2023年12月04日

下北沢X物語(4837)―創立20周年を振り返る―

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(一)12月2日、会創立20年を記念して北沢タウンホールに我々は集まった。参加者全員に過去を振り返ってもらった。そのスピーチの言葉から思ったことは根幹相関文化を思った。これは20年経っての気づきである。まずは、長老御大の作道明さんに乾杯と献杯とを行って戴いた。20年、おめでとう言い、そしてこの間、亡くなられて方々の冥福を祈った。20年経つ間に多くが亡くなられた。まずは東盛太郎さん、我等がデビューできたのは彼のお陰だ、彼が手がけた『北沢川文学の小路物語』は東京版のトップ記事で『朝日新聞』と『毎日新聞』で報道された。冊子は邪宗門で配布した。「いつもとは違う客層が見えましてね、大久保良三さんが店の前で交通整理にあたったほどです」作道さんの語り草である。つぎに元区会議員の獣医の広島文武氏、区との折衝役だった。そして我等の文学碑に辣腕を揮われたデザイナー道吉剛氏、文学碑整備係の金子善高さん、今井明さん、川田正義さん、田中良輔さん、富安好恵さん……この他、振り返り映像を見ているとあの人もこの人もでてくる。20年は人の生死の歴史だった。

振り返ると悲喜こもごものことが思い出される。笑ったり、喧嘩したりした。
「門というものは人が通り抜けるところだ、真ん中に塞ぐような形で碑をおくな」
 坂口安吾文学碑を建てるに当たっての論争だ。が、この碑も今は、苔の生えかかった碑は、前からありましたという風に代沢小学校に建っている。

 東邦薬品総務部の岩城康男さんにはお世話になった。文学碑を建てたり、地図を発行したりしたが、会社には資金面ではずっとお世話になっている。
 当初、私達は、当地に立つ大欅の葉ずれ音を聞いて、隠岐の旅に出かけたという加藤楸邨の句碑を建てる予定だった。が、直前になって断られた。困った私達は、急遽三好達治の詩碑を建てることにした。遺族に恐る恐る建碑のお伺いを立てたところ許可が出た。

「結局、比較ということになりますね、俳人と詩人とではどちらがいいか?」
「まあ、やっぱり全国的に知られている三好達治さんですね」

(二)
 下北沢の相関根幹文化である。この関係性を説明するのは難しい。戦前から多くの文化人が住んでいた。種々雑多なジャンルの人が住んでいた。その人々の関係性はこの地ならではだったと言える。

 赤坂さんは北沢生まれだ。彼はまち作りにも関わってきた。今現在、まち作りが継続して行われているが、当地の文化や歴史を生かした形になっていないように思います。きらびやかな面で終わっています。土地の背景をもう少しまち作りに生かしてほしい。

 私達は、版を重ねて「下北沢文士町文化地図」を創ってきた。現在は9版を作成中で来春には完成する。特集は萩原朔太郎である。昨年、「萩原朔太郎大全2022」が開催され、全国で40程の団体が、展示を行ったり、講演を行ったりしている。近代日本詩人の元祖である。しかし、忘れられていることは彼詩人の終焉の地はここである。十一年間を下北沢と代田とで過ごし、1943年5月11日に息を引き取った。当地が終焉の地である。

 彼は、自らを永遠の漂泊者と行っている。が、世田谷代田で生を終えることで漂泊は終わった。しかし、彼の魂はまだ当地一帯をさ迷い続けている。このことを現代詩人で今も信奉している人がいる。萩原朔太郎は文学文化の資源である。が、そういうことは生かされていない。我等、朔太郎の町を念頭に置いている、それで今度の地図にシモキタザワ「猫町」散歩のモデルコースを提案している。まち作りの一環だ。
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(三)
 創立20周年、皆は思いを語った、20年という時を生きてきた。多くの思い出があった。今回、プロジェクターに過去映像を流した、その場面、あの場面が思い出された。

 今回創設メンバーで参加したのは作道明御大と私だ。20年間、会を引っ張ってきた。多くの仕事をやってきた。これ以後どう続けるのか課題である。自身もそう長くは続けられない。後継者が育ってくれればと思う。願わくば町案内をする若い人が出てきてほしい。

 やはり大事なのは、若い人をどう入れていくかだ。幸いに私のかつての勤務校の卒業生が加わってきている。嬉しいことだ。
 文化探訪は、おもしろい、おもしろがればおもしろくなる。

◎地域文化をどう残すか?大きな課題だ。
 ぜひみなさん、ご意見やご感想をください。
 投稿があったら今年最後の会報210号に掲載します。ぜひください。

(上は2日の記念撮影、下はありし日のダイダラボッチ劇の練習風景)


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2023年12月02日

下北沢X物語(4836)―204戦隊関係者は遺品返還を歓迎する―

飛行第204戦隊栗原義雄少尉
(一)東京荏原都市物語資料館を通して多くのドラマが起こった。つい最近もその前ぶれとも取れるブログコメントがあった。アメリカ在住の人からの依頼だという。1945(昭和20)年5月20日夕刻、飛行第204戦隊の特攻機5機は台湾八塊を出撃し沖縄慶良間沖で戦艦に突撃した。このときに一機がアメリカ艦船に激突し14名の犠牲者が出たという。このときに関係者が日本機の破片を持ち帰った。その当人か御子息かが部品を所持していた。あの大戦から78年、老齢になられたのだろう、これを日本の遺族の関係者に返却したいとのことだ。私は、この時の出撃機の隊長栗原義雄少尉の甥御さんに連絡を取った。そして「遺族が深い興味をしめしている」と返したのだが、その後一切の連絡がない。それでこのネットに公表し、投稿者の岡田さん、あるいはこの辺の事情をしっている人に伝えようとするものである。これらのことをご存じの方がおられれば連絡をと願うものだ。

 まず、当方に寄せられたコメントだ。

岡田 2023/11/09 23:30

こんにちは。はじめまして。
当方、USSRegisterのキングポストに特攻を成功させた隊員が誠204戦隊のどなたであったかを探しております。USSRegisterが1945年5月20日19:25に沖縄で特攻攻撃を受けた際の特攻機の機体のパーツを持ち帰ったアメリカ人のご遺族が、この破片を特攻隊のご遺族にお返ししたいとのことで、お手伝いをさせていただきます。何かご存知でしたら情報をお待ちしています。
どうぞよろしくお願いします。


ここで述べられる「USS」であるが、アメリカ海軍艦船の艦船接頭辞。United States Ship の略 である。Registerは登録するだ。つまりはアメリカ海軍に登録されている船ということだろうか、そしてキングポストだ。

キング・ポスト (キング-ポスト (king-post), キングポスト (kingpost)) は建築や橋のデザインで使用される中央の垂直な支柱 (post) である。

起重機のついた輸送船のことを言うのだろうか。記録にある艦船名は駆逐艦サッチャーである。

(二)
サッチャーについては、ウィキペディアに記載がある。

5月13日、サッチャーは沖縄近郊の慶良間諸島に向かい出航した。駆逐艦は輸送艦が停泊する際、日本軍の航空機を索敵及び迎撃する任務に割り当てられた。5月20日、サッチャーは多数の日本軍の航空機が停泊地に接近しているのを発見し、対空砲火を行った。低空飛行の一式戦闘機隼が左舷を通過したとき、サッチャーは速度を25ノット(46 km / h)に上げ、20mmおよび40mm砲で迎撃した。しかし、神風特攻隊の機体は急上昇した後に船体に突進し、船体後部に激突した。サッチャーは航行不能となり、外部との通信も絶たれた。14人が死亡または行方不明となり、53人が負傷したため、サッチャーは慶良間港に入港した。

 飛行第204戦隊の機種は「隼」である、ここの記述と合致するものだ。栗原義雄少尉を隊長とする隊は、台湾八塊飛行場を飛び発った。隊長以下、小林脩少尉、田川唯雄軍曹、大塚喜信伍長、伊沢賢治伍長である。これらの一機が該当するものである。
飛行第204戦隊田川唯雄軍曹
 その一機の搭乗者は誰なのかは不明である。しかし、5月20日に出撃した飛行第204戦隊の戦果だといえる。太平洋戦争も遙か昔となった。が、機体破片、遺品の返還は当時のこの戦隊のリアルな遺品である。甥の鈴木豊さんは、返還されたらどうするのか関係機関に相談したという。

(三)
On the evening of May 20, 1945, five suicide planes from the 204th Squadron departed from Taiwan and attacked a battleship off the coast of Kerama, Okinawa. One of the planes crashed into an American warship, killing 14 people. At this time, those involved brought back pieces of the Japanese plane. Either he or his son was in possession of the parts. It has been 78 years since the war, and he has probably reached an old age, and he would like to return it to his family in Japan. I contacted the nephew of Second Lieutenant Yoshio Kurihara, the commander of the plane that took off at the time. He then replied, ``The bereaved family has shown a deep interest,'' but there has been no contact since then. So, I decided to publish it on this internet and tell the person who posted it, Mr. Okada, or anyone who knows about the situation. If anyone knows anything about these things, I would appreciate it if you could contact me.

 飛行第204戦隊の遺族は、特攻突撃機の破片の返還は歓迎するものである。返還された暁には、これを通して彼ら五名の隊員を偲ぶものである。保管については関係機関に連絡を取り、この事跡を記し、展示されんことを願う。

 コメントされた野口さんからの応答があれば幸いであるが、一旦連絡が途絶えているので難しいかもしれない。このことに関するアメリカ側関係者、また、日本側関係者からの情報を待つものである。(写真、上隊長栗原義雄少尉、下田川唯雄軍曹)

付記 この記事をアップした後に、鈴木豊さんからつぎのような情報があったので、記録として大事なのでここに転記した。

叔父たちの隊で米軍艦船が攻撃を受けたのは、娘の祥子の調査では6隻あります。
護衛駆逐艦 DE-339 USS JHON.C..BUTLER
 2機攻撃、一機命中 損害 負傷3名
駆逐艦 DD-514 サッチャ―1機命中機関停止 戦死14名、負傷53名
高速兵員輸送艦 DE-158 USS CHECE1機命中上部損傷
高速兵員輸送艦 USS REGISTER 一機命中上部損傷
戦車揚陸船 LST808 爆撃後に沖縄伊江島の海岸に座礁、その後廃棄
死者17名、負傷者11名
この様な記録なので叔父たちの204飛行隊と知覧からの振武隊の飛行機が共同で戦果を挙げたと思われる。
 鈴木豊




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2023年12月01日

下北沢X物語(4835)ー北沢川文化遺産保存の会会報第209号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第209号    
           2023年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、北沢川文化遺産保存の会発足20周年 きむらけん
                    
 〇廚そ仗爾ぃ横闇
 月日が経つのは早いものである。20年前の12月17日、代田信濃屋の会議室で北沢川文化遺産保存の会の設立総会が行われた。地域の方や役所の方などかなり多くの方が来ておられた。我々の会はこれまでにない組織で興味を持たれたのだろう。
「設立趣旨を誰が話すのですか?」
「それはあなたに決まっていますよ」
「えっ、私がですか?」
 二階会議室はほぼ席が埋まるほど人々が集まった。元世田谷区議員だった広島文武氏の尽力によるところが大きい。当方の設立メンバーは会長の永井邦雄氏、広島文武氏、東盛太郎氏、作道明氏、きむらけんである。広島文武氏と東盛太郎氏は物故された。

 総会で何を話したかは覚えていない。しかし、北沢川沿岸の特異性を訴えた。ここには日本有数の詩人や歌人や小説家などが居住していた。このことに気づいて私らは調べ始めていた。著名文学者、文化人はどんどん見つかった。気づいてみると特異な文化現象である。私たちがこれらの集まりを村とは言わず、町と称したのはここに因がある。土地固有の文化現象を結果としては提示することになったと言える。
 当初は文学者の旧居探しを行っていた。しかし調べていくうちに多くの文化現象が見つかった。思い出すままに列挙すると下北沢店員道場であり、海外植民学校であり、代田連絡線であり、ダイダラボッチであり、三田用水であり、帝国音楽学校などである。
 掘れば掘るほど出てくる。いわゆる闇市のことも大きな現象であった。
 小さなことで言えば「マコト」の話がある。下北沢北口に戦後にできた珈琲店である。これを最初に言い出したのは映画監督の松林宗恵氏である。しかしこれはなかなか突き止められなかった。が、ついには関係者が見つかった。幻の「マコト」はマコト実在していてその全貌が分かったものである。
 戦後珈琲が手に入らない時代、PXから仕入れて本物の珈琲をここでは飲ませていた。当時映画づくりは重労働だったという。スタジオには煌煌と照明が点けられいる。その中で仕事をしていると相当に消耗したという。撮影がはねて、「マコトにコーヒー飲みに行こうや」と関係者が多く呑みに来ていた。監督同士の談笑会だった。そんな中で新しい映画が生まれたという。
 本当に多くの人と出会った。下北沢一番街の大月菓子店の文子おばあちゃんからたくさんの情報を得た。萩原朔太郎の下北沢の旧住所を聞き出してきたのは彼女だ。建築家の今井兼介さん、映画プロジューサーの森栄晃さんなど多くの人を紹介してもらった。話題の源泉は彼女である。

 20年間経って親しくしていた人が多く亡くなった。
 獣医の広島文武氏は元世田谷区議だった。行政との窓口なって動いていただいた。北沢川緑道に4基の文学碑を建てるに当たっては氏の助力が大きかった。
 デザイナーの東盛太郎氏、会としての発信デビューは『北沢川文学の小路物語』だ。デザインを彼が行い、文はきむらがまとめた。発刊すると東京版の『朝日新聞』と『毎日新聞』で大きく報道されて、我等の活動が広く市民に知らされた。なお、「下北沢文士町文化地図」は現在9版を編集中だが、これの原図を創ったのは彼である。
 デザイナーの道吉剛氏、「横光利一文学顕彰碑」、「三好達治文学顕彰碑」、「代田の丘の鉄塔61号由来碑」のデザインを手がけてくださった。紀要の表紙も彼の手になるものだ。
 金子善高さんは、緑道に建立した4基の文学碑を保守、整備し護ってくださった。
 今井明さんは、近隣の地域資料の収集に尽力された。田中義輔さんは地図制作費を寄付してくださった。川田正義さんは地域文化発掘に尽力された。その他にも富安好恵さん、中川恵さんなどがおられた。会の存続に尽力してくださった皆さんのご冥福をお祈りするものである。

下北沢の文化を耕して20年

 月日の経つのは恐ろしい、まるで手指の間から砂のように時間がこぼれ落ちていくようだ。
 毎月、「北沢川文化遺産保存の会会報」を発行している。今回は、第209号だ。これを12ヶ月で割ると約18年だ、継続は力だ、「よくまあ、これだけ続いて来ましたね」と間もなく90歳となる邪宗門のマスター作道明さんは言う。その彼は会報発送のためにいつも封筒に住所を書いてくれている。一方橋本さんはその会報を一生懸命折ってくれている。毎月、彼はこの作業を律儀にこなしてくれている。我等の会の20年の継続は人々に支えられて続いている……「あの日は、先生が入って来たときは確か雨が降っていましたね」、邪宗門を初めて私が訪れたときのことをマスターは覚えていた。
 文化探訪を始めた頃にはじめて邪宗門を訪れた。ドアを恐る恐る開けたことを覚えている。このときに出会ったのが東盛太郎さんだった。すでに自身のブログを通して互いに知ってはいたが、会うのは初めてだった。
 実際に会うことで話は盛り上がった。私はブログを書き、彼はそれを一つ一つチェックしていた。近隣の文化事象については既に共通認識ができていた。ブログで知り合ったことが大きなきっかけだった。彼は代沢在住だった。
「夜、家からは小田急の急行が代田の坂を下っていくのが見えました。私にとっての銀河鉄道です……」
 このことは今も印象深く覚えている。
 私自身ブログを始めたのは2004年8月だった。ちょうどそのときに新聞記事にブログのことが話題になっていた。記事の影響を受けてブログを開設した。
 これの優れている点は双方向性があると言うことだ。話題にしたことに対して第三者が反応を示してくる。この会の発足もこのコメントから始まっていた。
 コメントは記録として残っている。その数は膨大だ、彼のコメントにたどり着くまでが大変である。それでも見つけてきた。彼のハンドルネームはじゃらんである。
 
じゃらん 2004/12/29 19:10
小生代沢の住人です。
 昭和30年ころはこのクランクになった細い道を小田急バスが三軒茶屋から新宿まで通っていました。バス同士のすれ違いで時間がかかった思い出があります。当時は車掌が乗っていてバックの際の誘導をしていましたね、懐かしく思い出されました。


 東さんは、茶沢通を通る、下北沢駅発の新宿行きバスがあったことを述べている。このバスのことは皆よく覚えている。東北沢4号踏切を渡るとき車体がバウンドした。そして大きくハンドルを切って右に曲がる。行くうちに庚申塔の角にさしかかると左への急カーブ、屋根すれすれに曲がっていくところが見ものだった。
 翌年、2005/03/05 13:29 じゃらんさんの書き込みがある。

雪の中、自転車とは!
三好達治がこの付近を歩いていた頃私も近所で遊んでいたので、当時の風景が蘇ってきます。さて、キーワードですが。小学校は「花見堂小学校」でしょうか?この学校は昭和34年に開校です。「渋谷と私」は何時頃書かれたものですか?昭和34年以前であれば、小学校は「代沢小学校」ともいえるのでは、私も「渋谷と私」を読んでみたいのですが、なんという本に載っていますか?
 バス停の「若林折り返し」はそのずいぶん後に今の場所にできたと思います。以前は単に「若林」でもっと先の、今の環七の近くまで行っておりました。
車庫といえば東急バスの「淡島車庫」が大きくて目立っていました。こちらは「創運荘」のすぐ近くです。ここの近くは製餡所、ソース工場、インクの工場がありました。ソースは今でも作ってますよ。
 代田から渋谷へは三軒茶屋から玉電に乗るか、東急バス(渋谷ー若林)を利用あるいは小田急バス(梅ヶ丘通りから乗りますが淡島からは東急と同じ路線です)と言う選択も有ります。いずれにしても詩人がかつて歩いていた町ということですよね。


このコメントを見るとこのごろ何をしていたかが分かる。三好達治の旧居が分からない。それで文献から地元のことを記述したものを探し出しては、旧居を探しだそうと懸命になっていた。
 東盛太郎さん、会発足時のメンバーである。
「20年経って発足時のメンバーで残っている人は私と、作道さんだけですよ」
「おそろしいもんですね」
 作道明さん封筒の宛名書きをしながら応ずる。
 東盛太郎さん、くも膜下出血で急逝してしまった。
 遺作は「北沢川文学の小路物語」(写真)だ。
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2、町歩きの案内
 毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。

第190回 12月16日(土) クリスマスの下北沢「猫町」散歩
案内者 きむらけん 下北沢駅東口改札前 13時30分集合
コース:駅→萩原朔太郎旧居→煙草屋→ポスト→「樹木の多い郊外の屋敷町」→朔太郎がさ迷った路地を巡る→下北線路街→踏切地蔵→世田谷代田駅→自宅までの通い道→代田の丘61号鉄塔(世田谷区地域風景資産)→詩人旧居→鉄塔文学碑→三次達治文学顕彰碑→下北沢静仙閣→下北線路街→下北沢駅
コースの魅力:萩原朔太郎には『猫町』という短編がある。虚構小説だが、丹念に見ていくと前半にでてくる町は下北沢であることが想像できる。「下北沢には次元の穴が至る所にある」と言ったのは吉増剛造、朔太郎存在が感じられる場を歩いてみる。
*これの申し込みは既に十名に達しています。


第191回 1月20日(土)駒沢の民族学を歩く
 案内者 きむらけん 三軒茶屋改札前 13時30分
〇旧駒沢町域にある伝説の遺跡を訪ねる。‐綰呂Δ覆蠕仞廣駒沢球場跡・薬科大遺跡跡¬鄲凜謄灰謄鷓笄D瓮久保のダイダラボッチ跡→げ芝呂梁荵阿離瀬ぅ瀬薀椒奪狙廣覚志郷の北斗星遙拝所跡?(駒繋神社)→三軒茶屋駅
コースの面白さ:民族伝承の跡地を訪ねての町歩きである。これも初の試み。
三軒茶屋一帯は千年前の覚志郷ではないかと言われています。今回最後は駒繋神社に行き初詣をします。実はここは覚志郷の遙拝所ではなかったか、つまりは北斗星を祈る場だった。古代信仰の中心地ではとの説があります。
〇駒繋神社を終点とし、三軒茶屋駅までは案内します。

◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)費用について 資料代500円 希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498
                 
■ 編集後記
▲先月「世田谷の鉄塔を歩く」は、希望者が3名だった。催行は4名からということで中止にした。私たちは楽しんで町歩きをしている。気楽でよいのだと思う。仲間が四名集まれば実施する。歩くことは楽しむことである。皆さん、気に入った町歩きがあったらおいでなされ。12月16日はすでに希望者10名、成立している。
▲北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念祝賀会 北沢タウンホール2階集会室にて
12月2日17時40分から。参加者17名。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲「下北沢文士町文化地図」改訂9版は鋭意編集中、刊行は来年3月を予定している。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。年度末になりましたので会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。
(写真は邪宗門前で、作道明さんと、故東盛太郎さん)





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2023年11月29日

下北沢X物語(4834)―名脇役の旧居を求めて三軒茶屋へ 上―

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(一)探し当てようとする人物の住まい跡を訪ねるときは歩いていくべきだ。そこに行き着くまでの町並みを観察していく、すぐ近くには駒沢線51号があった。そして角を曲がって路地に入る、思いがけず狭い路地だ、が、見つからない。通り掛かった人に「伺っていいですか」と聞いたら「ダメダメ、分からない」と初手から拒否をされた。が、「左卜全ですよ」というと、「そこそこ、そこだよ」と。女もののスリップがベランダに干してある家を指さした。「へぇ、ここですか!」たちまちに過去にさかのぼる、「それじゃ、行ってくるから」と奥さんに告げ、ひょこひょこと路地を歩いて行く、老俳優のうしろすがたに哀愁が漂う。路地の先に西太子堂駅がある、きっと彼は高井戸線で山下まで行き、ここで小田急線に乗り換え撮影所まで行っていたのではないだろうか、と思った。

 20年間地域を回ってきた。関心が深かったのは土地と人間である。人はきっと町の風合いに馴染んでいくものだろう。坂があったり、沢があったり、路地があったり、土地には様々な条件がある。人柄と町というのもおもしろい。26日の『世田谷まちづくり交流会』で「左卜全は三軒茶屋に住んでいましたよ」と聞いた。私は、参加者に「三軒茶屋文士町文化地図」を配っていた。が、左卜全の居住はマークされていない。住居跡には碑があるという。だとすれば情報漏れだ。しかし、土地と人間ということで言えば、左卜全はまったく違和感はない。場所は世田谷線西太子堂駅の近くだ。やはりそこへ行ってみないと納得ができない。それで今日は左卜全旧居探訪に赴いた。

 三軒茶屋はさすらいの町だ、林芙美子は太子堂の商店街をふらふらと歩いていた。背の高い大男三好達治はよく三軒茶屋の古本屋を冷やかしていた。山田風太郎も近隣をぶらぶらと歩いていた、それで隣近所の人は彼を「風ちゃん」と呼んでいた。極めつけは大空詩人の永井叔だ、マンドリンを抱えた髭の男はその姿を見ただけで子供たちが集まってきた。

(二)
  左卜全、三軒茶屋には何時から住み始めたのだろう。
 世田谷通まで来て路地に入る。目印としたのは鉄塔だ、駒沢線51号である。この近辺に家はあったはずだ。三軒茶屋(居住地は若林)に住むようになったのは何時からだろう。詳細は掴んではいないが、ここで夫婦で住んでいたという。
 Wikiの年譜ではその結婚についてはこうある。

1946年(昭和21年)、52歳にして当時37歳だった遠い親戚の女性(小暮糸)と結婚。同じ頃、小崎政房を座長とする「劇団空気座」の結成にも参加。

 晩婚である、恐らくは世田谷若林で暗し、この地で生涯を終えたようだ。
 奥さんの名は、三ヶ島糸である。夫である左卜全は1971〈昭和46〉年5月26日)に亡くなっている。その6年後の1977(昭和52)年彼女は『奇人でけっこう』−夫・左卜全(文化出版局)に発刊している。この本、稀覯本で古本価格でも4、5千円はする。なかなか手に入らないようだ。

 さてその旧居跡である、ここには案内掲示版がある。

名優 左卜全 住居跡

 看板にはその意義が詳しく描かれている。
 我々は昨年、2022年度に「三軒茶屋文士町文化地図」を作成していた。左卜全は地図には記録していない。この情報を知らなかったからである。
 「三軒茶屋文士町文化地図」で旧居跡案内があるのは林芙美子である。二例目が左卜全に当たる。記載漏れだ、惜しいことをしたと思った。
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(三)
 左卜全は黒澤監督の映画では重要な脇役として重用され、『生きる』『七人の侍』など、計7本に出演したが、自他共に認めていた代表作は『どん底』でのお遍路役であったという。彼が脇役として出てくると何か、安心感が漂ったように思う、名脇役というものはそういうものであろうか。(写真上は西太子堂駅、下は卜全旧居前の路地)




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2023年11月28日

下北沢X物語(4833)―ふと聞きさした「机9文字事件」―

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(一)26日三茶しゃれなぁどで「世田谷まち作り交流会」が行われた。各グループが別れて互いに交流するものだ。割り当てられた机は「9グループ」である。ここにやってきた男性、「えっ、9グループか、思いだしちゃうよ、『机9文字事件を』」と謎めいた言葉を発した。「えっ、それなんですか?」、「いやね、まったく不思議な事件なんですよ。でもあの時代とてもショッキングな事件でしたよ」と彼は言う。今でも心に深く残っているらしい。「それ場所はどこなんですか?」と私、事件をすぐに土地と結び付けたがるのが己の習性だ。「それはね、砧南中学での話ですよ」

「当時、とても有名な事件でしたよ、新聞では何度も報道されましたからね」と彼は言う。」
 その彼は、「ひきこもり居場所カフェ in 下北沢」を開設しているという。

「ああ、私も教員経験があって当時は不登校と言っていましたね。解決を見出すのはとても困難でしたね。覚えているのは、学校までは平気でやってこれるのだけど、校門まで来るとそれが鉄の塊に見えてもう一歩も入っていけないということを言っていた子がいましたね。こころをほぐせればいいのだけどもそれが難しかったですね」
「まあ、いまは学校にどうして行かなくてはいけないのというぐらいで、ひきこもりはふんだんに居ますね」
 
 「ひきこもり」の話を聞いていると自身もひきこもりかもしれないと思った。私の毎日の日課はまず書くこと、そして散歩することである。たまに町歩きをしたり、また邪宗門に行って他人と雑談をするぐらいである。書くということ、散歩をするという趣味があるので救われている。

「人間ってむずかしいのですよね、一歩踏み出しがおくれるとヒッキーなって、場合によっては十数年も外にでないという場合ありますね、でも、きっかけがあると解決する場合がありますね、とっかかりですけど、それを見つけ出すのが難しいですね」と私。

(二)
 「机9文字事件」は、私は知らなかったが起こった当時は大きな事件として取り扱われている。Wikiの記事に詳しい。

発生
1988年(昭和63年)2月21日午前1時頃、東京都世田谷区鎌田の区立砧南中学校に、ストッキングで覆面をし、軍手をはめた男達が校門を乗り越えて侵入。宿直室にいた警備員(当時38歳)を粘着テープとビニールひもで椅子に縛り付けた上、トイレに監禁した。

3時間後、人の気配がなくなったところで警備員は自力で脱出し、警察に通報。警備員が校舎外に出てみたところ、校庭中央に大量の机と椅子が置かれていた。初めはそれが何か分からなかったが、屋上から見ると校庭に「9」の形状に机が整然と並べられ、さらにその右下脇には椅子9個が丁度「.(ピリオド)」のような円形に並べられていた。犯行に用いられた机447個と椅子9個は、宿直室がある校舎とは別棟の3階建ての南校舎から運び出されたもので、犯人は作業を大人数で行ったのは間違いなかったが、目的も動機も全く見当のつかない犯行であった。


 砧南中学、どこにあるか。野川と仙川が合流する辺りにある学校である。最初話を聞いたときは校舎から机を数個持ち出して9の字を作ったのかと思ったらそうではない。なんと447個も持ち出して9の字を作った、大がかりであった。結局警察の捜査が入ってその関係者は捕まった。興味を引く事件で、新聞にもことの顛末が載っている。

砧南中 「9」の字 卒業生の仕業 「1999年には我々がトップ」 世間に狎觚性 設計図描き周到に 5人逮捕 約10人、1時間40分かけ」『朝日新聞』1988年(昭和63年)4月21日付東京本社夕刊19面。

 一つの見方では世紀末の事件と捉えている。確かに世紀末という意識は多くの人の気持ちにあった。「2001年宇宙の旅」というものがあった、時間がどんどん経ってしまい、はるか先だった2001年すら超えていくという恐怖があった。

(三)
 世紀末という意識は私にも強くあった。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』は、ぜひともに今世紀末にまでに書いて出さねばならないという意識は強くあった。それでこの本奥付は1999年12月となっている。
 世紀が変わるときに何か残して置きたいという気持ちが当時の少年にあったものだろう。が、しかし、もう今は2023年11月だ。時間の経つのが恐ろしいほどに速い。
(交流会の様子)



