2019年03月19日

下北沢X物語(3724)―九品仏川の水を巡る物語―

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(一)九品仏川は目立つことのない小支流である、が、本流に劣らない歴史物語を秘めている。この川が貫流するのは世田谷区奥沢だ、名の表すとおり奥深い沢沿いを流れている。両岸は国分寺崖線も含む丘陵地帯だ、双方の谷から流れてくる水は豊かである。これが戦国時代の城の防塁として使われた。九品仏はかつての奥沢城だ、舌状台地先端にある城は天然の要害、川が形成する泥濘によって守られていた。この城は「鷺草物語」の主舞台である。城主大平出羽守には愛娘の常磐姫がいた。世田谷城主吉良頼康はこれを見初め側室にする。ところが殿に寵愛される姫に他の側室は激しく嫉妬する。虐めは昂じてていき、それに堪えられずついに自害を決意する。それで父のもとに鷺に結わえた遺書を放った。偶然奥沢城近くで狩りをしていた頼康は鷺をこれを射てしまった。彼は自分の子を宿した姫の死を知る……その白鷺の血の跡から白鷺草が生えた。この花は湿性植物だ、九品仏川の水で湿った地に生えたものだった……。

 小支流九品仏川は秘められた流れだ。が、この川、「水因縁」が深い。まずは九品仏川における河川争奪だ、ところがこの形容語しっくり来ない。人間同士が水を争うのではない、川同士が水を取り合うことを指す。人間と同じように川も互いに水を奪い合うということらしい。悠久な自然営みを争奪という言葉で表すのはどうかと思った。

 が、九品仏川をめぐる水因縁は物語だ。一つは神と水だ。
「九品仏川沿いに熊野神社に関わる社が三つあります。まずは等々力玉川神社、ここは吉良頼康が熊野から勧進したものでもともとは熊野社だった。次にもっとくだると自由が丘に熊野神社があります。そして九品仏川が本流にぶつかるところに熊野神社があります。この神社は水と深い関わりがあるもので何らかの関係があるやもしれず……」
 案内人の木村康伸さんの話だ、これは興味深い。

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2019年03月17日

下北沢X物語(3723)―九品仏川を歩く―

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(一)九品仏川は馴染みの川だ。とはいうものの今はすっかり暗渠化されていて川跡とは分からない。自由が丘の緑道はマリクレール通りという名がつけられている、かつてのドブ川の上に今はオシャレをした大人の女性が行き交っている。今は昔、かつての九品仏川のことで二つ思い起こすことがある、一つは銀幕の俳優、もう一つは俳句だ。前者とは川のほとりの畑のところでばったりと出会った。私も彼も自転車に乗っていた。映画で見慣れた顔が現実のドブ臭い川のそばにいる。不思議な出会いだった。「たしか小林旭はこの九品仏浄真寺のそばにいいまでも住んでいるんだよ」と昨日仲間が教えてくれた。彼がこの川のほとりに佇んでいたとしても不思議ではない。が、種明かしがあっさりとなされてやや落胆したことだ。

流れゆく大根の葉の早さかな    虚子

 昭和三年十一月十日、九品仏浄真寺に吟行したときの作品だ。国語の教科書にも載っている有名な句だ。このとき、星野立子、睫鄙能修覆鋲鷭戎名も参加者がいたという。彼ら一行は我々とは反対に九品仏から等々力方向へ歩いていったという。虚子は途中小川に出て橋を通りかかった。そのときに大根葉っぱが勢いよく流れていくのを見てこの句を作ったという。句作した川は、矢沢川という説もあるが、やはり九品仏川だと思う。前者の川だと葉と自分との距離が遠い、川の切れ込みが深いからだ、が、九品仏川の川面は間近だ、つつつと流れて行く大根の葉、「なんとまあ速いことよ」は実感できる。

「川幅の流れが狭かったので流れはとても速かったそうなんです」
 「九品仏川を歩く」の案内人木村康伸さんはそういう。
この川、歩いて行くと今でも畑が点在する、昭和三年当時だとどこもここも畑だらけだったと想像できる。
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2019年03月16日

下北沢X物語(3722)―巨人伝説の里はJAXAの里―

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(一)ダイダラボッチ伝説探訪で淵野辺駅の改札を出た。真っ先に目についたのは銀河を駆け抜ける機関車の絵、「ギャラクシーパネル」だ、「はやぶさ2を、相模原から宇宙へ、日本の未来はここにある」とのキャッチ、何とここはJAXAの里だった。しかし、当方が得たものは、「だいだらぼっち2を、相模原から心の宇宙へ、日本の過去はここにある」だ。実際に歩いてみて古代人の想像力に驚嘆した。あんな大きな富士を巨人が背負ってここへやってきた。よっこらしょと腰掛けた丹沢はぺしゃんこになった。再び立ちあがろうとするとぷちぷちと藤蔓が切れてしまった。彼はくやしがって、じんだらじんだらと地団駄踏んだら沼が、また「六尺ふんどし」を引き摺ったら窪みまでできた。何と素晴らしい想像力ではないか、デイラボツチの里、ここには果てしない心の宇宙の故郷、巨人の里、相模原へ来たれ。

 どこからどこへ、人間が抱えている絶えざる課題だ。が、科学技術はどんどん進歩し発展を続ける。今や宇宙に存在する小さな星の岩一つの大きさまで測ることができる。どこへという場合夢がどんどん膨らんでくる。が、どこからということへはあまり目を向けられない。ダイダラボッチ伝説は、自分達の根源を測ることができるものだがあまり注目されない。おもしろおかしく荒唐無稽にこの話を捉えている場合が多い。

 相模原ではダイダラボッチ・フィールドワークを試みた。が、この頃感じていることがある。かつては自分自身の羅針盤は精度が高かった。この方向だろうと思って行くと、目的地は見つけられた。ところが歳を取ったせいか、精度が悪くなってきた。鹿沼から相模原市立博物館に向かうがなかなか辿り着かない。精度の狂った羅針盤を当てに歩いているからだ。ようやっと辿り着いて、「デェラボッチ関連の展示はありますか?」と聞く、「あれは伝説ですから当館では一切展示はありません」と受付嬢。伝説は科学ではない。
「埋蔵発掘物はありますよね」
「ええ、旧石器から縄文など沢山ありますよ」
 この相模原台地には古くから人が住み暮らしてきた。巨人伝説と旧石器や縄文などの遺跡は関連が深い。この地も同じだ。

「市民研究室には地域資料がたくさんありますからぜひご活用ください」
 気の毒がったのか、彼女は親切に二階のそこへ案内してくれた。

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2019年03月14日

下北沢X物語(3721)―相模原巨人伝説を検証する―

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(一)巨人伝説については大きな謎がある、根源は何処までさかのぼるのかという問題だ。伝承の経緯は深い闇に包まれている。デェラボッチ伝説が残る鹿沼公園で88歳の古老に出会った、彼は小学生のときに爺さんから話しを聞かされたという。昭和10年頃ことだ。彼よりももっと年寄りの村田さんは、「子どものころは、夜になると火ジロ(囲炉裏)で火にあたりながら、祖父母から色々な話をしてもらった」(『相模原市史』民俗編)と証言している。娯楽のない子共には最高な時間だった。大男伝説の語り部の一人古山は(大正十四年生まれ)「ディラボッチは背負ってきた富士山があまりにも重いので大山に腰を掛けて休み、立ちあがろうとしたときに踏ん張った足跡が鹿沼と菖蒲沼になった」と伝えたという。当地では伝承が今もなお生きている。これは昭和→大正→明治→江戸と遡れる。

 ダイダラボッチ伝説の探訪に行くときにチェックしておくべき資料がある。柳田国男の論考『ダイダラ坊の足跡』だ、言ってみれば「ダイダラ坊辞典」だ。彼は論考で『松屋筆記』(まつのやひっき)に出てくる伝説を引用している。これは江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆である。彼の出身地は武州小山田村(現町田市)である。大野村の鹿沼とは隣接していた。柳田国男はこの筆記を『ダイダラ坊の足跡』に引用している。「相模野の中にある大沼といふ沼」での話としている。

 民俗学者自身も「自分は以前何回もあの地方に散歩して」その場所を探し回ったようだ。それが確かめられなかった。それで「果たして村の人たちが今ではもう忘れてゐるか否かを確かめたい希望を持っていた」と書いている。

 これについては、『相模原市史 民俗編』(平成22年 総務局総務課市史編さん室)ではこう言及している。

 柳田国男は昭和十三年(と思われる)の十二月に『松屋筆記』に記されたデイラボツチンの伝承を辿るべく、現在の大沼神社のところにあつた大沼に出かけたが、村人たちは「まつたくそいういう話は聴いておらぬふう」であったと書いている(「じんだら沼記事」「讃岐民俗」)。現在までの聞き取り調査でも、大沼デイラボッチ伝承があったという報告はなく、『松屋雑記』に記された「大沼」が、大沼神社にあった大沼をさしたかどうかは、もはや確認できない。

 現在の大沼神社は、ディラボッチ伝説の残る鹿沼とは約四キロ弱離れている。問題は大沼にディラボッチ伝説があったかどうかだ。現地の古老はそんな話は聴いていないという。

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2019年03月13日

下北沢X物語(3720)―相模原巨人伝説探訪記―

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(一)ダイダラボッチに取り憑かれたようだ、大男伝説の話を聞くと足が先に動いてしまう、この間は、埼玉、茨城へ、昨日はまた神奈川に足を運んだ。ダイダラボッチフィールドワークだ。続けていると土地土地固有のものが浮かび上がってくる。「現地に行かずしてダイダラボッチを語ることなかれ」、昨日は相模原の伝説を訪ねた、至近距離に丹沢が見えた、「あの山はデェラボッチが腰掛けたから平べったくなった」というのはリアリティがある。これまで多く巨人伝説地に行った。が、当地の伝説はスケールが大きい。やつがふんどしを引き摺った「褌窪」があったり、地団駄を踏んだ「じんだら沼」があったり、各所至るところに伝説が残存している。相模の国の巨人伝説中心地ではないかと思った。

 巨人伝説の地を訪ねてきた。伝説がよく伝わっている所とそうでない所がある。相模原はどうか下調べをしてみた。感触では話の浸透度は深いのではないかと予想された。期待が高まる。

 下車駅は横浜線、淵野辺駅だ、南口で下りて真っ直ぐに行くと鹿沼公園がある。真ん中に池がある、白鳥池だ、これは「でぃらぼっち伝承」を伝えるために整備されている。その池の形は巨人の左足をかたどったという。早速にこの池をぐるりを巡る。すると目当ての看板はすぐに見つかった。

相模原市登録史跡 
でぃらぼっち伝承地

 巨人伝説の主人公「でいらぼっち」の伝承は、相模原台地上段の沼地やくぼ地の形成伝承として市民に親しまれています。
 鹿沼公園の池は、「でいらぼっち」が地団駄(じだんだ)を踏ん跡だと伝えられており同様の伝承は、鹿沼のほか、淵野辺地区では菖蒲沼(しょうぶぬま)、大沼地区の大沼、若松地区の小沼や、大野台、清新、橋本、矢部、東林間などのくぼ地に残されています。
 巨人にまつわる伝承は「大太郎法師」などの名で全国各地に残されていますが、その多くは窪地が埋められるなど景観を変えています。
 鹿沼公園の池は「でいらぼっち」伝説を伝える数少ない遺構となっております。

 登録年月日 平成十三年四月一日
 相模原市教育委員会


看板の案内によるとまず伝説は市民に親しまれているという。つぎに市内各所に窪地があってそこに伝承があった。ところが宅地開発などで今ではほとんど埋められてしまい、唯一残ったのがこの池だという。
 
 印象深く思ったことは、行政側が伝説地を「登録史跡」と認定し、これを広めようとしていることだ。

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2019年03月11日

下北沢X物語(3719)―自然風景の喪失と日本人の心―

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(一)また巡ってきた3.11だ。もうあれから8年、福島では震災関連死が増えているという。原発過酷事故で故郷を失った人が生きる意欲をなくして衰弱して死んでゆく、自殺も増えているという。いつまでたっても帰れない、未来不安、フラッシュフォワードが原因という。魂のよりどころである故郷を失ったことが大きい。
 意欲が減衰すると人は動かなくなる、すると体力も弱ってさらに意欲は減衰する、が、脳だけは生きている。考えることはできる。ここで唯一楽しめるのは風景だ。死に際になって思い浮かべるのは故郷の風景だろう。あの山、かの川、母の背中に負ぶわれて眺めた満開の桜、よっちゃんやさっちゃんと遊び戯れたお寺の境内……心のよりどころだ。が、原発避難民は、そこに戻れない、伝来の墓にも入れない。故郷喪失絶望死。

 人間にとって風景は大事なものだ。先だって、文芸雑誌編集長だった人と文学論をして熱く燃えた。若い人はもう体験が違ってきていると彼は言った。電車の中ではみんな誰もがスマホをいじっていると。
「風景は見ないのですね、私は風景が好きで、汽車に乗ると窓辺にかじりついていました。夜になっても外を眺めていました。いま思えば自然は豊かでした。汽車などは海岸縁すれすれに通っていて、沿線には石を載せた家がありましたね。ふくよかな自然を何千、何百枚も見てきました。だけど今は風景に面白さがないですね、どこまで行っても同じなんです。前は風景を見ることを前提に車両は作られていました。ところが今は長距離の各停までもがロングシートになりましたね。前に坐ったおばさんがミニスカートはいていると目を背けなくてはならなくなりました……」
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 自分が死ぬとき、やはり風景を記憶から呼び出して反芻するだろうと思う。

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2019年03月10日

下北沢X物語(3718)―絶望的な故郷喪失:フラッシュフォワード―

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(一)明日で震災から8年を迎える。人々の記憶も風化してきている。ところが現地では問題がより一層深刻化しているという。とくに原発過酷事故の起こった福島では顕著である。当地では今なお、4万2000人が避難している。故郷に帰ろうにも帰れないでいる。
古里は誰にとっても心のよりどころだ。ここを離れれば一層に思われる、「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」(『一握の砂』)、啄木の切ない望郷歌だ、かつて石持て追わるるごとく出郷した渋民の地であっても懐かしい。東京での赤貧生活の中で北上の青い新緑風景を思うことで心に灯りが点った。希望だ、人は絶望的な状況にあっても故郷を思うことで救われる。ところが帰る場所を失った避難民はそれができない。中には希望も失い、生きる意欲も失って死んでいく人が居る。未来不安、フラッシュフォワードという。この同じ国土に居ながら生きる希望を失って侍して死を待っている人がいる。原発汚染は土だけでなく心まで蝕んでいる。

原発過酷事故による心的ストレス、これを取材した ETV特集「原発事故 命を脅かした心の傷」が放映された。調査報道、「ふるさとを喪失」した人々の実情だ。

 いわゆる震災関連死は岩手や宮城と違って福島では今も増え続けている。番組では震災関連死の具体的な事例に基づき分析している。人々は避難生活を強いられ、避難先で飲んで食ってという生活を余儀なくさせられている。そんな人がどうなっていくのか、具体的な事例に基づいて一人の精神科医が分析していた。

 人間の身体というものは筋肉を使わない時間が一週間あると筋肉は段々に退化してしまう。これが長期にわたったから体力的な面が全部落ちてしまった。体力が弱って意欲もなくなる。それに伴って免疫力も落ちてしまう。すると全身状態が悪くなってしまう。

  過酷事故が起こって人々は避難した、この逃避行が困難を極めた。多くが五回も六回も移動させられている。希望はない、絶望的な逃避行だ。この場合の人々の心模様は分からない。が、土地から強制的にひっぺがされた人々は根を失ってしまった。
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2019年03月08日

下北沢X物語(3717)―朝ドラ「エール」世田谷代田を歩く2―

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(一)朝ドラは、連続テレビ小説の略称である、筋立てはフィクション、面白おかしく話を作って人を惹きつける。が、作曲家は現実に生きた人だ、それで人々は物語を信じてしまう。先だってBSテレビで「昭和偉人伝−人々にエールを送る歌作り 中村泰士・古関裕而一世一代のマーチ」という番組を見た。古関裕而が早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を作曲したのは有名だ。そのときのエピソードをドラマ仕立てにしていた。そのセリフだ、
「しびれをきらした応援部の学生は連日のように現れた。時には数名の大男たちが部屋を歩き周り、古関は曲ができあがる前にアパートの床が抜けないかと心配した……」と。時期的には世田谷代田でのことになる。しかし、ここはアパートではない、新居は平屋だった。ここら辺りは面白おかしく語っている。

