという活動に、展望が見えてきません」とのこと。疎開経験者の老齢化で語り継ぎの継承は崖っぷちにあると。活動を辞めたとたんに歴史も消え去ってしまう。疎開学童関係については当事者が亡くなりつつある。彼らが所持している日記や手紙は戦時資料として貴重だが、遺品はごみとして処理される。が、これらを体系的に収集している資料館はない。この保存を含めてきわどいところに来ている。
 
 世田谷からは多くの学童が松本市を中心とした地域に疎開している。その時に書いた日記や手紙は貴重な資料だ。軍関係の記録は多くが焼却されていてない。戦争末期、沖縄戦の後方支援基地だったここには数多くの航空兵が出撃待機で浅間温泉には滞在していた。その時の学童の日記や手紙を丹念に読んでいくと具体的なことが分かってくる。誠隊の所在、あるいは振武隊の所在、この間は、湯本屋にこれが滞在していたことが分かった。

 世田谷区域には歴史記録が多く眠っている。近代戦争史の片鱗がこっそりとある。疎開学童の絵日記には具体的な機影が描かれ、そしてまた最新型重爆撃機の飛来記録までもがある。

 また一方、広大な軍事施設が置かれていた。近代戦争史を支えた場である。砲兵、輜重兵、騎兵などが一帯の施設には駐屯して訓練を重ねてきた、そして大陸や南方に派遣され多くが亡くなっている。玉砕した隊も少なくない。
P1060036
 九年間、私たちは駒沢練兵場を巡ってきた。毎月街歩きを行っているが時代の変化とともに衣替えをして継続している。駒沢練兵場を歩くは基本を変えないでこれを継続してきた。夏の暑い盛り、戦跡を歩こうと呼びかけても人が集まらない。

 九年間行ってきたから、次に来年十回目もやろうとは考える。しかしどうしても義務として行わなくてならないこともない。今回は、一つの期待があった、新しくできた世田谷平和資料館を軸に、戦跡歩きと古老からの聞き取りをセットで開催することを。しかし、施設側は冷淡だった。この行事、断念することも選択肢の一つとしてあると思った。
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2016年07月17日

下北沢X物語(3078)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場〜

P1060038(一)回数を重ねて九回目となる戦跡歩きだ。ところが戦争の風化を足が感じた。戦後71年、あの戦争から大きく遠ざかってしまった。しかし、時間の経過だけではない、風化には空疎感があった。なぜだろう、今朝新聞を読んでいて出会った、「現代世界におけるあらゆる信用が揺らぎつつある」と。「そうだ人間への信頼がなくなりつつある」と思った。相次ぐテロ事件、これが日常化して普通に人々が死んでいく、過去の戦争の酷さ、今のテロにおけるひどさ、今日的価値観から戦争の無謀さへの想像力が希薄となってきたように思った。
 
 昨日、119回目となる街歩きの案内者はせたがや道楽会の上田暁さんだ。例によってまず最初は、昭和女子大構内にある近衛野砲兵の記念碑から見て回る。具合よく昭和女子大の教授永山誠先生も参加されていて、建物の中にさりげなく飾ってあるトルストイの絵を見せていただいた。レーピンの手になるものだ。

 近衛野砲兵連隊跡から、第一野砲兵連隊跡へ、この行事の大きなトピックとなるものがここにある。今もなお兵舎がここに残っているのである。韓国会館として使用はされているが、東半分は使われていない。年々朽ちていくだけである。

 明治31年に建てられたとする貴重な歴史建物遺産

 上田さんはこう資料に記していた。

「詳細は調べなくてはなりませんがこの建物の設計が、全国の学校の校舎建築に影響を与えている可能性はあります」
 永山先生の指摘だ。現存する貴重な建造物、保存をとここ数年訴えてはいるが共鳴する動きはない。貴重だということの意味を具体的に示唆する意見だと思った。

「明治時代のものだとすればどのようにして作られたかというのも考えなくてはなりません」とも。先生の指摘でわれらは壁材の板に目を向けた。
「長尺寸ではなくて短寸(1、5メートルぐらい)だから運ぶのに具合よいのでしょうね。当時のことだから馬車で運んだのでしょうね。だとすると日本鉄道の渋谷駅からでしょうか?」と私。

「この材をどこから運んだかということもありますね。往時だと多摩川のいかだ流しがあったから奥多摩とかの材がきているかもしれません。そうなると二子玉川辺りに製材所がなくてはなりませんけどね」
 永山先生は想像力が豊かだ。多摩川のいかだ流しで運ばれたなどというのは今回九回目で初めて出会った示唆だ。

 しかし、この建物年々朽ちていくばかりだ。ちょっとした地震でも崩壊するのではないかと思う。部材などでも保存できないか、街並み保存の会の丸山さんと訴えたこともあるが、その彼も亡くなってしまった。

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2016年07月16日

下北沢X物語(3077)〜「ミドリ楽団」と地域文化〜

DSC01906(一)代沢小のミドリ楽団の興隆と発展、戦争を挟んでの活動であった。敵味方に慰問活動をした児童楽団というのは稀有である。戦争という時代を彗星のように駆け抜けたこの楽団は地域文化と深く結び付いている。そこに固有性がある。鉄道交点文化を映し出す鏡だともいえる。
 
  13日、山崎小OBの長谷川直樹さんと会った。彼も疎開組である。浅間温泉では小柳旅館に滞在していた。彼らも満州から飛来してきた特別攻撃隊と親しくなっている。昭和二十年三月末、出撃していく戦闘機を見送った。翌4月3日、九州新田原近くの佐土原から手紙が届いた。近々出撃するから新聞を注意と。ところが、どういうわけか満州に原隊復帰して、その彼らとまた手紙で交流をする。この正体は分かっていない。

 山崎小と代沢小、そう遠くはない。が、背尾根一つ越えたところにある。前者の最寄り駅は梅が丘駅、後者は下北沢だ。が、学校の環境や雰囲気が異なる。

「代沢小ではさまざまなジャンルがあったみたいですが、信じられません。わたしたちの場合は軍歌だけでしたから…忘れもしません昭和二十年十一月、疎開から帰ってきて梅が丘駅に整列して歌ったのは『勝利の日まで』だった。戦争に負けたのになんであの歌を歌ったのか後々の語り草だ」
 
 山崎小学校には代沢小とは違う不自由さがあった。保守的であった。それでここに漂っていた不自由さがあったようだ。生内泰子さんは、四年生のときに、教室で数え歌をした海苔が焼けたのを三畳焼けた、四条焼けたとうたのがある。彼女は順に行って「九条焼けた」とうたった。このことによって問い詰められた、なぜ歌ったのか。
「九条焼けたは宮城焼けたにつながることからとがめられた」
 彼女は今でも苦い思い出だという。

 都会の田園地帯にある学校はどうも不自由であった。軍隊上りのいばった教師がいてのさばっていたこともあるようだ。

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2016年07月14日

下北沢X物語(3076)〜「ミドリ楽団」とワシントンハイツ供

CCI20160714_0000(一)昨日のことだ、会の事務局で人と待ち合わせをしていた。三軒茶屋で街歩きの掛け金を振り込んだ後、代田まで散歩がてら歩いた。途中、太子堂富士見湯の前を通りかかったときに一人の女性と目があった。
「お風呂が開くのは二時からなの、でもね、いつも早くから来て待っているの、こうして待っているのがとても楽しいのね」
 自分では待つのは嫌いだ。行列に並ぶことはない。しかし、待ちながらオープンまでの時間を楽しめるというのはいい。
「道を人が通るのを見たり、待っている人同士で話したり、そしてときにあなたみたいな人が来て、私に知らないことを教えてくれるの。今日はね、とても幸せでしたよ。私が知らないことを教えてくださったのだだもの…」

 彼女は生まれてこの方、この近隣で過ごしていたようだ。小さい頃、今の世田谷公園辺りではよく遊んでいたそうだ。
「あそこはね、駒沢練兵場だったのです。広々とした原っぱがあったでしょう。風が吹くともう大変でした土煙がもうもうと立って目を開けてはいられないし…」
「そうそう埃はすごかったですね。窓を閉めていてもだめなんです。掃除が大変でした、掃除機なんかないしね」
「世田谷公園の西側は野砲兵の兵営がずらりと並んでいました。ここからするとこの坂を上ったところが国道246号です。その向こうが兵舎、そこの溝から流れてきた水がほらそこのドブに流れてきていたんですよ」
「私は、ずぅっと住んでいますけど、そんなこと知らなかったわ、ありがたいことですよ」
 彼女はしきりに感心していた。

 246沿いの世田谷区社会保険事務室に街歩きの保険を提出した。係担当の女性も驚いていた。
「道の向こうに兵営がずらりとあったんですか、そんなこと考えたこともなかった…」
 この一帯、街の歴史が各所で眠っている。が、人はそれを知らない。

 私たちは皮相的な面でしか生きていないのではないか。土地固有のものを知らないで生きている。そして、その最新時間だけがどんどんと人を連れていく。

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2016年07月13日

下北沢X物語(3075)〜ワシントンハイツと「ミドリ楽団」〜

4024e099(一)建物名称からみる都市考現学、日々歩いていて思うことがある。単数が住まう家の名はほとんどが日本名だ、が、これが複数になると外国名となる。ハイツは多い、パークハイツ、スカイハイツ、グリーンハイツなどだ。朽ちかけたアパートまでがメゾンなどとついている。そんなときに梅花荘とか出会うと感動してしまう。しかし、問題は単純ではない。先に起こった猟奇事件はマンションで起こった。立地しているのは世田谷区野沢だが建物の名には、目黒区の柿の木坂がかぶせられている。販売価格では柿木坂である方が、一万三千二百五十八円高いらしい。かつて多数を占めていた〇〇荘、〇〇アパートはない。パレスやハイムなどにどんどん侵食されている。われら日本人のレーゾンデートルはどうしたのか?

 夢野久作の小説「人間レコード」にはこんな場面が出てきた。

 列車の速力がダンダン緩ゆるくなって来て、蒼白いのや黄色いのや、色々の光線が窓硝子ガラスを匐い辷った。やがて窓の外を大きな声が、
「小郡イ――イ。オゴオリイ――イ」
 と怒鳴って行った。


 「オゴオリイ――イ」は、懐かしい、駅ホームでの案内の声、旅路で出会った旧知の地名、小説を読んでいても切なくなる。この響きのいい地名、いつしか消えて、「新山口」となった、後年、「シンヤマグチー」と呼ぶ声に出会ってどれほど落胆したことか。旧来の地名や名前に人々はこだわらなくなった。沓掛などはいい名前だ、が、中軽井沢の方が通りがいい、だいぶ前にこれは改名された。

「世田谷代田も隣の東松原や下北沢にどんどん侵食されてきているのですよ」
 歴史ある地名なのに松原コートとかメゾン下北沢とつけているらしい。地元の人の話だ。

 建物名前の欧米化、全東京が侵されている。この現象、どこから始まったのか。例えば、ハイツなどは駐留米軍がつけた居留地の名前だ、グランドハイツ、ワシントンハイツなどだ。西欧に対するあこがれはハイツから始まっている。

ワシントンハイツの存在は日本人の住空間を大いに変えていく。
芝生を駆け回る犬と白い家……。
日本人が立ち入ることのできないフェンスの中の「アメリカ」をモデルに、日本人は畳や床の間を捨て、リビングに応接セットを並べて、何の疑いもなく大量消費時代へと邁進していくのである。 
『ワシントンハイツ』 秋尾沙戸子 新潮社 二〇〇九年刊

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2016年07月11日

下北沢X物語(3074)〜土壇場のショック:ミドリ楽団物語〜

CCI20160710_0000(一)戦前の昭和十四年に発足し、戦後の高度経済成期時代に消えた児童楽団がある。戦火を潜り抜け、そして戦後になって世界デビュー、全米でのテレビ中継までされた楽団だ。地味な努力とそして華々しい活躍、彗星のような軌跡を描いた音楽集団だ、児童音楽文化史に記録されるべきだと思う。地域の文化発掘をし続ける中でこの話と出会った。すなわち、世田谷区代沢小学校の「ミドリ楽団」だ。何とかしてこれを記録しておきたい。その一心から「ミドリ楽団物語」〜戦果を潜り抜けた児童楽団〜を書き上げた。今校正段階に入っているが、ここに至って思いがけない事実に遭遇した。

 昨今の溢れかえる情報の中で個人的に驚いた情報がある。東盛太郎さんがこの「ミドリ楽団」の団員だったことだ。十数年前、2004年、彼との出会いがきっかけとなってわれ等の「北沢川文化遺産保存の会」が創立された。創設メンバーであった。

 彼と二人で最初に手掛けたのが「北沢川文学の小路物語」である。彼がデザインを担当し、私が文章を書いた。下北沢地域一帯に眠る文化を掘り起こして何とか伝えたい、そんな思いからだ。

 現在、我々は「下北沢文士町文化地図」を作って配布している。改定に改定を重ね、今では六版となった。今年度中に七版を出すつもりだ。実は、この原型を作ったのが他ならぬ彼、東盛太郎さんだ。

 われ等は個々人の経歴についてはあまり話題にしない。生きている今が大事だからだ。しかし、共に奉仕的に活動してきた彼は急逝してしまった。下北沢で彼のお別れ会があった。このときに初めて知ったのが本職のデザイナーだったことである。

 彼との協働でできたのが「北沢川文学の小路物語」だ、お別れ会ではこれが遺作となったと紹介されて改めて感銘を受けた。

 しかし、そういわれるだけの評価はあった。発行すると「朝日新聞」と「毎日新聞」二紙で大きく取り上げられた。前者は2006年6月24日朝刊の東京版に載った。あれからもう十年以上が経つ、このところ「ミドリ楽団」の調べをずっと続けていた。関係者は高齢化し、証言を得ることがとても難しかった。が、あろうことか灯台下暗し、身近なところに関係者がいたのだった。しかし、彼から話をもう聞くことはできない。

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2016年07月10日

下北沢X物語(3073)〜鉄塔とダイダラボッチと弁天池事件〜

P1060035(一)私たちはつぎつぎに入ってくる情報に翻弄されている。国内では相次ぐ殺人事件、国外では止まることのないテロが続く、力による暴力だ。道徳や倫理は全くの無力だ。世界や社会が閉塞化しはじめている。資本主義の金権至上主義の行き詰まりでもある。ドロップアウトした人々がやみくもに人を殺し始めている。多くは疎外者だ。体制は殺人やテロには敢然と立ち向かうというが根絶は不可能だ。便利、金権至上主義は人の心を破壊し始めている。

 昨日雨の中をいつも通り散歩した。弁天池殺人事件の犯人は逮捕されたが池はまだ立ち入り禁止となっていた。ここから北上すると取材陣が大勢いた。ネタに群がるハゲタカのようなものだろう。一連の報道の展開は、マンション内部での遺体解体の可能性が高いことを全国津々浦々に流していた。田舎のじいちゃんばあちゃんまでが殺人事件の推理に加わり「マンションの住人が怪しいね」と嫌疑をかけていた。一番胸をなでおろしたのは住民だろう。

 散歩では池からいつも北上する。西から緩やかに流れている浸食谷が東へと続いている。これが細長い半島を形成している。この最東端に駒繋神社がある。よってこの地区のあざ名は「子の神」である。

 緩やかな坂を上っていくと、報道カメラが並んでいた。犯人の居住マンションを写しているらしい。ドンピシャリ、そこは背尾根に当たる、すぐそばには小学校がある。中丸小学校だ。「中丸」は地名をとったものだ、「丸」は、丘だ。ゆえに背尾根にあることを示している。当然丘を向こうに下れば低湿地がある、そこが鶴が窪だ。すなわちダイダラボッチ伝説のある池である。

 この一帯民俗学的には面白い箇所である。西丸、中丸、東丸、これは尾根筋ラインをいう。東端の東丸の地形は丸っこい、駒繋神社が鎮座している。「子の神」は、大国主を祀ってあることからついているが、さらに古代に遡れば、「子」は星、北斗星を遥拝するところではなかったかともされている。

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2016年07月08日

下北沢X物語(3072)〜弁天池事件の現場をゆく〜

P1060026(一)昨日、碑文谷警察署から電話があった。例の殺人事件の現場は散歩コースでよく歩いている。それで聞き込みかと思った。
「碑文谷公園には家からだと呑川支流の左岸を越えていくのです。背尾根が境界です。ここに古道堀之内道が走っています。現在の環七ですね、ここが境界で向こうが碑文谷、こちらが衾です。地形的には碑文谷の方がフラットです。しかし、あの碑文谷の弁天池は交通的には不便ですよね。南の目黒通りと北の駒沢通の間にあるでしょう。車で行く場合は、一方通行路などをよく知っていないとスムースにはいけませんね」

