2022年09月26日

下北沢X物語(4555)―野沢水車の謎―

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(一)深沢秋山家を訪問して驚いた。何と別棟の応接室の壁に大きな水車が掛かっていたからだ。「どこの水車ですか?」「野沢水車のです」と秋山光男さん。ここの水車の経営に関わっていたからだとのこと。が、これがうまくのみ込めない。どうして秋山家に水車が置かれているのか?謎だった。秋山家訪問時に同行された当会会長の谷亀さんから情報を得た。水車経営者の一覧だ、所有者は「深沢371 谷岡慶治」とある。秋山家の名はない。謎は深まった。それで調べることにした。

以前に野沢水車のことは調べたことがある。検索で調べてみると2007年02月15日の「荏原南北ペダル漂泊行(2)」に記述があった。もう15年前のことである。

鶴ヶ久保公園の南東、700m余りのところだ。野沢3丁目10番である。品川用水の流れを利用した「荏原最大の水車」があった。そこに手書きの案内図がある。「川の流れを利用した工業で精米麦製粉として水車が有った。野沢水車は荏原最大で明治14年から大正末まで営まれた。水輪の直径5m石臼6個杵20本落差を利用した上がけ式水車建物22m×13mと云う大きな『カヤ』屋根の建物であった。」

ここに記した案内図は今もある。確か詳しい解説もあった。行けばきっと手がかりを得られるだろうと思った。水車は品川用水の流れを活用している。

 品川用水は、多摩郡境村(現武蔵野市境)の分水口から玉川用水から別れて荏原台上を流れていく。尾根筋を通っていた用水は野沢3丁目で左折して南東方向に進路を変える。荏原台の台地を降りて目黒台方向に流路を変える。いわば最大斜度がここで得られる。そのことからここに野沢水車を作った。

 現場を訪れるに限る。が、品川用水の水路跡は今はほとんど残っていない。それでも流路はほとんどが道として使われている。そこを辿ってみる。野沢龍雲寺バス停から南に向かう。すると野沢交番前で南東に向かう道がある。下り坂だ、ここが荏原台を降りていく傾斜である、用水の流路跡だ。その坂を下ると降りるとバス停がある、水車橋だ。ここの脇に私製の看板が建っている。

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2022年09月24日

下北沢X物語(4554)―池上線の電車好き少年にまた会った―

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(一)今日の昼間、雪谷大塚で少年と出会った。もう何回目だろう?。これまで複数回出会っている。先々週、久方振りに出会った。きっとその時の記憶があるのだろう、今日は会ったとたん手を振ってきた、ちゃんと覚えてくれていたようだ。少年はいつも同じ場所に陣取っている。雪が谷大塚を出ると線路は左カーブする。その途中の鉄柵のところが定点ポジションだ。そこで電車を見ては手を振ったり、アウアウと言ったりしている。近づくとその声が聞こえるのですぐに分かる。今日は、その彼とのコミュニケーションができた。ボディコミュニケーションである。彼は何度も何度も私の背中にタッチしては引っ込み線で起こるドラマを一つ一つ教えてくれた。少年はここで展開される電車ドラマをみな知っているようだ。

 雪谷大塚構内には、雪が谷検車区がある。(写真)東急電鉄の車両基地である。池上線・東急多摩川線の全車両がここに所属する。世田谷線の車輌は、ここ雪が谷検車区上町班が担当しているという。

 雪が谷検車区構内には屋根付きの検査場が二線ある。洗浄器一台、車両洗浄線が二線ある。敷地面積は、8,980m2 で、建物面積は 2,030m2だという。最大留置車両数:二十四編成七十二両だという。終電後、通常時は二十三編成が留め置かれるという。

 電車好き少年にとってはたまらない場所だ、池上線の上下線の行き交い、そして引き込み線に出たり入ったりする電車が見られる。少年はいつも好ポジションを占めていて、電車到来を道行く人に、アウアウと教えては喜んでいる。

(二)
 彼と出会うといつも一緒に電車を眺める。上りが来ても、下りが来ても教えてくれる。電車到来は警報器が教えてくもくれる。電車観望場所の下手、久が原側と上手、雪大塚側にこれがあって鐘が鳴ると同時に赤いランプが点滅する。上り下りの往来はこれによって感知ができる。

 ところがここ検車区では別の動きがある。その一部始終を彼に教えてもらった。
まず、構内の留置線の運転席に朱色の作業服を着た人が乗り込む。するとそれを少年が教えてくれる。何かが始まるらしいがよくはわからない。
 つぎに運転席の小窓が閉まった。
「アウアウ」と彼は指さす。
 やや間があって電車がゆっくりと動き出す。すると雪谷大塚側の踏切が鳴りはじめる。電車はゆっくりとカタンカタンと走っていく、そして駅ホーム方向に消えた。そして、少し間があって車庫側の黄色い回転灯が点いた、彼はさっそくに私の肩に手をおいてアウアウとこれを知らせてくれる。

 これがドラマの始まりだった。やがて駅側にいた電車が引き込み線に入ってくる。留置線を変えて別線に入ってきた。
「ああ、そうか洗車線に入ってくるんだね、電車のお風呂だ」
 そういうと彼はアウアウアウと言って喜んだ。私は少年と秘密を分け合ったような気がした。
 やがて電車が進入してくる。洗車場に入るときに停まった、そしてゆっくりと洗車場に入る。とたんに水しぶきが電車にかかる。
 彼はそれを見て指さしてよろこぶ、思い通りの展開になったことが嬉しいのだろう。
「お風呂にやっと入れたね!」
「アウアウ、そうそう」と彼は相づちを打った。
 秘密のコミュニケーションが成り立ったようで私も嬉しかった。

(三)
 私は散歩の途中だった、いつもそうだが、時が経つと、「さて、こうしてばかりはいられない」と思いもする。それで少年に
「また会おうね、いろいろと教えてくれてありがとう」
「アウアウ」と彼は応えた。
 雪谷大塚に向かおうとすると一人の女性が誰かに合図をしている。手で〇を作っている、なんと少年に合図を送っていた。彼のお母さんだったのだ。
「相手をしてくださってありがとうございます」
 彼女は礼をいい頭を下げた。どうやら我らの様子を見ていたようだ。後ろを振り返ると小走りに彼は駆けてきた。

 一切がのみ込めた、お母さんはすぐそこのスーパーオオゼキで買い物していたようだ。どうやらお母さんが買い物をしているときに電車見物ができるらしい。彼女のサインは買い物の終わりの合図だったのだ。
 前にチラリとこのお母さん見かけたことがある、少年に向かってしきりに話しかけていた。「うんうん」と言いながら彼は母に寄り添っていた、その場面が思い出された。(了)




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2022年09月23日

下北沢X物語(4553)―野砲兵の軍馬のゆくえ?―

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(一)三軒茶屋に残る旧軍の痕跡を巡った。もう十数回、戦跡歩きは行ってきた、が、全く欠落していたことは馬たちの行方だ。下馬に残存する馬魂碑は昭和十四年十二月に建立されている。これには「野砲兵第一連隊留守部隊長」の名が刻まれている。本隊の方はソ連国境満蒙に派兵されていた。最前線は悪路だ、砲兵隊に馬は必須だった。人馬ともに海を渡っている。さらに戦争末期になって戦況が悪化すると満州に派遣されていた部隊が南方戦線へ転進させられていた。野砲兵第一連隊はレイテに送られた、大陸から南方へは海路を行く、輸送船での軍馬の移動は困難で数が制限されていた。それでも馬も渡っている。レイテに何頭送られたか分からない。が、大陸から沖縄に移駐した野砲兵は馬を帯同している。その馬たちの末路は哀れだ、馬は悪路を克服する戦力だったが、食糧が不足する沖縄では馬肉として食われてしまっていた。

 戦争の真実はわからないことが多い。我らもフィールドワークを通して多くのことを知った。今になって考えると馬の行方を考える事実を把握していた。以前のブログに記録があった。

駒沢練兵場の東南隅の下馬寄りに、鉄道貨車に馬を乗せる訓練のために、鉄道貨車二両が置かれ、乗せ降ろしの訓練が行われていた。(「しもうま」下馬史跡保存会発行)

 これは「石橋楼覚書」にも、「下馬寄りにはどこにも繋がっていない線路とプラットホームがあり、軍馬を積み込むためのデリック(起重機)と貨車が訓練用に設けられていました。」とほぼ同内容のことが記されていた。

