2023年10月01日

下北沢X物語(4795)ー北沢川文化遺産保存の会会報第207号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第207号    
           2023年10月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、世田谷の市電敷石の探訪 きむらけん

 それは偶然に発見から始まった、散歩では世田谷中町はよく通る、前から気になっている個所があった。そこには畑のフェンスに沿って御影石が多く積み上げられている。通り掛かったとき管理人に出会った。「前から気になっていたのですが、この石は何でしょう?」と聞くと「横浜市電の敷石ですよ」とのこと。「どうしてここに置いてあるのですか?」「畑の持ち主が払い下げ品を買ったんですね」との返答があった。

 これがきっかけとなって市電敷石に興味を持った。調べていくと敷石には規格があることがわかった。「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文)に各都市の市電の規格が載っている。横浜市電は巾が400ミリで厚さは110ミリであり、都電は巾は360ミリで厚さは100ミリであった。さっそくにメジャーを持って測りに行くと、サイズはぴったりだった。
 世田谷中町に敷石があるとすれば近辺にもあるはずだ、金剛寺、そして地主の粕屋家に御影石が使われていた。が、サイズを測るとこれは両方とも都電の敷石だった。
 敷石の野積みについては深沢の秋山邸にもある。ここは新玄関、旧玄関に御影石がきいれいに敷かれている。これも360×110で都電のであった。
 小田急下北沢駅の南口はこの秋山家が持っていった都電の敷石が敷かれている。代田寄りの線路街に旅館「由縁別邸」があるが、ここの床も秋山家から持ってきたもので床に敷かれている。
 
 もう一つ大規模のものとしては駒沢公園がある。管制塔前広場である。ここに全体に御影石が敷かれている。都電のものだという。しかし、調べてみると全部が400ミリである。しかし、「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」ではこのサイズは載っていない。謎である、もしや玉川電車のものかとも考えた。田園都市線駒沢大学駅のトイレはこの敷石が使ってあるとのことでサイズを調べたが402ミリである、この玉電は昭和44年に廃線となっている、東京オリンピックは昭和39年開催である。よって玉電の敷石は除外して考えてよい。
 しかし、常識的に考えて駒沢オリンピック会場で都電以外の敷石を使うことは考えられない。首都東京のプライドがあるはずだ、横浜のは使うわけはない。
 「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には一覧表が載っていて東京市電のは大正9年のと昭和17年だけである。ここに載っていうのは360ミリばかりである。
この軌道敷石については全国各地で採石されていた。その場所は全国では23個所に及んでいた。先の土木学会論文によるとその主要産地は六ヶ所だった。茨城県稲田、茨城県稲田、群馬県沢入、山梨県塩山、岐阜県恵那、広島県倉橋島、香川県小豆島だったという。各社から注文を受けて石を掘っていたようだ。規格がそれぞれであったことから日本工業規格で全国で統一した軌道用規格が制定された。これが戦後の25年である。種別はさまざまだが巾と長さが統一された。巾が400ミリであり、厚さが100ミリであった。
駒沢公園の都電の敷石は戦後に設けられた日本工業規格に基づいた製品である。つまりは昭和25年以降に新しい規格で採石されたもので作ったということである。
 
 五輪施設についてレガシーという言葉が使われる。開催者側が資金を得るための策略として使ってきた。手垢のついた言葉で嫌いだ。が、駒沢の管制塔前広場は間違いなく景観遺産である。競技場や体育館などは管制塔を中心に伽藍配置をしたという。青い空、建物、そして都電の敷石を敷き詰めた広場、風景として調和している。都市廃材がこれほど巧く使われたところはないだろう。戦後19年、五輪を希望として未来に繋げる、技術者たちの心意気が見えるように思った。近隣目黒十中の生徒だった人、できあがった駒沢競技場に行って圧倒された。「侘しい球場しかない野っ原に近代建築が見事に建ち並んでいてまるで蜃気楼を見ているようでした」と驚嘆した。この景観を支えているのが都市廃材、都電敷石で作った広場である。
 しかし、都電敷石が景観として立派な役割を果たしていることについては何の説明もない。希望を言うならば、広場の片隅にこのことを記した看板を設置してほしい。後世への伝承があってこそ遺産になる、そう信じるものである。

2、下北沢駅井の頭線橋台の謎を追う すぎたま
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 きむらけん氏のブログを拝読すると、鉄道省のC58形蒸気機関車が戦時中小田急線に入り、その撮影を試みた住民の方の話が出ていた。興味が湧いて、鉄道雑誌や『小田急五十年史』まで持ち出し、事実を探った。
ところがその過程で、下北沢駅にあった井の頭線の橋台が、鉄道省・運輸省(→国鉄)の列車を小田急線へ通すのに支障するので削ったという話も読むことになる。
 この地震国で、構造物の強度低下を招くようなことをするのか。とは言え戦時下だ。強行もしそうだ。そんなことを考えながら、手持ち資料で検討しているうちに、偶然ネットオークションに決定的な写真が出ているのを発見した。落札して届いたのが掲げた写真だが、小田急線の下北沢駅下り線を、当時新鋭だったロマンスカーSE車が走り抜けるカットである。

写真の右側、ロマンスカーのすぐ右にかろうじて写っている井の頭線下り線の橋台が、丸く削られているではないか。しかもよく見ると、われわれ世代が日々見た橋台とは形状も違う。撮影は1959年3月4日だそうだ。すると戦争が終わってからまだ14年弱。戦時中の工事跡なら、普通に残っている年代だ。
鉄道ピクトリアル誌(*1)によれば、1944年5月6日省のC58形蒸気機関車に、ナロ21700形を付けて試運転し、通過に差し支える場所へ対策工事をした旨記述がある。おそらくはこの時に下北沢駅の橋台も削る工事をして、大形の省形車輌が通れるようにしたのだろう。
小田急線を東海道線のバイパスとして使う構想は戦時中にあって(*2)、具体的なダイヤも検討されていた。1944年8月新宿駅に省線と小田急線を結ぶ連絡線を急造し、1944年9月に再度C58蒸気機関車及びEF10電気機関車と客車4輌で試運転をした。しかし機関車は重く線路支障があるとのことで、電車で試運転。実際1945年5月24日の京浜空襲で東海道線が不通になると、省の電車を小田急線に乗り入れさせ運転したとのことである(*1)(*3)。
下北沢駅橋台の話に戻ると、もう一つのポイントとして「ホームの高さ」が関係しそうだ。
機関車の引く客車列車が走る駅のホーム高さは760ミリ。客車にある踏段分低い。一方基本的に電車のみが走る駅のホーム高さは1100ミリ。当然小田急線は開通時から1100ミリで建設されていたと思われる。ここに機関車や車体の長い車輌を通そうとすれば、特にカーブしたホームを持つ駅では、ホームをかなり削らないと、車体を擦ることになると予想される。
下北沢駅の下り線は、新宿寄りにカーブが入っているし、かつ井の頭線の橋台がホーム端にもあり、その部分のホームは狭かったから、反対側の橋台をやや大きく削って対処したのではないだろうか。
*参考文献
1)鉄道ピクトリアル286号、pp53、東京、鉄道図書刊行会、1973年
2)小田急五十年史、pp184,202、東京、小田急電鉄株式会社、1980年
3)小田急1800形−昭和の小田急を支えた大量輸送時代の申し子、pp32、生方良雄、東京、戎光祥出版株式会社、2018年
※ロマンスカーの写真はすぎたま所蔵。撮影者不明。1959年

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第188回 10月21日(土) 大山道旧道を歩く(三軒茶屋文士町文化地図発行記念)
三軒茶屋誕生のなぞを解く〜なぜそこに追分はできたのか
 案内者 木村康伸 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札 13時30分集合
コース:三軒茶屋駅→大山道道標→若林富士講碑→常盤塚→大吉寺・圓光院→世田谷代官屋敷(世田谷郷土資料館中庭には道標などがある)→用賀口道標→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅
コースの魅力:三軒茶屋は、江戸時代中期に大山道の追分(分岐点)ができたことにより生まれた。なぜそこに追分ができ、三軒茶屋はできたのか。大山道の旧道を歩きながら、歴史的・地形的な観点からそのなぞを解き明かしてゆく。


◎申し込み方法、参加希望、費用について 資料代500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498
*区内での町歩きは情報が流せるが区外のは宣伝が限られてきた。コース提案を乞う。                    

4,創立二十周年記念祝賀会
今年末12月で我等の会は創立20周年を迎える。時も20年も経てば完全な歴史となる。会には多くの人が関わってこられた。が、その人々も物故されてしまった。今回はまずそういう人々への感謝の念を表して、弔意を表したい。
 東盛太郎氏、広島文武氏、道吉剛氏、金子善高氏が思いつく。その他志し半ばで亡くなった方も数人おられる。最初に弔意を表す儀式で初めようと思う。献杯だ。
 日時、12月2日 午後17時40分に開催する。
 参加費用 4000円 お弁当を信濃屋に発注します。予定としては11月20日に申し込みを締め切って発注したい。参加希望を募ります。  

■ 編集後記
▲ネットのフェイスブックに「世田谷の秘密を教えてちょ!誰も知らない世田谷の秘密を教えてください!」という掲示版がある。これに加入して当会の動きを伝えている。かなり反響がある。町歩きについてもここで宣伝したところ結構手応えがあった。興味ある方は加入をお薦めします。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲「下北沢文士町文化地図」改訂9版は鋭意編集中、刊行は来年3月を予定している。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ
▲メール版ではPDFを添付しています。



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2023年09月30日

下北沢X物語(4794)−代沢小音楽文化物語(仮)まとめ−

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(一)清新な歌が村に響き渡った、戦争ももう末期、1945年5月のことである。人々の心は戦争に疲れていた。そこに爽やかな歌声が聞こえてきた。村に再疎開してきた子どもたちの声だ。引率教員の浜館菊雄先生は「音楽は人々の心に愛情の火をともすものだ。なに一つ心の慰めを持たない、この哀れな子どもたちにとって、音楽こそ唯一の心の糧なのだ」との思いから寮歌を作って学童らに歌わせた。すると確かな手応えがあった。歌うことで勇気づけられた、鬱屈した思いは晴れた。心に火が点いた。リズム感に優れた子どもらはたちまちに歌を自分のものとした。ハーモニーがぴたりと重なって、その増幅された歌声が風に乗って辺り一帯に響き渡る。近隣の村の子は耳を立てた、寺から聞こえてきた歌だ、子どもらは一散に駈け出し寺に向かった。

 この寮歌が発端となって歴史に埋もれていた「鉛筆部隊」が日の目を見たものである。鉛筆部隊は、2012年の夏に発刊された。大きな反響があった。朝日新聞書評に日本経済新聞のコラムに、また共同通信が配信する記事が地方紙にも載った。テレビやラジオでも取り上げられた。「ラジオ深夜便」での反響も大きかった。関連する情報の提供をと言ったところ、全国各地かたくさんの返事が寄せられた。

 「鉛筆部隊」という用語が清新だった、銃を持てない子どもが代わりに鉛筆を持って戦った。「ペンは剣より強し」にも繋がる。これが人々の心に響いた。

 鉛筆部隊が日の目を見るきっかけになったのは「郷福寺学寮歌」である。しかし、学寮歌はもう一つあった。洗馬村真正寺の学寮歌である。ここの引率担当は浜館菊雄先生である。彼は音楽指導者である。

 1945年4月に、代沢小は再疎開をする。「中央本線塩尻町を中心とした宗賀村、洗馬村、広丘村、朝日村の五か町村」である。この再疎開に際して浜館先生は、職員会議に提案をした。浅間ではバンドを作って練習をさせていた。それで「バンドを存続させることにし、メンバーの中でもかけがえのない者を、私の学寮に移すことにした」(『学童集団疎開 浜館菊雄 1971年刊)とある。すなわちそれは洗馬村の真正寺であった。つまりはこの寺には音楽好きの子どもたちが集まっていた。

(二)
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 洗馬村真正寺は言わば音楽寮である、寮歌はここでまず生まれた。浜館菊雄先生によって「真正寺学寮歌」が作られた。

真正寺学寮歌

一、みんな明るいわたしもぼくも
  森の小鳥がちろちろ啼いて
  朝だよ起きなと窓からのぞく
  洗馬の真正寺は明るい学舎
二、みんなうれしいわたしもぼくも
  歌にあけくれ楽しいつどい
  村の子どもいっしょになって
  洗馬の真正寺はうれしい学舎
三、みんな元気だわたしもぼくも
  強く正しく伸びなきゃならぬ
  父様母様これこのとおり
  洗馬の真正寺にきてみてごらん


 浜舘は真正寺に来て一番印象的だったのは小鳥の合唱隊に出会ったことだ。学童と夜を共にした翌朝の印象を「今境内の林をうずめて何百羽の小鳥のふるようなさえずりである。夢うつつに聞けば、天上の音楽のように、新しい力が全身にみなぎりあふれるように感じられた」と彼は日記に書いた。疲れている自分すら活力が湧いてきた。子どもたちが元気をもらわないはずはない。それで小鳥の囀りを持ってきた。

 この歌を作って学童に歌わせた。これがとても評判が良かった。疎開学童だけでなく村の子どもにも評判だった。歌の時間になると寺の周りのこどもが集まってきて、先生に早く歌を歌ってくれとせがんだ。
ミドリ楽団物語
(三)
 「真正寺学寮歌」が先にできてこれの影響を受けて「郷福寺学寮歌」ができた。真正寺と郷福寺はそんなに離れていない。もう十年前になろうか、郷福寺でこれらの学寮歌を披露するコンサートが行われた。年老いた地元の人が多くきていた、その人々は両方の歌を覚えていた。

 これら寮歌は都会的センスを持った歌だった。田舎の子たちは非常に新鮮な驚きだったらしい。代沢、下北沢的文化が塩尻地方に音楽として響いて土地の人に影響を与えた。
 二つの歌は、「鉛筆部隊」がきっかけとなってまた再び生き返った。いまでは地元のコーラス部がこれらの歌を伝承している。

 代沢小の家庭学級から要請があって「代沢小音楽文化物語」を話すことになった。私は心覚えとしてここに話をまとめた。この話、戦後の「ミドリ楽団物語」に繋がっていく話であるが話の長さからして無理である。とりあえず戦中編として話をしようかと考えている。
(写真は、代沢小の疎開学童である)

〇お知らせ
 北沢川文化遺産保存の会の第107号は、明日印刷して邪宗門に届ける。
 14時頃を予定している。





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2023年09月28日

下北沢X物語(4793)−代沢小音楽文化物語(仮)4−

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(一)村に突然響きわたった疎開学寮歌は地元民の耳には衝撃だった。代沢小は浅間温泉に疎開していたが空襲の恐れがあったことから郊外の村に再疎開をした。村の学校では地元の子どもと机を並べて学習した。勉強は都会の子の方が勝る。そのやっかみもあって疎開の子は村の子どもにいじめられた。その意気消沈した学童を勇気づけようと引率教員は寮歌を作って歌わせた。そのメロディは都会的な清新さがあった。手慣れた学童はメロディにきっちり合わせて歌う。風に乗って歌が里に響きわたった。何事?と村の子どもは聞き耳を立てた。心が田舎の空に飛び上がっていくように思われた。何とまあ歌は、逆に村の子どもを励ましてしまった。

 「疎開学寮歌における心の解放と自由」という論文が書けそうである。それだけ文化的に面白いものである。

 代沢小区域における音の感性ということはある、浅間温泉ではラッパ隊がいた。朝の起床時に隊員はラッパを吹いた。朗々と響きわたるその音を聞いて疎開学童は起床した。
 知られていないことだが彼らは疎開前に代沢に隣接する陸軍の部隊に行ってラッパの手ほどきを受けている。常日頃駒場の陸軍部隊から響いているラッパの音に馴染んでいた。

 これも知られていないことだが学区域には帝国音楽学校があった。元代沢小の女生徒はこの学校のところまで行き、校内から流れてくる楽器の音や歌声を聞いていたという。音楽に開眼した彼女は後に藤原歌劇団に入ったという。

 この学校はグローバルであった。というか帝国の植民地である台湾とか韓国からも学生が来ていた。今で言う留学生である。下北沢や代田一帯にある下宿に住んで学校に通っていた。当然のことながら楽器を鳴らしたり、歌を歌ったりしていた。そういう環境にあったことも音の感性に影響を与えていた。

(二)
 さて、その歌詞である。矢花克己さんが購入した古手紙の中に歌詞と楽譜とが入っていたのである。これを彼は私のブログのコメント欄に記し、歌を公開した。

聖が丘学寮のうた
1.   2.
廣丘はぼくらのさと 廣丘はわたしらのさと
あをい空 ひかる汗 お炊事の お手つだひ
鍬をふるぼくらの頬に つるべ取るわたしの頬を
父母の声 風がはこぶよ さわやかに 風がわたるよ

3. 4.
廣丘のむらの友だち 廣丘のゆかしいお寺
くろいかほ 肩くんで 郷福寺 夜の森
ぼくたちと高くうたへば ぼくたちのあかるい声を
松林 風がわたるよ  ふるさとへ 風がはこぶよ


 浅間温泉では「代沢浅間学園の歌」を歌っていた。これによって戦意を鼓舞していた。とくには、4番では気合いが入った。

聖戦如何に長引くとても
鬼畜米英撃ちてし止まむ
栄光の勝利の輝く日まで
我等代沢浅間学園



 しかし、再疎開先の寮歌には皇国民を鼓舞するような歌詞は一切なかった。言えば一種の土地誉めである。「広丘は僕らの里」と斬り込んだ。聞いている村の子ども悪い気はしない。やはりここには都会的なセンスが生きている。 「つるべ取るわたしの頬を さわやかに 風がわたるよ」などは心憎い。
指導者は、村人との融和を呼びかける。「廣丘のむらの友だち くろいかほ 肩くんで」はその友情が美しい。
 ここ郷福寺の引率は柳内達雄先生だ、作文教育の第一人者は表現がうまい。彼の作詩になるものである。

(三)
 実は、この寮歌はもう一つあった。洗馬村の真正寺の「真正寺学寮歌」である。この二つの歌の関係が興味深い。(写真は、郷福寺で撮ったもの)




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2023年09月27日

下北沢X物語(4792)−代沢小音楽文化物語(仮)3−

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(一)歳を重ねると知恵がつくというのは真実だ。鉛筆部隊のことを調べてもう十数年、鉛筆部隊は隠れた歴史発掘となった。発端となったのは代沢小の疎開先の寺で歌われた寮歌である。その寺に縁故疎開していた人がこの歌に深く心打たれた。半世紀も過ぎて歌の全歌詞を知りたいと考えた。それで代沢小の歴史をブログで記述してた私のところに質問を投げかけてきた。これがきっかけとなって私は関係者に当たって歌詞を聞き取った。しかし、曲の全貌はなかなか掴めなかった。ところがだ、2009年1月26日に正確な歌詞の全貌が、私のブログのコメント欄に打ち込まれたのである、驚きであった。

 私は2004年8月からブログを始めていた。5年ほど経過していた。振り返るとこのことが大事だったと思う。ネット発信は情報を蓄積することでもある。5年間分の記述がネットに漂っていた。これが手掛かりとなって検索者は私にたどり着いたのである。

 ネットが切り開いた鉛筆部隊の物語である。まず、旭正章さんの検索があり、つぎに矢花克己さんの検索があった。これによって秘められた歴史が明るみに出た。この二人ともわたしには全く未知の人である。
 その矢花さんがブログコメントに書いてきた記述だ。

はじめまして 山梨県に住む矢花克己と申します。古物商を営んでおります。昨日地元の骨董市で「鉛筆部隊」と書かれたはがき類を買いました。「立川」さんという女の子が疎開先の浅間温泉千代の湯、広丘郷福寺から北沢の父親へ宛てた19年から20年のものなどです。
 きのうの今日のことで未整理ですが 疎開先に着いた時から帰る間際までのことが細かく記されています(お父さんや兵隊さんからのものもあります)。「鉛筆部隊」という言葉が初見でしたので検索いたしましたところ、貴ページにたどり着きました。関連のページ全て読ませていただきました。偶然とは言えあまりにタイムリーなこと「心があわ立ってくるようなスリル」な気持ちを私も感じております。お役に立つことがありましたら協力させていただきます。聖丘学寮のうた、ガリ刷りで歌詞4番まで楽譜もあります。
           Posted by 矢花 克己 2009年01月26日 16:22


 代沢小の学童疎開については私も調べを重ねていた。その過程で見つかったのが「鉛筆部隊」である。ブログ記事にもこの鉛筆部隊という4文字は書いてきた。よって私から発信された「鉛筆部隊」という言葉をネット上にばらまいてきた。それを山梨県在住の簗場克己さんが検索を通して引っかけてきた。折も折、ブログでは「聖丘学寮の歌」が大きな話題となっていた。

(二)
 「鉛筆部隊」のことはテレビでも取り上げた。古物商の矢花克己さんが骨董市に行って古手紙を見つける場面は、俳優が演じていた。
「あれぐらいのことだったら、私が生出演してもよかった」
「全国放送された番組だったから出演すれば一躍有名人になったかもしれませんね」
 そんな冗談を言っていた。

 立川裕子さんは、鉛筆部隊の隊員であった。彼女は戦時中の手紙を大切に取っていた。しかし、病気になったことからマンションを引き払うことになった。家財については業者に任せたようだ。
 彼女の荷物の中に、古手紙類がまざっていた。普通だったら紙反故として焼却処分されていたろう。が、古物商に売れるかもしれないということでこれをより分けた。それが古物商に渡り、山梨護国神社で開かれている骨董市に出た。

 矢花克己さんは、骨董市でそれを手に入れた。戦時中の郵趣品は人気があったことから購入した。中身を点検すると多くの手紙に「鉛筆部隊」という判子が捺してあった。
「鉛筆部隊?」
 一体何なのか?彼は疑問に思った。それで「鉛筆部隊」と検索してみた。すると私のブログが引っ掛かった。

(三)
 彼はびっくりして、私が放っていたブログの記事を夢中になって読んだ。するとそこの「聖丘学寮の歌」が話題になっていた。この歌詞を皆が一生懸命探していることを知った。改めて古手紙の束を見なおしてみた。すると何と中に「聖丘学寮の歌」の歌詞と楽譜とが手紙の間に挟まってあったのである。(写真は、塩尻郷福寺)



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2023年09月25日

下北沢X物語(4791)−代沢小音楽文化物語(仮)2−

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(一)昭和19年東京は空襲される恐れが生じてきた。それで都会の学童を地方に避難させることにした。学童集団疎開だ。親から離れての生活は学童らには辛かった。そんな中で楽器に手を触れ鳴らすことで心が救われた。音楽が身を助けた。浜館菊雄は音楽好きを集めて代沢浅間楽団を編成した。戦前からバンドに入って練習している学童もいた。音楽は演奏が巧い子に引っ張られる。楽団ときに音楽会を開き、慰問を行った。陸軍病院や部隊へ行って慰問演奏を行いもした。疎開学童の多くが音楽に救われた。音楽の力は地元に波及していく。しられざるドラマである。

 『鉛筆部隊』という言葉はウィキペディアにも載っている社会用語である。代沢小が発信もとである。このドラマの発端は、一通のメールから始まった。『鉛筆部隊と特攻隊』の冒頭部分である。

あるとき、ネットのブログにコメントが飛び込んできた。遙かな旅への入り口を開けたのはわずか数語の言葉だった。「もし御存じでしたら教えてください」に始まる問い掛けである。

昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(郷福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
”広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、
父母の声、風が運ぶよ……  Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20


 まさにドラマの発端だ。これを受け取ったときは、当然のことながら意味は分かってはいない。が、今になってみれば分かる。歌に深い感銘を受けていた、それが思い出として今も強く残っていることから、断片的に覚えている歌詞を全部知りたいということだったと言える。

(二)
 浅間温泉に疎開していた代沢小の生徒は、昭和二十年四月に再疎開をする。浅間温泉も安全でなくなったこと、それから中京地区から疎開してきた工場労働者などが入ってきたことから塩尻一帯の寺に再疎開をした。

 柳内達雄先生が引率する学童は広丘の郷福寺に、浜館菊雄先生は洗馬の真正寺に疎開した。浅間温泉から村に疎開した。環境に大きな変化があった。浅間温泉では学校が遠いということもあって、温泉で座学をして代沢の先生に教わった。また本校に通う場合は皆と通学していてあまり土地の学童と接することはなかった。

 ところが村に行くと学年ごとに級に振り分けられ、疎開学童は学級内では少数となった。が、少数であってもやはり都会からきた子は優秀であった。成績格差があった。このことも原因になって地元の子からイジメを受けるようになる。学校から学童がしおれて帰ってくる。みな元気がない。引率の先生が思いついたのは音楽である。寮歌を作って子どもらを元気づけようとした。

 郷福寺は柳内達雄先生が引率をした。「聖丘学寮歌」を作った。お寺にはオルガンがあってこれに合わせて学童は歌った。

 ブログに問い合わせをしてきたのは旭正章さんだ、彼は縁故疎開でこの寺に来ていた。歳も幼くかった。が、常日頃この歌を聞かされていてすっかり馴染みの歌となった。その疎開から六十年ほど経って、記憶にある歌が懐かしくて仕方が無い。それで代沢小のことをブログに書いている私のところに質問があった。

(三)
 私も疎開した人々に会って歌詞を聴きだした。断片的にだが歌詞が分かってきた。しかし、その全部は分からない。ところがあるときに奇跡といってもいいできごとが起こった。
(浅間温泉での代沢国民学校の一場面)


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2023年09月24日

下北沢X物語(4790)−代沢小音楽文化物語(仮)−

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(一)代沢小は下北沢の文化の中核をなす学校だ、当地一帯で最も古い学校だ。今年は創立143年を迎える。この下北沢は音楽文化の興隆地として知られる。これは戦後のことである。しかし音楽文化は戦前から根づいている。その中で代沢小の音楽文化は他を凌駕していた。その遠因に下北沢で鉄道交差が関わってくる。こんな話がある。「転校の子に泣かれゐる雪の中」(『雪後の天』)は、加藤楸邨が詠んだ句である。子は代沢小に転校してきた加藤穂高さんである。「転校してきたんだけど代沢の方が勉強が進んでいるんですよ。どうにもならなくて泣いたのです」と本人から聞いたものである。昭和16年のことである。この頃代沢小は成績優秀な子が集まって来ていた。父親は教員であった。勤め先に通うのが便利なことから当地に引っ越してきた。音楽文化の集積の原因は下北沢での鉄道交差の利便性が深く関係する。11月に表題のテーマを代沢小で話をすることから自身の心覚えとして記すものである。

 昭和8年に井の頭線が開通し交通の利便性が高くなった。これを機に中産階級が当地に集まってきた。加藤楸邨は教員だった、学校に通うに都合のいい場所だったので転居してきたものだろうと思われる。知識階級が当地に集まってきたことは間違いない。昭和19年になって代沢小は浅間温泉に疎開する。加藤穂高さんもその一人である。

 受け入れる側の浅間温泉、応対にあたるのは旅館の女中である。このときに学童らを世話した人が当時を回想して子ども達のようすを記録している。彼女は学童らの親の職業を知って驚嘆している。〇〇子さんの父親は部隊長で戦死の報が入ってきて泣き崩れたと。また他ノの親の職業について言及があり、大学教員とか弁護士とか会社役員などを書いていた。親の職業からしてお坊ちゃん、お嬢ちゃんがここに来ていると同僚に自慢げに書いて居る。

 下北沢における鉄道交差が知性を集めた。その間接的な影響で代沢はレベルの高い学校になった。その子供たちを教育していくには体制を作らねばならないということはあった。それは優秀な教員の引き抜きである。実際第一線で活躍している教員が代沢に集まってきた。

(二)
 その一人に浜館菊雄先生がいる。彼は下町の第三大島小から昭和十一年(1936)に代沢に転任してきた。綴り方教室で名の知られた学校だった。彼は作文教育に熱心だったが音楽教育にも熱心だった。例えば、『新音楽教育』2(白眉社)「私の研究 私の簡易合奏指導」を1949年4月号に書き記している。ちょうどこの頃代沢小で簡易合奏に取り組み生徒を指導していた。

 先に代沢小の疎開の話をした。このときの話で音楽に関わるエピソードがある。この音楽教育に熱心な先生だった。彼に関して有名な逸話がある。疎開するに当たっては荷物を運ぶわけだが彼が決断したのは疎開地に楽器を持っていくことだった。

 私は帰るあてのない(帰還は一か年としあるが)疎開地で子供同志が生活を続けていくためにには、慰安と娯楽こそ必要欠くべからざるものであろうと考えた。緊張にも限度があるし、おとなのように時局を認識して終始張り切っているわけにはいかない。魂の休息がなくて、疎開生活の無聊寂寥に耐えられるものではない。父母のもとを離れた生活がどんなにあじけないさびしいものであるかは、この子どもたちを知らないのだ。きっとさびしさに身の細る時がくる。一〇や二〇で帰れる臨海学校とは違うのだ。わたくしは、ほかに犠牲をはらっても一台のオルガンとこの楽器は運ばせなければならないと思った。

 浜館菊雄『学童集団疎開』(太平出版社 1971年刊)は名著である、一番優れているのは学童目線からこの本が書かれていることだ。事前の職員会議では疎開先に楽器を運ぶことについて諮られたものだと思う。「楽器などを運んでいくのは不謹慎であるかのように誤解される恐れがあった」とも記している。会議での反対を臭わせるものだ。

(三)
 先の、十一月に開催される会は代沢小疎開時の歌を紹介できればよいと考えておられる。その一つが「代沢浅間学園の歌」である。言えば疎開学園校歌である、作詞は柳内達雄、作曲は浜館菊雄である、名コンビである。これの四番である。

聖戦如何に長引くとても
鬼畜米英撃ちてし止まむ
栄光の勝利の輝く日まで
我等代沢浅間学園


  男子学童の証言だ。
「ここのところが一番盛り上がりました。皆の声が一段と高くなったのですよ」
(代沢小創立百四十周年)


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2023年09月22日

下北沢X物語(4789)−直江津芙美子追慕行−

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(一)慕わしい駅というのがある。直江津はその一つだ。かつてはこの名を行き先表示版に掲げた列車を多く見かけた。名を思い浮かべただけで日本海側の海縁の駅が想起された。かつては信越本線の主要駅だった、が、今は聞き慣れない第三セクターの鉄道駅になっている。もう三十数年前を思い起こす、信越本線で直江津に着いた。雪の降っている日だった。雁木の連なる駅前通り、裸電球に照らされた家並みが続く。ふと誘われて明るい店に入った。パチンコ屋だった。球を台に入れようとすると穴が見当たらない。これを入れる場所が、台の下の真ん中にあった。ところ変われば穴代わる。

 直江津に憧れたのは林芙美子だ。『放浪記』に出てくる。太子堂で野村吉哉と同棲していたがその彼と別れて後のことだ。

 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。
「新版 放浪記」新潮文庫 1983


時刻表はかつては必須だった。この間、只見線に乗ったときこれを持って行った。が、今時刻表は旅の必携品ではなくなった。皆スマホだ、これだと地形図が分かる。ローカル線の見所は川だ、どちらの窓に川が見えてくるか、スマホだと容易に分かる。これと見比べながら乗客は旅をしていた。

 時刻表を手にとって眺める。楽しいものだ。旅馴れた芙美子はこれを手に取った。そして真ん中のページをあけた。上信越方面がでてくる。すると直江津は必然的に出てくる。

 9月11日のことだ、私は上越妙高からえちごトキメキ鉄道に直江津に着いた。寂れた地方都市だ。駅前の観光案内所に立ち寄る、「越後直江津五地内国府」という観光地図をくれた。かつては国府があった。見所が多そうだ、直江津の津は港だ、北前船が立ち寄っていてかつては賑やかだった。
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(二)
 まず駅前からまっすぐ北の海に向かう。すると和菓子屋が目につく。「放浪記ゆかりのだんご:継続だんご」とある、こういうのがあるとつい釣られてしまう。出て来た若女将が『放浪記』の中にもだんごがしっかり出てくるという。その本文だ。

「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」
 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……。駅の歪んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。


 なるほどしっかりと出ている。女将は二百年も続いているという。やはり『放浪記』に出てくるというのは強みだ。芙美子は生きることに嫌気が差していて、死をも思っていた。そこに「継続だんご」が出てくる。
「だんごを食って元気が湧いてさ、自殺するのをやめちゃったんだって」
 観光客の戯れ言だ。
 実際に買って食してみる、名物にうまいものなし、とくに美味いとは思わなかった。
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(三)
 街を歩くが人がいない。車を押しているお婆さんのみ。
「どこからいらっしゃった?」
 生きていて何十遍と聞かれた質問だ。何と応えるかいつも困る。
「群馬からです」
「ほほう、赤城山ですか?」
 嘘をつかなければよかった。

 関川の土手を上ると芙美子の文学碑があった。

 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。

文学表現で書き記された町並みには潤いがある。が、現今の風景は乾いている。情趣がすっかり洗い落とされている。風景から地域性がすっかり無くなってきた。
(上は、林芙美子文学碑、下は継続団子を商う和菓子屋)



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2023年09月21日

下北沢X物語(4788)−駒沢公園都電敷石の探訪総括−

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(一)世田谷中町で横浜市電敷石の野積みが見つかった。この市電の敷石規格は巾400ミリ、付近で探すと巾360ミリのものばかりが見つかった。これは都電の敷石だった。これがきっかけとなって市電敷石探訪を始めた、そして行き着いたのが駒沢公園の管制塔前に敷設されている石だった。ところがこれの巾がどれもこれもが400ミリだった。「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には都市市電の規格が一覧表として載っている、これで確認すると都電のは360ミリばかりである。都電のはみな360ミリばかりなのに駒沢のはなぜ400ミリばかりなのだろう。不思議でならなかった。400ミリの都電敷石はどこから来たのか?それでこの謎を追っていた。

