2018年06月23日

下北沢X物語(3545)―文士町交流史の断片―

CCI20180623(一)下北沢周辺には文化人、ことに文学者が数多く集まっている。このことの発見から当地を文士町とし十数年に亘って調べてきた。しかし、その全貌は分からない。とくには人々の交流、そして関係性は掴めていない。偶然に一つの資料に出会ってその片鱗を知ることがある。この間も、大空詩人、永井叔は下北沢の福田正夫宅に訪れたことがきっかけで北沢小の音楽非常勤講師になったと知った。

 佐藤惣之助は世田谷代田の萩原朔太郎邸に出入りしていた。最近になって北沢に居住していたことが分かった詩人の長瀬清子は惣之助の愛弟子だった。昭和17年5月11日、萩原朔太郎は死去する。この葬儀委員長を務めたのが惣之助だ、が、彼はこの心労がたたったという。この3日後の15日に急逝する。これに関連する記述に遭遇した。

 昭和十七年五月十五日の夕暮、佐藤惣之助は目黒の小山省宅で脳内出血のため逝く。十八日雪ヶ谷の自宅で告別式。「力なく若葉の坂をのぼりけり 葦天」この句は、まさに当日の実感であった。私も焼香してお別れを告げた。葬儀委員の中に福田正夫がいるので弔辞を述べると「全く残念でした。何しろこいつは筋を引いているでねえ」という。筋を引くというのは五月十一日義兄萩原朔太郎の死、引き続き葬儀までを万端取り仕切った心身疲労の末の急逝を指されたのであった。
『詩と生涯 福田正夫』所収「追憶の福田正夫先生」 森 菊蔵 冬至書房 昭和五十五年


 雪ヶ谷の自宅で行われた葬儀には関係者が多く参列した。詩人の森菊蔵もその一人だ。当日、呑川の左岸崖線の急坂を肩を落として登ったようだ。佐藤惣之助の葬儀委員を務めていたのが福田正夫だった。このとき彼は大原に住んでいた。

 佐藤惣之助と福田正夫とは早くからの知り合いだ。福田正夫年譜には大正五年、「『川路柳虹編『現代詩集』に詩を寄せる。この年、佐藤惣之助を知る。」とある。

 萩原朔太郎は、昭和七年一月二十五日に「世田谷区下北澤一〇〇八」番地から馬込の室生犀星宛てに手紙を出している。その末尾にはこうある。「この頃全く誰にも逢わない。 福田も福士も近所に住んで居るが、正月以来一度もまだ逢わない。」と。福士は、福士幸次郎で、福田は福田正夫である。当時、朔太郎の知己だった詩人二人は下北沢の近くに住んでいた。福田は大原に住んでいた、福士は分からない。

 萩原朔太郎、佐藤惣之助、福田正夫は親交があった。福田は、朔太郎の葬儀の事情も知っている、ということからすると福田正夫は朔太郎の葬儀には参列していたということだ。

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2018年06月21日

下北沢X物語(3544)―三田用水文学:桜の実の熟する時―

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(一)一昨日、珍しく西嶺町で迷った、起伏の多いところで道なりに歩いていたら方向を見失った。ふと思い出したのは独歩の言葉だ、「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」(『武蔵野』)、さまよい歩くことで新しい発見がある。多感な青年、恋に患う、生き方に悩む青年にとって武蔵野彷徨は必須のものだった。ここから文学は生まれた。

 例えば、歌人の若山牧水は、戸山ヶ原を歩きに歩いた。その原のみならず武蔵野をよく歩いた。そしてこういう感慨を持った。

 こちらの郊外の背景をなすものは遠く西の空に浮んでゐる富士山の姿であることを忘れてはならぬ。何處からでも大抵は見えるこの山ではあるが、ことに此處等の赤松林の下蔭、幾つか連つた丘陵の一つのいたゞきから望み見る姿は、たゞの野原であるのより遙かに趣きが深いのだ。 「東京の郊外を想ふ」 若山牧水全集 第七卷 雄鷄社 1958年

 若山牧水、国木田独歩、そして島崎藤村、若い彼らは武蔵野を歩き回った。そして折々に富士に出会った。崇高な山に出会ってしばし見とれて鬱屈した思いを解放し未来への希望を持った。

 島崎藤村も明治学院時代、付近の武蔵野をさんざんに歩き回った。学校のあった白金今里町は愛着の深いところだ。彼は、学校の校歌を作詞している。その一番だ。

人の世の若き生命のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや


 白金の丘でチャペルが鳴る、そんなときにふと真理を思った、自己の体験を重ねてこれを書いたものだろう。この歌詞に続いて、「もろともに遠く望みて」と出てくる、ここから横浜キャンパスの遠望橋は名付けられたと。「天気がいい日には富士山を眺めることができます」と学院のホームページは記している。

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2018年06月20日

下北沢X物語(3543)―三田用水文学:島崎藤村―

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(一)三田用水を描いた文学作品を「三田用水文学」と我らは呼んでいる。代表的な作品は国木田独歩『わかれ』である。若い独歩の抒情が三田用水と絡められて描かれている。先だっての「三田用水跡を歩く」では、玉名池を水源とする川を辿った。この川の痕跡はもうほとんど残っていない。が、この川については島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』に触れられていると知った。この小説は自伝的青春小説だ。藤村が明治学院に通っていたときのことが書かれている。「新片町より」(島崎藤村集(二)現代日本文学全集 60 筑摩書房 1957年)には「明治学院の学窓」として次のように往時が記されている。

私は十七から二十までの間を、明治学院の学窓で送つた。学院のあるところは、白金今里町で、今は町が出来たり、人家が殖えたりして居るが、私の居た時分は、樹木の多い、静かな場所で、御殿山なども、その時分は開放されて、自由に出入することが出来たので、学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いたものだ。自然といふものが、私の眼に映り始めたのも丁度其時分であつた。その界隈の静かな景色は、今も猶私の脳裡に忘るべからざる印象を残して居る。

明治学院のホームページには、「1887年、15 歳で明治学院に入学した文豪・島崎藤村は、4 年後に第一期生として卒業しました」とある。1887年は明治20年である。学院の今の住居表示は港区白金台1丁目である、藤村が通っていた頃は、白金今里町だったという。その当時、この今里一帯は武蔵野で樹木が多く茂っていた。

地形的には明治学院大は北東に向かった舌状台地の上にある。坂や沢が至る所にあった。彼は、「よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いた」という。谷間には小川が流れていた、それは玉名川である、が、当時は名のつかないような小川は至る所に流れていた。

「丘やら」は、今里一帯の丘を指すものだろう、この背尾根には三田用水が流れていた。自然豊かな中をつつと直線的に流れて行く用水、藤村もこれを目にしていたに違いない。

 藤村、在校時代は多感な青年だった。このときに一帯の自然が、「眼に映り始めた」という。若さには悩みがつきものだ。自然が目につくのは道理である、鬱屈した思いを抱えていてそれを解放してくれるのが木々の緑であり、小川や用水の流れだった。
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2018年06月18日

下北沢X物語(3542)―三田用水面白物語―

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(一)用水や水路は数多い、が、三田用水は傑出しているのではないか?きむらたかし氏に連れられて、何年と三田用水に付き合ってきた。それで学んだのはこの水路の固有性、特異性である。例えば、水路沿いを辿るとコンテナを大ぶりにしたような家々が連なっている。類い稀な不思議な景観だ、それは水路跡に建てられている。都市縁辺の人口密集地だからこそ現出した景色である。この一戸一戸に物語が潜んでいるように思う。細長い家を使うに当たってのノウハウが蓄積されているのではないか?
「寝るときは、水路に並行に寝るのよ、それによって眠りが自然に訪れるの」
 自身の妄想なのだが、さてどうだろう?

 本題だ、物事の真実は支流にこそ潜む。本流は玉川上水だ、三田用水は支流だ。親玉には存在感がある。国木田独歩は上水の流れの様子を「水と水とがもつれてからまって、揉みあって、みずから音を発するのである」(『武蔵野』)と記している。一方の三田用水は、本流よりも幅が狭い、「一直線に走りて」、「流れの音もなく走る」(『わかれ』)と描いている。無音である。存在を人に訴えない、際立たない。それで人もよく知らない。ところが分かってみると驚く。いわゆる近代工業、醸造、製粉、火薬製造などの下支えをしていた。密かな存在だが価値は高い。日本用水史の中で筆頭に来るものではないかと思う。

 人々が知らないで過ごしてきて、妙だと思うことはある。旧山手通りである。道がだだっぴろくて静かだ、歩道には街路樹が続いている。ブログなどには、「おしゃれなオープンテラスが並び、昼からワインを片手に陽気に笑うセレブリティな方たちをよく見かけます」などと書かれる。代官山をアピールする場合にこの道は欠かせない。が、この通り、ここも含めての代官山という街を形成したのは三田用水だ、このことを歴史的に解き明かしたのはきむらたかし氏である。

 存在の希薄さが返って存在の深い価値を表すということはある。
 今回、今里地蔵尊で、この今里こそが肉牛の解体地だったと聞いてびっくりした。ここで解体された肉を突っつきながら人々は文明開化を論じていた。
 ビールも文明開化の所産ではないか。調べると、三田用水の水を使ってビールを製造した日本麦酒醸造株式会社の工場は明治22年にできていた。牛鍋を突っつきながらビールを飲むということもあったろう。三田用水歴史物語だ。

 今里では肉牛が解体されていたと聞いて思い出したことがある。
「森鴎外の『舞姫』ってありますね。高校に行けば誰でもお目にかかる作品、当時の批評として『いやに牛肉臭い小説だなあ』というのがあったのですよ」
  文明開化は遠いものだと思っていたが、今里のと場の話を聞いて、開国はついこの間のことだったのだと思った。
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2018年06月17日

下北沢X物語(3541)―用水痕跡探しの楽しさ:三田用水―

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(一)街歩き、140回目を昨日06/16、行った。三田用水跡を巡る探訪行である。今回は、「第二期第五回」目だという。第一期もあったことからもう十回近く歩いていることになる。140回実施してきて十年近く行っているのは、五月実施の戦跡歩き、そして六月の三田用水歩きの二つだ。戦跡歩きは今も続いてはいるが困難さがある、戦争から遠ざかるにつれて意義や意味が薄れてきている、戦争の風化である。が、三田用水歩きは堅実である。今回のキュレーター、きむらたかし氏「これから何年続くか分かりませんね」と。

 人はなぜ水路歩きをするのだろう?これは一般的にも言えることだ、インターネットには数多く、水路探訪系のホームページやブログがある。それは水路に魅力があるからに他ならない。
 一つは、川跡や水路への郷愁である。
 かつて流れがあった、その場合、古老などが言う「昔は、鯉や鮒が釣れたよ、蛍が飛んでいたなあ」などと聞くと興味が湧く。これにつきまとうのがどこからどこへだ。つまり流路に対する関心だ、ここに源流探し、また河口探しという興味が湧いてくる。

 一つは、探訪の面白さがある。痕跡探しである。
 典型的なのは橋の欄干、あるいは親柱である。流路を辿ると、こっそりとこれがある。突起物としては目に楽しい。
 流路痕と思われる道の屈曲だ。道路上にこれを見つけると嬉しくなる。
 以前、神田川笹塚支流を自転車で遡った。すると走る度に、パコンパコンという音、マンホールが続いていてこれが流路を示す、音を聞いて流路を知るのも楽しい。
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「測量痕もあるんですよ」、歩き始めてすぐにきむらたかし氏はいう。
「ほらほらこれですよ」
 路地の片側のコンクリートに一本の線が入っている。三田用水の跡地を測ったときにつけられたものという。
「しかし、これは知らなければ分からないですね。このままいくと永遠に忘れ去られてしまうかもしれない」と参加者。

 一つは、土地の高低や地形の面白さだ。
 水は高きから低きへ流れる。川跡や用水跡探訪で欠かせないのはこの高低の確認だ。ゴルファーは腰を下ろしてグリーンの高低を確かめる、我らもよく腰を下ろして目測することがある。「あっちが高いぞ、こっちが低いぞ」、ふと思い出す、線香測量だ、用水を作るときに線香を燃やして土地の高低を測ったという。江戸時代の人夫も、同じことを言っていたかもしれぬ。
「あっちが高いんだべえ」
「うんにゃ、こっちが高うなっとらんか?」
 地形の中に流路を見つける楽しさはある。

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2018年06月15日

下北沢X物語(3540)―文士町交流史:長瀬清子―

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(一)佐藤惣之助を師と仰いでいた詩人の長瀬清子は文士町の成員の一人だった。女流詩人としては今は忘れられている。しかし、宮本百合子は高く彼女を買っていた。「女が考える、という合理的な事実を承認して、それをまざまざとした感性で表現してゆく天稟をもっている」(『静かなる愛』と『諸国の天女』―竹内てるよ氏と永瀬清子氏の詩集― 「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社 1980年)、思考する女性詩人だと評している。

 この長瀬清子、何と八幡様の裏手に居住していた。北沢八幡宮神社である。

私の家から南へ一丁半ほどのところに八幡宮があって、そこには今だに大樹が参座としてしげった一面をなしている。そのお宮から又半丁ほどゆくと巾六、七米位の川がいつも等々と淙々と流れている。その間河上は京王電車の車庫あたりから起こっている様子で、地図で見ると、目黒区に入り相当大きくなり、やがて品川に入り立派な河となって東海寺の南を流れて海に入っている。 『かく逢った』 編集工房ノア 一九八一年

 「地図の読めない女」というタイトルの本があった、長瀬清子は地図が読める女だ。距離感も鋭いものを持っている、「南へ一丁半」という距離からきむらたかし氏は、居住地を代沢2丁目17番辺りではないかと推理している。

 ここに出てくる川は北沢川である。この捉え方も興味深い、水源から河口までを具体的な目標物を示して説明している。北沢川源流は、京王電車の車庫辺りだという、当てはまるのは桜上水駅の車庫だ、湧き出た水が流れ流れて東海寺の脇を通って行く。この間、この寺には行ってきたばかりだ。鉄道庁長官井上勝の墓に詣でた、が、この真ん前に黒御影石の立派な墓が出来ていた。歌手の島倉千代子の墓だった。

 長瀬清子のこの文章は、「春の落葉−萩原朔太郎氏の面影」というタイトルで描かれている。文末に、「一九四三年」とある、昭和十八年だ、この前年に朔太郎は死去している。追悼文でもある。ここでは彼女の家から朔太郎邸までの道順を描いている。

 桜のある左岸は一間半ほども川の面が高いので、その石垣には葛が生いしげり、今年の秋には紫色のふさのような花が沢山咲いていた。低い右岸を通るとその花が丁度よく眺められた。どちらを通っても気持ちのよい道であった。

 彼女は、現在の代田2丁目6番辺りの風景を述べている。ここは左岸が高く、右岸が低い。川がカーブしていて今も景色のいい所だ。年代でいえば昭和十年代の半ばごろではないだろうか。今と同じように両岸に小道があってそこを散策できた。着流し姿の朔太郎の姿が見られました、と聞いたことがある。

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2018年06月14日

下北沢X物語(3539)―文士町交流史補遺:佐藤惣之助―

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(一)下北沢鉄道交点には文化人、芸術家、詩人、歌人、俳人、文人が多く集まっている。この全体の交流史が見えてくると文化人参集の理由が突き止められる。が、これは分からない、交流が個別的であるからだ、また寄留が短いものも多い、例えば歌人宮柊二などもそうである。全集年譜では居住が確認されるがどこに住んでいたかは突き止められないでいる。さらに難しいのは漂泊者だ、これは分からない、何かの折に偶然に話が出て分かることがある。先だって北沢四丁目の赤坂さんから話を伺った。その彼のアパートに画家が住んでいたとう話を聴いた。池田龍雄である。

 彼は、戦時は海軍の特攻兵だった。出撃するはずだったが終戦を迎え行かずじまいでこの後の人生を画家として送った。「国家権力に振り回され続けたこの体験が、池田の原点を形作」ったという。北沢四丁目七番に住んでいた期間は明確でない、家賃控帳は廃棄したそうで、1957〜64間の何年かだという。戦後の前衛芸術を先導してきたという彼の画風は異彩を放つものだ。反戦的な思考に満ちていたようだ。
「戦後美術の現在形」 池田龍雄展―楕円幻想が、6月17日(日)まで練馬区立美術館で開かれている。

 当記事では、世田谷代田の萩原朔太郎邸に出入りしていた佐藤惣之助を追っていた。雪ヶ谷住んでいた彼は五年の間に400余の歌謡曲を作った。
 萩原朔太郎邸を彼が訪れたとき二人は煙草を吸いながら茶の間で談笑した。そのときの様子を萩原葉子は描いている。「父・萩原朔太郎」(筑摩書房)

 茶の間に坐った二人は、いつになく真剣な顔で煙草を吸っていた。
「生活のためなんだよ。君。」
「僕は不賛成だな。」
 膝を揃えて坐った父は、タバコばかり何本も火鉢の灰に立てていた。
「そりゃあ君のように生活の心配がなければいいがね。」
 佐藤さんがそう言ったとき、父に何ともいえない寂しい影を私は感じた。

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 雪ヶ谷時代のことだろう、惣之助は遮二無二作詞に励んでいた。朔太郎がそれに異を唱えたようだ。歌謡曲ばかり書かないで「詩を書け」ということだろう。が、詩では食えない、だから生活のために作詞をするのだという。このことが朔太郎は気に入らない。それで彼は反論した。

 君のように親からもらった財産があって生活にするのに困らない。そうであればいいだろうが、私はそういうわけにはいかない。
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2018年06月12日