 練兵場では貨車へ馬を乗せ降ろしの訓練をしていた。そのためのプラットホームがあり、また、家畜車が二両用意されていたという。貨車記号は「ヨ」だったのだろうか。家畜車は車体がすかし張りになっている。かつて、ホームに停まったそれからは牛の目や鼻を見たことがある。


野砲兵各隊に配置されていた馬は、いわば仮寓に置かれたものたちだ、派遣が決まると人馬ともども当地を離れた。最寄り駅は渋谷か恵比寿だ、いずれも貨物線、引き込み線があった。港は様々だ、芝浦、宇品、新潟などがあった。

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2022年09月21日

下北沢X物語(4552)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる 3―

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(一)三軒茶屋は軍都だった、往時は三つの兵営がひしめき、各隊のラッパが入り乱れて鳴っていた。が、その痕跡はわずかだ、韓国会館の建物と馬魂碑ぐらいである。今回これが重要であることを知った。当地には近衛野砲兵連隊、第一野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊がいた。この中で第一野砲兵連隊はレイテで全滅している。近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊の碑は建てられている。が、全滅すれば碑を建てる人もいなくなる。当地に辛うじて残った建物と碑は彼等の存在を遺すものだ。第一野砲兵連隊は意図的に冷や飯を食わされた、まずは北満のソ連国境防備に就かされ、一転昭和十九年に南方派遣を命ぜられ彼のレイテ島に征かされほぼ全滅している。冷遇の因は226事件に加わったことから来ている。

 我らは三連隊の痕跡を巡った、近衛野砲兵連隊、第一野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊、それぞれの跡だ、各隊生死を分ける苦難があった。それでも生き残った者がいれば碑が建つ、が、皆が死ねば碑は建たない。

 三隊のうち一隊はレイテで全滅し戦後当地に碑は建っていない。それは第一野砲兵連隊である。近衛野砲兵連隊跡は昭和女子大に碑が建っている。当地には自衛隊三宿駐屯地がある。ここには立派な近衛野砲兵連隊記念碑と野戦重砲兵第八聯隊碑が建っている。弔う者がいなければ碑は建たない、悲劇である。レイテで玉砕したのは第一野砲兵連隊である。が、皮肉である。今も建物があり、馬魂碑がある、これは第一野砲兵連隊関係のものである。ゆえにこの二つの残存物は重要である。

 昭和女子大を跡にして韓国会館に行く、唯一現存する兵営である。当地に残っていた旧兵営はことごとく壊された。辛うじて残っているのが韓国会館の建物だ。
案内者の上田暁さん、当日配布した資料にこれを記述している。

 馬の鞍を作る工場だった。
 建物は洋式小屋組木造トラス瓦葺き屋根。外壁はドイツ下見張り。軒裏のモールディングに注目。
 
 〇野砲兵第一連隊の碑が日本にない事と隊長熊川大佐の敵前離脱の関連。
レイテ島リモン峠には砲一会が設けた鎮魂の碑がある。


韓国会館の現存建物は半分は使われているが、後半分は朽ちるままだ。野砲兵第一聯隊の痕跡は日本にはなにもない。保存すべきだ。
 上田さんの言う熊川大佐離脱は、当隊はリモン峠に取り残された。「12月6日には完全に孤立してしまい、連隊長熊川致長大佐以下の残兵は独断で西方山地に脱出しました」とネットにはある。
砲一会は、かろうじて残った者たちで結成されたようだ。仲間の霊を弔おうと苦心して慰霊碑を建てた。これにはこう刻まれている。

 日本陸軍最古の栄誉に輝く野砲兵第1聨隊は太平洋戦争に於いてレイテ決戦に参加し勇戦敢斗の末聨隊長以下カンギポット山麓に玉砕した
本決戦最大の激戦地リモン峠周辺第1師団の戦斗に際し聨隊主力の陣地であった此の地を砲一台と名付け碑を祀り鎮魂の祈りを捧げると共に日比親善と世界平和の礎石たらしめんとするものである

昭和57年11月建之 砲一会

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2022年09月20日

下北沢X物語(4551)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる 2―

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(一)北白川宮家は不運の宮家だ、ゆかりの樹木が昭和女子大構内にあった。この17日訪れると跡形もなく消えていた。老齢木は菌に冒されやむなく伐り倒したとのこと。このヒマラヤ杉は北白川宮成久王殿下と奥方の明治天皇の皇女周宮房子内親王殿下とがお手植えをされたものだ。成久王殿下は、1923年(大正12年)フランスで自動車事故で亡くなる。成久王の第一皇子は、北白川宮永久王である、陸軍砲兵大尉として近衛野砲兵連隊に勤務していた。やがて蒙疆方面へ出征をしたが、演習中に航空事故に巻き込まれ1940年(昭和15年)3月殉職されている。1956(昭和31年)に永久王を偲んでの集まりがあり、ヒマラヤ杉を背景にして参会者全員と北白川宮皇族とが一堂に会して記念の写真を撮った。ヒマラヤ杉の最高の晴れ舞台であった。

 北白川宮永久王は宮家の若きプリンス、その妃は男爵徳川義恕の次女祥子、評判の美女である。彼の急逝は全国の高等女学校の才女たちを嘆かせた。その彼女たちの多くの思いを三十一文字に編んで載せた。『仰徳集』である。涙ながらに死を悼む高女生の作品群が溢れるほどに載っている。

 貴公子は居宅に近い品川駅から列車に乗った。旧友が駆けつけ、その折の心情を詠んだ。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

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 偶然これを息子さんが見つけられコメントしてこられた。
 
 私は上記の糸賀公一の息子です。父は現在体が不自由で介護施設に入居していますが存命です。
 北白川宮さまとは陸大の同期と言っておりましたので、間違い無いと思います。記憶はまだしっかりしていますので、この記事を知らせてやろうと思っています。懐かしく思い出し元気を出してくれると思います。ありがとうございました。
Posted by 糸賀成三 2009年12月31日 13:24


続いてこの顛末だ、

  昨日この記事をコピーして父に会って来ました。大変喜び、こうして情報を提供していただきました皆様に、くれぐれもお礼をと言うことで、再度ご連絡を致しました。
さすがに高齢ですので(98歳)自分の詠んだ歌の文言までは憶えていないようでしたが、品川の宮邸に何度かお邪魔した事、また運動会があった事など思い出したようです。
蒙彊の地でご逝去された時には父は、東京から出張のおり現地に伺ったと、話して居りました。また宮様は演習中に自国の飛行機に突っ込まれて亡くなられ、宮様の父君、祖父君もいずれも不慮の死に遭われていたので、宮様自身日ごろから、注意されていたにもかかわらず、あのような事になってしまって、あの無念さは忘れられないと言って涙ぐんでいました。
 日ごろは単調な療養生活ですが、父はこの記事は何度も私に読んでくれるように要求し、昨日は思いがけず充実した日となった事でしょう。ありがとうございました。
Posted by 糸賀成三 2010年01月12日 14:23
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2022年09月18日

下北沢X物語(4550)―三軒茶屋の戦跡を訪ねる ―

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(一)三軒茶屋は軍都だった、が、ことごとくその痕跡は消えてしまった。わずかに残った跡を皆で歩いた。当地で息づいていた兵士や軍馬、その面影を巡っての追悼の旅である。まず近衛野砲兵連隊跡である昭和女子大学構内を訪ねた。が、異変に気づいた。「景色が変わった!」、何と大学のシンボルツリーが無くなっていたことだ。それはヒマラヤ杉である。北白川宮成久王殿下と明治天皇の皇女、周宮房子内親王殿下のお手植えのものだ。戦友会盛んな頃、この樹木をバックに記念撮影をしていた。ゆかりの皇族も写っている。前列真ん中に美貌の女性、成久王の御子息永久王の奥方だ。王は近衛野砲兵連隊中隊長としてここに務めていた。が、蒙疆方面へ出征中不慮の事故で亡くなられた。その奥方が祥子殿下である。三島由紀夫の短編「玉刻春」に彼女の容貌の子細な描写がある。三島の初恋の人だった。昭和女子大、ヒマラヤ杉物語の一端である。(昨日17日実施案内者 上田暁さん)

 このヒマラヤ杉、クリスマスシーズンにはイルミネーションで飾られていた。若い女子学生がこの木の下を、友だちと恋バナを語りながら通り過ぎていった。

 自身には欠落感が生じていた。皇室縁のお手植えのヒマラヤ杉ということを発見したのは私であった。きっかけは、『近衛陸軍砲兵二等兵』(門屋 古寿 昭和五十三年刊)にこのヒマラヤ杉について書かれていたからだ。