「碑文谷弁天池の南端には子育て地蔵尊がありますね。被害者を悼んで花束も手向けられているようですが、あれは踏切地蔵です。かつて東横線の踏切があってここで多くの子供が電車に轢かれて死んだのです。それを供養するために作られたものです。今は、すぐ上を東横線が走っていますね。高架下になってもかつての犠牲者をいまも供養しつづけているのですが、何かの理由で子をなくした人がお参りしているみたいです」

「現場一帯にはマンションがありますが、学芸大学と名付けているものも少なくありません。理由は最寄り駅のことを指しています。あの地域から学大を最寄り駅としていたとすれば道には精通するはずです。」

土地の発展と形成と鉄道ということはある。碑文谷地域を東横線がぶち抜いている。注意すべきは北東から南西に走っていることだ。道は耕地整理して作られている。これは南北を基準に作られている。よって最寄り駅、学芸大駅に行くとすれば真直ぐにはいけない、角角をまわりながら向かう。したがって学芸大学を最寄り駅としていれば自然と碑文谷公園あたりの道には精通してくる。

 池があるとすれば周りに傾斜があるはずだ。碑文谷公園弁天池は立会川の源流となっている。実際池を取り巻く北側は坂となっている。現場となったマンションは背尾根ある。よってここから池に行く場合は傾斜を下ることになる。
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2016年07月07日

下北沢X物語(3071)〜自由、平和、そして憲法が危ない〜

DCIM0053(一)日々の荏原逍遥ではいくつか目を楽しませてくれるものがある。一つは保育園児だ。遊歩道で、彼らは無心に遊んでいる。あどけないしぐさを見ていると心和む。が、ふと過行くと大人たちの顔写真が貼られた看板に行きつく。参議院選のポスターである。公約の中に「核武装推進」を掲げている者もいる。これらが子供たちの未来につながるのか?。

 この子供たちの問題では格差が広がっている。高所得者の子弟はいい学校に入れて、高い学力を身に着けて社会に出ていく。が、低所得者は学費が壁になって大学までいけない。何とかしようと奨学金を借りる。ところが、学校出たとたん容赦なく返済を迫られる。人生のスタート時にすでに数百万、中には一千万を超える借金を背負って社会への船出となる。が、甘くはない、女子大生などは到底返せそうにないということで風俗に転職していくという。すべてにわたって若者への支援は薄い。

 今朝の新聞のトップの見出しは、「改憲勢力3分の2に迫る」と与党の優勢を伝えている。他紙でも同じようだ。このところ与党の野党批判はすさまじい、野合だ、政策がないなどと徹底的に攻めまくっている。多くの皆さんの票を得て決められる政治を行っていく、経済政策も道半ばです、これからさらにエンジンを吹かして景気をよくしていきますと。

 危ない、危ないと思う。権力や権勢はのさばり、おごる、これは目に見えている。彼らは力に頼んでどんどんと国民を攻めて来る。何はともあれ国家大事、最優先で、個々人の自由な考えなどはどんどん狭めていく。
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民主社会における勢力の拮抗は大事だ。こここそが緊張関係を生む。自由というものも勢力拮抗があって生み出されるものだ。この拮抗を過ぎて、多くの票を得ると、がぜん与党は張り切る、数に頼んで何でもありだ。やりたい放題で説明などはしない。

憲法について、「憲法解釈変更を閣議決定 集団的自衛権の行使容認」というのは二年前の新聞の見出しだ。そして、去年、とうとう「安保関連法案、衆院可決」となる。十分な審議も尽くされないままである。「集団的自衛権」の閣議決定は違憲だと論議もあったが。今回の参院選では与党は憲法について争点にしないという。

 しかし、多数の議席を確保すれば間違いなく憲法改正へと動く。それで今日の新聞のようにに「改憲勢力3分の2に迫る」と見出しを打つ。

 権力の常套手段は、外国の敵が攻めて来るだ。これであおって票を集める。まとまるとまたさらに強硬手段に出る。戦争することも選択肢に入ってくる。それが目に見えている。

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2016年07月05日

下北沢X物語(3070)〜下北沢文士町の発展と形成〜

P1060019(一)異質なものによって本質が見えてくる。下北沢文士町の核は昭和期文学である。昭和初期に開通した二本の鉄道がクロスすることによって町が形成された。詩人、俳人、歌人、文士が交通の利便性の高まりから集まってきた。ここ十数年の調べからわかったことは彼らの関係性である。人同士の派閥的、党派的な関係性が希薄であることだ。ゆえに文士村ではなく、文士町だと呼称している。

 この文士村の領域に新たに一人の文士が見つかった。明治期に活躍した生田葵山である。彼は鉄道開通以前の大正十年から住んでいたようだ。下代田、陸軍獣医学校の裏手の小ぎれいな庭のある二階家である。隆盛期には稿料が入ったがこれを過ぎての生活は苦しかったように思える。都鄙境に越してきたのは家賃が低廉であったからではないか。

 下北沢文士町が形成された背景の一端は沢尾根一つ隔てて東大があったことも大きい。文学ではないが北沢の世田谷カトリック教会は、東京帝国大学航空研究所長中西不二夫教授の邸宅の二階で発足している。やはり北沢池ノ上駅に近いところに住んだ森敦は東大生で学校に近く、そして彼と関係の深かった横光利一も住んでいた。

 生田葵山がどのような関係で当地に来たのかは分からない。しかし、彼が借りていた小ぎれいな二階家は、下代田の近隣にある学校の教員向けに建てられた家だったと推測できる。彼が越してきたとき、いわゆる民家はほとんどが平屋だった。二階家というのはめずらしかったと古老は言う。

 彼は、巌谷小波の門下生だった。麹町に住む小波が主催する文学サロンが木曜会である。ここに集ってきて、永井荷風と知り合ったようだ。

 下北沢文士町地域では「水曜会」というのが知られていた。亡くなった映画プロジューサーの森栄晃さんはここに通っていた。横光や川端康成にこれからは映画だと言われて映画界に入ったと本人から直接聞いた。今でも彼が語ったエピソードは鮮明に覚えている。

「木曜会のときでした、雨過山房に野鳥が飛んできましてね、綺麗な色をしていました。『いいかい、今鳥が飛んできたのを見て皆はっとしたろう、これが文学なんだ』と先生は言っていました。これは彼の小説の一場面に出てきた覚えがあります。『鳥』という題だったような」

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2016年07月04日

下北沢X物語(3069)〜文士町の成り立ちと生田葵山検

P1060028(一)常日頃、荏原を逍遥している、今日、ひょいと路地から出ると数名の人だかり、テレビカメラを据えていた。管内警察署の裏手だ。さては猟奇殺人事件に変化があったのか、家に戻ってテレビを点けたがその報道はなかった。さて、何だろう?

 自身が歩き回っている地域は、江戸見坂地点だ、小高いところに上れば都心の繁栄、進展が目で見える。明治末年、この地点から都心方向を眺めると煌々とした明りが見えた。一人の自殺志願者は、「激烈な生存競争」と見えた。そしてこういう「如何(いかん)とも仕様の無いのは生存競争の結果、倒れる者は如何(どう)しても倒れるのであろう」(江見水蔭『蛇窪の踏切』)と。
 

 現今はどうか、まず林立するビルによって都心方向は見えない。ビルの上階に登ってみると林立する高層ビル群、華やかな光は見える。しかし、今は都市の繁栄は目では見えない。ビル群の地下には網の目のように張り巡らされた地下鉄があり、道路があり、また街もある。都市なるものの全貌は目では見えない。華やかであるが、実際的にこれは虚構的だ。

 明治末年と同じように「激烈な生存競争」はもっと激しくなっている。が、内実が違ってきている、「富めるものはますます裕福に、貧しいものは一層貧乏に」、格差の広がりがどんどん大きくなっている。後者はどんどん疎外されている。そして、今また都市の虚構の明かりはもっと光を増そうとしている。燃料が尽きかけているのに残余のエネルギーを使おうとしている。このきらびやかな明かりは一気に消滅してしまわないかと思う。

 明治末年、「激烈な生存競争」に敗れた人々の処し方は自死だった。生田葵山はこの時期にまさにこの名の通り、『自殺』と題した短編を書いている。そして、彼自身、昭和二十年十二月三十一日、播磨灘で自ら命を絶って死んだ。

 『自殺』の巻頭辞にはこうある。、

黒き蝶の来て止まりたる夕より
清き香失せし白百合の花


 とある夕暮れ、不吉な黒い蝶が飛んできた。すると清らかな香りを放っていた白百合の花は輝きを失ってしまった。白百合は彼が愛していた妻のようだ。

 昭和二十年十二月、世田谷下代田の家で、生田葵山は妻に向かって「祈れよわが手くださむ」と言い残し出ていったのかもしれない。
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2016年07月01日

下北沢X物語(3068)〜会報第120号・北沢川文化遺産保存の会〜 

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第120号 
               2016年7月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
一、北沢川文化遺産保存の会第二回「研究大会」  

 大会テーマ 

シモキタらしさのDNAを語る 

 今年、一月、古老の話を聞く会を開いた。北沢在住の古老、九十三歳の三十尾生彦さんが下北沢が切り開かれたばかりのころの話をされた。話される昔、その多くは忘れ去っていたしまったことに気付いた。「街のベーシックな歴史をきちんと聞いて、遺そう」という声があがり、今回の研究大会のテーマは決まった。
消えゆく街の歴史を残そう

主催 北沢川文化遺産保存の会
共催 下北沢グリーンライン 協賛 世田谷ワイズメンズクラブ
後援 世田谷区教育委員会
開催期日 8月6日(土)北沢タウンホール、スカイサロン

第一部 午前十時から十二時まで
 シモキタの昔を古老に聞く
・戦前の下北沢       釣り名人    三十尾生彦さん(93歳)
・戦後の下北沢       元薔薇族編集長 伊藤文學さん (84歳)

第二部 午後十三時半から午後十六時半
 シモキタの歴史研究 前半
・下北沢を中心とする交通網の変遷(きむらたかし氏)
・報告:東京セロファン世田谷工場の歴史(木村康伸)
 シモキタの歴史研究 後半
〇シモキタの街を参加者で語る 司会石坂悦子さん
 街の歴史を参加者が語り、街の記憶を共有し、未来につなげる。
 問題提起に向けての資料提示
・下北沢文士町文化地図をもとに なぜ文化がこの街に集まってきたか?
・下北沢古写真大映写会(総数百三十三枚 一挙映写)
第三部 懇親会、納涼会 17時30分より
  会費3500円 豪華「シモキタらしさのDNA弁当」つき
 イベント プロの出演予定
  ・マジシャン 作道明・藤井理嗣さん
〇 懇親会参加者は必ず申し込んでください。お弁当を発注するので8月1日まで
 米沢邦頼 090−3501−7278 に連絡を。
 ・懇親会は夏恒例行事、できれば楽しい飲み物が食べ物を一品持参
 ・オークション 家にある物品で要らないものを これはオークションにかけて
  会の資金にしている。


各部のねらい
・第一部は 古老に聞く会だ。小田急地下化を契機に街が大きく変わりつつある。かつての街の姿が人々の記憶から消えつつある。過去を長く生きてきた古老たちの記憶からDNAを引き出し、これを後世に伝えたいというものである。

第二部は、「シモキタの歴史研究」である。交通網の整備がこの街を変えてきた。その基礎的な話を、きむらたかさんがしてくれる。これは貴重報告となるものだ。二番目の東京セロファン工場は、今年初めの古老の話を聴くで大きな話題となった。関係の人々からの資料、またきむらたかしさん提供の工場史をもとに報告をしてもらう。

二、『ミドリ楽団物語』〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜完成記念販売

 私たちは、代田・北沢・代沢の歴史文化を掘り起こしこれを記録している。この過程において近代史に秘められた「鉛筆部隊の物語」がみつかった。昨年夏、戦後70周年の終戦記念特集のテレビ番組でこの一部が劇化されてテレビで放映された。
 今回の『ミドリ楽団物語』も鉛筆部隊の調査過程で発掘したものだ。今まで全く知られていなかった話である。
 昭和十四年に創部された代沢小のバンドは、戦争になって疎開するときに楽器を持参して技量を落とさなかった。これが功を奏し戦後、アニーパイル劇場で連続三日間の公演を行ったり、全米で活躍の様子がテレビ放送で流されるなどして華々しい活躍をした。これをもとに描いた物語だ。八日の研究会には間に合うとのこと、大長編物語の予価は2000円である。ぜひお買い求めください。当方への予約は大歓迎。

三、第10回、「戦争経験を聴く会・語る会」(2017年)

 毎年行っているこの会は、五月に無事に終わった。戦争と音楽という新趣向で、代沢小学校の協力を得て、疎開学童歌を再現させる合唱を代沢小、五六年生の協力を得て開催した。学童が参加して会場である下北沢都民教会の会堂を歌で響かせた。非常に新鮮な思いを私たちはしたものである。
 このことを受けて、来年度もこれを継続して行うかということを話題にした。先だって関係者七名が集まって総括をしたが、やはり次年度は、大きな節目であることから実施したいということになった。会場は、今まで通り、下北沢都民教会である。
  日にちは 2017年5月27日(土) 午後一時半から

 内容については、早速に山小の長谷川直樹さんから提案があった。軍歌というのが戦中に流行ったがこれが戦意高揚、若者を戦争に駆り立てる役割を果たしていなかったかというものだ。実際の軍歌を聴いてこれについて詳しい人に解説をしてもらうというものだ。
 企画としてはCDで聞くということだが、ボランティア団体を募集して生を歌ってもらうというのもいいのではないか。
 総括ででた一つの案が出た。戦争ものの群読を行って、戦争を伝えるというもの。市民が協力して戦争の悲惨さをそれぞれが伝えるというもの。
 「群読」ということで言えば、我々は「代田のダイダラボッチ」を行なった。これを同じ形はできる。一番良かったのは参加した人がこれに意義を見出したことだ。
 私の作品に『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』がある。これを十数年一人芝居として演じているのは女優の蒔村三枝子さんである。ふと思いついて今提案したことだ。
 第10回「戦争経験を聴く会・語る会」 市民朗読劇『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』はどうかと。市民が参加して群読を行い、広島原爆の惨劇を訴えるというものだ。
 いかがか?