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2023年11月26日

下北沢X物語(4832)―改訂新版:下北沢X惜別物語 了―

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(一)昨日、北沢川文化遺産保存の会会報第209号を事務局の邪宗門に届けた。御大のマスター作道明さんと話した。私の話だ、「活動を始めた十数年前は古老が至るところに居てひたすら聞きまくりました。恐ろしいことに歳月が経って気づくと自分が古老になってました。が、ここに落とし穴があるのです。この間代沢小で講演がありました。『1942年10月に黒羽織をきた夫人が代沢小に現れて、一つの教室に入って行き挨拶をしました。≪皆さん、私の子供がお世話になりました。明日から官邸に移りますので転校いたします≫東條英機夫人のかつ子さんが代沢小に挨拶に見えたのですよというエピソードを話したのですが、みなポカンとしている。東條英機が誰がきっと知らなかったのでしょう」……自分は知っていてもそのことは古い話で皆には通じなくなってきている。年齢落差だ、今度また代沢小で去年に続き学童に『鉛筆部隊』の話をする。いつの間にか鉛筆部隊の語り部になっていた。

 長々と続けた故黄金井達夫メモの紹介だ。今日で終わりとしたい。残りのメモから選んでここに記載することにする。

・「下北沢X惜別物語」の(19頁)には、「井の頭線の運転台の窓にはヒサシがあった」とある。ひさしは当然、太陽光線の直射によるまぶしさを防ぐものであったろう。 ある日夕方近く下北沢と池ノ上間の築堤上の下り線で追突事故があった。池ノ上を出発した電車が(その運転台の窓にはひさしがあった) 下北沢駅の手前で信号停止していた車両に追突したのだ。 後続電車の運転手が、沈みゆく真っ赤な夕日に目がくらみ、停車していた車両を確認できなかったのが原因だった。小学生だった私は上り線の線路を歩いて小田急の鉄橋を渡り、事故を見に行った。 スピードが出ていなかったので運転手は無事だったが、両方の運転台は潰れていた。 いまも夏場は西口のホームの端から大きな夕日が見える。昔の運転台の窓ひさしは七80センチはある大きなものだったが、沈みゆく夕日を遮ることはできなかった。

ネット検索で調べてみると「S25.7.18 京王帝都電鉄井の頭線 池之上-下北沢間の列車追突事故」というのがあった。恐らくはこの事故だろう。「重軽傷二十九名を出す」とあった。この記事によると後続電車は三度も警笛を鳴らして先行車両に注意を喚起したとある。原因は制動機の故障だったとある。

(二)
黄金井メモ、つぎは町並みの変遷だ。

下北沢駅北口の石丸電気が 平成20年の年初に閉店した余談だが、プリンターのインクや小物の買い物では便利だったが、これからは渋谷まで出かけなければならず不便になる。ところで、石丸ビルの取り壊しを知らせる看板が掲出されたので、あの場所の変遷も記録しておきたい。戦前から昭和30年までは水谷眼科があった。白いモルタルのいかにも医院という建物だった。その頃はそこから、線路を越えて伊達外科に渡れる踏切があった。水谷眼科が取壊されると、地下のある鉄筋4階建てのビルになり、「CABIN」オープンした。やがて居抜きで「メリーヒル」に変わる。それがつぎはまったく業種の異なる「九十九電気」に生まれ変わる。それぞれいつ変わったのかの記録を私は持ち合わせてない。 更地になった後はまたビルが建つのだろうが、町並みはどんな風に変わるのだろう。

 町並みの変遷は著しい。その場所がどう変わったのか。記録の一端としては大事だ。
黄金井さんスーパーのことも記している。

 平成20年1月13日に南口のグルメシティ(ダイエー)が店舗建替えのために閉店した。あそこは、ダイエーの前は「忠実屋」というスーパーだった。下北沢には他に北口に「ヨーカ堂」、南口に「エンドーチェーン」というスーパーもあった。スーパーではないがディスカウントショップの「いさみや」、 南口に「代一元」や「長田楽器」も懐かしい。「下北沢X惜別物語」が本通りの「玉泉洞」という名前が出てくるが、そのとなりの「阿部酒店」2、3軒隣に化粧品・洋品雑貨の「みくにや」、パン屋の「丸十ベーカリー」と栄通り角の「柳家」。変わったところでは栄通にペンキの「西尾塗料店」、そのとなりの「ムサシノ薬局」。その前の「栄寿司」。並びには「石黒風呂釜店」八百屋の「福信堂、「鳥羽屋書店」、日用品雑貨の「井上商店」、おもちゃの「こどもや」と続く。

・「下北沢駅前食品市場」
 「下北沢X惜別物語」の中では、北口市場とか下北沢北口マーケットと呼ばれているが、正式名称は「下北沢駅前食品市場」である。ところが戦後すぐにこの場所に露天が出現したとき、周辺の住人は「闇市」と呼んでいた。私なんかは、いまだに世田谷代田を世田谷中原、新代田を代田二丁目と言うぐらいだから「やみ市」は今も「やみ市」である。やみ市には昔から現在も営業してるお店があるが、消えてしまったものに総菜屋の「起福屋」「栄屋」「鈴木商店」、魚屋の「柏」、お肉の「荒井屋」、洋服の「ビリオン」、そしておもちゃと駄菓子の「おじいさんの店」などを思い出す。


(三)
 『下北沢X惜別物語』に書かれなかったエピソードを黄金井さんは熱心に書いてくれた。表題を「改訂新版:下北沢X惜別物語」とした。本体そのものに補遺という形で補うとよいかと考える。
 しかし、発行は容易ではない、計算すると現段階で原稿用紙256枚に及ぶ、改めて補遺として出すと300頁は超える。一冊の本としてはまとめられる分量である。これにDr.オースチン博士の写真を載せられればベストだ。今思いつくのはクラウドファンディングか、Kindleである。しかし、まとめるだけでも大変である。あわてることはない、気長にいこう。(了)


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2023年11月25日

下北沢X物語(4831)―改訂新版:下北沢X惜別物語 6―

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(一)我等の国は行き詰まっている。一番大きな問題は財政政策である。一昔前に観たテレビで財務官僚の一人が「国債は麻薬だ」と言っていたことを覚えている。しかし今こういうことを言う人は誰もいない。報道では「今年度補正予算案13.1兆円 閣議決定 7割近くが国債=借金頼り 来年度の減税も『国債発行することに…』」とツケを後代に残すことを平然と行う。政府施策は破綻している。立憲の逢坂氏が防衛費を43兆円としたがこれを使ってどのような国にしていこうとするのか岸田首相の国家観がまったく見えてこない」と鋭く斬り込むが言い淀む。さらに「あの戦争、そして安倍のミックスこれをしっかり検証してこそ未来が見えてくる、きっちりと分析をしたらどうですか?」と問い詰めるが馬耳東風だ。すべての問題に政権与党は危機意識がない。近来にない低支持率はそこにある。

 逢坂氏は戦争の総括も指摘していた。が、この国家はそれはしない。戦争をしっかり見つめてこそ未来が見えてくる。トマホークを米国から大量に買って列島沿いに配備する。中国を意識してのことだ。アメリカに代わって日本が肩代わりする、中国が日本にミサイルを撃ち込んでくると思えないのに型落ちしたトマホークを配備しようとする。どう考えてもおかしい。この国の民主主義力はかなり衰弱している。

 小さい時から下北沢に住んでいた黄金井達夫さんは亡くなられた。生前、下北沢地域一帯のことについて記録をし、そのメモを私は貰った。一帯の強制疎開のことがここに記されていた。それは第六次強制疎開である。

 小田急線3号踏切近くの高級アパート静仙閣も線路側に面したところが引っ掛かり、強制疎開されることになった。ここに居住していた一色次郎は代田西の丸荘に引っ越す。そのときのいきさつを『日本空襲記』(文和書房 1972年)に記録している。1945年3月20日の日記に書き記している。

 第六次建物疎開 
軍、官民一体となっての帝都の第六次建物疎開は、十九日の臨時都議会で予算が決定され直ちに着手される。今度の疎開は戸数〇〇万により、

◇密集地域、重要工業地域に幅員二百メートルないし三百メートルの大空地地帯二十数個所、幅員五十メートルないし七十メートルの小空地帯八十数個所を造成して、防火及び避難道路とする。
◇省線、私鉄等の重要駅ならびに重要交差点付近二十個所を疎開して、災害の防止を図る。


 やはり3月10日の東京大空襲の甚大な被害を受けての措置である。家を壊して防火帯を作る、これによって延焼を防ぐというものだ。静仙閣は小田急線の沿線ということで引っ掛かった。

(二)
 黄金井達夫メモである。

 強制疎開(38頁)取り壊される家屋は兵隊さんが作業に当たっていたが、徴兵を免れていた父も伊達外科の隣の屋敷の取り壊しに駆り出されていた。そのお宅の庭にあった立派なドウダンツツジを父は我が家の庭に移植した。その木は昨年(平成19年)まで我が家にあった。家の建て替えで引っこ抜いてしまったのは残念に思う。
  強制疎開のあと程無くして戦争が終わったから、あの強制疎開は無駄だったように子供心に思った。取り壊しの対象は小田急だけで、帝都線は免れていたのもなぜだったのか、今でも疑問に思う。 もし帝都線も対象になっていたら、我が家も壊されていただろう。


強制疎開は小田急沿線だった。沿線は幅員50メートルの巾で建ち並ぶ家が壊された。下北沢2号踏切に近い佐山一雄さん宅も引っ掛かった。が、計測に誤りがあるのではないかとの抗議をしたという。再計測の結果建物疎開は免れたという。

 建物疎開には近隣の学徒も動員された。小学生も壊された木材を運ばされた。代沢国民学校の例である。

 わたくしたちは集団疎開実施の通達を受ける当日まで、新宿駅付近にある鉄道病院前の建物が強制立ち退きで破壊されたのを学校給食用の薪にするため、炎天下の三日間、六年生の子供達とリアカー、荷車などで運搬していたのだから、これも全く予期してないできごとであった。
私たちは校庭に積み上げた薪の山を恨めそうに眺めては愚痴をこぼした。
  『学童集団疎開』浜館菊雄 太平洋出版社 1971年


 強制疎開で壊された建物の木材をもらってきて学校給食用の燃料にする積もりだった。が、疎開が急に決まってこれは不要になったと。
 
 黄金井メモでは小田急沿線は強制疎開に遭ったが帝都線は行われなかったという。

(三)
 下北沢の建物疎開については以前、東京理科大の石榑督和先生が当会の会報に寄稿してくださったことがある。建物疎開の特徴についてこう書かれている。
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 建物疎開は一様な幅を持った帯としてつくられてはいないということである。図を見れば明らかだが、小田急線に沿って一定の幅で空地がつくられたのではなく、既存の道や地割に従う形でギザギザとした疎開空地がつくられた。疎開痕跡は、米軍が撮った写真にその痕跡が写っている。

図というのはここに掲示した写真である。これを見ると井の頭線の下北沢駅の北側に白い屋根の建物が見られる。帝都線は建物疎開がなかったとも言えないようだ。



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2023年11月23日

下北沢X物語(4830)―改訂新版:下北沢X惜別物語 5―

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(一)「どんなくだらないことでも記録をしておくのだ!」我等の仲間が言っていた金言である。ささいな記録であっても、それがとっかかりとなって歴史真実が透けて見えてくることがある。つい最近になって資料の山から、亡くなられた黄金井達夫さんが私にくれたメモが出てきた。彼がこれを書いた発端は、『下北沢X惜別物語』に触発、刺激を受けたからである。これを連続して載せていた。今日は5回目である。漫然と書き記していたが、今になって気づいたのはこれはどうでもいいことではない。課題は多岐に亘るが、その一つの証言は、戦後における米軍の下北沢占領史を紐解くものではないかと思った。

NHKアーカイブに日本映画社・日本映画新社が製作した「日本ニュース」を紹介している。その一つに「米軍帝都進駐」がある。ニュースのナレーションが文字情報としてネットにアップされている。 

放送年:1945年
 先に東京周辺地区に進駐したアメリカ軍は、9月8日を期し、帝都に進駐することとなり、同じ日、マッカーサー元帥は横浜から初の東京入りをし、アメリカ大使館における国旗掲揚式に臨みました。アメリカ軍騎兵第1師団は、代々木練兵場に進駐。砂埃(すなぼこり)の吹きさらす草原の中に、わずか1日で大幅の街路が縦横に走る大テント村を建設し、そこに入りました。同師団は騎兵とは名ばかり、お得意の自動車を100%に利用した機械化部隊であります。


進駐米軍は9月8日に東京に進駐をした。アメリカ軍の精鋭は騎兵第1師団である。これが車を連ねて東京に進駐し、代々木練兵場に即座に大テント村を作った。
第一騎兵師団は馬のマークでよく知られている。彼らはトラックやジープを連ねて東京進駐をした。車輌使用は100%だという。が、下北沢ではヘルメットに馬のマークをつけた兵隊たちが小田急貨物列車で下北沢2号3号を通過していった。これを目撃した本人から私は話を聞いて『下北沢X惜別物語』に記録している。
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 戦後、米軍が東京に進駐してから下北沢では米兵の姿がふんだんに見られた。一帯のお屋敷が米軍に接収されて多くが当地に住んでいたからである。黄金井達夫さんはそのことを記録している。短文だが多くの事実を含んでいる。

(二)
黄金井達夫メモ
・「下北沢X惜別物語」122頁で米軍接収家屋に触れている。下北沢駅近くで進駐軍に接収された屋敷の一つが現在(平成20年)の西口ローソンの斜め前。以前、hondaの藤沢専務の宅である藤沢氏が入る前になるが、アメリカ人のカズマンという軍曹の家族が住んでいた。 私の母が当時GHQで通訳をしていたので、Mrカズマンの長男のビリー(現在65歳になるでしょう)が、我が家に遊びに来ていた。靴のまま部屋に上がってきたり、りんごを出すと冷えてないから食べられないとわがままな子でした。スイカじゃあるまいし、りんごを冷やして食べるなんてことは当時の日本にはありませんでした。昭和22年頃のことです。


 私たちは多くの人と出会ってきた。しかし、その人がどんな人かということは詮索はしない。後になって素性を知って驚くことがある。生前彼が何をやっていたかは知らなかった。ただ彼が厚木にある黄金井酒造の縁戚であることは聞いていた。

 ただ文章には品格がある、事柄は正確に記そうという心ばえがある。これは理系の人だと思った。国立国会図書館で彼の名を検索するとやはり理系の論文がでてくる。推理は間違っていなかった。
 
 下北沢における米軍接収家屋、これの記録はあまりない。しかし、街探査で各所にあったことは確認できている。萩原朔太郎旧居のすぐ前の大野さんのお宅も接収されたと聞いている。一つがあれば二つも三つもある。
(二)
 2005年09月16日に書いたブログでは、接収家屋のことを記している。

 代々木練兵場はアメリカ軍が進駐してきてワシントンハイツと呼ばれた。進駐当初は施設が不足していて近隣の焼け残り家屋が多く接収されたり、借り上げられたりした。下北沢の北沢2丁目、代田6丁目の邸宅が米兵の居住地として借り上げられた。上原や大山は高級将校が居住した。鉄道交点近辺は下士官クラスだった。

 黄金井メモは具体的だ。下北沢西口ローソンの斜め前は、代田5の34である。すぐ近くが中村汀女宅で、彼女はここを緑が丘と呼んでいた。丘上の地所は一軒家が並んでいた。ここが米軍に接収されていた。軍曹クラスで家族持ちというところはさすがアメリカだと思う。その家のどら息子がビリー、「リンゴが冷えていないから食わない」というのはおもしろい。昭和22年でのことだ、アメリカとの国力が違う。日本は負けるわけだ。

 進駐軍占領当時のアメリカ側の地図がある。それには接収家屋がどこにあるかが書かれていた。が、それは高級将校用である。下北沢のは載っていなかった。しかし、一帯は接収されていてそこには下士官の家族が住んでいた。
渋谷区の大山町や代々木上原は空襲で焼けなかった。ワシントンハイツに隣接していたこの地域は高級将校たちが住めるようにと空襲をしなかった。下北沢一帯も接収家屋が幾つもあった。山の手空襲で当地が焼けなかったのは、計画として接収を考えていたからではないかとも考えられる。

(三)
 接収家屋がどのように使われたかは分明ではない。カズマン軍曹は家族で住んでいた。が、独身者用もあった。
戦後の下北沢の街風景を撮ったのはDr.オースチンである。街の風景を写したものに電柱が映っている。新宿にある「泌尿器科」の宣伝看板が大きく貼ってある。
「戦後、下北沢ではパンパンガールが結構いたよ。近隣の接収家屋に住む米兵がお得意さんだった」と聞いた。性病も流行ったのだろう、それで性病治療の病院の看板が出されていた。(米軍第一騎兵師団マーク、ウィキペディアより)



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2023年11月22日

下北沢X物語(4829)―改訂新版:下北沢X惜別物語 4―

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(一)人間は儚いものである、まず精神世界は掴みどころがなく頼りないものだ、しかし、人間の人間たる由縁は言葉を持っていることである、この言葉は混沌世界に形を与えるものだ。鰯の頭も信心から、Xという鉄道交差を信奉すれば世界観の核になる。このX教の教祖はやはり清水博子である。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締めつけてくる」(『街の座標』)と宣う。「ひしゃげた座標軸」は彼女の想念世界の核である。彼女は心酔する小説家がいる。「やはり小説家の栖があってしかるべきはこの第二象限だろう。私のいる第四象限に本屋はないに等しいのだ」、世界観の構築がおもしろい。第二象限は下北沢一番街だ。故森栄晃氏はここにかつて古本屋が多くあったことを言っていた。第四象限は森厳寺一帯の地域を言う。象限という捉え方をしないが、当地で生まれ育った子は似たような感覚を持っていた。「危険だから踏切の向こうには絶対に行くな」と教育されていた。鉄道線は結界であった。

 『下北沢X惜別物語』は2007年3月20日に発行した。この6年後、鉄道交差を象徴する「街の座標」は2013(平成25)年3月に小田急線が地下化したことで姿を消してしまった。ちょうどこの工事が始まった頃、私は自転車通勤していて、日々の変貌ぶりをつぶさに見ていた。言わば鉄道交差消滅の前ぶれであった。

 小田急線踏切は毎日通っていた。この頃すでに地元に人々から聞き書きを始めていた。そのことを通して各踏切に一つ一つエピソードがあることを知った。いずれ踏切がなくなり、地上駅も消失してしまう。無くなる前に逸話を拾っておこうということで取材を始めた。「惜別」はなくなることを惜しむという意味である。

 踏切を調べると地域の歴史が分かってくる。とくには当地にずっと住んでいた人にとっては忘れ難い場だった。小さい頃は誰もが電車好きで親の手に引かれて電車を見学に来ている。それだけに踏切のことはよく覚えている。

(二)
 故黄金井達夫メモである。彼は、私のブログにも書き込みを多く残している。が、「ブログのコメント欄が400字までなので」書き切れないことからわざわざメモにして私にこれをくれたのである。

 「ぴぃひょっ!」という電気機関車の警笛(6頁)、代田のカーブを曲がってくる『ぎゃぎゅぎょ』という車輪の音(11頁)はまったくその通りで、子供の頃に耳にした音がはっきりと甦ってきました。

 黄金井さんはこの箇所は何度も誉めておられた。小田急の砂利運搬貨物のことだ。世田谷代田側から25パーミルの坂を下ってくる。砂利運搬車はとても重い。これが来ると地響きがした。沿線の家は大きく揺れた。親戚の家などに来て泊まった人が地震到来と思って起きて逃げたという。それほどに通過時の衝撃は大きかった。沿線の家々をガタピシ揺らした。

 空襲警報のサイレンが鳴り響くと、必ず電車が猛スピードで走って行った。(9頁)のもこの記述を読んで思い出しました。私は、戦前から北口の駅の近くに住んでいます。

 空襲警報が鳴ると電車が猛スピードで下って行った。これは一色次郎『東京空襲』に記述があった。高射砲の要員が運ばれたようだ。この記述を参考にしたものだが、黄金井さんの証言はそれを裏付けてくれる。

(三)
 下北沢駅の地下道について彼はメモに書いている。
 この地下道のことはこのブログでも何度も取り上げた。この全貌はまだよく分かっていない。古老を引っ張り出してきて「下北沢駅地下道の話を聞く会」を何度か開いたこともある。

「下北沢駅地下道のことですか、ええ、覚えていますよ。まず薄気味悪かったですね。それといつも小便臭かったですね。地下道を潜っていくと上を電車が通るのですよ。ゴトンゴトンと電車の車輪が響いてきて怖かったですね」
 これは代沢小のOBから聞いた話である。(東北沢2号踏切)



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2023年11月20日

下北沢X物語(4828)―改訂新版:下北沢X惜別物語 3―

写真20:東北沢6号踏切
(一)「踏切」とは何か、「踏面切断」が語源のようだ。つまり踏み面というのは鉄道車両が踏んで行く道、線路のことだ。一方切断は人が通っていく道のことでこれが線路によって遮断されるということだ。機械と人間との交接点、鉄路と人とがふれ合う場である。言えば人情の機微が湧出する場、それゆえに文学的素材になる。山口誓子は『踏切』と題して作品を多く創っている。一連の一句に「四五人とわれ踏切に秋の暮」とある。「踏切に電車の通過を待つ人に仮初めの縁が生じる。待っている間に人は秋を感じた」というものだ。踏切は否応なく人が押しとどめられるところだ。その踏切が随所にあったのが下北沢だった。踏切のある風景はこの街の特質であった。あなたに行くとき、こなたに行くときに通って行かねばならない場であった。待つ間の間合いの中に人間の仮初めの縁ができる箇所であり、人がそこで感懐を思う場であった。

春昼の踏切を一作家として

 これも山口誓子『踏切』所収の一句である。この句意については自らこう述べる。

 わたしは麗らかな春の昼、その舞台にさしかかる。私は一個の人間、位階も階位も勲等もない裸の人間に過ぎない。職業は作家、しかししがない一作家、私はその資格に於いてその踏切を通る、うらぶれているようにも見え、気負っているようにも見える。


 踏切は結界であり、結節点である。こちからあちらへ踏切を跨いでいく。そのときに自分が思われる。なるほど文学的な空間だったのだ、これは新たな発見だ。

(二)
 故黄金井達夫メモには「踏切番小屋」のことが書かれてある。

 踏切番小屋
 東北沢4号と6号踏切、井の頭線では下北沢1号踏切にはむかし踏切番小屋があった。 上の電車の下北沢1号踏切の踏切番は、目の前の伊澤商店の親父さんだった伊澤商店は現在(平成20年)不動産屋のケン・コーポレーションの場所で、小鳥屋だった。今風にはペットショップだ。番小屋は白洋舎の脇にあった。電車が来ると踏切の竿を手動で下げるわけだが、反対側の竿とはロープと滑車で連動していて、子供心にそのカラクリが面白く、いつまでも眺めていた。それを学校の夏休み工作に模型で自作した。


番小屋のある踏切は1種踏切と呼んでいた。我等の会話の中で「あそこは踏切番小屋があったとか、なかったとか」いうのはでてくる。
 踏切側の商店の親父さんが踏切番をしていたというのはおもしろい。井の頭線の場合、電車が通る頻度があまり高くなかったようだ。店の中に電鈴かなにかがあって、親父さんがそれを聞きつけて機器を操作したようだ。のどかな時代だった。

 一番忙しいのは東北沢4号踏切だったろう。茶沢通が横切る踏切で往時は新宿行きのバスもでていた。手元に「1987,7,21」と書かれた絵がある。「スズナリから東北沢4号踏切」と書かれている。昭和62年に書かれたもので貴重な下北沢昭和風景である。

 我等は「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」2017年に発行した。これはオースティン博士が映した下北沢の風景を撮ったものを載せている。
 先回、飯田勝氏は紹介した。ここに「飯田勝氏が描いた昭和末期」として彼が書いたスケッチを載せた。これにはしっかりと踏切脇にある番小屋が描かれている。
 飯田勝さんはNHKに勤めていた人だ、定年退職後スケッチを始め、下北沢各所の風景を記録に残している。彼は、召集されて船橋の鉄道連隊に入った人だ。下北沢駅から出征していった人だ。
「バラストをビーターで打たされるのですよ、あれで腰を痛めてしまいました」
 そう証言していた。彼ももう物故された。

 人通りが一番多かったのはやはり東北沢6号踏切だ。
「ほら買い物籠下げてゆったりゆったり渡ってくる婆さん、超有名な人の娘だよ」
「それは誰?」
「森茉莉だよ、森鴎外の娘だよ」
 当時評判だった、踏切番の誰もが知っていた。

 黄金井さんのメモにはでてこなかったが、小田急、下北沢3号踏切にも番小屋があった。鎌倉通りを通る道だ。ここでは子供が轢かれる事故が多くあった。それで番小屋が設けられた。

(三)
 下北沢3号踏切を少し南に行ったところに静仙閣アパートがあった。成瀬巳喜男監督が住んでいたようだ。彼は踏切を映画で扱っている。非常に印象的な映画がある。

『乱れ雲』(東宝 1967)
 映画の後半、タクシーに乗って旅館に向かう途中の踏切で列車が通り過ぎるのを待つ
 司葉子と加山雄三という場面があった。(写真は東北沢6号踏切)

*参考文献 鉄道100年文学と随筆選集 汽笛一声 実業の日本社 1972年
 山口誓子『踏切』はここに所収



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2023年11月19日

下北沢X物語(4827)―改訂新版:下北沢X惜別物語 2―

2005,10.14 107
(一)鷺沢萌に『遮断機』という短編がある、文中で「踏切はなかなか開かない」と書かれている。これは小田急線東北沢6号踏切である。主人公の笑子は駅前食品市場を出たところで踏切で足止めをくらった。「急行、準急、各停、その上ロマンスカーまでが同じ線路を通るので、下りの急行をやり過ごしたと思ったら今度は登りの各停がやってきて……」まさに開かずの踏切だ、小田急地下化工事は一帯の交通路の隘路となっている踏切撤去が大きな狙いだった。地下化によって「踏切除去」は達成された。これによって踏切による渋滞や停滞は一気に解消された。が、この激変によって新たな空間生まれ変わったとき戸惑いがあった。遮断機がなくなっても渡るのがためらわれた、車も一時停止の必要がないのに停まった。障害物がすっかり無くなってしまうとなんとも居心地が悪い。自由になったのだがそれを享受していいのか戸惑ったのを覚えている。

「ほら、店の前を通る車だけどね、通るときは続けて通るの、だけど間が空くのよ。そこの茶沢通踏切で車は待たされるでしょう。遮断機が上がると一気に通りぬけてこの一番街に車は入ってくるの」
 かつて一番街には大月菓子店があった。女主人の大月文子おばあちゃんが教えてくれた。町の呼吸と踏切は連動していた。

 踏切には番号がついている。茶沢通踏切は「東北沢4号踏切」と言っていた。東北沢駅に向かっては坂になっている。森厳寺川左岸崖線で線路勾配は25パーミルあった。ここの土手にはオシロイバナが咲いていた。

「私はね、そこの4号踏切で東北沢から下ってくる蒸気機関車を見たよ。小田急開通前、機材運搬などは小型タンクが行っていた。昭和の初めの話だ。証言者の飯田勝さんも亡くなられた。

(二)
 『下北沢X惜別物語』では一つ一つの踏切についてエピソードを記している。が、書き記していない踏切がある。東北沢1号踏切や下北沢1号踏切である。
 これらはもともとあったはずだ。しかし、乗客数の増加によってホームが延伸された。伸ばせば踏切が食われる。黄金井達夫さんは消えた踏切についてメモで触れている。

 (『下北沢X惜別物語の』)33頁の絵地図に踏切の位置が出てる。旧下北沢一号踏切は現在のたねいち歯科の前の先で、跨線橋(20頁)も踏切でした。当時、伊達外科と井の頭線のホームの間にヒマラヤスギの大木が何本もあって、その先からお世辞にも綺麗とはいえない急な階段で、小田急の線路に降りてゆき、そこに踏切がありました。だからこの絵地図の旧下北沢踏切の更に新宿寄り、井之頭線の鉄橋の根元にも踏切があったので、正確にはそれが下北沢一号踏切になるのではないかと思います。

 小田急線は当初、単行か二両編成だった。が、乗客が増えるに連れ車輌を長くした。これに伴ってホームも延伸された。すると隣接した踏切が邪魔になるのでこれを撤去してしまい。若番の踏切は撤去されてしまった。

 『下北沢X物語』では下北沢1号踏切については詳しく触れていない。増補版では記録する必要がある。

(三)
 小田急が地下化してその線路跡には下北線路街ができた。みちがえるようである。街全体がこぎれいになった。が、久しぶりに下北沢に来た人は戸惑いを覚えるらしい。あの下北沢はどこに行ったのだといぶかしがる。
 こぎれいになりすぎてしまった。かつての下北沢という街は至るところにとっかかりがあった。それが踏切であり、線路であった。顕著な固有性である。
「どこにでもある町になってしまいましたね」という人もいる。
 やはり大事なのはとっかかりだ。私たちは、今度の新地図ではあらたに『猫町散策ルート」を提案している。回遊性のある路地町を猫のようにこっそりと歩くのはどうか、これもとっかかりである。

〇お知らせ
 北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念祝賀会
 12月2日(土)5時40分から 北沢タウンホールで
 お弁当の注文をします。申し込みの締め切りが明日、11月20日になっています。
 ご都合のつく方はぜひご参加ください。 費用3500円です。きむらけん宛に
 メールをください。