 門屋二等兵が、この連隊に入営したときに営内の説明を受けている。そこにつぎのようなくだりがあった。

「休んだままで聞け。あそこのヒマラヤ杉(連隊本部前の営庭に、一本の大きなヒマラヤ杉がある。これは北白川宮成久王殿下と、ご結婚遊ばされた、明治天皇の皇女、周宮房子(かねのみやふさこ)内親王殿下、お手植えのものである)にむかって、あれが、第二中隊の起点。」

 近衛野砲兵連隊は誉れ高い部隊である。天皇をお守りする役目を持った隊だ。兵営のシンボルがこのお手植えのヒマラヤ杉だった。このことを記した門屋古寿氏は、昭和十四年(1939)一月十日入営している。

 昭和女子大構内のヒマラヤ杉がなぜお手植えのものと分かったか。昭和30年代、戦友会で集まったときこの杉の前で記念写真を撮っていること。その樹形が残存杉と一致したからである。
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2022年09月17日

下北沢X物語(4549)―世田谷の旧家訪問:深沢秋山光男邸 ―

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(一)呑川源流部の支流の一つが秋山家の庭に流れている。この川は地味な川である、が、指折り数えてみるとこのほとりに住み始めてもう半世紀は経っていた。何十年とつきあってきた川である、家を出て西に向かうとすぐに深沢だ、今は歩きが中心だ、一昨日深沢図書館に珍しく自転車で行った、川を遡行していくのだがその斜度が負荷として感じられた。ところが帰りは自転車は滑るように走った。川の勾配が身にしみて感じられた。以前、上流部で大雨が降った。その川の水が一気に流れていった。下流の大田区では晴れていたが、このときに呑川の工事をしていた人が溺れ死ぬことがあった。このことから川は急流であることを知った。そう言えば五十年前七夕の笹を何人もが川に投げ捨てていた。色あせた短冊がずっと残っていたことを思い出す。

 秋山家の森は今でも残存している。かつて武蔵野と言われた雑木林は各所にあった。ほとんどが消滅してしまったが秋山の森は武蔵野を彷彿させるこんもりとした木々が残っている。が、武蔵野というのはいわゆる自然林ではない。造成林である。

 秋山家に近い深沢八丁目に住んでいた荒木進さんが記録を残している。『昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり』非売品 1991年刊)に近隣に残っていた森について書き記している。

 自然といっても原始的なものではなく、人間の営みに関わり合いながら、なお天然の純朴さを保っていた自然といえようか。植生には暖地のような猛々しさがなく、寒地の如く単純でもない。その風物には粗野でもなく人工的でもない自然の優美さがあり、繊細で一脈の抒情性が漂っていた。それが私の味わった武蔵野の風趣であり、全国的に類例のない貴重な存在だったと思う。その趣は私の家の近辺にも多く残っていた。村境の辺地だったかもしれない。

 深沢界隈には趣のある雑木林が多く残っていたという、が、今は秋山の森だけである。深沢の土地の文化観を「村境の辺地」だと比喩的に述べているが正鵠を得ている。

 深沢は高級住宅地である、一戸の敷地面積が広く緑が多い。住環境として申し分ない。が、静寂が保たれているのは環境がいいからである、が、好環境と便利さは比例しない。交通環境的には不便である。代わりにバスが走っている。自由が丘行きの東急デマンドバスは頻繁に走っている。

 秋山家の森だが、眼についたのは欅だ、黒松もあった、赤松も樫もあるはずだ。
この秋山家は「元和から寛永年間に烏山の秋山喜兵衛から分家し、深沢に移った」といわれる。約400年近くこの地に居を構えていた。屋敷を囲む植生は家を保たせるためのものでもある。欅は家の材となった。これで臼も作った。人工的に造成された森が生活に結びついていた。
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(三)
 秋山家には離れに応接間があった。何とその壁に水車が飾ってあった。
「野沢水車で使っていたものです」
「えっ、野沢水車ですか!」
 荏原郡最大の八連水車である。
「なぜ、ここにあるのですか?」
「水車組合に関係していたと思うのですよ」と秋山さん。

 谷亀冢困気鵑送ってくれた資料によると設置許可は明治29年に下りている。
杵はなんと48本もある、荏原最大と言われる由縁だ。
 経営者の名が記されている「深沢371 谷岡慶二」とある。谷岡は深沢城の末裔、やはり大地主である。
 
世田谷区野沢にあった「野沢水車」は八連水車、直径 5mもある大きなのもあった。明治 15年に設置され大正時代の終わりまで使用されたとある。
 相当な投資がなければ経営は難しい、谷岡慶二氏は、同じ域内の大地主秋山家に出資を願ったのではないだろうか。それでその残存物が秋山家にはある。
(写真は、秋山邸に保存されている野沢水車。写真下、世田谷代田駅前にドラマ撮影用に模擬バス停が造られたとのこと、谷亀冢沙當鷆 


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2022年09月15日

下北沢X物語(4548)―世田谷の旧家訪問:深沢秋山光男邸 2―

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(一)興味深い話を聞いた。戦時中のことである。三軒茶屋周辺には野砲兵連隊が三つもあって数多くの厩舎があった。昭和20年、厩舎が爆撃機に狙われるという危険があった。それで馬を郊外に避難させた。選ばれた一つが秋山の森だった。相当な数の馬たちがここに避難してきたそうだ。馬たちは森陰を宿とした。急なことであり飼葉の手当は十分ではなかった。きっと馬たちは腹を空かせたに違いない、馬たちは木々の葉っぱをぱくりぱくりと食べたらしい、「木々は軍馬に食われてはげ山になりにけり」。とはいうものの深沢と軍馬の結びつきは深いものがあった。この深沢は実はタケノコの名産地で市場では、「深沢タケノコ」はブランドで高い値がついた。

深沢一帯は竹山が多くあった。土質が竹にあっていた。食べる竹としてだけではなく、見た目の美しさをここに住んだ文化人は誉め讃えている。つぎに紹介するのは「竹」という題のエッセイだ、作者は宮本百合子である。

 今住んでいる新町へ去年の五月見に来た時、彼方あっちこっちにある竹やぶの中を歩き、こうまで美に溢れているものかと驚いた。いつくと猶しみじみとそのさわやかさ、優美さ、特に夏の晴れた青空があいをはきよせたように濃やかな細葉のすき間にたたえられた調子など愛を感じる。朝、白い蚊帳の中に横たわってその戦ぎをながめる、ほとんど音楽が流れているようだ。 〔一九二六年八月〕
宮本百合子全集 第十七巻 新日本出版社 1981年刊


新町は、駒沢新町のことだ深沢に隣接している。秋山の森はここのすぐ東側である。 文学者は竹の林の美を誉め讃えた。

 しかし、この竹山を維持するのは大変であった。絶えざる手入れが必要だった。もっとも大事なのが施肥である。これが軍馬と関係してくる。

 深沢がタケノコの名産地になった理由の一つには、三宿から下馬にかけて二千頭もの軍馬がいて大量のボロが(馬の糞やねわら)が出て、これをもらいうけていたことによるものです。 「ふるさと世田谷を語る」 深沢ほか 世田谷区 2003年刊

練兵場の軍馬と深沢のタケノコは深い関係があった。

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2022年09月14日

下北沢X物語(4547)―世田谷の旧家訪問:深沢秋山光男邸―

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(一)知るは領るとも書く、旧家の当主は代々帝王学を密かに教わっているのではないかと思う。土地の隅々の逸話をよく知っておられる、「あそこ真中は真井家と中村家の名を取って真中としたが秋山家も一角を占めていたのだがな……」と。「あの真中の裏道は不思議ですね、野沢に抜けていく二間道」と言うと、「ああ、あれは本芝道ね」と答えが返ってくる。最近知ったばかりの古道だ、深沢に隣接する衾村が芝の増上寺の御魂屋領であった。村民が将軍の墓の掃苔に行くときに使ったという。深沢秋山家は大地主、逸話もスケールが大きい、用賀の飯田邸に続き世田谷の地主巡り第二弾として当会会長の谷亀冢困気鵑硲隠夏秋山邸に伺った。
 