 「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には一覧表が載っていて東京市電のは大正9年のと昭和17年だけである。ここに載っていうのは360ミリばかりである。

 しかし、私はこの論文を見落としていた。軌道敷石については全国各地で採石されていた。その場所は全国では23個所に及んでいた。その主要産地は六ヶ所だった。茨城県稲田、茨城県稲田、群馬県沢入、山梨県塩山、岐阜県恵那、広島県倉橋島、香川県小豆島だったという。各社から注文を受けて石を掘っていたようだ。規格がそれぞれであったことから日本工業規格で全国で統一した軌道用規格が制定された。これが戦後の二十五年であた。種別はさまざまだが巾と長さが統一された。巾が400ミリであり、厚さが100ミリであった。
スクリーンショット (28)
(二)駒沢公園の都電の敷石は戦後に設けられた日本工業規格に基づいた製品である。つまりは昭和25年以降に新しい規格で採石されたもので作ったということである。
 この日本工業規格に基づいた表は「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)に掲載されているものであるのでこれを掲げるものである。

 この都電の敷石については2010年頃に改修工事が行われた。この敷石、都電で使われていたものをそのまま利用していた。表面の凸凹がそのまま残っていた。この広場は広大であるが催しものをする場合は不便であった。それで改修が行われた。この工事記録が残っていて私は過去記事にこれを残している。

 オリンピックから40数年が過ぎ。モルタルの幅広目地が沈下し、敷石との差が、大きくなり、つまずきやすくなってしまったこと、敷石の面に凸凹があることなど、高齢者や車椅子の通行に支障があるということで、全面的な改修工事が行われることになりました。 敷石を撤去し緑にする案もありました。が、東京オリンピックの記憶を継承するということで。 既存のデザインを尊する方針となり、現在使われている敷石の表面を加工し再利用することと。目地部分には、細石を入れ込み沈みにくくし、広場舗装の平滑さを増す工法となりました。/A-ARCHITECTSサイト(2009.1.16)

 この現場では中国で加工を施したため。 国内での加工に比べて半分ほどの予算で収められました。付着していたモルタルもきれいに 剥がれたため、加工は天端部分を切断し、バーナーで仕上げたのみで、側面はそのままの状態で使用しました。この現場で最も苦労した点は、剥がした石材を再度元どうりに戻すこと、一枚ずつ設置してあった場所を控え、加工済み材料を一枚ずつ確認しながら並べていきます。広さも2000m2ほどあったため、一枚ずつ確認して貼っていくのは気力、体力を要する作業でした。Aso Tribune 阿曽石材(2010)
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(三)
 都電の敷石広場を改修するための努力がここには記されている。一旦剥がされた敷石は中国まで運ばれたという。貨物船に運ばれて、そしてまた戻ってきた。送り出すときに一枚一枚番号が振られ、戻ってきたときに記録と照合しながら一枚一枚を敷設したという。

 当初は、都電敷石を撤去ということも考えたようだが、歴史的価値があることからそれは断念したという。この改修工事が行われたことで広場ではイベントができるようになった。


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2023年09月20日

下北沢X物語(4787)−駒沢公園都電敷石の歴史的価値−

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(一)世田谷中町に横浜市電の敷石の野積みを見つけた。これがきっかけとなって敷石の行方を追った。行き着いたところが駒沢公園である。自宅から近くもう半世紀以上も接してきた。が、この公園中央広場に都電の敷石が使われていることをつい最近になって知った。都市廃材を活用して見事な空間が作り上げられていた、都市東京はこの市電に支えられて発展してきた。敷石の活用は今日的に言えばSDGsの好例だ。しかし認知されていない。「駒沢公園 都電敷石」で検索すると第一位、第二位で私の記事が出てくる。ローカルなブログ記事にやっと引っ掛かる。言えば、一般に認知されていない文化事象だと言える。実際資料に当たっても都電敷石のことは出てこない。『駒沢オリンピック公園』(東京都公園文庫10)では、「中央広場は……御影石を幾何学模様に配した石畳パターンを敷きつめている」とある。御影石は都電廃材に他ならない。これだと新しい御影石で造成したように読み取れる。

 市電の歴史は、1903年(明治36年)8月に走り始めた馬車鉄道に始まる。市電敷石は電車の車体を支えてきた。幾千万に及ぶ人々の重量を支えてきた。そこにこそ歴史がある。電車が踏みつけた石、人々の重量を支えた石、それらが残されそしてオリンピック会場の景観を作っていた。実際行ってみると石畳と競技場、体育館、そして五重塔を模した管制塔が青空を背景にして建っている。見事な近代都市空間である。都電敷石が景観の一翼を担っている。

 いきさつだ、まず、横浜市電の敷石に遭遇した。近隣には都電のもあった。前者の巾は40センチであり、後者は36センチである。ところが駒沢公園の広場のはみな40センチのものである。そのことからもしかして横浜のではないかと疑いもした。
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(二)
 首都都市には風格がある、首都東京らしい設備というのはある、そういうことで言えば横浜の敷石を使うはずもない。また、可能性として玉川電車の敷石も考えられなくはない。
「砂利電と言われた玉川電車の敷石に使うわけはないでしょう」
 都市雀の言い草だ。

「都電の敷石は売れたのですよ。自宅の庭に敷くのには好都合でした。『都電の敷石で庭を回遊できる小径を築いた』といえば自慢にもなるでしょう」
 そんなこともあったろう。
「都電よりも横浜市電の方が安い、それでうちの玄関は横浜市電にしたんだ」
 世田谷区に建てた家にこれを用いたが、あまり自慢はできなかった。

 今回は、深沢の秋山家に見学に行った、旧玄関、そして新玄関には都電の敷石がびっちりと敷かれていた。都電の敷石は在庫があって畑にもまだ野積みされている。
「下北沢駅の南口はここの都電の敷石を持っていって使っています」
 小田急は私鉄電車としてプライドを持っている。横浜のがたとえ余っていたとしても決して使わないだろう。
「世田谷代田の線路街に旅館があるでしょう、あの根太はここ秋山家のものを使っているそうです。都電の敷石も旅館内部の床に使われています」

(三)
 東京オリンピックは二回開催された。それで1964「東京オリンピック」、2020「東京オリンピック」と言って分けている。前者と後者ではだいぶ意気込みに差がある。敗戦後十六年経っての五輪は、関係者の多くが熱意を持って取り組んでいる。

 記憶に新しいのは、2020「東京オリンピック」だ。これを誘致するに当たっての安倍首相は、メルトダウンした福島原発を「the situation is under control.」と述べた。しかし全くの嘘っぱちだ、溶け落ちた原子炉はほとんどコントロールできていないのが現実だ。遺産らしきものは残ったか、何も思い出せない。

  1964 東京オリンピック場合は、遺産は残っている。都電廃材を使っての駒沢公園の広場づくりは素晴らしい。しかしこの点の意義については冊子など見てもあまり言及されていない。駒沢は学生生徒の学習活動がよく行われている。この都電敷石景観についての歴史を知ることは大事なことである。由来を記した看板を建てたらどうだろうか。



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2023年09月18日

下北沢X物語(4786)−総決算:世田谷の市電敷石巡礼行 2−

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(一)五輪施設についてレガシーという言葉が使われる。開催者側が資金を得るための策略として使ってきた。手垢のついた言葉で嫌いだ。が、つい先ほど管制塔前広場に行ってきた。競技場や体育館などは管制塔を中心に伽藍配置をしたという。青い空、建物、そして都電の敷石を敷き詰めた広場、風景として調和している。都市廃材がこれほど巧く使われたところはないだろう。戦後19年、五輪を希望として未来に繋げる、技術者たちの心意気が見えるように思った。近隣目黒十中の生徒だった人、できあがった駒沢競技場に行って圧倒された。「侘しい球場しかない野っ原に近代建築が見事に建ち並んでいてまるで蜃気楼を見ているようでした」と驚嘆した。この景観を支えているのが都市廃材、都電敷石で作った広場である。

 町歩き、我々は駒沢大学駅前から歩き出した。
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「ここの交差点は駒沢駅前となっていますが、昔は、真中と言っていました。タクシー運転士だったらこの地名知らないものはいなかったのですよ。今じゃ忘れられた地名です」「そこにあるスーパーマルエツは、今も『真中店』と呼んでいますね」
 参加者の植村昭夫さん、地元深沢在住だ。
「真中の呼び名は玉電の停留所名ですね、新しく電停ができるというので名前が必要になった。この辺り一帯の地主は、一人は眞井、もう一人は中村、両方の頭文字を取って『真中』と付けたようです」

 路地に入って南下する。すると一本の道と交わる。
⊆覇
「ほら、この道典型的な古道ですね、どっちもそこはかとなくカーブしていますね。それと狭さ、二間半(3,6メートル)ですね、芝道です、つまり芝に繋がる道ですね。世田谷吉良氏は芝を領していました。言えば海に繋がる道です。だから戦国時代の道です。吉良氏は海に活路を見出していたのです。ところが時代は変わって江戸となる、この道は区境を走っています。南は衾村、かつては将軍家の御霊屋領地、衾村の人々は定期的に芝増上寺の将軍家の墓の掃苔に行かされたようです。」
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(二)
E田免星苑
「もとは林愛作邸でした。帝国ホテルの日本人支配人です。ホテルは建築家ライトの設計によるものですが、ここにあった自宅もライトの設計によるものです、帝国ホテルができる前に建てたといいます。ついこの間まで建物をのぞけたのです、しかし、電通は住友不動産に売却したのです。とたんに警戒が厳重になって塀沿いに目隠しが作られました。中を覗かれたくない理由があるようです。ここの敷地は広大ですね。住宅用地としては一等地ですね。高級マンションが建つと思います。それと有料老人ホームですね。多分それでも余るくらいだからショッピングモールなんかも考えているかもしれません」

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「このジャブジャブ池そばの築山は比較的新しいのです。ここに敷かれている石は間違いなく都電のものです。ほら、測ってみましょう、ね、巾が36センチです。規格どおりです」

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「一部壊してありますが、開設当時からあるものです。さっきと違うでしょう、巾が40センチあります。ここで面白いのは色違いの石を模様にしていることです。都電の石は各地で採石されています。産地によって色が違うのですね。それをうまく活用しています」
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(三)
Χ霏公園の地形
駒沢公園の歴史を調べると必ず明治天皇の兎狩りが出てきます。この一帯起伏に富んだ地であって昔の字名は『狸谷』(まみがや)と言っていました。起伏があるということは川があるということです。ここには支流が流れこんでいますね。これは呑川の支流です。一帯は開析谷になっています。メインとなっている陸上競技場、体育館は西から延びてきた舌状台地の上に建っています。だから地形をうまく活用しているのですね」
(地図は参加者の佐藤容子さんが作成されたもの)


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2023年09月17日

下北沢X物語(4785)−総決算:世田谷の市電敷石巡礼行−

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(一)発端は世田谷中町の畑に野積みされた御影石に始まる。「これは何ですか?」、「横浜市電の敷石!」と畑の管理人、その返答を聞いて驚いた。巡礼の始まりだ、まず行き着いたのは「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)だ、これには大都市の市電敷石の規格が記されている。横浜市電については、まずAタイプは600×400×100とあった。長さはABCと三通り。取り敢えずの検証として巾と厚さ400×100が役立つ。早速にメジャーを持っていき首実検、ピタリと符合する。「横浜市電のだ!」分かると同時に疑問が。何故ここに横浜市電のが?。巡礼の始まりだ。付近を当たる、金剛寺にそしてつぎにすぐ側の粕屋家の玄関前、巾は360である。これは都電の敷石だ。さらには深沢秋山家、新玄関、旧玄関はいずれも都電のだった。そして隣接する畑にはこれが野積みされていた。世田谷を席巻していたのは都電だった。さらに情報、「駒沢公園管制塔前の広場の敷石は都電」と。早速にメジャー持参で行くと何と400だった。横浜のか?。

 近隣の女性が横浜に越していった、「横浜は田舎よ」との感想、なるほどそうか。思い出したのは『よこはま・たそがれ』だ。歌のサビは、「あの人は 行って 行ってしまった」だ。横浜のあんちゃんが東京の女に惚れた、しかし、ゆきずりの恋ははかない。たちまちに消えてしまった。横浜のあんちゃんは東京のあの子をせつなく思う。そうか横浜は潮風の匂う田舎なんだ。

 自身、一帯を歩き尽くして思うことは都市の風格である。世田谷中町の市電の敷石は、謎だ。しかし、一つの回答、「ハマの敷石は低廉だ」との指摘。なるほど都電のは高い。東京という都市にはプライドがある、たとえ余っていても東京駒沢のオリンピック会場に、ハマの敷石を使うはずはない。

 しかし、「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」には都電は大正と昭和の二タイプが載っている。ともに360だけで400はない、どこから来たのか?

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(二)
 日々荏原を歩いている、至る所に逸話が眠っている。中町から帰り、等々力の植木屋さんの脇を通りかかった。
「昔は戸建を作る場合、まずは植木だ、それから庭の敷石だな。その場合都電の敷石は人気があった。しかし、時代は変わった。植栽に金を掛けなくなった。敷地が狭いからな。敷石なんて考えるわけもない。だからな植木屋商売も先細りだ。これから先若いもんにどうやって仕事を与えたらいいか?」
 横浜市電の野積みの意味が了解できた。横浜のも東京のも使途が限られてきている。

 昨日のことだ、「駒沢の不思議を歩く」を企画し、ネットなどで告知した。希望が十名ほどあった。ところが、朝方続けてキャンセルの通知があった。が、反対に申し込みは間に合うかとの連絡が一件、希望の光である。

 それで駒沢大学駅改札前に集まったのは六人である。町歩きの出発だ。まず、目的を明示した。

*地形と景観(狸谷)・武蔵野台地の樹枝状の開析谷 この活用
*都市廃材と景観 ・駒沢公園(市電敷石:花崗岩)
*駒沢近辺の古道 ・駒沢を巡る古道 


駒沢付近の不思議を歩く、考えてみれば初めての試みである。実験的町歩きだ。言えば試行錯誤の始まりである。しかし、こういう試みは大事である。共に歩くことで発見がある。改めて認識を深めた。

  駒沢の管制塔前の都電敷石は景観遺産である。

 これはほとんど知られていないことだ。このコース、町歩きとしては面白い、継続して行う意義がある。

(三)
 駒沢大学駅が出発地点である。
「ちょうどよいと思います、トイレの観察です。あまりじろじろみても行けませんが眺めるだけならかまいませんね、じつはここのトイレ最近作り直したそうです、ウリは玉電の敷石を使ってあることです……」
 まず立ち寄った、床に敷かれているのは赤みがかった石だ。産地によって色合いは違う。明るい色を選んだのではないか。
 巾を測ってみる。 ひとつは30センチでもう一つは42センチだった。

「玉電の敷石が駒沢に使われている可能性も考えましたが、時期的に無理があります。昭和44年に玉電廃止、昭和39年に東京五輪でしょう。」
(写真は駒沢公園管制塔前広場)


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2023年09月15日

下北沢X物語(4784)−上信越・東北7万歩を歩く 2−

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(一)鉄道乗り継ぎ駅ではひたすら歩いた、新潟、秋田の中核都市は除いて、顕著なことは皆寂れていた。道沿いはシャッター街、通るのは車だけ。たまに見かけるのは老人、地方の衰退は深刻だと思った。幹線の鉄道ですら二時間に一本、乗っても人はまばらである。人口が減るから衰退する。地方だからといって物価が安いわけではない。都会よりも高い。ものが捌ける数が少ないと値があがる。地方はますます住みにくくなっている。そしてまたこういう地方から首都東京へは新幹線があり、高速道路がある。人口吸引ポンプだ、インフラが地方から人を吸い上げる。東京へ帰ってきて改めて感じるのは人の多さだ。地方と都市の格差は終末的だ、東京一極集中の弊害が深刻だが、政治貴族たちはこれを屁とも感じていない。この国は滅び掛けていることを歩きまくって知った。

 浅間温泉目之湯で久しぶりに同窓会を開いた。四国からは武揚隊山本薫中尉の甥御さんご夫妻、山本富繁さん、記美代さん、横浜から来たその娘の山本加奈子さん、安曇野の丸山修さん、そして私の五人である。会を開いてもう十数年、しかし人は年老いていく。新隊員は望めない。

 しかし、特攻機縁というのは不思議である。生前の田中幸子さんの口癖は「不思議ね」だった。特攻機縁で何百人と繋がった。「特攻兵の皆さんに足を向けて寝られません」と彼女。戦後78年、特攻兵の記憶はもう薄れていくばかりである。

 機縁といえば、台湾の邱 垂宇さんである。三月に山本さん一家と私とで台湾訪問をした。邱 垂宇さんは、国民学校時代に山本薫中尉に出会って、その凜々しい姿に魅せられた。長じて国軍のパイロットになり、後に民間航空中華航空に移りジャンボ機を操縦していた。先だって訪れたとき汚い道路に停まって。そこに急に祭壇が設えられた。そして山本薫中尉の追悼式典が行われた。邱 垂宇さんの手配によるものだ。
「ここが昭和20年5月13日、山本薫隊長が乗った九九式戦闘機が飛び立って行ったところです」
 その説明を聞いてびっくりした。埃にまみれた道路は旧陸軍八塊飛行場の滑走路であったのである。因縁の道をたどってここまで来た。

 同窓会では話は尽きない。あれがああだった、こうだった。
「歳を取って行くことは寂しいことに違いありませんが、最近思うことは、歳を取ったがゆえに新たな発見があるということです。歳を重ねて経緯を知っているから本質が見抜けるのです……」
 美しき老年である。
「今回丸山さんについてふと気づいたのですが、彼は話し好きなんですね。思ったことは彼の外交術が、武揚隊遺墨の発見に繋がったのですよ」
 遺墨の持ち主は高山宝子さんの娘さん、歯科医をしている。ここに通っているのが丸山さん。その関わりが目に見えるようだ。

「丸山さんだったら謎を解いてくれそうだ……箪笥の中にわけのわからないサイン帳があるのよ……」
 女医さんの直感だ、丸山さん預かったサイン帳に武揚隊という文字をみつけて、検索にかけた。「信州 武揚隊」、すると一発で私に繋がった。
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(二)
 今回の同窓会では武揚隊隊員の飯沼芳雄軍曹(墓には軍曹と刻んであった)の墓参りをした。そういえば散々苦労してまとめ上げたのは「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」だった、山本薫隊長の事跡をまとめたものだ。
「私たちは歳を取っていく、忘れないうちに四国小松島の山本薫隊長の墓参りをする。そのついでに鉛筆部隊同窓会四国開催というのもいいですね」
「うちはわんちゃん二匹います」と丸山さん。
「車で連れてくればいいです、入れるところありますから」と山本さん。
「そうだ、台湾の邱 垂宇さんにも来てもらうといいかも」
 人間、未来を思うことは大事である。
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(三)
「今日昼間、飯沼さんの姪御さん、二人にあったとき、口をそろえて言っていた、『目の湯は熱い』と。つい笑ってしまいました。人間、肌を突き刺す熱さというのは記憶から消えないのですね。確かに熱い。風呂から上がっても熱が冷めないのですね。やはり名湯なんですね……」
 温泉談義となった。

「うちはもともと蚕をやっていたんですよ。ただ飼うだけでなく品種改良をやっていたのですね。研究所みたいな。それでいい蚕ができると方々からお客さんがやってくるのです。それでここにあるお湯に入ったのですね。それで儲かるとほら、ここには芸者さんがいっぱいいたでしょう。遊べるのですね」
 主人の中野さんの話だ。彼いわく、「特攻に、疎開に、絹糸、三つも揃っています」
 お湯自慢である。
(上・中、飯沼さんが眠る正麟寺にて、飯沼さんのご遺族と。下、目の湯での記念撮影、特攻兵の御魂が光っている)



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2023年09月14日

下北沢X物語(4783)−上信越・東北7万歩を歩く 1−

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(一)鉛筆部隊同窓会を機縁に旅へ出た、松本、長野、直江津、柏原、新潟、象潟、秋田と回って秋田新幹線で帰ってきた。乗りづめ、歩きづめだった。前者は電車が主役だ、後者の主役は自分である。やはり歩で稼いだ道程が印象深い。その旅の核心は景色である。海や山など幾多の景色を見たろう、思ったことは「景色に潤いがなくなってきたことだ」、潤いがあったからこそ抒情は生きていた。そう折々の場所には歌碑や文学碑が建っていた。例えば直江津に林芙美子文学碑があった。「私が青い時間表の地図からひろった土地は、日本海に面した直江津という小港だった。ああ、海と港の旅情。こんな処へ行ってみたいと思う。」この碑の向こうには日本海が見えた、彼女が感じたであろう、旅情は感じない。一帯の風景は干からびていた。現風景と過去風景の間には大きな落差があると思った。

 コロナがあって鉛筆部隊の同窓会が開けないでいた。久方ぶりに集まろうということになって浅間温泉に向かった。10日の日、新宿からあずさに乗った。天気は好天、沿線の山岳風景が楽しめそうだ。

  八王子で停まる。ホームに面影を追う。鉛筆部隊の田中幸子さんは、同窓会のときいつもここから乗ってきた。彼女はメンバーの主軸だった、が、乗ってくるわけはない。四年前に亡くなってしまった。

八王子、高尾、大月、あずさは山中を駆け抜ける。この線、何度乗っても飽きない。山や川、そして盆地を車窓に映して走り抜ける。車窓のパノラマを楽しめるのが中央線特急だ。ぶどうの粒が見えるところに良さがある。

 シェルターに包まれたリニアの実験線が目の奥に掠めていった。鉄道の命は風景にある、全線覆いで覆われて無景色の中を潜り抜けるという。窓辺を失った鉄道にどんな意味があるか。リニアには乗りたくもない、リニアに乗らないで死にたい。

塩嶺トンネルを抜けると松本平に出る。上空は特攻兵が思いを残して飛び去った空だ。
「世界平和が来ましたならば、帰りゃまっさき富貴之湯へ」と彼らは歌った。魂はきっとここに戻ってきているはずだ。
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(二)
 今回の旅、ひたすら歩くことに決めていた。松本駅を降りたとたんに歩きはじめた。目地は正麟寺だ。ここにあるお墓に参拝するためだ。誰のお墓か、と号第三十一飛行隊(武揚隊)に所属していた飯沼芳雄伍長の墓である。彼は1945年7月19日台湾八塊飛行場から沖縄ヘ飛び発った。が、途中の宮古島の断崖に激突して亡くなった。特攻未完遂である。

 が、埋もれていた松本飛行場をめぐる特攻史の端緒を開いたのは彼であった。松本駅から歩き始めたのは彼の足跡をたどるためであった。目当ては田川小学校だ。

 飯沼芳雄伍長は田川小学校高等科出身だ、卒業時に少年航空兵に応募して受かった。九州大刀洗の飛行学校で訓練を受けた。彼はこのときに夏休みで帰省をした。このときに彼は同窓生たちとここに集まり記念の写真を何枚も撮っている。
 軍服を着たのは彼一人だった。郷土の誉れであった。

 小学校はすぐに分かった。川の側にあった。地名は渚である。

「俺たちは明日飛び発つ、家のあるところを教えてくれ」
 武揚隊の隊員が聞いた。
「渚です」
「いい名前だな」
「そうです、川の側にあります」
「そこに飛んで行くから見送ってくれ」
 このやりとりは証言者から聞いた。そして本当に飛んできたので近所の人と見送ったと。

 飯沼芳雄伍長の同期に高山宝子さんがいた。彼女は武揚隊隊員が泊まっている富貴之湯に彼を訪ねた。このときに彼女はほとんどの隊員からサインをしてもらった。この高山さんの住まいが渚にあった。だからこの小学校の上空に特攻機は来ていたということになる。
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(三)
 正麟寺には飯沼伍長の妹さんの娘さんといとことが来ておられた。
「母は、戦争の話が嫌いなんですよ。上の兄がフィリピンで戦死したでしょう。その下の兄も特攻で戦死、それからもう一人の姉も戦争中の勤労動員で事故死したでしょう……」
 二人の戦死者は一つの墓に兄弟して祀られていた。妹も一緒だ。
墓銘碑には戦争の物語が刻んであった。正面は左が兄で右が弟だ。

正面
 忠光院富岳秀明居士
義特院芳学俊明居士

側面
 昭和二十年七月二十三日 ルソン島ニテ戦死
 兵長 飯沼富治 行年二十四歳
 昭和二十年七月十九日 特攻隊トシテ沖縄ニテ戦死
 飛行軍曹 飯沼芳雄 行年二十歳

側面
 典真義典 信女 昭和十九年十二月二十三日 飯沼典子 行年十七歳下
(写真上は、田川小学校 下は、飯島家の墓)


お知らせ
★駒沢周辺の謎を歩く(9/16実施)
町歩き、駒沢周辺の謎を探訪する。都電の敷石、戦前五輪遺構、秋山の森、江戸道、タンチ山伝説、駒沢高射砲陣地跡など。案内者は、きむらけん。
・日 時:9月16日(土)13:30〜
・集 合:田園都市線「駒沢大学駅」改札前
・対 象:どなたでも
・定 員:約15名ほど
・参加費:500円(資料代)
【お問合せ・お申込先】
 北沢川文化遺産保存の会(きむらけん)
 電 話:03-3718-6498
 E-mail:k-tetudo@m09.itscom.net おいでください。
  HP :http://blog.livedoor.jp/rail777/(東京荏原都市物語資料館)


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2023年09月09日

下北沢X物語(4782)−「鉛筆部隊同窓会」また再び−

武揚隊飯沼芳雄伍長
(一)毎夏、浅間温泉で「鉛筆部隊同窓会」を開いていた、コロナがあってこれが中断していた。推進役の田中幸子さんは、2019年4月5日に亡くなってしまった。4年経ってまた再び集うことになった。武揚隊の隊長山本薫中尉の甥御さん夫婦が四国からこられる。東京からその娘さんも参加される。もう一人、安曇野の丸山修さんも。今回、武揚隊飯沼芳雄伍長の墓に詣でることにした。1945年7月19日に陸軍の最終特攻が敢行される。そのときに台湾八塊から彼は出撃した。が、宮古島の断崖に衝突し戦死を遂げた。特攻未完遂である、この場合は「陸軍特別攻撃隊員名簿」には登載されない。しかし飯沼家と連絡を取っている過程で分かった。沖縄平和公園の「平和の礎」に彼の名が刻まれていたということを知った。この彼は松本に飛来してきた特攻隊の全貌を解き明かすキーマンであった。

満州新京で発足した武揚隊は、本国に戻った。機体改造のためである。が、当初予定していた各務原飛行場は空襲の恐れがあるということで急遽松本に向かった。予定外の行動である。飯沼芳雄伍長は松本の出身だった、思いがけない帰郷である。彼は田川小学校出身だ、ここの高等小学校を出て九州大刀洗の飛行学校に入学し少年飛行兵になった。その彼が特攻機に乗って松本にやってきた。同級生にとっては大きなニュースだった。これを聞きつけて皆は慰問に行った。

 このとき率先して慰問に行ったのが高山宝子さんだ、飯沼さんの同級生である。彼女は行ったついでに他の隊員にもせがんでサインをしてもらった。
そのサイン帳は彼女の死後に箪笥からでてきた。現世の者にとって意味不明である。
この高山さんの娘さんがいて歯科医をしていた。患者だった丸山修さんに、なんかわけわからないものがあるの、調べてもらえないかと頼んだ。

 丸山さんはサイン帳を見て言葉として「武揚隊」がよく出てくる。それで彼は検索を掛けた。「信州 武揚隊」である。

「検索でかけたときにブログが引っ掛かってそこには猪苗湖に浮かぶボートが写っていましたね」と丸山さん。
「それは長谷川信少尉のことを猪苗代まで調べに行ったときのことだ。そう長谷川信は武揚隊隊員ですからね。引っ掛かるわけですよ」

(二)
 飯沼伍長には妹さんがいる。彼女には私も会っている。
「(兄が特攻機でやってきたとき)そうそうあのときは田川小学校六年生のときでした。ちょうど私が松本高女に受かった時で西尾さんが『おめでとう』って言ってくれたのですよ」
昭和20年3月の話だ、西尾さんは、西尾勇助軍曹のことだ。武揚隊は九州にいたときに台湾行きを命じられた。済州島、上海、杭州ときてここから台湾海峡を渡った。そのときに敵艦載機に襲われてて長谷川信少尉機と一緒に撃たれてともに死んでしまった。

 飯沼節子さんはここから計算すると今は90歳である。
「墓参りの来られるのですか、ありがたいことです。しかし、もう私は行けませんかた娘に行ってもらいます」
 
 その娘さんとは話すことがなかった。が、墓参りのことでその彼女に相談することがあって電話をかけた。社会科の教員をやっていて定年で退職されたという。

「授業で沖縄戦のことをやったのです。記録フィルムですね、長いから一部だけをみせたのですが。そのときに生徒が本当気絶してしまったのですよ。『ひめゆり部隊』のところです。地下壕での手術ですから麻酔がないわけですね、麻酔なしで患者の手術をやる場面だったのですが、本当に気絶したのですよ。そのときは親からそんなのを見せないでくださいと抗議を受けました。しかし、卒業の段になって親から『いいすぎでした」と。」
 
 今、戦争伝承が危ぶまれている。当時の戦争の記録はむごたらいいものばかりだ。原爆などはその典型だ。戦争を伝えるときに惨たらしいものは見せないようにする。そこまで来ているのかと思った。

(三)
 鉛筆部隊の同窓会、前によく出ていた人に連絡した。
「もうだめ、コロナ以来、外にでるのも億劫になって、そんな松本浅間温泉なんて世界の果てです、いけません」
 コロナ後遺症は今も深刻である。(写真は飯沼芳雄伍長)


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2023年09月08日

下北沢X物語(4781)−深遠なるコットン文化−

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(一)木綿文化に触って、その深さを知った。日本人の精神史に繋がるからだ。柳田国男は木綿の「ふくよかなる衣料の快い圧迫は、人の肌を多感にした」という、そして「歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃やかになって来た」(『木綿以前の事』)と、ものの感じ方が違ってきたという。戦中と戦後、宮本百合子は「小田急の電車の中で、パーマネントの若い女の髪をつかんで罵りながら引っぱっている男(『私の感想』)がいたと。世を支配していたのは束縛だ、戦後における「コットン文化」は、その束縛から解放した。色合い豊かな、赤のフレアースカートを身につけていても誰も追い出さない。肌にフィットした色合い豊かなコットンは人々を解き放った。とくに女性の場合はその開放感は大きかった。

 一つのエピソードを思い出す。守山小の教員がウェスタンミュージック歌手に転身した話だ。復員してきた外山先生は、昭和23年に教員を辞めて歌い手となった。

「先生、もうびっくり、カーボーイハットをかぶってさ、服はおそろいのシャツ、ギター、バンジョー、先生はベースだよ。超かっこ良かった!」
お揃いのシャツは、コットンに違いなかろう。彼に習った学童は、その先生を偲ぶ文集を仲間で書いている。しかし時が経ってウェスタンミュージックも下火になった。

ウエスターンミュージックも次第に静かになり、その後、先生を見たのが下北沢ピーコック前、なんとか食料か洗剤のテスト販売で街頭でやっていた。小学校時代に知っていた父母を見つけては呼びかけ販売していた。その呼び掛けの対象になった人は先生の販売を遠くから見ると会わないようにと別の路地を通る話もあったくらい。

 私も会ったことのある堀江照彦さんはこう書いている。

(二)
 赤坂暢穂さんの話の続きだ。
「下北沢のコットン文化」について

下北沢は、都心の有名服地店に比べて遜色のない布地やレース、ボタン、糸、手芸等の材料の品揃えが豊富で廉価の店が多かった。その代表格で現在も営業している東口そばの「まきの」である。女性マンボズボンの創出から「シモキタファッション」という用語も生まれた。

 「まきの」についてはホームページにこうある。

 昭和の下北沢を代表する名店「もめんや まきの」。今も昔も、審美眼するどい服飾デザイナー御用達の店です。
 先代が残したという、麗しの昭和の生地を、ありったけ集めてお見せします。この機会を見逃す手はありません。


 一つの逸話を紹介する。邪宗門の若主人だ。

 下北沢のボタン屋さん、ボタンを入れた棚があって注文があると行平なべをコンロにかける。そこに染料をいれて煮るとたちまちにボタンが染まった。それが面白くてずっと見ていた。
 
I地等の需要は個人以外に著名な服飾デザイナーのブティクや舞台衣装を扱う会社、NHK、小田急沿線の映画会社等企業の需要も商売にプラスの影響があった。

 小田急沿線の強みがあった。映画会社、演劇、放送局などがあって、これらの需要が高かった。

つ秬長期に入り女性の社会進出が増え、廉価な既製服の普及、ファストファッションが若い世代を主に好まれ、徐々に服地店や関連した店の需要が減り、ファッションのサイクルが短くなり、所得の低い若者が増加、多様で変化を求める需要が高まり、古着店が誕生、徐々に増加し、盛況を呈している。

現今、低成長時代が続いている、低廉だから古着が魅力だ、かつての人生の先輩が着た古着には物語が詰まっている。その余韻を楽しんでいるのだろうか。

(三)
 鉄道交点のコットン文化とした。自由ヶ丘もあるが、歴史的な風土としては下北沢が勝っている。「コットン文化」をめぐる逸話が豊富に眠っていることからも言える。
もめんやまきのには5000種類の生地があるという、5000通りの物語ができる可能性があるということだ。