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2023年11月17日

下北沢X物語(4826)―改訂新版:下北沢X惜別物語 1―

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(一)埋もれている書類の中からメモがでてきた。黄金井達夫さんが書いたものだ。「こんな素晴らしい読み物があるとは、心底驚いております」と。16年前の2007年に『下北沢X惜別物語』を発行した。これへの感想だ。単なる感想ではない街に長年住んでいて彼が率直に感じた思いである。もう発刊から16年も経った。世田谷全図書館に寄贈した。梅ヶ丘図書館では盗まれもした。もう在庫は皆無である。この冊子何か、小田急線が地下化することで地表駅の施設が一切合切消えてなくなる。その惜別を意味する。地表駅、世田谷代田、下北沢、東北沢とこの間にあった踏切である。消えていくこれら施設の逸話を書き残そうと人や書物に当たって書きまとめたものだ。この冊子発行による発信が新たな情報を生んだ。これらを含めて既刊のものを再構成する、そうすれば町の歴史文化の記録と残る。それで思いついたのは旧版の改訂である。旧版の電子記録は残っている。これを改訂して「改訂新版:下北沢X惜別物語」を作ることを考えた。容易なのは電子版である。

 『下北沢X惜別物語』では踏切エピソードを多く記している。1927(昭和2)年4月1日小田急開通以来一帯では数多くの事故が起こっている。今は言われることはないが、かつて親は子供にきつく言っていた、「踏切の向こうに絶対に行くな!」と。多くの踏切は無人踏切であった。遮断機もないし、警報器もない。自己責任で踏切を渡らねばならなかった。が、子供は判断力が十分ではない。踏切を渡ろうとして跳ねられたという例は数え切れないほどある。

 かつての下北沢2号踏切、今もひっそりとここに「をまもり地蔵」が鎮座している。踏切で犠牲になった子供の霊を慰めるためだ。

 踏切一つ一つの逸話を、「下北沢X惜別物語」では記した。まさに事故のオンパレードである。悲惨なのは世田谷代田2号踏切だ。代田八幡裏手のこの踏切は代田小の通学路になっている。代田八幡側からは道は斜めでこれが線路と交差している。しかも道がくだっている。子供などは駈けてくだるから危ない。

 国会でも取り上げられた魔の踏切だ。この悲惨な代田2号踏切のことを鮮明に覚えている人がいた。奥田民雄さんである、子供のころ友だちが目の前で轢かれたという。関係資料もいただいている。今度のには新事実として記録しようとは思う。

(二)
 当ブログには、「鉄道X交点(下北沢) 街の記憶書き込み掲示板」がある。「2007年03月15日」に設置したものだ。ここには、106ものコメントが遺されている。黄金井達夫さんのもある。

[X交点踏切遺構]
残すとすれば、個人的な思い入れでは「東北沢3号」も考えるのですが、あそこはむしろ、小田急の開通前がおそらくそうだったように、池ノ上台地から森厳寺川に向かっての急坂を復活させるほうが、「歴史を残す」という意味ではかえってよいかもしれません。
で、「なんぴとも害さない」うえ、かえって「今のシモキタの雰囲気を体現している」という意味では、「東北沢5号」がベストと思います。
とはいえ、踏切と周囲の環境を残すとなると、一番技術的に問題があるのは「架線」でしょうね。
75. Posted by 黄金井 達夫(こがねいたつお) 2008年04月09日 01:41


 この頃、私たちは、踏切の遺構は何らかの形で遺してほしいと思っていた。その議論の一環がここにコメントとして記されている。ここでは東北沢3号の意義について論じている。田舎道を横切るのが東北沢3号だったとの話だ。しかし、細道ではあるが池ノ上台地と古道二子道を結ぶ大事な道だったという。もともとは台地に上がるには急な坂があった。登るのに大変な難儀していた。それで急坂を削ったようだ。

 遺すべき踏切遺構としては東北沢5号だという。これは誰も知らない地元ネタである。細い踏切でまったく目立たないものだった。4号や6号は踏切遮断機があった。この5号はなかった。いわゆる路地道踏切である。下北沢一番街の大月菓子店の文子おばちゃんには子供が多く轢かれてなくなったと。
 
(三)
 今現在、下北線路街という晴れやかな道となったが踏切跡はもうほとんど残っていない。我等の「下北沢文士町文化地図」には踏切跡として地図上に記録はしている。

 黄金井達夫さん、私宛に、「下北沢X物語」を読んでの感想を書いて送ってこられた。彼の遺言として、以後、ここに記し置くものである。




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2023年11月16日

下北沢X物語(4825)―新地図での特集は萩原朔太郎 下―

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(一)会員の木幡俊子さんが亡くなられた。1928(昭和3)年生まれだという。長い間代田に住んでおられ。家は萩原朔太郎の居宅と隣接していた。土地の高低で段差になっていて彼女の家は下の方である。上からは音が転げてくる。少女時代、隣から聞こえてきた声に耳を塞いだ。「苦しい、苦しい、苦しい」と。臨終を迎えた詩人の声だ、怖くて怖くて蒲団にもぐり込んだという。詩人はこの家で『氷島』序を書いた、「著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んでいる」と記した。悲痛な音だったようだ。詩人は臨終に臨んで自らが音を発した。「苦しい、苦しい、苦しい」と叫んだ。その言葉は切羽詰まったものだった。それで木幡さんは耳を塞いだ。世田谷代田で放たれた断末魔の声は少女の耳に鋭く突き刺さった。それは詩人最期の生の詩である。

 下北沢文士町文化地図には、ずっと解説を書いてきた。
 課題は二つ、一つは文化論である、なぜにかほどまでに文化人、文学者が集まってきたのか。もう一つは、交通論である。鉄道の発展と文化の形成は深い関係にある。今回もこれについては解説を加えた。

 今回の新地図での特集は萩原朔太郎である。
 詩人の当地への居住は興味深い。世田谷代田には後に詩人の弟子である三好達治が越してくる。疎開先の福井三国から東京に引き揚げるにあたって宇野千代が手伝った。自分が書いていた週刊誌に「下宿先を求む」ということを書いた。多分数通が応答として来たのだろう。世田谷住まいの経験がある宇野千代が一つを選んだのかもしれない。その家が世田谷代田一丁目の岩沢方であった。
 当初は気づかなかったが三好達治は越して分かったのは朔太郎家と極めて近かったことを知って喜んでいたという。

(二)
 因縁因果はあるのだろうか、鉄塔繋がりだ、朔太郎が61号鉄塔、三好達治が57号である。鉄塔が二人の存在と関係していたのだろうか。

 この鉄塔は駒沢線と呼ばれる。若林から代田へ、南から北へ鉄塔は縦断している。鉄塔番号、51号から52号と繋がるがこのときに後者は鉄塔が急に高くなる。架線が6本から12本に増えるからだ。51号と52号の間には世田谷線がある。かつては下高井戸線と言った。

 駒沢線はこの下高井戸線に電気を供給していたようだ。それで電線の本数が多かった。架線の数が多くなると必然的に抱える本数が多くなるから鉄塔は高くなる。

 代田の丘の61号鉄塔は、基盤が丘上だ、ゆえに12本を戴く塔は高い。この下に朔太郎は山田淳の建築を模した自らの設計による家を建てた。高々と聳え建つ鉄塔と三角の屋根はよく似合う。この61号の鉄塔は家づくりに深く関係しているのではないか、私は前からそのように述べている。彼は『新しき欲情』のなかでこう述べる。

 げに自然の中にある人工物は、自然の重苦しい威圧を和らげ、あたりの沈鬱した空気を適度に明るくする。ばかりでなく我等の生活感情にさへ、一つの快適な微笑をあたへるであろう。

 昭和八年二月朔太郎は代田の新居に転居する。自らが設計した家だ。緑多い北沢川左岸崖線は田園風情が溢れていた。丘上に聳え建つ瀟洒な銀色の鉄塔は彼に「快適な微笑」を与えていた。聳え建つ鉄塔は都会のシンボルでもあった。

(三)
 新地図は、「下北沢文士町文化地図」9版としているが、副題に「北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念」と入れる。
 地図の原型を作ったのはデザイナーの東盛太郎さん、彼は早くに物故した。彼が作った原型を我々はずっと伝承してきて今にある。

 地図づくりの苦難は幾つもある。あるとき資金に困っていた。そのときに田中義輔さんが「足りないのならおれが出してやる」と実際にお金を出してくれたこともある。

新地図は、2024年3月に発行される、できれば北沢川緑道の桜祭りで配布したい。
(この章は了とする)

お知らせ。
〇この18日に行う予定だった。「世田谷の鉄塔を歩く」は、希望者が3名、我等の会の町歩き催行は4名から、ということで中止した。また機会があれば企画してみたい。
 12月16日(土)の町歩きは、「クリスマスの下北沢『猫町』散歩」を実施する。
この町歩きは既に6名の参加申し込みがある。よって催行する。

(写真は今日の駒沢公園)



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2023年11月14日

下北沢X物語(4824)―新地図での特集は萩原朔太郎 中―

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(一)改版を重ねてきた「下北沢文士町地図」だ、第7版で総発行枚数6万だ、8版は1万5千部、今回の9版では1万5千部、とすると総計は9万となる。先年発行した三軒茶屋文士町文化地図は2万である。計11万部となる。配布は無料である、この地図作りはずっと奉仕的に行ってきた。消えゆく町の文化を記録して後に残すといことが狙いだった。地域文化の伝承である。この地図を通して、地域の文化の厚さを知った人は多い。やりがいのある活動である。我々が初めなければ当地域が「文士町」であるということは知られなかったろう。新地図には15名が付け加えられる。増えた理由は、一つは新たに居住が確認されたから、もう一つは物故者が新たに加わったからだ。半藤一利さんはその好例である。言えば現役の文士達が住んでいてその方々が当地で亡くなられている。文士村は歴史であるが、我等当該地域は今も興隆が繰り返されている。ゆえに文士町と呼んでいるのである。

 「下北沢文士町:類例のない文学都市」は新地図の解説見出しとして掲げた。
 まずなぜ町という呼称が付くのか?文士が多く集まった地域は文士村と言う、が、ここでは文士町と称する。いわゆる文士村は過去のものである。ところが文士町は現在進行形である。文士、文化人の居留が絶え間なく今も続いているからだ。言えば現役の文士村であるゆえに町と名付けたのである。

 今回の地図には新しく14名の名が加わる。増えた理由は新たに居住が分かったり、また物故された方がいたりということがあったからだ。我々の地図には文士旧居が記されている。これらは物故者を載せている。

(二)
 土地ならではということを大事にしてきた。
 1927(昭和2)年4月に小田原急行鉄道は開通する。この12月に世田谷中原駅前に帝国音楽学校が創設された。鉄道が敷設されたことが一番大きい。大都市新宿からはとても近い、それで当時大根畑であったところに二階建ての校舎が建った。
 ここは代沢小の校区だった。ここの卒業生の一人から聞いた話がある。彼女は音楽が好きで折々時間があればこの学校に来て、中から流れてくる歌声や楽器の音を聞いたという。これで音楽に目覚めたようだ。後に藤原歌劇団に入ったそうだ。

 先だって代沢小で講演を行った。この学校の学童は音楽的感性に優れていた。帝国音楽学校の影響を間接的に受けていたことも大きい。
 学校名にいう帝国は、大日本帝国だ、ゆえに台湾や中国や朝鮮から留学生が来ていた。彼らは代田や下北沢に住んでいた。多分家でも楽器を弾いたり、歌を歌ったりしていた。子供が影響を受けないわけはない。

 代沢の子たちはまず浅間温泉に疎開する。が、ここも空襲の危険があったことから塩尻を中心とする村々に再疎開をする。引率の先生は田舎に越してきて元気を失った学童に寮歌を作って歌わせた。明るい歌だ、たちまちに村に響き渡った。ところがこの歌声が村の子供を刺激した。いても立ってもいられないほどにこの歌は村の子を惹きつけた。

 私は、代沢小の講演では、下北沢文化の照り映えが疎開先で花開いたと言った。鉄道X交点に住む学童たちは音楽的感性を持ち合わせていた。
 代沢小の浜館菊雄先生は、戦前から器楽倶楽部を作り、学童に音楽の楽しさを伝えていた。鉄道交点の一帯に住む中産階級の子は、音楽にいそしむことに対し親に抵抗がなかった。

 ミドリ楽団は戦後に発足するが、この指揮をしていた女性、家にピアノがあって家族と毎日歌っていたと言う、音楽がふんだんに溢れていたという。

(三)
 土地ならではということで言えば、代沢小のOB木幡俊子さんの話である。彼女、つい最近に亡くなった。彼女から私は話を聞いている。
 彼女は萩原朔太郎の家の側に住んでいた。マンドリンを娘の葉子と弾く音も聞いている。軒と軒とが接していたゆえ何でも聞こえた。彼女は1928(昭和3)年生まれである、幼いときに詩人臨終時の声を聞いている。
(写真、庭の柚子の収穫)


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2023年11月13日

下北沢X物語(4823)―新地図での特集は萩原朔太郎 上―

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(一)現代人の精神心理はよく分からない。が、文字文化が衰退していることは感じる。見馴れた光景だが電車では誰もがスマホを見ている。横目で見ると文字が流れていいくのが分かる。人は文字をしっかり眺めて深く考えることはしなくなった。文字存在が軽い、法すらも頼りがいが無くなってきた。夕刊などは好例だ、まるでエッセイ集だ、軽いノリのどうでいもいい記事が一面に載っている。生きている我々は文化や歴史を考えていくべきだが、これらも人々に浸透してこなくなった。文字は死にかけている。我々長年地図づくりを重ねてきた。内容は濃厚、当該地域の文化情報である。改版を重ねてきて今は第9版を編集中だ、昨日最後の詰めを委員で討議して、そして、内容を確認し終えて今月中に印刷所に送ることにした。「下北沢文士町文化地図」9版である。予定発行部数は一万五千部である。委員の一人デザイナーの湊さんに叱られた。「先生、文字が多過ぎ!」と。それにもめげず、鉄道交差町の文化論と萩原朔太郎論、難解な問題を二つも取り上げた。

 今回は萩原朔太郎をメインに取り上げた。昨年は「萩原朔太郎大全2022」が開催された。没後80年を記念しての行事だ。朔太郎の故郷にある前橋文学館が提唱して開催された。全国の文化施設52館がこれに応じて、展示を行ったり、講演会を開催したりと盛況であった。萩原朔太郎という詩人がいかに全国に浸透しているかが分かる。

 当地域では「世田谷文学館」が「萩原朔太郎展」を開催した。館を訪れたとき、「全国52箇所で開催されますが、終焉の地は一つなんですよね」と学芸員に言った。

 萩原朔太郎にとって終焉の地は大きい。彼は自らが永遠の漂泊者だと述べている。さすらいは文学の根幹だ、さすらい行くことで得た清新な感覚を文学に書き表す、松尾芭蕉の『奥の細道』が好例である。

(二)
先回の地図8版では、世田谷代田駅前に「ダイダラボッチの足跡」ができたことから特集を「ダイダラボッチ」とした。

 今年になって歌劇「幻影の『猫町』下北沢 朔太郎X線の彷徨」というイベントが二度に亘って開催された。これの副題は「萩原朔太郎大全2023」である。我等の地図づくりもその継承を考え、特集を萩原朔太郎にした。

 萩原朔太郎は晩年の11年間を下北沢と代田で送った。漂泊を終えた地点である。終えたらどうなるのか、それは分からない。が、肉体は亡んでも魂は一帯をさまよい歩いていると考えてもよい。当地には詩的精神風土が今も残っている。これは地元ならではである。終焉の地には他の地域にないものがある。

 昨年、私は、「世田谷文学館友の会」に協力して、「シモキタザワ猫町散歩」を二日間に亘って実施した。詩人の面影をたどる町歩きだ、彼が回遊した路地、彼が漫歩したであろう道、そして極めつけは『代田の丘の61号鉄塔』である。私が推奨した地域風景である。区に認定され地域風景資産となっている。

 今月は、これらの鉄塔を含め、「世田谷の鉄塔を歩く」を企画したが、今のところ参加者は一名である。四名からの実施ということなので今回は中止となりそうだ。

 12月は、「下北沢『猫町』散歩」を企画していて、これは今のところ参加希望者は五名いる。こちらは大丈夫のようだ。
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(三)
 萩原朔太郎は我等がいうところの『下北沢文士町」では重要な文学者である。
 昨日、邪宗門に来ていた女性がとても朔太郎が好きだという。なんと彼女「下北沢学生会館」に住んでいるという。
「あの辺りを朔太郎はふらふらといつも漫歩していたんですよ。今の学生会館のところには戦時中にローラースケート場があったのですよ。巧みな子がいてね、かっこよく風を切って飛ばしていたんですよ。朔太郎も立ち止まって見ていました」
 この彼女は、今度の散歩に参加することになった。
(写真上は邪宗門、邪宗門の敬子さん、デザイナーの湊晴美さんと私、下は代沢小の講演)



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2023年11月11日

下北沢X物語(4822)―年中無休:東京荏原都市物語資料館―

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(一)当館は四六時中稼動している。間もなくすれば記事エントリー数は五千となる。膨大な情報がネットに流されている。今は分からないことがあれば即検索だ。ここのところ続けて二つの質問が寄せられた。一つは加藤楸邨の御次男の冬樹さんは加藤家の墓に入っているのかと?もう一つは誠第204戦隊の特攻のことだ、1945年5月20日に出撃し敵艦に体当たりしている。これによって艦に大きな被害が起こった、このときに現場に居合わせたアメリカ兵は特攻機の機体のパーツをアメリカに持ち帰ったという。多分その方も年を取られたのだと思う。それで部品を日本の遺族に返却したい、関係者をご存じないかという問い合わせが当ブログにあった。二つとも興味深い話だ。

 まず第一点めの質問だ。

唐突に申し訳ありません。教えて下さい。
加藤楸邨のお墓は、加藤家のお墓でしょうか。楸邨の次男、冬樹氏も一緒に眠っているでしょうか。今は昔、学年主任で国語科の加藤冬樹先生に古文を教わった者です。
お手数をおかけ致しますが、ご教示のほど、何とぞ宜しくお願い申し上げます。


問い掛けは、横浜桐蔭高校の卒業生からのものだ。加藤楸邨の御子息の長男は知っていた。取材をしたことがあるからだ。昭和十六年下代田に転居してきて俳人の子息は代沢小に入学をした。そして昭和十九年代沢国民学校から集団疎開をしている。浅間温泉では桐の湯に滞在した。翌年春に再疎開をし広丘村郷福寺に居留した。穂高さんはこの寺だったから弟の冬樹さんも同じだったろう。

 郷福寺の引率は柳内達雄先生だ。よって二人は鉛筆部隊の隊員だった。

(二)
 今日代沢小家庭学級主催の講演会が行われた。タイトルは「下北沢X物語」だ。
時間があまりなく駆け足で話をした。一つの狙いは代沢小の音楽文化を語るということで
実際の歌を田ノ岡三郎さんと北田麗奈さんの指導で子どもたちが歌ってくれた。三曲である。一つは浅間温泉で歌われた「代沢浅間学園の歌」である。もう二つは再疎開先の広丘村郷福寺の「郷福寺学寮歌」と洗馬村真正寺の「真正寺学寮歌」である。

 あまり時間がなくこれらの歌にまつわる話は、駆け足で説明したことだ。
 代沢小の疎開学童は、昭和21年11月に下北沢に戻ってくる。加藤楸邨夫妻は下北沢駅に出迎えた。このときのことが全集(加藤楸邨全集 第8巻 講談社 1981年)のエッセイ「旅から旅へ」に記録されている。

 子供たちが帰京したとき、私は駅まで出迎えにいったが、列を組んでくる子供の中から、にこにこした長男、片手に弟の手を曳いている様にぶつかると、ここで初めて戦争が終わったのを感じた。片手の藷はは甘藷だった。

信濃より藷さげてきし手の霜焼け

 はそのときの句だ。


 このときの下北沢帰京は忘れられないできごとだった。
「駅に着くと母と父とが待っていて、そこに駆け寄ると『よく戻って来たわね』と言われたとき止めども亡く涙が流れてきたのですよ」
 これは松本(榎本)明美さんの述懐だ。
「加藤穂高さんは私を好きだったらしく手紙をたくさんいただいて今も持っているの」
 後年そう語っていた。

(三)
 飛行第204戦隊の話は劇的である。
 昭和20年5月20日。この戦隊は陸軍八塊飛行場を出撃して沖縄慶良間沖の敵艦船群に向けて飛び発った。栗原義雄少尉を隊長とする五機である。誰も敵艦撃沈を夢見て飛び発った。しかし、この頃になると敵も防御を厚くして思いは達せられないでいた。が、204戦隊は敵艦を捕捉し危害を与えた。これがアメリカの駆逐艦サッチャーである。この艦についてはウィキペディアに「サッチャー (DD-514)」として記事が載っている。

5月13日、サッチャーは沖縄近郊の慶良間諸島に向かい出航した。駆逐艦は輸送艦が停泊する際、日本軍の航空機を索敵及び迎撃する任務に割り当てられた。5月20日、サッチャーは多数の日本軍の航空機が停泊地に接近しているのを発見し、対空砲火を行った。低空飛行の一式戦闘機隼が左舷を通過したとき、サッチャーは速度を25ノット(46 km / h)に上げ、20mmおよび40mm砲で迎撃した。しかし、神風特攻隊の機体は急上昇した後に船体に突進し、船体後部に激突した。サッチャーは航行不能となり、外部との通信も絶たれた。14人が死亡または行方不明となり、53人が負傷したため、サッチャーは慶良間港に入港した。

この船を捕捉したのが204戦隊の隼であったようだ。飛び込んできたコメントは、アメリカの関係者が機体の一部を記念に持ち帰ったという。できれば関係する人に返却したいとのことだ。(写真、代沢小講演会会場)


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2023年11月10日

下北沢X物語(4821)―阪神タイガースと代沢小―

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(一)明日、代沢小で話をする。その表題が「下北沢X物語」である。自身のブログのタイトルである。主催する家庭学級の人が決めたようだが素晴らしい。代沢小は当地域で最も古い学校である。我等北沢川文化遺産保存の会は、発足して20年になる。文化発掘はこの学校を起点にして始まった。事実、我等の形ある事業としては坂口安吾文学碑を代沢小に建てたことである。彼の作家は大正14年に代沢尋常小学校で代用教員を務めていた。そのときの作品が『風と光と二十の私』だ、碑文にはこの一節を刻んだ、「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」と。我等の活動のシンボルである。私らは当地域を「下北沢文士町」と呼んでいる。ここには文化芸術の多様なジャンルの人々が住んでいる。この人々を網羅したのが「下北沢文士町文化地図」だ。今回注文があった。文士町居住者の一人古関裕而だ。「阪神タイガースが優勝したでしょう。この応援歌が、この町の一角で作られたというのは驚きです、古関さんについて少しお話ください。」と。

 歌は、最初大坂タイガースの歌として作られた、できたのは昭和11年である。作詞は佐藤惣之助、作曲が古関裕而である。この辺りは興味深い。佐藤惣之助は奥さんを亡くしている。昭和8年である。そしてこの年末には萩原朔太郎の妹アイと結婚している。朔太郎は義兄に当たる。
 萩原葉子は『父・萩原朔太郎』(筑摩書房)に佐藤惣之助のことを書いている。

 昭和八年 の春の終わりごろ。 私が学校から帰ってくると、太った惣之助と痩せた父とが並んで、庭を散歩していることがよくあった。そしてそれから間もなく、祖母の一番愛している父の末娘が惣之助と結婚したのだった。 祖母にとっても娘夫妻を家に呼ぶことは、他のどんなことよりも嬉しいことなのだった。だから父もこの時ばかりは大っぴらに友人を迎えられるので「おっかさん酒を頼むよ」と気がねなしにいうのだった。

(二)
惣之助の妻花枝は、昭和8(1933)年1月に死去している。すぐに萩原朔太郎の妹と交際を始めたようだ。折々に代田の自宅を訪れている。この年11月に結婚をしている。六甲おろし、大坂タイガースの歌ができたのは昭和11年である。
 この歌の作曲は古関裕而である、代田住まいである。佐藤惣之助はたびたび代田の詩人宅を訪れていた。このときに歌の打ち合わせで古関裕而のところにも寄っていたのかもしれない。

 佐藤惣之助は、川崎出身である。「六甲おろし」を作詞するに至ったいきさつは彼が歌謡曲を手がけていたことと関連する。彼は川崎コロンビアに所属していた。新しく始まる職業野球の大阪のチームから球団歌の仕事を社が請け負ったことに始まるという。

 代沢小の家庭学級の委員の人は阪神ファンの人だ。阪神タイガースの歌の作曲と作詞とが世田谷代田ゆかりの人によって創られたと言うともっと歓ぶのではないかと思う。

 古関裕而は応援歌を多く創っている。「栄冠は君に輝く」もその一つだ。これは1948年作曲だ。この歌は素晴らしい。六甲おろしもこれも根津山に近い家で創られている。

(三)
 古関裕而の作曲法は独特だ。彼は自宅近辺をよく散歩していた。根津山がお気に入りだった。近辺を歩き回る中で曲想を得ていた。応援歌は明るくてテンポがいい。根津山は上り下りがある。脚は下りではタンタンと弾む。山からの下りで想を得ていたのではないか。

 家に帰り着くと座卓に坐り、そして頭の中に貯め込んでいた曲想をペンを握って一気に五線譜に書いていた。代田から離れることがなかったのは当地の沢が曲に緩急をつけるに必須だった。
 葬儀は、代田円乗院で行われた早稲田と慶應の応援団員が来ていたという。それぞれの応援歌で柩は送り出されたのではないか。(代田からは富士がよく見える)



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2023年11月08日

下北沢X物語(4820)―学徒出陣80年と世田谷 下―

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(一)疎開戦争史を調べていく過程で長谷川信少尉のことを知った。「きけわだつみのこえ」では筆頭にくるのが上原良司である。批評するどく戦争について述べている。が、長谷川信も彼に劣らず鋭い批評をしている。手記の最後「恐ろしき哉、浅ましき哉/人類よ、猿の親類よ」という言葉は強烈だ、現今のイスラエルとハマスとの戦いは端的に当てはまる。論理も倫理もへったくれない。憎悪の暴発だ、しかし圧倒的な軍事力を持つイスラエルのが敵対するハマスをせん滅しようとしている、これほど浅ましいことはない。頭脳は猿同然だ、イスラエル軍幹部は「核兵器の使用も辞さない」と狂っているとしか言いようがない。

 この11日に代沢小で話をする。疎開の話もする、1944年8月12日夜、下北沢駅を疎開学童は出発した。電車が駅を離れると、幸子!、太郎!、道子!、一郎!と見送りに来た親は「火の出るような声」で我が子の名を叫んだ。年数をカウントしてみたら79年前だ。学徒動員は1943年だ、すると来年は「疎開学童80年」となる。体験者も高齢化している。展示をするなり、体験を聴くなりしても、これが最後の機会ではないか?