 世田谷は広大である、が、当地各村は日本橋との距離で位置付けられる、〔日本橋ヨリ三里半〕(東京府資志料 明治7年)とあり、地勢は〔大概平坦ニテ高キ方ナリ」とある。丘陵地帯で高い、これは荏原台のことを指す。千歳船橋近辺を根付けとするならここから半島上の台地が目黒区まで続いている。
 この近辺、住まいがあることから歩き尽くしている。
「自分では深沢半島と言っていますが、なかなか理解はできませんね」
 それでも大体がフラット、平坦である。先だって伺った用賀の飯田家の当主は「水」がポイントと言われた。深沢は陸地に深く食い込んだ沢だと言える、この沢は呑川である。

 秋山家の森は今でも深い。敷地内に川が流れている。呑川源流域でもある。
「昔はね、この川でウナギが採れたんですよ」
 秋山家十四代目当主の秋山さんが言われる。
「エッ、ウナギですか!」
「驚きですね、北から来たのでしょうか、南から北のでしょうか?」
 実はこの秋山家の川は北にいくと品川用水にぶつかる。
「面白い話がありまして、三田用水は恵比寿まで流れていってビール壜の洗浄水に使われていました。工場の休み時間になると籠にかかったウナギを捕りだして焼いて食っていたという話を聞いたのですよ。壮大なロマンですよね」
 太平洋の深海で生まれたシラスが多摩川に入り込んだ、遡上して羽村の取水口で玉川に入り込んで、さらに北沢の三田用水の取水口に入っちゃって恵比寿ビールでとっ捕まって蒲焼きになってしまったらしいのです。この秋山家のウナギは南から北のでしょうか、北からきたのでしょうか?」
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2022年09月12日

下北沢X物語(4546)―没後80年記念朔太郎展へ向けて―

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(一)一日から朔太郎展が始まる、その活動の一環として昨日11日、詩人とゆかりの深い下北沢を文学館友の会の人と巡った。朔太郎存在の特異性を言い表すのに吉増剛造は「下北沢には至る所に次元の穴が空いている」と述べる。当地における朔太郎存在の痕跡をいうものである。が、下北沢も地下化されて町の様相が一変してしまった。一言でいえば手がかりが希薄化したと言える、次元の穴らしきものはかつての駅、踏切、古い建物の陰、路地裏に至る所に存在していたが、平板化した町ではなかなか穴は見つけられなかった。が、全くないわけではない、彼詩人は「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」(『猫町』)ことの楽しさを言っている。そう彼の言う町は厳然と存在する、次元の穴らしきところを見つけて楽しめばよい。

 旅は駅から始まる、昭和六年九月、「府下世田谷町下北沢新屋敷一〇〇八番地」へ市谷から詩人は越してきた。一家で住むためである。小田原急行鉄道は四年前の昭和二年に開通している。これを気に当地一帯で宅地造成が始まり、貸家や建て売りが多くできた。その貸家に一家は住んだ。

 まずはその場所に行く、もちろん立て替えられていて面影は無い。そこに行って指さしたりしているとお店の人が現れた。いぶかしそうである。
「ここには詩人の萩原朔太郎が住んでいたんですよ。建て替えられてていますが、ここに木造の二階屋があったのですよ」
「えっ!、びっくりです、そんなこと初めて知った」
 彼はそういい昔の木造の家の写真をスマホで撮っていた。

 朔太郎旧居の前が大野さんのお宅だ、だいぶ前に来たときの話だ。
「木造のお宅が壊されるときに萩原葉子さんが来られて写真を撮って行かれましたよ。家からよく見えるものですからこちら側から撮っていかれました」

 新屋敷のこの一角は耕地整理が行われていて比較的大きな家が建っていた。
「私の家は進駐軍から接収されました」
  この一帯は家が米軍に接収されたほどだった。

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2022年09月11日

下北沢X物語(4545)―池上線の電車好き少年―

ダウンロード (2)
(一)電車好きの少年が愛しい。その少年は池上線雪谷大塚の手前の左カーブの鉄柵の二番目に乗って電車を待っている、十四五歳ぐらいの年齢だ。いつも電車を眺めている。来ると手を振る、そして声を上げる。見ているといじらしい、「電車好きなんだねぇ」というとアウアウと答える。彼と出会うといつもしばらくは立ち止まって電車を眺める。すると彼がアウアウと言って教えてくれる、池上線の電車は二種類しかない、7000系と5000系だ、どちらかをひいきにしている訳でもない。どちらがきても全力で手を振っている。どっちが好きなのと聞いてもアウアウと答えるばかり。それでもたまに旧型を模した緑色がくると一段とボルテージを高くして応援する。このときが一番嬉しそうだ。

 散歩に出ると必ず保育園児に出会う、遊歩道や遊園地で遊んでいる。このところ見かけるのは風船遊びだ、保育士さんやお母さんがシャボン玉を創ってはばらまく。ふわりと飛んで行く虹風船が面白いらいい、懸命に追っていっていく。つぎがアリンコ探しだ、小さいアリンコを見つけて飽くことなく観察している。これも微笑ましい。

 が、保育園児には電車がいちばんだ、どこもここも電車観望台は満員だ。
「一番楽なんですよ、電車を見ていればいいんですね、離れていくことはありませんから」
 跨線橋で電車を見ている限りは安全だ。放っておいても興味のある子勉強する。形式や番号まで覚えようとする。鉄ちゃん予備軍だ。

 子どもにとって変化が大事だ、色の違う電車がかる、行き先の違う電車がくる、電車を通して遙かな未来を思うこともある。

 展望台を通過していく電車運転士はサービスがよい、子どもをみつけるとタイフォンを鳴らしてくれる。

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2022年09月09日

下北沢X物語(4544)―国鉄詩集を求めて東奔西走 4―

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(一)国鉄労働組合が活動の一環として国鉄詩人連盟を組織し毎年「国鉄詩集」を出している。その意図は、「われわれは働く者の正しい世界観を把握し詩の革命を行う」(『走行70万キロ 国鉄詩集』のあとがき)と記される。どちらかといえば一般的な汽車詩抒情性が濃厚だ、ここに現場的な実情、労働の苦悩や厳しさを注入することで詩の革命を図ろうとした。実際、「国鉄詩集」を見ると現場職員の生々しい声が描出されている。国鉄詩集は労働詩であるとの気概がある、ゆえに詩一つ一つに汗が臭う。それだけではない、歴史も実感させられる。

(二)
 「走行170万キロ」(国鉄詩人連盟 飯塚書店 一九六七年刊)に載った作品を紹介する。

機関車のいない風景 渡辺 秋哉

灰色の海にうずくまる黒点 機関車
黄昏色の重い城 錆色の鋼鉄の庭
まるで廃港の暗さだ
鋭く冷えた斜光が突き刺さってくるその果
止点軌条
蒸気機関車のいない車庫の虚しい広さだ
―再び蒸気機関車はやって来ないー
夕暮
すべてが乳色の吹雪に染まるとき
その時だけだ
車庫に時間が津波のように帰ってくるのは
おお 七十年の長ったらしい栄光の月日
どでかい鋼鉄の広場よ
かつてこの車庫に息づいた鋼鉄の火車群
獣のように激しくもだえた火車群
獣のように激しく悶えた火車群
そいつらは戦争と生活の重苦しい
きしみの中を
がむしゃらに走り続けたやつらだ
軍隊を曳いた奴 引上列車を曳いたやつ
機関銃でどてっ腹に穴の空いたやつ
あいつは集団移民を運び
爆撃で軽石のようになったやつもあった
あいつらはそれでも走った
焦土の町を
まるぼうずの山腹を
荒れ果てた漁港の浜辺を
D50 D51 C51
たわいものない繰り返しの長い長い
谷の中 黄の中
重い重い歴史の底
日本の天
の下を走り続けたあいつら
知っているー
この古びた蒸気機関車は知っている
あいつらのまるっきり報われなかった
長い長い時間を
七十年 腹に抱いてきたあいつらの
とてつもなく深い悲しみ
その火花歴程をー
ぼろぼろと崩れ落ちる鉄の記憶
おお 濡れにじむ機関車よ
煤けた追憶の壁を洗う氷雨よ
空車庫を突き抜けてゆく鋭い痛み
赤錆の転車台 骨だらけの蛇目傘
入庫線を埋める一面の鉄道所
いきなり叩きつけてくる氷雨
―もう再び機関車をやってこないー
もう思い出すべくもない遠い速さの中で
軌条圏の片隅に昏れる
昼を失った栄光の機関車に
今日も
重なり重なる降る時間