上京直後の昭和六年(一九三一)年四月、音楽学校進学を強く希望していた古関金子は待望の帝国音楽学校に入学した。そのためもあり古関は、義姉の住む阿佐ヶ谷から世田谷の代田に新居を構えた。
 『古関裕而物語』 斎藤秀隆著 歴史春秋社 2000年


 朝ドラ「エール」世田谷代田の舞台を歩くは、まずは帝国音楽学校跡地から始まる。ここで古関金子は声楽の先生のベルトラメリ能子に師事している。

 学校の開校は昭和二年、大根畑に忽然と現れた帝国音楽学校からソプラノが朗々と響き渡ってきた。地元民はびっくりしたが、これも日常となると耳が肥えてきた、下手とか巧いとかが分かったとも聞いている。
 
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2019年03月07日

下北沢X物語(3716)―朝ドラ「エール」世田谷代田を歩く―

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(一)3月1日に朝ドラ《2020年度前期》連続テレビ小説 制作決定!の報が流れた。タイトルは「エール」である、副題は「音楽とともに生きた夫婦の物語」だ。音楽家古関裕而と金子夫妻の物語だ。古関裕而の出身地が福島、内山金子は豊橋だ、この両市が連携して夫妻をテーマとした朝ドラをとNHKに陳情してそれが実ったものだ。
古関夫妻は、昭和六年(1931)から世田谷代田に居住し、共にここを終焉の地としている。境涯に及ぶ多くの作品が当地で作曲されている。当ブログでは2017年11月19日に「世田谷代田も朝ドラに加えて」との記事を発信している。さっそくに町歩きのコースを考えついたことだ。

しかし、新聞で発表されたものを読むと、主には青春時代を過ごした福島を舞台にするとのこと。これには東日本大震災の発生から間もなく10年を迎えるが、とくに福島はいまだに復興途上にある。それでこの地域を応援したいとの意味があるようだ。となるとストーリーが見えてくる。主舞台は福島で、折々に金子さんの故郷豊橋が出てくるのだろうと思われる。作曲家として大成した地である世田谷代田は舞台にはならないのではないかと推察される。

 朝ドラで古関裕而を取り上げる。これは2020年のオリンピックがらみであろう。先回の東京五輪のときの行進曲『オリンピック・マーチ』を作曲したのが古関裕而である。恐らくは世田谷代田の家でこれに向けて懸命に曲に取り組んでいたのではないかと思われる。
 
この代田、町と人とを巡って五輪がらみの物語がある。
 世田谷代田に地元で名を知られた関豆腐店があった。古関裕而もこの豆腐に舌鼓を打ったろう。
「前は井戸水を使っていたんだ、ところがこれが使えなくなったんだ。環七ができて途端に水質が悪くなったんだ。道路の下にヒューム管を通すんだ、これに大腸菌が付着するんだね……」
 だいぶ前に関さん本人から聞いた話だ。
 環七はオリンピック道路だ。これができることによって代田名物が一つ消えた。
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2019年03月05日

下北沢X物語(3715)―永遠の謎:ダイダラボッチ―

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(一)ダイダラボッチとは何か、大きな謎だ、いつ頃に生まれた伝説なのかは不明だ。が、大正時代に荏原のダイダラボッチ跡、擂鉢山や狢窪を訪ねた谷川磐雄は、「私はその足跡地に何度も行って石器や土器を採集した」と述べている。伝説の根源を示唆するものだ。この話を講演会でしたところ、「私も子ども頃、この辺りでしょっちゅう拾っていた」と。「畑の隅に小石の山が築かれていそこに土器の破片とかやじりとかがあった。宝の山だった。今でも持っている」とのこと、後で聞いてみると一人だけではない、私もという人がいた。つい数十年前までは普通に土器の破片ややじりがそこいらじゅうに落ちていた。ダイダラボッチの古里代田には土器がふんだんにみつかっていた。驚きだ。

 講演を行ったのは羽根木公園の中にある日本家屋、星辰堂だ。この公園はかつての根津山だ。この小高い丘全体が根津山遺跡で縄文以前の旧石器時代のものまで埋まっていた。
 中島利一郎は言語学者でやはり代田のダイダラボッチに触れている。彼が著した「武蔵野の地名」(新人物往来社 昭和51年)では代田のダイダラボッチに言及しいる。

 世田谷の代田が石器時代遺跡であることは、代田八幡に石棒が祀られていることが、『新編武蔵国風土記稿』に見えているので明らかだ。

 石器時代遺跡は根津山遺跡のことだろう。この辺りで発掘された石棒が八幡宮の社宝となっているのは確かだ。ダイダラボッチ伝説は石器時代までさかのぼることを示唆している。
 昨日のことだ、代田八幡神社に電話で問い合わせた。
「代田八幡神社が社宝としているのは『石棒』ですか『石斧』ですか」
「現物はここになくて私もみたことがないのですよ。石棒だと思うのですが……」
「今、代田ダイダラボッチ音頭を作っているのですけど、三番にこれが出てくるのです……」

ハアー 代田八幡宮の社宝は石斧(いしおの)  

と言って音頭の一節を披露する。始まりがいけない、「ハアー」となっているからつい電話口で歌ってしまった。
「はあ、そうなんですか」
「それで歌というのは清音がいいと思って石斧にしたのですけどね」
 この話、顛末があって歴史を尊重すると「石棒」がいいのではとの斎田孝さんからの指摘があった。調べてみると読みは「せきぼう」だが、「いしぼう」でもよいらしい。
やはりダイダラボッチ伝説は太古の昔にさかのぼっていくようだ。

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2019年03月04日

下北沢X物語(3714)―心ときめくダイダラボッチ―

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(一)古老の三十尾生彦さんから「ダイダラボッチの記事が出てくると何か胸が躍る。北沢に住む96になるジジイ」とのコメントがあった。齢を重ねると時めきが薄れる。ところがダイダラボッチは別格だ。何だか訳分からないのに面白い。言葉にも秘密がある、言霊が宿っていて口ずさむと元気が湧いてくる。柳田国男も「兎に角こんなおかしな名称」(『ダイダラ坊の足跡』)と不思議がる。当地特有の伝承で郷土史家も必ずこれに触れる、『代田とわたし』(小谷野修)、『昔の代田』(今津博)などだ。この伝承に深い関わりがあるのは代田七人衆だ、当地開墾時の始祖、草分けだ。この末裔が運営する三土代会は今も連綿と続いている。

講演では、私は衾村から来たと言った。衾地区の歴史でも「七軒百姓」(岡田衛家文書)という呼称がある、栗山、小杉、益戸、白子、新倉家などだ。今でもこれらは表札によく見られる。当地草分けの地主だ。しかし代田七人衆のような組織はない。系譜が温存されていれば衾村鷺草伝説も継承されたように思う。

 講演が終わってから三土代会の柳下隆さんと話した。彼の話では叔父叔母などの家族は皆近くに住んでいた。何かというとそこへ行っていたという。
 懇談会では、別の人が「ダイダラボッチは爺さんから聞いた」と。どうやら代田では旧家ではこの話は伝承されてきたようだ。

 代田の語源はダイダラボッチに由来する。ということはすでにこの名称があって、人々に知られていた。村の名をつける段になって「どうするか?」というときにこれに拠った。
「あのダイダラボッチの足跡があるからこれを使おう」
 頭文字3文字を取って「代田」としたのだろう。
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2019年03月02日

下北沢X物語(3713)―やっぱり代田はダイダラボッチ―

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(一)3月27日、「せたがや梅祭り」の一環としての講演を行った。「代田文士町&ダイダラボッチ」だ。会場は羽根木公園星辰堂、行くと何と出席者は地元重鎮ばかり、下手なことは言えないと緊張。その皆さん、やはり文学よりもダイダラボッチだ、さらに感銘深かったのは出席者が「ダイダラボッチ」の伝承者だった、「その話は爺さんから聞かされている」と。全員に問いかけても「ダイダラボッチ」を知らない人はいない。「あそこの水は冷たかった」、「地下鉄の残土で埋め立てた?」などとダイダラボッチ話で盛り上がった。「今度ダイダラボッチを覚えている人に集まってもらって話をしてもらう会を」と提案。

「今日は衾村(ふすまむら)から歩いて来ました」
「衾村といわれても分からない、それはどこですか?」
「目黒区八雲です……」
「はっはっは……」
 家から羽根木公園へは不便だ、都立大学→渋谷→下北沢→梅丘、電車を二回も乗り換えなくてはならない。ままよと歩いたことだ、人は驚くが距離は大したことはない。家を出て北に行けば着いてしまう。

「私は毎日歩いています。ダイダラボッチは代田だけでなくこの一帯方々にあります。家のすぐ近くにもあります。衾村矢畑です、今の住所は自由が丘です。歩き回った上、もうここしか他にないというところを見つけています。しかし、伝説が全く残っていないのです。この他大岡山の擂鉢山、地形が擂り鉢の形をしています。これが右足です、左足は北千束の狢窪です。両方とも何度も行って地元の古老に聞くのですが誰もこの伝説のことは知りません。他にも大田区上池台にもあるのですがやはり同じです」

「世田谷のダイダラボッチを有名にしたのは民俗学者の柳田国男ですね、彼が『ダイダラ坊の足跡』という論考で紹介したことで代田ダイダラボッチは全国に知られるようになったのです……まず、彼は代田のダイダラボッチを調べました。そして次は駒沢の現場に行きました。そこは野沢ですね、ここもしょっちゅう行っています。住人には何度もダイダラボッチのことは聞きました。すぐそばに坂田さんという九十幾つになる古老にも聞きましたが、伝説のことは知りませんでした」
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2019年03月01日

下北沢X物語(3712)―会報第153号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第152号  
           2019年3月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、「下北沢文士町文化地図」の意義

 私たちは北沢、代沢、代田の歴史文化を発掘しこれを記録してきた。地図づくりは活動の一環である。初版は2006年12月に発行した。以来、改訂を続け、最新版は第七版となっている。文化地図としては地域や地元にすっかり根づいたものとなっている。世田谷区のホームページでこの七版の表側全部が公開されている。世界中のどこからでも閲覧できる。
 文化とは、土地固有のもの、においだと言ってよい。地域に密着した地図である。いわゆる神社仏閣、それと地域の地蔵尊、庚申塔なども記している。改版する度に付け加えてきた。特記すべきは空襲で焼けた地域の表示である。先年、当会で作成したDr.オースティンが撮影した「焼け残ったまち 下北沢戦後アルバム」はこのことと直結してくる。彼は焼け残った町並みに深い興味を持ってまちを写していた。
 分かってきたことは、焼けなかったところと焼けたところでは町並み形成が違っていたことだ。知られていないことだがいまもって往時そのままの建物が使われている。
 初版地図と七版地図を比べると大きな開きがある。いわゆる文化人の旧居跡の表示が後者では格段に多くなっていることだ。いつだったかこういうことを言われたことがある。
「文化人の旧居の表示はもうこれで十分だ」
 発言者の意図は同人誌級の人まで付け加えると、この地図の価値が半減する、そういう危惧からの感想だ。
 段々に分かってきたが当地一帯には数多く人々が寄留していたことだ。高級な家、あるいは低廉な下宿やアパートには短期間ではあるが文士たちが滞在していた。小田急線の祖師ヶ谷大蔵には北原白秋が住んでいた。その関係で下北沢のアパートに住むようになったものもいる。
 先だって第八版地図向けの巡検活動で奥野信太郎の旧居に行き、親族に旧居跡をつけてもいいかを尋ね許可を取ってきたと聞いた。こちらの念頭には学者として有名な人というものがあった。
「この一帯多くの人に会って話を聞いてきたけどどこそこには〇〇で有名が学者先生がいたというのはもう沢山あった」
 東大などの学校がすぐ近くにあることで文士町一帯は学者が数多く住んでいる。その人たちをしらみつぶしに調べていったらとんでもない数になるのではないかと危惧した。
「確か、北沢に金田一春彦さんは住んでいましたよ」と私の記憶。
 伊藤文学さんのお父さん、伊藤祷一さんの「北沢に住んだ文芸人」を調べるとあった。
「アイヌ研究と啄木の友人として知られる,金田一京助氏の息,金田一春彦氏が一一九四におられたが,いまは杉並区に移られた。氏は,東大言語学教室で,これも一度お会いした記憶があるが、『日本語』などの著書がある。」と。
 そう言えば思い出した。だいぶ前に「言葉のまちのお話コンクール」というのが大分県三重町であった。この審査に加わったのが金田一春彦さんで握手をした。審査員には沼田洋一さんもいた。二年続けて入選しこの人とは二度握手をした。
  地図の意義ということで言えば、これは我らの関係者が皆言う。
「下手な名刺を出すよりも、この地図の方がよほど効き目がある!」
 まちの古いことを我々は尋ね回ることが多い。そのときに家のチャイムを押して「ダイダラボッチのことを調べているのですが?」と言う。新手の「ダイダラボッチ詐欺か?」などと疑われることがある。が、地図を差し出すと、「お前達こんなことをやっているのか?」と古老は相好を崩して、むかしを語ってくれる。言い忘れたが奥野信太郎さんは文芸家ということで赤丸で旧居を示すことにした。

2、第五回「北沢川文化遺産保存の会研究大会」の開催
 
 第5回北沢川文化遺産保存の会 研究大会
 世田谷代田駅前広場開場記念行事(プレイベント)
 後援 世田谷区 世田谷代田駅前広場開場記念行事準備会
 日時 2019年7月27日(土) 10時30分より(予定)
 場所 梅丘パークホール 会費 500円(資料代)
研究会 テーマ「世田谷代田の歴史文化」

 
 その発表内容が固まってきた。一日がかりになる。
午前の講演
 世田谷代田の歴史・文化 三土代会 柳下隆    10:30~12:00
午後の研究発表(予定)
 1、代田ダイダラボッチの意義 きむらけん     13:00~13:30
2、世田谷代田のこれからと未来 谷亀冢     13:40~14:10
3、玉川上水と代田 きむらたかし       14:20~14:50
4、◎世田谷代田と東京農大 発表者未定   15:00~15:30
5、◎地元若手 15:40~16:10
 全体まとめ 斎田孝 16:10~16:30
終了後 懇親会・納涼会


発表については、4と5とは調整中だ。
 4については、世田谷代田にキャンパスを設置する東京農大の先生か学生に発表してもらおうと思っている。小田急電鉄の係の人は地元との交流ということになるので悪い話ではない。コンタクトを取ってみるとのこと。
 5については未定である。

3、北沢川文化遺産保存の会紀要第七号

紀要第7号は印刷所に原稿を送った。3月末に発行の予定である。
 タイトルは 「論考 下北沢の戦後」

  1、下北沢の未来展望     関根英雄  
  2、オースティン博士の“Shimokitazawa”写真 きむらたかし
 3、下北沢の戦後文学 きむらけん
4、『演劇の街』でなかったころの下北沢演劇史  野田治彦


この紀要は、世田谷区地域の絆の助成を受けて発行をする。
  月末あたりにできあがるがとりあえず事務局で無料配布する予定だ。

4、桜祭りでの地図配布活動

 毎年、代沢小安吾文学碑前で地図の配布活動を行っている。今年もこの活動は続けたい。しかし、現在配布している第七版も底をついてきた。現在、第八版を作るための準備に入った。この版の完成予定は、2020年春としている。
 世田谷代田駅前に、ダイダラボッチの足跡をかたどった広場ができる。第8版は、「世田谷代田駅前委広場開場記念地図」とする予定だ、この版へ加える情報を現在集めていて、数多く集まってきている。
 例年だと文化地図を配ることになるがこれはもうほとんど残っていない。それで今回は、昨年度反響を呼んだ『焼け残ったまち 下北沢戦後アルバム』の改訂版を配りたい。これは十分にストックがある。
地図配りは、仕事ではない、何枚配らなくてはいけないというノルマもない。大事なことは地図配りを通して見知らぬ人とふれ合うことだ。アルバムを通して語ることで個々がまちに対しての認識を深める。それが楽しい、時間を忘れるほどだ。
 いつもそうだが地元の人が新情報をもたらしてくれる。今回もそれを期待しよう。
 問題は、何時配るかだ、暖冬によって桜の開花が早まるようである。例年は4月にずれこんだこともあったが、今年は三月中に咲きそうだ。
 日時、時間については、ネットで知らせたい。そろそろ配布がありそうだと思ったときは、当方か邪宗門に問い合わせをしてほしい。