 疎開も悲惨だった、なかんずくひどかったのは虐めである。我々の社会集団の根本の悪弊はこれである。とくには疎開先では全員に目が届かない。女子という身体を炬燵の上に載せて欠点をあげつらうなどは耳を覆いたくなるほどだ、言いたくなくても自分に番が回ってくるから思ってもみないことを言ってしまったと。

 ひどいのは引率教員だ、酒を飲んだくれて手伝いの女性を追いかけ回す。子どもを虐めるなどは日常茶飯事だった。社会の縮図が疎開生活では端的に表れる。

(二)
 長谷川信少尉は約40日ほど浅間温泉に滞在した。富貴之湯二階には小部屋があって女子学童四五人が起居していた。ここに彼は度々訪れては学童と親しく接した。彼も女子学童に深い親しみを持っていた。女子部屋訪問は教員間でも話題になったほどだという。

 しかし、女子学童は彼に好意を持っていた。そのうちの一人は、「私、信さんは初恋の人だったの」と後年同期会で打ち明けたと言っていた。経堂の歯科医と結婚した彼女ももう亡くなったと。

 秋本佳子さんは、長谷川信のことをよく覚えていた。
「白いマフラーに赤糸で『ハセガワ』と縫ってあったので、誰と聞いたら母だと言っていましたね」
「戦闘機で飛んできてと言ったら本当に飛んできたんです、私らは旅館の物干し場で棹を持って大きく振って合図しましたよ」

「海老根軍曹が他の女子といっしょに手を繋いで散歩しているところに会ったのですよ。慌てて少尉さんに敬礼をするの。そしたら『こんなときは敬礼しなくていいんだ』と言っていましたね」
 秋本佳子さん、極めつきだ、出撃前最後のお別れ会で、一夜限りのお別れの歌をうたった。もちろん長谷川信少尉もだ。
 彼女はそれを一言一句節とともに覚えていた。音楽家の明石隼太さんが採譜をしてこれ譜に落として戴いた。曲の名前をつけたのは私だ。『浅間温泉望郷の歌』である。これのいきさつについては、歌手の寺尾紗穂さんが詳しい解説を載せている。「特攻隊と富貴之湯

(三)
 誠第31飛行隊は多くの特攻隊の中でこれほど苦労した隊はないだろう。本土に待機していた誠隊は、九州から離陸して多くが特攻出撃している。が、誠第31は台湾行きを命ぜられた。
 
 猪苗代湖畔には彼の碑が建っている。こう刻まれている。

長谷川信 碑
 俺は結局凡々と生き凡々と死ぬ事だろう 
 だがたった一つ出来る涙を流して祈る事だが
 それが国泰かれか 親安かれか知らない
 祈ることなのだ
  大正十一年会津若松市に生まれ
  四月十日
  昭和二十年 沖縄南方上空に散る


 大陸中国の杭州飛行場を発って台湾に向かうとき、長谷川信は与那国島近辺で敵機に遭遇して撃ち落とされて戦死した。それが4月10日だった。特攻出撃して敵艦に体当たりするという思いは叶わなかった。(写真は武揚隊が滞在していた浅間温泉富貴之湯旅館だ)



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2023年11月07日

下北沢X物語(4819)―学徒出陣80年と世田谷 上―

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(一)昨日、世田谷平和資料館から電話があった。今年は学徒出陣80周年、各地でこれに関連してのイベントが行われている。館でもこれの企画展を考えている。ついては協力してもらえないかと。私は世田谷の学童が浅間温泉に滞在したとき。来合わせた特攻隊とふれ合った。このことを長年調べている。富貴之湯旅館に滞在していたのは東大原国民学校の学童たちである。隊名は誠第31飛行隊だった。誠は台湾を本拠地とする第八航空師団所属を示すものである。この隊の一員が長谷川信少尉だ、彼は学徒出陣組である。彼の存在を聞きだしたのは疎開学童からである。調べていくうちに長谷川信は「きけわだつみのこえ」に手記が載っている人物だと突き止めることができた。彼の手記には戦争への激しい憎悪が描かれている。が、今この国は国民の思いとは逆に戦争ができる国にしようとしている。古老の何人もが言っていた、どうあっても二度と戦争はするな!と。

 太平洋戦争中の1943(昭和18)年10月21日、今は新しい国立競技場となった明治神宮外苑競技場で、学生を戦場に送り出す「出陣学徒壮行会」が行われた。
 前に私たちは、北沢タウンホールで戦争経験を聞く会語る会を行った。そのとき参加されたのは海軍第14期飛行予備学生の7名だった。彼らは学徒動員組であった。

「あの日は雨だった、それで印象深く覚えているよ。スタンドには女子学生が陣取っていて手を振ったり、応援をしたしていた。もの凄い数だった。雨の中をゲートル巻いて、38銃を抱えて音楽に合わせてチャッチャッチャ、タッタッタと行進した。あのときに『うみゆかば』全員で歌った。女子学生の声はとても物悲しく聞こえた。しかし、励まされたというか、戦争に行く気にはさせられたね」

 壮行会では東條英機首相が競技場に集まった学生に檄を飛ばした。これに応えて学生代表が答辞を述べた。それを読み上げたのは、当時、東京帝国大学2年生だった江橋慎四郎さんだ。私はこの人を知っている。勤め先の学校の校長を務めていたからである。会話を交わした覚えはある、が、何を話したか覚えていない。ただ学徒出陣式で東條英機に対し答辞を行ったことについては触れることはなかった。

(二)
壮行会の記録映画が残っている。明治神宮外苑競技場はグランド、スタンドともに学生で埋め尽くされている。間違いなく言えることは、大勢の女子学生動員は主催する側の演出だった。大合唱になって女学生が歌う、「うみゆかば」は悲壮性を高めている。男子学生は感化された、学業半ばで戦地に赴くことは心底から望んではいなかった。しかし、女子学生のあの歌を聞いて感化を受けた。戦場に行くのはやむなしと。この式典の儀式としての演出が巧い。戦場に送ろうとする軍部の色仕掛けであったのではないか。

 江橋慎四郎さんは後年になって取材に対して答えている。

江橋さん(2016年の証言)
「あの巻紙は僕が書いたんじゃないんだよ。『おまえが代表をやれ』とか『代表の文章を作ってこい』と言われたけど、学生委員の先生方が添削したものを僕に渡したんだ。(最初に書いたのは)『元気で行ってきます』っていうようなもんです」


 記録映画では巻紙を読む江橋氏が映っている。巻紙にして書かれたものを読む、これも演出であるように思える。言えば、学徒壮行会とは言うが軍部のプロパガンダである。

 女学生を大勢動員して、彼女らに声援を送らせ、そして悲壮な「海ゆかば」を歌わせた。言えば戦場に送り込むための儀式である。

(三)
 浅間温泉に飛来した特攻隊のことを調べた。その過程で富貴之湯に誠第31飛行隊がいることが分かった。またここを使っていたのが東大原国民学校の学童であることも突き止めていた。ところがここに疎開していた者が分からない。

 北沢4丁目に俳人の中村草田男が住んでいた。篠山さんの家だ、文学者のことを調べに行ったのに疎開学童情報を得た。
「妹は東大原の疎開学童で富貴之湯に泊まっていた」
 本命はそっちのけにして妹さんの話を聞き、さっそくに渡りをつけてもらった。大田幸子さんだ。彼女から特攻隊と親しくしていた人がいると聞いてこの人にも連絡をとってもらった。こちらは秋元佳子さんである。下北沢一番街の染め屋の娘さんだった。
 彼女はしきりと「ハセガワさん」の話を口にした。そのうちに段々分かってきた。この人は「きけわだつみのこえ」に手記が載っている長谷川信少尉ではないかということが。この話はさらに進展発展していく。
(写真は、猪苗代湖畔に建つ長谷川信の事跡を記した石碑だ)




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2023年11月05日

下北沢X物語(4818)―下北沢の文化を耕して20年 5―

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(一)20年は一言でいえば、学びであった。知らなかったことを知ったり、気づかなかったことに気づいたりしてきた、好例がある、代沢小の鉛筆部隊を調べて行く過程で出会った黄色い布である。立川裕子さんは鉛筆部隊の一員だ。生前日赤病院に見舞ったことがある。「私は特攻隊員の今西修軍曹がお歌を書いてくださったものを戴きました。その布は満州国皇帝溥儀にいただいたものです」と。この話を聞いたとき意味がほとんど理解できなかった。時を経た今は、説明ができる。太平洋戦争の一真実を表す証拠品だ、世田谷平和資料館の倉庫にしまわれていたものだが、私はぜひ展示をと要望した。今は解説つきで世田谷平和資料館にきちんと展示されている。

 代沢小の疎開学童は1945年3月に陸軍松本飛行場に降り立った特攻隊員と出会う。子どもたちは浅間温泉で分宿していた。その一つが千代の湯である、ここに6名の特攻隊員たちがやってきた。誠第32飛行隊・武剋隊である。

この隊は2月10日に満州新京で発足している。隊名表記、誠が手掛かりだ。これは台湾に本拠を置く第8飛行師団の通称号だ。一方、満州に展開していたのは関東軍、第2航空軍である。つまりは、第2航空軍に特攻隊編成命令が下り、特攻四隊が発足した。すべて誠がかぶされている。第8飛行師団傘下に入る特攻隊を編成せよとの命令を受けて第2航空軍がそれに従ったものだ。

 出撃に当たってこの特攻四隊は満州国皇帝溥儀に謁見している。そのときに恩賜の煙草が下賜された。この箱を包んでいたのが黄色い布だったのだ。今西修軍曹はこの布に彼の思いを書いて立川裕子さんに上げたものである。

(二)
 代沢小の疎開については多くを調べた。これは今でこそ言えるが都会と田舎との出会いだったと言える。地方にとっては大きな文化ショックだった。

 降旗康男監督は浅間温泉出身だ、生年は1934年である、1944年8月13日に自宅の隣の旅館に疎開学童がやってきた。代沢国民学校の子どもたちである。監督は少年、十歳である。このときのことをエッセイに書いている。東京からやってきた女の子がまるで外国のお人形のように見えたという。

 同世代の女子はほっぺがまっ赤であった。ところが東京から来た女子学童は色が白くてとても可愛く見えたそうだ。それは衝撃的だったという。

 特攻隊の青年たちもこの点では同じだった。六人はいわゆる航養出である。逓信省航空局 航空機乗員養成所出身である、これは地方各地あってここで養成されたものたちである。いわば田舎出のあんちゃんたちであった。やはり、彼らも同じく可愛い子に出会って憧れた。それで彼らはお別れの会で歌った。「可愛いみなさんのお人形乗せて、わたしは行きます。〇○へ」と。

 降旗監督は特攻を題材とした映画「ホタル」を撮っている。鉛筆部隊の隊員だった鳴瀬速夫さんは、監督と三軒茶屋であって取材を受けたと言っていた。

 代沢小の鉛筆部隊のことも多分脚本に生かされているのではないかと思う。

(三)
 代沢小の疎開は、地方、田舎に文化ショックを与えた。言えばこれは下北沢文化の照り映えでもある。二世たちが親の文化を受け継ぎ、疎開先で開花させたと言える。それは学芸会や音楽会で見事に現れている、先の鳴瀬速夫さんは、特攻隊員を送る送別会で「ラバウル航空隊」をハーモニカで見事に吹いてみせた。彼らは最大限の拍手を送った。都会で身につけた技量が浅間温泉で花開いたのである。
(写真は世田谷平和資料館に展示されている今西さんの遺墨である)



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2023年11月04日

下北沢X物語(4817)―下北沢の文化を耕して20年 4―

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(一)20年間下北沢一帯の文化発掘を続けてきた。この地域の中で最も古い学校は代沢小学校である。創立は1880(明治13)年である。143年という長い時間を生きてきた学校だ、それゆえに多くの逸話が埋まっている。当地を知るには学校を知る、我等の会の活動はこの学校を知ることから始まった。実際に歴史を調べた、そして記事にまとめネットで発信をした。ところがこれが思いがけない効用があった。全く見知らぬ人からの問い掛けがあったのだ。想像できることは、その人は、「代沢小学校」と検索したに違いない。引っ掛かったのが当、ブログである。このときのタイトルは、「下北沢X物語(479)〜代澤小学校開校記念日(126周年)〜」である。当時者はこれを読んで、私たちが代沢小のことをよく知っていると思ったに違いない。それで記事のコメント欄に書き込みをされた。これが代沢小学校の埋もれていた歴史を紐解く結果となった。

 当該記事は、今でも検索に掛かる。Googleで「代沢小学校」と入れる。すると一ページ目の末尾に私の記事が出てくる。つまり、「下北沢X物語(479)〜代澤小学校開校記念日(126周年)〜」である。発信をされたのは2006年01月23日だった。

 ここに書かれたコメントが壮大な物語の出発点となったのである。私はここに発せられた疑問をとことん追った。この3月に私は台湾を訪れた。この話の結末を求めての旅だ。
書きまとめた本は五六冊にのぼる。

 さて、その記念すべきブログコメントを再掲しよう。

1. Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20
もしご存知でしたら教えてください。
昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(興福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が
作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
”広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、
父母の声、風が運ぶよ、これが一番目で4番か5番まであったような気がするのですが、遠い記憶でよく思い出せません。どなたかご存知の方教えてください。


(二)
コメントが投稿されてもう16年が経っている。しかし、時間の経過は恐ろしいものだ。ここに書かれてあることは今は細部までよく知っている。しかし、当初、問いかけられた疑問は、何のことなのかさっぱり分からなかった。

かいつまんで言うとこうだ。

 旭正章さんは、五六歳の頃に、親戚が経営している広丘のお寺、郷福寺に縁故疎開をしていた。そのときに疎開で来ていた代沢国民学校の学童たちが寮歌を毎日歌っていた。これが歳を経てきた今とても懐かしく思えてきました。部分部分記憶に残っているが、ぜひ全貌を知りたい。ぜひ教えてほしい。

 私は、学校を通して卒業生、とくに疎開に行かれた方を紹介して戴き。その人々から歌詞の断片を聞き取っていた。

 歌詞の名は郷福寺学寮歌である。旭正章さんは六十年も前の歌詞を知りたくなった。それは忘れ難いからである。その理由は想像できる。恐らく彼も都会地から疎開してきて寂しい思いをしてたのだろうと思う。そんなときに爽やかな歌声が聞こえてきた。

(三)
 寮の引率者は柳内達雄先生である。広丘の郷福寺は代沢小の再疎開先だ。浅間温泉とは違って当地で地元の学校に通った。ここで田舎の子との衝突があった。
「都会からきた奴らは生意気だ。勉強ができることを鼻にかけておれらを馬鹿にしている」
 腕力も強い子たちに都会の子はかなわない。帰り道に散々にいじめられる。それで疎開学童はみな元気を失ってしまった。

 先生は学童を勇気付けようと明るい寮歌を作った。代沢小の子、歌は得意だ。
数回の練習で譜は覚えた。学校から帰ってきた子を集め、寺のピアノで歌わせる。たちまちに歌は風に乗って、田や畑まで響き渡った。その音楽が都会的で聞いて居る方はもう心が浮き立ってくるほどだった。疎開学童を勇気づけるどころか田舎の子を勇気づけた。
 
 都会で育った子は音楽的感性にすぐれていた。先生がピアノを弾く、前奏だけでホ長調だと分かる。そして歌い出しから見事に声が揃う。
 歌を聞いている方はもうどきどきしてきたようだ。そういう思い出が蘇ったに違いない。旭さんはせつない思いで代沢小の寮歌のことを検索で探してみた。そしてついには私のブログを見つけ出し。コメントをしてきたのだった。
(写真は郷福寺)




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2023年11月02日

下北沢X物語(4816)―下北沢の文化を耕して20年 3―

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(一)20年間を通しての文化発掘の原点は代沢小にある。その代沢小を今日訪れた、11日の家庭学級主催の講演会の打ち合わせのためだ。当地域の音楽文化を探っていくとこの学校に行き着く。戦前からここでの音楽教育が盛んであった。すでにバンドが結成され練習が行われていた。このことが学童の疎開先で花開いた。秘められた音楽文化である。この事象と町の発展とは深い関係がある。下北沢で鉄道が交差するようになって人々が当地に集まってきた。中産階級である、学校にはこの子弟が通う。するとレベルが上がってくる。学校も変革を求められた、それで新進気鋭の教員を集めて教育するようになった……。

 いわゆる教駒、東京教育大学附属駒場は1947年(昭和22年)に発足している。この第一期生に会員だった田村さんがいた。一期生の多くが代沢小出身者だったと言う。
「駅から学校までの道はわたしたちがスコップや鍬で労働奉仕して作ったんだよ」
 彼はそう自慢していた。
 代沢はレベルが高かった。こんな逸話がある。

転校の子に泣かれゐる雪の中 (加藤楸邨『雪後の天』)

 「転校の子」は、代沢小に転校してきた加藤穂高さんである。「転校してきたんだけど代沢の方が勉強が進んでいるんですよ。どうにもならなくて泣いたのです」と本人から聞いたものである。昭和16年のことである。この頃代沢小は成績優秀な子が集まって来ていた。父親の楸邨は教員であった。勤め先に通うのが便利なことから当地に引っ越してきた。音楽文化の集積の原因は下北沢での鉄道交差の利便性が深く関係する。
レベルが上がった学校には気鋭の教員が集められた。浜館菊雄先生もその一人である。この先生が代沢の音楽教育を引っ張った。戦中から戦後にかけての彼の音楽指導者としての活動はめざましい。ドラマである。私はこれを素材として『ミドリ楽団物語』という作品をまとめた。
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(二)
 会が発足したのは2004年12月だ。最初に着手したのが「北沢川文学の小路物語」である。北沢川沿岸に住む文士達を網羅して、社会に発信しようと考えた。

 文を私が担当し、装幀デザインを東盛太郎さんが手がけた。初めての発信だった。ところがこれが大きな反響を呼んだ。「朝日新聞」、「毎日新聞」の都内版で大きく取り上げられた。その反響は大きかった。
「北沢川文学の小路」は邪宗門で配布した。
「いやあのときはびっくりしましたよ。うちに不断来ているお客さんとは違うのですよ。身なりのしっかりした方が見えましたね。あんまり大勢くるものだから、大久保良三さんが街角に立って交通整理したほどですね」
 マスターの作道明さんが、そのときを思い出していう。語り草である。

 評判を聞いて馬込文士村ガイドの会の人々がやってこられた。この時に聞きつけた話がある。大田区矢口に坂口安吾が住んでいた家があってそこの門柱が放置されていると。(写真)

 朗報である、ちょうどその頃、坂口安吾の文学碑を建てようとしていた。
彼は、代沢小でかつて代用教員を務めていた。そのときのことが『風と光と二十の私』という作品として残されていた。このことから代沢小に小説の一節を刻んだ碑を建てようと考えた。思いついたのはその門柱を使っての建碑である。

(三)
 今日の事前打ち合わせで問題になったのはなにを話すかということだ。
「下北沢のXをからめての芸術、文化、それが代沢小にどう繋がっていくか?」
「壮大なロマンですね」
 大河ドラマを短時間で一気に話してしまうというような印象を持った。
「20年間調べてきたので話すことはありあまるほどあります。しかし時間内にきっとおわりませんね。しかも、疎開時代の音楽を披露するというプログラムがありますね……」
「確かにね……」
「どうでしょう。司会者を立てて五項目ぐらいに絞って、質問を私に振ってくるというようなことは?」と私。
「いいかもしれません……」
 まだ暗中模索である。


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2023年11月01日

下北沢X物語(4815)ー北沢川文化遺産保存の会会報第208号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第208号    
           2023年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、北沢川文化遺産保存の会発足20周年を迎えて
                    会員 いわきやすお


 大江戸八百八町、浪花の八百八橋といわれます。エッセイを書くにあたり、私は文学碑がある北沢川緑道を二度歩いてみました。萩原朔太郎の記念プレート(代田の丘の61号鉄塔)から、横光利一の顕彰碑があるところまでを。つるがおかばしから淡島通りへと向かう下代田橋までは900メートル弱かと思いますが、文学碑間の距離をアバウトに八百八メートルとしました。北沢川文化遺産保存会の顕彰碑808辰任后

 文化遺産の第一号は、2007年12月(平成19年)無頼の作家・坂口安吾の文学碑でした。坂口安吾が住んでいた大田区の新潟日報社の社宅、そこの玄関にあった煉瓦造りの門柱を譲り受けました。坂口安吾は代沢小学校の代用教員を務めていたことがありました。記念碑除幕式の当日は小雨模様の天候でしたが、代沢小の児童たちにも参加してもらい「あんこ先生、お帰りなさい」と声をかけてくれたことを記憶しています。

北沢川緑道の中下橋と一本橋のあいだに横光利一のモニュメントを設置しました。自宅は雨過山房と名付けられました。作品「微笑」に書かれた「家の門から玄関までの石畳が靴を響かせる」その「靴音の加減で」用向きの判定をつけていたとあります。その居宅の敷石二枚を碑として置きました。踏むとモダニズム・新感覚派の音がしてきました。

私は月に1回、鎌倉橋の前にあるクリニックに通っています。前の緑道の植え込みには三好達治の顕彰碑のプレートが設置されています。達治は諸国をさすらった末に、ここ代田に独居し、この地で終焉を迎えました。愛犬ミミ―と戯れる詩人の肖像に親しみを持ちます。

先ほど文学顕彰碑があるあいだを二度歩いたと書きましたが、プレートに鳩が落としたとおぼしき白いいたずら、ホコリが付着しているものがありましたので、カバンに入っていた除菌ウエットティッシュで拭き取りました。東邦ホールディングスが協賛して顕彰碑が設置されたと思います。当時は私が窓口を担当していました。

余談ですが、案のひとつになり未実現に終わりましたが、俳人の加藤楸邨氏も代田の地に一時住居があったようです。ご子息で長男の加藤穂高さんは、私が通学した高校の古文の教諭でした。お名前の穂高は、加藤楸邨句集「穂高」から付けられたということを聞きました。

2、三軒茶屋における高圧鉄塔敷設闘争 きむらけん

 17年越しの課題だ、2006年9月に映画『太子堂物語』を観た。東京電灯が三軒茶屋地区で高圧線鉄塔工事を強行する。これに反対する荏原一帯の住民が手に手に肥柄杓を持ち当局側の者に糞尿弾を投げつけ抵抗した。映画では「この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない。」と締め括っていた。どういう事件か気になっていた。手掛かりはあった、映画で紹介されたのは『森家文書』である、具体的に言うと「旧荏原郡太子堂村名主森家文書」である。世田谷郷土資料館所蔵である、が、当館はずっと改装工事を行っていた。工事が終わったというのでやっと閲覧することができた。学芸員に古文書は読めるかと聞かれた。ためらいはしたが出てきた複写30枚は、漢字仮名交じり文である。何とか読めそうで安心した。「人々と電気の出会い、三軒茶屋は世田谷でもトップを切る場所ですね、近代の夜明けとして興味あります」と学芸員に私は言った。

 『太子堂物語』の中で大正六年三軒茶屋の石橋楼に高圧鉄塔線に反対する住民が集まって集会を開いたとあった。そのとき議論されたことが決議書となって残っていた。
原文は漢字交じり片仮名文であるが、これを仮名に変えた。

 決議書
 今回東京電燈株式会社の企画したる架空式高圧電流線の敷設は我が荏原郡中最も発展し若しくは今将に発展の域に進みつつある世田ヶ谷、駒沢、碑衾、平塚及び大井の諸町村に架設せらるるものにして之が為、該線下の地は忽ち荒廃し為めに町村の開発を阻碍し従って関係土地の所有者の受くる損害は名状すべからざるものあるが為めここに各所は関係者同盟して該架空式高圧電流線の敷設を絶対に拒止せんことを期す。
 本件の目的を達するまで関係地主は終始一貫態度を持し本決議の趣旨に背反するの行動を為さざること本件目的を達するため各町村より若干の総代を選出し其の筋に対する請願その他本件に関する諸般の事務を委任すること。
 右は大正六年九月十七日世田ヶ谷三軒茶屋石橋亭に於ける東京電燈株式会社架空式高圧電流線敷設反対町村聯合総代会に於て決議す。
 本決議を証する為の各出席者署名し置くものなり。


 大正六年九月十七日、東京電燈株式会社が計画した架空式高圧電流線の敷設の反対周回が三軒茶屋石橋楼で開かれた、計画の核になる地域の中心だったからだろう。
 三軒茶屋は明治末年に玉川電気鉄道が開通し、これをしおに東京方面から人々が転居してきて最も発展しつつある場所だった。その町の真ん中を高圧鉄塔線が縦断するというので地元住民が反対運動を起こした。ところが荏原の住民のみならず豊多摩郡の住人も反対していた。それは幡ヶ谷の人々だ。つぎのような申請書を当局に出している。

 今回東京電燈株式株式会社の桂川水力電気淀橋変圧所より玉川電車駒沢変電所に送電の為代々幡町荏原郡世田ヶ谷村に亘り架空線敷設の計画有こと既に立入測量を為し居り〇〇〇区間に豊多摩荏原両郡中の発展地にして過日人家稠密を加えとしつつあり従って田畑の如きも都人士の買入れして別墅となす状況になるをもって売買価格のごときも市街に準ずる等級にあり然るに高圧電気架空線の敷設あるきはその線の下に当たる土地は忽ち価格を失墜するのみならず為纏まりたる一構への土地もその一部線下の地となるに於てその土地は中断せられて勢い三角形を形作るあり帯のごとき長方形を残すなど邸宅地として使用するを得ず〇〇土地の品位を損ない地主の受くる損害は甚大にして且つ町村に取りてもまた土地の発展上一大打撃を受くべきが故にかくの如き架空線敷設はただ独り我々関係地主の利害止まらず町村の存在も少なからざる影響を及ぼすを以て土地所有者の被害薄き水路上などのごとき場所選び若しくは地下線として敷設し土地所有者をして困難相成らざる様に御詮議相成度此殷右関係地主の連署を以て原申請を致なり。

鉄塔線敷設は一本だけではなかった。淀橋変電所から世田谷野沢の変電所を結ぶ高圧鉄塔線の敷設も考えられていたということだ。東京電燈によって複数の高圧線が敷設されようとしていた。しかもこれが町の真ん中に敷設される。鉄骨を運びこむのに道路は必要だ、これもいまある道を使って運びこもうとしていたようである。
 低廉でやすあがりな工法で作ろうとしたようだ。高圧鉄塔線で自分たちの住まいや田地田畑が潰されることに住民はより強く抵抗を感じたようである。

 反対運動の結果はどうだったか。資料にはそれらを証するものはない。しかし、住民たちは会社が逓信省の認可が下りたことを盾に工事を強行しようとした。これに対して住民たちは糞尿を投げつけて強く抵抗した。結果としては住民の訴えが通ったようだ。一つ、淀橋と野沢の変電所を結ぶ高圧線は作られていない。また、太子堂や下北沢縦貫する高圧線は作られていない。このことから運動は奏功したと考えてよいようだ。

3、プチ町歩きの案内
プチ町歩きの案内(11月12月)
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第189回 11月18日(土) 世田谷の鉄塔を歩く
 案内者 きむらけん 東急田園都市線駒沢大学駅改札前 13時30分集合
コース:駅→駒沢公園鉄塔都南線38号→45号野沢変電所→野沢のダイダラボッチ→テコテン坂→駒沢線40号→42号。226事件→52号→57号三好達治旧居→61号「世田谷区地域風景資産」萩原朔太郎の生存痕跡を唯一記念するもの→世田谷代田駅
コースの狙い:大正6年に三軒茶屋を中心にして高圧線鉄塔敷設の反対運動が起こった。
かなり激しい運動だった。しかし、これはほとんど忘れられている。知られざる社会的事件である。その現場を歩きたどることでこの運動の意味を考えたい、新しい試みだ。


第190回 12月16日(土) クリスマスの下北沢「猫町」散歩
案内者 きむらけん 下北沢駅東口改札前 13時30分集合
コース:駅→萩原朔太郎旧居→煙草屋→ポスト→「樹木の多い郊外の屋敷町」→朔太郎がさ迷った路地を巡る→下北線路街→踏切地蔵→世田谷代田駅→自宅までの通い道→代田の丘61号鉄塔(世田谷区地域風景資産)→詩人旧居→鉄塔文学碑→三次達治文学顕彰碑→下北沢静仙閣→下北線路街→下北沢駅
コースの魅力:萩原朔太郎には『猫町』という短編がある。虚構小説だが、丹念に見ていくと前半にでてくる町は下北沢であることが想像できる。「下北沢には次元の穴が至る所にある」と言ったのは吉増剛造、朔太郎存在が感じられる場を歩いてみる。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 資料代500円
希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498
                   
4,創立20周年記念祝賀会

今年末12月で我等の会は創立20周年を迎える。時も20年も経てば完全な歴史となる。会には多くの人が関わってこられた。が、その人々も物故されてしまった。今回はまずそういう人々への感謝の念を表し弔意を表したい。
 東盛太郎氏、広島文武氏、道吉剛氏、金子善高氏、今井明氏、川田正義氏が思いつく。その他志し半ばで亡くなった方も数人おられる。最初に弔意を表す儀式で初めようと思う。献杯だ。その後は、皆で語り合って一時を楽しく過ごしたい。ぜひおいでください。
 日時、12月2日 午後17時40分に開催する。
 場所 下北沢北沢タウンホール 2階集会室
 参加費用 3500円 お弁当を信濃屋に発注します。予定としては11月20日に申し込みを締め切って発注したい。参加希望を募ります。連絡はきむらにメールでください。
 いつも行っている、一品持参、またオークション品持参も大歓迎。いつもならロスコンパニェロスが参加して彩りを添えてくれていましたが、今は活動停止とのこと。色を添える出し物してくださる方を募集しています。飲んだり食べたりして文化を語る会です。どなたでも参加できますのでどうぞおいでください。歓迎いたします。  

■ 編集後記
▲「世田谷の秘密を教えてちょ」というSNSグループに加入した積極的に投稿している。やはり地元だけに情報が密である。当方が問うた疑問への回答が返ってきて謎がいくつも解明されている。町歩きもここで広報している。ここからの参加者が増えている。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲「下北沢文士町文化地図」改訂9版は鋭意編集中、刊行は来年3月を予定している。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net
▲メール版ではPDFを添付しています。
(掲載写真は、当会創立20周年記念行事のときのもの)




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2023年10月30日

下北沢X物語(4814)―下北沢の文化を耕して20年 2―

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(一)この20年は何だったかと問うてみる。邂逅であり、発見であり、そしてこれらの記録である。町の歴史は儚い、たちまちに消えていく。ゆえに愛おしい。代田の町の門柱に「七島学生寮」という札だけが掛かっていた。東京都島嶼町村一部事務組合が運営していた寮である、島育ちの若者が東京遊学ために寄留していた寮だ。表札を見ただけで幾多の物語が想起された。実際廃墟化したあとここに忍び込んだ人が、「調理室の食器棚からは、ナイフやフォークが出てきましたが、そのデザインが美しく、全体的にその建物の中にある物は全て重厚で格調高く感じられました」とある、日焼けした若者がフォークを使いながら東京での恋バナをしたに違いない。下北沢における寮の参集は一つの文化だと、29日邪宗門で出会った吉本芸人のピストジャムさんに語った。彼は下北沢をこよなく愛するというという人で「下北沢がおもしろくてずっと住んでいるのですよ」と言った。

 文化発掘の要諦は記録である。松林宗恵監督とは邪宗門でよく話をした。彼の口癖「なんたって大事なのは記録だ」と語っていた。

 その監督も亡くなられた。今、我々は「下北沢文士町文化地図」の9版の編集を行っている。その過程で行っているのは物故者縁戚への同意の取り付けだ。地図では文化人の居住地にマークをつけている。これとて個人情報である。マークしてほしくない人もいるはずだ。今回、数名掲載許可を得る必要のある人が出て来た。監督もその一人だ。

「父が住んでいたあの土地は手放してしまいました。痕跡は何も残っていません、だからそこにマークが入ることは嬉しいことです」
 息子さんの言である。

 松林宗恵監督の話で今も鮮明に覚えていることがある。海軍時代の話だ。
「乗艦しているときに艦載機が襲ってきたんだ、機銃を撃つわけだ、そのときに甲板にミシン目を縫うようにダッダッダッと穴が開いていくんだ……」
 彼の代表作の一つは『連合艦隊』だ、確か同様シーンがあった。

(二)
 地図の編集委員に奥谷民雄さんがいる。彼が言ったことで我等の金言になっている言葉がある。
「どんなくだらないことでも記録をしておくべきなんだ!」
 全く同感だ、どこに何があったなど人はたちまちに忘れてしまう。名前があれば場面を思い起こす。先ほどの寮のことで言えば、我等が地図には「飯塚嘉穂学寮跡」を載せている。歴史の消長がわかる。産炭地の飯塚の自治体が建てた寮である。石炭は斜陽である、若い人材を育成して故郷に役立ててもらう。そういう狙いで建てたものだ。
「あそこは小高いところにあってあづま通りに出るには坂をくだる。夜、ラーメンを食いに数人で行くのですよ『みんていがうまかごとあるばい』と言いながら下駄の音をたてながらくだっていくんですね」
 私はビストロジャムさんに話をした。