下北沢X物語(3538)―音楽が湧出した雪ヶ谷詩人旧居は?―

DSCN0299(一)分かってみると驚くことがある。雪ヶ谷居住時代、詩人の佐藤惣之助は400曲余の歌謡曲の歌詞を作っている。(『レコード作品年表』近代文学研究叢書49 昭和女子大近代文化研究所 昭和54年)その旧居はどこか探し歩いているが分からない。曲名を見ると「あこがれの丘」、「白バラは咲けど」、「東京の灯」、「富士は晴れだよ」、「赤い屋根青い屋根」などある。居住地の匂いがするものだ。

 居住地の東雪谷一丁目の標高は23、4メートルもある。赤い薔薇の咲く庭がある。丘上の眺望のよい地、「あこがれの丘」だ、「白バラは咲けど」は、自宅庭の薔薇を見ての連想か。丘の背尾根に当たる高台からは東に「東京の灯」が見えた。富士山は気候よって見えたり見えなかったりする、見えるとホッとする。往時、丘の上の屋根は青か、赤だった。そう考えると土地の風合いが歌謡曲に影響を与えていたのではないかと思う。

 もっともこれらの歌の歌詞を確認したわけではない。当地で作詞された歌謡曲群のタイトルに氷山の一角が現れていないかと思ってみたことだ。
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 詩人の佐藤惣之助は川崎から雪ヶ谷に転居した。都会から郊外へ、これは一種の隠遁ではないか思った。文学研究は典拠を基本とするが地拠、つまり土地の風合いを根拠とした観点もあるのではないかと思う。

「昔はもっとのどかでしたよ。前はもともと畑でしたからね」
 最寄り駅は池上線石川台駅、「1927年(昭和2年)8月28日 - 池上電気鉄道石川駅として開業」(wiki)これによって畑地が住宅地となって開発された。
この東雪谷で最も有名なのは都立荏原病院である。もともとは隔離病棟だった。密かな地に密かに建った。昭和九年から診察が開始されている。
 馬込文士村は、当地を文士村圏というが交流するには遠い。
 佐藤惣之助を「惣師」と呼んでいるのは詩人の長瀬清子だ。彼女は、師の雪ヶ谷での生活の一端を記録している。

 いつも東側に窓のある四畳半の書斎で紫檀の机にむかって、或いは蒲田の珈琲店へ出張?して、そこの特定の一隅で作品をかき、お昼頃帰って軽い食事をして、午後を雑用にあて、夜は晩酌を楽しむというふうにしていられた。
『かく逢った』 佐藤惣之助覚え帳 編集工房ノア 一九八一年


 池上線を使って蒲田に出て馴染みの珈琲店に行っていたようだ。家の書斎は東向きで富士とは反対方向だ。

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2018年06月11日

下北沢X物語(3537)―惣之助雪ヶ谷旧居は二箇所?―

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(一)土地の風合いが文学詩歌に影響を与えるものなのか?興味深い問題だ、佐藤惣之助は雪ヶ谷四〇一番地に住んだ、今の東雪谷一丁目一番だ、とはいっても区画は広い、その一角を巡り歩き、人に聞いた。彼の名を知っている人はいたが住んでいたことを知る人は皆無であった。居住期間が短かった、昭和十二年の五月から昭和十七年の五月までの五年間だった。跡継ぎもいなかったようだ。そんなことでもう人々の記憶から薄れてしまったのだろう。

 詩人は川崎から当地、雪谷に移ってきて住んだ、そこは丘陵の背尾根にあって眺めのよいところだ。西には丹沢富士が望める。東は東京の灯が眺められた。これらの風景が刺激となって詩や歌が生まれただろうと、そこを歩いて思った。

 以前からこの辺りは何度も来ている。土地の形状を半島に見立て、ここを大岡山半島と自分では名付けていた。眺めのよい高台、広い庭のある家は多くあった。そんな家の庭に置いてあるものを見てびっくりしたことがある。車掌車である。貨物列車の最後尾に繋がれている車だ。

 子供時代を思い出す、貨車がくると必ず数えた、ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ……長い貨物車の最後を締めくくるように車掌車があった。テールランプがついていてこれが山陰に消えるまで見送った。子供時代の憧れの車だ。何とそこは建築家清家清の家だった。この車掌車を見たのは大分前だ、「今もあるのか?」調べてみた。するとwikiにはこうあった。

 清家の自宅は機能主義の代表作でもある「私の家」(1954年)。庭には旧国鉄の車掌車「ワフ29500形」の実物を設置しており「発作的に買った」という。この車掌車は後にD51形蒸気機関車の体験乗車用として有田川鉄道公園に移設されている。

この車掌車麻績高原の別荘として使われていたのを見たことがある。昭和二十年代世代には憧れのものだった。

 雪谷の高台の土地、車掌車を置いたり、薔薇を植えてみたくなったりするところなのかもしれない。詩歌が生まれるところであったのではないか?

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2018年06月09日

下北沢X物語(3536)―雪ヶ谷の詩的風土と佐藤惣之助― 

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(一)文学詩歌は都鄙境に湧出する。詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷に越してきた。これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。この年、彼が作詞してヒットした曲がある。「青い背広で」だ。作曲は古賀政男だ。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。これは工場街の川崎よりも郊外住宅地の雪が谷の方が似合う。誂えたばかりの青い背広、当時だったら川崎ではたちまちに煤煙で汚れそうだ。

 佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。大正15年頃、南馬込の広津和邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から17年まで居住した。解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

 佐藤惣之助旧居を探しているときだ。出会った人に大地主の直井家に聞きに行けばいいと言われて訪ねた。四百年も続く旧家だ。ご主人は不在で奥さんが応対に出られた。
「馬込はだいぶ近いですか」
「いいえだいぶありますね」
 馬込文学圏とするにはむりがあるようだ。
「ここら辺に住んでいた有名人は?」
「ええっと越路吹雪さん、それと大木実さんかな」
「その大木実さんは、駅の向こうのマンションに住んでいましたね。一番高いところだと聞きましたが三階に石垣りんが住んでいたんですよ」
「石垣りん?知らないですね」
「女流詩人なんですけどね……」
 石垣りんは好きだ、彼女の詩的感性は素晴らしい。呑川を下るたびに彼女が住んでいたマンションの三階を眺めやる。彼女はそこから見られた景色を書いている。

 私が住んでいるアパートと並行の高さで、少しはなれた土手の上を、私鉄の電車が横一文字に走っている。乗っている乗客の多少が、大体見当のつく距離である。その音がうるさいでしょう、と知る人は同情してくれる、ちょうどいいの、と答える。
 朝から晩まで、大ぜいひとの気配がゴ−ッという音といっしょに通りすぎる。右からと左から。時には窓の向こう正面で三両連結の電車が、すれ違ったりする。
 「炎に手をかざして」所収「電車の音」 筑摩書房 1980年刊


私鉄電車は、池上線だ。マンションの前の土手、そのすぐ左には呑川鉄橋がある。渡ると石川台駅だ。映画「小さいおうち」では最寄り駅となっている。鄙びた駅で都会のローカル線という趣がある。すがれた線である。

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2018年06月08日

下北沢X物語(3535)―惣之助旧居は駒沢線NO1?― 

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(一)文化痕跡の調査は、まずその場に行ってみることが大事だ、土地の風合いとかにおいとかを嗅いで分かってくることがある。川崎から雪ヶ谷に佐藤惣之助は転居した。この間「佐藤惣之助展」を見に行くために川崎を訪れた。行って思ったことは大都会だということだ。高校時代に来たことを思い出した。強烈な臭いが印象に残っている。工業地帯から吐き出される排気ガスが街の真ん中に漂っていた。今回それはなかったが人の多さと喧噪には驚いた。翌日、雪ヶ谷に行って感じたことは静寂だ。これで思ったことは、詩人の隠遁だ。都会を離れたところに身をおきたいという思いがあったのではないか?

 佐藤惣之助の旧居番地は「大森区雪谷四〇三番地」だと分かった。問題はこれが今の新地番のどこに当たるかだ。知る方法は二つある、一つは図書館の古地図で確認する、もう一つは区役所に行って情報開示してもらう。私は後者を試みた。自宅に近いのは大田区役所千束特別出張所だ、ここへは家から歩いて行った。窓口で事情を話すと係員はすぐに対応してくれた。役所には新旧番地対照表がある。それの確認で済むことから、現地番はすぐに分かった。
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 しかし、ここからが難関だ。旧番地は広い。丁目、番地までは分かる。が、枝番までは分からない。例えば「世田谷区代田一ノ三百十三番地」の三好達治の住まいは枝番が判明するまで半年もかかった。

 横道に逸れるが面白いことが分かった。佐藤惣之助の愛弟子の詩人の長鸚胸劼里海箸澄この彼女、師の葬儀で雪ヶ谷の自宅を訪れ、「薔薇が二株、沢山の花を咲かせていた」(『かく逢った』)と書いている。著作「かく逢った」は、多くの人との出会いを記している。彼女は世田谷代田の三好達治宅も訪れていた。

 三好さんの北沢のお宅にお尋ねしたのは、昭和二十七年頃ではなかったかと思います。そのお宅が三好さんの最後のお住まいになった家です。すこし北向きで陽当たりのよくないお部屋は八畳か十畳か、お部屋そのものはかなり広いように思われるのに硯だとか本だとか珍しそうなものが置いてあって畳の見えている所はそう広くありません。
  『かく逢った』 歯にあたる山椒実−三好さんの癇癪 編集工房ノア 一九八一年


 北沢ではなく代田だ。この代田寓居はなかなかわかりにくい。彼女の三好達治訪問は、詩集「諸国の天女は」の批評を求めてのものだった。ところが、達治はいちゃもんをつけている。「これはありきたりのつまらぬ並置法だ」「ここの喩はなっていない」「空疎だ」と散々だった。が、その因を彼女はばっさりと切っている。萩原葉子の「天上の花」を読んで気づいたという。

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2018年06月06日

下北沢X物語(3534)―文士町人脈の佐藤惣之助― 

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(一)文士町居住者ではないがゆかりの詩人がいる。佐藤惣之助である。世田谷代田の萩原朔太郎は詩人たちにとっては憧れの地だ。が、お祖母さんが客嫌いで仲間はあまり訪れていない。が、佐藤惣之助は別格でここに自由に出入りをしていた。朔太郎の妹が彼の奥さんだったことも大きい。朔太郎は昭和十七年五月十三日に代田で死去する。自宅で葬儀が行われたが、葬儀委員長を務めたのが惣之助だった。ところが、それから四日後に彼は急死する。朔太郎の娘葉子は「再び喪服を着た私は、大森雪ヶ谷の赤いバラの一杯咲いている庭に立って、ことばもなく焼香の列に加わった」(『父・萩原朔太郎』筑摩書房)と記している。前々から気になっていたのはこの佐藤惣之助の雪ヶ谷の家である。

 雪が谷は日々の散歩逍遙地域である。家の前は呑川遊歩道だ。これをどんどん下っていくと雪が谷となる。中原街道を越えた右手に石川台ハイライズという高層マンションがある。詩人の石垣りんがここに住んでいた。住所は南雪が谷だ。かつては大森区雪谷町といった。詩人佐藤惣之助はこの近くに住んでいるはずだ。いったいそれはどこなのだろうか?

 つい最近知ったことがある。詩人の長鸚胸劼北沢に住んでいたことだ。仲間のきむらたかしさんのところに寄せられた情報から知ったことだ。彼女には『かく逢った』という著作がある。これを読んで知ったのは彼女が佐藤惣之助の愛弟子であったことだ。やはり彼女も師が亡くなったときバラの咲いていた家を訪ねていた。
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 これらのことからとみに佐藤惣之助雪谷旧居への関心が深まった。雪が谷のどこだろう?それでも気になっていたことがある。萩原葉子『天上の花』には惣之助の葬儀のことが出てくる。「惣之助の葬式は洗足池の自宅で行われた。棺の中にバラの花に飾られて眠っている詩人は、今にも起き出して……」(講談社学芸文庫)とあった。家は洗足池にあったのか?。それはどこだ、常々この池には散歩で来ている。今日も、古地図を閲覧するために洗足池図書館を訪れた。

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2018年06月05日

下北沢X物語(3533)―文士町文化論の楽しさ、面白さ―

DSCN0196(一)故富安好恵さんの話の録音が偶然出てきて聞いた。彼女一人ではない、周りには地元の人がいた、みんなして地元文化を語っていた。それが皆楽しそうなのである。しかし、これ何時録音したのか、他に誰がいるのか分からない。
 しかし言えることは、皆心底楽しそうに話していた。文化は人を蘇らせる、楽しくさせる、和気藹々とさせるものだと思った。文士町文化論だ。


「文化人だけでなく政治家の皆さんも来られましたよ。鈴木茂三郎さんも、大野伴睦さんとか、賀屋興宣さんとか、迫水久常さんも、河野一郎さんもこられました。たまり場だったんですね。河野一郎さんは都議会議員で、お茶の同業者でした。それで打ち合わせで連日連夜会議が行われていましたよ。」

「宇野千代さんは一人で来られたのですか?」
「はい、女流の人達はみんな一人で三々五々集まられました……宇野千代さんは目立ちましたよ。大谷藤子さんはお化粧などしていないのです。網野菊さんは、最初はお化粧していませんでしたが後々は口紅を付けてこられましたね。壺井栄さんなどもすっぴんでしたね。みんな地味でしたね」
「中村汀女さんは来なかったのですか?」
「私は見かけなかったのですが、来ておられたそうです。お宅で使うお茶を取りに来られたとか……」
「あと、近所に東宝の家族寮があってそこの人が家の二階に来ていたんです。大道具とか小道具の人も来ておられたのでしょう。いつのまにか団扇立てが無くなっていたのです。特徴のあるものだったので覚えていたのです、あれは時代劇だったでしょうか東宝の映画を見ていたときにあの団扇立てが小道具として使われていたのですよ……他に豚の蚊遣りとか籐の枕とかあったんですよ。それも最初は無くなったのが気づかなかったのですよ。それで無くなったのは父が気づいたのですよ。『あれない!』って、ところがこれが現代劇に出てきてびっくりしたことがあるんですよ。ところがその小道具はみな返ってこないのですね。だから東宝の小道具の倉庫の片隅に今も眠っているかもしれません」

「あの女優の杉洋子さんも下北沢生まれなんです。『青い山脈』に出た女優さんですね。グリーン座のこっち側で生まれたのです。香川京子さんも引き揚げてこられたけど、その彼女も池ノ上に住んでおられたのです。そのお母さんはよく見えていました」
 杉洋子は確かに、『青い山脈』の寺沢新子役で青春スターとなっている。ただ出生地は「東京都小石川区高田老松町」になっている。

「映画のことで言えばお隣の大原には豊田四郎監督も住んでおられました。俳優の片山明彦、女優の千石規子さんとかもいましたね。佐野周二さんはここの来々軒で食い逃げしたとかというのが逸話として残っています……戦時中防空壕に逃げたとき来々軒のおじいさんですね、私を看病してくれたことがあるんですよ
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2018年06月03日

下北沢X物語(3532)―下北沢の住吉園は文化サロン―

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(一)長年聞き書きをしてきた。パソコンの記録フォルダーには音声も残っている。今日何気なくクリックすると聞き慣れた声が聞こえた。下北沢一番街、茶舗住吉園の娘、富安好恵さんである。彼女の家には世に出る前の文化人が多くたむろしていた。一つ一つの逸話が面白い。音声記録はまちの文化史の一端だ、貴重である。証言者の富安好恵さんは2012年4月18日に亡くなっておられる。茶舗はもう今はない。

「父が登山とか写真を趣味としてやっていたもんですから、登山家とか写真家とか色々な人がお店に来るわけです……」
 この登山家は深田久弥である。東松原に住んでいてよく住吉園に来ていたという。
「父はポスターも描いていたから三軒茶屋の商店街の人達がうちに頼みに来たんですよ。そうすると階下の六畳が一杯になってしまうんですよ。そんなところに女流の人達がやってくるのです。そうするとやってきた彼女らはもう勝手にぞろぞろと二階に上がっていくのですね」

「それは何年頃ですか」と私。
「ええっと昭和二十年代ですね。私が昭和二十九年の三月に小学校を卒業したからその前辺りですね」
 彼女は東大原小学校に通っていた。
「いろんな人が出入りしていたから誰が誰だか分からないのです。でもいつだったか柴田錬三郎がテレビに出たのですよ。『あらこの人ただ飯食いの人だ』って、腰に手ぬぐいぶら下げて高歯履いて気持ち悪い学生さんなんだけど大谷藤子さんの書生さんをしていたんですよね」
 彼女の家では、来た人に雑炊を食べさせていて柴田錬三郎はよく来ていたようだ。
「母はすごく嫌がっていたのですよ。というのは視線がなめ回すようでいやらしかったのですよ。で、小説家の人々は段々に売れてきて近所に小清水さんという寿司屋さんがあって二階が貸席だったのです。そこに会合場所が移るんですけど、集合場所は家なんですよ。
というのは多分、一時間いくらという風に決まっていたと思うのですね」
 小説家は貧乏だ当初は金も入ってこない。が、少し金が入るようになると寿司屋の二階で集まりをするようになった。が、恐らく彼らは時間管理ができていない。住吉園に集まって、皆が来たら寿司屋に行ったのだろう。
「そのお店、もう今はやっていません、八幡湯の向かいの牛乳屋さんだったのです。道了さんに行く角なんです。お寿司屋さん、その後牛乳屋さん……」

