2022年05月26日

下北沢X物語(4493)―洗足池とリニア新幹線 2―

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(一)大深度法は伝家の宝刀だ、地下40m以遠の空間には地権者の承諾が無くても、公共目的であれば使えるという法律だ。地権者には被害が及ばないだろうとの考えで作られたようだ。が、この法に基づいて隧道掘削工事をしていたところ陥没事故が起きた。関係者を震撼させた外環道の調布陥没事故だ。この法律はリニアのために作られたようなものだ。2018年 5月17日にJR東海による大深度地下使用認可申請に関する説明会が奥沢小で開かれた。今、思い起こすと、居丈高だったという印象がある、「危険はないか?」、「安全です」、一点張りだった。洗足池の底が抜けることはない。説明会というよりも、単なる手順手続きだ、説明会を行ったという実績づくりだった。ところが伝家の宝刀が調布陥没事故で折れた。

これまでの説明では、大深度法を活用したシールドマシンによる掘削では、地上への影響は生じないとされてきたが、具体的な被害が生じた。このことから、この法は憲法が保障した国民の財産権を侵害するものだという声が上がった。

 リニア工事は大丈夫なのか?、誰もが不安に思うことである。
リニアもいよいよこの大深度法を活用しての掘削を始める。それで2021年6月8日、品川大井町でJR東海によるの説明会が行われた。調布陥没事故については、「特殊な地盤条件となる区間」で「施工に課題があった」との報告がなされたようだ。

 この説明会は夕方のテレビニュースで流された。会社側は、「ご納得いただけたものと思う」と述べていた。が、参加した人々は、ご納得はしていなかったようだ。

 この説明会を行った翌年、2020年10月14日、北品川非常口から巨大シールドマシンが降ろされ、いわゆる調査掘進が初められた。当初計画では、今年3月末まで300メートル掘る予定だった。しかし、新聞報道によると50メートル掘り進んでマシンは停まったと伝えている。何かのトラブルがあったに相違ない。が、JR東海側は原因を明らかにしていない。

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2022年05月25日

下北沢X物語(4492)―洗足池とリニア新幹線―

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(一)荏原第一の景勝地、洗足池にはよく行く、途中、必ず通るところがある。西の石川台から崖線を登り東の洗足池駅方向に下る。このときに左手に白いフェンスが巡らされている場所が見える。何の工事をしているのか、眺めただけでは分からない。ここはリニア新幹線の東雪谷非常口新設工事現場だ、外周の塀はまっさらだ、注意して見ていくと小さな紙が貼ってある。ところが、今回は「おや」と思った。塀の上の鉄パイプ越しにカラフルな宣伝幕が見えたからだ。(写真)が、違和感を覚えた。外に向けての広告ではなく塀の中にいる人に向けてのものだと知ったからだ。青地の横断幕に白字で記されている。「高める、つくる、そして、支える」この右にリニア先頭部の写真がある。下に「提供 JR東海」とあって、「東京・大阪を一時間で結ぶ中央新幹線」とある。気になったのは何を高めるのかだ?今リニアに対する風当たりは強い。それで働く人たちにエールを送り、士気を「高め」ようとしているのではないか。

 いつも工事現場を通るとき違和感を覚える。何かの工事をしているが、何をしているのか分からない。白いフェンスが工事現場を蔽い、中を見えないようにしている。工事をする方に負い目があるようだ。真っ白のフェンスがもったいない、「東京−大阪60分 夢のリニア新幹線工事中」、堂々とアピールすればよい。

 ところがそれをしない、塀の中にはその広告を出しているが、外には掲出しない。民主国家である、公明正大にアピールすればよい。くだんの白いフェンスはどこの工事区間でも同じだ。真っ白というところはミソだ、明るい工事現場を印象づけているのではないか。白は潔白、何のやましいところもないというサインかもしれない。

くだんの白い塀、何にも表示がないかと言えば、さっきの白い紙が目につく。目を凝らせば分かる。

近隣の皆様へ
中央新幹線東雪谷非常口新設 工事のお知らせ

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2022年05月23日

下北沢X物語(4491)―世田谷城半島森茉莉幻想行2―

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(一)森茉莉ファンはコアだ、彼女独特の世界に魅せられている女性は数多い。つい最近知ったことがある。彼女の終焉の地は淡島ではない。経堂フミハウスだ、会員の原敏彦さん情報では、フミハウスは壊され更地になったとのこと。彼女の遺骸は死後数日後にここで発見されている。ゆえに事故物件とされていたが空室は埋まった。前に、森茉莉散歩でここまで来たときに「彼女が亡くなった部屋で暮らすのは素敵、空けば住みたい」と言っていた。彼女の霊魂の籠もっている場所は魅力的だと言っていた。が、この頃森茉莉ファンには会わなくなった。母も娘もともにお宅では森茉莉語を交わして暮らしているという人に邪宗門で出会った。北海道からも台湾からもファンは来ていた。「森茉莉ノート」のアィデアは私が出した。が、後発組の「境界の彼方ノート」には大きな差を開けられている。森茉莉ファンはどうも減少傾向にあるようだ。

 我々も一時熱心で、「下北沢文士町文化地図」の初版には、「森茉莉作品関係舞台地図」を作っている。彼女がひいきにしていた店の名が地図に記されている。関係箇所に16個ものマークがついている。が、時が経った、2006年12月に作った地図だ。もう十六年になる。「風月堂、青柳、駅前市場、ボンジュール、クレイヨン、スコット」など軒並みなくなってしまっている。時代は風化していく、下北沢における森茉莉伝説も消えかかっている。

 案内役の幾田充代さんは、森茉莉の小説がいいという。が、やっぱりエッセイだ。
彼女は、淡島居住時代、毎日下北沢へ通った。が、一介の偏屈婆さんはある日正体がばれてしまう。皆驚いた。

(二)
 魔利が妙に目立つところへ雨の日も風の日も歩いて通る。 そこへ魔利の父親の鴎外という人間が、小学校へ行った者には全部名を知られていて、誰でも一度聞いたら(へえええっ)と驚いて忘れることのない。 馬鹿馬鹿しく有名な、肩書きの多い文学者と来ている。いやが上にも人に覚えられるように、有名な悪妻の鴎外の娘というを景物も、附いている。 かくして魔利は、毎日の道筋の多くの商人、二側も、三側も裏通りに住む人々に至るまでに顔と名とを覚え込まれた。
『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 1992年


 おもしろいし、たのしい、父親が全国民に知られた有名人だと言っているが、全く嫌みがない。さらりと説明しているところがよい。

 地元ゆえに地元ネタが多く転がっている。
「杏奴さんとは道ばたで擦れ違うことはよくあったらしいのですよ。けどね杏奴さんは顔を隠して擦れ違っていたのよ……」
 茉莉を見かけた人は西洋乞食のようだったと。

 前に、代沢小で森茉莉の話をしたことがある。そのときに父親が茉莉の部屋に出入りしている電気屋さんだった。
「いっつも、リモコンの注文をしてこられるのですよ。父親が行ってみるとベットの下にリモコンがいくつもいくつも転がっていたというのですよ」
「ついさっきまでベットの上にあったのだけど、なくなっちゃってね」
 掃除をしたり、書き物をしたり、狭い部屋を動き回っているうちにリモコンが落ちる。ありうることだ。

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2022年05月22日

下北沢X物語(4490)―世田谷城半島森茉莉幻想行―

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(一)古道、滝坂道を森茉莉の足跡を辿って歩くと、彼女が降臨してくる、それは彼女の土地勘が鋭かったからともいえる。我々は彼女の姉、梅丘の小堀杏奴旧居から、彼女の知友萩原葉子旧居をたどり、パウロやギドウが暮らした若林から淡島の倉運荘跡までを歩いた。その道筋の木陰にこっそりと隠れている彼女の気配を感じた。西洋乞食風の彼女の動きは素早い、ふっと消えたかと思うとまた木立の陰に潜んでいる。なぜそうなのか、理由は簡単だ、生前彼女はここらへんよく歩いていた。ゆえに地理は案外に知っている。が、地名には一ひねりを入れる、我々が集まったのは梅丘だ、森茉莉はこれを「夢ヶ丘」といい、また「若林陸橋」を、「月林陸橋」という、近隣の地名などはよく知っている。日頃、買い物袋を下げてゆるゆると歩く、常々サナトリウム歩きをしていたからだろう。

 東條湯布子さんは亡くなられた。彼女からは何度も話を聞いた。おもしろいことに近隣に住む有名人のインタビューを行っている。大空詩人の永井叔は彼女を通して知った。太子堂を拠点にさすらいあるいていた詩人だ。森茉莉、永井叔のは生の声が取ってあるので聞かせてあげると言っていた。ところが残念なことに森茉莉のは手に入ったが永井叔はもらい損ねてしまった。

 テープは貴重である。森茉莉は、この中で父と自分の違いを述べている。印象にある発言である。

「お父さまは、何でも整理をされていたのね、頭の中に入っている知識が抽出に整理されてあるの、必要なときに抽出からそれを取り出されるの。私も、抽出はないわけはないけれども中がごっちゃになっているの」
 非常によくわかる。『贅沢貧乏』は優れたエッセイだ。その冒頭だ。

牟礼魔利の部屋を細叙し始めたら、それは際限のないことである。

 こう始まって倉運荘の狭い六畳の部屋を説明する。がらくたが乱雑においてある。それをまるで宮殿であるがごときに描く。ここに彼女の素晴らしさがある。

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2022年05月20日

下北沢X物語(4489)―三軒茶屋の地名発祥伝説―

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(一)三軒茶屋は世田谷の中でもっとも知名度の高い町だ、ところが歴史は浅い。定評ある地名辞典、『世田谷の地名』(教育委員会発行)には出てこない。地名が新しいからだ。三軒茶屋が正式な地名として認知されたのは1932年(昭和7)に世田谷区が都に編入されたときに町名として初めて出てくる。この経緯を考える。当地を横断する東西道世田谷通りは重要道である。富士詣で、そして大山詣での参詣道でもあった。が、江戸期になってブームが起こり大山詣での人々が増えた、これがきっかけとなって当地で道を分岐させて大山道の新道ができた。この分岐点に三軒の茶屋が作られ、いつの間にかこれが通称となった。

 つまりは、当地が追分、分去れの町となったことが原因だ。一本道時代は単なる通過点だった、が、追分になったことで結節点となった、旅のけじめをつけるところ、「いよいよ富士へ」、「いよいよ大山へ」となる。「では、一杯お茶を所望してでかけよう」となる。

 容易に想像ができることは当地が追分なったことで茶屋はできた。では、いつできたのか、この点は大事である。我らの仲間、別宮通孝さんがこの点に興味を持ってブログにも書いていたので、昨日、問い合わせた。こういう返答がきた。

 三軒茶屋にある道標に記されております。文化文政期に一般に往来されてくるようになったと考えています。小生の見解では、新道ルートは事実上は品川用水が流れ始めた時期以降に新道ルートの往来が始まっていたと考えています。
 道標の建立されたのは、1812年ですが、人々の往来は、1700年頃に始まっていたものと考えます。


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2022年05月19日

下北沢X物語(4488)―忘れられた三軒茶屋の文化―

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(一)人間思い込みというのはある、三軒茶屋のうちの一軒は田中屋である。田中さんという人が経営していたのだと思っていた。ところが、先日の地元町会長面談では、太子堂西山町会長の堀江鉄拡さんが来ておられた。当地では指折りの古い家系だ、堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つつ田中屋を経営した旧家であると知った。三軒茶屋は町の発展形成を考える上で重要だ、三軒の茶屋できて発展の礎ができた。当地はかつては一本道だった。が、江戸期になって大山参拝の客が増えた、そこで当地に分岐点を作って富士山参道と大山道参道道を作った。ここで分去れができた。のっぺら棒だった道に追分ができた。分去れは結節点である、道中の目標が三茶までとなり、一休みする場に、三軒の茶屋が建った。三軒茶屋の始まりだ。

 よってこの三軒茶屋ができたことの影響は大きい。一本道であれば、単なる通過点となる。分岐点となると旅人の気合いも違ってくる。憩って出かける、そのときに道祖神に願掛けをしていく。

 江戸から近代へ、明治から大正へ、玉川電気鉄道が敷設される。このときにも三軒茶屋にはYが残った、分岐点だ。下高井戸線と二子玉川線の乗り換え駅となった。

「むかし、三軒茶屋で乗り換え券を配っていたのですよ。多摩川行って遊んで帰ってきて、降りる時に乗り換え券をもらうのです。日にちが書いてないから、それをとっておいて貯め込んで、それを使って好きなとこに行っていましたよ」
 堀江鉄拡さんの話だ、こういう話はおもしろくて楽しい、子どもの知恵だ。

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2022年05月17日

下北沢X物語(4487)―三軒茶屋地域町会長との面談―

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(一)今年度、我々は公益信託世田谷まちづくりファンド助成事業に応募した。テーマは『三軒茶屋文士町文化地図を創る』だ、企画に求められるポイントは地元との関わりである。それで三軒茶屋のまちづくりを推進している行政の「都市整備部 市街地整備課」に相談したところ便宜を図っていただいた。当地の町会長との面談が昨日叶った。昨日、太子堂まちづくりセンターで会合を持つことができた。区の担当官立ち会いのもとに太子堂地区連合会町会・太子堂四丁目西山町会 会長堀江鉄拡氏、三軒茶屋町会会長 杉江敏治氏との面談を行った。私たちは「埋もれた三軒茶屋の文化を掘り起こしたい」と訴えた。これがきっかけとなって「三軒茶屋の昔」という話になって、数多くの昔話が聞けた、「キャロットタワーができるまえは、あそこで豚が飼われていたんですよ」と、まさに昔話に花が咲いて盛会となった。

 5月17日、2時からの会合、当会からは山本裕さん、幾田充代さん、それと私の三人が出席をした。区の方は市街地整備課再開発担当のお二人が立ち会ってくださった。

 最初、当会のきむらが、経緯を簡単プレゼンをした。

・当会は、十八年間活動を続けて来た。活動の一環で生まれたのが「下北沢文士町文化地図」、改版を重ねて現在、八版で、総発行枚数は七万五千部。区のホームページにもアップされている。
・今回、下北沢の隣接地区、三軒茶屋の文化地図をつくりたいということで世田谷まちづくりファンドに応募した。基本は、「三軒茶屋文士町文化地図」を創りたいということである。三軒茶屋というが、太子堂と三宿は入っている。

・今回の面会は、「三軒茶屋の文化地図を作成したく、地元の歴史・文化についてお伺いしたい」ということでお願いしています。
 
・六月五日に、まちづくりファンドでのプレゼンを行う。
 ポイントは四つ
 ◎震災、戦災から生き延びた平和都市三軒茶屋
 ◎三軒茶屋の歴史文化を地図上に記録し未来に伝える。
 ◎三軒茶屋の街の文化をビジュアルに地図上に描く。
 ◎地図を創ることで当地が文化的な町であることを広く知らせる。

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2022年05月16日

下北沢X物語(4486)―沖縄と台湾と特攻

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(一)ウクライナ戦争ではロシアが劣勢に立たされている。「死体が山のようにあってあそこに放り込まれたら行方不明者となる」と敗残のロシア兵が語っていた。誰かもわからずにこの世から消えて行く、寂しいことだ、戦争で亡くなった人、沖縄の糸満市摩文仁の丘の「平和記念公園」には沖縄戦でなくなったこれらの名が刻んである。記名することで故人の霊が救われる。県民の四人に一人が沖縄戦で亡くなったという、県民だけでなく沖縄特攻で亡くなった特攻隊員たちも記名されている。沖縄を救おうと数多くの若者が特攻出撃している。が、途中で敵機に遭遇し撃墜されたり、機の不調で沖縄にたどりつけずに亡くなった者も、大勢いる、この彼等は名を刻まれてはいない。沖縄戦では名もなき戦士が大勢いることだ。沖縄戦における人々の死は、本土防衛の「捨て石」となったというが、沖縄を救おうと数多くの人々が懸命に奮闘していたことは忘れてはならぬ。

 台湾から出撃した沖縄特攻を調べている。台湾は本土から離れた辺境であった。物資は潤沢に送られてこない。大砲や銃という兵器がない、戦闘機もない、燃料も不足していた。そういう辺土で戦おうとするとき本土と同じ戦いはできない。

台湾の航空戦を担っていたのが「第八飛行師団」である。若い参謀がいて、合理的に物事を考えてこれを作戦に生かしていた。

 師団の作戦計画の基本は「司令部で特に計画をする場合のほか、邀撃は一切実施しないで、人員、飛行機、燃料、弾薬などのすべてを滑走路から遠く(二キロから八キロ)分散秘匿して損害を避け、機を見て敵の上陸用艦艇に対して一斉に決定的な攻撃を加え、その上陸前に大打撃を与える」ということにあった。
特攻の記録 「十死零生」非常の作戦 「丸編集部」編 光人社 2011年刊


 作戦の基本だ、一つは、「邀撃」、つまり飛来してくる敵を待ち受けて攻撃することは一切しないということだ。本土などでは邀撃は基本だ、しかし、台湾はできない。邀撃に出た機がやられればお終いだ、補充はない、所持している機は虎の子だ、一機でも失いたくない。

(二)
 作戦、二つ目、分散秘匿である、台湾は海に囲まれている、敵機動部隊は空母を伴ってやってくる。母艦から飛び発った艦載機が虎の子をつぶしにくる。いわゆる、掩体壕はあったが、敵は容易に分かるこれを爆撃で狙ってくる。それで飛行機、燃料、弾薬などのすべてを滑走路から遠く隠す、木陰である。これには大変な作業があった、機を出し入れしなければならない。機をロープで引っ張る、弾薬や燃料も運ぶ、人海戦術でおこなった。航空地区部隊、彼等が担当した。

