2016年12月04日

下北沢X物語(3171)〜歌おう、踊ろう「ダイダラボッチ音頭」〜

DSCN0052(一)場の固有性こそは文化である。清水博子は「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわとしめつけてくる」(『街の座標』)と土地の霊力を見事に捉えている。ひしゃげた座標軸の片方は地下化した。しかし、当地には吉増剛増いうように次元の穴が至るところにぽかすか空いている。Xは不可視化したがこっそりと心象シンボルとなっていまだにひしゃげた座標軸は街に埋まっている。これを鎮めるためには土地に潜むものをあがめて踊りを踊る、すれば地は鎮められ、人も心の安定を得て気持ちよくなる。その踊りこそは、『ダイダラボッチ音頭』である。昨夕、我々は「ひしゃげた座標軸」のすぐそば北沢タウンホールで、初めてこの踊りを踊った、すると何と不思議体のあくが抜けていくような爽快感を覚えた。
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 気づいてみたら我らの会、「北沢川文化遺産保存の会」はこの十二月で十二周年を迎えていた。昨日、忘年会を開催して節目を楽しんだ。
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 この十二年間は何だったのか、会が始まる冒頭で私は話をした。「情報の集積」ではなかったか?と指摘した。我らの会は、北沢・代沢・代田に潜む文化を掘り起こして記録している。これを活動の原点にしてきた。この十数年間、一帯に眠っている臭いや音や色、五官に訴えるものも含めてこれらを渉猟してきた。
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 「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」という音もそうだ。
 深夜小田急の砂利運び貨物列車が世田谷代田からの25パーミルの坂を下ってくる。すると貨物が重みで軋んでこんな音を立てる。沿線の家々は揺れた。このときに音が聞こえてきた。
「私はね、びっくりしましたよ。まさにあの音ですよ、それが書かれているのを見てびっくりしましたよ」
 黄金井達夫さんが言っていた。『下北沢X惜別物語』に私はそう書いていた。
 音もあれば臭いもある、そう小田急下北沢三号踏切あたりにも往事強烈な臭いがただよっていた。
「そうだ、あそこの近くにメンマ工場があったよ」
 臭いや音の記憶は人々を過去へ誘う。
「そうそこの築堤の土手上でのことだった後ろから電車が追突してきて、ものすごい音がした。けが人が一杯出てそこらじゅう転がされていた。おれはあれ以来シャケが食えなくなった」
 土地固有の物語だ。が、その築堤も踏切ももうなくなった。
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2016年12月03日

下北沢X物語(3170)〜「ミドリ楽団物語」を読んで:大槻 統〜

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 一体あの戦争とは何だったのだろうか? 昭和20年8月のあの日を境に、価値観は全く変わり、生まれながらに一方的な教育をされてきた10歳の子供には大きな衝撃でした。
未だにその違和感は81歳になる自分のどこかに残っているような気がします。
小生にとって昭和20年は生涯忘れられない一年であり、戦後50年の1995年に「僕の昭和20年」というメモを作っています。(ご参考までに添付します)

 小生は読書をする時 何時も“著者あとがき“を最初に拝見します。それは著者がどのような思いで執筆をされたかを感じ、その気持ちを共有しながら読書をしたい思いからです。今回も同じでした。

思いつくままに小生の感想を以下述べさせていただきます。

(1) 全体
“あとがき(おわりに)“ にも述べられているように、乏しい資料や証言などを物語として構成されたのは大変素晴らしかったと思いました。特に殆どが子供達の生き生きとした会話から成り立っているのが臨場感を一層際立てたものと思います。
 ドキュメンタリーやノン・フィクション風の構成は時には退屈な事実列挙に終わってしまうケースもありますね。

(2) 小生の知らない浅間温泉時代
 昭和19年8月から昭和20年3月末までの浅間温泉における学童疎開を経験していない小生は、その期間の疎開学童達や真冬の浅間の様子等々を非常に興味深く拝見しました。
 小生の1歳上の姉(故人)はこの時期も経験しており、日記も欠かさず書いているのでもう一度読直してみようと思っております。

(3) 代澤小学校のこと
 小生は昭和20年3月24日に浅間温泉に疎開しましたが、代澤小学校が僅か2週間後くらいの4月10日に再疎開のため浅間を離れていったことを改めて思いました。他の小学校のことはあまり憶えておりませんが、短期間ながら何故か代澤小学校のことは印象に残っております。

小生の思い違いかもしれませんが、起床、食事・・等のたびに太鼓を鳴らして合図をしていたと記憶しております。起床からラッパで始まる記述がございましたが小生は記憶がなく、或は太鼓は別の小学校だったのかもしれませんね。

ただ、今回の「物語」に“代澤浅間学園の歌”の楽譜、歌詞が掲載されており、或る事を懐かしく思い出しました。 この歌を耳にしたことはよく憶えておりますが校歌かと思っていました。
 ある日 悪い上級生が「この歌の最後をよく聴いてみろ」、そして「代〜澤の〜まくえん(脳膜炎)と云っているぞ」と云いました。勿論「浅〜間の〜学園」です。

(4) 音楽
「ミドリ楽団物語」は音楽がテーマです。熱心な浜館先生、そして子供達が音楽を作り上げてゆく物語で小生は特に興味がありました。素晴らしい事実の「物語」です。あの時代に信念を貫いた浜館菊雄先生とはすごい指導者だと再認識しました。

ただ「ミドリ楽団」のこと、その活躍は残念ながら存じ上げず木村様のサイトで何年か前に初めて知りました。

小生は音楽好きの父の教育(強制?)で軍国少年の戦時中(昭和17〜19年)嫌々ながらバイオリンを習いに姉と一緒に行かされていました。楽器を持って歩くのも恥ずかしいような時代でしたので、電信柱2本の間 楽器を持って歩いたら姉と交代するということもやりました。やがて東京も空襲が近づき、これ幸いとバイオリンレッスンは中断しました。

  昔の音楽家ですのでご存知ないと思いますが、後の有名なバイオリニストの鈴木秀太郎さんが2級下におりました。学芸会で一緒にバイオリンを弾いたこともありました。彼とは学童疎開も一緒でしたが、流石に彼は疎開先にも子供用のバイオリンを持参してきていました。

 昭和20年6月に小生達は長野県下伊那郡喬木村阿島にある安養寺に再疎開しましたが、学年別に3箇所ぐらいに分散し、行き来をするにはかなり距離もあり子供の足で一日掛かりでした。食事も住まいも悪くなり浅間時代とは全く異なりました。そして安養寺で終戦を迎え、代澤小学校と同じように11月に焼け野原の東京に帰ってきました。

終戦までは「勝利の日まで」「ラバウル海軍航空隊」等々の軍歌を連日歌っていましたが、戦争が終わると安養寺での状況が変わり始めました。小生の担任だったN先生は音楽の先生でした。貧しい夕食の後はN先生が持っておられた手回しの蓄音機とレコードで軍歌でない外国の民謡を聴たり、「旅愁」「埴生の宿」など初めて知る曲を皆で合唱するような変化が出てきました。ミドリ楽団が戦後に演奏するような米国民謡なども、その頃に知りました。

色々な思いもありましたが、やがて小生は高校生になるとバイオリンを再び始め、学生時代からは下手なチェロに転向し、今でも補聴器を入れながら月3回のチェロレッスンは続けております。そろそろ限界ではありますが。

(5) 戦後のこと
アーニーパイル劇場、ワシントン・ハイツ、アメリカン・スク−ル・・・どれも記憶にある懐かしい名前ですが、「ミドリ楽団」の戦後の活躍は本著で初めて知りました。
楽器を習ったごく一部の学童達ではありましたが、やはり戦後の歴史に残る偉業であったと思います。御著ではミドリ楽団の活動を昭和23年頃まで語られていますが、その後も活動が昭和30年代にまで続いたことには驚きました。

ミドリ楽団の児童達がアメリカ人、アメリカ文化に初めて接した驚きなどもよく描かれていますね。小生も同じ驚きを体験した一人です。戦後2〜3年ほどしてワシントン・ハイツに住んでいたルイスさんというアメリカ婦人に英語を習いに行っていたことがありました。ワシントン・ハイツの守衛所(原宿)を抜けるとそこは別世界、広々とした緑の芝生、白い家々、子供達が太いタイヤの自転車で走り回っている、そしてルイスさんの家のドアーを開けると美味しそうな食べ物の香りがする・・・・やはり驚きの別世界でした。コカコーラもここで初めて味わいました。

チョコレートやチュウインガムの包み紙を大事にとっておき時々その香りを楽しむことも
よくやりました。アメリカのマッチ棒の太さ、黄燐マッチにも驚きました。

 このような物の豊かさを見るにつけ、子供ながらに日本が戦争に負けたことを自ら言いきかせるような気持ちになったことも事実でした。

(6)最後に御著を拝読しながら、ちょっと気になった字句などを2〜3記しておきます。
ただ、ノンフィクションでもありませんし、又子供同士の会話の中などもありますので無視していただいて結構です。ご参考まで。

176頁:「The Daizawa School Chirdoren’s Band」
     146頁の写真、191頁にある Children’s ですね。

196頁:「Radio TOKYO」
     Radio TOKYO という進駐軍放送があったのか憶えていませんが、憶えているのは277頁にありますAFRSや後の名称FEN(Far East Network)です。 

259頁:「星条旗よ永遠なれ」アメリカ国歌
     「星条旗よ永遠なれ」はスーザが作曲した行進曲で、アメリカ国歌ではありません。
     アメリカ国歌は「Oh, say can you see・・・」で始まる「星条旗」です。

     小生は仕事のため米国で8年余生活しましたが、プロ野球の試合開始前など
     大勢の人が集まる場所では 必ず「国歌」が演奏されるか、歌われていました。
息子はアメリカの公立小学校を卒業しましたが、毎朝学校では 米国国旗に
忠誠を誓う言葉から 授業が始まっていたのを思い出しました。

                                                    以上
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2016年12月01日

下北沢X物語(3169)〜創立12周年&大月文子おばあちゃん供  

P1000495(一)「おばあちゃんがいたお陰で近代戦争史の隠れた話を見つけることができたんだよ」そう言っても理解してもらえないかもしれない。おばあちゃんの人脈ルートで多くの人を知った。まずは今井兼介さんである。父親は著名な建築家今井兼次氏である。謙介さんは父親譲りなのか文化を熱く語る人だ。その今井さんお隣の篠山さんの家は俳人の中村草田男に家を貸していて家賃控え帳が残っている。それには大勢の有名人の自筆サインがあると。それをぜひ見たいということでお宅にお邪魔した。その時に「うちの妹は浅間温泉富貴の湯に疎開していて特攻隊と一緒になった」との話だった。

 最初から特攻隊の話を調べていたわけではない、偶然このことを知ったのだ。浅間温泉には世田谷から七校、二千五百名ほどの学童がここに疎開していた。昭和二十年二月ごろから急にここに航空機乗組員が増えてきた。沖縄戦を控えて当地飛行場に数多くの特攻機が飛来してきていた。富貴の湯に滞在していた兵も特攻要員である。ここに疎開していたのは東大原国民学校の学童である。当時のことが聞きたいと、この旅館にいた人をずっと探していた。ところが、篠山さんのお宅に伺って容易にその情報が得られた。
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 篠山さんの紹介で下馬の妹さん、太田幸子さんのところに伺った。すると一枚の写真を見せられた。それは特攻兵と疎開学童とが一緒になって写っている写真だった。

 この写真は今では歴史的な写真となった。博物館のパンフレットになったり、テレビで紹介されたりもした。世田谷の疎開学童と特攻隊との交流を表す象徴的写真となった。

 実はこの写真、どういうものなのかは分からなかった。が、先月、松本まで行って関係者に会って取材した。飛行帽をかぶって女の子を抱いているのは飯沼芳雄伍長だということが分かった。彼の妹さんが教えてくれたのだ。これで分かったことは東大原小の学童と一緒に写っているのはどうやら武揚隊隊員だということが…。

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2016年11月30日

下北沢X物語(3168)〜創立12周年&大月文子おばあちゃん〜

P1000489(一) 「今度の忘年会の弁当の名前は何にします?」と米澤さん、「何にしよう?」、夏冬の懇親会の弁当には名前をつけていた。先回納涼会のは、名前の在庫がなく「ミドリ楽団物語弁当」にした。さて今回は?と思ったとき「そうだ、創立が2004年12月だった」、「よし決まりだ、『創立12周年記念弁当』にしよう」、月日の経つのは恐ろしく早い、我らの会を打ち立ててからもう12年になった。驚きだ。

 十二年は長いようで短い。鉄道交点一帯の文化、歴史探査を続けてきた。途中出会った印象深い人は何人もいる。しかし大きな存在としては大月文子さんがいる。下北沢一番街大月菓子店のおばちゃんだった。残念ながら店は閉めてしまった。掲出した写真の年号は2009年3月となっている。

 長年一番街で菓子店をやってきた大月さんは顔が広い。おばちゃんを通して多くの人を紹介してもらった。特に大事な点は、我らの本部は下北沢南部の「邪宗門」だ。南部情報は眠っていても入ってくる。
「中村汀女の北沢の家は、ご自分が貸しておられたところですからそこがその家ですよ」
 お客さんとしてやってきた人が長い間分からなかったその家を教えてくれた。
 中村汀女は仙台から世田谷北沢の家に越してくる。「世田谷」と部立てされたその冒頭が、「十月末北沢の家に入る」とあって、四句が詠まれている。その一句だ。

時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ
   中村汀女俳句集成 東京新聞出版局

 現代人にこの感動は分からない。当時は水道はない、家にある井戸ポンプが頼りだった。炊事、洗濯これが欠かせない。主婦である彼女は水の出が心配だった。ところがそこの井戸水は豊富だったごっきんごっきんと取っ手を上下すると清冽な水が樋からほとばしった。笑みがこぼれてくる。

 何時も思うのは俳人なり、詩人がどこに住んでいたかということだ。北沢の家の跡を知って出かけた。鎌倉通りを挟んだ丘上だ、なるほど代田吹上方向から水が流れてくるわけだ、私はそう思った。関豆腐店は井戸水で豆腐を作っていた、巧かったらしい、豆腐と俳句はどこかで繋がる。土地や地形のおもしろさはここにあり!
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2016年11月28日

下北沢X物語(3167)〜戦時小田急入線幻のC58?〜

DSCN0042(一)「夏草に汽罐車の車輪来て止る」、少年の心のときめきを描いて見事だ。蒸気機関車は懐かしい、これが近代電車線を走ってきたら心躍るだろう。世田谷代田に住む人がこれが近くの小田急線に乗り入れてくると聞いて勇んで出かけたという、戦争時代に東海道線が爆撃でやられたらその補完線として小田急を使う、それで試験的に蒸気機関車が入ってくる、そういう噂があった。さてこれが本当かどうか?


 勤労感謝の日に「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」が主催する「古老に聞く」が催された。テーマは玉電と小田急だ。話者は豪徳寺生まれ、豪徳寺育ちの千葉宏さんだ。講演会の最後に自由討議の時間があった。このときに三つの質問をした。

 1、貨物列車による進駐米軍の入京?
 2、戦時中の女性による電車運転?
 3、C58機関車の小田急入線?


 1と2は、既に記述済みだ。1については『下北沢X惜別物語』を参照されたい。(世田谷区立図書館十七冊収蔵)2についても3165回で触れた。残るは3である。

「東北沢の方を見ると坂の上から黒い煙を吐いて蒸気機関車が下ってきました」
 茶沢通り踏切のところでこれを目撃した人から聞いた。が、これは小田急線開通前のことである。架線がない時は小型の蒸汽機関車で荷物を運んでいた。
 この話、飯田勝さんから聞いたものだ。念のためと思って検索で調べたら「2013年11月22日」に他界されていた。息子さんの飯田淳さんが「飯田 勝 遺作展 『まなざし』」を「GALLERY HANA SHIMOKITAZAWA」開いていた。飯田さんの踏切のイラストが掲出されている、まさにその東北沢四号踏切だ。
「踏切の番小屋はどちら側にありました?」
「海側、スズナリ側ですね」
 飯田さんから教わった。番小屋を描いた絵が掲出されている、「1987年 下北沢茶沢通り」とある。

 そういえば思い出した。自由討議の時間、参加者の一人が
「経堂駅の構内の外れには、確かね、昭和二十五六年頃まで転車台がありましたよ」と。
 あるいは、国鉄から入線してきた機関車はここで方向転換をしたのだろうか?
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2016年11月27日

下北沢X物語(3166)〜会報第125号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第125号      
          2016年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
     東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、随想的文士町・文士村比較論

 先月の街歩きは百二十二回目で馬込文士村を、その前の百二十一回では田端文士村を歩いた。文士や芸術家が多く集まった地域を文士村と呼ぶ。下北沢も作家や芸術家の参集地点である。が、村としないで町としている。それはなぜだろうか?他と比較すると見えてくるものがある。文士村比較論である。

・地形
 共通する点がある、それは地形である。武蔵野台地の末端に位置していて谷や沢が深いことである。が、田端や馬込の場合に比べると下北沢の谷や丘は緩やかである。それでも地形というのは芸術文化に関連が深い。やはり景観が創作意欲を刺激するのではないかと思われる。この点、大森を最寄り駅とする馬込は景色の彫が深い。とば口の八景坂からはかつては海が見えていた。一帯は別荘地としても有名だった。

 萩原朔太郎は、「坂」と題してこう述べている。馬込の坂であろう。

 坂のある風景は、不思議に浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。

詩人は晩年に世田谷代田に住むがやはり谷のあるところだ。が、馬込の坂はアプローチが長い、歩いている間に考えが浮かんでくることはあったろう。代田の場合は少し下ればおしまいだ。それでも彼にとっては土地の起伏というのは郷愁としてあったろうと思う。丘上に聳え建つ代田の丘の61号鉄塔と自身が設計した鋭角的な屋根には繋がりがあったと、自分では推理している。

 いずれにしても三つに共通する点は地形の起伏だ。絵に描く場合、また、思念を深める場合、これは合いふさわしいものだったのではないか?