5、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16頃としている。

第148回 3月16日(土) 13時 東急大井町線等々力駅改札
 谷沢川と九品仏川を歩く 案内人 木村康伸さん 
 コース:等々力駅−谷沢川−等々力渓谷−九品仏川−九品仏浄真寺−奥澤神社−海軍村−呑川・九品仏川合流地点−工大橋−大岡山駅
※世田谷区南部を流れる谷沢川と九品仏川の間には、河川争奪が行われた過去がある。その珍しい現象の痕跡を辿りながら、九品仏川流域の地形や歴史も訪ねて歩く。


第149回 4月20日(土) 13時 東京駅丸の内北口改札
 案内人 別宮通孝さん 皇居東御苑探訪(平成最後)
 コース:駅〜大手門〜東御苑〜富士見櫓〜松の廊下跡〜二の丸庭園〜江戸城天守台跡〜北詰門橋〜北の丸公園〜田安門〜昭和館〜九段下
第150回 5月11日(土) 13時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
 案内人 上田暁さん 中世世田谷の海への動脈「芝道」を歩く。
中世世田谷の領主、吉良氏の世田谷城と領地芝村(今の港区芝)を結ぶのが芝道と芝溝道だ。中世の世田谷で水運、漁業の重要地である芝村をつなぐ両道は、吉良氏にとって軍事的にも産業的にも重要であった。芝道は明治期に百メートルほど残して消えてしまったが、芝溝道が古道として残っている。今回芝溝道の途中にある歴史遺産にも立ち寄りながら三軒茶屋から代官山までを歩く。その後昨年大河ドラマ「西郷どん」にも出ていた西郷隆盛の弟、西郷従道のそのゆかりの西郷山公園と菅刈公園の西郷従道の資料館を見学する。菅刈公園には「東都一の名園」といわれた西郷邸の庭が一部復原されている。
コース:三軒茶屋→芝道確認→芝溝道→下馬の兵舎跡→陸軍境界標→西澄寺→寿福寺→目切坂→代官山→西郷山公園→菅刈公園和館→古道日向道→池尻大橋駅

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲古関裕而夫妻の話を朝ドラにするよう福島市と豊橋市が運動をしていた。昭和6年以来二人は世田谷代田に住んでいた。それで「世田谷代田も朝ドラ」に加えてと我らのブログで訴えていたが、今朝の新聞に「古関裕而夫妻、朝ドラに 福島、豊橋の活動実る」と。
▲第12回「戦争経験を伝承する会」5月19日(日)午後13時30分より。当会自作の「Opera鉛筆部隊と特攻隊」の公演を行う。出演者も含めてボランティアスタッフを募っている。ぜひ協力を。
▲特別企画の誘導案内;世田谷文学館友の会主催。「さようなら平成、こんにちは〇〇」という趣旨の下北沢文学散歩を4月30日5月1日に開催する。その案内を行う。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2019年02月27日

下北沢X物語(3711)―健康一番、ともかく歩くひたすら歩く―

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(一)健康法で一番いいのは歩くことだ、毎日、ともかく歩く、が、大事なことはおもしろがって歩くことだ、国木田独歩は都鄙境に、「小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れて」(『武蔵野』)いるという。それを見つけて歩くのが一番楽しいし面白い。路地があれば覗く「水路跡か?」、わかされの道祖神には黙礼挨拶、朽ちた旅館の看板を見ては名も知らぬ男女の出会いを思う。路傍には至るところに物語が落ちている。ときに古老が「ここはカフェ新世界だった」と教えてくれる。歩きは想像の糧を与えてくれる。こう歩きの薦めを書いたのは、半年で靴に穴が開いたからだ。

 前は自転車派だった、ひたすら漕ぎに漕いでいた。が、きっぱりとペダルを捨てた。前立腺炎を患ったからだ。この病気の痛みは人には言えない。お尻の下がずぅんずぅんと痛む。病院に行くと抗生物質を大量にくれた。患部が薬の効きに悪いところにあるからと医者は言う、「大丈夫か?」、恐る恐る服用しているとたちまちに全身に湿疹が出てきた。

 痛みは治まらない、湿疹はひどくなる。前立腺炎をどうやったら直せるのか?ネットで調べまくった。そのときに「歩けば治る」という情報を得た。これに飛びついた。

 何十年と愛用してきた自転車を捨てた。講演のときなどに「自転車で地球数周した」などと豪語していた。これを歩きに変えた。が、病気を治すのに一筋縄ではいかない。ところが、何でもそうだ、どんな場合も希望を捨てないことだ。。

 一月間、ひたすら歩いた。するとあの辛く苦しい痛みが徐々に抜けていって、そして治った。

「自転車は全身運動にはならないのですね、自転車に乗っているとお尻は動きませんね、前立腺炎の場合、お尻の辺りがだいじですね、歩くと、お尻が、への字、くの字に曲がる、これが本当の運動ですね、歩くと血の巡りがよくなるのです……」と人に言う。

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2019年02月26日

下北沢X物語(3710)―文学の場としての世田谷代田―

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(一)文化とは土地固有のにおいだ、明日、27日世田谷梅祭り行事の一環として代田を中心とした話をする。「代田文士町&ダイダラボッチ」である。当地を特化しての文学を語るのは初めてだ。整理してみると文学の場として描かれている作品は北沢よりも多いように思う。当地の中心は鉄道が交差する下北沢だ、代田はここから一歩退いたところにある。この間、2019年版「街の住みここち」地ランキングが話題になった。3位が横浜の北山田で、9位が何と自身が居住する都立大学だった。北山田、都立大学には共通する点がある。中心地から一歩距離を置いた場だ、世田谷代田もこの点で共通するように思われる。

街の住みここちランキングの総評にはこう記されている。
 
その街に住んでいる人たちに街の評価をしてもらいそれをランキング形式で集計したのが今回の調査ですが、上位にはいわゆる住みたい街ランキングに出てくるような駅は少ない結果となりました。1位の広尾と6位の恵比寿は比較的有名でイメージも良く人気のある街ですが、2位の市ヶ谷、3位の北山田、4位の南阿佐ヶ谷など住環境が良く商店街等が適度にあって比較的静かで暮らしやすい街が上位にランクインしました。

 ポイントは適度の便利さと静かさである。北山田は隣駅のセンター北駅がより賑やかな所らしい、ここは地下鉄ブルーラインとグリーンラインの分岐駅となっている。大きなショッピングモールもある。ポイントはここと距離を置いていることだ。買い物も交通も適度に便利で何よりも静かということだろう。

 私の住む都立大学もこれが当てはまる。中心地は大井町線と東横線が交差する自由が丘だ。休日となると買い物客や見物客などでごったがえす。が、都立大学はその影響は受けない、スーパーなども三つあって買い物には困らない。何と言っても静かだ。やはり中心部と頃合いの距離を置くというところが住み心地がよいということになる。

現在の世田谷代田は環七がまちを南北に貫通している。かつてのような静けさはない。が、文学者や文化人が多く住み始めたころは静かだった。下北沢に住んでいた萩原朔太郎は、井の頭線が開通して賑やかになりそうだというので「もう少し静かな郊外がよい」ということで、昭和八年に「屋敷町で静かな環境に恵まれて」た世田谷中原に引っ越したという。( 萩原葉子『父・萩原朔太郎』 新潮社 昭和51年)続きを読む

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2019年02月24日

下北沢X物語(3709)―元文芸誌編集長との熱い文学談義―

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(一)「九品仏裏に大きな池があったのですが、渋谷の東急文化会館作るときの残土で埋めてしまったのです」というと「あなた達何者?」と編集長。「私たちは土地の由来には深い興味を持っています」と応えると、が、今文学は土地から遊離しつつあると彼は言う。「何でもありなんだよ」。生まれ代わりとか人が入れ替わるとか、書き手の立脚点となる土地は意味をなさなくなっている。「私は当地に足跡を印した作家がここで何をしてきたかということを追ってきました、しかし今日現代は、砂上の楼閣の上に世界が構築されているのですね」、ここの文士町は、「よじれた座標」が軸だったが、これも意味を失いつつある。まち全体が虚構化しているのではないか?

「土地といえば、『犬』という作品は面白い、青山から淡島通りを通って代田の家に帰ってくる場面があるんだ……」
「『代田の亡霊』はよく読んで知っていますが、その作品は初めて知りました。安岡章太郎が代田に住んでいたときの話ですね、今は皆電車だけど昔は渋谷までは歩いていましたね。斎藤茂吉は『とんがらしの苗』を買いに渋谷まで歩いて往復、坂口安吾は代沢小時代は大井町に住んでいて渋谷まで歩いていましたからね。私は、文学作品にその土地の光景が描かれているともうワクワクしてしまうんですよ。淡島通りなんて聞くとなおさら、この通りを横光利一は北沢の自宅へ車で帰っていく、そこは好きです」

 渋谷からは路も暗かったが、ライトの中に泛き出される繁みや看板など、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。

淡島通りをゆくタクシーからの情景だ、横光利一が欧州旅行から帰ってきて、渋谷から車に乗って自宅に帰る。「旅愁」に描かれているここを読むとドキドキする。

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2019年02月23日

下北沢X物語(3708)―元辣腕編集長との熱い文学論―

12月24日 078
(一)元文芸雑誌編集長は熱い人だ。近代というのは一つ一つの手順だった、ところがそれが今は崩壊した。彼は、本屋での本の並べ方を取り上げて説明した。本屋に入っていくと平積みは評判の好著、それらを読むことで自分を高めてきた。興味が高まると棚にはいわゆる名著と言われる漱石鴎外などの作品があった。さらには岩波文庫で思想、哲学などがあってそこから読みたいものを選んだ。自身の青春時代はそういう本屋の本の並べ方に沿って生きて来たように思う。しかし今はこれらの順序性は崩れた。もうめちゃくちゃだ、若い人たちは手順を踏んで生きていない。どうしても教養とか知識に欠ける、だから文化的なことについても興味が希薄だ。そういう意味でいうと近代は終わったという。

「あなたは清水博子さんが好きなんですね」と彼。
「そうです、清水博子さんの『街の座標』は、優れたまち論だと思います。このまちを『ひしゃげた座標軸』とシンボリックに捉えています。小田急線と井の頭線の交わり方の形を見事に言い当てています。今は小田急線が地下化することで鉄道交差は視覚的なものではなくなりました。が、ゆがんだ座標軸はまちの本質だったように思います」
「彼女、清水博子さんはね、お酒が好きだったのですよ。もう行ってはいけないと言っていたのに……」
 彼女は若くして死んだ。そのお酒と関係するのだろうか?が、彼元編集長は作家個人のプライベートな部分に決して触れなかった。
「まちの軸が狂っているところに面白さはありますね。鉄道だけでなく道がよく分からないのです。この間、下北沢文士町文化地図の新たな版を作るためにまちを巡検して回ったのです。これに向井さんという地元の人が参加していたんですよ。その彼女らとともに萩原朔太郎の下北沢旧居とかぐるっと回ったのです。そして、ひょろっと鎌倉通りに出たら。『えっ、こんなところに出るのですか!』と驚いていました。それでまっさきに思い起こしたのが朔太郎『猫町』ですね……」

余事はとにかく、私は道に迷つて困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻つたあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所の美しい町であった。
萩原朔太郎 日本詩人全集14 新潮社 昭和41年


 まさにこの通りだった、「樹木の多い郊外の屋敷町」、そうこれに当てはまる野屋敷の路地を巡った後に、「賑やかな往来へ出た」そうしたとたん、彼女は狐につままれたようだった。
「次元の穴に引き込まれたみたいだった」と私。
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2019年02月21日

下北沢X物語(3707)―寄留都市としての下北沢―

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(一)なぜ文士村ではなく文士町か?まちの文化を捉える上での本質的な問題だ。当地に目につくのは寄留である。一時的に当地に住み、そして去って行った人は他と比べて格段に多い。昨日テレビを見ていたら「街の住みここち」ランキングを紹介していた。3位に「北山田」という聞き慣れない名が挙がっていた。住民に意見を聞いていたが「住みここち」を決定づけるのは交通の利便性だ。文士町の根幹は鉄道の利便性の高さにある。学生寮、社員寮、アパート、下宿が多いのはそのためだ。中山義秀は「下北沢には作家や詩人志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた。」(『台上の月』)と指摘する。都鄙境の頃合いのところに鉄道が交差するまちがあったからだろう。

 一般に文士村と言われるところでの人間関係は濃厚で、縦横な繋がりがある。が、当地での人と人の接触は縦系列だ、文士町の特質だ。例えばこういう記述がある。

 隣組長はすぐ近くのさかな屋の親父で、これまたこちこちの軍国主義賛美者で「この隣組から赤でも出たら叩き殺ししまう」と意気まいていた。だから何かと知られないように妻は気を配っていた。配給のことだけでなく、警察から宅下げしてくる私の汚れた洗濯物にも困った。自分の家の物干しに干すわけにはゆかぬので、これは石川正雄君の所で洗濯してほしてもらい、これを私の所に届けるときは石川君の所によって持ってくる。
「烈風の中を」 東邦出版社 昭和46年


 文士町の一端を明かす興味深い記述だ。作者は、プロレタリア歌人の渡辺順三だ。戦時中の話である。彼は下北沢南口で古書店「大地堂」を開いていた。このころ特高に目をつけられしばしば留置場にぶち込まれた。が、警察にパクられたことは知られたくない。奥さんが洗濯物を警察署から引き取ってくるが自宅では干せない。それで石川正雄君の家で洗濯してもらった。

 石川正雄は、誰あろう?石川啄木の長女・京子の婿となった啄木研究家だ。京子さんはここに住んでいた。大地堂の近くに石川家はあって、夫妻の子どもは代沢小に通っていた。孫も入学している。

 縦系列と言ったのは流派や系統では消息は分かるが、ここから外れると分からないということだ。渡辺順三経営の大地堂は、詩人の仁木二郎に譲った。仁木は一番街の裏手に住んでいて互いに家を交換したという。プロレタリア系列の情報だ。

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2019年02月20日

下北沢X物語(3706)―まちの価値づけとしての「寄留文化」―

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(一)
 「下北沢文士町文化地図」は、旧版が世田谷区のホームページにアップされていた。が、このほど最新版に更新された。第七版である。掲出するのに最初は慎重で店の名前を消すとかあったがこんどのはA面が全部アップされている。版を重ねてきて地図情報の信頼が高まったからだろう。実際、下北沢鉄道交差部一帯の文化を網羅したものになっている。が、この改版も行き当たりばったりだった。その都度情報を入れ込んだことで統一性に欠けている。今八版に向けての活動が始まった。先だっては第一回目の巡検活動を行った。これによって「寄留文化」という存在に気づいてきた。

 我々活動を続けてきて十数年、多層的な文化がこのまちにはあることを発掘してきた。当初は文芸に絞っていてこれを赤丸で示していた。が、くくりきれなくなってアトリエを加え青丸を記すようになった。調べれば調べるほど多様な文化が集まってきていることに気づいてきた。

寄留という言葉がある、一時的に他の土地または他人の家に住むことだ。つまりその場所に一時的にとどまり、勉学を深め、一定の年限が経つと他の地に移動していく。その場はたまり場だ。これにも文化ジャンルがあった。音楽系統、詩歌系統、文学系統、漫画系統などである。多様なジャンルがこのまちにあった。

  横光利一を慕った作家に中山義秀がいる。彼は銀座に住んでいたが「世田谷にうつる」ことにした。そのときのことを『台上の月』(新潮社 昭和38年)に書いている。昭和十年頃の話だ。

「あら、どうして銀座から出てゆくの。郊外なぞ行ったら不便よ」
「その不便なところで勉強がしたいのです。こんなところにいちゃ駄目だ」


 カフェの女給が修行時代の中山をいさめる。が、銀座は誘惑が多い。そこから自分を遠ざけて勉強をする、書くという修行だ。都心を離れて静かで誘惑のないところでじっくりと問題に向かいたい。彼が郊外というと決まっていた。