もう一つ大事な点である、機を見て攻撃するという点だ。これを目撃した現地の人は、日記に記している。

  另一個特攻隊,以舊式的飛機搭載炸彈,直接衝撞美軍戰艦,每天傍晩趁美機來襲的空隙在機場上空,駕機向下俯街,練習衝撞敵艦。

 ここは非常に興味深い点だ、筆者の邱 垂棠さん、日本の攻撃隊には二通りあったという。一つはいわゆる特攻隊だ、もう一つは「古い飛行機に爆弾を積んで米軍の戦艦に突っ込む特殊攻撃チーム」である。

台湾は辺境の地にあるだけにものを大事にする。機は特攻で使えばこれで終わりである。特別攻撃隊があれば、普通攻撃隊もある。これが、「特殊攻撃チーム」だ。

 特攻機もそうだが、戦闘機は昼間出られない。特攻機は薄暮に出撃する。普通攻撃隊チームは、古い飛行機、九九式襲撃機を夜間に出して、沖縄に向かい敵艦に爆弾を落としてくる。米軍の感知能力は高い、夜間爆撃機がやってくると艦砲が火を吹く。空がまっ赤に染まるぐらいだった。九九式襲撃機は、その名のとおり、急降下して爆弾を落とし、そして引き返す、この作戦を第八航空師団は行った。
 危険が伴った、敵艦船の砲撃にやられて撃墜された機も多くいる。しかし、その彼等の名はほとんど記録されることはない。

(三)
 台湾には満足な飛行機はなかった。ともかく部品がない。唯一、高等練習機によって飛行一○八戦隊によって運ばれた部品で息をついていた。壊れた機を解体し、使える部品は使う、その再生した飛行機は百機をこえていたという。

突撃される側は、恐怖心を持った。これが憎しみへとも変わった。凄まじい艦砲射撃で徹底的に沖縄は傷めつけられた。そこに憎しみの暴発もあったように思う。
(知覧特攻会館にて)


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2022年05月14日

下北沢X物語(4485)―洗足池は文化の交差路―

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(一)文化探訪では、洗足池関わりで幾つも発見があった。一つの例示だ、以前、梅丘の宇田川家の欅の剪定に行き会った。「昔はな、大森の漁民がこの枝を買いに来ていた」と主人。それからだいぶ経って『蛇窪の踏切』を読んでいると、「洗足から大井までの長い間の道は綺麗に掃除がしてあった。道幅一杯の大箒で一息に一里余りが清めてあった」と。つまりこれが「海苔柴朶に伐った雑木」で、車からはみ出たこれが何と道を清めていた。本当にびっくりしてしまった。やはり大森の漁民が欅の枝を買いにきていたのだ。イメージがコトンと落ちて、とても感動したことがある。話はこれで終わらない。

今記した、「洗足から大井までの長い間の道」も大事である。いわゆる古道である、つまりは品川道なのである。これを「稲毛道」とも言う。江戸庶民が郊外への物見遊山に来て、洗足池池畔で憩った。ここには茶店があったという。

因縁の不思議、歌人の若山牧水はかつて新聞記者をしていた。彼が書いた記事に、京浜急行電鉄の青物横丁駅で降りて、伊藤博文公の墓所に歩いて行ったというものがある。何とそれが品川道なのである。この道は、荏原の奥地から青物、つまり野菜を運ぶ道だった、それで青物横丁というのだった。

因縁転変、伊藤博文公墓所が萩原朔太郎に繋がる。詩人は、大正十四年二月、前橋から大井町に転居してきた。それが「東京府下大井町6170番地」である。ここの手がかりがこの墓所であった。当地に転居してきた朔太郎が田端に住む室生犀星宛てに葉書を出している。それに家への道案内が書かれている。「伊藤公墓地前、八百ヤと玩具菓子ヤの横町入ル」(「萩原朔太郎全集」第13巻)とある。

朔太郎旧居探しでここには何度も訪れた。
 このときに、墓所前の「村田米店」の主人と出会った。
「不思議だよね、何年かおきに、萩原朔太郎の住まいを人が探しに来るんだよ」
「そうそう、私もその一人です」
 つい笑ってしまった。
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2022年05月13日

下北沢X物語(4484)―荏原ベストワン風景は洗足池―

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(一)人は風景を求めて生きている、深沢園芸高校の裏手の尾根を越えると丹沢山塊が見えてくる、目が安らぐ、思うのは人はいつも人工風景ではなく、自然風景を求めていることだ。私は、常に荏原逍遙を続けている、朔太郎流に言えば漫歩である。この頃、思うのはやはり域内では洗足池の風景が一番ではないかと。大町桂月は『東京の近郊』の中で、「十二社の池、三宝寺池、旧神田上水の源なる井の頭池など、池と名のつくもの多けれども、山湖の趣を有するは、西郊の洗足池のみ也」と述べる、大正十一年発表の紀行文だ、今もなお変わらずに近郊一風景を保っている。気がつくと自分の足はいつもこの洗足池を目指している。

「いつも感心するのは、この川口信さん、洗足池で一番眺めのいいベンチに座って池を眺めているのですよ。このベストポジションを知っている人はいませんよ」
 川口信さん、我らの会の旧会員だった。引退して洗足池の主になっている。

 ところが彼の姿が見えなくなった。数日おきにきているがいつもの特等席は空いている。「どうしたのだろう?」
 洗足池に行くときは、中原街道の坂を西から下ってくる。すると左手に池が見えてくる。ここのたもとに立って対岸を見遣る、すると件のベンチが見える。
 ついこの間だ、いつもどおり見るとベンチには人が座っている、左手には白、右手には黒、女性と男性が座っているらしい。ベストポジションは左手だ、川口さんかと思ったら違うようだ。

 池の右手からぐるっと回っていく、勝海舟の墓の前の公園は保育園児が数多く群れている。子どもをよけながらいくと水生植物園だ、カメラを持った人がここらにうろついている。ときに数十人もいるときがある、「カワセミ」を狙っているのだ。

 やがてベンチが見えてきた。左手には女性、右手には男性、川口信さんらしい、近寄ってみると川口さんだ、が、彼はこちらに顔を向けたが気づかない。人違いか?
「川口さん?」
 彼が顔を向けた、笑顔を見せる、やはり川口さんだった。

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2022年05月11日

下北沢X物語(4483)―ネット時代の戦争と日本国憲法―

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(一)ネット情報は危ない、「ガンを患ったA女史は重篤だ、莫大な遺産を抱えた彼女はあなたに相応の資産分与したい」という弁護人からの連絡、「あなたのパソコンを乗っ取った、ビットコインで金を払えば秘密の暴露はしない」というのもある。今朝の迷惑メール隔離通知では「Amazonプライムの自動更新設定を解除いたしました!番号:9195817」、「【JR西日本Club J-WEST】お支払い方法が無効です」とも。加入もしていないのに毎日来る。ネットは嘘に満ちている。が、自身の日々の発信へは、誠意ある情報が入ってくる、これまで歴史に埋もれていた真実をどれほど明らかにしてきたか、ネットのマイナス面もあるが、間違いなく新しいことを提示もしてくる。今回のウクライナへのロシアの軍事侵攻はネットが大きな力を発揮した。人類は、断絶してはいるが一面真実は伝わるのだという希望は見い出せた。それはロシアの悪辣さ、非道さ、強引さ、デタラメぶりを暴いたことだ。

 「国家は嘘をつく」、典型例が、「大本営発表」だ、あまりのデタラメ振りに、今では 政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報とされている。国家が嘘をつく、これは今も伝統として引き継がれている。都合の悪いところは隠す、改ざんする、日常的に行われていることだ。

 マスコミは国家が嘘をつかないか見張る役割がある、それがあってこそ公器となりうる。が、同調圧力が強く、真実は暴けない、今、スクープを放っているのは週刊誌である。〇〇砲と言われるものだ、が、これも記事を面白おかしく書いて儲かろうという算段が見え透いていて買おうという気はほとんど起きない。

 そんな中、活躍しているのがデジタルハンターである。これは興味深い。今やスマホ時代だ。笑ってしまうことがある、上流で洪水が起こった、その情報を聞きつけた素人ハンターが下流で待ち構えていると大洪水が襲ってくる、待ち構えていたハンターは皆これを写している。ど田舎らしいのだが服装は貧しくてもスマホは持っている。凄惨映像を撮ってどこかに売りつけるのか?
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2022年05月10日

下北沢X物語(4482)―人間の心は戦争に汚染される―

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(一)テレビでは娯楽番組は見ない、つい戦争を観る、先行きが不安だからだ。身近で変化が起こっている、この間、武蔵小山までアンパンを買いに行った。これが十円も値上がりしていた。戦争によって小麦の値段が高騰しているからだ。これはささいなことだ、やはり底知れない危惧は、核戦争が起こるかもしれないという不安だ。戦争を仕掛けている国の言うことが意味不明だ、軍事侵攻は「ウクライナのネオナチ集団との戦いだ」と言う。西側はロシア国内の報道統制によって国民が洗脳されているからという。が、当のロシアではプーチンに対する支持率は圧倒的だ、よく耳にするのは正確な情報を国民に届ければ事態は変わると言う。が、国民はロシアを引っ張っていくにはなにはともあれ「強さ」が必要だと思っている。プーチンはそれを体現しているから支持すると。根本のところロシアと西側では大きな文化観、価値観の違いがある。この軋轢によってもしかしたら核戦争は起こるかもしれない。怖ろしい時代だ。

 YouTubeをよく見る、何度も見ていると、その傾向の番組を発信側が選んでくれる。今、ウクライナ関係の戦争映像が数多く上がっている。圧倒的にウクライナ側の映像が多い。ドローンから撮った映像だ、一本の山道を戦車軍団が走ってくる、ドローンは前から順に照準を定める、そして、砲を発車する、それは光の弧を描いて戦車に命中し、爆発する。後続の戦車も順次狙われてことごとくドローンの餌食になる。敵である戦車、傍若無人に街を破壊し、老若男女見境なく砲撃するロシア軍は悪だ、その悪玉がつぎつぎに破壊されていく様は小気味よい。

 一台一台の戦車には戦闘員が乗っている、砲撃されて爆発した瞬間に要員は死ぬ。が、機械が爆発しているので人は見えない。

 ところが戦車や輸送車の回りには、点々と人が見える。歩兵である。見ていると戦車道に沿って銃を持って歩いて行く。が、上から狙われていることも知らずに散会せずに一定の集団を作って進んで行く。
「両側の森に逃げ込めよ!」

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2022年05月08日

下北沢X物語(4481)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか 5―

01
(一)最近気づいたことがもう一つある、当ブログが「もう一つのメディア」であることだ。mediaは情報の媒介物、ブログとの決定的な違いがある、いわゆる、mediaは一方通行である。が、ブログには情報の相互性があることだ。受信が帰ってくる、今日のエントリー数は4481だ、これはネットに蓄積された情報だ、閲覧者はこの記事を見て情報をこちらに届けてくれる。これが発端となって歴史に埋もれていた真実が数多く明らかになった。つい最近の事例では、「根津山防空壕」の様子の具体的な証言、「若林のかむかむおじさん逸話」などである。ブログは、フェイスブックにも同時投稿している。一連の『長崎の鐘」関連関係でも、こちらのコメント欄でも新たな情報が入ってきた。

 世田谷代田に住んだ作曲家、古関裕而のことを話題にしている。彼の自伝「鐘よ鳴り響け」はおもしろい、巧く書けている。この前も引用したが、「日本列島そのものが、音楽になって響いてくる」と書かれていた。ここで思ったことは巧すぎる、きれい過ぎる。ここから直感したことは伝記ライターが書いたのだろう、ということだ。

 決定的なのは、空襲を三月十日と間違えているからだ、聞き書きをしていて空襲と出てくる。ライターは東京大空襲に間違いないと考えた、が、これは山の手大空襲である。

 古関裕而は娘二人を根津山の防空壕に避難させた。彼と奥さんは家を守った。奥さんの金子さんは、防空群長だった、率先して消火に当たった。

「古関さんの奥さんが、『空襲警報』と言うでしょう、あれはソプラノ、つい聞き惚れちゃうのよ」と近所の奥さん。ともかく隣組が奮戦して「我が家は焼けなかった」。

 問題は、この日はいつか?ということだ。先の、今井雄一さんは、24日に墜ちたB29を見ている。この機が千歳船橋の高射砲を食らったとき、代田一帯で見物していた人々は「万歳!」を唱えて小躍りした。が、その手負いの熊が代田まで直進してきて、右旋回していく、そのときに焼夷弾を捨てながら飛んでいった。
 味方の砲が敵の爆撃機をやっつけたと大喜びをしていると。突然焼夷弾の雨が降ってきて、住民は大慌てで消火にかかった。

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2022年05月07日

下北沢X物語(4480)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか 4―

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(一)物事の真相にふと気づいて戦慄することがある。先の30日、代田邪宗門で二人の人と出会った。一人は下北沢のことを調べているという若い学生、もう一人は奥谷民雄さんだ。前者からなぜ当地の文化を調べ始めたのかを聞かれた。「自転車通勤時に通り掛かった茶沢通り踏切で待たされたことがきっかけだ」と答えた。後者は、古関裕而の旧居を知っている古老がいると教わった、即刻電撃訪問をして旧居の確認ができた。この二つのことから大きな変化に気づいた。自転車通勤時代は線である。途中途中で聞き込んだ事実が点として記憶されていた。古関裕而旧居探索は面である。すでに旧居探索は何度も済ませていて、今回の突撃は一つの仕上げでもあった。このことから発見したことは、自分の文化探査が点から面になっていたことである。

 この間、奥谷民雄さんと代田の古老、今井雄一さんを訪ねた、彼は代田八幡宮の前の煙草屋さんだ。昭和4年生まれの93歳だという。当時17歳だった。5月の空襲のときには根津山の防空壕に避難したという。この話の中で谷亀さんのお婆さんの話が出てきた。
「防空壕に避難する途中に焼夷弾の直撃を受けて亡くなった」
 この話をブログで紹介したところ、谷亀冢困気麕椰佑らコメントがあった。

 昭和45年前後のことですが、小学生ながら、煙草の店番が私の仕事でした。夕方になると、浴衣姿の古関裕而さんが、いそいそとやってきて、『坊や、ピー缶二つね❗️』と懐から五百円札。ピー缶二つを袋に入れ、『ありがとうございました❗️』と何回繰り返したことか。当時は、『歌番組の審査委員長のお爺さん』としか感じておりませんでした。

古関裕而は愛煙家、ヘビースモーカーであった。谷亀さんのお母さんが、「家から買っていった煙草を吸って多くの名曲が生まれた」と言ったという。地元ネタの真実を表していると思った。

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2022年05月05日

下北沢X物語(4479)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか3―

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(一)先だっての町歩きで、世田谷代田の三大巨人は、ダイダラボッチに萩原朔太郎に古関裕而だと紹介した。三人の巨人に共通するのは移動だ、ダイダラボッチの痕跡は足跡だ、運動の途中に残したものだ、創作者も移動は欠かせない、詩人は「私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない」(『秋と漫歩』)と創作の極意を漏らしている、作曲家とて同じである。書斎に留まっていては作品はできない。外に出て外気を吸う、鳥の声を聞く、美しい女性を眺める、空を見るなどの刺激が必要だ。これらに触発されて詩も曲も生まれるものだ。古関裕而の二番目の居住地が特定できた。ここでは多くの作品が生まれている。「長崎の鐘」もその代表ではないか。この曲の発売は1949年(昭和24)7月1日である。居住地旧番地1-408から1-608への転居は1951年春だとすれば△狼鐔算代となる。居宅は五線譜に音符を書き写す場、すでに散策で曲は発想されている、近辺の心落ち着く場が創作場所と想定される。となると根津山である。

この間、代田八幡宮前の煙草屋さん、今井雄一さんに奥谷民雄さんと話を聞きに行った。昭和4年生まれの93歳だという。古老である。今では貴重である。
「あれ、B29の墜落は見ました?」
「見た、見たよ、ここの代田八幡宮から見ていたんだ。高射砲がボカンと当たってな」
「そうそう千歳船橋の高射砲にやられたんですよね」
「うん、そうだボカンとな」
「ぐるっと回りこんできたでしょう?」
「そうそう旋回しながら来て爆発して落ちていったんだ」
「豪徳寺まで見に行きました?」
「行った行った、牧場のところに落ちていた」
「あれは、5月24日、根津山の防空壕に避難したでしょう?」
「そうそう、ビンゴ」
「あのとき古関裕而は娘さん二人を防空壕に避難させていますね」
 「古関裕而自伝」にはこれが三月十日のこととして記録されていた。お孫さんの松本幸子さんに「五月二十四日」のことではないかと問い合わせたら「三月十日は間違いです」
との返答があった。

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2022年05月04日

下北沢X物語(4478)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか2―

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(一)朝ドラ「エール」は評判だった、放送前に事前調査に来た人と代田を歩いた。古関裕而の近傍巡りコースの実踏だ、一つのパターンは菓子屋から煙草屋へだ。作曲家は菓子好きで愛煙家である。「香風」は有名な和菓子屋だった。聞き込みで「餡子を包んだ餅」が大好物だったと知った。また駅前の煙草屋では本人が「ピー缶二個!」と言って買っていたという。「うちのピースを吸って多くの名曲ができた」とその家では言っていたとも聞いた。世田谷代田のピー缶と古関裕而の名曲、説得力のある逸話だ。が、世田谷代田の固有性は「エール」ではほとんど出て来なかった。国民的作曲家と言われる古関裕而、地元世田谷代田と彼との深い関係は国民は知らされることはなかった。文化とは地域の味わいである。彼は境涯を世田谷代田で過ごした。三度転居したが代田地内だ、ここを離れなかったのはやはり理由があるように思う。谷あり川ありの地形、それにもう一つに空がよく見えるということが挙げられる。

 福島から上京してきた古関裕而は、1931年から1989年までの58年間を世田谷代田で過ごした。暮らしはじめたきっかけは帝国音楽学校にある、当地に開校された帝国音楽学校に連れ合いの古関金子さんが入学したことが縁である。