・間合い
 下北沢野屋敷に住む石井さんはよく言っていた。
「うちの親父がここに住むことに決めたのだが、東京駅にコンパスの針をおいて十キロの縁を描く、そうするとここの下北沢がその線上にあったというんだね」
 東京都心から下北沢は十キロ、大森の場合は十一キロ、田端は七キロだ。都会中心からの間合いも大事だ。文学や芸術はど真ん中を敬遠する、やはり一定の距離がある方がよい。きらめく光を遠望する、また遠くに都会の喧噪を聞いて絵筆やペンを走らせる。最も好んだポジションではないか。
 いわゆる都鄙、都市と田園との境目が一番よい。谷があれば斜面には緑が残っている。昭和初年代であれば畑なども多かった。のどけさがあった。静寂である。これらこそ芸術や文学の源泉ではなかったか。

・人間同士
 田端や馬込は、文士村だ。前者は芥川龍之介、後者は尾碕士郎、中心になる人物がいて多くの文士たちが集まった。人と人との関係が濃厚だった。それで彼らが集うサロンもあった。
 下北沢文士町の場合はどうだろうか。文学サロンとして知られていたのは雨過山房である。すなわち横光利一邸である。
 我らは、北沢川緑道に横光利一文学顕彰碑を建立した。これには二枚の敷石が使われている。横光家から戴いたものである。
 小説『微笑』に描かれている逸話は有名だ。「石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す」と書かれている。梶は横光利一だと考えてよい、雨過山房に玄関までのアプローチに石畳が敷いてあった。それを渡ってくる訪問者の靴音で用件が分かったというものだ。このことを知っていて多くの文士たちが心してこの石畳を歩いた、大岡昇平などはそうである。
 ただ街中に文士のサロンがあったとは聞かない。個別のグループで喫茶店に集まっていたというのは聞く話だ。パトロンみたいな形で家を貸していた人もいる。一番街のお茶屋さんには網野菊、大谷藤子、宇野千代などの女流が集まっていたそうである。
 また文芸仲間が多く集まっていたのは下北沢静仙閣や代田の翠月荘などだ。他にも北原白秋の弟子筋が集まっていた下宿屋もあった。
 下北沢での人間的な結びつきは党派的、個別的であった。また、下北沢界隈には多く短歌、俳句などの結社があってそこにそれぞれが集って作品を詠んだり批評したりしていた。詩人福田正夫の「どんぐり会」などはその一例である。

・何が文士を集めたか?
 田端や馬込は中心人物がいて多くが集った。代表格は芥川龍之介であり、尾碕士郎であった。下北沢の場合は横光利一となる。しかしこれはここでは党派的だと述べた。新感覚派もいれば、プロレタリアレ系、北原白秋系など雑多なグループがあって随所で集っていたようだ。基本何が人を集めたか?
 下北沢には教会が多い。どうしてか、とある牧師に伺ったところ「神のお導き」と言われた。が、教会のホームページには信者の交通の利便性を考えて当地に建てたとの説明がある。まさにこれが正解である。
 
小田急線と井の頭線が交差することで交通の利便性が高まった。これによって多くの人々が集まるようになった。俳句や短歌の結社があるのも人が来やすいからだ。しかし、いわゆる文士村のように示し合わせてきているわけではない、それぞれにそれぞれが自由に来ていた。だいぶ経って、下北沢駅でばったり出会って、「なんだおまえも来ていたのか?」と互いにびっくりする出会いがあった。

 昨今分かったのは世田谷代田に帝国音楽学校ができた。これは昭和二年に開校している。かつて大根畑であったところが音楽学校になった。小田急が開通したことでこれはできた。鉄道が文化や芸術や音楽を当地に集めた。気付かぬうちに誰も彼もが集っていた。そのことから「文士村」ではなく、我らは「文士町」と呼んでいる。

2、創設12周年記念
忘年会&情報交換会&ダイダラボッチ音頭踊り発表会
 

 もう十二月だ、今年もあと僅かとなった。イギリスのEU離脱、アメリカ大統領選での番狂わせなど思いがけない事態が幾つも起こった年だ。旧来の考え方や価値がどんどんと壊されいくという激動の年となった。世界は漂い始めた、基盤が失われつつあるのだろう。が、我らの拠って立つ場は、常なる文化探訪だ。これを追求きゅして止まない。土地固有ものを掘り起こす、その一つがダイダラボッチ音頭だ、今回石坂悦子さんがこれに振りをつけて下さった。ダイダラボッチ音頭の踊りでの初お披露目をする。歌おう、踊ろう、ダイダラボッチ音頭、歌ったり、語ったり、マジックをしたり、我らが集まって楽しく過ごす。それが恒例の忘年会だ。
 基本、参加した人が楽しめる会にしようとこのところ夏と冬にはずっと開いている。まずはおいしいお弁当を食べ、好きな飲み物を飲み、各自が持ってきた何か(何でもよい、手作りのパン、自宅近くの名産、亡くなった丸山さんはいつも日の出納豆持参だった)をその逸話ととも味わい楽しむ。そして語り合ったり、しゃべったり、気が向いた人は手品をしたり(今回も作道明さんが披露してくれるだろう)、歌を唄ったり、踊りを踊ったり、(ダイダラボッチ音頭の振りができているやも知れず)して楽しむものである。
 恒例のオークションも楽しめる。家でいらなくなったものを持ってきてみんなに買ってもらってその代金は会の活動費にする。夏に古い切符を持ってきている人がいてそれは忘れてしまっていた。楽しめるもの持ってきてほしい。今回はきむらたかし氏の古地図が出品。

 日時、12月3日(土) 五時半から 場所 北沢タウンホール二階集会室
 参加費 3000円 会員、非会員誰でも参加できる。
 お約束の一人一品持参のこと(義務ではない)、オークション品(自宅に何かあれば)
 申し込み締め切り 11月30日(水)までに米澤邦頼に090−3501−7278
○「信濃屋特製」豪華お弁当がつく、必ず連絡を


3、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の戦後カラー写真跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。右写真は、一例、東北沢6号踏切のところの写真だ

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・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
 田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
 十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
 芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館
・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山寺町を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さん案内
・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲保険について。今年から街歩きのときに保険代として50円戴いている。が、このところ取っていない。何回か保険を掛けるために事務手続きを行った。これを掛けるには全体参加人数の把握が必要だ。しかし、これが掴めない。結局多めに掛け金をかけてしまう。大概は予想と合わず損失が出る。そんなことが続いたことで止めにしている。街歩きはこれからも続ける。自団体主催で十数名の場合は、「交通に気をつけよ」、「危ない場合には声を掛けよ」と互いに注意しあうことで凌ぐ。他団体との共催の場合のみ保険は掛ける、いかがか?
▲インターネット「北沢川文化遺産保存の会」の掲示板は自由に書き込める。また、フェイスブックについても「北沢川文化遺産保存の会」として入っている。これは申請した人が活用できる。フェイスブックで「北沢川文化遺産保存の会」でアクセスしてみてほしい。
▲当メール会報は会友に配信しているが、迷惑な場合はご連絡を。配信先から削除したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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2016年11月25日

下北沢X物語(3165)〜古老が語る小田急物語供

DSCN0044(一)風景は客体的にあるものではない、各自がこれを解釈して自分の記憶に貯め込んでいるだけである。人によって風景は違う。色好みの人はいつか経堂駅で会った美女を、鉄道好きの人は、「井の頭線の明大前駅と一高前駅間に、電車が一台だけ焼け残っていた」(『東京空襲』一色次郎)のを記憶している。後者は昭和二十年五月の空襲で多く車両が焼けて神泉駅のトンネルにあった二両だけが助かったという説を覆すものだ。

11月23日、梅丘地区会館で「古老に聞く」が行われた。話者は八十七歳の千葉宏さんである。この日自由討議になって私は三つの質問をした。これまで多くの人から戦時中のエピソードを聞いてきた、その事実は掴んでいるがやはり裏を取っておくべきだ。記憶風景は人によって違う、個々人の願望がたまたま風景に生きているかもしれない。

戦時中、小田急電車を女性が運転していたのは本当か?


 戦争末期働き盛りの男性が出征させられた。鉄道の現業従事者も例外なく軍隊に取られた。それで鉄道を動かすことが困難なった。それで若い女性を充当した。駅員、あるいは車掌というのはごく普通にあった。が、電車を若い娘に運転させた例は少ない。

 広島電鉄は困り果ててついには広島電鉄家政女学校の生徒を運転させた。慎重を期して三ノッチまでの低速運転をさせた。いわゆる直列走行で、これ以上だと並列走行になって速度が速くなる。実際に運転していた女性は、三ノッチ以上出ないように留め金がしてあったと聞く。このような市内線を動かしたという例はあるが通常の電車を動かしたというのは聞かない。それで興味を持っていた。

小田急の電車を女性が動かしていた。この話は、世田谷代田に住む若林麟介さんが記録されていた。

山の手が大空襲を受けた昭和20年5月25日の翌日だったか、小田急が漸く動き出しました。新宿駅はすっかり焼失し尽くされ、駅の広場の屋根を支えていたレールは、まるで飴のように曲がって倒れていました。南口の橋上からの景色は、焼け野原、京王線は未だ不通、南新宿から新宿駅に入ってきた普通電車の運転手は女性でした。

 
  小田急も男性に代わって運転手を女性にさせていた。若林さん、橋上から見て運転席にいたのは女性だと認められたと言われる。このことは他に裏が取れれば間違いないこととして記録ができる。それで千葉宏さんに質問をしたのである。
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2016年11月24日

下北沢X物語(3164)〜古老が語る小田急物語〜

CCI20161124_0000(一) 「月日は百代の過客」、時間は永遠の旅人だ、が、我らが乗っている時の船の乗り心地は悪くなっている。芭蕉時代は春夏秋冬が廻り灯籠のようにゆっくりと動いていた。一秒にも命があった、一級酒の味があった、が、今の時は三級酒、日々が薄っぺらい、総てが機械に管理されるようになっている。古老はこんな逸話を聞かせてくれた。

「豪徳寺の駅は丘上の駅でした。階段を上って改札に入る、駅員が木柵に入っていて入鋏しますね…」
 情景が目に浮かぶ。硬券にパンチを入れると屑が下に落ちる、それがタタキに散らばっていた。彼は絶えず鋏を動かしていてそれがカチカチと響く。
「それで改札を抜けると線路を渡ってホームに出るのですよ。準急や急行は止まらないでしょう、これが来るときは駅員は両手を大きく広げて通せんぼしていましたね」
 懐かしい光景だ。今だと皆自動改札である。入鋏もない、通せんぼもない。

 昨日、豪徳寺駅周辺風景づくりの会主催の「古老に聞く」が梅丘地区会館で開かれた。この案内は毎回戴いていて行ったことがなかった。今回のテーマは「玉電 小田急」だった。興味深い、それで参加した。が、会場は家から行くには不便だ、東横線、井の頭線、小田急線に乗って大回りしていく。簡単なのは真っ直ぐ北上すればよい、つまりは歩きだ、目黒区八雲から世田谷区梅丘までは小一時間で着いた。

 「古老に聞く」、これは常日頃行っている。
 一昨日だった、いつもの荏原逍遙で古老と出会った。八十七歳だ、名前は聞かなかった、仮に用賀洋子さんとでもしておこう。世田谷用賀で会ったからだ。
「戦争は地獄だった…人間はね、戦争で死ぬともうゴミよ
 彼女はそういう。
「荏原中延へ勤労動員で行かされたのね。あそこは空襲で丸焼けになったからね、焼けた工場から機械を掘り出してそれの分解掃除をするの、きつい仕事だった……それで大勢が焼け死んだの、死体に鳶口を突き刺して、それでトラックの荷台にほおりこむの、見ていられなかったね…」
 人間戦争で死んだらもうゴミだ、焼き場で焼けない。広場に持っていって一緒くたにしてそこで燃やしてしまう。戦時中はごく普通に行われていた。
 戦争は地獄だ、古老の言葉は覚えておかなくてはならない。

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2016年11月22日

下北沢X物語(3163)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙供

DSCN0008(一)荏原台南端の馬込の谷は深い、この傾斜が名馬を産んだ。坂が馬を鍛て宇治川の先陣を司った「摺墨」が生まれた。朔太郎旧居のすぐそばに摺墨塚がある。この谷が人間を鍛えたか?、当地に居住した文士たちは坂を上ったり下ったりした。「坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。」と朔太郎は言った。彼方には「のすたるぢや」がある。坂は思考の鍛錬をさせていたのかもしれない。急坂を上ったり下ったりしていると物を思うことは確かだ。馬込の谷はイマジネーションを湧かせもした。

 文学と丘の上下論というのはある。文学で食うというのは大変だ、まず修行せねばならない。その場合アパートか長屋だ、大概は低地のごみごみしたところに建っている。赤ん坊の泣く声、トイレの臭いが漂うところで考えたり書いたりする。しかし丘下の貧乏長屋で苦労しても報われるのはごく少数だ。辛酸、苦渋を嘗めて、金が入るようになると眺望のいいところに居を構える。が、努力だけではどうにもならない、才能、そして運も必要だ。

 大成した作家は丘上に住む。今回、馬込の三島由紀夫邸には初めて行った。やはり丘上だった。その位置を確かめたがどうもそこからは富士が望めるようだ。日本文学と富士、そして日本の美学にはこの山は欠かせない。

「自分の家の近くに目黒区緑が丘の三島の家があって何度か訪ねたことがあるのですが、これが旧番地でよく分からなかったのですよ。現住所は分かりますか?」
 馬込文士村を歩いているときに案内人の松山信洋さんに聞いた。
「わかります」
 すぐに知らせてくれた。
 昨日散歩の途中、そこへ行った。緑が丘一丁目である、その家の前の道は古道だ。坂になっていて名がついている。「寺郷坂」目黒区教育委員会た立てた標識もある。

この坂上には立源寺があり、かつてこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。九品仏道である。 

やはり三島邸は丘上にあった。緑が丘の一等地である。恐らくここからも富士が見えたろうと思う。そこはかつての海軍村だ。海軍軍人が多く住んでいた。あるいは体がなまるから好んで住んだのではないか?三島も隣町の自由が丘のボディビルジムに通っていたという。きっと歩いていったろう。緑が丘の坂海軍軍人と肉体派作家を鍛えたか。

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2016年11月21日

下北沢X物語(3162)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙〜

DSCN0012(一)芸術や文化が生まれるときに都市との間合いというのは重要だ。都会の喧噪がさざ波のように押し寄せたり、夜には銀座の灯りが遠望できたりする都会近郊はクリエーティブな場としては絶好だったろう。そしてもう一つ大事なのは景観だ。深く抉り込まれた九十九谷の地形も見逃せない。荏原台南端の谷の上からは海が見え、そして富士も見えた。人々が憩う場としては最適だった。


 馬込文士村の最寄り駅、大森は歴史が古い。明治五年に新橋と横浜間の日本で最初の鉄道が開通する。当初、大森には駅はなかったが四年後の明治九年には駅ができる。都心と間をおいたここは別荘地として好適だった。丘上は風光明媚で外国人が別荘を作った。

 大森山王は馬込に行くときの入り口だ。外国人別荘地を通って、馬込の大根畑に行く、異国世界を通って田舎に行くというところは一つの魅力ではなかったか。

 馬込文士村と下北沢文士町は関連や繋がりがある。ここへ住んでいて後に文士町へ来た人が何人もいるからだ。筆頭は萩原朔太郎であり、三好達治であり、そして宇野千代だ。そして朔太郎の娘萩原葉子も加えられる。

 十一月十九日、松山信洋さんを案内者とし馬込文士村を巡った。タイトルは、「馬込文士村散歩〜女性・新しい時代の風」というものだ。宇野千代を初めとしてここでは女性が自己主張をなした。その辺りを問題提起していくものだ。

 文士町と比べると遥かにこちらの方が歴史が古い。一番特徴的なのはやはり地形だ。駅そのものが丘にある。そして山王に向かうがここへは急階段を上っていく。登り切ると平坦でゆったりとした敷地にお屋敷が今も建っている。

 「大森も高台の方には殊に別荘が多い」「高台一帯の住宅地は、場所によると海をみはらして景色がよい。空気も柔らかく、冬も東京の山の手などよりは暖かいから養生地にも適している」(河井酔茗『東京近郊めぐり』大正十一年)、松山さんもこれを資料としていた。歩いてみて分かる山王に住むことはステータスだった。
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2016年11月19日

下北沢X物語(3161)〜渋谷の狸と時間格差〜

DSCN0032(一)東横線から井の頭線への乗り換えは極端に不便となった。うなぎの寝床のような地下通路をぐるぐると回ってようやく乗り場に着く。多くの人がなるべく渋谷を通らないでいくようにしていると。私の愛用路線は下61小田急シティバス、北沢タウンホール行きだ。下北沢に直行するバスだ。三茶西友前では長蛇の列、お年寄りが買い物をして下北沢方面に行く。太子堂商店街は昔懐かしい売り声や食べ物の臭いがする。

 電車よりもバス、とはいうものの渋谷迷宮を通らざるを得ないときもある。この間、渋谷の狸に出会った。まず行きである、例のうなぎの寝床を通っていくとき途中丸柱の列がある。その一つ一つに着飾った可愛らしい女の子の拡大写真が貼ってある。アイドルの女の子たちらしい。ミニスカートをはいた彼女らに見とれながらいく。

 この時は、かつての職場の僚友のお通夜に行くためだ。行きと帰りでは三時間ほどしかない、ところが帰りだ。かわい子ちゃんたちが居ない。代わって今度はむくつけき男の子たちがやはり丸柱に貼られていた。男子のアイドルたちだ。通り掛かった女性がそれにカメラを向けている。かっこいい男の子ゆえに惹かれたのだろう。
「お通夜に行っている間に張替えたのか!」
 あまりにもの変わり身の早さに驚いてしまった。渋谷の狸に化かされたのか?
 
