2017年02月21日

下北沢X物語(3223)〜第125回街歩き:烏山を歩く◆

DSCN0194(一)烏山を歩いてみて感じたことは、土地がフラットであること、緑が多いこと、それとローカル時間が感じられることだ、時間がゆったり流れている。田園都市という言い方があるが、イメージとしてはこの呼び名が合っている。それでもこの田園は現代の東京が東から押し寄せてきている。この町もやはり文明と衝突することで大きく変化した。京王電鉄である。
 
 烏山神社に行くのに踏切を渡った。芦花公園1号踏切だ。京王線の特徴というのはある。遮断機が下りる。やがて、特急が目の前を通過していく電車のボディを手で触れるほどだ、しかもすっとばしてくるから怖い。この辺り一連の踏切は電車の運行本数が多いので開かずの踏切となっている。この踏切から東西を見渡す、京王線は地形の膨らみに沿って走っていることがわかる。いずれは高架になるようである。

 この京王電鉄が敷設されて変わっていく様は徳冨蘆花「みみずのたはこと」に描かれる。

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷ひやかしに往って帰る位何の造作もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉しいような、また恐いような気がします。隣字の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴ヴァイオリンの好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。


 近代文明の開通によって田園地帯が都会文化に侵食される。電車が開通して、学生生徒の電車通が始まる。今みたいに長大編成の電車ではない、単行だ。これにぎっしり乗ってゆく恋のときめきは電車開通の副産物だ、「お尻をさわられた」などというのもなかなか声を上げられないほどだった。
DSCN0195
 都会地から越してくる施設は川の源流部に作られる、松沢病院は我らの北沢川の源流がある。ここには「将軍池」がある。烏山寺町の高源院には弁天池がある。烏山川の源流の一つだとのこと。
 
 一帯は標高五十メートルほど、東に向かって傾斜は低くなる。我らが日頃親しんでいる川は、北沢川であり、烏山川だ、流れ流れて二つは合流し、目黒川をなって流れていく。
「高源院はもとは品川にあったものなんですよ」
 同行した原さんの話だ、川の文化、寺の文化、流れでも繋がる。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月19日

下北沢X物語(3222)〜第125回街歩き:烏山を歩く〜

DSCN0189(一)街歩きをして楽しんでいる、一月は田端で、今回は烏山だ。一番面白いのが街の歩き比較ができる。やはり大事なことは自分の足が体感、実感することだ。今回烏山の街を歩き回って、不思議に思ったことはあまり疲れないことである。なぜだろうか?ここにこそ土地の固有性があるのではないか。


昨年、仙川地図研究所の和田文雄さんに仙川の町を案内していただいた、好評だったことから今回、また烏山の町の案内をお願いした。案内人の彼が最初に言ったのは、
「千歳烏山に準特急が止まるようになりました。乗降客が増えているのです…」
 昨年のダイヤ改正で準特急がここに止まるようになった。乗降客は2014年度は75,913人、2015年度は78,314人、乗客増に対する手当として準特急が止まるようになった。

 昨日、幡ヶ谷に用事があった。幡ヶ谷教育会館でコーラスグループの発表会を聞きに行った。前々から腹案があったからだ、戦争経験を聴く会、語るかいを催してきた。この五月二十七日に、記念となる第十回目を下北沢都民教会で行う。何があっても戦争は二度とするなということで継続してきた。ところが戦争を語る人がいなくなってきた。あの苦しみはどんどん忘れられていくばかりだ。
 戦争体験を聴くのは辛いことだ、戦争を語る人もいなくなり、記憶も風化するばかりだ。十年経ったからやめてもいい。が、できることなら工夫して続けられないかというのが自分にはあった。それでコーラスグループとのコラボでこれができないか。そのリサーチのために合唱を聴きに行った。千歳烏山に一時集合なので、コーラスの責任者との話は少ししか出来なかった。我らの趣旨には賛成とのこと。

 打ち合わせが終わって幡ヶ谷へ、各停で笹塚行くと、準特急が来た。
「千歳烏山停まるんだ!」
 実際に乗る、たちまちに駅に着いた。便利なことこの上ない。が、何故ちとからに準特急が停まるようになったのか。

 歩いて疲れないということを述べた。それは地形がフラットであるからだ。どこまでいっても坂はない。
「確か、世田谷区でも一番標高が高かったはずだね?」
「そうそう確か五十メートル近かった」
 標高は高いが地形はフラットで歩くのも負担が少ない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月18日

下北沢X物語(3221)〜ダイダラボッチと連合艦隊司令長官〜

DSCN0186(一)墨痕鮮やかなサイン、それが短刀の鞘に記されていた。人間魚雷に搭乗して特攻に行くはずだった人が持って帰ったものだ。記された名は豊田 副武、連合艦隊司令長官である。この居宅が常々歩いている下馬にあったことを知った。その場所はおおよそ分かってはいたが特定できないでいた。折々に通り掛かるときに知った人に出会わないか気に掛けていた。ところが叶わずに二年ほど過ぎた、この二月十六日、街歩きの保険手続きをするために三軒茶屋に行った、野沢のダイダラボッチ痕跡経由で向かう、鶴が窪公園である、足跡には湧水池がある、その流れに沿って行くと駒沢線にぶつかる。鉄塔ナンバーは39だ。旧宅はこの近辺であることは分かっていた。このとき犬を連れた人がやってきた、その風体から直感した、長官宅を知っているのでは?

「ちょっと伺いたいのですけども、連合艦隊司令長官だった人の家はご存じですか?」
「ほら、そこだよ」
 彼は路地の角を指さす。
「えっ!」
 驚きも驚いたり何度も通っていた路地の角だった。長年の疑問がたちまちにあっけなく氷解した。

 そこが分かると具体的なイメージが湧く。だいぶ前に読んだ本で、ここで元長官は畑を作っていたという。場所が分かって鍬を振るう彼の姿が浮かんできた。
「ここの電柱から向こうの電柱まで、焼夷弾で焼けたのは西側、東側は焼けなかったようです。」
「ここの長官の家を狙ってB29は爆撃してきたという話を聴いたことがありますが」
「そうそうここら一帯焼夷弾が落ちたからね、子供の頃だけど、鶴ヶ窪から流れているどぶには焼夷弾のかけらがざくざく出てきましたよ」
 都市伝説がある、北沢の東条英機邸、下馬の豊田副武邸を狙ってB29は爆撃したという。重爆撃機にはノルデン爆撃照準器を搭載していた、が、数十キロ手前でピンポイントを狙っての爆撃はできなかった。軍の高官の屋敷が焼けるとみな申し合わせたように、狙って撃ったのだと言う。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月16日

下北沢X物語(3220)〜紀要第五号:代田のダイダラボッチ〜

DSCN0101(一)荏原南北、比較ダイダラボッチ論、そういう観点が成り立つ。言えば北は本家本元代田のダイダラボッチであり、南は洗足ダイダラボッチである。両方ともに歩き回ってきた。その荏原逍遙では南行する場合が多い、二つを観察していて思うのは洗足ダイダラボッチの方により惹かれる。一つは具体的な凹みが四つ残っていること。摺鉢山、貉窪、洗足大池、洗足小池だ。もう一つは伝説のリアルさが身近に感じられることだ。

 荏原南北、比較ダイダラボッチ論でいえば、代田ダイダラボッチは学術的であって、洗足ダイダラボッチは物語的である。

 代田ダイダラボッチは柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』でよく知られている。当地への実踏によって彼は右足跡の存在を確認している。この場合、地名起源が重要だ、痕跡のダイダラボッチがはっきりと残っていて、そして、彼は「村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである」と断言する。この足跡をもとに伝説、物語が作られた。

 伝説は、『世田谷の民話』となっていて、ダイダラボッチの善行が語られる。「男体山と浅間山の頂きに、棹をかけて、大きなモメンの着物で北風をふせいでいる」と。そして最後だ。

 つぎの日、代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ、長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうにすっていました。巨人は、黙って代田の方に顔を向け、にっこりーと。


この話は創作伝説である。話の落ちが規範的である。が、ダイダラボッチの居る風景は巧く取り込まれている。それは代田から遠望できる山々を登場させている点だ。男体山や浅間山や筑波嶺である。世田谷代田の丘陵から望み見えた山々である。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月15日

下北沢X物語(3219)〜富士と猫と東工大〜

DSCN0119(一)「今日は見えないね。何かね、富士を見るとホッとするのよ。あのね昼もいいけど夕焼けに光る富士も綺麗だわよ。神々しいのよね、私なんかもう先行きないしね、あああそこに行くのかなんて思うわ」
 荏原逍遙で東工大へはよく行く。構内の目黒線と大井町線を跨ぐ陸橋からは富士がよく見える。呑川左岸崖線の背尾根に大学はあるので西の空は広く、富士を見るには絶好の場所だ。川から登ってくる道は、「富士見坂」で、「関東の富士見百景」に選ばれている。そのプレートは大学構内にある。昨日、富士を眺めていると乳母車を押して婆さんがやってきた。三毛とぶちの二匹の猫を乗せていた。


「あそこにここにも建物がたったでしょう、もっと前まではよく見えたのにね、この大学にもこうにょきにょきビルが建ったしね、だけどね古い建物は壊さないというのね、だってね、壊すのに相当なお金が掛かるというのよ」

「おばさんは、ここは古いのですか?」
「生まれてこの方、ここを離れたことがないのね」
「そうなんだ?」
「前は畑やっていたからね」
「あれ、そうすると地主だよね。もしかして岸田さん?」
 一帯の地主として岸田は有名だ。
「いや、そうじゃないけどね、ここら辺り土地を一杯持っているのは大音寺だね」
 崖線の向こう呑川の右岸にある正覚山大音寺、享保年間に創建された。
「たしかにね、お寺っていうのは土地持ちだよね」
 北沢では森厳寺が地主だという話を聴いた。立派な伽藍のある寺は大概が地主だ。

「古くから住んでいるんだとすると、ほら、この北の方に行くと深い谷があってさ、あそこを擂鉢山といっていたって知っている?」
「ああ、すりばちやま、聴いたことはあるね、母から」
「じゃあさ、その擂鉢山が右足で、あっち、東にには貉窪ってあってさ、これが左足なんだ。ダイダラボッチの足跡でさ…」
 そこまで言ってためらった。お婆さんといっても女性だ。ここのダイダラボッチの話は女性にはしにくい。
「ここの真上でしょうべんをしたんだよ、そしたらそれで洗足池ができたというんだ。聞いたことはある?」
「そんな話あるのかね、初めて聞く話だね」続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月13日

下北沢X物語(3218)〜戦争と人間・信州特攻第四巻供

DSCN0178(一)武揚隊は昭和二十年二月十日に新京で他の三隊とともに結成された。これ以後内地に飛んだ、逼迫した戦況の中で長野県浅間温泉に四十日余りを過ごした。兄弟隊の武剋隊の前半は三月二十七日、沖縄中飛行場から、後半は四月三日に出撃して十五機が特攻戦死している。一方の武揚隊は、台湾に渡った、その途中で敵機に遭遇し長谷川信少尉ら三名が撃ち落とされている、他も直行できた機もあったが、撃たれて石垣島に不時着してもいる。遠距離の移動だっただけに困難が多かった。最終出撃が七月十九日だ、この間五ヶ月が経過してようやっと番が回ってきた。長く生きていられたとも言えるが、その精神的苦悩はいかばかりだったか?この日の突撃は陸軍特攻の最後となるものだった。

 武揚隊の記録は極めて少ない、が、偶然に彼らが松本浅間温泉で残した遺墨が見つかった。墨痕は確かに隊員が当地に生きていたことを知らせた。この慰問には土地がらみのストーリーがある。今で言えばサイン帳だ、それを持って旅館富貴之湯を訪れたのは高山宝子さんだ。彼女は、武揚隊隊員の飯沼芳雄伍長と小学校で同級だった。そのよしみでのつながりだ。遺墨と同時に写真十枚も見つかった。ところが名前が分からない。そのことから他隊もまざってのことだろうと思っていた。

 しかし、年月が経つにつれ分かってきた。特攻戦死者は知覧平和資料館に写真がある。これと照合して何名かが武揚隊員であることも分かってきた。が、特攻戦死者は照合できるが他はできない。武揚隊の特攻戦死者は七名だ。飯沼伍長は「陸軍特別攻撃隊員名簿」にはない。が、命日は七月十九日である、第八航空師団の陸軍最後の特攻に出撃はした。が、戦果確認はできなかったことで名簿に加えられていない。

 武揚隊隊員の長谷部良平伍長は、機の不調から遅れをとった。それで知覧に行き、誠隊から振武隊に転属し、四月二十二日に「第三十一振武隊」として単機で出撃している。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月12日

下北沢X物語(3217)〜戦争と人間・信州特攻第四巻〜

DSCN0175(一)戦争から71年も経った、真実を見極めることも困難になってきた。それで今は記録資料から、真実を掘り抜くという作業を試みている。すなわち資料に書かれていることの向こうを読んで、そこに隠れている事実を浮かび上がらせるという手法だ。資料から彫り起こす戦争史である。例えば山本薫中尉の故郷単機訪問だ、各務原から新田原に向けての途中に違いない。長機は最前線にということでの先んじての飛行だ。部下は十四人いる、それぞれ習熟度が違う。新田原から大陸経由で台湾へ向かうが編隊でも不慣れなものもいた。いわゆる航養出は腕がある。が、少飛組は促成教育だっただけに技術が身についてないということはあった。そういう中で単機でいくというのはやはり陸士出の操縦者だ。航法をしっかり習っていてこれに長けていたからだろう。分かってみると優等生だった。隊長になるだけの技量があったらばこそだ。

 故郷通過時に、実家周辺を旋回したという。二十七日の十一時頃だという。昼か、夜かである。この日未明、兄弟隊の武剋隊が突撃を敢行して戦果が報じられた。あるいはそれで急いで最前線に向かったのかもしれない。

 十一時は、夜だったのではないかという推理を私はした。四国から南西方向に飛んで新田原に向かう、日向灘を通っていく、ここには空母エセックスがいて、ここから発進した艦載機が新田原飛行場を襲ってもいる。三月十八日のことだ。制海権、制空権ともに敵に支配されていた。そこを日中堂々と行くのは危険だ。夜間飛行だったのではないかと想像した。これは根拠のあることだった、二十五日健軍に進出していた武剋隊前半、実は隊長機は月明かりを利用して夜間飛行をしていたことが分かった。

 武揚隊結成から、そして終焉までを追っている。やはり大きいのは遺墨の発見だ。彼らが確実に浅間温泉にいたという事実を証明している。全体像、というか、彼らの軌跡が分かるにつれ、ドラマがドラマとして見えてきた。もっと分かり易く言えば、特攻を命じられて、そして最後の隊がいくまで半年かかっている。これほど長期に亘って緊張を強いられた隊は他にあるのか?
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月10日

下北沢X物語(3216)〜戦争と人間、そして風景:信州特攻第四巻〜

DSCN0167(一)図書館の書棚で217.5風景というのはある。図書分類では太平洋戦争に当たる。歴史の中では突出していて書物の数が多い。需要と供給ということで言えば人の求め多いからだ。しかもそのトピックは原爆とか軍人とか目を惹くものが多い。中でも特攻物は特に目につく。なぜかくも著作が多いのか、戦争というのは壮大なドラマであるからだろう。その点、図書館における戦争書棚の風景は興味深い、人々は戦争風景に惹かれるのではないか。しかし、アッツ島の洞窟で飢え死にした人、バンザイクリフで崖から飛び降りた伊東幸子さんの物語などはない、勇壮に死んでいった人たちの話が中心だ。ところが飢え苦しみもがいていった人の方がどれだけ多いことか?