 福島市出身の古関裕而は市の名誉市民第一号となっている。昭和54年(1979年)に同市で推載式が行われた。そのときの挨拶では、こう述べたという。

いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。

 故郷の誇りである古関裕而、ふるさとで名誉を受けることになった。その場合は、ふるさとを誉める、自分の曲はふるさとなしには生まれなかったと。これを聞いて聴き手は感動した。やはり、有名人である、その場でどんな挨拶をしたらよいか分かりすぎるほどに分かっている。

「あのな、ホームランを打ったときお立ち台に上がる、自分が頑張ってホームランを打ったというのは禁句だ、まず、第一点、皆様のおかげだという、第二点はアバウトにいう、幸運なことに当たったという、そして最後だ、これが大事だ、『これからも応援をよろしく』だ、いいか極意は自分を出してはいけないのだ」
 手練れの監督は新人にいいきかせる。

 古関裕而は半世紀あまりも代田で過ごした。「根津山や北沢川を思い出した作曲してきました」と言っても通じない、が、本当は心のうちで思っていたろうと思うのである。

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2022年05月02日

下北沢X物語(4478)―「長崎の鐘」はどこで作曲されたのか?―

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(一)言霊があれば音霊もある、歌は作られた土地の霊と共鳴して響くのではないか。古関祐而作曲、「長崎の鐘」は世田谷代田で作られた。彼は当地では三回転居している。二度目の転居先代田1丁目408番地時代に産まれている。「古関祐而の代田を歩く」では何度か案内してはいるものの場所は示しても音霊が響いてこない、その場所への疑念があった。が、ついこの間、音霊の響く箇所が明確になった。先の土曜日のことだ、会報第190号を事務局の邪宗門に届けたとき奥谷民雄さんと出会った。彼は旧408番近くに住んでいる。作曲家の旧居は煙草屋の古老が覚えているかもしれないと言う、何はさておき検証一番、即座に今井雄一宅へ我らは直行直撃した。が、彼は「そこに住んでいない」と言い張る、「今ではなくて昔のこと」と何度も言うが通じない。昔と今とがごっちゃになっている。質問を変えた、「空襲のとき根津山防空壕に避難しましたか?」と聞くと。「ビンゴ!」と言う、これで記憶に火が点いて、「長崎の鐘」の作曲場所は探り当てられた。

 毎月、月末、会報を印刷して届ける。いつもこれを待ってくれている人がいる。橋本さんだ、B5版を郵送するために三つ折りにする。彼はこれを折るボランティアだ。いつも彼は、その日がいつか聞いてくる。折って会報を封筒に入れる、自分がやらねばならない仕事と固く心に決めている。
 橋本さんだけでなく、他の人もやってくる。
  
「今日初めて来られて会員になってくださいました」
 これは邪宗門の作道敬子さん。入会されたのは奥谷民雄さんだ。
「鉄道の信号屋ですよ」
「えっ、そうなんですか!」
 頂いた名刺には鉄道技術研究所とある。理系の人だ。私は鉄道は好きだ、が、情緒的だ。
こちらは鉄道文学系だ。
 小野十三郎に『出発』という詩がある。米原駅で待機していた機関車が出発する場面がある。

ガチン!と北陸へ
ポイントは切り替えられ
前方で
鋭い尖端軌条の切っ先が
月明かりの大地を牽いて動いた。


 信号が赤から青に変わって、ポイントが変わる。いよいよ出発だ。彼の話を聞きながらこの詩を思い出していた。

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2022年05月01日

下北沢X物語(4477)―会報第190号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第190号    
           2022年5月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、戦前にあった三軒茶屋の音楽学校 きむらけん

 世田谷代田に帝国音楽学校があった。こちらは昭和2年小田急開業時に開校している。多くの音楽家を育てた正統的な音楽学校だ、こちらはよく知られている。一方、代田の東南方向にある三軒茶屋には歌謡学校があった。戦前の昭和14年4月に設立されている。三軒茶屋は庶民の町、こちらには歌手を育てる音楽学校である。
 学校は、広く全国から生徒を集めようとしたのだろう、名を「国民音楽院」と言った。歌謡曲の歌手を育てる学校である。設立場所は、三軒茶屋165番地である。大山街道と世田谷通りが分岐する、いわゆる三軒茶屋の三角地帯である。角には三軒茶屋の一軒、おしゃれな茶寮石橋楼があった。ちょうど音楽院はこの裏手にあった。当地では一番繁華なところにこれが建った。
 
 創設者は、作曲家の江口夜詩である。彼が作曲した曲として知られているのは、「長崎のザボン売り」、「憧れのハワイ航路」、「赤いランプの終列車」などである。
 彼は昭和7年11月に大塚から三軒茶屋235番地に引っ越してきている。「国民音楽院」の創設は、7年後のことであることからすでに三軒茶屋には馴染んでいた。
 歌謡学校は、歌手をめざす青少年を育てあげる学校である。地方から来る者を集めて教える学校だ。常識的に考えると山手線沿線の新宿や渋谷などが若者を集めるのには好都合だろうと思われる。しかし、あえて音楽院を三軒茶屋に開いた点は興味深い。
 当時、三軒茶屋は軍都だった、当地には近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊、野戦重砲兵第8連隊の兵営が大山街道の南にびっしりと軒を接して建てられていた。町は兵隊で活気づいていた。そんな町に歌謡学校が設立された。
 一つには玉川電車が通る郊外都市として知られていた。多くは地方からやってくる。これからを歌手として生きて行こうという若者だ。課題は生活費だ、下宿代、食費、学費がかかる。これは低廉であることが望ましい。その点、三軒茶屋は物価も部屋代も安い、と言うことが勘案されて当地での開業が決まったものだろうか。
 当時流行っていたのは軍歌である。江口夜詩作曲の「月月火水木金金」は昭和15年に出来ている。19年には「轟沈」が作曲されている。町に流れていたのは多くは軍歌だ。
 「石橋楼覚書」(三軒茶屋石橋楼−三軒茶屋石橋楼発行 2006年5月刊 山本澪他)にはこの「国民音楽院」のことが記録されている。

 歌 歌を教える教室が仲見世の二階に店開きした。江口夜詩音楽事務所。白いガラス文字の居心地の悪さは早すぎたのか。つかの間を謳歌する女たちの城。

 「女たちの城」というのは女性が中心だったということを指す。が、開設時の記念写真がある。これに女性が何人写っているか。十人である。男性が約二十五名だ。多くが男性だった。知られている人物は、作曲家の高岡信行、作曲家の宮田東峰、作曲家の倉若晴生作詞家の高橋掬太郎などだ、歌手としては瀬川伸、小畑実、真木不二男、津村謙などがいる。真木不二男はここで育った歌手である。
 仲見世は今も三軒茶屋の三角地帯に仲見世通りが残っている。ここの通りの二階に開設された。通る度にきっと歌声が聞こえていたのだろう。当時三軒茶屋の名物でもあった。
 昭和14年に開校した。が、時代は戦争へと向かっていく、何年頃まであったのだろうか。戦争になると歌舞音曲の禁止されるようになる。昭和19年3月には多くの劇場が興業を中止している。国民音楽院もこの頃には募集も中止したのではないだろうか。
 休止した学校であるが、戦後になって、昭和31年3月に新宿区柏木に江口夜詩は日本歌謡学校を設立する。その時の生徒数は240名だったという。
 三軒茶屋時代の様子はよく分からない。が、主宰者の江口夜詩がここで育った真木不二夫のエピソードを記している。真木の本名は、小谷野章である。

 小谷野が国民音楽院に入校した頃の様子を、江口はのちに次のように振返っています。
「下駄履きに国民服という出で立ちの十八、九の青年で、軍隊言葉でまことにテキパキと物をいう好青年であった。名は小谷野章といい、単に歌が好きだというだけで何ひとつ満足に歌えず、もちろん楽譜等に関する知識は皆無だった。
「これは厄介な者が来たわい」
とは思ったが、何しろ開校第一番のお客様だから、こちらは喜んで入学を許可することにした」
 母親が買ってくれたアコーデオンを楽譜を見ながら練習していたはずの小谷野でしたが、東京音楽学校出身の江口から見ればズブの素人としか思えなかったのでしょう。
 同門には松平晃、小畑實、津村謙らがいました。それから丸4年の間、江口によれば小谷野は「雨が降っても風が吹いても毎日欠かさず」音楽院に顔を出し、勉強に励みました。やがて当時日本を代表する名テナー・奥田良三 (1903〜93) にもクラシック声楽の基礎を学ぶようになり、天性の才能に磨きをかけて行きました。 


国民音楽院が三軒茶屋に存在したのは短期間だった、昭和14年に開校したときに全国から歌手志望の若者が集まってきた。そのうちの一人が岩手から上京してきた真木不二男である。彼は懸命にここで学んだ、その労苦が実って歌手デビューができた。三軒茶屋で育った歌手である。ヒット曲としては、「泪の夜汽車」「パラダイス東京」、「泣くな片妻」、「霧の港」、「泪の連絡船」、「丘の上の白い校舎」、「空が晴れたら」などがある。
 おもしろい逸話がある。昭和30年に出した「東京へ行こうよ」が発売禁止となった。
「都会に憧れ家出をする少年少女が現れ出し、こうした家出奨励のような歌は好ましくないという理由からだ」
 その彼は短命だった、昭和43年に49歳で亡くなっている。

2、若林のカムカムおじさん Hisamoto Hiroshi

 朝ドラでは「カムカムおじさん」が取り上げられている。平川唯一である。この彼は我らのフィールドワーク圏内に居住していた。世田谷若林である。この本山を何度か町歩きで行ったことがある。
「カムカムおじさんの家の敷地は広かったのですが、今は分割されてしまってね、別の人の家が建っていますよ」と近くの人は言っていた。
このカムカムおじさんの情報が、「東京荏原都市物語資料館」のコメント欄にあった。興味深いものだったので記録としてこれを転載するものである
    
 およそ半世紀前の世田谷区若林。
 淡島通りを渋谷方面から環七通りに向かって進み、若林陸橋の手前を左折した所に平川さんの自宅があり、そのガレージを改造して黒板と長椅子を並べて「カムカム英会話」という教室が開講されていた。
 私は小学校に通い出す前後に、縁あってそのカムカム英会話教室に通っていた。当時の先生は唯一さんの2人の娘さんが中心になり、ウクレレを持って歌いながら英語を教えてくれたのを覚えている。その先生の一人をメリー先生と呼んでいたことも、唯一さんの奥様であろうと思われるおばあちゃんがいらしたことも覚えている。
 教室の生徒にはみんなイングリッシュネームが付けられ、私はチャールスという名前で呼ばれていた。テレビドラマ同様に、レッスンが始まる時と終わる時にはウクレレを伴奏に「カムカムエブリバディ、ハウデゥユドゥエン・・」と歌っていた。
 懐かしい!


3、第30回(2022年度) 『まちづくり活動部門』公開審査会

 日時:2022年 6月5日(日)
 私たちは、世田谷トラストまちづくりに助成を申請している。これについては、プレゼンを行い、公開審査される。場所は未定である。会員の存在を知らせるということもあります。時間のある方はぜひ出席してください。財団、HP参照のこと。
https://www.setagayatm.or.jp/trust/fund/application_new.html

4、町歩きにおいでなされ

 「死ぬまで歩きたい」、前に九十歳になる人が町歩きに参加されて言っていた。素晴らしいことばだ、人間は歩くにかぎる!
 われらは毎月、町歩きをしている。すでに回数は今回で174回目である。この間、臨時的なものも入っている。これらを勘案すると参加者延べ人数は二千人に達するのではないかと思われる。この町歩きの目的はただ一つ歩いて楽しむことにある。
 我らの会には文化の水先案内人が多い。その多くが参加者から出ている、嬉しいことである。我らの町歩きは文化発掘小旅行である。その中で、定番コースも幾つも育ってきた。「森茉莉を歩く」もその一つである。
長い間、私が行ってきたが今回、引き継いでくださるのが磯田充代さんだ。文化伝承はとても大事なことです。ぜひ町歩きに参加してください。先回の町歩きで宣伝したところすでに三名から応答がありました。みなさんもよろしお願いします。

5、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)
 
第174回 5月21日(土)森茉莉の足跡を歩く
 案内者 幾田充代さん 小田急線梅丘駅改札前 13時集合
概要:森茉莉は境涯を淡島で送った。彼女の生活痕跡や作品に描かれた場面を歩き回って確かめる。最後は、森茉莉の書斎、「邪宗門」に行く(飲み物代各自負担)
コース:梅丘駅→小堀杏奴旧邸→萩原葉子旧邸→若林陸橋→若林邸宅街(ギドウ・パウロ)→三好達治旧居→倉運荘→代沢ハウス→代沢湯→「恋人たちの森」冒頭描写とバームクーヘン→森茉莉の執筆部屋「邪宗門」


第175回 6月18日(土)代々木上原から下北沢:沿線文化を歩く
 案内者 赤坂暢穂さん 代々木上原駅改札前 13時集合
概要:明治から現代までの当地の地域的な変容の特徴を、実際に現場を歩いて観察し、地形・地物・居住人等から考えてみたい。*当日雨天の場合翌日に延期。        コース:代々木上原駅→古賀政男音楽博物館→東京ジャーミー→徳川記念財団→大山公園→JICA東京、製品評価技術基盤機構(NITE)→上原川水源の池→東京消防庁消防学校(元・インドネシア留学生会館)→旧玉川上水跡緑道→ファースト・リテーリング会長柳井正邸 →オースティン博士旧邸→旧北沢小学校(現・池之上小学校)→三田用水分水→茶沢通り→北沢公園・矢吹申彦宅→東北沢駅→reload→下北沢駅東口

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                
▲投稿原稿を募集しています。エッセイ、文化論など。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ
(写真は、北沢川文化遺産保存の会190号の発送に協力してくださった方々、「邪宗門」)



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2022年04月29日

下北沢X物語(4476)―台湾出撃沖縄特攻〜陸軍八塊飛行場〜2 ―

ヘリコプター時代の写真米兵と
(一)支流にこそ真実は潜む、長年の文化探訪で得た発見だ。近隣に九品仏川という支流がある。「流れ行く大根の葉の早さかな」は比較的知られている。教科書に出てくるからだ。実は、これは九品仏川で詠まれたものだ。成る程、五七五で土地の固有性が見事に言い表されている。沿岸は大根畑だった、降雨時には小川も瀬の早い急流となって目にも止まらぬ早さで大根の葉っぱが流れていく。陸軍八塊飛行場も戦争の支流だ、誰もこんな飛行場は知らない。当初は不時着用の簡易滑走路として造られた。が、沖縄戦が終末に近づくに連れ重要性を増してきた。そしてここから多くの特攻機が飛び立った。出撃者数で台湾では二番目に多い飛行場となった。日本戦争史の一支流が台湾八塊陸軍飛行場だ。

 コロナ禍で訪台は叶わなかった。が、やはり大事なのは文化、土地の固有性である。空気の匂いを嗅いだり、土地の人情に触れたりするのは大事だ。フィールドワークができないことは大きな弱みである。

 記録や情報を頼りに調べていくとやはり台湾の文化に突き当たる。特攻隊員たちはここの空気に触れて特別な思いを持った。

 日本兵の行状を記した邱 垂棠さんの回憶録「足跡」に、

 和我熟悉的近藤曹長向我打聽可否租一塊田地,留台灣農夫

 とある、戦争が終わってどうしようかというときに近藤曹長は、台湾に土地を借りて農民として住めないかと聞いてきたという。日本に帰らずに気候のよい、人情もある台湾で暮らそうと思ったようだ。近藤曹長が感じた台湾の空気感は大事だ。

 役に立つのはやはり、経験であり体験である。じつは二十数年前に台湾を訪れていた。鉄道好きの旅行会社の添乗員と台湾の汽車旅をしたことがあった。その彼は若くして亡くなった。

(二)
 今もそのときの印象は残っている。多くの年配者が日本語を話せたこと。田舎町の駅に行くと懐かしさで気持ちが熱くなった、かつての日本の田園風景がそのまま残っているように思った。特攻隊員たちもこういう台湾の空気に馴染んでいた、と思った。

 今回取材の過程で飛行第二〇四戦隊の、特攻出撃前の送別会の写真が手に入った。明日は出撃というときに皆とびっきりの笑顔を見せて笑っている。不思議なほどだ。台湾熱に浮かされている特攻隊員たちを思った。
 彼等はその仲間を戦争で多く失っている。仲間が恋しい、日本に帰ったのちにただちに戦友会を結成した。
「いいか、二〇四は、我ら戦隊の重要な数字だ、だからこれに合わせる、毎年二月四日に上京する、そしてこのときに靖国神社にお参りをする!」
 この逸話を聞いて自分で想像を巡らせてこう書いた。

 何があっても毎年二月四日に東京に集まってくる。ある者は東北から急行「津軽」で、ある者は九州から急行「高千穂」で上京した。ネクタイを締めた男たち、色は黒く、額には深い皺が刻まれていた。九段の急坂を神社へ向かうとき大鳥居が見えてくると誰もが一礼をした。

 今回、取材しているときに、この隊の関係者がおられて、「飛行204会名簿」をいただいた。昭和60年1月発行だ。もう三十七年前のものだ。

 作中に名を記した人の電話番号が載っている。時間が過ぎ去ったことも忘れてダイヤルを回す。…………「この電話はもう使われておりません……」
 飛行二〇四戦隊に限らず、多くの戦友会や同期会は解散してしまった。構成員が物故したり、老齢化したり、全員討ち死にして自然消滅した会もある。それが現実である。
戦争は、すっかり遠くなってしまった。