 葬式への往復で出会った変化だ、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」という世の無常をいう言葉を思い出した。何たる変化の激しさだろう。都市は変化を見せつけて飽きさせないところだ。しかしこんな変化は必要なのか?近代都市人は時間をも食いつぶしているのではないかと。

 ある人にこの話をしたら、「あれは照射だ」という、天井に機器があってそれが映像を切り替えているのだと、渋谷の狸説は、いとも簡単に崩壊した。

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2016年11月18日

下北沢X物語(3160)〜死ぬまで歩きたい、書いていたい〜

DSCN0002(一)我らの会の街歩きに参加されていた九十歳を過ぎた人が、「死ぬまで歩いていたい」と。同感だった、日々私も歩いている、そして書いている。この二つが生きる糧だ。それで「死ぬまで歩きたい、書きたい」というのは私の願望だ。気付いてみると自分もそう長くないと思ってきた。この間、京王線布田のお寺まで行ってきた。かつての同僚のお通夜があった、私よりも彼は若い。遺影に手を合わせながら、やがては自分の番が回ってくると思った。帰りの電車の中で、はかない命だ。「それまでは歩きを楽しもう、また書くことに燃えよう」と決意した。しかし、後者は何でもいいというわけではない、興味を持って熱意を注げるものでないと難しい。


 歩くのは身体を動かせばいい、が、書くのは考えを要する。自分の関心が持てるものでないと意欲が湧かない。もともと私は鉄道が好きである。鉄道童話を書いたり、鉄道文学を著わしたりしてきた。ここのところずっと歴史物に手を染めていた。これらに一区切りついたことから年来のテーマに取り組もうと思った。

 『音の鉄道文学史』である、レールを刻む音が実は、我々の心を刻んできたのだという自分の鉄道観である。明治、大正、昭和の文学作品に鉄道の響きが記録されている。これを順次追っていけば『音の鉄道文学史』ができる。少しずつ書きためてきた。おおよそ八割方はできていて企画書もまとめた。反応は悪くはない、どこかが手を挙げてくれるだろうと思う。

 自分の人生もそう長くはない、店じまいに備えてやることはやっておこう。鉄道文学史は自分のライフワークである。が、これまでを俯瞰するとやり残したことがある。十年来、取り組んできた文化探査だ。下北沢文士町の探訪である。懸命にやってきて四基の文学碑を建立してきた。また文士町地図も改版に改版を重ねてきた、その経緯を含めて『下北沢文士町物語』としてまとめることはできる。しかし、これはエベレストに登るような困難さがある。自分で築いてきた山が途方もないものになった。今日のブログのエントリー数が「3160」だ、膨大な言葉の山の下に、物語や逸話が書き留められている。これを整理することは超難題だ。

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2016年11月16日

下北沢X物語(3159)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風供

ミドリ楽団アニーパイル劇場(一)この東京世田谷上空を心底気持ちが悪くなるほどに敵機が覆った。その巨大な重爆撃機が次から次に現れる。1945年5月24日、今の羽根木公園、根津山からこれを見ていたのは一色次郎だ。「今夜はいったいどういうことなのだろか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうしてこんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。私は首をかしげないではいられなかった。」(『東京空襲』)、巨大重爆撃機はサーチライトで照らされている、ジュラルミンでできた巨大鯨だ、それが次々と湧くように現れる。まさに「偉大なるアメリカ」が、圧倒的な物量を見せつけた日だった。あれから71年、アメリカは凋落した。貧すれば鈍する、次期大統領候補は人種差別を公然と言い放つ、「民主主義や人権、法の支配の尊重という米国の基本」すら危うくなってきた。

 覚えておかなくてはならないことがある。敵だったアメリカは軍国主義に染まっていた日本を解放した。軍部は徹底抗戦を叫んでいた、一億総特攻である。気が狂っているとしか思えない。そんなときに空から降ってきた伝単には何が書いてあったか?今、これを注目すべきだ。B29から撒かれたビラである。

日本国民は次の自由(私権)を享有すべきである。

一、欲望の自由
一、恐怖からの自由
一、言語の自由
一、圧政からの自由

 右の自由を得る道はただ一つである。

 この戦争を惹起した軍閥を除去し、自由国民の仲間入りをし給へ。



 この頃軍部は敵の圧倒的な戦力にこてんぱんにうちのめされているにも関わらず、「被害軽微」などとラジオで伝えていた、「大本営発表」を平然と流していた。そんな圧政に強いられている国民への呼びかけだ。この頃の敵の偉大さだ、「民主主義や人権」を説いている。

 しかし、空と地上では人々が吸っている空気はまるで違っていた。我々は飢えに苦しんでいた。が、上空の空飛ぶ要塞では快適だった。設備として紅茶か珈琲を選んで飲める給湯器が備えられていた。圧倒的に豊かであり、かつまた強かった。

 そういうアメリカに帰ろう。"Make America Great Again"という呼びかけだ。アメリカ人大衆はそれに乗った。が、方向がおかしい、民主主義にや人権尊重という基本理念と逆行しはじめたようだ。

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2016年11月15日

下北沢X物語(3158)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風〜

2シアトル市長など代沢小へ楽器寄贈(一)アメリカ大統領選の演説でトランプは、「Make America Great Again」と訴えた。偉大なアメリカを取り戻せ、である。結果として予想は覆り、クリントン氏を打ち破ってトランプ氏が大統領となった。本国アメリカ、また日本でも激震が走った。速報を聞いて思い返したのは、「ミドリ楽団」の団員のことだ。この夏「ミドリ楽団物語」を上梓した。この物語の核は楽団団員たちがグレートアメリカに遭遇したカルチャーショックだった。

 グレートアメリカ、それは物資の潤沢さ、人々の明るさ、そして、自信だった。疎開先で窮乏生活を送っていた疎開学童たちは、1945年8月15日に日本が戦争に負けたと知らされる。男子は悔し涙を流した。土手に集合を掛けたり、本堂の片隅への参集を呼びかけたりした、そして皆で指切りげんまんをした。日本を滅ぼしたアメリカへの復讐を誓った。

 代沢小に赴任してきた浜館菊雄先生は、戦前にバンドを結成した。が、たちまちに戦争に突入する。歌舞音曲は慎まなくてはならない、しかし、楽器は親から離された子の心を慰めるものだと強く主張して疎開先にこれを持ち込んだ。第一次疎開先では、浅間楽団、第二次疎開先では、真正寺楽団とし、練習を重ねた。

 戦争中であったが、演奏技量がこれによって保たれた。戦後になって活動を再開する、たゆまぬ練習が功を奏する、児童楽団の演奏技量を聞きつけた米軍から慰問のオファーを受ける。「ミドリ楽団」として再発足した彼らは聖路加国際病院での初演奏に臨む。傷痍軍人の慰問だ。

 病院には礼拝堂がある、そこのホールで演奏は行われた。大きなソファーに大きなおしりを乗せた白人がどでんと座っている。また、松葉杖をついた黒人もいた。髪の毛が金髪、ブロンド、そして黒、また目の色も違う。それだけでも緊張したものだ。
 
 しかし、彼らはひるまなかった。音楽に国境はないというのが指導者の浜館菊雄の口癖だ。心を込めて演奏すれば必ず成功すると。それで彼らは懸命に弾いた。編曲の手練れは彼らの一人一人に楽譜を持たせていた。木琴、ハーモニカ、アコーデオンが中心である。が、単に弾いたり、吹いたりするわけではない、各楽器には出番がある。木琴がリードするとつぎにハーモニカの番になって、そして、アコーデオンに移る。音楽演奏のキレのよさは聴衆の耳を射た。
「アメリカ人の反応が日本人の三倍!」
 大きな手で彼らは拍手した。松葉杖をついた者も立ち上がって手をたたいた。この病院での演奏は大成功だった。彼らのデビューはこれがきっかけだ。
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2016年11月13日

下北沢X物語(3157)〜機縁因縁安吾文学碑〜

DSCN0034(一)私達の乗った人生の船はさ迷い漂流する、そして突然に思いがけないところに寄港する。昨日は四人の方々を文士町案内に誘い、坂口安吾文学碑までたどり着いた。近代戦争史の発掘の旅は碑が据えてある代沢小から始まった。ここの学童は浅間温泉に疎開した。分宿した先の千代の湯班は引率の先生によって鉛筆部隊と呼ばれた。その学童たちと偶然に立ち寄った特攻隊員との交流がなされた。その一人時枝宏軍曹は、出撃時に僚友に子どもへの言づてを頼んだ。「出発の際まで皆さんと楽しく遊んだことを非常にうれしく」思っていたと。これを頼まれたのが「自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹」である、これを手がかりにしてひっそりと消えて行こうとしたこの隊を追った。そして、昨日はその関係者を安吾文学碑へと案内した。誰あろう?武揚隊の隊長山本薫中尉の末裔である。弟の長男ご夫妻と、そのお子さん二人である。

  この坂口安吾文学碑は我々が尽力して建立した。文学碑第一号である。安吾はこの学校で代用教員として務めた。そのときの思いを「風と光と二十歳の私と」作品に編んだ。その一節、「人間の尊さは自分を苦しめることにある」を刻んだ。因縁の彼ら武揚隊隊員はあまりにも出撃までが長引いた。死のうとするのに死ねないところが苦しく、辛かったようだ。

 出撃せねばならないのにできない、覚悟ができているのに死ねない、死ぬことを猶予されて長く生を生きた。難行苦行の末に最期を迎えている。こういうことは全く知られていない。戦場の影に潜む逸話に私は深い興味を覚える。

「先生、彼らの霊が取り憑いているのですよ」と皆がいう。

 昨日、山本さんのご家族を案内して事務局の邪宗門行った。ここで記念写真を撮ったときのことだ。
「あれ、何か変な影が写っていますよ。やっぱりこれは霊ですよ」
 写真を撮ってくれた仲間の米澤邦頼さんが云う。

 この武揚隊、最後は台湾の八塊飛行場から沖縄へ向かって特攻に行った。隊長の山本薫中尉もそうだ。ついこの間、家族でここに行かれたそうである。
「最後に歩いた地を歩きたい」
 奥さん、山本記美代さんの願いから現地訪問された。
「飛行場跡は防衛大学になっていて中には入れません」

 縁戚の隊長の足跡をたどる、すれば関心が深まる。やはりネットで調べられたようである。
「ただ台湾から出撃したということだけが念頭にあったのです」
 私が書き記しているもので満州からの苦難の道程が分かった。それで私に会いたいということで資料を持って上京された。四国からである。(代沢小安吾文学碑前で山本家の皆さん)
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2016年11月12日

下北沢X物語(3156)〜歴史的写真の謎いま再び〜

IMG(一)偶然に発見した写真は歴史的な写真となった。航空兵と疎開学童とが一緒になって写った写真だ。博物館の正面玄関に掲げられたり、ポスターになったり、テレビでも放映されたりした。が、この写真の真相は分かっていない。ところが謎が少し解けてきた。

 松本浅間温泉で疎開学童と特攻隊とが深い関係を持っていた。それをシンボライズするものとして今は使われている。今考えると不思議だ。全く同じ写真だがつぎつぎに見つかって、今度また三枚目に出会って、謎の一端が解けた。

 まず一枚目だ、世田谷下馬の取材先の家から発見された。「こんなものがあります」と太田幸子さんは言って一枚の写真を出された。そこには疎開学童の女児と航空兵とが一緒になって写っていた。

 彼女は東大原国民学校の疎開学童である。浅間温泉富貴の湯に滞在していた。写真はその庭で撮ったものである。太田さんの肩に一人の兵士が手を掛けている。この兵士は誰なのか?またもう一人、飛行帽を被った兵士が女児を抱くようにして写っている。この兵士は誰か、もっといえばこれの部隊名は何というのかよく分からなかった。

 つぎに二枚目だ、自身のブログでの情報発信がこれまた歴史資料の発掘に繋がった。検索でこのブログを見つけた安曇野の丸山修さんが手元にある資料の存在を知らせてきた。それは二つだ、一つは浅間温泉富貴の湯にいた武揚隊隊員に揮毫を頼んだようで、和綴じ帳には各隊員が書き残した言葉が書かれていた。もう一つはアルバムだ。多くの兵が写っていた。その中にこの一枚が挟まっていた。
写真裏書き。富貴の湯にて
 これの持ち主は高山宝子さんだ。彼女は富貴の湯に来ていた特攻隊員飯沼芳雄伍長の小学校時代の同級生だった。そのことからこの旅館には度々慰問に訪れていた。それで遺墨と写真とを持っていた。後者には多くの航空兵が写っていた、その中一枚としてこの写真があった。
 どうやら疎開学童たちや地元の関係者にはこれが配られていたようだ。

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2016年11月10日

下北沢X物語(3155)〜第10回記念「戦争経験を聴く会・語る会」〜

080524戦争経験 008(一)戦争はすべてを破壊する。一旦これが始まれば人間が人間でなくなる。日常の法は役立たなくなる、人が死んでも殺されても何とも思わなくなる。が、あの戦争から遠ざかり、これも忘れられつつある。浸透してきているのは核には核で対峙しようという人間のおごりだ。たった一発で何十万人を殺すという悪魔の兵器だ、広島、長崎の惨状は忘れてはならぬ。ところが事態は急変した。日本もその核を持てと主張する人物が昨日、アメリカの大統領に選ばれた。恐ろしい時代になった。が、どうあっても戦争しない、これを忘れないようにしなければならない。そのために山手空襲があった日に合わせ、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いてきた。来年はとうとう十回目を迎える。

 継続は力とはいう、が、戦争経験を継承することは困難になってきている。一つは時間経過による体験の風化、一つは戦争体験者がいなくなっているからだ。そういう中でこれをどう開くのか大きな課題である。

 これまで開いてきた十回であるが、近代戦争史の隠れたページを開いた。昨年、長野県護国神社に特攻勇士の像が建立された。この碑文には松本浅間温泉に滞在していた特攻隊と世田谷の学童とがふれ合ったことが刻んである。これも発端はこの会で発信されたことが大きい。

 疎開学童と特攻隊はこれまでの会ではしばしば話題になった。要点は、世田谷の疎開学童が戦争近代の隠れた逸話を切り開いたということだ。

 戦時中、世田谷からは七校が浅間温泉に疎開した。その数なんと2500名ほどだ。昭和二十年二月から三月にかけて沖縄戦に向かう特攻機が陸軍松本飛行場に多数飛来してきていた。その戦闘員、航空兵がこの温泉に数多く滞在していた。ところが往事記録にはこれがない。公的な資料はほとんどが焼却された。しかし失われないものがあった。

 疎開学童が書き残した手紙、日記などである。これは個別的に所持しているものだ。これらの記録を丹念に見ていったことで歴史事実が明らかになった。ここにこそ忘れられた戦争の真実が眠っていた。世田谷の疎開学童が戦争近代の歴史を紐解いた。記念大会ではこれに焦点をあててみてはどうか?ということになった。

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2016年11月09日

下北沢X物語(3154)〜黄色の布きれは皇帝カラー〜

P1000625(一)知らないで死ぬところだった、そういう事象はよくある。先週、秋日和、中央線のあずさに乗った。ぼんやりと車窓を眺めるのが子どものときから好きだった。どこかに行くというとき一番楽しかったのは着いた先の見学ではなく、行き帰りの車窓だった。夜行列車に乗っても暗い窓の向こうを懸命に見詰めていた。石川啄木の気持ちはよく分かる。

雨に濡れし
夜汽車の窓に映りたる
山間の町のともしびの色


 啄木の汽車詠歌は好きだ。

何事も思ふことなく
日いちにち
汽車のひびきに心まかせぬ


 レールの刻みを聴きながら旅をするのは心地よい。が、幹線の中央線は継ぎ目の音が聞こえない。現今の鉄道はロングレール化されて音楽を奏でなくなった。詩を失った。

 電車の響きで言えば思い出すことがある。山梨から来た人が言っていた。
「電車の音が山峡に響いていてそれがふっつりと消えてしまい。それから暫く経つとごととごととんって聞こえてくるのです。夜などは音楽のようでしたね」
 
 汽車旅、電車の旅は瞑想させる。
 トンネルを抜けて勝沼に出ると南アルプスの連なりが見えてくる。もう白い雪を被っている。この日本アルプスは今も造山運動を続けている。いわゆる褶曲山脈だ。洋上にあった伊豆半島が日本列島に近づいて衝突し、これによって大地が押し上げられアルプスが形成された。つい数年前だった、これを知って「ああ、知らないで死ぬところだった」と。
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2016年11月07日

下北沢X物語(3153)〜再び武揚隊を訪ねての旅掘

DSCN0025(一)戦後七十一年、戦争は遙か昔に遠ざかった。が、その因縁因果はいまだに尾を引いている。松本まで飯沼節子さんに話を聞きに行った。彼女は兄弟を三人を戦争で失っている。一人の兄はルソンで、一人の姉は女子挺身隊で不慮の事故に遭って、そしてもう一人の兄の飯沼芳雄さんは特攻で亡くなっている。彼女は特攻は酷いという。年齢の近かった芳雄兄とは一番仲が良かったという。それだけに思い出が深い。が、その兄はいない。

 先だっても武揚隊の五来末義さんの遺族と連絡が取れて、遺墨の写しを送ってあげた。前に調べたとき五来さんの遺書には病気の妹を案ずることが書いてあった。聞くとその妹さんも亡くなったそうだ。五来さんところは三人兄弟一人だけが残ったという。特攻で行けば死ぬ。子孫が残ることはない。当たり前のことだが酷いという意味が今になって実感されてきたことだ。

「摩文仁の丘に兄の名が刻んであるのを見て涙をしました。でも、その後、知覧特攻平和会館に行ったのですが何もないのです…」
 飯沼芳雄軍曹は七月十九日が命日となっている。この日は沖縄特攻の最後の日だ。台湾八塊飛行場から薄暮、「十六時三十分」に発進している。ところが共に出た藤井清美少尉は「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」には乗っているが、伍長のは載っていない。敵機に撃墜されたか機の不調で墜落したものだろう。一般戦死扱いとなっている。