「それでお宅に来られていた女流は誰ですか?」
「大谷藤子さん、網野菊さん、坪井栄さん、それと私は見ていないのですが、宇野千代さんが二三回見えたと聞いています」

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2018年06月02日

下北沢X物語(3531)―活動の原点は安吾文学碑―

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(一)このところずっと気になっていることがあった。我らが建てた坂口安吾文学碑の雑草だ。伸び放題で見た目にも見苦しい。これは代沢小学校の一角に建っている。建物は今改築中で、この碑だけが工事フェンスの中に取り残されている。通常は裏手から入れるがフェンスで塞がれている。方策は北沢川に面した崖をよじ登って侵入するしかない。昨日、意を決して雑草取りを敢行した。

「坂口安吾文学碑」は、2007年(平成19年)12月3日に建立した。もう十年経つ。この碑は我らの活動のシンボルだ。会は2004年12月に発足した。北沢川沿いに住まう文学者を顕彰しようとのことから活動が始まっている。三年経ってようやく第一号が建立された。我らは当地を文士町と呼んでいるが、礎となったのがこの碑だ。

 文化論、文学論の根幹に関わる問題がある。しかし、この問題、日本広しといえどもこのことを提起しているのは我々だけだ。

 文学が発生していく場合、やはり根がある。大概がある場所に文士らが集まって活動が始まる、それは文士村と呼ばれる。ところが我らが探訪したり調査したりしている地域は従来の価値観では捉え切れない特異性がある。そのことを端的に言い表している用語が「文士町」である。実際にこれを呼称し、「下北沢文士町文化地図」を作っている。現在は改訂7版が配られている。今年度第8版を発行する予定だ。

 通常では「文士村」という。そこに中心となる人物がいてその呼び掛けによって次第に人が集まってきて文士村が形成される。その地域の〇〇楼に文士が集まって会が開かれたというのはよくある。しかし、当「文士町」では聞かれない。一人の文士のところによく人が集まって会が開かれていたというのはある。が、当地域では〇〇楼に集まって地域に住む文士達が気炎をあげていたという話は聞かない。

 「村」ではなく「町」としたのは根拠がある。それは散々に地域を歩き回って掴んだことである。この調査は、十三年も続けてきた。ところが全貌が分からない。今になってもなお、あの人も、この人も住んでいた、そういうことが分かってきている。どうやらこれは人ではなく鉄が集めたようだ。鉄道交差の利便性だ、それは文士町の特質である。

 昨日は、文学碑の雑草を引き抜いた後、探訪をした。それは仲間のきむらたかしさんに寄せられた(コメントにある通り訂正)事実を確かめるためだ。新たに分かったことは、詩人の長鸚胸劼当地に居住していたということだ。
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2018年05月31日

下北沢X物語(3530)―会報第143号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第143号    
           2018年6月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、第12回「戦争経験を聴く会語る会」

「戦争はどうあっても決してするな!」
 十年も続けてきている会で戦争経験者の誰もがこう語った。理由は、戦争になると人間が人間でなくなる、欲望丸出しにし、敵に出会えば皆殺しにする、そこに倫理はない、勝つためには方法を選ばずに殺しまくる、破れかぶれにもなってしまう。戦争末期、軍部は本土決戦を唱えた、「竹やりがなければ敵のきんたまを蹴り上げてやっつけろ!」とまで言ったという。もうこうなると狂気としかいいようがない。そう人は、狂ってまでして戦おうとする。そんなことを体験してきたからこそ言う。
「何があっても戦争はするな!」
 これは伝えなくてはならない。人は過去を忘れてしまう。そうしないために経験者の言葉を伝承していかなくてはならない。
 ついこの間、5月19日、第11回の戦争経験を聴く会語る会を終えた。「ヒロシマを語り歌う」というタイトルだ。
 まず「語る」だ、被爆者の村上啓子さんが原爆被害の実情を語った。生身の人間の話はリアルだ。
「瓦礫に覆われた町をはだしで歩いていたとき死体を踏んだのです。ぐにゃりともぐにゅりとも何とも言いようのない異様が感覚でした。今でもそれをはっきり覚えていて『原爆』と聞くと思い出されます……」
原爆被災者が語った戦争は悲惨だった。参加者の感想を記す。

 戦争は知らない私です。広島の話は聞いてはいても、私には関係ないことのように思っていました。(村上啓子さんの)お話を聞いて、忘れてはいけない。戦争をしてはいけない。強く心に思いました。お話ありがとうございました。(参加者の感想)

 参加出来てよかった! 心在る者は(自身も含め)正義を求める道、活動を続けることが大切だと痛感しています。このような会を続けていることに拍手を送りたいと思います。ありがとうございます。(参加者の感想)


つぎに「歌う」だ。これはジョイフルエコーの皆さん(16名)が歌われた。会場の東京都民教会」は、音響がよく響くように作られている。彼女らの歌は美しく響いて聞こえた。曲名は、「一本の鉛筆」、「折り鶴」、「22万羽の折り鶴」、「青い空は」、「さとうきび畑」、「戦争を知らない子供たち」、「花の街」、「BELIEVE」の八曲である。これらの歌は、「戦争反対!」とかいう拳を振り上げるような歌ではない。反戦を静かに訴える歌を選ばれたと聴いている。感想には「しっとりとした歌声でとてもよかった」とあった。代表の鈴木勢以子さんは、「平和な世界を願う心で表現させて頂きました」と言われた。ジョイフルエコーの皆さん、すべてがボランティアでの出演である、感謝したい。 
 一部、二部とも質の高いものであった。しかし、参加者は多くはなかった。二十数名だった。戦争経験を長年続けてきているがこれを続けていくことが困難になってきている。
 当日、率直に問うた。この会を続けていくべきか?
「参加する人が少なくても意義あることで続けていくべきですよ」と参加者。
「こういう会をうちで開いてくださってありがとうといいいたいです。もう今、来年の5月第三土曜日は押さえましたので」
 東京都民教会の岡崎 岳 牧師さんが言われて、これで決定した。来年第12回「戦争経験を聴く会語る会」を開催することを。

◎戦争経験を聴く会語る会を続けていくに当たって皆さん協力がほしい。
 
 戦争経験を聴くことは辛いことだ、それで工夫として音楽を取り入れている。
 これからもこの形式を続けていきたい。
 音楽で協力してもよいという方がおられれば嬉しい。ピアノ、ギター、バイオリンなどで戦争に関する曲や歌を演奏していただく。歌をうたってくださる人も歓迎だ
 戦争詩、あるいは戦争を描いた作品の朗読も歓迎したい。
 自作詩の朗読でも構わない。
 
第12回 「戦争経験を聴く会・語る会」
 ・期日 2019年5月18日(土) 13時30分(開場13時)
 ・会場 東京都民教会 下北沢駅西口、改札を出て左、徒歩三分。代田5-35-2
・テーマ オペラ 『鉛筆部隊と特攻隊』(予定) 
 ・連絡 先着70名 会費 無料
 *楽器演奏、朗読、歌をうたってもらえるボランティアを募集中



2、下北沢文士町文化地図改訂8版構想(古い写真を提供して!)
  
 私たちは、2006年(平成18年)5月に「下北沢文士町文化地図」零版を発行した。これを基軸に当地一帯に存在する文化事象、作家旧居、芸術家旧居を初めとして滅び去っていった学校(海外植民学校、帝国音楽学校、下北沢店員道場)、なくなった映画館、跡形もなくなってしまったダイダラボッチの跡など、これらの痕跡を地図に記録してきた。この総発行枚数は六万部に及ぶ。この地図には戦災で焼けた地区の図示などもあって歴史記録資料として重宝している。

 現在は改訂七版を配布中であるが、これの在庫がなくなってきた。この5月には世田谷区の地域の絆に計画申請書を提出した。この中に地図八版の計画を立て、申請書に書いた。審査はこれからである。当方の長年に亘る実績は評価されているので、恐らく申請は通るであろうと思われる。

 毎年、新たに分かったことを書き加えている。今回も新たに分かった詩人数名の旧居など加える予定である。地元からは長年慣れ親しんできて今はなくなった店も入れてほしいとの要望もある。具体的には「マサコ」である。また森茉莉が通っていた「風月堂」、彼女はここで手紙を落としたことで文豪森鴎外の娘だということが町中に知れ渡ったという。この「風月堂跡」も入れたい。
 我々は無くなった、喪失してしまっ文化事象を記録している。伝説のアパートや寮なども記述している。まちには眠れるエピソードが多く転がっている。そういう物語を発掘して地図に記録していきたい。情報はぜひ当方に!。
 また、この3月末に『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』を発行した。オリバー・L・オースティン博士写真が中心だったが、これによって過去の歴史が紐解かれている。やはり写真の情報伝達性は高い。一つ計画していることは、今度の地図の裏面に古い写真を載せることだ。当地域一帯の古い写真の提供を御願いしたい。

3、第4回研究大会の予告

 私たちは、毎年研究大会を開いている。今回は第4回目だ。先に触れたが『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』は好評だった。新聞やテレビなどにも取り上げられた。この写真によって当地域の戦後が大きな話題となった。そのことからテーマを「下北沢の戦後を語る」ということにした。世田谷カトリック教会、ザ・スズナリ、成城大学境研究室などが協力して戴けるとのこと。詳細は、次号で

テーマ 下北沢の戦後を語る
開催日 2018年8月8月4日(土)13時30分より(開場13:00)
場所 世田谷カトリック教会二階会議室 
会費 資料代として500円
なお、当日は午後18時より北沢タウンホール二階集会室で懇親会・納涼会を行う。
(別途、申込み必要 会費3000円)


4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第140回 6月16日(土) 午後1時
   三田用水・久留嶋上左岸分水跡を歩く キュレーター きむらたかし
・集合 都営浅草線高輪台駅A2出口地上(五反田駅から1駅。改札は前寄り1か所のみ)
高輪台駅―三田「用水」流末−同末流部を遡行―東京家畜市場・跡−元禄今里地蔵―三田用水導堤遺構―三田用水久留嶋上口左岸分水―玉名池・跡―玉名川上流部・跡―八芳園下―清正公・覚林寺―〔『地獄谷』〕−玉名川下流部(里俗・大下水)跡―〔旗本板倉修理屋敷・跡〕−玉名川末流部−新古川橋 〔〕内はオマケの寄り道
・解散 午後4時30分(予定)
 新古川橋々詰(都営バス 都06〔渋谷駅―新橋駅〕古川橋停留所最寄)


第141回 7月21日(土) 13時 東京メトロ千代田線日比谷駅
案内人 木村康伸さん お江戸東京を巡る(二回目)東京駅八重洲口周辺
*地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる その2 前回の丸の内に続き、今回は八重洲側を歩く
コース: 日比谷駅→南町奉行所跡→東京交通会館→東京国際フォーラム→八重洲地下街→東京駅→北町奉行所跡→大手町駅→呉服橋→日本橋駅→日本橋
*夏の時期は暑い。街歩きには不向きだ。それで計画したのが地下道を辿って江戸東京を巡るという企画だ。地下道を歩き、頃合いのところで地上に出、見学するものだ。
第142回 9月15日(土) 13時 下北沢駅北口広場
案内人 米澤邦頼さん・作道敬子さん 下北沢のオースティン写真を巡る
*『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に掲載された写真の跡をたどる。
コース:下北沢駅北口→萩原朔太郎旧居→下北沢一番街・旧宮田家具店→栄通→旧東北沢6号踏切→下北沢駅南口→下北沢南口商店街→旧砂場跡→庚申堂前
 順次写真の跡をたどる。人通りが多いので20名限度か。
第143回 10月20日(土)13時 小田急線喜多見駅改札前
案内人 池田あすえさん 喜多見の歴史を辿る
コース案:駅→次大夫堀公園→慶元寺→氷川神社→須賀神社(古墳)等々の見学を予定している。喜多見は民俗学的に面白いところだ。池田さんは当地で野菜を作っておられる。その新鮮野菜も手に入る。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲当会で建立した四基の文学碑がある。汚れていたり、雑草が生えていたり、これからは日を決めて清掃を年一二回程度行おうと考えている。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は、隅田川沿いの高層ビル)




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2018年05月30日

下北沢X物語(3529)―オペラ:鉛筆部隊と特攻隊―

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(一)偶然出会った若い女性、「私オペラを歌いたいのです」と。「じゃあ、歌ってみたらどうですか?」と私が応ずると、「はい、歌います」との答え。驚きの出会いだ。文士町探訪を十数年続けている間に多くの邂逅があった。また新しいドラマが生まれそうだ。オペラ台本を作成しそれを彼女が歌う。その彼女からは早速にメールがあった。
「是非、来年の催しに参加させていただければ、と思います」

 5月戦争月間が終わった。が、新たな悩みを抱えている。来年、第十二回「戦争経験を聴く会語る会」を開くことに決めた。「戦争」は継承しなくてはならぬ、が、この継続が年を追うごとに厳しくなっている。まず話者探しがある。体験者の高齢化でこれが困難になってきている。つぎに参加者の減少だ、戦争に興味を抱く人、特に若い人がいなくなってきている。こういう状況をどう打破していくのか、大きな課題だ。
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 「戦争経験を聴く会語る会」では来場者から提案があった。「若い人を何とか呼び込む工夫を」、「証言だけでは持たない、歌や楽器を使っての演出を」などと。とは言っても、なかなか難しい。どうしたらよいのか?

「オペラ鉛筆部隊はどうか?」
 これはふと思いついたことだ。会には鉛筆部隊の田中幸子さん、そして物語の発端を作った矢花克己さんも来ていた。
「矢花さん、フジテレビでは代役が出ていましたが、本人が出て話をしたらどうでしょう」
「田中幸子さんにも出てもらって、『今野軍曹は、私にお嫁になってと言われたのです。そのとき私の小さい胸は張り裂けるよう……』」
 そう歌ってもらうと会場は沸き立ちますね。
 オペラ『鉛筆部隊と特攻隊』、冗談で言っていたが、瓢箪から鉛筆部隊、物語はとんでもない方向に発展しつつある。


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2018年05月28日

下北沢X物語(3528)―世田谷の戦跡を歩き終えて―

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(一)戦跡歩きでは馬跡に多く出くわした。馬頭観音、馬魂碑、馬殉職碑だ、誰もが思い起こしたのはついこの間まで通りで見かけた馬である。「馬糞を肥料に使っていた」、「車より牛馬が多かった」、「道の至る所に馬糞が落ちていた」などと話した。

「この野砲兵前の道を西に行くと若林でしょう。北原白秋が住んでいて世田谷通りを通る馬のことを数多く詠んでいますよ。人糞を運ぶ牛車の足音が絶えることなく続いていた……」

 世田ヶ谷は欅竝木の若芽どき牛車つづきて騎兵隊がまた(歌集『白南風』)

「たかだか70年前ですよね、牛も馬も今は見かけませんね。時代が恐ろしい速度を上げて突っ走っていますね、恐ろしいほどです……」
 我らはそんな話をしながら昭和女子大から下馬の残存兵舎に向かった。第一師団野砲兵第一聯隊が使っていたものだ。彼らは激戦のレイテへ行く「第一師団のレイテ島戦没者12,742名、生還者50名」だったという。

「レイテは本当に悲惨でしたね。私は特攻のことをずっと取材してきました。しかし特攻というと沖縄戦ですね、知覧特攻平和会館も沖縄特攻が中心ですね、今回たまたまレイテ特攻のことを調べたのですよ。レイテまで距離がありますね、行くだけでも大変だった。神風特攻隊は有名ですが、後続の八紘隊、これは12隊ありましたけど、知られていませんね、特攻の歴史が沖縄中心になっているからです。八紘隊の多くは新田原経由で行った、ここで宮崎神宮に参拝して行ってもいる、そういうことの記録がちゃんとないのです」
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 私たちは、駒の跡を追った。下馬馬魂碑から世田谷公園へ、こここそが駒沢練兵場跡である。ここに世田谷平和資料館がある。
「疎開学童だった立川裕子さんを見舞ったことがあります。彼女は浅間温泉千代の湯にいるときに武剋隊の今西修軍曹、大平正芳伍長から書を揮毫してもらっています。ここに寄贈したのです。が、展示としてこれが日の目を見ることがありません。知覧であれば第一級資料として永久展示されると思うのです。彼女、知覧に寄贈すればよかったと言っていました。しかし彼女は死にました。彼らの遺品が宙ぶらりんになっているように思うのですが……」
 この事情を知るのは私だけである。 
 
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2018年05月27日

下北沢X物語(3527)―世田谷の戦跡を歩いて戦争を思う―

DSCN0269(一)負けた戦争の痕跡は残さない、広大な軍事施設を巡るが、説明や看板類はない。世田谷公園も巡った。ここには、「平和の祈りの像」や「平和の灯」が建てられていたり、「被爆二世の木」(アオギリ)が植えられていたりする。が、この公園が駒沢練兵場だったことの説明はない。多くの砲兵や騎兵がここで訓練をし、そして大陸や南方の前線に送られた、多くの戦死者も出している。そういう歴史を知って伝えることは大切だ。

昨日、(05/26)三軒茶屋駅に集まった。10人である。
「この5月は戦争月間としています。この一帯が5月末の山手空襲に襲われたことを記念してのことです。先週は、『戦争経験を聴く会語る会』を行いました。今日は、当地一帯の戦争痕跡を歩いていきます。ただこれほど広大な地域に軍事施設があったのに案内板とはかはほとんどありません。そこを今日は上田暁さんに案内をして頂きます……」