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2023年09月07日

下北沢X物語(4780)−鉄道交点のコットン文化 2−

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(一)この映画は、コットンのオンパレードだった、『大当たり三色娘』である、三人娘は江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばりである。冒頭で三人娘が出てきて歌う。頭の三角巾、シャツ、エプロン、フレアースカートという出で立ちだ、まさにコットンである。この話は下北沢駅前市場から始まる。が、映画はフィクションである。だからマーケット名は「下北原市場」とされている。この映画下北沢でロケが行われている、懐かしい場面が出てくる、東北沢5号踏切脇に長栄稲荷があった、その脇で女スリと江利チエミとが対峙する。すぐそばを小田急の電車二両編成が吊りかけモーターの音をふりまきながら通過していく。1957年(昭和32)に封切られたものだから66年前のものだ。戦後12年経ってのものだ。この映画のアマゾンのレビューが面白い。

 最初に驚いたのは、東宝スコープと銘打ったイーストマンカラーによるシネマスコープで、その画質が極めて良いことでした。
 そして、クレジットには、音楽が神津善行であり、出演俳優陣には美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、当時お決まりの宝田明、そして、飯田蝶子、左卜全、「光子の窓」の草笛光子、オロナイン軟膏の浪花千栄子、いやはや何とも懐かしい名前が出てきます。
 画面の市場には「エスビーカレー」「リボンジュース」のホウロウ看板が、そして、街の風景では木造平屋建家屋、電信柱、リヤカーや室内のあちらこちらに昭和の風俗が見られ幼少時にタイムスリップしたような感慨に襲われます。


 戦後の風景がこの映画はしばしに見られる。書いた人は電信柱に注目しておられる。このときは木製だが今はコンクリート製になっているがこの位置は変わりがない。

 下北沢駅前市場には回りの高台の邸宅からお手伝いさんが食料品を買いにくる。その三人がコットンを着ている。現実の町のファッションと映画舞台のファッションとが見事にマッチしている。これの衣装を手がけたのは柳田悦子さんである。この映画三人娘シリーズとなっているがこのすべてに関わった人だという。

(二)
 6月17日に下北沢小学校で「戦後下北沢の変遷とまちづくり」(講演者 元・中京大学国際教養学部教員 赤坂暢穂)を開催した。このときに赤坂さんは「下北沢のコットン文化」のことを話題にされた。興味深い話である。

 講演のときの話の要点をまとめて置こうと思ったが失念したことから、改めて赤坂さんに問うて回答を戴いていた。

「下北沢のコットン文化」について
\鏝紊良興期から高度経済成長期の一般家庭では、主婦を始め女性は自分や子供等の洋服を手づくりせざるを得なかった。

 
 まず最初の点である。一般家庭では自分の衣服、子供の衣服は手作りせざるを得なかった。既製服は高いからである。各家庭ではミシンは必須であった。

この話で思い起こすことがある。昭和32年頃である。代沢小に「ミドリ楽団」というバンドがあった。進駐軍からの要請で関東一帯の米軍基地などで慰問演奏をしていた。アニーパイル劇場、元宝塚劇場での公演は有名だ。
 お揃いの舞台衣装を、このとき手作りで作ったと。当地では容易に生地が手に入った。ボタンなどの手芸品も同じである。それともう一つ、縫製を教える人が多くいた。楽団の保護者たちは、お屋敷に集まって指導を受けながら、舞台衣装を作ったと聞いている。

(三)
私の家の近くに自由ヶ丘がある。大井町線と東横線がクロスしている。鉄道交差の利便性が人を惹きつける。聞いてみたら昭和三十年だ生地を売る店は、この自由ヶ丘にも多くあった。生地屋があれば、手芸品屋がある、ボタン屋もある。これは下北沢も自由ヶ丘も同じだった。近隣の主婦や女性が多くこれを買いに集まってきていた。

 鉄道交点文化論だ、鉄道交差は利便性を高めた。これが吸引力となって多くのジャンルを集めていた。自由ヶ丘、下北沢の鉄道交点文化論は非常に面白い。
(写真は、下北沢小学校で赤坂さんと私)



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2023年09月05日

下北沢X物語(4779)−鉄道交点のコットン文化−

2005年5月22日 070北口マーケット高村園さん前
(一)戦争が終わって人は開放された。このときにコットンが流行った。軽快で着やすい。これまで縛られていた気持ち開放する自由さがこれにはあったのではないか。こういう逸話を思い出した。疎開学童を散々にいじめてきた海軍上がりの教員がいた。終戦になって授業が始まったとき学童は彼の出で立ちに驚いた、米軍払い下げのシャツを着た彼が意気揚々と教室に入ってきた。「みんな久しぶりだな」と言って黒板に書いた言葉が「Start Dash」だった。軍国主義右翼こちこちだった彼はエセアメリカ人になっていた。あまりの豹変振り開いた口がふさがらなかったという。この彼が身につけていたシャツはコットンに違いないと思った。

 コットン文化の片鱗が映画の場面に記録されている。
 映画『大当たり三色娘』は、冒頭に下北沢駅前食品市場が出てくる。1957年、昭和32年封切りのこの作品は下北沢でロケが行われている。冒頭場面では江利チエミが出てくるシーンがあった。彼女はとある店で品を見定めている。リング状の洗濯物干しに生地が幾つもぶら下がっている。それはコットン生地である。この時に女が現れる。
「あんた、私の財布を返してよ」と現れた女。
「何よ」と江利チエミが応ずる。
 女は勝手に買い物籠に手を突っこんで財布を取り出す。
 スリである、混雑している市場で他人の財布を盗み、人の買い物籠に入れたようだ。

 証言で思い出すことがある。駅前食品市場で魚介類を扱っていた「ナガヌマ」の奥さん。
「混むときは入って出るまでに三四十分もかかりましたよ。スリが多くいて、トイレにはがま口がいくつも捨ててありましたよ」
 スリの横行を想起させる。この市場には木綿で有名な「マキノ」があってとても込み合っていたと。

(二)
 矢吹申彦は『東京面白倶楽部』(1984年)でここの「下北沢マーケット」のことを取り上げ、イラストで店の配置を描いている。ここの囲み記事にはこうある。
 
下北沢は、ここ数年前から、木綿の町として有名である。何故か数軒ある。木綿屋はみなかつてあちら向けの輸出木綿を扱っていたのでそのセンスがファッションデザイナーにいたく気に入られたものだと思われる。それでも有名な「マキノ」は以前このマーケットの中にあっていつもごったがえしていた。

 下北沢は木綿の町として有名だという。もとは一帯にあった木綿屋は輸出木綿を扱っていた。なるほど輸出するに当たってはどういう品物が売れるのか、デザインがいいのかということをノウハウとして蓄積していた。それで下北沢の木綿屋はファッションデザイナーに気に入られていた。つまりはセンスがいいから服を作らせるということだろう。

 この文化の底は深いものがある。戦後になって日本は息を吹き返す。やはり活路を見出すのは輸出である。ここらへんが地域の文化とどう結びつくのか。

 詩人の三好達治は代田一丁目に住んでいた。近隣からモーターの音が聞こえてくると書いて居る。この一帯は中小工場があって製品を作っていた、家内工業的なものである。これらの中には縫製工場があった。木綿から製品を作って輸出していた。

 この下北沢は焼け遺った、雨露を凌げる家があったことは大事だ。ここで産業が文化が勃興した。一つは小出版社だ。またレンズを磨く工場もあった。中には連れ込み旅館になったところもあった。

(三)
 縫製工場はミシンがあればできる。家の規模に応じて五台とか十台とか置く。これの担い手はミシンができる奥さんである。アルバイトにちょうどいい。
「むかしね、近所に縫製工場があって、できた品物を箱に入れるのです。それをアルバイトでやっていたな」
 下北沢の木綿文化は、地域の歴史と密接に結びついている。
 (2005年、下北沢マーケット)



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2023年09月04日

下北沢X物語(4778)−文士町の文学的精神文化−

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(一)「下北沢文士町文化地図」9版を手がけている。この頃思うことはなぜにかくも長く続けてきたのだろうかということだ。やはりそれはデーモンである、これに取り憑かれたからだと。が、これは抽象的だ、初版から8版、そして9版原案を並べてみると具体的な解答が浮かんでくる、地図づくりを通して多分感触を掴んできたのではないかと。言えることは遮二無二に走ってきたことだ。しかし、ここには具体的な経験がある。沢を自転車で走り回り、そして歩いてきた。このことを通して分かってきたのは地域一帯に潜む文学的精神文化の存在である。都内には文士村は複数ある。今は歴史的な名所となっている。
例示的に考えると田端文士村がある。芥川龍之介が中心人物であった。ここにはそのデーモンはまだ生きているのか。一方、我等が文士町だ、ここには精神を揺り動かすものはまだ存在するのだろうか。

 文士町の始祖は横光利一だ、マーク個所を見ると彼を慕っていた文士たちの跡が辿れる。筆頭は中山義秀だ、彼には『台上の月』という作品がある。横光利一を思慕する思いが全編に綴られている。彼は大原に住んでいた。ここから銀座に移って、そしてまた下北沢に転居してくる。

 私は間もなく銀座をひき払って、世田谷にうつってきた。横光の家のある池の上から谷一つを隔てた、下北沢のアパートである。妻の亡くなった大原町から、それほど遠い距離ではなかったが、私は決してその方へ足をむけなかった。
  『台上の月』 新潮社 1963年刊


 アパートは下北沢静仙閣である。横光利一と谷一つ隔てたところにあった。あちらの台上は池の上である。その上に出る月、彼が思慕する横光を指すものである。
 静仙閣から横光利一へ行く道の途中に晴保荘というアパートがあってここに森敦が住んでいた。横光を慕う関係者がよく立ち寄ったと言う。今回の9版にはこの晴保荘をマークした。一方、アパート静仙閣には横光と昵懇である北川冬彦が住んでいた。彼は結婚して幡ヶ谷に住むがここは横光利一宅と近い距離である。
 
(二)
 我等は池の上の下に流れて居る北沢側緑道に『横光利一文学顕彰碑』を建てた。ここには横光家の協力を得て玄関に敷かれていた二枚の鉄平石を置いた。小説『微笑』にでてくる。この石畳を歩いてくる人の足音を聞いて用向きが分かったという伝説の石である。
 
 この文学碑のすぐ北側に倉運荘アパートがあった。森茉莉が住んでいたところだ。今文京区立森鴎外記念館 コレクション展「生誕120年 森茉莉」が開催されている。
 先だって講演会が行われた。タイトルは、「千年に一度の人、森茉莉の世界」(島内裕子 放送大学教養学部教授)というものだ。誘われてネットで申し込んだら落選した。

 「千年に一度の人」という形容はすばらしい。またと現れることのない作家だ。
 そう言えば思い出した。彼女行きつけの銭湯があった。「代沢湯」である。これが壊される直前に内部を見学した。このときに備品が必要だったら持って行ってもよいと。
 そのときに裏手から入った、男湯を通って行く、ここに何の興味もなくうち捨てて通りすぎた。やはり手に入れるのなら女湯の備品だ。籐かご、ケロヨン風呂桶、脱衣場の鍵など手当たり次第に集めた。(写真)そのときに係の男性、
「あれはよいのか?」
 彼が指さしていたのは「女湯」の磨りガラスだ。
「もらっていいのか?」
「OK!」
 たしか『更科日記』にあった、彼女は本好きだった、どこぞに行って好きな本を持っていいと言われて有頂天になって選んだ。それを持って帰るときの嬉しさと言ったらなかったと書いてあった。
 女湯のとりどりの品を集めて帰るときの嬉しさはなかった。あれは何だったのか?

(三)
 「千年に一度の人」、面影を求めて遠くから女性がやってくる。北海道から九州からやってきた人と出会いもした。台湾から来た人もいた。
「夜中の十一時四十五分、北沢川のほとりに現れた人影はセーターをどぶに投げ捨てた」という場面が『贅沢貧乏』にあった。多くの人はそこに行くと彼女を想像すると。「文士町の文学的精神文化」の一端だ、これは今も生きている。


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2023年09月02日

下北沢X物語(4777)−下北沢、代田終焉の地の萩原朔太郎−

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(一)昨年は朔太郎没後80年を記念して「萩原朔太郎大全2022」と名づけた企画展が、全国52カ所の文学館や美術館、大学等で開催された。が、終焉の地である当地では催された行事は世田谷文学館友の会主催の文学散歩のみであった。「終焉の地」というのは意味深いものだ。ことには萩原朔太郎は自ら漂泊者、あてもなくさまよう者と述べている。しかし、人間のことゆえに命は果てる、その果てた場が終焉の地である。つまりはさすらいが終わった地点である。終わった後はどうなるのかだ。肉体は亡んでも魂は生きてさまよっている。当文士町には彼の魂魄が生きているのではないか。そのように信ずる人は多い。このことから、当地終焉の地には朔太郎がいたことよって文学的精神風土が今も築かれていると。

この間我等の会の事務局、邪宗門で雑談をしていた。相手は川崎義之さんである。
「私の父は長崎出身です、母は群馬出身です。二歳のとき母の実家に新幹線で行きました」
「エッ、新幹線ですか?」
 私は驚いた。遙か昔山陽本線の上り急行で上京した。そのとき蒸気機関車牽引であったように覚えている。
『もうあれから幾時代も経ちました。恐ろしいことです』
 人間は歳を取ったことに気づかない。あるときこのことに気づいて愕然とする。

「群馬はどこですか?」
「前橋です」
「ああ、朔太郎の故郷だ!」
「そうそうそうなんですよ。行くと鉄塔ばかりが目立ちますね」
「そうそう鉄塔だらけ」
 これは当たり前のことだ。前橋には広瀬川が流れている。利根川の上流である。一帯は電源地帯である、ここで起こされた電気が首都圏に運ばれた。前に東京電力を訪れたとき、「前に世田谷区内には前橋線という高圧鉄塔線がありましたとよ」教えてくれた。
「なるほどそうだったか」
 そう納得したことがあった。

(二)
 「代田の丘の61号鉄塔」は、世田谷区地域風景資産となっている。区のホームページにはこう紹介されている。

 東京電力の鉄塔のひとつである代田の丘の61号鉄塔のすぐ下には、昭和8年頃、詩人の萩原朔太郎が家を建てて住んでいたということである。その娘葉子の小説にも鉄塔が描写されるなど、文学にゆかりのある貴重な資産となっている。

 萩原朔太郎の生存痕跡を唯一記すものとして私はこの鉄塔を風景資産に推薦した。
 この鉄塔の下に、萩原朔太郎は居住していた。これは至近距離にあった。風が吹けば高圧線鉄塔、12本がうなり声を上げる。鉄塔の漏電対策は昔よりも進んでいる。
 前はジィジリという音がした。と同時に青い火花が光ることがあった。

 『氷島』という詩集がある。この詩集を朔太郎は鉄塔下の家で編んだ。冒頭「自序」の末尾には、「昭和九年二月」とある。そして末尾には俳句が記されている。

 我が心また新しく泣かんとす
冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣

 
ここから想像できることは二月冬の夕刻であろう、季節風が吹いて頭上の高圧線はうなりを挙げている。それが彼の感情に響いていたろう。

(三)
 「自序」の一節はこう書かれている。

  著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その實生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである。

 彼の心の上には、実際に高圧鉄塔線があり、季節風を受けて悲鳴を上げている。単なる天の区切りを描いたものではない、高圧線は言わば糸電話である、故郷前橋にからの通信も伝えている。遠く北方から伝わってくる氷島の風の音も送り込んでくる。
 彼の心には高圧鉄塔が強く意識されている。(地域風景資産代田の丘の61号鉄塔)



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2023年09月01日

下北沢X物語(4776)ー北沢川文化遺産保存の会会報第206号ー

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第206号    
           2023年9月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、下北沢文士町とは何か? きむらけん

 下北沢文士町文化地図の改訂9版に向けて準備を行っている。年月を経ての改版では多くの気づきがある。まずは呼称である、文士町である。文学者が多く集う場を文士村という。代表事例で言えば、馬込文士村や田端文士村である。村ではなくなぜ町なのか。先行文士村は、一時栄えて終わった。言わば歴史的な文士村である。一方、我等の文士町である。今回は8版よりも人数が十数名増えた。
 我等の文士町地図は、文学者や文化人の居住痕跡を地図上にマークしている。これは亡くなられた方を載せることにしている。数が増えた理由は、亡くなられた方が数名おられたからである。また、居住痕跡を記すにしてもそれが分からなかったら載せられない。今回は調べを通してその方々のお名前がわかったからである。
 これらのことから言えることは、我等の地図は生きているということだ。つまりは文学者や文化人のなりわいが行われているということである。「下北沢文士町」は生きている、言えば現役であることだ。

 文士村は人がいて始まる。馬込の場合は尾崎士郎、田端の場合は芥川龍之介である。が、人は老いていく。中心人物がいなくなると衰退していく。
 何事も嚆矢というのがある、下北沢の場合は昭和三年に当地北沢に横光利一が阿佐ヶ谷から引っ越してきた。ここに集う文士達が文士村を創った。新感覚派の旗手に多くが集まっていたことは確かである。その彼も昭和二十二年に亡くなった。けれども文士達の参集は終わることが無かった。未だに続いているのである。

 下北沢には文士や文化人が多く集まってきた。しかし、人だけではない建物も多く集まっている。これは我等が創った地図を見ても分かる。例をあげれば教会である。文士町地図に載っているだけでも十幾つもある。なぜに集まってきたのか。とある牧師さんは「神の思し召し」だと言われた。そういうこともあるかもしれない。が、科学的とは言えない。
 数多くあったということで言えば、他のものもある、それは寮である、会社や学校の寮である。前に、それは2008年05月12日に私が書いた記事だ、タイトルは「寮が象徴する階梯文化」というものが当地一帯には寮が数多くあった。その理由として私はこう述べた。

戦後高度経済成長に伴って人手を多く必要とした。会社は手っ取り早く焼け残ったお屋敷を買い求めた。そしてそこを寮にした。また将来の人材育成ということから交通の便のいい鉄道交点近辺には学寮も建てられた。

 会社の寮や学生寮である、下北沢は焼け遺ったこれを活用して寮が多く創られた。これは至る所にあった。一番大きな理由は焼け遺った家屋の手っ取り早い使い道である。もう一つ大事な点がある、下北沢の交通としての利便性の高さである。都心の会社、あるいは郊外の学校に通うには非常に便利であった。それゆえに寮ができた。が、これらも高度経済成長期が終わって大きく変化した。例えば「飯塚嘉穂学寮」である、産炭地の衰退によって廃止された、会社の寮なども企業の倒産などもあってこれも衰退した。
寮といえば地図上に前から残しているのは「七島学生寮」である、伊豆七島の島外進学者に対する「島しょ教育振興に寄与する」という目的のもと、昭和26年に東京都島嶼町村一部事務組合立の木造2階建て(男子寮・定員70名)の学生寮として建設された。が、財政的な面から運営が難しくなり2004年に廃止された。寮分布の一例として地図には残した。
 今回、地図にはその寮の一つとして虎の門タイピスト学校寮をマークして残す。高度経済成長期に隆盛した学校である、戦後海外に門戸を開いたがタイピストの養成は急務だった。文書管理では必須のものだった。受講生はほとんどが女性である、タイピストは人気職種であった。腕一本で身を助けていこうと地方出の女性が東京に出てくる、その場合下北沢にあった寮に入った。しかし、タイプライターはパソコンに取って代わった。タイピスト学校ではやっていけなくなり潰え去った。文化的事象としてこの名を残しておきたいということで載せることにした。
 今回新たに地図上にマークする人物では、作家の半藤一利、映画監督の松林宗恵、イラストレーターの矢吹申彦、音楽家の服部克久、童謡歌手の川田正子、これらの遺族からは掲載許可を得た。
 作曲家古関裕而は代田地内に三個所の居住跡がある。最後の居住地はご遺族の要望もあって載せていなかった。が、古関裕而・金子夫妻の境涯をドラマとした「エール」も無事終わったことから消していた終焉の地は載せてよいということになった。

熱闘甲子園野球大会も終わった。古関裕而作曲の『栄冠は君に輝く』は連日甲子園球場で流されている。これはいい歌だ。ここからふと思いついた。「文士町地図紙上文学碑」である。それは「世田谷代田『栄冠は君に輝く』(古関裕而)作曲の地」だ、誰にも迷惑をかけることはない。どうせなら世田谷代田駅前にこそっと記すのはどうか?
 皆さん、どう思いますか?

2,三軒茶屋町会と地域のコミュニティとのつながり
     三軒茶屋町会総務部 森正樹


 今年、90周年を迎える三軒茶屋町会

 三軒茶屋町会は、1丁目と2丁目の住民、地域内で営業活動をしている人たちによる自治組織です。今年で90周年になることで記念行事を計画しています。
町会というと、古参の町の有力者のたまり場といった色彩が強いと思われがちですが、三軒茶屋町会はこんなイメージを10数年前に払しょくして、比較的民主的な運営がなされてきた町会です。しかし、近年、役員の高齢化がすすみ世代交代も進まず、活動もマンネリ化してきた感が否めませんでした。

新しい挑戦と入会参加を呼び掛ける

 これでは先々の発展は望めず、若い人たちの参加も期待できません。今年5月の総会で、これが議論となり、執行部の体制を一新することになりました(新会長石綿晃)。これまで仲間内の活動にとどまり、ともすると閉鎖的だった町会活動を改めようとしています。
参加して楽しい町会活動、何をやっているのかわかる開かれた町会活動、他のコミュニティとつながり連携しあう活動、町会の枠を超えて、三軒茶屋を楽しく活性化するプラットフォームづくり(SNS)など、活性化に向けた取り組みを開始しています。
まだ新体制になって3か月余りですが、三軒茶屋小学校での夏祭りをPTAと協力して1000名以上の参加で成功させ、月1回の公園清掃にも駒留神社の神輿の担い手睦会のメンバーの参加を得て取り組んでいます。しかし、これまで活動を担ってきた方がたが少なくなってしまい、人出不足で活動に支障をきたしています。今こそ世代交代のチャンスで新しい方がたの入会と活動参加が求められています。

90周年記念行事とコミュニティをつなげるアプリの活用

 90周年を記念した行事として、12月3日(日)に記念式典・交流会(於;銀座アスター)、11月12日(日)(於;丸山公園)に「三軒茶屋マルシェ」を企画しています。地域住民の方がたの参加を呼び掛けています。また、ボランティアのお手伝い要員を募集しています。
90周年企画の一環として、町会の枠を超えて、三軒茶屋の活性化を狙った三軒茶屋コミュニティアプリ(仮称)に取り組んでいます。町会SNSとしては、世田谷区が導入を支援している「いちのいち」(小田急開発)があり、実験に当町会も参加していますが、これは一方向の伝達が主で、回覧板の代わりになり、何が行われているかはわかる利便性はあるものの、利用するには会員のアドレス登録が必要で、広がりに限界があるとおもわれます。
これに対して、今取り組んでいる三軒茶屋コミュニティアプリは、QRコードをダウンロードすれば、だれでも入れ、投稿もできる双方向性を備えています。現在、鋭意制作中で、90周年記念式典・交流会で公開を準備しています。さらに、利用していただくための工夫などアプリの活用に詳しい若い方がたの参加と支援を大いに期待しています。

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

町歩きの案内:駒沢周辺の謎を歩く 案内 文化探査者 きむらけん
第187回 9月16日(土)13時30分 駒沢大学駅改札前集合
  
 駅→トイレ:玉電の敷石→ライトの建築物(遠望)→駒沢公園:園内の謎の都電の敷石の確認→秋山の森(都電の敷石置き場)→江戸道→旧五輪道路→駒沢給水塔→旧長徳寺(タンチ山伝説)→駒沢高射砲陣地跡→品川用水→駒沢大学駅

◎駒沢公園は最先端の近代都市としてこつ然と現れた。「まるで蜃気楼のようだった」と言う人もいる。この周辺は古代から近代までの建造物や遺構や道路などが残っている、それら謎を尋ねてのスリングな町歩きである。


第188回 10月21日(土) 大山道旧道を歩く
        (三軒茶屋文士町文化地図発行記念)
三軒茶屋誕生のなぞを解く〜なぜそこに追分はできたのか
 案内者 木村康伸 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札 13時30分集合
コース:三軒茶屋駅→大山道道標→若林富士講碑→常盤塚→大吉寺・圓光院→世田谷代官屋敷(世田谷郷土資料館中庭には道標などがある)→用賀口道標→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅
〇コースの魅力:三軒茶屋は、江戸時代中期に大山道の追分(分岐点)ができたことにより生まれた。なぜそこに追分ができ、三軒茶屋はできたのか。大山道の旧道を歩きながら、歴史的・地形的な観点からそのなぞを解き明かしてゆく。4月に雨天中止となったことで再チャレンジする。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 資料代500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールか電話できむらけんに申し込むこと。
 今回から「世田谷の秘密教えてちょ!」という掲示版でも案内している。町歩きは早めに申し込んで。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net
                  電話&FAXは03-3718-6498   

4,創立二十周年記念祝賀会

今年末12月で我等の会は創立20周年を迎える。時も20年も経てば完全な歴史となる。会には多くの人が関わってこられた。が、その人々も物故されてしまった。今回はまずそういう人々への感謝の年を表して、弔意を表したい。
 東盛太郎氏、広島文武氏、道吉剛氏、金子善高氏が思いつく。その他志し半ばで亡くなった方も数人おられる。最初に弔意を表す儀式で初めようと思う。
 日時、12月2日 午後17時40分に開催する。
 参加費用 3500〜4000円 お弁当を信濃屋に発注します。予定としては11月に申し込みます。参加希望を募ります。  

■ 編集後記
▲当会の活動から発掘されたのが「鉛筆部隊」だ、毎年関係者が集まって同窓会を開いていた。コロナ禍で中断していたが9月10日(日)浅間温泉目之湯で開催する。特攻に関係した人々が集まって往時を偲ぶ集いだ。誰でも参加できる。メールで問い合わせを。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ
▲メール版ではPDFを添付しています。
(写真は、都電敷石を敷き詰めた駒沢管制塔前広場)



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2023年08月30日

下北沢X物語(4775)−駒沢公園の都電敷石の謎−

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(一)散歩していて発見することはよくある。世田谷中町の畑に御影石が積み上げられている。そこで作業していた人に尋ねると横浜市電の敷石だという。心底驚いた。が、中町の寺や私宅に敷石が活用されている。最も規模が大きいのは駒沢公園である。管制塔前の広場にぎっしりと敷き詰められている。これは都電の敷石である。ある少年の回想に「駒沢球場 東映フライヤーズのフランチャイズ←こどもはタダだった」とあった。オリンピック公園ができる前の風景だ。草ぼうぼうの野っ原の中に球場があった。これがこつ然と姿を変えた。競技場や体育館などの施設が伽藍を配置したように建った。近くの目黒十中の生徒は、完成したオリンピック施設を学校で見学にいったと。「何かまるで蜃気楼を見ているようだった」とその時の生徒の一人は思ったと。草ぼうぼうだった原っぱの一角に近代都市ができていたからだ。

 昨日は、散歩で通り掛かったので公園管理事務所を尋ねた。
「管制塔前に敷設されている敷石について聞きたいのですが?」
「どうぞ」
「ここには都電の敷石が使われていますね、北西のところにジャブジャブ池がありますね。隣接した築山には敷石が使われています。これは巾が38センチ、都電の敷石に間違いありません。ところが管制塔前の広場の敷石です、これの巾が40センチ、私が手に入れた都電敷石の仕様書に3種類載っていますが、やはり38センチなのです。40センチは見当たらないのです。当てはまるのは横浜市電なのですが?」
「そうなんですか、そこまではよく知りません。しかし、勉強になります」
 二人でやりとりをしていると女性が現れた。
「都電のに間違いないと思いますが……」
 名刺を戴いた。東京都公園協会の駒沢オリンピック公園管理所の副所長菊池麻里さんである。私はまた一通り自分が調べた話をした。

(二)
 彼女は「ちょっと待ってください」といって古いパンフレットを持ってきた。
「ここは目黒蒲田電鉄から受け継いだと書いてあります」
「ここの前身のゴルフ場のことだと思います……」

 目黒区のホームページにこのことが記されている。

目黒蒲田電鉄(今日の東京急行電鉄株式会社)がゴルフ場を譲り受け、昭和7年、パブリックコースとして、駒沢ゴルフ場がオープンしたが、好評を博し、自由ヶ丘駅には専属の送迎自動車を常備させたほどであった。
 その後、軍に接収され、戦後は都営競馬場誘致の動きもあったが野球場となり、東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)のフランチャイズ球場としても使われた。そして昭和39年の東京オリンピック開催会場となって、今日の駒沢オリンピック公園となったのである。


「目黒蒲田電鉄は、東急のことですね、一つ可能性があるのは玉川電鉄ですね。ここに隣接した大山厚木街道を玉川電車が走っていました。もしかしたらここから敷石をもらったのかもしれません。田園都市線の駒沢大学駅のトイレは玉電の敷石を用いて新装になったと言います。私も見に行きました。しかし、メジャーを出して測るのもはばかられますので測っていません。見た目の感じでは40センチぐらいはあったように思ったのですが……」と私。

 しかし、玉電の敷石だと時期がうまく合わない。玉電は東急新玉川線の建設のため1969(昭和44)年に廃止されている。駒沢での東京オリンピックは1964(昭和39)に開催されている。

(三)
「今度、来月の9月16日に駒沢周辺の謎を探るために町歩きをするのです。ここの都電敷石は見学予定に入っています。まずジャブジャブ池そばの築山に使われているのを見て、つぎに管制塔前の広場に行きて敷石を見学します。その後、深沢の秋山邸に行きます。家の前に都電の敷石がぎっしりと敷き詰められているのです。」と私。

 窓口に話を聞きに行ったが分からなかった。副所長菊池麻里さんが調べて私に連絡をくださるとのこと。その回答を待ちたい。
 町歩き、まだ大丈夫ですかとの問い合わせがある、大丈夫です、連絡をください。
(写真は駒沢オリンピック公園、管制塔前広場)

〇「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」についての照会

 昨日、外国メディアを斡旋している人から連絡があった。今週末にシンガポールのテレビメディアが下北沢の取材に来る、そのときに「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」を参考にしたいとの連絡があった。要望に応じてこの冊子を郵送で送った。


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2023年08月29日

下北沢X物語(4774)−時代の今の空気が気味悪く感じられませんか−

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どうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから2023年の時代の軋みを聞くともなく聞いていた。芥川龍之介の『羅生門』の一節を引いて枕にした。フェィズが代わった、使いたくない言葉だ。しかし敢えてこれを使いたい。この23年気味が悪い、気持ちが悪い時代になったと思う。社会全体に紗がかかったように感ずる。マスコミの微温的対応にも嫌気がさしてきた。それゆえにテレビの通常チャンネルは視聴を止めYouTubeにしている。ここでの議論はまっとうだ。小気味良いほどに社会の病巣をぐさりとあぶり出す。原発問題、沖縄問題、さらには軍備増強問題について鋭く抉っている。汚染水問題についても核心を衝いている。が、いわゆるメディアは脳天気だ。ずっと購読している朝日新聞すら政権忖度組になってきた。購読する必要があるのかと思っている。

YouTube、Ark Timeでは、いわゆる「処理水」をめぐっての24日の新聞報道を話題にしていた。

朝日 放出処理水24日にも 一定の理解と首相ら判断 
   全漁連会長らとの面会 きょう正式決定

読売 処理水 24日放出 最終調整 政府今日決定 首相 全漁連と面会

東京 処理水24日にも海洋放出 政府約束守らず 首相面会 漁連側、反対のまま


 三紙の見出しを並べて、これを批評している。そして「政権寄りの朝日」と断罪している。書き手、というか報道側の姿勢が政権主体になっていると。
処理水は24日にも放出するが「一定の理解を得られている」と政権側の考えを前面に押し出している。が、本当は東京新聞が言うように「政府約束を守らず」が事実である。

以前に報道された次の点は忘れてはならない。

2015年に政府と東電が「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」と福島県漁連に文書で伝えた方針を「順守する」と述べた。

 この約束を政府は反故にしての強行である。民意、漁連を無視してのことだ。

(二)
 芥川龍之介は自殺して亡くなった。遺書と思われる言葉を幾つか遺している。自殺直前に書かれたのは「機関車を見ながら」である。冒頭では機関車を子供は真似るが、それはなぜかと解いている。それは、「彼等自身も機関車のやうに激しい生命を持ちたいからである」と述べる。そしてそれは「大人たちも同じことである」といい。

ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌道の上を走ることもやはり機関車と同じことである。この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人によにんであらう。我々は子供と大人とを問はず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのづから自由を失つてゐる。

機関車は軌道上を猪突猛進していく。汽車は軌道を駆け抜けるがこれは比喩である。人間は飽くなき欲望を持つ。金銭欲、名誉欲、そして好色。
 ここに浮かんでくるのはマスコミが取り上げないある問題が浮かび上がってくる。YouTubeでは熱く、多くのユーチューバーが語っている。木原問題だ。

 第一線の捜査官が記者会見を開いた。木原官房副長官の妻の元夫が不審死を遂げたことについて、「断言しますけど、事件性はありですからね」と証言をした。一方、捜査一課長は「死因は自殺と考えて矛盾はない」と。どう考えても怪しい。しかし、テレビや新聞は取り上げない。大きな嘘が隠されているのに、この問題は放置されている。
 今、社会の空気が気持ちが悪い。

(三)
 現今、メディアはYouTube花盛りだ。これを見ているとアルゴリズムが働いてこちらの興味を察して番組を機械が選んでくれる。表紙をあけると好んで見ている番組のオンパレード。