 戦争と風景、思い起こすと悲劇的な場面を多く思い浮かべる。人が銃殺されたり、重爆撃機による大火災の様子だったり、敵艦が群れなす中を特攻機が突っ込んでいったり、そういう場面は鮮明に浮かぶ。勇壮というよりも悲壮である。

 217.5的風景、こんな見方もできないか。太平洋戦争は負けた。が、勝っていたなら現今の図書館書棚風景はだいぶ変わったのではないか。想像するにこんなにも数多く書かれなかったのではないか。

 人は、天国よりも地獄を見たがるのではないか。教典では天国と地獄とが書かれる。蓮の花が綺麗に咲いていて、目にするもの総てが美しいとか書かれてあっても実感は湧かない。が、地獄で人々がもがきくるしみ、喘ぎ、そして叫ぶ、赤鬼がそういう人間を鉈でぶつぶつと切り裂くなどという場面は目を覆いたくなる。

 天国よりも地獄の方が説得力がある、戦争に勝って美酒に酔い痴れるというのは物語にはならない。まさに惨憺たる地獄に遭遇した話の方に興味を持つのではないか。

 私たちは哀調に心打たれる、そういう国民性、文化性もあるのではないか?

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月09日

下北沢X物語(3215)〜武揚隊の行方?:信州特攻第四巻供

DSCN0171(一)戦後71年経って戦争史の掘り起こしは困難なってきた、が、長い年月このことに関わってきたことで蓄積されたものがある。これによっての歴史の彫り起こしはできる。今回の第四巻はまさにこれによっている。昨年十一月、武揚隊の山本隊長のご遺族が上京され、多くの資料を預けられた。どうこれを作品に仕上げるのか途方に暮れていた。しかし、ようやっと見通しが立ってきた。全体の半分、60ページまでが何とかできあがってきた。一ページ1600字×60=原稿用紙200枚分だ。

 掘り起こしは、情報の総合化でもある。例えば武揚隊の遺墨だ。2012年に発見された。五年経ってみるとこの意義が多角的に分析できる。昨年十一月に松本在住の飯沼芳雄伍長の妹さんに取材したことが大きい。つい最近、山本家資料から「五来軍曹は常に黒めがねをかけていた」とあった、まさにその写真は遺墨とともに見つかった写真アルバムにあった。これらのことから遺墨もアルバムも武揚隊が中心だったと分かってきた。

 長谷部良平伍長は、東航、東京陸軍少年飛行学校出身者だ。女性が書いたかと思われる字で遺墨には思いを書き記していた。武揚隊が新田原に向けて飛び立つとき各務原で彼の機だけが出発できなかった。やむなく彼はとどまる。彼の家は高山線、上麻生にあった。それで彼は一泊の外泊を申し出て、故郷に帰った。この経緯が『白い雲のかなたに 陸軍特別攻撃隊』(島原落穂著 童心社)に掲載されている。

 ここに彼の母宛の手紙が紹介されている。「休暇に帰つた際の母上の動作を見て、全く一人で泣きました。その為面会もお断りしました。悪しからず。今の任務を考へた際、やむを得なかつたのです」と。どこから何時出されたかはもちろん記されていない。

しかし、直感で分かる。間違いなく松本浅間温泉富貴之湯から出されたものだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月07日

下北沢X物語(3214)〜武揚隊の行方?:信州特攻第四巻〜

DSCN0165(一)長い長い道のりだ、「東航」の案内図には、「立川駅ヨリ学校迄ノ距離六粁」とあった。歩いても歩いても着かない、疎開学童に端を発した戦史を追求めての果てのない旅路でもある。2007年12月14日に当ブログにコメントが寄せられた、「疎開学童が歌っていた寮歌」を知らないか?これが物語の発端である。もう足かけ十年にもなる。自身のライフワークは「音の鉄道文学史」の探求なのだが、気づくと現今の物語の調べが中心となっている。時の経過は恐ろしい、これまでの足跡は長編三巻として残っている、かてて加えて、今また四巻目に着手している。

 昭和二十年二月十日、満州新京で大本営直轄の特攻四隊が発足した。このうち二隊、武剋隊と武揚隊とが松本陸軍飛行場に飛来してきた。そして、彼らが宿舎としたのが浅間温泉である、ちょうどここには世田谷の学童が2500人ほど疎開してきていた。彼らと学童とがふれ合って物語が生まれた。そのエピソードを書き記した。知られざる戦史だ。終わりだと思ったら、終わらない。

 こちらは航空から鉄道にシフトしたい。
「それはね、皆さんが呼んでいるのですよ」
 彼らの霊が呼び込んでいるのだと言う人もいる。調べようとして調べたわけではない、しかし、気づくと憑かれたように調べていた。歴史に埋もれた糸をたぐっていくと、「なるほどそうだったのか」と気づくことがある。

 昨日のことだ、武揚隊の五来軍曹は「いつも黒めがねをかけており」という記述に出会った。武揚隊の遺墨とともに発見された写真をチェックすると何と黒めがねの男が写っている。
「なんだ、これは五来末義軍曹ではないか!」

 東航生だった長谷部良平伍長は富貴之湯の向かいの小柳の湯にいつも来ていたという。飛行場に行くときに玄関に挨拶に来て敬礼しては「行って参ります」とくるりと向きを変えて去っていく、旅館の娘さんがそれを見て可愛いと思ったと。それでこれもまた手持ちの写真を見る、そうするとあった
「この写真どうみても長谷部良平伍長だ!」

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月06日

下北沢X物語(3213)〜武揚隊の少年飛行兵と東航〜

DSCN0173(一)自身の活動の中で武揚隊の遺墨が見つかったことは大きい。彼らが浅間温泉に滞在していたという明白な証拠だ。発見は二〇一二年春、五年経過した。これと同時に出てきた兵隊の写真があった。誰が写っているのか分からない。しかし、昨年十一月に武揚隊隊員の飯沼芳雄さんの妹さんに取材する機会があって、実情が分かってきた。「母は写真屋さんを連れて行って撮ってもらった」と、実際分かったのはすっかり有名になった写真には飛行帽に飛行眼鏡とつけた飯沼芳雄軍曹が目立つように写っていた。右端は西尾勇助軍曹だとの指摘。富貴の湯の庭で撮ったこれは武揚隊隊員と東大原国民学校の疎開学童だ。


 遺墨を所持していた高山宝子さん、そして飯沼家にあった写真、前者は高山宝子さんが飯沼芳雄伍長と同級だった、後者は飯沼さんの写真アルバムだということからすると写っている写真は武揚隊の隊員だったと考えられる。

 そして特徴的なことは、十枚の写真に写っているのは下士官であることだ、将校は見あたらない。下士官は軍曹、伍長である。武揚隊には八名の下士官がいた。写真では飯沼芳雄軍曹、五来末義軍曹、柄澤甲子夫伍長、西尾勇助軍曹までが確認できた。後の四名は顔を知らないだけである。

 特攻戦死した場合は、知覧特攻平和会館で写真を確認できる。つまりと「陸軍特別航空隊員」として知覧に修められている兵士である。交戦戦死などの場合はここには修められない。が、これは親族に会って確かめるしかない。飯沼芳雄伍長の場合は、お宅にアルバムがあってこれは確認できた。

 武揚隊員で特攻戦死したのは五来軍曹、柄澤伍長、それともう一人、長谷部良平伍長である。彼の場合、特殊だ。武揚隊は第八航空軍の指令で台湾に向かう。が、彼の飛行機は各務原で不具合を起こし、修理のために遅れをとった。修理が終わって後を追うが、九州に着いてみると彼らはすでに出発していた。彼はやむなく誠第三十一飛行隊から第三十一振武隊として単独一機で知覧から四月二十日に出撃している。

 この長谷部良平伍長、武揚隊の下士官の一員だ、とすれば写真に写っているはずだ。彼の写真は本にも載っている、それに似た一枚があった。富貴之湯の庭で飛行服を着た青年がいた。これは長谷部良平ではないのか
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月04日

下北沢X物語(3212)〜執念深く戦跡を歩く、東村山東航へ〜

DSCN0168(一)執念深く戦争史を追っている。思うにあの時代が愚かだったということは簡単に言える。ところが事は単純ではない、時代の空気は染められる、そこをどう客体化して考えるか?やはり大事なことは過去をしっかり知ることだ。そのためには戦争の痕跡を歩いてみることだ。そうすると国家の野望とか思いが透けて見えてくる、昨日立川まで行って駅から東村山まで五キロほど歩いた。東航、東京陸軍少年飛行学校の跡地へ行くためだ。自身調査しているのは武揚隊の少年飛行兵である。十五名のうち三人が把握できている。飯沼芳雄伍長(少飛14期)、長谷部良平伍長(少飛十五期)、春田正昭兵長(少飛十五期)だ。前から順に、学校は大刀洗、東京だということが分かった。三人目は分からない。昨日は二人目の飛行学校の跡地を訪ねてみた。
 
 二〇一二年以来、近代戦争史のドラマを追っている、彼ら武揚隊が浅間温泉に滞在していたとき各隊員が思いを筆で揮毫した。これが発見されたことで彼らの滞在が日の目をみた。五年経ってみて分かってきたことは地元出身の飯沼芳雄伍長が鍵を握る人物だと分かってきた。愛機を駆っての里帰りは全くの偶然だった。早速に自宅上空を旋回、デモンストレーションをした。「飯沼が帰ってきた!」という情報は駆け巡った。同級の者達が慰問に訪れた。松本高女の女子が中心だった、何度も行くうちに隊員と親しくなった、それで隊員十一人が揮毫をした。

 これらの発信が遠く四国まで伝わり、彼らの隊長の遺族が残存資料を上京してこられて私に託された。縁から縁が繋がる、これによって新田原以降の彼らの足取りが明確になった。遺墨発見、そして新資料発見は、縁の連鎖である。

 今年五月に「戦争経験を聴く会、語る会」を開く、今度で十回目だ。記念すべき大会だ。タイトルは、「疎開学童ゆかりの特攻隊」-と号第三十一飛行隊-としている。この疎開学童は浅間温泉富貴之湯に疎開していた東大原国民学校の学童だ、その彼らと三十一飛行隊とのふれ合いが明らかになったことで、この隊、即ち武揚隊の出撃から終末までのドラマの全貌が見えてきた。まさに波瀾万丈の苦闘特攻だった。

 従来は自分自身が一つ一つを調べて戦争史の真実を明らかにしてきた。が、今回は資料を託された、これら情報の山から、武揚隊の事績をドラマとして掘り起こすことが託された、今わき起こっている思いは、失われた戦史を記録として何とか残したいとの思いだ。この調査の一環として昨日は東航跡を訪れた。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月03日

下北沢X物語(3211)〜研究大会開催:世田谷代田「帝音」をテーマに〜

帝国音楽学校(一)私たちは下北沢文士町の歴史と文化とを十二年に亘って掘り起こしてきた。課題は、一帯に浸透している文化の源泉はどこにあるのかという問題だ。文士たちが大勢集ってきて芸術文化村を形成していたことは紛れもない事実である。その突破口を切り開いたのは小説家の横光利一である。昭和三年に北沢の丘に越してきてこの地で執筆活動を始めた。人気作家の彼の家、「雨過山房」には多くの文士が訪れた。小説『微笑』に描かれた話は有名だ、横光利一は玄関の石畳に響くその足音で用向きが分かったという。意志を表わすとい石は横光家より譲り受けて北沢川緑道の「横光利一文学顕彰碑」に用いている。文学者としての開拓者は彼だ、が、芸術文化は文学にとどまらない。音楽感性が地域に醸成されていた。この音楽感性の豊かさから先駆的な芸術が生まれた、代沢小ミドリ楽団はその一つだ。このバンドは戦前から活動している。この素地としては世田谷代田にあった「帝音」、帝国音楽学校の影響である。地域一帯の芸術文化の嚆矢ではないか?

 私たちは、二年前から研究大会を開いてきた。今年は三回目となるが、これを計画している。二月一日は、八月分の会場抽選会があった。この大会を八月五日に北沢タウンホールで開催することを予定していた。
 ところが会場は、改装工事中で12階のスカイホールだけしか開いていない。ここへの申し込みが複数あった場合、会場確保はできないのではないかと心配していた。

 我らの会の会員、金子善高さんはいつも会場確保してもらっている。二月一日、午前、荏原逍遙中、矢沢川を歩いているときに電話があった。
「やっぱり取れませんでした?」
「いや、取れました、五日を申し込んだのは私たちだけでしたから」
「ああ、よかったよかった、心配していたんですよ」
 2017年8月5日(土)、研究会のテーマは「世田谷代田の『帝音』(仮)」である。この音楽学校のことを長年研究してきたのは久保 絵里麻さんである。彼女はこの研究で博士号を取得し、芸術学博士となった。

 世田谷代田にあった音楽学校、「帝音」のことは地元でも知られていない。彼女の研究によってこの学校の存在が明らかになった。昭和二年に発足し、戦争中に廃校となった。四十数年の歴史を閉じたわけだが日本の西洋音楽教育の草分けとなった学校だ、特には当地においての芸術文化の歴史を考える上で欠かせない存在だ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年02月01日

下北沢X物語(3210)〜荏原都鄙境、オーラが充満する長者丸界隈供

DSCN0153(一)武蔵野の地形陰影が文学に反映されている。当該場所の凹凸、風景が物語を生じせた。個々の作家がその地点を書こうと申し合わせたわけではない、今になってみるとあの小説、この小説に描かれていた。それは梶井基次郎『路上』、海野十三『省線電車の射撃手』だ。白柳秀湖の『駅夫日記』も目黒駅の切り通しができるときの様子を描いている。

工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒ビールの方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。

 目黒駅は二段になっている、上は山手線のホーム、その西側には深い切り通しがある。これを掘削するときの工事のことが描かれている。淀橋台の背尾根を削って下段に線路を通した。かつては貨物線、今はここには新宿湘南ラインが通っている、恵比寿方面から来た山手線電車はこの貨物線の上を越えていくあたりだ。その辺りの雰囲気、空気を海野十三は描く、いよいよ「真っ暗で陰気臭い場所」に差し掛かる。

この辺を電車が馳っているときは、車内の電燈までが、電圧が急に下りでもしたかのように、スーッと薄暗くなる。そのうえに、線路が悪いせいか又は分岐点だの陸橋などが多いせいか、窓外から噛みつくようなガタンゴーゴーと喧やかましい騒音が入って来て気味がよろしくない。という地点へ、その省線電車が、さしかかったのだった。

その現場だ、分岐点というのはもっと手前の構内にあったのではないか?陸橋までいくとこれはない。まず、かかくく、ここくくと構内のヤードの分岐機を過ぎていく。そして上り勾配にさしかかる。登るのにモーターに電気を取られるのか、室内灯が暗くなる。長者丸の窪陰気オーラの充満しているところだ、その現場に掛かった。このときに殺人事件は起こった。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月31日

下北沢X物語(3209)〜荏原都鄙境、オーラが充満する長者丸界隈〜

DSCN0145(一)乗り慣れた電車では左右どちら側に席を占めるか?線の上り下りでもで異なる。今は改造不便駅、渋谷駅は敬遠する、が、かつてはどこ行くにもここが起点だった。新宿方面に向かうときは左だ、大昔はワシントンハイツが見られた、続いて明治神宮の森、車窓のハイライトだ。反対側の品川方面はどうか、まずは左だ、渋谷貨物駅があって、次が恵比寿駅のヤード、それからビール工場、その後勾配を上って左に木々がおい繁る谷、ビール工場の裏手、何となくわびしいところだ。ここに恵比寿長者丸線の停留所があった。

  梶井基次郎『路上』には、ひっそりと隠見される市電恵比寿長者丸線の風情が描かれている

「彼処に木がこんもり茂ってゐるだろう。あの裏に隠れているんだ」
 停留所は殆ど近くへ出る間際まで隠されてゐて見えなかった。またその辺りの地勢や人家の工合では、その近くに電車の終点があろうなどとはちょっと思へなくもあつた。どこかほんとうの田舎じみた道の感じであつた。
現代日本文学大系 63 筑摩書房 梶井基次郎他 昭和四十五年


  「田舎じみた道」は、言い換えれば都鄙境だ。豊島郡と荏原郡の境でもある。辺境の空気が漂っている。実際にここを再度歩いたが、沢のどんづまりには窪のオーラが漂っている。この陰影なるものが文学作品にひっそりと描かれている。『路上』ともう一つがあった。

 ここを通過する山手線の電車でもそうだ。沢の陰気が影響してその事件は起こった。ここが殺人事件の現場として設定されている。
タイトルは、『省線電車の射撃手』だ、初出は、昭和六年(1931)博文館発行の「新青年」十月号とのことだ。