 私は間もなく銀座をひきはらって世田谷にうつってきた。横光の家のある池ノ上から谷一つを隔てた、下北沢のアパートである。妻の亡くなった大原町から、それほど遠い距離ではなかったが、私は決してその方へは足を向けなかった。(同著)

 「台上の月」は、横光利一の句「蟻台上に飢えて月高し」を由来としている。横光利一を恋い慕って当地に越してきた。下北沢のアパートは、静仙閣である。

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2019年02月18日

下北沢X物語(3705)―まちを愛して恋した人の痕跡地図―

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(一)芸術文化、それが営まれた場所は大事だ、人間は漠然と想像することは不得手だ、「ここがその場所だ」と示すことで人は具体的に想像ができる。ところが文化芸術は脆い、彼らが苦闘した現場跡が分からなくなりつつある。それでも偶然その痕跡を見つけた、「劇団 風の子 発生の地」という小さな看板だ。創設者の多田透の自宅跡だ、「六畳が舞台で八畳の方が観客席」というお座敷劇場をここで営んでいた。下北沢演劇文化「発生の地」である。ここから谷を下りて川跡を横切るともう一つの痕跡があった。漫画家小島功画伯のアトリエだ。最初は分からなかった、表札の名前が違っていたからだ。が、引き返して確認すると玄関の壁になんとレリーフがある、これに「koh.kojima」のサインがあった。河童美女を描いた画伯の旧居に違いない。

 「文士町」と称しているまちは文化ジャングルだ。劇団「風の子」跡から小島功画伯跡までの距離はわずか、V字谷を挟んでの80メートル。ついこの間知ったのは、底のところに虎ノ門タイピスト学校の女子寮があったことだ。有名な学校だった、女性たちの憧れだった、「何としてでもブラインドタッチでタイプライターを打ちたい」という思いから大勢の女子が入学した。が、技術革新がタイプライターは過去の遺物となった。

 これで思い出すのは当まちの寮文化だ、鉄道交点一帯に数多くの寮があった。会社に、学校に通うのに都合がよい。それで沢山の寮ができた。文化地図には「飯塚嘉穂学寮跡」や「七島学生寮跡」を記している。前者には筑豊炭田の、後者には伊豆七島の、都会物語が生まれ、そして消えた。

 今回も仲間が逸話を掘り起こしてくれた。代田5丁目に寄宿舎があった。そこにはインドネシアからの留学生がきていたという。貧しい国からの学生だ、選ばれて来ていたものだろう、戦後になって彼らは帰国し独立した国の礎となって働いたという。
「そのアパートの名は分からないのかな?」
「それが分からないのですよ」
 貴重な情報だ。ぜひ裏付けがほしい。情報、求む。
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2019年02月17日

下北沢X物語(3704)―まちを愛して恋してそして……―

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(一)「新たなるまちの文化地図を創る」、これを意図して昨日下北沢を歩いた。まずは駅に集まった。ここからは三方面、下代田、代田、北沢に別れてみなで歩いた。私は、下北沢野屋敷を中心とした北沢地区を四人連れて歩いた。一番強く感じたのはまちの変化である、激しい移り変わりに哀惜を感じたほどだ。歩きながらこのまちを愛して恋して生きてきた人が思われた。彼らはここに物語を刻んで消えていった。時間はその名残さえも食べてしまう。それでもいくつかの痕跡を探し当てた。何もないと思っていたのに残っていた、感動だ。その一例、「劇団風の子発祥の地」というちいさな表示を見つけた。当地演劇文化の片鱗だ。ザ・スズナリの支配人野田治彦さんは下北沢演劇前史でこの劇団を挙げておられる。その小さな表札に演劇に対する誇りを見たように思った。

 北の文化ステーションと呼んでいたのが下北沢一番街にある大月菓子店だ、ここの大月文子おばあちゃんに多くのことを教えてもらった。「まちを愛して恋して」が端的に当てはまる人だ、下北沢生まれの下北沢育ち、ほとんどまちを出なかった。彼女は北沢郵便局に勤めていた。隣の菓子店の主人が彼女に恋して娶った。

 菓子店はサロンだった、近隣の文化人が多く集まってきた。彼女は多くの人を紹介してくれた。今井兼介さん、飯田勝さん、森栄晃さんなどだ。この彼らからまちの歴史を教わった。が、飯田さんも森さんも物故された。今井さんも入院しておられると聞いた。

 まずは下北沢の萩原朔太郎旧居だ。
「前に『おはよう日本』という番組で、ここを紹介する場面があったのです。『まず玄関を出て行きます。真っ先に行くのが煙草屋さん』……といったのですが、間違いですね、ここの家裏木戸があるのですよ。詩人はそこからこっそりと出ていったのですよ……路地を愛していたのですね、こっそりと隠密のように歩いて行く」
 そう説明して裏口にまわる。
「なるほどねぇ、家の裏手には詩がありますね」と参加した女性。
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2019年02月15日

下北沢X物語(3703)―「世田谷のステキな木」桜物語―

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(一)一色次郎『東京空襲』は当地一帯の空襲の様子を克明に記録したものだ。これによって戦時中の人々の生活様子が分かる。彼は下北沢静仙閣、代田西の丸荘に住んでここで目撃したり体験したりしたことを書き残した。前者の裏手に小田急の築堤があった、彼はここから空中戦を見学した。「クジラの頭部で、小魚が回転しているようだった」と批評している。クジラはB29であり、小魚は日本の戦闘機である。「ステキな木」に推薦したのは空襲目撃地点、アパート静仙閣の脇にあった桜の木である。一色次郎はこの木に深い愛着を持っていた。

 昭和二十年三月十日、首都東京の東半分が焼かれるという東京大空襲があった。これを教訓として軍部は延焼防止のための防火帯を作ることにした。鉄道沿線沿の建物を強制疎開してこれを作ることにした。

 静仙閣は二棟あった。一棟はすぐ側を小田急線が通っていた。それで、昭和二十年三月二十日、「管理人から、強制疎開の立退を宣告される。私鉄の線路に密接しているので、第六次建物疎開に該当したのである。」それで、彼は世田谷区代田二ノ八二三の西の丸荘にに引っ越す。彼はその後、二十七日にお別れの挨拶に下北沢「静仙閣」を訪れている。

カノ子が管理人室で話し込んでいる間に、私は地蔵さんのまわりを掃除する。宝暦三年(1753)から立っている、この小さな地蔵さんも、こんどはどうなることだろう。地蔵さんの背中のサクラはまだ若芽も出ていない。枝ばかりの梢に夕もやが漂っていた。
 「東京空襲」一色次郎 河出書房 昭和42年


 この記述に基づいて私は静仙閣を訪れた。建物は失火で焼けて今はない。そこは広い駐車場になっている。この脇に「サクラ」はあった。一色次郎はこの木についてこう記述している。「サクラの木が一本あって、その下に小さな地蔵さんが立っている。私は朝夕その前を通るたびに、ぺこっ、とおじぎを」(「東京空襲」)していた。ところがそのお地蔵さんはなかった。どこへ行ってしまったのだろうか?

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2019年02月14日

下北沢X物語(3702)―「世田谷のステキな木」の物語―

DSCN1033
(一)仲間が「世田谷のステキな木」を大募集していると知らせてくれた。「世田谷区名木百選」は30年が経過し、「状況が変化」してきたことから新しく選ぶことになった。この変化はよく分かる、今、木々には息苦しい時代だ。東京一極集中は地価の高騰を招いている。お屋敷の樹木がなぎ倒され、たちまちにマンションや建て売り住宅が建つ。残った名木も肩身が狭い。大きな木ほど葉を茂らせる。家々が密集する中で目の敵にされる。近隣住民は落ち葉を、カラスの巣を嫌う、保存樹木を持つ所有者も泣く泣く伐採。こればかりか今目につくのは欅の大木の強剪定だ。見事に茂っていた枝を払い、丸裸にしてしまう。まるで墓標だ、近隣各所にこれが立っている。犠牲になった木々を弔うかのようだ。あの木、この木、都会生活に疲れた人々の心を慰めてきたものだ。それらを人あっさりと切り倒す。もうステキな木も見当たらない。それでも辛うじて残った思い出深い樹があった、その桜を推挙した。

このブログ開始してからもう15年、木々との出会いは多く記してきた。樹木と生活と文化は密接な関係にある。だいぶ前だ梅丘の宇田川家の欅の剪定を見ていたら、「かつては大森の漁民が海苔養殖のそだにするためにこれを買いに来ていた」と主人が教えてくれた。また古老からは水車小屋まわりの植生に赤松や樫があったと聞いた、この赤松北沢にも多くあった。大岡昇平は「下北沢の思い出」にこう書いている。

 小田急線は、下北沢と東北沢の間で、狭い谷を越す。現在は人家の屋根で埋め尽くされているが、その頃は両側とも田圃で、その東北沢側の斜面の松林の中に私の家があった。
 横光利一の文学と生涯 桜楓社 昭和52年


 ここでいう松林はみな赤松だ、森厳川左岸崖線に多く残っていたがもう今ではほとんど残っていない。引用した本には北川冬彦の奥さんが詩を描いている。「池ノ上近くの松林にさしかかると/つかつかと松林の中に入っていかれる……中略……『奥さんこれで松葉酒を作るんです。ぼくも作って飲んでいますが体にとてもよいのです』……」
 横光利一の小説「紋章」にはこの松葉酒が出てくる。
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2019年02月12日

下北沢X物語(3701)―講話:代田文士町―

09斎藤茂吉旧居(代田)
(一)文士町の一角が世田谷代田だ、ここを切り取って話をすることになった。初めての試みだ。が、括りとしての「代田文士町」という観点は面白い。一地域の特質では終わらないからだ。当地文学は全国区、質は高い。日本の代表的な抒情詩人をというと五名ぐらいが挙がる。そのうち二人が代田を終焉の地としている。さて、それは誰だろう。

 一般的に文学者が多く集まったところを文士村という。ムラは、群れ、深い結びつきで特定の箇所に群がっている事象を指す。が、当地では文士たちが多く集まってはいるが、徒党を組んで集まってはいない。それで文士町と称している。「代田文士町」は、文士は多く集まっているが関係性は希薄だ、まさに文士町の典型だ。

 世田谷代田に集まってきた文士にどういう人がいるか。斎藤茂吉、萩原朔太郎、萩原葉子、三好達治、中村汀女、安岡章太郎、森瑤子、日野啓三、これに加えて作曲家の古関裕而がいる。これらの人同士の交わりは部分的にはあるが、全体的にはない。それは居住年代が違うからでもある。それぞれがそれぞれの事情でここに集まってきている。

 斎藤茂吉は世田谷代田に住んだ。彼は戦争中に山形県大石田町に疎開していた。戦争が終わって引き揚げてきてこの代田に来た。昭和22年11月のことだ。

 青山脳病院は空襲で焼けた。それで息子の茂太さんが西荻に住まいを探し当てて住んだ。が、一家が住むには狭い、それで移転先を探したところ代田に頃合いの家が見つかった。茂太さんは精神科医、ここで開業するという意図があって広いところを求めていた。

 「茂吉の体臭」(斎藤茂太 岩波書店 昭和39年)には代田の家を母が手に入れるまでの過程が記される。

(昭和22年)丁度その頃であった。母はまた活動を始めていた。そして、ほんの短時間で、あっという間に……と私には見えた……に世田谷代田に家をみつけ、売買契約まで漕ぎ着けてしまっていた。しかしあとで母にきくと毎日てくてくと実に三十二軒の家を見て歩いたそうである。

 戦時中空襲によって都内の広範囲で家々が焼けた。屋根のある家は誰もが求めていた。
競争だ、事実、不要になった西荻の家を売るために「新聞広告を出した。何しろ家のない時だったから買い手が殺到した」(同著)という。世田谷代田のその家は空襲を免れた家だ、この頃はどこどこに住みたいという希望以前に、空いている家を探すことが先決だった。

 斎藤茂吉は奥さんの輝子が見つけた世田谷代田の家に住んだ。

きこえくる代田小路の紙芝居たたかひ過ぎて
三とせといへば  歌集「つきかげ」より 
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2019年02月11日

下北沢X物語(3700)―「平成納めの文学散歩」は下北沢―

写真20:東北沢6号踏切
(一)誰もが時代のトンネルを潜り抜けて生きてきた。昭和から平成、そして5月からは新年号に変わる。時代には独特の空気感がある。昭和から平成になったとき時代の城壁が音を立てて崩れたように思った。年号は時代を飾る言葉だ、平成に惑わされまいと思ったがいつの間にかこの時代も過ぎた。終わりが近づき何かと「平成最後」という形容語が使われる。いささか食傷気味だ、ところがその最後の日、4月30日に「平成収めの散歩」の案内をとの要望があった。時代の節目を迎え、「文学散歩の原点に戻り、地元世田谷を改めて巡」ってみようという企画だ。80万都市世田谷の文学の中心は下北沢文士町、これを一日かけて巡るというもの、要請団体は、世田谷文学館友の会である。

 下北沢文士町文化地図には文士の旧居跡には赤丸を施している。この地域一帯に居住した作家の印だ。文士町は昭和2年の小田原急行鉄道の開通をきっかけに生まれた。よって赤丸群はみな昭和時代のものだ。

 文化地図の文化は、土地固有の色合いを言い表す、赤丸作家群の多くは居住場所のことを書いている。が、作家当人がそこに住んでいただけでは面白くない。やはり、文化だ、つまり土地の固有性をどう作品に描いているかだ。思いつくままにベストテンを挙げてみよう。

 嵒と光と二十の私と」(坂口安吾) 代沢小を舞台とした青春小説。
◆嵌笑」(横光利一) 横光利一文学碑を建てたが作品に出てくる石畳が使われている。小説「猫町」(萩原朔太郎) 下北沢の町を舞台としたと考えられる。
げ僚検屬弔かげ」(斎藤茂吉)代田居住時代の代田を描いた一連の短歌群
ァ幀埖貧乏」(森茉莉)淡島から北沢へ毎日出かけていく様子が描かれる。
Α帷)磴硫函廖頁觚桐媚辧砲△療甘磴望紊辰憧凝纏爐靴燭ぁ→「代田の丘の61号鉄塔」 世田谷区地域風景資産選定時の決め手となった。
А峅伐阿遼肝遏埖綸帖奸廖憤族章太郎) 戦災で焼けた代田の自宅を描いた。
─嵒瓦燭咾慮紂廖併姐ッ治詩集)世田谷代田居住時代の作品群
「六匹の猫と私」(大谷藤子)北沢で猫とともに暮らした様子を描いたエッセイ
「東京大空襲」(一色次郎)北沢・代田に住み空襲の様子をつぶさに描いた。


 この他、尾山篤二郎、中村草田男、加藤楸邨など歌人、俳人の作品が多数あるがこれは省いた。

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2019年02月09日

下北沢X物語(3699)―荏原ダイダラボッチ再考2―

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(一)大正8年12月に発行された雑誌「武蔵野」に新進気鋭の研究者谷川磐雄は「武蔵野の巨人民譚」を発表した。年齢は二十歳だ。この雑誌の創刊者は考古学者の鳥居龍蔵だ。谷川は中学生のときから彼に師事している。鳥居の研究の根幹は「日本人のルーツ」探求だった、谷川は論文冒頭で巨人民譚を「数千年の昔から語り伝へられたもので、考古学上、土俗学上貴重な民譚」と意義づけているが師の考えに沿うものだった。鳥居は彼の才能を認めていて、創刊間もない「武蔵野」に論考を載せた、その反響は大きかった。柳田国男はこれに刺激されて代田のダイダラボッチ探訪を試みている。そして「ダイダラ坊の足跡」をまとめた。これはダイダラボッチ学を問うた、巨人民譚の学術的な価値づけだ。2020年春に代田駅前広場にダイダラボッチの足跡ができる。柳田国男の論考によるところが大きい。