(仙鉄文書課)


 機関車は近代化により不要になった。機関庫にはもう一台もやってくることはない。その栄光の機関車への挽歌だ、兵員を戦場に送り出した。戦争に負けて帰ってきた引き揚げ者を乗せて走った。艦載機に追われながらも走った。タンクには無数の弾痕が空いた。それでも必死に走ってきた。文句を言うこともなく走りつづけ今は廃車になってしまった。
 鉄道の歴史である。

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2022年09月08日

下北沢X物語(4543)―国鉄詩集を求めて東奔西走 3―

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(一)国鉄詩集を求めての旅は果てがない。まず、オークションで逃した「鉄路の歌声」を図書横断検索で引いた、川崎市中原図書館がヒットして、これは閲覧できた。二匹目のどじょう?東京都を当たる、なんと「走行170万キロ 国鉄詩集」が引っ掛かった。が、今度は遠い、足立区の図書館である。最寄り駅は北千住であった。武蔵小杉は近いがこちらは遠い。しかし、幸運なことに電車線、二本で行ける、東横線、日比谷線である。地下鉄の終点が北千住である。と、ふと『奥の細道』を思った。原文に当たる「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふたがりて……」とあった。『奥の細道』の旅への起点だった。芭蕉は遙かな旅を思ってやれやれと思った。電車線二本ぐらいの道のりぐらいを苦にしてはいけない。が、東京を横断するモグラ旅は苦痛だった……

 これまで埋もれた文化を掘り起こしてきた、私が言うところの汽車詩、鉄道詩もその一つである、鉄道の風情を詠んだ詩歌は驚くほどの数がある、俳句、短歌、詩などを会わせると数万は軽く超えるだろう。

 言えば、文学史の中に密かに汽車詩、鉄道詩がジャンルとして存立している。人々が魅力に思ったからこそ作品に描いた。その根源は何だろうか?

 萩原朔太郎に『定本 青猫』がある。これはさし絵を挿入して解説をほどこしている。最初が停車場之圖だ。新橋停車場だ。

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。

詩の根源には旅がある、かつての旅は歩行である、明治近代になって旅の出発点は停車場となった。その旅が始まるところには旅情や郷愁が潜んでいる、それが人を惹きつけた。

この萩原朔太郎は、『秋と漫歩』の中でこう言っている。

公園と停車場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見ていることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐っていることがある。
「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房 1976刊


 雑多な人が集まる停車場、独特の雰囲気がある、とくに待合室だ、旅に行かなくとも旅を味わえる。方言が飛びかうのも情趣がある。それぞれが手荷物を持ち、汽車の時間を待つ。旅人の交差点が停車場であり、駅である。さすらい人が集うところである。
 鉄道にはいたるところに情趣があふれている。詩の材料だ。

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2022年09月06日

下北沢X物語(4542)―国鉄詩集を求めて東奔西走 2―

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(一)小野十三郎の詩集に『蒸気機関車』がある、「吹田操車場」を描いた詩では機関車の溜まりを訪ねる場面がある「なんと、いる。いる。/いたるところもう/俺のあこがれでいっぱいだ。」と描く、川崎市中原図書館で『鉄路のうたごえ』を閲覧する、心がはやる、ページをめくっていく「なんと、いる、いる/いたるところもう/俺の憧れの汽車詩集でいっぱいだ」。「貨車押」、「踏切にて」、「濃霧運転」、「発車」、「出札窓」、「峡を下る」、「吹雪の夜」など目白押しだ。やっと出会えた汽車詩たちに小躍りした。

 オークションでは『鉄路のうたごえ』は落札できなかった。ところが「メルカリ」で検索したところ国鉄詩人連盟に所属する国鉄詩人詩集が五冊出品されていた。これは問題なく落札できた。(うち二冊が写真)

 当方は、汽車詩を手に入れたいということで落札した。が、期待はしなかった。国鉄詩人連盟に所属する詩人が個別に詩を出す。詩は日々の感懐を表すものだ、汽車詩オンパレードではないだろう。そういう予測はあった。

 荷物が届いた、期待して見ていく、が、予想通りだった。汽車詩はなかった。ただ一冊だけ、ローカル線の駅風情を詠んでいる詩があった。その内の一つ「車内」と題された詩は、

誰が落としていったのか
駅前の雪の上に転がっていた塩鯖の頭
島田紫郎詩集 午後 国鉄詩人連盟発行 1972年刊


詩としては面白い惹きつけである。略歴に当人の勤務先が書いてある。美濃白鳥自動車営業所だ、国鉄バスの運転手だろう、ローカル線で職場に通っていたようだ。越美南線であることが想像できた。

 国鉄詩人連盟が発行する「既刊詩集」は五十冊もあった。国鉄詩人連盟に所属する詩人のなんと多いことだ。

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2022年09月05日

下北沢X物語(4541)―国鉄詩集を求めて東奔西走―

国鉄詩集 (2)
(一)鉄道は詩の宝庫であった、が、現今鉄道は詩情を喪失している。/鉄道詩と聞くと心ときめく、この括りは自分が広めたものだ。(「日本鉄道詩紀行」集英社)、ただ鉄道という言葉は即物的だ、語に詩情は感じられない。むしろ汽車の方に情趣を感じる。それで「汽車詩」と言うようにしている。詩と鉄道ということで言えば「国鉄詩集」がある。が、この国鉄はJRになった。言葉の連想で「JR詩集」が浮かぶ。これには全く魅力を感じない。国鉄全盛時代、鉄道は、「一大芸術だ」と豪語していた、鉄道黄金時代だ、その時は鉄道に詩情があった。汽車、停車場、機関車などすべてが詩になった、かつて線路脇を通ると「ヤットン、コラセー、トコショット……」という線路突き固め音頭、詩が聞こえてきた。国鉄時代である。往時、国鉄詩人連盟があって「国鉄詩集」は毎年出されていた、この詩集には現場労働者の苦難が歌われている、今、老いてきて物欲は減じているが、これは欲しい。折良く、ネットオークションに詩集が出ていた。即刻入札したのであったが……

オークションに出ていたのは、つぎである。

<鉄路のうたごえ(国鉄詩集)> 国鉄労働組合文教部 田畑弘 三一書房

これは落札した。1200円だった。どんな汽車詩が載っているのか楽しみだった。ところが出品者から連絡があった。在庫があると思って出品したが、それは無かった、「当方の完全な手落ちです」という連絡が入った。怒り心頭……

 見たいと思ったものが見られない、そうするとよけいに見たいと思う。思いついたのは図書館検索である。これは今は全国検索ができる。東京都にはない、それで順次近県検索を試みる。するとなんと幸運なことに神奈川県にあった。しかも川崎である。ここも数館ある。引っ掛かったのは「中原図書館」である。これも幸運だ、武蔵小杉駅にあるという。自宅からは東急線一本で行ける。しかし、これは近すぎる。

 どうしたかと言うと多摩川駅まで行って、ここからは歩いた。散歩と図書館訪問、一挙両得とはこのことだ。中原街道の多摩川大橋を渡っていく、気持ちよい川風に吹かれて県境を越えたことだ。
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2022年09月03日

下北沢X物語(4540)―特攻隊民謡を記録する―

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(一)特別攻撃隊は各地から出撃した。が、出撃準備をするために滞在を余儀なくされる。そんな中で民間人と接触する機会があった。壮行会も行われた、多くはプライベートなものである。隊員たちは別れるに当たってお礼を述べた、それを即興で歌って披露した。土地のことを歌い、そして人々への感謝の念も述べた。特攻隊民謡である、しかし彼等は死出の旅にでてゆく、特攻隊民謡は各地で密かに歌われたが残らなかった。浅間温泉の一旅館、富貴之湯でもこれが歌われた。当座限りのものでる、なのにこれを一人の疎開学童女児が覚えていて、今日に伝わった。類例のない歌である。

 その特攻隊の名は、と号第三十一飛行隊(武揚隊)である。浅間温泉へはと号第三十二飛行隊(武剋隊)もきている、この二隊は他の二隊、扶揺隊、蒼龍隊とともに満州第二航空軍で発足している。満州新京発足のこの特攻四隊は大本営直属の特攻隊である。それゆえにプライドが高かった。扶揺隊隊歌も作られている。武揚隊隊歌も創られていた。