 時間をいうと、九月二十一日の午後十時半近くのこと、品川方面ゆきの省線電車が新宿、代々木、原宿、渋谷を経て、エビス駅を発車し次の目黒駅へ向けて、凡そその中間と思われる地点を、全速力フル・スピードで疾走していた。この辺を通ったことのある読者諸君はよく御存知であろうが、渋谷とエビスとの賑やかな街の灯も、一歩エビス駅を出ると急に淋しくなり、線路の両側にはガランとして人気のないエビスビール会社の工場だの、灯火も洩もれないような静かな少数の小住宅だの、欝蒼たる林に囲まれた二つ三つの広い邸宅だのがあるきりで、その間間には起伏のある草茫々の堤防や、赤土がむき出しになっている大小の崖や、池とも水溜りともつかぬ濠などがあって、電車の窓から首をさしのべてみるまでもなく、真暗で陰気くさい場所だった。

 この辺りの車窓風景の描写は興味深い、昭和六年頃の風景である。「読者諸君はよくご存じであろう」と彼は言う、やはり山手線内回り電車では、目を惹く場所だった。

 かつてこのエビスビールの工場には引き込み線があって、青い旧型客車がとめられていた。この車内でビールを飲むことができた。私は去る旅行会社の人と懇意になって彼とジョッキを傾けたことがある、私よりも若かったが彼は死んでしまった。私の海外旅行経験は一回だ、その彼にとともに台湾鉄道旅行をした、遠い思い出だ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月29日

下北沢X物語(3208)〜会報第127号:北沢川文化遺産保存の会〜

CCI20150415_0002
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第127号    

           2017年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、二月初午(狐に化かされた羽根木の細野さん)

(一)
 新年になったと思ったら、もう二月だ、初午を迎える。今年は二月十二日である。稲荷社の祭の日だ。稲荷社は農業神で旧家の屋敷にはこれが祀られていた。代田七人衆の柳下政治さんに以前お話を伺ったとき、「よくすればよくなる」と言っておられた。すなわち、お稲荷さまを大切にして社などを掃除したり、供え物をあげたりしていると必ず見返りがあって生活は向上していく、とのことだった。
 かつては多くの講があった、大山講、富士講などだ。稲荷講もその一つだった。どんなものだったか、「荏原雑記」(『民俗叢話』谷川磐雄著)に紹介がある。

 毎年二月の午日に行はれる。稲荷様が沢山あるので、一の稲荷講二の稲荷講などといふ。この「お宿」は一村の六軒が一組に組み合つてする。その中の一人は「お米集め」となり、各人から米を一升ずつ集める。一人は「宮掃除」となってその前日にお宮を掃除する。一人は「お宿」をする。残る三人は客人の接待に働いて女中代わりとなる。
 当日の前夜から村の若者が「お宿」に集まつて夕飯を食べ、夜はさまざまな物語に時を更かしてして皆一泊する。翌日(午の日)は皆業を休んで遊ぶ。


 娯楽が少なかった村でのレクレーションである。農業従事者の仕事はきつい、朝から晩まで身を粉にして働いた。そういう中で唯一、若者が集まって羽根を伸ばせる日だった。夜の物語は、若者のことだ「あの娘がかわいい」という話だろう。
 女の話がまっさきに出た。が、近隣で起こったこと話にも及んだろう。『民族叢話』は大正時代に書き表されたものだ。この時代、稲荷神として崇められた一方、化けて出てくる狐がいた。
 往時の古老たちは語る、「木々がこんもり茂っていた出頭山や守山は、狐が住んでおっての、あの辺りでよく化かされたもんだよ」と古老たちが語るとき、嬉しそうだった。彼らに対するエールでもある。得も言われぬ世界が、暗がりの向こうに存在した。怖くはあるが希望だったのかもしれないと思いもする。

 現今、我々が生きている希望は何か。ハートというハートではなくて、どこまで行ってもハードというハードである。人間に代わってすべてを機械が行う、このことへの期待が未来への希望として語られる。これが人間の幸福追求なのだろうか、甚だ疑問である。人間は、営為の動物だ、「する」ことがあって初めて人間なのだと思う。機械は専一に「する」ばかりで、振り返りはしないし、郷愁も持たない。彼らの脳裏には走馬燈はない。
 狐狸伝説の信奉は、これを信じたいと思う人の産物だった。が、彼らが跳梁する場もなくなって化けて出てくることはなくなった。狐狸的な世界を喪失した我々はこれからどこへ向かうのだろうか。

 一杯引っ掛けていい気分で帰るときにタクシーを拾った。が、運転士はいない。狐に化かされたかと思うと「機械運転でお客様は運ばれています」と機械音声での案内が流れる。
狐が出てくる出番はない。昔話を信じようと思っても信じられなくなっている。
 さて、羽根木の細野巌さんである。出頭山や守山あたりで狐に化かされたらしい。

 暮方になり丁度御地蔵様があるところに出て淋しいなと思ったとたん急に歩けなくなり眠いような酒に酔ったような変な気持ちになり頭がもうろうとなってきた。仕方なく道路にカヤの株があったので腰を掛けたが、何だか急に寒気がする。是は狐にやられたなと気がつき、不断から煙草を吸うと良いと聞いていたので、ちょうどゴールデンバットを持っていたので一本取り出し吸いはじめた。

 細野さん守山田圃の野道をゆき尾根筋の道に出たらしい。ここの代田大原境に今も地蔵尊がある。淋しい古道が伸びている。その回りが木々が生い茂っている。ここで彼は異変に遭遇する。「どうも狐に化かされたようだ」と気づく。かやの古株に掛けたというのも尾根筋道であるらしい。狐は煙草の匂いを嫌う、それでゴールデンバットに火をつける。

(二)
 そうしてしばらくしているうちに段々と気分が直ってはっきりして、目がさめたような気分になってきたので立ち上がろうとした。
 此処で暇をかいたので日はすっかり暮れ、なんだか帰るのが無性に淋しく体がぞくぞくして仕方がない、さりとて人通りがあるわけではなく、車を見つける訳にも行かず、これからはどこを通っても淋しい道ばかり、少しでも近道を行こうと思い守山の方へ行こうと歩き出したが、気ばかり焦って足が一向に進まない。何か歌を歌ってもと思ってもどうしても声がでない。夢中で我が家にたどりつきほっとした。

 狸を退散させるには煙草がよいらしい。が、これとて万全ではない。化かされると朦朧としてくる。そして悪寒が走る。声を出そうとしても声がでない。細野巌さんすっかり狐に化かされたようだ。その現在地は、大原境の出頭山である。一応堀之内道にでて守山方向に行こうとする。この場合は、ダイダラボッチ川の右岸の山ではないかと思う。

(三)狐に化かされ細野巌さん、この顛末をこうまとめている。

 家の者に話したら良く動かずにいた。動くと狐は人間の後ろにいてばかすそうだから何を見せられる川からず。川のあるところに連れていかれ、橋のあるように見せかけられてて死んだ人もあるというお婆さんの話。とにかく無事に帰って来て良かったと家の人にいわれた。うそのように思われる人もあるだろうが、私の実際の体験である。

 狐に化かされたら死ぬこともあったようだ。お婆さんは具体的書いていないが、眉目麗しい女性に化けた者が「それはそれはいいお風呂がありますのよ」といって川の方にさそい、「この川を渡った向こうですからお手を持ってご案内しましょう」と橋を渡ろうとすると橋はない、真っ逆さまに川に落ちて死んだ。

2、春の甲斐路を旅する(旅行企画)

 私たちの会友に山梨在住の矢花克己さんがおられます。前々から彼の地元へ行ってみたい。そう思っていました。それで計画を立てました。当初は自家用車という案もありましたが団体となると事故があった場合は責任問題が出てきます。それで現地集合としました。集合する駅は山梨市駅です。以下旅のあらましです。
第^董ヾ靄楔饗Г聾獣禄弦腓箸靴泙后9圓方、普通列車で、特急で、自家用で 
 ・第127回 4月15日(土) 午前10:40 山梨市駅改札前
案内者  矢花克己さん
10:38山梨市駅→(徒歩)差し出の磯(古今和歌集の「 しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく)→窪八幡神社→(隣に養老酒造)昼飯、ほうとう徒歩根津記念館→春日居町駅
帰り時刻 普通 。隠機В苅后腺隠掘В娃弦眸
  特急 。隠機В苅后腺隠機В毅音獲市16:20〜17:51新宿
車 各自
*参考情報 行の場合普通で行く場合 京王線、高尾乗り換え中央線 運賃は低廉
明大前8:16〜9:01高尾発9:20〜10:38 1500円
      特急 新宿8:30 〜あずさ7号〜10:05山梨市
○桃の花は終わっていると、しかし春爛漫である。中でも窪八幡神社は佇まいが素晴しい。のんびり甲斐路を歩こう
 午後のコースまだ固まっていない部分がある。 
*計画を上記のようにたててみた。昼食を養老酒造のレストランでと考えている。
  山梨名物のほうとうが食べられる。また、場合によっては向こうで車の手配などもあるかもしれない。それでまず希望者を募りたい。米澤かきむらに早めに伝えてください。

第案 バスを貸し切って行く
 これは^討鮟个靴晋紊暴个討たもので郵送で送ったものには載っていない。
 小型観光バスを借りていくという案。これだと自由がきく。それと歩きが得意でない人も行けるという利点がある。武田氏ゆかりの恵林寺なども回れる。雨でも可能となる。
 十四五人だと一人一万円ぐらいで行けると。人数が増えればもっと安くなる。
 28日の段階で5人希望者がいました。バスの手配、昼ご飯の予約などの都合もありますので3月の街歩きの締め切りまでに希望を出してください。
 バス旅行などめったにない機会です。皆さん、春の甲斐路へ出てみませんか。
 乗るとすれば多分新宿です。九時ぐらいとなるでしょうか。子細は次号に載せます。
(なお、こちらは郵送で送った会報には記載されていません)


3、今年度大会、研究会の計画

〇五月二十七日(土)午後1時30分より 第十回戦争経験を聴く会・語る会
場所 下北沢都民教会 テーマ 疎開学童ゆかりの特攻隊:と号第31飛行隊
 〇八月五日(土)午後一時30分より 第三回北沢川文化遺産保存の回研究大会
  場所 北沢タウンホールスカイサロン テーマ 世田谷代田の「帝音」の歴史

4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さんによる案内
スタート→旧甲州街道→烏山神社→烏山北住宅(烏山川暗渠)→烏山寺町(高源院など)
→区民集会所→西沢つつじ園→北烏山屋敷林→ゴール(予定)


・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。解散は学芸大学を予定
・第127回は別掲
・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前  
 第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで
第129回 6月24日(土) 午後1時 恵比寿駅(恵比寿ガーデンプレイス)
 恒例 三田用水跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
第130回 7月15日(土) 午後一時 東京駅丸の内口
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲新春から原稿用紙二枚程度の小研究、あるいは話題を募集しています。会報は図書館所蔵、ネットへのアップなど広く行き渡るようになりました。原稿はメールで送付してください。この会報にぜひ載せたいと思います。
▲年が改まりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。幹事の米澤やきむらも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 20:00|PermalinkComments(5)││学術&芸術 

2017年01月28日

下北沢X物語(3207)〜荏原の街々をさすらい歩く〜

DSCN0129(一)日々一帯を縦横に歩き回る。街の景色や土地の凹凸、そして様々な人を見ながら歩く、このときに解放されている、自由であることを感ずる。荏原というとこの一番いいところは、紛れて歩くことができる点だ。こちらが歩いていても誰も気に掛けない。自身が空気のような存在になって歩ける。が、長年の経験で面白いことがある。袋小路だけはいけない。一帯には土地造成が中途半端で袋小路が至るところにある。この頃は入っただけで気配でわかる。それは人の視線で分かる。普通の道を歩いているときには誰も気に掛けない。が、袋小路に入ると人々の目が光る。「こいつはどいつだ?」、ガンを飛ばしてくるやつもいる。


 「袋小路」なるところに住んでいる者は皆ほとんどが見知っている。それで入って来たちん入者には疑いの目を向ける。とく中年のおばさん、頭の先から、下までなめ回すように見つめて警戒する。

 荏原を歩くときの鉄則、袋小路に入るな。入るときは新聞広告を何気なく持って入れ。チラシ配りには警戒を緩めるからだ。

 萩原朔太郎『秋と漫歩』は、歩きの哲学を語っていて面白い。

 私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。

 全く同感だ、朝起きたら書く、しかし、これも飽きてくる。すぐに戸外に出てほっつき歩く。一昨日は西方の野毛山方面、昨日は、西南の鵜ノ木方面だ。
「昔、商店街に大概、麺を売っている店があったけど、ほとんどなくなっちゃったね。鵜ノ木には一軒だけあるんだ、それで行ってきたんだ」
 今日、邪宗門に行ったとき仲間が来て、店の消長について話題になった。
 豆腐屋、八百屋、肉屋がなくなって、最近パン屋が増えてきた。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月26日

下北沢X物語(3206)〜再び田端へ:文士町&文士村比較検

DSCN0142(一)文士村と文士町との違いは何か?前者は「まじわる」場であり、後者は「まぎれる」場である。人と人との関わりの濃淡の差である。田端での人間関係は濃厚だ、そんな中に萩原朔太郎は室生犀星の勧めで当地に越してくる。漂泊者であり、寂寥の人である彼はどう馴染んだか?田端の前は大井町に詩人はいた、鉄道工廠の長屋のある町をほっつきあるいていた。

おれは泥靴を曳きずりながら
ネギや はきだめのごたごたする
運命の露地をよろけあるいていた


 「大井町」と題された詩の冒頭だ。ごみごみした町の露地をあちこちとさまよい歩いていた。孤影を引きずって歩く姿は詩人の好みだ。通りかかる工廠の長屋のかかあは、誰一人として知らない。彼はそういう町に紛れて歩いていた。汚くてわびしいが、大井町を彼は気に入っていた。『移住日記』では、田端のことはこう記されている。
 
 田端に移つてからは室生君や芥川君との親しい交情に飽満した。私は常に幸福を感じてゐた。けれども土地に対する愛は、始めから全くなかつた。田端といふ所は、第一始めから印象が嫌いであつた。妙にじめじめして、お寺臭く、陰気で、俳人や茶人の住みさうな所であつた。私は気質的に、かうした空気が嫌ひなのだ。室生君が得意で見せてくれた正岡子規の墓も、私には何の情趣もわからなかつた。芥川龍之介氏が紹介してくれた自笑軒といふ京都料理の茶席も、イヤに陰気くさいばかりで、営業不良の青つぽい感じがした。何もかも、すべて田端的風物の一切が嫌ひであつた。薄暗くじめじめして、味噌汁臭く、要するに私の所謂「自然小説的なもの」の全景を代表してゐる。
「移住日記」 萩原朔太郎全集第八巻 筑摩書房


 まず当地における交情は濃厚だった。これを「飽満」と形容した。詩人の生活のポイントは漫歩である、あてもなくほっつきあることだ。が、家を出ると「やあ」、角をまがると「やあ」、そして自宅には室生犀星がやってきて「やあ」と。人間関係の濃さは辟易するところがあったのではないか。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月25日

下北沢X物語(3205)〜再び田端へ:文士町&文士村比較掘

DSCN0138(一)文学の場として地域の違いは、都市論でもあり文化論でもある。磁場の違いはある、田端文士村は山手旧都市で、馬込文士村、また我が地域の下北沢文士町は荏原都市である。村や町の形成に鉄道は絡む、前者の交通手段は市電である、後者は汽車・電車だ。これも大きい、芥川龍之介の日記を見ると市電でちょこまかと移動し人とあったり、古本・新刊を手に入れている。一方郊外型の文士町は、そういう融通がきかない。旧都市と新都市には人との関わりでも大きな違いがある。

 近藤富江 文壇資料『田端文士村』(講談社)、第一章の冒頭は、文士町の形成の核心を衝くところから入っていく。これも芸術文化の見せる高度な技だ。

 陶芸家板谷波山は、芸術村田端の元祖とも言いたい人である。もし彼が、ここ西台通り五一二番地に窯を築かなかったら、果たして絢爛たる才能の主たちが、後にあれほど集まっただろうか。
 波山がいなければ、鋳金家の香取秀真はこなかった。従って、芥川龍之介と秀真との親密な関係は生まれず、田端の美術家グループと文学者グループとが、交流する端緒は開けなかったかもしれない。