四、終戦記念日特別行事〜下北沢周辺の戦争痕跡を歩く(再提案)
 
 第九回戦争経験を聴く会・語る会で近隣の戦争遺跡を歩いてみたいとの声があった。思いついたのはどうせ行うのなら私個人は8月15日に歩いてみようと思った。が、この期間はお盆で多くの人が帰省していない。歩く会も八月だけは休みだ。それで思いついたのは企画に賛成して、静かに歩いてみたいという人がいればやってみたいと思った。
結論から先に言うと、これに応じたのは三名だった。当日が、月曜日ということもあるようだ。「十名と言わないで七八名も集まればやるべきです」と幹事の米沢邦頼さん。この行事は義務で行うのはつらい。気が向いたらのんびりと行きましょうよという程度だ。
それで曜日を変えて再度提案する。

 期日 8月14日(日) 新代田駅前 13時集合。案内者 きむらけん
 会費 500円(保険なし)資料なし プライバシーに関わる部分もあるので口頭のみ。
コース:戦時応急連絡線跡(代田連絡線)→戦時歌謡作曲者旧居→代田円乗院空襲記念碑→戦争物語の宝庫代沢小→大東亜戦争戦勝記念碑→開戦記念日の俳句「十二月八日の霜の屋根幾万」作句場所→陸軍獣医学校跡→開戦時首相旧邸→終戦時の某元帥邸跡→池の上駅
申し込みが10人いれば開催。締め切り7月20日まで。開催不開催は掲示板にて。

五、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第119回 7月16日(土)午後1時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
  第9回駒沢練兵場を歩く 案内者 世田谷道楽会 上田暁さん
  夏の恒例行事だ。当地戦跡に生きた人馬を偲んで歩くというものだ。
三軒茶屋駅→昭和女子大野砲兵碑→韓国会館(元兵営建物)→下馬馬魂碑→世田谷公園(駒沢練兵場跡など)→世田谷平和資料館→馬糧倉庫など


・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く
・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
シモキタ猫町文学散歩(仮)     案内者 きむらけん

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲保険について、このところ「行事保険」を掛けている。別途50円取っている。ここのところは承知されたい。保険はあらかじめ人数の点検をしてその実数に基づいて掛ける。しかし指定した日までの申し込みは集まらない。それで苦肉の策として予測して掛けている。これが20人である。この間は珍しく20人ピッタリだった。20名に達しない場合が多い。その穴埋め分は保険金を調整して行っている。よって50円まるまるを保険金に充てているわけではない。残余は不足分に充てている。交通経費も掛かるがこれは入れていない。保険はまず書類に記入し、つぎに掛け金を銀行に振り込む。そして社会福祉協議会に行って、加入手続きをする。保険を掛けるようになって事務負担が増えている。
▲松本博物館への寄贈。・武剋隊今野軍曹が本土最終寄港地健軍飛行場から実家宛に出した手紙。・武剋隊佐藤正さん関係、二子玉川小六年貴和子さんに揮ごうした布切れ。佐藤正さんの妹さんから手紙。佐藤正さんが貴和子さんに各務原から送ったハガキ。佐藤正さんが満州の飛行場で他の仲間と撮った写真。五点を会として寄贈した。今年も、博物館では「戦争と平和展」を行うとのこと。寄贈品の展示も考えているとのこと。
▲山梨市の矢花克己さんは、偶然鉛筆部隊の手紙の束を山梨護国神社で見つけられた。このことが契機になって「疎開学童史」の一端が明らかになった。家々で眠っている疎開学童の日記、手紙類、処分される場合には当方に連絡を。貴重なものは手続きを取って関係する博物館や資料館に寄贈手続きをしたい。
▲街歩きテーマは常に募集している。また他団体との共催街歩きも募集している。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2016年06月30日

下北沢X物語(3067)〜鉄塔と民主主義と猟奇事件〜

P1060027(一)このところ住まいの上空がうるさい。ヘリコプターである、単機ならまだしも、複数機がやってきて旋回する。猟奇的事件に群がるハエだ。上空から撮影された池の映像が全国に流されている。恐らくは地方の田圃のわきで、海岸べたで、日に焼けたじいさんやばあさんが真犯人への推理を巡らせている。報道も微に入り細に入り情報を伝える、現場となったマンションが映される。各戸訪問をする刑事の姿までが映し出される。知らず知らずのうちに視聴者が居住人全員に嫌疑をかけているのではないか。松本サリン事件が想起される。近隣に住んでいる怪しい人というだけで一人に嫌疑が掛けられた。が、それはまったくの冤罪だった。東京偏重の過剰な情報の垂れ流しだ。地方でも老婆が襲われて殺されている。が、その放送は一回限りで、その後どうなったかわからない。

 碑文谷は居住地の隣町だ。常日頃の荏原逍遥では碑文谷公園はコースに入っている。ここの弁天池わきの散歩道はよく通る。土日には貸しボートの営業が行われる。しかし、もっと南手にある洗足池を知っているだけに乗ろうと思ったことはない。ドブのような池である。荏原一帯の池にはダイダラボッチ伝説がある。が、ここの弁天池にはない。伝説を生じさせるほどの雰囲気はない。が、それでもシーズンには渡り鳥がやってくる。池畔には異様なほど大きく成長した亀が甲羅を干している。「池の中の亀(カメ)が遺体の一部を咥えていたとの情報もあります」とニュースが流されているが、さもありなんだ。

 荏原地域池比較論、やはりなんといっても景観が素晴らしいのは洗足池だ。池畔には勝海舟夫妻の墓もある。池を向いて建っている。広さといい眺めといいボートを乗るのならここだ。そういう点でいうと碑文谷公園の弁天池はあまりにも地味である。

 ここは川の源流部である。川が流れていて大井町へと続いている。立会川である。この池に目をつけて遺体を投棄したという。この池の存在そのものが地味で目立たない。それとここへ行く道も狭い。先の洗足池は中原街道沿いにあって明るい。が、この池は駒沢通と目黒通りに挟まれた地にあって交通的には不便である。報道では「土地勘」のある者の犯行とされているが、常日頃歩いている者からするとこれは当たっている。
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2016年06月29日

下北沢X物語(3066)〜文士町の成り立ちと生田葵山掘

P1060023(一)偶然だろうが下北沢文士町繋がりの二人の「生田」が瀬戸内海で自殺している。一人は生田春月だ。瀬戸内海を航行する船から飛び降りている。この春月と深い親交があったのが萩原朔太郎だ。昭和十一年小豆島に春月の詩碑が完成したときに朔太郎は世田谷代田の自宅を出てここに向かっている。詩碑に刻まれたのは「海図」である。「今迄の世界が空白となつて、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。」と書かれている、すなわち遺書である。世田谷代田に住んだ生田葵山も瀬戸内海播磨灘で自殺した。都市に疲れた文士は、皆、瀬戸内に向かうのか?

 この生田葵山と永井荷風は親交があった。『荷風戰後日歴』にこういう記述がある。

昭和廿一年一月一日(熱海にて)

二月十七日。日曜日。晴。梅花開く。新貨幣發行。また本日より銀行預金拂戻停止の布令出づ。突然の發令なれば人心騷然たり。生田葵山去年十二月卅一日世田ヶ谷代田の家にて逝去の由。未亡人より通信あり。行年七十一と云。余生田氏とは十年來交を斷ちゐたりしが、木曜會俳席に行きし頃には巖谷撫象氏と共に時々その家を訪ひ、左の如き絶句を贈りしこともありき。

尋君偶到澁溪西。一路春風穿菜畦。
不問先知故人宅。竹林深處午□啼。

生田氏の家は去年空襲頻々たりし頃にも幸に火災を免れしが如し。


 故人の奥さんが永井荷風に訃報を知らせたようだ。「去年十二月卅一日世田ヶ谷代田の家にて逝去」と。自殺の件は伏せられている。

 生田葵山は昭和十年八月、『文藝春秋』に「永井荷風という男」書いた。荷風の財産と名声がうらやましいというようなことだったらしい、それで絶交をされてしまった。傍流作家の悲哀があったのだろうか。

 日記からすると荷風は下代田の家に度々訪れていたようだ。ここに出てくる「木曜会」というのは、巌谷小波主宰の文学サロンで、永井荷風もここに入っていた。折に吟行することがあったようだ。たまたま散策がてら渋谷の西の沢に遊びにいくと君の家があった。菜を畦に摘んだらしい。竹林があって鳥の声がしきりとしていた。隠棲人の住処の様子だ。

 生田葵山の家は、陸軍獣医学校の裏手あった。この学校は昭和二十年五月の空襲で焼けた。が、彼の家は消失からまぬかれたらしい。
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2016年06月27日

下北沢X物語(3065)〜文士町の成り立ちと生田葵山供

P1060018(一)生田葵山は「自殺」という短編小説を書いている。彼にとって自死というのは生きていく上でのテーマだったのだろうか。戦争が終結した昭和二十年の年の暮れ、代田の自宅を出た彼は関西に向かい、播磨灘で入水自殺している。その彼は永井荷風と親交があったようだ。

 荷風の『断腸亭日乗』、大正十三年(1924)十一月六日に次の記述がある。」

「十一月六日。微隂。近郊の黄葉を見むとて午後玉川電車にて世田ヶ谷に下車し、道の行くがまゝに阪を下り、細流を渡り、野径を歩みて陸軍獣医学校の裏手に出でたり。生田葵山君の居遠からざるを思起し、道を問ふて遂に尋到ることを得たり。路傍に風呂屋あり。その側より小径に入り行くこと二三十歩。檜の生垣を囲らしたる二階づくりなり。門前に花壇あり。薔薇コスモスの花咲乱れ、屋後には一叢の竹林あり。蒼翠愛すべく、幽禽頻に鳴く。日暮相携へて道玄阪に至り、鳥屋に上りて飲む。帰途百軒店と称する新開町を歩む。博覧会場内の売店を見るが如し。支那雑貨を鬻[ひさ]ぐ店あり。水筆四五管を購ふ。」
 
 ここからわかることがある。

・世田谷代田とされた生田葵山の住まいが下代田だったこと。その家は陸軍獣医学校の裏手にあったこと。(「路傍に風呂屋あり」は過去を調べる際の手がかりだ)
・家の佇まい。まず二階家で檜の生け垣を巡らしていること。門前に花壇を置いて飾り立てていること庭の手入れがされていてコスモスが咲き乱れていたこと。ここの奥さんが手入れをしていたようだ。
・近隣の環境は、裏手には竹林があり、緑も多く、鳥などがしきりに鳴いていたこと。

大正八年に生田は結婚している。それ以来ここに住んだようだ。当地は郊外である。武蔵野である。敢えて当地に住んだのは田園を好むという嗜好があったのだろうか。

 家の様子からすると当地で一軒屋を構えここで家庭を築いて生活していた。小説家としての実入りがあってのことだろうか?。
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2016年06月26日

下北沢X物語(3064)〜文士町の成り立ちと生田葵山〜

P1060015(一)都市文化論という観点から興味深い一例に遭遇した。ここ十数年文士町の文化や歴史を探訪している。これら調べたことを伝える場合、物事の始まりを示す物差しがあれば容易である。自身完全にこれに依っていた。つまり、嚆矢は鉄道開通にあるとしてきた。昭和二年に小田原急行鉄道が、昭和八年に帝都電鉄で開通して当地下北沢は鉄道がクロスする街となった。近代の鉄道の開通による利便性の高まりが文化を集めた。文士町第一号は横光利一である。彼の昭和三年からの北沢住まいは小田急開通によるところが大きい。

 しかし、つい最近これ以前から世田谷代田に住んでいた文学者がいたことを知った。生田葵山である。鉄道が開通していない大正十年からである。文士町の嚆矢を昭和二年からとしてきた従来のものさしが崩れたことになる。しかしとても興味深い。

 生田葵山はどこに住んでいたのだろう?調べてみると「世田谷代田」というのは、当該地域の西部ではなくて東部、下代田であることが解ってきた。

 昨日、下北沢北沢タウンホールの十二階、スカイサロンで世田谷区地域風景資産の交流会が行われた。お昼に終わったことから下代田方面を訪ねることにした。気になっていたのは旧番地「北沢四一八」である。あいにく資料は持っていなかったが大体わかっていたので歩いて池ノ上近くのその家に向かった。フラットなところだと思っていたが家の前の道は坂になっていて下っている。どうも見覚えのあるところだ。坂を下って左に行けば知り合いの家だ。ついでだと思って行くと、当のきむらたかしさんがおられた。
「家わかりますよね」
 何やら符丁のような会話を交わす。
「すぐそこですよ」
 また道を二人して戻っていく。角を曲がってすぐに白い塀の家をさす。北村透谷の妻の終焉の地である。
「知っていましたか?」
「いや全く知らなかった」とたかしさん。

 この家は、透谷の妻、石阪美那子の家だ。彼女の娘の嫁ぎ先だ。人がどこにどう住むのかということはある。彼女の場合は文学仲間の関係からとかいうのではない。母と娘という関係からの居住である。

 もうワンブロックほど離れたところに森敦旧居がある。この彼の場合は文学は関連深い、懇意にしていた横光利一の家に近い、そして通っていた東大に近いことが決め手だったように思われる。
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2016年06月24日

下北沢X物語(3063)〜透谷の妻、北沢に死す供

b41cf28f.jpg(一)北村透谷は短命であったゆえに作品はそう多くはない。が、青空文庫には彼の鋭い批評文が数多く載っている。時代を言葉で抉って提示している。多くの若者が影響を受けた。考えや思想も自由で、美那子との恋愛は旧弊的なものをぶち破るものだった。

 『透谷の妻』で著書の江刺昭子はいう。美那子は超近代的な女性だったという。そしてこう記す。

 この時代、右にあげたような点の女の美質として認めた男が、どれだけいただろう。女はまず容姿であり、つぎが門地がものをいった。あるいは、労働力として役に立つ体力が評価された。性格はおとなしく、男に黙って従う女が好まれた。社会に尽くそうという理想などはむしろ女には邪魔であった。十八歳にして、そのような旧い女性観にからめとれれていない透谷…
 
その彼が熱く燃えた女性が美那子だった。彼女にはすでに許婚がいた。が、石坂家、北村家双方の反対を押し切って結婚した。明治二十一年(1888)十一月だ。美那子二十三歳、透谷十九歳である。

 ところがかの恋愛至上主義的考えは色褪せてくる。さきの「厭世詩家と女性結婚」ではこう結んでいる。

 嗚呼不幸なるは女性かな、厭世詩家の前に優美高妙を代表すると同時に、醜穢なる俗界の通弁となりて其嘲罵する所となり、其冷遇する所となり、終生涙を飲んで、寝ねての夢、覚めての夢に、郎を思ひ郎を恨んで、遂に其愁殺するところとなるぞうたてけれ、うたてけれ。

 暗転、明治二十六年(1893)十二月二十八日喉を切り付け自殺する。残された美那子は二十八歳六か月、英子一歳十一ヵ月だ。
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2016年06月23日

下北沢X物語(3062)〜透谷の妻、北沢に死す〜

透谷の妻(一)若くして自死した北村透谷の詩文をひもとくとその調べは皆悲しみに満ちている。
「歓楽は長く留り難く、悲音は尽くる時を知らず。」は、『哀詞序』の冒頭だ。しかし、また活力に満ちた語もある。「恋愛は人世の 秘鑰 ( ひやく ) なり」は、『厭世詩家と女性』の冒頭文だ。鑰 は、鍵という意味だ。恋愛至上主義を表す一文は当時強烈な一撃だった。近代的自我の確立というのが彼には大きなテーマだった。その当の恋愛の相手、石坂美那子、透谷の妻は思いがけず北沢の地で亡くなっていた。


 当会の会員、及川園子さんを通して北沢小学校一期生の石渡さんの資料が手に入った。下北沢鉄道交点一帯の様々な事象がこの記録にはある。しばらくぶりにこれを見た。ここに「北沢に住んだ著名人」のリストがあった。坂口安吾、横光利一、大岡昇平、宇野千代とある。これらはよく知っていることだ。が、この最後に北村美那子とあった。誰だろう?