 世田谷代田地区ではダイダラボッチは伝承として伝えられていた。ここ十数年の間、古老などから聞き込みをしてきた。はっきりしていることは多くが「ダイダラボッチ」のことを知っていた。名称が生きて今にあるということだ。
 「ダイダラ坊の足跡」で柳田は、「村の名に代田は偶然でないと思ふゆえに、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ」と述べる。つまりは、代田には大きな足跡、それはダイダラボッチと呼称されたものである。それが存在していた以上、地名の由来はこれに尽きる、ということだろう。
 
 ダイダラボッチ伝説はとても興味深い。それで当ブログでは何十回と取り上げてきた。最近のことだ、記事を読んでいた地元の谷亀冢困気鵑こんな指摘をされた。

今、ふと思い出したのですが、斎田家(大斎田)の先先代の当主であられた、斎田平太郎さんが、いつも『代田』のことを、『ダイダ』と発音されておりました。当時は、年寄りだからと気にも止めませんでしたが、最近のキムラさんの投稿を見て、思い出したしだい。代田は、ダイダですよ。


 貴重な指摘である。今は、「だいた」と呼び習わしているがかつては「だいだ」といっていた。この大斎田家は環状7号のそばにある。ここに架かっている歩道橋には、「だいだみやまえほどうきょう」と平仮名で表記している。

 「だいだらぼっち」はとんでもなく古い逸話だ。谷川磐雄は、「数千年の昔から語り伝えられてきた」と指摘する。なぜそれが続いてきたのかはダイダラボッチ伝説の最大の謎である。
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2019年02月08日

下北沢X物語(3698)―荏原ダイダラボッチ再考―

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(一)荏原学というのは未知の学問分野だ、都市興隆史という観点で切り込むと面白い。これほど激流に呑まれた地域は他にないのではないか。田地田畑だったところが東から攻め寄せてくる東京によって席巻されていく。明治末期におけるその変化の一端の例だ。荏原の古道稲毛道を品川方向へとゆく主人公は「既や品川まで軒続きに成りさうだ。それだけ都市が膨張して行くので、世の中の進歩の度の急激さは、之を見ても考えられた」(『蛇窪の踏切』江見水蔭)と言う。当地の開発は海岸部からさらに奥へと進む。郊外鉄道が推進役を果たした、武蔵野の丘陵に赤い屋根の家つぎつぎにできた。そして「豆撒き声はマンドリンの音と換わる」という様相を見せた。家に幸福を招来させる「福は家!」という豆まき儀式を止めてしまい、出窓でマンドリンをつま弾く姿が見られるようになった。明治末期から大正にかけて急激な都市開発が進行していった。激変だ。

開発は破壊でもある。「民族叢話」を著した谷川磐雄は、この中の「荏原雑記」にこう記している。

 今の荏原郡は到る處土地会社の為に、田は埋められ、畑は崩されて、ここ数年の間に驚く程の変り様を見せた。私のノートはそういう変化の起こらない少し前江戸名所図会の俤がまだ窺はれる時分の事でである。

彼が書いた「民族叢話」の発行は大正十五年だ。そのころの様子を表している。彼が住んでいたところは碑衾村だ、碑文谷村と衾村とが合併してできた村だ。谷川はここに住んでいた。私自身が今住んでいるところである。

 彼は幼い頃から巨人伝説に興味を持っていた。そして27歳のときに「民族叢話」を著した。新進気鋭の若手学者だ。この中で「巨人民譚考」を書いている。

 やはり代田のダイダラボッチについて冒頭で触れる。そして続けてこう記す。

 鈴木堅次郎氏の談によるとその足跡は今代田薬師附近の窪地であつて、それと同様の伝へを持つ窪地は駒澤村上馬引澤、同じく野澤碑衾村谷畑等にある由、何れも「ダイダラボッチ」の闊歩した所である。

 ここに挙げられた鈴木堅次郎は上馬在住の府会議員で郷土史家、隈無く荏原のダイダラボッチを調べている人だ。「碑衾村谷畑」のダイダラボッチは谷川のすぐ近くだ。間違いなく彼もここは調べているはずだ。
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2019年02月06日

下北沢X物語(3697)―伝説の真偽:鷺草&ダイダラボッチ2― 

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(一)大正末期に巨人民譚がブームとなった。この要因は鉄道普及によるものだろう。明治に始まった鉄道敷設は次第に地方に及び大正期には全国鉄道網が完成する。地方の物産が中央にもたらされるばかりでなく伝説もまた集まってきた。人が各地から集まってきてお国自慢をする。伝説も披露される。ダイダラボッチ伝説もその一つではなかったか。大正末期に書かれた谷川磐雄の「巨人民譚考」では、「人にきくと同類の話は続々出て、現にその巨人跡と称する地が殆ど日本全国に伝へられ信じられ」ていたと言う。荏原地域では各所にこの民譚はあったが、これが全国的なものだと分かったことで学術的に追究しようという動きが起こった。谷川磐雄はその先陣を切った学者だ。

 荏原地域のダイダラボッチを渉猟していたのは、上馬在住の鈴木堅次郎だ。一方、碑衾在住の谷川磐雄(大場)は考古学者である。彼は大正15年に「民族叢話」を著した。この冒頭である。

 近頃文化生活とやらに順応して、生活改善の声と共に、都附近には古俗が年々消えてゆく。赤い瓦の家が増す毎に、一つづヽ「しきたり」が減る。親の代には立派な門松が立てられ、節分に豆撒きの声が響いた家も、息子の代から松は五六寸の小枝となり、豆撒き声はマンドリンの音と換わる。なんとくなく惜しい。

 谷川は一般的には大場磐雄として知られている。母方の大場家を相続し改姓している。大場家は荏原の地主の家系だ、彼も古いしきたりの中で育ってきたようだ。ところが衾村も東の都会が攻めてきて開発されていく。「赤い屋根」の家は都市勤労者の家だ、当地がペッドタウンと化してきたことを象徴するものだ。「豆撒き声はマンドリンの音と換わる」という変化の捉え方は面白い。

 都市化によって変化するという場合、やはり鉄道敷設だ。碑衾地区では、大正12年(1923)3月に目黒蒲田電鉄が目黒と丸子間で電車線が開通している。これによって住宅開発が進行した。開発は破壊を伴う。窪地や澤が削られたり、埋められたりした。が、それでもダイダラボッチといわれた跡地は残っていたのだろう。

 彼自身、ダイダラボッチに深い興味を持って近隣を歩いたらしい。具体的には、巨人の右足跡の「荏原郡衾村字大岡山小字擂鉢山」に、そして右足跡の「千束村狢窪」にも行って検分したようだ。そして「私はその足跡地へ何度も行って石器や土器を採集した」(雑誌「武蔵野」大正八年 「武蔵野の巨人民譚」)という。
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2019年02月05日

下北沢X物語(3696)―伝説の真偽:鷺草&ダイダラボッチ― 

DSCN1021
(一)日々歩き廻っていると多くの伝説に出会う。名馬伝説もその一つだ、「平家物語」、宇治川の先陣で活躍した名馬、池月・摺墨は荏原の地で生まれた。馬込の萩原朔太郎旧居の側には摺墨塚がある、また洗足池河畔千束八幡神社には池月像が建っている。この名馬の生誕地は全国各地にある。伝説なるものどこまで本当なのか分からない。白い可憐な花は鷺草、これにまつわる哀話伝説も有名だ。この話、世田谷区での逸話と思っていたが、その事件現場は自分が今住んでいる地で起こっていたとつい最近知った。

目黒区、世田谷区、大田区、品川区はかつては荏原郡に属した。昭和7年(1932)10月1日、 全域が東京市に編入して荏原郡は消滅した。これをきっかけに都市化が急速に進んでいく。

 かつて荏原一帯は、農村地帯であった。各村々には「麦打ち歌」があった。代田村は、

代田に名所が三つある
鶴塚にだいだらぼっちに花見堂


 鷺草伝説に行き会ったのはこのだいだらぼっちが発端だった。2020年春に、世田谷代田駅前にダイダラボッチ広場が完成する。この伝説については人に向かって話す機会も増える。この27日も羽根木公園の「せたがや梅祭り」のイベントの一つとして公園の一角の星辰堂で話すことになっている。

 ダイダラボッチは興味深い話で、十数年来調べてきた。ところが遙か昔からある話で謎だらけだ。語源、はじまり、伝承の過程などだ。
 もっとも大きな謎はなぜこの話が今日まで伝承されてきたのかという問題だ。改めて調べてみようと思い始めた。まず資料チェックのため近くの図書館に行った。その本は、「民俗叢話」(谷川磐雄)で、図書館の整理番号は、「382.1」だった。ところが何度棚を見回しても見当たらない。仕方なく司書の人に聞く。が、何のことはない、「ありましたよ、地域資料にありました」と。その本には「M382.1」とあった。Mは目黒区のことだったのだ。

 この本の作者は、谷川磐雄だ、彼はこれに「巨人民譚考」を書いている。発行は大正十五年だ。これに先立つこと、大正八年に雑誌「武蔵野」に「武蔵野の巨人民譚」を発表している。この彼の論考が言ってみればダイダラボッチブームに火を点けた。
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2019年02月03日

下北沢X物語(3695)―紀要第7号:論集 下北沢の戦後2―  

DSCN1012
(一)
 紀要第7号「論集 下北沢の戦後」は原稿を印刷所に送付した。四本が集まった。
 峅舎迷瑤量ね菘庫勝廖粉愃英雄・カトリック世田谷教会神父)
◆屮ースティン博士の”Shimokitazawa"写真」(きむらたかし・北沢川文化遺産保存の会、三田用水研究家)
「下北沢の戦後文学」(きむらけん・北沢川文化遺産保存の会、作家)
ぁ惘薹爐粒后戮任覆ったころの下北沢演劇史」(野田治彦・ザ スズナリ支配人)


 戦災を受けたか受けないのか、昨日北沢四丁目の古老さん三十尾さんからコメントがあった。「ここで焼け残ったウチに入ってる私としてはなにか書き遺さねばいけないような気分になった。当時を思い出しながら書き残してみたい気持ちになっています。」と。被災した人の記録は多くある。が、こちらは物語になる。

 世田谷代田にあった詩人萩原朔太郎の家は焼けた。これは彼自身が設計した家である。終の棲家と考え多くの蔵書もあった。が、これが昭和20年5月25日の空襲によって燃えた。何もかも灰燼に帰してしまった。

 萩原葉子も父とともに代田の家に住んでいた。彼女は戦後「父・萩原朔太郎」を上梓した。そのときに三好達治が新宿で開かれた出版記念の会に参加した。

 三好さんは、牴畔瓩箸い辰董⇒0賈腓靴ないこの色紙を大切にしていたのである。書斎の真ん中に父の写真と一緒にいつもこの額が飾られていたものだ。どんなにか心残りのまま持って来てくれたものだろう。私の家が空襲で焼けて父の遺品が何も無いのを知っているからだった。
 「天井の花」 萩原葉子 講談社学芸文庫 1996年


 この本は「三好達治抄」と副題がついている。伝記という面もあるが物語だ、想像を膨らませて書いたものだ。が、色紙のプレゼントは事実だろう。

ところも知らぬ山里に
さも白く咲きてゐたる
おだまきの花 朔


 色紙には「夜汽車」の一節が書かれていた。

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2019年02月02日

下北沢X物語(3694)―紀要第7号:論集 下北沢の戦後1―

研究紀要第7号
(一)北沢川文化遺産保存の会は毎年紀要を発行してきた。今年度は第7号である。タイトルは「論集 下北沢の戦後」だ、昨年夏、第4回研究大会を開いたが、このときに発表されたものを紀要としてまとめた。発表者の一人、きむらたかし氏は、「オースティン博士の”Shimokitazawa"写真」をこの論考に載せている。この大会で「下北沢の戦後」をテーマとしたのはやはりオーステン博士の写真の影響が大きい。戦後の下北沢の町並みを鮮やかに写し撮ったものだ。鮮明なカラー画像からは時代の空気感までも漂ってくる。萩原朔太郎がふらふらと歩いていた頃の家並みがそっくり残っていた。町の歴史文化をあぶり出した得がたい写真である。これにスポットを当てたことで秘められた戦後史が発掘された。野田治彦氏の下北沢演劇前史はその好例だ、このことに触れた初めての論考である。

 オースティン写真のタイトルは、「焼け残ったまち 下北沢の戦後アルバム」とした。下北沢在住の堀内通孝は、戦後の町の様子をこう詠んでいる。

この駅を囲み残りし家群よ
    二十年わが住みし町よ
「東京―風物歌集」 (1953年) 都市計画協会


 下北沢駅を中心とした一帯が空襲に遭うことなく焼け残った。戦後においての二十年だ、ということは昭和初期から住んでいることを意味する。彼は小田急線開通して間もないころにやって来て住んだ。愛着のある町であった。「残りし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形、感動や感銘を表すものだ。どこもここも焼けたのによくぞまあ焼け残ったことよということだ。この感覚は当時の人でないと分からない。

 雨露が凌げる家があったことはどれだけ助かったことか。北沢の隣大原は焼けた、焼けたトタンを集めてきて急場しのぎのバラックを作った。ここで生活を営むが惨めである。生活用具一切が焼けていて鍋釜などもなく鉄兜を代わりとして使った。衣類布団も焼け残った襤褸を活用する。乞食生活と同じだ。

 北沢の隣、大原で被災した詩人の福田正夫は壕舎のトタン屋根が鳴るさまをこう歌う。

キリヤコンキリリコンコロロン
壕舎は啼きますうたひます


擬音が見事だ、その音は、わびしく悲しい。

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2019年01月31日

下北沢X物語(3693)―会報第151号:北沢川文化遺産保存の会―

DSCN0652…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第151号  
           2019年2月1日発行(毎月1回発行)

    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、荏原ダイダラボッチ研究先駆者−鈴木堅次郎−

 いわゆる旧郡の荏原、当地にダイダラボッチだとされる箇所が複数ある。この呼称については、別名ダイタクボとも呼ばれていた。これの典拠は武蔵野会の雑誌『武蔵野』第二巻第二号(大正8年7月)に『駒澤行』と題された「武蔵野会遠足記」である。このとき下馬西澄寺から、明治大学運動場側の坂道を上っていく記述がある。ここでは「石斧が散見された包含層がある」と述べ、以下にはこうある。

 鳥居、大野、村高の諸先輩の詳細説示されてゐる場所である。その先にダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池があり古来灌漑用にの水源となつてゐる。伝説に曰く、此処はダイダラボッチの足跡でこの凹地に入り土地を堀り木を伐ると罰が当たると、蓋し水源保護のためだろうと。

かつての明治大学運動場には現在UR都市機構の「アクティ三軒茶屋」という大型マンションになっている。南隣には日本大学危機管理学部がある。この二つの建物の間を西に向かって古道が通じている。さらに行くと再び坂道となる、テコテン坂である。坂の頂上の右手には学校が見える、旭小学校だ。
 遠足ではこの道をたどったようだ。テコテン坂を下って左に曲がると見事な凹地が見られる。これが「ダイダクボ」と称されていたところだ。現在は鶴ヶ窪公園となっている。窪には池があって、このたもとに鶴ヶ窪弁財天が祀られている。「古来灌漑用の水源」とされるが今も水路跡は確かめられる。たどると蛇崩川に行き着く。
 「駒澤遠足記」の書き手は、「ダイダクボといふ凹地」と記している。人々にダイダクボと呼ばれていたという言い方だ。
 注目すべき点はこれを書いた人だ、鈴木堅次郎である。この人のことはつまびらかではないない。しかしはっきりしているのはいくつかの著作があることだ、「三軒茶屋の稲荷神社」(1929年:駒澤郷土叢書)「世田谷城名残常盤記−世田谷風土記−」(1961年)などだ、いずれも「非売品」とあることから私家版であるようだ。これらの著作をものしていることから世田谷の民俗、風土に詳しい人であったことだ。ネット検索を掛けてみると「東京・荏原の有力者で、府議会議員を務めた鈴木堅次郎」とある。大正年代においては郷土のことに詳しい人として知られていた。それで「駒澤遠足」に参加しその記録を書いた。
 彼のことはいくつかの論文に出てくる。まず先の『武蔵野』第二巻第三号(大正8年12月)である。ここに谷川磐雄の論考『武蔵の巨人民譚』が載っている。
この記述の中で谷川は、武蔵野会の会員鈴木堅二郎氏から代田の窪地のことを聞いたと書いている。そして、次のように記している。