 芸術と文学とが混ざりあって、それぞれが刺激を受け、作品を創り、描き、世に発信した。板谷波山の陶芸作品は、ネットの画像検索ですぐに作品群が見られる。画像を見ただけでも、こちらに伝わってくるものはある、形、色、図柄などなるほどこれが板谷波山なのかと素人でも分かる。

 こういう芸術家と芥川などの文士たちは交流があった。会うということは交じることである。
「なんたって色合いだよ、見た人が納得する色合いじゃないと」
「いいか、形も大事だ、目に優しく収まるものでないと」
「一本一本の毛なども大事だ、それにはな実物をしっかりと観察することだ。いいか大事なことだが、生きている人間のものを見るだけではなく、時に死んだ人の髪の色つやまで調べるんだよ…」
 こんな議論が交わされたのかもしれない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月23日

下北沢X物語(3204)〜再び田端へ:文士町&文士村比較供

DSCN0137(一)田端は規範的、模範的な文士町だ、田端文士村記念館は当地を「田端文士芸術家村」と呼称している。文学芸術が寄り集ってそしてそれぞれの分野の作品造りに刺激を与えている。文士や芸術家の関係性が濃密で濃厚である。

 私たちは、歩き終わった後、お茶を飲んだ。田端文士芸術家村の空気に当てられたか、青年に立ち返って文学論議をしたことだ。土地土地の文学はありうるとの話は面白かった。
「この田端には中野重治がいたでしょう、彼は後に豪徳寺に住んでいるんですよね。それでこのことを調べていたときに『豪徳寺詣で』という符丁があったと知りました。豪徳寺にはプロレタリア関係の作家や評論家が多く住んでいて、編集者がそこに行くことを『豪徳寺詣で』と行っていたようなんです…」と私。
「確か井伏鱒二が言っていたように思います。馬込は流行作家が住むところで、プロレタリアは世田谷で、二三流文士は中央線、それで彼は阿佐ヶ谷に住んだと…」と原敏彦さん。
 世田谷豪徳寺になぜプロレタリアがというのは興味深い。
「世田谷は道が入り組んでいて幕府の隠密も迷ったという話がある。プロレタリアは官憲に追われることが多いから、すばやく逃げられるように世田谷に住んだのかも?」
「古本屋の親父になって何気なくしのぎが稼げるから?」
 下北沢南口の大地堂の店主は、プロレタリア歌人渡辺順三である。彼は豪徳寺にも住んでいた。

「田端文士村には我らの関係では萩原朔太郎が住んでいました。私はどうも朔太郎がこの地を好んでいたとは思えないんです…」
「いや、そんなこともなかったと思いますけど」と原さん。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月22日

下北沢X物語(3203)〜再び田端へ:文士町&文士村比較〜

DSCN0141(一)鉄道と文士村、興味深い問題だ、近代交通が形成されたことで文士が集まる場ができた。昨日、第124回目の街歩きは田端文士村だ、秋に回りきれなかったところから再度、講師の原敏彦さんにお願いして再訪となった。集合は田端駅だ、この駅の歴史は古い、明治二十九年(1896)に日本鉄道の駅として開業している。文士村と鉄道開業は縁が深い、馬込文士村は大森駅、我らが文士町は下北沢駅等、数多い。が、ここは違う。汽車、電車ではなく市電が大事な交通機関だった。

 田端文士村の呼称は「田端文士芸術家村」と称されている。この解説に言う。

 明治中期まで、田端は閑静な農村でしたが、明治22年、上野に東京美術学校(現・芸大)が開校されると、徐々にその姿を変えて行きます。上野とは台地続きで便がよかったことから、美校を目差し、学び巣立った若者たちが田端に住むようになるのです。

 日本の中心都市となった東京に美校ができる、志のあるものは憧れてやってくる。多くは地方からだった、この場合住む場所が必要だ。元々は畑だった場所には、下宿屋ができる。上野近辺の下宿屋よりも低廉である。仕送りで生活している彼らには親元に負担をかけないようにということで費用が安い、ここに集ってきた。芸術志望の青年たちがたむろする町は更に変化をする。解説は更に続く。

 大正3年、ひとつの転機が訪れます。当時学生だった芥川龍之介の転入です。5年には室生犀星も田端に移り住み、競うように作品を発表、名声を高めていきます。ふたりを中心に、やがて菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、土屋文明らも田端に居を構えるなど、大正から昭和の初期にかけて、田端は(文士村)となったのです。

先回、秋に来たときは回りきれなかった。引率講師の原敏彦さんは、あちこちで立ち止まっては解説を施す。が、彼の場合、通り一遍ではない人間関係を説くのである。人脈である。その彼の解説によって浮かび上がってくることがある。当地では人間関係が濃厚であったことだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月20日

下北沢X物語(3202)〜世田谷まちなか観光メッセ:プレゼン〜

2b175df2.JPG (一)第二回世田谷まちなか観光メッセが明日、21日開催される。今回は、「まちあるきコースのコンテスト」がある。我らの会は「シモキタザワ猫町散歩」(萩原朔太郎の『猫町』を歩く)でエントリーしている。全体では23の団体が応募している。予想を超える応募となったのであろう、当初は5分間のプレゼンとあったが、これが半分の2分半になった。150秒でアピールするのは至難だ、23団体が論陣を張っての闘いだ。どうなるのだろう、場所は三軒茶屋、キャロットタワー四階のワークショップルームで行われる。10時から、我らの会は早い。一番目が駒沢給水塔、二番が我々だ。10時16分30秒から19分までと細かい。さてどうなるだろう?
 
 今回のコンテスト、我らの活動に関わる団体の参加が多く見られる。北沢川緑道に文学碑四基を建立し、ここを「北沢川文学の小路」と名づけた。まずこのコースを推奨しているのが二団体もある、嬉しいことだ。

10時30分30秒から行われるのは「ふれあいの水辺と文学の小路」だ。長年北沢川緑道に携わってこられた元世田谷区議の廣島文武さんが提出されている。文学碑を緑道に建立するに当たって、区との交渉に当たってくださった方だ、もう引退されたが思い入れは人一倍であろう。どんなプレゼンをされるのか。

 11時10分から行われるのは「北沢川緑道を106センチ目線で歩く」だ。これはNPO法人 車椅子社会を考えるの篠原 博美さんがプレゼンをされる。12月に下北沢の古写真の跡を訪ねるに車椅子で参加された。これをきっかけに我らの会の街歩きにも参加されたいとのこと。今年の抱負を次のように言っておられる。

 当会の今年度の活動目標は『車椅子利用者の外出機会を作ろう』です。
ますます増える高齢者、障がい者車椅子も高性能化しておりますので、私自身もきむらさん主催の散歩の会等に積極的に参加し一般の方にも車椅子のことを認知してもらおうと思っています。


 今回は、車椅子目線で楽しめる文学の小路ということでエントリーされている。文学碑は、緑道沿いに設置しているが車椅子からでも碑文は読める。そこを上手く活用したものだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月19日

下北沢X物語(3201)〜梶井基次郎:荏原都市物語と長者丸線〜

DSCN0131(一)昨日、近代戦争史の秘密を解こうと国立国会図書館に行った。ところが休館日だった、人間切り替えが大事だ、すぐさま皇居を経由して日比谷線で広尾へ。ここから歩き始めた、まずは天現寺橋まで、こここそが恵比寿長者丸線の始発駅だった、梶井基次郎がこの線に親しんだのは大正十三年(1924)、もう九十三年も前のことだ、かつてはこの線に「旅情」があったという。その面影は残っているのか、これを探る、恵比寿長者丸線幻想行に及んだ。

 『路上』では、「EとTとの間を単線で往復してゐる」とある。いわゆる盲腸線である。閑散路線なので旧型の単車が走っていた。ごっとんごったんと音を立てる、左右に揺れる。ここには専用軌道があった。

 窓からは線路に沿った家々の内部が見えた。破屋というのではないが、とりわけて見ようというやうな立派な家では勿論なかった。然し人の家の内部というものにはなにか心惹れる風情といったやうなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、ある日その沿道に二本のうつぎを見つけた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 文学に描かれている汽車、『音の鉄道文学史』はそれを網羅したものだ、梶井基次郎は項目立てはしていない。が、彼には汽車の走行場面を描いた心ときめく一文がある、これは引用をしてある。汽車と文学というの長年調べている、線路工夫の手練れはミリ単位のレールのゆがみが見える。自身も汽車文学と長年つきあってきて分かることがある。汽車の窓から見える景色関心が深い作家は汽車好きだということだ。梶井基次郎もその点間違いなく汽車好きだといえる。
DSCN0132
 「窓からは線路に沿った家々の内部が見えた」は、懐かしい。
 人家というのは通りに面して建てられている。表側は澄ましているが裏側はあけっぴろげである。人々は油断している。常々汽車が通っていれば気を引き締める。ふんどし姿一丁、シュミーズ姿のあられもない恰好などはしない。ところが閑散線区では人々は開けっぴろげだ。食卓を囲んで食事をしている場面が汽車のまどを掠めていくなどというのはよくあった。が、昨今の電車は高速である、おばさんがあられもない恰好をと思ってもすぐに過ぎてしまう。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月17日

下北沢X物語(3200)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く供

DSCN0124(一)荏原都市物語の根幹は際、都鄙境界にある。梶井基次郎の『路上』は目黒川左岸でのドラマだ、いわゆる目黒川左崖線は東から押し寄せてくる都の防御ラインでもあった。都心と郊外との境界である。その際は何か、鏡である、自分を映し出す鏡面だ。『路上』では彼を映し出している、鏡には孤影が映ってみえた。

 梶井基次郎作品『路上』は短編である。この書き出しはこうである。

自分がその道を見つけたのは卯の花の咲く時分であつた。
 Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較にならないほど近かつたからだった。ある日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思う方角へ歩いて見た。しばらく歩いているうちに、なんだか知つているような道へ出て来たわいと思った。気がついてみると、それはいつも自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながつて行くところなのであった。小心翼々と言つたようなその瞬間までの自分の歩き振りが非道く滑稽に思へた。そして自分は三度に二度というふうにその道を通るようになつた。
現代日本文学全集63 梶井基次郎他 筑摩書房 昭和四十五年刊


 梶井基次郎が中目黒に引っ越してきたのは大正十三年十二月のことだ。翌年五月に飯倉片町また引っ越す。大正十四年初夏の頃の話だ。彼は都電を利用していた、当初は、Mから電車に乗っていたらしい。これは目黒駅だ。

 一方時が経ってもう一つの経路を発見した。E恵比寿長者丸である。これまでは家からM、目黒駅へ行っていた。ところがこれよりも案外に便利な線が走っていることを聞き知った。それでこれで帰ってみた。終点で降りる。辺鄙なところだ。ここで降りて西に行くが尾根を越えていく、まず鉄道線路を渡る、そして坂を登ったところで南北に走っている道に出くわす。これがMへ行くときの道だった。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月16日

下北沢X物語(3199)〜梶井基次郎:荏原都市物語の核心を衝く〜

DSCN0122(一)荏原都市物語の探訪は果てがない。随所に素材が転がっている、その一つ一つを見つけてはドラマを楽しむ、今回は荏原目黒川左岸に落ちている地形物語だ、彼の鋭い感性は類い希だ、それは梶井基次郎である。

 基次郎、文士町繋がりで言えば、三好達治と宇野千代がいる。前者の文学碑を我々は鎌倉橋に建てた。彼の代表作は『測量船』だ、この冒頭は、「春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも」だ、リズム、情景が素晴しい。これは結核療養中の梶井基次郎を伊豆に見舞っての帰りの船路で詠んだものだ。また宇野千代は梶井基次郎に小説の題をつけてもらった、『罌粟はなぜ紅い』だ。このときに筋立ての参考にしようと心中事件を起したばかりの東郷青児に取材した。男と女は心中現場の血のついた布団の上でたちまちに結ばる。これがきっかけで世田谷山崎、そしてついには淡島にコルビジェ風の家を建て住むことになる。

 梶井基次郎は、短期間だが荏原の一角に住んでいた。「荏原郡目黒町中目黒八百五十九番地」である。この旧番地なるものがくせ者だ。ここをピンポイントで探し当てることは難しい。ところがこの間、大田区の図書館で『わが町あれこれ』(14号)という雑誌を手に取った、するとここに「目黒区文士往来年譜」があった、何と梶井基次郎旧居住所と現住所とが記されていた。何のことはないが、私には得がたい情報だった。

 私は、土地の文化と文学に対して深い関心を持っている。文人詩人歌人など、作品の中に居住地の坂や川や橋が書かれたり、詠まれたりしていないか?これには深い関心がある。

 例えば文士町で言えば、尾山篤二郎だ、著名な歌人で北沢に居住しているときに多くの歌を詠んでいる。当地の家を「北沢草堂」と称している、詠歌をチェックしていくと
「ある、ある、ある!」
 居住地の隣は地主の安野さんだ、そこの柿や欅や樫が歌に詠み込まれていた。もう木々は無くなっているが、その場所に行って痕跡を探す、これほど楽しいものはない。

 梶井基次郎の中目黒の住まいは前々から興味を持っていた。彼がここにいたときのことを描いた作品がある。これに電車線の話が出てくる。停留所名はローマ字の頭文字で書かれていて、そこがどこなのかを知りたかった。

 住所が中目黒であることから、いわゆる都電、中目黒線ではないかと思っていた。ところがその現住所が分かってみると、疑問に思っていたことがたちまちに氷解した。
「現住所力だ!」
 
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月14日

下北沢X物語(3198)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考・了〜

DSCN0118(一)ダイダラボッチ伝説は口承説話である、口から口へと伝えられていた間は人々の心に生きていた。が、荏原一帯は東から攻めてきた都市がダイダラボッチを消してしまった。民族学者が代田ダイダラボッチは重要なところだ、それをしっかりと伝承しておくべきと当時主張していたが昭和期になって笹塚の桜護謨から出る石炭殻で埋められてしまった。一万年もの間、口から口へと伝えられたダイダラボッチはその精神とともに終焉を迎えた。近代化がダイダラボッチを消し去ってしまった。大正期はダイダラボッチが生きていた最後の時代である。

 谷川磐雄は雑誌『武蔵野』に「武蔵の巨人民譚」を書いたのは大正八年十二月のことだ。この時代にはダイダラボッチは生きていた。「大岡山小字擂鉢山」と「千束村狢窪」は「昔しダイダラボッチが足をふんばった所」だと。彼は「農夫から聞い」ている。
 谷川は大岡山の近くに住んでいたと思われる。ダイダラボッチに深い関心を持っていたゆえにその箇所を訪ねている。そして「その足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」このときのことだろう。畑を耕していた農夫がダイダラボッチについて話をしてくれた。

「爺さんから聞いた話だけど、ここの山の摺鉢山とあっちの千束の貉窪に巨人が立ってな。小便をしたら洗足池となったというんだ…」
「南向きですね、ふぅんなるほど、そうするとダイダラボッチは男ということになりますね?」
「まあ、そうだろうな。女だったら直下あたりが水浸しになるからな」
「やっぱり窪みがあるのとないのとでは違いますか?」
「それは違うよ、ダイダラボッチの耕し方というのがあってな、ことに斜面の耕し方だ、あっちの谷畑のダイダラボッチは斜面がきつい、だから耕すときは土を上に持っていくようにする。でないと雨が降ると土が流れるからな…」
 谷川磐雄と農夫とがどんな会話をしたのか分からない。が、ダイダラボッチの土地土地の固有性はあったはずだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月13日

下北沢X物語(3197)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考検

DSCN0117(一)ダイダラボッチは遙かな時空を生きてきた巨人だ。千年でもない、五千年?、いや一万年かも知れない。この伝説は縄文時代まで遡る。「武蔵の巨人民譚」(『武蔵野』第二巻三号)をまとめたのは谷川磐雄だ。「私はその足跡地に何度も行つて石器や土器を採集した」という。その足跡地こそは「荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村貉窪」である。後者の近くには「洗足池公園付近遺跡」があって縄文時代中期のものだ。前者は「大岡山遺跡」と称される。縄文時代前期から後期にかけてのものだ。出土したのは土器、石斧、石鏃、石槌など。こちらは呑川左岸の崖線で、いくつもの遺跡が連なっているところからこちらの方の話であろう。ダイダラボッチ伝説は万年まで遡る話だ。スケールが他の伝説とは異なる、それゆえに多くの民族学者がこれに注目した。