 広大な軍事施設跡、巡って行くと馬の碑がある、馬頭観音や亡くなった馬の記念碑や馬魂碑がひっそりと存在する。軍馬を弔うためのものだ。飼い葉を与え育てた馬が死んだり、前線に送られたりしたことを悼んだものである。これらが野砲兵、輜重兵がいたことを間接的に示すものだ。が、戦争は風化していくばかりだ。

 毎年、唯一残っている当時の兵舎、下馬韓国会館は必ず訪れる。目にするのは建物の劣化だ。今回行くと、窓にはすべてベニア板が打ち付けられていた。作られた当時の兵舎の佇まいが想像できなくなりつつある。我らの仲間では保存を願っている。何年か前、せたがや町並み保存の会の丸山さんと当局者に会いにいったことがある。その彼は亡くなってしまった。兵舎保存の動きは皆無となった。

 まず最初に行ったのは昭和女子大学である、毎年許可をもらって構内に入っている。ここには碑がある。校地南東の隅にひっそりと置かれている。

 近衛野砲兵聯隊跡
 自 明治31年 至 昭和20年
 平成2年3月吉日
元近衛野砲兵聯隊将兵一同


 建立は1990年だ、もう28年も前にことになる。1956年には同期生が皆ここに集まって記念写真を撮っている。これは62年も前のことだ。生き残りの大勢が写っている。
 北白川宮成久王は、近衛野砲兵聯隊中隊長だった。昭和15年蒙古で不慮の死を遂げる。
記念写真は成久王を偲んで撮ったものだ。この写真の真ん中には王の側室、祥子様が写っている。若くてお美しい姿だ。
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 しかし年月が経った。前は生き残りの人々が定期的にこの石碑のところに来て掃除をしていたと聞いている。もうそんな人も居なくなったのだろう、碑のまわりには雑草が生えていた。

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2018年05月25日

下北沢X物語(3526)―氏名不詳に潜む原爆の恐怖―

DSCN0247(一)科学の進歩とともに人間の欲望は増長する、今朝の新聞は米朝首脳会談の中止を伝え、トランプ大統領の北宛ての書簡には、「我々(米国)の核能力は大規模かつ強大であり、使わなければならない時が来ないよう神に祈る」とあった。核攻撃も辞さないとのことだ。恐ろしい、核はたった一発で人間を無にする。人類が産みだした最悪の兵器だ。広島に原子爆弾が投下されたがその犠牲者の実数は分かっていない。核は当該地域に住む人間を総殺しにする。赤ん坊も爺さんも婆さんも全部殺してしまうものだ。

 原爆投下による死者数について広島市はホームページでこう記している。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

 たった一発で14万人が殺された。恐ろしい兵器である。この数の末端にこそ核兵器の恐ろしさが潜んでいる。「被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています」(同上ホームページ)と。把握できていた人間が35万だ。しかし、人は流動的だ、居た人もいれば、居なかった人もいる。そしてまた流れてきた人もいる。旅行者、滞在者、一時立ち寄り者など大勢いたに違いない。偶然に原爆投下によって犠牲になった。把握できていない人々が大勢いた。この人達への想像力を働かせたのが実は、今回の証言者、村上啓子さんである。
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 毎年、原爆忌が近づいてくると決まって報道される光景がある。原爆死没者名簿の「虫干し」である。市の方ではこれを「風通し」と言っている。

 今回の講演で分かったことは、あの名簿には名前が把握できている人だけが記録されていたということだ。本当は、「氏名不詳者 多数」があったはずである。実際、広島平和記念公園の身元不明の七万柱が供養されている碑がある。

「たまたま広島に来ていて被爆して亡くなった方々ではないか、被爆死したことさえも分かっていない人達ではないか?悲惨な人達ではないか」
 村上啓子さんはそんな想像を働かせた。ところがあの誰もが知る「原爆慰霊碑」にはそういう人達のことが記されていなかった。
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2018年05月24日

下北沢X物語(3525)―原爆許すまじ!後遺症は終生―

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(一)東アジア情勢は混沌としている。が、はっきりしていることは私たちは「核の傘」によって守られていることだ。アメリカの同盟国としてアメリカの核に頼っている。が、この核なるものは人間を死滅させる、滅亡させる兵器だ。その被害を身をもって体験した、それが広島と長崎である。惨憺たる被害を蒙った。そこから「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉は生まれ、昭和27年(1952年)8月6日設立の原爆戦没者慰霊碑に刻まれた。今を生きている者が原爆犠牲者に誓った言葉だ。彼らを散々に苦しめた核、どうあってもこれに頼ってはいけない。使えば人類は死滅する。それをつぶさに体験した唯一の国が日本だ、「核兵器をなくせ!」率先して世界に訴えるべきだと思う。昨今、東アジア情勢が動いてきている、困難かもしれないが東アジアからの核撤去ということも交渉材料になるのではないか。

 広島で被爆された村上啓子さんの話だ。被爆3日後になって父の実家から迎えが来てそこに向かう、そのときの話である。

「(広島)県北の方から父方の祖父と叔父とが私たちを探しに来てくれました。それで疎開することになって焼け跡の街を初めて歩きました。父は広島市の吏員で残りました。母は重傷ですし連れていけません。私と弟が引き取られることになりました。それで原爆で焼けた瓦礫の上を一生懸命歩きました。もうその時は勤労奉仕の人々や兵隊さんたちがどんどんと片付けをしていました。死体とかを処理しておられました。しかし、それがあまりにも多く追いつかないのですよね。だから私たちもはだしで太陽の照りつける中を、道というか瓦礫の上を歩きました……」

 被爆3日後の様子、73年経とうとする今も記録として貴重である。放射能は目に見えない、市外にあるいは遠くにいる親類などが知り合いや肉親などを訪ねて広島入りした。これによって多くが二次被爆をした。いわゆる「入市被爆」と呼ばれるものだ。
 「原爆投下後2週間以内に爆心から約2キロ以内の区域に立ち入った人は被爆者健康手帳の交付が受けられる」が、当事者は被爆を想定していない、後で分かって申請をするが多くは受理されなかったと。

 村上啓子さんの証言では瓦礫の上を裸足で歩いたと言う。これで思い出したことがある。
もうかれこれ二十年近くになる、広島電鉄本社で広島電鉄家政女学校の元女生徒に取材をしたことがある。彼女らは市内電車に乗って、運転手や車掌をしていた。8月6日、市内電車に乗務していた広島電鉄家政女学校の生徒は一旦市外の鈴峯の女学校に避難する。が、行方不明になっている同僚が居る。そこで広島市内に入り彼女らを探した。履くものがない。やはり裸足だった。
「アスファルトが熱せられて歩くとべとべとと足にくっつくのです。紙屋町の電停あたりで行方不明になった子がいて懸命に探したのですよ」
本科生の豊田富士子さんの証言だ。このときもう一人、藤井照子さんもいた。彼女はやはりずっと原爆の後遺症に悩まされていた。その彼女も亡くなった。

 8月6日の広島原爆による被害は甚大だった。市内はほとんど壊滅していた。しかし生き残った人々は原爆が投下されたその日の夕刻から復興、復旧に向けて動いていた。広島電鉄の電車が被爆3日後に動き出したことは有名な話である。知られざるエピソードがある。

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2018年05月22日

下北沢X物語(3524)―原爆許すまじ!(村上啓子氏証言)―

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(一)核は一瞬にしてすべてを奪う。ここには神も仏もない。人間の命は一瞬の閃光で蒸発させ影も形も消えてしまう。そして、形をとどめた人間には高熱でやけどを負わせる。「熱い!」、「苦しい!」、「痛い!」と人は叫ぶ、原爆が落ちた瞬間から地獄絵が広がる。核の被害者は「あんなむごいものはない」と言う。核は凄惨だ、とは言ってもこのひどさは言葉では書き表せない、話を聞くにつけ、被害を知るにつけ、「どうあってもこれは使ってはならぬ」と痛切に思う。当地一帯は焼夷弾攻撃を受けた、これは消せばおしまいだ、しかし、核による被害は終生つきまとう。放射能による後遺症だ。

 原爆による放射能被害、これは原発過酷事故でも起こっている。村上さんは被爆によって世をはかなみ数多くの人が自殺したという。福島でも農業の先行き不安から自殺を図った人がいたことはよく知られている。当該地帯に居住する人は放射能被曝の不安から出身地を人に言わないようにしていると報告会では聞いている。

 村上啓子さんは国民学校三年生のときに被爆した。広島城に近い白鳥で被害に遭った。

「あの8月6日は夏休みではなく学校がありました。その日学校に行かなかったのです。市役所に務めていた父もわざと遅れたらしいのです。防衛本部の事務局長をしておりました。それで訓練を受けていたいたのでしょう。お庭の方で微かな爆音が聞こえたのですね。それで父がお庭に出ていき空を見ていました。それで私も弟も庭に出てその飛行機を見ていました。すると『これは日本の飛行機じゃない、危ないから防空壕に入りなさい』と父がいうのです。それで家の中に作った簡易防空壕に飛び込みました。入った瞬間にぐらっときたんですよ。よくあのときのことは『ピカドン』といいますが、ピカも、ドンもありませんでした。とにかく体中にすごい衝撃を受けました。床が抜けて、抜けなかったところにしがみついておりました。父も私たちを追ってきたのですが入るのが一瞬遅く左半身を大けがしました。家が倒れかかってきて下敷きになったわけです。それで私運が良かったのでしょう隙間にすっぽり入り込んでいたのです。弟も無事でした。それで防空壕を出ました。そしたら父は半身をやられていますから血だらけでした。でそのとき私はシミーズを身につけていたのです。皆さん、シミーズっておわかりですか。(これは録音を興しているが、結構うふふとかの大きな反応が聞こえる)……分からない人はいないみたいですね。そのシミーズを脱がせて肩にぐるぐる巻きにして止血をしたんです。そしてつぎの瞬間はお母ちゃんですよ。お母ちゃんがいないのです。それで『お母ちゃん、お母ちゃん』と呼んだのです。そうすると目の前の瓦礫がぐらぐらと動いて母が立ち上がったのです。生まれて57日目の赤ちゃんの妹をだっこしていました。母は体中にガラスの破片が一杯突き刺さっていました。夏だから薄いものを着ていたのでしょうとにかくガラスだらけでした。とくに顔に大きなガラスが二つほどグサッと突き刺さっていました。右の目玉がだらっと胸のあたりまで垂れ下がっていました。それを父がすくいあげたのですけど、垂れていてもうどうしょうもないからちぎって捨てたんです。それらのガラスは抜いたらもっと血が出てくる、それで抜かないことにしたのです。それで先ほど東京大空襲の話がありましたけど、私たちは焼夷弾の知識しかなかったのです。それで父は母から妹を受け取って私の背中にくくりつけ、母を負ぶって隣へいきました。ところが隣もない、そしてその隣もない、一帯の全部がなくなっていたんです……」 
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 一発の原子爆弾によって広島の風景がすべて壊されてしまった。
「どこまでも続く焼け野原のずっと向こうに小高い山が見えたのです。何とそれが似島の安芸小富士だったのです」
 これは前に広島で取材中に聞いた話だ。

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2018年05月21日

下北沢X物語(3523)―第12回戦争経験を聴く会語る会へ―

P5190984(一)戦争経験を聴く会語る会を十一年間続けてきた。当初はこんなに続けるとは思ってもいなかった。なぜ続けてきたのか。多くの戦争経験者から話を聞いてきた。誰もが言っていた「どんなことがあっても戦争をするな!」と。

・戦争は一旦始めたら誰にも止められない。
・戦争になると人が死んでもなんとも思わなくなる。
・戦争になったら人一個の人権などはまったく顧みられなくなる。


 私たちが認識したことは、この彼らの伝言の重みだ、年々人間は年老いて行く、過去の経験は風化していくばかりで戦争を知らない者が増えていく。生身の人間はどうしてもやられたらやり返すというふうな思考になりがちだ。つい去年ことだ、北朝鮮が何度もミサイルを飛ばしたとき、これへの対処として「国難突破解散」という触れ込みで国会を解散して選挙が行われた。「敵が攻めてくる」という宣伝は為政者がよく行うプロパガンダだ。やられたらやり返すという方法論の遠回しの援用だった、それで野党は大敗した。与党のアジに踊らされたのは我々国民ではないか。戦争体験者が言っていたことは戦争になれば「国家は嘘をつく」と。これを見破るには我ら市民が監視していくということが必要だ。

 今回の第十一回に参加した人がこんな感想を書いてくださった。

 参加出来てよかった!
 心在る者は(自身も含め)正義を求める道、活動を続けることが大切だと痛感しています。このような会を続けていることに拍手を送りたいと思います。ありがとうございます。


 私自身、この会をこれから続けていくべきなのか迷うことはある。しかし、普通の人達のこういう反応や批評にはとても励まされる。

 いつものように会の終わりでは、参加された方との交流を行っている。今回も参加された方々に感想や意見を言っていただいた。

「今回の表題は、第11回と書いてありますか、これを第12回と続けていくべきか、悩んでいるところです……」と私。
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「参加する人が少なくても意義あることで続けていくべきですよ」と参加者。
「こういう会をうちで開いてくださってありがとうといいいたいです。もう今、来年の5月第三土曜日は押さえましたので……」
 東京都民教会の岡崎 岳 牧師さんが言われて、これで決定した。来年第12回「戦争経験を聴く会語る会」を開催することを。
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2018年05月19日

下北沢X物語(3522)―リニア新幹線は大丈夫なのか―

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(一)リニア新幹線が敷設されることは決まっている。JR東海はその前提に立って「大深度地下使用の認可申請」を3月20日に提出した。これの説明会だ。まず工事概要についての説明があった。これが終わって後に会場からの質問を受け付けた。挙手する人は多数にのぼり、すべてをさばききれなかった。疑問が噴出したからである。JR東海側は、法令に基づいて行っているから大丈夫だ、安全だと言う。しかし、これまでにない巨大工事に対して人々は不満や不安をぶつけた。

 原発は安全だ、安全だと説明されてきた。が、一発の大地震で取り返しのつかない過酷事故を起こした。安全だと言っても必ず事故が起こることを学んだ、今回のリニア新幹線は国土の姿を変えかねないほどの大工事だ、深いトンネルを掘って、新型の電車を通す、施行する側は、工事は安全で大丈夫だという、が、集まった人々は「本当に大丈夫なのか?」疑念が拭えない。

 説明会の眼目は「大深度地下使用」についてだ。説明会で配られた資料にこうある。

 大深度地下は通常使用されない空間なので、公共の利益となる事業のために使用を設定しても、通常は補償すべき損失が発生しません。

 大深度地下は使われない、だからここに公共の利益となるリニアを作る。その場合補償すべき損失は生じないから補償はしないという。
「大深度工事は、本当に安全なのか?」
「工法は安全性、信頼性の高いシールド工法で行うので大丈夫だ」
「シールド工法が安全で大丈夫だといっても、現に、倉敷海底トンネル事故が起こっているではないか、絶対に安全だとは言えないはずだ」
「事故の知見を生かしながら行っていくから大丈夫だ」

 私は、いつも近隣を歩いている。その南部辺りをリニアが通過することは知っていた。地表であれば工事看板が立つ。しかし、リニア新幹線の通過地点などという看板はいっさいない。しかし、今回質問された中に慣れ親しんでいる池が出てきて驚いた。

 説明会場の入り口でビラが配られた。これにはこうある。
「いくら深くても騒音や振動、電磁波の影響がないとは限りません。土地の価値下落は避けられず、また洗足池の水の汚濁も心配です」

 もっともである。JR東海側は、騒音や振動については、実験をし50デシベルを下回るので問題ないと回答した。
 これについても全く問題ないと言い切れるのかとの質問があった。
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2018年05月18日

下北沢X物語(3521)―大荒れのリニア説明会(奥沢)―

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(一)昨日(05/17)家の近くの奥沢小学校でリニアの説明会があると聞いて出かけた。18時から19時30までの予定が一時間延びた。次々に質問が出て時間通りに終わらなかった。専門家が活断層について食い下がったり、自宅直下をリニアが通る人が率直な不安を投げかけたり、合間に鋭いヤジが飛んだりと説明会は荒れ気味だった。

 リニアは素晴らしい、ぜひ推進をという声は一切聞かれない、一点に絞れば一私企業が推進する巨大工事に対する市民の不安が一気に噴き出たという印象だ。原発事故に絡めての質問を何人かの人がしていた。会場からヤジが飛んだ、「根はいっしょだ!」と。根本のところ、安全だ、大丈夫だと説明される。しかし、「本当に大丈夫なのか?」と。市民は疑念を拭えない、会場は近隣の者が集まってきたが、提起された問題は大きい。数多くの質問が出て大幅に時間を超過しても消化できなかった。この事業に対して市民、さらには国民が深い疑念を抱いていると思った。

 リニア中央新幹線については前から関心を持っていた。人口が減少していく中での新線の必要性、南アルプスをトンネルで貫いて作る工事による環境破壊、破綻に瀕している国家財政(JR東海は自社で賄うとしているが3兆円の財政投融資を国から得た)が破綻しているなかでの投資、完成時には原発の電力を想定しているなど、多くの疑問点を持っていた。

 しかし、リニア中央新幹線の起工式が行われた。「大丈夫なのか?」と思った記憶はある、調べると品川駅で行われたのは2016年1月27日だった。もう二年も経過していた。今回の説明会は、工事を前提にしたものだ。そのタイトルはこうだ。