 昭和十七年四月十日北沢四の四一八にて死去。北村透谷の長女の婚家。

 北村美那子は、石阪美那子、透谷の奥さんで二人の間には長女英子次女愛子ががいた。長女の婚家が北沢四丁目にあって、最期をここで迎えていた。

 著名だった人がこっそりと亡くなっていたという例はまれではない。国木田独歩の孫にあたるのは三田隆だ。この映画俳優は下北沢の自転車屋の間借り先で哀れな最期を遂げたという。この情報は獣医の広島文武さんから得て茶沢通りのその場所を探したがわからなかった。

 国木田独歩の「武蔵野」の眼目は都鄙境には物悲しい物語が渦巻いているという。その一例だ。今の北沢4丁目と昔の北沢4丁目は違うが、前者の4丁目では開戦時首相夫人がひっそりと息を引き取っている。

 代田の町外れに住んだ三好達治はそこを場末と言った。そここそが都鄙境界だ。国木田独歩云うところに、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ち合って、緩やかにうずを巻いている」場である。

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2016年06月21日

下北沢X物語(3061)〜三田用水とダイダラボッチ:保存と継承供

P1060004(一)都市に埋もれた水路を探しての三田用水探訪行である。それは地形を求めての旅だ。ゴルフをする選手と同じだ。グリーン上では腰をかがめて傾斜を子細に観察する。地の傾きこそは命だ、用水もまたしかり、背尾根がどのように続いているか。折に腰をかがめて傾斜をじっくりと観察する。基本にあるのは自然地形である。

  三田用水とダイダラボッチ、二つに共通するのは、水、神、そして、景観や眺望だ。人それぞれ興味関心は違う。私自身は景観に深い関心がある。三田用水を描いた絵では、広重が描いた一枚だ。ウィキペディアの「三田用水」ではこの絵を掲げている。

  広重『名所江戸百景』より「目黒新富士」=現在の目黒区中目黒2丁目・別所坂上付近。三田用水は、できるだけ標高を維持するため尾根筋を選んで開削されており、とくにこのあたりでは“崖の上を縫って流れる”ような具合だった。画中にもその様子が見てとれる。なお、用水や崖の向きから言えばこの絵は南東を望んでおり、富士山を背後にもってきたのは広重の脚色である。

 確かにデフォルメされているが見事な絵である。三田用水の景観ポイントが見事に描かれている。まずは、目黒川左岸崖線、高所を流れる三田用水だ。高いところを流水が流れるというのは不思議である。次は、崖線の向こうに見えている目黒原である。今でも何かの加減で坂の下方に街の一部が見えるときがある。「いい坂だなあ!」と思って立ち止まることがある。三つめは富士である。用水と平野と富士、締めくくりだ。

 昔から三田用水ファンがいたようで日々点検がてら歩いていた人がいたと何かの記録に描いてあった。やはりこの三要素があるからであろう。楽しめる用水路である。

 崖線から俯瞰できるフラットな目黒原にはもう一つ品川用水があった。ここに沿って歩くことはよくあるが、眺めがよくない。右手が多摩川から数えての第二丘陵にさえぎられてあまり見えないのではないかと思う。

 「目黒富士」は、遠望される富士に比肩されるほど大きく描いてある。ふと思ったのはこの目黒富士をダイダラボッチに置き換えて描くと、絵になるのではないかと思った。絵は南西方向を描いている。ここには二か所のダイダラボッチの足跡が残っている。一つは大岡山の摺鉢山で、もう一つは衾の谷畑(現自由が丘)である。
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2016年06月20日

下北沢X物語(3060)〜三田用水とダイダラボッチ:保存と継承〜

P1060008(一)都市東京の拡大と膨張はとどまるところを知らない。自然地形は日々更新されていく。過去の遺構はもはや風前の灯だ、六月十八日土曜日、われ等はそんな一つである三田用水の痕跡を求めて炎天下を歩いた。この行事、長年続けていて総回数はわからなくなった。保存とまでは言えないが近代化遺産の継承活動であることは間違いない。

 三田用水とダイダラボッチは無関係である。しかし、これまで何度も三田用水を歩いてきて、その案内記は記してきた。マンネリ化しないように新たな視点としてダイダラボッチを持ってきたものである。この二つは通常では結びつかない。

三田用水という水路遺構、ダイダラボッチという伝説、これらの遺構や記憶が急速に地表からは消えていきつつあることだ。今回は「外苑西通り」の延伸によって今里地区の遺構がいずれは取り壊されるということから「今のうちに見ておこう」ということでの再訪でもあった。白金台の南手にあった現今三田用水遺構では、水路幅の建物群、今里橋欄干、RC製水路などがこの計画にかかってなくなってしまうという。

 ダイダラボッチの遺構の埋め立てはもっと早くに進んでいて、この面影を残すものは、野沢の、鶴ヶ窪公園ぐらいなものである。

 三田用水とダイダラボッチはいずれも水路に関係する。用水は水を送り込む施設、そしてダイダラボッチのくぼ地は農業用水のためのハケ水を貯めておくところだった。インフラに関係することから大事にされた。いずれも水の神を祭った。三田用水は玉川上水から水を取り組んだがこの分岐点は弁財天が祭られていた。

 代田のダイダラボッチにはこの湧水池には弁財天が祀ってあったとの証言を得ているが記録としては、『羽根木』(細野巌著 昭和四十七年刊)に記録として書かれている。

 現在の環状七号道路の東側、千代田パンから守山小学校の北側一帯に出頭山という窪地があり、杉の百年以上もたった大木がたくさんあった。中ほどから水が湧き出しており、中央に弁天様が祭られてあった。

 巨人の足跡と伝えられる窪地は湧水いけで弁財天を祭ってこれをまもった。三田用水の場合は距離が長い。しかし沿岸ではこれに対する感謝の念からやはり弁財天を建立してた立てている。

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2016年06月18日

下北沢X物語(3059)〜ダイダラボッチ伝説の保存と継承〜

イメージ (8)(一)「日経6月14日東京:首都圏経済・拝読しました」、我が会の会員、曾根瑛子さんから連絡があった。「世田谷・埼玉……巨人が足跡!?」きむら先生、素晴らしい!娘が帰宅して直ぐ新聞を見せつつ、きむら先生の記事が掲載されているのよ!と、差し出しつつ、記事を読んで呉れました!」と。記事が掲載されることは知っていたが、いつ出るのかはわかっていなかった。その他数人の人から連絡があった

これまで新聞には、会の活動や著作のことで何回か取り上げられた。今までの中で一番の驚きは、1999年8月5日に掲載された記事だ。「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を書いていたころ、広島から記者が取材にきた。彼からは広島版に載ると聴いていた。
 
 ところが、8月5日、知り合いから電話があった、夕刊の一面に記事が載っていると。さっそくに駅の売店まで買いにいった。
「夕刊きていますか?」
「あら、どうだったか?」
「自分のことが出ているらしいのでほしいのですよ」
「何か悪いことでもしましたか?」
「さあ、どうでしょう」
「あらあら、来ている来ている」
彼女はまだ束ねられている夕刊をほどいて私にくれた。早速に点検する、驚きだ、一面のトップ記事で載っている。
「強盗かなんか起こさない限り一面トップに載ることはなわね、あはは…」
 この記事は、東京だけでなく全国に配信されたと後で分かった。英字紙にも取り上げられ、これが発端となってドキュメンタリー「皇国少女」〜「The Emperor's Tram Girls」〜ができた。

日経の記事は、近くの図書館で確認をした。記事の末尾にはこうある。

 保存の会は巨人伝説を文化遺産とし、市民劇「代田の不思議・だいだらぼっち」を上演したり、「ダイダラボッチ音頭」を作りユーチューブで流したりと街づくりに役立てている。

 当会を始めて十一年、ダイダラボッチについては早くから調べたり、聞いたり、また、資料集めもしてきた。長い長い十数年だった。民俗学的には貴重なものである。つきつめていけば日本人起源説にまでつながっていく話だ。ところが、ここのことが忘れかけられていた。今考えれば、よくもまあ調べてきたものだと思う。

 この荏原には数多くのダイダラボッチ伝説が残されている。大田区、世田谷区、目黒区だ。世田谷代田のダイダラボッチに端を発してこれらも隈なく歩いて検証してきた。

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2016年06月17日

下北沢X物語(3058)〜呑川物語、カモの恩返し〜

DCIM0050(一)緑道が暗渠化すると同時に川の物語も消えてしまう。凹みがあってこそ物語は生まれる。「よくどぶにはまったものです」、「蛍をみたことがありますよ」、「オタマジャクシもいました」、臭いけれどもとっかかりがある。しかし、緑道化してフラットになると物語は生まれなくなる。それでも旧河川の形を残した公園で一つの物語に出会った。

 日ごろの荏原逍遥のベースとなっているのが家の前にある呑川緑道だ。下れば大田区石川台、雪谷、上れば世田谷深沢、桜新町となる。上っていく場合が多い。区境はすぐだ。越えると「櫻並木と呑川緑道公園」世田谷区地域風景資産領域となる。ここの活動人のFさんにはよく出会う。一昨日も電話がかかってきた。前から呑川物語を書いてとの要望がある。

「お宅の区間だけだと短すぎて物語がないのです。もっと広げる、上流部だと宮本百合子が住んでいてそこの風景を描いているのです。下流に行けば石垣りんが住んでいたマンションがあってエッセイには呑川のことがでてきます…」

 私が現在のアパートに引越して来るとき、下見に来た友だちはいやだ、といいました。そばを流れている川がまるでドブ川ようだ、と申します。私は逆に、汚いながら低い瀬音をたてている川が気に入りました。その流れと十字に交わり、左右に長くのびる私鉄の線路を高く押し上げる形で土手が続いています。
『焔に手をかざして』 筑摩書房 1980年刊


 ドブ川は呑川だ、その近辺ではゆるく蛇行している。確かに水量が多いときは瀬音が聞こえる。向かいの土手には私鉄の線路、東急池上線の三両編成の電車がのんびりと通る。川と線路とが眺められて悪くはない。

「だから川をそこに限定しなければ一つ一つ物語が記せるのです。お宅のところの先、日体大のすぐそばに大橋があるんですけど、これは江戸道の橋なんです、すぐ南は坂で、これが万願寺坂、苦労して人が通ったんですよ…」
「きむらさんは、童話を書いておられますよね、いっそうのこと呑川を舞台にした童話を書いてほしいのです…」
「童話を書くためには、素材がなくては書けません。無理です」

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2016年06月15日

下北沢X物語(3057)〜第10回「戦争経験を聴く会・語る会」への提案を供

P1050334(一)風化という言葉がある、岩石が長い間、風にさらされて崩れ、土になる現象のことをいう。人とて同じだ、長い間時間にさらされると傷んできて、やがては骨になる。岩も人も風化するいかんともしがたい。71年も経つとなおさらだ。伝えるためには工夫が必要だ。イベント性を高めるための手法である。
 
ここ数年、会では運営法として「戦争と音楽」に着目して楽器と使ったり、歌を歌ったりとい工夫をするよになってきた。これだと戦争経験者でなくとも参加できるという点がある。音楽は人の記憶を喚起させる働きがある。ただ人の話を聞くだけでなく歌を聴いて記憶を蘇らせるというのはよい方法だ。しんねりと戦争経験を聴くのもつらいものがある。

 来年どうするのか?、第十回目という節目が来るがやらねばならないことはない。戦争伝承が困難になってきているからできないのならやならいということもありうると述べた。それにたいしてすぐに山崎小の長谷川直樹さんから企画の提案があった。これによって初めて知ったのは長谷川さんがテレビのプロジューサーであったことだ。

ヾ覯莪
第10回「戦争を聴く会・語る会」  長谷川直樹

軍歌を聴いて育った少国民

 「勝ちぬく僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教えた父母の・・・」昭ヒトケタ生まれ最後のわたしたちは、戦争真っ盛りのなかでラジオから聞こえる軍歌を聴きながら育った。

軍事色が一段と濃くなった昭和16年4月、尋常小学校は国民学校と名を改められた。初等科1年生のヨミカタ読本は、これまでの「サイタ サイタ サクラガ さいた」から「アカイ アカイ アサヒ・・・ヘイtクァイサン ススメ」に変った。
学童たちは少国民とよばれ、お国の役立つ人になれと教育された。昭和19年6月30日「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。米軍の爆撃を避けるため大都会の学童たちは、縁故疎開先がない国民学校初等科3年生以上が地方へ集団疎開した。

今回の「戦争を聴く会・語る会」では、昨年の「代沢小学校ミドリ楽団」に続く戦争と音楽の2回目として、1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで、当時流行った軍歌や軍国歌謡を柱に3
0数曲を聴きながら、少国民たちがどのようにあの戦争の中を軍歌と共に歩ん
だのかを聴く。そして、音楽が戦争に果たした役割を考えてみたい。

進行役は、少国民としてラジオから放送された軍歌や戦時歌謡をよく歌っていたという、昭和8年生まれの山田匡一さん(元NHKアナウンサアー)と昭和9年生まれ長谷川直樹さん(元テレビ朝日報道局プロデューサー)にお願いする。
 

  音楽が軍国主義をあおったこと、これに国民は飲み込まれた。興味深い点である。

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2016年06月14日

下北沢X物語(3056)〜第10回「戦争経験を聴く会・語る会」への提案を〜 

世田谷下馬野砲兵兵営跡(一)戦争は、いったん始まったら終わらない。とことん戦って殺し合いをし、破壊の限りを尽くす。そんな戦争はやらないだろうと人は考えているが、そんなことはない、「トタン屋根に石がパラパラと降ってきたな」と思っていたら戦争に突入していた。いつだって容易に始まる、あっけないほどだ。指導者は巧みだ、人間の弱いところを衝いてくる。「他国が攻めてきている!」と大きな声で言う。こういい始めたら危ないと思うべきだ。我々は、他国の軍隊は恐ろしいぞと言われて、「そうか!」とただちに信じて、「それでは武器を持つのもしかたがないか」となる。「戦争にならないように話し合え!」という声は決して大きくはならない。始末が悪いことにマスコミもあてにならない。むしろ為政者の援護に回る惧れは今でも十分にある。戦争はいつだって起こりうる。

 あんな戦争二度と起こしたくない。それで毎年、山手空襲があった五月にこの会を催してきた。先の五月、第九回目は終了した。

 戦争から70年も経ってしまった。苦しくつらい戦争も遠い記憶の彼方に消えつつある。苦しい時代の思いは去ってしまった。人間の記憶ははかない。人がいなくなれば消えていく。が、音楽として残されているものは消えない、それを再現することで、当時の記憶が蘇る。今回は、かつて疎開学童が歌ったうたを代沢小の学童に歌ってもらった。

 代沢疎開学寮の一つの歌、「真正寺学寮歌」だ。田舎に再疎開して地元の子供にいじめられて学童たちが元気を失ってきた。それで引率の濱舘先生は、これを作った。戦争時代にしては思い切り明るい歌だ。これを歌わせることで大きな変化が起こった。疎開学童を勇気づけようとして作った歌が、地元の子を勇気づけてしまった。これによって軋轢が起こっていた疎開学童とのいがみあいが消えていく。

 子供たちの戦争に、音楽が終止符を打った。戦争音楽物語の一端だ。参加した代沢小学童12名も歌に触れることでこの意味を知ったことは大きい。
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2016年06月12日

下北沢X物語(3055)〜吉良氏家臣末裔の木々を巡る旅掘

P1050987(一)荏原地域、かつては道路と季節と樹木とが深い関係にあった。品川道はその季節になるとみごとに掃き清められていた。偶然目にした明治期の文学作品『蛇窪の踏切』に描かれていた。この記述に出会ったときには感動したことだ。内陸部から海岸部に運ばれる欅の枝のことがつぎのように描かれていた。
 
  洗足から大井までの長い間の道は綺麗に掃除がしてあつた。道幅一杯の大箒で一息に一里余りが清めてあつた。それは海苔粗朶(しび)に伐つた雑木を持ち出す途中、その先が車から食み出して、地を摺りながら行くからで、それが朝から晩まで続く時には、鸞與が過ぎても差し支えない程であつた。   明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」

 洗足から大井へと続く道は稲毛道、品川道である。この道が古道であることは知らなかった。自転車で走り回っていたころよく通った。道なりに行くと大井町に着く不思議な道だった。しかも斜めの東南方向である。このことは武蔵野の地勢や地形と関連していた。この謎が解けたのはだいぶ経ってからだった。

 『蛇窪の踏切』の冒頭は、洗足小池から始まる。池は窪みである、これを抜けて背尾根に出て、道なりに主人公が歩いていくさまを描いている。

 この『蛇窪の踏切』の主人公は「名を篠原露代と云つて、大池に別荘を持つ中岡某の夫人鈴子の妹に当たる」者だった。露代本人は結核を患い姉に相談に行ったところ断られた。それで自殺を決意して洗足小池へ来ている。が、決心がつかずこの稲毛道を大井へと向かっていた。するとそこには東海道本線を渡る『蛇窪の踏切』がある。

 この古道が地形に関連していると言った。すなわち、武蔵野の地形である。よく知られているのは武蔵野の水源は西北にあることだ。この流れの末端は東南にある。流れと地形とは一致していて沢もその方に延びている。古道はこの背尾根を走っている。傾向としては古い道は東南に向かっている。行き行くと品川宿についてしまう。交通路の面白さだ。

 その品川に向かう道がきれいに掃き清められていた。荷車に積んだ欅の葉の「先が車から食み出して」いて、箒の代わりを果たしていた。
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2016年06月11日

下北沢X物語(3054)〜吉良氏家臣末裔の木々を巡る旅供

P1050990塩の道というのがある。ところが木の道もあった。忘れ去られた武蔵野の樹木物語だ。

(一)
 荏原逍遥を始めてもう十年以上になる。やみくもに走り、歩いてきた。鉄塔、鉄道、踏切、ダイダラボッチなど多くのものを追ってきた。今になって気づくと樹木探訪も一つであった。最初のころ、印象深いできごとがあった。梅が丘、世田谷城近くの宇田川家を通りかかった。吉良氏末裔で武士から帰農した家系だ。屋敷内には何本もの太い欅があった。ちょうどこれを剪定しているところだった。
「昔はこの剪定した枝を大森の漁民が買いに来ていた」
 主人が教えてくれた。
「へぇ、そうなんですか?」
 内陸部の世田谷から海辺の大森へ、イメージが結ばれない。感心はしたが意味はよく分かっていなかった。
「枝は海苔の粗朶に使うんだ」
 これを聞いてなるほどと思った。

