2021年03月08日

下北沢X物語(4200)―和暦西暦混在混乱日本―

P1020030
(一)宮沢賢治の汽車論をまとめている。資料を当たっていて改めて彼の凄さを思う。賢治の年号表示は徹底している。全部西暦である。『兄妹像手帳』の冒頭は「西暦一千九百三十一年秋のこのすさまじき風景を恐らく私は忘れることができないだろう」と記す。いわゆる東北冷害だ、歴史記録では「昭和農業恐慌」と書かれる。こうなると換算が必要だ、1931年は昭和何年か?と。自身は昭和生まれだ、物差しはすべて昭和だった。昭和が終わって平成になったときには驚嘆した覚えがある。今は、また年号が変わって令和になった。年号が未だに混乱している。そんな中、西暦で統一さえた賢治作品に出会うと感動してしまう。換算の必要がないからだ。……月一回市民サービス施設で機器を使う。書類記入では一枚には令和と書いてある、もう一枚には何も書いていない。とまどうばかりだ。

(二)
 ネットを見るとこれの表記で多くが困っているようだ。「履歴書には西暦・和暦どちらで書くのが正しい?」と、その返答は、「西暦・和暦どちらで記入しても構いませんが、必ずどちらかに統一して使用してください」とある。

我々日本人、「どっちでもいい」ということに馴れていない。このこと一つで忖度が働く。
「どっちを書けばいいんだ?そういえば面接で『日本を愛していますか?』と聞かれたな。経営陣は日本民族を大事にしているのかな、じゃあここは和暦を尊重して令和としよう」
 こんなこと分かる訳はないが、そんな逡巡もあるのではないか。

 自身昭和を生きてきた。だから昭和をものさしとしている。戦中のことをテーマとしたノンフィクションを五冊書いてきた。これには確固とした基準がある。

帝国陸海軍は、本八日日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

 これは昭和16年12月だ。

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。

 チンで始まる玉音放送は、これは忘れもしない。昭和20年8月15日だ。

「あれは1944年8月12日の夜のことでした。下北沢の南口の坂をリュックを背負って上っていきました……」
 こう言われるとイメージが浮かんでこない。昭和十九年と言われると、即イメージが湧いてくる。疎開学童約五百名の悲しい靴音が響いてくる。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年03月06日

下北沢X物語(4199)―三軒茶屋の分去れと歴史5―

P1020401
(一)三軒茶屋は街道の要衝でもあったがかつては鉄道の結節点であった。玉電だ、渋谷からこれで下る場合、左窓の景色、「砲兵が砲車を曳いて疾走している壮快な光景は、此の玉川電車沿線に於ける一偉観と云ってよい」(『日かへりの旅』)に惹きつけられた。駒沢練兵場の様子だ。ここを過ぎて分岐点に、「三軒茶屋は玉川電車線路上に於ける重要な一つの点」(同著、大正八年)であった。Y字分岐点があった。電車は二連接、ここに入ってくると交差点中心のカーブで抜ける。くねりと車体を曲げて「ハラを見せて通る」、電車の檜舞台である。「父ちゃん、電車がへの字で曲がっていくよ!」と子供は喜んだ。が、玉電はとうに消え失せてしまった。わずかに世田谷線が面影を残している。

(二)電車は渋谷から三軒茶屋まで来る。ここまでは街であった。

 電車が一度三軒茶屋を通過すれば、沿道の光景は俄然として一変して来る。ごたごたした賑かな然し何処か締まりのないような新開の街路から、一足飛びに古い武蔵野へと突入したような形である。電車はこの野の特色である竹藪に沿うて走る。大きな欅並木が次から次へとやって来る。凡そ道路のあるところ、家のあるところ、小川のあるところ、あの欅の並木ならざるはない。やがて又丘から谷、谷から丘へと続いた広野が展開してくる。それが耕地であったり雑木林であったり、時に又、丈よりも高い蓬の腹であったりする。南瓜だの西瓜だのを土間一ぱいに積み上げた、田舎田舎した八百屋などがある……
 日がへりの旅 松川二郎 東文堂 大正八年十一月刊


 三茶を過ぎると風景は激変大武蔵野に突入した。今から百年前の原風景だ。「絵詞三軒茶屋百景」戦前編(山本隆俊)は、これに近い時代だ。

25、工 場の白っぽいほこりは綿の打ち直し。烏山川の堰下では白生地の友禅流し。大きな煙突の煙は池尻の山本オブラート。上馬の岡本鉄工所の溶接光が青い。
  『石橋楼覚書』 発行人 石橋隆俊 発行所 三軒茶屋石橋楼 2006年刊

綿打ちは見かけない。固まった綿を叩いていくとみるみる膨れ上がった。友禅流しも懐かしい。烏山川は今はすっかり暗渠化してしまった。この川で友禅流しをしていたというのも記録で知るしかない。
 お菓子をつつむオブラート、懐かしいものだ。「山元オブラート」は、敷地は今はマンションとなってしまったが会社は今もここで営業していると。

27 車 円タク。子供は後ろ向きに折畳み補助椅子。床に漂うガソリンに酔う頃、大きなキューピーのネオンサインが近づく。三軒茶屋石橋玩具店の名物看板。(同著)

 渋谷から円タクに乗る。乗ったとたんガソリンが匂う。この匂いも懐かしい。子供の頃バスが走るとその後を追っかけて匂いを嗅いだことがあった。犬がケツの臭いをかぎまわるが、バスの匂い追いも少年の性愛行動だったのか?

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年03月05日

下北沢X物語(4198)―三軒茶屋の分去れと歴史4―

P1020420
(一)三軒茶屋を通っている国道246、大山厚木街道は道が広い。もともとは旧道大山道である。これを拡幅して現在の幅になった。海野十三は若林に住んでいた『海野十三敗戦日記』には戦時中の、一帯の町の様子が記述されている。昭和20年4月9日の記録にこうある。 ◯建物疎開で、町の変貌甚し。三軒茶屋より渋谷に至る両側に五十メートル幅で道を拡げるというが、それを今盛んにやっていて、大黒柱に綱をつけ、隣組で引張って倒している。そして燃料がたくさん出来、手伝いに来た人達に与えている」。3月10に東京大空襲があったこの経験を元に防火帯を作ることが迫られた。それで建物疎開が始まった。三軒茶屋『石橋楼』もこれにひっかかって取り壊された。廃材は各家庭で使う薪として供された。「欅の大黒柱を飯のたき付けに使うんだからな、時代も変わったよ」と一人の弁。

(二)
「絵詞三軒茶屋百景」戦前編(山本隆俊)の続きだ。

19 武 器が黒光りして綺麗に並ぶ兵隊屋敷の床。桜が満開の営門。今日だけは白い歯の見える衛兵所。聯隊祭の汁粉にとび入り相撲。一般人がお客の地域連帯。

 三軒茶屋の近辺には兵隊屋敷がずらり、野砲兵聯隊だ。普段は中に入ることはできない。が、年に一度「聯隊祭」が開催された。戦争前のことだ。この日ばかりは隊内を見学できた。木造の隊舎内に入ると油が匂った。木造の床にはぴかぴかに磨かれた銃がずらりと並んでいた。
「部品のネジ一箇なくしたら大変なんだって、ビンタを食らうだけではすまない。営倉入りするって話を聞いたな」と見学者の一人。

 楽しみは兵員がふるまってくれるお汁粉だ。大釜にぐつぐつ汁粉が煮えていてそこに餅が泳いでいる。その白い餅をおたまで掬ってアルミの食器に分けてくれた。

21、食べながら歩くのは乞食。ラーメン屋は無く流しの屋台のチャルメラが星空に消える。表通りで白い湯気を立てているのはニコニコ饅頭の大きな重ねセイロ。

 
 今はラーメン店は流行だ、どの町にもある。しかし、ラーメンを食わせる店はなかった。が、夜になると屋台を引いたおじさんがやってくる。
「チャラチャ〜ラチャ、チャラチャラチャ」
 この音を聞くと急にお腹が空いてくる。外に出るとぽつんと提灯を点した親父さんの影が月夜に浮かんでいた。
 大通りにでると一軒の店から白い蒸気が噴き出ている。何段も何段も重ねたセイロだ。「饅頭三つ」と注文。セイロの蓋をあけると白い蒸気で売り子の姿も見えなくなる。兵隊さんが立ったまま饅頭口に詰め込んでいる。このニコニコ饅頭、三茶のどこで売っていたのだろう。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年03月03日

下北沢X物語(4197)―三軒茶屋の分去れと歴史3―

P1020416
(一)他者が見た三軒茶屋町観である。正岡容は『東京万華鏡』の中で三軒茶屋の辺りでの生活の印象は「大武蔵野から『現代』へ直結してしまつた感じ」だと述べる。つまりは田舎町で伝統文化が希薄だと。世田谷地域そのものが農を基盤とした地域だった。大正一四年にできた「茶寮イシバシ」は洋風の店、「二階は座敷で洋食のフルコース」が食べられた。が、「保守的な地域に新しい文化は簡単には受け入れられず」(『石橋楼覚書』山本隆俊談)と記す。世田谷の農村代表都市が三軒茶屋であった。ここに近代が攻め寄せる。高圧鉄塔もその一つだ、これに地元農民は反対をした。が、近代は確実に押し寄せる。明治三十一、二年にかけての軍隊の都心部からの移転、明治四十年には玉川電車が開通する。近代化の荒波がこの町を襲ってくる。

(二)
 「絵詞三軒茶屋百景」戦前編(山本隆俊)の続きだ。

12、音 色が物悲しい聯隊の就寝ラッパ。「トコトッテションベンシテネ−」朝は「オキロヨオキロ ミナオキロオキナイトハンチョウサンニシカラレル」ラッパ手はエリート。

 朝と夜に聯隊兵舎からラッパの音が聞こえてくる。各隊によって微妙に音色が違う。付近住民は聞くともなく聞いて、時間をこれによって知った。
 昭和十九年夏、一帯の国民学校は長野に疎開する。疎開先で起床ラッパを鳴らそうと志願して聯隊にラッパの吹き方を習った学童もいた。
「朝、ラッパを吹くと疎開先の宿屋でお握りがもらえたのですよ。あの味は今でもわすれません」
 こう証言している人がいた。

13、霧 の夜は静かだ。渋谷を通る蒸気機関車がレールの継ぎ目を渡る音と品川沖の舟の霧笛と重なって、黄色い街灯のにじむ彼方からインバネスの男が現れた。

 記録している音が興味深い。山の手線には貨物線が沿っていた。ここを蒸気機関車が通って行った。雲が垂れ込めた日、この遠汽笛が三軒茶屋でもよく聞こえた。続けて貨車がジョイントを踏む音も。そして東京湾に停泊する汽船の霧笛。この音、北の阿佐谷、高円寺まで聞こえていたという。
 これを書いた山本隆俊氏は経歴に映像作家と記している。絵詞というのはカメラで捉えた映像だ。次の場面はまさにそうである。

 遠汽笛や霧笛が響く夜、街灯の点るがらんとした大山厚木街道をトンビコートをまとった男が歩いて行く。雪駄の音をたてながら……
続きを読む

rail777 at 18:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年03月02日

下北沢X物語(4196)―三軒茶屋の分去れと歴史2―

P1020410
(一)三軒茶屋は分去れと言った、が、元は一本道で世田谷通りが本道だった。この道津久井道と言う。橋本や津久井方面の物資を江戸に運んだ、それて西部の方ではこの道を江戸道と呼んでいた。三軒茶屋で別れて西南方向の中里に向かう道、これは江戸時代中期に新しく開かれたものだ。いわゆる新道だ。旧道、すなわち世田谷通りはフラットだ。尾根道を通るからである。一方の新道は三軒茶屋を出ると下りとなる。蛇崩川の窪みを通過するからだ。これを渡るとまた上りとなる。北原白秋は「観兵式の予行演習に朝出でて夜は寝に還る軍馬の群れらし」と詠んだ、若林在住時の作品だ、こちらは世田谷通だ。沢を通るよりも尾根筋道が軍馬には楽だ。軍馬だけではない汚穢車が白秋宅前をパカパカと音を立てて通った。やはりこちら江戸道の方が走り安いからだろう。

(二)
三軒茶屋には独特の雰囲気がある。三軒茶屋に隣接した町は太子堂だ。林芙美子はここに一時住んでいた。「屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった」と『放浪記』に記す。屍室は陸軍病院、その裏手の墓地、これは円泉寺である。この北側に広がる太子堂には淫売宿やカフェーがあってごみごみしていた。居住していたのは大正十四年、大正十二年に関東大震災があった。これを境にしてこの一帯被災民が数多く東から越してきた。次々に家が建った、建て増しに建て増しを重ねて町並みが形成された。今もその面影がこの町には残っている。ゆえに三軒茶屋一帯に下町的な雰囲気がある。

 山本隆俊が書き残している「絵画三軒茶屋絵詞」だ。戦前編の続きだ。

8、石 は子供の掌でキラリと光った。黒曜石の鏃、南傾斜面を好んだ先史人は明治薬専の丘も狩場に、蛇崩川の水底に石斧の残欠を見た日々、小考古学者の夢。
『石橋楼覚書』 発行人 石橋隆俊 発行所 三軒茶屋石橋楼 2006年刊


 筆者の生没年だ、山本隆俊, 1927-2005とある。昭和二年生まれだ。小学校は中里小へ行った。この学校のそばに蛇崩川が流れている。左岸には中里小、右岸の崖線には明治薬専、明治薬科大学があった。その跡地は今はUR都市機構のマンション「アクティ三軒茶屋」となっている。中庭に「明薬遺跡」の案内版がある。かつては明薬遺跡と呼んでいたが今は、「鶴ヶ窪遺跡」と呼称されている。旧石器時代・縄文時代(中期〜後期)の遺跡である。戦前は一帯の丘あるいは川で鏃とか土器片がふんだんに拾えたのだろう。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月28日

下北沢X物語(4195)―会報第176号:北沢川文化遺産保存の会―

CCI20210228
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第176号    
           2021年3月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、ダイダラボッチ広場の開場を祝す(3月28日)
                                きむらけん
 
 コロナ禍で延期になっていたが世田谷代田駅前広場が3月28日に開場する。式については当初、公開して大々的にお披露目をする予定であった。しかしコロナ感染症が続いていることから関係者のみで簡単にこれを行うことになった。セレモニー終了後は広場は開放され誰もが自由に入れるだろう。
 世田谷代田はとても歴史が古い。その一つの証左がダイダラボッチだ。地名の代田は、これから来ているというのが今では一般的な認識である。
 ダイダラボッチは興味深い、この伝説について取り上げたのは2004年10月1日である。もう17年にも経った。以来、ダイダラボッチをコースに加えた街歩きは何度も行ってきた。巨人伝説を中心テーマとした劇も会員の協力で開催した。当会紀要第5号(2017年3月31日)では、『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』(きむらけん著)をまとめた。また「下北沢文士町文化地図」(2019年12月17日)改訂8版では、「代田のダイダラボッチ」〜柳田国男の探訪と発見〜を特集で取り上げた。
 世田谷代田駅前開業に当たって、駅前広場開場記念事業実行委員会が結成された。当会も加わって活動に参画した。記念事業の一つとして「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」を作成したが当会のきむらけんがこれを執筆した。今、印刷に入っている。開場に間に合えば、そのときに配布することにしている。体裁はB5版で60ページである。

 「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」というのはダイダラボッチ論の嚆矢ともなった『ダイダラ坊の足跡』の冒頭だ。荏原ダイダラボッチ伝説考の核心である。つまり、東京市の一角にある荏原にはこの伝説が明確な地域が三カ所存在してる。私はそこに実際に行って巨人足跡痕を確かめることができた。このことからこの大都会の東京も巨人伝説の一つの中心地だと言える。民族学の第一人者の柳田国男は真っ先に代田を訪れ、その後野沢と下馬を訪れた上で深く認識した。彼のこのアピールは発信としては大きい。荏原のダイダラボッチがこれによって全国に広まった。が、彼の踏査や発見は先行調査研究に負うものだ。それは谷川(大場)磐雄による『武蔵野の巨人民譚』である。

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』の中で「あの頃発行された武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることが書いてあった」と述べている。これこそが谷川磐雄が武蔵野会の雑誌に記した『武蔵野の巨人民譚』であった。柳田の発表は昭和二年、谷川のは大正八年である。

 柳田は代田のダイダラボッチを調べた後、谷川の記述を参考にして駒沢村の野沢と下馬にある巨人の足跡地を訪ねている。そしてこれらが確認できたことから。「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」だと述べた。

P1020306
 谷川磐雄の他にこの荏原郡内でダイダラボッチの伝説地を隈無く調べている者がいた。それは鈴木堅次郎である。大場(谷川)磐雄は「楽石随筆」の中でこの鈴木堅次郎の言葉を載せている。「荏原郡に数ヶ所ありと。二十町おき位にありと、またその地は石世期の遺跡なり」と。
 荏原郡内にはダイダラボッチ伝説を伝えているところが数ヶ所ある、その伝説地は二十町置きにある、一町は約109メートルだ。すると2180メートルとなる。
 石世期は聞き慣れない。が、石器時代のことである。当時発表されたダイダラボッチ関係の文献には多くがダイダラボッチと遺跡の関係を説いている。これは伝説の古さを証明するものである。
 鈴木堅次郎は、武蔵野会遠足記の「駒沢行」では、「比の足跡は荏原郡衾村大字衾より此處を経て世田谷村大字代田に飛んで其の間隔年里以上ある」と述べている。谷畑、野沢、代田の足跡の順番を述べているがこれがちょうど二十町、半里ほどになる。
 ただ最近分かってきたことはダイダラボッチ伝説地はもっと多くあったことである。荏原の西隣は橘樹郡だ。記録ではその跡はここも数多くあった。が、その地では今にほとんど伝わっていない。荏原でも他にもあったと想定できる。

 柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』に書かれた足跡地も消える運命にあったと言える。野沢や下馬ではやはり今に伝わっていない。
 今度、世田谷代田駅前に「ダイダラボッチの足跡」が具体物としてできあがる。私は、「巨人伝説読本 ダイダラボッチの足跡」で、これを機会にしてこの事象、事跡を後代に伝承として伝えていくことが大事だと述べた。
 読本というのは教科書という意味がある。小学校高学年向けに書いたものだ。子どもたちが地元に残る伝説を知って、そしてこれを後に伝えてほしいということで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』としたことである。