 中央新幹線品川・名古屋間における
  大深度地下使用申請に関する説明会


 この認可申請を2018年3月20日に国交省に出した。それで関係自治体での説明会を行う。奥沢小学校で行われたこれはその一環だ。すでに四回行われ、今回のは最後の五回目だ。自身、初めての参加だがこれまでの説明会がどうだったかが類推できたことだ。

 やはり、今回と同じく、前四回でも多くの質問が出たと思った。理由は、職員の異常な多さだ。中には発言者のところに行ってわざわざいさめるものもいた。
 また、質疑応答での強引な司会運びだ、これには会場から度々苦情が出るほどだった。

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2018年05月16日

下北沢X物語(3520)―Oliver L. Austin写真から町の歴史を知る―

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(一)The Oliver L. Austin Photographic Collection は貴重な記録だ。戦後のまちの生活、風俗、商品流通、さらには食文化までが分かる。特徴的なことはパン食文化の浸透である。

 『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』では、18枚の写真に番号を振っている。その13番は、現在の下北沢駅南口を撮ったものだ。ここで一番目につくのは店の二階に掲げられた看板だ。色ペンキでつぎの語が大きく描かれている。

 国際ベーカリー 和洋菓子 パン製造販売

真っ白いコック服を着た職人が左手に食パンを捧げ持った絵を添えている。人物は赤い蝶ネクタイをした黒人である。

 手前には小田急線のホームがある。電車乗客へのアピールである。撮影者は、 Oliver L. Austin博士だ。鳥類学者の彼は昭和21年(1946)から昭和25年2月まで日本に滞在している。その間に撮られたものだ。アルバムに掲げた写真18枚は当時のまちの様子を色鮮やかに記録している。町の人の表情、服装も明るい。また店頭に並べられた商品なども潤沢だ。

 戦後すぐはこのまちは荒れていた。橋の欄干はない、炊事に使うために人々が持ち去った。また学校のガラスには一枚一枚に「山小」と描かれていた。近隣の学校、山崎小学校が自分の学校の名前ペンキで描いて、「ガラスを盗むな」と警告していた。昭和21年から23年頃にかけてのことだ。

 下北沢を撮った一枚一枚の写真の撮影年号は分からない。しかし、まちが大分落ち着いて来た頃に撮ったものだと推測できる。パン屋の看板もその一つだ。

 写真番号11番、駅近くの東北沢6号踏切の商店街アーチを撮った写真にも「パン屋」の看板が見える。全部は見えない。「〇〇ベーカリー」と左が切れているがパン屋の存在を示している。右手に「パン 洋菓子 委託加工」という文字も見える。

 「アルバム」の写真には赤いジープが写っている。これはOliver L. Austin博士の愛車だ、自宅は北沢の隣の大山町、家族と一緒にここで暮らしていた。ここから車を駆って下北沢によく来ていた。彼はなぜ下北沢に来ていたのだろうか。
 写真を撮りに? 買い物をするために?

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2018年05月15日

下北沢X物語(3519)―森茉莉の足跡と下北沢風月堂―

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(一)会が発足して13年間、文士町に居住する作家を多く取り上げてきた。一番回数が多いのは森茉莉だ。理由がある、彼女の文章には当地のことが具体的に描かれているからだ。彼女の作品『贅沢貧乏』には「魔利が殆ど毎日のように歩く、淡島から下北沢の駅の先の北沢二丁目辺」と記している。この道筋にいた人々は彼女の姿を多く見かけている。しかし、時が経過し「見たよ。西洋乞食のような彼女」という人も居なくなってきた。

 「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がある。両性の特徴をよく言い当てている。森茉莉については近隣の地図は読めていたように思う、彼女は居住した淡島を中心とした世界観を持っている。

 渋谷から若林の奥へバスで大分入ったところに、北沢という町があり、バス通りの裏側に寺院の境内や木立が右側に長く続いた小道がある。
 
この文章は『恋人たちの森』(新潮文庫)の冒頭だ。彼女の住まいである淡島の倉運荘を中心とした世界観である。このすぐ側に東急のバス車庫がある。渋谷に行くにはこの方が便利で。彼女は常は淡島通りを通るバスを利用していた。ここから彼女の世界観は形成された。引用した記述は正確である。ここでいう右側はポイントだ。下北沢駅への通い路、いわば上り道を言っている。この小道は実際にある、寺院は森厳寺であり、境内は北沢八幡宮である。寺社があるところはかつての村の中心部だ。ここを通って北沢へ行く。

 お目当ては「風月堂」である。森茉莉のエッセイ『贅沢貧乏』にはこのお店の名がしばしば出てくる。『焼け遺ったまち下北沢戦後アルバム』にはこの店の看板が写っている。森茉莉逸話として有名なのがここでの出来事だ、彼女がここで手紙を落としたことで父が「馬鹿馬鹿しく有名な」大文豪の森鴎外だとばれてしまった。
 風月堂逸話でこんな話もあった。

 まず銭湯に行って入浴しようというので出かける。平常行っている代沢湯か北沢湯なら問題はないのだが、小谷さくら子の勧めに従って、半日そこで仕事をしたり遊んだりしている風月堂の横の湯に入れば夏は快適だというので、石鹸入れとお気に入りのタオル持参し出かけたのが運のつきである。
 『贅沢貧乏』 講談社学芸文庫


彼女、銭湯の右の戸を開けて入った。何となく様子がおかしい。「硝子戸越しに動いている入浴中の人々がみな黄色く痩せている」。昼間の時間帯だったので痩せさらばえた爺さんたちの裸形が硝子戸越しに見えたのだろう。結論、これは一番街の八幡湯だった。

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2018年05月13日

下北沢X物語(3518)―鉛筆部隊の人繋がりは果てがない―

第11回戦争経験を聴く会、語る会(一)老人は歩く古書である。文化探訪しているときに老人にはよく話し掛ける。彼、彼女の脳裏に刻まれている記憶こそは宝だ。昨日も、旧東北沢4号踏切前で老人に話しかけた。ここに海苔屋は無かったかと「あったような記憶があるな」と。また「この町も一気に変わってしまった。自分の住んでいる東北沢は昔のままだ」とも言う。

 そう言えば昨日、一人の老人の死を知った。19日に『第11回戦争経験を聴く会・語る会』を開く。その打ち合わせを東京都民教会で行った。「ヒロシマを語り歌う」という題で実施する。歌部門の責任者は鈴木勢以子さんだ。彼女は北沢五丁目に住んでいる。和菓子亀泉堂のすぐ近くだ。『ああ、あそこの主人急に亡くなったのですよ』と。店を畳んだというのは聞いていたが、亡くなったというのは初めて知った。

 過去ログを調べて見る。2005年6月5日から「下北沢X物語(261)〜「亀泉堂」の主人は暗号解読兵〜」として三回に亘って記事を書いている。この時彼は74歳だった。

「ええっと、杉並区馬橋に陸軍気象部というのがありまして、そこに配属されました。仕事は乱数表を読み取ることでした。ソ連の気象電報が乱数表で出てくるのですよ。長さ三十センチ幅二十センチに数字がびっしり印字されているのですよ。それが何十枚もあるのですよ。最初は慣れなくてちんぷんかんぷんでしたね。慣れると少しずつ分かってきて、乱数表が読めてくるんですよ」

 菓子屋の主人の人生の断面である。この記事を読んだ人が、「暗号解読兵だったのですか」といってカステラを買いに来ていたと彼は言っていた。まんざらでもなさそうだった。

 人生をどう生きるのか?とくに年寄りは難しい。しかし、こういう例がある。自分の過去が記録として明るみに出たことが一人の女性を勇気づけていると知った。田中幸子さんだ。

 昨日電話があった。本を読み直したという。『鉛筆部隊と特攻隊』だ。彼女はまめな人だ、この作品を通して知り合った人と連絡を取り合っている。この六月には金沢に行くそうである。彼女疎開先で同宿したのが武剋隊の出戸栄吉軍曹、金沢出身である。この軍曹の生まれ代わりという人もいた。その人と一緒に、軍曹の実家を訪ねるという。

「この間、矢花克己さんが撮った富士の写真を天内みどりさんを通して知り合った中川原さんに送ったのですよ……」と田中幸子さん。

 天内みどりさんは『鉛筆部隊』では木村みどりさんとして出てくる。この彼女の妹が木村かほりさん、特定失踪者である。中川原さんはかほりさんの同級生だ。コーラスを結成してかほりさんが帰ってきたら歓迎の歌を披露する、そのために日々練習に励んでいる。

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2018年05月12日

下北沢X物語(3517)―町の歴史を熱く探る仲間たち―

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(一)人はどうして生きるのだろうか?食べて、飲んで、寝て、その間に月日は過ぎていく、やがて寿命は果て、最後にはこの世から消えてゆく。が、その人が折々に何を見てきたのか?市井の人見聞した逸話にこそ歴史はある。しかし、時間が過ぎてそれらはことごとく消えて行く。「あれのあれはどうだったか?」、考えている間にも闇の彼方に消えて行く。

 しかし、我らの仲間はその逸話を探っている。きっかけは『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』である。これに収録していない一枚の写真、これがどこで撮られたものかを探し回っている、仕事の合間を縫って、まるで探偵のように。

 他の写真は風景写真である。電柱や道や看板など、その場所を特定する材料がそろっている。が、これは店先の様子を撮ったものだ。これだけではどこなのか分からない。まずは店がどこにあったかを探しまわった。お茶と海苔とを扱っていた店だ。

 眠っていた情報を掘り耕す。狙っていた宝がずぼりと発掘されれば幸運だ。しかしこれが一筋縄でいかない。調べていくと次々に筋違いの情報に行き当たる。しかし、この雑魚のような逸話が面白い。国木田独歩は『武蔵野』の中で、「小さな物語、しかも哀れ深い物語、あるいは抱腹するような物語」(国木田独歩『武蔵野』)と表現しているがまさにこれである。調べ熱は、実は町中蔓延している。

 今日聞いたばかりの新鮮な話だ。この間、一番街のディルフェボーというお店で行き会った人がいる。東京都民教会で打ち合わせを終えてこのお店でランチを食べることにした。このお店、『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』を店内に貼ってある。お客さんがこの写真を見て盛り上がると聞いた。
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「この間、近所の男の人三人が集まって店先で話していました。やっぱり昔の話になって、その人達が東北沢4号踏切の側に…」
 店の奥さんが言う。調べ熱がこの人にもうつったようだ。
「えっ、どうして東北沢4号なんて言い方をするのですか?」
 こっちは驚いて聞いた。分かると何のことはない。我らの地図に書いてある踏切名を言っただけという。そして話を続ける。
「こっちから行くと右手ですね、もう踏切に掛かろうかというところに味噌屋さんがあってその隣に確か海苔屋さんがあったというのです……」

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2018年05月10日

下北沢X物語(3516)―文士町になぜ茶舗は多いのか―

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(一)先頃発行した『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』を地元の人々が面白がっている。一番街のレストランにはこれが壁に貼ってある。両面貼るためにもう一枚を手に入れたという。貼られた写真を見てお客さんが盛り上がっている。我らの会員もまた熱くなっている。探偵のごとくあちこちに行っては情報を集めている。

 今懸命に探しているのが「Shimokitazawa」にあったとされるお茶屋さんである。写っているのはお茶屋の店先だ。ガラスケースの中には海苔がぎっしりと並べられている。そこに割烹着姿のめがねを掛けた女店主が写っている。これを探し当てるのは難関だ。他の写真のように建物、道、電柱などの手がかりがない。茶舗、そして人物だけが手がかりだ。

 5日にフジテレビの「めざまし土曜日」ではこの女主人を知らないかとの問いかけをした。すると応答があった、「渡辺のおばあさんではないか?」と。しかし、こちらの探偵、邪宗門の作道敬子さんはこれも調べていて、「違うのではないか?」との報、情報は今確認中である。

今回の『アルバム』は、発信性が強い。ここに載った写真や絵から多くのことが分かってきた。得られた情報は多彩、多種、あまりにも多く整理できないでいる。これら一つ一つの情報は町の歴史を物語るものだ。
例えば、テレビ撮影のときに私は古老の膳場さんから一つの話を聞いた。

「私は代沢国民学校の疎開学童で四年生のときに下北沢駅から疎開に行った。浅間温泉では湯本屋に泊まっていた。あれは三月だ泊まっていた特攻隊が血書を書いたのを覚えている……」
 昭和19年8月12日夜の10過ぎ、膳場さんは家の前を通っていった。浅間温泉では分宿をする。各旅館に特攻隊が来た。この湯本屋の隊は何隊かは分からない。他の学童のお資料に「振武隊」との文字があることから、この隊だったのか?

 一つ一つの情報を掘り起こすと新たな情報に行き着く。当地を放ろうしていた大空詩人もその一つだ。彼は北沢小学校の非常勤講師をしていたことが分かった。永井叔の自伝からこんなことも分かった。

 終戦後の或日、代沢小学校の浜館菊雄先生がNHKから疎開学童に関する回顧を、あの「太郎は父のふるさとへ花子は母のふるさとへ……」の伴奏と共に放送されたが、それを聞いていて涙が出て仕方がなかった。
 滂沱としてはふり落ちるわが涙の骸骨の様に飢えた、やせ衰えた児童達の蒼い幻が浮きつ沈みつ、見えかくれしていた。
「青空は限りなく−自叙伝・壮年編」(同成社1972)


 大空詩人は、ミドリ楽団の主宰者浜館菊雄先生のことを知っていたのではないか。

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2018年05月09日

下北沢X物語(3515)―戦後の看板から歴史発掘―

DSCN0226(一)戦争によって大東京の都心部は焼けた。ところが下北沢一帯は焼け遺った。屋根があって雨露をしのげる家があることがどれほどに有り難いことであったか。家を焼かれた人、焼かれなかった人が詩人仲間の誼(よしみ)で家を融通しあっていた。大原で焼け出された詩人福田正夫はこれによって下北沢に越してきた。ここが終の棲家となるが、この家に苺を持って見舞いに来ている人がいる。

 この名前をいつも混同してします。ともに「鳥」が、つくからだ。それは白鳥省吾と正宗白鳥である。
「あれ苺を持ってきたのは誰だったか?」
 これは白鳥省吾である。

 なぜに正宗白鳥が出てくるか。戦後、当地に来て旅館に缶詰になり原稿を書いていたからだ。

 アルバム写真には逆さクラゲの「旅館 いろは」の広告が電柱に掛かっている。偶然にこの旅館の場所が分かった。旧通り名「いなり通り」沿いにあった。福田正夫旧居のすぐ近くだ。

 正宗白鳥に『不徹底な生涯』という作品がある。この作品の発行年は昭和23年だ。出版社は文潮社だ。「文潮社は、淡路町にあった創造社で雑誌『創造』の編集長をしていた池沢丈雄が世田谷の自宅に創業した出版社である。一九四七年秋のことらしい」(『文庫パノラマ館』奥村敏明 青弓社 2000年)とある。住所は、「世田谷区北沢二丁目137」である。淡路町は焼けた、それで焼けなかった自宅に出版社を興した。この社の編集者をしていたのが水上勉である。

 彼が書いた、『東京絵図』の一節、「正宗白鳥先生が軽井沢から上京され、この宿に泊まって『不徹底な生涯』を口述されたのもその年である。これは「普通の住居を連れ込み風の宿に改造した年配夫婦の経営」する宿だ。その年は、昭和23年だろう。

 焼け遺ったまちの一端が見える。出版社が興され、また、普通の家が連れ込み風の宿になった。アベックも来るが作家も来て缶詰となった。この宿は、「いろは」ではないか?と思うが、水上勉は「名月」としている。この趣のある名前の旅館はどこにあったのかずっと聞き込んで探しているが見つからない。もしかしたら「名月」は創作で、本当は「いろは」だったかもしれないと疑っている。

 文学続きでいうと「風月堂」がある。「アルバム」では、「01風月堂」と題されたものだ。これには、やはり「いろは」の看板が見える。駅の北口である。そして左手の店の看板に「風月堂」がある。

 「ここはあの『風月堂』なのか?」
 前々から疑問を持っていた。

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2018年05月07日

下北沢X物語(3514)―アルバムの看板から町考察―

DSCN0197(一)5月5日、フジテレビの「めざまし土曜日」で『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』が取り上げられた。計画では四枚の写真の現場を訪ねていくという構成だった。そのうち一枚は、東北沢六号踏切脇の商店街のアーチを撮ったものだ。これは本番ではカットされていた。

「もうすっかりアメリカ文化がまちに定着していますね、ほらアーチの上にはクリスマスのサンタクロースが大きく描かれています……」
 自分のコメントである。この写真何時撮ったのかは不明だ。サンタクロースが「福引き大売り出し」という横看板を抱えている。時期は12月だ。

 問題は年号だ、記録ではオリバー・L・オースティン Jrの滞日は「1946年の4月から1949年の12月」までとなっている。わたしは1949年(昭和24)年12月だと推理した。離日直前にここへ来てこの写真を撮った。

 戦後のことだがまちはすっかり復興している。しかしアメリカ軍占領下にあることを示す標識がある。写真右手の踏切の所在を示す標識だ。拡大して見ると英文字が書かれている。沿線には同じものが建てられていた。

 小田急山谷駅の側の踏切の写真を手に入れて持っている。これには標識の文字がはっきりと写っている。右斜めの文字は下から「CROSSING」と左斜めは「RAILROAD」と描かれている。

 踏切標識のすぐ近くに「消火栓」の標識がある。ここに「小田証券」とある。調べると『東京証券取引所10年史』に基づいた表があった。それは「東京証券取引所設立時会員証券会社(1949年4月1日)」一覧だ、この中に「小田証券」はある。この設立時から広告活動を行ったとすれば、1949年12月という推定は根拠のあるものとなる。