 しかし、この認識は点でしかなかった。当地、宇田川家の欅の使途だけの知識である。ところがこれが段々に分かってくる。内陸部の世田谷の粗朶を運ぶには道が必要だ。産物などを運ぶために海の方へ道が通じていた。このことが徐々に分かってくる。それが六郷田無道であったり、品川道であったりと。

 点から線へ、この認識の過程が気づきとなった。欅の枝は単に一つに過ぎない。道はこれだけを運ぶわけではない。産物も運ばれた。それを端的に証明する地名がある。青物横丁である。青物、すなわち野菜類が運ばれて、ここで市が立った。

 青物横丁は東海道筋に位置する。南品川、すなわち品川宿だ。内陸部からすると都会だ。ここへは内陸部から道が通じている。品川道の一つ、稲毛道だ。ここを通ったとき土地の古老から話を聞いたことがある。

「昔はこの道を通って青物を出荷していた。しかし農家でも長男はとりあえず食えたけども次男三男は難しい、必ず家を出ていきました。女もそうです、しかし貧乏でね、普通には食えませんでした…この道を通って品川へ出てくのです」
 食い詰めて遊女になるもののいた。品川遊女は有名だ。内陸部から江戸へと農産物が運ばれまた、人もここを通って町へと出て行った。

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2016年06月09日

下北沢X物語(3053)〜浅間温泉滞在の振武隊の謎〜

CCI20150603_0000(一)浅間温泉に疎開していた世田谷の学童たちは昭和二十年二月、満州新京からやってきた特別攻撃隊の兵士たちと出会う。武剋隊や武揚隊の構成員である。この隊は、誠隊だった。司令部が台湾にある第八飛行師団傘下にあった。一方、今回、湯本屋にいたのが振武隊であることが分かった。これは福岡に司令部をおく第六飛行師団傘下の隊である。この隊の浅間滞在記録は初めてである。
 
武剋隊や武揚隊の松本飛行場飛来の目的は、爆装改修にあった。彼らの乗機は九九式襲撃機である。満州にあった中古機を当地に持ってきて機体の改装を行った。機体を軽くし爆弾と燃料を多く積めるようにとの改造だ。本来は設備の整った各務原で行う予定だったがこれを断念し内陸部の松本飛行場にやってきた。それでひと月あまりをここで過ごすことになる。

 不可解な謎がある。松本浅間温泉小柳の湯で学童たちと慣れ親しんだ航空兵は、旅館まで別れのあいさつに飛来してきて九州新田原に飛んでいる。そして学童に手紙を書いた。「手紙が着くころにはきっと戦果が発表される事でしょう、我々の活躍を御期待ください」と書いている。昭和二十年四月三日付の手紙だ。ちょうどこの時期、新田原飛行場へは台湾の第八飛行士団の参謀が当地へきていた。ここから出撃する誠隊の指揮を執っていた。「宮崎県宮崎郡佐土原町紫明館」から出された小林三次郎さんも誠隊だったと思われる。が、理由はわからない、特攻出撃を断念して原隊の満州一五三五五部隊に戻っている。

 この四月三日、新田原飛行場から武剋隊後半組六機が特攻出撃し、千代の湯で学童たちと慣れ親しんだ時枝宏軍曹は特攻戦死している。梅の湯にいた佐藤正伍長、佐藤英実伍長も一緒だった。

 小林三次郎隊もやはり武剋隊と同じく満州からから来たようだ。同じ誠隊だが大きな違いがある。武剋隊は中央司令の直轄隊だ。ゆえに新京出撃の際は盛大な見送りを受けている。満州国皇帝に謁見し恩賜品までもらっている。新田原到着時も飛行場付属の宿泊施設八紘荘に宿泊している。小林三次郎隊はだいぶ離れた佐土原紫明館に宿泊している。思うに直轄隊は名誉を背負わされていた何が何でも出撃しなければならなかったようだ。

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2016年06月08日

下北沢X物語(3052)〜新事実:疎開学童資料と特攻隊供

CCI20160608_0000(一)不都合な真実は隠滅する。敗戦前日の昭和二十年八月十四日に政府は「国や自治体の機密文書の廃棄」を閣議決定した。国軍と官僚による証拠隠滅だ。全国各地で多くの資料や書類が燃やされた。松本浅間温泉には多くの特別攻撃隊の隊員が来ていた。が、何という隊が来ていたのか皆目わからない。飛行場にあった公的記録も燃やされている。ところが意外な資料が残っていた。当地には世田谷から大勢の疎開学童が来ていた。彼らが目にしたもの、耳にしたものの断片が今日現代に残されている。世田谷の疎開学童の証言、手紙、日記に失われた近代戦争史の真実が眠っている。

 自著、 『鉛筆部隊と特攻隊』もこの筋から資料を入手してまとめたものだ。地元でもほとんど知られていないことだった。つい数日前、これをもとにした絵本が地元の児童文学作家によって今年中に刊行されるとの報があった。これも世田谷の疎開学童関連の情報発信が礎となっている。

 「世田谷の疎開学童資料にみられる近代戦争史」というテーマでの研究は成り立つ。それは失われた歴史を明らかにするものだ。疎開学童の書き残した資料には多くの情報が眠っている。例えば、飛行機好きの少年がいて新鋭重爆撃機『飛龍』の日ごとの飛来記録を残している。機を目撃した日付である。陸海共同作戦の颯雷撃隊の松本飛来の記録ともなるものだ。
 
 あらゆる事実の断片が記録されている。武揚隊、吉原薫軍曹が昭和二十年三月二十七日富貴之湯上空で宙返りしたこと。また武剋隊の今西修軍曹が学童に与えた漢詩には特攻隊員としての気概が鮮明に書き残されている。

 私自身、多くの疎開学童資料を目にしてきた。その綴れ錦が思いがけず歴史を明らかにした。が、振り返ってみるとそれは断片的だ。しかし、彼らの証言、手紙、日記を網羅して事実を抽出すると埋もれた戦争近代史があぶりだされるのは間違いない。

 しかし、戦後七十一年経過し、疎開学童もどんどん老齢化している。この疎開関係者が往時の手紙や日記を所持しているがその価値は認識されていない。亡くなると同時にその遺品はすべて処分される。『鉛筆部隊と特攻隊』は、この破棄される寸前の手紙類が偶然にみつかったことから調べの筋が見えてきた。一例があれば二例がある、浅間温泉に滞在していた七校すべての疎開学童に当たったことで、このうち五校の学童と特攻隊とが接していたことが分かった。

 しかし、これは歴史の一部だ。資料には戦争に伴うさまざまな変化がつぶさに記されている。これら歴史資料が日の目を見ないままで無くなっていく。この点は危惧される。

疎開学童の手紙や日記は貴重な歴史資料である。

 今回、発見された資料はささいなものだ。疎開学童であった加藤景さんがたまたま発見されたものだ。つい数日前、彼から「小生当時親との交信記録集に欠落していた手紙一通を発見した」との知らせがあった。ここの中に重要な記録が残されていた。

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2016年06月06日

下北沢X物語(3051)〜新事実:疎開学童資料と特攻隊〜

浅間温泉絵葉書(一)東京世田谷の七校の小学校は、戦時中浅間温泉に疎開した。昭和二十年三月に彼らの疎開先の各旅館に多数の航空兵がやってきた。沖縄に出撃していく特攻隊である。相当数の人員であった。しかし、その全貌は分かっていない。具体的な隊名が分かったのは数例である。代沢小と駒繋小と二子玉川小の学童と接したのは武剋隊だ。また東大原小は武揚隊と接している。その他、例えば山崎小の場合もその事実はあるがどこの何隊ということは全くわかっていない。今回、偶然的に一人の疎開学童の手紙の片隅にこれを明かすものが見つかった。小さな事実だが、戦争史の片鱗である。

 武剋隊や武揚隊は満州新京から飛来した隊である。これは誠隊である。すなわち台北に本部をおく第八航空師団に属する隊である。この誠隊は数隊が当地にいた模様である。

 沖縄戦は昭和二十年三月二十六日に始まった。当地に滞在していた誠隊には九州新田原への集結が指示された。第八航空航空団の参謀が台北から移駐してきてここからの総攻撃をもくろんだ。指示を受けた誠隊は一斉に信州を飛び立ち当地へ向かった。

 ところが、準備は万全ではない。もともと設備の整った各務原で特攻用の機にしたて上げる、爆装改修をここで行う予定だった。が、名古屋近辺は空襲の恐れがあって、急遽内陸部の松本飛行場にきて準備を整えることになった。

 武剋隊は準備が整ったところから出発した。この前半隊は、かろうじて間に合い、沖縄中飛行場から二十七日未明出撃し、「十機よく十艦を屠る」という戦果を上げた。山崎小の学童と接した小柳旅館に滞在していた隊もやはり新田原へ集結している。

 浅間温泉に飛来してきていた隊は、誠隊だった。このことは疎開学童の証言やら資料から確認できた。が、他にも大勢居たことは間違いない。誰が誰なのか分からない彼らの写真も残っている。

 先だって第九回戦争経験を聴く会、語る会を開いた。そのときに代沢小の疎開学童加藤景さんが一つのエピソードを語った。「代沢浅間學園の歌」をハモニカで吹けなかったがひたむきに練習した。この課題を乗り越えることで自分を発見したと言われた。感銘ぶかい話だった。

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2016年06月05日

下北沢X物語(3050)〜惜別・下北沢野屋敷のヒマラヤ杉供

P1050994(一)野屋敷、御殿山小路のどんづまりは僂豊かだ。ここにヒマラヤ杉は聳え立っている。この樹は、87年間の歴史を生きてきて、近代史、文学史、芸術史に関わる人の動きを密かに見つめてきた。この回り一帯は知られざる物語が数多く埋まっている場である。現場を見に行ったときに通り掛かる人々に無くなる樹木について感想を聞いた。

「ここもね、段々に僂少なくなっていくんですよ」
 買い物籠を下げた奧さんだ。話しているうちに向こうから「あら、先生じゃない」って言われた。
「もしかして篠山さんの奧さん?」
「そうそうそうなのよ」
 思いがけない出会いだ。ヒマラヤ杉のすぐ側に篠山さんは住んでいた。俳人の中村草田男がここの貸家に住んで居た。そのときの控え帳が残っていると聞いていたのでそれを見せてもらいに行ったことがある。戦前に建てられたモダンな貸家である。後に有名になった人の直筆のサインが控え帳には残っていた。栗林忠道の名もある。硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官である。彼自ら起草した『敢闘ノ誓』はよく知られている。

 中村草田男は昭和13年8月からここに住んでいた。そして、昭和20年5月末、山手空襲にここで遭遇する。草田男年譜に「大空襲、自宅付近に落ちた焼夷弾を消しとめ、未明まで奮闘し類焼を逃れた」とある。ヒマラヤ杉のある大島家にはその時に落ちてきた焼夷弾の筒が今も残っている。またここの庭には往時の「防火用水」と書かれた水槽が残っている。中村草田男もここから水を汲んで消火活動に努めたかもしれぬ。

 この野屋敷在住時代に詠んだ有名な句がある。国語の教科書には必ずでてくる作品である。

万緑の中や吾子の歯生え初むる
 
  この句の出典は、『火の島』である。刊行昭和14年11月だ。この年、1月に次女が生まれている。赤子の歯は三四ヶ月で生えてくるという。ちょうそその頃が、新緑の候だ。わが子をあやしながら外に出て近隣をぶらぶらした。そのときに野屋敷の木々の緑がわが子の生え初めた歯にきらりと光った。万緑の僂箸錣子の生命のきざしを描いて見事だ。この辺り一帯赤松が多く生えていた。この万緑に大島家の僂皸賁鯒磴辰討い燭飽磴い覆ぁ

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2016年06月03日

下北沢X物語(3049)〜惜別・下北沢野屋敷ヒマラヤ杉〜

P1050996(一)下北沢野屋敷の北端に聳える五本のヒマラヤ杉、これが伐採されるとの報を得て居ても立ってもいられずに今日これを見に行った。あるいはもう伐られてしまったのではないかと心配した。しかし近づいていくと幹は全部残っていた。伐採の順序としてはまず枝打ちだ。先端から伐ってこれをトラックに集める。しばらく経つと短く伐られた枝がトラックに乗せられて出て行く。多くの思い出を与えていた木々の手や足だ。まるで命を見送る思いがしたことだ

「伐られちゃうのね、びっくりしたわ。いつもここ通っていてね見ていたから。ほんとうにもったないわね。まあ、わたしなんか通り掛かって見ていいなあと思うだけだけど…」
 自転車で通りかかったおばさんだ。そう景観として見ている分はいい。
「ここはね、御殿山小路っていう名のついている道なんですよ」
「えっ、何十年も通っていて初めて知ったわ」
「あなた誰?」
「ああ、ここらへんのことを調べているのですよ。いいもの差し上げましょう」
  下北沢文士町文化地図第六版を持って来ていた。これには「大島家のヒマラヤ杉」(世田谷区保存樹林)と記していた。次版七版では削らないといけない。
「文化人が大勢いるところに住んで居たのですか、知らなかった。夫婦で代わりばんこにエッセイ書いているのです、ぜひ書きますね」

「思い出はありますよ。25歳でここに就職してきてそれ以来ですものね、もう何十年とみてきましたから」
 これは別の人だ。樹木の少し向こうにある育成幼稚園の先生だった人だ。就職して結婚してここに住み、ずっとこの木を眺めながら生きてこられたという。感慨深いものがあるようだ。
「何十年前だったかしら、初めてここへ来た時これが見えてああヒマラヤ杉のある住宅地なんだと感心しましたよ。だけど、前はもっと背丈は低かったですね、それが今は成長してこんなに大きくなって…」
 幼稚園の先生は格別な思いがあるのかもしれない。あんなに小さな子がしばらく経つと大きくなって現れる。ヒマラヤ杉のプロセスもしっかと見ていたのだろう。

 人と話をしているうちに色々なことが思い出された。一番街の大月菓子店に行っていたころ、一人の女性が来て、切手を買った。劇団の人だった。
「御殿山小路なんて初めて知りました。私たちは『風の子通り』と呼んでいます」
 この劇団も御殿山小路の向こうにある。

「御殿山小路の一本松公園辺りから五本揃って聳えている風景はとてもよかったね。あの樹の向こうに別の世界があるように見えてね、だから私はここを通るのが好きだった」
 これは彫刻家の淀井敏夫さんが言ったと聞いている。これはヒマラヤ杉の向かいの今井兼介さんから聞いた。このところすっかりご無沙汰だ。奧さんでもいるかなと思って行ったが不在だった。

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2016年06月02日

下北沢X物語(3048)〜吉良氏家臣末裔の木々を巡る旅〜

P1050992(一)荏原一帯をひたすら歩いて探してきた。踏切も一つだ、「蛇窪の踏切」、「碑文谷踏切」などだ。ダイダラボッチ痕跡も隈無く探した。大岡山の擂鉢山、千束狢窪、谷畑の窪みなどだ。これらジャンルの中に一つ欠けていたものがある。樹木である、これも探し回っていた。一例で言えば「朴の木」である。垳利一が心を安らげていた樹木だ。

先生の散歩コースはきまっていた。言葉一つなく、足は自ら例のコースへ運ばれていった。門を出て左折すると、板塀にそった細い道に出る。そこまで来ると、先生がきまって足を止めて見上げる朴の木がある。塀の上に、その長楕円形の広葉が西陽を受けて、橙色に映えていた。空の高い一角には茜色の鰯雲がかかっている。先生はよろけるように、空を仰ぐと、「僕はね、日に一度、この木を見ないと寂しいんだ。この木の下に来ると、気持ちが和む。時間によって、葉の色が違ってみえるんだ」
『垳利一の文学と生涯』 由良哲次編 桜楓社 昭和52年刊


 葉は大きくて楕円形、季節には白い花を咲かせる。彼が北沢へ来た理由の一環を象徴してもいる。附近には多く樹木があった。武蔵野だ、そんなところで自身の感覚を磨く。作品を読むと武蔵野での隠遁的生活を送りたかったようだ。

 見つからない樹木もあるが容易に探し出せた樹木もある。ヒマラヤ杉だ。先だって東京都民教会で第9回、戦争経験を聴く会語る会を開いた。このすぐ近くに森瑶子旧宅がある。
この女流作家の父親が「森瑶子・わが娘の断章」(伊藤三男著、文藝春秋)というエッセイを記している。ここに「My Old Shimokitazawa-Home! 古く懐かしき下北沢の我が家」という一文があった。長い副題には、「昭和二十二年から四十二年まで、下北沢の家での家族団欒はもっとも楽しく、最も充実した日々であった。」とある。そして、冒頭はこうはじまる。