2、水着
                      エッセイスト     葦田 華


 大庭さち子先生のお宅の、先生がお作りになった快適な書斎に下宿していた1963年、妹の美智子が、体育の授業で着る水着に穴があいてしまった、と言った。お尻の辺りが擦り切れて、穴のある水着を持って来て私に見せた。私は心底困ってしまった。新しい水着を買ってやれるほどのお金が 無かったからだ。
 妹の都立高校の紺色の水着には、胸に校章の白いマークがついていて、安い代替え品では間に合わなかった。妹が心配そうに、「お姉ちゃん、お金ある?」と私の顔色を見た。
私は「うん、大丈夫!なんとかするわ!」と言って、水着の値段を聞いてガックリした。
ガックリした金額がいくらだったのか忘れたが、とにかく私たち親無しっ子には高価な代物であった。
 私は、高校に入学したお祝いに、父が選んで買ってくれた、珍しい形をした腕時計を持っていた。その 腕時計はひらべったい六角形で、長四角に近かった。それと、母の妹の澄子叔母が、「これねえ、私が女学校に入ったお祝いにお父さんが買ってくれたものだけれどね、縁起がいいから入学祝いとして華にあげるわ。」と言って、紫色のビロードの小箱をくれた。小箱を開けて見ると、なんと!真珠の指輪だった。二粒のピンクがかった美しい本真珠が、互い違いになっているデザインで、交差するプラチナの台の上に嵌めてある、それは素敵な指輪であった。小箱の上蓋には服部時計店とかすかに読めた。
 真珠なんて、ピアノの先生が左指にはめていた指輪を見たことがあるだけだった。なぜ覚えているかというと、その頃私は右手でしかピアノを弾けなかったから、左手で先生が伴奏してくださっていたからだった。入学祝いの真珠を見て、私は有頂天になって喜んだ。
その真珠の指輪と珍しい形の腕時計を持って、私は質屋に行った。
 「あのお、この二つでいくら貸して頂けますか?」と聞くと、優しい感じのおじさんが、「時計は7百円、指輪は2千円だね。」と言った。私はありがたい!と思った。合わせて2千7百円。なんとか間に合うな?と思った。いや、水着のお金を差し引いてもお金が余る。
米櫃の底が尽きかけていたのを思い出し、お米とコロッケを4個買って帰宅した。
 妹の美智子は大喜びで「ごめんね、お姉ちゃん、お給料が入ったらきっと返すからね!」と言った。その後なんとか工面して、指輪も時計も手元に戻った。
 それから73年後、優しい澄子叔母が亡くなった。そのお葬式には、あの時、私と妹を助けてくれた二粒の真珠の指輪をはめて行った。老衰で亡くなった叔母は、白い小さな蝋人形のようにかわいい顔をしていた。
 腕時計は22歳の時、交通事故に遭って大破してしまった。病院の枕もとに届けられた壊れた腕時計を、私は綺麗なハンカチに包み、退院後自分の机の引き出しの奥にしまっておいた。これは、両親の離婚によって、父に会うことを母に厳禁されていた、私にとって唯一の、父の愛情の形見であった。
 然るにだ。結婚した最初の大みそかに、夫が私の机を勝手に開けて、大切な時計をゴミとして捨ててしまったのである。
 後日、時計が無いことに気づいた私は、夫が捨ててしまったことを聞き、泣いて抗議したが、夫のその言い草がふるっていた。壊れていたからゴミだと思った。また買えばいいじゃないか。机を勝手に開けたのは、君がお節料理を作っていて、忙しそうだったからだ、うんぬん。「また買えばいいじゃないか」、という返事に私は逆上した。どうやってあの日に還れるというのだ!
 とうとう夫は、ひとことも私に謝らなかった。いまや私には父の形見は何も無い。
 叔母の指輪を手にとって、…あの時は叔母ちゃん、ありがとう…、と、呟くと、決まって妹の水着が目に浮かんでくる。
 そして、妹の美智子が幸せな結婚をしてクリスチャン・ホームを築き、三女に恵まれ、孫までいることに、神様のご計画の恵みを実感するのである。(2020、12、27)

3、プチ町歩きの案内

 〇街歩きの変更について
  当初、緊急事態が解除されるという見通しから3月は実施することを予定したいた。しかし、更に緊急事態が二週間延長されることになった。それで当方としては再度一ヶ月順延することにした。了解されたい。


 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

◎緊急事態が解除されそうなので案内をする。計画変更の場合は個別に連絡する。


第164回4月17日(土)  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館


第165回5月15日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲コロナ禍がなかなか収まりません。文化は人同士がふれ合って情報を交換できたり、情報を深めたりできます。日常の活動がコロナ禍によってほとんどできません。今唯一の活動がこの会報の発行です。皆さん、日々の思いがきっとあると思います。一言や二言でも構いません。私にメールで下さい。そういうものも会報に載せたいと思います。どうぞ。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月27日

下北沢X物語(4194)―三軒茶屋の分去れと歴史―

fbce7e98
(一)三軒茶屋はよく行きよく通る、馴染みの町だ。が、旧軍関係では野砲兵関係、文化人では山田風太郎、永井叔を探査しただけだ。あまりスポットを当てることはしていない。しかし、この町には古い歴史がある。やはり重要なのはここが分去れ、大山道と登戸道の分岐点であったことだ。古い昔から人や物資が行き交った。今は車や電車で通過するがかつては車馬であったり、歩行であったりした。分去れは街道の結節点だ、ここへ来ると茶屋によって休む、地名は三軒の茶屋があったことからついた。それは信楽、角屋、田中屋である。信楽は山本家が買い取り石橋楼となった。この歴史が「石橋楼覚書」に書き記されている。冒頭の見出しでは、「石橋楼の歴史は崩壊の歴史である」と石橋楼四世山本隆俊は書いている。明治大正昭和と続いたこの楼も激動する時代の波にもまれもまれて潰え去る。三軒茶屋という交通の要衝にあったゆえの運命だとも言える、最後は戦争末期の建物疎開で石橋楼は壊されて歴史を閉じた。

(二)
 「石橋楼覚書」の末尾で山本隆俊は、「ゆく川の流れは絶えざるのたとえに似て、大山道は今も滔々と流れ続けている」と書いている。石橋楼は潰え去ったが時代の流れは止まることなく大山道には今もなお人々と車とが行き交っている。この地に激動の時代があったことは多くの人が忘れている。

 三軒茶屋のすぐそばには野砲兵兵営群があった。我らは十数回も街歩きを行った。いつも上田暁さんは、三軒茶屋で東征する官軍がここで宿陣を張ったと説明する。
「慶應四年、明治元年二月、東征してきた官軍がここに宿陣を張りました。当地には尾州藩が布陣したのです。そうこうしている間に、官軍参謀・西郷隆盛と勝海舟が談合して、この四月、江戸城の無血開城がなったのですね」
 この報を聞いて三軒茶屋に布陣する官軍は、一斉に鬨の声を挙げたろう。近代の夜明けである。激動の時代に石橋楼は揉まれた。それを山本隆俊はこう描く。

 それは幕末から明治への狭間にあって市井に生きようとした一人の地方武士に端を発し、ついで明治から大正の末にかけて街道大山筋に消えていった江戸町場文化の名残へと続き、やがては大正・昭和の軍国化の波間に沈まざるを得なかった。第三次産業の早すぎた夢によってその巻を閉じる。
『石橋楼覚書』 発行人 石橋隆俊 発行所 三軒茶屋石橋楼 2006年刊


 一人の地方武士というのは、「信州伊那谷を後に有栖川宮東征軍に従って江戸に入府した一人の若い山吹藩士」だ、これが松嶋織介源俊章である。この彼を石橋楼を一人できりもりしていた大女将矢部ふじは、松嶋を若林在の娘根岸セイを娶せ石橋楼と継がせた。

 明治政府になって富国強兵が推進され、三軒茶屋一帯に軍事施設が数多く進出してきた。石橋楼の大お得意様だ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月25日

下北沢X物語(4193)―荏原ダイダラボッチ伝説考2―

P1020383
(一)「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」というのはダイダラボッチ論の嚆矢ともなった『ダイダラ坊の足跡』の冒頭だ。荏原ダイダラボッチ伝説考の核心である。つまり、東京市の一角にある荏原にはダイダラボッチ伝説が明確な地域が三カ所存在してる。私はそこに実際に行って巨人足跡痕を確かめることができた。このことからこの大都会の東京も巨人伝説の一つの中心地だと言える。民族学の第一人者の柳田国男のこのアピールは発信としては大きい。荏原のダイダラボッチがこれによって全国に広まった。が、彼の踏査や発見は先行調査研究に負うものだ。それは谷川(大場)磐雄による『武蔵野の巨人民譚』である。柳田の発表は昭和二年、谷川のは大正八年だ。この間に八年間ある。この時期は大きい、荏原地域に鉄道が敷設されたからだ。池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄、小田原急行電鉄である。都市開発が一気に進み、ダイダラボッチの足跡地、及び伝説が荏原都市の近代化によって消滅の憂き目に遭った。

(二)
 大正末から昭和に掛けて荏原には鉄道が敷設された。これによって一気に開発が進んだ。一帯は、いわゆる武蔵野だ、大正14年に世田谷の代沢尋常小学校に赴任してきた坂口安吾は一帯の様相をこう述べる。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。」と。

 こういう土地が鉄道敷設によって一気に変わっていく。軌道を敷くために山や丘が崩された。荏原一帯は遺跡だらけだ。鉄道敷設工事だけではない、鉄道ができると町並みが形成される。どこもここも掘り返される。この頃、荏原郡を渉猟して歩いていた考古学に興味のある者は超忙しかった。
「どこどこの鉄道の切り通し工事で遺跡がゴロゴロ出たそうだ。土工たちが引きあげた後に行くトロッコの線路にそって土器が一杯落ちている!」
 それ大変だ、ということでファンは駆けつけたらしい。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月24日

下北沢X物語(4192)―荏原ダイダラボッチ伝説考―

P1020376
(一)コロナ禍の中で時間はメリハリなく過ぎて行く。「一期は夢よ」という言葉があった。時は一瞬にして過ぎて行く。ついこの間西嶺町で会った人に「ここら辺縄文遺跡はどこにいってもゴロゴロあるんですよ、何しろ一万年もあったのですからね」、「えっ、そんなあったんですか、初めて知りました、恐ろしいですね!」、「すぐそこの沼辺には縄文時代の貝塚があったのですよ」、「私、沼辺には一時住んでいましたけど知りませんでした」、縄文時代の一万年というのは驚く。際だった変化もなくゆるりと時代が過ぎていたように思える。が、機械近代の始まりは明治5年(1872)として、これから150年が経とうとしている。この間の変化は凄まじいものであった。激動、どころか目が眩むほどの激変である。

(二)
考古学者の大場磐雄は江見水蔭に大きな影響を受けたという、江見は考古学的な探検に興味を持っていて「地底探検記」や「考古小説 三千年前」を書いている。これに深い感銘を受けた。それで考古学の道に入るきっかけとなったという。

 私が江見水蔭を知ったのは『蛇窪の踏切』という作品がきっかけだった。まず驚いたのは明治四十年六月発表のこの作品の冒頭だ。これが洗足小池から始まっていたのである。しかし分かってみると何のことはない。

 江見水蔭は品川に住んでいた。彼が品川に住み始めたのは明治33年(1900)のことだという。遺跡好きの彼は荏原一帯の山野をさるき回っていたようだ。品川からは稲毛道という古道があった。彼はこれを通って一帯の遺跡を調べていたようだ。洗足小池付近には馬込貝塚があった。

 『考古小説 三千年前』は大正6年2月に発行されている。明治が終わって大正時代になった。日本の近代化は一層に進んでいた。これによって開発が加速していた。彼は、この小説の中で、「参謀本部の地図を見ても分る。加瀬の独立丘(標高三十二米突)の東南端に別箇の小丘が標記してある、それが殆ど全部消えて失く成って居る」と記録している。開発によって「貝塚が掘尽されたばかりでなく、其貝塚を有した山全部が無く成って了う世の中だ」と言っている。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月22日

下北沢X物語(4191)―ダイダラボッチと東工大―

P1020345
(一)東工大のある大岡山は常々渉猟している、ダイダラボッチ伝説地が回りにあるからだ。摺鉢山、狢窪、洗足池だ。が、東工大構内を通るとき一人ほくそ笑む。ダイダラボッチの左足が摺鉢山、右足が狢窪だ、そういうスタンスで彼が小便をした、そしてできたのが洗足池と言われている。が、この位置ででっかい棹を出して放水すると東工大に掛かる。そうなればきっとヤバいことになったと思う。理学関係実験に使う機機が小便にまみれてみんなストップして「ダイダラボッチ、ダラボッチ、ダイダラボッチ、ダラボッチ、東工にションベン垂らすなよ」と学生や教官から苦情が出るかもしれない。ただ東工は新しい、大正13年4月に蔵前から大岡山に引っ越してきている。ダイダラボッチが小便をしたのは五六千年、いや一万年も前のことだ。ションベンをしても狸が驚くだけだった。

(二)
谷川磐雄は東工大が大岡山に移転してきた翌年大正十四年三月二十二日、「荏原郡行」としてこの辺りを歩いている。まず洗足池だ。

 (洗足)池畔に出ず。ここに望水館、宏陵館などという下宿屋出来たり。少しすすめば大岡山の停留所に出ず。付近に小料理、カフェー等多数出来たるは一層の驚きなりき。清水窪の遺跡は今高等工業の敷地となりて殆ど湮滅せんとす。試みにゆきて見るに、なお家屋を建てんとして土を敷ける箇所あり。そこにて厚手式土器破片数十、打石斧数個、石鏃片一個を得、僥倖をよろこびつつ辞し、万丈の遺跡を左に見つつ円融寺に入る。
 大場磐雄著作集 第六巻 雄山閣 一九七五年刊


 東工が当地に越してきて一帯が一層に開けた。まず、洗足池だ、風光明媚なここには都会人は別荘を建てた。が、近くに東工が蔵前から移転してきたことで下宿屋ができた。その名が「望水館」だという。この命名などは故国の親を惹きつける、「ごみごみした都会だが、池に面していて勉強も捗るだろう」と思わせたか。

 洗足池から大岡山はすぐだ。今は目黒線、大井町線が通る。最初は目蒲線と言った。これは大正十二年震災前に開通した。震災を契機に東から人々が多く移転してきた。東工ができることで一層ににぎやかになった。小料理屋やカフェができた。学生や教官向けだろう。しかし、まだ造成中だった、そんなところを覗くと掘り出しものがゴロゴロ、一帯は遺跡の宝庫だった。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月21日

下北沢X物語(4190)―ダイダラボッチと電車―

P1020375
(一)昨日、大田区西嶺町の梅林で会った人と散歩談義をした。「歩くと脳が刺激される!」と語った。一昨日のことだ、巨人の右足跡の大岡山摺鉢山から、左足跡の千束狢窪へ向かった、大井町線の跨線橋を通ると保育園児が群れていた。「電車を見に来たんだね!」、「そうそう皆電車大好きなんです」と保育士さん、跨線橋は園児の電車観望台だ、「ほら、来たよ」というと手すりに捕まる、通り掛かった電車が警笛を鳴らす。「運転士さん皆鳴らしてくれるんですよ。きっとねお父さんなんですね」と保育士さん。「なるほど!」。園児たちが電車を見に来ていると知って警笛のサービスをしてくれる。ふと浮かんだのは柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』の一節だ、「彼らはたくさんの歴史を持たぬ」という。園児たちも同じだ、ほとんど歴史を持たない、人生の最初に出会った電車は巨人みたいなものかもしれぬ。

(二)
「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」は、今週からやっと印刷に入った。昨年暮れから取り掛かったものだ。まとめるのに苦しんだ。一番の謎は、どうしてこれが大事にされてきたかである。柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』は冊子をまとめるのに役だった。

 彼の論考の締めくくりに出てくる、「彼らはたくさんの歴史を持たぬ、そうして昨日の向こう岸を、茫洋たる昔々の世界に繋ぎ」と述べている。彼らとは古代人のことだ。言ってみれば生まれて間もない園児たちと同じだ。世界が把握されていない。そんなときに出会った電車は、彼らには巨人である。柳田は続ける。

 伝説は昔話を信じたいと思う人々の、特殊なる注意の産物であった。すなわち岩や草原に残る足形のごときものを根拠としなければ、これをわが村ばかりの歴史のために、保留することができなかったゆえに、ことにそういう現象を大事にしたのである。
一目小僧その他 所収 『ダイダラ坊の足跡』 角川ソフィア文庫 二〇一四年刊

 
 人間がどう生きるかという問題は常にある。が、古代人にとって時間は茫洋としてあるのみだ。やはり生きて行く手がかりが必要だ。自分たちの物差しである。その場合、「岩や草原に残る足形」は大きな根拠となった。生まれていくらも経たない園児たちが電車に出会って憧れたのと同じだ。自分たちの身近にあった巨人の足跡を大切した。大男の痕跡は国のできはじめを想起させる。それがダイダラボッチである。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月19日

下北沢X物語(4189)―谷川磐雄とダイダラボッチ―

P1020365
(一)来月末に世田谷代田駅前にダイダラボッチの足跡をかたどった広場が完成する。代田のダイダラボッチは柳田国男が『ダイダラ坊の足跡』で取り上げたことで全国的に有名になった。ダイダラボッチ広場が発案されたのも彼の影響が大きい。興味深い点はダイダラボッチ伝説が伝わって行った筋道である。柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』でこう書いていた。武蔵野会の雑誌で代田の隣りの駒沢村に二つのダイダラボッチが書いてあったことを知ってこれに興味を深めたと言っている。これを紹介していたのは考古学者の谷川磐雄に他ならない。この谷川自身は考古学に深い興味を持ったのは江見水蔭の影響が大きかったからだという。確かに江見の考古小説『三千年前』は荏原郡と橘樹郡の遺跡めぐりの面白さが書いてある……江見水蔭、谷川磐雄、柳田国男、伝説リレーである。