 四月十日、台湾に渡るため武揚隊の一隊はその飛行をしている最中に敵機に遭遇した。そして、長谷川信少尉、西尾勇軍曹、海老根重信伍長の三機は艦載機に撃墜されている。これも特攻戦死ではない。

例えば、五月十七日に特攻戦死した武揚隊の柄澤甲子夫伍長は二階級特進して少尉の位が授けられている。遺族がもらえる恩給の額も違ってくる。特攻戦死と一般戦死には大きな違いがある。前者の場合は記録を保存したり、名簿に登載したりと丁重に扱われるが。後者の場合はそうではない。命令によって行かされたものの扱いの違いは大きい。「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」は麗々しい。が、飯沼伍長はここには載っていない。調べてみて分かったことだ。

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2016年11月06日

下北沢X物語(3152)〜再び武揚隊を訪ねての旅供

DSCN0028
(一)情報を追っての果てのない旅だ。発端はネットだった、この機械は情報の流れを革命的に変化させた。今までほそぼそと各地に隠れていた情報がネットを通して忽然と日向に現れるようになった。武揚隊の歴史事実を発掘することになったのはやはりネットだ。これが近代戦争史の一端を繙いた。大本営直轄の特別攻撃隊が陸軍松本飛行場に雌伏していて時がきてついにここを飛び去った。


「三年前のことですけど、街中のポスターで知ったのです。博物館で開かれる戦争と平和展で特攻のことが展示されることを、それで行ってみると大きく写真が伸ばして展示してあったのです、それを見てゾッとしましたね。兄が写っていたのですよ…」
 武揚隊の隊員に飯沼芳雄軍曹がいた。彼は松本出身だった。妹の節子さんには思いがけない兄との出会いだった。

 このときはネットがきっかけとなって発掘された武揚隊関係の遺墨や写真が展示された。昭和二十年三月、飯沼芳雄伍長が浅間温泉に来ていることを地元の人は知った。彼にとっては思ってもない帰郷である。

  武揚隊の乗機は各務原で特攻用に爆装改修を行う予定だった。昭和二十年二月末日に名古屋に飛んできた。が、もうこの時制空権は完全に敵の手中にあった。虎の子は爆撃されて壊される可能性があった。それで急遽長野の松本飛行場に飛来してきた。

 家族は飯沼軍曹の飛来をどうして知ったか。
「ある日突然、飛行機が飛んできて家の周りを回るもんで不思議に思っていたら夕方になって近所の電話のある人のところに兄さんから『昼間家の上空を飛んでいたのは俺だ』との知らせがありまして、兄が浅間温泉の富貴の湯に来ていることを知ったのですよ!」
 節子さんの証言だ。親からこの話は聞いたという。

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2016年11月04日

下北沢X物語(3151)〜再び武揚隊を訪ねての旅〜

P1000831(1)(一)中央線は好きだ。新幹線と違い、途中の風景が眺められるからだ。しかしそれでも速くなった。沿線風景をぼんやりと眺めながら、疎開の旅を思う。学童たちにとって始めての旅だ。都会から遙か離れた田舎に行く、親は「もう二度と会えないのではないかと駅で別れるときは泣いていた。、しかし、皆と一緒の旅出でだ、その興奮からか悲しみは湧いてこない。しかし、深更になって汽車は轟々と音を立てて走っていく。そして、山中らしきところに着いたと、汽車は止まった。とたんに静かになって虫の声が聞こえる。と、ふと列車は動き出した。「怖い!」、寝ていた子も起きて騒ぎ出す、「先生、汽車が反対に走っているよ!」と。
「大丈夫、これはスイッチバックと言って坂のきついところはバックして、ジグザグに登っていくんだよ」
 これも経験だ。
 夜が明けて、左手に広い湖面が見えてくる。
「海だ!」
「違うよ。諏訪湖だよ」
 ちょっとしたやりとりで何も知らなかった子が、知識を蓄えていく。が、今はこの諏訪湖海説は雲散霧消してしまった。

 この頃では、松本に行くときには甲府から矢花克己さんの車で高速でいく。諏訪湖サービスエリアで休憩をする。ここから諏訪湖が一眸のもとに見下ろせる。
「疎開学童は、中央本線からこの湖を見て海と誤解したんですよ。高速道路時代になって、皆諏訪湖はここからみるでしょう。広さへの感動はありませんよね…」

 中央線から篠ノ井線へ、そして松本駅に着く。土地独特の雰囲気があって到着するときに心弾む。小島烏水はこんなことを言っている。

 松本市で汽車を下りたが、青々とした山で、方々を囲まれていて、雲がむくむくと、その上におい冠かぶさっている、山の頂は濃厚な水蒸気の群れから、二、三尺も離れて、その間に冴えた空が、澄んだ水でも湛えたように、冷たい藍色をしている、そこから秋の風が、すいすいと吹き落して来そうである。 出典 『谷より峰へ峰より谷へ』


 電車から降りたとたんに空気が違うと感じる。が、かつてと違って青々とした山々も建物がどんどん高くなって見えなくなってきた。
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2016年11月03日

下北沢X物語(3150)〜武蔵野の音の文学論掘

P1020179(一)日々歩かない日はない、が、音に足を止めることはない。突然にグラグラガシャン、重機が入って家を壊している。煤けた天井の板が剥がされる。隠されていたその家の裏面があらわになる。人はそこで起居し人生を送ってきた。この家の持ち主はどうしたのだろう。そんな思いに耽ることがある。が、重機の音に風情があるわけではない。もう今や耳にとめる音は無くなってしまった。

 徳富蘆花の「みみずのたはこと」では、懐かしい音がレコードされている。

 四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く。鄙びて長閑な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛。うなりをうって吹く二百十日の風。音なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺りの響。凱旋の爆竹を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨のさゝやき。

 まずは鳥の声だ。これも聴かれなくなった。早暁に啼く鶏の声などは絶えて久しい。もう小鳥も来ない。キジバトがクゥクゥパウパウとよく啼いていたが、このところこれも聴かない。蘆花が生きていた時代には音に自然の息吹があった。自身の目黒の家の近くには氷川神社がある。秋祭りでは笛の音を聴くこともなくなった。例の、ワッセ、ワッセという御輿を担ぐ音だけは聞こえてはくるが、あまり風情は感じない。

 武蔵野を日々歩く、が、風情のある場所はない。草野天平にこんな詩があった。

武蔵野を歩いて

路は続いてゐる
私は歩いてゐる
小橋の上へとまり
ぽとんと石をおとす
そしてまた歩きはじめる
木蓮の下を通れば
にほひがして
遠くに雲は浮いてゐる
路は続いてゐる

かつてはどこへ行っても小川が流れていた。が、今は暗渠化されて石をなげようにも流れがない。家の上流に行くと深沢、模擬川が流れている。本物の川だと思ってカルガモが泳いでいる。


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2016年11月01日

下北沢X物語(3149)〜会報第124号:北沢川文化遺産保存の会〜

帝国音楽学校
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第124号    
           2016年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、来年度の構想二つ

(1)第三回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会の開催 テーマ 帝国音楽学校

 研究大会を始めて二回目を今年終えた、「シモキタらしさのDNAを語る」は、盛会裡に終わった。ねらいは、街の過去をきちんと遺して置こうということだ。
 時代が急速に進展発展するにつれ街の多くの事象が失われつつある。それを記録し後に伝えることは大事なことだ。
 当初の第一回は、研究大会をとりあえず開こうということで行った。最初から続ける積もりはなかった、しかし、会員、また会員以外でも参加された方の評判は悪くはなかった。今回は丸一日行い、延べ七十名ほどの参加があった。反響がそれなりにあった、このことから来年もこれを実施したい。
 私たちは、会を立ち上げて以来、「下北沢文士町文化地図」を発行してきた。改版を重ね、今は六版を数える。当地に残る芸術文化の痕跡を記したものでこれらを網羅している。が、文化人の居住跡はすべては分かっていない。住んでいたことは分かっているが、どこに住んでいたか分からない作家、詩人、俳人は数多い。
 当地一帯になぜ芸術文化が参集してきたのか。様々な価値を集めたのはここに敷設された新式鉄道にある。武蔵野を走る急行鉄道である。これが芸術文化を育んだ。その一例が最近になって分かってきた。世田谷代田にあった帝国音楽学校である。
 ネット辞書wikiには、その沿革が載っている。「1931年 - バイオリニスト鈴木鎮一らによって設立された」とある。つまりは、昭和六年に創立されたことになる。が、最近になってこの全貌を知った。この学校を研究テーマとしている久保 絵里麻さんを知った。彼女はこの学校の創設から終焉までを丹念に調べ博士論文を書いて芸術学博士号を取得されている。彼女がまとめた論文には「帝国音楽学校年表」を載せている。創立年に関して
  1927年12月 第一次帝国音楽学校創立(校長:福井直秋)
  1928年4月 開校 

 つまり、昭和二年末に創立し、翌年四月に開校していることになる。この創立年は大事だ。小田原急行鉄道が昭和二年四月に開通しているからだ。帝国音楽学校はその世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)のすぐ側に建った。元の地目が大根畑だったところに音楽学校は建った。学校は開業されたばかりの鉄道で繁華な町新宿と繋がっていた。新鉄道で若者を呼び寄せ、音楽学校を開校する。芸術文化の芽ばえが鉄道によってもたらされた。楽器を抱えた若者が来る、教授陣も近辺に住まう、丘上の畑ににょっきりとできた学校からは爽やかな歌声や楽器の音が聞こえてきた。当地の芸術文化の嚆矢ではないか。
 次回は、「代田の帝国音楽学校」をテーマとし、芸術学博士の久保 絵里麻さんに講演をしていただく。その後に当地の芸術文化との関わりについて参加者と語り合いたい。
 期日は八月五日(土)一時半から北沢タウンホール集会室で行う予定だ。前回と同じく世田谷区教育委員会に後援を申請する。地域に宣伝をしていただくために代田地区の諸団体に協力者となってほしい。これを広く募集するものである。

(2)第10回「戦争経験を聴く会、語る会」構想

 毎年、この会を継続してきた。「どうあっても戦争はするな!」という思いから、山の手空襲のあった五月末日に開いてきた。今度は十回目を迎える。が、年々、開催が危ぶまれるようになった。戦後七十一年、経験者が年老いていってじかに生の体験を聞くことは難しくなってきたからだ。しかし、戦争を語り継いでいくことは必要だ。そのためには工夫をしなくてはならない。それで昨年は、「戦争と音楽」をテーマとし、代沢小の協力を得て児童の参加という形を取った。来年は、どんな工夫をするか、戦争物の物語の場面をみなで群読してみてはどうかというアイデアも出ているが。
 これまでこの会は九回開いてきた。ささやかな会だが近代戦争史に光を当てた。第七回目ではテレビ取材が入り、当夜のニュースで流された。長野県松本の浅間温泉で同地から特攻のために九州に移動していくときにその隊員たちは、同宿の疎開児童の女児たちに別れの歌をうたった。その中にオリジナルの歌詞を覚えている人がいて、これが曲として蘇った。大きな感動だった。
 歌を聞いたのは東大原小の疎開学童であり、歌をうたったのは松本に飛行機の整備・改修にやってきた「と号第三十一飛行隊」である。武揚隊である。この関係、すなわち学童らが浅間温泉富貴の湯に滞在していた、そこにやってきたのが武揚隊である。これによってこの存在が明らかになった。ドラマチックなのは、調べの過程で埋もれていた彼らの遺墨が見つかったことで、この隊存在があきらかになったことだ。分かってみるとこの隊は、発足から最後の終戦前に突撃するまで数々の辛酸を嘗めていたことが分かった。悲運、不運を絵に描いたような隊だったことがここにきて分かった。この隊の最後の足取りはある程度分かってはいたのだが、それが具体的に分かった。きっかけは武揚隊の隊長山本薫中尉のご遺族が資料を提供してくださったからだ。その資料をまとめた人は菱沼俊雄氏、なんと新田原から台湾まで武揚隊の誘導機の機長として彼らを案内し、そして、山本隊長が出撃していくところを見送っている陸士の同級生だった。その記録は克明である。襲い来る艱難辛苦を潜り抜け、最後の最後まで思いを遂げようと努力していたことが分かった。
 私自身の案である。「疎開学童機縁の特攻隊」−と号第三十一飛行隊―をタイトルとしたい。なぜかというと学童との接触が無ければこの隊は歴史に埋もれていたからだ。そしてまたこの隊は惨憺たる目に遭って終戦間際まで古びた機体にむち打ち出撃している。彼らの悲惨な道行き、苦難に苦難を重ねたことは全く知られていない。世田谷の疎開学童調べがこの隊の事績を掘り起こすことになった。この調べはまだ続けている。それで疎開学童を通してと号第三十一飛行隊のことが明らかになってきた。なお11月7日(月)2時から第一回の開催準備会を事務局の世田谷邪宗門で開くことにしている。興味ある方は参加を。

2、恒例忘年会のお知らせ

 もう十一月だ、今年もあと僅かとなった。ついこの間、夏の納涼会を行ったと思ったらもう忘年会を行う時期になった。恒例の我らの忘年会だ。
 基本、参加した人が楽しめる会にしようとこのところ夏と冬にはずっと開いている。まずはおいしいお弁当を食べ、好きな飲み物を飲み、各自が持ってきた何か(何でもよい、手作りのパン、自宅近くの名産、亡くなった丸山さんはいつも日の出納豆持参だった)をその逸話ととも味わい楽しむ。そして語り合ったり、しゃべったり、気が向いた人は手品をしたり(今回も作道明さんが披露してくれるだろう)、歌を唄ったり、踊りを踊ったり、(ダイダラボッチ音頭の振りができているやも知れず)して楽しむものである。
 恒例のオークションも楽しめる。家でいらなくなったものを持ってきてみんなに買ってもらってその代金は会の活動費にする。夏に古い切符を持ってきている人がいてそれは忘れてしまっていた。楽しめるもの持ってきてほしい。

 日時、12月3日(土) 五時半から 場所 北沢タウンホール二階集会室
 参加費 3000円 会員、非会員誰でも参加できる。
 お約束の一人一品持参のこと(義務ではない)、オークション品(自宅に何かあれば)
 申し込み締め切り 11月30日(水)までに米澤邦頼に090−3501−7278
○「信濃屋特製」豪華お弁当がつく、必ず連絡を


3、改訂七版「下北沢文士町文化地図」について

 世田谷区の地域の絆予算が当会に下りている。年度内には発行する。改訂作業を行いたい。まず、表面の左で、「帝国音楽学校」について紹介する。これは芸術学博士の久保絵里麻さんに依頼してある。また最近の版では古写真を掲載している。できれば次版では、Austin さんが戦後直後に撮った下北沢の街の写真を使いたいと思っているが写真版権の問題をクリアーしなければならない。
 工夫としてはただ旧跡があったということだけではなく、創立、廃校を西暦で小さく入れることをしたい。地図に入れておいた方がいい情報についてはぜひ連絡を

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く(テーマ 女性…新しい時代の風)
 案内者 松山信洋さん
 下北沢文士町と縁の深い、萩原朔太郎、三好達治、宇野千代旧居などを巡る。
大森駅西口→尾崎士郎記念館→山王草堂(徳富蘇峰)→北原白秋旧居跡→山本周五郎旧居跡→尾崎士郎・宇野千代旧居跡→三島由紀夫邸→萩原朔太郎旧居跡→川端龍子美術館→村岡花子邸


・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の戦後カラー写真跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。
・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
 田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
 十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
 芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館
・第125回 2月18日(土) 午後1時 京王線烏山駅改札前
 烏山寺町を歩く  仙川地図研究会 和田文雄さん案内

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲会友のもと、近隣地方の旅は?毎月歩く会を実施している。当初は、ほとんど自分でコースを決めて行ってきた。が、この頃では案内者が育ってきたので私はコーディネーターに徹している。案内者と連絡を取り、大筋を決めてこれを会報などで広報する。120回も行ってくるとアイディアが枯渇してくるときもある。そこで考えたのが会友のもとへの旅である。幸いにお誘いがある。まずは、山梨の矢花克己さんのもとへだ。まず春、4月15日には桃の花と山梨の歴史を訪ねようかと。車組と電車組の二つに分ける。車については不足するなら出してもいいと申し出がある。来年の話だが「行くよ」という人は希望だけでいいので伝えてもらいたい更には埼玉ときがわ町の松原征男さんからの。「来年、『有志芳』10号発行当たりで、何かやれればと思っています。その頃か、秋日和においでいただければ田舎を楽しんでいただけると思います。」とのお誘いがある。
▲会員は各自文化活動を行うことができる。ちょっと劇みようよ。ちょっと歩こうよ。などと思ったら、その企画をこちらへ送ってほしい。そのアイディアを実現するために広報したい。このところの広報手段としては、ブログ、フェィスブック、当会掲示板、メルマガを使っている。掲示板は「北沢川文化遺産保存の会」と検索を入れれば「F2C」と出る、これは誰でも自由に書き込める。ぜひ使ってください。
▲行事保険は毎回掛けているが、実数把握が難しい。その手続きも難しい。引率の範囲で事故防止ができるのであれば参加者が少ない場合は掛けなくともよいのではと思う。
▲当メール会報は会友に配信しているが、迷惑な場合はご連絡を。配信先から削除したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(掲示のイラストは帝国音楽学校の校舎イメージ図。きむらけん作成)



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2016年10月31日

下北沢X物語(3148)〜武蔵野の音の文学論供

P1040889(一)音の文化史は興味深い、が、音は消えていく運命にある。それでも外国人の旅行者が思いがけず紀行などに日本の音を残している。それが『明治の音』(中公新書)として著わされている。「西洋人が聴いた近代日本」である。では日本人は音を残さなかったのか、そんなことはない。日本近代文学の中に音は多く隠されている。一例で言えば鉄道の音だ、明治以降の作品の中にこれが多く隠されている。これを拾っていけば『音の鉄道文学史』ができあがる。が、残されているのは機械音だけではない、独歩『武蔵野』には自然音が記録されている。武蔵野の音だ、これは彼に限らない、むしろ徳富蘆花はもっと敏感だった。独歩、蘆花の音、その音色の向こうに膨張する都会が見え隠れする。
 