(三)
 自身、熱中派だ、つい入れ込んでひたむきに特攻物を書いている。「やっぱり特攻隊員の霊魂が憑いているんですよ」と皆言う。そうなのだろうか?と思う。
 
 「台湾出撃沖縄特攻」、調べれば調べるほど分かってくることがある。台湾ならではというのもある。台湾各地で奮闘したり、奮戦したりして多くの人が亡くなっている。八月十五日を過ぎて、将来に希望を失った特攻隊員がピストル自殺したり、軍刀で自刃したりしてもいる。そういう人々のことを記録することが、供養ではないか、と今は思っている。
(写真は、国軍時代の邱 垂宇さんと米兵)

〇お知らせ
 明日、4月20日、会報第190号を印刷し、邪宗門に持参します。大体二時ごろです。気が向いたらおいでください。




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2022年04月28日

下北沢X物語(4475)―台湾出撃沖縄特攻〜陸軍八塊飛行場〜―

足跡 (2)
(一)物語も建築物である、普通は設計図を書いてから取り組むものだろう。が、私の場合はいつも出たとこ勝負である。思いつくままに筆を運んでしまう。近々やっと新しい建築物ができあがった。当たり前だができあがると全貌が見えてくる。どうも八階あたりが気に掛かる。説明が目につくからだ。人は解説は読みたがらない。退屈させないような工夫が必要である。ちょうど八階あたりは終末である。戦争の終わり部分だ、ここで台湾「第八飛行師団の特攻の総括」をしている。思いついたのはここを省くことだ。バッサリと切って逸話を入れる。戦争が終わって人々は途方に暮れた、若い特攻隊員たちの多くは自決している。ピストルだったり、軍刀だったり、こういうエピソードが大事である。

 特攻隊を素材にしたものは今度で六冊目だ、好きな終わらせ方というのがある。旅を結末とすることだ。前作は鹿児島から帰京する場面を最後とした。特攻機の逆コースである。結節点は名古屋である。ここは鬼門であり、関門だ。今度の場合もここに引っ掛かってきた。

 前からの課題だ、私に特攻兵の霊魂はついているのかどうかだ。もう亡くなってしまったが鉛筆部隊の田中幸子さんは、私に彼等の霊魂がずっと憑いている、それは絶対に間違いのないことだと言っていた。

 言えば名古屋は関門、私が素材として扱ってきたのは武剋隊と武揚隊だ、満州新京で発足し、沖縄出撃に備えて名古屋まで来た、ここが運命の分かれ道だった。

 特攻機は出撃するために機を改造せねばならない、満州発足の機が名古屋にきたのはこのためだった。1945年2月だ、米軍の空の跳梁はもう始まっていた。B29による空襲だ。結局これを避けて、各務原で爆装をするはずのところ、松本へ進路を変えた。
 これは大きな転換点だ、「特攻隊員の因縁が絶対に憑いている」ということも、名古屋での岐路選択が関係する。彼等が各務原で爆装改修をしていたら、私はここ十数年別の人生を歩いたように思う。
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2022年04月26日

下北沢X物語(4474)―プレゼンは格好よく決める―

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(一)雨の日も普段と変わらずに保育園児を外遊びをさせている。その先生は英語で指示している。外国人の保育士である。予想できるのは月謝も安くないだろうということだ。が、親は子どもが大きくなれば英語は必須だということを知っていて預けるのだろう。裕福な家庭でないとできない。これとは反対に自学自習的な保育グループも駒沢では見かける。雨の日には屋根のあるところで子どもらを遊ばせている。園に預けないで自分たちで子を学ばせているグループだ。が、どちらも見識を持って子どもらを教育している。こちらの場合は、子ども同士の遊びを重視しているようだ。子どもは他と交わって成長する、親がついていなくてはならないから大変だ、しかしこの教育法も素晴らしい。

 駒沢で見られる教育法は、従来の教育では子は育たないのではないかという親の見識があるようだ。日本の学校では自由に育たないのではないかという危惧を持っている親ではないかと思う。

 日本での学校教育は一律的だ、皆同じことをしなくてはならない。そうしないと弾かれる。何よりも規律が重んじられる。中学では下着の色まで指定される。新聞の見出しにこういうのがあった。

「下着の色は白」校則で指定、市立中の8割…「廊下でシャツ開け確認」「違反して脱がされた」

 学校は不自由なところである。
 アメリカの学校における円形教育、日本の学校における四角形教育、前者は机を円形に並べて、問題を自由討議させる。後者では、自由討議はほとんどない。教師が教壇に立って教えを授け、生徒は生徒で板書された言葉を懸命に書き取る。
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2022年04月25日

下北沢X物語(4473)―駒沢:どろんこ遊びの子どもを見て―

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(一)人は日々景色を貯めて生きている。町角風景、自然風景、人間風景、なかんずく人がおもしろい。格別なのは子どもだ。「先生ダンゴムシ!」、「先生アリンコ!」、「青い電車!」などと言ったり指さしたりする場面はかわいらしい、人生の勉強中なんだとこちらは目を細める。前から感銘深く思っていることがある。普通保育園児は雨の日は見かけない。ところが駒沢公園では晴雨に関係なく彼等を見かける。皆、雨合羽を着て遊んでいる。引率の先生は日本人もいるが外国人が多い。ボールを追っかけたり、かくれんぼしたりしている。見ていると円形に並ぶ場合が多い。教育の根幹を思った。外国の場合は円形教育だ、が、日本の場合は、四角教育だ、教室での机の並びではもっぱらこれだ。丸と四角に教育の在り方を思った。

 先だってテレビではマスク論議を話題にしていた。諸外国ではマスクを止める国が多くなっている。ところが日本ではそういう議論はほとんどない。街に出ても全員がマスクをしている。こういう状況について問われた識者。
「やはり日本には同調圧力というのが働いているのでしょうね、みんなしているから自分もする」
「マスクに慣れてしまって取るのが怖いという人もいるようです」
 アナウンサーが言う。
マスクをするしない、ここに国民性が出ている。「出る杭は打たれる」、日本ではなかなか人と違ったことができない。皆一様にしなければならない。ここから外れると、「村八分」にされてしまう。我々は孤立に耐えられない民族だ。

 坂口安吾は『堕落論』の中で、「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう」という。孤立すると弾かれる、それを嫌ってみんな一緒でみんないいとなるのか。

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2022年04月23日

下北沢X物語(4472)―空川の谷の石田波郷― 

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(一)最近発見したことは俳句の手練れが住んだ町は景色が引き立つということだ。空川の文化を訪ねることで分かったことは、この沿岸に石田波郷が住んでいたことを知った。下北沢文士町の居住人に加藤楸邨、中村草田男が居た。石田波郷もこの二人とは仲間である。『俳句に於ける人間の探求』は加藤楸邨が言った言葉だ、俳人の系統で言えば、いわゆる生活探求派である。何のこともない三俳人は北沢川水系に起居していた。詩人の中でも俳人は景にこだわる。三人ともに景をよく詠んでいる。短詩でぎゅっと凝縮して多くの景を詠んでいる。地名で言えば加藤楸邨は下代田、中村草田男は北沢、石田波郷は駒場である。好んでこの地域に住んだ、広く言えば武蔵野だ。ここの風光があったらこそ俳句の文学性が豊だったのではないか?と思った。

 石田波郷は空川沿岸に住んだ。彼の書いた随想を読むと、ここの風光が気に入って住んだように思われる。石田波郷は昭和13年6月26歳のとき駒場町761駒場会館アパートに越してきた。

 前は東京に出て来て以来神田に住んでいたようだ。が、転居を考え、「市川か世田ヶ谷の外れに引っ越そう思って」居たようだ。彼は、結局は駒場に越してきた。しばらく経ったのち、近所の奥さんがこのような話をしていた。

「この駒場のアパートに入ったのは去年の六月であるが五月の末方に探したが思わしいのが無く或日疲れて電車に乗ると電車の若葉越しにの高台に赤い屋根のアパートらしいのが目に入ったのでやってきてみるとそうであった」
 『駒場にて』渦潮 昭和十四年九月号


 駒場になぜ引っ越してきたか。石田波郷は興味深く思って他人の引っ越し動機を記しているが、共鳴するところがあって記したものだろう。

 当時は帝都線と言った。石田波郷もほとんど同じ理由でここに越してきたのだと思う。
この線は、結構おしゃれな線だった。
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2022年04月22日

下北沢X物語(4471)―空川の谷の歴史と文学― 

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(一)空川とは名がつくが、ほとんど無名に近い小川である。駒場は目黒区だ。ここの中央図書館で調べてみた。川をトピックとしている文献は見つからなかった。しかし、記録にはなくても空川物語はあるはずだ。この谷の特徴はV字谷だ、左岸は深い。旧石器人は空川に水汲みに行って多くが谷に転げ落ちた。後に御狩り場となった。将軍は谷を下って御用屋敷へ向かう、「お殿様の手綱を引くときは馬の谷足にぴったりと寄り添い、一歩一歩誘導しろ、馬が蹴躓こうものなら打ち首だぜ」と親方は馬子を仕込んだ。次の大事件は駒場野一揆だった、御狩り場を軍事演習場にするという案に対して近隣農民は反対ののろしを上げた。この時に土地勘のない幕府役人が空川の谷に転げ落ちて負傷した。駒場の谷は深いのである。こういう句がある。「一高へ径の傾く芋嵐」、「径の傾く」は、これはこの谷である。空川文学の一端である。

 空川、命名逸話の片をつけておこう。
 空川は土地の地主の名を取って名づけた、これが文化人類学者の推測だ。駒場の谷から駒場池に向かう途中、「あった!」との声、見ると「曽良」と表札のある家だった。
 「『曽良』は『空』に通じるでしょう、やっぱりピンポンして家人に確かめるべきね」と女史。門前でためらっていると若い男の子が出てきた。
「この苗字はソラと読むのですか?」
「違います、『かつら』です」
 一同はそれを聞いてがっかりした。
「珍しい名ですよね、お宅の出はどこですか?」
「大島です」
 二階のベランダにいた女主人からの返答があった。「空川」、「曽良」説は潰えた。

「空川は、全体に水量が少なかったと想像されます、水でいつも満ちてはいない、水なし川、それが空川の語源ではないでしょうか」
 これは地理学者の推論である。
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2022年04月20日

下北沢X物語(4470)―空川を歩きながら戦争を考える― 

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(一)連日、連夜、戦争報道が続く。昨日のニュース報道中に、惨殺のあったブチャの戦闘に加わった兵にプーチンが勲章を授けると。すると女性アナウンサーが涙を流して言い淀んだ。尋常でない狂気が渦巻いているようで恐怖を覚えた。テレビでは戦争討議も百花繚乱、が、いずれも隔靴掻痒、何言ったところで当事者に言葉は届かない、が、この頃は識者もトチ狂ってきた。ロシアが北海道に攻めて来るかもと、メディアも常軌を逸している。多くの討議者が防衛族である。こういうことがあるから国を守らねばと。防衛力の強化、そして平和憲法からの脱却、ウクライナ侵攻を材料にして軍事優位の国にしようとしているとしか思えない。果ては国防費をGNP比2パーセントにしようと。懲りずにこの国家は戦争への道を歩もうとしている。戦争がどんなに悲惨なものだったか、人々が忘れてしまっているところはもっと怖い。物価高も怖い、今日、どら焼きが十円値上がりしていた。

 空川は、深い歴史を刻んできた川だ、左岸の台地の裾を洗いながら流れている小河川だ。上手から押し寄せてきているのは淀橋台、下末吉面、いわゆるS面だ。怖ろしい歴史を持つ台地だ、すなわち12万年前に関東を覆っていた海が後退し、海底が陸化して下末吉面となった。縄文時代一万年前でも気が遠くなってしまうが、12万年前と言われるともうちんぷんかんぷんだ。

 空川源流部の左岸台地は東京大学駒場で、この構内敷地全体が遺跡である。「東京大学駒場構内遺跡」である。長期に亘って古代人はここを使ってきた。[旧石器時代][縄文時代(草創期〜早期・中期・晩期)][平安時代][近世]。これほど長く続いたのは住みやすかったからであろう。空川は今でも湧水が湧き出る源流部が三つもある。彼等古代人とってこの湧水は必須のものだったに違いない。

 時代の流れは言葉で表記される。旧石器、縄文、弥生と。時代は連綿と続いてきたかのように思う。

「旧石器、縄文、弥生と続きますが、時代時代で違うのですよね。使う道具がまず違ってきますから……」
 これは文化人類学者の話だ。我らは連綿と時代が続いてきたかのように思うがそうではないと。
 縄文の一万年は別格だ、遺跡発掘でも弥生になると首のない遺骸がごろごろ出てくるという。弥生は米が採れるようになった、これは貯蔵できる。財産だ、こんどはこれが狙われる。ゆえに住まいの回りに環濠が巡らされる。

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2022年04月19日

下北沢X物語(4469)―空川の歴史と文化を歩く―

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(一)のっけから素晴らしい空中戦が始まった。「空川」の地名の由来はとの質問が飛んできた。うん、確かに近隣の川の名と違う、この間歩いたのは烏山川と北沢川だった。これは理解できるが空川は言われてみると不思議だ。地理学者は着目点が違う。が、今度は文化人類学者がそれは「曽良」から来ているのではと応じた。芭蕉のお供の曽良と同じだというのでまた騒ぎになった。「奥の細道では弟子の曽良は芭蕉についていったが金沢で喧嘩別れをした」と五街道を歩き切った街道の達人が応じる。これはおもしろい。が、なぜに「空」が、「曽良」なのか、彼女もフィールドワークの達人で、このあたりを歩いたという。「古い地主だと思われる家の表札に曽良とあったのですよ。その名から来ているのではないか」と。参加者には知恵者が多くいて、議論ははずんだ、これが町歩きの楽しさだ。

第173回の町歩きは「空川の谷の歴史と文化を歩く」である。16日に実施した。案内者は梶山公子さん、集合は井の頭線駒場東大前駅である。

 このところ川の文化に関心を持ち、この間は、烏山川と北沢川を歩いた。今回のはこの連関である。北沢川の北の谷間に流れている空川の文化も尋ねようという試みだ。

 短い川だ、長さは三キロぐらいではなかろうか、下って目黒川に合流する。歩いて分かることだが谷が狭い、V字谷で続いている。が、沿岸は歴史に富む。左岸の台地は、将軍家の鷹場であった。江戸から明治になってこの台地状に学校ができる。農科大学である。

 空川は鷹場や農科大学の縁を流れる川だ、この川左岸の尾根筋にはもう一つ別の流れがある。三田用水である。

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2022年04月17日

下北沢X物語(4468)―東京高校南台空襲総集編― 

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(一)「人間は後時間を優位に捉える思考構造になっている。しかし、進歩とか発展は決して人類に有益には働いていない。真摯に歴史から学ぼうということはしない。人間は好き放題、勝手し放題に歴史を作ってきた。」昨日、文化人類学者と町歩きをして話したことだ。さて、フィールドワーク今回でお終いにする。/東京東部への無差別攻撃は1945年3月に続き、5月24日、25日も東京西部にも行われた。これによって東京全体は灰燼に帰し「東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」、首都が陥落したのである。が、戦争はすぐに終わらなかった。8月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下されて、ようやっと戦争は終わった。戦争は一旦始まると、なかなか終わらない。

 山の手空襲において避難場所であった東京高校には人々が大勢逃げ込んで来た。四面楚歌、歌ではなく火炎、炎熱が襲ってきた。多くの犠牲者が出た。が、校地境界の北側の土手が多くの被災民の命を救った。その経過を記録したのが、鉄石 孝雄さんの「一望千里、焼け野原」(『東京大空襲・戦災誌 第二巻』)であると述べた。その残りの部分である。

 「もうダメか?」私も半ば観念しかけしかけてきたが、北側を見やったとき疎開跡を隔てた向こう側で民家が燃え落ちるのが見えた。四方から迫って来た火の壁はとうとう最後の中心点に達したのだ。「助かるぞ」 反射的に跳ね起きた私は荒々しく怒鳴った。「命が助かりたければ、家財道具をみんな捨てろ」声に応じて数人の青年が立ち上がった。布団、大八車、つづら、手当たり次第に燃えているのを疎開跡まで引きずっていっては捨てる。火の粉のまといつく布団包みしがみついて拒む婦人も命には替えられない。 心を鬼にして突き倒し、力づくで奪い取って捨てた。

これを読んで分かるが、被災民は皆荷物を抱えていた。ここに人々の、東京大空襲からの学びがある。「逃げないでともかく消すこと」ということで火災に対処した、ところがこれが裏目に出た。焼夷弾火災は消せない、火災が起こったら「ともかく逃げろ」だった。ところが着の身着のままでは逃げられない。持てる物を持って逃げた。ところがこれに火がついて身の危険が迫った。それで家財道具を方南通りの向こう側の建物疎開跡地に運びこんだ。被災民は一致協力して邪魔なものを片付けた。

(二)
  どのぐらい経ったか、あたりは静かになってきた。完全に崩れ落ちた校舎からは、残り火がチロチロと舌を出している程度で大したことはない。危険が去ったことを確かめねばならない。私は意を決すると、土手をのり越えほの暗い校庭へ一人入っていった。

 土手に沿って一列に植えられた立木のそばを通り過ぎようとしてふと見ると残り火の反射の中に男女のみさかいもつかぬ人体がミイラ状に炭化して立木によりかかったまま立往生をとげている。ギョッとして足もとがお留守になった。二、三歩ふみ出したとたん、今度は何か蹴つまずいた。瞳をこらせば、校庭のあちこちに点々と黒い丸太のような焼死体が横たわっているではないか。どんなに苦しかったことが。 胸を締め付けられるような思いで手を合わせ、焼死体を避けながらプールの側まで進む。そこにはいつもの空襲と同じように、火に追われ最後の逃げ場を求めて飛び込んだ人々が、窒息したのであろう。もの言わぬ死体となって水面に見え隠れしていた。