(二)谷川磐雄は『武蔵の巨人民譚』(大正八年十二月に発行雑誌「武蔵野」)を発表した。これによってダイダラボッチ伝説が広まった。
 彼は考古学の道に入ったのはどうしてか、経緯についてはこう記している。

 大正五年(中学校三年)のある日、地理担任の先生から、初めて貝塚や石器時代のことを聞いて感激し、偶々江見水蔭の『地中の秘密』や『地底探検記』を読んで、一層燃え上がり、遂に自ら石器の採集に出かけ、考古学の初歩に足を踏み入れた。
 大場磐雄著作集 第六巻 雄山閣 一九七五年刊


さらに鳥居龍蔵や折口信などの影響を受け、考古学と伝説にも興味を持ち、「巨人伝説については各種の雑誌や図書を渉猟して全国的な分布を調査した」(同著)と言う。

 谷川磐雄の考古学日記とも言える「楽石随筆巻一」の冒頭には、全国の「巨人伝説一覧」が載せられている。この中で「武蔵国」の具体例を挙げている。この中の荏原郡関係は次のように書いている。

 代田橋のこと(紫の一本)、荏原郡の足跡伝説、「駒沢村上引沢」、「会野沢」、「碑衾村谷畑」(以上鈴木氏報)、「衾スリバチ山」「狢窪」(自ラ聞ク)……中略……下末吉のダイダラボッチ(口碑)

〇代田橋 だいだらぼっちが代田橋を架けた 「紫の一本」を通して知った。
 (「紫の一本」は戸田茂睡による江戸時代前期の仮名草子)
〇荏原郡の足跡伝説
 駒沢村上引澤、会野沢、碑衾村、この三カ所については鈴木堅次郎から直接話を聞いた。
〇「衾村の摺鉢山」、「狢窪」、この二つについては自身が現地に行って聴き取った。

 橘郡関係
〇下末吉のダイダラボッチ 
 谷川は下末吉に遺跡採集に行っている。そのときに地元民からダイダラボッチ伝説を聞いたようだ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月18日

下北沢X物語(4188)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて3―

P1020355
(一)目黒区、世田谷区、大田区、品川区はかつて荏原郡と呼ばれていた。西に隣接した郡が橘樹郡である。荏原には代田を初めとしてダイダラボッチ伝説地は多い。巨人伝説は土地固有のものではない。広域的に存在する。橘樹郡も例外ではない。しかし今日まで伝わっているのはここでは菊名池の伝説だけである。橘樹郡と荏原郡の伝説比較という観点はおもしろい。代田の場合は江戸に近い。この脇には堀内道がある。池上本門寺と堀之内妙法寺とを結ぶ道だ、江戸からの参詣人が多く通ったゆえに人に知られたということはある。橘樹郡の場合も下末吉にも影向寺にもあった。が、江戸市域から遠かったことによって残らなかった。さいたま市の太田窪でも同じことを感じた。伝説の残存は江戸との距離が関係すると考える。

(二) 
 ダイダラボッチ伝説を求めて影向寺を訪れた。寺の名を「エイコウ」と読んでいたが違っていた。「ヨウゴウ」である。固有名詞ではない、普通名詞だ。神仏が仮の姿をとって現れること、神仏の来臨のことを言う。

 影向石も普通名詞だ。「遠くの神を遙拝したり、来臨する神を拝んだりする場所にある石。また、その石にまつわる伝説。拝み石。」のことを言う。この石は古くから大事にされていた。これにまつわるダイダラボッチ伝説があることから訪れた。
 その石は囲みを作ってしっかりと保存されていた。解説版もあった。
P1020356

影向石

当時のいわれとなった霊石。奈良朝に本寺創建のとき、ここに美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。「影向」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地、神仏のましますところとして、信仰されていたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえられて乾くことなく、近隣から眼を患う人々が訪れて、その功験によっていやされました。江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でてこの石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあらためたと伝えられます。

昭和51年5月吉日 重要文化財保存会


「影向石」は、三重塔の心礎石だということだ。石の真ん中に抉られた窪みがある。これはダイダラボッチがつけたものという伝説がある。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月16日

下北沢X物語(4187)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて2―

P1020361
(一)今春3月末に世田谷代田駅前広場が完成する。ここにはダイダラボッチの大きな足跡がかたどられている。お披露目に向けて冊子「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」をまとめた。「代田ダイダラボッチ」は全国的に有名だ、その功績者は柳田国男に他ならない。「長さ約百間もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先あがりに土に深く踏みつけてある」(『ダイダラ坊の足跡』)と数値を挙げて説明している。巨人の足跡を具体的にイメージさせた点は大きい。これが大きな発信力となった。全国各地には処々方々にダイダラボッチ伝説は数多くあった。ところがその多くは伝承されずに潰えている。記録が残っていても伝承が途絶えたものも多い。川崎市宮前区の「影向寺」のダイダラボッチ伝説もその一つだ。

(二)
今から12年前(2009年10月17日)に「下北沢X物語(1427)〜荏原ダイダラボッチ比較論5〜」で谷川磐雄『武蔵の巨人民譚』を紹介した。橘郡の二箇所のダイダラボッチが記録されている。そのまず一つ目だ。

 又橘部下末吉村にも同じ-足跡地と称する地があってすぐ傍には貝塚がある。

最初に「又」とあるが、これは荏原のダイダラボッチを紹介した後の展開であるためにこれを使っている。まず荏原郡が先で次が西隣の橘郡となっている。

 下末吉、どこかで聞いたことのある名であると思ったら。「下末吉海進」があった。ネットで検索するとたちどころに出てきた。

 横浜市鶴見区、JR 鶴見駅の北方の鶴見川沿いに、末吉という地域があります。末吉は鶴見川上流の上末吉と下流の下末吉に分けられています。下末吉海進はこの地名から名付けられたのです。

驚きである。下末吉海進のみならず地層、下末吉層も有名だ。これは下末吉の宝泉寺裏に地層の露頭があった。ここを模式地と東京大学の大塚弥之助教授が1930年に名付けた地層だという。

 地名としての下末吉は、現在の横浜市鶴見区の町名として残っている。下末吉1丁目から下末吉6丁目だ。この6丁目に県立鶴見高等学校がある。この校内には小仙塚貝塚がある。縄文時代後期のものだという。このすぐ北に神奈川県立三ツ池公園がある。これが足跡池なのであろうか。

 ダイダラボッチ跡があって貝塚がある。想起されるのは『常陸国風土記』の大人伝説だ。
すなわち巨人がいて大きな腕を伸ばして海の貝を採っては食った。その貝殻が貝塚となったという話だ。

 小仙塚貝塚のすぐ北側には、三ツ池公園がある。ここが足跡池ではないかと思われる。消失したダイダラボッチ伝説の一つは、下末吉ダイダラボッチだ。
 ここは現地に行って調べる必要がある。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月15日

下北沢X物語(4186)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて―

P1020350
(一)久しぶりに文化探訪に出かけた。鈍ったと感じたのは方向感覚だ、「あんた方向が全く違うよ」と道を聞いた人から言われた。方位勘は鋭い方だったが狂ってきた。親切に道を教えてくれた親父さん、「ここはな大昔は海だったんだ、すぐ裏手の山、多摩丘陵の末端だよ。そこに貝塚もあるしよ……」こちらの興味関心と近いものを彼は持っている。かつては海、想像することは大事だ。私の目当てはダイダラボッチだ、これははるか昔縄文時代まで遡る話だ。今回の課題は、失われたダイダラボッチ伝説を求めての現地調査である。目的地は川崎市宮前区にある天台宗の寺院「影向寺」である。文化探査では直行はしない。遠い最寄り駅で降りて歩いた。降りた駅は東横線元住吉駅である。日頃利用している線だ、が、元住吉は一度も降りたことのない駅だった。

(二)

 影向寺は前から気になっていた。荏原郡のダイダラボッチ伝説地はほとんど探訪していた。が、隣接する地域はあまり行っていない。今回は当荏原郡の西隣、橘樹郡の影向寺(ようごうじ)である。

検索で「影向寺 ダイダラボッチ」と入れてみる。すると自分のブログが引っ掛かる。
12年前の、2009年10月17日に記事をアップしている。「下北沢X物語(1427)〜荏原ダイダラボッチ比較論5〜」である。ここでは谷川磐雄『武蔵の巨人民譚』に掲載されたダイダラボッチ伝説地を網羅している。

 ここでは橘樹郡の二つのダイダラボッチ伝説地が紹介されている。一つは「橘郡下末吉村に足跡池と称する池」、もう一つは「又同郡の橘村の影向寺」である。前者も興味深い、「足跡池と称する池」があったという。

 下末吉横浜市鶴見区の町名だ。現行地名としては下末吉一丁目から下末吉六丁目がある。地形から池の所在を探すことは容易だろう。聞き込みもできる。が、こちらは広すぎてピンポイントで探すのは容易ではない。

 後者の、「橘村の影向寺」は、具体的に寺名が記述されていて現存する寺ゆえに調べが容易である。実際、影向寺に影向石があってこれはダイダラボッチが傷つけたという。これはぜひ見てみたい。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月13日

下北沢X物語(4185)―コロナ禍と風景―

P1020342
(一)人間は危険を避ける本能があり見晴らしの良い場を好む。本能的なポジション取りである。眺望がよく見えて自分は他の敵から見られない場所に潜む。いわゆるアプルトンの「眺望隠場理論」である。コロナ禍では眺望よりも隠場だ、心的な風景観が大きく変わってきていることが想像される。動物は危険に対して敏感だ、報道などで繰り返し流れているのが密を避けよだ。それで風景としての密は危険なものとして忌避される。しばしばテレビで流されるのは品川駅コンコースの通勤者だ、密の典型風景だ、「あんなところに行ってはいけない」、コロナ禍における悪風景サンプルだ。スーパーなどでも買い物やカートの把手を念入りに消毒している人がいる。現実風景の至る所に菌がうようよいる、これも心理的な風景だろう。今、人は、自身を隔離し隠場に潜もうとする傾向がある。

(二)
 常々散歩するが葬祭場の脇をよく通る、かつてだったら花環が数多く飾られ、葬儀参会者の群れが数多く見られた。この頃ではそういう光景は全く見られなくなった。葬の風景が激変してきている。

 ネットなどでこういう事実が報じれている。「第1波、第3波では直葬が増え、直葬が一般的な葬儀を上回ることもあった」と。直葬は通夜や葬儀を行わないで火葬場直行ということだ。

 人はこれまで通夜や葬儀を行い、死者との別れをしてきた。が、これが省略されている。コロナ死は悲惨だ、死を看取ることができない。袋に入れられたまま直葬される。

人々の死生観が大きく変わってきている。前の経験だが歳を重ねると葬儀に出ることが多くなるという実感があった。が、この数年葬儀には出たことはない。今はこの葬儀は身内だけで行うことが一般的になっている。その人の死を年賀状で知ることが多くなった。
 生きている者の死生観も変化してきている。自身もひっそりと死にたいと強く思うようになっている。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月12日

下北沢X物語(4184)―近代コロナ禍風景論―

P1020341
(一)風景・景色は時代時代で変わってくる。突然に襲ってきたパンデミック、コロナ禍
によって社会の風景は激変、代表例は人のマスク姿だ。町には閉店の張り紙、シャッターを下ろした店、ベンチには立ち入り禁止のテープなど。社会生活が逼迫してきている。特には交通の変化だ、タクシー会社の車庫には動かぬ車、飛行場は閑散、新幹線もガラガラである。が、よいことがないわけではない。青空の復活だ、空が恐ろしく透き通って見える。海外からはヒマラヤの山岳風景がくっきり見えるようになったという報もある。が、日常の見た目の風景はそんなには変わらない。しかし目に見えない我々の心理風景は激変している。表だって出て来ないのは葬の風景だ、葬列を見かけなくなった。が、人が死なないわけはない、とくにコロナ死は悲惨だ。肉親だけで済ます、一般死も多くが家族葬で執り行われている。人々の死風景、死生観が大きくコロナ禍によって変貌している。

(二)
 英国の詩人、ワーズワースに「汽船、高架橋、鉄道」という詩がある。産業革命によって生み出された機械であり、構造物である。新しく出現した風景、これらを讃えた詩である。その冒頭の三行だ。

「移動」と「利便」よ、なんじらは、いま陸と海で
古来の詩情と衝突しているが、そのことで
公正な詩人が間違った判断をすることはないだろう。
英国鉄道文学傑作選 ちくま文庫 二〇〇〇年刊


 近代化は汽船、汽車が出現することで始まった。「汽船、高架橋、鉄道」は象徴的な風景だ、煙を吐いて海をゆく大型の汽船、蒸気を噴いて力強く走る汽車、これを通すための市中の高架橋、近代が産み出した偉観である。

 機械の出現によって時間と空間とが抹殺された。驚く程の移動の速さだ、人々は短時間でA地点からB地点に行くことができるようになった。利便性が飛躍的に高まった。

 が、問題が指摘される。古来の詩情との衝突だ。鉄道敷設は自然を破壊した。山をうがち、田畑を潰した。鉄道は故郷を、自然を破壊した。ディケンズは「ダルバラの町」でこういう。

 消えてしまった。二本の美しいさんざしの木、生け垣、芝生、きんぽうげやディジーなどはすべて石ころだらけの線路道に変っていたし、駅の向こうには、醜い陰険なトンネル怪獣が口をぱっくり開けていて、まるでそういったものは全部呑み込んでしまったよ


 故郷の懐かしい風景は鉄道がすっかり壊してしまった。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月10日

下北沢X物語(4183)―ゴルゴンダの森を破壊したのは誰か―

uganda-2111153_960_720
(一)コロナ禍によって日常生活のあらゆる点で大きな変化が起こっている。顕著な例は折り込み広告が激減したことだ。週末の広告は一抱えもあった。元日などは数キロもあった。何十年と続いてきた日常である。東南アジアにある熱帯雨林、「ゴルゴンダの森」はあるときにブルドーザーが入ってきて樹林を伐り倒し始めた。森の恵を得て暮らしていた多くの部族はそこを追い払われた。生きる道はスラムの住民となってゴミを拾って暮らす。「ゴルゴンダの森」はなぜ破壊されたのか。チップの原料を作るためだ。砕かれた樹木は日本に送られて、これが紙製品となった。広告の紙、新聞紙、雑誌や本、このチップが飽食ニッポンを支えてきた。私たちが間接的に熱帯雨林を破壊させた。今から四半世紀前に『トロッコ少年ペドロ』は発刊された。物語であるが取材に基づいている。

(二)
 美しいゴルゴンダの森はどのようにして破壊されたのか。住人の一人だったミルラが語る。

「それで森がどうしてなくなったのかはお母さんから聞いたの。ある日のことなんだけどね、とつぜんに森の向こうで大きな音がしたというの、それでみんなびっくりして、その音のするほうにいってみたの。そしたらみたこともない大きな機械がうなりをあげて森の木をどんどんなぎ倒していたのよ。それはブルドーザーだったのね、道を作るために運びこまれたのよ。木を伐り出すための道をね。そのブルドーザーは緑の木々をまたたくまにひきたおしていったのよ。それからはもうひどいものよ。道ができると大型のトラックがなん台も入ってきてね、手あたりしだいに切り倒された森の木はつぎつぎにそれで運ばれていったの。伐り倒しはどんどん進んでいって、それがとうとうわたしたちの村のそばまできたの。それで部族の人たちみんなが集まって、せめてこの森だけは切らないでほしい。これがなくなったらわたしたちの生活ができなくなるからと、木材を切り出している会社のえらい人にすがりついてみんなで頼んだの、でもね、森林伐採の許可は政府からとってあるからということの一点張りで、みんなの願いはまったく聞き入れられなかったのよ。それからはもうかってしほうだい、青々とした森の木々は根こそぎ切り倒され、そうしてね、ゴルゴンダの森は、しばらくして、すっかり丸坊主にされてしまったの。」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 ペドロは、返すことばがなかった。


続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月09日

下北沢X物語(4182)―ゴルゴンダの森「トロッコ少年ペドロ」―

Paradisaea_apoda_(male)_-KL_Bird_Park-8a
(一)コロナ禍に全地球が見舞われている。これによる死者は232万人達したという。人類に取っては大きな脅威だ。しかしこの原因を作り出したのは紛れもなく人間である。人間が営む文明は自然環境を破壊した、これによって生態系は激変した。その仕返しかもしれない熱帯雨林に潜んでいた未知のウィルスが人の生活領域に運ばれ、これが一気に感染爆発をして世界中に広まった。自然は調和によって保たれる。何千年、何万年も保たれていた。「トロッコ少年ペドロ」の中では長い間美しい姿を保っていた「ゴルゴンダ」の森がいともたやすく材を得るために一気に破壊された。それはそれは美しい森だった。森林から追い出され流浪の民となったミルラがかつてをこう偲ぶ。