 又駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもあるよし鈴木氏から承はつた、これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古のダイダラボッチの歩いた足跡であると傳へてゐる。

鈴木堅次郎は荏原地域のダイダラボッチについて深い見識を持っていたようだ。研究者の間ではその点については一目置かれていた。間違いなく言えることは堅次郎はフィールドワーカーだったと。当地一帯のダイダラボッチの痕跡につい全部を歩き廻っていてすべてを知っていた。
 東洋歴史学者・言語学者中島利一郎も鈴木のことについて触れている。彼は『武蔵野の地名』(新人物往来社、昭和51年)を著している。ここで「ダイダラボッチ伝説」について述べている。

 世田ヶ谷の代田にはダイダラボッチの足跡という大きな凹地があったのを、鈴木氏から現地で教えられた記憶がある。今は、前の地点がどこであったか、まったく見当がつかない。後人のためには、それが今日の代田何丁目何番地であるかを明記しておく必要がある。いつか、もう一度そこを確かめておきたいと思う。代田地方における同行者の東道を仰ぎたい次第である。

 ここでは鈴木氏と書いているが鈴木堅次郎のことに違いない。荏原のダイダラボッチについては彼ほど詳しい人はいなかった。中島利一郎も彼に案内されて訪れたようだ。中島も鈴木もダイダラボッチの痕跡が大事であることはよく知っていた。代田のダイダラボッチ跡は何丁目何番何号かはしっかりと今は記録されている。
 「ふるさと世田谷を語る」上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢編(平成6年)に「野沢を主とした大正末期より〜昭和初期の略図」が載っている。これに鈴木堅次郎家としとしてその所在が明確に記されている。地元の最有力者だったことが分かる。現在の住所で言えば上馬1丁目15番である。今でも鈴木姓があることから末裔が住んでいるようだ。
 鈴木堅次郎は足場のよいここを拠点に一帯を歩き回っていた。ダイダラボッチ跡は丹念に巡っていた。その彼が野沢の窪みを「ダイダクボ」と呼称していた。ここだけを呼ぶのではなく巨人伝説のある窪みを「ダイダクボ」と一般的に呼称していたのではないかと考えられる。埼玉県さいたま市には大田窪、これはダイタクボと読む、やはりダイダラボッチ伝説のあるところだ。
 ダイダクボは語としては消滅し死語となった。が、大正時代にはダイダラボッチの窪みをダイタクボと呼称していたと考えてよい。

2、第五回「北沢川文化遺産保存の会研究大会」の開催

 先号で、研究大会を開催については触れた。1月4日、当会の金子善高さんが梅丘パークホールに行き、会場予約をした。開催期日は7月27日である。
 今回五回目は、テーマを「世田谷代田の歴史文化」と決めた。2020年度に世田谷代田駅前広場が完成の運びとなる。現在オープニングに向けて盛大な行事を開催しようと準備委員会が動き始めた。当会の会員もこれに加わって企画立案に携わっている。
 駅前広場には、ダイダラボッチの足形が大きなモザイクとして刻まれる。文字通り、ダイダラボッチの町として全国に発信することとなる。
 この開場イベントの一環として今回の研究会を開催しようと提案し了承された。前回同様、東邦薬品に協賛依頼をしたところ快く引き受けてくださった。
 後援については直接世田谷区が後援をする形にしたいと考えた。申請書を区に提出をした。今は許可証の交付を待っているところだ。
 
 第5回北沢川文化遺産保存の会 研究大会
 世田谷代田駅前広場開場記念行事(プレイベント)
 日時 2019年7月27日(土) 10時30分より(予定)
 場所 梅丘パークホール 会費 500円(資料代)


発表者については打診中だ、三土代会の重鎮、柳下隆さんには代田の歴史文化を語っていただく。午前が、柳下さんの講演で午後が研究発表会である。やはり大事なのは若手の参加だ、駅前広場の完成を機にどんなまちづくりをするのかのフレッシュな意見がほしい。四五コマの発表を考えている。時間は一コマ30分、発表者を募集している。
 終了後に懇親会を行う。会費3000円、いつもと同じ形で行う。

3、歩く会の改革(行事委員会の発足)

  会の活動の基軸となっているのは毎月の歩く会だ。これの運営についてはきむらが一手に引き受けてやってきた。が、無理が生じてきたことから代わりを求めていた。昨年の忘年会で行事委員会を作る提案をした。これを別宮通孝さんが引き受けてもよいとのこと。それで毎月の計画については彼を中心とした委員会が組み立ててくれることになった。三月からの行事は新機軸で行っていく。
・基本、楽しい町歩きとしていく。そのために無理はしない。今までは午後1時に始まっていた。終わりについては各自に任せていた。が、参加者の健康面、安全面を考えると終わり時間の予告も必要だ。目安としては三時間ぐらいが適当だと思われる。4時ぐらいを終わりとするようにしたい。主催は北沢川文化遺産保存の会で、開催の責任者はきむらが今まで通り担う。保険手続きは、参加者が十名を越えた場合には掛けている。
 町歩きの希望、要望、また案内役の希望などは別宮さんや当方へ。

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16頃としている。

第147回 2月16日(土)13時 下北沢駅東口 ピーコック前
下北沢の地図を探訪する(新企画の試み)
 まちの文化情報を各自が参加してチェックしたり、聞き込んだりして楽しむ。
 誰でも気軽に参加できる、専門知識は要らない。言ってみれば、簡易的なオリエンテー リング、まちにある目標物を探したり、新たな目標物を見つけたりする遊び。
 新たに付け加える情報、旧情報の確認をする。2時間ほど各自担当区域を歩き、情報を 手に入れる。(時間内にできる範囲のことをする)
・新しい地図を作る、そのための情報集めを行う。
 ―犬泙辰涜任噌腓錣察´■押■殻召料箸鮑遒襦C甘区域を決める。ぅ哀襦璽廚燃特楼茲忙兇蕕个蠶敢困鮃圓Αィ音間ほど経ったら戻ってくる Δ茶を飲みながら報告会を行う。
  当日全員に第7版地図を配布する。会費は取らない。
  ただし参加申し込みはすること。
  企画責任者 ◎別宮通孝・きむらたかし・きむらけん・米澤邦頼 


第148回 3月16日(土) 13時 東急大井町線等々力駅改札
 谷沢川と九品仏川を歩く 案内人 木村康伸さん 
 コース:等々力駅−谷沢川−等々力渓谷−九品仏川−九品仏浄真寺−奥澤神社−海軍村−呑川・九品仏川合流地点−工大橋−大岡山駅
※世田谷区南部を流れる谷沢川と九品仏川の間には、河川争奪が行われた過去がある。その珍しい現象の痕跡を辿りながら、九品仏川流域の地形や歴史も訪ねて歩く。
第149回 4月20日(土) 13時 東京駅丸の内北口改札
 案内人 別宮通孝さん 皇居東御苑探訪(平成最後)
 コース:駅〜大手門〜東御苑〜富士見櫓〜松の廊下跡〜二の丸庭園〜江戸城天守台跡〜北詰門橋〜北の丸公園〜田安門〜昭和館〜九段下
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲第12回「戦争経験を伝承する会」5月19日(日)午後13時30分より。当会自作の「Opera鉛筆部隊と特攻隊」の公演を行う。出演者も含めてボランティアスタッフを募っている。ぜひ協力を。
▲会報への記事投稿は随時受け付けている。歓迎!
▲梅祭り 関連行事座談「代田文士町&ダイダラボッチ」(きむらけん)
 2月27日(水)14時から16時まで 募集は広報などで
▲新年になりました会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は野沢のダイタクボ、現鶴ヶ丘公園)

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2019年01月30日

下北沢X物語(3692)−第5回研究大会:世田谷代田の歴史と文化−

第五回研究大会
(一)北沢川文化遺産保存の会は研究大会を開催してきた。今年は5回目となる。世田谷区の後援申請も許可が降りて公に大会が宣伝できることになった。当初は細々とした出発だったが地元でも認知されてきた。参加数も増え、また発表内容も質が高まってきた。今回のタイトルは「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとする。来年度、世田谷代田は脚光を浴びる。2020年春に駅前広場が完成する。ここには代田の語源となったダイダラボッチの足跡がモザイク模様で描かれる。地元ではこれを記念するセレモニーを開く。我らも準備委員に加わり協力している。今回の研究会は駅前広場オープン行事のプレイベントとして開くことにしている。

 世田谷代田は古い町である。ここにはかつて南北を貫く堀之内道があった。この通り沿いに中原商店街があって賑わいをみせていた。古い人の話では下北沢の町に行くときは割烹着姿で行ったが、中原へはおめかしして行ったというほどだ。しかし、この通りを新しい道路が突き抜ける形で作られた。東京オリンピック開催に備えて建設された環状7号線である。これによって商店街はほとんど無くなってしまった。

 昭和8(1933)年に詩人の萩原朔太郎は下北沢から世田谷代田に引っ越してくる。居住地を選ぶに当たってのいきさつを彼の娘葉子はこう書いている。「世田谷中原(現在は世田谷代田)を探した。そして中原のほうに、駅から七分小高い所に竹藪の空き地を見つけ、一五○坪借りたのだった。中原は屋敷町で静かな環境に恵まれていた」(「父・萩原朔太郎」筑摩書房 昭和34年)

 中原商店街は通りの裏手にあるお屋敷の住民をお得意さんとしていた。ついこの間まであった和菓子「香風」の親父さんは、お屋敷に古くから住んでいた人が亡くなると、ごそっと需要が減ると話しておられた。

 世田谷代田駅には数百メートルだが環七から取り残された通りが残っている。菓子店はそこにあった。近隣では俳句の結社があってそこに菓子を届けていた。お屋敷の和菓子好きのご主人が亡くなり、著名な俳人もいなくなり、とうとう菓子店は店を閉じた。評判の『香風最中』を売っていたが。
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2019年01月28日

下北沢X物語(3691)−中村汀女さんの幻の句碑−

無題
(一)書類の山を整理していたら一枚の書き付けが出て来た。四句の俳句が記されている。「何だろう?」と句を読む。すべてに「桜」が詠まれている。とたんに思い出した。「そうだ中村汀女さんの句だ!」。書いた人は、小川濤美子さん、汀女さんの長女で俳人だ。以前に、中村汀女さんの桜を詠んだ句を北沢川緑道の「桜橋」に建てようという動きがあった。それで濤美子さんに選句して戴いたものだ。あれから時がだいぶ経った。彼女は2017年4月22日に死去した。新聞の訃報、「昭和を代表する女流俳人、中村汀女の長女。汀女主宰の『風花』を昭和63年から引き継いだ。句集に『富士薊』『和紙明り』、エッセー集に『中村汀女との日々』など。」で知った。「お母さんの句碑を建てます」との約束は果たせないままだ。

 我らの会は2004年12月に発足した。北沢川沿岸に住む文芸人の文学碑を建てようとのことから発足した。坂口安吾、萩原朔太郎、横光利一、三好達治の四基は建てた。が、中村汀女さんのは実現していない。

 発足以来十数年、多くのドラマがあった。文学碑についても同じだ。「北沢川文学の小路物語」という冊子を作り、社会に発信した。これには大きな反響があった。行政の方でもこれを後押しするような動きがあった。ある日忽然と、「全部の文学碑の見積もりを出せ」という話が舞い込んできて衝撃が走った。もうだいぶ前のことなので子細は忘れた。が、見積もりを出してもらった覚えがある。

 その一連の文学碑には田村泰次郎、森茉莉、横光利一、加藤楸邨、中村汀女、三好達治、斎藤茂吉などが挙げられていた。碑に刻む文言を選び、書類として出していた。全く当てにもしていなかったゆえに、衝撃的だった。が、それは春の夜の夢、沙汰止みになってしまった。計画通り全部建っていたらとんでもないことになっていたように思う。夢は夢である方がよい、一基建てるだけでも大変な労苦がある。三好達治の詩碑を建てるだけでも大変だった。デザイナーの道吉剛さんと文言のやりとりを何度したか分からないほどだ。Faxが三四十回ぐらいは行き来したように覚えている。句読点の配置、漢字の並べ方についてはデザイナーの美学があった。


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2019年01月27日

下北沢X物語(3690)−世田谷物語との遭遇−

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(一)「ふと通りかかったとき直感的にこの芸術的感性は同じではないかと思ったのですよ。世田谷の疎開学童が地方に行きました。ところが現地ではびっくりするのです。歌をうたっても踊りをおどってもうまい、絵を描かせてもすばらしいのです。親から受け継いだDNAが田舎に行ってしみ出てくるのです。田舎ゆえに際だって見えるということもあったと思います。この方も戦禍を避けるために世田谷から北海道に移住したのですよね。開拓地で文化は花開くんだと思いました」ギャラリーでは「新雪の時代」と題しての世田谷から北海道に入植した人々の文化活動を紹介していた。

 昨日、26日、三軒茶屋キャロットタワー3階の市民活動コーナーで会報の印刷を行った、帰りがけにギャラリーに飾ってある絵画が目に入った。写真撮影は可能らしいので係員に聞いたところ、なぜ興味を持ったかを逆に聞かれた。

「戦時中に世田谷から北海道に渡って原野を開拓された人がいることは知っていました。ここを通り掛かったときに絵が飾ってあってそのタッチに自分が調べていることと同じ感性があると思って見学しました」
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 会場でもらった「新雪の時代」のパンフレットにはこう書かれていた。

*北海道江別市の世田谷部落をご存じでしょうか?
*北の<世田谷>は、石狩川とその支流世田豊平川、豊平川に挟まれた野幌原野の三角州に位置しています。1945年7月、食糧増産を目的とする「拓北農兵隊」として東京都世田谷区から33世帯が入植したのがその由来です。エノケン一座の役者や音楽家、大学講師などさまざまな経歴を持つ人々は、数多くの困難を乗り越えながら農耕作に適さない過酷な泥炭地を切り開きました。


 戦争末期、食糧不足は深刻だった。かてて加えて1945年には世田谷も空襲に襲われた。焼け出された人も数多くいた。行き場がなかったことから「拓北農兵隊」に応募した。当地区域に住んでいる人は文化人が多かった。ところが娯楽は禁止、役者や音楽家は食ってはいけない。大学も学徒動員がかけられ学生はキャンパスからいなくなった。文化人、教養人は行く当てがなかった。

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2019年01月25日

下北沢X物語(3689)−呑川のカモのレストラン−

DSCN1003(一)日々の漫歩生活は、家の前の緑道から始まる。北へ行くと世田谷区深沢、南へ行くと大田区石川町だ、緑道は川に蓋をしたもの、どんどん下ると東急目黒線とぶつかる。これを地下道で潜るとすぐに川が現れる。呑川だ、深く抉られ川床が東京湾へとずっと続いている。このところここに群れている鳥がいることに気づいた。ときに百羽を超える。両岸はコンクリート、野生の鳥が集うにしては風情がない。ところがこれを観察しているうちに分かってきた。呑川開口部は彼らのレストラン、餌場だった。ここから連想したのは、江戸前カモだ、食べると美味いのではないか?ところがこの答えは意外だ、「おいしくないっていうのよ」、川の側の工事現場にいる女性警備員が教えてくれた。

 この呑川の水は天然自然の水ではない。大田区ホームページに解説がある。「呑川とは」と題してこう述べている。

 世田谷区と目黒区の上流域では、呑川は暗渠となっています。目黒区と大田区の境付近にある工大橋から下流は、開渠となっています。この工大橋付近において、東京都の清流復活事業として、下水道局落合水再生センターで高度処理された水を呑川に導水しています。この水が呑川の主な水源となっています。

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開口部のすぐ上手の橋を工大橋という。東京工業大学に隣接しているからだ。落合水再生センターから導水管で導かれた再生水が工大橋まで流れてきて、ここでやっと日の目をみる。

 「江戸前カモ」といったのは、「江戸前寿司」を思ったからだ。つまり、江戸時代、人口がどんどん増えることで、人間が排泄するものも多くなった。これ、すなわち栄養分のあるうんちまじりの水江戸湾に流れ込んだ。これが魚を肥やしておいしくした。実はカモたちも同じ恩恵に浴している。