 この写真まちの様子を撮っている。ここには活気が見られる。左手の八百屋、リンゴやミカンが山積みになっている。買い物客の主婦、連れられている子供、その表情も生き生きしている。

 離日直前に来てまちの様子を撮った。彼は大山町から愛車を駆ってよくここへ来ていた。買い物をしに。とするならば顔なじみの人もいたろう、愛着のあるまちだ、それを記念に撮って米国への土産とした。このまちへの郷愁があったらばこその話だ。

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2018年05月06日

下北沢X物語(3513)―憲法と戦争と言葉―

DSCN0223
(一)言葉は人と人とを結ぶものだ。が、これによる切り結びを無視するISの台頭によって誰もが無力感を覚えていた。しかし衝撃的だったのは先の4月27日に行われた南北首脳会談の交渉風景だ。韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が二人きりで対話会話を交わしていた。音声は流れないが身振り手振り、そして口の動きで言葉を交わしていることが分かる。劇的な場面だ。

 ついこの間、近くの駒沢公園に行ったとき突然放送が入った。Jアラートの試験だと。今思い返してみるとあの放送は何だったのか。北朝鮮のミサイル発射以来、日本はピリピリしていてJアラートが鳴ると電車が止まったり、またJアラートの訓練をしたりしていた。

 昨年9月25日、「国難突破解散だ」だと言って安倍首相が衆議院の解散を表明。北朝鮮の脅威を利用しての政略解散だ。ここでは言葉は通じていない、初手から相手と交渉しようという気はまったくない。それで選挙では大勝し。その果てには、北朝鮮の脅威に備えて2000億円もする地上配備型の新たな迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入を決定した。ところがその脅威は今では雲散霧消してしまった。

5月3日、「不幸な憲法」というタイトルで講演会(主催 リベラル日本研究会)が行われた。我々の視点、観点というのは固定しがちだ、ときに違った角度から切り込みを入れられる見方が変わってくる。その場合の道具は言葉だ、フレーズは思考回路の窓口だ、提示されたのは表題だ。刺激的な言葉だ。

 講演者は俳人の長谷川櫂先生だ。枕、冒頭で、このタイトルについて「可愛そうな憲法くらいにしておけばよかったか」とも言われた。言い換えれば「あまり愛されていない憲法」ということになる。

 この観点、憲法を擬人化したものだと思った。人には性がある、当方ダイダラボッチを調べているがどうも男のようだと考えている、しかしどこかに女のダイダラボッチもいるかもしれない。

本論からかけ離れるが「憲法」は、男性なのか?女性なのか?想像したことである。
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2018年05月04日

下北沢X物語(3512)―下北沢を放浪する大空詩人―

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(一)鉄道交差部の文士町には多くのさすらい人が集まっていた、四方向からこっそりと来てはひっそりと暮らしていた。しかし、鉄道ばかりではない、道もある。これこそは流浪人にはふさわしい。かつては古道筋を納豆売り、鰯売り、薬売り、金魚屋などが通った。「いわしこいらんかね〜」と声をかけながら。大空詩人も彼らと同じだ、家のある太子堂を起点にして一帯を、マンドリンを抱え放浪していた。当地を貫通する二子道は頻繁に通っていたようだ。

 北沢四丁目で偶然出会ったのは赤坂暢穂さんだ、彼から、大空詩人が北沢小学校に来ていて学童らとふれ合っていたという。その時期は、彼が北小に在籍していた1948年から1954年から割り出した。彼は高学年だったろうと推測した、しかし、それは昭和23年、彼が一年生の時だったと分かった。今井明さんから手に入れた資料にはその具体的な日付まで記録されている。

 (昭和23年)十月の中旬、下北沢の駅近くで、久しぶりに、詩人福田正夫に出あい、招かれて、ほど近いお宅へついて行った。それがきっかけで御子息誠夫(のぶお)氏の勤務されている北沢小学校の非常勤講師となり、島生虎四郎校長始め、どの先生方にも気持ちよく迎えられ、特に島生校長さんは、大人子供も含む誰人にも、この変哲を「昭和の良寛さん」と云って紹介された。
「青空は限りなく−自叙伝・壮年編」(同成社1972)


 まず、青空詩人と福田正夫は旧知の間柄であったことだ。駅からほど近いというのは北沢3丁目の家である。大原の家が焼けてここに越してきた。この経緯については、もう一人の子息、福田達夫氏が記録している。

 これも偶然だ、駒沢タンチ山のタヌキのことを調べに上北沢の長徳寺に行った。そのとき住職と話をして分かった。彼は日本中学出身で達夫氏と同期だった。このときに「戦争中の中学3年生」(私立日本中学校勤労報告隊の記録。日本中学校昭和21・22同期会編集委員会 1999年12月)という分厚い文集をいただいた。下北沢の家について達夫氏がここにこう書いている。

 父が何年か続けていた俳句の会に入っていた近内さんという人が、下北沢にせまいけれど空いている家があるからと紹介してくれた。他にやはり北沢だが、水道道路のわきにすんでいた林さんという詩人で私の家に書生として住み込んだりしていた人が、自分の家は焼津に疎開するからと「よければあとにお入りください」と言ってくれた。
 父は「自分は隣組の防火群長で、たとえ焼けあとであっても住んでいた人を訪ねてくる人もあるものだから責任がある」と言ってバラック暮らしを主張していたが、強がりばかりも言っていられず、交通の便の良い下北沢に近い六畳、四畳半の二間だけの長屋をキープしておくことにした。


福田正夫は大原で戦災に遭った、彼は下北沢に転居するが下北沢の詩人や俳人仲間が家を融通してくれた。焼け遺ったことがやはりここでも大きい。

 大空詩人が訪ねてきたのは狭いこの長屋だ。赤坂さんが勉強を教わりに行ったのもこの家だ。

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2018年05月03日

下北沢X物語(3511)―大空詩人は北小非常勤講師―

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(一)詩の根本はさすらいだ、気の赴くままにあっちへ行きこっちへ行く。当地、文士町はさすらいをした挙げ句住み着いた詩人が多い。が、この一帯を常にさすらっていたのは青空おじさんだ。彼のことを知らない人はいない。

 『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』には飯田勝氏の描画を載せている。そのうちの一枚「北沢四丁目の家」だけはどこにあったのか分からなかった。仲間の努力でこれが特定できた。それで場所を確かめようと行ったときに赤坂暢穂さんに出会った。北沢小学校出身者であった。担任の先生は福田誠夫さん、詩人の福田正夫のご子息だ。

「私は六年間先生から学びました。先生としては型破り、自由主義でしたね、それでいろんなことをさせられました。畑を作ったり、ものづくりをしたり、ときに英語を教わったりもしていました。進取の気風がありました。ああいう先生に行き会ったことはとても良かったと思います」
 赤坂さんは言われた。
「そういう自由な教育はご自分のその後に影響を与えましたか?」
「もちろんそうですね、物の見方捉え方などに影響したと思います」
 彼は名古屋の大学で教鞭を執っておられた。地理学を教えておられたようだ。昭和十六年生まれの七十六歳だ。
「学校では大空詩人が来ていましたよ」
「えっ!」
「大空おじさん、永井叔ですか!」
「そうです」
「驚きです、ここら辺りをさるき歩いていた彼のことは私もだいぶ調べました。太子堂に住んでいたのですよね。それはいつごろのことですか?」
「私が北小に在籍していたときですから、それは、1948年から1954年の間ですよ。しかし、まあ、おそらくは高学年の五六年でしょうね」
「どんな印象ですか?」
「そうですね、いつもは学校の非常階段のところに座って大空おじさんが奏でる音楽をいいていました。マンドリンを持ってそれを弾き、ハーモニカも同時に吹くんですね……、ああ、それとよく彼は言っていましたね、裏紙を持ってこいと」
 紙反故に彼は詩や楽譜をガリ版で印刷しそれを配っていた。

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2018年05月01日

下北沢X物語(3510)―会報第142号:北沢川文化遺産保存の会―

第11回戦争経験を聴く会、語る会
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第142号    
           2018年5月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1,73年目の山手空襲〜5月は戦争月間〜

 戦争はどうあっても決してするな  
1945年(昭和20)5月24日、25日は当地一帯は空襲に襲われた。山手空襲と呼ばれている。東京空襲は3月10日、十万人近くが犠牲になった。山手空襲は東京西部が被害に遭った。東京空襲は身体を襲ったものだ、山手空襲は東京中枢を狙ったものだ。これによって首都は壊滅した。米軍の攻撃リストから除外されたという。が、軍部は劣勢が目に見えているのに降伏はしなかった。本土決戦を唱えた、自決作戦だ、負けるときは国民もろともに死ぬ、惨い戦略である。私たちは、この山手空襲を記念して、ここ十数年戦争経験を風化させないために戦争関連の行事をずっと開いてきた。それで5月を戦争月間として二つの行事を行う。その告知をするものだ。

 
‖茖隠渦鵝 崟鐐莊亳海鯆阿会・語る会」 会費 無料
 ・期日 5月19日(土) 13時30分(開場13時)
 ・会場 東京都民教会 下北沢駅西口、改札を出て左、徒歩三分。代田5-35-2
・テーマ ヒロシマを語り・歌う
 ・連絡 先着70名 会費 無料(連絡は不要)

主催 北沢川文化遺産保存の会  後援 世田谷区教育委員会
 協力 世田谷ワイズメンズクラブ リベラル日本研究会

今回はヒロシマをテーマとする。一瞬にして人間を数十万単位で死滅させる核兵器はどんなことがあっても使ってはならない。唯一の被爆国はこの日本だ、広島・長崎の経験である。これは後世に受け継いでいく義務がある。今回は、八歳で被爆経験をされた村上啓子さんの話を伺う。彼女は、爆心地から1・7キロの広島市中区白島九軒町の自宅で、父母と弟、妹と被爆されています。その悲惨な経験を世界各地で訴えておられます。彼女の希望としてはぜひ若い人に来ていただきたいとのこと
 今回は語りと歌とを催す、ジョイフルエコーの皆さんが、戦争に関わる歌を披露してくださる。ぜひ来場あれ。

第11回 「世田谷の戦跡を歩く」
第139回 5月26日(土)【第4土曜日】 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
 第11回 世田谷の戦跡を歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで
 参加費 550円 申し込みは下記の電話か、メールアドレスへ


2、古老が語る下北沢(連載 第二回) 三十尾 生彦(北沢在住)
   
◎北沢の小川(森厳寺川) 
 この地区では、工場の進出は一社のみだった。それは北沢にできたセロハン工場である。それで爆発的な発展はしなかった。ところが電鉄会社が競って沿線開発を進め、さらに地区開発に力を入れた。ところが、成城学園地区のような高級住宅が密集するようなことにはならなかった。
 この一帯、丘上の高いところには高級住宅が立ち始め 中産階級以上の住むところになり富豪、豪商、高級軍人、政治家が住んだ。一方、沢筋の低地には、小商人、薄給の月給取り、職人などが住み着いた。
 昭和の初めは、増産第一で物を製造するについては環境問題はやかましくなかった。それで工場などは廃液をそのまま流していた。そのために雑魚住む小川も汚染されて死に、近隣は硫化物で空を覆われ、汚染空気に悩まされた。
 北沢地区を流れている小川は北沢中学を源流とするものだ。しかしこれも緑道として埋め立てられ、暗渠化した。
 しかし、この森厳寺川は度々水が溢れた。とくに小田急の築堤の下を流れるときに流量が多い場合には水が流れて行かずにこの水が溢れることが度々あった。築堤を突き抜けるマンホールがあって子供は探検と称してよく潜っていた。今は全部が暗渠になって代沢小の側で北沢川に合流している。
◎地主と出店の関係
 電車が開通した当初、一帯には畑が多かった。が、生産性の低い農地を抱えて納税するにも地主は困っていた。それで先を争って貸家建設に走った。当時、至る所に子どもの遊び場としての空き地あった。そこが「エンヤコラ」の掛け声とともに地ならしされ、貸家が続続と建てられた。
 また、面白い事にこの間に公設市場というのができた。その規模は小売店舗が20軒ほど入れる規模の、今でいうスーパーマーケットのようなものだ。が、これは皆対面販売のテナントだ。ところがこれは商店街完成を埋めるカンフル剤の役割を果たすことなく、出店はつぎつぎに廃業に追い込まれていった。
 その公設市場だが、私の記憶ではセロハン工場の前、成徳高校の前と笹塚にあった。 
◎店舗について
 本通り、栄通、一番街、南口通りのようなところは旦那衆や地主が競って店を出して商店街を造り、繁栄の基礎を作った。しかし長期的に見ると今は、少子高齢化で、後継者の悩みが確実あり、凋落傾向もないわけではない。小田急の地下化が進んできた今はどうやらシャッター街の兆しが見られる 長期対策が必要だろう。  
 通り一本で買い物ができる、この点が良かった点だ。これら主要通りは.銭湯、パン屋八百屋、肉や、魚や、蕎麦屋、金物雑貨屋、タバコ屋、呉服屋、洋服屋、理髪店、葬儀屋等が揃っていた。またいそのほかに飲食店が出店して一応すべてがそろっていた。
 それでも膨張は止まらない。はみ出した需要、それの解決策としては出店が周辺の細道にまで及び閑静な住宅までで及んできている。
 今進んでいる路線地下化が完了するのは近い。完成すれば南北がつながる事により客の流れがよくなるだろう。それがどう変化するか、関心を払っている。
 下北沢の駅一帯は十分な駐車場を持つ大型店舗が作れない。それで地方都市のように大型店舗ができて皆そこに吸い寄せられている。商店街がゴーストタウン化しているというが、問題はある、少子高齢化である、こういうことに配慮していく必要がある。

3、「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」〜マスコミの反響

 
 年度末3月31日に『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』を世田谷区地域の絆の助成を受けて発行した。これには大きな反響があった。まず、4月2日にTBSテレビ「ビビット」で取り上げられた。取材は三四時間に及んだ。しかし本番で映し出されたのはいくらもなかった。測った人がいて数十秒だったとも言っていた。
 テレビを見ましたと言って電話が掛かってきた。それは牟田敬之さんという写真家だ。何とミドリ楽団の団員だった人だ。この人は下北沢のおしゃれな近代住宅「北澤文化集宅」に住んでいた。戦前に建てられたものでお風呂は電気で沸かし、便所は水洗だったという。超モダンな建物だった。テレビ出演がきっかけで彼からこの情報が得られた。
 次は読売新聞だ。4月17日づけの朝刊「都民」のトップニュースとして取り上げられている。「戦後写真はどこ」という見出しだ。「昭和館」で、オリバー・オースティン・ジュニアの写真展が開かれていることを伝え、これに続いて、「下北沢で撮影18枚区民らパンフ」へという見出しで紹介している。カラー写真が載っている。邪宗門の作道明マスターと私とがパンフレットを持っている場面である。
 これもNHKのデレクターから記事を見ましたとの電話。が、彼は研修中でアルバムを材料にして番組企画を提出したいとのこと。申し出を受けて、番組になることのない練習企画を作るのに付き合った。若いデレクターの教育係みたいなものだ。
 4月25日には東京新聞には記事が大きく掲載された。反響も大きい。朝刊最終面の半分が記事に当てられていた。カラー画像を七枚も使っての記事はインパクトがある。「戦後 GHQ職員が活写 写真で見る下北沢今昔」という見出しである。
 北沢タウンホールと邪宗門でアルバムを配っている。前者からは当日、大勢がもらいに来たとのこと、それで500部の追加を御願いしますとの連絡だ。
 当方へは、新聞を見たということで電話やメールでの連絡が数多くあった。今度戦争経験を聴く会で話していただく村上啓子さんからもだ。彼女の住まいは茨城県牛久だ。東京新聞、あちらでも見られるのか!
 新聞にも書いてあったが、後二枚下北沢で撮ったのではないかと思われる写真、その撮影場所を必死で探している。一軒のお風呂屋さんは豪徳寺だったことが分かった。もう一軒のお茶屋さんは分からない。会員が何十人と会って情報を集めている。この東京新聞を見て連絡してきたのはフジテレビだ。「めざまし土曜日」で放映したいとのこと。
 『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』は、まちの歴史記録である。多くが読み取れる。一番のポイントはまちが焼け遺ったことだ、往時の町並みが写っていて、その景色が今日現代に繋がっている。その変化の中に情報が読み取れる。我々は、このアルバムの情報を求めている。一つ一つを集めると今まで知られていなかった歴史が日の目をみるのではないか。どんな情報でも構わない、ぜひ連絡を。コメントやメールなどで
  
4、都市物語を旅する会
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第140回 6月16日(土) 午後1時
 三田用水・久留嶋上左岸分水跡を歩く キュレーター きむらたかし
・集合 都営浅草線高輪台駅A2出口地上(五反田駅から1駅。改札は前寄り1か所のみ)
高輪台駅―三田「用水」流末−同末流部を遡行―東京家畜市場・跡−元禄今里地蔵―三田用水導堤遺構―三田用水久留嶋上口左岸分水―玉名池・跡―玉名川上流部・跡―八芳園下―清正公・覚林寺―〔『地獄谷』〕−玉名川下流部(里俗・大下水)跡―〔旗本板倉修理屋敷・跡〕−玉名川末流部−新古川橋 〔〕内はオマケの寄り道・解散 午後4時30分(予定)
 新古川橋々詰(都営バス 都06〔渋谷駅―新橋駅〕古川橋停留所最寄)