 安芸高田市の石丸伸二の議会と市長、新聞記者と市長とのバトルを扱った画像が並ぶ。これは相当に見られている、市長が会見で視聴が百万を超えたと発表していた。

 我等日本では、民主主義は滅んだ、我等が思っているのは原発は止めよう、沖縄をいじめるな、マイナなんて要らない、防衛費を増やすな、武器輸出などするなと思っているがこれをことごとく無視して暴走しているのが自民、公明の与党だ。

 百万の視聴があったYouTubeについては、コメントが6000ほどついたという。石丸市長を応援するものが九割、中国新聞を支持するのが一割だと。
 何でこれをみるのか、日本では民主主義は滅んだ、が、石丸市長は説明責任が大事だととことん一人で言葉で応戦している。民主主義が生きている。が、田舎の議員は旧来的な手法で市長に攻め寄る。この田舎くささがたまらない。

  しかし、現今の社会の空気、どうにかしようとしてもどうにもならなくなった。一人気を吐いているのが山本太郎だ。私は立憲支持だがこの党の指導者の言説は今や救い難い。
(写真はうちの近所の野良猫ニャンコ、大好きだ)




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2023年08月27日

下北沢X物語(4773)ー文士町の学校文化とイラストレーターー

12月24日 019
当地域の小学校を出て文化人となった者が二人新地図には記載される。それは北沢小出身の矢吹申彦であり、代沢小出身の和田誠である。矢吹申彦は和田誠に感化されてイラストレーターの道を選んだという。和田は1936年〈昭和11年〉矢吹は1944年〈昭和19年〉生まれだ。暗い戦争が少年の心に影を落とした、時代の変革期を生きた。和田誠は小学校三年生から代沢小へ、矢吹申彦は六年間を北小で過ごした。和田誠は学校で作文教師の柳内達雄との出会あった。代沢小を訪れたとき卒業アルバムから詩集が転げ出た。「花の詩集」手作りのもので和田誠の詩も載っている。詩作品もそうだが詩の装幀も芸術性抜群である。これは柳内の指導によるところが大きい。

 文士町文学と戦争は深い関わりがある。キーワードは激動である。昭和2年に小田原急行鉄道によって切り開かれた当地域はこの線を中心に変化していく。

和田誠は代田2丁目の祖父の家ことを記す。初めて家に来たときに「縁側から外を見るとすぐ前を川が流れていて、川向こうは牧場で牛が鳴いていた」(『指からうろこ』(白水社)と長閑だった。終戦で疎開先の千葉から代田に戻る。

 食糧難、燃料難、北沢川の桜は夜中にこっそりときた泥棒で伐り倒される。燃料にするためだ。彼の父は桜の番人になって賊をとっちめたという。

 時代が落ち着いてくると麦畑は減って家が建ち、人が増えた。皆川にゴミを捨てた。それでザリガニが繁殖した。子供たちには恰好の獲物だった。

 さらに家は密集し川ザリガニも消滅し川はヘドロ化した。が、その川も埋め立てられ遊歩道になった。桜の季節になると大変だ、「屋台は出るわ、酒盛りをしている連中もいるわ、カラオケまでやっている連中がいる」と。北沢川変遷史である。

 彼なりに掴んだ街の変化だ。彼は冷静にこれを眺めていた。これらのことがイラスト描画にどう役だったのか。大きく時代が動く様を見て彼なりの世界観を構築したのではないか。

(二)
 一方の矢吹申彦だ。和田誠のような地域観察は見られない。しかし彼が『東京面白倶楽部』に描いた『僕の街・北沢』で描かれたイラストを見ると、成長過程がよく見える。最初は近間である、好んで行ったのは駄菓子屋である、それはこと細かにマークしている。少年は成長するに連れ行動範囲を広げた。自転車で方々を探検している。
 一つ一つ見ていくと一帯には少年の冒険心を満足させるところが至る所にあった。この過程で北沢一帯が場末であることを認識した。肥溜めが方々にある野暮な場であった。が、境界を越えると江戸東京があった。粋やいなせや伊達である。彼少年は世田谷地域の渉猟を通して都鄙境界を知った。その上で江戸の粋にたどり着いた。

 文士町圏内に起居すると、少年から青年になるに連れ、渋谷と新宿は避けて通れなくなる。この両町比較がおもしろい。文化観だ。

 新宿と渋谷が僕の街になった頃は、数段新宿のほうが好きだった。 ジャズ喫茶も映画館も新宿の方がよほど上等だった。「ファンキー」や「ヨット」や「ディグ」や「汀」は数段も「 オスカー」や「ブルーノート」「ありんこ」より本物だった。「日活名画座」と「東急文化」では比べ物にならなかった。 新宿にはブンカがあり、渋谷はブンぐらいしかなかったということだろう。
 『東京面白倶楽部』 話の特集 1984年刊


(三)
 北沢小は、田園と都市の境に位置する。矢吹申彦はここを往き来することで東京文化を深く知った

 矢吹申彦は、自らが内気だったという。亡くなったときは家族葬だったと。ひっそりとこっそりと生きていたい。彼は自らを「内気なだけの東京者」と呼んでいる。我等もその意を汲んで、「下北沢文士町文化地図」にこっそりとデビューさせたい。(了)
(旧東北沢駅)


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2023年08月26日

下北沢X物語(4772)ー北沢に住んだ矢吹申彦 3ー

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(一)下北沢文士町地図に矢吹申彦をマークすること、地図編集委員の作道敬子さんが旧宅を訪れ了解が得られたとの知らせ。「世田谷区のここ(東北沢)で生まれ育ち北沢小学校、北沢中学校卒業生であり、ずっとここにいたことを誇りにおっしゃっていました」との奥さんの言だ。我々は文士町地図範囲に住む文化人を調べてきたが。当地で生まれそして亡くなった人というのは初めてだ。彼は北沢人である。住居表示の変更が1964年(昭和39年)に行われ旧北沢の一部と代田の飛地下代田等が統合する形で代沢という新しい地名が生まれた。代田と北沢、それぞれの一字をとって作られた合成地名である。北沢、荏原北辺の沢の多い町、古代に成立した地域の由来が明示された地名だ。彼はここで生まれ育ったドブ川ではクチボソを釣り、遠出した根津山では駈け回った。

 北沢は辺境である、彼は言う「世田谷の外れ、でもお江戸には一番近い北沢」と。深い辺境認識があった。辺境に居て地元を知る、一歩東に行けばお江戸であり、東京である。言わば江戸見坂地点で育った。丘の高台に上れば東京都心のきらびやかな灯りが見えた。

 子供は成長する、近隣の探検は歩いていく、長ずると自転車になる、玉川上水に沿って杉並くんだりまで、そして今度は小田急線に乗って多摩川へ。誰もが通ったコースである。

 学校は北沢小、ときに放浪のおじさんが音楽教師になって、マンドリンで曲を弾いて歌を教えてくれた。家のすぐそばの茶沢通りでは羅紗を担いだ色の黒い外国人が通った。下北沢北口駅前市場で売る品物だ。

 玉川上水の向こうは掘り向こうと言った、木々の緑が深い。そこを行くと洋館があってまるでお人形のような外国人の女の子がいた。
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(二)
 彼は「僕の街北沢」に「広範囲テリトリー」が図示されている。行った個所は○で囲みマークされている。

 駒沢球場 東映フライヤーズのフランチャイズ←こどもはタダだった。

 今の駒沢オリンピック公園である、この球場草深い中にあった。ここで東京オリンピックが開かれた。呑川源流部の起伏が削られてここに伽藍配置の競技場が作られた。
「もうびっくりしましたね、どこまでも続く草ぼうぼうの原っぱだったんですよ。ところが学校で見学に行くとまるで蜃気楼を見ているようでした。塔があって広場があってあちこちに競技場、まるで夢のようでした」
 これはかつての目黒十中の生徒だった人の証言だ。

大宮公園 現・和田堀公園 この池が一番大きかった。

 南へ北へ、自転車で方々をめぐった。やはり水辺というのは魅力だ。

ワシントンハイツ

 マークがあるが記述はない。
 鉄条網の向こうにはかっこいい洋館、中にはダッジなどの大型車がダッダッと音を立てて走っていた。空き地は芝生、大きなおっぱいを持った奥さんがダブルベットのシーツを干している。

(三)
 至るところに刺激的な場所があった。
 
「オデォン座」
 オデォン座の裏にはポテトチップ工場があってクズを安く買えた。


 少年は性と愛とに目覚めていく。周辺には映画館「エトワール」もあった。
ピンク映画上映館だ、矢吹申彦は注記をつけている。「真っ先に消えた映画館」
(上、矢吹申彦邸、下、鉄道クロス)


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2023年08月24日

下北沢X物語(4771)ー北沢に住んだ矢吹申彦2ー

P1060431
(一)我等が文士町地図作りを始めたとき苦労したのは旧番地である。誰それが住んでいたと分かると年譜に当たる。しかし二十年前は皆、旧番地表記である。三好達治の住む「代田一ノ三一三」はどこか分からずに半年間も探し回った。分かってみると成る程と納得できる、詩人は家の側の路地の坂をタッタッと駆け下る配達人の足音を聞いて年齢を当てた。が、矢吹申彦旧居探しは全く苦労しなかったゼンリン住宅地図にちゃんと記されていた。大事なことはそこに行ってみることだ。東北沢駅のすぐ近くである、電車の音が聞こえる範囲だ、前に宮沢賢治生家に行ったとき真っ先に聞いたのは「汽車の音は聞こえるか?」だ。もちろんウィだ。矢吹家旧居近くに人はいた。それをわざわざ聞くことはしない、少年は鉄道好きに違いない。東北沢駅は特殊な構造だ。各停は左右上り下りの急行待避駅で停まった。真ん中を特急急行が駆け抜けた。長年聞いていると音で区別はつく。

 前にここの駅前で商売を営んでいる人に聞いた。「日曜日の夜に新宿発の進駐軍電車が通るんだ。だいぶ前から聞こえてくるんだ歌ったり、楽器を鳴らしたりしていたからな」と。この逸話「幻影の『猫町』下北沢 朔太郎X線の彷徨」の中に忍び込ませて使っている。東北沢の坂を下って下北沢通過するときもこのジャズ電車は音をばらまきながら通過していた。これを聞いた人は大いに刺激されたはずだが。この音を聞いた人は他にいない。

 鉄道至近距離に住んだ矢吹少年はこの小田急に刺激されたはずだ。『絵を描かせたら右に出るものはいなかった』という逸話を近所で聞いた。出発点は小田急電車であるに違いない。家の側に鉄道が走っていた、夜も昼もだ。興味を持って聞いていれば各駅かそうでないかは分かる。モーター音を聞いただけで○○系統の電車だということも分かる。

(二)
 多分、書籍をみれば分かるだろう。検索をした。ここで自分の勘違いに気づいた。Googleトップに自分の記事が穴吹申彦とワンツーで出てくる。「やばい!」字を間違えていた。早速に訂正したことだ。が、穴吹申彦は消えない。

 書籍検索では三冊が引っ掛かった。「線路はつづくよ」、「新幹線各駅停車」、「時刻表奥の細道」のイラストを描いていた。宮脇俊三との親交もあったのかも知れない。
 出版の系統で趣味も分かる。『猫づくし 画報 猫の本音を聞くDVD』を共著で出しているが猫のことを描くには猫好きでなくてはならぬ。きっと自宅でもニャンコを飼っていたろう。

 矢吹申彦は下北沢文士町で生まれてこの町で育っている。学校については公表している。
 我が母校 )迷小 ∨迷中 6霈豺盥

 彼自身が描いた『東京面白倶楽部』(話の特集 刊)には得意のイラストで北沢やその周辺がイラストで描かれている。少年時代、段々に域を広げていくさまが手に取るように分かる。
 近くでは「東京コンクリートの砂利・砂場」ここは小田急砂利電の終点だった。貨車からここで砂利が降ろされる。それが見ものだったのだろう。そのそばには「底抜け田んぼ」があったと記す。
「こわいぞ、はまると死ぬぞ!」などと話していたのだろうか。
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(三)
 時代は変わる、矢吹申彦は近くの銭湯に行った。そこの番台には同級生の女の子が座っていたという。
 銭湯、山の湯も店を閉めた。このすぐ側に及川園子さんの家はある。
 お宅にお邪魔して帰るときに案内してくれた。
「跡地には家が五軒も建つのではないかと思っていたのですけどね、建ったのは三軒なんですよ」
 裸を見られると恥ずかしいと思った少年、そしてその裸を見たかもしれない少女も、皆淡い性は消え果てて一人は死に、もう一人ももう間もなく80歳になる。
(上、東北沢から、下、現在の山の湯跡)



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2023年08月23日

下北沢X物語(4770)ー北沢に住んだ矢吹申彦ー

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(一)人はそこで生まれて育つ、自領域は初めに覚えたところが出発点だ、そこを遊び回って成長していく。その居住地区の環境はとても大事なものだ、ところが、あるときに地名が変更された。広範囲の北沢が分割されて一部が代沢となった。北沢はこつ然と狭くなった。この土地で少年時代を過ごした矢吹申彦は言う。「子供頃だけの記憶のある場所にいくと、あれほど広く大きく見えたものが、実際はなんと小さいのだろう、と驚くことがあるが、我町北沢は決して僕の身体が大きくなったせいではなく。現実に半分ぐらいになってしまった。北沢も小さくなったものである」(『東京面白倶楽部」矢吹申彦。)彼が生まれたのは1944年、このとき一帯の呼称は「北沢」だった、1964年(昭和39年北沢1丁目と2丁目と下代田町は1から5丁目に代沢と代わる。北沢を中心として付近を跋扈していた少年探検隊には大きなショックだ、テリトリーが縮小されたのである。

 行政の側は町名変更は、機械的だ、が、北沢で過ごしていた子供らにはショックだ。ちょっと遠出して遊んでいた北沢用水や北沢八幡が代沢と呼ばれるようになった。

 下北沢文士町における人々の活動、やはり大事なことはその場所に行くことだ。行って分かることは多くある。例えば、下代田に住んだ加藤楸邨である。我が家のことを句にこう詠んでいる。

北風の丘坂なりにわが庭となる

 その場所を探し当ててなるほどと思った。崖を背後にして家があった。吹いてきた北風は崖に当たってわが庭に吹きつけてくる。
 日々慣れ親しんでいた北沢という地名が急に狭くなった。
「ほら、おれらが屋敷散歩していたところがあったろう、あそこはみな代沢になるんだって、ワウワウといいながら散歩して和服姿のおじさんがいたろう、あそこも代沢だって」
 横光利一だ、文学年表も北沢から代沢に代わっている。この新居住区はあまり馴染みがない。やはり横光利一は北沢でないとしっくりとこない。
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(二)
 東北沢の山吹申彦だ、北沢公園のすぐ北側に家はある、敷地全体は広かったようだ。彼の死後敷地は分割されたそうだ。イラストレーターの家は酒場のようになっているが営業しているのかどうか分からない。

 場所は、すぐ北側には小田急線が通っている、と、言っても今は地下を走っている。彼山吹申彦は1944年生まれだ。幼少時からここに育っていたのだろう。
「子供の頃から絵を描かせたらすごくうまかったんですって」
 山吹さん近くの知り合いの家にいったらそう聞かされた。
「私は容易に想像がつきますよ、間違いなく電車の絵を描いています」
「そうですか?」
 及川園子さんあんまり信じないらしい。
「子供はみな電車好きなんですよ。ここら辺の高架橋はいつも保育園児がいますよ。電車の観望台は保育士さんにとっても一番安心できるんですよ。柵に囲まれていて、目を楽しませるものが折々に来てくれますからね。」
 この頃の子供の風景の出発点は電車? 山吹申彦、その履歴をみても鉄道関係の装幀を心掛けている。
「彼は『ぼくの街・北沢』をイラストで描いています。すぐそこの銭湯『山の湯』さんにも入りに来ているんです。そこにね『同学年の女子が番台に座っていた』とあるのです。わかるなあ、色気づいてくる頃だから女の子を意識する、まして同学年だとよけいに恥ずかしい。さりげなく描いてありますが彼の戸惑った顔が浮かぶな?}
「山の湯さんは、兄弟は6人、上が男3人、下が女3人、年齢からすると一番上の娘さんがあたるわね。」
「地元ネタはリアルですね。まあ、やっぱり北沢の連中はこっそりと、玉川上水の向こうがわに探検に行っているんですね。何しろ玉川上水が境界、そこを越えて大学構内に忍び込む。『航空研究所』にはお宝の山があったんだから……」

(三)
「確かに向こうは異界でしたね、大山町あたりはとてつもないでかい家があって、わたしなんか姉に欺されましたよ。『あの家には像が飼ってあるんです』って。私はずっと信じていましたよ。」
 これは及川さんの話だ。
 しかし、掘り向こうは異界だ。
「大邸宅に像がいたり、大邸宅の池ではふんだんに口ぼそが釣れたり、木陰には白系ロシア人のお人形さんのように可愛い女の子もいましたね……」と私は妄想を付け加えた。
(上は矢吹旧居、下、北沢小は池の上小の仮校舎)


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2023年08月21日

下北沢X物語(4769)ー下北沢文士町文化地図の公益的意義ー

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(一)下北沢一帯に居住した作家や文化人を地図上にマークしている。基本原則、物故された方の居住跡につけることにしている。プライバシーに関わることなので関係者には掲載の可否を確認している。今回は新しく18名がマークされる、その一人は松林宗恵監督である。生前親しくして戴いた方だ。ご遺族に確認をとったところ。「跡地は人に手放しました。跡には何もないので居住痕跡を記してくださることは有り難い」との返答。地図上にマークすればそこに暮らしの跡が残る。それを見てファンなどは当該人物に思いを馳せられる。この了解の取り付けは編集委員の作道敬子さんがしてくれている。一人一人の訪問時の話がちょっとしたドラマになっている。

 最近になって川田正子さんの居住跡が見つかった。一世を風靡した童謡歌手である。ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌、「とんがり帽子」はうち沈む戦後の人々に勇気を与えた。うちの会員だった川田正義さんは彼女の親戚だった。この彼も亡くなられた。川田正子エピソードは断片的に聞いていたがもっと詳しく聞いておけばよかった。
 今回は、敬子さんがピンポン突撃をした。出てこられたのは息子さんだったという。8版地図渡して了解を取ったという。前地図が同意を促したとも言える。

 服部克久さんも敬子さんが確認を取った。インターホン越しにそれができたという。ということは現物を渡すまでもなく、ご遺族は地図のことを知っていたと言うことだ。
 三月花見シーズンに我々は地図配りをする。そのときに服部克久さんが現れた。一緒に記念写真を撮ったこともあった。

 世田谷代田を離れることのなかった古関裕而である。彼は世田谷代田域内には三個所居住跡がある。8版を作るときに現住所は外してほしいと言われた。が、今回はNHK朝ドラ『エール』も終わった。それでもう大丈夫でしょうということで載せてよいということになった。

(二)
 故半藤一利家をピンポン突撃をしたのはこれも作道敬子さんだ。
「私たち下北沢文士町文化地図を作っていますが、近々新しい版を創ります。ご主人を入れてよいでしょうか?」
「よろしいですよ」
 とのことで許可は取れた。
「一人になったのでたいへんですよ。郵便物がくるでしょう全部開けられないものだからそのままになっているものもあるのですよ……」
 半藤真理子さんは言っていたという。彼女は、夏目漱石の孫、夏目漱石生誕150年に新宿区立漱石山房記念館ができた。その名誉館長に就任している。
 作道敬子さん、そういうことも知らずピンポン突撃したらしい。昨日、矢吹申彦の旧居跡を訪ねた後、すぐ近くにすむ及川園子さん宅に言ってこの話をした。
「私、そのときに行きたかったわ」とうらやましがっていた。

(三)
 私は、ご夫妻には2005年9月にお会いしている。18年前である。ブログには「代沢の谷の『暗夜行路』」として記事を書いた。付近での聞き込みからここに志賀直哉の妹が住んでいることを知った。そこの場所を私はうろうろしていた。そのときの半藤夫妻と会ったときの話だ。

 思案していると前の家から人が出てきた。ロマンスグレイのご主人と奥さんである。
事情を話した。すると思いがけない方向に話が広がった。
「ここにおられる鈴木さんは志賀直哉とは関係のない方ですね、この隣におられる方に聞けばわかるかもしれない。だけど確実に分かる方法があります。」
出かける途中だったという半藤さんは家に戻って行かれた。しばらくして出てきて彼は電話番号を教えてくれた。
「鈴木琢二といいます。わたしからだといえば、よくわかるから、あなたが疑問に思っていること教えてくれるでしょう。この人は志賀直哉の甥だからね」
 白髪長身の彼はそういって笑った。


 このときに奥さんも出てこられた。半藤真理子さんだ。
(写真は、東北沢の矢吹申彦旧居)


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2023年08月20日

下北沢X物語(4768)ー下北沢文士町文化地図9版の作成 3ー

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(一)継続的な地図作りを通して文士町文学論の根幹は辺境にあると気づいた。当地に生まれ育って、そして亡くなったのは矢吹申彦だ。彼は自分が生まれ育った北沢を『東京面白倶楽部』に二回に分けて書き表している。それは「世田谷の外れ、でもお江戸には一番近かった」であり、「子供の頃の街、僕達北小っ子のテリトリー」である。辺境に生まれた彼は長ずるにつれ江戸を知るようになった。それが粋であり、いなせであり、伊達である。それらの「心意気に代わって東京にはびこったのが猝酳覘瓠」だという。辺境と野暮とは相通ずるものがある。それは粋に捕らわれない自由性である。辺境だから勝手気ままにできた。想像の自由である。

 矢吹申彦は北沢小出身者だ。この北沢小の位置が面白い。我等の「下北沢文士町文化地図」では右上辺のぎりぎりのところにある。まさに北沢、北辺の境界上に位置する。当地一帯の文化情報は北小関係者から多くを得ている。
 「下北沢風景」と題された絵画がある。ここにはまさに北沢が見事に描かれている。沢の下方から丘を描いたものである。丘上は東北沢である、矢吹申彦はこの風景の下で育っている。彼は昭和十九年生まれである。絵が描かれたのは昭和三年頃だ、小田原急行鉄道が開通して辺りが開け始めたちょうどその頃が描かれている。青い空に崖線の緑、そして建ち始めた家々の赤い屋根瓦が印象的だ。言えば辺境の自由性を描いたものだと言える。

 絵を描いたのは高須光治である。この描画地点が分かった。北小卒業生に案内されてのことだ。そのときは驚いた。が、当地一帯ではさして驚くべきことでもなかったのかもしれない。

 まずその家には画家が住んだ、その後に入ってきたのは歌人である。それは尾山篤二郎である。彼は身体が不自由だった。それゆえに属目吟を多く詠んでいる。北沢を歌枕にして多くの作品を創っている。

 実は、矢吹申彦情報はやはり北小関係者から手に入ったものだ。

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(二)
 矢吹申彦はイラストレーターである。非常に興味深いのは、我等の下北沢文士町文化地図とほぼ同じものがイラストによって書き表されている。そしてそれぞれの個所の思い出エピソードが描かれている。銭湯マークの一つにはこう書かれている。
 散歩者のための 東京面白倶楽部 絵と字 矢吹申彦 話の特集 1984年刊

同学年の女の子が番台に座っていた。

 これは北沢小そばにあった山の湯のことだ。性に目覚める頃の逸話だ、同学年の女の子が番台に座っている。自分の裸を見られるのではないか?そういう恥ずかしさがあったはずだ。言えば青春史である。

 そういう点でいうと「航空研究所」のところで書かれている逸話も面白い。

いろいろ珍しい物を拾い集めた。もちろん、裏の鉄条網を破って

 航空研究所は戦時中、戦闘機などの風洞実験もやっていた。そういう破片が構内にあってこっそりと拾えた。

 少年の興味が満たされる場であった。きっとシャベルなどを持っていって構内の土を掘り返したのではないか。

例えば、北沢二丁目、三丁目にはこんなメモがある。

 集団で駈け廻った一帯はだいたいこの範囲である。遠出は自転車。寄せ集めても人数の半分、交代に走って追っかけた。

 緑豊かなお屋敷街である。今のように塀はなくこっそりと忍び込めたのではないか。

(三)
 文士町探訪は尽きることのない旅である。先だって赤坂暢穂さんに戦後の下北沢を語っていただく講演会を開いた。彼は北沢小出身者である。このときに矢吹申彦の話が出て知ったことである。(上、東北沢駅から都心方向、下、下北線路街。今日撮ったものだ)



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2023年08月18日

下北沢X物語(4767)ー下北沢文士町文化地図9版の作成 2ー

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(一)なぜ文士町か、いわゆる文士町は人中心に形成される。当地域も核となる作家がいて形成された点はある、が、文士や文化人が下北沢に集まって来た一番大きな理由は鉄道交差による利便性に尽きる。人が集めたというよりも機械が集めた、と言ってよい。人々の機縁は鉄道交差の利便性が原因だったと言ってよい。が、遠因に関東大震災がある。詩人福田正夫は小田原で震災に遭い、大正12年に一家して「世田谷下北沢八〇九番地」越してくる。民衆派詩人の根城ができた。最寄り駅は京王線笹塚である。福田正夫は人を集めるのが好きだった。多くの詩人たちが居宅に集まった。昭和2年には小田急が開通する。これによって阿佐ヶ谷から昭和3年に横光利一が当地に越してくる。雨過山房には彼を慕う文士達が多く集まってきた。文士町の出発点である。

 文士村は人が中心となって作られていく、先行文士村の田端や馬込は人々が集まってきて関係生を構築する、大事なのはその交渉史である。文学だけではない馬込朔太郎邸ではダンス会が開かれた。彼の妻はここでの接触が契機となって駆け落ちをした。

 ところが下北沢ではそういうサロンが見えてこない。どこそこに行くと多くの文士が集まっていて、すぐに文学の話となった。などということがない。一番大きなサロンはやはり横光邸だった、引きも切らず仲間がやってきていた。また、ここでは毎週水曜会という文学関係者の集まり、勉強会を行っていた。ここでの様子は森栄晃さんから直接聞いた。横光利一や川端康成が「これからは文学でなく映画の時代がやってくる」と聞いて森さんは映画界に入っている。

 数日前、下北沢静仙閣の情報がもたらされた。この高級アパート最盛期には百室もあったという。映画監督や詩人などがたむろしていた。この詩人とは北川冬彦である。ここに居住していた北川冬彦のことについて言及していたのは伊藤祷一さんだ「北沢に住んだ文芸人」の中で言っていた。森敦が面白いことを言っている。

 彼は大岡昇平の父親が所有する晴保荘に住んでいた。

 (晴保荘は)なにしろ、横光さんのお宅と義秀さんのいた静仙閣の、ちょうど中間にあるでしょう。どちらのほうに来る人もよるもんだから、いつもぼくの部屋ははいりきれないぐらい人がいっぱいなんだ。
 ポリタイア第七号 昭和44年12月25日 横光利一と中山義秀

 
森敦は、「義秀さんのいた静仙閣というアパートには、北川さん(北川冬彦)もいた」と言っている。昭和十一年ぐらいのことだ。

(二)
 高級アパート下北沢静仙閣には有象無象多くの人が住んでいた。ここに住んでいた北川冬彦は横光利一、そして萩原朔太郎とも懇意だ。この話、昭和十一年頃の話である。このアパートは世田谷代田に住む萩原朔太郎邸と近い。朔太郎はこの頃付近を散歩していた。ふらりとアパートに立ち寄って北川冬彦と話をしていたのではないだろうか。

 森敦のいたアパート晴保荘は、静仙閣と横光利一邸の中間にあったがゆえに関係者が出入りをしていたという。近隣に住む文学者の社交場のようになっていたらしい。
 晴保荘は明確な場所はわからない。が、大岡昇平は父親の地所に住んでいることから同じ敷地にあったと推察される。それで地図には大岡昇平旧居そばに推定として入れておいた。

 最近知ったのは矢吹申彦である、肩書きはイラストレーターである。和田誠のアシスタントをしていたようだ。

 彼の著作に「散歩者のための『東京面白倶楽部』」(話の特集 1984年刊)がある。この中に「僕の町・北沢・上」(世田谷の外れ、でもお江戸には一番近かった)、「僕の町・北沢・下」(子供の頃の街、僕達北小っ子のテリトリー)を書いている。小学校は北沢小で、中学は北沢中であり、高校は駒場高校であったという。

 我々は下北沢文士町地域の文学者や文化人を話題にしている。当地で生まれてここで育った人というのはこの矢吹申彦が初めてだ。

(三)
 人は成長するに連れ生まれ育ったところを認識していく。当初は東京都世田谷区北沢として捉えていたが、長ずるに連れ、東京の北沢を認識し始めたという。

 北沢はその名の通り、世田谷の一番北の外れにある。ただし、この外れは世田谷の中での話で、世田谷そのものが東京の南外れにあるものだから、この北の外れの北沢が江戸城に一番近いことになる。つまり、今では都心に一番近いということである。
北沢の沢は低地で水辺と草が多いという意味のもので、世田谷に山があるわけでもないのに何故かやたらとこの沢が多い。


 世田谷区の旧郡名は荏原だ、北沢は荏原北東端を指す、そこに流れているのは玉川上水である。北沢辺の子供らはには向こうは異界だったという。森を越えて行くと隠亡がいた。「ちょう怖かった」



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2023年08月17日

下北沢X物語(4766)ー下北沢文士町文化地図9版の作成ー

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(一)「下北沢文士町文化地図」9版に着手している。なんと掲載人物が一気に十五名ほど増える。この現象の意味は大きい。文士町文化論に繋がるからだ。当方は文士村と言わずに文士町としている。これがより意義づけされた。つまりいわゆる文士村は歴史の一時期に存在していて文士達は大勢集って物語を編んだ、言わば過去物である、馬込文士村、田端文士村などはそうである。しかし、当文士町は未だに活気づいているのである。率直に言うと現役の文士町である。今もなお生きていて誰かがこの一帯で作品を書いたり、歌を作ったり、台本を書いたりしている。それが街のホールやバーで演奏されたり、街の劇場で上演されたりしている。現役の文士町ゆえに町がつくのである。

 今回の9版作成は、8版の改訂、補訂となる。地図に新たに加える人物が固まってきた。新たに加えるのは十五名である。物故者に加え、未記入者を入れたからだ。今でさえマーク個所が多いのにこれが増えると込み合ってくる。

 物故された方としては半藤一利さん、服部四郎さん、松林宗恵さんが居る。いずれも馴染みが深い。我等のデビュー作『北沢川文学の小路物語』には半藤一利さんは協力者に名を連ねておられる。また服部四郎さんは、北沢川緑道を散歩しておられた。我等会員は一緒に記念写真を撮ったこともある。

 松林宗恵監督は最も多く接した。彼から、文化論、音楽論、映画論は何度も聞いた。
「撮影所のスタジオは終わると電気が消えるんだ。煌煌と点っていた電気が消えて真っ暗になる。すると常夜灯がぽつっと点く。撮影が終わったことが実感できた。そんなときに下北沢のマコトにコーヒーを飲みにいこうやといって電車で行った。」
 煌煌とライトで照らされた中にいるとストレスが相当に貯まる。本物のコーヒーを飲むとホッとしたと。
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(二)
 和田誠が亡くなったことは知らなかった。今度のには少年時代に育ったところを地図上にマークすることにした。
 だいぶ前に代沢小に行ったとき校長室で昔のアルバムを見せてもらった。ページをめくっているとバサリと間から落ちてきたものがある。それは小さな詩集である。
 昭和二十四年当時の六年生が作ったものだった。和田誠の詩もそこにはあった。小学生にしてはハイレベルだとそのときは感心したものだった。感性の鋭い指導者が子どもの詩心を刺激していたのだろう。
誰が指導していたのか、
「ああ、あの『花の詩集』ですか、あれは柳内達雄先生の指導ですよ。あの詩集は何冊も出されたのですよ。」と代沢小の卒業生が教えてくれた。 
 小さな詩集だが装幀は凝っている。和田誠の手になるものだ。ここに掲載されていた彼の詩だ。

「荷馬車」

坂道を荷馬車がのぼっていく。
車にはたんすやこおりなどが
くくりつけられて 山のような荷物だ。
坂道は でこぼこや
おまけに大きな石が いっぱいころがっ
ている。
車はがたんがたんと大きな音をたて
荷物は 左右にゆれ なわはふるえる。
汗ばんだ馬の大きなからだに
まひるの太陽がかんかん てりつける
むぎわら帽のおじさんが
片手にたずなをもち
片手に木の枝のむちをもって
馬とならんで 歩いていく。
馬は 鼻の穴を大きくし
ふうふうと せわしく いきをする
その鼻先を
とんぼがすうっと とんで行く。 二二・八・二一


 言葉による荷馬車の写生である。馬の一つ一つの動きが言葉に置き換えられている。目に映った光景を言葉という記号に変換するというのは書き手の造形能力や感性が求められるものである。荷台に積載された荷物は荒縄で縛りつけられている、それが車が動くたびに震える。夏まっ盛り太陽は容赦なく馬の肌に照りつける。微細な部分をよく観察している。冷静に見ているところが心憎い。ことには最後の締めくくりだ。熱暑に悪戦苦闘する荷馬車の馬の鼻先を「とんぼがすうっと とんで行く」、馬とはまったく無関係な景物をひょいと持って来て、鼻先を掠めさせる。これで絵が立体的になっていく。