(二)
 貧民窟を走る鉄路には夜に豪華列車が通過していく。それを、ミルラは貧民窟に降りてきた極楽鳥と言った。その彼女がペドロに話し掛ける。

「さっきさ、『ゴミ箱にゴクラクチョウが降りたみたい』っていっていたけど、ゴクラクチョウって見たことある。」
「そんなものあるわけないよ。」
「ゴルコンダの森にはね、それがいっぱいいたのね。ゴクラクチョウといってもなん種類もいるの、別の名では、フウチョウともいってね、オウフウチョウにウロコフウチョウ、そしてコフウチョウ、これがとってもきれいなの。ふわふわした金色の羽を持っていてね、それが朝や夕方にね、高い高い木の上で長い長い金色の尾をふるわせて舞を舞うように飛んでいたの。うちの父さんは子供のころ、その様子を胸をわくわくさせながらながめたっていっていたわ。」
 ミルラはゆっくりとした口調で話す。
「なんだ、きみんところの父さんの話か。」
「そう父さんの話よ。うちの父さん、いまはぼろくず集めをしているけど‥‥‥父さん、勇士の家の生まれなのよ。」
「勇士の家って?。」
「部族の中で勇敢な血を受け継いでいるという家よ。だから男が生まれたら大きくなると勇士になるの。部族どうしの戦争が起これば、まっさきにかけつけてたたかわなければならなかったの。でも、部族どうしの戦争があったのはもう大昔のことでね、たがいの領分が話し合いで決まってからというものたたかいはなくなったのよ。住むことになった土地がとても豊かだったの。父さんたちは森の中に住んでいたのね。それはね、ゴルゴンダという森よ。うっそうと生い茂った木々がどこまでも続いている森なの。その森からはね、いろいろなものがいっぱいとれたの。なん百人という部族の人々を養うのにじゅうぶんだったったのよ。それで他の部族と争う必要はなかったの。平和だったのよ。ゴルゴンダにはどこまでもどこまでも続いている原生林があったのね。父さんたちの部族はその森からとれるありあまるほどの自然の恵みをもらって、みんながみんなのんびりと、しあわせに生きていたのよ。」
「ふううん。」
 ミルラが、そんな話をしてくれたのははじめてであった。
「森にはいくつもの川が流れていてね、どんなに日照りがつづいても枯れることはなかったって。父さんや母さんたちは小さいころ、いつもそこで一日中、水遊びをして遊んでいたというの。うらやましい話よね。ここのスラムの子供たちはみんなしごとがあって遊ぶこともできないけど、それができたよのよね。森がめぐみをくれていたからよ。原生林の森には色んな樹がたくさん生えていたの。クイラの樹、ミルキーパイン、ペンシルシダー、そういった樹はね、家の材になるし、薬にもなったの。だけどね、部族の人たちはめったなことでは木は伐らないの。ふつうは木を伐ってはいけないの。だから、自然に枯れるまで人は樹木に手をだしてはいけないのよ。木の実だって枝から落ちるまで手をつけないの。木をそれだけ大切にしたのね。家を建てたり、薬が必要になったりして、どうしても木が必要なときは木の精霊のキムジナルに特別にお祈りをして、ほんとうに必要な分だけを森からもらってくるの。みんなを養い育ててくれる森を部族の人たちはそれはそれは大切にしたものよ。だから木の精霊キムジナルに対してはうやまいの気持ちは忘れなかったわ。なにしろキムジナルは恵みの神様だからね。森の中にある畑でどっさりとれるヤムイモやキャッサバだって森からの贈り物よ。森の土は養分が多いからいつも豊作なのね。そういうふうにしてありあまるものをいつも部族のみんなに分け与えてくれるわけだから、キムジナルをとてもたいせつにしていたの。だってあくせく働かなくったって、いつだって森に行けば食物は手に入ったんだもん。それもこれもみなキムジナルのおかげよ。」

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月07日

下北沢X物語(4181)―地球温暖化と「トロッコ少年ペドロ」―

CCI20210207 (4)_LI
(一)四半世紀前に上梓した処女作に信じられないような値段がついている。理由は推測するしかない。心当たりは一つしかない。この本が熱帯雨林問題に言及していることだ。美しい森林の中で自然の恩恵を受けて自給自足生活をしていた部族がいた。が、そこに忽然とブルドーザーが現れ、木々をなぎ倒してしまう。熱帯雨林の伐採である、これらは建築材として日本に輸出された。マングローブの森も伐り倒された。エビの養殖場を作るためだ。日本人はエビ好きだ、この需要に応えるために熱帯雨林が破壊された。ここで養殖されたエビのほとんどは日本に輸出された。経済大国日本は東南アジアの熱帯雨林を建築材、食材を得るために破壊した。今地球温暖化と言うが四半世紀前に原因はあった。巨大台風、大雨洪水など天候異常に見舞われるようになった。これらの原因になったのは日本の我々の消費生活にあった。熱帯雨林破壊と日本人という環境問題を記録している本として価値が出てきているのではないだろうか?

(二)
 トロッコ少年ペドロは、列車が通らないときの線路を活用して物を運んでいる。これによってスラムに住む家の家計を支えていた。この線路には豪華国際特急が走っていた。屋台などがひしめくところにその汽車がやってくる。

「ビィビィヒョ〜ン、ビィビィヒョ〜ン‥‥‥‥‥‥‥」
 汽笛をたて続けに鳴らして、「インラオエクスプレス」は急にスピードをゆるめた。
「どうかしたのかしら。」
「屋台のかたづけが間に合わないんだよ。」
 列車のゆくてを見る。そこにはおおあわてで屋台をたたんでいる人がジーゼルのヘッドライトに映し出される。小さなほったて小屋がぎっしりと建ち並んでいるスラム街では、線路のある空間は貴重なのだ。夜はそこに食べ物屋の屋台がなん軒も並んだ。その店の持ち主は機関車の汽笛を聞きつけてようやく店を移動させる。かたづけが間に合わなくて、列車が立往生する。よくあることだ。
 スピードを落とした国際特急列車「インラオエクスプレス」は、ペドロの目の前をゆっくりと通過していった。先頭の荷物車、つぎは一等寝台、それが五両、七両目はレストランカーだ。シャンデリアがキロロンと光り輝いている。それがまぶしく目に映る。その窓の一つ一つには赤いシェードのスタンドランプがともっている。
「まあきれいね。」
 ミルラが思わず声をあげる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 ペドロは、口を大きく開けて、ただもう見とれているばかりであった。
 テーブルをはさんで着飾った乗客が食事をしている。そのテーブルの上にはいくつものグラスが乗っていてキララと光る。頭にターバンをまいたヒゲ面の男がフォークを口もとへもっていく。それが光線のかげんでキロリと輝く。
「あれはきっとインド人よ。」
 つぎの席には黒いドレスを着た金髪の女の人、向かい合っているのはスーツを着たほりの深い顔立ちの紳士、どこの国の人であろうか。そしてそのつぎには目鼻立ちが平べったい、色の白い東洋人がすわっている。
「あれはニッポン人という顔立ちね。」
 都会のまん中でさまざまな人間を相手に花売りをしているミルラは一目で人種がわかるのだ。じっさい「インラオエクスプレス」はニッポン人観光客に人気があった。そのことは、ペドロも聞き知っていた。


豪華寝台列車には日本からきた観光客が大勢乗っていた。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月06日

下北沢X物語(4180)―処女作についた驚きの値段―

CCI20210206 (2)
(一)「トロッコ少年ペドロ」は処女作だ。とおに絶版となっている、ところがビックリだ、アマゾンの中古本で高額で売られている。何と一冊は29,800円である、もう一冊は56,223円である。二冊しか残っていないということでこの値段がついたのだろうか?が、単なる雑魚本だったらこんな値段がつくわけはないだろう。どんな理由があるのだろうか?発行は1997年12月1日である。もう二十四年前のことだ。この処女作への思いは深い、初めて手にした自分の本である。一晩中抱いて寝たことを思い出す。この作品、県単位で推奨される本としていくつかの県で推薦図書となった。田舎の本屋で平積みにされているのを見て感動したことを覚えている。

(二)
 ネット検索で調べてみると、五年生にお勧めの本として紹介されている。

東南アジアの国のことを、みなさんはどれくらい知っていますか?
 アメリカやヨーロッパのことは知っていても、日本にずっと近いはずの東南アジアの国のことは、よく知らない人が多いのではないでしょうか。

 この本に出てくるペドロという少年は、東南アジアのとある国のスラムに住んでいます。今は小学校6年生。ペドロの国では、小学6年までがぎむ教育なのですが、ペドロは学校に通っていません。家がまずしいので、通いたくても通えないのです。ペドロが一日中トロッコをおして、かせいだわずかのお金で、ペドロの家族がくらしているのです。トロッコおしはとてもつらい仕事ですが、やめるわけにはいきません。子どもができる仕事はかぎられています。

 では、ペドロは大変な仕事をしながら、つらいばかりの毎日をおくっているかというと、そんなことはありません。明るい南国の太陽の下で、ペドロは今日という日をいっしょうけんめいに生きています。スラムの人たちはみんな、明日食べるものもないほど貧しい生活をおくっていますが、心のやさしい人たちばかりです。


「トロッコ少年ペドロ」がどんな本なのか手際よくまとめられている。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月04日

下北沢X物語(4179)―コロナ禍時間をどう生きるか?―

P1020332
(一)時間とは何か、難しい問題だ、ただコロナ禍にあって常日頃感じている時間とは明らかに違ってきている。特徴的なのはメリハリがないことだ。時間というものはその時その時にトピックがあって充実する。それが全くなくなった。こういう災禍に遭遇することで通常時間とコロナ時間とが見えて来た。一日という時間は天体や季節の周期的変化を区切りの基準として一秒、一時間、一日と定めている。これに変化は全くない。が、コロナ禍において激変したのが内容だ、中身がスカスカになってしまった。時間がのっぺらぼうになってしまった。トピックがないので過去時間が希薄になっている。時間は過去から未来へと流れていくが基盤が崩れたことによって過去が記憶から薄れつつある。確固たる時間認識があって人間は人間たりうる。二月七日に緊急事態は解除される予定だった、が、これが三月まで延びた。さらに昼間も外出を控えろと、容易に想像されるのはさらに時間が希薄化していくことだ。コロナ禍時間をどう生きていくのか?

 かつてよく聞いたのはグリニッチ標準時だ、が、これは今は原子時計に置き換わっている。原子や分子のスペクトル線の高精度な周波数標準に基づき最も正確な時間が測定されている。時間は全世界共通の物差しがあって正確に測られている。

 時間は機械によって正確に測られている。が、しかしコロナ禍に遭遇して我々が感じたことは時間というのは人によって装飾されてきたことだ。

 今までのカレンダーだと、〇日に街歩きがあって、〇日に会合があって、〇日に飲み会があって、〇日にお祭りがあって、とかでカレンダーが埋まっていた。が、今はほとんどが白紙である。

 白紙カレンダーに予定を書き込むことで日にちに彩りがあった。例えば街歩きだ、もうこれはコロナ禍で中止している。

 知らない町を歩けば多くの発見がある。土地土地の逸話を知って一層に土地に対する認識を深めることができた。

 人生とは何か、逸話を探し歩くことである。言わばトピックの集積の中に我々は生きている。重層的なトピックを脳にしまいこんで経てきた年月の中身が充実する。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月03日

下北沢X物語(4178)―犬と赤ん坊の時間―

P1020012
(一)散歩していると乳母車によく出会う。赤ん坊かと思っていると犬が乗っている。老齢で散歩が難しくなった犬を気晴らしにと連れ出しているらしい。つくねんと座って移り行く景色を見ている。目の散歩だ、が、犬は視力は決してよくない。その代わり嗅覚が発達している。犬の記憶の倉庫は整理が行き届いていない。何時というのは不明だが臭いの記憶だけは引き出せる。カートに乗って臭いをアンテナ代わりにしている。あ、ここではチッピーちゃんの臭い、毛並みの可愛い犬だったがこちらを振り向くこともなかった。一方、赤ん坊だ、静物には反応しない。通り掛かる車や人への関心が深い、動くものを通して学習しているのだろうか。乳母車が止まると赤ん坊はむずがる。人間の子供には絶えざる変化が必要らしい。人間は最初からプロセスに対する感知能力が植え付けられているらしい。犬の場合は動物的だ、とりあえず臭いを手がかりにしていれば生存はできるのかもしれない。

(二)
 時間は何時から発達したか、これは明治期からだ。それ以前、人々はコケコッコー時間や腹時計で過ごしてきた。鶏の声で起きる、そして腹がグゥと鳴ったら食う。言ってみれば古代時間である。が、これが激変した。

 明治期になって汽車ができた。遠くに行くにはこの方がはるかに便利だ。通例では、江戸を早朝に発って横浜の先の保土ヶ谷宿か戸塚宿で泊まるのが一般だった。横浜まではおおよそ一日だった。が、汽車ができると新橋横浜間は五十三分で着いた。驚きだ。

「新橋を発車したとたん窓に横縞が走っていくんだ、何だろうと思っていると『よこはま』だという。驚いたのなんのって」
 何が起こったのか?それは時間と空間との抹殺だ。人々にとっていわゆるコケコッコー時間はこれによって崩壊してしまった。

 時間の観念は鉄道が開通することによって生まれた。汽車に乗るためには時刻に合わせて行かねばならない。鉄道開通によって時計屋が繁盛したことは言うまでもない。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月01日

下北沢X物語(4177)―コロナ禍の三茶を歩く―

P1020333
(一)パンデミックという全く経験したことのない災禍に遭遇している。いつもであれば人に話を聞ける、が、マスク越しに通行人に話は聞きにくい。自身の目で観察するよりほかはない。昨日はキャロットタワー三階にある市民支援活動コーナーへ会報の印刷に行った。閑散としていた、算数を子供に教えている先生の声のみが響いていた。三階から下へ降りる、ここにはHIS、いつも賑わっていた旅行会社があった。これが畳まれて歯科医院に改装中だった。コロナは人から旅を奪った。飛行機も新幹線も乗客が激減している。JR東海は乗客の激減で400名を一時帰休させると。旅客減は深刻だ、出掛けられないからちょこっと三茶のホコ天でという気分だろう。このホコ天ずっと実施されている。政府や都は不要不急の外出は控えてというが街を歩くと「国民の皆さん適度にお出かけください」と言っているように見える。推奨語と現実には大きな隔たりがある。

(二)
 町を観察しながら歩いた。一軒のブティックは「閉店セール中、今日まで」と。お出かけ系と関わる商売はきついようだ。「洋服の青山、2割の160店舗を閉店 正社員400人の希望退職を募集」とのニュースも耳新しい。お出かけ系は駄目で、装い系も苦しい。

「駅のすぐそばのくつ下屋さんが閉店するみたいなの」
 下北沢の月村さん情報だ。これは興味深い。人が出掛けてこそ靴下は売れる。当方は毎日十キロは歩く、靴下は必須だが、多くの人は家で過ごしていて靴下はすり切れない。
  彼女の情報では近所に「産婦人科が開業しました」と。これは興味深い。高齢化社会だ、子供がどんどん減っている。そんな中での産科の開院だ。
 子供は希望である。散歩中よくすれ違う、「どんな子になるのだろうか」と見ているとバイバイをしてくる。かわゆい。

 三茶で賑わっている店があった。「ヤマダ手芸店」だ。外出自粛せよ、その場合何をするか。読書、これはあるらしい。本が売れていると。私にも一冊書いたらとの話がある。が、充足した時間を過ごすには手芸だ。
「チクチクしているのが一番楽しいのよ」と私の知り合い。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月31日

下北沢X物語(4176)―会報第175号:北沢川文化遺産保存の会―

CCI20210131
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第175号    
           2021年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、世田谷の古道を考える             木村 康伸


 古道というと、皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか。
 現代の道路のようにまっすぐに整備された道ではないという印象があるのではないだろうか。たしかに、古道の特徴として、道がくねくねと曲がっていたり、鉤の手に曲がった道筋のあったことが挙げられる。身近なところで言うと、ボロ市通りの旧矢倉沢往還は、今の世田谷中央病院のある角で直角に曲がっていたという。
 このような鉤の手に曲がった道は、敵の軍勢の侵入を容易にさせないための工夫であったと言われる。実際、戦国時代の矢倉沢往還は小田原北条氏にとって軍事上重要な道であったとされている。
 しかし、戦国時代にあっても道は、何も戦のためだけにあったわけではないと思う。人や物資の行き来もあったことだろう。
 戦国時代に世田谷の地を治めた吉良氏は神仏への信仰が篤く、世田谷を中心に多くの寺社を創建、再興、修復したという。このためには多くの木材が必要だったはずである。例えばそれをどうやって世田谷へ運んだのだろうか。
 世田谷吉良氏は、水運に長けた一族であったようである。戦国時代の鎌倉鶴岡八幡宮のことを記録した『快元僧都記』によれば、天文二年(1533)に北条氏綱の行った八幡宮造営にあたり、吉良氏が材木を海上輸送で運んだという。吉良氏の拠点である蒔田から杉田まで水運を利用して運んだ後、人足五万人を使って鶴岡八幡宮まで搬入したというから驚きである。吉良氏には材木の流通をめぐり連携する蒔田氏という同族集団がおり、蒔田、鎌倉、藤沢、木更津を拠点に活躍していたそうだ。
 また、吉良氏は多摩川の両岸を支配下に置いており多摩川の水運を活用していたことが窺える。江戸湾沿いの芝地域も領有し、世田谷とは芝道や立会川でつながっていた。世田谷で必要とした材木は、水運を活用して芝や多摩川で運ばれ、そこから陸上の道を経て世田谷へともたらされたのではないだろうか。
 当時の世田谷には、多くの道があった。先に述べた矢倉沢往還や芝道に加え、六郷田無道、津久井往還、滝坂道(甲州中出道)、堀之内道(鎌倉街道)、凧坂道などである。これらの道が縦横無尽に世田谷を通り、交わっていた。
 それらの交わりや他の地域とのつながり、そして人や物資の往来を考えながら改めて古道を探ってみると、身近な場所の歴史に新たな発見があるのではないか。世田谷の古道を改めて見直してみたとき、そんなことが想われた。
 そこで、いずれ町歩きで、今までとは違った視点から世田谷古道の案内をしたいと考えている。

2、こねこのぴっち
                  エッセイスト 葦田華


 スカートから出た素足がうそ寒く感じる秋、夕飯の片付けのお盆を持って台所に行くと、ガス台の上におはぎぐらいの小さなものが居た。よく見ると子猫だった。夕飯の、焼いた秋刀魚から垂れた油を舐めていたのだ。台所の戸は開けっぱなしになっていたから、外からやって来たのであろう。こんな小さな猫が、一体どこから来たのかしら?と瞬間に思った。愛くるしい瞳をしたトラキジの赤ちゃんで、しっぽはウサギのように丸くなっていた。
私はエプロンにくるんで、急いで子供部屋に入った。妹達が、布団を敷いているところだった。私は口に人差し指を立てて、三人を手招きした。
彼女達は布団の上を這って来て、私のエプロンの中に居る子猫を見た。
すると三女の玉枝が、「アッ!子猫のぴっちだあ!可愛い!」と、素っ頓狂な声を上げた。
「ガス台のね、秋刀魚から垂れた油を舐めていたのよ。どうしよう?」と言うと、三つの黒い頭が一斉に「うちの子にしよう!」と言った。
「でも、お母さんが絶対に許さないよ!」「じゃあお父さんに頼もうよ!」ということになった。母はとにかく、動物というものが大嫌いな人で、猫なんか受け入れてくれる筈がなかった。そっと襖を開けて居間を覗くと、運良く父が一人でラジオを聞きながら書き物をしていた。
 私の合図に三人の妹達も出て来て、父の前に正座した。
「お父さん、この子猫を飼っていいですか?」と私が言うと、三人が一斉に頭を下げて、「お願いします!。」と言った。父はお酒を飲まない限り、ごく普通の優しいお父さんだった。
父は子猫を大きな掌に納めると、「この子猫はまだ歯があんまり生えていないぞ。まだミルクを飲ませないとな。」と言って、「牛乳を買ってきてやりなさい。」とお金をくれた。父は動物好きで、満州では小さな猿を飼っていたと聞いていた。
 その夜はとりあえず子猫にはご飯をお粥にして、秋刀魚の残りをほぐして混ぜてやるとガツガツと食べ、翌日からは牛乳もペチャペチャと良く舐めた。よほど空腹だったらしい。
問題は母だった。猫が嫌いだから私達四人姉妹のなかでも、長女の私にひどく八つ当たりをして、「お母さんは猫の世話なんかしませんよ!華が責任を持ちなさい!」と言った。私は子猫のために忍耐して、「はい、そうします。」と答えた。