 が、このことは一般的には理解されていない。ダイダラボッチはおもしろおかしく語られる。『東京の民話』(中村博編 一声社 一九七九)はそうだ。「馬込のダイダラボッチ」についてはこう語られる。

うまく体のバランスをあわせるために、ちょいと足のこゆびをついたところが、洗足池だというんだから、いまの東京のいこいの場所は、どれもこれも、みんなダイダラボッチがつくってしまったのかもしれん。

 軽い軽いお話だ。が、この伝説は新手だ、典拠は何によっているのだろう。代田橋についてはもう全くおもしろおかしく語られている。

 世田谷にも代田橋なんていうところがあるじゃろ。あれはな、世田谷に川が流れておってな、橋がないので住民が不自由しとったんじゃ。それを空の上からながめておったダイダラボッチが、ちょいとどこかの木をおってきて、橋を架けてくれたというのじゃ。ダイダラボッチがかけた橋に、そこに住んでいた者たちはよろこんだのなんの。それが何百年とたつうちに、代田橋とというようになったというんじゃ。

 
 代田橋はダイダラボッチが架けたというのは有名な話だ。これを紹介している。が、柳田国男はこれを「巨人の偉業としては甚だ振はぬもの」(『ダイダラ坊の足跡』)という。万年単位の伝説がある彼の事業としては、やはりみみっちい、承応2年(1653)に一年足らずで開削された玉川上水に橋が架かったということだが、ダイダラボッチ伝説の根源は一万年も遡るというのにたかだか三百六十年前の話、しかも玉川上水の架橋などは十数メートルのものだ。富士を築いた彼の偉業とくらべるとお話にならない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月11日

下北沢X物語(3196)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考掘

DSCN0120(一)馬込ダイダラボッチは、なぜ東工大構内の出穂山稲荷大明神にどぼどぼと小便を垂らさなかったのか?「それは困ります、構内には化学薬品が何千本と保管されていて、酸を含んだ小便をどぼどぼと注ぎこまれると化学反応が起きて危なくなります」、ダイダラボッチ巨人はやむなくその話を聞いて自らのホースを手に取って、南方向に射出角度を変えて放尿した。それによって無事に洗足池に放水が届き池が出来た。めだたしめでたしだ。
 
 が、しかし、もしかしたらダイダラボッチはそんな小細工をせずに小便を垂らしたかもしれない?。今日、大明神を検証してきた。その場所は背尾根、呑川と洗足池の分水嶺に当たる、この東斜面にねらいを定めて放出すれば自然と池に流れこむ。流路には池への沢筋がちゃんと今もある。

 しかし問題は何かだ。ダイダラボッチ伝説で大事なのは何と言っても窪みである。これが基盤であり、基礎である。まずダイダラボッチはそこに立つ。馬込ダイダラボッチではちゃんと二箇所あるというのは大事だ。世田谷代田は一つしかなかった。しかし、片足の巨人はいない、もう一つの足跡がどこかにあるはずだと柳田国男は探した。
DSCN0119
 民族学者は対になる窪みを探したところ、それは見つからず、駒沢で別の足跡を見つけた、それで彼は驚愕した、この東京には巨人があっちにもこっちにも往来していたのだと知った。それが巨人来往の衝である。

 とこが馬込ダイダラボッチは確実に一人だった。個性を特定できる巨人だ。変な伝説が生まれないように棹を操作してちゃんと洗足池に小便が流れるようにした。また、彼は身を支えるために杖を持っていた。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月10日

下北沢X物語(3195)〜荏原ダイダラボッチ再考供

DSCN0101(一)荏原東南部に伝承されている「馬込のダイダラボッチ」は巨人伝説を解く上で重要だ。まずダイダラボッチとは何かという問題がある。間違いなく言えることは人間の想像力の所産である。が、これを生み出す契機が必要だ。それは我らが住む地上にある不思議な痕跡である。形としては足跡だ、そして、「長さは百間」も!「恐ろしいほどの巨人がいたのだ!」、ここが想像の出発点だ。
 
 人間の形をした大男、当然かれも人間的な営みはするだろうと、技をさせる。誰もがする小便である。さぞかし分量は多いはずだ。どぼどぼと垂らすと池ができた。これによって洗足池はできたという。この場合大事なのは巨人の立ち位置だ。右足は大岡山摺鉢山、左足は千束の貉窪だ。今でもそうだが確かにここには大きな窪みがある。が、待てよ、実際のその場所に巨人を立たせてみると「池のできた場所が変だ」、彼は西南を向いているそのままどぼどぼとやると東工大構内の出穂山稲荷大明神あたりにこぼれるはずだ。
「そうかダイダラボッチは畏れ多いということで砲口を左手に持ってぐっと南に向けた。それでようやっと洗足池にほとばしりが届いた。とするなら杖はどうか、右手が竿先を持っているとすればこれは左手か?」
 次からつぎに疑問が湧いてくる。口承伝承はちょっとずつ違っている。「馬込のダイダラボッチ」につけて加えて、「片手で土を採り、片方に置いたのが、品川湾と富士山である」と。ということは棹を離して右手で手をのばしたようだ。海を掘った、その土を手に持って西に放り投げた。東京湾の穴子やボラが今でも富士に埋まっているのか?

 伝説は伝説である、細かに分析する必要はない。が、こういうことは言える、出発点は足跡だ。この場合、大事なのは世田谷代田や野沢と違って、かっちりと二つあることだ。「馬込ダイダラボッチ伝説」の基盤である。巨人を立たせれば動く、まず手始めに小便をする、つぎにそれだけでは芸がないと土地を掘って富士を創る。尾ひれが二つ付いて、話は決着する。

 まず言えることは基本基盤は、大地に刻まれた大男の足跡だ。これを説くのは誰か、人生の体験を重ね、そして霊的能力を備えが老媼である。
「まあまあ、孫達は今日は寝つかれないでいることだ、一つお話をして進ぜよう」
 マキがはぜるいろり端で彼女は「ダイダラボッチ」を語る。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月08日

下北沢X物語(3194)〜荏原ダイダラボッチ伝説再考〜

DSCN0108(一)実地検証は重要だ。昨日、ダイダラボッチ伝説の地、北千束・狢窪を訪ねた。当地の住人との会話で四身一体としての巨人像を実感した。ちょうど家で車を洗っていた人に聞いてみた。「ムジナクボですか?」と七十三歳になるその人は「よくぞ聞いてくれた」と笑顔を見せる。「私が小さい頃まではみなムジナクボと言っていました。それでね、その証拠なんですけどそこに電柱が建っているでしょう。あれに掛かっている札にちゃんとムジナって書いてあるんですよ。昔はこの辺り狸が出て化けていたとかね、そんな話は聞きましたよ」、とびっきりの美女が現れて、いい湯がありますよという、ふらふらっと誘われて入る。何ともいい湯加減だとタオルで顔をこすると臭い…「コ、コエダメだ!」

「ダイダラボッチ伝説って知っていますか?」
「いや聞いたことはありません」
「巨人伝説ですね、右足があっちの東工大の方…」
 東工大の敷地の北側に摺鉢山があった。今でもその形状ははっきりと残っている。
「そうなんですか?」
「左足は、ここムジナクボです。それで男は小便をする、その跡が洗足池なんです」
「へぇ、そうなんですか、初めて聞きました」
「どうして右足と左足がわかるんですか?」
「逆だと池ができないんですよ、ほらマラは南を向いて、用を足すとドボドボと…」
「うん、そうするとこうですか?」
 彼は地図地形を思い描きながらその場で四股を踏むようにした。正面は南で、北を背にした。
「ああ、なるほどね、そういうことか?」
 彼は総てを了解した。
「それでそのダイダラボッチは杖を持っていたんですね、それを突いたところが洗足小池なんですよ…」
「へぇ、よくできていますね」
 そう左右の脚、そして逸物、加えて手に持つ杖、まさに<四身一体>でダイダラボッチの痕跡は地形として今も残存している。
 
 このところダイダラボッチ伝説に関わりの深い、洗足池はよく行く。大田区の図書館のカードを作ったこともある。池のわきに洗足池図書館がある。地域資料を見るのが楽しい。
 大田区の文化財(昭和六十一年) 第二十二集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)などは民俗学の宝庫である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月07日

下北沢X物語(3193)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29掘

DSCN0105(一)終戦、末期圧倒的な物量で敵は攻めてきた。が、軍部は大丈夫だ日本は負けることはないと言っていた。前に松本中学の望月照正さんから取材したことがある。陸軍松本飛行場で大東亜決戦号、疾風を見学したと。B29も撃墜できるという新鋭機だ。望月さんは、戦うには燃料が不足しているのではと問うた。すると、若い中尉のパイロットが言った。
「そんなことはない。燃料はある山の麓にたんまりと埋蔵してあって、三年は十分に戦える。飛行機も間もなく、この大東亜決戦号が量産され出すし、乗鞍で実施しているロケットも完成近いから、日本は必ず勝つ」ときっぱり言ったと。油は、金はたんまりあるという言いぐさに我々は弱い。もう一つ、ここに神が絡んでくるとますます弱くなる。「いずれは神風が吹いて必ず勝つ」、言い古された語だ。戦争末期根拠のない話に我々は踊らされた。信じやすいという国民性を見抜いて政治家は我々を常に騙す。
 

  戦争とは何か、憎しみの暴発だ。こう言ったのは武揚隊、隊員の長谷川信少尉だ。「今次の戦争には、もはや正義云々の問題ではなく、ただただ民族間の憎悪の爆発があるのみだ。」といい、こう結論づける。「恐ろしき哉、浅ましき哉、人類よ、猿の惑星よ。」と。

 戦争末期、昭和二十年、五月二十四日、二十五日、東京西部に飛来してきたB29は両日に亘ってB29は、6,900七トンもの焼夷弾をくまなく落とした。根底にあるのは憎しみだろう、「真珠湾攻撃奇襲」に対するお返しだ。憎らしい敵の首都を壊滅させてやる、そういう強い意志からの緻密な作戦だった。

 東京大空襲の焼夷弾投下トン数、1600トンを遥かに上回る攻撃だった。ねらいは何か、日本の頭脳中枢を狙ったものだ。実際に新聞社が被害を受ける。それで五社共同で「共同新聞」を発行する。その五月二十五日の報道だ。

 大本営発表南方基地の敵B29二百五十機は昨五月二十五日二十二時三十分頃より約二時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。右により宮城内表宮殿其の他並に大宮御所炎上せり。都内各所にも相当の被害を生じたるも火災は本払暁迄に概ね鎮火せり

 「無差別爆撃」は、戦争を遂行する側の立場を描いていて興味深い。戦争というものは軍人、軍施設、民間人、民間施設を弁別して戦うものだ。敵はそれを逸脱していると非難している。しかし、軍はそんな紳士的な態度であったのだろうか。この書き方は、皇居襲撃をするなんてけしからんと言っているのではないか?
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月05日

下北沢X物語(3192)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29供

DSCN0107(一)荏原逍遙からの帰り、外車販売店に「駆け抜ける歓び」とあった、自分では免許は返上している。かっこいい外車で野山をふっとばすことはない。が、「駆け抜けない歓び」があると思った。日々の歩きこそはわが命だ、昨日は多摩川まで富士を見にいった。鉄橋上を新幹線がきぃんきぃんと音を立てて疾駆していく。「どうしてあんなに急ぐ必要があるのか?」と思った。機械文明と遭遇したとき守旧派が「一日馬車一二台の変化でいいではないか」と。今となっては至言である。我らは闇雲に急がされている。踊らされている。昨日の新聞では、「この25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がりの経済成長を取り戻そうと政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である」、なのにこの上、新しい新幹線を、またリニアを作るという。もう「我々は急ぐ必要はない」、新聞では、「低成長を受け入れる成熟こそ、今のわたしたちに求められていることではないか?」という、低成長は低速度でいい、闇雲に駆け抜けない、プロセスを楽しむことが今は求られている。

 高速度、急成長時代ではダイダラボッチは生まれない。車で駆け抜けることなく、深い窪みに出会ったら想像を巡らす。私は近間では谷畑(現自由が丘)の不思議な窪みに行き会うと立ち止まって想像する。これは右足だ、するともう片足がどこかにある。すくっと立てば雪を戴いた富士が見える。「大沢崩れもだいぶひどくなったな、このままでは山体ゆがんで醜くなる、いっちょう岩を担いで山を修復してやるか…」
 妄想的ダイダラボッチ論は気持ちを豊かにする。

 B29の痕跡を求めて荏原台、久が原まで行った。形はインド半島に似ている、ここは伝説の宝庫でもある。古代から人々が住んでいた地域だ。久が原半島の先端部に池上警察署がある。こういう口承伝承がある。

ダイダラボッチの一族 (池上三丁目付近)

 久ヶ原の池上警察署があるところは貝塚で、大昔ダイダラボッチという大男で手の長い一族が住んでいた。火がない頃で海の中に入って貝をとり生のままで食べて暮らしていた。その食べ残した貝を捨てたところが久が原の貝塚だという。ダイダラボッチの一族が手がとても長いのは、毎日毎日手を海の中に入れて貝を探していたからだという。原
なるほど目先の変化ばかりに囚われていて心が貧しくなっていないか?。
大田区の文化財 第二十二集 口承文芸 大田区教育委員会 昭和61年


 『常陸国風土記』に同じ口承伝承が採録されている。

 上古人あり。体は極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海浜の蜃を摎りぬ。其の食いし貝、積聚りて岡と成りき。


 久が原人は手が長いというがどうだろうか。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月04日

下北沢X物語(3191)〜迎春、富士にダイダラボッチにB29〜

DSCN0100(一)新春、一月一日は晴天だった、自宅近くの富士展望台は呑川左岸、東工大の崖線だ。雪を戴いた富士がよく見えた。平和な年明けだ。しかし、世界情勢は波乱ぶくみだ。イギリスのEU離脱、そしてトランプ政権の誕生、いずれも自国利益を最優先する、外との障壁を作るという、世界の潮流が大きく変わってきた。不安な年明けだ、崖線から広い空を見ながら平和の破綻を想起した。忘れてならないのはこの武蔵野の空一杯を巨大な爆撃機が空を覆っていた時があったということだ。心底震え上がるほどの光景だった。


 昭和二十年五月二十四、二十五の両日に亘って圧倒的な物量でアメリカは東京を襲った。第一日目は558機、焼夷弾投下3645,7トン、第二日目は、498機、焼夷弾投下3262トンだった。非常によく知られている東京大空襲の時は、325機で、焼夷弾投下トン数は、約1600トンと言われる。山手大空襲は両日で6,907トン、これで東京は壊滅し、爆撃リストから外された。首都は完全に廃墟と化した。が、戦争は終わらなかった。戦争指導者の判断の先送りが後の広島、長崎への原爆投下と結びついていく。東京大空襲は忘れてはならないが、この山手大空襲も決して忘れてはならぬ。今もって問題の先送りをする気風、気質がないか?