 奥谷民雄さんは言う。
「俺はきむらさんと肌があわないんだよ。大嫌いなんだよ」
 彼は私の面前でいう、彼は技術者、徹底した理系である。が、私は文系でアバウトである。そこに因がある。私は彼の真っ正直なところが好きだ。
 下北沢における言葉論というのがある。何十人と人と会って話をしてきた。総じて言えることは物事をはっきりと言う。
 それは知性の集まりだからである、それなりにこだわりがある。
 これも亡くなった人だ、道吉剛さんである、第一級のデザイナーである。我々は、北沢川緑道に四基の基文学碑を建てた。彼とともに作ったのは三基だ。

(三)
 文学碑を作るに当たって読点、句点、文字の配置などで道吉さんとは何十回FAXのやりとりをした。忘れ難い思い出である。

会を作ってから数多くの人と出会ってきた。下北沢の文化を語るとき集まってくる人々の性向という問題は大事だ。奥谷さんの話をしたが自分の考えをはっきりと言う。彼もまた表現者だ、道吉剛さんは文字の配置一つでも疎かにしない。デザイナーは発信者である。

 この20年、多くの人と出会った。みな強い個性を持っていた。そういう人々が集まっているところが下北沢文士町である。
(写真は横光利一文学顕彰碑前で、右端が故道吉剛さん、真ん中が横光利一のお孫さん)



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2023年10月29日

下北沢X物語(4813)―下北沢の文化を耕して20年―

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(一)月日の経つのは恐ろしい、まるで手指の間から砂のように時間がこぼれ落ちていく。昨日、毎月発行している「北沢川文化遺産保存の会会報」を事務局の邪宗門に届けた。第208号だ。これを12ヶ月で割ると約18年だ、継続は力だ、「よくまあ、これだけ続いて来ましたね」と間もなく90歳となる邪宗門のマスター作道明さんは言う。その彼は会報発送のために封筒に住所を書いている。一方橋本さんはその会報を一生懸命折ってくれている。毎月、彼はこの作業を律儀にこなしてくれている。我等の会の20年の継続は人々に支えられて続いている……「あの日は、先生が入って来たときは確か雨が降っていましたね」、邪宗門を初めて私が訪れたときのことをマスターは覚えていた。

 文化探訪を始めた頃に邪宗門がリストに上った。初めて訪れたとき、ドアを恐る恐る開けたことを覚えている。このときに出会ったのが東盛太郎さんだった。すでに自身のブログを通して互いに知ってはいたが、会うのは初めてだった。

 実際に会うことで話は盛り上がった。私はブログを書き、彼はそれを一つ一つチェックしていた。近隣の文化事象については既に共通認識ができていた。ブログで知り合ったことが大きなきっかけだった。

 彼は代沢在住だった。
「夜、家からは小田急の急行が代田の坂を下っていくのが見えました。私にとっての銀河鉄道です……」
 このことは今も印象深く覚えている。

(二)
 私自身ブログを始めたのは2004年8月だった。ちょうどそのときに新聞記事にブログのことが話題になっていた。記事の影響を受けてブログを開設した。
 これの優れている点は双方向性があると言うことだ。話題にしたことに対して第三者が反応を示してくる。この会の発足もこのコメントから始まっていた。

 コメントは記録として残っている。その数は膨大だ、会づくりのきっかけとなった東さんとのコンタクトはこのブログコメントに端を発している。どんなことが書いてあったか、たどろうとした。しかし、最初のコメントに行き着くのは容易ではない。即、たどりつけない。「前へ」というボタンをクリックしていかねばならない。コメントの数は多い。かれこれ一時間も掛かった。

 途中、途中に書き込み者の名を見ていく。物故された方の名が多く見つかった。記事の一つ一つが懐かしい。ブログの歴史は本文よりもこのコメントにある、と、思った。

(三)
 クリックを約一時間ほど続けてようや最初の彼のコメントが出て来た。

 じゃらん 2004/12/29 19:10
小生代沢の住人です。
 昭和30年ころはこのクランクになった細い道を小田急バスが三軒茶屋から新宿まで通っていました。バス同士のすれ違いで時間がかかった思い出があります。当時は車掌が乗っていてバックの際の誘導をしていましたね、懐かしく思い出されました。
元記事: 下北沢X物語(2)〜産土神が宿る街〜


我らの会は、2004年(平成16年)12月17日の発足している。もう既にこの頃は邪宗門で彼には出会っていて、会発足の下準備は済ませていて、会は発足していた。

 東さんは、茶沢通を通る、下北沢駅発の新宿行きバスがあったことを述べている。このバスのことは皆よく覚えている。東北沢4号踏切を渡るとき車体がバウンドした。そして大きくハンドルを切って右に曲がる。行くうちに庚申塔の角にさしかかると左への急カーブ、屋根すれすれに曲がっていくところが見ものだった。

 翌年、2005/03/05 13:29 じゃらんさんの書き込みがある。

雪の中、自転車とは!
三好達治がこの付近を歩いていた頃私も近所で遊んでいたので、当時の風景が蘇ってきます。さて、キーワードですが。
小学校は「花見堂小学校」でしょうか?この学校は昭和34年に開校です。
「渋谷と私」は何時頃書かれたものですか?昭和34年以前であれば、小学校は「代沢小学校」ともいえるのでは、私も「渋谷と私」を読んでみたいのですが、なんという本に載っていますか?
バス停の「若林折り返し」はそのずいぶん後に今の場所にできたと思います。以前は単に「若林」でもっと先の、今の環七の近くまで行っておりました。
車庫といえば東急バスの「淡島車庫」が大きくて目立っていました。こちらは「創運荘」のすぐ近くです。ここの近くは製餡所、ソース工場、インクの工場がありました。ソースは今でも作ってますよ。
代田から渋谷へは三軒茶屋から玉電に乗るか、東急バス(渋谷ー若林)を利用あるいは小田急バス(梅ヶ丘通りから乗りますが淡島からは東急と同じ路線です)と言う選択も有ります。いずれにしても詩人がかつて歩いていた町ということですよね。


このコメントを見るとこの頃何をしていたかが分かる。三好達治の旧居が分からない。それで文献から地元のことを記述したものを探し出しては、旧居を探しだそうと懸命になっていた。

(四)
 東盛太郎さん、会発足時のメンバーである。
「20年経って発足時のメンバーで残っている人は私と、作道さんだけですよ」
「おそろしいもんですね」
 作道明さん封筒の宛名書きをしながら応ずる。
 東盛太郎さん、くも膜下出血で急逝してしまった。
(写真は、東北沢6号踏切、現オオゼキ前)


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2023年10月27日

下北沢X物語(4812)―「上馬うなり石」の謎 下―

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(一)今、多くの伝説が消えつつある。近代化が大きな一因だ、かつては道路脇に多くの石碑があった、庚申塔、地蔵尊、馬頭観音、道しるべなどである。これらは道路を作るのに邪魔である。それで一箇所に集めたり、家の裏側に持ってきたりしている。残っているのはまだいい方なのかもしれない。かつてこれらの標には役割があった。他の領域から悪疫や悪霊が入ってこないように護る役目を果たしていた。守神が撤去されたことで地域は護られなくなった。悪霊でも何でもかでも町に自由に闖入してくる。うなり石も一帯の守神であった。かつて人はこれを大切にしてきた。

「上馬の『うなり石』」について、この伝説をお話として伝えようとした人がいる。桜井正治さんである。『せたがやの民話と伝説』の一話としてここに載せられている。
 
上馬の「うなり石」がとおせんぼ

 竹やぶと雑木がしげる上馬の分かされ道に、いつのころからか、どっかり大石が転がっていました。
  誰言うとなく、この石を「うなり石」と呼んで、ここを通る時は、人によっていろでした。 はや足で駆けぬける者、ゆっくり歩いて石に両手を合わせる者などさまざまでした。
上馬村の清助は百姓仕事に精を出す村での評ばん者でしたが。小心のところがありました。 清助には年老いた母が病気がちで手がかかることから、女房と相談のすえ、村人に気づかれないように母親を捨てに行くことにしたのです。
  夜明け前に母親を背負うなり、 石への道をはや足で通ろうと分かされにくるとどうしたことか。清助の脚がもつれて先に進めませんでした。
清助はあせるばかりです。そのとき、足もとの方からうなるような声がするのです。
「清助……母を捨てるとはもってのほか、 恩知らずめが今のうちに家に引き返すがよい」
  清助はあたりを見回したのですが、人影がないのです。 足もとに大きな石がごろりと横になって道をふさいでとおせんぼしていました。
清助は言われるままに家路へいそぐと、石からの声がまた追ってきたのです。
「親子仲よく暮らすことが貧しくとも幸せなんだぞ。村で働き者とおだてられるよりも、親をそまつにしない人と言われることだ……たのみますぞ」
 村の辻を守る「うなり石」は、こうして声を出して人をさとしました。石はこのあとも人の道を外すものを、ずいぶん改心させました。また、村に出入りする悪者を追い払うことをしましたので上馬村は大変平和であったといいます。

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(二)
 創作民話である。上馬には辻に大石があった。これが村人によって「うなり石」と伝えられてきた。由来は、ときにうなり声を出すときがあるからこう呼ばれた。

 ここでは介護に苦しむ正直者の清助の話として伝えられている。
 時代は江戸であろうか。清助は上馬で農業を営んでいた。当地は、上馬引沢村と称していた。東京府志料によると、土地の形勢は「高燥多く卑湿少し」とある。多くが丘陵地帯で水は潤沢ではない。ということだ、沢沿いでは少しの稲作はできるが大部分は丘上の乾いた畑である。作物を作るにしてもそう容易ではなかった。
 一帯では江戸まで行って糞尿を分けてもらい、それを肥料として畑に与え蔬菜類を作っていた。清助はまじめで百姓仕事に精を出して働いていた。しかし、母親が老齢で世話もままならなくなった。食べていくのもやっとだったようだ。生活は苦しい。一家で生活していくこともままならなくなった。いろいろと算段した挙げ句に母親を捨てにいくことにした。
 道順は自ずと知れる、西の方に行くしかない。丹沢までは遠い、考えたのは多摩川の川原だろうか。蛇崩川の少し先に辻があった。そこを通りかかったときにうなり石に諭された。「親子仲よく暮らすことが貧しくとも幸せなんだぞ」と。清助は決していいこととは思っていない。うなり石はそこを衝いてきた。

 うなり石があることにより上馬村の平和は保たれたという。この話の中に坂の話はでてこない。別種の話にその話はあるのか?

(三)
「上馬うなり石」のことは、世田谷区のホームページで紹介している。

 編集委員はこの『うなり石』がどこにあるのか、現在もあるのか、調べてみましたが、
分かりませんでした。ご存じの方がおられましたら、
ぜひ上馬まちづくりセンターへご一報ください。

 明薬通りと中里通とがぶつかる辻を昼間見に行った。ついでだと「上馬まちづくりセンター」へ寄っていった。入ったばかりという若手が応対に出てきたが。あまり要領を得なかった。

〇今日、「あなたの知らない世田谷の秘密を教えてちょ」に掲示しました。
明大野球場他 (34)
*看板撤去?
 今日10月27日 UR賃貸住宅の「アクティ三軒茶屋」に行きました。看板を見るために。
 ここに「駒沢野球場跡地」・「明治薬科大遺跡」と記された看板がありました。右下に「世田谷区教育委員会」と記されていました。町歩きでは必須見学箇所だったのですがありません。清掃のおばさん、撤去されたとのこと。移築したとの話も聞かない。大切な文化事象を記したものだと思うのですが。


〇お知らせ
 会報第208号は明日印刷し、邪宗門に午後2時頃届ける予定である。

(写真上、世田谷観音通と中里通の交差点、中、アクティ三軒茶屋の中庭。
 下、撤去され無くなった看板)




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2023年10月26日

下北沢X物語(4811)―「上馬うなり石」の謎 上―

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(一)うなり石の話を小耳に挟んだのはもう十年前のことだ。旭小の学童が家に帰るときにその石がこわいので遠回りして帰っていたと。通学路に潜む怖い石はどこにあったのだろうか、人間対して音を発しては脅したり怖がらせたりする。この伝説は全国各地にある。やはり何かの音を立ていたことで人々は注意を払っていた。一帯の区画としては上馬、下馬とがある。その中で上馬地区に存在していたという。まず最初は中里地区を調べた。ここには大山旧道が通っていて商店街も形成されている。通り掛かった古老や店の主人に聞いてみる。前に「中里色街」のことで訪ねてきたことがある。収穫としては「新世界」「オリンピック」というキャフェがあったことは確かめられた。やはり色街は本当にあったのだと思った。

 上馬一丁目にあるという「うなり石」を探したが分からない。しかし、よくあることは本命には行き当たらないで別のことが分かることだ。
「上馬のうなり石のことは知らないけど、この近くに226事件の首謀者がいました。その人の家のあったところはわかりますよ」
 二・二六事件の首謀者とされる安藤輝三大尉の旧居である。この住所はネットでも公表されている。

東京市世田ケ谷区上馬一丁目八六六番地

 八百屋のおばさんがその場所を教えてくれた。現在の二十一番地あたりがそうだ。末裔の人がいるという話だったので表札を探したが見あたらない。その一角の路地を歩いているときにふと見えたものがあった。鉄塔だ。それは駒沢線42号だった。

 この駒沢線は何度もたどってきた。これまでの経験だ、鉄塔脇には物語が潜んでいる。
「ここら辺は静かなところでしょう、憲兵などが来た時は大変な騒ぎだったそうよ」
 八百屋のおばさんが言っていた。この一丁目近辺は区画整理がされていない。家々が込み合っている。憲兵が踏み込んできたときは大変だったろう。

(二)
 最近、SNSの「誰も知らない世田谷の秘密を教えてちょ!」というサイトがあって折々活用している。地元情報が得られるところから投稿したり、コメントしたりしている。
古河純裕さんという人は中里に詳しい人でここのことを話題にしておられた。もしやと思って上馬うなり石のことを質問してみた。つぎのような回答があった。

うなり石?
姥捨ての石のお話ですかね。
姥捨てしようとしたら、石が追いかけてきた話。アレは明薬通りと中里通りの交わる辺りですよね?

 上馬うなり石に対して初めての反応である。
 明薬通りは人々が慣れ親しんだ通称だ、が、明治薬科大学は1998(平成10)年清瀬に移転している。それで道路名称も変わった。「世田谷観音通」となった。道路表示版には(旧 明薬通)と書かれている。
 中里通は旧大山街道のこと、この区間は並行する国道246号はまっすぐ突き抜けている。旧道区間だけが残っていて生活道路となっている。ここにかつては色街もあった。
うなり石は世田谷観音通と中里通が交差するところにあったようだ。もちろん今は存在しない。

(三)
古河純裕さんは「坂をかけ上る岩は、日大農獣医学部跡地と明治薬科大学跡地の間の坂の言い伝えですものね。」と言われる。

 私もうまく理解できていない。文脈から勘案するとうなり石は移動していたようだ。坂は設置場所からは五百数十メートルほど離れている。ここに挙げられた学校名も今は変わっている。日本農獣医学部は、日本大学スポーツ科学部である。明治薬科大学跡地はアクティ三軒茶屋という集合住宅となっている。

 日大とマンション群の間には坂がある。この坂のことについては何度も触れてきた。
かつて雑誌「武蔵野」を発行していた「武蔵野会」は、「大正八年六月一日晴。会員一同初夏の西武蔵野を散策する為渋谷駅前に集る」、駒沢遠足である。彼ら一行はこの坂を通って行った。「ここがそうなのか」と口々に感嘆の声を上げたところだ。

 うなり石のことはまだ自分にもよく分かっていない。辻に鎮座している石はどうやらこの坂をかけ上っていたようだ。また謎が増えた。
(写真は、マンションと大学の間にある坂だ)


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2023年10月24日

下北沢X物語(4810)―町歩き:旧大山道を歩く 下― 

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(一)三軒茶屋というのは世田谷の中核都市である。今でも交通の要衝となっていて広く知られている。ここには道路の分岐点があり、結節点となっている。このことから通過する際の重要なポイントとなっている。が、かつては一本道だった。江戸時代中期になってここに新道ができた。つまりは追分だ、ここが大事だ。分かれ目では人は立ち止まる。ここに商機が生まれた。茶を饗して人をもてなす。その茶屋が三軒になったことから、これが地名の始まりとなった。三軒茶屋は追分ができることによって発展してきた。新道はやがて旧道と合流するが、これら新旧の道路の長さはさして変わらない。歩く労力が著しく減るわけでもない。それでも幕府は三軒茶屋からバイパスを作った。それは謎だ、今回の町歩きはこれを解くためのものでもあった。

 旧道は若林から世田谷に入る。顕著な鍵型が今も残っている。左に折れて、また右に折れる。いわゆるボロ市通である。木村康伸さん解説はこう述べる。

 現在のボロ市は江戸時代の歳の市の流れを汲むものであるが、その起源は天正六年(1578)北条氏が開いた楽市にあるとされる。江戸時代世田谷領の代官を務めた大場家に、北条氏政が発した楽市書が伝えられており、楽市を設け、十六日の六斎市とすること、市場の治安維持を図ること、営業税を免除することなどが列記されている。

 北条氏時代は、ここが楽市楽座の中心地であった。市場も盛んであった。いえばここが世田谷の中心地であった。新道はここを避けた。旧来の町を迂回して新道を通らせた。
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(二)
 江戸幕府は、大山道を相州往還と名づけた。そして追分を三軒茶屋に作って新道を行かせた。これによって世田谷の中心街はローカルな町となった。中央集権支配をする江戸幕府にとっては個別地方の賑わいは、目障りだったのかもしれない。実際、江戸時代に入ると月に六度の市が一度に減らされるようになった。

 江戸幕府が新道を作った理由について、木村康伸はこう解説する。

仝魄廚涼羶潅呂盥掌佑飽椶蝓∪づ鎮もすっかり衰退してしまう。江戸時代の世田谷は彦根藩世田谷領の中心地として代官屋敷が置かれるものの、それは一地域の出先機関にすぎなかった。井伊家上屋敷との往き来のために江戸とのつながりは重要であったものの、相州との往還に必ずしも通らなくて良い場所になった。こうして世田谷の位置付けの変化が、新道を生む一つの要素になったと言える。

⊆慂川の治水が関係する。暴れ川であったこの川が、治水や灌漑が進み、蛇崩川も制御できるようになった。
 旧道は川を避けて尾根筋を西へ向かっている。が、新道では三軒茶屋を出ると、すぐに坂をくだって蛇崩川を渡る。治水が進んだことが理由ではないかと彼は述べる。

新道は、品川用水に沿っている。用水整備と道整備はセットになる。それで「新町の開発や用水の開削といった出来事が、新道を通すきっかけになったと言える」
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(三)
 幕府の道路観は、道路の呼称に現れている。大山道ではなく相州往還と呼ぶ。江戸と相模を結ぶ道だとする。呼称に大山詣での道ではなくて、相模との往来を重視した言い方だ。重要な点として物流がある。静岡の茶や秦野のタバコ。 相模川の鮎、多摩川丘陵のマキや木炭などの特産物を江戸へ運ぶ道として使われた。

 大山旧道と新道とを比べると分かることは旧道は、戦国時代の名残の鍵型がある。今のは一つが明瞭だが、西側にあった鍵型は消えてしまっている。旧道はカーブが急である。それに比べると新道はゆるやかで直線的だ。
 江戸期の近代がこの道の線形に出ている。直線に近い方が滞りが少ない。考えられることは早馬だと走りやすい、事件があったとき早馬はその字のとおり早く江戸城に着く。荷の速達性を速めた。相模川で獲れた鮎は人夫が駆け足で中継点を経て江戸に運ばれたという。飛脚などもすみやかに情報を江戸に届けられるようになった。
 江戸期の近代だ、情報や速達性を求められるものは新道をたどれば早くにお江戸に届けられた。そんなことあるのではないか?と考えた。
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〇付記
 大山道を歩くは春に再度開催し、上町駅から二子玉川まで歩く会を実施する。

〇写真は佐藤容子さんの撮ったもののスナップ、地図は彼女作成のもの。


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2023年10月23日

下北沢X物語(4809)―町歩き:旧大山道を行く 上― 

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(一)10月21日、「旧大山道を歩く」町歩きを行った。出発点は三軒茶屋である。地名の由来は当地に追分ができたことに起因する。元々ここに走っていた道は一本道だった。が、江戸時代中期に追分ができた。これがきっかけとなり街道の結節点となった。旅人をもてなす三軒の茶屋できた。これが地名の由来となっている。ただ新道と旧道との距離の差は290メートルほどしかない。新道増設の理由として大山への参詣人が増えたことによるという。三軒茶屋の発展の礎になった追分分岐、徒歩行での労力減はたいしたことではない。なのになぜ新道を幕府は造ったのか?この謎を確かめるための町歩きである。案内人は木村康伸さんである。参加者は13名であった。

 我等は、三軒茶屋の代表看板、大山道碑から出発する。この石碑頂部に大山寺の本尊、仁王像が鎮座まします。大山詣の人々はこれに敬意を払って黙礼をしたり、頭を下げたりした。ただこの道標時代にもまれた。
 ちょうどこの分岐点には茶屋の一軒信楽、石橋楼があった。それでここに道標が置かれていた。ところが1925年(大正14年)に高井戸線が開業し、三軒茶屋は分岐駅となった。道しるべのあった場所に信号所を建てる必要があったところから、道標は移動させられた。が、田園都市線ができて玉電は撤去され、信号所もなくなった。それで石碑はここに戻ってきた。が、広さの関係があって元あった向きに建てられなかった。それで今は南向きに建っている。
「道標は、単なる道しるべではない。町を守るもの。他所からくる邪気を払ったり、旅人を守ったりするもの、やはり渋谷方向を向いていてこそ道標の役割が果たせるもの……」
 町歩きではここによく来るが折々にこのことを言っているが……
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(二)
 三軒茶屋の大山道、道標から旧道を歩いていく。
新道が出来てからの江戸期の地図を見ると、興味深い呼称で大山道が記されている。相州往還である。かつてこの道は矢倉沢往還と呼ばれていた。
一般に通用しているのは大山道である、多くの人々が大山に参詣した。その大山に行くための道ということで大山道は一般に認知されていた。

 大山道のことを言うときに246号と言いもする。国道246号線である。国道を統括する国が名づけた呼び名である。

 相州往還という呼び名は公的な言い方だったと思われる。これには道路管理的な意味合いが感じられる。道路の全体的な機能を言うものである。つまり相模に通ずる道だという言い方だ。道路を普請するのは幕府である。その作った道路の呼び名として相州往還と呼んだ。中央集権的な呼称である。

 三軒茶屋2丁目を西に歩いて行くと左手にスーパーピーコックがある。この裏手にお堂がある。堂内には二基の庚申塔、そして馬頭観音と富士講碑とがある。表通りにあったものをひとまとめにしてここに置いてある。
 近隣を歩いていると庚申塔群と案内されたところがある。体のいい名称で庚申塔の墓場である。区画整理をしたり、道路の付け替えをすると辻辻にある庚申塔が邪魔になる。それで一箇所に集められ庚申塔群と称している。庚申塔、地蔵尊、道しるべなどが古道にはあちこちにあった。が、道路優先でこれらは撤去された。残っている方が少ない。
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(三)
 庚申塔や馬頭観音、富士講碑が集められた箇所は、かつて自転車で通勤していたときに通っていた道である。たぶん南北を貫く古道だろうと思われる。
 この道は南に行くと蛇崩川にぶつかる。かつてはここに橋があった。その名が鎌倉橋である。どうしてこの名がついたのかよく分からない。

〇付記 第二回旧道大山道を歩く
 10月21日の町歩きは、弦巻の大山道旅人の像のところで断念した。無理して目的地の用賀まで行けなくはなかったが、どうしてもそうなると説明をはしょらなくてはならない。皆さん、熱心な人で案内者の話に耳を傾けておられた。
「途中ですが、時間も遅くなってきたことであり、これから先は、また二回目ということで実施したいと思います。今回は用賀が終点だったのですが、もう一つ先の二子玉川まで行くことにしたいと思います。温かくなってきたら、三月ぐらいを予定しております」

(写真、集合写真は世田谷郷土資料館前で、下は三軒茶屋で説明をする木村康伸さん)



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2023年10月20日

下北沢X物語(4808)―散歩は人生最大の道楽 下― 

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(一)歩きほど確かなものはない、大地を踏んで歩くときに足音がする。山道を行くときに枯葉がしゃしゅしょと鳴り、海浜をよぎるときは砂がじゃじゅじょと言い、田舎道を行くときは土くれがぱぴぷぺぽと響く。歩きにはリズムがある。芥川龍之介は芭蕉の句には「調べの美しさ」があると言っているが、足音と無関係ではないだろう。蕉翁は一歩一歩踏みしめて旅をした。山野を踏み越えて行く道で自らの足音を聞いている。その刻みが調べに通じているのではないか。先だって象潟を訪れたが、この地名は歌枕である。『奥の細道』全体がこれを求めての旅である。「きさかた」にも響きがある。「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ。歩きの根幹には願いがあるのではないか。美しい響きを持った土地を尋ねたいという願望である。歩き行くことで自己存在を確かめたい。『奥の細道』は全体が曲であり、弦である、これをはじくと全編から足音が幽かに響いてくる。

 荏原南部に、御岳山という駅がある。池上線の駅だ、「おんたけさんえき」という地名の響きが素晴らしい。ここはよく通る、そばの陸橋を通っていくときに、しゃしゅしょと大きな音を立てて新幹線が通り過ぎて行く。自身はぽくぽくと歩いている。そのときに瞬時に駆け抜ける高速電車を見送る。「どうしてあんなに速くいく必要があるのだろうか?」と思う。『そんないそいでどこへ行く』というフレーズがあったが、人間、何にせよ、急いでいく必要はないのではないかと思う。

 池上線は蒲田行きの電車が通る。ここの東隣が大森だ。
 明治五年(1872)五月七日に品川駅と横浜駅の間の鉄道が仮開業した。これに先だって試運転が行われた。このときに品川、大森、蒲田の沿線に見物人が数多く押し寄せた。ラグーザお玉もその一人だ。弁当持参で朝早くから見学に行った。

「夜があけると、持参した弁当で朝食をすませ、それからまた、何時間かたちました。すると、どうでしょう。やがて、むこうのほうから黒い煙をはきながら、ヒューッと汽車が走ってきました。ひと目みた私は、これはたいした怪物だとおもいました。私にとびかかってくるような気がして、とてもおちついてなどいられません。」
「物語日本鉄道史」前篇 三崎重雄著 博文館 1942年


歩きから汽車へ、移動の大転換だった。人々が歩きを失うきっかけとなった。
 草鞋を履いて歩いていたが、下駄履きで汽車に乗ることができた。価値観の革命的な変化であった。
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(二)
 AIChatが流行っている。私も問うてみた。

散歩の歓びとは何か、という質問には、人によってさまざまな答えがあるでしょう。散歩は、身体的にも精神的にも様々な効果をもたらす運動ですが、それ以上に、散歩を通して感じる喜びや癒しは、人生の豊かさにつながると言えます。

散歩の歓びの一つは、自然との触れ合いです。散歩をすることで、季節の移り変わりや空気の香り、風の音など、自然の美しさや豊かさを感じることができます。自然に触れることで、心がリラックスし、ストレスが解消される効果もあります1。また、自然には癒し効果があると言われており、森林や海岸などの環境に身を置くことで、心身の健康が向上するという研究もあります。

散歩の歓びのもう一つは、人とのつながりです。散歩をすることで、家族や友人、ペットなどと一緒に楽しい時間を過ごすことができます。散歩中に出会う人々との会話や挨拶も、コミュニケーションの一つです。人とのつながりは、幸せを感じる脳内物質であるオキシトシンを分泌させる効果があります。オキシトシンは、「愛情ホルモン」とも呼ばれ、信頼感や安心感をもたらしてくれます。


なかなか鋭い指摘である。「人生を豊かにする」は含蓄がある。
 散歩は全身運動である。心と体とがほぐされる。人間ときとして退屈するが、散歩は退屈することがない。歩いているといつの間にか時間が過ぎている。

(三)
 歩きは人の生き方の根幹に関わることである。我等は、車に乗ったり、電車ででかけたりして用をこなしている。過程は省略されている。代わりに機械の車輪やタイヤが回っている。思うのは自分は目的地に着いているが、心が着いていないように思うことがある。ひとたび車を降りて、歩いて自分を確かめてみたらどうだろうか。
(写真上田園調布から武蔵小杉の高層ビル群、下、田園調布から丹沢山塊を撮った)



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2023年10月19日

下北沢X物語(4807)―散歩は人生最大の道楽 上― 

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(一)晴れの日も雨の日も、歩かない日はない。松尾芭蕉は『奥の細道』冒頭で「古人も多く旅に死せるあり」と言う。最近気づいたのは、死ぬまでずっと歩き続けたいという意味だと。前に町歩きに参加した90歳を越えた女性、「死ぬまで歩き続けたい」と言っていた。人の歩きへの願望は祈りにも近い。歩きは何なのか?言えば全身での人生謳歌である、歩いて風を受けて涼しさ覚え、歩いて陽の光りを受けて温かみを知り、雨に打たれて本当の冷たさを感じる、全身で生きていることを実感するものだ。歩くことで主体的に人生のページをめくる歓びがある。