 彼らのそれぞれの住まいは今日の道路で言えば前者は渋谷区の環状六号、後者は世田谷区の環状八号沿線であった。東京都市は膨らむ、六号、七号、八号と。よって彼らの都会との、距離、間合いが興味深い。彼らが都市をどう聴いていたが聞こえてくる。柳田国男は独歩は都心に背を向けて武蔵野に入り込んで行ったという。背後に都市の音を聴いていたということだ、その喧噪や騒音から離れて武蔵野を歩き回った。都市忌避ということはあった。

 一方、徳富蘆花は都市から距離を置いて東京府下北多摩郡千歳村粕谷356番地に住んだ。明治末年から武蔵野のまっただ中に住んだ。が、彼はここで『みみづのたはこと』に記す、「東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場の汽笛なぞが、近来明け方の夢を驚かす様になった。」と、自然の音を聴いて暮らしていた中に都会のざわめきが聞こえてきた。自分を脅かす音である。こうも彼はいう。

 東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。


武蔵野の自然に囲まれた千歳村粕谷も遠い東京のざわめきが段々大きく聞こえてくるようになった。「京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。」ともいう、東京から線路が押し寄せてきた。トンテンカン、トンチンカンと工事の槌音も響いてきた。
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2016年10月29日

下北沢X物語(3147)〜武蔵野の音の文学論〜

deb37b5a.JPG(一) 脳という世界は茫漠としているに違いない。それで人はつかみ所を探してきた。そうしてできたものが言葉である。この記号によって世界を構築してきた。そのつかみ所は言葉だけではない音もそうである。ある間隔ごとに発せられる音はつかみ所である。その一例はカダンスである。汽車に乗るとこの音が聞こえる、これは人々の思いを刻んできた。そこに私は歴史があると思う。「音の鉄道文学史」は年来のテーマである。

 夏に古老の経験を聞く会を持った。北沢の三十尾生彦さん、九十三歳はかつては街中に多くの物売りの声が聞こえていたと。
「いわしこー、いわしこー」
 東京湾で採れた鰯を売りにきたそうである。辻を巡っていく売り声が響いていったという。納豆売りもそうだった。代田に住む詩人三好達治が書いている。多くはアルバイトの新米が「なっとう、なっとう」と声をあげて通っていく、が、あるとき渋い声の納豆売りがいて聞き惚れたという。その頃、代田ではマンドリンを路地路地でつま弾いていく人がいた。永井叔である。子どもらが彼を追っていった。

 さて、我々は今この地域一帯で何の音を聞いているだろうか。時節も時節だ、夜になると虫の音が聞こえる。が、これとて昔ふうののどかなものは聞こえない、アオマツムシという外来種が今は多い、これは風情がない。

 国木田の『武蔵野』に見られる音の記録、ここでは明治末の武蔵野にこだまする音を文学に拾っている。これを繙いてみる。

 鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車ま荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪い、切株に腰をかけて書を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹のきもずいぶん多いから。


自然の音が身近だった。鳥の啼き声、風の音、そして虫の音などは音の風情だった。生活音もまた想像を刺激した。荷車が通っていく、その音で空車かどうかが分かる。からからという音が聞こえている。音が低くなると林に入ったのだ、また音が速くなると坂路入ったことがわかる。

 ときとしてぶるぶると馬がしゃっくりをする音が聞こえる。蹄で落葉を蹴散らすのはどんな音か、バシャルル、バシャルルと聞こえたのだろうか。駒場辺りの騎兵が付近を歩き回って訓練しているのだろう。外国人の夫婦づれの乗馬の場合は騎兵と違って静かであるように思える。

 村人のだみ声が通っていく、かさかさと今度は女の人のゲタの音。響きで人のこころもちが分かる。この人は寂しそうな人だと。

 このところ家の庭の柿も色づいてきた。今日、会報を印刷して持って行くときリュック一杯に背負っていった。これがまだ青いときによく落ちた。夜中にどさりと大きな音を立てる。柿に比べるとどんぐりは小さい、しかし静かあれば驚くような音を立てるのだろう。

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2016年10月28日

下北沢X物語(3146)〜一にも二にも三にも武揚隊〜

CCI20140511_0011(一)インターネットは広漠とした宇宙だ。微細な単語が億万、億兆も漂っている。これに検索語を入れると青い光がまっしぐらに走って語を捉える。そしてそれを得たとたんに画面に情報が映し出される。このところ一つの情報を追っている。この執念は自らの意志ではなくて何かが取り憑いてつき動かしている、そんな不思議な感懐を持っている。もしかして浮かばれざる怨念が取り憑いているのではないか。


 一つ一つが分かってくるにつれ、彼らの魂が自分を呼んでいるように思う。武揚隊探訪、追究はもう執念となってしまっている。かねてより知りたかったことがそれによって一気に解明したからだ。この隊を追って九州新田原まで行った。彼らはここから台湾へと飛び立った。足取りを追えたのはここまでだった。その先はどうだったのか?

 つい最近、この隊の隊長宅に残されていた手記が送られてきた。文字がびっしりとかかれている。ここに新田原以降の足取りと、そして最後のありさままでが克明に書かれている。近代戦争史の貴重な記録である。これによってかねてから抱いていた疑問が解けもした。が、分かるとまた新たな疑問が湧いてくる。

 この武揚隊、兄弟隊の武剋隊と同じく、大本営直轄部隊、「十一コ隊」の二隊である。後者には整備兵が搭乗していて満州新京から沖縄までの記録が担当の曹長によって書かれている。あっちにもいればこっちにもいる。やはり武揚隊にも整備兵がついていたに違いない。それは合っていた。彼ら両隊の機種は九九式襲撃機である。複座で、偵察員席がついている。武剋隊の場合はこれに整備員は同乗していた。

 ところが武揚隊の場合は、違っていた。別途専用の輸送機がついていたという。この機種名まで記されている。一式双練である。

 この両隊は運命を分けている。采配を揮ったのは若き隊長だ。行程管理ということはあった。その場合の選択肢として同乗させる場合と別誂えの輸送機を選択できたということだ。自由裁量だった。

 昨日、武揚隊の飯沼伍長のお姉さんに電話で話を聞いた。
「もうあんまり覚えていないのですよ」
 彼女はそういった。が、どうしてどうして新しいことが次々に分かった。
 戦後、松本の彼女の実家に整備員がお悔やみに訪れたという。分かったことは台湾まで彼らはついていっていたということだ。
DCIM0067
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2016年10月26日

下北沢X物語(3145)〜旧熊谷飛行学校館林分校へ掘

DSCN0023(一)風景は在るのではなく創っているものだ。人が自分に取っていい風景を見たいというのは願望である。よって風景は自分の思いに沿って存在する、が、注意を要するのは時代時代の空気である。過去と現実とでは人の風景に対する思いは違う。現代風景論ということは成り立つ、とするなら戦時風景論も成り立つ。ここには大きな乖離がある。戦争の聞き書きの過程で松本一中に在籍していた人に会った。往事の彼らの感覚は、「人生二十五年」というものだった。戦争に行って飛行機乗りになって散り果てる、彼はそう願望していたという。松本平のアルプスと青空とは一層に輝いていたようだ。飛行場に動員されたとき機銃痕生々しい穴だらけの戦闘機屠龍を目撃した。自分の死を予感させる具体物だったと。

 熊谷飛行学校、館林分校ではいわゆる学徒出陣組の特操二期の飛行訓練が行われた。この二期は、促成教育で戦争に間に合った組だ。それで多くが特攻機に乗って死んでいる。ここで学んだ長谷川信、上原良司もこの組だ。

 (昭和19年)2月8日相模原教育隊に入校式があり、グライダー教育の上、3月24日午後4時電車で館林教育隊に到着、26日飛行場説明、27日飛行訓練開始。訓練は中練で、午後5時開始。8ヶ区隊400人が、操縦と学科に別れて交代実施。操縦は楽しく、1週間で単独飛行に入った学生もいた。
館林の空 : 第30戦斗飛行集団館林集成教育隊 堀山久生編著 2002年刊

 特操二期生の四百人がここで操縦を学んだ。「1週間で単独飛行」に上原良司も入っている。彼の「三月二十四日」の日記にはこうある。

 下を見ると、まるで五十万分の一の地図に色をつけたようだ。実に美しい。人間の住む地上がこんなに美しく見えたのは初めてである。この時、良くぞ空に来にけるかなとしばし茫然として見惚る。小泉町の中島飛行機製作所が見える。利根川は足下だ。実に痛快極まりない。
 『ああ祖国よ 恋人よ』 きけ わだつみのこえ 上原良司 昭和出版 1985刊


 人間は、驚嘆すべきものとの出会いは一回しかない。初めて海に出会ったとき、初めて大空を飛んだとき、一般人はせいぜい海ぐらいだが、飛行機乗りは違う、自分で空を飛んだときの感動は忘れがたいものだった。しかし、これを味わえるのはごく少数である。彼らはエリートだった。

 子供の頃は男の子であれば誰もが乗り物に憧れた。機関車、船、そして飛行機だ。飛行機に乗って死のうとして操縦士になったわけではないだろう、が、戦争に間に合った組は人間爆弾として飛行機で行かされた。悲劇である。

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2016年10月25日

下北沢X物語(3144)〜旧熊谷飛行学校館林分校へ供

DSCN0021(一)(一)館林では多くの人に会った。そのうちとある人から奇妙な話を聞いた、彼は多くの人が犠牲になっているのに記録が一切されていないものがあると。「桐生高女の連中が知覧に行っていたそうなんだけど折からの爆撃で何人も犠牲になった。私は『飛燕』に乗っていたという人から聞いたのですけどね。その記録がないのですよ」。なぜ群馬県の女高生が知覧に行っていたのか、理解できない。
「そんなことはあったのですか……?」
 この話、真偽は明らかでない。


 この話は別にしても事実がありながら記録されないものは数多くある。それをせめては記録しておこう、その思いはある。と号三十一飛行隊はまさにそうである。その行程は惨憺たる有様だった。悲運、不幸、不運の連続だった。が、めげることなくあの浅間にいた山本薫、武揚隊隊長はその波乱と必死に闘っていたことがより鮮明になった。

 戦争時代の夢を私は見ているのではないか?昨日もこういうことがあった。
 館林分校へ行ったのはと号第三十一飛行隊隊員を偲んでのことだ。帰ってくるとこの隊の新田原以降の消息を子細に伝える手記、四国の山本薫隊長のご遺族から送られてきた。かなりの分量だが一気に読んでしまった。驚くべき顛末だった。

 手記の巻末には地図や隊員の住所まで記されていた。五來末義軍曹のもあった。彼こそは武揚隊の行方を探り始めた発端になった兵士だ。「同じ任務についていている者で富貴の湯に泊まっていた」と書いてあったことが手がかりになって調べ始めた。キーマンである。この場合、こんな手がかりがあるのなら放置できない、性分である。

 彼は茨城県久慈町出身だ、今は日立市に編入されている。まず区役所の支所に電話をした。
「個人情報は開示できないが、旧住所が今のどこに当たるかはお教えします」とのことでその新住所の開示を得た。

 つぎにネットでその住所近くにあるお店を調べる。すると二番地違いで五来クリーニング店が引っかかった。恐る恐る電話を掛けてみる。ところが、相手は思いがけず親切だった。
「ここら辺りは五来という苗字はいっぱいいます」
 五来姓密集地帯だった。
「しかし、番地が分かっているのであれば調べてあげますよ…」
 親切な方だ、実際その場所に行かれたらしい、しばらく経って電話があった。何とその係者を見つけてくださった。
「おおみか町に転居されています。では電話番号を…」
「ああ、ちょっと待ってください」と大慌てでそれをメモする。
 相手の電話番号は分かった。さてどうするか。
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2016年10月23日

下北沢X物語(3143)〜旧熊谷飛行学校館林分校へ〜

DSCN0015(一)とある兵士の言語感性に刺激されて小さな旅をした。彼は手記に「あと、死ぬまでに俺の心はどこまで荒んで行くことか。日本民族は果たして。」と書いた。その日付は昭和十九年四月二十四日である。場所は陸軍熊谷飛行学校館林分校である。彼はここで哲理を巡らした。この同じ場所にもう一人がいた。つまり二人だ、「きけ わだつみのこえ」の鋭い戦争批評している双璧だ。ともに手記では言葉が輝いている。前者は長谷川信であり、後者は上原良司である。ともに特別操縦見習士官としてここで学んでいた。すなわち陸軍飛行学校館林分校である。

 悲運のと号三十一飛行隊の隊員の足跡を求めての旅でもある。昨日、ふと思いついての旅立ちだ。よき日を卜して行ったわけではない。ところが、幸運だった。跡地となっている学校ではちょうど具合良く文化祭が催されていた。誰も彼も自由に校内に入れる日だった。関東短期大学の「アザリア祭」である、受付にずらりと並んだ若い女の子が皆揃って笑顔で「いらっしゃい!」と。思わず顔をほころばせる。

 当方のお目当ては催しものにはない。ただ一つ給水塔である。旧軍時代の建物配置図を見ると食堂・酒保、浴場のわきに給水塔とある。これは後の聞き込みで分かってくるが、地元から古く住んでいる人にとってはランドマークだった。

 当地は、陸軍館林飛行場でもあった。彼らはここで飛行訓練をした。
 飛行機操縦訓練の初歩においては「場周感得」というものがある、助教が操縦席に乗り、訓練隊員が偵察員席に乗る、すると「飛行場周囲の状況をよく把握しておけ」と助教が指示をする。建物や橋、川などを観察する。このときの覚えに必ず入ってくるのがこの塔であった。

 事前の調べからすると校内にその給水塔が残っているようだった。が、どこにあるのか分からない。警備に立っていた職員に聞いた。が、要領を得ない。そでも会場を巡り歩いた、すると比較的年配の人がいた。彼も分からないという。が、その当人
「あれかな?」
 思い当たることがあったようだ。彼は先に立って歩いて行く、先の方は一般人立ち入り禁止とされている。そこを構わずにずんずん入っていく。そして、建物の裏側にでる。
「もしかしてこのことですか?」
 彼が指さす建物は丸みを帯びた塔があった。
 そこには三層からなる丸みを帯びた高い建物が建っていた。
「ああ、これ、これ、これですよ!」
 熊谷飛行学校館林分校の遺構である。思いがけず高く大きい、私は深い感銘を覚えてこれを見上げた。
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2016年10月22日

下北沢X物語(3142)〜第十回「戦争経験を語る会・聴く会」構想供

s_MG_0903(一)彼は極めて鋭く戦争を批評している。「今次の戦争には、もはや正義云々の問題ではなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ」と言い放つ、続けて彼はこう述べる、「敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう」と。そして、この締めくくりは「恐ろしき哉 浅ましき哉 人類よ、猿の親類よ」である。彼は、敵意、憎悪の爆発が戦争だと言う。この言語感性に優れた彼は、と号第31飛行隊の一員、長谷川信少尉である。「きけ わたつみのこえ」は彼の日記を収録している。
 
 動員学徒の長谷川信は見習操縦士官としてこの隊に加わっている。と号第31飛行隊は不運の連続だった、彼自身、出撃すべく九九式襲撃機に搭乗し基地のある台湾に向かう、その途中不運にも敵機に遭遇し与那国島付近で撃たれ戦死してしまった。この場合は一般戦死で知覧特攻平和会館には記録されない。気の毒だ。

 彼は九州新田原基地を飛び立つとき手紙やノートなどをここから会津若松の自宅に送った。それでこれが残っている。「きけわたつみのこえ」にはこの一部が載っている。

 俺は人間、特に現代の日本人の人間性に絶望を感じている。恐らく今の人間ほど神から遠ざかりかけはなれた時代はないと思う。そしてこれから将来、宗教が重んぜられる日というのは果たして来るであろうか。
 新版「きけ わだつみのこえ」 日本戦没学生記念会編 岩波文庫


 昭和十九年四月二十六日の日記の一節だ。戦争のまっただ中のことだ。この頃彼は熊谷飛行学校館林分校に在籍していた。飛行操縦理論や実習などを行っていたのだろう。日々を懐疑的に過ごしていた。

 彼が今生きていたら、現今の「日本人の人間性」について何と言うだろうか?彼の鋭い批評精神は採録されたものを見て非常に優れていると思う。これは日記からの抄録である。もしかして浅間滞在中のことなどもそこには書いてあるのではないか?その元となった手帳が読みたいと思った。

 「きけ わたつみのこえ」は、旧版で読んだ。これには実家の住所が書いてあった。電話番号調べで聴くと、そこに長谷川姓の人が住んでいるという。
 恐る恐る電話を掛けてみると彼の実家だった。手帳の存在を聞いたら、資料はすべて「わだつみのこえ記念館」に寄贈したという。
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2016年10月20日

下北沢X物語(3141)〜第十回「戦争経験を語る会・聴く会」構想〜

IMG(一)来年、5月27日に第10回目の「戦争経験を聴く会、語る会」を開催する。下北沢東京都民教会は既に予約している。次回は十年目、大きな節目となる、意義深いものにしたい。この十年を振り返るとキーワードが幾つか出てくる。頻出した語は、「疎開学童」、「特攻隊」である。偶然に疎開学童の調べから特攻隊に行き着いた。それは近代戦争史の知られざる事実であった。その特攻隊というのは武剋隊であり、武揚隊である。この前者には歴史のスポットが当たっていて多くが記録されている。ところが後者はとてつもない苦難の道を歩いていた。が、すっかり歴史の中に埋もれてしまっている。そこでテーマとして思いついたのが「疎開学童ゆかりの特攻隊-と号第三十一飛行隊」である。

 このところ、この武揚隊の隊長山本薫中尉の関係者に連絡が取れたことから、シリーズで記事を書いた。「波瀾万丈のと号第31飛行隊」である、ここに武揚隊情報をとの呼びかけをしていた。これに対し早速に反応があった。池田宗祐さんからだ。