(三)
 家の近くの北沢川緑道の桜並木について触れている。少年時代の思い出だ。

天気のいい日に川をのぞくと、魚が泳いでいるのが見えた。両岸は桜並木である。半年ほど疎開をして、終戦で帰宅。戦後の貧乏時代が続くわけだが、貧乏はうちだけではなく、夜中に川っぷちの桜を切りに来る奴がいる。燃料にするためだ。寝ているとギコギコ音がする。親父がガバと起き上がって怒鳴りに行く。川っぷちに住んでいただけで親父は桜の番人のようになっていたが、現場に行くとたいてい木は倒されてしまったあとである。そんなわけで桜並木は半分ほどになってしまった。
  和田誠 「指からウロコ」2001年 白水社 


 終戦後何でも燃料にした。桜の樹ならまだしも、川に架かっている橋も徐々に細くなってついには橋そのものがなくなった。




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2023年08月15日

下北沢X物語(4765)ー戦争への道を歩くことなかれ!ー

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(一)非常に印象深く覚えている言葉がある。「戦争というのはドンパチから始まるのでない、最初はトタン屋根に小石がパラパラッと降ってきた感じだった」、妹尾河童が言っていた言葉だ。何となく始まり、こつ然と『帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり』と開戦が知らされる。この文語体というのもくせ者だ、戦争当事者はかっこ良く見せたがる。ところが負けが込んでくると嘘を流す。「台湾沖海戦」戦果報道はその典型だ、「帝国海軍が、敵航空母艦撃沈11隻、撃破8隻」と報じられた。沸き立つった国民、祝勝の国民大会が開催された。軍は平然と国民を欺す。こういう体質は今も変わりがない、嘘は隠し通す、真実を国民に明らかには決してしない。すべてを秘密裏に運び、気づくと今この国は軍事大国を目指している。

 私は晴雨に関わらず毎日歩いている。区域は荏原だ。目黒区、品川区、大田区が中心だ。地方は過疎化が進み、至る所に廃村が生まれている。が、当地一帯新規住宅、マンション、アパートの建築は好況だ。目立つのは更地にするときのブルトーザーの運転手は中東系の外人である。新築ができるとすぐ売れる。格差は極端だ、儲かっている人は大儲け、が、貧困に喘ぐ人はお握り一個さえままならなくなっている。

 私が歩いているところには農地は各所にある。大体そこには申し合わせたようにポスターが貼ってある。全部が自民党議員のものである。

 地主は金持ちだ。その彼らがなぜにポスターを貼るか。解答は容易だ、自民党は金持ちを優遇する党だからである。金儲けの党である。税制なども金持ちへ有利に働くような制度を作る。憲法など知ったこっちゃない。

 今年初めまでは夜の民報のニュース番組は予約録画をして必ず見ていた。が、それは止めた。今、政府与党自民公明は国民望んでいないことを次々に行おうとしている。異常と思えるほどだ。それに対する報道は追随ばかりで批評がない。「この件からは目を離せませんね」で締め括る。総じてのんき、脳天気である。これら報道も間接的にこの国が戦争への道を歩み始めたことに少なからず援護射撃をしている。

(二)
 通常テレビ報道を見なくなったが、テレビは観る。それはYouTubeだ。この所しつこくなったのがコマーシャルである。課金を払えばコマーシャルフリーで観られるよとYouTubeは宣伝する。そういう詐欺に欺されないでこまめに広告をスキップしている。
 ありとあらゆるジャンルがある。これは見飽きない。田舎のおっさんたちが集まって発動機運転会をやっている。が、動かない、野次馬がああだこうだという。そんな中、ご老体が現れてちょっちょっとネジを回すと、たちどころに発動機はタンタンタンと動き出す。拍手喝采だ。のんきで平和である。

 昨日だ、府下の議会の話を流していた。「武器輸出三原則」の見直しに反対する意見書を議会に諮った。
 武器輸出は戦争に加担し、人殺しを容認することになる、ゆえに「武器輸出三原則」の見直しは絶対に行うべきではない。日本は恒久平和を求める世界の諸国民に範を示す立場にあるのに武器輸出をするとは。これも金儲けに目が眩む与党の施策だ。

 その意見書は採決された、数票差で否決された。公明党議員四名いたが否決に加わった。
YouTubeのレポーター「公明党は平和の党と言っているがどこが平和なんだ」と辛辣な言葉を放った。この与党公明党は本当にいやらしい党だと私も思う。

(三)
 二十年間、古老から話を聞いてきた。十数年戦争経験者から体験を聴く会も行った。が、コロナ禍で頓挫した。継続が無理になったのは体験者がいなくなったことが大きい。しかし、戦争体験者の言葉は大事だ。

 何があってもどうあっても二度と戦争はするな。ひとたび戦争になれば人間は人間でなくなる。獣と一緒だ。撃ち殺し、刺し殺しあうだけだ。

 ところが、今この国は戦争への道を歩き始めた。 
 岸田政権は昨年末に「安保3文書」を閣議決定した。根幹は軍事費を倍増させ、23年度〜27年度にかける防衛費を総額43 兆円とする。そして敵基地反撃能力を保有すると言う。これは「専守防衛」原則や憲法を完全に逸脱するものである。

 戦争は理も非もない、やられたらやりかえす、これが戦争だ、「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」に言い換え、正式に名称変更した。表現を弱めて批判を避けている。ごまかして国民を再び戦争へと導こうとしている。国民よ、与党に投票するな。市民よ、怒れ。



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2023年08月14日

下北沢X物語(4764)ー近代ふるさと論ー

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(一)お盆の帰省シーズンである、鉄道、飛行機、高速道路は混雑を極めている、人々は困難であるにも関わらずふるさとを目指す、ふるさとは何か、生まれ育った土地である。誰もが愛着を持つところだ、そこになぜ帰るのか、愛しい縁者、父母・祖父母が住んでいるから、自身にゆかりのある霊魂が祀られているからということになろう。しかし、ディスタンスも大事である。故郷は遠くにありて思うもの、混んでいても苦にはならない、たどり着くまでの電車や飛行機に乗っての過程、これが楽しい。故郷でもっと大事なものがある。それはふるさとという風景である。これへの出会い渇望である。これは大きい要素だ、人は歳を取るが風景は歳をとらない、いつ行っても厳然と風景は存在する。人は懐かしい風景に会うために帰省する。風景こそは人々の本当のふるさとだ。

 慣れ親しんだ景色との再会は嬉しい。数多くの古老から話を聞いてきた。代沢に住む故柳下政治さん。戦争が終わって兵役が解除された「池尻から歩いて家に向かったよ、空襲でやられたと聞いていた。ところが行く内に家のケヤキが目に見えてきた。もう嬉しかったね」と。この大欅のすぐそばに俳人の加藤楸邨が住んでいた。彼はこの樹が奏でる虎落笛に誘われて隠岐への旅に出た。彼の隠岐絶唱はよく知られている。

 今、95歳の大坪節子さんから聞き書きをしている。台湾基隆から和歌山県田辺へ向かう。その一節だ。

 それでも何日かすると『おおい、山が見えるぞ』という声、みな甲板に駆け上がりました。水平線に緑の山が見えてきました。不思議ですね、台湾にいるときは故国を日本だと言うことはありませんでした。でも、『山が見えてきたぞ』と言うので甲板に出てみたのです。すると向こうに緑に覆われた陸地が見えています。『ああ、日本に帰って来たんだ』と思いました。懐かしかったですね、涙が湧いてきました。

やはり、戦争からの故郷帰還が最も感動的だ。

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2023年08月12日

下北沢X物語(4763)ー風景と人生と旅 2ー

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(一)風景にも寿命があると知って新鮮な驚きを持った。どうあがいても風景は遡れない。人間自由であるようで不自由だ、縄文時代は憧れだがせいぜい想像するだけしかできない。自身満州撫順生まれだが記憶は一切ない。私の風景の始まりは関門海峡である。もう父も母もいない、それでも下関に足を向けることがある。起伏の豊かなところだ、海があるというのは魅力的だ、私の風景は下関に始まっている。自身の鉄道好きはここに始まっている。国鉄線の主要駅だ、優等列車はすべて停車した。駅の外には市内線、山陽電軌鉄道が走っていた。夢はサンデンの運転手になることだった。一番好きなところは長関線の黒門辺りだ。ここで電車は海峡の船と張り合う。海に面したところに電停があった。「クロモン、クロモン」と車掌は言うが誰も降りない、誰も乗ってこない、吊りかけモーターの音の響き、そして海辺に打ちつける波の音、指呼の間に門司が見える。

 聞き手の私、話し手の大坪節子さん、六年ほど海峡と向かいあって生活をしていた。いずれもが風景の出発点をここにおいている。彼女は玄海灘から吹きつける黒い風が怖かったという。

 私が覚えているのは下関と彦島を結ぶバスだ、ここは水門の橋で結ばれていた。九十度の角度で曲がった橋を運転手は右に左にハンドルを切って行く。このとき心底怖かった。いつも手すりにしがみついてここを通り抜けるのを待った。

 幼少時には自身の性癖が現れる。往時、一家は畑をどっかに借りて芋を作っていた。家までだいぶ離れていたらしい。ところがそこから自分の姿が消えた。親はおろおろ捜したが見つからない。が、家に帰ると私がいたというのだ。
 放浪癖は抜けないものだ、芋掘りに飽きて自分一人でポクポクと歩いて帰ってしまったようだ。よくあんな道のりを一人で帰ったと言われた。

(二)
 大坪節子さんと話して気づいたことがある。
「私は、彦島にある大洋漁業の倉庫に行ったことがあります。中に入るとマグロの凍ったのがごろごろ詰まっていました。長い間見ていたら『せっちゃん凍っちゃうよ』と母に言われました」
 私はその話を聞きながら、倉庫のスレート屋根、そして壁に抱えた「は」を○で囲んだ大洋漁業の赤いマークを鮮明に思い浮かべていた。が、彼女はそんなものはなかったという。ここで気づいたのは、人の話は白黒で、自分が思い描く絵はカラーであることだった。
彼女からは爆弾で破裂した荷物から飛び散った宝石を拾う話を聞いた。私は、色とりどりの宝石が散らばった様を想像していたが「そんなもんじゃありません」土の山があるだけですと。カラー画像は自身の妄念だった。

 聞き書きは面白い、が、これを作品化するのは難しい。やはり大事なのは具体的なエピソードだ。
「ダイヤモンドを拾った話をすると、一つぐらいもらったってよかったんじゃないのと人は云うのですよ。あのときはお国のためという気持ち一心で懸命に拾うのが精一杯だったのよ」
 こういう話はよく分かる。高女の女子学生、十五歳だ、純真で純情だったのだ。
思うにそういう純真さと純情さを悪用したのがこの国家だ、特攻隊である。
深く考えれば特攻は不要だった、その狙いは、負けがこんできたなかでの特攻戦法、
本質は一撃講和である、最後になって敵に被害を与えれば有利に終戦交渉が進むと。

(三)
 九十五まで生きてきた人、多くの逸話を持っている。彼女は台北帝国大学で研究者のお手伝いをしていた。

「台北帝大学医学部では教授は森於菟先生でした。研究室の前には骸骨標本がごろごろありました。怖かったです」
 森鴎外の御長男である。



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2023年08月11日

下北沢X物語(4762)ー風景と人生と旅ー

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(一)どんなに暑くても寒くても必ず散歩する。運動のためということはもちろんあるが、風景を見るためである。風景には常々関心を持っている。風景の蓄積こそは人生である。我々は風景を貯め込んで生きている。風景は財産である。どれだけ金を儲けたかでなくどれだけ風景を蓄積したかである。この頃ある老齢女性九十五歳のから聞き書きをしている。ここで面白いことに気づいた。大坪節子さんと私とは生まれて数年、同じ風景を見て育っていた、それは関門海峡である。私は下関で彼女は門司だった。互いにやりとりをしていて幼少時に置ける風景経験がいかに大事かを知った。

 幼少時生まれてそこに育った。これが人生を決定する。人は生まれてそこで育つ、土地の風景、風土、気候が大きく影響する。フラットなところで、起伏のあるところで、土地の高低は人に大きな影響を与える。幼少時の風土環境が人間形成に大きく影響している。

 たた私は、下関で生まれたわけではない。満州撫順で記録上生まれている。しかしここでの景色は全く覚えがない。残っているのは下関の風光であり、風景である。
 風景は遡れない、生まれ育ったところで原初風景は形成されるものだ。人には必ず原初風景がある、そこを出発点として今に風景を貯め込んでいる。

 大坪節子の青春史をまとめている。この過程で二人とも関門海峡を挟んで住んでいたことを知った。風景についてお互いに言い合った。関門海峡は地形がくっきりとしている。そこから生まれ育ったものは土地の影響を大きく受ける。地形が人間の景色を決定する。

(二)彼女は、家から眺めた風景を語った。人は背後の風景はあまり語らない。前からだ。
「まず、田んぼがありました。その向こうは国道二号ですね、ここに西鉄電車が走っていました。つぎが操車場、ここに鹿児島本線が走っていました。そして最後が海、関門海峡で対岸が彦島です」
 大坪節子さんの説明だ。
 これを聞いただけで音が浮かんでくる、汽車の汽笛や船の汽笛だ。そして潮騒。

「私は大坪さんの対岸の下関市江浦町、江浦小学校に通っていました。小学校から海は見えません、東側の丘に登ると見えます。まず沖合に巌流島が見えます。しかし、風景を思い出していくと、忘れていたものが引っ掛かってきますね、巌流島の右手に赤いものが見えてきました。そうだ、ここに三菱重工下関造船所がありました。赤いクレーンとか。塗装されないまえのドックに入った船、そしてここには溶接に火花が散っていました。これでようやっと海峡を渡れます。門司港の倉庫群、そして汽車、小倉方面に走っていく汽車が豆粒ほどに見えます。白い煙をたなびかせてて走っていきます」
「門司側の鹿児島本線ですね」
「そうそうそうです。こんどは麓から上を見ると、山々が屏風のように連なっていますね。高い山が風師山……」
「そうそうその麓で私は生まれました……」

(三)
 いつしか海峡の思い出を語っていた。懐かしい。
「玄海灘を冬になると季節風が渡ってくるのです、強い風です。家をぐらぐら揺らすのですよ。あれがとても怖かったです。」と大坪さん。
「たしかにね、関門海峡は日本海が気候ですね、冬型になると遮るものがないから雪雲がどんどん入ってきてよく吹雪になりましたね」
 そうそう海がもやったら海峡からうるさく霧笛の音が聞こえてきました。 写真は関門海峡



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2023年08月09日

下北沢X物語(4761)―長崎にチンチン電車の鐘が鳴る:朗読台本公開―

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・『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』を書いた。広島で原爆投下後、三日目に市内電車が動き出した。グワットン、ガァットン、電車の響きは人々に生きる希望を与えた。被爆直後から職員は復旧に向けて動きだした。発電機の修理、線路の補修、架線の張替え、稼動電車の点検など、復旧に向けて電鉄職員は死に物狂いで努力した。テストハンマーを持って全電車の点検をした人もいた。焼け焦げた電車の車台の番号を確認し即座に被害地図を作成もしている。己斐と天満町の短区間だったが、応急的に補修された電車が動いた。死んだ街が生き返った、という物語だ。長崎にも同じことがあった。が、こちらは復旧までに三ヵ月かかった。十一月二十五日に長崎駅前と蛍茶屋の間が動き始めた。坂の町長崎に電車は必須のものだった、多くが犠牲になった。それでも人々の尽力によって電車が動き始めた。広島よりも遅かったがそれでも死んだ電車は生き返った。死の街にカァンカァンカァンとフットゴングが響いた、長崎の電車の鐘だ。ここではこの物語、自身が書き下ろした朗読台本を公開するものである。被爆伝承の一環である。機会があれば使ってほしい。

長崎にチンチン電車の鐘が鳴る
きむらけん

(一)「長崎の鐘が鳴る」

 あの歌、「こよなく晴れた青空を」ではじまるやろう。ほんなこつあの日は空は真っ青に晴れ渡っとったわね………忘れもせん、あの八月九日、突然にあの空がピカッと光ってドガンと割れたんばい。空から降ってきたんは地獄、歌では「悲しと思うせつなさよ」となるばってん、せつなかなんてもんやなか、胸がかきむしらるるようだった。そして、「なぐさめ、はげまし、長崎の」と続いて、最後が「長崎の鐘が鳴る」やろう。みんなは「カァン、カァン、カァン」と鳴る、大浦天主堂の鐘ばすぐに思い出すという。ばってん、うちゃ違う、誰が何と言おうとあれは電車の鐘ばい。

 うちには聞こえてくるんよ、「ヂィン、ヂィン、ヂィン」ってね、電車のフットゴングの音がね。原爆が落とされたせいで、長崎のチンチン電車は全滅したやろう。それがね、原爆ば受けてから三か月経って、また聞けたんばい。復旧一番電車の運転手が力強うフットゴングば鳴らしたんばい。ほら歌は、「なぐさめ、はげまし、長崎の」となって、「ああ、長崎の鐘が鳴る」となるやろう、こんときに電車の鐘の音が聞こえてくるんばい。そうすると気持ちが晴れてくると、くじけんで生きんばと思うんばい。

原爆というもんは、ほんなこつ罪作りなもん。あれが落ちてからしばらく経って「爆心地」ということが言わるるごとなったと。今「平和公園停留場」となりよーんは、爆心地にもっとも近か停留場、昔は松山町と言いよった。あの日、市内電車は数多う走りよった。うちも電車に乗っとって、同僚の女運転手とか女車掌とは何度も擦れ違うたんばい。運命というんやろうか、松山町方面に向かった人は多う死んどって、逆に離れて行った人は助かったんばい。

 長崎は坂ん町っていうやろう。人は坂から降りてくる、そん人たちが谷筋に走る電車に吸いこまれてくるんばい。そしてこれに乗って行きたかところに行く、電車は市民の足、便利なもんやけんみんなに親しまれとったんばい。それが原爆ばいっかりやられてしもうたんばい。それで長崎ん町は死んでしもうた。

(二)電車の車掌
 ところがあのピカドンが落ちてから三か月が過ぎたころやったわね。新聞に載っとったんね、『長崎電気鉄道、復活!』って、十一月二十五日に長崎駅前と蛍茶屋の間が動きはじめると書いてあったんばい。もう嬉しゅうて嬉しゅうて……

 記事は何度も読んだ。蛍茶屋という字が懐かしかったわ。電車の行き先表示で見馴れとったけんね…………女子挺身隊員として入ったんは十六のとき、誰も就いたのが車掌業務、いっしょうけんめい、電停名を暗唱したわ。……諏訪神社前、新大工町、桜馬場町、中川町、そして最後が蛍茶屋……きれぃか名前よね、思い出すわ。

 うちゃね、女子挺身隊員として長崎電気鉄道に入ったんは昭和十七年四月やった。十六歳の時ね、実習期間はほとんどのうてすぐに車掌業務、切符切りに乗降案内、それにポール回しがあったと、これが大変やった。ポールというとはトロリーポールんことね。電車は電気で動きよーとやけん、こればしっかりつけんば動かんとよ。終点に着くと、電車は逆方向に動くやろう。やけんポールば反対方向にぐるっと回転させんばならんの。まずロープば握って、これば力ば込めて百八十度まわすん、そして滑車ば架線にはめ込むと。なかなかこれがうもう行かん。『なにぼやぼやしとーったい、出発だぞ!』と何度も運転手さんに怒られてね。」

 『切符切り』も大変、お客さんに切符ば渡してお金ばもらう、これができんの。電車は揺れとーやろう。おつりば渡そうとするとぐらり、あっちんお客さんに倒れてしまうん、恥ずかしか思いばしたわ、男のお客さんがお尻ば触るんばい。ばってん何にも言えん。とうとう恥ずかしゅうなって先輩に相談したら。

『そがん男は図に乗ってやっとーけん、きちんと言うんばい。しっかりとそん男の人ば向いて、《お国が戦争ばやっとーという時になしてそがん嫌らしいことばするんばい。電車から降りてもらいます!》、これぐらいきつうゆわんと向こうには効き目がなかと。だまっとーと、いくらでもやってんよかということになって電車ば選んで乗ってくるぐらいやけん』

『なにごとも経験ね、混んだ電車の中を動き回るとは大変だばってん、これも要領があるんよ、人と人とん間には隙間があると、ごめんなさいと言うてそこばひょいひょいと縫うていけばよかとばい』

 もう苦労、苦労の連続やったわ、一番大変なんは、雨の日、カーブでポールがよう外るると。そんときは窓ば開けてロープば引っ張って、ポールば架線はめこまんばならんの。そうしとーと油にまみれた雨水がロープば伝うておっちゃけてくると、もうそうすると顔はまっ黒、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうって……。

  電車が、電停に着くと案内ばせんばならんの。「さくらばちょうです。お降りの方はいらっしゃいませんか?」と、簡単なことやったけど声が出てこんの。乗降客の確認ばしてチンチンと鳴らして発車となるばってん、棒立ち、「なしてぼやぼやしとーったい!」と運転手には何度も怒鳴りつけられた。

 ばってんね、教わったんのはめげんでやることやなあ。間合いとか気合いなんかは、半年ぐらい掛かってやっと分かったわね。電車がぐぐぎって停まると、一拍おいて、『お降りの方はいらっしゃいませんか?』と言い、前と後ろば素早う見て、誰もおらん気配ば感じたら、天上の紐ばつんつんと引っ張ると、するとすぐに運転手さんがチンチンと応じてくる。要領が分かって仕事がうもういくととても嬉しかった。

 仕事というとは慣れやと思うたわね。女子挺身隊は寄宿舎住まいで、ほとんど家に帰ることはなかったわね、そんでもしばらくぶりに家に帰ったと。実家は小商人ばやっとって、一日の銭勘定が大変と。硬貨ばっかりやけん。ばってんね、乗務が終わってからいつも電車賃の計算やっとーけん、もうお手のもん、手伝うてやったら、すぐに終わってしもうたんばい。父さんは、目ば丸うして、『わいは、金計算がうもうなったな!』と言いよったわね。

(三)女の運転手

 戦争も終わりに近づくと、男手がどんどんなくなっていくの。昭和十九年の秋にとうとう運転手も不足してきて、女の人が運転するごとなったんね。うちんところに回ってきたんは昭和二十年春やったわ。あるとき電車部長に呼ばれたと、そして何と言われたかというと、『運転手は君や!』と。《ええっ、あの電車ごっこ》と思うたわ、ほらあるやろう、唱歌が『運転手は君だ 車掌は僕だ』って、まるであれと同じばい。

 「運転手は上手、電車は早か」と「電車ごっこ」で歌われたばってん、にわかごしらえの「運転手は下手くそ、電車は遅か」ばい。「運転手は君や」と電車部長に言われて、次ん日から訓練が始まったと。年配の運転手さんが教えてくるると、これがお師匠さん。最初は「よう見とかんね」と言うて後ろに立たされたと。「これがコントローラー」、「こっちがブレーキハンドル」と教えてくれたんね。三日ぐらい経ったころ、長崎駅に着いたとき、突然『松尾、うちに代わりにやってみんね』と言われたと。何かね、目眩がしてきて倒れそうになったんばい。『えすがることはなか、女も度胸や』と言うてさっさと運転席から離るると。そして強引にうちば運転席に立たせたと……

『見とったろう、運転は簡単や、ポイントは二つだ。動かして、つぎに停める、よかね。一つ目や、まずコントローラーば回す。目盛りがついとるやろう。こればノッチというったい、少しずつ上げていけばよか、三つ目ん目盛りまでばい。あんまりスピードば上げることはなか。だいじなことはゆっくりでよかけんお客さんば運ぶことや……二つ目動いたら止める、これも見よったな、ハンドブレーキば回すと車輪が締めつけられて自然に停まるんだ。じゃあな、コントローラに手ば掛けて、回すったい』

 コントローラーに手ば置くと震えてきたと、ばってんお師匠さんがうちん手に自分の手ばそえてコントローラーば回したんね、するとカチッカチッと音がして電車が動き出したと。一ノッチ、二ノッチ、三ノッチ、電車がグォンと鳴って前の景色がこちらに押し寄せてくると。目が回りそうになったけど我慢したんね。すると次の電停が見えてきたんね、『恵美須町です』と女車掌の声、それでブレーキハンドルに手ば掛けて回すと自然ブレーキが掛かって、最後にギィグと音がして電車が止まったと。お師匠さん、『おお、おお、できたやなかか、なあ、簡単や。あっはっは、免許皆伝や!』、それでうちゃもう運転手、終点の蛍茶屋まで必死でコントローラーば回し、ブレーキハンドルば回したと。やっと着いたときは足がガタガタ震えて止まらんかった。

 おししょうさんはね、「リゴウ」、「リゴウ」ってよく言っていたの。この意味がよくわからないの。でもね、わかってみればなんのこともなかとばい。『離』は、離れる、『合』はあわさる、電車どうしが擦れ違うことばいうんばい。電車の運転手になりたてのころ、一番ドキドキしたとが離合やったと。男の運転手というても、歳はうちと同じ十七八歳、学徒動員の子と、制服制帽ばかぶっとって、擦れ違うた瞬間に敬礼するんばい。あれはね、かっこよかと、惚れてしまいそうになったわね。

あんときは戦争中やけん恋は御法度やと、監督さんにいつもきつう言われとったわね。ばってんどがんときも乙女心は押さえられんのね。離合なんかは出会いやろう。男の人はほとんどが動員学徒、擦れ違うときにかっこよか敬礼ば送ってくるとばい。女運転手仲間では、よるとさわると「だれだれがかっこよか」とか噂しとったわね。

 まだ女の運転手は少なかったと、たまに離合で会うときはばり嬉しかね、ほんの一瞬やったけど互いに合図ばしあったと。空いとー方の手でサインば送るんばい。手でもって三角形とかマルとか×ば書くんばい。今晩おしゃべりしようとか、休みんときにどこそこに行こうかとか。

 フットゴングはめったやたらと鳴らしてはいけんばい。ばってんね、女の運転手やと、ついね、踏んでしまうんばい。音の挨拶やわね、擦れ違うた瞬間にフットゴングば互いに鳴らす。ジィンって鳴らすと、ジィンと返ってくる。音同士が響き合うたときは心がツゥンとなりんしゃい、苦しかばってんお互いに頑張っとー、そがん思いが湧いてきたとよ。何か自分が生きとーという感じがしたのね。、忘れられん瞬間やったと。

運転手では何と言うてんブレーキハンドル。何度これ回しても電車が停まらなか、「苦しか、苦しか」と言うておめいていると、何んこともなか、夢ば見よったと。

 電車を停めるのは大変やった、満員やとなおさら。ブレーキハンドルを回しとーと、手がすべってハンドルを離すとこれが怖ろしい勢いで逆回転する。下手するとそれにぶつけて骨を折ることもあると。

電車には一台一台、癖があると、大阪さん、はすぐいうこと聞いてくるるばってん、京都さんは手強かと。「京の舞子さんは芯が強かけんやろう」と皆言いよったわね、百二十系の電車は大阪から来た電車、八十系は京都から来た電車、こちらは重かと、やけん音がちがうと。ぐったん、がったん。大阪さんは、こっとん、くったん。響きが軽かね。

 毎日、毎日ひもじか思いばして電車に乗っとったばってん、中町天主堂の塔の先端の十字架を横目に見ていくときとか、大波止にきて海が見えてくるときは気持ちがホッとしとったわね。

 電車に毎日乗務しとーと顔見知りになるやろう。そうすると高等学校や中学校の男子学生が目ばつけてくるんね、降り際にこっそりと手紙ば寄越す子もでてくる。「乗務中に手紙ばもろうてはいけん」と言われとーばってん、つい受け取ってしまうこともあると。監督さんに見つかって取り上げらるると、そりゃすぐに燃やされてしまうんね。もろうた子は「読んで見たかったあ」といつまでも悔しがっとったわね。

あの日は、仲良しの山口幸子さんと井樋ノ口で擦れ違うたと、離合するときって大分前から見えとーと。好きな人は直ぐ分かるんね、彼女背が高かけんすぐ分かったと。そうするともうドキドキしてくるのよ。だんだんに近づいてくる。敬礼してすぐにサインば送る、そんとき「うちゃあんたば好きばい」と言うてきたと、何か恥ずかしかったわ。

 離合は別れること、うちの電車は蛍茶屋へ、彼女のは大橋へ。運命の分かれ道ね、爆心地方向に行ったんは大方死んでしもうとるばい。うちゃ、蛍茶屋に着いて詰め所で休んどったときにピカドンやられたと。

(四)八月九日・十日

 八月九日は、何とのう気乗りがせん日やった。
 長崎駅前から乗ったお客さんが変な話ばしよったんね。
『こん前五日か、六日頃やったと思うばってん敵さんのビラが撒かれたんばい。《かぼちゃは実ったか?八月八日に爆弾を落とすから四里四方に逃げてください》と書いてあったんばい。かぼちゃは実ったかなんて何か気持ちわるかとばい。それで昨日は防空壕に待避しとったけど何にもなかったと』

 うちゃ蛍茶屋に着いて、詰め所で休憩。麦茶ば飲みよったらピカッと光ってドカン、何が起こったんかいっちょん分からん。記憶が飛んでしもうとーんばい。ばってん覚えとーんは空の色ばい。まだ昼日中なんに夕方んごと薄暗かとばい。それで浦上の方ば見ると真っ暗になっとーん、いったい何が起こったんか?それであちこちで火ん手が上がったと。
 もう一つ覚えとーんはにおいね、いやなにおいと。後で思い出してゾッとなったわね。人ば焼けるにおいやったんばい。
「皆、逃げんね!」
 誰かが言うたんそれでもう夢中になって避難所まで逃げたわね。

 八月十日、避難所には電鉄ん人が集まっとったと。ところが人はもっといるはずなんにいくらもおらん。
「大方行方不明になったんやろう」
 そん人たちば捜すために電車線沿い歩いたと、目も当てられんほどに黒焦げん死体がゴロゴロ、まだ生きとー人もおって、「水、水」というん、うちらは近くにあった井戸から、拾うたアルマイトに水ば汲んで上げたばってん、そん人も体中やけどで正視できんかったわね。

人も大勢焼け焦げて死んどったばってん、電車も死んどったんよ、ひしゃげとったり、やけとったり、もっとひどかとは線路よ、飴んごとぐにゃぐにゃに曲がってしもうとってね、電車通りに風景が根こそぎのうなっとったと。原爆というものは風景まで根こそぎ壊してしまうんばい。道沿いの電柱からはまだ煙が出とって、まるで線香が焚かれとーごたーった。

電鉄の男の人たちも行方不明者ば捜しばしとったばってん、人だけじゃなくて電車も捜しとったみたい。長かハンマーば持った工務部の人は、電車ば見つくると台車ば、それで叩きよったわね。
「こがんところにわいはおったんか!」
 電車ん一台一台ばみんなよう知っとったんね。台車には番号が書いてあって、それでもって京都さんや大阪さんが分かったみたい。

 今になって思うともうこんときに電車ば動かそうとしよったんやと思う。メチャクチャになった電車ば見てどうしようもなかとうちなどは思うたとばってん。そうではなかったんや。どがん絶望に陥ろうとも人々は希望ば捨てんかったんやと思うんや。

しかしね、ひどいのよ。原爆ほどひどかもんはなかね、そんときに放射能が危険であるなんてこと分かるわけはなかね。
 「入市被爆」なんて言葉は、もうずっとずっと後になって知ったんばい。なんも知らないで家族とか友だちとかを捜しに行ったことで残っていた放射性物質で身体に害を受けるなんて夢にも思わなかったことだわ。

 放射能は目に見えんのよね、ばってん探しに行くときは、やっぱり被害の大きか方にどうしても入っていくばい。遠うから見えるんよ、焼けた電車や壊れた電車が、あっちにも、こっちにも。

 九日、原爆が落ちたのは昼日中やろう。多くの電車が動きよったんね、乗務中に原爆で亡くなった者、営業所・車庫などで被爆して死んでしもうた人は分かっとーだけでん百八名もいたと。そのうち女子が五六名やったと。みんな若か子で、十代やった人は五十九名もいたんばい。ばってんね、これだって日にちが経ってから分かったと。

(五)原爆の記憶

 『長崎の鐘』の二番は、「召されて妻は 天国に」やろう。うちゃね、原爆で死んだ人が天国なんか行くわけなかと思うとーと。

 八月十日、行方不明探しをしたけどあまりにも惨たらしかった。言葉にいえないほどだったのよ。線路沿いに行くともうその線路が飴んごと曲がっとってね、それで大きなボールのごとあるもんが転がっとーんばい。が、よく見るとそりゃトロリー線なんよ、爆風で吹き飛ばされてまん丸うなってしもうたんね。電車はぺちゃんこで焼けただれとーと。つり革ば持ったまっ黒な人間が中に立っとーと、言葉で無惨というばってんみるものみな惨たらしかといったらありゃせん。やけこげた車掌カバンば持った子がおったと。

 まっ黒焦げでね、小さか子、小学校出たばっかりん子よ、可愛そうと思うて頭に触ったら、人形の形ばした人間がそん途端に崩れて粉々、あまりもひどか、原爆で死んだ人が天国に行ったなんてえすらごとやと思うん、焼け跡ば歩いて思うたんは神や仏はおらんということばい。あん爆弾ば人間が作ったとしたらそん人は悪魔ばい。