 私たちは動物である、自由性を持った生き物だ。かつては自分の足を動かし自由に動けた。が、機械近代は人間動物に楽を与えた、汽車である。これに乗ってつくねんと窓辺を見て過ごしていれば目的地に着く。動かなくてもよいということは人間からバランスを奪うようになる。汽車に乗って駅弁ばかり食べていると太ってしまう。太るだけではない、動かないから血流が停まってしまう。近代がもたらしたのは血流の停滞である。

 血は人間を支えている、動くことで血流は促進される。が、今日の便利な生活は動かなくてもよいようになってきている。
 笑ってしまうことがある、スーパーに行って卵売り場で立ち止まる、「卵あったかしら?」。そこで卵ケースにカメラがついた冷蔵庫のコマーシャルが流れる。人間の堕落も甚だしい。物事を記憶することは大事だ、生きていくことはインプットすることである。それを放棄したら人間は退化していく。やはり人間は動くことで自分が保たれる。

 歩くことで血行の滞りが解消される。するとアィデァやヒントなどが湧いてくる。
 自身は朝起きて、食事の後机に向かう。文章を書く。坐っての作業を続けると血行が悪くなってくる。そこで散歩をする。そうすると考えが湧いてくる。
 文章に魅力的なタイトルは必要だ、歩きながら考える。それが「散歩は人生最大の道楽」だった。

(二)
 昨日は田園調布を巡った。宝来公園通りをゆく。このとっつきに長い間、放棄された邸宅跡がある。「ここが現場なのではないか?」と思うことがある。想起されるのは田園調布猟銃事件である。事業経営者の夫がかなり歳の離れた妻を撃ち殺して自分も猟銃で自殺を図るということがあった。猟奇的な事件だけに今も覚えている。

 田園調布が散歩コースとしていいのは緑が豊かで静寂に満ちているからだ。人が住んでいるのに生活音がしない。聞こえるのは鳥の声だけだ。宝来公園通りを逸れて尾根筋道をたどる。国分寺崖線である。地形的に非常に面白いところだ。細長く連なった尾根には連続して古墳群が続く。

 小高い宝来古墳への道をたどる。この下をリニアが通る、住民の有志が反対運動を起こして提訴している。昨日、調布陥没事故3年ということで現地報告する記事が載っていた。そもそもの原因は大深度法にある。地下40m以深は公共目的であれば無償で利用できるという法律である。これに基づいてシールドマシンで道路工事をしていたところ地表が陥没した。安全だ、大丈夫だと言っていたのに事故は起こった。

 リニア新幹線はこの大深度法に基づいて、シールドマシンで掘り進められる。品川区、大田区、世田谷区を突き抜ける。こちらでも陥没の恐れがある。それで関係通過地では戦々恐々としている。
 このリニア計画に無理がある。災害大国の日本、地震の巣窟なのにわざわざ地下を掘って名古屋まで隧道を通すという。秘かに言われていうのが利権である。
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(三)
 多摩川台公園は崖線の上にあって長い階段が続く。これには長い長い手すりがついている。足腰の弱い人でも登れるようにとの配慮だ。足が悪くても人は登ってくる。
 散歩していると半病人やかなり高齢の人が懸命に歩いてくるのにすれ違う。歩くことは生きることだと痛感させられる。
 死ぬまで歩き続けたいという執念がよく分かる、歩くことは明日への希望でもある。
(写真はいずれも田園調布)


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2023年10月17日

下北沢X物語(4806)―総括:三軒茶屋での高圧線敷設闘争 下―

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(一)明治期を過ぎて東京という都市は肥大化していく、これによって電力需要も大きく増してくる。1914(大正 3)〜 23 年の時期は電気事業の一大発展期であった。三軒茶屋における高圧線敷設問題もこの時期に起こった。13 年(大正 2) 6 月には桂川電力
の鹿留発電所が運転を開始し,府荏原郡の六郷変電所および豊多摩郡の戸塚変電所まで送電を開始した。この時は、木柱を利用した簡易送電線であったようだ。さらに電力の需要が高まり、この木製鉄塔を近代化するために鉄骨鉄塔にしようとした。これは支柱を立てるためのコンクリート打ち、これに伴って資材運搬、鉄骨運搬のためには道路を使う。経費節約のために既存道路を使って計画した。すると高圧線は町の真ん中を突き抜ける。7700ボルトを運ぶ高圧線が人家の中を通る、住民を無視したこの工事に対しては人々は我慢がならなかった。それで反対運動が湧き起こった。忘れられた歴史である。

 「森家文書」、「高圧水力電線架設一件書類」の中に「回答」とされた書類一通がある。漢字仮名交じり文で解読できない点もあるので意訳してみた。

 大正六年九月十二日付土第六七四号を以てご紹介に関わる東京電灯株式会社の高圧送電線に対する支障の右左記のごとく御回報まで

左記
一、会社出願線中本村太子堂三軒茶屋地方は人家の密集しおり人馬交通頻繁なれば大いに危険なり。
一、下北沢地方は会社の計画の如く荏原学校代沢分校に接触し架設せらるれば児童の取り締まり困難にして到底危険を防止することはむずかしい。
一、全線に亘り凡て発展しつつある地方なるにすでに東電及桂川会社が二線路を架設している。その上今度の新式の鉄塔の敷設は、土地所有者には最早耐え難くこれに反対している。強いて架設せんするときは到底一大紛擾に発展するであろう。


 「回答」は、世田谷村の用箋に書いてあることから東京電灯への回答であろう。
 高圧線敷設については下北沢村と太子堂村の有力者荏原学校(代沢小)に集まって話しあいを持った。それで下北沢村、太子堂村の責任者が連名で申請を作り、郡長、都知事、逓信大臣に「申請書」を出した。
 大正六年段階ですでに当地域には東京電燈と桂川電力線の二線が敷設されていた。これは簡易鉄塔である。これらに代わってより頑丈な鉄骨鉄塔を通すことにした。計画ではここれが代沢小の側を縦貫していく。子どもへの危険が及ぶことが考えられた。その危険防止については責任を持てない。

 高圧線敷設は土地所有者に耐え難い苦痛をもたらすものだ。敢えて工事を敢行するならば取り返しのつかない紛擾に発展するだろう。
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(二)
 「森家文書」の「高圧水力電線架設一件書類」には長文の書状がある。「高圧電流線建設に関する意義申し立て陳情書」である。達筆で全文解読は困難だ。読み取れるところを意訳して箇条書きで提示する。かなり意訳しているのでその点了解されたし。これは郡長、都知事、逓信大臣に出されたものの下書きである。

・(高圧電流線の)通過地たる東都世田ヶ谷駒沢碑衾平塚大井などの五カ村は巨大なる高圧力を有する架空式電流線が敷設されるその下の地及び付近の土地は、耕作地、またこれに準ずる土地はすこぶる大きな影響を受けるものである。

・近時一帯の発展は著しい、膨張する東都の人口を受け入れるべく住宅地として整備されつつある。このため地価は暴騰し土地の売買価格も上昇している。一旦、建設すればこれらの土地の価値が低落する。

・高圧電流線のある程度までの危険は避けんとすることはできようが強烈なる電力(五万ボルト)を有する架空線の下、及び付近に及ぼす危険に対して多大の警戒をようする、そういうことであるだけに地価価格は下がるだろう。
・東京電燈株式会社架空線高圧鉄塔は豊多摩郡から今度は東都に入り第一架設地たる世田ヶ谷に及ぼす影響如何に……世田ヶ谷は既に三條の架空式高圧電流線敷設されており今回さらに一線を加えてこれら新旧の電流線に阻まれて数個に中断せられて大なる一区画として土地整理を整理することができない。

・ことに荏原小学校代沢分校のごとき多数児童の集合せる箇所危険の恐れの有る高圧電流線に近接しまた〇〇三軒茶屋の人家の稠密せるところを通して危険を深められんとするところは道理なる計画とは言える。

・三軒茶屋は余の不用地なる市街充足せる宅地なると辛うじて建物と建物との縫うように高圧電流線を敷設せんとするは……道理なし
たとえ半ば半公共的企業といえども会社が無目的に進めているために民の利害を顧みざるとも言うべき……。


 この文章はまだまだ延々と続く。控えとしてかかれたもので走り書きで判然としない。かなり意訳していることを断っておきたい。

(三)
 コピー30ページ及ぶ資料を見て感じたことは、執念である、理不尽な計画に対する思いが滲み出ている。資料は経過のみで結果は分からない。が、執念は功を奏したように思われる。

 三軒茶屋太子堂を貫く高圧鉄塔線は、反対運動によってどうなったのか。
・当初は、三軒茶屋・太子堂を貫きまっすぐ北上し代沢小脇を通って敷設されるはずだった。が、現行の線は太子堂側は通っていない、若林を縦貫している。そして隣の代田に入って西北に進路を変えている。反対運動が功を奏したようだ。
・東京電燈は伏線の高圧鉄塔敷設を考えていたが、これは断念して一本になっている。また、野沢変電所と淀橋変電所を結ぶ線も作られなかった。幡ヶ谷住民は地下線を通せとの主張だったがこれも作られていない。
 これらを考えると、大正六年に起こった高圧電流線敷設運動は、かなり大きな運動になった。これがあったことで東京電燈も計画を引っ込めたといえる。
 地域運動史として残しておくべことだ。(了)
(写真は洗足池公園、高圧鉄塔駒沢線は洗足変電所まできている。下は、池上線の鉄塔、駒沢線一号を併架をしている)



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2023年10月16日

下北沢X物語(4805)―総括:三軒茶屋での高圧線敷設闘争 上―

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(一)大正五年から六年に亘った高圧線鉄塔敷設問題は地域史として書き留めておく必要がある。東京電燈は自社の計画を強引に押し通そうとした。住民にとって無理難題だと受け取った。会社側は逓信省の認可が下りたことを盾にして強行に敷設にしようとした。これに対して荏原住民のみならず隣接する豊多摩郡の幡ヶ谷地域の住民までも反対を称えた。特には玉電が開通し町事態が急速に発展しつつあった太子堂や三軒茶屋地域では地域住民がこぞって反対した。高圧線敷設は公益性があるがひとたび敷設されたら高圧電気は危険性が高い、かつ敷設地は廃地同様になると強く反対した。会社側の理不尽な計画に対して多くが異をとなえたものだ。お上のすることも理非が通らない場合には、理由をしっかり申し述べて異を唱える、三軒茶屋地区は早くに開けただけに民度感覚が鋭い。いわゆる大正デモクラシーの影響を受けた一環であった。三軒茶屋は世田谷のフロント都市として社会問題に敢然と立ち上がった。

 一方の攻める側の会社は、東京電燈である。社会で有用な電気を人々に供給していくことに強い誇りを持っていた。『東京電燈株式会社開業五十年史』はその歴史を縷々述べている。まず本邦で「最初の電力を供給」したことを触れ、さらにはわが国で初めて「電車の運転」を始めたことを高らかに述べている。明治二十三年第三回万国博覧会が上野公園で開催されたときに米国より輸入したスプレーグ式の電車二台を動かした。これが一大センセーションを巻き起こした。五十年史は『時事新報』の記事を引用している。

「じつにこの電車はわが国には創設のものなれば東京人にしても珍しけれどことに地方の人々などは一度乗てみるも帰国の土産話となるべし。しかし四町ばかりところを片道二銭とは随分高い運賃なれば赤毛布連などはコリヤ魂消タと二の足踏む者多からん東京人にもまず見て置いてとむしろ万世橋まで鉄道馬車に乗るべしという勘定家もあらんかとにかく我が国には電車鉄道のハシリといふべきものなればこの位の高さは初物の常としてぜひなきことなるべし」(原文を平易に書き直した)

 この電車運転は画期的だった、電車運転の嚆矢で、後明治二十八年、京都電気鉄道が市内で電車運転を開始する。電車線敷設ブームが起き、明治四十年三月六日、道玄坂と三軒茶屋間に電車が動き出すが、上野公園での電車運転におおいに影響を受けてのことである。
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(二)
 東京電燈は、太子堂の地主、森家に再三に亘って土地使用許可の願いを封書にして送った。「当会社淀橋変電所より富士瓦斯紡績株式会社駒沢変電所に至る特別高圧送電線施設の目的を以て貴殿御所有に関わる左記の土地に電柱建設の為同土地借用の儀再三御相談申し上げ……工事施工も今般逓信大臣の認可を得候に就いてはこの際至急起工致したく尚大正五年十二月より大正七年十二月三十日までの間、向こう二ヶ年間壱ヶ年電柱壱本につき土地使用料……」

 淀橋変電所から野沢富士瓦斯紡績の駒沢変電所まで高圧線鉄塔工事を行うに当たって土地使用の許可願いを再三に亘って送っている。この事業については逓信省の許可も得ているところだから進めたい。「承諾無きに於いては工事切迫の場合」は、「相当の手続き」取らざるを得ないというようなことを森家当主、森忠右衛門に会社は封書で送っている。

 東京電燈は桂川電力線の鉄塔化のみならず、自社の淀橋変電所から野沢の富士瓦斯紡績まで高圧線を敷設したいと、逓信省の認可を得ていることだから許可のない場合は相応の手続きをとって対処したいという。土地強制収容をして工事を始めたいということだろう。反対の立場をとる森氏は応じなかったようである。地元の最有力者は何度も関係者を集めて会議を開いているが誰一人として賛成するものはいない。それで東電からの呼びかけに応じなかったのである。

(三)
 『東京電燈株式会社五十年史』には「銀座街灯孤光灯」として明治十五年十一月一日、銀座で発電機で電気を起こし、街灯を灯したときのことを記している。

 発電機に依って二千燭光の孤光燈を点火して電燈の実物宣伝を行った。瓦斯燈はおろか石油ランプすら全国に行き亙らない頃のことだから、東京都民は「文明の光」と謂われる電燈の光芒に肝を潰し、見物人が毎晩蝟集する有様であった。僅か一基の電燈が時人の人気を完全に攫っていったことで、電気万能時代とも言うべき今日から考えると全く隔世の感が深い。

 東京電燈という会社の伝統の確かさをこう述べている。電燈会社創立願いの冒頭は、

「燈火は人間社会の必需品にして一日も不可欠物に御座候處」と歌う。人間生活には無くてはならないものとして位置付けて電気を創ってきた。その誇りと伝統とが今に繋がっている。遮二無二敷設せねばならない。そういう傲慢さが、今回三軒茶屋でぶつかったようだ。(写真下は、上野公園に走らせた電車、『東京電燈株式会社五十年史』より)



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2023年10月14日

下北沢X物語(4804)―高圧線敷設:幡ヶ谷住民の反対運動―

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(一)三軒茶屋や太子堂を突き抜ける高圧鉄塔敷設反対運動はかなり大きな広がりを持っていた。大正五年に東京電燈は二つの計画を立てた、一つは桂川電力線の高圧送電のための鉄塔化である。もう一つは富士瓦斯紡績野沢変電所と桂川水力電気淀橋変電所とを結ぶ新線の敷設である。これは下北沢村や太子堂村を通る予定だった。新線には豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷の住民が強く反対した。大正2年京王電気鉄道が開通した。この郊外路線は人気で東京都心から人々が多く転居してきて、幡ヶ谷など沿線は宅地開発が急速に進んでいた。土地価格も高騰していた。そんな中、町の真ん中を高圧線鉄塔線が敷設されることになった。この話を聞いた幡ヶ谷住民は絶対反対だと言った。寄り合いを開いて当局、豊多摩郡郡長、東京都知事、逓信大臣宛に申請書を出した。

 申請書
 東京府豊多摩郡
 代々幡町大字幡ヶ谷
  〇〇〇〇
 他十七名

今回東京電燈株式株式会社の桂川水力電気淀橋変圧所より玉川電車駒沢変電所に送電の為代々幡町荏原郡世田ヶ谷村に亘り架空線敷設の計画有こと既に立入測量を為し居り〇〇〇区間に豊多摩荏原両郡中の発展地にして過日人家稠密を加えとしつつあり従って田畑の如きも都人士の買入れして別墅となす状況になるをもって売買価格のごときも市街に準ずる等級にあり然るに高圧電気架空線の敷設あるきはその線の下に当たる土地は忽ち価格を失墜するのみならず為纏まりたる一構への土地もその一部線下の地となるに於てその土地は中断せられて勢い三角形を形作るあり帯のごとき長方形を残すなど邸宅地として使用するを得ず〇〇土地の品位を損ない地主の受くる損害は甚大にして且つ町村に取りてもまた土地の発展上一大打撃を受くべきが故にかくの如き架空線敷設はただ独り我々関係地主の利害止まらず町村の存在も少なからざる影響を及ぼすを以て土地所有者の被害薄き水路上などのごとき場所選び若しくは地下線として敷設し土地所有者をして困難相成らざる様に御詮議相成度此殷右関係地主の連署を以て原申請を致なり。


(二)
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 架空線敷設するために東京電燈は測量を済ませていた。当然のことながら測量は住民立ち会いの下で行われたに違いない。これによって敷設ルートが分かった。淀橋変電所は、現在の新宿区西新宿5丁目4番にある。ここと世田谷野沢の富士瓦斯紡績野沢変電所とを結ぶものである。ここには富士のふもと須川発電所で起こされた電気が来ていた。この変電所については、「ふるさと 世田谷を語る」の野沢編にこう記される。

 明治四十年(一九〇七年)に玉川電車が新大山道の路面を通るようになると、村の西側には店が並ぶようになり、大正二年には駒沢変電所も拡張されえ七年ごろには一般にも電気が引けるようになります。この変電所は赤レンガ造りで変圧器が八基、直径一、五メートルもの巨大なモーターがあて、敷地内には従業員住宅も三、四棟あったということです。

 この野沢変電所は玉川電車に電気を供給するために造られた。富士紡は自力で発電所を造った。須川発電所で起こした電気はかなりの余剰があった。これ野沢に送った。

 東京電燈が淀橋と野沢とを結ぶ高圧線敷設を考えた背景には、玉川電車に供給する電気にかなり余力があったことだ。これを淀橋まで送って東京都内に回そうと考えたに違いない。電気需要が高くそれに応じるものであった。

 しかし、幡ヶ谷地区、京王電車が敷設されて三四年も経っていた。この地区今でもそうであるが木密地域である。やはり電鉄線の開業が起爆剤になったものだ。都人士が別荘として家を建てていたというのも面白い。家々がびっしりと建ち始めた地域に高圧鉄塔が敷設される。これによって敷地が削られることに我慢がならなかったようだ。彼らは、代案を具体的に提示している。水路上の敷設、これは玉川上水のことだろう。また高圧線の地下化をも提案している。

(三)
 「関東の電気事情と東京電力」という東電がまとめた冊子がある。この中に、各時代ごとの送電網が記されている。これを見ても野沢と淀橋とを結ぶ線は見いだせない。結局この線は反対運動が起こったことで頓挫してしまったようだ。(写真は、野沢変電所の鉄塔である)



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2023年10月13日

下北沢X物語(4803)―高圧線:駒沢線・都南線放浪行―

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(一)日々荏原区域を歩いては考える、尾根筋に出れば富士が見える、霊峰を遠望しては心を癒やしもする、この山は精神的な存在というだけでなく、我々の生活に直接関わる存在だと知った。言えば、「富士力」である、富士に降った雨が電気を起こした。当地を縦断する桂川電力線は河口湖から取水して発電機を回している。また野沢には富士瓦斯紡績の変電所があって酒匂川の富士の流水で発電した電気が来ていた。三軒茶屋の高圧線敷設問題は富士で起こされた電気の送電に関わっていた。一つは桂川電力線の高圧線鉄塔化であり、もう一つは野沢の変電所と淀橋変電所とを結ぶ線の新設であった。

序を書き終わったところで散歩に出る。鉄塔見学日和だ、思いついて駒沢線(桂川電力線)と都南線(富士瓦斯紡績線)巡ってみようと思った。歩くとさっそくに木犀が匂ってきた。

 歩きながら思った。来月の町歩きの計画が未定だ。思いついたのは「駒沢線を歩く」だ。以前歩いたことがあった。これの再チャレンジだ。ところが歩き出してすぐに分かる。鉄塔線沿いには歩けないことだ。

 高圧線が敷設されたのは大正初期である。地域のほとんどは雑木林や畑であった。計画線は思いのままにまっすぐに引くことができた。耕地整理がなされたのはこの後である。鉄塔は道路づくりには直接関係しない。それで鉄塔をたどろうとするとジグザグに歩かざるを得ない。そのことから「世田谷の駒沢線を歩く」のほうがいいのではないか、と。

(二)
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 駒沢線をたどると野沢から線は東北に向かう。言えば三軒茶屋方向である。やはり当初計画では三軒茶屋から太子堂を突っ切る予定だったと思われる。

 「森家文書」の「高圧水力電線架設一件書類」は、関係書類一切をまとめたものだ。なぜ高圧線敷設に反対したかについての経過はよく分かる。ところが運動の結果、どうなったかということについての記録はない。ただ、推測できることは反対運動をすることで大きな成果があったことは間違いない。

 当初は、二線を作るはずだった。ところが世田谷の野沢変電所から新宿淀橋へ行く線は架設されていない。また、太子堂のど真ん中を縦貫するはずだった線も作られていない。運動が功を奏した結果だろう。

 高圧線敷設については当初は下北沢村を縦断する予定だった。しかし高圧線は若林から進路を北西に変えて代田へと抜けている。下北沢村を避けて敷設されている。

(三)
 「のざわテットーひろば」にいく。掃除をしていたボランティアに話かける。
「ここも世田谷区地域風景資産になっていますが、私らはこの鉄塔の上手となる『代田の丘の61号鉄塔』で活動している者なんですよ」
「あらそうなんですか、私は入ったばっかりでよく分からないのですよ。ただ私の家のすぐそばにこことは違う鉄塔がありましてね、古いものですから、ここの方のが好きです」
「ああ、いわゆる環境調和型というやつですっきりしていますからね」
「うちのそばにあるものは鉄骨でしょう、すぐに鳥が巣を作るのですよ」
 鉄塔は好ましいものではないらしい。

 駒沢線40号から西に向かう、まっすぐ行くと都南線の終点、野沢変電所にたどり着くからだ。途中、旭小に向かう坂がある。人が居たので声を掛ける。
「この坂、テコテン坂と言っていました?」
「テコテン坂?……そんなの知らねぇな」
 近辺の人に何人も聞いてきたが、知っている人はゼロだ。ここでテコテン坂は禁句だ。変なところに住んでいるようで、皆言われることを嫌がる、今度もそうだ。その応答には不機嫌さに満ちていた。(上、のざわてっとー広場、下、都南線、駒沢公園にて)



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2023年10月11日

下北沢X物語(4802)―下北沢太子堂両村高圧鉄塔反対意見具申―

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(一)千歳村粕谷に住む徳富健次郎が「東京が大分攻め寄せて来た」という。東京が肥大化しその影響が西郊に押し寄せてくる。東京に近ければ影響はもっと強い、大正六年に起こった高圧線敷設騒動も東京肥大化の直接的な被害地だ、都市の発展には電力は欠かせない。桂川の鹿留発電所は最新式発電機を設置して電気を起こし77000ボルトの電気を東京に送ることにした。簡易的な木柱鉄塔では高電圧は送れない、それで頑丈な鉄骨鉄塔を組み上げてここに高圧電流を流すことにした。それが下北沢地区であり、太子堂地区であった。両村の名主などはは荏原小学校(代沢尋常小学校)に集まり、協議し、東京都知事や逓信省大臣に計画を拒否する旨の「申請書」をまとめあげ、送付した。

申請書
東京府荏原郡世田谷村下北沢 〇〇〇〇
同 府内郡内 村太子堂
  森忠右衛門
  外 二十八名

今回東京電燈株式会社に於て豊多摩郡淀橋町より荏原郡世田谷村字下北沢同村字太子堂を経て同郡大井町へ送電の為実測致し最早其の筋の夫々出願の手続きを致居り候趣に就いては高圧送電線は本村には已に桂川送電線及東京電燈送電線の弐線並行設置せられ居り如何に公益事業とは謂い危険は勿論殊には今回実測の土地の如きは目下益々売買価格騰貴しつつ宅地の可相成る場所も不尠然るに右高圧電線架設あるは廃地同様に相成り僅少の耕作物を収穫するに過ぎず実に郊外土地発展を阻害するは必定尚人家に接近する箇所有之危険不尠如上の土地に東京電燈株式会社が尚又新線路を設置せんとするは最早土地所有者として忍び能はざる所、殊に玉川電車線路三軒茶屋地方の如き人家密集地附近を通過するに至りて其の危険の度に蓋し想像以上にして前文の如き土地発展を阻害する事多大に候猶既成弐線の如きより今回の新設線は郡部に於ける人家稠密に近き方面に架設すべく測量をなせる者にしてその危険の度の及ぶ土地阻害堪敷御座候につき御許可相成らざる様此以連署の申請候也。

 大正六年九月二十五日
 荏原郡長 井野次郎殿
 東京府知事法学博士 井上友一郎殿
 逓信大臣男爵 田 健次郎殿


(二)
 ここでは下北沢村と太子堂村の有力地主二名と土地の有力者二十八名が集まって此の度出された東京電燈から出されている計画について話し合いを持った。その相談がまとまったことから荏原郡長、東京都知事、逓信大臣に申請書を出した。

 東京電灯側は送電線を敷設するためにまず測量を行っている。そして逓信省に許可申請を行ったようである。

 反対理由としては、すでに当地区においては桂川電力線、東京電燈線が弐線並行して敷設されている。いかに公益事業と言えども危険極まりない。今回実測がなされて予定線となっているところは宅地としての需要があって価格も高騰しつつあるところだ、そこに高電圧を流す高圧鉄塔が築かれたら土地は廃地同様となってしまう、我々にとってはとても損失が大きいものだ。

 とくには三軒茶屋については玉川電車が開通したことで大きな変化が起こっていた。町は賑わってきた。家々が数多く建ち、密集するほどになってきた。そういうところに高圧鉄塔を建てれば危険度が増してくる。地価の暴騰を招きかねない。町の発展を阻害することになりかねない。

(三)
 先にも述べたが大正六年十二月の陸地測量部が作った地図には二本の高圧線が並行して走っている。これは地図の記号からして木柱を用いた簡易高圧線鉄塔であるようだ。高圧線は、既にここに通っていて、また新たに新線を通すことは許せない。
 今度の新線は鉄骨を使ったもので運搬用の道路が必要だ、そのために既にある道を使って運ぶように考えているらしい。それで町のど真ん中に高圧線は敷設される。これは居住民としては全く許すことのできないことだ。



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2023年10月10日

下北沢X物語(4801)―歴史記録:石橋楼での決起集会―

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(一)この記録は地域の歴史としても大事だ。過去が分かるからだ、東京電灯が荏原を縦断する高圧鉄塔線を敷設する計画を立てた。監督官庁である逓信省には手を回して認可をしてもらった。それが終わった後にこのように決まったからと伝えた。住民には寝耳に水だった。ここら辺りに利権が匂う。電力会社は潤沢な資金を持っている。大臣などを料亭で接待し意味ありげに菓子箱を渡していたのではないか。認可が下りた後に住民にはそれを提示した。突然のことだったに違いない。会社からは関係地区に高圧鉄塔を建てるからよろしくとお達しがあった。鉄塔にはこれまでにない77000ボルトの高圧電流が流される。畑地や居住地に危険が及ぶことが容易に想像できた。計画線は一本ではない、同時に二本を並行して建てるとのことである。横暴である。この計画を聞き及んだ地域住民はそんな勝手なことは許さないと三軒茶屋石橋楼に集まり反対決起集会を開いた。しかし、当局はこれを聞き入れず、ついに工事を強行した、反対派は糞尿を投げつけて実力行動に及んだ。

 先に紹介をした、「送電線が通過するという世田谷、駒沢、碑衾、平塚、大井の町村が同盟し、大正六年三軒茶屋の石橋楼に集まって連合相談会を開き、飽くまで反対をすると決議」したことを。このときの「決議書」が資料として残っている。
 原文は漢字交じり片仮名文であるが、これを仮名に変えた。

 決議書
 今回東京電燈株式会社の企画したる架空式高圧電流線の敷設は我が荏原郡中最も発展し若しくは今将に発展の域に進みつつある世田ヶ谷、駒沢、碑衾、平塚及び大井の諸町村に架設せらるるものにして之が為、該線下の地は忽ち荒廃し為めに町村の開発を阻碍し従って関係土地の所有者の受くる損害は名状すべからざるものあるが為め茲に各所は関係者同盟して該架空式高圧電流線の敷設を絶対に拒止せんことを期す。
 本件の目的を達するまで関係地主は終始一貫態度を持し本決議の趣旨に背反するの行動を為さざること本件目的を達するため各町村より若干の総代を選出し其の筋に対する請願その他本件に関する諸般の事務を委任すること。
 右は大正六年九月十七日世田ヶ谷三軒茶屋石橋亭に於ける東京電燈株式会社架空式高圧電流線敷設反対町村聯合総代会に於て決議す。
 本決議を證する為の各出席者署名し置くものなり。


(二)
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 大正六年九月十七日、東京電燈株式会社が計画した架空式高圧電流線の敷設の反対周回が三軒茶屋石橋楼で開かれた、計画の核になる地域の中心だったからだろう。
 三軒茶屋は明治末年に玉川電気鉄道が開通し、これをしおに東京方面から人々が転居してきて最も発展しつつある場所だった。

 石橋楼に集まったのは荏原地域の高圧電流線敷設予定地の主には地主であるようだ。畑地や宅地を所有している者、直接利害に関わる人たちだ。
 やはりここでも首都東京の膨張による西郊の進展発展を指摘している。土地需要が高い区域である、高圧線が通れば土地の値段が下落する。畑地も潰される、それで地主はこぞって反対をした。