 すべては、そそり立つ一本の大きなヒマラヤ杉から始まった。道路と奥まった玄関との間の、かなり広い前庭の中央に、その杉の樹は立っていた。

このヒマラヤ杉は今も現存している。家は他人の家に渡ったようだが、これだけはそのまま残っている。

 大きな樹としてはヒマラヤ杉と欅とがある。前者は景観性が濃厚だ。古い学校や施設などには大概これがある。建物の存在を権威あらしめるものとも言える。成長が早いので建物を風格あらしめるには都合がよい。一方の後者は実用的だ。建築部材や臼などに使われる。今でも地主系の農家にはこれがある。

 今日、樹木に関して入った知らせは、なんと野屋敷の大島家の五本のヒマラヤ杉が伐られるとのこと。苦渋の決断をされたとあった。続きを読む

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惜別急告:下北沢野屋敷「五本のヒマラヤ杉」

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下北沢野屋敷の大島さんの家のヒマラヤ杉については「シモキタ猫町文学散歩」のポイントでいつも立ち寄っていました。高々と聳え立つこれは昭和四年に植えられたものです。以前聞いた話だと空襲の目標になるから伐れとの指示があったそうだ。
「伐るのなら俺の腕を伐れ」
 そうおじいさんは係官に抗議したと。

 野屋敷御殿山小路の向こうに聳え建つこの五本のヒマラヤ杉は当地の風景でした。ところがこれが伐採されるとのこと。大島さんから連絡が入りました。
 もう間もなくすべてがなくなるそうで、来週には姿を消すそうだ。


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大島さんからの言づて

 北沢4丁目、「5本のヒマラヤ杉」の大島と申します。この度、苦汁の選択でヒマラヤ杉を全て伐採する事と致しました。経緯は諸々ありますが、「自然災害への畏怖」と「近隣との融和」という世の趨勢には抗えない、といった所です。
 既に5月末を以て世田谷区の保存樹木指定を解除し、昨日(1日)より伐採の作業を開始しております。残念ながら来週半ば頃には跡形もなくなると思いますが、当家の樹木に関して皆様のご記憶の片隅に留めて頂ければ、幸甚です。


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2016年05月31日

下北沢X物語(3047)〜歴史と樹木と街:駒沢真井家の松〜

P1050984(一)多くの歴史を生きてきたのに樹木はものを語らない。が、気になる木は多くある。偶然来歴を知ることがある。下北沢野屋敷のヒマラヤ杉は空襲の目印になるから伐れと言われたが「樹を伐るなら俺の腕を切ってからにしろ」と主は言って残った。この樹、今では当地のランドマークとなっている。昭和女子大へは毎年近衛野砲兵跡の見学に行く、北白川宮成久王殿下のお手植えのヒマラヤ杉を我等がここで発見した。小田急下北沢第3号踏切跡の側に桜樹がある。一色次郎『東京空襲』にこの枝を透かして冬の星々が見える様が描かれている。それとは無関係に代沢小の学童がこの樹木が伐採の憂き目に遭っているのを知り、「伐らないで」と小田急に嘆願し樹は残った。

 日々多くの樹木に出会う。数百年を生きてきた樹木を前にすると深い感慨に打たれる。深沢秋山家の欅は三百年をゆうに越すだろう。我々はこの三百年、いやこの半分の年月で恐ろしいほどの変換、転換をなしとげた。その間、木々たちは遅々とした成長しかしていない。が、なおまた近代の技術は進歩し、一層に速度を上げている。

 こんなに速度を上げていいのだろうか。率直に疑問に思う。そんなときに「しじみ汁の経済学」という新聞記事を読んだ。トーマス・セドラチックさんへのインタビューだ。

「日本は苦しくて借金を増やしたのではなく、経済成長をより速くしたかったためにこうなったのではないでしょうか。成長を速めるために債務を増やし、ある日全部が崩れる。ギリシャは遅れているのではなく先駆的なのです」

 荏原一帯、日々歩いている。が、マンションや戸建て住宅の需要は多い。あちこちでこれらが建っている。その場合、いつもそうだが庭にある樹木はいとも簡単に伐られてしまう。樹木受難の時代だ。

 そういう中で、居宅の樹木を残すとの報がこのブログに寄せられた。常々興味を持って聞き回っている駒沢高射砲陣地関連の情報だけに深い興味を持った。昨日、当ブログに眞井斎壽さんからコメントがあった。

眞井 壽一(さない としかず)は僕の祖父にあたります。子供の頃同居していた祖父母からは高射砲陣地ができる際、邪魔だからと庭の松の木の先端を切られてしまったとの事。後に松の木に登った際その切られた跡を確認しています。
 なおこの松は今も「ガーデンテラス駒沢」の中に残っています。今後の開発でも真井家のこのシンボルツリーは残していくつもりです。


真井家は一帯の地主だ。今の駒沢大学駅交差点は真中と呼んでいた。真井家と中村家から字をとって「真中」と呼ばれていたという説もあるほどだ。駒沢高射砲陣地は畑である。ここも真井家の地所だった。「ガーデンテラス駒沢」は旧駒沢高射砲陣地の南側に位置する。ちょうどここは品川用水が通る尾根筋である。ここに松があると測高機などで敵機の高度を測る場合具合悪い。それで伐れと言われて伐ったものだろう。
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2016年05月30日

下北沢X物語(3046)〜会報第119号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第119号 
               2016年6月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
一、第10回「戦争経験を聴く会・語る会」は開催すべきか?

 九年間、継続して戦争経験を聴く会・語る会を開いてきた。これを通して学んだことは何か、今という時代への警鐘ともなることなのでここに記しておきたい。

 一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでもいつまでも続く。
 二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
 三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言が いえなくなる。
四つ、いざ戦争となると人間が人間でなくなる。
  命は毛ほどに軽くなり、軍隊では虫けら同然に扱われ、果ては人間が武器の代わりに使われるようにな    る。
 五つ、心ない大人が出て来て、学童や子どもを裏切る。
六つ、戦争になるとなると権力やマスコミはウソをつく
 七つ、戦争が始まると人々の人権はあっさりと踏みにじられる
 戦争が始まると、「戦争大事」、「国家大事」ということが大前提になって、個個人の権 利はなくなる。嫌でも応でも武器を握らなくてはならなくなる。
 八つ、音楽は戦争に人を駆り立てもするし、自由を与えもする。
 勇ましい軍歌によって人は戦場に駆り立てられた。権勢はこれを利用する。
 が、一方音楽があることによって人は束縛から解放されもした。
 

 毎年五月末に行っている戦争経験を聴く会語る会は、九回目は無事に終わった。「戦争と音楽」という新基軸を出した。これに代沢小学校からの全面的な協力があって成功した。急遽編成された児童楽団が代沢小疎開学寮歌、「代沢浅間學園の歌」、「聖が丘学寮宇の歌」、「真正寺学寮の歌」を歌った。五年生、六年生を中心とする12名の歌声は下北沢都民教会の聖堂に高らかに響いたことだ。

 戦争から遠ざかる一方である。それで「戦争経験を聴く」ことは困難になっている。当初は、現役の兵隊だった人が多くいて戦場経験をつぶさに聴くことができた。しかし戦争から遠ざかるにつれ、戦争の間接経験者に話者が変わってきた。それが疎開経験者である。が、現実にはこの人達も高齢化してきている。そして遠く隔たった過去についての想像力が及ばなくなってきている。
 今回、「戦争と音楽」という新基軸を打ち出したのは戦争経験者が居なくなった中での工夫である。一つは、小学校の学童を参加させて伝えるということはあった。実際、学童たちは疎開時代の歌に触れて「昔が少し分かった」とも言っていた。また、学童が出て歌うことは聴衆を活気づけるという点もある。子供らが懸命に歌っている様を見て励まされるという点はある。また、子供が出れば親も見に来るというところはある。これによって若い親が戦争の歴史の一端に触れたという点はある。

 もう一つは、第二世代による継承である。戦争を経験していない人が介在してこれを伝えるという試みだ。これは自分自身が果たしたことである。疎開についてはだいぶこちらも調べていて、これを今回は伝えられた。昨年は、四十名程度だったが、今年は学童も入れると六十名ほどが参加していた。八回目よりも九回目の方が参加者は多かった。

 問題は、九回目を開催したから十回目も行うべきかである。参加した人は、ここまで来たのだから十回目はやるべきだとの感想である。
 人員や組織という点では前よりも充実してきた。今回の会を開くに当たって準備会を今回は五回ほども開いた。その都度協力者が出てきて打ち合わせをしたことである。その点ではだいぶ助かったことだ。
 継続は力、これは理解できる。が、戦争から遠ざかれば遠ざかるほどこれは困難になる。「戦火を潜り抜けた児童音楽隊」という事例は身近にあったからこれはできたことだ。全体には好評であった。しかし注目度が高まった分、十回目が困難になったとも言える。人を集められる企画を10回目で作れるかという問題だ。継続した方がいいが必ずしも義務を背負うことはない、そう率直に考える次第である。自身でも継続はプレッシャーになってきていからでもある。
 できるとすればどんなことができるか。費用や人員の手当が可能かどうかという問題は全く無視してアイディアは記しておきたい。
・市民劇団、素人が「戦争劇」を演ずる。
 戦争体験を聴かせることは困難になってきている、それで見せるものを創っていく。
 いわゆる演劇だと負担になってくる。それで朗読劇でもかまわない。
・「戦争と音楽」というテーマで再度行う
 世田谷ワイズメンズクラブには音楽的な資源が多くある。コーラスや楽器などを活用し、戦争に関係する歌をうたってもらう。またはこれをテーマとした音楽を演奏する。
・「世田谷と戦争:音楽と文学」
 当地に関わる音楽、疎開学寮歌、当地で生まれた軍歌など。戦争に関わる文学作品、詩歌の朗読。加藤楸邨、渡辺順三、福田正夫、一色次郎など。この場合は、ピアノ伴奏者、歌い手、朗読者などが必要である。アマチュアでも十分可能である。
・古老級の戦争経験者に頼んで戦争を話してもらう
 前に特攻重爆撃機の乗り組み員、前村弘さんに話してもらった。そういう人を探し出して語ってもらう。
・戦争の講演
 専門家を呼んできて講演していただき、その後、戦争を参加者とともに語る。
 以上、述べたが、これは私の思いついたアイディアである。私は何をしているのか。来年、第10回「戦争経験を聴く会・語る会」を行うべきかどうかという提案である。
 我等の会は「歩く会」を実施してきた。もう120回目となる。当初は、私が行ってきた。が、今は他の団体と共催したり、また、自前の講師が育ってきていたりして、この負担は軽減された。これと同じようにすればとも思う。
 私が欲しいのは、この提案についての応答である。提案が提案だけに終わったら第十回は開けない。多くの皆さんに考えていただいて、その反応がほしいのである。
 一つ考えなくてはならない大きな問題は、資金である。ほとんどがボランティア、奉仕で行って居る。今回は、寄金の呼びかけをしたところ、12660円が集まった。とてもありがたいことである。ボランティアで行ったとしても会場使用料や雑費がかかる。上のアイディアはこの資金のことが含まれていない。音楽家や専門家を呼ぶとすれば一定程度の謝礼は考えなくてはならぬ。場合によっては入場料も取るということも考えられる。そこを含めて考えてもらうと有り難い。
 もちろん、もう止めてもいいですよという反応でもかまわない。

二、終戦記念日特別行事〜下北沢周辺の戦争痕跡を歩く 

 第九回戦争経験を聴く会・語る会で近隣の戦争遺跡を歩いてみたいとの声があった。思いついたのはどうせ行うのなら私個人は8月15日に歩いてみようと思った。が、この期間はお盆で多くの人が帰省していない。歩く会も八月だけは休みだ。それで思いついたのは企画に賛成して、静かに歩いてみたいという人がいればやってみたいと思った。計画して誰もいなかったのでは提案のし甲斐がない、それで希望者が十人いれば実施したい。
 期日 八月十五日(月) 新代田駅前 13時集合。案内者 きむらけん
 会費 500円(保険なし)資料なし プライバシーに関わる部分もあるので口頭のみ。
コース:戦時応急連絡線跡(代田連絡線)→戦時歌謡作曲者旧居→代田円乗院空襲記念碑→戦争物語の宝庫代沢小→大東亜戦争戦勝記念碑→開戦記念日の俳句「十二月八日の霜の屋根幾万」作句場所→陸軍獣医学校跡→開戦時首相旧邸→終戦時の某元帥邸跡→池の上駅
申し込みが10人いれば開催。締め切り6月20日まで、開催不開催は次号にて

三、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第118回 6月18日(土)午後1時
 東急目黒線/都営三田線/東京メトロ南北線目黒駅地上正面口前
 恒例三田用水を歩く(第3回目)  キュレーター きむらたかし氏
前回からの「順番」からすると恵比寿ガーデンプレイス→五反田駅となる。が、戦前からの道路計画が動きはじめたため、近々三田用水の「遺構」が数多く消滅するおそれがあることからこちらのエリアを先行探査したい。
コース:東急等目黒駅前−山の手線水路橋跡−鳥久保分水口跡−妙円寺脇分水口跡−今里橋遺構−久留島上口分水遺構−今里村築立場跡−今里地蔵−久留島上口新右岸分水跡−雉子神社−JR/りんかい線大崎駅(午後5時ころ解散予定)


・第119回 7月16日(土)午後1時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
 恒例駒沢練兵場を歩く 案内者 世田谷道楽会 上田暁さん
三軒茶屋駅→昭和女子大野砲兵碑→韓国会館(元兵営建物)→下馬馬魂碑→世田谷公園(駒沢練兵場跡など)
・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒Q 新庄靖弘さん
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く
・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
シモキタ猫町文学散歩(仮)     案内者 きむらけん

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲第2回北沢川文化遺産保存の会研究大会(予告)
テーマ シモキタらしさのDNAを語る  副題 消えゆく街の歴史を残そう
主催北沢川文化遺産保存の会 共催グリーンライン下北沢 協力世田谷ワイズメンズクラブ
日時 2016年8月6日10時30分より(開場9:30)
場所 北沢タウンホール 12階 スカイホール 会費500円
第一部 シモキタの戦前と戦後を語る(古老)  10時00分〜12時00分
戦前 三十尾生彦さん 戦後 伊藤文学さん
第二部 シモキタの歴史研究 各人発表   13時30分〜16時30分
第三部 懇親会・納涼会 17時30分より
会費3500円 豪華「シモキタらしさのDNA弁当」つき
▲「北沢川文化遺産保存の会」掲示版をご利用ください。連絡。情報提供などhttp://kimuraken.bbs.fc2.com/
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
〇写真は先般の戦争経験を聴く会。代沢小学童による。合唱風景。





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2016年05月28日

下北沢X物語(3045)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会検

ミドリ楽団演奏曲目(一)人々が老化するに連れ戦争の風化が進行する。と同時に憎悪もまた希薄化していく。戦争当時憎しみは燃えたぎっていた。終戦を迎えた十日後の八月二十五日、北沢の自宅宛に六年生の一人の学童が手紙を書いた。

 昨日新聞に、原子爆弾で死んだ者二十八萬人と書いてありました。幸子はくやしくてくやしくてたまりませんでした。この尊い日本の国民を殺していういうと入って来るアメリカ兵、必づうらみは晴らさなければなりません。今の子供はいちばんせきにんが重いのです。

 同胞を殺された口惜しさが手紙はつぶさに書かれている。こうも書かれている。

 いまにあのにくいにくい目の青い髪のちゃいろの米国兵が上陸して来る事でせう。この皇国日本の土を一歩もふましたくありません。「今にみろこの仇は必ず討つぞ」の気持ちで何事もやり抜かなければなりません。お父さんお母さん心配なく、次の日本は、幸子達で建てなほします。

この烈しい憎悪は71年経過してすっかり薄まった。戦争に対する烈しい憎悪は敵に向けられたものだけではなかった。身内への憎しみだ。軍隊内部でも憎き上官は数多くいた。理不尽な彼らによる仕打ちは憎んでも憎みきれない。終生「殺してやりたい」との思いを抱いていた者も少なくない。

 取材を重ねている中に疎開学童の中にも教師を憎んでいる者がいた。徹底していじめまくられた。その教師は横暴で夜には酒を飲むと寮母を追っていたという。
「彼はね、死ぬまで言っていましたよ。『殺さないと気が済まない』と、その彼も死んでしまいましたけどね」
 あの苦しい時代の、敵意、憎悪も歴史の闇に巻かれて消えつつある。

 「戦火を潜り抜けた児童音楽隊」にはこの憎悪を乗り越えたドラマがあった。子どもたちの戦争である。
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2016年05月27日

下北沢X物語(3044)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会掘

P1050976(一)今回のテーマを「戦火を潜り抜けた児童音楽隊」とした。代沢小の器楽バンドは昭和十四年四月に発足した。途中、戦争が挟まる。が、一人の音楽指導者は音楽の火を消すことはなかった。空襲を避けての疎開というときも学童に「娯楽と慰安こそは欠くべからざるもの」と訴えた。そして、疎開先まで楽器を運びこみ音楽演奏を続けさせた。そのことが功を奏し、戦後において演奏技術は開花し、ついには全米でテレビ中継されるまで至る。それが「ミドリ楽団」である。この彼らの演奏技術の確かさはどこにあったのだろうか?