 1945年3月末日、武揚隊は約40日間を過ごした富貴之湯に別れを告げた、この大広間で壮行会が行われた。富貴之湯は女子の学寮である、他の6館にも分宿していたが、男女ともに富貴之湯の大広間に集まってきた。当館は浅間で一二を争う大旅館であった。
「壮行会が行われたときに『武揚隊隊歌』が歌われたように思うのですが、『命を賭けて契りたる我ら十五の血の朋ぞ』という歌はうたいませんでしたか?」
 秋元さんに聞いたが、覚えていないという。

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2022年09月02日

下北沢X物語(4539)―特別攻撃隊の遺言を伝承する―

浅間温泉全景
(一)とある特別攻撃隊の歌物語である。1945年3月末、出撃していく特攻隊がお世話になったお礼にと彼等が即興で作った歌を並み居る学童たちの前で披露した。出撃すれば消えてなくなる、それは一晩限りの歌だった。ところが、浅間温泉に疎開していた疎開学童が偶然にもその歌を記憶していた。この逸話を聞き知ったのが歌手の寺尾紗穂さんだ。古い湯治場である温泉、ここの文化を再興しようと「ユアリテ」、湯が湧かす藝 湯を沸かす藝という切り込みで地域の文化を伝承しようとしている。この活動に加わっているのが彼女だ。今年1月、記憶者の秋元佳子さんを一緒に尋ねた。さらに浅間地域の文化を映像で記録している三好大輔さんがこの話に興味を持ち、映像で残すことになり、この29日に中野に住んで居る秋元佳子さんを寺尾さん、三好さん、私が訪ね、その証言を聞き取った。これは映像で記録され、今年末に浅間温泉で行われるイベントで紹介されるという。

 戦時中、浅間温泉には世田谷から7校の学童が疎開した。これの調査の過程で代沢国民学校の学童と特攻隊員とがふれ合っていることを偶然に知った。一つあれば二つある、信念の調査は始まった。結果として7校のうち六校の学童たちが特攻隊員たちとふれ合っていた。陸軍松本飛行場に飛来してきた特攻隊員たちの多くが浅間温泉に泊まっていた。

 今でこそ分かっている、が、調査は一筋縄ではいかなかった。紆余曲折を経て事実は解明された。まずは代沢校だった。ところが一校目から二校目へはなかなかつながらない。あらかじめ情報は得ていた。

 代沢校の一部は、特攻隊と交流があった。旅館千代の湯組は先生から『鉛筆部隊』と名づけられていた。この子どもたちに特攻隊員が出撃前に「鉛筆部隊の諸君へ」というメッセージを前線から送ってきた。一通は、代筆だった。これが大きな手がかりとなった。

自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹です。富貴之湯に泊まっていました。

 この手紙から知ったのは富貴之湯に武揚隊がいたことだ。当時浅間温泉は疎開学童で占められていた。同旅館にも疎開学童がいたはずだ。これは記録で容易に確認ができた。この旅館には東大原国民学校の学童が疎開していた。
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2022年08月31日

下北沢X物語(4538)―会報第194号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第194号    
           2022年9月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、三軒茶屋、想い出漫歩 会員 岩城 康男
 
 大宮座という大衆演劇を見せてくれた芝居小屋がありました。記憶は定かではありませんが、昭和30年初めごろまで存在していたのではないかと思うのです。私の叔母が斎藤呉服店(現在の洋服の青山)の裏通りにあった木造アパートの貸間に住んでいました。その叔母に連れられて行ったのが大宮座でした。いまあるみずほ銀行の先を渋谷方面に歩いたところだったと思います。隣に菓子舗(饅頭屋)があり、酒まんじゅうを買ってもらいました。
 大宮座の座長は若葉しげる(野にも山にも若葉が茂るからとったのでは)という人でした。NHKのテレビ番組「それは私です」がありました。初年度の解答者のおひとりに映画監督の山本嘉次郎氏がいました。いつの放送かは忘れましたが、山本氏が登場者に「三軒茶屋に大宮座という芝居小屋があったのを知っていますか」とたずねていました。1960年スタートの番組でしたので、大宮座は1957年、58年頃まであったのではと想像します。
 玉電が走る玉川通りの向かい側には映光社という写真現像店(DPE)がありました。玉川通りから下馬方面へ抜ける栄通りがあります。入ったところに東京都水道局世田谷営業所がありますが、当時この辺りに入院施設を備えた「外塚病院」という民間病院がありました。木造建物、ペンキで塗られた外観がよみがえってきます。骨折で入院した友達のお見舞いに訪れたことがありました。
 次に三茶にあったその当時の映画館について触れてみます。私が子供の頃には三軒茶屋には4つの映画館がありました。世田谷通りのキャロットタワー前あたりで、いまはマンションが立っている付近に三軒茶屋第一映画劇場があり、大映の封切り映画を。少し先のドラッグストアを左折したところには三軒茶屋東映と三軒茶屋中央劇場がありました。中央劇場は松竹映画を上映していました。そして、玉川通りには三軒茶屋映画劇場があり、東宝映画を上映していました。現在は4館とも複合商業施設、マンションに生まれ変わってしまいました。
 もう10年ぐらい前になります。三軒茶屋中央劇場で夕刻から上映の映画を観ました。ここの客席は262あり、ビニール張りの赤い固い椅子でした。夏場で、館内にあるダイキンと書かれた空調機がうなりを上げて力をふり絞っていました。トイレのドアは西部劇の酒場に出てくるウエスタンドアと呼ばれるもので、出入りのたびにパタンパタンと軋む音を立てて開閉していました。デジタル化に逆らうかのようにフィルムを女性技師が回しての映写でした。大映映画を上映していた第一映画劇場では、次の映画までの休憩時間に、藤島桓夫さんの歌謡曲「初めて来た港」という歌を流していました。映画を観に行く時は2才離れた兄と一緒でした。兄は同じ映画を2回、3回も観るマニアで、私たちが帰ってくるのが遅いので、母が心配して迎えに来たこともありました。いま思うと、どこもまったりした昭和を醸し出していました。   

2、映画:「太子堂物語」 きむらけん

 夏休み中に映画「太子堂物語」を観た。
 映画では、一つの逸話を巡って、「この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない」とあった、高圧鉄塔を敷設しようとした東京電灯と地元住民とがぶつかって、農民は「糞尿弾」を投げつけて当局に抵抗した。この運動は功を奏した、地域に起こった大正デモクラシーである。この映画を見ると近代化の波を真っ先に受けていたのは太子堂地区である、村のできはじめが聖徳太子をゆかりとしたことから始まり、地域に聖なる泉が湧いていたことから寺名は円泉寺となったと。
世田谷の中で最も早く近代の洗礼を受けたのは太子堂である。まず村の出来初めだ。

 文禄四年(1595)には阿闍梨法印賢恵和尚が、十一面観音菩薩像と聖徳太子堂像を背負って、大和久米寺から関東に下って、村の民家に一泊したが、そのときに夢に聖徳太子が現れて「この地に霊地あり、円泉ヶ丘という常に霊泉湧き出づ。永くこれに安住せん汝も共にとどまるべし」と告げられたといわれます。
ふるさと世田谷を語る 池尻、三宿、太子堂編 1994年 世田谷区生活文化部

 円泉寺が定められたときの逸話である。宗教的な意義づけである。が、実際は地の利を選んでいる。土地は、いわゆる「根」にあたる。寺の北は台地で谷頭にあって湧水が出ていた。烏山川左岸の崖の根本に位置する。川沿いは水田でその縁は畑で、陸稲を作っていた。寺の周囲に村はできた。生業としたのは農業である。「それ以後栄えたので、村の名を太子堂」とした。この地名伝説が「太子堂物語」の皮切りである。

村の本家筋は、本村を拠点にして農業を営んだ。が、多くを養えるだけの土地はない。それで分家筋は、本村から離れた街道筋に出て生業を営むようになる。
 太子堂の堀江家は好例だ、大山道筋に出て茶屋を営んだ、他の分家も商売を営むようになる。街道筋は江戸との往き来が多くなって賑わっていた。

 映画は、第一部、近代編(57分)、第二部、現代編(76分)からなる。幕末維新から太子堂地区がどのような歴史を歩んでいたかが語られる。
 幕末における黒船来航の騒動が、太子堂まで及んできていた。きっと地元民は、こんな話をしてたのではないか。
 