「長崎の鐘が鳴る」の三番は「こころの罪をうちあけて/更けゆく夜の月すみぬ/貧しき家の柱にも/気高く白きマリア様」やろう。ここが分からんの。あの日長崎電気軌道で学徒動員で運転手ばしとった和田耕一さん、離合のときに自分の同僚の田中久夫さんと出会うとーんね、和田さんは爆心地から遠ざかり、田中さんはその反対へ、それで被爆して瀕死の重傷ば負うんね、臨終間際に目ん玉ん飛び出た田中さんが「ぼくはなんもしとらん」と和田さんに言うて息ば引き取ったんね。みんなそうだばい。「みんな、何も悪かことはしとらんばい」それなのに原爆は爺さんも婆さんも女も子どもも何万と殺したんやけん。「こころの罪をうちあけ」なきゃならんのは原爆ば落とした人ばい。これにやられた人、幼か子どもばしっかりと抱いとったまま黒焦げになって死んどったお母さんこそ、マリア様ばい。なして罪もなかこがん人ば無差別に殺す必要があったんやろう?原爆で死んだ人はほんなこつ無念の思いば今も抱きよーんばい。ばってん、世界中に核爆弾が増えていくばかり、なしてあがん悪魔んごたー兵器ば持とうとするとか、持ってはならんとよ。

時間の経つのは怖ろしい、気づいてみるとうちも九十四歳、記憶は段々に消えていくばかり、ばってん原爆のことだけは忘れられん。放射線被曝がずっと自分の体ば苦しめる、体だけじゃなくて心も痛みつけてくるんばい。それで怖ろしい夢が襲うてくるんね。誰かから聞いた話がずっと耳に残っとってこれが夢に出てくるんばい。
「あん夜、爆心地の松山町あたりは、何千何百と人魂がゆらゆらと飛びかっとって、それが一帯にずらりと並んだしゃれこうべば青白う照らしとった……」

  悪か夢は、悪か夢ば呼ぶばっかりでね、そうすると浮かんでくると。
 焼け焦げたボロボロん服ば着た人が、両手ば前に出して列ばなして歩いてくると、わかめんごと垂れ下がった皮膚ば垂らして、目ん玉が飛び出とって……もう怖ろしゅうてたまらん。そがんときは自分の腕ばつねって歌うと。「長崎ん鐘」ばい。

 これはとてもよか歌でうちも好いとー。誰もが長崎原爆ば歌ったうたやと理解して聞いとー。ばってん、歌はきれい過ぎる、そりゃ理由のあることばい。時は昭和二十四年、まだ占領下にあった。それで被害の実情ば言えんかったけんばい。現実は悲惨ばい。峠三吉さん、「床の糞尿のうえに/のがれ横たわった女学生らの/太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の/誰がたれとも分らぬ一群」(『八月六日』)と描いとー。残酷さ、悲惨さ、無慈悲さはとても表現しえなかもんや。ばってん一番の誤りは、原爆が誰も彼も見境のうことごとく殺しとーことばい、人間的な愛のひとかけらもなかとです。被爆者の誰もが言う、核は絶対に許せんと、そうばい、許してはならん。「核兵器禁止条約」がもう発効しとー。日本はアメリカの核の傘に入っとーことでこれば批准しようとしとらん、そりゃ核ば許すことばい。多くの被爆者は無念の思いで死んどー。唯一の被爆国であるこの日本が核兵器禁止ば率先して呼び掛くるべきばい。核ば捨てて世界に立ち向かう、核ば持たんことが核への防御となることを訴えてほしかとばい。

 長崎原爆では大勢の人が亡くなったわね。死んだ人は約七万四千人と言われとー。こがん数の人間ば一瞬で死滅させる爆弾ばよう平気で落とせるもんやと思う。あん日、長崎では大勢の人が活動ばしとった。うちらは長崎電軌の従業員はそがん怖ろしい爆弾が落ちてくることなど全く知らんで懸命に働いとった。とくに男手が戦争に取られとったもんやけん、そん代わりとして女子が大勢働いとった。車掌や運転手として電車に乗っとった。
 長崎電軌は原爆が落ちたとたん変電所がやられて全部の電車の運行が止まってしもうたんや。市内の方々には乗客ば満載した電車が走りよったが、すさまじか原爆の閃光ば浴びて車体ごと爆風で吹き飛ばされたんや。乗っとった乗客もこれにやられたり、閃光で焼かれたりして多うが死んでしもうた。その死体がもうゴロゴロ市内中に転がっとった。そりゃ見るんも絶えられんほどやった。

 電車は五十六両のうち、動くのが三十六両あったけど十六両はもう丸焼けになってしもうたんね。その他ん車両も小破したり大破したりしてほとんど全滅に近か状態やった。施設としての銭座町の変電所、大橋車庫、営業所が焼けてしもうたんばい。従業員も百十名が亡くなった。そのうち女子は五十六名、十代の男女は五十九名やった。中には十三歳の女車掌もおった。ほとんどが学徒動員と女子挺身隊員やった。

 電車ば動かすには変電所からの電気を流す架線柱が大事なんやばってん、これが120本も倒れてしもうたと、そん他も閃光ば受けて曲がったり、ゆがんだりして使えんくなったと。レールも軌道から浮き上がり、そしてめくれてぐんにゃりと曲がってしもうたんばい。

  それでも電軌の生き残った職員は「長崎の復興は電車から」を合い言葉に懸命に働いたんね。被害の様子ばみるとほとんど復旧は無理やと、うちも思うとったと。
「長崎の命である電車が動けば市民に希望ば与えらるるはずだ」
 保線の人、電工の人、整備の人、それに電車乗務員、うちゃ、やけどば負うたけん諫早ん実家に帰ってしもうたと。手伝いとうても手伝えんかったと、それが今でも悔やまれてしょんなかと。

 電車は、電気で動くけん大事なんは電気なの、つぎがね、電気を送る変電所なの。こりゃ全部原爆で吹き飛ばされてしもうたと。それでまずバラックの建物ば建てたと、壊れとった電動発電機については、三菱電機から東洋レーヨンに納めらるるはずやった二台ば譲ってもろうて据え付けたというのね。

 問題は架線なんやばってん、これも方々から応援の人がきてなんとか張れたと。そして被爆してから百八十日目、いよいよ電車が動くことになったと。

(六)長崎に一番電車が走った

 昭和二十年十一月二十五日のことばい。長崎駅前と蛍茶屋間に電車が走ったと。

  うちゃ、まだやけどは治っとらんやったばってん、その一番電車にはどがんしてん乗ってみたかったと。朝、一番の汽車で諫早から国鉄で長崎駅まで行ったと。「きれか白壁んドイツ建築」の長崎駅やったけど跡形もなかとよ。
電停にはもう人が何十名と待っとった。
「やっぱり電車は長崎のシンボルっさね、これが動かんことには長崎は復興せん」
「音やわね、チンチンゴーという音、あれがしてこんば長崎やなか」
「いや、チンチンの音もそうだばってん、やっぱりフットゴングの音やろう」
「架線柱が建っとーばってん、これもな何本かは帆船の柱たい。電工の連中がかけずり回って集めてきたんやけん」

 そうしとーときに音がしてきた、グゥゥンという音や。
「あれは何系か?」
「分からん!」
「とりあえずありあわせん材木ば持って来て、電車の形に作ったと聞いとー、色も剥げおっちゃけとーし、窓も板が打ちつけてある。見た目では車両形式はわからんね」
「やっぱり靴の音ばい、ごめんやす、ごめんやすと聞こえてきたら、京都市電ばい」
「ほんとかな、冗談やろう」
「ほらほら、何か聞こえるやろう、ごっとんごめんやす、ああ、こりゃやっぱり京都市電ばい」
「そがんのこじつけばい」

 うちが一番せつのう思うたんは行き先表示版ばい。あれは布に書いてあったけん、きっと焼けたんやろうね、板きれに「蛍茶屋」と描いてあったと。それば見て胸がツゥンとしたもんばい。
 ほんなこつつぎはぎだらけん電車が長崎駅前の電停に入ってきたと。男の運転手さんの姿が見えてきた。制帽ば被っとったと、そん人が待っとー人たちに、手ば挙げたと。そんとたんに、「ヂィン、ヂィン」とフットゴングば鳴らしたと、「長崎の鐘や」、辺りにおったみんなは誰もが電車ば見たわね、うちゃ涙が出て来た。他の人も同じでハンカチで目ば拭いとった。
「なつかしかばい」
「何か力が湧いてくるごたー」
「うれしかばい」
みんな口々に言いっとった。

 長崎電軌鉄道の電車がほんなこつ動きはじめたんばい。夢やなかんばい。それでね、停まったときに車体に手ば当てるとこれが温かかと。十日の日に友だちば捜しとーときに窓だけがやられた電車がおったと、思わず駈けよって触ったけども冷たかったと。
 ばってんやっぱり生き返った電車は違う、ぬくかとよ。それにごんごんごんごんと音ば立てとった。ほんなこつ死んだ電車が生き返ったと思うた。

 ほんとうにつぎはぎだらけの電車が長崎駅前の電停に入ってきたの、男の運転手さんの姿が見えてきた。制帽を被っていたの、その人が待っている人たちに、手を挙げたの、そのとたんに、ヂィン、ヂィンとフットゴングを鳴らしたの、辺りにいたみんなは誰もが電車を見たわね。
「なつかしいわ」
「ああ、あん鐘や」
「何か力が湧いてくるように思う」
「うれしいわ」
みんな口々に言っていた。

 長崎電軌鉄道の電車がほんなこつ動きはじめたんばい。夢やなかんばい。それでね、停まったときに車体に手ば当てるとぬくかと、十日に友だちば捜しとーときに窓だけがやられた電車がおったと、思わず駈けよって触ったけども冷たかったと。ばってんやっぱり生き返った電車は違う、ぬくかし、それにごんごんごんごんと音ば立てとーんばい。
「電車賃はいらん、乗ってくれん」
 車掌が乗客にそう呼び掛けとったと。
人が乗り終わると車掌はベルばチンチンと鳴らした、運転手はチンチンと応答し、そしてフットゴングば力強う踏みつけた。ジィン、ジィン、もう涙が湧いてきて止まらんとよ。原爆はとんでんのうよそわしかと。ばってん思い出さるるとは赤子ばかばって地面にうつ伏せになっとったお母さん、そんお母さんはまっ黒やったばってん、「気高く白き マリア様」やったわ。何かね、清浄な存在がなかとうちらは救われんのばいね。
ガッタン、ゴットン、電車が揺れる、そのリズムば聴いて自然に歌が湧いてきた。

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

交差点に掛かって電車は、また鐘ば鳴らした。するとジィン、ジィンと響く中に、カァンカァンという鐘が聞こえるごたーった。
 長崎の電車の鐘と大浦天主堂の鐘とが心の中で響きあって鳴りよーごと聞こえた。窓ん外には焼け焦げた町があった、と、そこに大人がおってこちらに手ば振っとー。そん脇に子ども、一人、二人、こちらも手ば振っとー。
 黒う沈んだ町が、息ば吹き返したごと思うた。長崎の町は生き返ったんや。


 
〇参考 長崎原爆戦災誌 第二巻 地域編 長崎市役所編 一九七九年刊
長崎のチンチン電車 田栗優一・宮川浩一 葦書房 二〇〇年刊
NHK 原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ 路面電車運行中の被爆
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/shogen/ja/697/

(長崎弁は機械翻訳ですので危うい点があります。長崎弁に堪能な方、ここはこういうふうにとご意見をくだされば嬉しいです。無料公開の場合は、大丈夫だと思いますが、有料だと『長崎の鐘が鳴る』の著作権使用料が必要になると思います。トップに掲げた古関裕而の絵は、作曲家のおまごさんからいただいたものです)







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2023年08月08日

下北沢X物語(4760)―戦争とは遊戯である―

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(一)八月は戦争の月だ、広島原爆忌、長崎原爆忌、そして終戦記念日と続く。戦争を考える好機だ、2020年08月15日に「戦争残酷:列車銃撃事件の現場を行く」を当ブログで話題にした、これへのコメントが昨日あった。取り上げたのは「湯の花トンネル列車銃撃事件」である。すぐ様想起したのはそのときの情景である。終戦直前の8月5日である、中央線湯の花トンネルにさしかかった419列車に、飛来してきた戦闘機P-51が執拗に銃撃を浴びせた、その現場に行ったが、ゲームシーンとして恰好の場であったと思った。すなわち彼らP51搭乗者は谷間をゆっくりと上っていく中央本線普通列車が獲物に見えたのだ。ゲーム感覚で銃撃を繰り返している。つまりは遊びである。戦争は悲惨だ、しかし当事者には人権感覚などはない。この事件に限らず、戦争というものは言えば遊戯である。人の生き死になどかまったことでない、人間はそら恐ろしい動物だ。

 広島原爆、長崎原爆、とてつもない被害をもたらした。想い出したのは藤井照子さんのことだ。広島電鉄家政女学校の女生徒だった彼女は電車運転中に広島駅前で被爆した。彼女は放射能後遺症に一生苦しめられた。2014年「八月十八日、八十六歳の生涯を終え、永眠いたしました」と娘さんの新川真理子さんから訃報が届いた。

 私は、『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』を書いた、このときに彼女から取材した。これがきっかけとなって彼女は語り部として自身の経験を学生生徒に語っていた。

 彼女の生涯でも大きな見せ場となったのは原爆製造に関わった物理化学者との対峙である。TBSテレビが終戦記念の大特番を放映した。そのときに彼女が「謝れ!」と迫った。が、「決して私は誤りません」と応えた。被爆者そして加害側の化学者は通じ合うことはなかった。今もアメリカン人の多くは「広島原爆の投下は第二次世界大戦を終わらせた」ということで評価している。

 広島原爆のむごたらしさを突きつけると返ってくる答えが「リメンバーパールハーバー」である。アメリカは真珠湾攻撃によって体面を傷つけられた。そのお返しで正当であると。

(二)
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 長い間、聞き書きをしてきた。その中でアメリカの艦載機や戦闘機によって機銃掃射を受けたという話は何度も聞かされた。
 戦闘機に乗ったアメリカの若者、いわば国家に与えられた高級ゲーム機だ。これに乗って全国各地で人々を追い回した。
「機銃掃射すると逃げ回るんだよ、それが面白いから撃ちまくるんだ」
 戦争というものに対する認識はその程度のものである。

 先の、「戦争残酷:列車銃撃事件の現場を行く」に書いた記事だ。

事件現場に行って感じたことは、戦争の残酷さ残忍さである。昭和20年8月5日、新宿発長野行きの中央線四一九列車はP-51ムスタングによる機銃掃射を受けた。湯の花トンネルに機関車と次位の一両目が入ったところ架線がやられて電気機関車は停止した。二両目から八両目は築堤上に取り残された。丸裸となった列車を何度も執拗に狙った。「死者四十九人、重軽傷者九百二十一人」その現場に行って射的を想像した。赤ら顔の戦闘機の白人パイロットは「イヒヒヒヒ」と言いながら機銃をぶち込んだ。慈悲のかけらもない。おもしろがってゲームでもするような感覚で人を標的に撃った。「ひどい!」と言っても通じない。人は平和をという、ところが人間の本性には残忍さが潜んでいる、戦争になれば人は誰でも悪魔になる。「浅ましき哉、人類よ。猿の親戚よ」(長谷川信少尉『きけわだつみのこえ』)

 戦争はゲームである、P-51に乗って日本で面白い体験をした帰還兵はどうしたか、有名な話がある、戦後、フォードマスタングが売れに売れた。誰が買ったのか、それは戦争帰還兵である、日本でスリルを経験した彼らは今度は、マスタングに乗ってアメリカ中をぶっ飛ばした。

(三)
 戦後78年、戦争の惨劇を人は忘れた。戦争とは撃ち合いである、「てめぇ、うちの庭を攻撃してきたな、よしお返しは原爆だ」その程度のものである。日本の政治家のおじさんたち、「いいか、敵は我等を狙っているんだ、そのために反撃能力を高めなけらばならんのだよ」戦争とは何か考えていない。その程度のノリである、これにつきあわされる国民はたまったものではない。

 なぜ防衛費を倍増するのか、議論は全くない。戦争はゲームと心得ているアメリカに行って、ミサイルをたくさん買いますからと先に約束をしている。いつも想い出すのは国会でれいわ新撰組の山本太郎の切り込みである。
「日本はアメリカの植民地ですか?」
「日本はれっきとした独立国家です」
 岸田首相は答える。

(四)
 昨日の「SNOOPY」さんからのコメントだ。

 私たちと想いを同じくする人がこの惨事を『いのはなトンネル列車銃撃事件の悲劇』という楽曲にして YouTubeにアップしているのでここに記します。
きむらけんさんの記事、写真、そして音楽… これら一つ一つが広く世に行き渡り 後世まで永く伝わっていって欲しいと思います。

(写真は、慰霊碑と現場とを撮ったものだ)


rail777 at 18:07|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2023年08月06日

下北沢X物語(4759)〜HIROSHIMA TRAMS ANTHOLOGY〜

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「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と原爆死没者慰霊碑には刻まれているが、惨たらしい核兵器は二度と使いません、原爆被爆者への誓いの言葉だ。しかし、この国家は米国の核の傘に入っていて、ことあらば米国が核を使って相手国に核を打ち込む。もう二度と使わないと死者に誓いを立てているのに核を許容している。
 核は使えば人類を絶滅する。米国は広島と長崎に核爆弾を投下しこれによって数十万人が犠牲になった。兵器の中で核は最悪、悪魔の兵器だ。
 2017年7月、国連本部で、122ヶ国が賛成して、「核兵器禁止条約」が採択された。が、日本は加盟していない。一番大きなネックは核の傘に入っているからだ。
 核を使っての戦争をしたら人類は絶滅する、大事なことは戦争をしないように努力することだ。が、この国家は敵基地反撃能力を持つことにしてミサイルなどの兵器を増備させようとしている。防衛費を二倍にしての対応だ、いまこの国は傾きかけている。軍備を揃えるための防衛費に金を回す余裕はない。政治家は粋がって、敵が攻めてきたら反撃しようぜと。根本の根本は米国へのおもねりだ。独自の考えを持とうしない。国家や官僚機構がすっかり硬直化して従来のやり方で済ましている。施策が国民の思いと多くが逆行している。現政権与党は数に頼んで横暴の限りを尽くしている。国民の貧困はますます広がっている。責任の一端は国民にもある。今度総選挙があれば、政権与党に票を入れないことだ。野党には結束を求める。核となるのは立憲民主だ、が、腰が定まらない。ふらふらして共産は排除とまで言う。改革政党には団結してほしい。市民の願いだ。
 
原爆詩を掲げた。写真は広島電鉄家政女学校の人と撮った記念写真だ、彼女等の多くはもう鬼籍に入ってしまった。被爆をした中でもあなたたちは頑張った。その事実を詩に託して掲出する。英詩は、イギリス人が自詩を翻訳してくれたものだ。


広島電鉄家政女学校の記憶 きむらけん

大東亜戦争と称された戦のまっただ中
電鉄の男は幾たりも出征していった
最重要軍事拠点都市の強固な鉄路は
銀に輝いていねばならないのに
磨き手を欠いた広島の路面線路は
赤錆が滲みはじめた
きらめきを与えたのは十四歳の少女たち
ふくらみ始めた乳房にあしたを躍らせ
広島近隣の郡部から瀬戸内の島々から
はるか山向こうの里 島根から
トランク一つ抱えてやってきた
学舎の名は「広島電鉄家政女学校」
比治山の南麓皆実町二丁目の
薄紅の校門をあどけない少女が
笑みを浮かべて潜って行った

昭和の十八年 本科一期生は七十二名
朝には寝足りない顔に皺寄せてお勉強
方程式を解き 白文に返り点も打った
昼には揃いの白い布きれを頭に巻いた
電鉄のマーク入りの鉢巻は皇国少女の命
りりしくてあることが銃後の娘の心がけ
頭骨をきりきりに絞り上げた紺の隊列が
皆実町から千田町の車庫まで駆け抜ける
京橋川にかかった夏色の御幸橋を渡る頃
乱れた後尾に組長の声
「御幸のみは、お国のおじゃ」
経痛の子は腹部から手を離した
やせ細ったどんじりは歯を食いしばる

「切符をお持ちでない方いらっしゃいませんか」
カチンカチカチ カチンカチカチ
ハサミの音はちょっと誇らしげ
乗客をかき分けかき分けパンチが通る
ときにはブラウスのふくらみに
硬い手が伸びてきて少女は顔を朱くする
カッチンカチカチ カッチンカチカチ
非国民には音高くして戒めるのみ
それでも悪戯坊主には果敢に制裁
電車の防護ネットに中学生徒
やつらには窓からげんこ一発
何から何まで少女車掌は忙しい
鳥居通過の案内も大事なしごと
「護国神社でございます。ご礼拝ねがいます」
皇国少女は一段と声高くはりあげ そっと一礼

学寮二階の防空監視哨は息つくところ
炒り豆やはったい粉を分け合いながら
それぞれが思いつくままに乗務報告
「痴漢のおる電車にはもう乗りとうない」
「紙屋町のカーブでポールが外れたんよ」
「うち、恋文………もろうたんじゃから」
「ほぃで、どうしたん?」
少女達の声が一時に合わさった
「運転士が見咎めて破り捨てたんじゃけえ」
「うちらの恋は、こいはこいでも終点じゃ」
にわかにしんみり赤や青のちゃんちゃんこ
見渡すと安芸の都にこぼれ灯点々
「下着も靴も盗まれるわ、はったい粉ものうなるわ」
月影にかすかに見えるは港に浮かぶ安芸小富士
「うち、はよう帰りたい」
その一言に向くはてんでん泪の里

神風は昭和の二十にも吹かず
女学校には鉢巻が増えゆくばかり
十四歳から十六歳まで
本科専攻科合わせて総勢三百余名
方程式や漢文に居眠りしたのはもう昔
日ごとに警報サイレンつのる中
朝から晩まで切符の売りさばき
パンチばかりかハンドルまでも
コントローラーの扱いもよく分からないまま
古参運転士の言う通り見よう見まねの機械操縦
それでも己斐へ 宇品へ 江波へ 駅前へと
四ノッチの低速運転で娘たちが市内を駆け巡る

離合 それは上り下りの出会いと別れ
白神社を過ぎて袋町の大楠木にかかるころ
向こうに見えたのはボギー台車の六五○形
右足が自然にフットゴングに
対向新型は接近するも運転台に人影もなし
こちらの百形単車の白鉢巻は首を傾けた
そのときに車番六五四が突然に「ジィリン」と放つ
向こうのコントローラーの陰におかっぱ頭がちろり
こちらの運転士は慌ててゴングを強く蹴る
大正元年生まれの百形のベル高らかに
こんにちわ さようなら
鐘に託した挨拶に若い命が響き合う
「うちも生きとる」と 思う一瞬
ひもじさも 怖さも 憎しみも 疲れも飛んで
警鐘の余韻は革屋町から広島駅前まで

大日本帝国の年歴は昭和の二十年
敵国の年歴では千九百の四十五年
いずれも八月六日のこと
不気味に響く空襲警報も明け方には止んで
紅い夾竹桃に朝日が射した
朝のラッシュは鉄路のにぎわい
路面電車は車庫を出払って
駅前へ 江波へ 宇品へ 横川へ
切符の立売娘は紙屋町や広島駅前へ
遅番は皆実町の学寮で朝寝坊
さりげない日常がさりげなく
娘の穏和な顔に時を刻みゆく
そんないつものいつもは
一瞬にして宙空の果てに
日本標準時の八時十五分
ピシュリ 赤青の閃光が全天に光る
ドグワン 爆裂の音響が地軸を裂く
ピシュリは地上の砂を燃やし鉄を溶かし命を焼いた
ドグワンは地表の命と物とをことごとくに粉砕した
炎熱火球がたちまちに人を街をぐわぼりとひと呑み

市街の中心 相生橋近くに
たった一機の飛行機が平然と悠然と
途方もない悪意のエネルギーを投擲した
ピシュリ ドグワンのその刹那
幾万もの人々の希求がうち砕かれた
近辺の元安川 本川の土手筋一帯
建物疎開に動員された学徒は数知れず
無念累々 内蔵赤赤 肉塊黒黒 瓦礫延々
遠く見晴るかす安芸小富士まで
茫漠と広がるのは宇宙人類の屠殺場
各々の死装束は焼焦げの一枚の皮膚 
天を恨むか 敵を恨むか
真黒い男根が空を指さす
あんぐり開けた口には叫びの跡
せまり来る火炎に覚悟を決めて
「君が代」の「よ」まで歌った男の子
ゴム紐一本の下着をまとった隣の娘は
「さざれ石の」の「さ」まで生きていた
いずれも目玉をこぉろんと飛び出させ
むくもくと天高く上がる煙をねめつける
人間ばかりか橋の上には電車も横たわる
ぐしゃりへしゃりと骨組だけの元年電車
吊革に下がったままの灰炭は並んだ乗客
車掌カバンをしっかり握った女は黒鉢巻
彼女の小さな口に白い歯が
朝餉に小鰯を噛んだ十四歳

電鉄女学生たちの避難場所は
広島郊外鈴峯の実践女学校
彼女らが生きてあるのは偶々
木炭バスの出発が少しはやかったなら
電車が福屋百貨店の陰でなかったなら
そんなもしももしもの命が肩寄せ合う
安否確認をと教師が名簿を読み上げる
沈黙の返事にあの子この子が思われる
生き残った生徒は二日目からは救援隊
とはいえ皆は着の身着のままはだし足
煮えたアスファルトで皮膚は水ぶくれ
「生き地獄にはもう行きとうない」
思う想いは同じでも仲間は捨てられぬ
蛆の湧く死体に躓きぬるりと骨を踏み
声を口に呑んでは屍の街をさまよい歩く
救護所でやっとありついたおにぎりに
生きてある臓器がかぶりつく
糸を引いたそれが命の味わい
捜索の勇気も湧いて線路みち
横たわる電車やバスを覗いて行くと
黒焼けや赤い石榴の亡骸つぎつぎに
広電のバスはにわか仕立ての霊柩車
発車オーライの声だけはほがらかに

避難所に着いた僚友がなんとも軽い
艶やかな黒髪は跡もなくちんちりに
理科室に運んでかたちだけのご焼香
やっと生きながらえておるいのちも
にわかに元気になって唄を歌い出す
そんな明くる日には決まって野辺送
裏山で青い桃の実盗んで亡骸を焼く
涙は涸れはてて囓る果肉がほろ苦い
それでも火のともる骸はまだしも
紙屋町の切符売は影さえ見つからず
哀しみは碧い夏空に染みこむばかり

ピシュリドグワンから三日後
不意に鳴ったのは電車の警鐘
六日夕刻から始まった夜通しの復旧作業
残った広電職員と駆けつけた東京電信隊
焼け跡から電線を一本一本掘り起こし
立てた船の帆柱にそれを巡らし巡らせ
己斐と西天満町とのあいだが単線開通
一番電車は一枚のガラスもない四百形
女車掌は家政女学校本科二年生
吐き気と下痢をこらえて声上げる
「この電車は折り返しの己斐行きとなります」
人は耳を澄ますが異物はざわぞわと
つり革や天井にはびっしりと銀バエ
幾万の骸に湧いたそれは不吉な徴
中島町の母や僚友にもたかったか
十五歳の少女は思い余って紐を引く
チィン チィン チィン チィン
広島にチンチン電車の鐘が鳴る
焼けた皮膚を体中からぶら下げた男
赤ん坊を逆さに負ぶった若い母
顔の半分を焼かれた男の子
追憶に沈んだ音が誰もの胸に響き渡る
絶望の街に今は人も電車も生きてある
グワッタンガァウゴゥ
グワットンガァウゴゥ
電車は命をつぶやいて走りゆく
行く手には線路がきゅろんと銀に
己斐の山並へと希望はまっ直ぐ

八月の十五日に終戦を告げる突然の詔
講堂では女学生が自決 自決と騒ぎ立てる
そう言いはしたものの今はの際にある友の
目の前で刃を立てることなどできようか
戦いの始まりは恐ろしく終わりはふっつり
家に帰る友がいて乗務を続ける者もいる
時は過ぎゆき 九月には大風が襲って
水を水をと求めた人々に時違の雨
焼け跡はどこもかしこも水びたし
鉄路がまた錆びてゆくあいだにも
銃前から男たちが幾たりも生還し
銃後の女学生はひっそりと帰郷する
赤い火傷は繃帯でかくし
白い鉢巻は風呂敷に包み
山の里 海の里へと散り散りに

月末には校長がとうとう解散宣言
残った生徒は誰言うともなく集って
愛唱の「椰子の実」を車座になって歌い出す
友の分までとあらん限りの声を振り絞る
たちまちに殉死した三十人の顔がつぎつぎに
僅かな骨に変わり果てた友黒い影だけが石畳に残った友
一人二人と泣き崩れてはまた起きあがって歌を続ける
「いずれの日にか国に帰らん」が最後の節回し
娘の血潮が声となって涙に弾けて終わった
合唱の終わりが学校の解散
車座が解けて、交わす挨拶は本当のさようなら
八月の六日に倒壊炎上した学校は
創設二年半で暦からも消え果てた
その名は 「広島電鉄家政女学校」




HIROSHIMA TRAMS ANTHOLOGY
       By Ken Kimura

During the "Great East Asian War”,
the railway men were sent to the front.
Although the iron lines had to glitter like silver,
in the most important military town,
rust had eaten away the street lines,
with no one to polish them.
The 14 year-old girls gave them new light.
They arrived with future in their newborn breasts
from local towns around Hiroshima, from islands of the Setouchi sea,
over mountains, far away villages, from the Shimane prefecture,
carrying only one little suitcase with them.
The name of the school is “Hiroshima railway company girls’ school of domestic science.”
At the second quarter of Minami street at the bottom of Hiji hill,
cherubic girls with shy smiles
entered the school gate painted in pale red.

In the 1st Showa year, 72 students were in a classroom.
With sleepy eyes, drowsy looks, holding pencils,
solving equations, reading Chinese poetry
with matching white bands tied around their heads.
The railway headband is the symbol of life for patriotic girls.
Gallant is how they should be, responsible for the inland people
Girls in navy uniforms lined up with tight headbands
are marching from Minami street to the garage at Senda street.
On the Miyuki bridge over the Kyobashi river painted in summer colours,
the head teacher shouts from the back of the line,
“Mi” of “Miyuki” has the same symbol of the word country
A girl suffering from period pain releases her hand from her belly,
A skinny student at the end of the line clenches her teeth

“Fares and passes please”
click clack click clack…
The sound of the punch is the sound of pride
Punching tickets through overflowing passengers,
girls may blush on the touch of a man's hand,
which reaches their breasts underneath their shirts
Click clack click clack
Telling someone off, he's not patriotic,
moral sanctions to mischievous boys
Hitting a window with a clenched fist
to students on an animal removal net.
Girl conductors are very busy from one to ten.
They make an announcement going past the gate of a shrine,
“Here we are at the Gokoku shrine. Worship please”
Throne girls speak up and salute quietly.

At the top of the dormitory is where they can breathe.
Sharing roasted beans and pieces of bread,
they chat and talk about the day on the train.
“I don’t want to work on the train with the gropers”
“The electric pole came off at the curve of Kamiya-cho stop…”
“I…got… a love letter…”
“What did you do with it?”
Girls’ voices crossover.
“The driver told me off and ripped it to pieces.”
“The final stop Koi is called Love”
Depressed girls in red and blue vests
look over Aki town and its dim little lights.
“My underwear was robbed, my shoes, no more bread…”
Aki-the-small-mt.-Fuji floats distantly in the port under the moon.
“I want to go back home…”
Eyes in tears are listening to her words.
The Kamikaze wind hasn't blown in the 20th Showa year.
More and more headbands in school.
From the age of 14 to 16,
three hundred students of main and non-degree courses.
The drowsy eyes at equations and Chinese lyrics are no longer there.
warning sirens thunder louder and louder each day,
and more punches and more tickets to be sold.
Soon punches will be replaced by steering wheels.
Not knowing how to control,
Learning to drive by watching the other drivers.
To Koi, to Ujina, to Eba, to the railway station,
Four-notch slow trains run all through the city.

“Meet and depart.” Trains pass each other on parallel tracks.
Passing Shirakami shrine and the bottom of Big Camphor tree.
One day the 650 train is coming from the other end.
A girl driver salutes the other train stepping on the gong,
but she sees no one on the driving seat.
She wonders why leaning her head a little,
Suddenly she hears the sound of the foot gong.
And she spots the tip of a girl’s head above the controller,
She salutes back hastily.
The 100 train made in 1910 rings its bell,
Hello, Good bye.
The salute of the bell echoes with their young lives.
This is the moment to feel "alive"
No hunger, no fear, no hatred, no exhaustion.
The sound of the bell reverberates to the final stop.

The 20th showa year of the imperial country
is the 45th year of the 20th century in the enemy’s calendar.
It was the 6th of August.
The horrible sound of the red alert freezed the dawn,
And the sun rose over an oleander tree.
Rush hour, crowded trams,
All trams on duty,
To the railway station, to Eba, Ujina or Yokogawa,
Ticket selling girls to Kamiya-cho and the railway station.
Students of late shifts are oversleeping in the dormitory.
Ordinary life awakens to an ordinary day.
Gentle smiles on girls' faces carve the time.
Those ordinary moments suddenly became
The end of the world.
8:15 at Japanese standard time,
A blue red flash cuts the air,
And a big bang breaks the ground,
The flash burns the earth, melts the irons and scorches the bodies.
The big bang crushes the lives and materials into pieces
A fireball swallows the whole city and the people.