 ここに具体的な地名が挙げられているが平塚や大井が入っていることは注目される。平塚や大井は品川区である。これによって敷設される、ラインが分かる。

 桂川電力では高出力の発電ができる鹿留発電所建設に着手した。設置する発電機は高性能のアメリカGE社製である。ここで作った電気を京浜電気鉄道に供給する。実際、完成した桂川電力線は大田区六郷の変電所に送られた。ところがここへの高圧線は品川区は通っていないのである。

 しかし、当初案に品川が入っているということは高圧電流線はまっすぐに南下し、京浜急行鮫洲辺りに届け、ここに変電所を作ってここから電気を供給する予定だったのだろうか。

 この「決議書」であるが、「本決議の趣旨に背反するの行動を為さざること」とある。抜け駆けは許さないということだ、会社側の切り崩しを想定してのことに違いない。

(三)
スクリーンショット (33)
 荏原に敷設される架空式高圧電流線についてだが、「東京電燈株式会社開業五十年史」には、「京浜地方送電系統変遷図」が載っている。これは『関東の電気事業と東京電力』にも転載されている。「大正三年末現在」のものである。これには桂川電力線が既に載っている。六郷変電所までは現在敷設されている高圧線と同じである。

 手持ちの帝国陸地測量部の大正六年十二月発行を見ると高圧電線は現在の駒沢線と同じコースに設置されている。これは簡易高圧鉄塔である、『関東の電気事業と東京電力』に載っている写真を借用した。二本の木製電柱を活用した簡便な高圧鉄塔である。これだと77000ボルトは送れないので鉄骨鉄塔を建てることを計画した。(地図と写真は『関東の電気事業と東京電力』から)


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2023年10月08日

下北沢X物語(4800)―三軒茶屋地区:人々と電気の衝突―

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(一)大正時代に起こった高圧送電線を巡る荏原住民との騒乱はうち捨てられた歴史である。分かってみると権力を持った東京電灯が強引に無謀な計画を進めていた。逓信省は早々と工事認可を行った。これを盾にして会社側は工事を強行し住民とぶつかり騒乱となってしまった。映画『太子堂物語』では、「この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない」と言う。現今、電力会社の横暴は続いている。荏原地区における高圧送電線を巡る騒乱は、ほとんど知られていない。歴史記録が未来へ繋がることは間違いない。権力に立ち向かった三軒茶屋や太子堂などの住民は記録しておく必要がある。

 現今、荏原を縦断する高圧鉄塔は駒沢線と呼ばれている、が、かつては桂川電力線と呼ばれていた。山梨県都留市鹿留を流れる桂川から取水して発電機を回していたのが鹿留発電所である。この発電所については。「郡内電力史」(『灯』 渡辺保著 1987)にこうある。

 大正五年五月、発電所工事、同七年一月水路工事に着手し、大正九年(1920)十二月二十五日、竣工し、谷村町下谷道生掘りに谷村開閉所を設置し鹿留発電所の発生電力と共に東京戸塚、六郷変電所に送電を開始した。

 発電所の建設主体は、桂川電力である、この会社は、大正11年2月1日に東京電灯と合併している。桂川電力はもともと発電した電気を東京電灯に買電していた。合併以前から深い繋がりがあった。

 「森家文書」は、「高圧水力電線架設一件書類」としてまとめられている。この中の一通にこういう書き出しのものがある。

 此の度大正五年十一月三十日世田ヶ谷村役場より通知(ありて?)下北沢村荏原学校に於いて評議(ありて?)東京電灯株式会社に於いて水力電線架設の件を〇日熟議した結果断然拒絶〇各自意見に依り役場に報告致し……

 年号は「大正五年十一月で 末尾には世田ヶ谷村太子堂 森忠左衛門 同村若林〇〇他と書かれている。ここでいう水力電線架設は、桂川電力が六郷変電所まで敷設する高圧送電線である。鹿留発電所を建設し、ここで発電した電気を荏原郡、太子堂、三軒茶屋経由で六郷に送ろうとするものである。下北沢代沢尋常小学校に関係者が集まって協議したところ、これはならぬと衆議一決したようだ。

(二)
 手元資料に「関東の電気事業と東京電力」というものがある。この中に「桂川電力の東京電灯への供給」という項目がある。ここに「鹿留発電所の設備概要」が表に載っている。

使用河川 桂川     送電電圧 77,000V
竣工年月 1913年5月 送電距離 戸塚:53マイル
                 六郷:59マイル 
有効落差 143m 電柱(931基)
出力   12.000kw 碍子 4重ピン碍子


まず注目すべきは、送電電圧である、77,000Vである。本邦初の長距離送電線である。送電途中に電圧が下がらないように高くしてある。この電気を送るための送電線は鉄塔である。木柱ではないことだ。いわゆる四角鉄塔だ、基礎工事が必要で土地を多く取られる。
これら企画を聞かされただけで住民は即座に反対をした。

(三)
 資料の中に、東京電灯から森忠右衛門に宛てた手紙がある。

 貴殿に対しては、「貴殿御所有かかる左記の土地に電柱建設の為同土地借用の儀再三ご相談申し上げ」とある。記されているのは太子堂の土地である。

 大正五年三月一日と読める。時間の流れからいえば、まず大正五年五月に鹿留発電所が着工された。完成すると電気は送電線で送らねばならない。ということは、発電所着工と同時に送電線の計画も実施に移していたと思われる。
送電線敷設に関しては、森家は反対の立場であった。それで東京電灯からの申し出には一切返答を出さなかった。



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2023年10月07日

下北沢X物語(4799)―三軒茶屋太子堂鉄塔敷設騒動 1―

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(一)17年越しの課題だ、2006年9月に映画『太子堂物語』を観た。東京電灯が三軒茶屋地区で高圧線鉄塔工事を強行する。これに反対する荏原一帯の住民が手に手に肥柄杓を持ち当局側の者に糞尿弾を投げつけ抵抗した。は映画では「この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない。」と締め括っていた。どういう事件か気になっていた。手掛かりはあった、映画で紹介されたのは『森家文書』である、具体的に言うと「旧荏原郡太子堂村名主森家文書」である。世田谷郷土資料館所蔵である、が、当館はずっと改装工事を行っていた。工事が終わったというのでやっと昨日6日に閲覧することができた。学芸員に古文書は読めるかと聞かれた。ためらいはしたが出てきた複写30枚は、漢字仮名交じり文である。何とか読めそうで安心した。「人々と電気の出会い、三軒茶屋は世田谷でもトップを切る場所ですね、近代の夜明けとして興味あります」と学芸員に私は言った。

「明治40年3月6日、渋谷と三軒茶屋間に玉電が開通しますね。初電が渋谷方向からやってきます。ところが煙を吐くでもなく箱が動いてやってきます。汽車とは違っていますね。もちろん都心で観た人はいるから全部が全部ではないのですが、電車が近づいてくると男たちは皆一様に腰をかがめて下を覗くのです。もしや馬や牛の足が見えるかもと。が、そんなものは見えませんね。鉄の塊の足が見えるだけ……そんな場面を想像するのですよ」
 私は、学芸員に話した。

「高圧鉄塔線も初めてことですね、これへの反対運動がとても激しかったというのですね。その辺りを調べて行くと電気と出会った人々の驚きが見えてくるように思うのです……」
 
 私は、『太子堂物語』を二度観た。この騒動はここで話題にされている。

 今この鉄塔は三軒茶屋付近を南北に縦断している。これは駒沢線と呼ばれている。元は桂川電力線と呼ばれていた。山梨県桂川の鹿留発電所で起こした電気を、大田区の六郷変電に送るために敷設されたものだった。

(二)
桂川電力は東京電灯に電気を売っていた。それでここに東京電灯が絡んでくる。
『太子堂物語』での解説は文字に起こした。

(太子堂)、この田園地帯にも近代化の波が押し寄せてきた。大正初期太子堂村を南北に貫いている道、今の茶沢通り、ここに高圧送電線を通そうという計画が進められている。我々は元名主の森家に残された古文書の中からその経緯を探り出した。工事をするとは限らないから測量だけはさせてくれという業者の書簡(東京電灯)がある、すでにある道を利用すれば建設費が安くつく。それだけの理由で村の中心に高圧送電線を敷設しようという。村の了解もなしに既に逓信大臣が許可を与えているという。送電線が通過するという世田谷、駒沢、碑衾、平塚、大井の町村が同盟し、大正六年三軒茶屋の石橋楼に集まって連合相談会を開き、飽くまで反対をすると決議する。農民達の伝統的な糞尿闘争、測量を強行しようとする会社側との果敢な闘い、長年に亘る反対運動はついに送電線計画を挫折させ今日の繁栄の基礎を作った。この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない。

 この映画の解説によってあらましは理解できていた。が、高圧線がどのように敷設されたのかはわからない。ここに茶沢通と出てくるが、大正初期ではこの通りはない。が、今ある茶沢通に沿って高圧送電線を東京電灯側は敷設しようとしたようだ。これは町の真ん中である。ただこの時は家々で埋まっていない。畑として使われていたようだ。実際、大正6年発行の手元にある陸地測量部では太子堂は白い、すなわちは畑地であったようだ。これが送電線を通すことで被害を受けるということで反対したのだろうか。

(三)
 「森家文書」は、「高圧水力電線架設一件書類」となっていてコピー数は30もある。ここの中に世田谷村役場に出した書状が残っている。まず要点として次のようなことではないか。書いてあることの最初は大正五年十一月三十日に世田ヶ谷村役場より通知があったことが記されている。
 下北沢村荏原学校において関係者が集まり評議を行った。代沢尋常小学校であろう。
 東京電灯株式会社がなそうとする水力電線架設に関して関係者が集まり熟議をした。その結果であるが断然これについては拒否をするとなり、このことをこのことを伝える次第であるということを述べている。
 これについては関係諸方面の字惣代人を集めて関係一同会議すべきだということに至った、そのような事が書いてある。


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2023年10月05日

下北沢X物語(4798)―芭蕉の足跡を求めて象潟へ 下―

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(一)芭蕉『奥の細道』では、切れ字「や」が頻度高く使われる、芭蕉は「や」遣いの達人だ、この根底には、冒頭で言うところの「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」に深く関係する、自ら歩いて行って、その土地その土地の情景への感動を詠んだ。歩きと「や」の多用との関係をAIChatで問うたところ、「芭蕉は、歩きながら俳句を詠むことで、自分の感性や心境を表現しようとしました。切れ字「や」を使うことで、その感動を読者に伝えるとともに、自分自身にも問いかけることができました」と答えた。漂泊と「や」の因果関係を、AIなりに掴んでいる。切れ字、「や」は彼の漂泊行に欠かせないアイテム、語だった。

私は、羽越線で北上し象潟に着いた。こう書いていてふと思い出した。だいぶ前に松尾芭蕉生誕三百年というイベントがあった。このときに記念のエッセイを募集していて、投稿した、「心に残る一瞬の車窓風景」と題したものが入賞した。
 冬の日にこの羽越線に乗っていて垣間見た車窓風景を描いたものだ。そのさわりだ。

と、ふと丘の切れ目から、一つの光景が目に飛びこんできては、瞬時のうち消え去った。「…………」
 声にもならない叫びを挙げたようにも思う。なにかこう震撼としてくる光景が目の前を掠めたからである。それが瞬時に過ぎ去った風景であるだけに印象は鮮烈であった。 
 崖の上に狭い台地があった。そこにむしろを巻きつけられたちっぽけな数基の墓石が寄り添うように建っていた。荒れ狂う日本海に向かってである。寄せ来る大波は鎌頚をもたげて、今にもそれを呑み込んでしまいそうであった。
 寂寥とした風景であった。人間の悲しさ、寂しさが思われた。自然に奔弄される人間の造営物の、なんとはかないことだろうと思ったことであった。 


 何気なく芭蕉生誕三百年と書いた。調べると期日が合わない。どうもこれは自分の記憶違いのようだ。芭蕉生誕三百六十年だったらしい。これは平成15年、2003年である。今から20年前のことである。
 月日が経つのは恐ろしいものだ。

(二)
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 「いなほ」は、新潟、秋田の穀倉地帯、稲穂の原をつっきって象潟に着いた。降りたのは一人だけだった。
 この象潟駅前に、芭蕉句碑があった。

象潟や雨に西施がねぶの花

 にかほ市観光協会のパンフレットには、この意をこう記している。

 なんと魅力的な象潟の風景よ。雨にけぶる中にあたかも西施(中国四大美女)が憂いに沈み、目を伏せている姿を思わせて、ねむの花が淡い紅色にさいている。
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 観光パンフレット的解釈が面白い。芭蕉が来訪したとき雨が降っていた。それで九十九島を配した美しい湾は見えなかった。なのに「なんと魅力的な象潟の風景よ」と描ききる。観光的な策略だ。私は、こう解した。

 わたしは憧れていた象潟にやっと着いた、ところが雨で曇っていて九十九島を湾に浮かべているという景色は眺められなかった。が、海辺には淡い紅色の合歓の花が咲いていた。それを見て中国の超絶美女の西施を思い出したことだ。

 この句、やはり「や」が生きている。語として光っている。多様な思いが一語にこめられているからだ。感動、落胆、詠嘆、嗟嘆などの感懐がここに凝縮されている。

(三)
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 駅前からまっすぐに海へ向かう。国道7号を渡ると、この道の裏道である旧街道にぶつかる。古道は緩い弧を描いて道は続いていく。そこここに案内看板がある。芭蕉と曽良とが宿泊した能登屋跡、芭蕉らが島巡りをしたときにの発着場跡など。旧街道は人影がない。古い家の庭先にはノウゼンカズラがひっそりと咲いている。芭蕉が通った道である。

 行き行くと蚶満寺に着く、この寺は九十九島があった時代の要となる場所であった。誰もがここを訪れた。芭蕉像や西施像や芭蕉句碑もある。

 見所は田んぼに囲まれた旧島々の跡である。これがわずかに往時を偲ばせる。
 象潟は、歌枕の名所だ。多くの歌人、俳人が作品を残している。

 田んぼに残された島々を見ると、人間の儚さが思われ、自然悠久が思われた。鳥海山の爆発、山体崩壊によって吹き飛ばされた岩石が島々をつくり、また江戸期、文化元年6月に象潟地震によって隆起し、風光明媚な象潟は消えた。

 人間の理解を超えた天変地異だ、そんな災害列島に原発を作り、古びた原発までこれを稼動しようとしている。自然は万年、人間は30年、これは務められる期間だ。だから30年経ったら、運び込んだ放射性物質は県外へと言う。儚い人間は哀れだ。
(上から二番目、にかほ市郷土資料館の模型、海岸縁の像は西施像)




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2023年10月04日

下北沢X物語(4797)―芭蕉の足跡を求めて象潟へ 上―

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(一)歩きながら言葉の角をそぎ落としていたのは芭蕉ではないか?日々歩いているとそんなことが思われる。やはり俳聖の足跡は訪ねたくなる、象潟を詣でた、「象潟や雨に西施かねぶの花」だ、音の響きのいい句である。句作した当地へは酒田から往復している。西行や能因も訪れたという場所は、彼には聖地だったのだろう、求めたのは松島にも劣らないという風景だ。鳥海山の爆発によって九十九島が現れ、そして文化元年(1804)の象潟地震で一夜にして海底が隆起し陸地となった、天変地異によって現れては消えた。が、幻の歌枕は今も言葉としては残っている、きさかた、は一度は行ってみたい場所だった。

 当方は、『奥の細道』を逆行、まず松本から電車で日本海側に出て直江津で降りて「文月や六日も常の夜には似ず」の句碑に詣でた。

 かつて走っていた信越本線は、新幹線ができてから第三セクターに委譲された。が、直江津から新潟までは信越本線として今も生きている。自身は新潟に行くつもりだ。信越本線で直通すればいいが途中柏崎で降りた。越後線に乗るためだ。

 若いとき国鉄線完乗を目指していたことがある。越後線はその時の乗り残しであった。線の途中に出雲崎駅がある、芭蕉が「荒海や佐渡に横とう天の川」を詠んだところだ。降りて歩いてみたいと思ったが、接続が悪く断念した。

 越後線の接続駅は柏原だ、乗り換えまでに時間がある。これを利用してこの街を歩いた。が、何も見るものがない。それで商店街を突っ切って海まで歩いた、が、街は閑散、「水球のまち」との垂れ幕がある。店はほとんどシャッターが降ろしていた。
 
 歩いて行くとやっと日本海が見えてきた。海辺に坐って沖を見る。

はまなすや今も沖には未来あり

 中村草田男の句が思い起こされた。
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(二)
 海を眺めた、夏草の生い茂る海岸の、その沖には未来は見えなかった。目を転じて東を眺める。すると赤白に塗った高圧鉄塔線群が見えた。柏原刈羽原発である。

 越後線では刈羽駅を通った、この前後で幾つもの高圧鉄塔線を潜り抜けた。その施設を見ただけで原発には途方もない費用が掛けられていることが分かる。

 いわゆる原発は、縮小されるはずだったが、逆に全体を再稼働させるという方針に代わった。一つには、これら先行投資が惜しいというのがあるはずだ。これらに見切りをつけられないで、もったいないということで再稼働に走っている。

 原発の核燃サイクルは詰んでいる。
 つい先だって長崎県の対馬で、高レベル放射性廃棄物「核のごみ」の最終処分場の文献調査受け入れに市長が反対表明をした。対馬は漁業と観光とで成り立っている。ひとたび風評被害が起こると取り返しがつかなくなる、

 ところが福島原発の処理水を海に流したことで大きな風評被害が起こった。これに対して補償をするそうだ。しかし、未来永劫にわたって風評を解決することは難しい。にっちもさっちも行かない。このことが受け入れ反対に繋がったようだ。
 政府は原発再稼働に舵を切ったが、この風評に打つ手がない。原発は完全に行きづまっている、未来は見えてこない。

(三)
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 私は、2023年9月12日新潟駅から「いなほ」に乗り、羽越線を北上した。海岸べりを走る。平野部は秋の真っ盛り、黄金の穂並みが続く。米所の山形、秋田を列車は駆け抜けた。
 
 「いなほ」は、11時04分に象潟駅に着いた。宿泊は秋田である、後続列車を調べると一本目が13時08分、二本目が16時09分である。羽越線は秋田を走りぬける縦貫線である。儲からないからダイヤを間引く、人口減少はとくに地方では著しい。列車ダイヤはますます寂しくなっていくばかりだ。




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2023年10月02日

下北沢X物語(4796)―女優山田珠真子さんを偲ぶ―

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(一)昨日1日は日曜日、会報を印刷して邪宗門に届けた。真向かいの東演パラータには大勢の人が居た。コロナも下火になって久々の公演か?が、女優さんが二人亡くなられてのお別れ会だとのこと。帰りしなに女優さんの一人が山田珠真子さんと知ってびっくりした。慌てて会場に駆けつけ遺影にお別れを告げた。彼女と知り合ったのはもうかれこれもう二十年近く前だ。東演パラータの十八番は『月光の夏』である。原作者の毛利恒之氏が公演に来訪された。そのときに山田珠真子さんが彼を私に紹介してくれた。もう一つの思い出がある。2014年11月、北沢川緑道鎌倉橋たもとに『三好達治文学顕彰碑』を建てた、除幕式の折に碑文に刻んだ「閑窓一盞」の朗読をお願いしたところ、快く引き受けてくださった。その詩を読み上げる彼女の姿が思い起こされた。劇団東演代表で女優の彼女は1月28日に亡くなっていた。享年84歳だった。

 山田珠真子さんを通して特攻への開眼の道が開かれた。彼女からの紹介ということで毛利恒之氏は快く私の疑問に答えてくれた。

 私の勤務先では地域研究を行っていた。町に出て行って古老に話を聞くというフィールドワークを行っていた。女生徒と私は、笹塚の金子静枝さんを訪ねた。その彼女、話を聞いているときに突然に泣き始めた。話を聞き進めてその事情が分かってきた。

 金子さんは北沢五丁目に住んでいた。5月の山手空襲で家が焼かれた。それで明大前の親戚の家に寄留していた。そのときに隣の人が特攻機がお別れに来ると知らせてきた。近所の人と一緒に日の丸の旗を持って待っていると一機の戦闘機が現れた。上空を旋回しながら段々と下に降りてきた。
「お顔が見えるぐらいまで低空まで降りてこられたのですよ。白いマフラーを首にかけたその人がこちらに手を挙げて合図を寄越したんですよ。あのときは二十歳でしたが、今でもその情景ははっきりと覚えています。これでお別れかと思うと悲しくて悲しくて……」
 そういいながらまた泣き崩れた。
「それで旋回が終わると、向きを変えて西の方に飛んでいって、最後に翼を左右に振っていかれたのですよ……」
 そう言ってまた涙を流した。
 山の手空襲が1945年5月末だった。よって期日は翌月の6月だったと思われる。

 この金子静枝さんの話は印象深く思っていた。疑問だったのはその特攻機がどこから来たのだろうかということだった。
「戦争末期になると行わなくなったのですけどね、特攻兵による郷土訪問飛行はよく行われていました。期日的に考えると沖縄特攻組ですね、可能性として考えられるの調布の陸軍飛行場ですね……」
 毛利さんはそう教えてくれた。
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(二)
 山田珠真子さん、何と言っても思い出深いのは、2014年(平成26年)11月29日に行われた『三好達治文学顕彰碑』の除幕式だ。
 序幕をするに当たって碑文に刻んだ詩を朗読してもらおうと思った。劇団は事務局の前にある。それで劇団にお願いをした。が、プロにお願いするわけだから謝礼も考えなくてはならない。ベテランだと相当な謝礼を考えねばならない。それで「若手で元気のいい人に」というお願いをしたところ。劇団代表の女優が自ら行ってくれるとのことだった。その「閑窓一盞」だ。

吾が庭の破れし甕にこの朝来りて水浴ぶは
黄金褐の小雨鶲
小さき虹もたつならし
天の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし
また一盞をそそぐべし
信あるかな爾
十歳わが寒庭を訪なふを替へず
我は東西南北の客
流寓に疲れたれども
一日汝によりて自ら支ふ
如何にために又々一盞をそそがざらでやは


 北沢川緑道に、彼女の声が響いた。

(三)
 世田谷代田を歩いているときに前から歩いてくる女性がいた。ぶつぶつと呟いていた。
山田珠真子さんだった。
「セリフの練習をしていたの」
 彼女は笑った。ベテラン中のベテランでも常に練習は欠かせないのだと思った。

 新聞記事にはこうあった。

  2002年から21年まで劇団の代表として、舞台に立ちながら運営や後進の指導に尽力。昨年8月の「朗読劇 月光の夏」が最後の舞台になった。

 山田珠真子さん、ご冥福をお祈り申し上げます。(写真は左側)


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2023年10月01日

下北沢X物語(4795)ー北沢川文化遺産保存の会会報第207号ー

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第207号    
           2023年10月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、世田谷の市電敷石の探訪 きむらけん

 それは偶然に発見から始まった、散歩では世田谷中町はよく通る、前から気になっている個所があった。そこには畑のフェンスに沿って御影石が多く積み上げられている。通り掛かったとき管理人に出会った。「前から気になっていたのですが、この石は何でしょう?」と聞くと「横浜市電の敷石ですよ」とのこと。「どうしてここに置いてあるのですか?」「畑の持ち主が払い下げ品を買ったんですね」との返答があった。

 これがきっかけとなって市電敷石に興味を持った。調べていくと敷石には規格があることがわかった。「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文)に各都市の市電の規格が載っている。横浜市電は巾が400ミリで厚さは110ミリであり、都電は巾は360ミリで厚さは100ミリであった。さっそくにメジャーを持って測りに行くと、サイズはぴったりだった。
 世田谷中町に敷石があるとすれば近辺にもあるはずだ、金剛寺、そして地主の粕屋家に御影石が使われていた。が、サイズを測るとこれは両方とも都電の敷石だった。
 敷石の野積みについては深沢の秋山邸にもある。ここは新玄関、旧玄関に御影石がきいれいに敷かれている。これも360×110で都電のであった。
 小田急下北沢駅の南口はこの秋山家が持っていった都電の敷石が敷かれている。代田寄りの線路街に旅館「由縁別邸」があるが、ここの床も秋山家から持ってきたもので床に敷かれている。
 
 もう一つ大規模のものとしては駒沢公園がある。管制塔前広場である。ここに全体に御影石が敷かれている。都電のものだという。しかし、調べてみると全部が400ミリである。しかし、「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」ではこのサイズは載っていない。謎である、もしや玉川電車のものかとも考えた。田園都市線駒沢大学駅のトイレはこの敷石が使ってあるとのことでサイズを調べたが402ミリである、この玉電は昭和44年に廃線となっている、東京オリンピックは昭和39年開催である。よって玉電の敷石は除外して考えてよい。
 しかし、常識的に考えて駒沢オリンピック会場で都電以外の敷石を使うことは考えられない。首都東京のプライドがあるはずだ、横浜のは使うわけはない。
 「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には一覧表が載っていて東京市電のは大正9年のと昭和17年だけである。ここに載っていうのは360ミリばかりである。
この軌道敷石については全国各地で採石されていた。その場所は全国では23個所に及んでいた。先の土木学会論文によるとその主要産地は六ヶ所だった。茨城県稲田、茨城県稲田、群馬県沢入、山梨県塩山、岐阜県恵那、広島県倉橋島、香川県小豆島だったという。各社から注文を受けて石を掘っていたようだ。規格がそれぞれであったことから日本工業規格で全国で統一した軌道用規格が制定された。これが戦後の25年である。種別はさまざまだが巾と長さが統一された。巾が400ミリであり、厚さが100ミリであった。
駒沢公園の都電の敷石は戦後に設けられた日本工業規格に基づいた製品である。つまりは昭和25年以降に新しい規格で採石されたもので作ったということである。
 
 五輪施設についてレガシーという言葉が使われる。開催者側が資金を得るための策略として使ってきた。手垢のついた言葉で嫌いだ。が、駒沢の管制塔前広場は間違いなく景観遺産である。競技場や体育館などは管制塔を中心に伽藍配置をしたという。青い空、建物、そして都電の敷石を敷き詰めた広場、風景として調和している。都市廃材がこれほど巧く使われたところはないだろう。戦後19年、五輪を希望として未来に繋げる、技術者たちの心意気が見えるように思った。近隣目黒十中の生徒だった人、できあがった駒沢競技場に行って圧倒された。「侘しい球場しかない野っ原に近代建築が見事に建ち並んでいてまるで蜃気楼を見ているようでした」と驚嘆した。この景観を支えているのが都市廃材、都電敷石で作った広場である。
 しかし、都電敷石が景観として立派な役割を果たしていることについては何の説明もない。希望を言うならば、広場の片隅にこのことを記した看板を設置してほしい。後世への伝承があってこそ遺産になる、そう信じるものである。

2、下北沢駅井の頭線橋台の謎を追う すぎたま
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 きむらけん氏のブログを拝読すると、鉄道省のC58形蒸気機関車が戦時中小田急線に入り、その撮影を試みた住民の方の話が出ていた。興味が湧いて、鉄道雑誌や『小田急五十年史』まで持ち出し、事実を探った。
ところがその過程で、下北沢駅にあった井の頭線の橋台が、鉄道省・運輸省(→国鉄)の列車を小田急線へ通すのに支障するので削ったという話も読むことになる。
 この地震国で、構造物の強度低下を招くようなことをするのか。とは言え戦時下だ。強行もしそうだ。そんなことを考えながら、手持ち資料で検討しているうちに、偶然ネットオークションに決定的な写真が出ているのを発見した。落札して届いたのが掲げた写真だが、小田急線の下北沢駅下り線を、当時新鋭だったロマンスカーSE車が走り抜けるカットである。

写真の右側、ロマンスカーのすぐ右にかろうじて写っている井の頭線下り線の橋台が、丸く削られているではないか。しかもよく見ると、われわれ世代が日々見た橋台とは形状も違う。撮影は1959年3月4日だそうだ。すると戦争が終わってからまだ14年弱。戦時中の工事跡なら、普通に残っている年代だ。
鉄道ピクトリアル誌(*1)によれば、1944年5月6日省のC58形蒸気機関車に、ナロ21700形を付けて試運転し、通過に差し支える場所へ対策工事をした旨記述がある。おそらくはこの時に下北沢駅の橋台も削る工事をして、大形の省形車輌が通れるようにしたのだろう。
小田急線を東海道線のバイパスとして使う構想は戦時中にあって(*2)、具体的なダイヤも検討されていた。1944年8月新宿駅に省線と小田急線を結ぶ連絡線を急造し、1944年9月に再度C58蒸気機関車及びEF10電気機関車と客車4輌で試運転をした。しかし機関車は重く線路支障があるとのことで、電車で試運転。実際1945年5月24日の京浜空襲で東海道線が不通になると、省の電車を小田急線に乗り入れさせ運転したとのことである(*1)(*3)。
下北沢駅橋台の話に戻ると、もう一つのポイントとして「ホームの高さ」が関係しそうだ。
機関車の引く客車列車が走る駅のホーム高さは760ミリ。客車にある踏段分低い。一方基本的に電車のみが走る駅のホーム高さは1100ミリ。当然小田急線は開通時から1100ミリで建設されていたと思われる。ここに機関車や車体の長い車輌を通そうとすれば、特にカーブしたホームを持つ駅では、ホームをかなり削らないと、車体を擦ることになると予想される。
下北沢駅の下り線は、新宿寄りにカーブが入っているし、かつ井の頭線の橋台がホーム端にもあり、その部分のホームは狭かったから、反対側の橋台をやや大きく削って対処したのではないだろうか。
*参考文献
1)鉄道ピクトリアル286号、pp53、東京、鉄道図書刊行会、1973年
2)小田急五十年史、pp184,202、東京、小田急電鉄株式会社、1980年
3)小田急1800形−昭和の小田急を支えた大量輸送時代の申し子、pp32、生方良雄、東京、戎光祥出版株式会社、2018年
※ロマンスカーの写真はすぎたま所蔵。撮影者不明。1959年