 煙で空は暗いけれども空襲は終わったのだ。もう危険はない。土手の上に立つと、私は腕時計をすかして見た。そしてボロボロに焼け焦げて二〇人もいるだろうか?死んだようにうつぶせになっている人々に呼びかけた。「皆さん、いま午前五時です。もう夜が明けます。助かったんです」 みんな泣いていた。
夜が明けてから焼死体の収容は急速に進んだ。周辺の防空壕やプール、干上がって空になった防火水槽の中から、路上、校庭から正視するに忍びない姿に変わり果てた死体が次々と焼けトタンの上に乗せられ、トラックで運び出されていった。

 
 犠牲者の遺体は校庭だけではなくに防空壕に防火水槽に路上に点々と転がっていた。悲惨な叙景である。一望千里、東には筑波嶺が、西には富士や丹沢が見えた。

(三)
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 最後にもう一つの証言を載せておこう。東京高校には大きな防空壕があった。

 庭内にはとても大きな防空壕があり壕の中にも入るよう怒鳴っていた。 ごった返す中でやっと姉達とも会え、校内に押されるように入り、壕の中もたちまち溢れ、校舎の脇に軍用専用トラックが7〜8台並んで止めてあったので、ひとまず息を凝らし、車の影に身を隠していた。そのうち正門に火が点き、裏門にも火が点き母は意識的に壕を避けた。 重い私をおぶっての避難だけに母は避けた。 しかし、言葉に言い表せないほどの恐ろしさを感じていた。 軍用トラックにも火が点き爆発。あっちでもこっちでも爆発。 周りは火の海に今度こそ万事休す。 今ですからこんな表現をしますが、
『ああ南無三』
その時、奇跡が起こったのです。 風向きが変わり、東南に向かって火の手は狂ったように勢いよく燃え上がり、多くの人たちが校舎の周りの土手に殺到しました。土手の上は幾重にもなっている鉄条網に囲まれており、その上に向かって這い上がりなだれ落ちた。 今思うと、よくもあの悲惨の中から助かったものと心から感謝いたしております。これはとても有難い。やっとの思いで、学校の外側の土手にたどり着き、そこには病人やけがをした人がびっしり張り付き助けを求めております。お気の毒でしたが、私たちも命がけですから。そんな中をこけつまろびつ踏み越え乗り越え真っ逆さまにずれ転がり落ちてどうやら道端に出ることができました。
『語り継ごう 平和の尊さ』 「あの戦争と私の母」 
 笹塚在住 門 保衛さん(五十八歳) 渋谷区教育委員会発行 1996年


やはり校庭北側にあった土手によって大勢の人々の命が救われたのである。
今回のフィールドワークは現場を確認し、また、記録を点検する機会となった。これらのことを戦争伝承として伝えていってほしい。(現、東大附属校庭)




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2022年04月16日

下北沢X物語(4467)―東京高校南台空襲フィールドワーク 5―

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(一)「退職して以来、わけもわからずに穴を掘っていたのですよ。ところが後で分かってくるのですね、穴と穴とが繋がっていることを、それが文化であり、歴史だと知ったのですよ」とフィールドワークに参加した卒業生の佐藤容子さんに話した。その穴の一つ、南台4丁目に住む秋元佳子さんに昨日電話をした。「ああ、多田神社ですか、あそこの近くにポンポコ山があってよく遊びました。防空壕がありましたね。東大附属、あそこは空襲のときにみんな逃げ込んだのですよ。それでグランドやプールで大勢の人が焼け死んだのですよ」88歳の彼女の弁だ。「この間、下北沢に行ったのですよ。駅前、びっくりしましたよ。全く違う町に来たかと思うくらいでした。何しろ電車が通っていないのですよね。私なんか宇宙からやってきた人みたいに思いました」

 彼女は下北沢で生まれ育った人だ、一番街の染め物屋「きくや」の娘さんだった。通っていたのが東大原国民学校、今の下北沢小学校だ。この学校は浅間温泉に疎開していた。宿泊していたのは富貴之湯旅館。ここに、特攻隊、誠第三一飛行隊がやってくる。彼女はそのときのことを鮮明に覚えている。彼等がたった一回しか歌わなかった「浅間温泉望郷の歌」を全部覚えていた。

 松本浅間温泉滞在時のことは彼女は何でも覚えている。今まとめている物語で事実確認の必要から電話をした。
「泊まっていた富貴之湯にはピアノかオルガンはありましたか?」
「ピアノは覚えていませんが、オルガンはありましたよ」
「いやね、なんで聞いたかというと武揚隊は、『隊歌』を作っているのですよ。高畑少尉と五十嵐少尉とが協力して作っているのです。記録にそうあったのです。これを読んで思ったのは歌は飛行機の中では作れない、温泉でだったら作れると思ったのです。二人合作ならばピアノかオルガンで弾きながら作ったと、浅間温泉で作ったに違いないと思って聞いたのです……」

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2022年04月14日

下北沢X物語(4466)―東京高校南台空襲フィールドワーク 4― 

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(一)前の職場を訪れるのは久しぶりである。懐かしい、逸見正孝アナウンサーが自身が受け持った新入生の取材に来た。そのときに校庭の体育館脇の桜の下で記念写真を撮った。その桜樹が残っていた。彼は急死した。多くの思い出が蘇る。卒業生の佐藤容子さんと校内を歩いた。「私たち梅田先生のところにお泊まりに行きました」と彼女。国語科の同僚梅田先生は物故された。「私によく石をくれた物理の根本先生も亡くなられた」、「大好きだった保健の天野先生も亡くなられた」、そういえば今年になって牧柾名先生が亡くなられたと連絡があった。校長先生だ、東大附属が文化的なのは本校から派遣される校長にある。頭脳が明晰であるというのはどういうことか。難しい事象を平易なフレーズで印象深く語ることである。附属には個性のある教師が多くいて、その彼等から文化を学んだ。退職して十五年経つが、元の職場で培われた文化を今も継続して探訪している。文化の原点である。

 自分の発想で自由に仕事ができた。あるとき北海道の真ん中に東大農学部附属北海道演習林があることを知った。それこそ飛び込みだった、北海道の演習林に植樹をさせてもらえませんか。唐突な申し出である。が、これは実現した。残念なことに十数年も続いた植樹は今では止めになったという。

 自身が退職して構内の建物などの配置も大きく変わった。が、感動したのは自身が周年記念行事で手がけた桜の樹が立派に育っていたことだ。(写真、卒業生の佐藤容子さんと)

 レガシーというのはあまり好きではないが、自分にとって遺産というものはある。附属は卒業研究がウリである。この一番最初の原型を作るときに私は加わった。そしてこのときに『卒業研究ハンドブック』を私が手がけた。

 この間、この卒業研究が作られたときの経緯を大学に進学した卒業生からリモートで取材を受けた。その発表は好評だったという。

 横道に逸れた。東京高校南台空襲フィールドワークのけじめをつけよう。

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2022年04月13日

下北沢X物語(4465)―東京高校南台空襲フィールドワーク 3―  

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(一)事件概要である。1945年5月25日、深夜B29が大挙飛来してきて焼夷弾を投下した。渋谷区幡ヶ谷一帯で家々が燃え始めた。このとき南風が吹いていてたちまちに火は広がり、北側に移っていった。風が風を煽りいよいよ火勢は強くなった。火線に追われるように人々は北に逃げた。そして避難場所となっていた東京高校になだれ込んだ。敷地周辺は木密地域でその全部に火がつき、四面火炎に包まれ、ついには火炎旋風が起こった。校庭に逃げ込んだ人々をこれが襲った。炎熱に耐えられず次々にプールに飛び込んだ。この時の犠牲数、『プールには七名の女性が沈んでいた。運動場には町内の死者二〇体が仮埋葬された』とある。約三十名近くが東京高校で犠牲になった、その実数は不明である。状況からみて四五十人以上が犠牲になっていたのではないか。ところが、ここで大勢の人々の命が助かっている。校庭北側の土手、これが激しい南からの炎熱を防いだ。この陰に身を寄せたことで避難民の多くが焼死を免れた。伝えていくべき戦争伝承である。

 フィールドワークではその現場を巡った。

「空襲のドラマは、1944年11月1日に始まります。この日東京上空にB29が現れたのです。高高度一万メートルをゆうゆうと飛んで行きました。高射砲で当たるはずもありません。ところがこらえきれずに撃ってしまったのです」

 11月1日、東京上空に敵機がやってきました。日本軍は地上から高射砲で応援したのですが、そのとき不発だった砲弾の破片で負傷者が出ました。聖路加国際病院にその患者さん4名が運ばれてきました。
 ついに戦闘でけがをした人が運ばれてきたのです。
 戦争といのちと聖路加病院物語 日野原重明 小学館 2015年刊


 ついこの間、2月5日、フェイスブックのメッセンジャーで連絡があった。卒業生の大出幸子さんだ、ご自分の娘さんが東大附属に入学されたとのこと。何と彼女聖路加病院で教授をされているとのこと。以前、『ミドリ楽団物語』を書いた、代沢小に創設されたバンドである。この彼等のデビューが聖路加病院であった。「本学のアーカイブ室に連絡しておきます」と。東大附属因縁はどこまでもついて回る。
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2022年04月11日

下北沢X物語(4464)―東京高校南台空襲フィールドワーク 2―  

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(一)不思議である、いつの間にか山手空襲の語り部になっていた。何でも夢中になる癖がある。気づくと熱く語っていた。「ここは戦時中の避難場所になっていました。火に追われた近隣の人々は大勢ここに逃げ込んできたのです。校庭が広い、そして木々に囲まれている。場所として安心できるところだったのです。ところが、ほらこの写真を見てください。昭和22年に上空から撮った写真です。木々が一本もないですね、立木までが焼けてしまったのです。どれだけ火勢が強かったかが分かります。当日は強い南風が吹いていました。火が火を呼ぶ、回りが火の海となってしまいました。逃げ込んできた人は輻射熱であぶられました。それで人々はプールに飛び込んだのです。が、熱風は容赦なく襲ってくる。このプールで死にそうになった詩人がいました。北川冬彦です。彼は幡ヶ谷に住んでいました。自宅がやられて北に逃げた、そしてここの東京高校のプールに来ました。

 灼熱が襲ってくる。やけどしてしまいそうだ。「そうだプールだ」というのは、ここにプールがあることを知っている。彼には土地勘があった。詩人は日頃ここらを散歩して知っていた。校地の東南端隅にあった。道を通るとこのプールが見えた。

 北川冬彦は、横光利一と親しかった。『花電車』は冬彦の詩だ、これの序文を横光が書いている。この中につぎのような件がある。

 冬になって私はまた東京へ戻って来た。留守をしてゐてくれたHが、北川冬彦氏の来訪を話しながら、「いろいろ戦災の話を人から聞いたが北川氏が一番ひどい目にあってゐる」と語って、猛火の底の氏の死闘のさまを髣髴させた。

横光利一は山形に疎開していた。その間、北沢の家を守って留守番していたのがH、橋本英吉だ、北川冬彦はここへ来て、「おれは東京高校のプールで死ぬところだった」と話した。その内容が「焔」という散文詩に載っている。

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2022年04月10日

下北沢X物語(4463)―東京高校南台空襲フィールドワーク―     

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(一)今日は、朝から予習だ。午後「中野南部9条の会・第12回平和ツアー」(塚原哲朗氏主宰)が開かれる。主たる踏査場所は中野区南台旧東京高校だ。1945年5月25日10時頃当学校一帯は空襲に遭った。住宅が密集するここは集中的に焼夷弾が投下され大火災が起こった。広い敷地を持つ東京高校は災害時の避難場所になっていた。ここのグランドに、そしてプールなどに人々が逃げ込んできた。が、回りは激しく燃え、火災が火災を増幅させる。輻射熱で学校はあぶられた。避難場所になっているから人が避難してくる。その人々が犠牲になった。当日の風向きも影響している。3月10日の東京大空襲時「当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくした」(「都政十年史」)と言われる、一方、この南台空襲は南風が被害を大きくした。事実、当日は「激しい南風」が吹いていたとの証言、米軍の空襲計画は緻密だ、三月の北風、五月の南風を計算しつくして無差別攻撃に踏み切ったのではないか。

連日、ロシアによるウクライナ侵攻の様子が報道される。ロシアによる虐殺騒動は毎日、毎日報道される。異常と思えるほどだ。根底にあるのは人権観だ、可愛そうなウクライナ人が大勢虐殺に遭っている。妙な偽善意識を感じる、困っている人を助けるのはいい。が、ウクライナ以外でも人権抹殺は起こっている。では、政府専用機で難民を運びましょうというふうにはなっていない。不自然さを感じる。

 米国大統領は、プーチンを悪徳非道の殺人者として非難する。そして世界に連携を求め先進国で制裁をしようと。それに対して日本は唯々諾々と応じている。確固とした考えはないようだ。単に欧米へ追随していだけだ。アメリカの顔色を窺って制裁を決めている。こここそ平和国家の出番、唯一の被爆国日本の出番だ。と思う人はいない。

 東京大空襲では約10万人が犠牲になったとされる。民間も軍人もあったものではない。無差別に絨毯爆撃をして多くの人を殺した。アメリカの人権意識について、「あんた無差別爆撃したでしょう」と問い詰めることはない。唯々諾々。むしろウクライナ侵攻を好機と捉え防衛費の増額を計画している。新聞が伝える報道だ。(2022年4月6日 日経)

自民党は台湾有事を念頭に防衛費の増額を求める提言を4月中にまとめる。政府に抑止力を高める装備の導入などを促し、年末に改定する国家安全保障戦略への反映をめざす。ロシアによるウクライナ侵攻で安保への関心が高まる世論を踏まえ、当初予定よりも1カ月前倒しでつくる

 計画されているのは日本の国防予算がGDP比2%だ。「敵が攻めてくるから国防費をアップして備えるのだ」、戦争の拡大時では常に喧伝される言葉だ。
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2022年04月08日

下北沢X物語(4462)―霊魂は存在するのか?―

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(一)霊魂の存在については懐疑的だ、が、改めてこの問題を考えてみると、世界はこれが存在するという前提に成り立っていることに気づいた。霊魂は世の中の価値体系の中では根本的な基盤となっている。身近なところでは宗教である。霊魂が存在することを前提にして神社仏閣は動いている。天国も地獄もあるとしないと成り立たない。宗教だけではない学問領域などもそうかもしれない。霊魂は死後世界だ、現実空間とあの世空間は一体となっていてその全円的な把握で現実の我々の社会は成り立っている。死後世界があるというふうに考えないと我々の進歩発展もなかったように思われる。あの世の世界は、想像、空想、創作の源泉でもある。死後世界がないと世の中おもしろくない。

 死とは何か、人生とは何か、これは考えても答えは出ない。まともに考えないほうがいいものだろうと思う。もうかれこれ二十年も経つ、自殺した生徒がいた。急報を聞いて自宅にお悔やみに訪れた。そのときに今も深く印象に残っていることがある。彼の部屋のゴミ箱に岩波の文庫本が捨ててあった、哲学書である。

 彼は非常に聡明であった。勉強もよく出来る子だった。いつも思念しているふうであった。孤独だった。真剣に生きることに苦しんでいたんだと思った。哲学は一つの解答だったのだろう。真剣にこれに取り組んだが回答を見出せなかった。

 葬儀では僧侶が来て読経した。そして説法、彼は天国に召されたというようなことを言っていた。しかし、私はそのときに違和感を覚えた。

 人間、どのように生きるかというのは大きな問題だ。生きることを考えることは死を考えることでもある。あの世は闇である、誰一人として分かっている人はいない。

 昨日だったが、呑川緑道を散歩している団体に出会った。二十名ぐらいいたろうか。男性は先頭に立つ人、一人だ。多分案内者だろう。後続の女性陣は花を見てはあれこれを批評して楽しんでいる。

 女性は日常を楽しむのがうまい。チューリップの咲き方一つで盛り上がる。ここは大切な点だ、集まって会話をして楽しむ、人間にとってとても大事だ。

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2022年04月07日

下北沢X物語(4461)―人間の霊魂・死について考える―

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(一)子どもの頃、死は怖かった。夜中にふと目覚めて宇宙を考えた、いずれは地球も消滅し、すべてが無くなると思うと怖くて怖くて消え入りそうになった。火葬場も怖かった。幼少の頃、父を亡くした。赤い煉瓦造りの火葬場に近づくと足が硬直した。中へ入れと言われたが、頑強に拒んだ、「いやだいやだと」叫んで抵抗した。少年の頃は性に目覚める頃、死にも目覚める頃でもある。異常に敏感だった。夜が怖い、墓場が怖い、世界は怖いものに満ちていた。肯定的には想像の源泉でもあった、死を思うことで世界は創られる。が、歳を重ねると恐怖感覚は鈍ってくる。かつてのように怖がらなくなった。恐怖心は摩滅していく。

 人間は死ぬとどうなる、それは分からない。が、霊魂の存在は人はよく言う。これは本当に存在するのだろうか?