突然のメール失礼いたします。
武揚隊の記事、一気に拝読させていただきました。
私は武揚隊の一員であった高畑保雄少尉の妹の孫であります。
かねてより大叔父の足跡を辿ろうと様々な資料を読みましたがよくわかりませんでした。また、何故台湾からの出撃だったのかも。
今、一気に拝読して長年の胸のつかえが取れた気がいたします。
ありがとうございます。
早速祖母にも紹介いたします。
きっと涙するに違いありません。


 知覧特攻平和会館から得た自身の手元の資料にはこうある。

昭和20年5月17日 八塊から3機出撃。慶良間周辺に2機、高畑少尉、五来軍曹 突入散華。(高畑機には飛行第108部隊の宮崎義次郎伍長同乗)

 ゆかしい名前が出てくる。五来末義軍曹だ。この彼は武剋隊時枝宏軍曹から言づてを頼まれた。昭和20年4月3日の出撃時のことだ。この手紙に「自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹です。富貴の湯にとまっていました」とあった。大きな手がかりだ。これがなかったら恐らくは彼らの記録はほとんど日の目をみることはなかったろう。
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2016年10月19日

下北沢X物語(3140)〜文士村&文士町:比較文化論〜

DSCN0009 (一)文士村と文士町を比較することで見えてくるものがある。まず広さということは大事だ、「田端の約1キロ四方の地域では、およそ半世紀にわたって100人あまりの文士芸術家がさまざまな人間模様を繰り広げていったのです、しかし、その後昭和20年(1945)4月13日の大空襲で被害を受けたことにより、『田端文士芸術家村』は終焉を迎えた」とある。
 
 言えば大正期から昭和に掛けての時期が全盛期だった。そこには文士が芸術家が密集して住んでいた。人と人との関係が濃厚だった。この場合、文士よりも芸術家が多かった。が、文士村としての始まりはやはり芥川龍之介だ。彼は大正三年に当地に越してくる。

 講師の原敏彦さん、資料に近藤富枝『田端文士村』を引いている。

 芥川は田端の王様であった。眩しい存在であった。誰もが彼を愛さずにはいられないほど才学秀で、誰にも優しく、下町特有の世話好きの面もあり、懐かしい人だった。その代り、彼の前に出ると、何時の間にか自分は吸い取られ、新しい人間に生き返らされている。しかしそうした結末は当人は喜び、新しい衣服を選ぶ心理で、いっそう芥川を愛したというんのが、芥川家に集った大方の文学志望者や芸術愛好家たちではあるまいか。


 先だって、「ミドリ楽団物語」を取材するに当たって築地の聖路加病院に行った。この楽団が、病院に慰問している米兵を見舞った。初めての慰問演奏である。彼らが演奏したのその場所は残っていた。病院の旧館として使われているところだ。この側で意外なものを見つけた。「芥川龍之介生誕の地」という看板だ。なるほど下町で生まれたのだった。彼が下町育ちで世話好きだった、よくうなずける。人間同士の下町的な繋がりが当地にはあった。山の手下北沢の場合はそこは薄い。

 互いの人間同士の行き来は大きい、田端の王様を慕ってここの住人になる。洋画家の小穴隆一もその一人だ。作家と無二の親友となった彼は、芥川の著書の装丁を手がけるようになる。住んでいるものどうしの結びつきがここでは深かった。

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2016年10月17日

下北沢X物語(3139)〜田端文士村を歩く2〜

DSCN0011(一)生活の場となる共同体を村という、まさに田端文士村はこれを形成していた。その場が狭い、それだけ人と人との関係性が濃密である。関わりが深い。特徴的なことはジャンルが多様であることだ。その核になるのが芥川龍之介だった。

 大正三年、東台通りに芥川龍之介一家が移ってくるに及んで、田端はに俄に文士村と化し、作家の往来が目立った。ことに芥川の書斎澄江堂は、彼を慕う新進たちで賑わった。そして龍之介を囲繞する文士文人群と美術家群との間に、大正期特有の人情豊かな濃密な交流がはじまった。


 「文壇資料『田端文士村』」(講談社)は近藤富枝の名だたる名著である。彼女は龍之介を中心とする村の様子を簡潔に描いている。この村での「濃密な交流」は時代性ゆえということはあるだろう。新進の文人や芸術家、多くは地方出身だ。誰もが田舎を引きずっていた。昭和期文学のように、敢えて武蔵野の一軒家に籠もって文学開拓などというのは思いもつかなかった。共同体という村は自然にできたものだろう。

「近藤 富枝さんは、この間、亡くなりましたね」
 講師の原敏彦さんが言う。調べるとそれは7月24日だった。何年か前馬込文士村で講演会があったときに行った。そのときに「下北沢文士町文化地図」をさし上げたことがある。馬込から数名が下北沢に言ったことを話したら興味深そうに聞いておられた。調べると彼女自身、田端の住人だった。くだんの『田端文士村』の冒頭だ。

 東京府豊島郡滝野川町字田端は、明治の末には一面の畑である、何の変哲もない田舎町に過ぎなかった。 

 武蔵野北端の丘陵地帯は、大根畑や麦畑が広がっていた。やがてそこに美校生などの学生が屯するようになる。そこに現れたのが才気豊かな芥川龍之介だった。彼には、「田端人」というエッセイがある。隣近辺との濃密なつきあいの様が描かれている。
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2016年10月16日

下北沢X物語(3138)〜田端文士村を歩く〜

DSCN0005(一)文学とは何か?純粋に文字だけを通して思いを伝えるもの、その一本勝負だ。今般、ノーベル文学賞の報を聞いた。理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」と。これをこぞって評価する向きもある。歌を伴った詩は、純粋文学という観点からすると違和感を覚える。田端ゆかりの作家は芥川龍之介だ。彼の作品『羅生門』、は「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていたた」に始まり、「黒洞々たる夜があるばかりである。/下人の行方は、誰も知らない。」で終わる。下人は死人の髪を抜く老婆から衣服をはぎ取って闇に消える、人間の深い欲望の闇を巧みに描いている。言語表現だけで人間世界を巧みに描いてそっと我々にこれを提示している、言語文学の豊穣さがここにはある。

 昨日、第121回街歩きを実施した。原敏彦講師による「田端文士村」である。路地路地を行き説明を受ける、ここでの文士同士の関わりは濃密だ。知っている人も出てくるが知らない人も出てくる、有名無名の人がここで交じりあった。人間がぶつかって文学や芸術が創造され、創作されたことがよく分かった。彼の博識と博学が生きた道案内だった。

 田端で一番面白いのは地形だ。高崎線や山の手線などの鉄道線路が俯瞰される。行き交う電車や列車が見られる。我々が集まったのは南口だった、道潅山続きの高台で線路が見下ろせる。宮本百合子は近くの駒込に住んでいて、ここに汽車を見にきたようだ。

 私たち子供達が田端の汽車見物をしたのは、その坂を下りず、草道を右にきれた崖上であった。ころがり落ちないような柵のあるところで、一人の女の子とそれより小さい二人の男の子とは、永い永い間、目の下に活動する汽車の様子に見とれた。汽罐車だけが、シュッ、シュッと逆行していると、そのわきを脚絆をつけ、帽子をかぶった人が手に青旗を振り振りかけている。貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。


 「田端の汽車そのほか」に描かれたエッセイである。女の子なのだが男の子といっしょになって一心に汽車を見ている。田端ならでの光景だ。

 汽車と文学は私には興味深い問題だ。丘上から汽車の通る風景が見られる、それで田端に来たという文士や芸術家もいたのではないだろうか。
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2016年10月14日

下北沢X物語(3137)〜終章:悲運のと号第31飛行隊〜

s_MG_0885(一)疎開学童の調べがきっかけとなって戦争史の一端が明らかになった。偶然に武揚隊のことを知った。このことで語としての「武揚隊」をネットに多く流すことになった。これが検索によって拾われた。知り合いから正体のよく分からない和綴じ帳の調べを頼まれた人がいた。彼は、「信州 武揚隊」と入れた。すると私のブログが引っかかった。安曇野の丸山修さんだ、彼と繋がり、さっそくにメールで資料を送ってもらった。そのPDFを見て即座に分かった。武揚隊隊員の遺墨だということが。特攻出撃をするに当たっての感懐が記されていた。浅間温泉に彼らが滞在していたことの明白な裏付けとなるものだった。

 と号第31と32飛行隊は明暗を分けた隊だ。この兄弟隊は浅間温泉に一月余滞在する。両隊は誠隊、第八航空師団所属ゆえに最終的には台湾に飛ぶことになっていた。乗機の九九式襲撃機は当地で爆装改修を行った。

 沖縄航空戦は「天号作戦」と呼ばれる。日米決戦に備え、師団は「台湾航空基盤強化の促進」を図った。その一つが「特攻機の性能、特に航続力、爆弾搭載力の向上」だ。この一環として松本飛行場に飛来してきた誠隊は爆装改修を行った。

 飛行機の後続距離増加の一例をあげれば、軍偵の胴体タンクがある。すなわち軍偵により台湾から沖縄を攻撃するには石垣か宮古を中継地点とする必要があったが、夜間行動のために不要となった機上火器等を取りはずして、後方座席のうしろに増加タンクをつけ、台湾の基地から直接沖縄を攻撃できるように改修した。
『戦史叢書」』 沖縄、台湾、硫黄島方面 陸軍航空作戦
 (防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社 昭和45年


 誠隊全般に及ぶものだが、軍偵と表現しているところをみれば具体的な機種が想定されている。すなわち九九式軍偵察機、九九式襲撃機のことを言っている。台湾から沖縄直接攻撃は距離が長いので途中、中継地で燃料補給をする必要があった。が、これを改善するために機銃などの火器を下ろし、燃料タンク増やし、沖縄直行ができるようにした。ねらいは台湾から九九式襲撃機をじかに前線に送り込むことにあった。

 「第八飛行師団が中央から配属された特攻11コ隊は当初、全部台湾に前進させる計画」だった。その一環としての爆装改修だった。かてて加えて搭載爆弾の威力の増大、250キロ爆弾ではなく、500キロ爆弾の積載をも図った。武揚隊、武剋隊は中央配属の十一コ隊の二隊だった。彼らは大きな使命を背負わされていた。
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2016年10月13日

下北沢X物語(3136)〜疎開学童と九九式襲撃機:機種機縁〜

CCI20161013_0000(一)と号第31と第32飛行隊の飛行過程には深い興味を持っている。満州新京から沖縄や台湾をめざすのになぜ信州の山奥にこれらが飛来してきたのか、大きな謎である。段々分かってくるにつれ特別攻撃隊員と世田谷の疎開学童とが深く接したのは機種機縁にあったのではないかと思えてきた?九九式襲撃機である。

 満州新京で編成された特攻四隊は、機体を改造する必要があった。それぞれどこで爆装するかあらかじめ決められていた。

 四隊は二月十一日(旧紀元節)に関東軍総司令官山田乙三大将、第二航空軍司令官板花義一中将、関東軍参謀武田宮恒徳王中佐ら臨席のもとに、新京飛行場で編成式を行った。爆装は扶揺隊が奉天航空廠、他の三隊が岐阜の各務原で実施した。
『戦史叢書」』 沖縄、台湾、硫黄島方面 陸軍航空作戦
 (防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社 昭和45年


四隊各隊の搭乗機種は、扶揺隊が九七戦、蒼龍隊は一式戦、隼、武揚隊と武剋隊の二隊は九九襲であった。知覧特攻平和会館の館長だった板津忠正さんに生前なぜ彼らは各務原まできたのかと問うたことがある。「特攻機は母港、作られたところに戻って改修することが多かった」とのこと。『戦史叢書』の付録図表を見ると、一式戦は中島飛行機、立川飛行機となっている。各務原である必要はなかった。が、九九襲は三菱航空廠とある。これは各務原にあった。ここへやってきた必然性は高い。

 結局、各務原で爆装を予定していた三隊は、折からの名古屋空襲に危険を感じて武揚隊、武剋隊は内陸部の陸軍松本飛行場に飛んだ。蒼龍隊はどこで改装したのかわからないが四月一日に新田原から出撃している。早くに改修を終えたように思われる。

 松本に飛んだ二隊はここで改修に取り掛かる。各務原から三菱は当地へ疎開してきていた模様である。それでここで作業がなされた。
 
 九九式襲撃機は、他と比べると特殊である。すなわち、「戦闘機と爆撃機の合いの子」だとこの機を設計した技師は語っている。「九九式襲撃機の爆弾搭載量は、50キロ爆弾4発または15キロ爆弾12発」(雑誌、『丸メカニック 九九式襲撃機/軍偵察機 35 昭和57年発行)だった。つまりは200キロが普通に装着できた。「爆弾はいずれも両翼下面に装備し、胴体には搭載しない」と。また、さらに「九九式襲撃機は特攻機としても使用されたが、この場合は250キロ爆弾を搭載した」という。
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2016年10月11日

下北沢X物語(3135)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊此

CCI20161011_0000(一)偶然的なことから松本に飛来してきたと号第31、32飛行隊のことを知った。代沢小の疎開学童の一人、立川裕子さんを病院に見舞ったとき意外な話を聞いた。「私は今西さんにはお歌を書いていただきました。それは満州国皇帝にいただいた恩賜のたばこを包んであったものです」と。浅間温泉千代の湯でのことだという。なぜ彼らは満州国皇帝にそれをもらったのか?この意味は全く理解できなかった。しかしこのことは次第に分かってくる。彼らは満州新京で特攻編成を行っていた。このときに皇帝に謁見し、恩賜品が下賜されている。それが煙草だった。遺墨の現物は世田谷平和資料室に寄贈したという。その品は訪ねて行って見ることができた。彼女が言うとおり絹でできていた。この収蔵品は書庫に眠っているままだ。これらを含めて特別展を開いてほしいと思う。しかし、そういう企画は恐らくはされないだろう。彼女は亡くなるとき知覧特攻平和会館に寄贈すればよかったと。

 このところかつて二子玉川小の疎開学童だった鈴木昌二さんと連絡をする機会があった。世田谷平和資料室は館になって再発足した。が、室時代から感じていたことだが収蔵品の整理は行き届いていない。鈴木氏も同感だった。頂いたメールにはこうあった。

 余りにも整理がなされておりませんですし、私が取り次いだ他二点についても直ぐには見せて頂く状態ではありませんでした。悲しいかぎりです。その後所管であります生活文化部 人権・男女共同参画担当課 若林課長に資料館充実のお願いをして参りました。


彼は世田谷区の議員だった。そのOBで会館に視察に行かれるとのことだった。疎開学童関係の特別展などはぜひやってほしいと彼には伝えておいたが。

 二子玉川小も浅間温泉疎開組だ、ここには武剋隊の少年飛行兵が宿泊していて学童との深いつきあいがあった。後半組の彼らは疎開女児に人形を作ってもらってそれを特攻機の乗せて松本から飛び立っている。昨年、十月、長野県護国神社に特攻勇士の像が建立された。ここに世田谷の疎開学童と彼らとのふれ合いが石碑に刻まれた。疎開記念碑はこれだけかと思っていたが二子玉川小はゆかりの学校に「学童疎開の碑」を建立していた。去年の十一月のことだ。碑文の文言である。

 アジア太平洋戦争のさ中、東京都二子玉川国民学校の児童は戦渦を避けてこの地に疎開しました。私たちは苦難に耐えた子どもたちの記憶と、村に児童を受け入れ、困難な時代をともに乗り越えた人々を決して忘れません。

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2016年10月10日

下北沢X物語(3134)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊后

DSCN0001(一)歴史とは際立ちである、その点特攻はもっともこれが鮮やかだけに好まれる。しかし、知るにつれ国家の作戦としては酷いと思う。これが異常だと思いつつも食い止められなかった。昨日の新聞書評で「特攻 なぜ拡大したか」(大島隆著 幻冬舎)が取り上げられたと知人のきむらたかしさんが知らせてくれた。「集団心理からの負の連鎖」との批評、「巨大な負のスパイラルだ、たとえ次元は違っても、今日の我々がなお、この集団心理を日常で無意識に内面化し、再生産していないか」と問うている。特攻作戦を醸成する風土は今もこの国家に根強く残っていると。いわゆるガバナンスの欠如が今大きく問題にされているが、特攻を編み出した国家全体の縦割り組織、負の連鎖を生み出す仕組みは今なお温存されている。侵入してくる敵に竹槍で刃向かえ、金玉を蹴り上げてでも本土を守れとの本土決戦的思考、これは今も根強く目に見えない綾として根付いている。

 と号第31飛行隊は、一方の第32飛行隊と比べると地味も地味。際立つ機会もなかった。台湾への移動中あえなく三機が交戦戦死し、また台湾からの出撃も日を置いての散発的な出撃だった。最後は終戦直前の七月十九日で、このときも敵機と交戦戦死した隊員もいた。これは記名されざる特攻隊員である。

 長年に亘って調べてきたがと号第32飛行隊の関係者とは何人も接触があった。しかし、武揚隊の関係者は皆無であった。今回山本薫中尉のご遺族との接触が初めてである。

 武剋隊の逸話は数多く記されている。『激動の昭和史 沖縄決戦』、岡本喜八監督作品には東野英心扮する武剋隊の隊長広森達郎中尉が登場している。「戦史叢書」、陸軍航空作戦(防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社)でも敵艦への突撃は鮮やかに描かれている。牛島指令官などが見守る中の沖縄での突撃シーンである。

 隼のように降下する飛行機は吸い込まれるように次々と艦艇に命中する。火炎があがり黒い爆風が艦を覆う。しばらくして海風が爆風を払うとそこにはもはや艦艇の姿はなかった。一瞬の静寂。何時の間にか山の彼方此方いっぱい立っている兵や住民から一斉にどよめきに似た歓声があがる。熱湯が腹の底から胸へ突き上げて来る。


 「十機十艦をよく屠る」の内容を伝える記事だが、抒情性が濃厚である。ふと思ったことは、説話の語り口である。「今は昔、沖縄戦あり、就中空中戦に秀でたる隊ありける…」
 千年後にも語り伝えられるかもしれない。