 呑川左岸崖線から富士はよく見える。東工大のすぐ北には摺鉢山がある。ここはダイダラボッチの右足、左足は、東工大のすぐ東の狢窪、両足ですっくと立つと一物は南を向く、そこでダイダラボッチは小便をした、その跡が洗足池である。持っていた杖をついた跡が洗足小池だと言われる。

 ダイダラボッチ伝説は富士なしには考えられない。この近隣の丘に立てば、遙か西にとてつもなく大きな山富士が見える、これと対比させて人間は、巨人ダイダラボッチを想像した。

 古代の巨人ダイダラボッチ、近代の巨大爆撃機B29、視界に入る富士はものさしだった。後者は東京を襲うときの目印だった、マリアナ諸島を飛び立った爆撃機は富士をめざした。そしてここを回り込んでうまくジェット気流に乗り、東京を襲撃した。が、東京の空の防衛力が薄弱だと知って、富士を目標物にしないで直接南から、東から襲ってくるようになった。

 近隣では五月二十四日に世田谷区赤堤に、二十五日に大田区久が原にB29が墜落した。前者は何度も訪れた。後者については新しい資料を発見したことから大岡山から南下し久が原を訪ねた。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2017年01月01日

下北沢X物語(3190)〜会報第126号:北沢川文化遺産保存の会〜

DSC_0065
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第126号    
           2017年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
     東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
   あけましておめでとうございます
   
    ことしもどうかよろしく
                
         お願い、申し上げます。


           北沢川文化遺産保存の会

1、文化活動を続けて十二年(都市文化の源流を求めて)


 昨年暮れは、恒例の忘年会を北沢タウンホールで行った。お弁当の名は、「北沢川文化遺産保存の会 創立12周年記念弁当」だった。2004年12月に、代田信濃屋の会議室で設立総会を行って、満場一致で会の創設は決まり、会は発足し今日に至っている。

 十二年間は長い、が、この間たゆみなく文化を耕してきた。地域固有のにおいを掘り続けてきた。このにおいこそが地域を決定づけるものだ。では何が匂ったか。北沢八幡神社の前ではお菓子を焼くにおいがした。ユーハイムがあったからだ。これを作品の中に巧く取り込んでいるのが森茉莉である。『恋人たちの森』の冒頭に描かれている。「ユーハイム」は『ロオゼンシュタイン』という名に変えられている。しかし小説の発想は間違いなくにおいからきている。彼女は常々ここを通っていた。バターの甘いかおりを嗅いでいたゆえに、甘い恋の物語にこの菓子工場を持ってきたのではないだろうか?
 甘いにおいもあれば、くさいにおいもある。

 仔犬らが家のめぐりにまり散らす尿臭風の涼風ぞ立て

 
 北沢草堂、北沢四丁目在住の尾山篤二郎の詠である。昭和十四年。今のように犬をつないでおくという習慣はなかった。犬たちは附近を遊び回り、いい犬をなんぱしては子を何匹も産ませていた。その仔犬たちがあたりに糞をまき散らす。かなわん、かなわん。
 
食べ物のにおいでいえば小田急下北沢二号、三号踏切あたりではメンマが匂った。これはけっこう強烈だった。「あれはくさかった」、この語り草ぐさも消えつつある。
 踏切のそばでいえば井の頭線下北沢二号に煎餅工場があったと。
「学校の授業中に火事があって燃えたもののにおいで、どこが焼けたかわかったんですよ。」「これはせんべいのにおいだ、あっ、ほらあそこの踏切脇の工場だよ!」
 生徒たちは火事現場を鼻で言い当てた。鼻よりせんべい。

 それはさておき、作家や歌人が集まる街でもあり、家内工業も集まってきていた。そういえば思い出した、家の中からクキィィンという耳障りな音も聞こえていた、レンズみがき工場もあったなあ…ほかにまだまだあった。あんこやもやし、それにソースのにおいなどもあった。

 しかし、当地を特徴づけているのは「ひしゃげた座標軸」だ、つまり小田急線と井の頭線が交差していた形だ。街の発展と形成はここにある。鉄道の交差による利便性の高まりが人を集め、さまざまな価値をも集めた。
 ここでのにおいの中心は何か、それは鉄の粉のにおいだ。かつて電車の制動にはブレーキシューが使われていた。車輪を制輪子で挟んで止めていた。電車が止まるたびに鉄粉が散った。駅の線路はいつも赤さびていたが、これが色の正体だった。
 かつては鉄粉が多く飛び散る街であった。線路が上にも下にも通っていたからだ。これを子どもたちは「上の電車、下の電車」と言っていた。一種の電車批評だ。『小田急五十年史』のコラムにはこんな記事が書いてある。

 昭和十年代の後半、下北沢周辺の子どもたちの間に「上の電車」「下の電車」という言葉が使われていた。ガードの上を通る前者の方が、車体がスマートで軽快、警笛がステキ、運転台が、正面下まで座席がある、ドアエンジンが完備している、などなどの理由から、人気が高かった。確かに窓一つをとってみても「下の電車は」は枠が小さくて、それも下へ落とす旧式の一枚窓なのに、「上の電車」のほうがすべてにアカ抜けていて評判がよかった。しかし、「下の電車」には急行があり、列車種別、編成がバラエティに富んでいるうえ、路線が汽車のように長くて、車窓の眺めが美しいことを知っている子供は「下の電車」にも高い評点をつけていたものである。「上の電車」は帝都電鉄、「下の電車」は小田急電鉄であった。

大事なことは異線が交わっていたことだ。異なった文化を持った線が結び合わさっていたことである。例えば自由が丘は異線が交わるということでは同じだ。しかし、いずれも東急線だ。同じ文化を持った社線の結びつきには固有性は薄い。違った車種や人、上の電車には女車掌が乗っていた、が交わることで交差というものが際立つ。街もまた違ったものになってくる。今でも小田急カラーと京王カラーとでは違う。(もともと両線は系列は同じ会社ではあった、小田急線と帝都線…説明が長くなるのでこれは省略)
 繋がった先も関係する。小田急線は新宿であり、井の頭線は渋谷である。東京西郊の二大副都心はカラーが異なる。松林宗恵監督が本社に行くときは小田急線に成城から乗って下北沢で降りた。すぐに乗り換えないで駅前の「マコト」でコーヒーを飲んでから井の頭線に乗り、渋谷で地下鉄に乗り換えて日比谷に行っていたと。
 一拍置いたり、気を休めたりした場が下北沢だったという。

十二年間の調べで誰もが発見しえないことを我らは調べあげた。昭和十九年夏千人ほどの学童が下北沢駅から電車に乗った。代沢国民学校と東大原国民学校の三年生から六年生である。行き先は松本郊外の浅間温泉である。折々の寂しさを紛らわすためにしばしば演芸会を行った。ところがこれが上手い。楽器を演奏させても、歌をうたわせてもうまい。中には洋舞を踊ったり、日本舞踊を披露したりして地元民をうならせた。疎開学童の音楽文化の反映は鉄道交点一帯の文化を映し出していた。
 代沢校に「ミドリ楽団」があって占領駐留軍に重宝された。評判が広がり、ついには全米に演奏が中継された。この地域に音楽文化が育っていたからこそのことだった。文学、詩歌、芸術、演劇などの根源は鉄道が交差したことで深く大きく広がっていた。

2、改訂第七版「下北沢文士町文化地図」


 今年度、世田谷区地域の絆にこの地図の申請をしていたがこれが認められた。三月末までに最終校正の詰めをしてこれを発行したい。今度のは改訂七版となる、発行部数は10000部だ。初版からの発行総数はこれで58000部となる。
 毎回、工夫を重ねながら作っている。新地図に入れてほしいものについてはこの広報で募集している。先だってあったのが「円乗院遺蹟」である。範囲が広いので色を変えて表示しようかと考えている。変更点では、学校の名前である。今年度、東大原小学校が守山小学校と合併して下北沢小学校となった。が、これも仮移転して今は守山小学校にある。来年度については代沢小学校と花見堂小学校が合併して代沢小学校となる。が、これも仮移転で花見堂小学校の跡地で授業は行われる予定のようだ。表記が難しい。
 花見堂は古くからの地名でこれは地図には名前だけは残しておきたいものだ。

 作家、詩人などでは域内に二つ居住跡が記されているものがある。萩原朔太郎、中村汀女、石川淳である。これなどは古い順に、´△犯峭罎鮨兇譴个いい里任呂覆いと考えている。旧跡に関しては何時から何時までというのは重要だ。無くなった学校としては海外植民学校、帝国音楽学校、下北沢店員道場がある。前者二校について西暦で創設と廃校を入れたい。店員道場について歴史が明確でない。ぜひ情報を。
明治時代の小説家生田葵山が下代田に居住していた。おおよその場所は分かっているので(推定)を入れて、旧居跡を記したい。
 毎年四月に安吾文学碑前で「文化地図」を配布している。が、代沢小は花見堂小へ仮移転する。いつも椅子や机は代沢小で借りていた。それで来年度は机二脚、椅子十脚とリヤカーを移転先から借りたいとの要望を廣島文武氏を通じて出し、これが了承された。

3、都市物語を旅する会
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
 田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
 十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
 芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館


・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
 (京王線千歳烏山駅北側徒歩1分) 
 烏山を歩く  仙川地図研究所 和田文雄さんによる案内
スタート→旧甲州街道→烏山神社→烏山北住宅(烏山川暗渠)→烏山寺町(高源院など)
→区民集会所→西沢つつじ園→北烏山屋敷林→ゴール(予定)
・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 品川用水を歩く(供法”弊醉竸緝活研究会 渡部一二先生
 昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。
・第127回 4月15日(土) この月の企画については、山梨県方面を予定している。土地在住の矢花克己さん案内によるもの、桃の花の季節だ。当初自家用でと考えたが団体で事故が起こった場合のことを考えると鉄道がいい。明大前待ち合わせで京王線→中央線と考えている。この場合は朝で、コースについては検討中だ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲インターネット「北沢川文化遺産保存の会」の掲示板は自由に書き込める。また、フェイスブックについても「北沢川文化遺産保存の会」として入っている。これは申請した人が活用できる。連絡や要望、意見などはここに書き込んでほしい。
▲新春から原稿用紙二枚程度の小研究、あるいは話題を募集します。会報は図書館所蔵、ネットへのアップなどで広く行き渡るようになりました。原稿はメールで送付してください。この会報にぜひ載せたいと思います。また、会員が関わる行事は会報に掲載します。
▲世田谷まちなか観光協議会主催の「まち歩きコースコンテスト」に当会として応募しました。1月21日に「世田谷観光メッセ」が三軒茶屋キャロットタワーで開かれます。当会の地図も提供します。コンテストの審査ではプレゼンテーションを行います。時間などについては当会掲示板にてお知らせします。
▲年が改まりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。幹事の米澤やきむらも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 00:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月31日

下北沢X物語(3189)〜地域文化的『猫町』私論供

DSCN0061(一) 『猫町』は不思議な小説だ。一種の街論でもあり、旅論でもある。まず彼は街について、「街全体のアトムスフィアが非常に繊細な注意によって、人為的に構成されている」と指摘される。すぐに想起されるのがこのところ話題になっているDr.Austinが戦後に撮った下北沢の写真だ。まさにアトムスァイア、空気感まで映し出している。焼け残った街には「あらゆる町の神経が、異常に緊張して戦いて居た」その秘密めかした空気に敏感に反応して彼は何枚もの街の写真を撮ったのでは?。つぎに旅だ、これは現代人が陥っているお仕着せの旅への懐疑だ。旅への誘いはしばしばある、が、「何所へ行って見ても、同じような人間が住んで居り、同じやうな村や町やで、同じやうな単調な生活を繰り返している。」同感だ、このところどこ商店街に行ってみチェーン店の、おなじみの看板が目につくばかりだ。そこに同じような服装をした人がみな申し合わせたように入っていく。文化のかけらもない。通例の旅はもうもう飽きてしまったと。


 彼は、おしきせ、ありきたりの旅ではなく、新しい旅を提案する。それは、次だ。

 あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。

 乗り物で遠くに行くのではない、近隣の散歩でいいのである。この場合、地域文化的には「小路」が似合う。ここを行く朔太郎である。

 『猫町』には、街論、旅論、加えて路論がある。世田谷代田には朔太郎を慕う三好達治が住んだ。彼が朔太郎の行状を綴った「師よ 萩原朔太郎」は、小路と朔太郎の関係を巧みに表現している。まずこう述べる。

「ああ、げに あなたは影のやうに飄々として いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる」
 
朔太郎は書斎派ではない、机に向かっているときでもふっと思いついて外に出てあたりを徘徊する。北沢川べりを、また下北沢の街を歩いている姿が人に見られている。通っていく路は、「うらぶれた裏町の小路」である。北沢古老の三十尾さんは東北沢から二子道に抜ける小路は、それこそ「うらぶれた裏町の小路」だったと。
「おにいさん、よっていかない」
 通りにある、カフェの女給が声を掛ける。誘われて入りビールを飲む。

女等群がりて卓を囲み
我の酔態を見て憐れみしが
たちまち罵りて財布を奪い
残りなく銭を数へて盗み去れり。
 『氷島』 「珈琲店 酔月」
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月30日

下北沢X物語(3188)〜地域文化的『猫町』私論〜

DSCN0097(一)萩原朔太郎には『猫町』という短編小説がある。副題は「散文詩風の小説(ロマン)」だ、出版されたのは、昭和十年(1935)、世田谷代田居住時代のものだ。とりわけ興味深いのは居宅からの散歩が描かれていることだ。ロマン、物語ゆえに現実の場を考えることはない、しかし、この漫歩における出発点は自然と居宅が思い浮かんでくる。筆者の習慣として、「毎日家から十四、五町(三十分から一時間位)の附近を散歩してゐた」とあるとますます居宅が現実味を持ってくる。

 詩人が居住していた旧番地は、世田谷区代田一丁目六三五番地である。ここに何の痕跡もない。「日本近代詩の父」と言われる彼は当地で終焉を迎えている。代表詩集の一つは、『氷島』である。この「自序」には、期日が記されている。「昭和九年二月」と。つまり、この詩集はここで編まれたものだ。

 居宅があった箇所の地形は興味深い。淀橋台から枝分かれした台地は北沢川にぶつかってここになだれこむ。この丘の裾に家はあった。そしてすぐの上手のヒルトップには鉄塔が高々と聳えている。昭和二十年五月二十五日の山手空襲で焼けた家は、朔太郎自身の設計によるものだ。彼の娘、萩原葉子はこの家を『蕁麻の家』と題して小説を描いている。

 洋之助の設計の家は、東ヨーロッパ風の新鮮な感覚であった。南側から見ると中世の城と寺院とを取りまぜたような急勾配の屋根が高く見え、遠くの方からもすぐそれと分かった。 講談社学芸文庫 一九九七年刊

 『蕁麻の家』は小説、物語だ。それで父のことは洋之助と置き換えられている。が、家は現実のものだ。「遠くの方からもすぐそれと分かった」と、それは間違いない。が、家だけが目立つのではなく丘上の鉄塔との対比によってより目立った。高々と聳え建つ銀色の鉄塔の側に建つ家は朔太郎自身の好みの反映でもある。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月28日

下北沢X物語(3187)〜電柱基準風景論〜

DSCN0088(一) 長年、そのことに携わってくると人には見えないものが見えてくる。九十歳になるという石川さんは電気の仕事に就いていた。通勤のため下北沢駅に行くときも路傍に建っている電信柱を眺めならが行った。僅かの変化も見逃さない、「あそこの電柱は腰が据わっていない」と思うことがある。
「電信柱は真っ直ぐに建っていればいいんじゃないんです。隣の電信柱との張力もある。あんまりぴんぴんでもいけない。地震のときには揺れる、余裕がないと引っ張りあって倒れることもある。それと電柱一本、一本は重心が異なるのですよ。よく傾いている電柱を見ることがあるでしょう。あれは上に載っているトランスの重量をうまく支えるためなんです。やはりね、電柱を見て腰がしっかりと坐っているのを眺めるのは気持ちのいいものです。腰が据わらずに、変に立っていると何か落ち着きがなくなりますね」
「そうすると、地域地域って建てる人が違うでしょう、ときにはばらつきというものはあるのでしょうか?」
「それはありますよ、Sさんというベテランがいて、建て方に寸分の狂いもない。そこに張り巡らされた電線もしっかりしています。電線にしまりがあると街並が安定してみえるのですよ。なんといっても街は電信柱がしっかりと建っていないとね」
 私は石川さんと想像的な会話を交わしている。類例はどこにでもある。


 例えばこんな話がある。機関士は汽車を走らせていて、線路の滑り具合が分かるという。
「小牛田保線区の管内に入ると、まるで座敷に上がったみたいに、もうまっさらなんだからねえ。音で分かるんだよ」
 機関士の語りぐさだった。この保線区には、補修の神様がいて寸分の狂いもなく線路がまっさらだったらしい。管内に入ると車輪の音でそれが分かったという。

 電信柱が建っている風景も、全体として安定しているのかそうでないのか専門の人がみると分かるようだ。彼に取っては電柱全体の張り巡らし方については常に緊張を保って見張っていたのではないか。

 萩原朔太郎の『猫町』では、「町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されている」と述べる。さらに続けて彼はいう。