 実は、自身ずっと不思議な経験を重ねている。「縁の円環」とでも言おうか、どこまで行っても縁が途切れずに繋がる。怖いと思うほどにつぎつぎに人に繋がっていき、新しい情報に遭遇する。そこに尋常でないものを感じた。

 何に対してのことか、それは特攻隊に関わる話だ。エピソードを探していくと順々に人に繋がっていく。その「縁の円環」は際限なく続いて行く。この過程を書いたのが、自身の著作、特攻を扱った長編ノンフィクションである。今、また第五巻目となる作品の詰めを行っている。

「どうしてこのように縁が果ても無く続いて行くのか?」
「それは特攻隊員の霊魂なんですよ、先生に霊が憑いてしまったのですよ」
 これは多くの人から聞かされた。皆、普通当然のことと思っている。 

 そう言われてみればそうかもしれないと思う。
 縁の円環は、今は、台湾に辿り着いている。調べていて一番引っ掛かるのは無名戦士である。懸命に働いた、死線を潜り抜けての戦いは、すさまじかった。が、その本人の努力にも拘わらず死んでいる。

 特攻隊員というと、「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」がある。ここに記録されて名は永久に残る。が、機の不調で墜落したり、特攻機を誘導しているときに被弾したり、という場合は、名簿登載はされない。その無名戦士に限りない愛着を持つ、そういう人たちのことを記録することで霊は浮かばれる。

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2022年04月05日

下北沢X物語(4460)―三軒茶屋の音楽学校 ―

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(一)三軒茶屋は軍都であった、砲車、戦車の響き、軍靴の音、これらが絶え間なく聞こ
える街だった。近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第8連隊、野砲兵第一連隊があった。兵隊への規律、軍律は厳しい。ボタン一個でもなくそうものならビンタが飛んだ。「街の員数屋へ行って不足品をこっそり買いそろえ、何食わぬ顔して点検に備えろ」と教え諭す上官もいた。大山街道の南側は不自由街、北側は自由街、そこに熱心に絵筆を取る青年がいた。また、一生懸命に歌をうたって歌手をめざそうとする若者がいた。「国民音楽院」だ。軍都の隣に画塾や歌の学校があったというのは驚きだ。

 「国民音楽院」は、たまたまネット検索で引っ掛かった。「忘れられぬ流行歌手たち 真木不二男」というホームページである。こういう記述があった。

釜石商業高等学校を卒業後小谷野は上京し、トンボハーモニカに就職しました。昭和14年(1938年)春、作曲家・江口夜詩 (1903〜1978) が世田谷区三軒茶屋に新人歌手の育成を目的に「国民音楽院」を設立するという噂を聞き付け、開校の発表翌日、小谷野は一番に同院に駆け付けました。江口は日本コロムビア専属作曲家として「十九の春」(ミス・コロムビア)、「急げ幌馬車」(松平晃)などのヒットによって、同じ専属の古關祐而のポストを脅かすなど、当時人気絶頂だった作曲家でした。

小谷野は、歌手真木不二男の本名である。ここで「国民音楽院」の創立のことが触れられている。創設は昭和14年(1938年)春に設立された。主催者は作曲家・江口夜詩である。よく知られた歌としては、『長崎のザボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』である。彼が、三軒茶屋に音楽学校を作った。非常に興味深いことだ。なぜ、三軒茶屋ということがある。

  國民音樂院開校記念式典の記念写真がホームページに載っている。おおよそ三十四五名
が写っている。
 通い易いところとしての三軒茶屋というのはあろう。地方から来た場合は、太子堂あたりの低廉なアパートに住んだものだろう。
 


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2022年04月04日

下北沢X物語(4459)―戦災が消した三軒茶屋の文化 ―

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(一)連日、ロシアのウクライナ侵攻の映像が流れる、砲撃されたアパートや病院などの無惨な様子、路傍には市民の遺体、が、軍当局者はウクライナ側の喧伝だと言い放つ、思い出したのは前線のロシア兵の口癖だ、満州に侵攻してきた彼等が必ず口にしたのは「女はいないか?」である、そのロシア語の発音は今も耳について離れないと証言者は言っていた。略奪し強姦する、戦争とはそういうものだと彼等は思っている。今も昔も変わりがないと思った。街を破壊し尽くしても何とも思わない。が、この惨劇77年前この東京でも起こっている。無差別絨毯爆撃だ、この4月10日、中野南部9条の会で「第12回平和ツアー」が行われる。一帯は絨毯爆撃に遭った。広大な敷地を持つ東京高校が避難場所だった、が、ここにも火が回り、大勢が死んだ、その痕跡を見て回る。当ブログで「東京高校の空襲」を何度も話題にしていることから、参加のお誘いがあった。

 2018年にDrオースチンの写真を活用した『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』を発刊した。初版一万部を作ったが、好評で二版、一万部増刷したがこれもなくなった。
このアルバムに写っている箇所を歩くツアーも何度か行った。ここで気づいたことは。

遺っていれば語れる

 何というお店があって、何を売っていた、主人は誰それでこんな人だった。
 参加した人は写真を見、現場を歩いて思い出した。焼け遺ると思い出は蘇る。記憶は復活する。ところが、焼けてしまうと記憶も何も残らない。一切が焼失する。

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2022年04月02日

下北沢X物語(4458)―碑文谷の老翁が語る人生哲学 ―

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「散歩は万病の薬だな、歩きがおぼつかなくなってから医者に行くことが多くなった。ところがもらったクスリがあまり効かないのだよ。前は私も散歩が好きで、二万歩は歩いていたよ。やっぱり散歩はいいよね。気持ちがいいんだよね。この気持ちがいいというのがミソなんだね、やっぱり血のめぐりだよ。何たって人間これが大切だよ。血のめぐりが悪いとロクなことしか考えなくなってしまうんだ。気というものが淀んでしまうんだ。やっぱり人間は潑剌としていないといけない。それを保ってくれるのは散歩だな。人間は歩いているとうまくいく、大なる気分転換だよ、角を曲がると美人に出くわす、腰の曲線がいいねなどと思いながら歩く、そうするとエッチ力が増すからな。人間これは大事だぜ。エッチ力をなくしたら萎んでいく一方だよ。おれも八十八まで生きてきたけど、歩きに助けられてここまできた。このところ身体が弱ってきたけど毎日五十歩でも百歩でも歩くように心掛けているんだ」

 私も散歩を欠かさない。一昨日、碑文谷を歩いているとき家の庭を掃除している人が声を掛けてきた。
「散歩かい?」
「ええ、そうです」
「散歩はいいよね、とくにこんな晴れている日はいい、歩くだけで気持ちが解放される。
家にいると心の中に芥(あくた)が溜まるだよ。これは放っておくと沈殿する。これが心身を汚してしまうんだ。だけどな、一度外に出て歩き出すとわるいものが雲散霧消していく。散歩というものね、これは何たって自分が主役だな。猫が来ると、『にゃお』と言うだろう、『ワンコだってな』とおりかかるときはこちらは挨拶をする、通りでは誰もが一人前だ、人格なり、犬格がある。犬にせよ、保育園児にせよ、目を見てあげるんだな。そうすると目配せで返してくるから……」

「ずっとこの碑文谷住まいですか?」
「そうそう、今はこんな家がたてこんでいるけど、むかしは野っ原だった、目蒲線の方には家がいっぱいでな、これが戦災で皆燃えたよ。あっちは燃えているから大丈夫だと思っていると、火っていうのは怖いんだ、飛び火なんていうけどそんなものじゃない。風に吹きちぎられた火の塊が飛んでくるんだ、それがあっちこっちで燃え始める……」

「今、テレビでウクライナの戦争をやっているだろう。人家や民家がめちゃくちゃ、『ロシア軍は民間には被害は与えない』などというけど、戦争になったら軍人も民間もありはしない、敵側からすればみんな敵だ、選んで撃つわけはない、もう戦争になれば糞味噌一緒、何でもかんでも一緒くたにして撃ちまくるんだ。この東京だってみんなやられたろう。B29による無差別爆撃だ。女、子ども、爺さんは分けて撃つなんてことはないんだ。戦争は憎しみだからら撃つ方に慈悲なんてものはないんだよ。広島、長崎だってそうだろう、可愛そうなんて気持ちはこれっぽっちもありはしない。」

「ロシアは、悪い、ひどいうというけど、戦争中アメリカがやったことは同じだよ。戦争ははじまれば勝ったものが勝ち、なんでもやるんだ。人間が悪魔になるのが戦争なんだから」

「人生は生きていればなんでも目撃する。その辺りに米軍の接収家屋があったんだ。広いお屋敷でな庭が広い。まだ学生だったころ、『あめちゃんは素っ裸になって日光浴していると言うんだ』、これを仲間から聞いてな……若ければ思うだろう、すっぱだかの女が庭に寝ていると聞けば、情欲が湧くというものよ。それでな、おれらはこっそりとのぞきに行ったんだよ。すると木陰の向こうに本当に裸の女が寝ているんだ。みんな興奮したね。ところがチラチラ見えるだけだ、これまたチラリズムがたまらない、『そこの木に登ればよく見える』と誰かが言う。確かにそれはグッドアイディアだ。即座に木に取り付いて登った。よく見える、おっぱいもみえるし、なんと股ぐらの草むらまでみえる、みんな興奮したね。人間の欲望というものは人間の重量を重くするんだと俺は知ったよ。夢中でみていると枝がミシミシいいだした。『やばい』と思う間もなく、俺達が乗っていた枝が根もとからボキッとおれたんだ。勃起していたおれたちには青天の霹靂だ、枝からみなおっこちた、外人の女性は『アレー』とか叫んでいたけど、おれたちは足を引きずって逃げたよ」


「人間生きていれば、どんなことにも遭う。しかし、八十八になって思うことは人間がみなちんまりしてきたことだ。金玉がないんだよ。昔は下駄を履いていた。あれをな、履くのはむずかしいんだよ。金玉をぐっとしめて重心を真ん中に保って歩くと、気合いがはいる。いまのひとたちの歩き方が悪いよ」

「散歩は、いいか、重心をしっかりとって歩く。するとな回りの景色がしっかりと見えてくる。身体と景色が一体となると散歩は楽しくなるものだ。なんたってあんさん、

人生、歩けるうちが花よ


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2022年04月01日

下北沢X物語(4457)―会報第189号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第189号    
           2022年4月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、世田谷まちづくりファンドへの挑戦  当会主幹 きむらけん

 私たちは、十八年間活動を行ってきた。地図作りも大きな文化活動だ、「下北沢文士町文化地図」づくりである、いつの間にか改定は八版にまでなった。総発行枚数は7万5千部に及ぶ。世田谷区のホームページにこれはアップされ全国、いや全世界に発信されている。下北沢の地域一帯の文化事象を網羅したものとして社会に知られるようになった。
 我々は北沢川文化遺産保存の会だ、この川と並行して流れているのが烏山川である。縁の深い川である。この川の沿岸にあるのが三軒茶屋、太子堂、三宿だ。われらの区域と隣接している。下北沢と三軒茶屋は隣り合った町としてよく比較される。両町は、世田谷区を代表する都市である。文化的にも面白い。隣接する地域だけに関心は深いものがある。

 我々は、日常の活動において町歩きを行っている、三軒茶屋、太子堂、三宿はよく歩いている。そんな活動の中で思いついたのが「三軒茶屋文士町文化地図」である。「下北沢文士町文化地図」の姉妹版である。試みに作り始めたら面白い。なんといってもここの文化比較が面白い。下北沢は戦火を潜り抜けてきた鉄道が交差する町だ、一方三軒茶屋は震災と戦災とを潜り抜けてきた平和都市だ。明らかに文化的な差異がある。
 「よし、面白い」地図作りを行おう、と、なった。真っ先に思いついたのがクラウドファンディングである。飛びついたといってもいい。が、一体どうするのか、資金は容易に集められるのか?難問であった。ひとたびはこれで行こうと思っていた。

 ところが身近なところに助成を受け付けているところがあった。それが「公益信託 世田谷まちづくりファンド」である。2007年我々は「坂口安吾」文学碑を建てた、このときに応募をした。市民の審査を受けて合格はした。これの資金を使って「安吾文学碑建立記念記録集」を作った。
 
 今回で二度目のチャレンジである。今度は地図印刷費用を捻出するためである。上限助成額は50万円である。ただ申請をすればいいというものではない。「公益信託まちづくりファンド助成事業」である、問題は、活動を通してまちづくりにどう参画するかが問われる。つまりはどう地域と連携していくかである。現在のところ昭和女子大に連絡をとっている。また三軒茶屋駅周辺のまちづくりを担当している都市整備政策部とコンタクトを取って地元の責任者との面接も予定している。
 以下、ここに応募の理由と応募する活動内容について書き記すものである。

(1) 応募の理由

 当会は、2006年から「下北沢文士町文化地図」を発行してきた。改版を重ね現在は8版を 配布中である。その総発行枚数は7万5千部に達する。発行による反響である、一つは世田谷区 がこの地図の価値を認め、区のホームページにアップして全国にこの地図を発信している点だ。
 もう一つは、この地図によって人々が町の認識を深めた点である。この経験から文化地図作りは まちづくりに有用であると知った。そういう認識から隣接する地域の文化地図を思い立った。我 らの地図の姉妹版、すなわち「三軒茶屋文士町文化地図」の作成である。三軒茶屋としたのは代 表的な地名だからだ。これは太子堂、三宿も含んでいる。三軒茶屋には独特の文化がある。松岡 容は『東京万華鏡』の中で三軒茶屋は、大武蔵野が現代に直結した町だと批評する。武蔵野の真 っただ中にあった追分の町に突然に近代が走りだす。玉川電気鉄道だ、これによって世田谷の最 先端を行く町となった。商業都市になると同時に兵営もできて軍都ともなった。が、歴史は変転 していく、大きなトピックは震災と戦災である。これらを潜り抜けてきた町、苦難に遭った町は、 軍都から平和都市に変わったのである。ゆえにこの町は重層的な文化を宿している。我々は三軒 茶屋一帯のポイントポイントを地図上にマークするつもりだ。これによって一目で歴史・文化が 分かるようにしたい。地図づくりを通してまちづくりに参画し、当地区がわが国の中でも文化的 に特異な町であったことを、地元に、全国にアピールしていきたい。

(2) 地域・まちづくりに貢献する点 

 私達は、自らで調査し、発掘した事象を「文化地図」落とし込んで、これを発行し配ってきた。この 地図づくりは、思いがけない発見に繋がった。地図の発行は発信である。受け取った人はこれを見て、「文化人として有名な誰々さんはここに住んでいた」、「〇〇には特別な線路が走っていた」、「〇 〇には特別な寮があった」などと新しい情報をつぎつぎにもたらしてきた。その情報は増え、初版と 比べると比較にならないほど多くなった。これらの情報を加味して私たちは改版を重ねてきて現在 の八版目はできた。これらが網羅された地図を見て住んでいる人が、他所から来た人が当地区を 認識し愛着を持つようになった。これをさらに深めようと北沢川緑道に四基の文学碑を建てた。地図 発信が契機となったものだ。今では我らの地図を持って多くの人が町歩きをしている。これはふん だんにみられる光景である。地図はまちの認知度を高めた。この活動はマスコミでも何度も取り上 げられ、発信は全国に及んでいる。今、着手しているのは「三軒茶屋文士町地図」である。調べに着手して今まで全く知らなかったことが分かってきた。大正八年に三宿に「白田舎」という画塾がで きて全国から画家志望の若者が集まってきた。ちょうど三軒茶屋の連隊の北側に当たる。当時は 畑や雑木林のあるところだった。いわゆる武蔵野である。この一帯に日本画家が集まってムラを形 成していた。芸術文化村はほとんど知られていない。地元の人から更に情報を集め、当地区に眠る 文化発掘をしたい。当該地区の文化の殿堂昭和女子大も協力的である。

2、 看守と執事   会員  ごうだゆうき                      

 人は皆、産まれたときの状態こそ、宝石みたく完璧だったのだけれど、教育やさまざまなメディアからの洗脳によって「そのままのお前じゃ幸せになれないぞ」と刷り込まれて育つ。いい学校に入って、いい会社に就職して、いい洋服を着て、いい家に住まなければ幸せになれない。しっかりしなければ、きれいでいなければ、あるがままでない自分でいなければ……。そんな価値観のなかで生きていれば、本来の輝きなど失われていって当然なのだ。私はこの、世の中に蔓延する「そのままのお前じゃだめだ」攻撃をエゴ、もとい看守と呼ぶ。いってみれば、見えない刑務所に閉じ込められるようなものだ。それは必ず「あなたのため」というヴェールに包まれているので、一見そうとは気づけない。過去にほかの誰かによって植え付けられた声を自分のものだと思い込んでいるのだ。そして裏を返せば、「あなたのお望みはこれとは反対のものですよ」と、頭の中の執事が丁寧に教えてくれているのだ。自分を縛り付けてくる看守の声に従うか、そこから解放してくれる執事の声に従うか、どちらが幸せに生きられるかはいうまでもない。看守の声に怯えきって、「こうあらねばならない」が怪物級に育ってしまった人はたくさんいる。
 芸能人に薬で捕まる人が多い理由は、実はそれなのだ。厳しすぎる看守の声から一瞬でも逃れたくて手を出してしまう。聞いた話によると、深呼吸しているときの解放感と、大麻を吸ったときの気持ちよさは似ているのだとか。もちろん何の依存性も副作用もないのは深呼吸のほうだ。だから、とにもかくにも、いついかなる場面でも深呼吸すればいい。日本人は特に。考えそうになったらスーハースーハーするのだ。ただ、エゴを振りまわしている看守も最初は存在せず、ただエゴというすばらしい道具だった。例えるならば包丁のように、使い方を間違えなければ美味しいご飯ができあがるけれど、人に向けたとたん凶器になってしまう。それを料理のためでなく、人を刺すために使い始める看守が、成長するとともに現れた。エゴそのものは、包丁とおなじで悪くない。私の中の看守は「どうせ…」というのが口癖だ。
 間髪いれずに「どうせ叶うわけないだろ。どうせ嘘に決まってるだろ。どうせおまえなんかにわかるわけないだろ。どうせおまえなんかに出来るわけないだろ」と横槍を入れてきて、人の幸せを邪魔するのだ。
 いかにも本当っぽく聞こえるその声を、「シャラップ!」と手を鳴らして総無視すればいい。包丁で自分を刺してくるのが看守。包丁で美味しいご飯を作ってくれるのが執事。執事の声こそが本当なのだと気付くこと。それがすなわち「違和感」である。違和感は、それが自分の望みではないことを伝えてきている。看守の言うことだからどうか騙されないでね、と。ネガティブという刑務所に囚われている自分を、こっそり助けに来てくれたのだ。「お嬢様、いますぐ鍵を開けます。いっしょに逃げましょう」と。例えば、「いまはそれでいいかもしれないけど二十年後、三十年後どうするの?」などというのがそれである。三十年後のことなんて誰にもわからないのに、さもそれを考えなければ置いていかれるぞといわんばかりに、警鐘を鳴らす。あまりにも万人共通の不安なので、それが巧妙な嘘だと見破れない。
 逆に、五分後、十分後どのような気分でいるかは皆だいたい想像できる。その中からいちばん「これがいい!」と思うものを択び続けてあげる。それを繰り返す。そうしていれば、看守が脅してくるような悪い未来になどなりようがないのだ。これが執事に守ってもらう生き方。 
 執事の提示してくれる違和感に逆らわず、自分の心地良さにしたがい続けるうちに、看守の声は弱まり、やがて看守のことすら愛せるようになる。「ありがとう」と。
 私たちは、気分の悪さを感じているとき必ず、看守の声を採用している。生きている限り看守がいなくなることはないけれど、執事のいたお城へ帰ることはできる。そこが自らの、本当の故郷だということを、何度でも思い出せばいい。