 子猫の名前は、四人姉妹の大好きな、ハンス・フィッシャーの<こねこのぴっち>の絵本から取って、<ピッチ>と決めた。
 ピッチはどんどん大きくなり、はたきで掃除をしていると、はたきに飛びついてあっちにジャレこっちにジャレ、中庭からバッタをくわえてきたり、可愛いい盛りになった。妹たちはピッチの奪い合いで、「うるさいわねえ!だから嫌なのよ!」と母に叱られたりしているうちに、ピッチは少しずつ大きくなっていった。そしてピッチはオスだと判った。
 やがてサカリがくると、ピッチは真夜中に帰ってきて、彼のために少しずつ残しておいた四人ぶんのお魚ご飯を、夢中になって食べた。帰ってこない日があって心配したが、サカリのオス猫は遠出をするもので、十日ぐらい帰らないのはザラだ、と、隣りのおばさんに教えられた。それで、だんだん私達も慣れっこになっていった。
どのぐらい子孫を残したのかは、だれにも分からなかったけれども…。
 非常に寒い夜、眠っている私の顔に冷たい息がフッ、フッ!とかかることがしばしばあった。真夜中に外出から帰ってきたピッチが、私の布団に入りたい、という合図だった。
掛け布団を少し開けてやると、冷え切った滑らかな猫の毛が、あごの下からスルスルと足元にゆき、私の足に抱きつく。私は冷え切った猫を足に挟んで、揉み揉みしてやった。
猫は不思議なことに、自己発電でもするのか、朝までには熱々にゃんこになっていて、私の足はポカポカだった。
 ある日ふと気がついたのだが、大きなピッチが毎日台所の茶箪笥の前に、前脚を組んで四角い箱のようになってうずくまっていた。あれ?おとといも居たし、昨日も居たよなあ?と思った。母に聞くと、オカカご飯も数日食べていない、という。
 私は猫の全身を撫でてみた。傷だらけで、その上右目の上に大きなタンコブがあった。
これが原因ではないかと当たりをつけ、風呂敷に包んで抱いて町外れの獣医に急いだ。
獣医といっても、当時は馬や牛の医者しか居なかったが、私は諦めなかった。
 獣医さんは、馬用の長くて太い注射針を持ってくると、ブスリ!とタンコブに刺した。途端にタンコブからドドド!と膿血が出た。獣医さんは「オス猫だからねえ、どこかで喧嘩して爪を立てられ、バイキンが入ったんでしょう。膿さえ出ればすぐに元気になりますよ。」と、事もなげに言った。治療費はとても安くて、私の小遣いで間に合った。

私は16歳の高校2年生。1959年のことだった。

 それから3年経って、私は田舎から東京の大学に進み、2年生の夏休みになったら、突然母が四女の清子を連れて家出してきてしまった。父の許には次女の美智子と三女の玉枝、それにピッチが置き去りになった。
 母の家出は離婚の前哨戦であった。私が中学1年の4月にも、玉枝と清子を連れて家出し、1年近く帰って来ないことがあり、初めてのことではなかった。そして言うに言われぬ苦労の末、両親の離婚が家庭裁判所で決定された。次女の美智子は合格したばかりの県立高校に一週間在籍しただけで、新調のセーラー服を着てリュックと鞄姿、三女の玉枝もリュックを背負って、藤籠を下げて上京して来た。
「ピッチも連れてきたよ!」と玉枝が言い、「猫まで連れて行くのかあ!って、お父さんが泣いたのよ。」と美智子が言った。私には父の心情がよく分かり、非常に辛かった。
 母の借りている家の畳に荷物を下ろし、「さあーピッチ、ここがお新しいお家だよ。」と言うと、母が飛びのいて「どうして猫まで連れて来たのよ!」とえらい剣幕であった。
 藤籠の蓋を開けると、ピッチはしばらくみんなに抱っこされたあと、何を思ったのかタタタタタ!と窓に走り寄り、アッという間もなく外に飛び出してしまった。それっきりピッチは帰って来なかった。そしてそれがピッチとの別れだった。畑のある田舎の土地柄で、ピッチは野良猫の道を選んだのだ。
 秋の夜、我が家のガス台に来たように、彼には彼の意思があったのであろう。
 悲しかったが、しかたがなかった。
「ピッチの人生はピッチのものなんだよ。」と三人の妹達に言って聞かせながら、涙が止まらなかった。ピッチの居なくなった藤籠には、煮干しがひとつ残っていた。
 (2021・1・23)

P1020299

3、プチ町歩きの案内
 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。が、緊急事態が出たことから順次計画を先送りにしている。緊急事態は2月7日までとされているがさらに延長されるとのことだ。寒さが感染を広げてもいる。暖かくなれば先行きは見えてくると思う。緊急事態発令中はこの行事を取り止めとする。春三月から街歩きを再開したい。
 それでとりあえず計画をここに挙げておく。次号、176号でも案内をしたい。

第164回3月20日  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館

第165回4月17日 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

■ 編集後記                                  
▲原稿を募集します。会報の質のレベルというのがありますが、かなり知的ではないかと思っています。街のちょっとした記録、また、自分が気づいたことなどぜひ原稿としてお寄せください。文化について、記録について、ずっと自身で記事を書いてきました。この頃では自分で書かなくとも人が書いてくれる、その点、とても助かっています。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
(上、「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」 下、代田駅前のダイダラボッチの足跡)

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月29日

下北沢X物語(4175)―コロナ禍の町を歩く2―

P1020327
(一)「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」は芭蕉の時間観である。
放浪の俳人は諸国を巡り歩いた、多くの人と出会い別れた、得がたい時間だったがそれもたちまちのうちに過去となる。時間もまた旅人だと認識した。俳人が過ごした時間は豊穣であった、充足していてふくよかであった。旅での行き交いはドラマだ、悲しい別れがあったり、嬉しい出会いがあったり、そこには人と人との交渉がある。が、今我々が体験している時間は質量は軽い、めりはりがない。トピックがないのである。いわばのっぺらぼうの時間である。時間はそれぞれの時間に記憶されるトピックがあって時間が時間として認識される。が、今コロナ禍にあって私たちは軽い時間を生きている。時間の有限性を考えれば損をしている。コロナ禍あって時間をどう生きるか?問われている。

 昨日は、コロナ禍における町の変貌を観察しその報告を行った。これに対して「歩く距離と時間が長ければ 感染リスクもそれだけ 多くなる のでは?」との意見が寄せられた。山梨県在住の矢花克己さんからである。これを見て思ったことは山梨県に降り注いでいる集中的な報道降雨だ、とことん東京の話が中心になされていると思った。

 以前、地方に旅行したときのことだ。秋田県の山のいで湯だ、このときにテレビでは日比谷線の脱線衝突事故を延々とやっていた。自身は東京にいない、人気のない温泉に入って寛いでいた。が、どこへ行っても東京が追ってくる。

 日本は東京中心の報道主義だ、毎日午後三時に東京のコロナ感染者数がニュース速報で流される。地方の人にもまんべんなくこれが流される。
『東京は怖いところだ、行くもんじゃない、コロナ菌が町中にあふれているんだよ。空気の中のコロナ菌の濃度が高いというじゃないか……昔は生きた馬の目が抜かれるというとったが今はコロナ菌のシャワーを浴びさせられるんだよ。うちの孫も東京に行っているけど大丈夫かね?……」
 
 コロナ禍報道では東京情報が地方にあふれているに相違ない。コロナ禍によって東京一極集中がいっそうに顕著になっている。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月28日

下北沢X物語(4174)―コロナ禍の町を歩く―

P1020313
(一)コロナ禍世界を席巻している今朝の新聞は感染者1億人、死者215万人と報じている。日本も例外ではなくなった。東京で、入院・療養等調整中5、353人だ。入院もホテル療養もできないで待機している人だ。待っている間に死亡する例も増えている。医療崩壊寸前というが医療破綻している。誰もが思っているの今病気や怪我をしてはいけないということだ。病院では診てもらえない。不思議なのはそれでも日常の風景は何ら変わらない。外に出ると普通に人が歩いている、テレビのバラエティー番組では出演者が騒ぎまくっている。日常に変化はないのか。今日は観察行を試みる、街に変化は起きていないのか。

(二)
 日常的に見られる顕著な変化はある。散歩区域にタクシー会社が二社ある。何時もだったらほとんどが出払っているのに車庫にはぎっしりと車が停まっている。これと関連するのは病院での光景だ。東京医療センター構内はよく通る。昼頃行くと前庭のロータリーにはタクシーがびっちり止まっている。が、待機タクシーは動かない。
「感染を恐れての受診手控えがあるんだろうね、来院者が減っているから、タクシーに乗る人も減っているんだよ……」

 不要不急の外出はお控えくださいとのこと。が、この呼び掛けは曖昧だ、飲食店営業が終わる八時以降のことかと思ったら日中も守ってほしいとのこと。が、映画館も含めて営業が行われている。デパートへの買い物へは不要不急ではないかと思うが、これはお出かけくださいということのようだ。

 医療破綻、それはすでにトリアージに現れている。ネットでこの語を引くと、各県の公的機関のホームページがヒットする。

トリアージ(triage)とは、医療資源(医療スタッフや医薬品等)が制約される中で、一人でも多くの傷病者に対して最善の治療を行うため、傷病者の緊急度に応じて、搬送や治療の優先順位を決めることをいいます。

「私より若い人に使ってください。私はさんざんに生きてきて八十にもなりましたから」
 テレビでその具体的な場面を報道していた。もっと生きたかっただろうに死を選ばざるを得なくなっている。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月26日

下北沢X物語(4173)―下北沢一番街の記憶と記録―

12月24日 042
(一)下北沢一番街、大月菓子店の大月文子さんに多くを教わった。ネットワークの起点である。顔の広い彼女が人と人とを繋いでくれた。一番は今井兼介さんだ、映画プロジューサーの森栄晃さん、飯田勝さんも紹介してくれた。しかし後者二人は物故された。今井さんも入院されているとは聞いている。今井さんからは最も多く教わった。このブログの過去ログには証言が多く残っている。彼の父親は著名な建築家今井兼次である。「今井さんのところに行くとお八つにプリンが出たのです」と。戦前のことだ隣りに住んでいた篠山幸子さんが教えてくれた。彼女は母親に近隣に同じ表札が掛かっていることを不思議に思い母親に聞いたら、「そんなこと聞くな」とたしなめられたと。寓居である、お大尽に囲われて生活している人の家が多かった。一帯の字名は野屋敷、お屋敷町だった。今思い返してみると一つ一つのエピソードの背景が見える。表通りの商店街と裏通りのお屋敷との関係性であったのだなと。

(二)
「私もそこの第三荏原でしたけどね……」
 今井さんは東大原小とは言わない、第三荏原と言った、プライドだ。
「ませていましたね、仲間で同人誌作っていっぱしのこと書いていましたからね」
 彼から聞いた話の中で際立っておもしろかったのが店員道場の話だ。これの図面を引いているのは彼の父親、今井兼次である。彼は街の貴重な記憶を語っている。
(「店員道場」……彼の父親が記した絵日誌には竣工年月が記されている。昭和13年(1938)6月である。)

「わたしの父の今井兼次が設計したのですよ。当時の北沢通商店街商業組合はとても先進的な試みをしていたのです。その中心だったのが玉泉堂という和菓子屋の主人でした。有名な店で宮内庁ご用達になっているほど質のいい菓子を作っていました。彼が組合の理事長をやっていました。その藤野理事長から『店員道場』の設計を頼まれたのですよ。都会に若衆宿を作って本通の商店街の店員を一人前の大人に育てようとしたのですね。そういう先進的な試みに父も意気を感じて協力したんだと思いますね。当時、小田急と帝都線が交差してからこの栄通、本通はどんどん発展していましたから、今と違って勢いがありました。だから、武蔵小山商店街、巣鴨商店街、北沢商店街、これは往時の勢いのあった商店街だと思うのですよ。その三大商店街が豊島園に集まって合同運動会を開いていたんですよ……」 (『下北沢X惜別物語』きむらけん 北沢川文化遺産保存の会 2007年刊)

玉泉堂、当時は有名な和菓子店だった。が、街の記憶から消えている。ネットで引いても当ブログしか引っ掛からない。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月25日

下北沢X物語(4172)―特攻因縁と下北沢戦後アルバム―

CCI20210125
(一)因縁の大円環、特攻繋がりだ。かつての取材者秋元佳子さんからコンタクトがあった。彼女は東大原国民学校の疎開学童だった。武揚隊長谷川信少尉と親しく接していたことから疎開時のことを子細に聴き取った。が、彼女の下北沢の家については聴き取って居なかった。この間の電話でようやく分かった。当会では「焼け残った町下北沢戦後アルバム」を作った。これに写っている一番街「宮田家具店」の隣の染め物屋「きくや」が彼女の実家だった。彼女は向かいがおでん屋、古本屋でと語る。語るうちに記憶が刺激される。彼女は思い出を語る。そこに、戦中、戦前の下北沢の街の様子が浮かんでくる。街の背後のお屋敷が街の風格を決定づけていたのだと知った。

(二)
「ちょうど家は道がカーブしているところにあったのでよ」と彼女。
 「下北沢戦後アルバム」では、04「下北沢の商業地区」で見ると宮田家具店あたりから上から下ってきた道がゆるやかにカーブしている。今でもそうだがこの緩やかな傾斜は絵になる。
 アルバムに納められているこの04は最も好きな絵だ。このことは人に何度も言っていた。アルバムではこの写真大きめにして載せている。

「ちょうどこの写真、左手の路地から萩原朔太郎が出てくるのですよ。本通りとぶつかるところで彼は立ち止まって密偵のように左右を伺うのです、安全が確認できてこの道を下ってきたのですよ。着流し姿の彼が浮かんで見えるのです……」
 私の妄念といってもよい。
 しかし、彼女秋元さんは現実を語る。
「道が曲がっているでしょう。そのカーブの始まり辺りにあるものだから、上から水が流れてきてね、うちの方にこれが来てよく浸水していましたよ」
 この話はおもしろい。長谷川信因縁で些細な事実が判明した。
「もともと一番街の通りには川が流れていましたからね」
 一見、通りは高台にあるように見えるが地盤はよくない。ビルを建てるときに水が出て基礎工事が大変だったと聞いた。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月23日

下北沢X物語(4171)―特攻台湾因縁大円環―

戦争と平和展:松本博物館
(一)めくるめく因縁物語だ。1945年2月11日、満州新京で特攻四隊が結成された、皆、「誠」がつく、台湾に本拠を置く第八飛行師団の通称号だ、戦況は逼迫してきて翌3月には米軍は沖縄に侵攻して来る。四隊は、敵を迎え撃つ、武剋隊、扶揺隊、蒼龍隊は本土南端九州から直接特攻出撃した。が、武揚隊だけは師団命令によって大陸経由で台湾へ渡る。海も空も敵に落ちた中での渡台は決死行だった。4月12日与那国島近辺でグラマンに遭遇し長谷川信少尉を含む三機が敵の餌食となった。辛うじて台湾に着いたのは十四名のうち三機と八名だった。武揚隊は悲運の隊だ、が、戦後75年、この8月、台湾から一本の電話が入る。少年時代武揚隊隊長山本薫中尉と出会って空に憧れ、ついには空軍に入ってパイロットとなった邱垂宇さん、八十七歳からだ。運命の円環に自分も呑み込まれてしまった。

(二)
「長谷川信少尉はズーズー弁の海老根重信軍曹と西尾勇助軍曹とともに台湾に渡るときに米軍機に撃ち落とされたんですね、段段に分かってくると敵の巣窟に突っ込んだのですね……」
 私は電話で秋元佳子さんに言った。
 彼女によると浅間温泉富貴の湯では長谷川信は温厚な様子だったと言う。しかし時が経って考えてみると浅間滞在がこの武揚隊の運命を決めたのではないかと思う。

「この頃下馬はよく散歩で通るのですよ。大田幸子さんの家のわきは……」
 富貴の湯に東大原小は疎開していたと知ってから元学童をさんざん捜し回った。が、なかなか見つからない。
 これも因縁の円環かもしれぬ、建築家今井健次さんの息子今井兼介さんが教えてくれた。
「隣の家には家賃の控え帳があって中村草田男とか、栗林忠道などのサインがあるそうです」
中村草田男は俳人だ、栗林忠道は、硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官である。これも、つてのつてを辿ってようやくご主人に会うことができた。
『私の妹は東大原小で浅間温泉に疎開していました……』
『えっ!』
 その妹が太田幸子さんである。篠山さんの紹介で彼女に会った。そのときに一番衝撃を受けたのが疎開学童と特攻隊員が一緒に写った写真だ。これは歴史的写真として方々で使われた。(写真は一例だ)

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月22日

下北沢X物語(4170)―長谷川信少尉の霊魂と下北沢―

CCI20190623_0001 (2)
(一)人生とは何か、それは景色の記憶に他ならない。昨日電話があった。「もう私も87歳になりましたよ」と彼女、取材で初めて会ったのは十年前だ、浅間温泉の秘められた歴史を紐解くことになった人、秋元佳子さんだった。とても懐かしく疎開時代に戻って話を交わした。言葉は記憶を蘇らせる、話題は次々に飛ぶ、これが意想外の話になった。ついに「下北沢戦後アルバム」に結びついた。彼女からは疎開時代の話を取材していた。『きけわだつみのこえ』に手記が掲載されている長谷川信少尉と彼女は疎開先で深く接していた。この関係を細かく取材したいた。が、昨日話をしていて欠落していたのは彼女の実家だった。分かったのは戦後アルバムに出てくるのが彼女の家だった。鈴蘭通り、「宮田家具店」の隣りであった。この元主人から秋元さんの実家のことを自分が聞きだしていた。話題は弾みにはずんで、「これやっぱり長谷川信少尉のお陰ね」となった、特攻因縁だ。