「黒船が来たときは、もう大変な騒ぎだった、大山街道が荷馬車の列で埋まったものだ、箪笥長持ちなどは立派なものだった。その荷馬車同士がぶつかってな。箪笥長持ちからは色とりどりの着物がこぼれ出た。それは目にも綾な女衆の高価な着物よ……」
 この事件は『世田谷の地名』でも記録されている。

 文久3年(1863)3月29日
 英本国艦隊12隻が、横浜に来航し、昨年8月薩摩藩士が起こした生麦事件につき、20日の期限つきで、賠償と犯人の懲罰を要求して、江戸湾を回遊示威した。江戸市中に戦争が起るの噂がひろまり、武家や物持町人たちは近郊農村の百姓に荷物を預けた。


 大山街道すじは荷車の行列が引きもきらず通った。人々はこれを見て戦争が起こって江戸中は火の海になると噂した。
 太子堂の近辺の倉のある農家は荷物を預かった。その証文が今も残っていると映画では報じていた。
 18年前に観たときは、歴史性や文化性について深く考えることはなかった。しかし、今回再度見なおしてみて感じたことは太子堂や三軒茶屋の地理的好位置だ。ここに主要街道が走っていたことは大事だ。人や物資、それと情報が流れた。言えば当地は、外部情報の感知地点となっていた。重要な情報集積地点であった、実際様々な事件が当地の庄屋だった森家に記録されている。

3、壺井栄『風』の中における太子堂


  まず、壺井繁治と栄は銚子に滞在していた。二人は銚子で結婚を約束し、東京に戻って三宿に新築の二軒長屋を借り、結婚生活をスタートした。期日は大正14年(1925)2月20日。三宿198番地である。
『風』には「太子堂の森のかげに、手ごろな家を見つけ、さっそく家主をたずねて約束した。六畳と三畳二間の二軒長屋が二棟ならんで立っていた」とある。約一月後の4月にこの長屋に引っ越す。隣には林芙美子、近所の床屋の二階に平林たい子が住んでいた。
「太子堂の森かげに移ってきた詩人は、森にあきてひとりずつ去りはじめた。その去り方もまた、一様でなかった。まず扶佐子夫婦が夜逃げをするという。家賃をためていたからでもあるが、それでまた新しい気分にもなれることに期待しているらしく、扶佐子もNもうきうきとしていた。」(『風』)

 三宿、太子堂での文学者たちの生活の一端がよく滲みでている。貧乏で皆苦労していた。
 大正期、文学志望の若い男女は散文作家よりも詩人をめざしていた。詩が彼等をとりこにしていた。そんな詩人の流浪人が三宿や太子堂に住んでいた。

3、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第177回 9月17日(土) 三軒茶屋の戦跡を巡る(ファンド関連行事)
 案内者 上田 暁さん  田園都市線三軒茶屋駅改札前 13時集合
概要:三軒茶屋は軍都であった。昭和女子大構内→現存兵舎(韓国会館)・馬魂碑・野砲兵兵営跡を巡る→「下馬兵舎時代の思い出の地図」の痕跡を辿る→世田谷平和資料館
・昭和女子大構内入構:近衛野砲兵連隊跡、新体祈念碑、河井酔茗詩碑、トルストイ像などの文化的なものも見学する。(これも許可を得た)
・世田谷平和資料館:特別に見学することを申し出て許可を得た。満州国皇帝溥儀から頂いた恩賜の煙草を包んでいた布きれ。これに武剋隊今西修軍曹が疎開学童に「特攻出撃の思いを書いて」贈呈した。これを今回特別に見せてもらう。


第178回 10月15日(土)大山詣
案内者 別宮通孝さん 下北沢駅9時9分発の小田原行快速急行に乗る(最後尾)
 丹沢大山フリーパス切符 下北沢から2470円が便利 
下北沢9:09→9:55伊勢原秦野10:05→10:32大山ケーブル
 まず、ケーブル終点から阿夫利神社下社を見学。ここで休憩を取り、弁当を食べる。そしてケーブルで下りて途中大山寺駅で下車、大山寺参詣、ここからは女坂をゆっくりとくだって大山ケーブルバス停へ向かう。
〇行程は、基本的に電車、バス、ケーブルを利用する。
ケーブル山頂駅から大山山頂を考えていたが、この往復がかなり厳しいとのこと。それで阿夫利神社参拝、大山神社参拝に切り替えました。希望者が4名集まったら行うことにしていますが、すでに希望者は4名おりますので行います。が、天候との関係があります。
雨の場合は、翌日可能ならば順延とします。
*登山ですからしっかりした靴、水筒、弁当、甘味 帽子必須、長袖、雨具

(予告)第179回 11月19日(土)世田谷の尾根を歩く(品川用水)
 案内者 谷亀冢困気鵝陛会会長) 千歳船橋駅改札口 13時集合。
 地形と文化は切り離せない、世田谷の背尾根を歩いて世田谷を知るという試みだ。
 小田急線千歳船橋駅から田園都市線駒沢大学駅まで歩く。
 
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090-3501-7278

■ 編集後記
▲先先号では、「三軒茶屋の歴史文化を巡るシンポジウム」を予告しました。しかし、今、コロナ感染者はあまり減っていません。開催は難しいのではないかと思います。
▲今号は、岩城 康男さんにエッセイを書いていただきました。皆さんもぜひ投稿を。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ


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2022年08月30日

下北沢X物語(4537)―日本汽車詩紀行物語 5―

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(一)消え去ろうとする歴史である、近代日本人の思念を刻んできたのは鉄道の響きである。石川啄木の『一握の砂』には「さいはての駅に下り立ち/雪あかり/寂しき町にあゆみ入りにき」(383)と詠まれている。明治41年1月、最果ての駅釧路に降り立った、職を求めての流浪行だ。有名なこの歌の一つ前は「何事も思ふことなく/日一日/汽車の響きにこころまかせぬ」(382)だ』小樽を発っての道中記、去来する思いは汽車の響きに任せていたという。カタトッテ、トトトッテ、列車が車輪を刻む音を聞きながらの旅だ。彼の思念を刺激したのはこのカダンスである。「いたく汽車に疲れて猶も/きれぎれに思ふは/我の命のいとしさなりき」(378)も一つだ。このカダンスの聞き方は人によってまちまちだ。例えば北海道旅行をした寺田寅彦は、倶知安で買った弁当がまずかった。それでカダンスが「サッポロクッチャン」と聞こえて止まなかったと。

 先号で言いさした田能村秋皐の『車声帆影』である。彼は車音論を語っている。
一言でいえば 「鳥鳴山更幽」だ。

 深閑とした山中にいると鳥の鳴き声が聞こえた、その音が一層に寂しさを増したことだ。

 人はその同類の声にのみ、賑やかみを感ずるものらしい。 かかる場合には、低い話し声や私語(ささやき)や、むしろ無言の笑顔にさえ。 少なからぬ賑やかみを感ずるのが常である。例えば、 同類以外の声は、その声の大きいほど、かえってますます寂しさを感じるのが常である。 例えば無人の境、もしくは多人数がいてもそが皆眠りに落ちている時には、風の音、雨の音、鳥の声、犬の声、車輪の音、機関の響き、皆一層寂寞の感を人の心境に印する。 車聲帆影 読売新聞社 明治三十九年刊

引用文は、田能村秋皐の『車声帆影』だ。小見出しは「騒がしき寂寞」だ、彼は汽車で東海道線、山陽線を下っている。床下から聞こえる音を聞いての鉄道音響論である。

まず汽車に乗っていて車中の人が話をしている。例えその人が知り合い以外の人でなくともよい。その人々の話声、ひそひそ話でもよい、例え笑顔だったとしてもよい。そういう車中の響きについては人は賑やかさを感ずものだと。

 一方、同類以外の声や音については、聞いているとますます寂しさを募らせるという。汽車は走り行く、夜行列車である、深更ともなれば人は寝に就く。彼は寝られずに音を聞いている、占めるのは人語以外の音だ、風の音、雨の音、そして車輪の響き、ガッシャポッポという機関音など、聞いていると一層に寂しくなる、寂しいものに聞こえてくる。