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第188回 10月21日(土) 大山道旧道を歩く(三軒茶屋文士町文化地図発行記念)
三軒茶屋誕生のなぞを解く〜なぜそこに追分はできたのか
 案内者 木村康伸 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札 13時30分集合
コース:三軒茶屋駅→大山道道標→若林富士講碑→常盤塚→大吉寺・圓光院→世田谷代官屋敷(世田谷郷土資料館中庭には道標などがある)→用賀口道標→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅
コースの魅力:三軒茶屋は、江戸時代中期に大山道の追分(分岐点)ができたことにより生まれた。なぜそこに追分ができ、三軒茶屋はできたのか。大山道の旧道を歩きながら、歴史的・地形的な観点からそのなぞを解き明かしてゆく。


◎申し込み方法、参加希望、費用について 資料代500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールか電話できむらけんに申し込んでください。きむらけんへはメールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話&FAXは03-3718-6498
*区内での町歩きは情報が流せるが区外のは宣伝が限られてきた。コース提案を乞う。                    

4,創立二十周年記念祝賀会
今年末12月で我等の会は創立20周年を迎える。時も20年も経てば完全な歴史となる。会には多くの人が関わってこられた。が、その人々も物故されてしまった。今回はまずそういう人々への感謝の念を表して、弔意を表したい。
 東盛太郎氏、広島文武氏、道吉剛氏、金子善高氏が思いつく。その他志し半ばで亡くなった方も数人おられる。最初に弔意を表す儀式で初めようと思う。献杯だ。
 日時、12月2日 午後17時40分に開催する。
 参加費用 4000円 お弁当を信濃屋に発注します。予定としては11月20日に申し込みを締め切って発注したい。参加希望を募ります。  

■ 編集後記
▲ネットのフェイスブックに「世田谷の秘密を教えてちょ!誰も知らない世田谷の秘密を教えてください!」という掲示版がある。これに加入して当会の動きを伝えている。かなり反響がある。町歩きについてもここで宣伝したところ結構手応えがあった。興味ある方は加入をお薦めします。
▲エッセイを募集します。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲「下北沢文士町文化地図」改訂9版は鋭意編集中、刊行は来年3月を予定している。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ
▲メール版ではPDFを添付しています。



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2023年09月30日

下北沢X物語(4794)−代沢小音楽文化物語(仮)まとめ−

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(一)清新な歌が村に響き渡った、戦争ももう末期、1945年5月のことである。人々の心は戦争に疲れていた。そこに爽やかな歌声が聞こえてきた。村に再疎開してきた子どもたちの声だ。引率教員の浜館菊雄先生は「音楽は人々の心に愛情の火をともすものだ。なに一つ心の慰めを持たない、この哀れな子どもたちにとって、音楽こそ唯一の心の糧なのだ」との思いから寮歌を作って学童らに歌わせた。すると確かな手応えがあった。歌うことで勇気づけられた、鬱屈した思いは晴れた。心に火が点いた。リズム感に優れた子どもらはたちまちに歌を自分のものとした。ハーモニーがぴたりと重なって、その増幅された歌声が風に乗って辺り一帯に響き渡る。近隣の村の子は耳を立てた、寺から聞こえてきた歌だ、子どもらは一散に駈け出し寺に向かった。

 この寮歌が発端となって歴史に埋もれていた「鉛筆部隊」が日の目を見たものである。鉛筆部隊は、2012年の夏に発刊された。大きな反響があった。朝日新聞書評に日本経済新聞のコラムに、また共同通信が配信する記事が地方紙にも載った。テレビやラジオでも取り上げられた。「ラジオ深夜便」での反響も大きかった。関連する情報の提供をと言ったところ、全国各地かたくさんの返事が寄せられた。

 「鉛筆部隊」という用語が清新だった、銃を持てない子どもが代わりに鉛筆を持って戦った。「ペンは剣より強し」にも繋がる。これが人々の心に響いた。

 鉛筆部隊が日の目を見るきっかけになったのは「郷福寺学寮歌」である。しかし、学寮歌はもう一つあった。洗馬村真正寺の学寮歌である。ここの引率担当は浜館菊雄先生である。彼は音楽指導者である。

 1945年4月に、代沢小は再疎開をする。「中央本線塩尻町を中心とした宗賀村、洗馬村、広丘村、朝日村の五か町村」である。この再疎開に際して浜館先生は、職員会議に提案をした。浅間ではバンドを作って練習をさせていた。それで「バンドを存続させることにし、メンバーの中でもかけがえのない者を、私の学寮に移すことにした」(『学童集団疎開 浜館菊雄 1971年刊)とある。すなわちそれは洗馬村の真正寺であった。つまりはこの寺には音楽好きの子どもたちが集まっていた。

(二)
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 洗馬村真正寺は言わば音楽寮である、寮歌はここでまず生まれた。浜館菊雄先生によって「真正寺学寮歌」が作られた。

真正寺学寮歌

一、みんな明るいわたしもぼくも
  森の小鳥がちろちろ啼いて
  朝だよ起きなと窓からのぞく
  洗馬の真正寺は明るい学舎
二、みんなうれしいわたしもぼくも
  歌にあけくれ楽しいつどい
  村の子どもいっしょになって
  洗馬の真正寺はうれしい学舎
三、みんな元気だわたしもぼくも
  強く正しく伸びなきゃならぬ
  父様母様これこのとおり
  洗馬の真正寺にきてみてごらん


 浜舘は真正寺に来て一番印象的だったのは小鳥の合唱隊に出会ったことだ。学童と夜を共にした翌朝の印象を「今境内の林をうずめて何百羽の小鳥のふるようなさえずりである。夢うつつに聞けば、天上の音楽のように、新しい力が全身にみなぎりあふれるように感じられた」と彼は日記に書いた。疲れている自分すら活力が湧いてきた。子どもたちが元気をもらわないはずはない。それで小鳥の囀りを持ってきた。

 この歌を作って学童に歌わせた。これがとても評判が良かった。疎開学童だけでなく村の子どもにも評判だった。歌の時間になると寺の周りのこどもが集まってきて、先生に早く歌を歌ってくれとせがんだ。
ミドリ楽団物語
(三)
 「真正寺学寮歌」が先にできてこれの影響を受けて「郷福寺学寮歌」ができた。真正寺と郷福寺はそんなに離れていない。もう十年前になろうか、郷福寺でこれらの学寮歌を披露するコンサートが行われた。年老いた地元の人が多くきていた、その人々は両方の歌を覚えていた。

 これら寮歌は都会的センスを持った歌だった。田舎の子たちは非常に新鮮な驚きだったらしい。代沢、下北沢的文化が塩尻地方に音楽として響いて土地の人に影響を与えた。
 二つの歌は、「鉛筆部隊」がきっかけとなってまた再び生き返った。いまでは地元のコーラス部がこれらの歌を伝承している。

 代沢小の家庭学級から要請があって「代沢小音楽文化物語」を話すことになった。私は心覚えとしてここに話をまとめた。この話、戦後の「ミドリ楽団物語」に繋がっていく話であるが話の長さからして無理である。とりあえず戦中編として話をしようかと考えている。
(写真は、代沢小の疎開学童である)

〇お知らせ
 北沢川文化遺産保存の会の第107号は、明日印刷して邪宗門に届ける。
 14時頃を予定している。





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2023年09月28日

下北沢X物語(4793)−代沢小音楽文化物語(仮)4−

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(一)村に突然響きわたった疎開学寮歌は地元民の耳には衝撃だった。代沢小は浅間温泉に疎開していたが空襲の恐れがあったことから郊外の村に再疎開をした。村の学校では地元の子どもと机を並べて学習した。勉強は都会の子の方が勝る。そのやっかみもあって疎開の子は村の子どもにいじめられた。その意気消沈した学童を勇気づけようと引率教員は寮歌を作って歌わせた。そのメロディは都会的な清新さがあった。手慣れた学童はメロディにきっちり合わせて歌う。風に乗って歌が里に響きわたった。何事?と村の子どもは聞き耳を立てた。心が田舎の空に飛び上がっていくように思われた。何とまあ歌は、逆に村の子どもを励ましてしまった。

 「疎開学寮歌における心の解放と自由」という論文が書けそうである。それだけ文化的に面白いものである。

 代沢小区域における音の感性ということはある、浅間温泉ではラッパ隊がいた。朝の起床時に隊員はラッパを吹いた。朗々と響きわたるその音を聞いて疎開学童は起床した。
 知られていないことだが彼らは疎開前に代沢に隣接する陸軍の部隊に行ってラッパの手ほどきを受けている。常日頃駒場の陸軍部隊から響いているラッパの音に馴染んでいた。

 これも知られていないことだが学区域には帝国音楽学校があった。元代沢小の女生徒はこの学校のところまで行き、校内から流れてくる楽器の音や歌声を聞いていたという。音楽に開眼した彼女は後に藤原歌劇団に入ったという。

 この学校はグローバルであった。というか帝国の植民地である台湾とか韓国からも学生が来ていた。今で言う留学生である。下北沢や代田一帯にある下宿に住んで学校に通っていた。当然のことながら楽器を鳴らしたり、歌を歌ったりしていた。そういう環境にあったことも音の感性に影響を与えていた。

(二)
 さて、その歌詞である。矢花克己さんが購入した古手紙の中に歌詞と楽譜とが入っていたのである。これを彼は私のブログのコメント欄に記し、歌を公開した。

聖が丘学寮のうた
1.   2.
廣丘はぼくらのさと 廣丘はわたしらのさと
あをい空 ひかる汗 お炊事の お手つだひ
鍬をふるぼくらの頬に つるべ取るわたしの頬を
父母の声 風がはこぶよ さわやかに 風がわたるよ

3. 4.
廣丘のむらの友だち 廣丘のゆかしいお寺
くろいかほ 肩くんで 郷福寺 夜の森
ぼくたちと高くうたへば ぼくたちのあかるい声を
松林 風がわたるよ  ふるさとへ 風がはこぶよ


 浅間温泉では「代沢浅間学園の歌」を歌っていた。これによって戦意を鼓舞していた。とくには、4番では気合いが入った。

聖戦如何に長引くとても
鬼畜米英撃ちてし止まむ
栄光の勝利の輝く日まで
我等代沢浅間学園



 しかし、再疎開先の寮歌には皇国民を鼓舞するような歌詞は一切なかった。言えば一種の土地誉めである。「広丘は僕らの里」と斬り込んだ。聞いている村の子ども悪い気はしない。やはりここには都会的なセンスが生きている。 「つるべ取るわたしの頬を さわやかに 風がわたるよ」などは心憎い。
指導者は、村人との融和を呼びかける。「廣丘のむらの友だち くろいかほ 肩くんで」はその友情が美しい。
 ここ郷福寺の引率は柳内達雄先生だ、作文教育の第一人者は表現がうまい。彼の作詩になるものである。

(三)
 実は、この寮歌はもう一つあった。洗馬村の真正寺の「真正寺学寮歌」である。この二つの歌の関係が興味深い。(写真は、郷福寺で撮ったもの)




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2023年09月27日

下北沢X物語(4792)−代沢小音楽文化物語(仮)3−

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(一)歳を重ねると知恵がつくというのは真実だ。鉛筆部隊のことを調べてもう十数年、鉛筆部隊は隠れた歴史発掘となった。発端となったのは代沢小の疎開先の寺で歌われた寮歌である。その寺に縁故疎開していた人がこの歌に深く心打たれた。半世紀も過ぎて歌の全歌詞を知りたいと考えた。それで代沢小の歴史をブログで記述してた私のところに質問を投げかけてきた。これがきっかけとなって私は関係者に当たって歌詞を聞き取った。しかし、曲の全貌はなかなか掴めなかった。ところがだ、2009年1月26日に正確な歌詞の全貌が、私のブログのコメント欄に打ち込まれたのである、驚きであった。

 私は2004年8月からブログを始めていた。5年ほど経過していた。振り返るとこのことが大事だったと思う。ネット発信は情報を蓄積することでもある。5年間分の記述がネットに漂っていた。これが手掛かりとなって検索者は私にたどり着いたのである。

 ネットが切り開いた鉛筆部隊の物語である。まず、旭正章さんの検索があり、つぎに矢花克己さんの検索があった。これによって秘められた歴史が明るみに出た。この二人ともわたしには全く未知の人である。
 その矢花さんがブログコメントに書いてきた記述だ。

はじめまして 山梨県に住む矢花克己と申します。古物商を営んでおります。昨日地元の骨董市で「鉛筆部隊」と書かれたはがき類を買いました。「立川」さんという女の子が疎開先の浅間温泉千代の湯、広丘郷福寺から北沢の父親へ宛てた19年から20年のものなどです。
 きのうの今日のことで未整理ですが 疎開先に着いた時から帰る間際までのことが細かく記されています(お父さんや兵隊さんからのものもあります)。「鉛筆部隊」という言葉が初見でしたので検索いたしましたところ、貴ページにたどり着きました。関連のページ全て読ませていただきました。偶然とは言えあまりにタイムリーなこと「心があわ立ってくるようなスリル」な気持ちを私も感じております。お役に立つことがありましたら協力させていただきます。聖丘学寮のうた、ガリ刷りで歌詞4番まで楽譜もあります。
           Posted by 矢花 克己 2009年01月26日 16:22


 代沢小の学童疎開については私も調べを重ねていた。その過程で見つかったのが「鉛筆部隊」である。ブログ記事にもこの鉛筆部隊という4文字は書いてきた。よって私から発信された「鉛筆部隊」という言葉をネット上にばらまいてきた。それを山梨県在住の簗場克己さんが検索を通して引っかけてきた。折も折、ブログでは「聖丘学寮の歌」が大きな話題となっていた。

(二)
 「鉛筆部隊」のことはテレビでも取り上げた。古物商の矢花克己さんが骨董市に行って古手紙を見つける場面は、俳優が演じていた。
「あれぐらいのことだったら、私が生出演してもよかった」
「全国放送された番組だったから出演すれば一躍有名人になったかもしれませんね」
 そんな冗談を言っていた。

 立川裕子さんは、鉛筆部隊の隊員であった。彼女は戦時中の手紙を大切に取っていた。しかし、病気になったことからマンションを引き払うことになった。家財については業者に任せたようだ。
 彼女の荷物の中に、古手紙類がまざっていた。普通だったら紙反故として焼却処分されていたろう。が、古物商に売れるかもしれないということでこれをより分けた。それが古物商に渡り、山梨護国神社で開かれている骨董市に出た。

 矢花克己さんは、骨董市でそれを手に入れた。戦時中の郵趣品は人気があったことから購入した。中身を点検すると多くの手紙に「鉛筆部隊」という判子が捺してあった。
「鉛筆部隊?」
 一体何なのか?彼は疑問に思った。それで「鉛筆部隊」と検索してみた。すると私のブログが引っ掛かった。

(三)
 彼はびっくりして、私が放っていたブログの記事を夢中になって読んだ。するとそこの「聖丘学寮の歌」が話題になっていた。この歌詞を皆が一生懸命探していることを知った。改めて古手紙の束を見なおしてみた。すると何と中に「聖丘学寮の歌」の歌詞と楽譜とが手紙の間に挟まってあったのである。(写真は、塩尻郷福寺)



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2023年09月25日

下北沢X物語(4791)−代沢小音楽文化物語(仮)2−

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(一)昭和19年東京は空襲される恐れが生じてきた。それで都会の学童を地方に避難させることにした。学童集団疎開だ。親から離れての生活は学童らには辛かった。そんな中で楽器に手を触れ鳴らすことで心が救われた。音楽が身を助けた。浜館菊雄は音楽好きを集めて代沢浅間楽団を編成した。戦前からバンドに入って練習している学童もいた。音楽は演奏が巧い子に引っ張られる。楽団ときに音楽会を開き、慰問を行った。陸軍病院や部隊へ行って慰問演奏を行いもした。疎開学童の多くが音楽に救われた。音楽の力は地元に波及していく。しられざるドラマである。

 『鉛筆部隊』という言葉はウィキペディアにも載っている社会用語である。代沢小が発信もとである。このドラマの発端は、一通のメールから始まった。『鉛筆部隊と特攻隊』の冒頭部分である。

あるとき、ネットのブログにコメントが飛び込んできた。遙かな旅への入り口を開けたのはわずか数語の言葉だった。「もし御存じでしたら教えてください」に始まる問い掛けである。

昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(郷福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
”広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、
父母の声、風が運ぶよ……  Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20


 まさにドラマの発端だ。これを受け取ったときは、当然のことながら意味は分かってはいない。が、今になってみれば分かる。歌に深い感銘を受けていた、それが思い出として今も強く残っていることから、断片的に覚えている歌詞を全部知りたいということだったと言える。

(二)
 浅間温泉に疎開していた代沢小の生徒は、昭和二十年四月に再疎開をする。浅間温泉も安全でなくなったこと、それから中京地区から疎開してきた工場労働者などが入ってきたことから塩尻一帯の寺に再疎開をした。

 柳内達雄先生が引率する学童は広丘の郷福寺に、浜館菊雄先生は洗馬の真正寺に疎開した。浅間温泉から村に疎開した。環境に大きな変化があった。浅間温泉では学校が遠いということもあって、温泉で座学をして代沢の先生に教わった。また本校に通う場合は皆と通学していてあまり土地の学童と接することはなかった。

 ところが村に行くと学年ごとに級に振り分けられ、疎開学童は学級内では少数となった。が、少数であってもやはり都会からきた子は優秀であった。成績格差があった。このことも原因になって地元の子からイジメを受けるようになる。学校から学童がしおれて帰ってくる。みな元気がない。引率の先生が思いついたのは音楽である。寮歌を作って子どもらを元気づけようとした。

 郷福寺は柳内達雄先生が引率をした。「聖丘学寮歌」を作った。お寺にはオルガンがあってこれに合わせて学童は歌った。

 ブログに問い合わせをしてきたのは旭正章さんだ、彼は縁故疎開でこの寺に来ていた。歳も幼くかった。が、常日頃この歌を聞かされていてすっかり馴染みの歌となった。その疎開から六十年ほど経って、記憶にある歌が懐かしくて仕方が無い。それで代沢小のことをブログに書いている私のところに質問があった。

(三)
 私も疎開した人々に会って歌詞を聴きだした。断片的にだが歌詞が分かってきた。しかし、その全部は分からない。ところがあるときに奇跡といってもいいできごとが起こった。
(浅間温泉での代沢国民学校の一場面)


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2023年09月24日

下北沢X物語(4790)−代沢小音楽文化物語(仮)−

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(一)代沢小は下北沢の文化の中核をなす学校だ、当地一帯で最も古い学校だ。今年は創立143年を迎える。この下北沢は音楽文化の興隆地として知られる。これは戦後のことである。しかし音楽文化は戦前から根づいている。その中で代沢小の音楽文化は他を凌駕していた。その遠因に下北沢で鉄道交差が関わってくる。こんな話がある。「転校の子に泣かれゐる雪の中」(『雪後の天』)は、加藤楸邨が詠んだ句である。子は代沢小に転校してきた加藤穂高さんである。「転校してきたんだけど代沢の方が勉強が進んでいるんですよ。どうにもならなくて泣いたのです」と本人から聞いたものである。昭和16年のことである。この頃代沢小は成績優秀な子が集まって来ていた。父親は教員であった。勤め先に通うのが便利なことから当地に引っ越してきた。音楽文化の集積の原因は下北沢での鉄道交差の利便性が深く関係する。11月に表題のテーマを代沢小で話をすることから自身の心覚えとして記すものである。

 昭和8年に井の頭線が開通し交通の利便性が高くなった。これを機に中産階級が当地に集まってきた。加藤楸邨は教員だった、学校に通うに都合のいい場所だったので転居してきたものだろうと思われる。知識階級が当地に集まってきたことは間違いない。昭和19年になって代沢小は浅間温泉に疎開する。加藤穂高さんもその一人である。

 受け入れる側の浅間温泉、応対にあたるのは旅館の女中である。このときに学童らを世話した人が当時を回想して子ども達のようすを記録している。彼女は学童らの親の職業を知って驚嘆している。〇〇子さんの父親は部隊長で戦死の報が入ってきて泣き崩れたと。また他ノの親の職業について言及があり、大学教員とか弁護士とか会社役員などを書いていた。親の職業からしてお坊ちゃん、お嬢ちゃんがここに来ていると同僚に自慢げに書いて居る。

 下北沢における鉄道交差が知性を集めた。その間接的な影響で代沢はレベルの高い学校になった。その子供たちを教育していくには体制を作らねばならないということはあった。それは優秀な教員の引き抜きである。実際第一線で活躍している教員が代沢に集まってきた。

(二)
 その一人に浜館菊雄先生がいる。彼は下町の第三大島小から昭和十一年(1936)に代沢に転任してきた。綴り方教室で名の知られた学校だった。彼は作文教育に熱心だったが音楽教育にも熱心だった。例えば、『新音楽教育』2(白眉社)「私の研究 私の簡易合奏指導」を1949年4月号に書き記している。ちょうどこの頃代沢小で簡易合奏に取り組み生徒を指導していた。

 先に代沢小の疎開の話をした。このときの話で音楽に関わるエピソードがある。この音楽教育に熱心な先生だった。彼に関して有名な逸話がある。疎開するに当たっては荷物を運ぶわけだが彼が決断したのは疎開地に楽器を持っていくことだった。

 私は帰るあてのない(帰還は一か年としあるが)疎開地で子供同志が生活を続けていくためにには、慰安と娯楽こそ必要欠くべからざるものであろうと考えた。緊張にも限度があるし、おとなのように時局を認識して終始張り切っているわけにはいかない。魂の休息がなくて、疎開生活の無聊寂寥に耐えられるものではない。父母のもとを離れた生活がどんなにあじけないさびしいものであるかは、この子どもたちを知らないのだ。きっとさびしさに身の細る時がくる。一〇や二〇で帰れる臨海学校とは違うのだ。わたくしは、ほかに犠牲をはらっても一台のオルガンとこの楽器は運ばせなければならないと思った。

 浜館菊雄『学童集団疎開』(太平出版社 1971年刊)は名著である、一番優れているのは学童目線からこの本が書かれていることだ。事前の職員会議では疎開先に楽器を運ぶことについて諮られたものだと思う。「楽器などを運んでいくのは不謹慎であるかのように誤解される恐れがあった」とも記している。会議での反対を臭わせるものだ。

(三)
 先の、十一月に開催される会は代沢小疎開時の歌を紹介できればよいと考えておられる。その一つが「代沢浅間学園の歌」である。言えば疎開学園校歌である、作詞は柳内達雄、作曲は浜館菊雄である、名コンビである。これの四番である。

聖戦如何に長引くとても
鬼畜米英撃ちてし止まむ
栄光の勝利の輝く日まで
我等代沢浅間学園


  男子学童の証言だ。
「ここのところが一番盛り上がりました。皆の声が一段と高くなったのですよ」
(代沢小創立百四十周年)


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2023年09月22日

下北沢X物語(4789)−直江津芙美子追慕行−

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(一)慕わしい駅というのがある。直江津はその一つだ。かつてはこの名を行き先表示版に掲げた列車を多く見かけた。名を思い浮かべただけで日本海側の海縁の駅が想起された。かつては信越本線の主要駅だった、が、今は聞き慣れない第三セクターの鉄道駅になっている。もう三十数年前を思い起こす、信越本線で直江津に着いた。雪の降っている日だった。雁木の連なる駅前通り、裸電球に照らされた家並みが続く。ふと誘われて明るい店に入った。パチンコ屋だった。球を台に入れようとすると穴が見当たらない。これを入れる場所が、台の下の真ん中にあった。ところ変われば穴代わる。

 直江津に憧れたのは林芙美子だ。『放浪記』に出てくる。太子堂で野村吉哉と同棲していたがその彼と別れて後のことだ。

 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。
「新版 放浪記」新潮文庫 1983


時刻表はかつては必須だった。この間、只見線に乗ったときこれを持って行った。が、今時刻表は旅の必携品ではなくなった。皆スマホだ、これだと地形図が分かる。ローカル線の見所は川だ、どちらの窓に川が見えてくるか、スマホだと容易に分かる。これと見比べながら乗客は旅をしていた。

 時刻表を手にとって眺める。楽しいものだ。旅馴れた芙美子はこれを手に取った。そして真ん中のページをあけた。上信越方面がでてくる。すると直江津は必然的に出てくる。

 9月11日のことだ、私は上越妙高からえちごトキメキ鉄道に直江津に着いた。寂れた地方都市だ。駅前の観光案内所に立ち寄る、「越後直江津五地内国府」という観光地図をくれた。かつては国府があった。見所が多そうだ、直江津の津は港だ、北前船が立ち寄っていてかつては賑やかだった。
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(二)
 まず駅前からまっすぐ北の海に向かう。すると和菓子屋が目につく。「放浪記ゆかりのだんご:継続だんご」とある、こういうのがあるとつい釣られてしまう。出て来た若女将が『放浪記』の中にもだんごがしっかり出てくるという。その本文だ。

「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」
 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……。駅の歪んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。


 なるほどしっかりと出ている。女将は二百年も続いているという。やはり『放浪記』に出てくるというのは強みだ。芙美子は生きることに嫌気が差していて、死をも思っていた。そこに「継続だんご」が出てくる。
「だんごを食って元気が湧いてさ、自殺するのをやめちゃったんだって」
 観光客の戯れ言だ。
 実際に買って食してみる、名物にうまいものなし、とくに美味いとは思わなかった。
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(三)
 街を歩くが人がいない。車を押しているお婆さんのみ。
「どこからいらっしゃった?」
 生きていて何十遍と聞かれた質問だ。何と応えるかいつも困る。
「群馬からです」
「ほほう、赤城山ですか?」
 嘘をつかなければよかった。

 関川の土手を上ると芙美子の文学碑があった。

 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。

文学表現で書き記された町並みには潤いがある。が、現今の風景は乾いている。情趣がすっかり洗い落とされている。風景から地域性がすっかり無くなってきた。
(上は、林芙美子文学碑、下は継続団子を商う和菓子屋)



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2023年09月21日

下北沢X物語(4788)−駒沢公園都電敷石の探訪総括−

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(一)世田谷中町で横浜市電敷石の野積みが見つかった。この市電の敷石規格は巾400ミリ、付近で探すと巾360ミリのものばかりが見つかった。これは都電の敷石だった。これがきっかけとなって市電敷石探訪を始めた、そして行き着いたのが駒沢公園の管制塔前に敷設されている石だった。ところがこれの巾がどれもこれもが400ミリだった。「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には都市市電の規格が一覧表として載っている、これで確認すると都電のは360ミリばかりである。都電のはみな360ミリばかりなのに駒沢のはなぜ400ミリばかりなのだろう。不思議でならなかった。400ミリの都電敷石はどこから来たのか?それでこの謎を追っていた。

 「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)には一覧表が載っていて東京市電のは大正9年のと昭和17年だけである。ここに載っていうのは360ミリばかりである。

 しかし、私はこの論文を見落としていた。軌道敷石については全国各地で採石されていた。その場所は全国では23個所に及んでいた。その主要産地は六ヶ所だった。茨城県稲田、茨城県稲田、群馬県沢入、山梨県塩山、岐阜県恵那、広島県倉橋島、香川県小豆島だったという。各社から注文を受けて石を掘っていたようだ。規格がそれぞれであったことから日本工業規格で全国で統一した軌道用規格が制定された。これが戦後の二十五年であた。種別はさまざまだが巾と長さが統一された。巾が400ミリであり、厚さが100ミリであった。
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(二)駒沢公園の都電の敷石は戦後に設けられた日本工業規格に基づいた製品である。つまりは昭和25年以降に新しい規格で採石されたもので作ったということである。
 この日本工業規格に基づいた表は「軌道用敷石の規格と産地に関する研究」(土木学会論文集所収)に掲載されているものであるのでこれを掲げるものである。

 この都電の敷石については2010年頃に改修工事が行われた。この敷石、都電で使われていたものをそのまま利用していた。表面の凸凹がそのまま残っていた。この広場は広大であるが催しものをする場合は不便であった。それで改修が行われた。この工事記録が残っていて私は過去記事にこれを残している。

 オリンピックから40数年が過ぎ。モルタルの幅広目地が沈下し、敷石との差が、大きくなり、つまずきやすくなってしまったこと、敷石の面に凸凹があることなど、高齢者や車椅子の通行に支障があるということで、全面的な改修工事が行われることになりました。 敷石を撤去し緑にする案もありました。が、東京オリンピックの記憶を継承するということで。 既存のデザインを尊する方針となり、現在使われている敷石の表面を加工し再利用することと。目地部分には、細石を入れ込み沈みにくくし、広場舗装の平滑さを増す工法となりました。/A-ARCHITECTSサイト(2009.1.16)

 この現場では中国で加工を施したため。 国内での加工に比べて半分ほどの予算で収められました。付着していたモルタルもきれいに 剥がれたため、加工は天端部分を切断し、バーナーで仕上げたのみで、側面はそのままの状態で使用しました。この現場で最も苦労した点は、剥がした石材を再度元どうりに戻すこと、一枚ずつ設置してあった場所を控え、加工済み材料を一枚ずつ確認しながら並べていきます。広さも2000m2ほどあったため、一枚ずつ確認して貼っていくのは気力、体力を要する作業でした。Aso Tribune 阿曽石材(2010)
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(三)
 都電の敷石広場を改修するための努力がここには記されている。一旦剥がされた敷石は中国まで運ばれたという。貨物船に運ばれて、そしてまた戻ってきた。送り出すときに一枚一枚番号が振られ、戻ってきたときに記録と照合しながら一枚一枚を敷設したという。

 当初は、都電敷石を撤去ということも考えたようだが、歴史的価値があることからそれは断念したという。この改修工事が行われたことで広場ではイベントができるようになった。


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