 一方の武揚隊は際立たなかった。それゆえに忘れられている。彼らと接触した世田谷大原小学校の疎開学童に出会って話を聞くことで彼らの存在が知れた。
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2016年10月08日

下北沢X物語(3133)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊検

武揚隊飯沼伍長田川小にて(一)浅間温泉富貴の湯上空で宙返りして飛行操縦の腕前を見せた。それは吉原香軍曹だ。彼は生還して日本に戻って来ていた。その姿は武揚隊の歴史のページにちらちらと現れる。昭和二十年二月九日、満州新京に特攻四隊が集結してくる。宿舎は新京の軍人会館だった。ここで同期生同士が再会をする。

 車を降りると出迎えの管理人と女中達四五人の後方に軍服姿の者四五人が笑顔を向けている。気になって彼らを見ると何と見覚えのある面々は我が同期生ではないか、五来、吉原、出戸、今野等がいた。
「やあ、五来お前達も征くのか」皆九州菊池の教育隊終了後昨年十二月初旬満州の平台を基地とした襲撃隊に転属して来た同期生の連中である。
  『憧れた大空の果てに』 菅井薫著 鳥影社 1999年刊


注意を要するのは、作者は扶揺隊久貫 兼資さんたちの視点で書いていることだ。つまりは、扶揺隊の面々が着くと、見覚えのある同期生がいた。この場合は仙台航空機乗員養成所で一緒だったという意味だ。五来軍曹、吉原軍曹は武揚隊だ、出戸軍曹、今野軍曹は鉛筆部隊で同じみの武剋隊隊員である。彼らは仙台航養から九州菊池の教育隊へ行った。それから満州に渡って平台の教育飛行隊にきていた。航空兵であるが、移動は汽車や船である。内地にはもう飛行機はなかった。
 この記述の後にこうある。

「吉原、貴様も征くのか」
「当たり前さ」
「襲撃隊が二隊征くことは思わなかった同期がこんなに征くとは思わなかったよ」
             (同著)


  襲撃隊というのは満州平台飛行場で訓練していた組のことだ。搭乗していた機が九九式襲撃機だったことからそう言っていたようだ。つまりは、武剋隊であり、武揚隊である。

満州新京に着いたのが昭和二十年二月九日だ。その翌日のことが記されている。

 軍装を整え隊長以下十五名第八00部隊司令部に入る。と三十一、と三十二、と三十九飛行隊の連中も到着した。部隊では各人の録音を行うべく準備を整えていた。一人三分ずつというのが各隊員合わせて六十人分大分時間がかかりそうだ。(同著)

三十一は武揚隊、三十二は武剋隊、三十九は蒼龍隊、書き手はと四十一の扶揺隊、隊員ゆえに記されていない。各隊十五名で、都合六十名となる。出撃に当たって各人が三分以内に抱負を述べる。いわゆるスピーチである。

 以前、NHKのテレビ放送で、「遺された声〜録音盤が語る太平洋戦争〜」という番組が放送された。中国、吉林省で戦時中のレコード2200枚が発見された。その再現に取り組んだ放送だった。この中に、特攻四隊の声は収められていた。が、音盤の劣化が著しく再現は困難だった。ようやく数名の声を拾った。
 この声を扶揺隊の生き残りメンバーに聞いてもらうという場面があった、その撮影は久貫 兼資さんの古河市の自宅で行われた。私は訪問時にその録画を見せてもらった。

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2016年10月07日

下北沢X物語(3132)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊掘

CCI20150412_0000(一)悲運の武揚隊には愛着を覚える。成員の誰もが大型空母撃沈を夢見た。ところがその所期の目的を果たそうとする過程で次々に不運に遭った。そうして成員はどんどんと減っていった。哀れである、疎開学童はその歴史を残そうとしたわけではない。が、偶然に学童の日記にはその片鱗が記されていた。当時五年生だった東大原小の太田幸子さんである。こう記している。

 三月二十八日(水)今日は午前中整理整頓があって荷物をきちんとした。午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゆうかへりもした。 

 昭和二十年、浅間温泉でのことだ。東大原小はここの大旅館富貴の湯に疎開している。ここには女児、百八十七人が寝起きしていた。彼女はここの大広間を使っていた。浅間温泉では一番大きい宴会場だ。この年正月新春風景を松本放送局がここで録音を行った。浅間中の温泉から代表が集まって歌を歌ったり、楽器を演奏したりした。また、三月末、武揚隊が温泉を別れていくときここで全員が舞台に立って別れの歌をうたった。

 問題はこの日の午後だ、座学が終わったところに飛行機の音が聞こえてきた。
「また誰かがおねだりしたのね」
 このとき航空兵がここに滞在していた。二月末からだからもうだいぶ顔なじみだ。気安く「飛んできてくれない」と頼むものもいた。それに応じて訓練中、抜け出した飛んでくるものもいた。ここでは日常のことだった。ゆえにさらりと書いている。彼女自身も屋上のもの干し場か窓からか、宙返り飛行は目にしたものだろう。

 吉原さんは、武揚隊の吉原香軍曹である。学童に頼まれたか、あるいは腕前を見せてやろうということで飛来してきた。そして旅館上空で曲芸飛行を行った。

 この三月二十八日は、兄弟隊の武剋隊の話で持ちきりだった。武剋隊の前半隊が二十七日未明、沖縄慶良間列島沖で米艦船に突撃し、その成果が新聞に載っていたからだ。武剋隊後半隊はまだ浅間温泉にいたがこの報を聞いて即刻、陸軍松本飛行場から各務原へ飛んだ。

 そんな慌ただしい中、武揚隊員は飛行場から飛んできて学童たちに腕前を見せた。兄弟隊の武剋隊の手柄を聞いて平静ではいられなかったろう。しかし、即座に飛ばなかったところをみると機の整備が完全にできていなかったのだろう。

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2016年10月05日

下北沢X物語(3131)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊供

P1010581(一)浅間温泉に疎開していた多くの疎開学童、また地元中学生などから聞き取りを行った。昭和二十年三月を中心として疎開先の旅館に数多くの航空兵がいた。当地は、沖縄決戦に備えて後方支援基地となっていた。学童と接して顔なじみになっていた。ところが普通には十日前後で出撃しすぐに飛び立ってしまう。滞在が短いだけに記憶があまりない。どこの何の隊であるかも分からない。が、唯一、どこの何の隊であることがはっきりしているのは特攻二隊である、武剋隊と武揚隊だ。理由は彼らが長く当地に滞在したからだ。


 この特攻二隊は、昭和二十年二月十日に満州新京で第二航空軍のもとで編成された特攻四隊のうちの二隊だ。このとき満州国皇帝溥儀にも謁見し、華々しい見送りを受けて当地を飛び立っている。これが日本に飛来してきた。段々分かってきたがこの満州新京発足の四隊は別格だった。すなわち中央指令の直轄隊である。戦史叢書「陸軍航空作戦」(朝雲新聞社)にはこうある。第八航空(師団に対する特攻隊の配置)では、「大本営は師団に次のように特攻11隊を配置した。」としてこう記録している。

 二月十日「と号」第三十一、第三十二、第三十九、第四十一飛行隊。

 
 すなわち新京で編成された。前から順に武揚隊、武剋隊、蒼龍隊、扶揺隊である。この関東軍、第二航空軍担任で編成されて第八航空軍へ配属された。この際に、特攻機用に改造した。「爆装は扶揺隊が奉天飛行場、他の三隊が岐阜の航空廠で実施した」と書かれている。が、これが岐阜ではできなかった。それで陸軍松本飛行場に飛来してきた。

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2016年10月04日

下北沢X物語(3130)〜武揚隊:波瀾万丈のと号第31飛行隊〜

CCI20150603_0000(一)一気に突撃を敢行して死に果てた隊は記憶に鮮明に残っている。が、さみだれ式に消え果てた隊も、却って忘れがたい。ここ数年間、取材してきたことでいうと明暗を分けた隊がある。前者は武剋隊であり、後者は武揚隊である。結成され、そして消滅するまで、悲運、不運に見舞われる。一つ一つの事象はすべてが哀しいドラマである。偶然、この隊の関係者がネットを通して昨日コンタクトを取ってこられたことから、改めて彼らの運命を思ったことだ。

 世田谷の疎開学童からの聞き取りは長きに亘った。代沢小、東大原小、駒繋小、山崎小、二子玉川小、第一師範、太子堂小、その数八校である。分かったことは横連携での学校同士での情報交換はない。それゆえにここに当たると全く知られていない情報に行き着く。とくに思いがけないことに当該情報については第三荏原、東大原小の卒業生から聞き出したものだ。近代戦争史の陰にひっそりと隠れていた事実があぶり出された。第31飛行隊武揚隊のことである。

 この兄弟隊である武剋隊は有名である。こちらは代沢小の学童との交流があった。沖縄戦緒戦においての特攻攻撃では大きな戦果を挙げた。勇壮な言葉が紙面を飾った。が、一方の武揚隊は悲運としか言いようがない。沖縄への前線基地新田原飛行場まで行きながら直行しなかった。

 大陸から飛来してきたのにまた大陸へ戻り、そこから台湾に飛んでいる。もともとこの隊は武剋隊と同じく誠隊だ、台湾に本部がある第八航空師団所属である。所属隊に戻るのは当然だが、他隊は米軍の沖縄侵攻が早まったことから九州から直行している。武揚隊だけがどうして台湾へ飛んだのか謎だ。しかも、この回送中に敵機に遭遇し数機が撃ち落とされている。

 武揚隊は浅間温泉では四十数日間、富貴之湯に滞在した。滞在日数が長い。段々に分かってきたが満州新京から飛来してきた武剋隊、そして武揚隊は別格だったようだ。これには整備兵が付き添っていた。この整備兵も組織化された隊だ、「整備班長は、伊東実少尉」、「整備係は私、佐藤曹長」となっている。伊東実少尉は幹部として目之湯に滞在していた。部下は東山温泉に佐藤曹長とともに滞在していた。

 武剋隊の佐藤曹長は整備兵として同道した経緯を記録に残している。ところが武揚隊については記録がない。この両者は兄弟隊である。ゆえに類推ができる。恐らく間違いなく武揚隊も整備兵を伴っていたと。

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2016年10月02日

下北沢X物語(3129)〜「ミドリ楽団」卒の音楽家との出会い〜

P1060143(一)「ミドリ楽団」入部がきっかけとなって世界的な音楽家となった人がいる。マリンバ奏者の安倍圭子さんである。「安倍圭子 マリンバと歩んだ音楽人生-A VIRTUOSIC LIFE」(レベッカ・カイト著、 杉山 直子翻訳。 2011/10/8)の第二章では「ミドリ楽団」と項立てされている。この冒頭では次のようにある。「安倍圭子は10歳の時、単純なテストを受けた。その結果はおよそ単純とはほど遠いものとなった。その小学校のテストで、彼女の人生の方向が決まったからである」と。

 私たちの会員に川田明義さんという人がいる。世田谷代田在住時代彼女とは隣同士でとても親しかったと言う。それでこの彼から住所と電話番号も教わっていた。しかし、著名人に気軽に電話するのもためらわれた。ところが安倍圭子さんはこの25期生であった。ここでやっとお会いすることができた。彼女も「川田さんから聞いています」と。

 世田谷代田時代どこに住んでおられたのか気になっていた。川田さんは探検家河口彗海のすぐそばと言っていた。そうすると駒沢線鉄塔62号のそばだ。鉄塔因縁、61号は萩原朔太郎、62号は川田さん、安倍さん、63号は古関裕而。そして64号が帝国音楽学校である。音楽詩歌ラインだ。

 これらは代沢小の学区域と重なる。川田さんはピアノを弾くのがうまい。安倍圭子さんはマリンバだ。「ミドリ楽団」を取材して思ったのは地域文化との結びつきだ。特徴は、学童の音楽的感性が豊かであることだ。「帝国音楽学校」とは直接は関係がない。が、この先生には音楽感性の早期開花を考えて教育を試みていたという人もいた。この頃思うことは、音楽学校の存在も間接的には「ミドリ楽団」に繋がるのではないかと。

 圭子の4年生の担任、浜館菊雄は、「ヤンキー・ドゥードル」の歌にあわせて、あと打ちリズム、で手をたたくように言った。やがて浜館が手をたたくスピードを上げると、ついていける子供たちがだんだん少なくなった。圭子はらくらくとやってのけて、教師がどれほど早く手を動かしても、そのリズムにあわせることができた唯一の子供だった。「オーケイ」浜館先生は言った。

 これが安倍圭子さんの「音楽家としてのスタート」だったと伝記には書かれている。

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2016年10月01日

下北沢X物語(3128)〜代沢小25期生とミドリ楽団〜

P1060140(一)集まった方々に、「この歌を覚えておられる方はおりませんか?」と言い、そして歌った。「みんな明るいわたしも僕も森の小鳥がちろちろ啼いて、朝だよ、起きなと窓からのぞく……」と。会場は北沢タウンホールのスカイサロンだ。代沢小昭和25年卒業の人たちの同窓会が昨日午後開かれた。元ミドリ楽団員だった人から出版社に連絡があったようだ。本の宣伝をしてもいいと、それで編集者の塚田敬幸さんとここに赴いた。二十数名集まった中にミドリ楽団に所属していた人が数名いた。安倍圭子さんも来られた。彼女はミドリ楽団生え抜きの、世界的にも著名なマリンバ奏者である。「ミドリ楽団」の慰問演奏では独奏で観客をうならせた人だ。


 この代沢小25期生である。疎開経験はあるとのこと、計算すると昭和20年のときは一年か二年である。この前年19年では、四年生から疎開した。戦局は悪化する一方で、ついには翌年から一年から三年まで加わることになった。
「最後の疎開組だったんですよ」
 名札には古丸と記されていた。彼はミドリ楽団の団員だった。アニーパイル劇場で撮った写真も持ってこられて「これがわたしです」と。昭和23年秋の三日間連続公演のときの記念写真には彼が写っていた。彼はすでに「ミドリ楽団物語」は購入されて読んでおられた。

 疎開時に何年生だったかということは当時の状況を理解する上で大事だ。私は家に帰ってから資料を調べた。分かったことはこの25期生は第三次疎開をした学童たちだった。昭和20年4月29日に中央線塩尻駅に着いている。『学童集団疎開』(浜館菊雄 大平出版社)にはこのときの記録が残されている。

 汽車が駅に着いて、子どもたちは駅前広場に集まった。どの子もぼんやりしていて、生気がない。名前を呼んで、学寮ごとに整列することになった。
 わたしの学寮は、六人だけでまとまりも早かった。
 一年生の古田真は、膝までとどく大きなカバンを左右にぶらさげ、列の先頭に立って、大きな涙をぽたりぽたりと落として泣いていた。


浜館菊雄先生は真正寺の疎開学童を預かっていた。ここには音楽好きの子どもが集められていた。そこにここの六人も加わった。25期生も間違いなくここにいたはずだ。
「もしかしたら?」
 ここに出てくる古田真というのは、昼間出会った古丸さんではなかったか?。
 
 彼は同窓会の幹事で挨拶をしていた。全体では73名とのこと。そのうち二十数名の出席があったとのこと。遠くから来られている方もいた。学校のあった地元ということでタウンホールに集まられたようだ。報告によると病気であったり、また亡くなられたりと。25期生の労苦が偲ばれた。

 塩尻駅に着いて、さびしくてたまらず泣いていたという彼らも今は年月を経て学校に近いスカイホールで旧交を温めていた。疎開で帰ってきたのは下北沢駅だった。この駅も地下化して往事とはすっかり変わってしまった。

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2016年09月29日

下北沢X物語(3127)〜会報第123号:北沢川文化遺産保存の会〜

P1060138
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第123号
    
               2016年10月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
                   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、文士町三大廃校学校:帝国音楽学校、海外植民学校、下北沢店員道場

 物事や現象を捉えるときに例が三つ出てくると説明が容易になってくる。三つあったと気づくとそのものを含む文化の深さ、広がりが説得力を持って説明できる。文士町三大廃校学校もその顕著な例である。

 通常は、「文士村」と形容するが、我らは当該地域を「文士町」としている。村は人の集まりとして説明できる、中心人物を軸に説明すればよい。が、我らがフィールドワークでは単純に人では説明できない。近代の機械が大きな影響を与えているからだ。それは鉄道線の交差である。これによって多くのものが引き寄せられてきた。文士も芸術も文化も医院も教会も雑多に集まってきていた。この現象をムラとして説明するのは困難だ、やはり鉄道線で四方向から漂泊してきた人の接触や交流は全部はよくわからない。マチ場の文士町ということから「文士町」と称している。

 我らの活動は2004年に始まった。12年の長きに亘っている。それでも全体像はわからない。今年になっても明治期の流行作家が下代田の一角にひっそりと住んでいたことを知った。また、情報の断片は聞き知っているものの全貌はよく分からないものというのは数多くある。

 世田谷代田にあった帝国音楽学校もそうである。存在は漠然と知っていた。ネットなどに流布している情報から昭和六年に開校していたと思っていた。ところが最近である、この学校を研究テーマに取り上げ、歴史を子細に調べ上げた人と知り合った。久保 絵里麻さんである。彼女はこの学校を博士論文として選び見事、芸術学博士号を取得している。

 この学校の創設から廃校までを丹念に調べている。開校は昭和三年四月だが、前年昭和二年から着々と準備が進められていた。この年は小田原急行鉄道が開業した年である。このことから帝国音楽学校は鉄道の開業を見越して計画がなされていたことが分かる。

 この一帯で文士の先駆け的な居住者は昭和三年の秋に越してきた横光利一である。が、芸術文化は既に昭和二年から胎動していた。武蔵野の緑が残る田園地帯にフリクエント急行が走り出した。青空と緑が広がる田園に音楽学校は設立され声楽が響き、各種楽器が鳴り響いた。昭和初期当地に響いた近代の風、昭和モダニズムでもあった。