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(四名集まったら成立する)
 
第173回 4月16日(土)空川の谷の歴史と文化を歩く
 案内者 梶山公子さん 井の頭線駒場東大前駅西口 13時集合
 空川を駒場野公園から目黒川近く(大橋)まで歩きます。流域にはかつて8代将軍吉宗のお鷹場があり、明治初めには農業近代化の先駆けとなったケルネル田圃や水車が置かれ、また明治末から昭和にかけては多くの軍事施設が設けられるなど、たいへん歴史豊かな場所でした。その生成を見ると、古東京湾の海底から現われた淀橋台に流れを発し、やがて目黒方面に侵入してきた古多摩川の支流となり、さらにその流れの跡にできた目黒川の支流になるという、とてもユニークな歴史を持っています。
・コース:駒場野公園(地形と水源・ケルネル田圃)―東大南門(水路跡)−空川暗渠と御成道(御鷹場)−駒場池(水源と縄文時代)−旧偕行社下(二・二六事件)―三田用水駒場分水跡―遠江橋跡−氷川神社(池尻大橋解散)


第174回 5月21日(土)森茉莉の足跡を歩く
 案内者 幾田充代さん 小田急線梅丘駅改札前 13時集合
コース:梅丘駅→小堀杏奴旧邸→萩原葉子旧邸→若林陸橋→若林邸宅街(ギドウ・パウロ)→三好達治旧居→倉運荘→代沢ハウス→代沢湯→「恋人たちの森」冒頭描写とバームクーヘン→森茉莉の執筆部屋「邪宗門」(喫茶代は別)

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記                                
▲投稿原稿を募集しています。エッセイ、文化論など。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ(写真は洗足池桜山にて)



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2022年03月30日

下北沢X物語(4456)―三軒茶屋の歴史文化と戦災 ―

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(一)三軒茶屋の歴史文化を探るという場合、手応えの感度が鈍い。一つは歴史の浅さである、三軒茶屋という地名として正式に認められたのは昭和7年(1932)、世田谷区成立時である。もう一つは戦災である。海野十三の『一坪館』の記述だ、「三軒茶屋は、大きな建物のならんだにぎやかな町だったが、それも焼けてしまって、ぺちゃんこの灰の原っぱになった」と、戦災で一切合切が焼き払われた。生活の断続性が断ち切られてしまった。我らは文化人の旧居を掘り出しているが、ほとんど当時の面影は残っていない。焼け出されて人々は他所へ移っていった。時間が継続することで文化は残る。が、三軒茶屋一帯はあらかた焼き払われた。痕跡がなくなると人の記憶も消え去ってしまう。

 三軒茶屋の歴史文化を探る過程で画塾「白田舎」の存在を知った。大正八年九月に三宿に開かれた。平福百穂画伯によってである。玉川電気鉄道三宿電停のすぐ近くだ。

 鉄道が武蔵野に敷設されたことは大きい。世田谷に芸術文化が花開いたのはこの影響だ。
大正八年に開塾の白田舎は玉川電気鉄道の開通に負うところが大きい。昭和2年に小田急開通と同時に世田谷代田に帝国音楽学校ができた。前者には画家が、後者には音楽家が付近に住まうようになる。

 画家の平福百穂は、『寒竹』という歌集がある。この中に三宿の画塾を詠んだ「白田舎即吟」五首がある。

 畑中にこの家つくり竹うえてことし六とせの春たちにけり

 画塾を開いて六年が経過した。大正十五年である。大山街道裏手の畑に画塾を建てた。瞬く間に六年が経ってしまった。

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2022年03月29日

下北沢X物語(4455)―三軒茶屋の歴史文化を探る ―

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(一)歴史と地名、深い関係がある。地名は手がかりだ、場所の認識をするには不可欠だ。「どこで何があった」ということから記録は始まる。当地域の歴史を知るには『世田谷の地名』が一番だ。郷名比定、その名がなぜついたか、他郷との関連において論じている、地誌観のレベルが高い。ところが、『世田谷の地名』には三軒茶屋がない。新しいからだ。昭和七年世田谷区成立時の区画図にようやく三軒茶屋町が出てくる。元は上馬引沢であった。三軒茶屋は古くからある町のように思われるがそうではない。さほど新しくはない。三軒茶屋から新町を経由して二子へ行く道は江戸時代中期に造られた新道だ、このときにここは追分となる。信楽(松本楼)、田中屋、角屋という三軒茶屋があったことに由来する。角屋は新道にあることからやはりこの名称は文化文政頃から言われ始めたものだろう。

 三軒茶屋を東西に貫通する道は、律令時代には駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道であった。足柄道、また足柄路とも呼ばれた。ここを東国から西国に赴任していく防人が通って行った。一本道だったときは単なる経過点だったに過ぎない。ただおもしろいことに現在の大山道道標がある地点は三軒茶屋遺跡あった。縄文中期のもので土器 打斧が出土している。この一帯は覚志郷の候補地である。この場所はちょうど尾根筋にある、彼等古代人は北斗七星を信仰の対象としていたという。ここで拝んでいたろうか。

 古代から近代へ、途中がどうであったかは分からない。古代の道は、一名矢倉沢往還とも言った。足柄道、足柄路とも言われる。一人の防人が万葉集にこう詠んでいる。

足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は 清見もかも (巻20-4423) 

御坂に立って袖を振れば、恋しいあなたは、私がはっきりと見えるだろうか。

 詠んだのは埼玉郡の防人だ、三軒茶屋を通ったのか分からない。が、多くの防人が通っていったのは間違いないだろう。

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2022年03月27日

下北沢X物語(4454)―ウクライナ侵攻を核廃絶の機会に ―

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(一)「ペンは剣よりも強し」という、言論は銃や大砲に勝るものだ、人類の理想である。この言葉は絵に描いた餅だ、しかし、今回の戦争ではおやと思わせることがあった。言論が間違いなく一つの力を持ったことである。ウクライナの大統領の言葉である、彼は多くの国の国会でリモートで参加し、虐げられている国民の現状を訴えた。言論を駆使して世界中にウクライナの置かれた窮状をアピールした。彼の演説は聴く者の心を掴んだ。多くの国々で彼の演説を讃え、立ち上がって拍手を送っていた。世界の言論を動かしたことが侵攻側のロシアを窮地に追いやった。言論という正義が力を持つ、すっかり忘れていたことを我々に思い起こさせた、「きちんとした言葉は力を持ち、戦争を牽制する力を持つ」ことを我々に知らしめた。平和というものは言葉でも訴えることができると。

 人間の歴史は戦争の歴史だ、争いに負けると時代の呼称が変わる。江戸幕府が官軍に敗れ明治となった。が、遠い過去を思い返すと縄文時代があった。驚くべきことにこれが一万年も続いた。狩猟民族の彼等は慎ましく暮らした。森から得られる恵を大切にして暮らしてきた。だから一万年も続いた。が、弥生時代になると人々が争いを始める。米ができるようになったことが大きい。これは蓄蔵ができる。持つ者持たないものの差ができる。蓄蔵した米を守るために環濠を掘った。敵から守るためである。人は奪うために戦争をする。人を殺めて領地を自分のものにする。

 しかし、近代戦ではルールを定めた。武力紛争の際の傷病者,捕虜,文民の保護に関して規定した国際条約。ジュネーブ条約だ。しかし、貪欲な人間はこれを無視する。今回、ウクライナを侵攻したロシアがそうである。意図的に民間人を殺戮している。ロシアの戦争のやり口は野蛮だ。

 ロシアは、ウクライナに対する戦争を「特別軍事作戦」と称している。「戦争」とか「侵攻」とか呼んではならない。そう呼ぶと十五年の刑に処せられる。一時ロシアでも戦争反対のデモが行われていた。しかし取り締まりが厳しくなって市民は外に出なくなった。
「デモに行こうものならとっ捕まって腎臓を蹴られて瀕死の状態で留置場に放りこまれるから怖くていけない」とモザイクのかかった映像でその当人は証言していた。
 ロシアの戦争のやりくちは野蛮で残酷だ、人権などという意識はこれっぽっちもない。

(二)
 ロシアは暴虐の限りを尽くしている。赤ん坊を子どもを、爺さんも婆さんも見境なく殺している。その実情をゼレンスキー大統領は静かに語る。そして感銘深い言葉をいくつも述べた。
ロシアのウクライナ侵攻は2月24日始まった。国中が騒然となった。そんな中で25日には、キエフにある大統領府の屋外で彼は、自撮りした動画で、語った。

「私たちはここにいる」
「私たちは全員、自分たちの独立と国を守る」


回りを取り囲んでいるのは国家首脳部だった。

 私は逃げはしない、私はこの首都のキエフにいる。私たちは全員ここに残って、この国家を守る。

国民を深く勇気づけた言葉だった。自国にいる若者も、また外国にいる国民も心底勇気づけられ励まされた。志願兵となって帰国したものも大勢いる。
 世界の人々も忘れていた正義を思い出した。

 ウクライナ侵攻が始まって日にちが経つ、ゼレンスキー語録も増えた。2月24日、ロシア国民に向けて投稿した動画の中で語ったことばだ。

戦争はあらゆる人々から安全の保障を奪う。
それによって誰が一番犠牲になるだろう? 人々だ。
誰が最も戦争を望まないだろう? 人々だ。
誰が戦争を止められるか? 人々だ。
しかし、あなたたちの間にそのような人々はいるだろうか?
私は『いる』と確信している


プーチンではなく、ロシア人に訴えた。ゼレンスキーの言葉による喚起、そしてウクライナ国民がSNS映像で語るウクライナの惨状、世界の誰もがこれを注視した。

(三)
 言葉は、あてにならないものと思っていたが、そうではなかった。言葉は力を持っていた。言葉の復権を讃えよう。

 皆さん、私たちは、世界でたった一つの被爆国です、広島と長崎に原爆が投下され、一瞬で何十万の人を亡くしてしまいました。言葉に言い表せないほどに悲惨でした。
 これを使用したのはアメリカです。おぞましい兵器を使用しました。原爆は人類が持ってはならない兵器です。
 被爆経験を通して私たちは、戦争を二度としないと誓いました。それで新しく憲法を制定しました。(Wikiより)

 第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

◆〜姐爐量榲を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.


私が思い描く宣言

今回のウクライナ侵攻を通して学んだことは、言葉は世界に通ずる、その可能性が見出されました。戦争はしないとはっきり断言しているこの日本を世界のみなさんは見ていてほしいのです。今回のことを機に、「世界が見ている」ということがどんに大事なことかを知りました。

 私たちは核は保有しません、核を製造もしません、核を持ち込ませません。世界平和に向かってこれからは言葉で対峙していきます。もちろんアメリカの核の傘にも頼りません。私たちは丸腰なのです。だからみなさんに見ていてほしいのです。


(四)
 世界の人々が見ている、蛮行を行えばたちまちに世界に伝わる。化学兵器を使えば、核を使えば、まちがいなく瞬時にそのことは全世界に伝わる。ロシアの信用はどんぞこまで落ち込むはずだ。立ち直れなくなるだろうと思う。

 人々が監視すること、人々が見張ることがいかに大事か。これが力となって戦争指導者を窮地に追い込むだろう。私たちは見張り続けなくてはならない。人々の目が戦争の抑止に繋がっていくのだと強く信じたい。(写真は広島の惨状)


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2022年03月26日

下北沢X物語(4453)―ウクライナ侵攻から学ぶべきこと ―

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(一)ロシアが侵攻したウクライナの戦況が刻々と伝えられる。今まで生きてきてこれほどリアルに伝えられる戦争はなかった。攻める側と攻められる側の落差が大きい。まず前者である、18日にモスクワのルジニキ・スタジアムでクリミア併合8周年を祝うイベントが 開かれた。会場内外に20万人集まったという。ロシア国旗を人々が振りかざす、国旗をほっぺにメークした若い女性が歓声を上げている。そこにプーチンが現れ、「東部の親ロシア派住民を助けるため」に侵攻したと演説をする。一方の攻められる側の街の風景は悲惨極まりない。住居が病院がことごとく砲撃されて街は廃墟と化している。遺体を埋める場所がないので前庭に穴を掘って埋めていた。どうしてこんな無慈悲な侵攻をするのだろうか。プロパガンダに洗脳された人々と哀れな市民、何と不条理なことだろう。人間は誰もが悪魔になる。それで平気で善良な市民を殺しもする。悪玉と善玉がこれほど分かりやすいものはない。今回の事件は戦争を学ぶ好機会だ。

 国家は嘘をつく、嘘の代名詞となったのが「大本営発表」である。
世田谷若林に住んでいた海野十三は「海野十三敗戦日記」を残している。昭和19年12月27日、東京上空に敵機が来襲した。このときの大本営発表をこう書いている。

〇七時の大本営発表「五十機来襲、十四機撃墜(内不確実五機)損害を与えたるもの二十七機、わが損害四機(体当たり二機を含む)」相当の戦果だ。

 味方戦闘機は、体当たりまでして敵機の侵入を防いだ。五十機中、十四機撃墜とは、嚇嚇たる戦果である。人々はラジオで戦況を聴いている。
「帝都上空に敵機が五十機飛来するも味方機は果敢にも体当たりをするなどした。加えて高射砲隊も活躍し十四機を撃墜し、相当数の戦果をあげたり」
 味方もよくやるじゃないか、と、大本営発表を聴いて人々は喜んだ。中には拍手をする人もいた。が、大本営発表は虚偽に満ちている。
 戦争になると負けていても過大に報告する。
「負けたとなると国民の戦意がガクッと落ちるからな、適当なさじ加減をして味方が善戦したように発表するのだ」と大本営の幹部。
 
(二)
 1944年(昭和19年)10の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。

「臨時ニュースを申し上げます。我が軍は台湾沖航空戦において、敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破し、米機動部隊を壊滅させる大勝利を得た」
 全くの嘘である、米空母や戦艦は一隻も沈んではいない。日本の大惨敗だった。

 戦争になると仕掛け人は嘘をつきまくる。ウクライナは大量の化学兵器を隠し持っているとロシア軍は虚偽報道を流している。ロシアが持っている化学兵器を使わんがためのフェィクニュースだと言われる。ロシア軍は短期間で占領できると思ったらしいがウクライナ軍の反攻によって苦境を陥っているという。ゆえに彼等が何をしでかすか分からない。それで世界中が恐怖している。核兵器が使われるかもしれない。

 ロシアは情報統制を敷いている。新聞報道では、「ロシア、軍事の虚偽情報に最大15年の刑 議会が法案採択」と伝えている。「侵攻」という言葉は禁句として使ってはいけなくなったという。議会そのものが情報統制に双手をあげて賛成している。

 市民の自由を縛り付ける法律は、つい最近中国でも制定された。
「香港国家安全維持法」である、これが中国の全国人民代表大会常務委員会で6月30日に全会一致で可決された。香港政府が同日にこれを施行した。
香港では街を埋め尽くすほどの群衆が出て中国の横暴を許さないとデモをしていた。が、法律が施行されると人々はもう怖がって街に繰り出さなくなった。言論統制の恐ろしさだ。

(三)
 専制政治では何でもできる。たとえ民主主義国家であっても多数を与党が握っていればなんでもできる。数の力の怖さだ。
 この民主国家?日本でも戦争中と同じように、国家は平然と嘘をつく。
 森友学園案件に関わる決済文書の改ざんは好例である。国はいけしゃあしゃあと嘘をつく。
 悪質なのは、嘘でないような嘘を平然とつきもすることだ。放射能汚染土の問題である。
汚染土は福島県に運びこまれているが、中間貯蔵開始後三十年以内に、福島県外で最終処分を完了するとされている。どう考えても不可能だそれを承知で国と県とが認めた。いまも大量の汚染土が運びこまれている。

 はっきり言う。
 民主主義、人権などは、与党が大多数を持つようになると守られない。戦争への動きも危ない、ウクライナ問題に端を発して、だから日本も核を持つべきだなどと怖ろしいことを言い出している。
 ロシアの例をみてわかるように、与党が多数をしめていると独裁者のいいなりになる。プーチンに反対するナワリヌイ氏に詐欺や法廷侮辱罪で禁錮9年の刑が言い渡された。専制国家は裁判所まで腐っている。
 民主主義を守るためには、どうすればよいか、与党に投票しないことだ。
 民主主義、これは力が拮抗することで個々人の人権は守られる。

〇連絡 北沢川文化遺産保存の会
 明日、27日、事務局邪宗門に会報、第89号を午後届けます。


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2022年03月24日

下北沢X物語(4452)―子の神とダイダラボッチ ―

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(一)考古学というのは数式で解法を見出すと聞いた。当地、荏原一帯に多くの古墳がある。ここからは鏃が出土する、ほとんどが神津島産だという、その輝度を測れば容易にわかると。隕石の成分から鉱石を割り出し、この物体がどの天体から来たか数式で割り出せるようなことも聞いた。これを聞いて、ダイダラボッチは数式化できないと思った。最近知ったのは「ダイダラボッチ」を主テーマにした書物がないことだ。ダイダラボッチには具体的なブツがない。伝承だけが頼りである。が、ダイダラボッチは古代日本人の心のふるさとだ。日本人の想像力の源泉である。国造りとかはここから発想されている。想像の原点である。柳田国雄は『ダイダラ坊の足跡』で、ダイダラボッチこれを「自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまわずに、今すこししんみりと考えてみたい」と述べる。しかし、沈着冷静に考えずに世は面白おかしく考えて、これを妖怪化してしまった。