 下水再生水は、各家庭で出た汚水を浄化してできたものだ。工大橋には東京都の看板が立っている。「清流の復活−呑川」と。落合水再生センターで高度処理された水を流すことで呑川の清流を復活させたと謳う。が、ここの開渠部にくると水が臭う。浄化したといっても窒素やリンなどの溶存物質は完全に取り除くことはできない。それで臭うようだ。が、カモたちはこの恩恵にあずかっていた。富栄養性の高い水、これがカモのレストランを作っていた。

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2019年01月24日

下北沢X物語(3688)−古老の証言2:北沢の風物詩−

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(一)時は刻々と過ぎてゆく。あのときもこのときも遠ざかるばかりだ。町がどう変わったかも定かでない。が、古老、94歳の三十尾生彦さんは覚えていた。彼はかつては北沢の町中に生活の音が生きていたと言う。道筋に沿って音がやってきては遠ざかった。ぶぉうぶぉうという山伏の法螺貝、ひゅうふるるという虚無僧の尺八、「なむみょうほうれんげきょう」と唱える托鉢の僧、「いわしこぉー」という鰯売り、「しじみいらんかねぇー」とシジミ売り、「六貫三百どうでもいい」という団扇太鼓、「ろっこんしょーじょう」と白装束、数えたらきりがない。この風景には常に子どもの姿があった、怖い者がくると逃げる、面白いものにはついていく。路地にはいつも子どもたちの歓声や弾んだ声に満ちていた。今と違ってうじゃうじゃと戯れていた。


/晃兄川風物詩(界隈の子供たち)

 北沢四丁目の路地には子どもが溢れていた。かくれんぼうや縄跳び、男も女もきゃぁきゃあ言って遊んでいた。
 昭和初期北沢は江戸時代を引きずっていた。子供はふつうはかすりの筒袖に坊主頭だった。垂れる青ハナを袖で拭きテカテカに光っていたのを覚えている。
 私は渋谷からここに越して来たので、おかっぱ頭で繋ぎの服を着てやって来た。それで異彩を放っていた。目だったので女男と囃されいじめられた。ところが移転時に持参した頑丈なドイツ製の三輪車を提供したお陰ではな垂れ小僧の仲間に入れてもらえた。この車は、私が小学校を出ても 近所に転がっていたのを覚えている。

⊃晃兄川風物詩(音の風物詩)
 虚無僧の行脚
 編傘かぶり袈裟を掛け嫋嫋と尺八を吹きながらやってくる。音で分かった。そして家々の戸口で無言で門ずけをする。それが何か厳かで怖かったことを覚えている。

 山伏の行
 頭に頭巾(ときん)を頂いた男、これが腹に響く法螺貝の音をひびかせる。そしてがしゃんがしゃんと錫杖を強く響かせる。彼らはあたりを睥睨しながら集団で通り過ぎる。
「大山詣りか?」
 子供心に怖かった。
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2019年01月22日

下北沢X物語(3687)−ふしぎ町高輪を歩く2−

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(一)歩いて実感したことは高輪は文化が凝縮し濃縮している土地ということだ。何と言っても歴史の厚みがある。中心となる道は東西を貫く二本榎木通りだ、典型的な背尾根道である。南面は品川の海が望める第一級の景勝地だ。旧皇族の広大な土地もこちら側だ、一方北面の谷にはぎっしりと墓石で覆われている。この風景も圧巻だ、江戸期から人々が埋葬されてきた。墓は歴史時間を端的に物語る、人は死に、墓が残る、が、丹念に見て廻ると崖地の礎石は墓石が使われている。墓は無縁仏有縁仏が入り交じっている。墓と寺と大名下屋敷跡、歴史の重層が肌で感じられる。これを貫いているのが道だ。二本榎木通りは東海道の補完道だった。が、この道江戸以前から使われた道だろう。

 思い出すのは「更級日記」だ、平安時代中期に書かれたもので上総から京都までの道行きが描かれている。高輪近くの三田を通って行くときの記述だ。

今はむさ しのくにになりぬ。ことにおかしき所 も見えず。はまもすなごしろくなども なく、こひぢのやうにて、むらさきおふときく野も、あしおぎのみたかくおいて、むまにのりてゆみもたるすゑ見えぬま で、たかくおいしげりて、中をわけゆく に、たけしばといふ寺あり。

 草ぼうぼうだったようだ。葦や荻が高く生い茂っている細道を行くと竹芝寺があった。三田の済海寺のようである、さらに東進するが今の東海道となるが、賢明な選択は二本榎木通りではなかったか。菅原孝標娘は背尾根を馬に乗ってゆき、海を眺め深い感慨に襲われたのではないかと思いもした。
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 高輪には至る所に歴史の断片が落ちている。まず、「品川駅創業記念碑」を見て、つぎは「東禅寺」だ。門前には「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」という碑。館は攘夷派の標的になって度々襲われている。「東禅寺事件」というとの説明がある。


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2019年01月21日

下北沢X物語(3687)−ふしぎ町高輪を歩く(第147回)−

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(一)町歩きもまた物語だ、参加者が高輪を歩きながら土地のページをめくっていく。これを案内者の松山信洋さんは「ふしぎ町高輪」と銘打った。何が不思議なのかは参加者が探し当てることだ。実際に歩いて見る、驚くのは土地の起伏だ、谷谷が深い。そしてそこを埋め尽くしているのがお墓だ、驚く程に寺院の数が多かった。あちこちに歴史上の人物がひっそりと眠っていた。本当に不思議だった、地形の屈曲、道の屈曲、景観の深み、縄文から近代までの時代の相など不思議だらけだった。なぜだろう?と思った。一番最初に思ったのは都鄙境だ、江戸時代の町外れだった。都鄙境には物語がたんと眠っている。路地を行くと忽然と加賀の千代女の句碑があったり、寺山修司の「人力飛行機舎」があったり、そして、江戸時代の巨人荻生徂徠の墓があったり、そのめまぐるしさに圧倒されるほどだった。

 フィールドワークはおもしろい、地を足いて土地の特質を知ると分からなかったことが分かってくる。高輪を歩くと夥しい数の寺院があった。それでなるほどと思ったことがある。高輪の西向こうは品川宿だ、江戸四宿のうちで最も遊郭が流行ったのはここで遊女が最も多かった。客の多くが品川近辺の寺の僧であったと聞いていた。歩いてみて得心がいった。寺社が樹木も多く墓ばかりだ、寂しいことこの上ない、「こんな夜はあのことしっぽり」と多くの坊さんが考えついて馴染みの遊女に日参していたのではないか?

 1月19日、午後一時、品川駅で待ち合わせた。かつては場末の郊外駅だった。しかし今や新幹線が発着する大ターミナルとなった。ドーム型の天井には目を見張るほどだ。場末の駅は中央駅になった。

 品川というのは一種の緩衝地帯だ、郊外から攻めてくる敵を此処で迎え撃つ、江戸期に品川宿に多くの寺院を置いたのは兵営として火急の場合使えるとのこともあった。
 この駅で思い出すのは中野重治の「雨の夜の品川駅」だ。

「辛よさようなら/金よさようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する」で始まる、プロレタリア同胞を送るのは東京駅よりも、品川駅である方が詩的だ、場末感が漂っていたからだ。
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2019年01月19日

下北沢X物語(3686)−文士町文化地図:各版比較考察3−

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(一)人は物語を旅して生きる、小さな感動、悲哀などを記憶の片隅にしまいながら時を重ねていく。文化地図もその時その時の願望や希望が断片的に記されている。七枚を並べてみると一つ一つの物語が読み取れる。伏線となるものが最初にあって、何枚目かでそれが完結している。初版では物語の萌芽が二つある。一つは文学碑の建立であり、もう一つは鉄塔の保存だ。これらの思いや夢が数枚後では実現し現実のものとなっている。時の不思議だ、具体的には代沢小に建立した安吾文学碑であり、世田谷区地域風景資産となった「代田の丘の61号鉄塔」である。我らは希望を追ってこれまで来たのだ。

 坂口安吾文学碑を建てようというのが運動の始まりでもあった。やはり、活動する場合の種は必要だ、会を立ち上げるに当たって何人かと話しをした。創立メンバーで一番熱を持っていたのはやはり地元の東盛太郎さんだ、代沢小出の彼は安吾文学碑建立には積極的だった。やはり具体的な作品があったことが我らを力づけた。「風と光と二十の私」である。ここには学校の周りのことが詳しく描かれている。

 私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。
坂口安吾全集4 ちくま文庫 2002年


こういう記述が我々を熱くした。碑の建立はドラマだ、
 2006年5月に我らの最初の発信物『北沢川文学の小路物語』ができた。朝日、毎日の東京版に大きく載った。反響は大きかった。このことが碑建立に結びついた。

 新聞を見て驚いた人たちがいた。馬込文士村ガイドの会の人たちだ。馬込文士村に関係する文学者が当地に多くいたことだ、坂口安吾、萩原朔太郎、萩原葉子、宇野千代、三好達治などである。早速に会の人たちが訪問をされた。この関係から意外なことが分かった。
「大田区東矢口に坂口安吾が住んでいた家があってその門柱が今も残っています」
 さっそくに行ってみたところ門はあった。所有者は、新潟日報社である。
「この門柱を使って文学碑を建てたい」
 熱意が湧いてきた。しかし、大田区の方でもこれを残したいという願望があった。
 
 門柱を譲渡してもらう、これを運ぶ、そして碑を作る。一つ一つが大きなハードルだった。今にして思うと、私と同じように碑の建立を願望していた人がいたから実現したのだと思う。当時の世田谷区教育委員会の次長である。
 最後は大田区と世田谷区の教育委員会で相談をして世田谷区へと決まったものだ。

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2019年01月17日

下北沢X物語(3685)−文士町文化地図:各版比較考察2−

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(一)文化地図の発行年月は初版、2006年12月、7版は2017年3月だ。11年が経過している。この間に大きな変化があった。当該地域の文化の起爆力となった小田急線の地下化である。地表線から地下線へ変貌し町の風景が一変する。その締めくくりに参画する。2020年春に世田谷代田駅の広場が完成する。ここに念願のダイダラボッチの足跡をかたどったモザイク模様が描かれる。この開場を記念して地元では盛大なイベントを計画している。我らの会もこの行事に連動して二つのイベントを予定している。一つは「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとした研究大会の開催だ。これは当会が毎年計画しているもので今回は第五回となる。開催日は、今年7月27日で、会場は「梅丘パークホール」だ。もう一つは、広場オープン記念として「下北沢文士町文化地図」第8版を発行し、イベントに参加された人々への配布をする。これらに向けてすでに準備会が発足している。

 さて、文化地図の考察だ。初版から7版までの間に都市の変貌と発展があった。初版においては都市論の一端が述べられる。A面の2ページでは、「供_舎迷X交点周辺文化」として記述されている。冒頭文に続く第二と第三段落ではこう述べている。(筆者 きむらけん)

 教会や文士の参集の根本にあるものは同じである。例として教会、文士を取り上げたが、実は他の分野も多く集まっている。文化分野では画家、映画監督、俳優など数限りなく居住している。政治、経済、学術の分野についても同じである。
 下北沢周辺に様々な価値を呼び寄せたのは鉄道である。農業を中心として営んでいた地域、新屋敷に鉄道が敷かれた。小田原急行鉄道は昭和2年に、帝都電鉄は昭和8年に敷設された。下北沢でその二つの線路がクロスしたことは大きい。地図上にその痕跡を残しているが特異な形状である。作家の清水博子は「街の座標」でこのXを「ひしゃげた座標軸」と形容している。巧みな比喩である。そのゆがみやねじれは極めて人間的だ。近代の屈折ともいえる。

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2019年01月16日

下北沢X物語(3684)−文士町文化地図:各版比較考察1−

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(一)2006年12月25日に文化地図の初版を発行した。以来7版までの累計は6万部に達する。先頃、区役所の地域振興課から照会があった、初版から7版までの資料存否の確認だ、現在行政のホームページでは第4版がアップされている。全編の公開の可能性の打診である、それで保存地図を確認したところ全版すべて揃っていた。改めて並べてみると興味深い、当該都市の、町の経年的な文化資料となっていることだ。これらを比較考察することで町の歴史や文化が見えてくる。試みとして各版の特徴を比較してみた。

 当初、文化地図を作り始めたときは改版のことは考えていなかった。行き当たりばったりである。ところが、改版を重ねるうちにノウハウが蓄積されてきた。統一的な記号、また表記法などが改善されるようになった。これら記録7枚を並べてみるとそれぞれに特徴がある、記録としても貴重である。
 地図の大きさはタテ30×ヨコ42cmだ。見開き4ページの体裁だ、以後1と2との表面をA面とし、3と4との裏面をB面とする。

〇初版 名称 下北沢X交点周辺文化地図 発行日2006年12月25日


・A面 目次
 I 「北沢川文学の小路を歩こう」 北沢川文化遺産保存の会
 調査研究員 きむらけん


解説文のキーセンテンス
・昭和の近代文学が凝縮され、圧縮されている特別な場がある。東京世田谷、下北沢の南を流れている北沢川、せせらぎが東西に流れている代田、代沢、北沢だ。一帯には文学詩歌の営みの痕跡群がある。まるで約束しでもしたかのように参集して来ている。(冒頭文)


・北沢川文学空間は不思議だ。気づくと思いがけない数の文芸人が存在していた。のみならず文学とは、日本語とは、文化とは何か、今も問題を投げかけている。(末尾文)
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2019年01月14日

下北沢X物語(3683)−人間の成長:でんちゃから富士へ−

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(一)日々の歩きで跨線橋をよく通る、ここが園児たちの電車観望台になっている。富士も見えはするが「お山!」と言って喜ぶ子はいない、やはり「でんちゃ!」だ。一方、富士観望台にたむろするのは圧倒的に熟年だ。人間はでんちゃに始まりお山で終わるようだ。当方も「でんちゃ」を見ても心ときめかない、新幹線などは「何であんなに急ぐことがあるのか?」と冷ややかだ。過去を振り返ると自分もでんちゃの運転士に憧れた、が、それは消え失せて今は富士の姿を渇望してやまない。でんちゃから富士へ、人間がたどる必然か?