 今回は、「ミドリ楽団」の演奏を来場者に聴いてもらった。この音源も偶然に手に入ったものだ。東京都民教会に通っておられる信者の一人が録音盤から落としたテープを持っておられた。これを借りて複製を作った。私たちの会員、きむらたかしさんがこれをCDに落としてくれた。

 カッコーワルツ
 子どもの巡邏兵
 フォスター歌謡曲
 アメリカンメドレー
 荒城の月変奏曲
 さくらさくら・夕焼け小焼け


 教会内に楽団の演奏が響き渡る。皆は真剣に聞き入った。1951、昭和二十六年製作されたコロンビアレコードだ。「黒.簡易楽器模範合奏」とある。彼らの合奏が勝れていたからこそレコードになった。戦後になって器楽演奏が各学校で行われるがその規範や模範となったものだ。

 この歴史的な音盤、本家本元の代沢校にあるはずだ。「探してもらえませんか」と頼んでいた。ところが方々を探して下さったとのこと、学校にはないようである。

「全国に行き渡っているとすると、今でもどこかの学校に必ず眠っているはずですよ」
 そのように言う人がいた。具体的に思い浮かんだのが 群馬県長野原の中央小学校だ。ここは代沢小浜館先生の指導を受けて映画『トランペット少年』の映画撮影が行われている。問い合わせてみるのも一つの手法だ。
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2016年05月25日

下北沢X物語(3043)〜原爆謝罪を求めないのは日本の得点か?〜

P1050980(一) 「The Emperor's Tram Girls」、和名「皇国少女」というドキュメンタリー番組がある。自身の発信が契機となって作成されたドキュメンタリー番組だ。この末尾で私の詩作品がゆっくりとテロップで流れてゆく。

ピシュリ 赤青(せきせい)の閃光(せんこう)が全天に光る
ドグワン 爆裂(ばくれつ)の音響が地軸(ちじく)を裂(さ)く
ピシュリは地上の砂を燃やし鉄を溶かし命を焼いた
ドグワンは地表の命と物とをことごとくに粉砕(ふんさい)した
炎熱火球(えんねつかきゅう)がたちまちに人を街をぐわぼりとひと呑(の)み

市街の中心 相生橋(あいおいはし)近くに
たった一機の飛行機が平然(へいぜん)と悠然(ゆうぜん)と
途方(とほう)もない悪意のエネルギーを投擲(とうてき)した
ピシュリ ドグワンのその刹那(せつな)
幾万もの人々の希求(ききゅう)がうち砕(くだ)かれた
近辺の元安川(もとやすがわ) 本川(ほんかわ)の土手筋一帯
建物疎開(たてものそかい)に動員された学徒は数知れず
無念累々(むねんるいるい) 内蔵赤赤(ないぞうあかあか) 肉塊黒黒(にっかいくろぐろ) 瓦礫延々(がれきえんえん)
遠く見晴るかす安芸小富士まで
茫漠(ぼうばく)と広がるのは宇宙人類の屠殺場(とさつじょう)
各々(おのおの)の死装束(しにしょうぞく)は焼焦げの一枚の皮膚 
天を恨むか 敵を恨むか
真黒(まくろ)い男根(だんこん)が空を指さす


かつて広島原爆を素材として作品『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』を書いた。偶然、これを知った記者が広島から取材に訪れた。広島版掲載の記事だと言っていたが、1999年8月5日の『読売新聞』夕刊三面トップ記事にこれが載った。英字紙にも転載されたことから英国のドキュメンタリー監督が通訳を連れて来てこの逸話を撮りたいと言ってきた。それが、「The Emperor's Tram Girls」である。大手メディアの売り込み版だ。その後の子細経過はよく分からないが日本側のデレクターからはBBCがこれをもとに本編をつくり、それをベースにしてTBSが、「“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた」を作った。実際、当方の取材相手、藤井照子さんがメインとして出てきた。そして原爆製造に関わった物理学者と対峙し、「謝れ」と迫った。この話は有名になった。

 自作品『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』は、一人芝居で演じている人がいる。これを東京世田谷代沢小でも演じた。
「原作が、きむらけんとなっていますが、下北沢の文学を調べている、あなたと一緒ではないですよね」
 当時のPTA会長から尋ねられたことがある。一緒だと知って非常に驚いていた。
 戦争と広島原爆、そしてまた代沢小での劇公演、それでふと「The Emperor's Tram Girls」のことを思い出し、ユーチューブで検索したらこれが公開されていた。世界中どこでも見られる、再生回数は、74997となっている。この作品の最後にテロップで流れて行く詩は、自作詩である。
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(二)今アメリカのオバマ大統領が被爆地広島を訪れるということで大きな話題となっている。アメリカ国民の認識としては広島に原爆を投下したことで戦争を終結させられたということで多くが「原爆投下は正しかった」としている。

 今朝の新聞(『朝日』)には、「オバマ大統領の迎え方」として、一人の作家の意見が取り上げられている。その見出しは「無言で静かに原爆の謝罪を求めず日本の『得点』の鍵」とある。政治的配慮として謝罪を求めない方が得点になるという考えだ。ここの部分、損得勘定に大きな違和感を持った。

 アメリカは、国際政治を問題にする場合、「人権」を楯に他国のあり方を非難する。個個人は人間としての生まれながらにして権利を持っている、何人も他者の強圧的な介入なしに人々が自由に振る舞える。これは尊重されなかれればならない。

 つい最近沖縄の若い女性がアメリカ軍属の男に乱暴されて殺された事件があった。同類の事件はこれまで当地では度々起こってきた。その度に綱紀粛正ということが言われたが何等変化はみられない。しかし、今度の事件を通して明確にあぶり出されたことは、アメリカ駐留の米兵や軍属などによって、沖縄での「女狩り」が公然と行われていることである。アメリカ優先の地位協定によって在沖米人は優遇されている。それが米兵、軍属に考えの根底にないか、これによって野獣性が野放しにされている。それで「女狩り」が普通に行われているのではないか、ここに沖縄の人々が差別意識を持つのは当然だ。一女性が自国に生きていて自由に空気を吸いたい、自由にジョギングしたいと思うのは当然の権利だ。それをアメリカは侵していると言っても過言ではない。地位協定を改めるのは人権という観点からしても当然のことではないか。

(三)
 オバマ大統領の「プラハ演説」は高らかに「核廃絶」を唱えた。なぜ、これを無くさなくてはいけないか。たった一発の核兵器が一瞬にして何十万の命を奪うからだ。個々の人間が、人を恋したり、物を考えたり、好きなものを食べたり、そんなささやかな自由を有無なく奪ってしまう極悪非道な兵器であるからだ。

 あの広島の惨状を思え、鉄砲を持った兵士へのしうちならまだしも一般市民を一気に焼き殺し、滅ぼしたことは到底許せないことだ。昭和二十年五月末、東京も壊滅した。全国各地の主要都市はほとんどB29によって焼き滅ぼされている。日本はすでにこてんぱんに打ちのめされている。真珠湾奇襲攻撃への仕返しだとしても原爆使用はあまりにも酷い仕打ちだ。「黄禍」、東洋の小憎らしい黄色人種への差別意識から日本を標的として原爆を投下した。白人に対しては決してしなかったろうと言われる。

 しかし、原爆の惨状はあまりにもひどい。八月六日爆心地近辺には類焼、延焼が広がらないようにと建物疎開をするために大勢の学徒が動員されていた。未来ある若者が数知れないほど被爆して死んだ、元安川には水を求めて彼らが殺到し、ここで息絶えた。恐ろしい数の遺体が地表を水面を埋めていた。爆心地では人が溶けて蒸発した。

 むごい、むざん、ひどい、原爆被害は実は言葉に言い表しようがない。さきに自分は詩を描いたが、被害の一毛を描いたに過ぎない。

 原爆はどうあっても使ってはならぬ。使ったら人権という人間が考え出した叡智はたちまちに砕け散る。核兵器、これに手を染めてはならぬ、これに手を出したとたん、人間は人間でなくなる、人間の尊厳などとは言えなくなる。

 ゆえに。日本の「得点」になるから米国大統領を刺激するのはやめようという発想はどうなのか。一つの戦術としての、得点稼ぎというのは原爆で非業の死を遂げた人々の思いとはかけ離れてはいないか。私は謝る、謝らないの問題を言っているのではない。得点を超えたもの、核を命を懸けてでもこれを廃絶しようということの方が大事だ、これがヒューマニティというものではないだろうか、それこそ核使用国と被爆国とが共同宣言を出して世界に向けてこれを誓う、これが引いては核抑止に繋がるのではないかと思う。

 戦後71年ともなる、あの悲惨さ、惨さ、被爆後、市内各所の焼けた電柱からは随所で煙が立ちのぼっていた、それは広島での爆死者を弔う荘厳な線香のようだった。

 原爆は許してはならない。これを所持する限り、核と核とで対峙する世界は変わらない。原爆被害の惨さを、世界で唯一体験した日本は、これを伝え続ける責務がある。
(写真は、上は「皇国少女」の最終部で流されている私の詩である。下はドキュメンタリーの表題、故藤井照子さんの若いときの写真だ。)

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2016年05月24日

下北沢X物語(3042)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会供

P1050975(一)継続的に会を開いてきて何を学んできたのかが問われる。一年一年の教訓を次世代への「伝え」として箇条書きにしてきた。現在の三つだ。

一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでもいつまでも続く。
二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言がいえなくなる。


 この後続くが、今回は何を学んだだろうか?

今回は「戦争と音楽」がテーマである。何を伝えたかったか、一つには、児童、学童が歌をうたうことで苦難から解放されたということ、もう一つは音楽には国境がないということだった。それで代沢小の学童に「代沢浅間學園の歌」、「聖丘学寮の歌」、「真正寺学寮の歌」を歌ってもらった。前者は第一次疎開先の歌、後者二つは再疎開先での寮歌である。

「昭和二十年四月、浅間を離れて塩尻市を中心とした村々のお寺に学童は疎開していきます。ここには子供たちの戦争が待っていました。二つの各寮歌はそのドラマを秘めたものです……」
 
「最初の疎開先は世田谷から来た2500名ほどの疎開学童で溢れていました。どこに行って同じ仲間がいた。ところが再疎開先では疎開学童は少数派となってしまう。地元の子に混ざって勉学をするのです、ところが学童はみるみる生気を無くしていきました。子ども同士の戦争です、東京からきた子たちはアカ抜けていて、こざっぱりしている、しかも成績がいい。たちまちに虐めに遭うのです。そういう学童を見かねて引率の先生は歌でもって子供を励まそうと独自の寮歌を作って歌わせました。この歌の中には『鬼畜米英撃ちてしやまん』などの歌詞はいっさいなくリズム全体が軽快で明るい」
 疎開学童を勇気づけようとした歌であった。ところがこれが却って村の子達を勇気づける結果となった。学童をいじめていたその子たちが歌を聞きにきた、町のこよりも村の子がこれに馴染んでしまった。

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2016年05月22日

下北沢X物語(3041)〜第9回、戦争経験を聴く会・語る会〜

P1050974(一)5月21日のことだ。代沢小の学童13人の歌声が、下北沢東京都民教会の会堂に響いた、71年前疎開学童によって歌われていた歌だ。「代沢浅間學園の歌」、「聖が丘学寮の歌」、「真正寺学寮歌」である。歌詞に籠められた思いが伝わってくる、生命の輝きを持った学童が歌うと胸裏に歌曲がツゥンと響いてくる。今朝早々に届いた矢花克己さんからのメールには「素晴らしい会でした」とあった。今回の「戦争と音楽」という新しい試みは成功だった。
 
  歌が人間を勇気づける。今回、三つの歌が蘇った。が、この個別の歌は苦難の末に再現されたことを改めて知った。

それぞれの疎開寮歌の音楽物語

・「代沢浅間學園の歌」 作曲 浜館菊雄 作詞 柳内達雄

 代沢国民学校は1944年8月13日、淺間温泉に到着する。そして六つの学寮に分宿して疎開生活を送る。このときの全体の学寮歌がこれだ。

 昨日の会でこの歌にまつわる話が静かに披露された。「浅間楽団」に加わっていた加藤景さんの話である。
「私は当時四年一組、担任は浜館菊雄先生でした。が、楽団に参加しようとしたら浜館先生に『キミのはト調のハモニカだから無理だ』と言われて、それでハ調のを送ってもらいました。やっと練習に参加しました。ところがなかなか吹けません…あの頃は苦しかったですね。小さいときから病弱でした。同室の六年生にはいいカモとばかりにいじめられました。友だちもいなくて、60人いた楽団のメンバーと誰とも会話を交わした記憶はありません…」

「楽団の練習では、『聞こえてきた音をだしてごらん』と言われるだけであそこがだめで、ここがこうとは教えてもらはなかったのです。しかし自分でひたむきにこれを練習しました。そしてようやっと吹けるようになったのです。私は音楽が嫌いでそののち音楽とは無縁の生活を送っていました。ところが大人になって子供時代のことがしきりに思い出されたものですからどこかに譜面がないかと探したのですがありません。それで自分でこれを思い起こしてそしてこれを楽譜に落として、知り合いに頼んでCDを作ったわけです。そして、これを持って浜館先生が眠っている小平霊園の墓地に行ってこれを墓前で再生いたしました。数十年ぶりの再会でした…」

 「代沢浅間學園の歌」、このメロディを何とか吹けるようにと病弱だった私は一生懸命練習しました。そのことによってあの苦しい疎開生活を乗り越えることができた、そして今日の自分があると思いました。あの頃、習っていたころはぶっきらぼうでとっつきにくく、茶目っ気のある先生でしたが、今になって思うととても懐かしく思われるのです

 分かったことは、13人の学童が歌ったこの楽譜は、実は加藤景さんの努力によるものだった。今回初めて知ったことであった。

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2016年05月21日

下北沢X物語(3040)〜丘の街・代官山の一夜〜

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(一)お決まりの名台詞があった。「ある時は片目の運転手、ある時はしがない私立探偵多羅尾伴内、ある時は流しの歌い手、しかしてその実体は……正義と真実の使徒、藤村大造!」これを思い起こす、「あるときは踏切を、例えば、それは『蛇窪の踏切』だったり、あるときは鉄塔を、『駒沢線』だったり、『都南線』だったり、またあるときは『ダイダラボッチ』を調べたり、自分で自分の正体がわかりません…」と思っている。ところが、その会に参加してみると、自分の肩書きが「荏原郡史家」になっていた。

 「自分はこの先どうなるのだろう?」、若い頃思い悩んでいた場所が代官山だった。アパートの一室からのぞき見える風景はいまだ忘れられない。
「ふと思い出したことがあります、私は東京に出てきたばかりの高校生のとき代官山25番地に住んでいました……」
 自己紹介の順番が回ってきてこう切り出した。
 
 昨日、代官山ステキ総研の懇親会に仲間のきむらたかしさんとともに招かれた。そのときのことだ。会は、ヒルサイドテラスで行われた。始まりは代官山の街作りについての意見交換から始まった。枕には新しい素材、ガラスを用いてはどうかという最先端の技術の紹介があった。代官山という場、ならではの話だと思った。
「そのことは代官山の固有性とどういう関係があるのですか」
 他の委員の一人が問うた。このことから代官山と自分ということが思い浮かんだ。