(二)
秋元さんが電話してきたのは彼女の家に一冊の本が届いたからだ。『祈りの碑 「きけわだつみのこえ」〜会津の学徒兵 長谷川信の生涯〜』(歴史春秋社 2020年刊)である。著者は長島雄一さんだ、自身、信州特攻四部作の中で長谷川信については度々取り上げていた。伝記を追っていた長島さんはまとめるのを辞めようかと思われたほどだったと。が、彼は上梓した。地元福島では評判になってたちまち改版が出たという。

 その長島さんから秋元さんに本を贈りたいとの要望があって、彼女の住所を知らせていた。早速に本が届いたらしい。

「表紙に長谷川さんの写真が載っているでしょう、これを見て、『ああ、ああ、この人だったと思いましたよ」
 彼女は東大原国民学校の五年生だった、1945年8月12日に学校を出て下北沢駅へ向かった。松本市外浅間温泉に疎開するためだ。
「学校を出発して成徳のところで右に曲がったのですよ。それでそのまま鎌倉通りを行き、帝都線の踏切手前で左に曲がって坂を下って駅に着きました。だからね、本通りの家の前を通らなかったのですよ……」
 当日は近隣住民総出で疎開学童を送った。彼女は家の前を通っていくと思っていたら通らなかった。疎開に行ったら帰れない、近所の人との最後のお別れができたのにと思った。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月20日

下北沢X物語(4169)―我が人生とダイダラボッチ2―

P1000762
(一)ダイダラボッチという言葉には不思議な力が宿っている。「兎に角こんな名称と足跡がなかつたならば」、「さう永くはわれわれのあひだに、留まってはいなかった」(『ダイダラ坊の足跡』)と柳田国男は言う。語には言霊が宿っていて一度この語を発すると人は注力を喚起させられるようだ。「不思議なことにな、『ダイダラボッチ』を三回唱えると奇妙な力が湧いてくんだ」とは劇中の言葉だ。が、この言葉人を変にこそばゆく感じさせるらしい。ダイダラボッチを求めて多くの伝説地を訪ねた、水戸大串、さいたま市太田窪(ダイタクボ)、横浜市菊名、石岡市代田、相模原市鹿沼池などだ。伝説地に行くと「ダイダラボッチ」と話し掛ける。すると「ダイダラボッチ?」と必ず応答がある。聞かれた方も不思議さを感じるらしい。いや土地にダイダラ霊力があってそれが反応するのかも知れぬ。こわい……

(二)
 ただ多くの地ではダイダラボッチは通じない。が、大な反応があったところは二カ所だ、石岡市代田と相模原市だ。前者は知らない者はいない。辻辻にダイダラボッチと称する藁人形を飾って悪霊を追い払っているからだ。後者は、学校で習っているからだそうだ。各地を実踏したがやっぱり大事なのは子供に伝えることだ。今回作っている『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』の狙いは、その伝えである。

 ダイダラボッチは言葉に霊力を持っている。が、その行いにも不思議な力が働く。
 相模原のダイダラボッチはおもしろい。相模原市菊名池に行くには、淵野辺駅で降りる。行ったとき「銀河鉄道999」の絵看板が掛かっていた。

はやぶさ2を、相模原から宇宙へ。日本の未来はここにある。


 「ダイダラボッチ伝説地」相模原は、JAXAの里だったのだ。やはりウリは大きく出ないといけない。

ダイダラボッチを、世田谷代田から全国へ。日本の未来はここにある。

 世田谷代田駅にこういう看板を建てよう。


 当地「麦踏み歌」にはこうある。

代田に名所が三つある
鶴塚にダイダラボッチに花見堂
大山先に雲が見える


時代は変わってウリも変化する。世田谷代田三大名物は

古関裕而に
駅前ダイダラボッチ足跡に
代田の丘の61号鉄塔


続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月19日

下北沢X物語(4168)―我が人生とダイダラボッチ1―

P1020310
(一)コロナ感染が収まらない、罹ったら死ぬだろうと思う。そんな中、我が人生何をしてきたかを考える。ふり返ると三つに括られる。「鉄道」、「特攻」、「ダイダラボッチ」だ。熱中するタイプで巨人伝説には夢中になった。一つ目は戯曲だ、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」〜東京市巨人伝説〜だ。会員が協力してくれて公演まで行った。二つ目が論考だ。『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』紀要6号にまとめた。三つ目が音頭づくりだ、これは二曲、「ダイダラボッチ音頭」、「代田ダイダラボッチ音頭」としてYouTubeにアップされている。四つ目が『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』だ。昨年来取りかかってきたが校了し、17日に編集委員会を代田邪宗門で開いた。委員はしっかりと読んできて丁寧にチェックしてくれた。この冊子、四月に世田谷代田駅前広場がオープンするがその時に配られる。そんなことで編集委員はプライドを持って会議に臨んだ。白熱した議論が交わされたことだ。
◎「ダイダラボッチ音頭」はYouTubeで2000回以上も視聴されていると表示には出てくる。

(二)
長年、ダイダラボッチに関心を払ってきた。当ブログでこれを最初に取り上げたのは2004年10月1日である。以来十六年間、これを追い続けてきた。
まず、『幻想朗読劇 ダイダラボッチ』〜東京市巨人伝説〜のさわりだ。数字は配役者だ。

ぁ屮瀬ぅ瀬薀椒奪舛魯哀蹇璽丱襦△箸曚Δ發覆とんでもない話なのさ」
◆崚喨もない話とはどんな話なんだろう?」
ぁ屬いい、ダイダラボッチは、北方民族ツングース系のオロッコ語から来ているんだ」
 屮ロッコ語?」
◆屮ロッコ語?」
「オロッコ、オロッコ、これまた妙な響き」
ぁ屬修Δ修Α¬な言葉には妙な意味がある。」
「妙な言葉には妙な意味がある。」´↓
ぁ屬いい、耳の穴をほじって聞いてくれ。オロッコ語では『Dai-nare-hagdu』と言うが日本語で言うと『ダイダラボッチ』となる。『ダイ』は大きい、『ダラ』は人、『ボッチ』は穴という意味だ。つまり、巨人がつけた足跡という意味さ。」
「へえ、そうなんだ。これは驚きだ」´↓
ぁ屬い笋い箒辰のはまだ早い」
 峩辰のはまだ早いと、とするならもっと驚くことがあるのですか」
ぁ屬いい、世田谷代田の代田は『ダイダラボッチ』が元になってつけられた地名なんだよ」
◆屬┐叩▲泪犬辰垢?」
ぁ屬發舛蹐鵝▲泪犬世箸癲
 屬修Δ垢襪肇瀬ぅ瀬薀椒奪繊巨人の足跡が世田谷代田にあったということですか」
ぁ屬修Δ修里箸り、民俗学者の柳田国男が『東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。』と言っていて、ちゃんと代田のダイダラボッチの調査にも来ているんだよ。」


 最初の頃、ダイダラボッチがオロッコ語から来ていることが大きなポイントだった。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月17日

下北沢X物語(4167)―戦争の谷の故半藤一利氏―

2005,8,20 031
(一)半藤一利氏の代表作は「日本のいちばん長い夏」だ。この本の序で大宅壮一は「日本的忠誠心」のぶつかり合いだと述べ日本中枢に「大政治家、大監督がいなかった。そのため、同様の事態におちいった他の国ではみられない独自の喜劇と悲劇が、出演者の意志に関わりなく、いたるところで起こった」と。イギリスの医学者が「コロナとの闘いは第三次世界大戦だ」と言い放つ、今国は「日本のいちばん長い冬」に遭遇しコロナと奮闘中だ、終戦処理と同様、コロナとの闘いにおいても指揮官不在だ、それゆえに外野連中が言いたい放題、それで至る所に悲喜劇が起こっている。今、現実の暮らし風景と医療風景に大きな齟齬が起こっている。現に生者選別、患者を生かすか死なすかという究極の選択が行われてきている。第三次世界大戦が起きつつあるのに我々はのんきである。

 十六年間、下北沢文士町の探訪を続けてきた。一帯は、区域区域によって土地柄が違う。北沢三丁目辺りは、かつては野屋敷と呼んだ。舌状台地に開けたお屋敷街だ、クリエーティブな人が多く住んだ。文学だったり、彫刻だったり、建築だったり文化的な香りが高い。

 一方、池ノ上の谷も、舌状台地である。高度差があって上から下までは雛壇形式で住宅地として開発されてきた。下方の一角は「清風園分譲地」として昭和初期に売り出された。
「この地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になって居ますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂『近代郊外風景』が居ながらにして恣にされます」と銘打って売り出された。

 誰がこの時代にあってここを買ったろうか、興味深いところだ。言えば成金、軍人、知識人が多かった。

 逸話の一端だ。この区域の学校は代沢小である。昭和十六年秋に和服をぴっちりと着こなした女性が現れ、子息のクラスに行って「明日から官邸に参ります」と言ったという。東條英機夫人のかつ子である。舌状台地、雛壇の一角に住んでいた。

 昭和二十年五月二十五日の空襲で「池之上方面ではここだけが焼夷弾を受け、付近が類焼した」という。飛来してきたB29が東條家に狙いを定めて焼夷弾をぶちこんだという、いわゆる都市伝説がある。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月16日

下北沢X物語(4166)―池ノ上の故半藤一利氏―

b41cf28f-s
(一)作家の半藤一利氏が1月12日、池ノ上の自宅で亡くなられた。90歳である。当会の協力者でもあった。2006年5月に北沢川文化遺産保存の会は「北沢川文学の小路物語」を区の助成を受けて発刊した。あとがきに協力者を記録しているがここに半藤氏の名前が入っている。私たちは「下北沢文士町文化地図」を作り、一帯の文士旧居をこれに網羅している。物故者を載せている。が、奥さんの未利子さんは漱石の孫でエッセイストだ。旧居マークをつけるのはまだ先だ。半藤一利と言うと彼の『日本のいちばん長い日』が思い浮かぶ、代表作である。池ノ上でも書かれたものだ、彼の執筆位置、拠点取りだ、どこで何を書くか、東京、日本の大激動を書き表す、8月15日を巡ってはかつてないほどに日本の支配層の怨念や嗟嘆が渦巻いた日だ、都心部ではまとめきれない。そこと距離を置いた池ノ上という郊外線駅の静かなところで書かれた。都鄙領域である。「下北沢文士町」は、東京という都市を客体化して眺めるには好位置にあった。

(二)
 2006年2月17日に、当ブログでは「池ノ上の日影山銘酒「松葉酒」という題で記事を書いている。その一節だ。(504回目)

池ノ上の駅の西側を南北に貫いている古い道がある。そこを南下すると古本屋の「由縁堂」、八百屋「はせ川」、「三勝酒店」などがある。その酒屋さんには折々訪れてはご主人に昔の話を教えてもらうことがある。
「そういえばこのすぐ近くに志賀直哉の妹が住んでいたな」
 ぽつりと彼がそう洩らしたことがある。志賀直哉全集で調べてみると確かに妹はいた。異母妹である。しかも何人もいた。誰だったのだろうか、それを調べた。その妹という人が住んでいた近くを聞いてまわった。するとちょうど折良く事情を知っている人と出会った。彼が連絡先を教えてくれた。それは志賀直哉の甥御さんであった。その方のお話から妹の隆子だということが分かった。代沢の「暗夜行路」もおもしろいと思って記事を書きかけたが途中で終わってしまった。

志賀直哉の妹が住んでいた。その家を調べているときにはす向かいの家から人が出て来た。何か事情を知っているかと思って聞いたところよく知っていた。こちらが聞いた人は半藤一利さんだったのだ、それは後で知ったことだ。
 この時に、奥さんも出てこられた。が、これも後で正体を知った。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月14日

下北沢X物語(4165)―代田ダイダラボッチの謎―

P1020307
(一)ダイダラボッチとは何か?根本のところは分からない。しかし、これを解明しようと世田谷代田へ巨人の足跡を調べに巨匠が大正九年一月来たことは大きい、柳田国男だ。当然のことながら意図があってのことだ。一つは、全国でも希な例だからだ、大きさ、深さ形状が明白に存在していたからだ。もう一つは日本人の思考の源泉を探る契機としたいという思いがあったからだ。彼は代田ダイダラボッチの調査をとっかかりとして『ダイダラ坊の足跡』という論考を記した。「日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時からまた如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、もしくはこれに近い名を持って呼びはじめたか」(同著)と問題提起している。これによって代田来訪の意図が推し量れる。言えば、我々日本人の文化の源流調査だった、ということではないか?

(二)
長年、ダイダラボッチについて調べてきた。最初にこれを取り上げたのは2004年10月01日である。ということは、ダイダラボッチに関心を払うようになったのは十六年前であったということだ。以来、ここでは数十回、いや、多分百回近く話題にしてきたように思う。

 最初に取り上げたのは「だいだらぼっち伝説を求めて」だ。その一節だ。

だいだらぼっち伝説は楽しくおもしろい。これを読むとかつての風景の様が浮かんでくる。いまは我々は遠方の景色を喪失してしまったが、武蔵野台地のいたるところから筑波山や男体山、浅間山などはくっきりと見えていたに違いない。代田の丘からは富士山も含めた関東の名山が見えていたはずだ。村人の想像力が山の名を通して見えてくる。

これを読むととあるが「改訂世田谷の民話」にある「代田村に巨人がのっしのっし」を指している。「風景とダイダラボッチ」、我ながらおもしろいところを衝いている。

 往時の人々が風景を物差しとして物語を考えた。山々は物差しである、あれぐらいの高さの山があるならば、あれと同じくらいの巨人がいたのではないか?古代人の想像力の源泉は山であった。

 飛びっきり目立つのはやはり富士山である。代田ダイダラボッチで直接富士山に結びつく逸話はない。しかし、「代田ダイダラボッチと富士」、おもしろいことを発見した。今度できあがる駅前の足跡は富士山に向けて作ってある。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月13日

下北沢X物語(4164)―代田ダイダラボッチの春―

P1020308
(一)「ダイダラボッチの春」は明るい歌だ、彼巨人は善人だ、旅人が困っていたので代田橋を架けてくれた。コロナでみんなが困っているのを見て今は出番を待っている。昨日のことだ、世田谷代田駅前広場でダイダラボッチの足跡の関係者への仮お披露目があった。タイルで描かれた足跡がくっきりと見えた。当地に伝わる古伝承が具体的な形となって四月春には完成する。合唱曲「ダイダラボッチの春」では、「出て来い 出て来い 山は春 ここはお前が大昔 もっこで担いで来た山さ」と歌われる。今度できる代田ダイダラボッチは富士山を指さしている。巨人は四月開場時にはあの富士からやってきて、コロナをやっつけてくれるかもしれない。「出て来い 出て来い 春には代田にやってきコロナを退散させておくれ ダイダラボッチ!」

(二)
 「ダイダラボッチの春」では「ひとりぼっちでどこにいる」と単数であることが歌われる。が、「代田ダイダラボッチ」は複数だ。当地のダイダラボッチを世に知らしめたのは柳田国男である。ダイダラボッチ論として誉れ高いのは彼の「ダイダラ坊の足跡」である。表題の文章を書くに当たって代田の巨人の足跡はうってつけだった。彼が主題として書いた原物、「ダイダラ坊の足跡」がそのままそっくり当地代田に残っていた。

冒頭の見出し語は巧みだ、「巨人来往の衝」である。

「なんとまあ、この東京の空には多くのダイダラボッチが行き交っていたことだ、自身はこれを知ったときに大きな衝撃を受けたことだ」
 こういう意味だ。

 感心するのは科学的ではなく文学的であることだ。ダイダラボッチ論は客観的に説明することは困難だ、あまりにも古い、それで具体的な証拠が乏しい。ゆえに大事なことは想像力である、古伝承は口から口へと伝えられてきたものだ。その経過を明らかにするには想像力がものを言う。イマジネーションを働かせて推理することで論は成り立つ。
 論考の書き出しは素晴らしい、かっこいい

 東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたのである。しこうして何(なん)人(びと)が記憶していたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。
「一つ目小僧その他」 柳田国男 角川学芸出版 二〇一三年刊

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月11日

下北沢X物語(4163)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語20―

P1020296
(一)大統領が支持者たちにけしかけたことがきっかけで暴徒が議会に乱入し死者まで出た。米民主党のペロシ下院議長はトランプの蛮行について「錯乱した大統領ほど危険なものはない」と核のボタンをも持つ彼への危惧を述べた、狂気さえ感じる現職大統領、人権などみじんも考えていない。完璧なまでの自己中だ、一方、戦時中における米側の人権観は驚嘆するほどだった。戦闘機乗員には小型のピストルを持たせた。不時着して活路を見出し得ないときに狩猟用の銃を使って小鳥を撃ち落とし飢えを凌げと。B29の乗員の救急救命バックには釣り糸を持たせた。無人島に不時着したときの用意だ、魚を釣って飢えを凌げ、必ず助けに行くからと。一方の日本の軍部、二枚バネの練習機で特攻に行かせた。不時着する者が多く出たので爆弾を機体に縛り付けた。何が何でも死んでこいという指示である。さて、因縁不思議、台湾特攻のことはまた再びさらなると話へと繋がっていく。一転下馬から今度は名古屋だ。

(二)
 台湾台中近郊に墜落した戦闘機内に猟銃を見つけ、その用途知って驚いた。この逸話を記録した村岡英夫氏はつぎのように感想を記している。

 私たちは、不時着パイロットにたいする生存と脱出のためのこの米軍の配慮には、いささか驚かされた。
 これが、米軍パイロットの勇敢さのうらづけの一部になっているにちがいない。人命を尊重する米軍と、特攻攻撃が航空攻撃の最後のきめ手として、春秋にとむ有為の青年を、多数、必死突入させた日本軍と、いずれがまともな戦い方か、私は疑問を持たざるを得なかった。
 『特攻隼戦闘隊』−かえらざる若鷲の記録− 光人社 一九八二年刊


 同感だ!
 個々人の自由を認める米軍、戦闘機や爆撃機の機内設備でもそのことが分かる。国領に墜落したB29のことは現地に行って調べたことがある。

 これにはノーズアートが施されていた。女性の裸体画である。これを見た若い男は、「こ、こんなものを機体に描いていいのか!」と心底驚いたという。
 この機内には給湯装置があって、珈琲か紅茶を選べるようになっているのを見て、機を調べた日本の軍人がやはり驚嘆している。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月10日

下北沢X物語(4162)―下馬を歩きながら戦争を考える―

P1020295
(一)中国語の記録を読み解いている。「舊式的飛機搭載炸彈,直接衝撞美軍戰艦,每天傍晩趁美機來襲的空隙在機場上空,駕機向下俯街,練習衝撞敵艦。飛行員多半是十七,八歳的紅顔美少年」、中古機に爆弾を搭載し米軍艦船に突撃する、毎晩八塊飛行場上空で敵艦に体当たりするための急降下訓練を繰り返していた。その多くが十七、八歳の紅顔の美少年だったということだ。少年飛行学校出身の者は操縦に不慣れだ、ベテランが見かねて夜間に降下訓練を行って指導していた。日中は制空権を握られているからできない。やむを得ず夜に行う。灯火装置はない。危険だ、が、それでも彼らの本懐を達成させようと毎晩訓練は行われた。目測を誤って地上に激突する者もいた。が、この特攻作戦に軍部は勝機を見出してはいなかった。一撃講和、当たれば八卦、あたらぬも八卦、どうせ負けるのなら少しでも一撃して有利に、言えば紅顔の美少年たちは国家のメンツのために戦わされたのだ。コロナ禍における施策、人の命を守るためではなく国家のメンツを保つためではないかと?