単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。空気のいささかな動揺にも、対比、均斉、調和、平衡等の美的法則を破らないよう、注意が隅々すみずみまで行き渡っていた。

 詩的調和ということはある。電線的調和もあるかもしれない。「街全体のアトムスフィア」が、ちょっとしたひずみである瞬間崩壊するかもしれない。安定した電柱の建て方、電線の張り巡らされ方で街は平穏を保つ。
 きむらたかし氏が紹介しているつぎの写真。

16・南口通り商店街南端付近から南方向〔画面奥の支柱付きの電柱の場所が膳場青果店
 
 電信柱と電信柱に張り巡らされている電線は美的な調和をもって張り巡らされている。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月27日

下北沢X物語(3186)〜荏原狐狸的電柱風景論〜

DSCN00861(一)荏原都市物語は禁断の実だ、一つ囓ったら最後、果てもなく実をもがなくてはならぬ。ついこの間、高畑で狸が出たと知った、「ええっ!、どこだ?」、この話聞きつけるとたまらない、狸が汽車に化けた話となると血が騒ぐ。この話大好きだ、誰も信じないが、近代日本の黎明期は狐狸との闘いだった、彼らが野山に跳梁跋扈していた、その彼らに打ち勝っことでようやっと近代は形成された。代表事例は日本の二大天険、箱根と碓氷に巣くう狐狸である。これを汽車が打ち負かすことで鉄道の大動脈は保たれた。これによって近代化の道が切り開かれた。その人間と狐狸との闘いを大まじめで書いたのが『峠の鉄道物語』(JTB)だ。ゆえに狐狸譚には目がない。荏原では品川の権現山に狸が出現したのは知っている。これに加えて高畑にいたとな。

 狸が出現する場は山だ、「羽根木周辺にも、守山とか六郎次山のような丘のある森林があり、狐や狸の住家である。横山が幾つもあった。」と、羽根木在住の細野巌さんは自著『羽根木』で述べている。彼は守山と出頭山の間で狐に化かされたそうだ。狐狸は山にいるということからすると高畑は山なのではないか。

  調べてみるとそうではなかった。多摩川の国鉄線の近くの土手に近い。なるほどあのあたりだったか。大田区サイクリングコースがあって何百回も通った。地形的に不思議なところだ、多摩川が大蛇行して川崎側に、U字状に大きく流れが食い込んでいる。ちょうどそこを横断する形で日本最初の鉄道は敷設された。

 この蛇行はなぜか、多摩川から流れた土砂が堆積して膨らみを作っていたことが想像された。おそらくこの地名はそこから来ているのではないか、フラットで高いところに畠が広がっていた。以前は木々が生い茂る森だったのではないか。そこが壊されて狸たちは怒って偽汽車を走らせた。「陸蒸気の開通を許さないぞ」、右手をぴょこんと上げて、連日抗議に及んだ。

 しかし、当初、この陸蒸気を運転していたのはお雇い外国人だった。青い眼の外国人に狸は恐れをなした。術を掛けても青ビームでにらみつけられたら一発だ。日本の狸の術は外国人には効かない、彼らが知ったかるっちゃーショックだった。

 彼らが復讐をするまでには時間が掛かった。が、好機は到来する、お雇い外国人のギャラは高い。いつまで彼らに運転させておくわけにはいかない。鉄道省上層部は、お雇い外国人に懇願して、日本人機関士を育てた。これによって青い眼は機関車を降りた。

 日本の鉄道は明治十二三年頃よりようやく日本人の手によって運転されるようになったのであった。ここに至って狸も狐も昼寝から起ち上がり、偽汽車を走らせはじめたのではなかったか。『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』 現代民話考 松谷みよ子
   立風書房 1985年刊


 好機到来、狐狸は立ち上がり、積年の恨みを晴らすために偽汽車を走らせた。狐狸による特攻作戦だ、つぎつぎに偽汽車を繰り出した。向こうから汽車が来ると、「えぃ!」と術を掛けて自らが汽車になり、向こうからやってくる汽車に全速で向かった。
 当の機関士は驚嘆する、来るはずもない対向列車が走ってくる、機関助士が目を剥いて「し、しょめんしょうとつです、ぎゃぼぼぼぼぼ…」と叫んだ、偽汽車で最も有名なくだりだ。狸たちはことごとく討ち死にして亡くなった。が、機関助士の叫んだ、この場面だけは語り草として今に伝えられている。

 荏原地域における「偽汽車」の出現地点は、裏歴史として記録されるべきだ。
 明治十二三年頃、多摩川土手付近でも狐狸と汽車との闘いがあったと。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月25日

下北沢X物語(3185)〜「ミドリ楽団物語」へのXmasプレゼント〜

CCI20160508_0001(一) 『ミドリ楽団物語』について読者からの手紙が寄せられた。私宛ではない、出版社宛である。「良書を世にだしていただいた」という御礼である、「えにし書房」編集者の塚田さんによると匿名で、この方の住所も分からないという。以下、その文面だ。

 前略
 『ミドリ楽団物語』という大変素晴しい本を読みました。何度も涙ぐんでしまいました。
 昭和23年生まれの私の知らない「疎開」のことが書かれていました。たくさんの人がこのことを書いていますが、どれもがフィルター付きで書かれています。だからもう私は読まないことにしていたのですが、『ミドリ楽団物語』は違いました。

 子供たちの心が活写されていました。ああきっとこうだったに違いないと深く共鳴しました。それは文体が素晴しいからだと思いました。日本語は、ジメつく場面向きのもので、心や場が弾むように書くのには向いていないのです。しかし、この文体はそれができている。


 8年前まで37年間、都の公立中学の教員をしていました。だから私も子供の心も生活もよく知っています。この本では子供が真に子供らしく描かれていると思います。うらやましいくらいで、私もマネをしていこうと決めました。

 ここ数十年でこれほど感動した本は2010年の『百年前の女の子』(船曳由美)だけです。時代と子供が生き生きと描かれている点で共通しています。歴史的史料としても貴重なものです。

 別紙の個人的ランキングの2位か3位にこれは必ず入ります。良書を世に出していただき、本当に感謝いたします。
続きを読む

rail777 at 14:29|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月24日

下北沢X物語(3184)〜歳末年末荏原都市風景〜

DSCN0060(一)師走、時が急ぎ足で駈けてゆく、街もまたせわしく変化していく。その変化を観察していく一人街歩きが楽しい、気の向くままに南へ北へ、すると偶然に洗足池河畔で「斜陽」という言葉に出会った。太宰治の「斜陽」これの元になった太田静子「斜陽日記」はここに住んでいた。池の最寄り駅は池上線の洗足公園駅だ、三両編成の電車が長閑に通る。ここからすぐ近いところに洗足駅がある。昨日ここは通った、田園都市株式会社が分譲した高級住宅地の先駆けだ。静寂に満ちていた。が、それは斜陽都市荏原の一端のように思えた。お爺さんが築いた地位や財産をその子孫が保持するのは今は困難だ。200坪が100坪になり、さらにこれも細分化されている。早くに開業した荏原南部の山の手は「斜陽」というイメージが合っている。何よりも池上線の三両編成が長閑だ。

 街は変化しつづけている。池上線で言えば、石川台駅、ここはよく行く。目黒の自宅前の遊歩道を下るとここに着く。小説で話題になった『ちいさいおうち』の映画は、この辺りに家はあったとしている。呑川左岸の丘上だ、多摩川や川崎の高層ビル群が望める展望のいい場所だ。が、三両編成に代表されるように一帯は閑雅だ、坂を下ると希望が丘商店街があるが、没落商店街の一つだ、シャッターを閉めた店が目立つ。

 シャッター街では、自身の隣町の深沢にあるエーダン商店街が典型的だ。何十年と通っている。パン屋も豆腐屋も肉屋も、みなそろっていた。が、それがつぎつぎに店をたたんでしまって商店は数えるほどだ。散歩の折り、好んでここを通る。『方丈記』、冒頭が浮かんでくる。

 昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける


 斜陽都市をまさに表している。商店どんどん廃れていく。そうだジャムカステラがおいしかったパン屋のおじさん、豆腐屋のかみさんももう見かけない。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月22日

下北沢X物語(3183)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く検

DSCN0071(一)戦後に撮られた鮮明な画像を手にしながら街を歩いた。その写真で過去と現在との比較ができた。「焼け残りし街」には方々から音が聞こえ、においも漂ってきた。もちろんそれは想像である。が、我々は不思議な体験をした。過去と現在との往来だ。関連づけるとすれば、萩原朔太郎『猫町』である。この内容は、一種のロードムービー、小旅行体験である。朔太郎は晩年になって当地に越してきた。が、詩人の先鋭な感性はささくれてもきていた。「私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスを無くした」と述べている。が、彼はこのころ独自の旅を編み出していた。「あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶ」という方法だ。まさにこれこそは彼が書いた『猫町』世界そのものだ。この作品は当地を舞台としたものと考えられる。Dr.Austin氏が撮った写真で確認できるが、家並みとか通りの風情には朔太郎時代の面影がいまだに残っている。「Dr.Austin」写真とからめた「シモキタザワ猫町」散歩も面白い。


 今日は12月22日である。1月21日に行われる「観光メッセ」では「まち歩きコースコンテスト」を募集している。我らの知人や知り合いも応募するとのこと、一つは「下北沢の教会巡り」である。また、今回、NPO法人車椅子社会を考える会の篠原博美さんも「北沢川文学の小道」を車椅子目線でたどれるコースということで申請を考えられていると聞いている。

 当方、は『シモキタザワ『猫町』散歩』でエントリーをした。すでに19日に提出し終えた。副題は、 

〜 萩原朔太郎の『猫町』を旅する〜

下北沢はシュール小説『猫町』の舞台なのだ!

 肝腎かなめは、
    
 「あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、

主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。」

CCI20161222_0000
 眼前、目前にある風景を素材として夢、現の世界を遊ぶという旅である。小説『猫町』にいう、「余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ」て歩いて行く。すると、とある瞬間、「私のよく知ってる、近所のつまらない、有りふれた郊外の町」も忽然に変化する。「ぎょへえ!」。「それはまったく私の知らない何所かの美しい町」に変貌するのである。

 私達はこれまでこの猫町散歩を繰り返してきた。その結果、とある瞬間、ある錯覚が襲うということは既に実証済みだ。思うに路地時間と表通り時間とが異なる。ゆったりした路地時間から抜けたとき、往々にして不思議や異変が起こる。路地迷路があってこその話である。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月21日

下北沢X物語(3182)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く掘

DSCN0067(一)Dr.Austin氏が撮った下北沢のカラー写真は見事に時代を捉えている。焼け残った古い街が新しい装い、化粧を凝らしている。茶色の木造家屋がカラフルな広告で飾られている。木製のくすんだ電柱とは好対照だ。カラー現像技術の高さが目に見えないものまで写している。写真に音やにおいはレコードされていない、が、しかしこれに撮られた街並から今にも音が聞こえてきそうである。店主の売り声、街行く人の足音、そして電車のタイホンなどだ。また八百屋の店先では野菜が、総菜屋では揚げ物のにおいがした。当時の音やにおいは残されてはいない。しかし、この戦後すぐに撮られた十六枚の写真からは匂いが立ち、音が聞こえてくる。街を記録したものとしては貴重だ。

 今回の街歩きの最後は、北沢三丁目の「東京セロファン工場」の跡地だった。ちょうどここの向かいに古老の三十尾生彦さんが住んでおられる。呼び鈴を押すと、ガラリと二階の窓から顔を覗かせて「その突き当たりの左が工場だった」、「そうその角が女の子のいるカフェだった」と。

 その三十尾さん、フェイスブックでこちらの街歩きはチェックしておられる。「当時の写真からは失われた多くの音が想像できた」と私は述べた。これに対して三十尾さんは刺激を受けたらしく「音のリストを作ってみようかと思った」とのコメントがあった。

 九十三歳になる三十尾さんは長く生きてきた分、多くを見聞きしている。
「今と違って町角にはたくさんの音が聞こえてきましてね、今思えば懐かしいですよ。みんな流しでしたね。行商人や芸人とかがそこの道を抜けていくのですね…」
 下北沢は鉄道の街ではあるが道の分岐点でもあった。この指摘は大事だ。南から北へ、北から南へ人々は抜けていった。二子道をそのまま北上していくものがいたり、また堀之内道へ通ずる本通りを北西に抜けていったりもした。行商だからみな歩きだ。

 多くの売り声が音楽のように町中に響いていた。
「よくね、地方までいくんですけどね、下北沢は音楽の町と言われているんですよ。この辺り芸人とかが通っていったんでしょうけどね、どこを通ったのですか。」
 これは歩く会に参加していたアコーデオンのヤギさんだ。この街の流しとしてよく知られている。

「やっぱりね、今の一番街を抜けていったんだね」と私。
「十月になると家の前を鉦太鼓がどんつくどんつくと通っていきましたよ」
 大月商店のおばちゃんの言葉を思い出した。旅芸人も通っていったろうと思う。

 やはり音のリストは大事だし、貴重だ。三十尾さんの応答を待っていると、それが送られてきた。そのタイトルには、「道行く人生」とある。下北沢を行き交った人々が発した音模様である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月19日

下北沢X物語(3181)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く供

DSCN0081(一)「戦ひの火に遇はざりしこの区画冬靄やさしき高きにみれば」と詠んだのは下北沢在住の歌人堀内通孝だ。「し」は、過去の助動詞、「き」の終止形だ、ここに深い詠嘆がこめられている。東京の他の街は焼き尽くされた。が、この街は焼け残ったんだなあ。一方、Dr.Austinはこの街に古い東京郊外の情緒を見出して絵を撮った。街角に漂っている時代の空気を見事なまでに写している。興味深いのは北口と南口では空気感が異なる。南口の方には新開地的な雰囲気が漂っている。
 
 十六枚の一枚は、現在の駅南口のところが撮られている。右手はパン屋である。二階前面に色ペンキの広告が描かれている。真っ白のコック服を着た男が左手に食パンを掲げている絵である。白に生えている褐色、黒人のようでもある。店の名は「国際ベーカリー」である。
 一階の店には白いのれんが掛かっていて、そこには上に「国際ベーカリー」と描いてあって、縦に、左から「和菓子」、「喫茶」、「パン、ケーキ」とある。よく見ると「皆様の茶寮」とも書いてある。

 その隣にはのれんがあって、看板が掲げられている。メニューとしては、「うどん 鍋焼きうどん 花家」とある。駅前ゆえに食べ物屋が商売になる。

 全体に文化の混在が面白い。駅前の喫茶店である。そこではパンも和菓子も供された。また隣の食堂ではうどんも食べられた。このように和洋が入り交じっているところにDr.Austin惹き付けられたのかもしれない。

 今、茶沢通りに抜ける道はふさがっていてバラックのような家が建っている。「衣類買い入れ専門店」とある。「絶対にご希望にそいます」のようなウリが書かれている。時代を端的に表す店である。戦争によって工場は軍用品の生産に追われた。人の着る衣服まで手に回らない。戦後は、この衣類がお金になった。箪笥の奥にしまってある着物などの衣類をリュックにつめこんで電車や汽車にのって田舎に行った。これで農産物を手に入れていた。この店の看板の上には洗濯物が干してある、生活がリアルに見える、男物のしたぎにおんなものの下着だ。主人と奥さんのものだろうか。

 現在のマクドナルドのあるところが八百屋だ。というよりも駅前によくあった果物屋である。「果実の丸万」とある。駅で降りて、ここで果物買い、訪れていく家へのおみやげとした。黄色い蜜柑が山積みになっている。

「しかし、驚きですね、こんなに街は変わってしまうのですか?」
 参加者の一人が言っていた。路地を通っていくのは若い女性、着ているものが華やかだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(6)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月18日

下北沢X物語(3180)〜終戦後の下北沢のカラー画像を歩く〜

DSCN0076
(一)戦後の下北沢の街角を撮ったカラー画像がある。当時の空気感までもが漂っている写真だ。これからは音やにおいまでもが漂ってくる。下駄の音、電車のタイホン、「やすいよ、やすいよ」という八百屋の親父さんの呼び声、ときとしてなぜかコケコッコーという鶏の鳴き声が聞こえてくる。何か不思議な旅だった。時空を超えて旅をしているようだった。時を経ての変化が足で実感できた旅だ。驚きの発見も幾つかあった。うち捨てられていた七十年ほど前の空気を嗅いでいく、新鮮な街歩きだった。