「東横線が山の手線を越えていく鉄橋がすぐ近くにありました。渋谷行きの電車が鉄橋に、差し掛かると、ぐったんがったんと大きな音がします。渡りきった左手に『東横食品』の大きなネオンがありました。その脇を通り抜けて行きます。すると電車は並木橋上の急カーブにかかって、キュゥィン、キュゥィンという軋り音を立てました。それが消えるとネオンの音がジジジ、ジジジと聞こえてきました……」
 東急C曲線を渡っていく楽音は忘れられない、が、ついこの間、2114年3月、東横線は地下化した、同時にその音も消えてしまった。

「今日、頂いた資料の中にある『研究・運営アドバイザー』に『荏原郡史家』と記されています。こういう名称には初めて接しました。が、こういう呼び方もあるかという思いはします。この荏原をひたすら歩き回って色々なことを調べています…それは事実です」

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2016年05月19日

下北沢X物語(3039)〜巨人伝説の景:代田にはなく野沢に供

P1050968(一)自分の足で歩いてその土地の固有性を知る、土地の陰影、佇まい、古道の走り具合に真実が潜んでいる。「ダイダラボッチ」も同じだ。調べ尽くすことでその本質が見えてくる。この件に関しては荏原中を歩いている。ゆえにダイダラボッチの景と言ったときに幾つもが浮かんでくる。そう、記者が撮って、おおこれこそダイダラボッチというものは世田谷代田にはない。

 地元の世田谷代田図書館がダイダラボッチの足形をかたどった椅子机を館内に設置したこと、そして足跡を床にデザインしたことは素晴らしい。が、どうもスケールガ小さくて「巨人の偉績」を称えるには「甚だ振るわぬもの」である。

 現今、世田谷代田駅の新駅広場の計画が検討されている。前に、駅前にぜひダイダラボッチ像をとの話をしたことがある。が、そんな予算はなく、結局広場に足跡をかたどることにしたとのことだった。

 今回の記者は、事前に調べたそうである。茨城の大串にも、それから相模原市のデイダンボッチ伝説にも既に取材に行って来たとのことだ。その中で世田谷代田のダイダラボッチを中心にして特集をまとめたいということで当方への依頼があった。

 世田谷代田のダイダラボッチへの関心は高まっている。しかし、ここに景がないというのは残念である。それで代田での痕跡探訪は諦めて痕跡のある場所を求めることにした。
「ダイダラ坊の足跡」には世田谷代田を調査した後、南下している。それはつぎのように書かれている。

あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いていた。それを読んでゐた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向かって巡礼を続けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。

この記述の中の、「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった」は、ダイダラボッチ痕跡を探るのに重要なヒントになる。これを確かめるために何年も歩き回ってきた。距離の単位「一町」がくせものでこれに戸惑わされていた。

 しかし、資料を漁っていってようやくここを特定できた。ポイントは「小学校と村社との中ほど」である。ここを探し当てたときは感動があった。ゆえに記者をそこへ誘った。

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2016年05月18日

下北沢X物語(3038)〜巨人伝説の景:代田にはなく野沢に〜

P1050965(一)「ダイダラボッチ」は深遠なる伝説である、しかし、これを何も知らない人に伝えるのは難しい。必要なのはその現象を簡単に掴めるもの、絵風景だ。この伝説への取材の申し入れがあって、記者とともに半日現場をフィールドワークした。このときに絵を探した。が、巨人伝説の本家本元中心地代田ではこれがみつからない、それでさんざん探し回った揚げ句、雨中夢中、とうとう野沢まで歩いていってようやくこの絵を手に入れたことだ。
 
昨日は雨だった。久しぶりに代田橋へ行った。明大前駅で乗り換える。ここではいつも不思議なことが起こる。井の頭線から乗り換えて京王線ホームで待っている。すると電車が思っていた方向とは逆からくる、「これまたどっこい」と、それで頭がくらくらしてしまう。明大前乗り換えは鬼門だ。これは初手からダイダラボッチのいたずらの仕掛けか?

 代田橋駅で記者と待ち合わせた。「ダイダラボッチ伝説」を探訪するときの巡礼行路は決まっている。まずは代田橋駅で降りる。柳田国男は代田のダイダラボッチに訪れたことがきっかけとなって『ダイダラ坊の足跡』をまとめた。彼の探訪はこの駅から始まっている。これに倣ってのことだ。

 論考の、まずは最初の見出しだ。「巨人来往の衝」である。彼の感動でもある。

「私はダイダラボッチは一人ぼっちと思っておりました。ところがまず一番目の世田谷代田の足跡を訪ねたところこれが右片足だと確認しました。そしてもう一つ、駒沢のダイダラボッチ跡を確認したところ、驚いたことに足の向きが違っているではありません。おどろきましたね、ダイダラボッチはひとりぼっちではないのです」


 彼は深い感銘にとらわれてこう述べた。

 我等の前住者はかつてこの都の青空を、東西南北に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである。
 
 柳田国男は、「その旧跡に対しては冷淡でありえなかった。」、機会があったらぜひに巡ってみたいと思っていた。それで代田橋駅に下車した。

 私たちも彼の面影をたどり、まず代田橋跡に行く。そこには歩道橋があるばかりである。
「この歩道橋はちょうど背尾根にあってここに代田橋があったと思います。それでダイダラボッチ歩道橋と呼んでいますが…」
 甲州街道を流れる車が通っているきりでなんの面白みもない。

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2016年05月16日

下北沢X物語(3037)〜世田谷江戸道小径、蒔田道〜

P1050951(一)私たちは地歩を固めて、歴史という道のりを一歩一歩あるいてきたと思う。が、その歴史ほどあやふやなものはない。思うに私たちは、今という世界をとりあえず意義づけて暮らしているのだと思う。現実は、虚構的であり、物語的である、実は色づけされた向こうに真実が眠っている、そう思って歩くことはスリリングだ。我等、「都市物語を歩く」第117回目は、5月21日実施した。うち捨てられた小径、世田谷江戸道をこっそり、ひっそりと歩いたことだ。

 まず、大井町線等々力駅に集まって、ここから北上し歴史に埋もれた江戸道を歩いた。
案内者は、木村康伸さんだ。いつもどおり資料は充実している。これにはつぎのように説明がされている。

■世田谷江戸道とは

 世田谷江戸道は、世田谷区の南部を南北に貫く室町・戦国時代の古道であり、世田谷吉良氏にとって重要な道であった。
 世田谷城から南へ下り、深沢、等々力を抜けて多摩川の「野毛の渡し」につながっていた。多摩川を越えると、吉良氏の拠点の一つである泉澤寺を経て、蒔田城まで続いていたと考えられる。
 世田谷から矢倉沢往還(大山道)を経て江戸へと続いていたことからこの名がある。


 道は時代とともに呼び名が変わる。江戸を中心地と考え、そこへ行くから「江戸道」だ。が、この道は、世田谷吉良氏の時代は間違いなく世田谷城に繋がる要道だった。

 この世田谷江戸道についてはもうだいぶ前から慣れ親しんだ道だった。最初にこれを教えてくれたのは亡くなった丸山さんだ、「ここが江戸道だ」と聞かされたときに面食らった。どこからどこへ通じているのか全く分からなかった。しかし年月を経るにつれ「ああ、なるほど」と分かってきた。そして、何度も歩くうちにこれが「巻き道」だと気づいた。そのことから重要道ではなかったかと思うようになった。
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2016年05月15日

下北沢X物語(3036)〜告知:第9回「戦争経験を聴く会・語る会」〜

代沢小器楽バンド昭和15年(一)戦争の風化が進行している。あの惨たらしくて、悲惨な戦争から遠ざかっているからである。数知れないほどの戦争経験者と出会った。「どうあっても戦争はするな!」、誰もが口を揃えて言った。戦争は一旦始まると、人間はゴミくずになる、人が死のうと、女が犯されてようと、子どもが殺されようと人は何とも思わなくなる。人間の感情は当てにはならない、私たちは痛みを忘れる、ゆえにこれを防止する刺激が必要だ。そのために毎年、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いてきた。今回、5月21日(土)には九回目を開く。それで告知するものだ。世田谷区の広報誌「せたがや」には今日載った、世田谷区教育委員会後援を受けている。
 
今年は、戦後71年となる、戦争経験は人々の記憶から消えて行く。これはいかんともしがたい。それでも戦争経験の悲惨さを継承していくことは必要だ。そのためにはどうするかは私たち生きているものの大きな課題である。

 戦争経験を伝えるためには工夫が必要だ。「とても辛かった」、「苦しかった」、「悲しかった」という話を好んで聴きにくる人はいない。本当は、若い世代に戦争経験を伝えたいのだが、過去の時代の苦しい経験を敢えて聴きに来ようという人はいない。何とかして人に来てもらいたい。ということから工夫したのが「戦争と音楽」である。

 音楽を通して、平和を考えようという試みだ。とくにはこの音楽を子どもたちに歌ってもらう、これを通して戦争と平和とを考えることにしたい。

これを取り上げるには身近なところに好例があった。「戦火を潜り抜けてきた児童音楽隊」である。これは東京世田谷の代沢小に歴史事実としてあった。

 戦争の最中、都市は爆撃される危険が高まった。それで国民学校児童は地方に疎開した。長野の浅間温泉には世田谷から2500名が疎開した。この中の代沢校の話である。
 昭和十四年四月、当校の音楽教師浜館菊雄先生は、器楽演奏を行うバンドを創部した。ところが戦争が始まった。が、音楽演奏は続けていた。ところが疎開命令が出る、疎開先で音楽活動を行うことは困難である。しかし、浜館菊雄先生は、こういうときにこそ音楽は心の糧になる、そういう強い信念を彼は持っていた、それで、異論を押しのけて疎開先に楽器を運んで練習を続けた。
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(二)「代沢浅間楽団」と呼んでいた楽隊の総勢は60名もいた。彼らは音楽会を開いたり、また当地陸軍部隊の、陸軍病院や決戦部隊の慰問に出かけて、辛い苦しい生活を送っていた兵士たちの気持ちを慰めた。

 ところが昭和二十年四月になって浅間温泉も爆撃の可能性がでてきたところから、代沢校は塩尻近辺の寺に分散疎開する。再疎開である。楽団員はバラバラとなる、それで楽団は解散かと思われたが浜館は、同僚に訴えて団員を一つの寺に集めたいと提案した。それが認められて洗馬真正寺には音楽の好きな子が集まった。「真正寺楽団」である。

 再疎開先で学童たちはなじめなかった。個別個別の寺に分散して地元の学校に通う。ここで起こったのが孤立化だ。地元の子どもには体力的にも敵わない。また疎開っ子としていじめられた。疎開学童はますます元気を失った。

 浜館はなんとか彼らに勇気を持たせたい。ということで彼らを励ますための学寮歌を作った。前の浅間では、全校の学寮歌、「代沢浅間學園の歌」があった。歌詞には「鬼畜米英撃ちしやまん」など勇壮な歌詞があた。

 ところが「真正寺学寮歌」はひたすらに明るい、これを本堂で練習し歌った。音楽の好きな子たちの歌は、やはり美しい、丘上にある寺からこれは転がり落ちて村の子に届いた。これを聴いた彼らは胸ときめかせた。

 不思議なことが起こった。疎開の子と村の子は、言ってみれば戦争状態にあった。ところが歌が彼らを取り持った。自校の学童に勇気を与えようとした歌が、地元の子を勇気づけてしまった。彼らは音楽の時間になると数多く歌を聴きに集まってきた。が、ようやっと慣れ親しんだ両者も、敗戦によって疎開学童が東京に帰ることになり、別れ無ければならなかった。

(三)戦前、戦中、戦後と継続してきた器楽バンドは、戦後になって「ミドリ楽団」として発足する。継続は力、たゆまざる訓練をして音楽の力を高めていた彼らに米軍からオファーが舞い込んだ。「ミドリ楽団」は存分に力を発揮し、大評判となる。

 彼らは、アメリカンスクールや米軍基地での慰問活動を行う、国内向けには、上野動物園へ行き音楽会に参加したり、台風災害被害者への慰問などを行った。

 ますます評判は高まり、昭和23年9月には、あの大劇場「アニー・パイル」での三日間連続公演を行った。彼らの活躍は全米にまで伝わり、昭和25年のクリスマスには彼らの演奏した歌が米国全土にラジオで流れ、そして全土にテレビ放送として流された。

(四)「音楽に国境はない」と考える、浜館菊雄は、戦前、戦中、戦後と子どもたちとともに戦争を生きて来た。そういう類まれな例がこの世田谷にあることを今回の会を通して、人々に伝えていくものだ。

 もっとも大事なことは、この会に学童が参加して加わってくれることだ。今回は、世田谷区教育委員会の助力もあって、子どもたちを参加させることができた。

  代沢小、山崎小の児童学童十数名が呼びかけに応じて、戦争中の寮歌を歌ってくれることになった。予定されているのは「代沢浅間學園の歌」、「聖が丘学寮の歌」、「真正寺学寮歌」それに童謡数曲だ。

 音楽を通して平和を考える会を開催する。

戦後71周年記念

  薄れゆく戦争の記憶を残すために

子どもが歌う、戦争と平和


第9回 戦争経験を聴く会・語る会
戦争秘話を証言と歌と演奏とで伝える試み
戦争と音楽−−戦火を潜り抜けた児童楽団(代沢小ミドリ楽団)


第一部 ミドリ楽団の歴史と学童による「寮歌」披露
第二部 ミドリ楽団の記憶をたどる、証言者の話
      ミドリ楽団の音源を聴く、ミドリ楽団のその後


日時 2016年5月21日13時30分より(開場13時)
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 世田谷区教育委員会
協力 世田谷ワイズメンズクラブ リベラル日本研究会
会場 下北沢「東京都民教会」 世田谷区代田5-35-2 
京王井の頭線 下北沢駅 西口から徒歩4分
入場 無料
定員 70名、先着順受け付け。開場13:00 開会13:30
問合わせ先 きむらけん &Fax03-3718-6498
      星野弥生  &Fax03-3427-8447

(写真は、代沢小器楽バンド、昭和十五年のものだ。片山淳子さん提供)


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2016年05月13日

下北沢X物語(3035)〜推敲、推敲、「ミドリ楽団物語」〜

CCI20160513_0000(一)いつもそうだ、小河小説を書いていると、しまいには大河小説になってしまう。コンパクトにすべきなのにそれができない。本は売れない時代だ、読みやすさが尊ばれる、本は分厚いが活字数は少ないというのが時代の流れである。傾向としては余白も多い。一行が「はい」と主人公の返事だけで終わっているという場合も珍しくはない。が、ここは「もったいない」、行が空いているとつい、空白を埋めてしいまいたくなる。

 連休開けに脱稿するはずだった。が、登場人物の調整がつかずにもう一週遅らせてもらった。人物の全体の配置表、それに各人の癖などをあらかじめ作ってから創作にかかる、普通はそうかもしれない。が、構想表なしにやっているから完成したときに問題が生じてくる。

 「ミドリ楽団」が活躍した時代は長い。これを物語として書く場合は、時代を区切って書かないと物語としてまとめるのは困難だ。そこで疎開に行く昭和19年8月を冒頭とし、最後を昭和23年11月とした。五年間にまたがる物語だ。

 書いて行くうちに段々困ってきた。人材が払底してくるのだ。学校現場の変化を余り考えないでどんどん書き進めていた。ところが学校は、一年経つと卒業をしていく。大体上級生が重要な役割をする。

 指揮者は一つのポイントだ。「ミドリ楽団」のタクトの握り手は女の子である。後ろ姿がすらりとしていて見栄えのする者が宛てられている。これも入れ替わっていくから早い段階、これに目をつけていて、何かを言わせたり、また体の特徴を書いて置いたりせねばならない、重要な伏線だ。

 書き始めるとき大太鼓の存在はさほど気にしていなかった。ところが仕上げ近くになってこれが重要な楽器だと気づいてきた。それで書き直して、冒頭場面はこれをOBたちが新宿に届けるというところから始めた。戦争末期、サイパン陥落のすぐ後だ、夜闇に紛れれて新宿駅まで持って行くことは困難だった。憲兵による誰何を恐れた。しかし、物語としては面白い、これが果たしてちゃんと着くのか。

 他の楽器も順次、その楽器に習熟した子が三月末には去って行く。低学年から高学年へ子どもは成長していく。そこが面白さでもある。

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