 予定されていた生徒定員は、各科あわせて二百八十名だった。音楽志望の学生、及び教員や職員などをあわせると大所帯である。楽器や歌声が常に鳴り響くというのも清新である。地域に新たなる雰囲気をもたらしたのは間違いない。

 この学校は、昭和十九年、戦争で学生も集まらなくなったことから廃校となった。二十年弱、音楽教育が施され多くの才能がここから巣立っていった。

 考えてみると当地域には戦争がきっかけとなって廃校になった学校が他に二校あった。池の上の海外植民学校であり、下北沢店員道場である。
 前者については、代沢小に赴任してきた坂口安吾がこのように書いている。「私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外殖民実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿した」(『風と私と二十の私と』)とある。大正十四年のことだ。また後者の道場にはヒットラー・ユーゲントが視察に訪れてもいる。これらの歴史はあまり知られていない。

 廃校となったこれら三校の学校は地域の歴史、文化と密接に関係していた。植民学校を出て、南米などの海外に移住した人も多くいた、また、帝国音楽学校で学んだ台湾や満州や朝鮮出身者もいた。地域と海外とが結び付いていた。これら学校があることによって諸外国とも結び付いていた。外国語の授業が行われたり、音楽の講義が行われたり、それは自由気風の当地域の文化とも関連するものである。
 
 今回地図七版を作るにあたってこれらの学校の場所の明示と、開校廃校年も入れるといいのではないかというアイディアが出ている。地域の忘れ去られた文化をきちんと記録して残す、改訂に改訂を重ねて地図、街の記録として意味があるものである。
P1060132
2、会報が到達したワン、ツー、スリー、驚くなかれ、十年と三ヶ月だ。
 

 今回の会報は、123号である。これは一月一回出してきた。ここからすると「北沢川文化遺産保存の会」会報は、十年と三ヶ月も発行してきたことになる。十年一昔とはよくいうことだ。創設時のあの頃は、とおの昔になってしまったことだ。

 はじめたときは夢中になって行っていた、だからこんな123号まで続くとは思っていなかった。ゆえに最初から記録として取ってあるかと問われるとはなはだこころもとない。いまは記録用にと取ってはいる。そして地域の記録にと世田谷区立代田図書館に送っている。ここは創刊時のものなども複写して取ってあるのでなんとか残ってはいる。

 歩く会も120回が終わったところなので大体会報発行時から街歩きは始まったと考えてよい。街歩きはコースを伝えないと人は集まらない。それで街歩きの案内を事前に送るために発行してきたという点もある。

 発行の手順はこうだ、会報編集者、発行者がパソコンで原稿を打つ。できあがったものをキャロットタワー三階にある市民活動コーナーの印刷機で刷る。百部弱だ、そのうち十部程度をここのコーナーに置いている。B5四枚をB4両面に印刷をする。これは代田の事務局「邪宗門」に持っていく。会員がいれば折を手伝ってくれる。

 事務局長の作道明さんが宛名書をしてくれている。これに入れて切手を貼って出す。年会費が1200円である。切手代だけで、約1000円近くかかる。それでもこれを楽しみに待っているという人が居ると聴く、それで欠かさず作っている。会員は遠く福岡県の人もいて送っている。関東近県は埼玉県や神奈川県も会員がいて毎月送っている。

 ネットでも配信をしているが、紙できたものを読むというのもやはり味があるという。
毎月のたよりであるが結構話題に詰まることが多い。読者のみなさん、ぜひとも地域文化情報をこちらに投稿を……エッセイでも構いません。

3、ロス・コンパニェロスの演奏を聞きに行きませんか 

 私たちは、恒例の忘年会や納涼会でこの楽団の歌声は聴いている。会員の張替滋夫さんがリーダーである。美声はつとにわれらには知られている。

 何人かはもう既に店に行っている。ロスコンパニェロスの出演日は毎月第三水曜日となっている。今度は10月19日である。お店の名は、「テピート」、メキシコ料理の店だ。営業時間は夕方六時からだ。場所は、〒155-0031 東京都世田谷区北沢3丁目19−9 申し込みは10月の街歩きと一緒としたい。米澤かきむらへ。
○楽団の出演時間は第一回が七時半前後です。それで六時半に下北沢北口駅前に集合、世田谷セロファン工場の跡地を見てお店へ。予定は変更になることも。(ここは郵送会報とは違っています)

4,歩く会の今後の予定(案も含む) 

 
 来年の歩く会の予定です。決まっていたり、決まっていなかったり、共催が増えていますので会員の出番が少なくなっています。要望や希望などはぜひ当方へ。

 一月 未定 一案 三茶を中心とした覚々志郷、駒沢ダイダラボッチ?
 二月 寺町烏山 仙川地理研究所和田さん案内(決定)
 三月 第二回「品川用水を歩く」 昨年に続き品川用水研究の第一人者の渡部先生に
 四月 山梨塩山・勝沼(未定、考えている案) 
   案内者:矢花克己さん案内 この時期桃の花がきれい
   車組 米澤さんの車で 下北沢近辺発→ 塩山
   電車組 明大前集合 八王子→塩山  こんな計画を考えているが?
 五月 第十回 世田谷の戦跡を歩く 案内者 上田暁さん(決定)
 六月 三田用水を歩く キュレーター きむらたかしさん(決定)
 七月 東京の地下道を通って歴史散歩、江戸城、東京駅ほか 木村康伸さん
 九月から十二月は全く決まっていない。

5、都市物語を旅する会
 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅南口改札前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
 芥川龍之介旧居跡→香取秀真旧居跡→與楽寺→天然自笑軒跡→東覚寺赤紙仁王→堀辰雄下宿跡→萩原朔太郎旧居跡→小杉未醒(放庵)旧居跡→田河水泡・小林秀雄旧居跡→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡 →山本鼎旧居跡→板谷波山旧居跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→室生犀星旧居跡→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→童橋公園→田端文士村記念館


・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く(テーマ 女性…新しい時代の風)
 案内者 松山信洋さん
 下北沢文士町と縁の深い、萩原朔太郎、三好達治、宇野千代旧居などを巡る。
大森駅西口→尾崎士郎記念館→山王草堂(徳富蘇峰)→北原白秋旧居跡→山本周五郎旧居跡→尾崎士郎・宇野千代旧居跡→三島由紀夫邸→萩原朔太郎旧居跡→川端龍子美術館→村岡花子邸

・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の古写真の痕跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲年末恒例 忘年会 12月3日(土)北沢タウンホール 二階集会室
 時間、夕方五時半から 会費 3000円 皆さん予定をしておいてください。
▲来年度の研究会を含めて検討をしていきたい。一つ、腹案として考えているのは講演会の開催だ。地元地域の文化で最近知ったことは世田谷代田にあった「帝国音楽学校」のことである。芸術学博士の久保 絵里麻さんがこれを研究している。この学校がどんな学校
だったのか地域、地元で知りたいという人は多いであろう。彼女の講演会が開けないかと思っている。
▲「下北沢文士町文化地図」改訂七版に挿入したり、削除したりする情報を求めている。野屋敷の大島さんのヒマラヤ杉はなくなった。削ろうと思ったら跡として書き入れておいたらとの声。古い喫茶店、ロネガン?などの情報もぜひ。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(掲示写真上、桜新町品川用水沿いの『石田氏水車』、下は野沢水車の石臼)



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2016年09月28日

下北沢X物語(3126)〜恐ろしや、気づいてみれば十年と三月〜

P1060136(一)今朝、雨戸を繰ったとたん、香りが鼻を衝いた。風の音ではなくモクセイに「秋来ぬ」と知った。季節の到来だけでなく、年月行き交いも知る、昨日、我らの会報123号を世田谷代田の事務局「邪宗門」に届けた。数字の語呂はいい、ワン、ツー、スリーだ。123ヶ月、十年と三月である。「時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」(『思ひ出』)と北原白秋言った。いつの間にか十年が経ってしまった。

 帰り道は、その思い出の道を歩いてたどった。十年前、邪宗門を経由して家まで自転車で帰っていた。さらにその前の十年、中野の学校から目黒の自宅までは通勤経路であった。

 ここ数十年の変化で一番大きいのはまず気候である。自転車で通っていただけによく分かる。雨の降り方が全く違う。この頃は異常も異常、バケツの水をひっくり返したというのは生ぬるい、ダイダラボッチが東京湾の水をすくってぶちまけてしまったというほどにひどい。雨だけではない、台風の巨大化である、地球温暖化による気候変動が人類の生存を脅かしている。

時代の空気感で言えば善悪が見えなくなったことだ。典型的な例で言えばISによるテロだ。見境なく人を殺す、それだけではなく遺蹟まで破壊してしまう。この底流には貧困がある、努力しても努力してもこれから抜けだせない。が、一方では潤沢な財を持っている人々がいる。貧富の格差が極端になってきている。

 西欧的価値観がある、ステータスとして超豪華客船に乗って世界旅行するというのがある。最貧国の港にこれが着いたときテロが起こった。見上げるような超豪華客船を観て、食うや食わずの生活をしている人々の反感を買ったということはあるだろう。傍若無人?

 「地球一周の船旅」135万円という広告を街中でよく見かける。「ピースボート」はそれほど豪華な船ではないようだ。トイレに行くと白く塗られた四隅が赤くさび付いている。が、漫然と海を眺めていく旅に自身では最初から退屈を感じてしまう。
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2016年09月26日

下北沢X物語(3125)〜代官山:文化遺産をまちづくりの核に検

P1060131(一)三田用水の流れは、基本的には自然地形が決定づけている。興味深いことは多摩川左岸から始まる荏原内陸部の河川が概ね南行していることだ。第一が国分寺崖線であり、つぎが矢沢川、呑川、目黒川崖線となる。崖線として深いのは国分寺崖線、目黒川崖線である。この川の左岸崖線に三田用水は流れている。言えば崖線は東京都心に並行するラインである。都市が肥え太っていくときに順次真ん中から同心円状に広がっていく。このとき崖線というのは大きな結節点であり、際である。


「三田用水台地を一つの望郷ラインとして捉えていくという考えを持っているのです」
ステキ総研の一人が懇親会で言われた。
「道玄坂に建っている歌碑、与謝野晶子のは望郷の歌ですよね…」
  「母遠うて 瞳したしき 西の山 相模か知らず 雨雲かヽる」と石碑に刻まれている。淀橋台地の尾根筋からは西の山々が見える。彼女の故郷は大阪堺だ。このとき残念ながら大山に雲がかかっていて眺望はよくなかったようだ。
「そうなんですか?」
「私は目黒に住んでいてここの土地が横に長く見えるのは知っています。資料で読んだ記憶があるのですけども世田谷の奥にお嫁に行った人がここに建っている長い煙突を見ると東京が恋しくてならないと書いていました。間違いなく望郷ラインですよね」
「なるほどそうだったのですか…」
「三田用水数え歌というのがあるのですよ。この辺りのことも詠まれていますよ。私たちダイダラボッチ音頭を作ってユーチューブで流しています。これが結構評判で、当地小学校でも踊ろうかという話があります。『三田用水音頭』っていうのはどうですか?」
「おもしろそうですね…」
 
ようすい、ようすい、みたようすい、かつてたまがわのあゆもものみゆさんに
 だいみょうやしきにあらわれて、あらわれて、こしもとびっくり
 それ、それ代官山にはみたようすい
 そうそう、それそれ、ハヤはすいすい、やつめうなぎも目をぱちくり、ぱちくり……


 「三田用水音頭」を作って踊るというのも面白いではないか?。

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2016年09月25日

下北沢X物語(3124)〜代官山:文化遺産を核としたまちづくり掘

P1060133(一)玉川上水や三田用水は今はない。しかしこれらが活用されて地形は残っている。世田谷代田の南から眺めると屏風状の台地が望める、今日改めて、荏原台の背尾根を歩いた、そのときに三田上水を流している淀橋台の分岐丘陵がやはり屏風状に品川へと流れているのが眼ではっきりと見えた。


 三田用水を考えるにあたって地図や資料などを見た。講演でも指摘したが本流の玉川上水と違って、三田用水は南東に向かう、わかりやすく言えば南に向かっている。淀橋台の南端は御殿山である。

 明治の音はどうだったか。御殿山に南北に横たわる台地は邪魔だった。鉄道を通すためにここを掘り下げ切り通しを作った。ちょうどそこに権現山がある。タヌキのすみかだったここを壊して鉄路を敷いた。難工事だった、これの間接的な影響が鉄道線路に出ているかた楽しい。

 品川を出て八ッ山のガアド下を過ぎれば、先ずその辺りから汽車は速くなる。座席の椅子のバウンドの具合も申し分ない。(新潮文庫版)


 百鬼園先生「第一阿房列車」に記している。彼が乗っているのは特別阿房列車「はと」とのと一等車である。淀橋台の南端を過ぎて、目黒川橋梁を「ごぁぁぁ」と渡るとトタンに速度が速くなる。すると先生もう相好を崩す。講演中、この淀橋台は南端御殿山まで行っておりまして、かつて明治時代はタヌキが自分のすみかを鉄道敷設で壊されて化けよう化けようとしたのですが、化けられない、どうしてか相手は青い眼をしたお雇い外国人、怖くてばけられたものではありません…この逸話はよぎっただけである。

 面白い逸話は楽しい、「三田用水の水を使っていた台所で鮎が出てきたという話」これは三田用水を知っている人がいるだけに多くの反応があった。懇親会のときの話だ。
「三田用水のところに土管があって深くなっていて夏には泳いだ、そうするそこにハヤが一杯いた…」
「記憶ではヤツメウナギもいたよ」
「シジミもいた…」
 三田用水から鮎の話は、土管からハヤの逸話を掘り起こした。
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2016年09月23日

下北沢X物語(3123)〜代官山:文化遺産をまちづくりの核に供

CCI20160923_0000(一)小説の書き出しは苦労する、話をする場合も同じだ、どんな枕を振るのかさんざん考えた。先週行われた講演から入った。「世田谷代田で話をしました。あそこは地形が面白いところです。北の代田橋駅が約48メートルぐらい、南の世田谷代田駅が約40ぐらい。それでここの駅前にビルを持つオーナが言うのです。「ほら、北の空が狭いでしょう。西から走ってきた台地が東へ屏風状に連なっているのですよ」と。淀橋台のことですね、そこに玉川上水が流れていました。もう少し東へ行って笹塚で三田用水は別れ南東方向に向かいます。この方向が大事ですね。本流とは違い、三田用水は都心を回り込んでいく……」


「私は日々歩いて地形を眺めています。環状七号の大岡山小学校辺りは荏原台の背尾根です。東がよく見えます。丘陵が横に連なって南へ延びています。この上を三田用水が通っているのですね…」
 玉川用水や三田用水の地形景観が今も遠望できる。
「地形に関連して用水の話をしたものですからこれにからめて逸話を披露しました。『三田用水から水を引いていたお屋敷で、樋の口から鮎が出てきたというのです』と。私はおもしろいと思ったのですが、これへの反応がない。まず、三田用水を知らないという人が多いのです」

 十年前、北沢北端で聞き込みをすると三田用水の話が必ずでてきた。「恵比寿のビール工場に行ってビール瓶の洗浄に使われていた…」、「用水の上をホタルが飛んでいた」とか、用水への思い出は尽きなかった。ところが今は、知らない人が多い。こちらが街歩きをして説明するとお年寄りが耳を傾けるのです。地元の人で「そんなものあったのか?」と言う人もいいる。
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「しかし鮎の話は面白いですよね、多摩川を下るはずの鮎がひょいと玉川上水に紛れ込んだ。そしてまた笹塚に来て、どちらに行くか迷った揚句、三田用水に入り込んで大名屋敷の台所の樋にひょいと現れた。女中さんびっくり『あれ、鮎!』…よくもまあ長い旅をしてきたものです。しかし、三田用水を分からない、知らないというのは普通です。私自身、これを知るのに半世紀ほど掛かったのです…」

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2016年09月22日

下北沢X物語(3122)〜代官山:文化遺産をまちづくりに〜

IMG_2823(一)代官山では新しいまちづくりが構想されている。当地区を貫通する文化遺産、三田用水の文化を掘り起こし、これを核に据えて「緑の文化十字路」として打ち出す。2020年には東京オリンピックが開催される。メイン会場も近いところから単なる代官山ではなく文化都市代官山としてアピールしていく。その基軸になるものが三田用水である、320年間に亘って江戸、東京を支えていた水路だ。人を街に誘うには単におしゃれな商業施設があることでは活性化しない。新たな構想は、用水を基軸にして人と歴史とが交わる「十字路」とし、これを全国、そして世界へと発信していこうというものだ。


 その活動の一環として昨日、講演会と懇親会とが作夕、代官山ヒルサイドテラスで行われた。きむらたかしが地域史家として、きむらけんが文化探査者として講演を行った。

 まず、長年三田用水の調査を手がけてきたきむらたかしが登壇する。320年間の歴史を彼は資料をプロジェクターに映しながら説明した。長年手がけてきて収集してきた資料だけに圧巻である。古文書や絵図は細流まで及ぶ、詳細を究めている。
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 三田用水は日本の近代化に大きな貢献を果たしている。火薬製造、ビール醸造、精米、製粉などなくてはならないものだった。東京という都市が膨張し、成長するにつれ用水は次第に廃れていって、三田用水組合は解散した。跡地は用地と化し痕跡はほとんどなくなってしまった。廃止から年月が経つに連れ貴重な文化遺産は記録そして記憶からも消えつつある。それらを丹念に調べ上げてきたきむらたかし氏の功績は大きい。今回の発表は、これまでの研究調査の集大成である。

  三田用水の歴史は、きむらたかしが担う、とすれば私に残されている分野は、文学方面しかない。が、これは容易ではなかった。これまでの講演では興味深く、面白く話していれば良かった。今回は、三田用水研究の第一人者小坂克信先生なども参加されることから面白いだけではすまない、学術的な観点を持って臨むしかない。

 さんざん考えた揚句、テーマを「近代文学の空間としての三田用水」としたことだ。
難題を選んでしまった。さてまたどうなることか?
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