 昨日、我らの会の恒例の街歩きだ。第123回となる。「下北沢の終戦直後のカラー写真を歩く」がテーマだ。キュレーターは、きむらたかしさんだ。街を写した写真は十六枚ある。それらははっとするほどに鮮明だ。容易に分かった場所もあったが、どうしても分からないところがある。仲間が聞き込みをしてくれた。それらの情報収集を踏まえてその場所、場所でキュレーターからの説明があった。

 この写真を撮ったのは、Dr.Austin である。撮ったときから七十年近く経って、彼の写真を検証するツアーを行った。そんな企画がなされるなど夢にも思わなかったろう。が、彼は間違いなく終戦直後の下北沢の街の姿を記録していた。

 これら写真を見て一番感心したのは技術力である。たかしさんの説明では、撮ったフィルムは空輸してアメリカに送られて現像されたものだと。
「日本が戦争に負けるわけだ!」
 金子善高さんがそんなことを言っていた。終戦後において技術力は比べものにならないほどアメリカの方が高かった。

 昭和二十年五月二十四、二十五日の夜、敵爆撃機がこの一帯の空を覆っていた。巨大なジュラルミンは地表の火災を写して腹は赤かった。それがつぎつぎに湧くように飛んでくる。圧倒的な技術力の差だ。B29に積まれているノルデン爆撃照準器の正確さだけでなく現像技術もはるかに日本を凌ぐものだった。

 11月1日、東京上空に敵機がやってきました。日本軍は地上から高射砲で応戦したのですが、そのとき不発だった砲弾の破片で負傷者が出ました。聖路加国際病院にその患者さん4名が入院しました。
『戦争といのちと-聖路加国際病院ものがたり』 日野原重明著 小学館 2015年刊


 高高度一万メートル上空にB29が東京上空に姿を現した。首都防衛に就いている高射砲隊はたまらず砲を放った。が、全く届かない。皮肉だ、撃った弾の破片が地上にいる仲間を傷つけた。

 最初にお目見えしたB29は写真偵察のためだ。彼らは空撮した映像にもとづき、空襲の計画を立てた。いまも驚くほど鮮明な写真が残っている。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月16日

下北沢X物語(3179)〜洗足池空襲とB29供

DSCN0062(一)水面と木々の緑が眺められる場というのは安らぎを与える。東京西郊の洗足池は早くから別荘地として開発されたようだ。明治四十年に発表されたのは江見水蔭『蛇窪の踏切』だ。露代という女性がここを訪ねてくる。「あの娘は、洗足大池の、新しい別荘へ来た客人だ。何でも別荘の奥さんの妹とか云ふ事だァ」とある。そういう別荘群が昭和二十年五月二十五日の山手大空襲によって燃え上がった。

 セピアと、白の諧調の瀟洒な洋館の小林病院長のお宅も焼けた。正宗先生の裏の洋館の家も焼け、日本風の有田さんも焼けた。さくら山の真向かいの、あの辺りで一番大きい洋館も、黒猫の別荘と言われていた家も焼けたとのことであった。
  『斜陽日記』 太田静子 小学館文庫 一九九八年刊

 洗足大池のまわりには別荘群があった。しゃれた洋館が多かった。ここで食事に供されるのは味噌汁ではない、やはりスープが似合う。太宰治はこの「斜陽日記」のイメージを巧みに下敷きにしている。つとにしられた『斜陽』の冒頭だ。

  朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 と幽かすかな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。


 洗足池の別荘的生活の一端でもある。太宰の「斜陽」は没落していく人々を描いた太宰治の代表作と言われる。その書き出しだ。この場合は東京ではない、戦後東京での生活に見切りをつけ伊豆の別荘で暮らす。その一端である。この小説の全体の雰囲気は、「斜陽日記」そのままである。太宰治の感性と太田静子のそれとがうまくフィットしている。

 「斜陽日記」には、こんな場面が出てくる。とある日の夕方、正宗白鳥の奥さんが言ったという。

「いまにわたしたち、みんな、木の根や草の根を、食べなくてはならなくなるんですって。」
「先生がそうおっしゃいましたの?」
「ええ。このまま戦争を続けて行ったら、来年のいまごhら、私たちは、本当に、木の根が草の根をたべて、けもののように、この辺の草はらをうろついているでしょうって。」

 
 この話を聞いて、太田静子はこう思ったという。

 私は、ふと、早く、けものになって生きてみたいと思った。はだしになって、草の香りを嗅ぎながら、けものになって、生きる。静子は、けものになって生きられると思った。

 
 本然と湧いてきた気持ちだ。けだものけものになって生きてみたい。放埓さ、何かほとばしる感情を持った女性のように思った。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(4)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月15日

下北沢X物語(3178)〜洗足池空襲とB29墜落〜

しりとりしりとりすっとことん(一)荏原都市物語は禁断の果実だ、つい口をつけてしまったがゆえに止められない。つい先ほども事実を確かめたくなって近隣の図書館まで走った。洗足池にまつわる話だ。帰り道々思ったことは、人間は美しい風景と愛欲は見たがるものだと。池は近隣では有数の風景だ。これに愛欲がついてくると知りたくなるものだ。『斜陽日記』を借りてきた。

 洗足池は愛着の深い場所だ。かつては自転車だった、が、今は歩きでここはよく行く。歴史を振り返る、まず賞金の話だ。最初にここに来たとき「えらく谷の深いところだ!」と思った。今にして思うとここも馬込九十九谷の続きだったと思う。急坂をどんと下るとまた急坂、そしてもっと深い谷に突っ込む。そこに池があった、洗足小池だった。1993年5月のこと、今から23年も前のことだ。上池台にあった学研本社に童話原稿を届けにいったことがある。「読み特賞」を受賞し賞金15万円をもらった。

 つぎは愛着のある人の話だ。自分が世話になった小父の西島千里が洗足池駅の直ぐ脇に住んでいた。満州帰りの彼は大地に沈む太陽の荘厳さを何度も語った。その小父も近くのの荏原病院で亡くなった。朝、洗足池駅へ歩いていくとき物干しに乳房を丸出しにした女の人が洗濯物を干していた。

 三つめ長原のオリンピックの新春売り出して羽毛布団を手に入れた。これを持って帰るときに洗足池わきの坂ですっころんでけがをしたことがある。

 この洗足池近辺は慣れ親しんだところだ。池の周りは緑が多い。ここが空襲を受けたことは思いもよらなかった。これはつい数日前に知ったことだ。池の近くの緑豊かな丘の上にあった正宗白鳥邸も焼け落ちてしまったという。

 ネットで調べると逸話は多くあった。淡谷のり子邸もこの近くにあってやはり焼けて、「愛する衣装、ピアノ、車、そして藤田嗣治、東郷青児、竹久夢路などに描いてもらった肖像画の数々、そのすべてが灰となった」とあった。

 荏原都市者物語は一つ引っかかるとつぎつぎに話がつながっていく。洗足池がらみでは都市物語の魚がつぎつぎに引っかかってくる。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月13日

下北沢X物語(3177)〜洗足池妄想幻想行供

DSCN0065(一)荏原都市物語は禁断の果実であった。一旦囓ってしまうと味のとりこなってつぎつぎにこれに手を出してしまう。言ってみれば東京西郊の荏原は明治維新以来、百億万もの物語を埋めてきた場である。それは宇宙ほどの広さと深さを持つ。ここには物語鉱脈が果てもなく埋まっている。今探訪している洗足池も一つの小宇宙だ。「洗足池界隈文士往来年譜」を見ると我ら文士町に関係した人の名が散見される。例えば正宗白鳥の名があった。

 私は浦和から東北沢へ通った。途中の渋谷駅前は焼けていた。だが、東北沢の池沢さんの近所は焼け残っていて、下北沢の商店街も健在だった。住宅街に「名月」という宿があった。普通の住居を連れ込み風の宿に改造した年配夫婦の経営であった。〜中略〜正宗白鳥先生が軽井沢から上京され、この宿に泊まって「不徹底なる生涯」を口述されたのもその年であった。 私版『東京図絵』 水上勉 朝日文庫 1999年刊

 水上勉の修業時代の話だ。戦後東北沢に創設された文潮社に拾われて仕事をしていたという。下北沢にあった改造連れ込み旅館「名月」で正宗白鳥の口述筆記を行ったと。

 季刊「わが町あれこれ」第14号の「洗足池界隈文士往来年譜」にこの正宗白鳥の名があった。

一九三二(昭和七)年
 正宗白鳥(劇作・評論・小説家 55歳)洗足池畔の南千束町二三七に家を買い大磯から転居。


 この正宗白鳥、戦争中はここから軽井沢に疎開していたようだ。そのときに下北沢「名月」へやってきた。が、住まいは洗足池そばにあった。

 洗足池から北に一丁ばかり離れた二三七番地に……小説に評論に(戯曲もかなり書いて居る)六○年になんなんとする歳月を生き抜いてきた老大家正宗白鳥が住んでいた。この文学ひとすじにつらぬいてきた偉大な作家の未だみぬ面貌をしのびつつ、その門前をむなしく徘徊したのは、ひとり若き日の猪野謙二ばかりではなかったろう。洗足池近くにすんでいたあれこれの無頼な文学青年なら、おそらく、あこがれに似たむなしいこころをいだいて、いくたびか徘徊したに違いない。 「正宗白鳥の死」 染谷 孝哉


 そうだったのか、私は、洗足池池畔に住む正宗白鳥のことは全く知らずに、ここ十数年徘徊していた。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月12日

下北沢X物語(3176)〜洗足池妄想幻想行〜

DSCN0063(一)家の前は呑川遊歩道だ、足が左に向かうと下流の大田区、右だと上流世田谷区だ。その日の気分によるがこのところ南を選択することが多い。遊歩道沿いにいくと目黒線、ここを越えると開渠になって川が姿を現す。すぐに大田区に入る。石川台まで下ると鉄橋が見えてくる。この右手に十六階建てのマンションが聳えている。いつも必ず見上げる。詩人石垣りんが住んでいた。「私が住んでいるアパートの三階と平行の高さで、少しはなれた土手の上を、私鉄の電車が横一文字に走っている。」(『焔に手をかざして』)その電車は池上線だ、三両編成がのんびりとコトコトと走っている。石垣りんという詩人と池上線の三両編成は絵としても詩としてもフィットしている。この頃思うのは大田区が老熟した文化都市であることだ。

 のんびり感漂う、大田区、その象徴が池上線である。東急線ではある、本線は東横線である。こちらの線には各駅ごとに東急ストアがある。が、池上線にはない、東から順にスーパーの名を言うと長原駅は、オリンピック、洗足池駅は、トップ、石川台駅はピーコック、雪が谷大塚は、オオゼキである。スーパーの出店風景にローカル感が滲み出ていて興味深い。

 石川台駅には希望ヶ丘商店街がある。キャッチは、「未来をみつめてウィルビーロード」である。今は歩きでいくが、自転車時代からよく通る街だ。
「なんかここもすっかり寂れてしまいましたね」
 数ヶ月前だ、会員の川口信さんに出会った。彼の家は近い、洗足池でもよく彼にあった。この頃は姿を見かけない、どうしたろうか?

 昨日は、洗足池まで行った。私が歩く範囲でもっとも風光明媚なところは洗足池である。東横線学芸大学そばの碑文谷弁天池もよく通る。この間、ここに切り刻んだ死体を池に捨てた若い男がいた。池の亀が肉片を食っていたと。捨てられたみどり亀がうようよいる。亀の天国は、どぶ臭く、かつ閉塞感がある。ボートに乗るなら、何といっても洗足池だ。

 地理的には南から順に大田区、目黒区、世田谷区となる。開けたのは南部が先だ。文学の舞台としてもここは明治期の作品に出てくる。一番驚いたのは、明治四十年六月に発表された江見水蔭の『蛇窪の踏切』である。何とこの書き出しは「洗足小池」から始まる。

 主人公は露代、姉が洗足池に別荘を持っていて、そこを訪ね、助力を乞うがけんもほろろ、この露代、結核を患っていた、大池、小池からは品川道の稲毛道があって道なりにいけば東海道線にぶつかる。ここの踏切で自死するという話だ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(4)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月10日

下北沢X物語(3175)〜廣部谿香園の謎供

DSCN0001(一)荏原は都鄙境にある、都市辺境の物語が幾万、億万も埋まっている。常日頃、ここを逍遙して歩いている。朽ち果てた邸宅があったり、思いがけずかつてのままの武蔵野が残っていたりする。街区街区に物語が刻まれているが人は忘れる。主人が若い妻を猟銃殺害した事件があった、田園調布。長尾よねが近衛文麿首相に青酸カリを渡したところ、深沢。終戦の詔を清書した若林の邸宅。元連合艦隊司令長官の旧居、下馬。至るところに物語りが編まれた場がある、しかし、それらは朽ち果てていくだけだ。それが都会だ。


 廣部谿香園の場所は、見当がついた。が、これは何だったのか分からない。大事なことは現場である。そこがどうなっているのか観察すると見えないものが見えてくる。この場所を知ったとき直感的に淀橋台物語の一環だと推理した。

 目黒川左岸崖線の物語だ。ここは淀橋台から派生した台地が高度を保ちながら南部御殿山方向へと流れている。この尾根筋の高みを活用して三田用水が流れている。目黒川左岸の崖線は険しい。この坂を上る道は何れも険しい、昔から難儀した坂がある。

 地形は険しく坂など上るには難儀する、が、この高みこそは得がたい眺望である。丘上には豪壮な邸宅がある。眺望絶佳、遙か向こうには神々しい富士の姿も眺められる。ここの丘上は高級マンションや邸宅が建ち並んでいる。

 昨日、目黒の自宅から現場まで歩いた。まずは駒沢通りを通って目黒台を抜けていく。この大地はフラットだ。が、目黒川を渡ると左岸崖線は急峻だ。北から派生してきた淀橋台が崖を作っている。急斜面はだいぶ開発されたがおおくそこには緑が残っている。廣部谿香園の名前は、この地形にこそヒントがある。

 続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年12月09日

下北沢X物語(3174)〜廣部谿香園の謎?〜

DSCN0002(一)これまでにない大きなうねりが我々を襲っている。既存の価値観、あるいは体制がこれによって揺らいでいる。ネットが既存の垣根を壊したことも大きい。誰もがネットを通して容易に情報を得られるようになった。自分のデスクの向こうにいる人と瞬時に繋がって新しい発見に結び付く。自身、十二年に亘るブログ発信で多くの情報を得てきた。隠れていた情報を幾つも掘り起こしてきた。近代戦争史の一ページが開かれもした。

 当方のブログ名は、「東京荏原都市物語資料館」である。自身はちょうど旧荏原郡の真ん中に住んでいる。南へ行けば大田区、品川区、一昨日はこの方面だった。昨日は北の世田谷区だ、そして今日は自区、目黒区の東に行った。足で地形を確認するためである。

 発端はメールで寄せられた情報からだ。新井真理子さんという方からだ。

 初めまして。
神奈川県在住の新井と申します。
祖父の備忘録的な手記が父の遺品にありました。
昭和六年頃の箇所に、中目黒二丁目392番地の廣部谿香園という名称が出てきます。
廣部銀行関係者が所有した施設か何か、かと思いますが、何かご存知でしょうか?
もし、お心当たりがございます場合、ご一報頂けますと幸いです。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます


これに関しての情報は何も持ち合わせていない。が、住所からすると目黒川の左岸である。いわゆる淀橋台の尾根筋が南に延びているがその中腹辺りらしい。尾根上には三田用水が流れていた。この辺り詳しいのは、きむらたかしさんである。それでこのメールを彼に転送した。いわば丸投げである。

するとたちまちに応答が返ってくる。一つは、当該番地の古地図である。そして解説も。

 たまたま手許にある3000分の1の範囲なのですが、中目黒駅の南、三田用水の崖下のごく普通の住宅地、やや庭の広い建物があるようですが、それ以上の情報の記載はありません。なお、広部銀行は昭和4年廃業のようです。


この頃思うのは、「きむらたかし力」である、私自身は主観主義、が、彼は徹底した実証主義である。得がたい人である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化