(二)
 読み解いている記録に邱垂宇さんの兄の日記がある。邱垂宇さんは小学校四年生、兄は中学生で往時の記憶は鮮明だ、「兄貴は入院しているけども見舞いに行ったときに戦争の記憶を確かめてくる」と言っておられたが先月十二月に亡くなられたと聞いた。日記だけが便りとなった。

一位和我熟悉的近藤曹長撿到一把狩獵用散彈手槍,他讃嘆美軍對失事飛行員逃生的周到照顧。

1945年6月15日に八塊飛行場に爆撃にきたB29の一機が高圧鉄塔に触れて墜落した。日本軍が調査に来た。そのときに知り合いの近藤曹長がいた。彼は乗り組み員が持っていた小型の猟銃を見つけた。彼はこれを見て驚嘆した、米軍側の兵隊に対する配慮である。日本ではありえないことである。

「ひどいもんですよ。練習機で特攻に行かせるのですよ。1500メートルの滑走路ぎりぎりを使っても浮揚しないのですよ。隊員は逃げられないようにと爆弾を太いロープで縛り付けるのですよ。何が何でも死んでこいということですよね」
 NHKスペシャル 特攻 ~なぜ拡大したのか~を見ていたときに当時の教官がこう回想していた。

 日本軍の兵隊に人権などは存在しなかった。が、アメリカ兵にはあった。彼らが持っていた猟銃は端的にそれを証明するものだ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月08日

下北沢X物語(4161)―荏原台と久が原台―

P1020277
(一)地形が人々の暮らしを決定づけた。家の前は呑川が流れている。日々これを散歩で下る。左岸と右岸では風景が全く異なる。前者は急傾斜の崖線が続く、この背後に九十九谷が拡がっている。後者は傾斜は緩い、そしてほとんどがフラットである。根本的には地層の違いがある。左岸は下末吉層によって構成される荏原台だ。右岸は武蔵野礫層が堆積してできた久が原台である。言えば左岸は険しい、右岸は平坦だ。当然のことながら暮らしがあった。おもしろいのは険しい谷には縄文人が住んだ、一方平坦な台地には弥生人が住んだ。それは暮らしから来ている、縄文人は採取経済だ、木の実を拾ったり、貝を拾ったり、猪を捕ったりしていた。縄文人は耕作をした、それで平坦なところを好んだ。吞川下流域では古代人の暮らしが地形上に現れている。

(二)
 地層的には淀橋台と荏原台は同じである。この二つの台に接しているのが目黒台であり、久が原台である。この高さに関してだが実際に行けばよく分かる。目黒川、呑川左岸は崖線が形成されていて高度が高い。反対に目黒台や久が原台は低い。

 つまりは眺望がよいのは下末吉層によって構成されている淀橋台や荏原台である。とくには左岸崖線は富士がよく見える地点として重宝されている。隣合った台地が低いからだと言える。多分このことは地価にも影響しているはずだ。

 田園調布台も淀橋台と荏原台同様下末吉層によって構成されている。多摩川左岸の崖線は第一級の住宅地だ、崖線に沿って豪邸が林立している。富士の眺めがよいから地価も他よりも高いはずだ。

 この地形についてどうしてこういう差があるのか。これは形成された時期に関係する。
下末吉段丘は今から約十三〜十一万年前に関東一円が海(古東京湾)となり、その後、陸化したものだという。もとは海底に沈んでいたようだ。

 一方、目黒台や久が原台は、武蔵野段丘とも称される。これは今から十〜三万年前に下末吉段丘を浸食して古多摩川が形成され、ここに武蔵野礫層が堆積して形成されたものだという。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月07日

下北沢X物語(4160)―荏原南端凸凹地形探査行―

P1020284
(一)「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ」(『田舎の時計 他十二編』)と萩原朔太郎は言う。馬込平張居住時代の詠だ。この荏原南端は九十九谷と呼ばれるほどに谷が入り組んでいる。至る所に深い谷がある。昨日はその転げ落ちて行きそうな馬込の谷を巡った。谷を覗き込んでいると不思議に悲劇を思う。そこを転げ落ちていった人や馬が思われた。海岸に近いのに荏原南端のV字谷、U字谷の切れ込みは内陸部よりも深い。通り掛かりの女子中学生に聞くと「どこでもここでもありますよ」と坂だらけだという。急坂で「転げそうになりませんか?」とお婆さんに聞いたところ「腰に気合いを入れて上り下りするんだ!、だから長生きするんだ、うふふ」とも。この坂は化石だ。十一から十三万年の歴史がある。ゆえに縄文人を含めての人々の坂の歴史がある。

(二)
 昨日、坂を巡って写真を撮った。谷間の池に降りて歩いていると、「今日は何が狙いですか?」と問われた。「坂です」と答えると相手はビックリしていた。池は洗足小池だ、愛鳥ファンが集うところだ。

「鳥ではなく坂を撮りに来たのですよ。この上池台とか馬込は坂が多いですよね、私は目黒から歩いてきたんですけど、坂の深みとかアプローチなどには目を見張りますね。至るところに坂があって、みんな名前がついているんですよね。平坦地で暮らしている私なんかからすればびっくりしますよ……」

「坂ですか、とくに思いはありませんね、ただ台風、これは怖いですよ。遮るものがないでしょう。だから家が揺れるのですよ……下にスーパーのライフがあって買い物に行きますね、何時だったか『どん兵衛』が籠から転げ落ちて、とうとう下の谷底まで落ちて行きましたね……癖っていうのはありますね、下で買い物して急坂を登ってきますが坂を上り切ったところで自然に後ろをふり返りますね……」
「音の聞こえ方なんか違いませんか?」と私。
「それはもう、南は海でしょう、船の汽笛の音はよく聞こえますよ。それからこのすぐ南手が新幹線の切り通しになっているでしょう、これは聞こえますよ。あんまり音楽的ではないですね……鳩の親玉みたいなのがクウゥククックと鳴いている感じです……」

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月05日

下北沢X物語(4159)―覚志郷の中心拠点は駒繋か?―

CCI20210105
(一)近隣何時も歩く、至る所に縄文遺跡がある、縄文一万年、気の遠くなるような歴史である。現今これらの痕跡は目につかない。古いものでは神社仏閣だ。が。この歴史は浅い、判で捺したように喧伝されるのが源頼義公父子東奥征伐の折戦勝祈願をしたことが創建云々だ。この年号は、天喜・康平(1056〜62)である、それ以前はどうなのかこれは触れられない。駒繋神社もやはり大国主命を祀るここを父子が訪れ戦勝祈願したと伝えられる。命ゆかりの子から一帯は子之神丸とついたという。が、子はネズミではなく子の星だったという。つまりは古代の星信仰だ。往古の昔は「日月星」を大事にした信仰が主流だった、が、東国に勢力を伸ばしてきた大和政権は古代信仰を巧妙に取り込みながら子、北斗星信仰を子、チュウチュウ様信仰に置き換えてしまったという。星信仰は大和政権の巧妙な懐柔策によって消されてしまった。輝く覚志郷も消え去ってしまった……。

(二)
 駒繋神社を戴いた台地の字名は「子之神丸」という。「世田谷の地名」(上)では「覚志」を「カガシ」とする説、つまり、『』(かがし)は輝くであってこれは星、つまりは、子、北斗星の輝きを指すものだという西尾昇説を詳しく紹介している。そして「子之神丸」の由来をこう説いている。

 星宮の祭神に香香背男命(かかせみのみこと)(『日本書記』)があり、これは北斗星で子の神と呼ばれ仏教と習合して妙見菩薩となる道教と関係ある信仰であった。今日この地域に子の神丸という地域が残っていることは香香背男神社があったためであり、覚志(かくし、かがし)はこのことから来ていると考えられる。
「世田谷の地名」(上)発行 世田谷区教育委員会 1984年刊

P1020263
 「子の神丸」地域は、図を掲げた。この『百年前の下馬地図』は「しもうま」(発行所 下馬史跡保存会 1970年刊)の付録地図である。

 これにA鶴ヶ窪弁財天、B清水丸弁財天の位置を付け加えた。Aの弁財天は現鶴ヶ久保公園内に現存するものだ。B清水丸弁財天は私宅に安置されていたが今は現存しない。

 『ダイダラ坊の足跡』で柳田国男は駒沢村の二箇所のダイダラボッチ跡を訪ねる。長年の調査の結果この二つはAとBであると推定判断したものである。続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月04日

下北沢X物語(4158)―新春夢探訪:覚志郷探索―

P1020271
(一)初夢で妙な者に出会った。「和名類聚抄に載っている荏原郡覚志郷は、千年村の候補地だ、が、これはどこなのかは比定されていない。キーワードは『子』だ。字名の『子之神丸』は知っておろう。地形形状は舌状台地、特徴は二つの裾にハケがあって神が祀られていることだ。舌状台地の先端部には子の神が鎮座しておる。すなわち、『子之神丸』は三つの神によって守られている。台地そのものが神霊的な地である。非常に興味深いことは歴史が恐ろしく古いことだ。ここが覚志郷であれば千年は遡る、その可能性は充分にある。二つの谷頭はダイダラボッチ跡だ。付近には遺跡が定石どおりある。先端部の神は子の神、大国主命である。が、この子こそくせ者、命が陥った危難を子、ネズミが助けたことで子の神と称される。が、子とは星でもある。かがし『』は輝く、具体的には北斗七星のことだ。舌状台地の先端部は北向きの小高い丘、星を祈った場である」と宣う。

(二)
 和名類聚抄の中に郷名一覧がある、東京都では比定できた数が六つある。が、比定できていないのは、28もある。そのうちの一つが「荏原郡覚志郷」である。覚志郷はどこか?

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』で、世田谷代田のダイダラボッチを探索した後に、隣村の駒沢村を訪ねる。ここにある足跡を探すためである。このときに「小学校と村社との中ほどにあった」と記した。この小学校は旭小学校である。ここのホームページにおもしろい記事を見つけた。

創立140周年(4月30日)その2

 旭小学校は、上馬の宋円寺に「就学所」と呼ばれる寺子屋ができたのがはじまりです。明治13年のことでした。
 このあたりを「覚志郷(かがしごう)」とよばれていたのが、なまって「あさひ」になったと言われています。
 かつては上馬交差点あたりに「旭橋」がありました。名前がついた石の柱を校庭にうつしました。さて、その石の柱は、校庭のどこにあるでしょうか。


 宋円寺は、厚木街道、国道246号と環七とが交差する上馬にある。そこに行くと「旭小学校発祥の地」(写真上)という石碑が建っている。ここは台地の上なので川はない。が、かつてここを品川用水が通っていた。そこに架かっていた橋を「旭橋」と呼んだものだ。現校庭内に親柱(写真下)は保存されている。

 この説明にある「かがし」が訛って「あさひ」になったは、意味がよく分からない。何か典拠があっての説明だろうが腑に落ちない。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年01月01日

下北沢X物語(4157)―会報第174号:北沢川文化遺産保存の会―

035のコピー
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第174号
           2021年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
あけましておめでとうございます
  昨年、12月17日、当会は創立16周年を迎えました。コロナ禍の中、何とか活動は続けてこられました。これもひとえにみなさまのお陰です。
 文化はおもしろがればおもしろくなる、どうせ生きるのなら楽しくですね! 
*掲出写真は「桃花萌ゆ甲斐の里の富士」撮影:矢花克己


1、「焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム」を読んで
                             石榑督和(東京理科大)

ishigure_img_2

 北沢川文化遺産保存会発行の「下北沢文士町文化地図別冊 増補改訂版 下北沢の戦後アルバム」(以下「アルバム」)をいただいた。オースティンの写真は数年前にSNS上で注目され、当時友人たちが熱狂して撮影場所の特定に励んでいたことをよく覚えている。いただいた「アルバム」は、下北沢というまちに限定してオースティンの写真が選ばれ、その撮影場所が地図に記されている。駅からまちに出ていく際に見える風景を追体験するように構成された誌面は魅力的で、読んでいて嬉しくなった。
 私は建築学科で都市史や建築史の研究をしている。研究テーマのひとつが戦後の東京の都市史研究(『戦後東京と闇市』ほか)ということもあって、きむらけんさんからここに「アルバム」を都市史的に読み解く場をいただいた。
 この「アルバム」の魅力は、誌面のきむらけん「オースティン写真の魅力」や、きむらたかし「オースティン博士の“Shimokitazawa”写真」(『北沢川文化遺産保存の会 研究紀要 第7号 論集 下北沢の戦後』pp.4-7)に書かれているように、大規模な空襲を経験した東京のなかにあって「焼け遺った」まちが写し出されている点にある。図は1947年9月8日に撮影された空中写真(国土地理院所蔵「USA-M449-120」をトリミングし加筆)である。終戦から2年後の状態を記録しており、庭に木々が生茂る郊外住宅が並んでいることが窺える。これと「アルバム」を見比べながらオースティンの写真を読み解いていきたい。
 図に写る建物を大別すると、通りに接して稠密に並んだ切妻屋根平入りの「町家」と、庭を持つ「屋敷」、そして駅前に集まっている屋根が白い建物群の三種があると言える。「町家」と「屋敷」はともに空中写真では屋根が黒く写っている。これは主に瓦屋根でできた戦前からの建物である。それに対して屋根が白い建物群は何かというと、戦後に建設された板葺などのバラックである。板は光を反射し、白く見える。
 図の中に破線の矢印で示した通りが「本通り」「栄通り」「南口通り」といった商店街であるが、こうした通りに並ぶ切妻屋根を持った平入りの「町家」は、オースティンの写真にもよく写っている。「アルバム」の写真05、06、07や08の正面突き当たりに写るような木造二階建て瓦葺きで屋根面が通りから見えるような建物や、写真04、08の画面右側、10、11、15、17、18のように木造二階建ての看板建築である。いずれも戦前の商店建築であり、近い規模と形式を持った建物が街並みを形成していることが読み取れる。
 このような商店街の建物と決定的にタイプが異なる建物が写っているのが写真01、02、12である。こうした写真に写るのは先に述べた「屋根が白い建物群」である。建物の多くは平家の看板建築で、屋根は片流れ屋根で後方へ葺き下ろしているか、妻入りの切妻屋根である。これには戦後の資材不足(同規模でも妻入りの方が、資材が少なくて済む)が影響している。看板を大きく取り付ける商店建築としての構えは興味深い。こうした建物が建った場所は、「焼け遺った」下北沢の中でも戦災を受けた場所である。戦災と言っても空襲ではなく、建物疎開である。全国的にみて建物疎開によって壊された建物の数は少なくないが、その後の空襲の凄惨さによってその記憶は上書きされ、記録や研究も少ない。すでに前掲のきむらたかし「オースティン博士の“Shimokitazawa”写真」で下北沢駅周辺の建物疎開については紹介されているが、空間的に捉える際に注意しなければならないのは、建物疎開は一様な幅を持った帯としてつくられてはいないということである。図を見れば明らかだが、小田急線に沿って一定の幅で空地がつくられたのではなく、既存の道や地割に従う形でギザギザとした疎開空地がつくられた。そうしてつくられた空地に、戦後建てられたのが先に見た写真01、02、12に写された建物たちである。
 戦前からの商店建築と、戦後の商店建築が並ぶ「焼け遺った」まちの風景を写した記録として、この「アルバム」は重要である。

2、食糧難
                     エッセイスト 葦田 華


 昭和20年8月15、恐ろしい戦争が終った。私は3歳だった。どこの家にも電気が明るく灯り、その下で食べたスイトンは格別に美味しかった。もう、空襲警報のサイレンは鳴らないと、家族はみんな喜んで夕食の膳についたのだ。しかし、だからといって、食糧難が一変した訳ではなかった。戦時中とさして変わらない代用食が、少しだけマシになったに過ぎなかった。
 私が7歳の頃、配給でお肉が買えたと、母が喜んでいた。
「お母さん、何のお肉なの?鶏肉?」
「そうねえ、お母さんも初めて食べるお肉なのよ。どういう料理にしようかねえ。」と言った。
 夕食までの夕暮れに、私は缶蹴り遊びの仲間達に「うちねえ、今夜のご飯はお肉なんだよ!」と吹聴して、みんなをおおいに羨まがらせた。さて、待ちに待った夕食になった。深いめの小どんぶりに、ごぼう、大根、人参、こんにゃくと、四角に切った何かが入っていた。
「これがそのお肉だな!」
 と、真っ先に箸で取り出して見つめた。濃い灰色の、少し厚めの皮の下に、クリーム色のぶ厚い層があり、その下に茶色い部分が少しついていた。噛みついてみると、皮がゴムのように硬く、クリーム色の個所はグジュと柔らかい脂身で、茶色いところがお肉だったらしい。お肉の部分はほんの少ししか付いていなかった。
 美味しいか?と聞かれれば、こってりした脂身は確かに旨かった。少し茶色い肉も付いていたことだし。味噌味の野菜類も、脂身のおかげで旨かったけれど、お肉の皮は噛み切るのに骨が折れた。
「お母さん、これ、何のお肉なの?」
「これねえイルカの肉ですってよ。」
「イルカってなあに?」
「鯨の親戚かしらねえ、海で泳いでいるから魚かしらねえ?」と言った。
 後年、図鑑でイルカを見た時の衝撃といったら、言葉にならなかった。
なんて愛らしい動物なんだ!!やがてテレビで、調教されたイルカが、水の中で跳んだり跳ねたりしている姿を見て、私達はあんな可愛い、知的生命体を食べていたのか!と愕然とした。