 われらダイダラボッチ探検隊は鶴ヶ久保公園を探索し、柳田国雄が『ダイダラ坊の足跡』でいう。「第三のもの」という箇所へ行った、ここは「もう小字の名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなお七、八町も隔てた雑木林のあいだであった」と彼は述べている。

 ここはどこか?すでに何十回とここを訪れて私はその場所を特定していた。地形的な特徴を考えるとここしかなかった。

 この地には不思議な台地がある。これは東西に長い舌状台地である。ダイダラボッチとされる鶴ヶ久保はこの大地の北側の基部の谷頭にある。何度も訪問して分かったことがある。舌状台地の南部にも谷頭があった。ここに池があって弁財天が祀られていた。これが清水丸弁財天だ。

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2022年03月23日

下北沢X物語(4451)―鶴ヶ久保のダイダラボッチ ―

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(一)歴史は虚構に満ちている、私たちはそれを日々目の当たりにしている。クリミア併合8周年を祝うイベントがモスクワのスタジアムで開かれた。会場内外で20万人集まったという。ロシアの国旗を大勢が振りかざし、この中にほっぺに国旗をメークした女子などの若者が大勢いた。あの侵攻は「東部の親ロシア派住民を助けるため」とプーチンは演説した。観衆は熱狂する、気味が悪い、政治家ではなく神となった彼を思った。一方でウクライナの都市が無差別爆撃を受けて大勢の市民が犠牲になっている。力の強い者、権力者が歴史を作っていく、勝てば官軍だ。日本の歴史も勝者の歴史に他ならない。野沢のダイダラボッチ痕跡にもその片鱗が見られる。鶴ヶ久保公園である。この公園は昭和13(1938)年に東京市の公園として開園した。この時に名付けられたものだがこれ以前は「ダイダクボ」と称されていた。すなわちダイダラボッチである。

 ダイダラボッチの三条件、くぼみがある、神さまが祀ってある、近隣に古墳がある。いわゆるダイダラボッチ3Kである。すべてここには備わっている。古墳は、公園の北側旭小学校付近に縄文時代中期の北丸古墳がある。

 神さまは弁財天、鶴ヶ窪弁財天である。これは伝説に基づいた名付けだ。

 ある年吉宗公が、目黒三谷の池付近で鷹狩をしていたときに、鶴が舞い上がったので、その後を追ってきたところ、のどがかわいたので、窪地から湧き出す水を飲んでいるうちに、鶴を見失ってしまった。
 吉宗公は、「あの鶴を見失ったことは残念ではあるが、これ以上深追いするな」という啓示をうけとりひきあげる。そしてこの地を鶴ヶ窪と名付け、そこに弁財天と、水神を祀り、鶴ヶ窪と名付けたと伝えられている。
 「しもうま」 下馬史跡保存会 1970年刊


 鶴ヶ窪は、いわゆる谷頭に位置する、湧水のわく場所だ、ゆえに飲用に供されていたことは間違いない。下手に下って田を潤していたようだ。
 地名は、将軍吉宗公の逸話にあやかった。東京市民も徳川伝説には弱い。が、吉宗公云々は牽強付会だ。神さままで将軍にあやかっている。
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2022年03月21日

下北沢X物語(4450)―駒沢林愛作旧邸とダイダラボッチ 2―

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(一)ダイダラボッチとは何か?我が日本においてこれを学術分野でまともに取り上げたものは少ない。邪険に扱われていると言ってよい。昨年こんなことがあった。世田谷代田駅前広場にダイダラボッチの足形が完成した。マスコミにも連絡した。在京二紙から反応があった。一社は区に資料を取りにきた、もう一社東京新聞からは女性記者が取材に来た。広場を背景にして写真まで撮った。ところが記事には載らなかった。編集権は新聞社にある。事情があるのだろう。「こういう事情で載りませんでした」、マスコミ人士の最低限の礼儀だ。が、その後何の音沙汰もない。失礼極まりない。こういう事情の背景にはダイダラボッチなるものの市民権が得られていないということがある。「ああ、妖怪の一種ね」ぐらいの教養しか日本にはない。試みに東京都の図書横断検索で調べてみた。世田谷区立図書館、大田区立図書館が蔵書している「巨人伝説読本:代田のダイダラボッチ」が光っていた。手前味噌ではあるが妖怪類の中では孤軍奮闘していた。

大正年間においてダイダラボッチブームが起こった。近代化との連関からである。明治維新以来、諸方面において開発が進行した。都市に隣接した武蔵野も開発の触手が伸びてきて地勢が破壊されるようになった。畑が転じて宅地になる。そういうときに農夫は境目の物語を語る。「ここはダイダラボッチ」だったと。

 ダイダラボッチの火付け役となったのは「武蔵野会」の論考である。昭和二年発行の柳田国雄の『ダイダラ坊の足跡』では、「あの頃、発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に二つのダイダラ坊の足跡があることが書いてあった」とある。それが「駒沢遠足」(鈴木堅次郎 大正八年七月)「武蔵野の巨人民潭」(谷川磐雄 大正八年十二月)である。柳田国雄はこれを読んで強く刺激された。それで荏原ダイダラボッチ巡礼を思い立って実施した。

 いわゆる「ダイダラボッチ論」では、正統的でまっとうな論考だ、ダイダラボッチ現象の深奥に日本人の深い歴史が潜んでいる。そういう見方でこれを書いている。

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2022年03月20日

下北沢X物語(4449)―駒沢林愛作旧邸とダイダラボッチ―

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(一)第172回のまち歩きでは、まず駒沢林愛作旧邸を訪ねた。広大な敷地を持つ元電通「八星苑」にはフランク・ロイド・ライト設計の建物が残っている。敷地は住友不動産に売却された。前は塀の上から中を覗けた。が、塀の上を目隠しするようにアルミ塀がぐるりと設置された。明らかに人の視線を遮ろうとの意図を感じる、貴重建造物を眺めたり、写真で撮影したりできないようにしている。勘ぐったのは保存運動が起きないように予防線をはるために塀をしつらえたのではないか。同行の別宮通孝さんの話だと、フランク・ロイド・ライト設計の残存建物は四つだという。帝国ホテル玄関、自由学園明日館、山邑邸(ヨドコウ迎賓館)、そして林愛作邸(電通八星苑)である。区内の著名建築物の保存運動をしている人に問い合わせたところ保存運動は起こってはいるとのこと。

 旧林愛作邸になぜ行ったか、大正八年六月一日「武蔵野会」の遠足が行われた。「駒沢行」である。渋谷を出発し代官山の猿楽塚を訪れ、上目黒宿山、駒繋神社、最澄寺などを経由してこの林愛作邸に着いた。この「駒沢行」は「武蔵野遠足記」として記録に残されている。一帯のダイダラボッチについて詳しい、鈴木堅次郎氏が書いている。ここに記録された「林愛作氏邸附近の地誌」は貴重である。(旧仮名遣い、旧漢字は書き換えた)

 林愛作市の新邸は駒沢村上馬引沢と同源沢との地境に在り、朋来居と名づく、四方田畑にして 東西南の三方は芝生の庭に続いて自家の畑越え、田を越えてゴルフ倶楽部の茫々たるグランドとなっているので眼界を遮る何物もなし、茫漠たる武蔵野の趣を味わうべく適当に造られてある。 而も此の地は頗る由緒に富んで居て領分関係から云えば林邸は大久保という旗本の領分、その前の帯の如き田は井伊領、其れを越えたゴルフグランドの地は井伊領と幕府領で邸の東方はデガシラ(出頭)という水源地で前は五町八反と俗称せられ明治14年2月6日、明治天皇が小松宮北白川宮両殿下を供奉として御乗馬にて此の地において兎狩りを遊ばされた旧跡で馳走遊ばされた御野立場であると伝えられてある。斯かる か興味深い史実も古老と共に消え去らんとしてる。若し此の邸内にでも記念碑が建てられるようのことあらば詳細なる調査書を発表しようと思う。之に就いて戸川さんに御面会折御願いしたら宮内省の方の材料も若干求め得られたと同氏から林さんに通報が来ている。
武蔵野特別号 大正7年7月 発行武蔵野会

 
大正六年 1917年、ライトにより林愛作邸(朋来居)が設計され、竣工された。帝国ホテルの新館建設はこの後になる。先駆性ということを考えれば、建物の貴重性は増すのではないか。
 林愛作邸には「朋来居」という別号がつけられていた。多くの人々を招いて野立てもしたようだ。やはり広大な敷地だった。屋敷から見下ろせる景色は広漠としていた。かつての武蔵野である。

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2022年03月18日

下北沢X物語(4448)―下北沢芸術・文士町文化地図―

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(一)昭和十三、十四年頃に世田谷代田に日本画家が多く集まっていた。「帝国新書画名鑑」から抜き出してみたところ十六名が確認できた。参集、蝟集だ、日本画家が集まる芸術村だったと言ってよい。隣接地域の北澤には三名が確認できたのみだ。どうして世田谷代田に画家がこれほどに集まってきたか。考えられることは子弟関係だ、名鑑には師匠筋の名が記録されている。「蓬春」が二人いた。日本画の大家山口蓬春はここ世田谷代田に住んでいた。居住は、昭和4年10月からで、昭和14年に祖師谷に画室を作って引っ越す。三宿の平福百穂とは懇意で奥さんは彼の門下生を娶っている。百穂の門下生と矢沢弦月の門下生がそれぞれ二人住んでいた。百穂は三宿、弦月は太子堂、弟子筋は師匠に近いということで世田谷代田に住んだ。

 昭和6年に萩原朔太郎は下北沢に越してくる、が、帝都線ができてうるさくなるだろうと昭和8年、世田谷代田に転居してくる。詩人、作家としてどこに住むか、ここから芸術家のポジション取りが想起される。朔太郎の弟子三好達治は代田に住んだ。彼は、当地のことを場末と呼んでいた。当地は、田舎度、田園度が高いと言える。景観もよい。眺めがよいというのは日本画には大事な点であった。

 戦後、疎開先から引き揚げてきた斎藤茂吉は世田谷代田に住んだ。

 冴へかへるわれの住む代田の家の二階より
       白糖のごとき富士山が見ゆ


 世田谷代田は高台にある。どこからでも富士が見えた。景観という点では隣接する北澤よりもよい。日本画家が集まったのは景の魅力もあったからではないか。

 代田の古老が言っていた、根津山にたたずむと向かいの尾根の上を車馬がゆっくりと進んでいく様子が見られたと。その間には菜の花畑があって得もいわれぬ景観があったと。

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2022年03月17日

下北沢X物語(4447)―芸術画家村としての世田谷代田―

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(一)「まさぐる」という言葉がある、手先であちこち探すことをいう。突っ込んだ穴から何が出てくるかわからない、よくあるのは筋違いのものを探しあてることだ。三宿にあった画塾「白田舎」を調べているうちに知った。三軒茶屋近辺に日本画家が多く住んでいた。さらに資料に当たったところ、なんと灯台下暗し、われらがフィールドワークしている世田谷代田に多くの画家がいたことだ。底流には文化人の武蔵野願望があった。とくには画家系統にはこれが強かったように思う。これにも歴史段階がある、まず玉電が武蔵野への通路を切り開いた。それでこの沿線に画家が住んだ。昭和二年になって小田急が開通すると今度はこの沿線に集まってきた。その一つが世田谷代田だった。新たなる文化論の切り口となるか?

 世田谷代田に住んでいた画家のひとりに八幡白帆がいる。画塾、「白田舎」出の日本画家である。「帝国新書画名鑑」昭和十三年版に記載がある。これの「帝国芸術院会員」として紹介されている。「官展九回入選者」である。

世田谷区代田町一ノ四二二 八幡白帆 四八 百穂 人物 花鳥

 昭和十三年で四十八歳である。「官展九回入選」というのは高いステータスがある。「百穂」とあるのは、平福画伯の門下生である。

代田の家から歩いて五分とかからぬところに日本画の八幡白帆画伯が住んで居られて、父の肖像を描いた。三十号の大きさで白髭の父が、物入れついた黒い前掛けをかけて、あぐらをかいて、南蛮船や出島をえがいた長崎の絵図を眺めているという構図だ。この絵は日展に出品されたのち、山形県庁に買われて、知事室にかざられた。
「茂吉の体臭」  斎藤茂太  昭和三十九年 岩波書店


旧住所は、現住所では代田三丁目四七当たりだ、1962(昭和37年版)住宅地図では「八幡」の名が載っている。画伯は、「昭和32年(1957)歿、64才」で亡くなっている。遺族が受け継いで住んでおられたのだろう。ここが終焉の地であるようだ。
家は、茂吉代田時代の近くである。足しげく出入りをしていたようだ。斎藤茂吉と八幡の師匠平福画伯とはとても懇意であった。画伯は歌人でもあった。
八幡白帆が描いた肖像画は、山形県上山市にある斎藤茂吉記念館に「茂吉の肖像」として今は飾られている。

 世田谷代田は平福画伯が住む三宿に隣接した地域だ。百穂の門下生がもう一人住んでいた。

官展十回以上入選
世田谷区下代田 八一 島田柏樹 四八 百穂 花鳥

画家の場合は子弟関係が濃厚である。それで師匠に近いところに居を構える、ということはあるようだ。世田谷代田と三宿は徒歩圏内である。
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2022年03月15日

下北沢X物語(4446)―ロシアの侵略戦争と私たち―

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(一)日々生々しい戦争の実写が映像で流される。ロシア軍の我が物顔の侵攻はすさまじい。ウクライナ側の住宅マンションをミサイルが攻撃し、病院をも砲弾で撃ち抜いている。血だらけの負傷者が運び出される、母親が子を殺されて泣き叫ぶ、神はいない、悪魔が跋扈している。ロシアのプーチンのやりたい放題になすすべもなく、戦争は進行している。プーチンはロシア帝政時代の栄光を取り戻そうとしているともいう。が、かの国の戦争の仕方は残虐だ、あらゆる武器を使ってウクライナを攻め立てる。明白なのは人権意識とかは皆無である。原始的、野蛮的な手法で市民を殺戮している。彼の蛮行を「世界が見ている」が、彼らには何の痛痒も感じていない。ロシアは論理も倫理も通じない野蛮国家だ。

 政権は権力を保持するためになんでも行う、外国にいる反体制派を毒殺する。そういえばロシアは国家主導でドーピング不正を繰り返していた。検査場の壁がぱっかりと開いて尿を取り換えるという場面が思い起こされた。今朝の新聞でも反体制派の新聞記者はよく
殺されるとも書いてあった。目的のためなら手段を選ばない。

 昨日は昨日で、ウクライナのメリトポリ市長が拉致されたが、「日曜日にロシア軍は元市議会議員のDanilchenko氏を新市長に指名した」という、彼女いけしゃあしゃあとテレビに出てきてウクライナは情報が少ないから皆不安に陥っている、これからロシアのテレビ放送を流すのでそれを見よと言っていた。

 ロシアの体制が放送するテレビは、ウクライナ軍事侵攻とは言わせない、「特別軍事作戦」と呼んでいる。ロシアにとってこの作戦は聖戦なのだと、これに基づいて報道規制をしている。そのために独立系の放送局は会社をたたまざるを得なかった。もうロシアでは大本営発表のプロパガンダ放送しか視聴できない。

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2022年03月14日

下北沢X物語(4445)―YouTube時代の世界―

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(一)「ネットが崩す公私の境」(黒崎政男)は今でも国語教材の定番だ、自身でも扱ったことがある。著書の中で「公私の境が溶け落ちる」ということが述べられていたが、当時はこの実感はなかった。が、このブログを開いたのが2004年8月だ、もう十八年も経過した。ネットによって公私の境目がなくなる、それは明確に実感できる。歴史なるものは公のもので、我らはこれを価値尺度にして暮らしてきた。が、ネットが歴史に隠れていた真実を暴いた。ネット発信は個別個別に届く、実は歴史というものは教科書にあるものではなく個人個人の記憶にあると知った。好例が「鉛筆部隊」だ、自身がこの語を投げかけたことが発端となってつぎつぎに人に伝わり、最終的にはこの全貌が分かり、今はウィキにも載っていて多くの人々が読んでいる。

 ネットが普及して誰も彼もが発信者となった。ネットにはあらゆる種類の文字情報や画像情報が載っている。このネット画像といのものも際立って面白い。

 今、いわゆる地上波は、はっきり言って面白くない。テレビ欄を見るが、見ようと思うものはない。テレビを点けると妙に派手派手しい連中が出てきて面白おかしく語っている。何の興味も湧かない。自身報道番組は好きである、が、この頃の通常報道には骨がない、突っ込みもなく、締めくくりとして「目が離せませんね」とお決まりの文句がくる。

 むしろこの頃ではネットの時事報道番組が面白い、本質をぐさりと衝いて議論している。地上波から離れた人々は今は間違いなくユーチューブに移行している。

 ネットにはあらゆるジャンルがある、ジャンク的でそこから面白いものを探し出す楽しさがある。ところが、人間恐ろしいものだ。

 自然災害のみを写し出す映像がある。例えば、洪水だ、上流から鉄砲水が襲ってくる。下流には見物人が押し寄せている。驚くのは皆スマホを掲げていることだ。誰も彼もが災害特派員だ。画像をどうしているのだろう?
「あのな、ペドロはアメリカの放送局に売りつけて一万ドルもうかったそうだ」
 という噂もある。

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