In the centre of the city, near the Aioi bridge,
One little plane dropped a gigantic vicious energy,
Calmly and impassively.
At the tiny moment of the flash and the big bang,
Hundreds and thousands of dreams were shattered.
On the Motoyasu river, on both banks of the Hon river,
Students who were working were now floating
White mortification, red organs, black flesh, gray rubbles,
Aki-the-small-mt.Fuji could be seen
Over the deserted slaughterhouse of the spacemen,
Shroud was the thin burnt skin,
Grudge against the destiny, grudge against the enemy?
Black burnt phallus pointed out to the sky.
A mouth half opened to start to scream
Resigned by the approaching blaze,
A boy was singing the national anthem,
The girl next to him wearing a rubber band
survived to sing the next word
with both eyeballs popped out,
staring at the smoke climbing high up.
There were trains lying on the bridge, not only human beings.
The Taisho tram survived as a metal framework.
Carbonated objects were the passengers still holding a strap
A black girl holding a conductor bag had a black headband.
Inside her mouth, white tiny teeth were seen
With a little fishbone which she had eaten that morning.

The refuge for girls was the
Jissen girls’ school in Suzugamine
Girls who happened to be alive got together.
What if the carbonated bus had departed a little earlier?
What if the train had not been in the shadow of department store?
The lives born from those IF’s gathered together.
A teacher reads the roll-call to check the girls' safety.
Several absences bring memories of girls' faces.
The survivors search for their friends on the second day,
Without enough clothes to wear, with bare feet.
Too hot to walk on tarmac roads, burning their skin.
“I don’t want to go to this living hell again!”
everybody feels alike, yet their worries propel them into searching.
Stumbling against a corpse with maggots, stepping over slippery bones,
They wander around the city with no words to say.
They eagerly bit into riceballs at a first-aid station
Their living organs’ temptation is satisfied
With the half rotten food.
They head up for another search on the tram tracks.
Looking inside of what's left of trains and buses
To find the black burnt subsistence and the red pomegranate corpse.
The Hiroden bus suddenly turns into a funeral car,
Only with the gentle voice of “all aboard!”

Coming back to the refuge with very light friends,
Black glossy hair turns into tight perm.
Funerals are just formalities in the science room.
The weak survivors suddenly start to sing
Cheerfully and endlessly.
But it is the sign of death.
Other girls have to burn their friends while eating stolen peach.
No more tears to shed, the peach tastes bitter.
Those to be burnt are ironically lucky,
The others were not even found.
Girls' sorrow soaks into the blue summer sky.

Three days after the flash and the big bang,
The unexpected sound of a bell reverberates.
Continuous effort to restore the tram system started on the 6th evening
All through the night by the Hiroden staff and the military wires section.
Digging each wire from the burnt ground,
Stretching the tiny bits of wires onto sail masts,
Finally the tracks are restored between Koi and Nishi-temma.
The first tram without glasses is the 400.
A girl conductor is a second year student.
Trying to say from the top of her voice, enduring a diarrhea and feeling sick.
“This tram is bound to Koi!”
passengers carefully listen to her, then something noisy distracts them.
There are flies on the ceiling and traps.
Those ill omen are born from thousands of fallen bodies.
Were they on my mother’s body or my friends’…?
The fifteen year-old girl is horrified by her idea.
She burst into pulling the bell string, ding-ding-ding-ding!
The sound of ding-ding-train echoes in Hiroshima.
A man hanging his burnt skin out of his body,
A young mother carrying her baby upside down,
A boy with half of his face burnt,
The sound of the bell echoes in the hearts of those lost people.
The train is still alive, the people are still alive in the despaired city.
Guattan, gwaa, go-go
Guatton, gwaa, go-go
A train runs carrying the sound of people’s lives
The railway simmering silver beyond.
There is hope beyond the railway.

Sudden announcement of surrender on the 15th of August.
Self-determination, that’s what girls try to have.
However, who will take care of their dying friends,
How can they kill themselves in front of someone who’s already condemned,
The start of the war was horrible, and the end of the war comes without notice.
Some girls have left for home, some stay to help trams move.
The time has passed, a storm hits Hiroshima in September.
The wrong time for the people who died for water,
Flood everywhere in the burnt city.
The silver railway starts to rust,
Men come back from the front one by one.
Girls are not needed, leaving the school silently.
Hiding red burnt skin with white dresses,
Packing their headbands in their suitcases,
Leaving one by one to the hometown in the mountain, to the hometown near the sea,
The principal declares closing down at the end of the month.
The school which burnt down on the sixth of August,
Has disappeared from history, two and a half years after its foundation.
The name of the school is “Hiroshima Railway Company Girls School Of Domestic Science.”





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2023年08月05日

下北沢X物語(4758)ー真夏の夜の猫物語ー

1. 屋根の上の猫二匹_
(一)このところ立て続けに興味深い情報がもたらされている。まず一つ目は下北沢静仙閣についてだ。この高級アパートは最盛期には百室もあったと関係者から知らされた。が、戦中に火災に遭って失われた。ここには満州国皇帝溥儀の弟も在室していたという。百の物語の一つだ。後、九十九もの話はどうなったろう。つぎがネット仲間からの情報だ、下北沢の井の頭線の橋脚に大きなえぐれがあった。蒸気機関車テスト走行のために開けられたものらしい。C58が通過したときに一瞬そこに煙が引っ掛かったとも。そして今度は三つ目は、猫情報だ。前橋文学館の朔太郎旧居の屋根に設えられた猫の像の写真がメールで送られてきた。末尾には「猛暑を吹き飛ばす物語を紡いでください」と書いてあった。幾田充代さんからのものだ。

 そう言えば一昨日、朝方に凄まじい猫の喧嘩があったという。どうも野良猫の縄張り争いであったようだ。「にゃおう、ぎゃぉう」と延々と続いたらしい。が、当方寝ていて全く気づかなかった。後に掲げる詩の表現を借りれば、『おわああ、ここの家の主人はのんきです』となろうか。

 猫は面白い、近隣をうろついている野良猫がいる、茶虎だ、たまに顔を合わせるとニャアという、それが可愛い。たぶん縄張り争いをしていたのはその猫だろう。

 さて、本題の猫情報である。幾田充代さんが前橋文学館に行ったという。ここには朔太郎旧居が復元されている。その屋根に設えられたのは二匹の猫の像である。これは「月に吠える」に出てくる「猫」という詩をイメージ化したものだ。

 幾田充代さんは、世田谷文学館友の会の幹部である。会では萩原朔美さんに講演をしてもらっている。その幾田さんからのメールだ。

朔美さんが講演で朔太郎の詩「猫」を朗読されるほど、
朔美さんはいたくこの詩がお好きのようです! 
あの猫たち二匹(二疋)が屋根の上に居ました−添付の
写真をご笑納ください!!!

 
 朔美さんの朔太郎詩『猫』の朗読は私も聞いたことがある。確かに巧い。

(二)
2. 朔太郎旧居全景_


まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』


この詩、構成が巧みだ、まず登場するのは思わせ振りな猫である。全身がまっ黒の二匹の猫だ。雄と雌とに違いない。
「なやましいよる」は猫の鳴き声を決定的にする表現だ。身体の芯から湧いてくる情欲、それに刺激された猫だ。
 詩に描かれる情景も見事だ、ともに黒い猫、夜闇に紛れて分からない。が、三日月が二匹を際立たせる。「いとのやうな三日月」が仕掛けだ。これが欲情した雄猫のしっぽをくっきりと浮き立たせる。

 まず声かけは雄猫だ、『おわあ、こんばんは』と切り出す。これに『おわあ、こんばんは』と雌が返す。声かけの機微である。翻訳すれば「俺はお前が好きだ」、「私もよ」というところだろう。どうやらたがいにボルテージが高まったようだ。『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』は劣情の高まっていく様子である。

 発情、欲情は声で表される、が、ここには見えない電波も発せられている。四周に対する警戒だ、発しては受ける。どうやらその過程で世界が見えてくるようだ。この電波探知によって人間の心までもが分かるらしい。
「奥さんは大丈夫のようだ。煮干しを分け与える気力は十分にあるようだが、ところが主人がちとおかしい、心が病んでいるようだ」
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

(三)
 現代詩人の吉増剛造は、中原中也、北原白秋などの多くの詩人がいるがやはりなんと言っても朔太郎が素晴らしいという。
 この間の講演では、「萩原朔太郎『氷島』の序からは、聞こえない音楽が響いてくる」と述べていた。朔太郎『猫』からは、聞こえない怪電波が発せられていると言えようか。




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2023年08月04日

下北沢X物語(4757)ー下北沢文士町文化地図9版胎動ー

CCI20191121_0002
(一)先だって「下北沢文士町文化地図」第9版に向けての編集会議を行った。初版から改版を重ねてきてとうとう9版に達する、当然、どう工夫するかということはある。先年は「三軒茶屋文士町文化地図」に手を染めた。今年は下北沢に帰って9版地図に着手する。が、助成金を得ての発行を計画した。三軒茶屋から下北沢へ、テーマを移行するには狙いが必要だ。テーマシフトが安易すぎないか?担当部署に相談に行ったところ指摘された。ちょっと囓ってまた別のところへ行くのか?そういう批評が出てくることは想定しなくてはいけない。それで思いついたのが「文化往来:三軒茶屋から下北沢へ」である。一旦は戻るが、また帰ってくるというほのめかしである。

 実際、三軒茶屋をテーマとして当地域を勉強したことは良かった。一番良かった点はAとBという批評軸を得られたことである。比較文化論、比較文学論の手掛かりが得られたことである。

 地図づくりにフィールドワークは欠かせない。実際に縦横に歩いた。縦軸、横軸。当然気づいてくるのは地形である。三軒茶屋地区を流れているのは烏山川である。北沢地区を流れているのは北沢川である。これの縦断行は何度か行った。得られたのは土地の文化の違いである。

 典型的な例は林芙美子と森茉莉の距離である。二人は数百メートルしか離れていない。もちろん時代が違うことはある。が、林芙美子の嫌悪と森茉莉の関心は対比的だ。

 芙美子は「屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。」(『放浪記』)と太子堂の町を記述した。

 一方、森茉莉は、「牟礼魔利の部屋を細叙し始めたら、それは際限のないことである」(『贅沢貧乏』)冒頭で語る。がらくたが集まった六畳一間は宮殿である、楽しくてしかたがないという風情である。

(二)
「文学とは何か、漂泊である、さすらいただようことです。萩原朔太郎の晩年は『氷島』ですね、これのトップに来るのが『漂泊者の歌』ですね、『ああ汝 漂泊者!』と彼は謳っています。しかし、さすらいはどっかでとぎれる。人間のことだから死んで息を引き取る、どんなさすらい人であっても最後は死ぬ、そこで漂泊はとぎれる、終わります。問題はその後ですね、死んだらどうなる?死んだらおしまいというのも考え、人は死んでも魂はさすらっている、という見方です。後者の方が面白い、朔太郎なんかはいまだに魂が一帯をうろついています。それを探しに人もまたこの町をさすらってくる。我等が推薦した『代田の丘の61号鉄塔」は、終焉の地のシンボルとなっています」

「今回気づいたのは、三軒茶屋地区で死んだのは葛西善蔵だけです。当地を終焉の地とした人は少ない、それは理由がありますね、自然災害や戦争です。前者はいわゆる大震災、これによって下町から大勢の人が逃げてきた、そしてまた昭和二十年五月の山の手大空襲これよってここらは大半が焼けてしまいましたね。定住しようとしてもできなかった。ところが下北沢地区は焼けていないのです」

「驚きましたね、下北沢文士町一帯で、当地を終焉の地とした人が大勢います。多分二十は超えるのではないかと思います。これは大きいですね、意味がありますね、萩原朔太郎なんかは好んで住んだのですよ」

(三)
 終焉の地の多寡は面白い文化論、文学論です。だから何らかのマークをつけたいのです。自身が考えているのはアスタリスクです人名の隅に「*」と書けばよいのです」
「そんな大事なことだったら、終焉の地とすればよいのでは」
「あんまり強くアピールしたくはないのですよ。目立たないようにして知ろうとする人が知る。そんなものでいいのです」
 これは私の考えだが、皆さんは明確にした方がいいとのこと。





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2023年08月03日

下北沢X物語(4756)ー下北沢鉄道X交点の記録写真 下ー

2005年5月22日 094
(一)下北沢駅で小田急線と井の頭線は交差する。上を走るのは後者だ、私のネット仲間、すぎたまさんから昭和34年(1959年)3月4日に撮られた記録写真の提供を受けた。小田急SE車の下りがちょうど橋脚の下を潜りぬけている場面である。注目すべきは井の頭線の橋脚の下部が深く抉れていることだ。剥きだしの穴は計画的に作ったものではなく急遽作ったのではないかと考えられる。急を要したことから結果的にこういうふうになったのではないか。いつ頃何のために作られたのだろうか?

 私は、ずっとオーラルヒストリーを続けてきた。今、私は一人の女性に取材し、これを物語に書いている。小説である、彼女は95歳である。波瀾に波乱に富んだ人生を彼女から聞きとっている。私自身、聞き書きは何年も続けている。今回話を聞き取っていて面白いことに気づいた。人の記憶の根本には風景がある。その彼女は思い出を景色で語る、聞いていて思ったことは人の絵は白黒である、それに色づけをしてこちらは話を聞いている。ところが自分の記憶画像は最初から天然色である。

 彼女は満州鉄道のアジア号に乗ったとのこと。どこまでも続く地平線、フラットな地平を延々と列車は進行したという。そこに浮かんでくる夕陽が美しいと。聴き手はそれに色を塗りつけて話を聞いていた。
 このアジア号は小田急との因縁は深いものがある。「小田急五十年史」に記述されている。

アジア号と小田急の縁
 第二次世界大戦中、満鉄は小田急の従業員が数多くおもむいたころであるが、満鉄と小田急の間にはもう一つ看板列車である特急「アジア号」についても因縁浅からぬ縁があった。それは、当時世界の鉄道でも十指の中に数えられる高性能車であった。この「アジア号」の運行業務に携わり、昭和終戦後満鉄運転総局 運転課長代理職にあった小栗克一氏が、引き上げ後国鉄を経て昭和34年小田急に入社。特に三十五年から四十三年まで車両部長あるいは技術長として鉄道技術の研究指導に当たり、技術の向上発展に長く尽くしている。(『小田急五十年史』)


 満鉄では技術陣が野望をもってアジア号に挑戦し、これを実際に走らせた。小田急はこの満鉄に技術などを学ぼうと従業員を派遣し、先進技術を見学させた。また、戦後になって満鉄の技術研究職にあった小栗克一氏を迎え入れた。
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(二)
 小田急は走行電車の技術向上に努めていた。ロマンスカーはその一例である。小田急「ロマンスカー」を印象付けた名車が、1957年に登場した3000形「SE」である。例の提示した写真は 昭和34年(1959年)3月4日に撮られた記録写真である。新鋭機である。これは後に国鉄線を走って性能試験を行っている。「新幹線」実現の礎にもなっているのである。
 国鉄と小田急は関係が深い。

例の井の頭線橋脚の下部を削りとって壊した問題だ。期日的なことで言えば、行われたのは戦中のことであろう。このとき小田急線と井の頭線は傍系会社であった。問題が起きたとき同系会社であれた対処は容易だ。

 戦後は、井の頭線は京王電鉄に移行する。他人同士になったのである。気安く、帝都線の橋脚を削りたいとは言い出せるはずもない。そういうことを考えるとこの工事は、小田急線と帝都線が同系列時代にあったときに行われたものだと考えてよい。

(三)
 なぜ橋脚を削ったか。これは車輌が通過する場合に邪魔になるからだ。通例的に通っている電車よりも幅広いものを通そうとしたのである。それは何か、蒸気機関車である。
 昭和20年3月10日、東京大空襲、昭和20年5月24日25日、山の手大空襲があった。首都圏では電車線は被害を受けた。が、鉄道線の復旧は早かった。しかし、こんど空襲を受ければ壊滅する。それで代替線として白羽の矢が当たったのが小田急線であろう。

 電車線は変電設備や架線をやられたら動かない。が、蒸気機関車だと動かすのは可能である。それで小田急線走行テストを行うことになった。車輌限界を超えるところは予め壊した。

 やはり戦時中だ、総武線に蒸気機関車入れる試験をおこなった。そのときにホームの出っ張りにぶつかっている。「すぎたま」さんの写真、左手のホームは車輌すれすれに設置されているが試験をする場合はこわしたのではないだろうか。

 「すぎたま」さんは言う、「おそらくこれが、C58+ナロ(フ)21700形による小田原からの入線試験で、支障する場所として削られたところでしょう」と。(了)



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2023年08月01日

下北沢X物語(4755)ー下北沢鉄道X交点の記録写真 上ー

se-shimokatazawaa
(一)7月15日に自身が関わる「幻影の『猫町』下北沢朔太郎X線の彷徨」の公演が下北沢アレイホールで開催された。ここでいうX線というのは小田急線と井の頭線との交差形状を言う。かつては街の根幹を象徴する記号であった。作家清水博子は『街の座標』の中でこれを「ひしゃげた座標軸」と形容している。このゆがみが人の方向感覚を狂わせもした。ところが小田急線の地下化でこの下北沢のシンボルX交差は消えた。と、二三日前だ、ネット友人の「すぎたま」さんからこのXが映った古写真が送られてきた。井の頭線の下を小田急ロマンスカーが潜り抜けている場面だ。画像を見たとたんにどきりとした。井の頭線の橋脚が下部が見事に抉られている。彼の言によれば「撮影されたのは昭和34年(1959年)3月4日」だとのことである。

 この削り跡は、どうしてできたのだろうか?容易に想像がつくことは通過しようとする車輌に差し障りがあったからであろう。そしてその痕跡はまだ生々しい。あらあらしく掘られた様がそのまま残っている。この形状からすると計画的なものではない、ある事態が生じて急遽対応したことがありありと覗える。

 このことは小田急線、蒸気機関車入線問題と繋がる。
 世田谷代田在住の若林麟介さんからこれについての情報を得た。実際に出会って話を聞きもした。彼が書いた記録である。

 戦争中のことでした。若し日本の大動脈の東海道線が不通になった場合の救済策として、陸海軍施設の多い小田急線が取り上げられ、国鉄の車両が入るか否かのテストとして、C58蒸気機関車を使って試験走行するという話を聞きました。これぞとばかりに根津山の線路脇にカメラの三脚を構えて、今の鉄道マニアにそっくり、撮影禁止の条例なんのその、その通過を待ち望んだことがあります。しかし残念ながらその目的は達成されませんでした。と云うのは、後で聞いた話ですが、直前、空襲警報が発令されたので、予定を変更し、経堂で折り返ししてしまったことでした。

小田急線は通例は電車が走行している。そこへ蒸気機関車のC58が入線してくるという情報、「これは撮っておかねばならない」と思った。が、待てど暮らせど煙は見えない。

(二)
 かつて下北沢駅跨線橋があった。子どもが大好きな場所だった。小田急線、井の頭線の両方が眺められる場所だった。定番の電車観望台だった。上を通るのは井の頭線で下を通るのが小田急線、ここは電車批評個所だった。

「小田急五十年史」では、コラムに「上の電車、下の電車」を取り上げている。昭和十年代の前半だ。地域の子どもの特権だ。

○上の電車
 車体がスマートで軽快、警笛が素敵。運転台が開放的で正面窓の下まで座席がある、ドアエンジンがついている。運転手の窓にヒサシがある。

○下の電車
 急行があり、列車、種別編成、行き先がバラエティにとんでるうえ、路線が汽車のように長くて、車窓の眺めが美しい。


 文化比較ができるという点が素晴らしい、言えば当地の子は目が肥えていた。比較という観点を当地に暮らせば得られた。

 そういうことで言えば地下化による電車本体の喪失は、地表に住む人間にも影響を与えているだろう。

(三)
 井の頭線橋台が削られた時期についてすぎたまさんは解説している。

 通過している電車は、当時小田急自慢の特急SE車によるはこね号です。撮影されたのは昭和34年(1959年)3月4日です。撮影者不明の写真ですが、当方の所蔵写真で、著作権としては財産権を当方が譲り受けたと考えられるので、必要なら転載は自由にして下さい。
 さて、この画像を見ますと、画像に説明を入れたものも付けておきましたが、橋台自体の形状が、その後と異なっており、また特急車のすぐ右側が、予想に反して「丸く」削り取られています。
 きちんと整形されているのでは無く、本当に急いで削ったように見えますね。
 少なくとも昭和34年まではこのような状態だったようです。このあと整形されたのか、それとも橋桁の取り替えに伴う橋台の改造か、建て替えか、事情はわかりませんが、末期に見られる形状になったのだと思われます。

ではなぜ削られたのだろうか?


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2023年07月31日

下北沢X物語(4754)ー北沢川文化遺産保存の会会報第205号ー

スクリーンショット (17)
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第205号    
           2023年8月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、下北沢の伝説的アパート静仙閣

 下北沢には伝説的な建物があった。思い浮かぶのは下北沢店員道場、下北沢駅前市場、が、これらは比較的よく知られている。しかし、名前だけは知られていてその全貌がよく分かっていないところがある。静仙閣はその一つである。
静仙閣については当方では早くから話題にしていた。
 Google検索窓に「下北沢静仙閣」と入れてみる。すると検索トップに二つの記事が引っ掛かる。
下北沢X物語(204)〜伝説のアパート下北沢静仙閣  2005年04月09日
下北沢X物語(206)〜伝説のアパート下北沢静仙閣〜 2005年04月11日

十八年も前に書いた記事である。長年に亘って調べているが全貌はよく分からない。ところがつい最近である。富山県の藤井剛さんから情報をいただいた。

富山県に住む、藤井剛です。
最近、東京の兄が亡くなり古いアルバムなど見ていると、北沢の静仙閣の事を思い出し、検索した所、きむらけん様のページに静仙閣の話を見つけました。
 小さい頃、祖父(遠藤政治)や父親から何度か静仙閣の話を聞かされていました。
送付した写真は父の弟(遠藤義也)が書いた自伝の中の静仙閣についてき書かれた部分です。ご参考までに。

 何と藤井さんの祖父が建てたものだという。自身早くから静仙閣には興味を持って調べてきた。古老でよく覚えておられたのは佐山一雄さんである、この人は静仙閣が火事になったときに消火に駆けつけた人だ。
 
この静仙閣というアパートは高級であった。名の知られた文化人もここに入居していた。分かっている範囲では映画監督の成瀬巳喜男、詩人の北川冬彦、小説家の中山義秀、一色次郎、変わったところでは満州国皇帝溥儀の弟溥傑が居住していた、今回分かったのは満州国の初代国務院総理(首相)の鄭孝胥の息子もいたというのである。
 記録的なことで言えば一色次郎が書いた『東京空襲記』である。彼がこの静仙閣に住んでいたときの空襲経験が日記形式で綴られている。そういう意味で言えば貴重である。
 静仙閣の最盛期は百室もあったと、食堂や大浴場脇も備えていて「東京でも名物下宿」だったという。年代的には昭和十年頃に建ち、昭和二十年に線路際で強制疎開、そして火事に遭ってここは潰え去った。が、当地域の文化史を知る上では欠かせないものだ。
 
2,世田谷の乃木神社
                 会員 川崎義之

 世田谷線沿線沿いにふくふくとした紫陽花が咲き乱れる頃「1960年代〜80年代空から見た世田谷区・渋谷区・目黒区の街と鉄道駅」というムック本を購入した。
 そんな中、掲載されていた「大正〜昭和戦前期の玉川電気鉄道路線図」に目を疑う記述を見つけました。何と!松陰神社と豪徳寺の間に乃木神社が記載されていたのです。
 直様スマホを手に取り、世田谷・乃木神社とキーワードを打ち込み検索してみました。
当然検索結果に出てくるのは赤坂の乃木神社の情報ばかりです。キーワードを変えながら色々検索してゆくと、毎回「世田谷八幡宮」の情報が上がっていることに気付きました。試しに世田谷八幡宮の情報を読んでみると、敷地内にある世田谷の戦没者を祀った「世田谷招魂社」の説明に、乃木希典の甥玉木正之氏が世田谷一丁目に健立した乃木神社の社殿譲り受けて祀られたと、説明されていました。まさに、この世田谷招魂社こそが世田谷に存在した乃木神社だったのです。

 歴史好きの方は玉木正之と聞いてピンと来ることでしょう。玉木家とは乃木家の家祖乃木傳庵の長男玉木春政が分家として立てた家で、6代目正路の養子として、杉家から吉田松陰の叔父で松下村塾の創始者玉木文之進が家督を継いだあの玉木家なのです。
 その玉木家が世田谷に移って来た経緯は、文之進の実子彦助が高杉晋作を中心とした長州藩の内乱「功山寺挙兵」にて戦死した後、養子として乃木希典の弟正誼を迎え入れますが、正誼も新政府へのクーデター「萩の乱」にて戦死してしまいます。而して文之進も萩の乱に養子の正誼の他、松下村塾の門弟が多数参加していた事による責任を取る形で自害してしまい、正誼の子正之が若くして家督を相続し、13歳で叔父の乃木希典を頼り上京し軍人となり世田谷一丁目に居を構える事となります。而して乃木希典が明治天皇崩御に伴い自刃いたしますが、乃木希典の息子は長男次男共に日露戦争にて戦死しているため、正之が遺族代表として乃木神社を建立することとなったのです。その乃木神社が世田谷八幡宮に譲られた経緯は正之のお孫さんのブログにて推測する事はできますが、ブログの内容は固く転載禁止とされていましたので、詳細を知りたい人はお孫さんのブログを探して見てください。(ローマ字のタイトルです)ちなみに乃木神社は乃木希典由来の地に多数存在しているそうです。

 余談ですが、世田谷の乃木神社を調べるに伴い、古本屋に関連する書籍はないかと下北沢の古本屋を訪れると、永冨明郎著「武蔵野留魂記」という吉田松陰の伝記に出会いました。この伝記には松陰と文之進との結びつきや、文之進が萩の乱の責任を取り自刃したことが、乃木希典に及ぼした精神的な影響が考察されている他、松陰の盟友佐久間象山や宮部鼎蔵との交流、黒船での密航失敗で捕縛された松陰が、あっさりと罪を白状した事情が事細かく解説されています。
 処刑間近の松陰の様子を解説した章では、すっかり緩くなった涙腺の崩壊をこらえるのにたいそう苦労いたしました。(電車の中で読むものでは無いですね!)今回世田谷の乃木神社に興味を抱いたことにより、吉田松陰の素晴らしい伝記に出会い、松陰の偉大さを認識することが出来ました。

 正直今まで松陰の知名度に対してそんなに功績がある人なのかな〜、などと思って降りましたが、動乱の幕末で自分が今置かれた立場で日本のために何が出来るのか、懸命に考え行動した人物の生き方は美しく清々しいのです。
 世田谷には埋もれつつある素晴らしい歴史がまだまだ沢山あること思います。これからも知りたいという思いを強く持ち、色々と吸収してゆきたいという思いを改めて感じた
次第です。(2023年 7月25)

3、下北沢文士町文化地図第9版の発行

 新しい地図の編集に着手している。ポイントは三つある。一つ目は小田急の跡地に新しくできた「下北線路街」を入れ込むこと、二つ目は萩原朔太郎を軸とした「新猫町」地図を作ること、三つ目は文化人居宅の新たなるマークをすることである。
 我々の地図は物故者を中心にしてマークを入れている。月日の経過とともにこれも変化していく。よく邪宗門にもこられていて、文化談義を交わしていた松林宗恵監督も亡くなられた。そういう物故者を地図に加えるという作業がある。また当地に居住されていて気づいていなかったという場合もある。その例が童謡歌手の川田正子さんだ。先だって旧居がわかり、旧宅を尋ねて息子さんに掲載の許可を取った。同様の例としては服部克久さん、半藤一利さんもいる。
 私たちもすべてを知り尽くしているわけではない。新たにマークすべき点、あるいは記入に間違いがある、などの情報があれば知らせてほしい。最近、幾つか判ってきたことは井村淳、矢吹申彦などだ。ブラウン管発明者は高柳健次郎、この人の居宅は知っていたが記入していなかった。
 ただ故人にもプライバシーがある。掲載してほしくないという場合もある。それらを勘案して載せることにしたい。みなさんにも協力をお願いしたい。
下北沢、代田は萩原朔太郎の終焉の地だ、重要な観点だが取り上げられることはない。詩人の当地居住11年間を主題として裏面全部を使って紹介したい。

4、創立記念20周年記念散歩案 

 2023年12月に我等の会は創立20周年を迎える。これを記念する町歩きを考えた。それは夜のクリスマス猫町散歩である、以前、急遽夜の下北沢散歩を頼まれたことがある。常々は日中の町歩きが中心だ。が、やはり、夜はまるで雰囲気が違っていた。風情がまるで違っていた。「下北沢猫町散歩」は何度も行ってきた。
 この20年間、萩原朔太郎は大きなトピックとして扱ってきた、散歩を行ったり、記事に取り上げたりしてきた。そんなことから考えたアィデァだ。六時ぐらいに集まって夜の下北沢をめぐってみるというのはどうだろうか?

5、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)


第187回 9月16日(土)13時30分 駒沢大学駅改札前集合 
   駒沢周辺の謎を歩く 案内 文化探査者 きむらけん
 ◎駒沢公園は最先端の近代都市としてこつ然と現れた。「まるで蜃気楼のようだった」と言う人もいる。この周辺は古代から近代までの建造物や遺構や道路などが残っている、それら謎を尋ねてのスリングな町歩きである。

 駅→トイレ:玉電の敷石→ライトの建築物(遠望)→駒沢公園:園内の謎の都電の敷石の確認→秋山の森(都電の敷石置き場)→江戸道→旧五輪道路→駒沢給水塔→旧長徳寺(タンチ山伝説)→駒沢高射砲陣地跡→品川用水→駒沢大学駅


第188回 10月21日(土) 大山道旧道を歩く(三軒茶屋文士町文化地図発行記念)
三軒茶屋誕生のなぞを解く〜なぜそこに追分はできたのか
 案内者 木村康伸 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札 13時30分集合
コース:三軒茶屋駅→大山道道標→若林富士講碑→常盤塚→大吉寺・圓光院→世田谷代官屋敷(世田谷郷土資料館中庭には道標などがある)→用賀口道標→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅
コースの魅力:三軒茶屋は、江戸時代中期に大山道の追分(分岐点)ができたことにより生まれた。なぜそこに追分ができ、三軒茶屋はできたのか。大山道の旧道を歩きながら、歴史的・地形的な観点からそのなぞを解き明かしてゆく。4月に雨天中止となったことで再チャレンジする。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 資料代500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールか電話できむらけんに申し込むこと。
 きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話&FAXは03-3718-6498   


■ 編集後記
▲当会の活動から発掘されたのが「鉛筆部隊」だ、毎年関係者が集まって同窓会を開いていた。コロナ禍で中断していたが9月10日(日)浅間温泉目之湯で開催する。特攻に関係した人々が集まって往時を偲ぶ集いだ。誰でも参加できる。メールで問い合わせを。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ▲メール版ではPDFを添付しています。

◎静仙閣の写真はない。今回関係者の藤井剛氏の強力で写真掲載を許可していただいた。

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2023年07月29日

下北沢X物語(4753)―下北沢静仙閣の文化的意義 下―

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(一)年月は移り変わる、無常である、『方丈記』の冒頭一節、「大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり」建物はこぼたれ、人も死んで行く。「高級下宿」下北沢静仙閣は最盛期には百部屋もあったという。この地所今はマンションが建築中である。過去の栄光は儚く消えた。昭和4年に遠藤政治は下北沢に印刷所を興した、これは当たった。経営は順調で増築に増築を重ねた。資金に余裕ができて近隣の「千坪ほどの土地に第一静仙閣とゆう名前の高級下宿を建設した」これも当たった。多くの知識人や文化人が集って混じり合った。ここから詩歌や文学や映画などが発想された。文化が湧出するところだった。が、その痕跡は跡形もない。

 往時の静仙閣のことを記録した非売品『星霜』は静仙閣の結末をこう記している。

 昭和十八年頃になって父は「爆撃目標になったら危ない」として静仙閣と印刷所を人手に渡して池袋、そして高円寺に移動した。

 「昭和十八年頃」は正確ではない。昭和十九年六月に絶対国防圏のサイパンが陥落し俄に米軍による本土空襲が現実味をおびてきた。それで一帯の小学校は長野に疎開する。昭和十九年夏のことだ。従って静仙閣は昭和十九年になって売却したのだろう。
 高級下宿の部屋が百室もあれば、確かに上空から目立つ。爆撃目標になると考えるのは無理もない。
 遠藤政治は、下北沢が危ないと考えて印刷所も静仙閣も売り払った。が、一帯は爆撃からは免れた。

(二)
 静仙閣は経営が当たったことから拡張に拡張を重ねた。一号館、二号館、三号館があった。一色次郎は二号館に居住していた。こちらは小田急線に密接していることから第六次強制疎開の対象となって転居を余儀なくされる。
 一号館は「徴発され、住友通信の女子挺身隊、女子学生の寮となった」(『日本空襲記』)とある。1999年発行のゼンリン地図では、女子寮は「日本電気厚生年金基金会館」となっている。
 昭和20年3月3日、ひな祭りの日に静仙閣は出火し本館は全焼してしまう。

 炊事場につづく、建物まん中あたりの棟木が落ち、火の粉が噴き上がる。その時だけどっと地揺れがしたり、あるいはカーン、というような、乾いた木と木のぶつかる音がして、私を驚かせた。表面が燃えていても、まだ、シンの固い材木と材木が、ぶつかる音であった。庭木がバリバリ、音を立て、一号館は、いつの間にか、ただ一つの火のかたまりとなり、炎は、無風の斜面に火の噴水となって、ただ、燃えさかっていた。 
 『日本空襲記』一色次郎 文和書房 1972年


下北沢静泉閣は、「二時間も燃えて」焼け落ちてしまった。ここに一号館とあるが二号館の間違いだと思う。二号館に住んでいた一色次郎は出火して直ちに荷物を運んでいる。本館二号館に隣接していたからである。