第141回 7月21日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
案内人 木村康伸さん お江戸東京を巡る(二回目)東京駅八重洲口周辺
*地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる その2 前回の丸の内に続き、今回は八重洲側を歩く
コース: 日比谷駅→南町奉行所跡→東京交通会館→東京国際フォーラム→八重洲地下街→東京駅→北町奉行所跡→大手町駅→呉服橋→日本橋駅→日本橋
*夏の時期は暑い。街歩きには不向きだ。それで計画したのが地下道を辿って江戸東京を巡るという企画だ。地下道を歩き、頃合いのところで地上に出、見学するものだ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲紀要第6号「世田谷代田地域研究」・『焼け遺ったまち』は事務局中心に配布中。
▲毎月、第四土曜日2時に会報を邪宗門に持って行く。皆さん文化談義をしませんか。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2018年04月30日

下北沢X物語(3509)―文士町文化の鉱脈と平和憲法―

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(一)2004年12月会発足以来、文化探訪の旅を続けている。聞き込んだり、調べたりしてきた。それらを一つ一つは積み重ねてきた、そして今日は3509エントリーとなった。この蓄積は自分には貴重だ、この頃これが結晶化、熟成化してきていると思う。

 一昨日、作道敬子さんが探り当てた情報があった。『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に載せた飯田勝さんの絵がある。六枚のうちの一枚は、「北沢四丁目」とあるが、どこにあった家なのかは分からなかった。聞き込みに聞き込みを重ねた末の成果だ。味のある絵、住んでいた人のことも分かった。絵は家族のドラマをも写し取っていたと思った。

 28日、事務局に会報を印刷して持っていったときに情報を知った。その現場はぜひ見ておきたい、そこは古老三十尾生彦さんの家に近い。彼は会報にエッセイを書いていた。その執筆者に会報を届ける用事もあることから行った。久方振りに会員の及川園子さんが来ていて、彼女も現場の近所だ、いっしょにそこに向かった。

「何だここだったのか!」
 家のあったその道は因縁があった。かつて自転車で通勤していたときに通っていた道だ。古びた日本家屋が確かにあった、場所が分かると記憶も蘇るものである。

 面白いことがあった。このとき及川さんの知り合いが犬を連れて通った。
「ほら、この絵ってここよね?」
「ちょっと違うような、どうしてかというと二階の窓ガラスが割れていて前から気になっていたのよ」
 破屋として放置されいたようだ。人の記憶は面白い、割れていたガラスのことは覚えているが場所は曖昧だった。

 及川さんもこの家の聞き込みを続けていて、来るときに呼び鈴を押した家があった。赤坂さんの家だ。再度呼び鈴を押したところ応答があった。

 赤坂暢穂さん、彼と出会ったのも因縁である。彼の話は一つ一つがしみ通る、地に根づいた話だった。隠れた文化鉱脈とはかくやと思ったほどだ。

 赤松さんは知らなかったが、彼はわたしを知っていた。驚きだ、地図やブログでとうに知っていたという。それですっかり打ち解け、ついにお家にお邪魔して話を聞いたことだ。

 人は言葉なり、数語交わしただけで相手が分かる。言葉が豊かで知の深さが思われた。その勘は合っていた長年大学で教鞭を執ってこられた人だ。
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2018年04月28日

下北沢X物語(3508)―東京新聞を読んで:伊藤文学―

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(一)北沢川文化遺産保存の会は、2004年12月に発足した。この時のメンバーに入っていたのが伊藤文学さんだ。知り合って十三年にもなる。一冊の原稿を抱えて困っていたときに彼が出版社を紹介してくれた。本の名は『鉛筆部隊と特攻隊』だ。朝日新聞の書評で取り上げられ増刷された。これが端緒となって長編四冊を書いた。昨年十二月に出したのが最終巻『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』である。

 世田谷の疎開学童と沖縄に飛び発つ特攻隊とが深い接触をしていた。調べると代沢小ばかりではなかった。彼らは東大原小、駒繋小、二子玉川小、山崎小の学童らと深い関わりを持っていた。もの悲しい悲恋物語もあった。これらは埋もれていた歴史真実である。この陰に伊藤文学さんがいた。

 伊藤文学さん、一刻者だ、付き合っていると衝突をする。何回も喧嘩をした。坂口安吾の文学碑を建てるときデザインを巡って対立したこともある。彼もブログに記している。代沢小での講演のとき私が言った一言が気に入らないで「席を蹴って」会場を出ていったとも記されている。

 しかし、彼はおおらかだ。この春に何度か出会ったがもうすっかりと昔の恨みは互いになくしていた。「やあやあ」と出会って握手をしたことだ。

 伊藤文学さんは、我らの会から出ていった。彼の思いがあった。北沢川沿いを斎藤茂吉とともに歩いたという思い出がある。それでいち早く歌人の文学碑を建てたいと思っていた。それで彼は別の人と組んで代田北沢川に大きな文学碑を建てた。私は文学碑などは質素でいいと思っている。が、彼は大きくて風格のあるものではければならないと思っているようだ。大金を掛けて斎藤茂吉の歌碑をついに建てた。

「もうね、あの人ともそりがあわなくてね抜けちゃったよ」
 この前、そんな話をしていた。会からは抜けたようだ。

 伊藤文学さんのお父さんは、伊藤祷一さんだ。美装本で有名な第一書房の編集者だった。戦後になってこれを再興しようと詩人の田中冬二と彼とが長谷川巳之吉に掛け合ったが断られ、第二書房を下北沢に興した。その出版社を継いだのが伊藤文学さんだ。
 その彼から手紙をいただいた、それを紹介する。

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2018年04月27日

下北沢X物語(3507)―講の道中:世田谷から富士へ―

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(一)歩きは脳を刺激する、物事を気づかせもする。「いい道はいい考えを浮かばせる」、微妙にカーブしている緑豊かな道、発想の源だ、「人は立ち止まれば不審者、歩いていれば旅人」。かつては自転車派だった、これは捨てた、未練はない、歩きに魅力を見いだしたからだ。歩きの途中ではよく富士に出会う。立ち止まって眺める。遠望する富士はやはり綺麗だ。遙か彼方に孤高の富士が雪を戴いてどっしりと座っている。見ていると気の安らぎを覚える。

「あの富士まで歩いて行こう」
 そんな思いも湧いてくる。富士につい人は感情移入してしまう。しかし、客体的に見れば富士そのものに意味はない。意義を見い出しているのは人間自身だ。

 いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない

有名な台詞、夏目漱石の『三四郎』の一節だ、向学心に燃えて三四郎は上京する、その車中で出会った広田先生から富士について聞かされる場面だ。この言葉に対する三四郎の反応が面白い。「三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする」と。
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明治44年刊行の『尋常小学読本唱歌』に「ふじの山」が収められているが、一節目、二節目最後は「富士は日本一の山」と高らかに歌われている。これは周知のことだろうが、広田先生は「日本一の名物」だという。そして次の言い草が素晴らしい、「富士山は天然自然に昔からあった」と。これは掛け値なしにそうだと思う、何万年前からあって後から人間が現れ、この山をああでもない、こうでもないと批評してきた。結局、富士の色づけをしてきたのは日本人そのものである。

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2018年04月25日

下北沢X物語(3506)―あくがれの富士:冥土としての富士―

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(一)我々はどこからどこへ行くのか?それは誰にも分からない。が、確実なのは老いてそして死ぬことだ。その後どこへ行くのか?これまた分からない。それで人々は手がかりを経典に求めた。来世には地獄があり、極楽があるという。針のむしろでの生活より、香しい蓮の花に囲まれて過ごしたい。誰しも思うことだ。ところが寺院の僧侶は言う、「極楽は十万億度の彼方にある」と。理解不能な程の彼方にある。しかし、富士の場合は違う。

 富士講の大先達身禄の弟子の高田藤四郎は、彼の教えを受けて説いたという。

 実際に自分の足で富士に登ったことで分かる。富士八合目では月を出迎える、あのときの感動は忘れられないものだ。煌々と照り輝く月の中に三尊の如来が見える、それを見たときは、極楽に行ったような思いがしたものだ。

 言えば、手に届くところに神がいる、それは富士だった。江戸時代における富士講の広まりは、遠い存在の極楽を身近にしたことが大きい。もう一つ大事なのは、その富士が常々望めたということだ。

 信仰心は廃れた。しかし、富士にあくがれるというのは今もある。太宰治の『富嶽百景』の一節に、「あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない」とある。都会から見える富士の一端だ。
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 自身の散歩コースというのがある。目黒東工大の大井町線と目黒線を跨ぐ陸橋はいつも通る。ここから富士がよく望めるからだ。見えないとがっかりする、見えると嬉しい。
「私もね、ここは必ず通ることにしているんですよ」
 ここで出会った人がいる。彼は病気がちだが、ここへ来ると元気になるという。
「ほんとね、富士が見えるとホッとするね、やっぱり富士はいいねえ」
 胆石で東芝病院に入院していたときに患者が話していた。ついこの間、病院に行くと東京品川病院と名を変えていた。
 
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2018年04月24日

下北沢X物語(3505)―霊峰富士:観光の隆盛と信仰の衰退―

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(一)「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」という理由で、富士は世界文化遺産に登録されたという。しかし、前者の信仰、具体的には富士講だが著しく衰退している。また後者の芸術の源泉だが近代的な建物、とくには高層ビルが建ち麗しい富士を塞いでいる。「万葉集」では、山部赤人が「語りつぎ 言ひ継ぎ往かむ 富士の高嶺は」と詠んでいるが、近代の富士は危うい。

毎年中央線で長野へゆく、新宿からの特急はとくに混み合う、が、大月でかなりの人々が下車する。ほとんどが外国人だ、富士急行線に乗って富士方面に向かう人である。世界文化遺産になってから富士がグローバルなものとなり観光客が押し寄せている。

 まず、我らは富士の恩恵を得た水力発電所を見学した。鹿留発電所だ、この母体となる桂川電力は1910年(明治43)9 月に設立された。現地に行ってみて分かることは地形が荒々しいことだ、渓谷に発電所を造り、これを動かすための導水路を掘り、水圧鉄管を敷設する。大きな土木工事が行われたことが容易に想像がつく。
「やっぱり鉄道が出来ていたのでしょうね、何時できたのでしょうか?」
 山峡に発電所を建てるとすれば機材やコンクリートなどの運搬が必須だ。鉄道が開通していないと出来ない。調べると甲武鉄道は、1902年(明治35年)10月1日に大月まで、翌年6月には甲府まで開通している。

 甲府盆地の真ん中まで鉄道を通すことは大変であった。八王子以西は急峻な山々が聳え立っている。中でも笹子トンネルの掘削は難工事だった。が、これが貫通し笹子峠を鉄道で潜り抜けることができるようになった。その喜びもひとしおだった。甲州財閥は鉄道開通に商機を見いだした、豊富な水資源を使って電気を起こし、それを東京方面に売る。

 桂川電力経営陣は、折々に北口本宮富士浅間神社に参拝をした。電気の源となる水は富士に降った水だ。霊峰富士の恩恵を受けてこその会社である。鹿留発電所によって起こされた電気は大田区の六郷変電所まで送られた。ここには今でも桂川神社が祀られている。ご神体は木花咲耶姫だ、これは富士浅間神社のご祭神と同じだ。

 我々は、鹿留発電所を見学した後に、北口本宮浅間浅間神社へ行った。このときに偶然に神社の玉垣に「桂川水力株式会社」と彫られた石を見つけた。同行した米澤邦頼さんが見つけたものだ。

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2018年04月22日

下北沢X物語(3505)―一富士、二富士、三も富士―

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(一)太宰治の富士批評は群を抜いている、富士には「かなわない」、富士は「やっぱり偉い」、富士は「よくやっている」(『富岳百景』)、そういう富士を昨日みんなでレンターカーを駆って見に行った。第138回目の町歩き(案内 藤井理嗣さん。運転 米澤邦頼さん)だ、都留からは笛吹市の矢花克己さんが鉛筆部隊の田中幸子さんを乗せて合流した。またとない好天で、間近で富士の姿を拝めた。太宰は、「註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた」とも言ったがあまりにも間近に接すると照れ臭くもなる。

 富士を巡る旅、物見遊山である。が、富士は我らの活動の底流に大きな存在を占めている。当地最大の伝説、ダイダラボッチとの結びつき、当地一帯に流行っていた富士講との関連、当地を縦断する高圧鉄塔駒沢線との連関など、富士は当地の文化事象全般に関わる。

 昭和二年に小田原急行鉄道は開通するが、往時の社の鳥瞰図を見ると富士を基軸とした旅への誘いがメインとなっている。当地からの富士の眺望、展望も欠かせない、丘上から見られる富士は人々の心のよりどころであった。
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 小田原急行鉄道、帝都線とが下北沢で交わることによって利便性がが増し、鉄道交点を取り巻くように小学校が開学していく。これらの学校のほとんどが校歌に富士を詠み込んでいる。一例として東大原小の一節、「朝夕あおぐ 神山富士の 正しき姿 清らの心」と。神々しい山、富士は、学童らの精神的支柱となっている。景色眺望にメリハリをつける重要なポイントでもあった。

 富士は日本人の精神的支柱である。万葉歌人赤人詠んだ歌はその一つだろう。

田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ
           富士の高嶺に雪は降りける


「ゆ」は、ポイントだ、経由してという意味だ。田子の浦沿いに旅をしているとき、とふと海岸沿いに出た、すると頂上まで真っ白に雪をかぶった富士が聳え立っていたことよ。霊峰富士に出会った感動を詠んでいる。そう山にに接すると誰しも神々しい気持ちになる。
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2018年04月21日

下北沢X物語(3504)―北澤文化集宅と嘉穂寮―

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(一)分かってみると面白い、北澤文化集宅と飯塚嘉穂学寮は隣合っていた。段丘になっていて高い方が文化集宅であり、低い方が学寮だ、こちらは川筋となる。飯塚の川筋男というと気性が荒くて有名だ。産炭地の子弟に遊学するに便利なところというので飯塚市はここに寮を建てた。彼らは必死に勉学に励んでいた。が、道一本隔てると優雅な文化集宅があった。都心へ通うスーツを着た男、また夕方から銀座の高級バーに通うマダムもいたという。世帯は二十数世帯もあったが一人で二部屋を占めている人もいたようだ。

 北澤文化集宅は井の頭線の渋谷寄りだ。反対側の新代田寄りに秀樂園アパートがあった。こちらもオシャレだった。昭和12年に建てられたという。「アパート生活は、長屋を借りるよりはずっとモダンで都市的な生活と考えられていた」(『田園と住まい展』世田谷文学館カタログより)こちらは風呂はなく銭湯を利用していたそうだ。

 文化集宅は風呂があってこれが電熱で湧くと聞いた。男女別の風呂だったように記憶しているが、これは牟田さんに確かめている。

 文化集宅は「秀樂園」よりも高級だったようだ。電話を取り次いでくれる人がいるというところかして違う。それと電話を引くことが大変だった。牟田さんは昭和十八年生まれ、戦後の話をしているのだと思う。

 『父・萩原朔太郎』(萩原葉子)に電話番号の抽選の話が書かれている。代田に住む萩原朔太郎が松沢局に出かける。このとき妙なものを詩人は持って行く。
「背中にしゃもじを背負って行くとかならず抽選にあたるおまじないだよ」
その甲斐あって抽選にはうかった。戦前は電話を引き込むのも大変だった。

 中原中也が北沢に住む横光利一にもっと便利な都会に出てくるようにと手紙を出していた。都内だと思う存分電話で話ができるが北沢だと市街だから電話は高いし、繋がらない。

 嘉穂学寮と文化集宅の間は川と丘との境目だ。これは住宅地図を見ても分かる。学寮側の一角は家々の密集度が高い。が、一段上の文化集宅になると土地が広々としている。文化住宅の敷地も300坪あったとか聞いた。
駐留軍将校のウィリアム・バンスさんもこの辺りにある接収家屋に住んでいたようだ。
牟田家とは懇意にしていたらしい。集宅で将校の子供と記念写真に収まっているのを牟田さんは持っていた。もちろんカラーである。

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2018年04月19日

下北沢X物語(3503)―下北沢「北澤文化集宅物語」―

DSCN0113(一)世田谷代田に「小暮荘」というのがあるらしい。ある夕刻、世田谷代田駅前で飲み会を行っていたとき、「小暮荘はこの近くなんですよね?」と通りかかりのアベックに聞かれた。「あんたたち鋭い勘をしているね、あれには『小田急線・世田谷代田駅から徒歩五分、築ウン十年』と書いてあったでしょう、そうそう南へ行かずこっちに来たのは素晴らしいよ」とこちらも小説虚構の「小暮荘物語」に付き合ったことがある。

 「北澤文化集宅」は虚構ではなく実在していた。デザインや設備、内装などかなり凝っていたらしい。「小暮荘」はアパートだが、こちらはオシャレなコンドミニアムだったらしい。俳優、作家、デザイナーなどが住んでいたという。ここを舞台とした映画を撮りたいとの話もあったようだ。カットでは幾つかの映画に出てくると。戦前からあったというこの「北澤文化集宅」の話を聞くのは始めてだ。

 牟田敬之さんはここに長く住んでいた。彼は代沢小の「ミドリ楽団」の元団員だった。この因縁で彼と出会った。昨日、18日に邪宗門で話を聞いた。

 この集宅、古い地図で確認してみる。「住宅地図1962年(昭和37年)版」にはちゃんとある、北沢二丁目二四二番地である。区画が「イ」と「ウ」に別れている。三百坪ほどだったらしい。
 