 戦争は諸悪の根源だ。戦争さえ無かったなら、イルカなんて食べなくっても良かったのに!!イルカショーの、輪くぐりをする賢い動物を観ながら、葦田華はとっても悲しくなるのだ。

3、巨人伝説読本『代田のダイダラボッチ』

 今年4月に世田谷代田駅前広場が完成する。「駅前広場開場記念事業実行委員会」に当会も参画している。協力の一環として「代田のダイダラボッチ」を紹介する冊子を作っている。当地ダイダラボッチの基礎知識を一般、あるいは高学年の学童にも分かりやすく伝えようとまとめている。執筆は、きむらけんが担当し、書き上げた。
 ダイダラボッチは全国的なものだ。単に当地域に伝わるだけでなく広くに伝わるようにと心掛けて書いた。御期待ください。

4、プチ町歩きの案内
 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。

プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第164回1月16日  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館
*ポイント:落合地域がまだ東京近郊の農村だった大正末期から昭和初期にかけて、プロレタリア系の作家たちがこの地に集まってプロレタリア文学運動の拠点をなした。しかし政府の思想弾圧などによって、転向があいつぎ運動が衰退すると、尾崎一雄ら新興の芸術派の作家たちが居住するようになり、文士村は新しい様相を見せた。高台には目白文化村なども独特な景観を見せているが、今回の散歩では落合文士村にしぼって下落合〜中井駅(西武新宿線)の間に点在する作家たちの旧跡を訪ねてみようと思います。


第165回2月20日 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲今号は石榑督和先生(東京理科大学)にご寄稿いただいた。縁が生まれたことから「石榑督和先生と歩く下北沢戦後アルバム」を提案したらコロナが収まってからなら大丈夫とのこと。町歩きの企画にいずれ入れようと思います。
▲プチ町歩きを実施しているが、コロナ感染が一向に収まらない。一二月は実施する予定である。感染が広がるようであれば一時中断もありうるか?
▲会員は、年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
ただ、振り込み手数料が掛かる。それで会員名と住所とを封筒に書いて、中に会費を入れて歩く会のときとか、または邪宗門に立ち寄ったときに払ってくだされば助かります。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 08:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月31日

下北沢X物語(4156)―2020.BEST.1情報は台湾古老から―

CCI20201231 (2)
(一)日本の戦争が彼の運命を運んできた、邱垂宇さんだ、夏、台湾からの一本の国際電話。めまいがしてしまいそうな知らせだった。87年前、彼は陸軍八塊飛行場の側に住んでいた。ある日美しい機が舞い降りてきた、少年は有頂天になった。そしてまた後に戦闘機からは若い隊員が颯爽と降りてきた。この機と人との出会いが彼の将来を切り開いた。飛行機は美しい流線型を持った百式司偵だ、人は武揚隊の隊長の山本薫中尉だった。その邱垂宇さんは、1944年から1945年までの二年間滅びゆく日本軍の飛行場を見ていた。一昨日だ、邱垂宇さん自身私から話を聞くまで八塊が枢要な特攻基地だとは知らなかったという。今になって思い返すとすべてが特攻に繋がっていく。彼の証言の一つ一つは歴史パズルの片々だ、組み合わせていくと短命に終わった八塊陸軍飛行場の歴史が浮かび上がってくる。残さねばならぬ記録だ。

(二)
 終戦末期、戦争は航空戦が主力となった。南方からの敵の来襲に備えて1944年初頭から台湾国内では飛行場の造成が始まった。八塊陸軍飛行場もその一つだった。一気に作り上げるということで国民学校の学童まで動員された。邱垂宇さんもこれに加わった。砂糖黍畑を掘り起こし、そして固める。困難な作業だった。やがてこれも終わり、初飛行が巡ってきた。邱垂宇さんの人生ドラマの端緒、物語である。少年と飛行機の出会いとなる。

怎麼能放過這輩子第一次觀賞飛機的機會・邱垂宇拖著弟弟就跟著狂奔・一路直衝機場而去:守衛的日軍可能對飛行場該如何管制也沒有什麼概念・所以到處都有近悦遠來台灣人湧進八塊飛行場裡來看熱鬧:只見負責試航的日本機員正在和地面人員討論著飛航細節・而邱垂宇即使冒著挨罵的危險・也要伸手去摸一摸飛機的蒙皮・感覚覺−。

「飛行場ができていくでしょう。父親の方は不安がっていましたよ。でも私は違いました。どんな飛行機が飛んでくるのだろうとワクワクする思いでしたね」
 そんなときに飛行場上空から音が聞こえきた。
「あのときは、邱さん弟の手を引っ張って飛行場に走りましたね」
「そうそう、懸命に走りましたよ」
 飛行機好き少年はこの機会を逃してなるものかと脱兎のごとく走った。

 まず飛行場ができて試験飛行が行われる。この文章の中には機種は出てこない。しかし、国際電話が掛かってきたときにこの話になった。

「あれはね、確か百式司偵だったと思うのですよ」
邱垂宇さん突然に思い出された。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月29日

下北沢X物語(4155)―歩きは人生最上の至福―

DSCN0029
(一)「今年何をしましたか?」と問われたら、「ひたすらに書き、そして歩きました」と自信を持って答えられる。昨日は、日吉旧連合艦隊司令部の裏手の小山で足下を潜り抜ける新幹線を眺めた、ちょうど上りと下りが交差していった、シュッパッ、シュッパッと音を立てたかと思うと瞬時に消えた。「なんであんなに急ぐのだろう?」。近代の機械高速時間と歩行遅速時間の差は広がるばかりだ。歩行遅速時間は黄金時間だ。歩きは、すばらしい、歩いていると無尽蔵に歩く道が湧いてくる、おもむろにカーブを描いて森の方に消えている道に出くわすと、心がときめいてくる。ゆきゆくと海が見え、富士が見えてくる。人生、歩きほど楽しいことはない、今年も休まずに歩きまくった、約3650キロだ。

(二)
萩原朔太郎は散歩を、漫歩と称する、これこそが「私の唯一の『娯楽』でもあり、『消閑法』でもある」(『秋と漫歩』)と言う。日々ほっつき回るのは「自分の家では、一時間も退屈でいることが出来ない」からだと。

 人間にとって大切なのは「目の移り」である、歩けば景色は動く、紅葉が見えてきたり、美女が歩いてきたり、かわいいイヌがやってきたり、また、ちいさな子がもみじ手を一斉に挙げて道路を渡ったり、そんな様が見られる。

 景色の変転は人には刺激である。生きるということは何千枚の景色を貯め込むことである。歩いていると不意にその一枚が浮かんでくるときがある。歩きは過去と今とを交差させる。絵解きの面白さもある。

 歩いているときに幼少時の風景を思い出した。夏の夜、海岸縁で浴衣を着た男女が盆踊りをしていた。と、男たちが「ボボ、ボボ……」と言っては草履で砂地を強く踏む、「ザッザッ……」と音がする。脇で見ていて何だか恥ずかしい思いがした。

 今だから分かる。男達は盛りがついていたと。子供の自分がその雰囲気に当てられて恥ずかしくなったのだと。思い出したのは彼らが興奮してマラをたてていた。
 おそらくはかなり昔から行われてきたものだろうと思った。風習や習慣だ。古代を覗き見るようにも思った。

 歩きでは景色をめくるが、過去風景もめくられる。これが刺激である。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月28日

下北沢X物語(4154)―コロナ禍の中で思うこと―

P1020245
(一)コロナとの闘いは普段着の戦争だ。日常生活は営まれているが現実には大きな変化が起こっている。一番感じているのは視覚障害者だ。街が激変したという、彼らは音が便りだ、が、感染症の拡がりで中心核である音世界が崩壊しつつあるという。人の気配で青信号を見分けていたが渡る人がいない、歩道通行では音の跳ね返りで自分の位置を知った、が、感染対策で表ドアは開放されている。人の話し声で人との距離を測れた、これらすべてが激変した、自己がどこにいるのか分からないと。世界が瓦解したのではとも。目に見えないところで我々の社会は急変しつつあるのではないか?コロナ禍が長く続き、我らは異常を異常と感じなくなっている。時間観の欠落、感受性の摩滅、不感症が進行している。感動がない、喜びもない、気づいて見るともう年の瀬。『徒然草』、第十九段では大晦日の情緒を歌う、「年の名残も心ぼそけれ」と。そして、「大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ」と兼好。が、今我らは過ぎゆく時をああ哀れとは感じ取れなくなってきている。

(二)
 ニュースでは日々、感染者数が伝えられる。連日、その数は記録を更新している。同時に海外の感染者、死亡者数も報じられる。前者は8070万、後者は176万だと。これらの報に接しても驚かない。異常が日常化すると我々の感覚も死んでしまう。

 春先の一次感染者の報では、イタリアの実情が報告されていた。棺桶がずらりと並んだ映像は強烈なショックだった。もうその死者も通常の方法では処理できなくて、巨大な大穴を掘って、ともかく無造作にそこに棺桶を放り込んでいた。人間には魂が宿るとか言っているが、人間の最後はああなんだと思った。

 文明が音を立てて崩れ去りつつある。文明の親玉は汽車である。明治5年(1872)にこれは動き出した。初めてこれに接した人々は、火龍だと言ってにげまどい、腰を抜かすものもいた。黒い物体は火を噴き、煙を出した。見るからに恐ろしかった。

 鉄道の発展と進歩、これが文明を牽引してきた。日進月歩日々速度を速めていった。乗車人数は増え、いわゆる在来線では間に合わないということで新幹線ができた。ところが今年の夏、大激変だ、人は感染を恐れて帰省や旅行を控えた。空気を運んでいく新幹線というのも全く初めてのことだった。

 飛行機はもっとひどい、国際線がストップしてしまった。国内線がかろうじて動いてはいるが乗客数は激減した。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月26日

下北沢X物語(4153)―都市文化測定物差:下北線路街―

P1020249
(一)柳田国男は代田ダイダラボッチを探訪し、東京が巨人伝説の一中心地だと知った。下北線路街を歩くとこの区間が東京郊外文化伝説の一つの中心地だと認識できる。夥しい逸話がこの線路街の至るところに眠っているからだ。「由縁別邸 代田」の側に通路がある。踏切跡だ、一時大勢の若者が集まってきた。一帯には彼らが食い散らす菓子、アンパンの袋、ジュースの空き缶が散乱していた。踏切側の家から一人の女性が出てくると集団は興奮した「ミキちゃん!」、キャンディーズのミキちゃんファンだ。遠く過ぎ去った過去だ。層の厚い文化を遺しているのは線路街の一角に完成したレジデンシャル・カレッジ、居住型教育施設・学生寮である。この地層に埋まっている変遷を辿ると日本近代の文化変遷が読み解ける。

 まず学生寮跡の前史だ「裏の斜面の下には田んぼが下北沢までつづいて拡がって、家の下を流れる小川に子供が行けばバケツに半分ぐらいのフナやドジョウが直ぐにもとれた」(『家屋の亡霊』代田:安岡章太郎)。学生寮は下北沢へつづくこの田圃の一角だった。
 小田原鉄道急行が開通したのは昭和二年(1927)だ、これを契機に一帯に住宅が建った。田圃のあった田舎に都会人が来て住むようになる。するとここに商機が生まれる。
「田圃を埋め立ててここに肉屋、魚屋、八百屋などを入れた百貨店を作ると儲かる」
 ということで工事は始まった。「父ちゃんのためならエンヤコーラ」とよいとまけが謳われて土を固め、そしてコンクリートが打たれた。

 中原百貨店は賑々しく開店した。屋上には楽隊を上げて、楽器を吹き散らした。鎌倉通りはこれができたことで賑わった。が、商売はあまりうまく行かなかった。すぐ西には中原商店街がある。ここはおしゃれな通りだった。
「下北沢へ買い物に行くときは化粧はしないが、中原商店街に行くときはね……」
 経営者が思うほどに買い物客は集まらず、とうとう閉店してしまった。

「しかしな、田圃を埋め立ててコンクリートを打った、金もだいぶ注ぎ込んだ。もったいない……あれがいいか」
 大正二年(1913)に子供達の間でローラースケートが大流行した。これをきっかけとして一般にも広まっていた。
「小田急電車からもよく見えるし、客は必ず入る」
 中原百貨店のつぎは、ローラースケート場ができた。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月25日

下北沢X物語(4152)―下北線路街と下北沢X惜別物語―

IMG_NEW_0001
(一)「下北線路街」は新しい街だ、ここを歩いているときに気づいた。この街の記録上の前史に当たるのが「下北沢X惜別物語」だと。すなわち地下化によって一切の線路は失われた。この地表線にあった駅と踏切の歴史とを克明に残したのがこれだった。発行は2007年3月だ。この11年後の2018年3月3日に線路は地下に切り替わった。地表から電車の走行音も踏切警報音も一切が消えた。これらの音にこそ歴史が刻まれていた。線路街の代田側から歩いたが下北沢へ向かっては下っている。かつては25パーミルの勾配だった。電車はここで加速がつき先行電車に何度かぶつかった。砂利を満載した貨物がブレーキを掛けながら下る。すると、ぎゃ、ぎゅ、ぎょという音がして家々がミシミシと音を立てて揺れた。終戦直後、機銃を構えた米兵が民家に銃口を向けたまま貨車に乗って過ぎた。東京へ進駐する米第八軍第一騎兵師団の精鋭たちだ、沿線の住民は雨戸を締め切って息を潜めてやり過ごした。今やその痕跡は一切ない、わずかに線路街の傾斜がかつてを偲ばせるのみだ。

(二)
 世田谷代田駅側から下北線路街に入る。目につくのは和風旅館である。これが建築される前に小田急側の人と話したことがある。和風旅館を建てるに当たって過去の需要、そして文化などもリサーチしている。
「昔、下北沢に和風旅館があってこれがはやっていたでしょう」
 これは紀行作家宮脇俊三の家だった。広い日本家屋は人手に渡ってこれは和風旅館として使われていた。「晴光園」だ。かつては下北沢駅構内に看板が掲げてあった。
「田舎から出てきて息子に会いに行くときはよく使った」
 下北沢の街の特質、かつては寮が多かった。親御さんがたまに上京しては息子の様子を見に来る。そんな場合、重宝していたようだ。
 「寮の街下北沢」、これも街の歴史だ。戦前のことだ、「下北沢には作家や詩人志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた」(『台上の月』中山義秀)と。将来を夢見た若者が集まっていた。
 ・交通の利便性が高いという点はある。大学も多く近辺にはあった。
 ・「下宿と定食の街」と言ったのは井上光晴だ、自身もここに住んでいた。沢筋にはアパートや下駄履き下宿、階下は自宅、階上は下宿屋。ここに住む若者相手の食堂が低廉な定食を出した。
 
「下北沢は階梯の街」だ。ここで貧乏学生として苦労を重ね、学校卒業後に大成する。
「オデオン座にはよく行ったよ。あそこで洋画を見ては志を熱くしたよ。オードリー・ヘップバーンなんてかわいかったな。おれもあんな彼女と恋をしよう……」
 若者は夢を見る。詩人を作家を志したがだめだった。という若者は大勢いる。

 が、一方、学生時代の苦労が報われて成功した者もいた。今度は、代沢の高級マンションに住む。ハシゴ段を上った者だ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2020年12月23日

下北沢X物語(4151)―下北線路街とダイダラボッチ―

P1020247
(一)「下北線路街」は新しく生まれた街だ、小田急線、東北沢駅と世田谷代田駅の地下化に伴って生じた線路跡地を活用した街路である。日曜日、この一角で行われるイベントに自分が撮った旧踏切の写真が展示してあると聞いて行ってみた。世田谷代田側から入った。駅前広場は工事中だ、大きなダイダラボッチの足跡がここに来年4月にできる。これに間に合わせようと「巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ」をまとめた。口から口へと伝わっていたこの伝説が形象化される。単なるお話ではない、国のいできはじめまでつながる話だ。足跡は富士に向けて作られる。歴史を超絶する物語がここに潜む。この代田には気の遠くなるような物語が潜む。が、近代の都市の戦略は歴史よりもネームバリューを優先する。代田線路街ではなく、下北線路街と名付けられた。「ここは下北ではない」との声を聞く。ダイダラボッチを語源とする代田側はあまり快くは思っていない。

 20日は晴れていた。ダイダラボッチ広場建設予定地からは富士(写真)がよく見えた。素晴らしいと思った。
 当初の図面では足跡の方向は明確に意識されていなかった。
「富士とダイダラボッチは深い関係にあります。ここに足跡を作るのならぜひ富士の方に向けてください」
 この提案は、駅前広場開場記念事業実行委員会で認められた。
P1020197
 「巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ」では、富士とダイダラボッチの関係を書き記した。が、これのまとめについては苦慮していた。
 頭の片隅あったのは洗足池を中心とするダイダラボッチ伝説だ。この巨人が土をすくって投げたところ富士の山となった。跡地は品海(東京湾)になったという話だ。広い意味での東京ダイダラボッチ伝説の一つだ。

 代田ダイダラボッチの場合は足跡は有名だが、その所業はいささか寂しい。有名なのは、「代田橋を架けたのはダイダラボッチだ」という話だ。が、柳田国男は「巨人の偉績にしはなはだ振るわぬもの」と、その所業はみみっちい。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化