 静仙閣経営者は静仙閣を手放した。が、昭和二十年春の段階では、徴発された女子流を残して、後は強制疎開で壊されたり、火事で燃えたりしている。静仙閣本体は滅びさってしまったのである。

(三)
 下北沢静仙閣、伝説のアパートだった。私も当地域のことを長年にわたって調べてきた。文献引用で一番よく出てくるのが静仙閣である。ここでの人々の交流によって多くの逸話が生まれていたからである。恋物語は一番熱いかもしれない。居住者の成瀬巳喜男と大女優との恋愛があったと言う。が、これは一端に過ぎない。
 知者が、文化人がここに多く集まって文学を、詩を、芸術を論じていた。
 静仙閣は昭和10年頃に建築され、そして昭和20年3月には壊されたり、燃えたりしてなくなってしまった。
 一色次郎は『東京空襲』で此処での生活を記録している。静仙閣最盛期には文化人が多く住んでいた。が、戦争末期では香しい匂いもった女性が多く住んでいた。防空壕では
その匂いは強烈だったという。(了)
 静仙閣逸話はこれで終了する、情報があったら知らせてほしい。
(写真は小田急築堤、この左手に静仙閣はあった)



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2023年07月28日

下北沢X物語(4752)―下北沢静仙閣の文化的意義 上―

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(一)「高級下宿」下北沢静仙閣には著名文化人がいた。映画監督の成瀬巳喜男、詩人の北川冬彦、小説家の中山義秀、一色次郎、それに満州国皇帝溥儀の弟溥傑らがいた。興味深いのはこれら文化人の交渉がどうであったかということだ。北川冬彦は映画にも造詣が深かった。そういうことから成瀬巳喜男監督との交渉もあったのではないか。また萩原朔太郎とも親しかった。静仙閣と朔太郎邸は近い、往き来があったのか。冬彦の静仙閣在住はいつなのか「北川冬彦全詩集」の年譜で確認したが分からなかった。面白いことに森敦が静仙閣のことに触れている。彼は下北沢のアパート晴保荘に住んでいた。これが中山義秀がいた静仙閣と横光邸の間にあって、横光邸に来る人も、静仙閣に来るひとも自分ところに寄るものだから部屋は訪問客で一杯になったと書いている。文士町交流史の一端が見えて興味深い。

 静仙閣は昭和十年頃に建った。一色次郎はここに居住したときのことを『東京空襲』に記録している。が、彼は昭和20年3月26日に「世田谷区代田二ノ八二三 西の丸荘へ移転している」。一色次郎夫妻は静仙閣の小田急線路に近いところに居住していた。ここが強制疎開に引っ掛かって取り壊されることになっての転居だ。

 一色次郎の『東京空襲は』戦時記録として貴重だ。静仙閣も戦争末期になるとだいぶ様相が変わってきた。もちろんまかないはしていない。居住人も変わった。
 昭和20年元旦にサイレンが鳴った。空襲警報だ、壕に一色次郎は飛び込む。ところがそこには匂いに満ちていた。「私が長い間忘れていた。……あるいは、あることが判っていながら知らなかった、といってもいい匂いだった」先着の女性達から匂ってくる香水だった。お正月を迎えてのおめかしである。戦中であっても化粧をする。昼間には囲っている男性がくるらしい。「高級下宿」は二号さんの宿になっていた。

 静仙閣は昭和10年頃に建ったようだ。非売品「星霜」の「静仙閣の思い出」には核心部分が記録されている。

(二)
 静仙閣はその後、第二静仙閣、第三静仙閣と増築され、最終的には百部屋もあるで下宿アパートに成長した。 食堂や大浴場も完備され、名実ともに東京でも名物下宿になった。下宿人に有名人がいた。 映画界の巨匠と言われた成瀬監督も若い頃下宿していて、有名な女優さんとの恋愛話なども聞いた。 満州国の総理大臣だった鄭氏の息子さんや、作家、医者の卵や実業家の卵も居た。戦後、関西の実業界に「静仙閣の会」とゆう名前の親睦会があり、 学生時代を偲んでいると日経新聞に掲載されたこともあった。

 静仙閣の評判は高まった。当初は四十部屋ほどであったが、人気が伝わって居住人が増えた。それで増築に増築を重ねてついには百部屋もある「下宿アパート」となった。食堂や大浴場もできた。まかないはやめて食堂に人は集うようになった。
 この点は興味深い、まかないは各自の部屋であった。が、食事は食堂で摂る。また大浴場もできた。居住人の接触、出会いの場が増えた。

 「高級下宿」に入っているのは知識人である。食事が終わった後には団欒があった。酒や珈琲も出たのではないか。そこで各グループが文化談義をする。映画論、詩論、文学論もあった。
「この静仙閣の前の通りを南下して、坂の上にきたときに右に曲がる。すると高い鉄塔が見えて来る。あの下に、萩原朔太郎が住んでいるんだぜ。おれは通り掛かりに詩人に会ったよ」
 という話はあったはずである。
 居住者は関西の良家の出のおぼっちゃんだ。医学部法学部を出て関西に戻り、それなりに成功して、関西で静仙閣を偲ぶ会を作った。

(三)
 静仙閣の経営者の高橋政治さんはローラースケート場も経営していた。中原百貨店の跡地にできたものである。ここの経営に関わっていた老媼が往時を語っている。その広田はなさんの証言だ。
「(中原百貨店は)昭和四年にできて、戦争で強制的に壊されるまでありました。よく覚えていないけれど十八九年まであったんじゃないの。うちの主人が二年前に空き地だったそこを買っておいたんです。私が嫁に来る前にね。そして初めての子どもが生まれた年に犹埔讚瓩できて、主人は都庁に勤めてたから名前が出せないっていうんで、私が持ち主になったわけです」
こういう証言は危うい。開店年月は正しいだろう。自分の子どもの出産とすぐ結びつくからだ。が、あとは当てにならない。中原百貨店は廃業した。そして跡地はローラースケート場になった。百貨店は強制疎開で壊されたわけではない。(写真は開店時の写真)



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2023年07月26日

下北沢X物語(4751)―伝説のアパート:下北沢静仙閣の全貌 4―

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(一)「どんなくだらないことでも記録しておくことだ」、我等の会でこの言葉は深い共感を持って受け止められている。今回、藤井剛さんから「星霜」と題された非売品の印刷物が得られた。静仙閣のことが述べられている。筆者の遠藤義也さんの父親の政治さんが「下北沢静仙閣」を営んでいたという。藤井剛さんからすると政治さんは祖父に当たる、「祖父は上京後高円寺の印刷所で技術を学び、下北沢で昭和4年から印刷所を始」めたとのこと。突飛な発想だが、工業と文学とを思った。高円寺や阿佐ヶ谷は中央線によって開かれたところだ、この地域で育った者が新天地を求めてやってきた。下北沢である、ここを通る鉄道は昭和2年に開通した小田原急行鉄道である。作家の横光利一は昭和3年に阿佐ヶ谷文士村から、印刷技術を学んだ遠藤政治は昭和4年に高円寺から下北沢に越してくる。鉄道によって開けたばかりの町でのサクセスストーリーでもある。

 『星霜』より
 □静仙閣の思い出
 鍵の手形の二階建てで、室内は六畳にベッド・洋服ダンス付き・食事は二食付きで全部女中が運んだ。部屋数は四十数室、女中が八人、コック一人の豪華版で、渋谷の道灌山の高級アパートにひけを取らない陣容だった。
 離れには内房村から引き取った祖父母が入居し、これで父は一家が全員東京に移住する願望が達成され、以後色々な事業に手を出したが、それはまたのちに記述する。
 静仙閣時代一番大変だったのは母だった。三十人以上の下宿人の朝晩の食事と子供たち五人、従業員十数人の食事と掃除、洗濯、歩いて十分はかかる印刷所と下宿の往復、女中が居たとはいえ、現在のように電化製品もなく全部手作業であったことを考えると、超人的な働きであったと思う。


「高級下宿」 静仙閣はいつ頃建ったのか。時期を特定する逸話がある。作家の中山義秀がここに転がり込んでくる、二二六事件の後と言っているから昭和11年春のことである。
 
 彼は静仙閣で悶着を起こし、居住人に排斥される。アパートが建ったばかりとは考えにくい。類推するに昭和十年には建っていた。

 昭和八年に小田急線と井の頭線が交差する。人が多く集まるようになった。それで近くに中原百貨店が建つ。が、思うように客足は伸びない。それで廃業した。この跡地のコンクリート基盤に目を付けたのは、遠藤政治である。目の付け所がいい、ここをローラースケート場にしたのである。

 小田急線からよく見えるところで人々に注目され、ここは流行った。アィディアが生きた。その手法でローラースケート場と反対側にある高台の土地に目を付けた。高台というところがミソである。陽が当たり眺めもよい。それらを勘案し「高級下宿」を思いついた。

(二)
 昭和十年代でベットつきというのは着想がいい。しかも二食付きである。サラリーマンや学生に人気があったのではないだろうか。
「渋谷の道灌山の高級アパートにひけを取らない陣容」だとある、道灌山が分からない。即座にコメントをいただいた。渋谷の同潤会アパートではないかと。

 同潤会アパートは震災を契機に建てられたものだ。耐震・耐火の鉄筋コンクリート構造で建設されている。ひけを取らないは、ややはったりのように思われる。

 今でも心に刻みついている記憶は母がゴム長靴を履いて新宿駅から魚屋さんに同乗して 築地市場に買い出しに出かける姿だ。おそらく新鮮な魚や肉を皆に食べさせたい一心からだと思うが、それらが母の寿命を縮めたのではないか。

書き手の遠藤義也さんは言う「父は生まれつきの仕事人間」でと。下北沢に開いた印刷所は盛況であった。増築に増築を重ねた。親父さんは下北沢に事業所を建てるにあたって市場調査をした。見込みありと思って当地に事業所を開いた。

 ここでは「仕事人間」の夫の片割れとしての奥さんも夫に見ならって頑張った。静仙閣で出す魚肉を築地市場に仕入れに行ったという。うまいものが食えるから下宿人が集まった。

(三)
 下北沢静仙閣における発展と衰亡というのはあるだろう。戦争の影響である。物資が逼迫してきた中でのまかないというのは続かなかったのではないか。記録に当たってみる。例えば、昭和19年12月25日、静仙閣に居住していたのは一色次郎夫妻だ。「カノ子はサイレンが鳴るとすぐにお勝手に行って、お釜にガスをつけてきた。自分が空腹の時は黙って御飯を炊く」(『東京空襲記』)戦時中はまかないは止めていたようだ。居住人も男より女の方が多かった。いわゆる二号さんである。
(写真は、旧下北沢3号踏切、この右手の木立の右側に静仙閣はあった)




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2023年07月25日

下北沢X物語(4750)―伝説のアパート:下北沢静仙閣の全貌 3―

スクリーンショット (14)
(一)下北沢静仙閣の経営にあたったのは遠藤政治氏である、小田原急行鉄道が開業し、しばらく経った頃、彼は昭和四年三月に遠藤印刷所を下北沢に開業する。事前にリサーチをし当地で商売を始めた。事業は成功し、余剰資金が生まれた。彼は事業家肌の人間だった。「印刷事業だけでなく当時流行りの現代下宿業に乗り出し、千坪の土地に第一静仙閣とゆう名前の高級下宿を建設した」(『星霜』遠藤義也著 1998年)その場所だ「線路の上を五分も歩くと下北沢の駅がある。静仙閣というのがその名前で、位置はもっと正確に書くと世田谷区北沢一丁目の一一一三番地」(『東京空襲』一色次郎 1967年)である。この頃、駅に行く場合は誰もが線路を歩いていた。遠藤氏の狙いは庶民下宿ではなく高級下宿だ。場所は申し分ない、駅まで五分、電車にのっても新宿、渋谷は五分、便利この上ない。

 作家中山義秀は、この静仙閣に銀座から越してくる。こう書いている。(『台上の月』)

 私は間もなく下宿を引き払って、世田谷にうつってきた。横光の家のある池の上谷一つを隔てた、下北沢のアパートである。妻のなくなった大原町から、それほど遠い距離ではなかったが、私は決してその方へ足をむけなかった。

 中山義秀は横光利一を慕った作家だ。このエッセイのタイトルは『台上の月』(新潮社 1963年)だ隣の池の上の丘上に住む横光利一を思慕しての命名に違いない。

 当時の下北沢の様子を彼はこう描く。

 下北沢には作家や詩人の志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた。学校をでても仕事がなく、喫茶店や麻雀屋に出入りして、無聊の日をおくっているという手合いである。

低廉な学生下宿が多かった、「下宿と定食は下北沢」というフレーズもあったくらいだ。近隣に学校が多いことも影響している。そしてまたこの町には詩人や小説家が多かった。とは言っても稿料で食えるわけはない、安上がりで住めることは魅力だった。

 中山義秀はこうも書く。静仙閣のことだ。

 私のいたアパートは木造の二階建てであったが、著名な詩人や映画監督、留学中の満州国皇帝の弟などもいる。

著名な詩人は北川冬彦であり、監督は成瀬巳喜男である。かてて加えて満州国皇帝溥儀の弟愛新覚羅溥傑もいた。

(二)
 今回分かったことでは、「満州国の総理大臣の鄭氏の息子さんもいたという。
藤井剛さんからのメールにはこうあった。

満州国の鄭首相の子息が下宿していた事は、祖父から聞いています。
満州からの礼状が残っていましたが、今は所在不明です。


鄭氏とはだれなのか。
満州国の初代国務院総理(首相)の鄭孝胥氏ではないかと思われる。満州国皇帝溥儀の側近である。愛新覚羅溥傑が静仙閣にいたときのサポート役ではなかったかと推測されもする。

下北沢静仙閣は渋谷「道灌山の高級アパートにもひけをとらない陣容だった」と『星霜』には記述されている。が、「渋谷道灌山の高級アパート」は、検索で引いても見当たらない。上野谷中にはこの名前はあるらしい。

 高級下宿の住人となった中山義秀、無頼漢と自ら称する彼はここの雰囲気に合わなかったようだ。

 一日、私は下宿の主人から注意された。一部の下宿人達が決議して、私を追出そうとしたが、映画監督が私の年長者であることをもって一同をなだめ、ことを穏便にすましたのである。

 ここは面白い、言えば当地は吹き溜まり、無頼漢も漂泊者もやってくる。が、この当館はでは和が保たれていた。そこに厄介者がきた。酒癖が悪かったようだ、それで住民からは苦情が出た。中山義秀ははじかれた、これを取りなしたのは映画監督である。ここで想起できるのはコミュニティである、

(三)
 今回分かったことは、この静仙閣はまかないつきである。想定できることは食堂である。時間には食堂に集まって食べる。終わった後に話す時間もあったろう。そんな中で映画談義、文学談義などはあったろう。映画監督や詩人や小説家のはしくれなどはここでそれなりに和気藹々とやっていたのではなかったか
(Googleアースから、赤線枠内。第三静仙閣もあったが場所は把握していない)


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2023年07月23日

下北沢X物語(4749)―伝説のアパート:下北沢静仙閣の全貌 2―

スクリーンショット (13)
(一)今回情報をもたらしてくれたのは藤井剛さんである。彼の祖父・遠藤政治さんが印刷屋を始めたことに端を発する。機に聡い人である。開業して間もなくころ、昭和2年、新しくできた小田急線に目を付けた。ただこの場合、流行るか、流行らないかは大きい、商売の動向を左右するからだ。何をしたか?乗客調査である。「新宿から電車に乗って各駅で降り毎日毎日駅毎に乗客数を調べ、将来性を調べて調査し、結論として下北沢を選んだと言っていた。」(「星霜」遠藤義之 非売品 1998年)いわゆる市場調査である。こうして選んだのが下北沢である。言えば乗降客が多かった。この場合は小田急一本だった。それでも乗降客が多かった。道路の要があったからだろう。ここで降りれば道は四通八達、それで客も多い。商売的な勘もあったようだ。「確かにその予測は正しく数年後には、新設井の頭線も下北沢駅を経由して開通され、沿線屈指の大きな町となったが、しかし当時は森あり山ありの田舎町だった。小田急線が開通したばかりはいわゆる武蔵野だった。

 記録を『星霜』と題してまとめられたのは遠藤義也さんである。彼の父が印刷屋を経営されていた遠藤政治さんである。書かれた『星霜』は恐らくは私家版で親戚関係に配られたものだと思われる。そのため社会に触れることはなかったようだ。今回ここで初めて日の目を見ることになった。

 私に連絡をくださったのは剛さんである。彼の父の忠一さんは義也さんとは兄弟である。つまり、遠藤政治さんは剛さんの祖父に当たる。剛さんは、こういうメールをくださっている。

 祖父は静仙閣を始める前に下北沢で遠藤印刷所を始め、乳酸菌飲料の製造、ローラースケート場などもしていたと、私が小さい頃聞き及んでいます。
昭和18年頃に、空襲を心配して、売却して高円寺に転居して鍼灸師として96歳までおりました。


 祖父は下北沢で遠藤印刷所を作り、これが軌道にのって事業を広げたようだ。「乳酸菌飲料」などは普通名をつけて売り出す、何と言う名だったのだろう。

(二)
 ここでローラースケート場が出てくるのにはびっくりする。昭和八年に小田急線と井の頭線が交差する。これがきっかけとなって街は俄に浮き足立つ。鉄道クロスができて人々が下北沢で多く降りるようになった。利便性が高まったことで住宅ができ商店もできた。鎌倉通りを下ったところの道の交差部に中原百貨店ができた。近隣の事業主が参画してスーパーの前身となる中原百貨店ができた、生鮮三品、肉屋、魚屋、八百屋などができた。
当時の写真も残っていて屋上では楽隊が上って店の宣伝をしている。ところがこの目論見はうまくいかなかった。店はつぶれた。地所は斎田田圃だ、地盤がゆるいそのことから基礎にコンクリートを大量に打ち込んだ。上物は壊しても基礎部は残る。何とここに目を付けたのが商売人進取性に富む遠藤政治さん、ここにローラースケート場の開業を思い立った。
これは当たった。近所の子どもが大勢集まってきた。これもおしゃれな町の片鱗だ。

 さて、下北沢に新たに立った印刷所である。乗降客数の調べをして製品需要の予測をした。近隣に学校が多いことも知っていたのではないか、学校は需要があると。

さて、昭和四年に建てた印刷所だ。その原文を紹介する。

 遠藤印刷層は下北沢駅から 線路沿いの商店街に開業した。当時は二軒長屋づくりの商店が両側に軒を並べて商店街を形成していた。 印刷所の右隣はおけや左隣は寿司屋だった。 前に、木村パン店その隣がおもちゃ屋。 薬屋、靴屋、印刷所の並びに奥に鍵形の大きな市場があり。 当時の下北沢界隈の人々の日常生活品は全部此処の町で賄われた。
  現在は人口の増加に伴い、駅から真横に大きな商店街や、近辺に劇場まである繁華街に変貌し、昔懐かしい商店街は飲み屋街の寂れた横町になってしまった。
印刷所は入り口が二間程度で、一階は印刷場となる土間に続いて六帖の今と台所の便所があり。 二階は六畳二間に物干し場がついていた。 当初は父母と私といとこの四人と小僧が三人住むのにやっとなので、一五兄弟の後続部隊が来る。来るまでに二間増築した。


昭和4年に当地に越して来て印刷所を建てた(写真)この場所みなさん分かる方おりませんか。

(三)
 「星霜」を書いたのは遠藤義也さんだ、静岡からでてきて地元の小学校に転校した。荏原第三尋常小学校である、東大原尋常小学校である。田舎から来た彼は級友とはなじめなかったという。そんな中で心なぐされてくれる場所があった。「守山公園」である。甲虫や蝉、トンボがいた、たまにリスや狸もいて心それらに出会って嬉しかったという。
(写真、遠藤印刷所、下、静仙閣前にあった桜の樹。)


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2023年07月22日

下北沢X物語(4748)―伝説のアパート:下北沢静仙閣の全貌 1―

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(一)ネット時代の文化発掘物語だ、このブログは下北沢X物語と題して、当地に眠る逸話を探し続けてきた。この過程で多くの謎を解明してきた。それでもよく分からない課題は幾つもある。その一つが「下北沢静仙閣」である。伝説のアパートである。戦前における文化の殿堂ともいえるアパートだった。ジャンルを超えて多数の文化人がここに参集していた。その人々の交流史こそが町の文化の核心であった。ところが伝説は解き明かされてはいない。これまで懸命に調べてきた。近くに住んでいた古老、佐山一雄さんからの聞き取り、また書籍としては『日本空襲史』があった。作者の一色次郎はこのアパートに住んでいて戦中の様子を克明に記録している。重要な記録である。

 下北沢静仙閣について言及しているものに伊藤祷一氏の「北沢に住んだ文芸人」、中山義秀の「台上の月」がある。昭和十年代では清泉閣は人によく知られていた。

 思い起こすのは清泉閣前にあった桜の樹である、戦中のことだ。ここにお地蔵さんが祀ってあった。一色次郎は出かける度にこの像にペコッとお辞儀をしていたという。その桜の樹も危うく伐られそうになったが代沢小の学童の「伐らないで」という声が功を奏し、辛うじて生き残った。が、お地蔵さんはどこに行ったのか?これを捜すために自転車で一帯を駆け巡ったことがあった。

 かつて場所をいうときには踏切の番号で言っていた。ところが線路はなくなった、新しくできた名前で言わなくては通じなくなった。今で言う「シモキタ雨庭広場」だ、ここに面した道路で交通安全週間のときに地元の役員が集まって、安全指導していた。
「踏切の向こうに桜の木がありますね、昔あの樹の根もとお地蔵さんがあったでしょう?あれをずっと捜しているんですが?」
「ああ、それはあそこだ」
 思いがけず一発で分かった。近所の地主清水さんの家に今は安置されているという。早速に駆けつける。行ってみると本当にちゃんとあった。もう十数年も前の話だ。

(二)
 つい、二三日前だ、フェィスブックのメッセンジャーで突然情報が送られてきた。

 富山県に住む、藤井剛です。
最近、東京の兄が亡くなり古いアルバムなど見ていると、北沢の静仙閣の事を思い出し、検索した所、きむらけん様のページに静仙閣の話を見つけました。
 小さい頃、祖父(遠藤政治)や父親から何度か静仙閣の話を聞かされていました。
写真は父の弟(遠藤義也)が書いた自伝の中の静仙閣についてき書かれた部分です。
ご参考までに。


驚きだった。清泉閣関係者からの情報である。しかも情報は富山県からもたらされている。彼、藤井さんの情報提供のきっかけは検索が発端だ。私がネットに流していた情報を検索で拾って知ったことがきっかけだ。

 逆検索をしてみる。Google検索窓に「下北沢静仙閣」と入れてみる。すると検索トップに二つの記事が引っ掛かった。

下北沢X物語(204)〜伝説のアパート下北沢静仙閣  2005年04月09日
下北沢X物語(206)〜伝説のアパート下北沢静仙閣〜 2005年04月11日


十八年も前に書いた記事である。掲出写真が興味深い、例の、静仙閣前にあった桜の樹の根もとにあったお地蔵さんの写真である。

 戦争中、作家の一色次郎はこの静仙閣に住んでいた。ところが静仙閣の小田急線寄りは強制疎開に引っ掛かった。それで彼は転居を余儀なくされる。世田谷区代田二ノ八二三の「見晴荘」に越した。それで昭和二十年三月二十七日に静仙閣にお別れの挨拶に訪れた。奥さんは管理人と話しこんでいる。

 カノ子が管理人室で話し込んでいる間に、私は地蔵さんのまわりを掃除する。宝暦三年(1753)から立っている、この小さな地蔵さんも、こんどはどうなることだろう。地蔵さんの背中のサクラはまだ若芽も出ていない。枝ばかりの梢に夕もやが漂っていた。
 「東京空襲」一色次郎 河出書房 昭和42年


 地球温暖化を思った。今では三月二七日では桜は満開だ。

(三)
 藤井さんからは、一ページ分の文書が送られてきた。解像度がよくない、それでも丹念に読んだ。気を惹いたのは次の文だ。

 戦後関西の「実業界」に「静仙閣の会」とゆう名前の親睦会があり、学生時代を懐かしんでいると日経新聞に掲載されたこともあった。

 なるほど、関西のお坊ちゃんの御宿が「静仙閣」だった。忘れ得ぬアパートだった。卒業しても未練がある、それで関西静仙閣会を作ったという。

「貴重な資料です、こういう場合、奥付が重要です、ぜひPDFで関係個所のページを送付してください。お願いします」と、私は藤井さんに伝えた。
(写真は清泉閣にあった地蔵尊)


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2023年07月20日

下北沢X物語(4747)―鎮魂の夏:三茶の三野砲兵跡を巡礼する 了―

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(一)旧軍は駒沢地区に三野砲兵隊舎を設置し兵を育てた。砲兵は重要だった。遠隔地から砲を放ち敵に損害を与える。重要な軍隊だ。しかし装備は重い、戦線が広がると補給がネックとなってくる。大陸や南方に兵を派遣するのは大変だった。戦争末期、制海権や制空権は失っていた。外地に赴いた野砲兵は補給路を断たれるとなすすべがない。遠隔地南方などで補給もなく戦った砲兵たちは自滅するしかなかった。食糧も尽きて野垂れ死をした。が、それを我等は玉砕と称した。玉のように美しく砕け散るはずはない、苦しみあがいて、悶絶した。戦争は無謀だ、今また外敵が攻めてくるから反撃能力を持とうと。ものはいいようだ、戦争は撃ったら撃ち返すのが常道だ。反撃能力の向上は戦争への参加表明だ。とても危うい。

 野砲兵第一連隊の旧兵舎を後にして馬魂碑に向かった。この連隊は自隊の由来を記したものは当地にはない。が、関連遺跡は二つもある、一つは韓国会館の兵舎であり、もうひとつはこの馬魂碑である。

 この碑裏面には、建立者氏名と年月とが彫られている。

 このわたしたちの隊の馬は、将校と兵士にとっては無くてはならぬものである。生死をともにするまたとない戦友である。ふだんにおいてもまた戦時にあっても、苦しいとかつらいとか言うことなく、黙々と任務を果たし、日本国内や国外においても多くの功績を残している

野砲兵第一連隊留守部隊長 陸軍砲兵中佐正六位勲四等 原 捷吉 昭和十四年十二月


 馬はものをいわない、黙々と任務をこなしている。砲兵にとっては馬はなくてはならない存在である。十四年段階では、本隊は大陸にいる。

昭和14年、ノモンハン事件に伴い第1・第2大隊に動員下令されるが出動準備中に停戦。
その後、北満の防衛、渡河・湿地訓練、冬季演習を行う。


厩舎にいた大半の馬は大陸に渡って実戦に参加し、今は極寒の地で渡河訓練や湿地訓練を行っている。泥濘地では馬はなくてはならなかった。北満から南方へ転進をしていくわけだが、砲車や馬匹の運搬は困難だ、数を減らして渡った。が、制海権は敵にあって補給がままならない。撃つ弾がなかったという。
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(二)
 最後は、野戦重砲兵第8連隊である。ここに痕跡はない、少し離れたところだが、三宿自衛隊駐屯地の中に記念碑が建っている。

 近衞野砲、第一連隊は、馬を主には動力源として使っていた。こちら野戦重砲兵第8連隊は日本で初めての機動部隊である。重砲はキャタピラつきの牽引車が引き、兵員もトラックやオートバイで移動するものであった。

「地図で見ると野戦重砲兵第8連隊はこのあたりにありました。痕跡はありません。この辺り一帯には焼け遺った兵舎があってここを寮として引き揚げ者や空襲被害者が住んでいたようです。ここに菊寮があって1階が畳屋さんの倉庫だったみたい。面白いのはここから戦車がごろごろ出てくるんですよ……

  戦車というと、同じく昭和24、25年頃のある日、菊寮一階の畳工場の奥からゾロゾロと何台も戦車が出てきました。砲身は切られていたものの、まだ動く戦車。大人は「終戦処理班」と呼んでましたが、軍の兵器の処分の一環だったようです。
下馬兵営時代の『思い出の絵地図』より 世田谷パブリックシアター 2021年


「それからここが米騒動の現場になっていることです……その記事の意訳だ。

 私はその日ははっきり覚えているわ。昭和二十一年五月十二日のことよ。この下馬の兵舎広場に人が一杯集まってきたのよ。確か千二百人とか言っていたわね。集まってきたのは『米よこせ区民大会』があったからよ。でもね、集会への参加というよりもこのときに振る舞われる雑炊がお目当てだったのよ。ほんと食べるものがなくてね、集まって来た人もやせこけた人よ。ここにいる人々は皆、食う米もなくて飢えていたのよ。壇上に立ったのは共産党中央委員野坂参三さんなのです。『食糧問題解決のための人民政府を』と拳を上げるのだけど、その力さえ出ないのよ。終わった後、『これから皇居に向かう、決起せよ!』というのよ。『皇居に隠されている米を奪いに行く』というのよ。びっくりだわね、一年前は皇居遙拝をやっていたでしょう。あそこに隠している米を出せと言いにいくというのよ。冗談でしょうといったら『天ちゃんの米をもらうんだ』と。ちょっと前だったら不敬罪ということで憲兵に引っ張られたでしょう。でね、これが本当なのよ。二台のトラックに乗ってね、赤旗を翻してさ、都電の青山通りを行くわけ。『ああ、インターナショナル……』と歌いながら、一年前だったら信じられないことよね……

(三)
 「鎮魂の夏」、戦跡を巡って無名戦士の思いを汲み取ることができたか。想像することはできたと言える。
 この行事、しばらく途絶えていたが、戦争伝承として継続する必要はあると思った。
 「世田谷平和資料館」に行って、この館こそは率先してボランティアを募り、語り部を育てたらどうか、ということを館員に提案したが、反応はない。それが実情だ。



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2023年07月19日

下北沢X物語(4746)―鎮魂の夏:三茶の三野砲兵跡を巡礼する 3―

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(一)夏、戦跡を歩いて無名戦士を悼むという町歩きを行った。十五日のことだ、この日三軒茶屋では「鎮魂の夏」の町歩き、一方下北沢では「幻影の『猫町』下北沢 朔太郎X線の彷徨」(きむらけん原作)の公演が行われた。両方ともに東大附属の卒業生が五六人ほど歩いたり観たりしている。嬉しいことにこれによって公演や町歩きが活性化していることだ。かつて出会ったときは生徒だった、今はもう立派な大人である。劇を見に行くのも公演を観にいくのも大人の判断、生徒から大人になった彼らに接するのは新しい出会いである、年を重ねると悲観的になってくるが、もう少し生きてもいいかと思いもした。

近衞野砲兵聯隊跡から野砲兵第一連隊跡を訪れた。兵営が今も残っているのはこの隊だけである。下馬韓国会館である、明治期に建てられたもので往時を残す貴重な建造物である。兵営は数多く残っていたが今はこの一棟を残すのみとなった。

 野砲兵第一連隊は悲運の隊である、この隊の歴史は古い。明治5年1月、東京鎮台第3砲兵隊として創設されている。千葉県国府台を本拠地としていたが明治三十一年に世田谷に転営してくる。昭和19年2月、226事件が起こる、皇道派の青年将校によるクーデータである。が、これは失敗に終わり軍部は統制派が支配する。これによって皇道派系統はパージされ満州に追いやられる。野砲兵第一連隊もこの煽りを受けてやはり満州に行かされる。

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(二)
 野砲兵第一師団、悲劇の第一段階だ、昭和2年に第六派遣隊が編制され、南洋グアムの守備隊に抽出されたのである。助かる見込みないところへの派遣で、この第3大隊はグアムで玉砕している。

 玉砕は体のいい表現だ、サイパン玉砕の生き残りから話を聞いた。飢え死にするか自活するしかない。ジャングルに入り込んで蛇やトカゲを食って飢えをしのいだ。米軍のゴミ捨て場は宝の山だったという。本国から送られてきたプレゼントの箱にはチョコがぎっしりつまっていたという。それらをゴミ箱から漁って食べて命を永らえたという。

 野砲兵第一師団本体である。昭和19年7月、連隊本隊も南方派遣準備を命じられる。砲門と馬とを運んだが補給もなく隊は活動できなかった。結局は、レイテで玉砕する。
 玉砕を免れた者たちが少数だが生き残りとして日本に帰った。彼らは何とかして玉砕の地に慰霊碑を建てようと奔走した。そしてようやくこれを建てることができた。これに「鎮魂」という文字を刻んだ。そして裏面にこう刻んだ。
 
 日本陸軍最古の栄誉に輝く野砲兵第1聨隊は太平洋戦争に於いてレイテ決戦に参加し勇戦敢斗の末聨隊長以下カンギポット山麓に玉砕した
 本決戦最大の激戦地リモン峠周辺第1師団の戦斗に際し聨隊主力の陣地であった此の地を砲一台と名付け碑を祀り鎮魂の祈りを捧げると共に日比親善と世界平和の礎石たらしめんとするものである 昭和57年11月建之 砲一会


(三)
 この隊で生き残ったのはわずかである。戦友会「砲一会」を作った。残存兵が多ければ資金は集まる。しかし、あらかたが玉砕した。拠金も少ない。彼らが行ったのは名簿作りである。野砲兵第一連隊の隊員として生きてきた証だ。彼らはこれを作って、国立国会図書館に寄贈した。
 
「砲一関係者名簿」 出版社 砲一会 出版年月日等 1964.6
  大きさ、容量等 50p ; 22cm

 
 「鎮魂」碑はガンギボットに仲間の手によって建立したという。
 当地三宿駐屯地には、「近衛野砲兵連隊」と「野戦重砲兵第八連隊」立派な石碑が建っている。が、野砲兵第一連隊のものはない。


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