でんちゃからお山へ、子どもはいつ関心を移していくのだろう?
 昨日、下北沢小学校の前を通り掛かった。5月にはここの同窓会の講演をすることになっている。新校舎は旧東大原小の跡地に建っている。地形的には丘上に位置し、富士がよく見えた。東大原の校歌はこれを高らかに歌い上げている。その一番(作詞 葛原しげる 作曲 藤井清水)

朝夕あおぐ 神山富士の
正しき姿 清らの心
わが明けくれの かがみとこそ
よき日本人 わがちかい
のぞみ気高き 学舎ゆかし
東大原小学校


「西方に聳えるあの神山富士に倣って正しく清らかに生きよう、日本人の生きていく鑑として誓を立て、望みを気高くもって学舎をより慕わしく思おう」という意か。学校は昭和2年創立、昭和10年年10月東京市第三荏原尋常小学校と改称し、校歌制定は昭和11年だ。卒業生は「第三荏原」だと言って学校を誇りに思っていた。昭和8年に小田急線と井の頭線がクロスした。それを背景とした栄え行く町が背景にあったことは間違いない。

 東大原、守山、北沢が統合してできたのが下北沢小学校だ、東大原、北沢は校歌に富士があった。北小は「真白い富士の嶺そびえ立つ/清い姿を身にこめて」とある、作詞は詩人の福田正夫だ。

 校歌では富士を褒め称え、そしてあの山を鑑として正しく清く立派に生きよという。校歌における富士の役割は大きいものがある。
 富士の山影を活用した情操教育というのが伝統的あった。子どもはほおっておけば「でんちゃ、でんちゃ」で終わる。神山富士を心に植え付けて、そして将来は国家に尽くしてほしい、そんな願いがあったようにも思う。

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2019年01月13日

下北沢X物語(3682)−古老の証言:下北沢の昭和十年頃−

DSCN0207(一)年寄り一人一人は一冊の書物を蔵している。地域の歴史がこれに残されている。このブログでは古老から聞いた話を数多く載せている。北沢四丁目に住む三十尾生彦さん(94歳)には度々協力を戴いた。今回また往時をまとめてくださった。昭和十年頃の話である。昭和八年に小田急線とクロスする井の頭線が敷設され利便性が高まった。以来段々に一帯が開発されていった、畑地やハラッパが建物によって侵食されいく、その様子がよく分かる。こういう記録は大事にしなくてはならない。
 古老の証言は大事だ。町の姿を次代に残すことで未来が見えてくる。下北沢は沢の町、大きな沢が二つある、まず東部を縦貫して流れているのが森厳寺川だ。つぎに西部にはダイダラボッチ川がある。今回は前者の記憶だ、後者のもぜひほしい。求む、ダイダラボッチ川の風景変遷情報を。

〇森厳寺川風物詩 

*注:森厳寺川は笹塚を源流として下北沢の東部の沢を流れ下っている。小川である、途中に森厳寺のすぐ脇を通ることからこれを森厳川と呼び習わしている。源流部では約45メートルの標高がある、下流代沢小学校では35メートルだ、急傾斜を流れる川で大雨時に度々溢れた。原因の一つは旧東北沢4号踏切脇にあった小田急線のカルバート(暗渠)が狭かったことが原因である。

森厳川ぞいは概ね今のようにぎっしりと家々は建っていなかった。ネギ畑と未開墾のハラッパが広がっていた。土は関東ローム層の赤土で、赤黒い畑が広がっていて水道道路(井の頭通り)まで見渡せた。畑には埋められた肥桶があって通ると異臭を放っていた。

 この肥溜めは自然放置の熟成待ちだから、畑と肥だめの区別がつかない。それで遊びに熱中しすぎて、肥だめに落ちることは度々あった。当時水道はまだ普及はしていなくて井戸の水を汲んで井戸端で汚れを落としをしたが臭いはなかなか抜けなくて苦労した。母親からきついお目玉を頂戴したこともあった。

 家の近くのハラッパは蝙蝠とギンヤンマが飛び交う供達天国だった。暗くなるまで歓声が聞こえていた、子供達は夕食も忘れてトンボ釣りに熱中したものだ。
 やがてそのハラッパの一角に赤坂家のアパートも建ち上がった。これを追って空き地に家が建ち並び段々に空き地はなくなり、トンボも来なくなった。

 後に赤坂家のアパートの二階に私ども夫婦がお世話になり、一年ほど新婚生活を謳歌した。


*文中、赤坂さんというのは赤坂暢穂さんのことだ。森厳川沿いにある、赤坂さんのお兄さんと三十尾さんは親しくしていた。この人は英語が堪能だったようで赤坂さんと三十尾さんが組んで米軍慰問に行った。灰田勝彦、坊や三郎、下北沢在住の日本舞踊の師匠藤間勘七龍を伴った。師匠の本名は、鈴木ナヲ、親は鈴木瓦店を経営していた。関東大震災後に北沢にできた店だ。
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2019年01月11日

下北沢X物語(3681)−思い出の東横線ワーレントラス橋−

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(一)日々ほっつき歩く、昨日は渋谷へ、今日は大岡山へ。出歩くとドラマに出会う。今朝のことだ、まず近くの東横線の跨線橋、登ると保育園児がいる、「でんちゃ、でんちゃ」と喜んでいる。「みんな、でんちゃ好きなんだ」、「そうなんです」と保育士さん。「あれ、今日は富士がよく見えるよ」と指さすと、園児はポカン。たおやかな富士の嶺に子は全く興味を示さない。次ぎに平町バス停のところで老婆二人が向こうを指さしている。見るとビルとビルの間に見事に富士が見える。「きれいですね」というと「ここからの眺めは最高よ」と。「若い人に富士といっても感動しないのよ」、富士への興味は年老いてから湧くことを知った。

 昨日は、渋谷まで行った。8日に代官山で行われた新年会で自身が問いかけた跨線橋が気になったからだ。

 地下化した東横線は代官山からトンネルに入る。軌道跡には商業施設「LOG ROAD DAIKANYAMA(ログロード代官山)」ができた。何回かここは訪れている。が、人通りがほとんどない。平日の日中ということもある。人と擦れ違うということはない。前よりも賑わいが薄れたような気がする。とっつきのビアガーデンは人が入るが、奥は人の入りが悪いと聞いたことがある。

 ログロードのロゴは、線路マークが入っている。線路の記憶を残すためだという。が、線路は繋がっていてこそ生きてくる。このログロードは先端部で折れて階段で終わる。そして、下りたところから東に進むと、くだんの跨線橋がある。

 昨年秋に、東横線跡地にできた渋谷ストリームという高層ビルが開業した。そのときのニュースでは跡地はプロムナードになっていると伝えていた。
「もしかしたら代官山と繋がったのかもしれない」
 そう思っていたのだが、跨線橋は元のままだった。
 
 跨線橋に上って渋谷方向を見る。記憶にある風景はどこにもない。左手の崖だけは今も残っている。崖上の塀に長い間、「神永電線」という文字が書かれていたのを覚えている。自分が立っている跨線橋のすぐ北にワーレントラス橋があった。思い出の東横線鉄橋だ。

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2019年01月10日

下北沢X物語(3680)−新年早々瓢箪からまたオペラ−

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(一)新年から不用意に口をすべらせてしまった。8日、代官山ステキ総研の「2019年、新年賀詞情報交換会」が代官山で行われた。順番が回ってきて今年の抱負をスピーチした。昨年は、オペラを演じたところ好評だったと伝え、「代官山と三田用水」というオペラも考えられるのではないかと言ったところ、「それはグッドアイディアだ」という話になった。下北沢は沢の町、代官山は丘のまち、共に音楽家が住んでいる。ところが代官山はハイソな人が多い、芸術的な人的資源が豊富である。スピーチの後、常務理事の鋤本氏が来られてオペラの作曲も歌い手も弾き手も皆ルートがあるとの話だ。思いついたことをうかつに話すものではない。下北沢文化圏とは違うものが当地にはある。独自の文化である。言えば、「代官山と三田用水」というのは他との差別化を図る、キーワードではなかったかと思った。

 代官山ステキ総研と私たちは連携関係にある。下北沢と代官山、なぜ繋がりがあるのか、これは一般的に知られていない。両者は用水で繋がっていた、三田用水である。北沢北端の玉川用水に三田用水の取り入れ口がある、この用水が下り下って代官山を横断している。代官山という町形成、景観形成は三田用水が深く関わっている。

代官山ステキ総研は、毎年「代官山大学」を開催している。大学のゼミ生が代官山をフィールドワークとした研究発表会を行うものだ。何回か参加して影響を受けた。

「私たちは同年代を集めて研究会を開いています。が、ロートルは過去しか語らないのですね、ところが若者は未来を語ります。その違いは大きいと思います。私たち北沢川文化遺産保存の会は昨年研究会を開きました。大学のゼミ生に参加してもらいました。法政大学、成城大学の若者はまちの未来を語ってくれました。これは代官山大学から学んだことです」
 挨拶で私はこう述べた。

「今年も研究大会を計画しています。来年度、世田谷代田駅駅前広場が開場します。ここにダイダラボッチの足跡をかたどったモザイク模様が描かれます、地元ではオープニング記念行事を考えていますが、私たちもこの関連行事の一環として研究大会を開催することにしました」
 すでに一月四日、会員の金子善高さんが梅丘パークホールの予約申し込みをして会場は押さえたところだ。
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2019年01月08日

下北沢X物語(3679)−「猫町」散歩の舞台は野屋敷か4−

P1000811(一)明大前も鉄道がクロスする駅だ、ここで乗り換えるときにいつも不思議な現象に出くわす、井の頭線から乗り換えて京王本線に乗ろうとすると電車は逆方向から来る。「猫町」でも乗車中「汽車の進行する方向が、いつの間にか反対にな」っていると錯覚することがあると言う。詩人は物事には「秘密の裏側」があると言う。散歩中に彼もこれに出くわした、帰宅しようと急いでいるとき「樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐると廻ったあとで、ふと賑やかな往来に出た」そのときに驚嘆するほどの「情趣の深い町」、「幻燈の幕に映つた影絵のような町」に出くわした。多分北沢3丁目辺りの路地だろう、迷った挙げ句ふと通りに出た、見違えるほどに美しい、しかしふと気づくと「それは私のよく知つている、近所の詰まらない、有りふれた郊外なのである。いつものやうに四つ辻にポストが立つて、煙草屋には胃病の娘が座つてゐ」た、この「猫町」を特定する手がかりは四つ辻のポストである。

 亡くなった東盛太郎さんとこのポストを探し回った。四つ辻のポストは例の鈴蘭堂の側にあればいいが、これはない。斜め前方のかつて大月菓子店があったところにポストはあった。ここだとイメージが違ってくる。

Ω翕損馨路入り口 案内

「朔太郎は鈴蘭堂で煙草を買い、そして旧北沢局のポストに手紙を放りこみます。彼はこれからどうするか。詩人の日常は家で書き物をした後、外出をする。『私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っている』と『猫町』では言っています。うろつき廻る場合、どこをどうたどっていくかということですが、彼は『樹木の多い郊外の屋敷町』を巡ったと言っています。この辺りで木々が生い茂った屋敷町はこの野屋敷しかありません。ほら、ここに路地が北へ続いていますね、これを御殿山小路と言っていました。なぜそう言ったか御殿のような屋敷があって木々が鬱蒼と生い茂っていました。散歩するにはうってつけですね……」

 そうここは散歩道として親しまれていた。彫刻家の淀井敏夫氏はこう言ったという。
「路地を歩いて行くと奥に大島家のヒマラヤ杉が見えるでしょう。鬱蒼と木々が茂っていていい感じですね、私はあの木々の上の空に別世界があるように感じていましたよ」
 このヒマラヤ杉はこの地のランドマークだった。世田谷区の保存樹木であった、が、これを継続していくことは困難になったようで、大島さんからやむを得ず伐ることになりましたとの連絡があった。
「戦争中にも軍部から目立つから伐れと言われたのですけど、『伐るなら俺の腕を切ってから伐れと抵抗したそうなんです」
 大島さんからこれは聞いていた。

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2019年01月07日

下北沢X物語(3678)−「猫町」ツアーへのときめき3−

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(一)「猫町」ツアーは感覚の旅だ、猫のように神経を研ぎ澄まして裏路地を行く。すると次元の穴に吸い込まれてしまうこともある。スリリングな探検をするには注意を怠らないことだ、観察すべき点は三つだ。「路」、「沢」、「影」である。地域固有のものである、これらは朔太郎の文学性と関わるものだ。「路」は一帯に張り巡らされている路地だ、萩原朔太郎旧居の周りもこれに取り囲まれている。密かに行動する場合は好都合だ、「沢」は地形の凹みだ、これも至る所にある、ゆえに路は上ったり、下ったりする。さすらい歩く場合の味付けとなる。「影」は、猫の隠れ場所だ、詩人は「ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは、ただ一疋の青い猫のかげだ」と『青猫』に詠んでいる。町の陰翳は魂が宿る場所だ。路地の角や隅には影が至る所に存在する。詩人がなぜ下北沢や代田に住んだか?地形的に好むものをここに見いだしたからではないか?「猫町」ツアーは、詩人の文学性に触れる旅である。

 地形と「猫町」の関係も少なからずある。下北沢に住んでいた詩人がなぜ隣の世田谷代田に移ったか?昭和6年に朔太郎はここに引っ越してくる。が、「下北沢は近く井の頭線も開通される……もう少し静かな郊外の方がよいだろうということで」(『父・萩原朔太郎』萩原葉子著 筑摩書房 昭和34年)隣の世田谷中原(代田)に引っ越す。選択肢としては「父が小田急線では一番好きな成城学園前」もあった。が、前者を選んだ。成城学園前にはどんな特徴があるか。路、沢、影のうち、沢はある。が、ここは国分寺崖線が通っていて沢が深い。また広い路が碁盤目状に走っていて明るい、影がないことだ。そして隠れるところがない。彼が好みとするところは「野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻」(『秋と漫歩』)ることだ。その様子を見事に描いているのは三好達治だ。彼の追悼詩「師よ 萩原朔太郎」彼はこう詠んでいる。その一節だ。

都会の雑踏の中にまぎれて
(文学者どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
恐怖し 戦慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覚し
飄々と乎として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
旅行嫌いの漂泊者
 四季 第六十七号 萩原朔太郎追悼号<昭和17・9> 冬至書房新社
 (旧漢字は新漢字に置き換えている) 


 「講釈師見てきたような嘘をつき」というが、「抒情詩人見てきたような真実を詠む」、三好達治は代田北沢界隈をほっつきあるく詩人を活写している。
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2019年01月05日

下北沢X物語(3677)−「猫町」英語版ツアーガイド手引き書2−

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(一)「猫町」ツアーは短い旅だ、が、新しい手法の旅だ、萩原朔太郎は通常の旅を「同一空間に於ける同一事物の移動」(『猫町』)に過ぎないと認識する。そうイタリアへ、フランスへ行っても同一空間をこっちからあっちへ移動するだけだ。「何処へ行つてみても同じやうな人間が住んで居り、同じような村や町やで」つまらない。それで詩人は新たな旅を創出した。「人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶ」というものだ。「運動のための散歩の途上で、或る日偶然に」「新しい方法を発見した」という。代田北沢は路地ばかりだ、そこを行くときに見つかった。路地にこそ新しい旅への端緒が潜んでいるようだ。

 「猫町」は、旅論でもある。
  旅とは何か、家を離れてよその土地を訪ねることだ、常とは違うところへ行くことで人は新鮮な感懐を持つ、それで人は旅には憧れる、この新春になって海外旅行を誘う新聞広告が増えた、通例的には人は遠くへ行くことが旅だと思って入る。が、「旅嫌いの漂泊者」は、身近なところに、至る所に旅は落ちているという。言えば、人よ、ローマに行くことなかれ世田谷代田や下北沢に来たれということになる。

 昨年、暮れに夜の『猫町』のツアーを行った。町探検のキーワードの一つが「路」だった、この町はさまよえば分かる、新道、古道、路地が入り乱れている。普通は見分けがつかない。
「ああ、ここがいいですね、ほら道を見てくださいよ、そこはかとなく路が曲がっているでしょう、これは間違いなく古道ですね。昔の路は無理をしないのです。自然地形を利用しているからどうしても屈曲ができるのですね……」
 下北沢代沢五叉路の手前でそう説明したことだ。
「路地も多いですね、この距離も一つの魅力ですね、人が間合いをとってすれ違える。温もりのある距離ですね、だからところどころにローソクを点すと町が引き立ってくるのです。『ノエルの小径』っていいアイディアですよね」
 そうここでは路地がポイントだ、「猫町」ツアーのポイントもここにある。

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2019年01月04日

下北沢X物語(3676)−「猫町」英語版ツアーガイド手引き書−

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(一)年が明けて我らの活動は15年目に入った。時を経て来ると振り返りができる。何をなしてきたのか?言えることは「地域の知的資源の発掘」だったことだ。文学碑四基の建立、文化地図の発行、ネットでの発信はまさにこれだった。これらを通して、文化人が当地域に密集して住んでいることを知った。あらゆるジャンルに跨がる。中でも詩歌人が多いことは大きな特徴だ。傑出しているのは萩原朔太郎の存在だ。今も熱く彼を信奉している人がいて当地は、聖地と考えられている。吉増剛造は、「下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ」(『黄金詩編』)と謳う。朔太郎が当地一帯を徘徊していたことが強く意識されている。詩人が書いた「猫町」は言わばバイブルだ、この物語とびっきりおもしろい。地域を越えたグローバルなものだ、それで前から外国人向けの「猫町」ツアーをと言ってきた。それでガイドによって翻訳化されることを念頭に、ツアーガイド手引き書をまとめてみた。

 『猫町』は、萩原朔太郎が描いた短編小説だ、詩人の清岡卓行は日本文学ベストワン小説に推挙している。(萩原朔太郎『猫町』詩論)際だっていることは、「主人公の意識の屈折がストーリー」となっている点だ。朔太郎自身、旅への期待をなくしていて、「私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかり」(『猫町』)をするようになっていた。この作品が書かれたのは1936年(昭和10)、世田谷代田在住時である。朔太郎は医師から散歩を奨められ「毎日家から十四、五町(三十分から一時間位)附近を散歩してゐた」、ゆえに想定されるコースは代田や下北沢である。一帯の路地町を迷いながら歩くツアーは、異国人も興味を持つはずだ。それで外国人向けの『Cat Town Walk』を提唱してきた。

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