 東宝映画「大当たり三色娘」で下北沢あずま通りの八百屋に車が突っ込む場面がある。駅から来た道とあずま通りが交差したところの角に八百銀があった。
 確かに下北沢駅南口から真っ直ぐに西に向かう道が写っている。下って降りていく。そして木立の間を上っていく。映画を一時停止にする、すると雪村いずみがお尻を突き出している。その向こうに丘へ上る坂があって二本の松が見える。この右手に三角形の屋根が見える、これがどうもそうらしい。

 牟田さんは、写真家だ、ご自分で撮った写真を持って来られた。それを見るとコンクリート二階建てだ、真四角ではなく楕円を間に入れたりしてデザインと意匠に工夫が懲らされている。場所的には丘上に掛かるところだ。

「いつごろに建ったのですか」
「戦前だね、たぶん昭和十、四五年だと思う」
 これは一緒についてこられた兄の、敬武さんの話だ。
「うろおぼえだが、まつしょぼうの編集長か?そこの誰それがヨーロッパに渡って建築事情を見てきたらしい、それでスペイン風の建築で作ったのだと……」

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2018年04月18日

下北沢X物語(3502)―デレクターとカメラマンとの文化談義―

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(一)日々が過ぎていく、このところ多くのことがあった。しかし、言葉は時間には追いつかない。今日は、今日あったことを書こう。二人と会った、一人は若いデレクターである。昨日の読売新聞の記事を読んで興味を持ったようだ、それで直接会って取材したいとの申し出だ。三時から人に会うことになっているのでその前だったよいと。

「この辺り一帯の歴史や文化を十三年前から調べています。このことを、『下北沢文士町地図』に記録しています。今回作ったアルバムはこの地図の別冊となっています。これが焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』です。やはり焼け遺ったというのはキーですね。焼けたまちの代用機能を果たすことになったのですよ……」

「ひとくちに焼け遺ったといっても意味が掴めませんよね。当時は多くが焼けてしまったのですね。焼けなかったことがいかに大きなことだったか……」
詩人の福田正夫は大原の家を焼かれてしまう。詮方なく壕舎生活を強いられる。そのときのことを詩に描いている。

 次々莠防の歌

 キリヤコンキリリコンコロコロン
 壕舎は鳴きますうたひます メゾ・ソプラノの顫音あの山手空襲で
 うたはせるのは風なのですね 「福田正夫全詩集」 冬至書房新社 昭和59年


 大原と北沢は隣り合わせである、だいぶ前に地元の人に聴いたことがある。
「焼けた焼けないでは大違いでしたよ。今になるまでどれほど苦労したか!」
 しかし、それにしても福田正夫の擬音語は素晴らしい。大原の微傾斜を南風がなめていく音を見事に描いている。

「家があるということは生活をする上で基盤になりますからね、家があれば商売でもなんでもできますからね。ほらこの写真は今の下北沢駅北口ですよ。温泉マークに 旅館と書いてあるのです。いわゆる連れ込み宿ですね、しもたやを改造したにわかづくりの旅館です」
 「いろは」があって、「名月」、「かたばみそう」もあった。
「そんなのいくらでもありましたよ。家の近くには『たかはし』という連れ込み宿がありましたよ」
 新手の名の連れ込み宿が、この後で会った牟田さんから聞かされたことだ。

「下北沢というと音楽文化ですよね」
 デレクターは聞いてきた。
「そうそう、そうなんですよ。しかし、これは今に始まったことではないのですよ。この写真アルバムにある時代から音楽的な素地はあったのですよ……」

 つい話が長くなる、『ミドリ楽団物語』まで話は発展した。
「おもしろいですね、それは取り上げてみたいですね」
 彼は取材して企画を出す。ところが番組にならない企画である。今日来たのはNHKの研修生である。彼は番組制作コースにいてそろそろ研修も終わりに近づいて、具体的な計画を出さなくてはならない。それで新聞に載ったわれらのアルバムに着目をしたというわけである。

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2018年04月16日

下北沢X物語(3501)―3500ENTRYの根幹は漕ぐ・歩く―

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(一)誇っていいことがある、それは書いて、漕いで、歩いてきたことだ。頭と足とを使っての3500エントリーである。その根幹はフィールドワークにある、前は自転車だった。2006年6月24日に会として初めて出した冊子が新聞に大きく取り上げられた。その朝日新聞の見出しは「自転車でたどる下北沢文士物語」とあり、続く小見出しには「ブログで報告、冊子に」とある。写真には自転車にまたがる姿が写っている。

 ひたむきに走っていた、その頃は自転車で地球何周したとか話していた。足で学んだことは大きい、隈無いほどに走り回った。足の筋肉が記憶したことは国分寺崖線の斜度である。多摩川から家に帰ってくるときにここを登り切ることの辛さがあった。このことによって足が地形を覚えこんだ。荏原一帯で地理的要件で大事なことは沢と丘である。自転車で登って降りてを繰り返しているうちに土地の形状を知った。このことから丘の形状を代田半島、大岡山半島と呼ぶようになった。言い始めは自分である。

 3500エントリーは自分には壮大な物語である、成長や気づきのドラマだったということだ。これもフィールドワークによることが大きい。自転車で梅丘を通りかかったとき宇田川家の大欅の剪定に行き会った。「昔はこの枝を大森の漁民が買いにきていた」と主人から教わった。数年後、「稲毛道が箒で掃いたように綺麗になっていた」との記述を目にした。二重の驚きがあった、一つは、何と荷車からはみ出た欅の枝が箒の役割を果たしていた。それは海苔ヒビに使う欅の枝であったのだ、もう一つは、稲毛道は背尾根道、古道であって海に向かい、そして品川宿に向かうものだった。
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 記事を書き重ねるうちに自分自身が学んでいた。前に書いたことが後になって別のことに結びつく。その連続だった。実は、このブログのタイトル前は、「浮遊的物語世界的日記」であった。最初、ブログとは何かよく分からないうちに始めた、このことがブログ名に端的に表れている、気分は浮遊的、漂泊的なものであった。

 念のためと思って、「浮遊的物語世界的日記」を検索してみる。すると一例がひっかかった。「森茉莉の名残を偲ぶなら今のうちか? 浮遊的物語世界的日記 という、下北沢を話題にした blogに森茉莉の話題が時々出てくる」とある。ブログからの引例が一つあって、「浮遊的物語世界的日記」が生きながらえていた。

 現在は、「東京荏原都市物語資料館」である、訳も分からずに始めたことがエントリーの回数を重ねることで次第にテーマがはっきりとしてきた。自分自身は旧郡の荏原地域一帯を漕ぎ、そして歩き回っていたのである。

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2018年04月15日

下北沢X物語(3500)―3500ENTRYから生まれた著作群―

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(一)日々をどう生きるか、大きな課題だ、今朝の朝刊の声欄に「本当の人生 定年後に始まる」とあった。そう第二の人生をどう送るか?自らが考えるべき問題だ、日々歩いているが瞬間に行き違った夫婦の会話、「お父さん、日に十時間もテレビ見ちゃだめよ!」、これには「……」相手は無言。することもなく日長テレビを観て過ごすというのもあるだろう。こういうのもあった、「退職以来プラモに凝ってね」と言う彼、倉庫の中はその完成品がぎっしりと並べてあった。与えられた人生をどう生きるか。私の場合は十三年間、ひたすらに書いてきた。当ブログである、ひたむきに書いて書いて書きまくって、今日で3500エントリーとなる。

 そういえば、一千エントリーに達したとき、取材があった。ネット上の「下北沢経済新聞」である。検索で調べると記事は消えずに残っていた。掲載は、2008年4月25日である。タイトルは、

下北沢近辺の地理と歴史を探るブログ、3年半で1千エントリー突破


 「日本鉄道詩紀行」(集英社新書)、「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」(汐文社)などの著書を持つ児童文学作家のきむらけんさんが下北沢周辺の都市文化や近代文学について調査した結果などを書きつづったブログ「東京荏原都市物語資料館」のエントリー数が、このほど1,000件を突破した。 

 記事掲載から十年、記事はもう2500を超えている。日々書くことが日常で、エントリー番号は機械的につけている。が、3500ともなると感慨深い。人生は日々明日へと繋がる、「月日は百代の過客」という有名な言葉があるが、「ネット記事も白代の過客」である、当方が放った記事は、ネット空間で永遠の旅に就いている。

 3500エントリーという数は数値としてイメージできるが、個々の記事はどのような旅を続けているのか?長い帯のようになっていてネット空間にさまよっている。尻尾あたりは消えてなくなっているのではないか。

 自分の部屋には段ボール三、四箱分の資料がある。ただ積み上げているだけで、「ああ、あれはどこへ行った?」というときに探してはみる。途方もない作業だ、こんなときは検索する。「東京荏原」と入れ、そして関連の「〇〇」を入れると大概は、引っ掛かる。尻尾部分も消えずにネット空間をさまよっている。

 ネットでは、見知らぬ誰かがたまたま検索で引っかけることがある、ときにその人がコメント寄せてくるときもある。印象深い逸話は幾つもある。

 今、ふと思い起こしたことがあって「仰徳集」、「糸賀」と入れてみた、たちまちに記事が引っ掛かった。「下北沢X物語(1374)〜丘影の若き貴公子の物語2〜」である。ここに「仰徳集」から引用した短歌を載せていた。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

品川駅を発って行かれる若き貴公子、白川宮永久王を駅で送ったときの心を詠んだものだ。王はモンゴルで不慮の航空機事故に遭い亡くなった。「仰徳集」はその死を悼む歌集だ。この糸賀公一さんの息子さんが偶然当ブログを見つけられた。その糸賀公三からこんなコメントがあった。

 昨日この記事をコピーして父に会って来ました。大変喜び、こうして情報を提供していただきました皆様に、くれぐれもお礼をと言うことで、再度ご連絡を致しました。
 さすがに高齢ですので(98歳)自分の詠んだ歌の文言までは憶えていないようでしたが、品川の宮邸に何度かお邪魔した事、また運動会があった事など思い出したようです。
 蒙彊の地でご逝去された時には父は、東京から出張のおり現地に伺ったと、話して居りました。また宮様は演習中に自国の飛行機に突っ込まれて亡くなられ、宮様の父君、祖父君もいずれも不慮の死に遭われていたので、宮様自身日ごろから、注意されていたにもかかわらず、あのような事になってしまって、あの無念さは忘れられないと言って涙ぐんでいました。
 日ごろは単調な療養生活ですが、父はこの記事は何度も私に読んでくれるように要求し、昨日は思いがけず充実した日となった事でしょう。ありがとうございました。


 全国のひそかなところで、ひそかに記事を読み、涙ぐんだという人もいる。続きを読む

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2018年04月13日

下北沢X物語(3499)―多摩川の土手での対話―

DSCN0102(一)戦争四部作を書き上げて、ようやくライフワークに着手した。これまた壮大な文化論である。テーマは旅だ、近代の旅における律動をテーマとしたものだ。言えば音の文学論である。明治期に鉄道が出現し、機械音が時を刻み始めた。律動はリズムである、一定の間隔をおいて刻まれるこれは人の記憶に残った。意外なことにこれが文学テクストに記録されている。順次これを追っていくと新たな観点の文学史が開けてくる、その可能性にチャレンジをしようと考えている。

 日々私は旅をしている。徒による逍遙だ、前は多摩川へは自転車でよく行っていた。が、この自転車はすっぱりと捨てた。駐輪や手入れや故障の心配から解放された。歩きは何といっても健康によい。

 自宅からは南へ向かう。すると多摩川左岸の国分寺崖線に行き着く。これに沿っていく、この背尾根にはずらりと古墳が並んでいる。東急多摩川駅からは河川敷を南下する。すると多摩川を渡る新幹線が見られる。歩いていく十数分の間、上り下りがひっきりなしに通る。それも十六両編成だ。
「そんな急いでどこへいくのだろう?」
 
新幹線を目で送りながら古代の旅を思う。『伊勢物語』の「東下り」だ、都を発った男は、「行き行きて駿河の国にいたりぬ」。歳を重ねて歩きの味を知った今、「行き行く」という言葉の意味深さが分かるようになった。「野を越え山を越え歩きに歩きを重ねてとうとう駿河の国に辿りついたことよ」という意である。

 一歩一歩のストロークに深みがある、峠の頂では一息つき、山水を飲み、彼方の山並みに目を遣る、そのときに人生とは何ぞやと思いもする。この歩く過程にこそ味わいがあったのだ。
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 が、今我らの旅は待つことが中心だ。目的地に着くのを待つ、座席に縛り付けられて身動きできないままに旅をする。退屈である。が、東下りの旅では、「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふ」、何が現れるか分からない、不安で不安で仕方が無い。そんなところにとふと一人の修行者に行き会ってホッとする。

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2018年04月12日

下北沢X物語(3498)―看板から町を紐解く―

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(一)当地には多くの文士が住まった。詩人、俳人、歌人、小説家などだ。その彼らの作品にまちの情景が描かれる。これまでは文字を通して町並みや通りを想像するだけだった。が、歌人が詠んだ町の情景がつぶさにカラー写真で眺められる。もちろんDr.オースティン写真である。これによって作品が詠まれたり、書かれたりした当時の町並みを目で確かめられるようになった。

 下北沢在住の歌人堀内通孝は、戦後のまちの様子を七首の歌に詠んでいる。そのタイトルは「下北沢」である。

戦ひの火に遇はざりしこの区画冬靄やさしき高きにみれば
「風物歌集」(財団法人 都市計画協会発行 昭和二十八年)


 詠まれた年月は昭和二十五年二月である。Austinによって撮られた写真とは同時期である。今回発行したもののタイトルを『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』とした。やはり大事なポイントは「戦ひの火に遭はざりしこの区画」、つまり焼け遺った下北沢である。

 堀内通孝は近くの丘から町を眺めた。彼の家は高みにあった。冬靄に包まれた町がぼぉっと沢の底に浮かんで見えたのだろう。戦火に遭わなかったことの安堵感がしみじみとこれからは感じられる。

 この町が焼け遺ったことが当地の命運を決定づけた。なぜ狙われなかったのか。空襲があったのは昭和二十年五月二十四日、二十五日だ。B29重爆撃機は恐ろしいほどの数が飛来してきた。計画は綿密だ、一機一機に目標地点が割り当てられていた。いわゆる絨毯爆撃作戦だ。が、最初から外されている地区があった。Dr.オースティンが住んでいた渋谷大山地区である。代々木練兵場、後のワシントンハイツから近いこと、また邸宅街であったことから投下場所から除外された。米軍は終戦を考えていた。駐留は代々木練兵場だ、とするならば将校の宿舎が必要だ、代々木大山町はここの邸宅が当てにされていた。大山は下北沢の西北に当たる。この下北沢の位置も焼けなかったことに関係する。季節は五月だ、風は南から吹いている。

 B29の高度は3000メートルほどだったという。上空に来て焼夷弾を落としはしない。高度一万メートルで飛来してきたときは立川辺りで投下すると聞いたことがある。西から飛来してきて多摩川を過ぎて投下したのではないか?が、ノルデン式爆撃照準機は下北沢の東北は抜かしていた。誤爆の恐れがあったことから下北沢も偶然抜かされたのではないか、これは想像だ。しかし、結果的に焼けなかった。

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2018年04月10日

下北沢X物語(3497)―アルバムが町の文学史を紐解く―

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(一)Dr.オースティン写真には看板に焦点を当てて撮られたものがある。店の二階部分にずらりと並んだ広告。どれも目立つように大きく文字が書かれている。特異な景観だ、ちょうどこの前には小田急線の線路がある。電車の窓から見えるようにと設置されたのだろう。競って店名を売り込んでいる、こういう活況が南口に人を呼び込んだのだろうか。

 南口で店を出すのは当初はためらわれたらしい。「砂場」のお上さん、住む部屋は近くに借りて、とりあえず店舗を出して営業をしてみる、そんなことをしていたらしい。北と比べて人通りは閑散としていたようだ。

 渡辺順三はここに古本屋を出した。開店したのは昭和十三年四月だった。商売人としては「私は、全くの素人なので、どのくらい売れるものか見当もつかなかった」。この彼はプロレタリアが多く集まっていた豪徳寺からやってきた。

 その頃は貸家などはいくらでもあった。私は妻と二人であちこちを見て歩いて、結局下北沢駅南口通りに新築の二階屋で、間口二間の店舗になっている家を借りることにした。たしか家賃が二十五円で、敷金が百円だった。『烈風の中を』 東邦出版社 昭和46年

 友人の助けを借りて手作りをした店だ。彼の知人は横浜の寺の坊さんだった。こんな申し出をしている。

「うちの寺の縁の下に、墓標の古いのがたくさんあります。五六寸角からもっと太いものもあるから、これを挽き割って店の本棚をつくったらどうです。材料はたいてい檜で、何年も風雨にさらされたものですから絶対に狂いません」(同上)

 大地堂は密かに人気のあった店だ。懸命に本を探すと掘り出しものもあった。とある人がこんなことを書いている。

一九四四年の秋、駅に近い古書店「大地堂」に、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』(改造文庫版)がひっそりとおかれていたなどといっても、信用するだろうか。あとで知ったのだが、古書店の主人は「プロレタリア歌人」の渡辺順三氏であった。
        「東京セレクション」花の巻 住まいの図書館出版局


 ある人と書いたが、井上光晴である。 
 かつて松林宗恵監督に下北沢を案内してもらったことがある。この大地堂跡も回った。
「ここの通りはよく通っていた、店を覗くと三好達治がいて何度も見かけた」
 彼には憧れの詩人だったらしい。

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rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化