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2022年08月28日

下北沢X物語(4536)―日本汽車詩紀行物語 4―

大森駅カーブ横長
(一)「鉄道は一大芸術である」と言っていた時代が懐かしい。この芸術の一端は音である、機関音を元に曲も創られた。パシフィック231はその例だ。大事なことは人間の情緒に刺激を与えていたのが音であるということだ。機械音が人の心に影響を与えていたことである。この点に深い興味を持つ。森鴎外の作品に『青年』がある、ここに「車ははためきながら、或る小さい停車場を通り抜ける」とある。この音を手がかりにして「小さい停車場」はどこか探したことがある。「汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する」とあるところから候補は絞られる。目星をつけたのは大森だ、荏原南端、段丘が転げ落ちるところだ、駅は片切り通しを走る(写真)、音が反響して聞こえる、「揺れるように鳴り響く」、この音が「青年」の主人公を刺激する。

 汽車の音文学論ではこの人の右に出る人はいない。百鬼園先生、内田百里任△襦
『第一阿房列車』では、「はと」に乗って大坂に行く。

 品川を出て八ツ山のガアド下を過ぎれば、先ずその辺りから汽車は速くなる。座席の椅子のバウンドも申し分ない。 『第一阿房列車』 新潮文庫 2003年刊


 八ツ山は淀橋台の最南端だ、東海道線はここを切り通しで抜ける。とたんに目黒川橋梁にかかる、カタタンと音を立ててここを過ぎると速度を増す。

 『青年』の主人公小泉純一が汽車に乗ったのは新橋、21時発の急行だ、彼は国府津を目指した。新橋のつぎは品川だ。ここを過ぎてやはり汽車は速度を増した。
 主人公は、汽車が発車すると本を取り出した。ところが身が入らない。それで本を閉じる。

 読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。 汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの燈火が、流星のように背後へ走る。忽稍大きい明りが窓に迫って来て、車ははためきながら、或る小さい停車場を通り抜ける。
「青年 」新潮文庫 1998年刊


 荏原南端の段丘の片切り通しを汽車は音を立てて走り抜ける。この場合は下り線である。上り線は段丘に近い、車窓に貝塚をみつけたエドワードモースの話は有名だ。

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2022年08月27日

下北沢X物語(4535)―日本汽車詩紀行物語 3―

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(一)鉄道は文化の宝庫、芸術の源泉であった。鉄道全盛時代の昭和二十七年、国鉄は「日本の鉄道」のキャッチフレーズにこう謳っている「走る機関車、並ぶ車輌、二本のレール―/シグナルも、鉄橋も―鉄道は一大芸術である。/絵にもなる。詩にもなる……」いい時代だった、芸術ジャンルの中でも一番多く造られたのは詩である。鉄道詩や汽車詩である。詩集の中には鉄道を詠んだ詩は数多く残っている。なかんずく多く残っているのは現業職員が描いた詩である。国鉄詩人連盟が結成され、毎年「国鉄詩集」を出している。これらの中に数多くの鉄道詩が載っている。その数は膨大な数になる。鉄道文化の一端として、現業職員による鉄道詩が多く詠まれていた、ここに鉄路との闘いも多く記されている。我々の社会の礎を造った鉄道員の詩は、鉄路との闘いの歴史である。

 前回アップした記事、「日本汽車詩紀行物語 2」にコメントがあった。

 煙や匂いは詩にならないのかな?その昔、北陸本線「北びわこ号」で米原から木之本まで蒸気列車に乗りましたが、音よりも煙の方が印象が強かったです。

 興味深い指摘だ、先に挙げたが、「鉄道は一大芸術である」という。どこを取っても絵になる、鉄道には芸術素材がいくらでも転がっている。窓辺に見た景色一枚でも絵になる。

歌集「心の響 」(福郷笛声 著)「都を去る列車」という連作がある。

夜行車の窓に居よりて遠火事の空の明かり
をさびしみにけり


 汽車旅で描くものは窓辺が中心になる。実は、床下で音が響いている。遠火事を見遣りながら彼は汽車に乗っている、寂しさを際立たせるのは音である。しかし、すべての情報は記されない。五感に即していえばまずは、視覚である、つぎは聴覚である。匂いは三番目にくる。

 鉄道風情は情報が多すぎる、全部は描けないので部分で済ませるという点は大いにある。

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2022年08月25日

下北沢X物語(4534)―日本汽車詩紀行物語 2―

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(一)今年は鉄道開通150年、その歴史が問われている、鉄道を歌った唱歌『汽車』では「遠くに見える村の屋根/近くに見える町の軒」とある、離れ離れになっている村と町とを結びつけるものが鉄道だ。が、今日近代の鉄道は、様相を異にしている。例えば長崎新幹線だ、今秋開通するが在来線と新幹線とが竹を接ぐように結びつけられる。県と県とが断絶している。今、百年前に詠まれた汽車詩を見ているが濃密な繋がりが見える。無名詩人の汽車詩に「遠くみやこにつづいているからさびしい」とある。十八歳の詩人は「寂しい線路」を詠んだ。何を意味するか?一言でいえば、紐帯である、自分は寂しい田舎にいる、ところが、自身が眺めている線路は賑やかな都につながっている、言えば鉄道に対する浪漫である。当時の人々の希望や夢が鉄路に託されていた、その鉄道は今や凋落傾向にある。

 無名詩人の汽車詩を拾い集めている、範囲は明治、大正、昭和である、面白いことにつぎつぎに引っ掛かってくるのは大正時代のものだ。明治から大正に移って人々の思考回路の中に鉄道が確固とした位置を占めるようになったと思える。

 鉄道は文化の源泉である。ゆえに昔から深い興味を持っている。ずっと行ってきたことは、文学典籍から「鉄道」や「汽車」を探していくことだ。「無名詩人の汽車詩」もこの文化探訪で知ったことだ。

 鉄道の中でも最も興味深く思っているのは音である。この間、典籍渉猟をしているときに偶然に知った。明治末年に出された『車声帆影』という紀行文があることを。長年、やってきたことゆえに表題を見ただけで第六感が働く。
 
 「車声」は、車が発する音だ、汽車の音に違いない。そして、「帆影」だ、汽車の音を聞きながらの旅であろう、すると車窓に「帆影」が映って見えてくる、これで鉄道路線が絞られてくる。「山陽本線」に違いなかろう。
 本のページをめくって目次を見る、すると予想どおり、最初に出てくるのは「山陽の煙波」である。車窓からの風光は山陽本線がいいに決まっている。

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2022年08月24日

下北沢X物語(4533)―日本汽車詩紀行物語―

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(一)萩原朔太郎は晩年における心境を『旅への誘いが、次第に私の空想から消えていった』(『猫町』)と述べる、同感だ、あれほどに汽車旅が好きだったのに行かなくなった。鉄道旅の楽しさは風景鑑賞に尽きる。が、この頃では前に座ったおばさんのミニスカートから目をそらさねばならなくなった。ローカル線でもロングシートに出くわす。窓辺こそが汽車旅の命なのにこれらは邪険にされて、楽しみが半減されてしまった。こちら側のひねくれもある。物心つき始めて以来、もう堪能するほどいい景色を見てきた。時代が良かったこともある。海にせよ、山にせよ、自然風景がそのまま残っていた。蒸気機関車だって普通に走っていた。思う存分、汽車旅が楽しめた。まさに鉄道黄金時代だった。そんな昔が懐かしいと思っていたが、つい最近のことだ。新しい旅を思いついたのだ。無名詩人が詠んだ汽車詩がごろごろ転がっていた、これに乗って旅をする、郷愁あり、スリルあり、これを「日本汽車詩紀行物語」と名づけよう。

 今乗っているのは二種類の汽車詩だ、無名詩人が詠んだ汽車詩を探し当てこれに乗り込むのである。読むのではなく乗るのである。

 以前、汽車にのりまくっていた時代のエッセイがある。

鉄路有情春夏秋冬  
 わたしは一人旅が好きだ。分けてものどかなローカル線に乗って、窓外に映る景色をぼんやりと眺めてゆく旅は、この上もない喜びである。仕事に疲れた時など、その折々の印象が切なく思い起こされることがある。 
 
 春・八高線、明覚駅に列車が着いた折りのことである。ひとむらの風が草の香りを車内に撒き散らしては過ぎ去って行った。そして、あとには薄紅色の花弁が一枚、土埃で汚れた床の上に残されていた。ふと思いついて、窓から身を乗り出して外を見た。果たしてホーム沿いの土手には、数本の老桜樹が爛漫と咲き誇っていた。おのが身を飾るために老いた身に鞭打ちあらん限りの力をふりしぼって紡いで織りなしたように見える桜花の晴れ着は、春の日を浴びて、まわりに艶麗さと淡い寂廖とを漂わせていた。

 夏・越美北線は、越前東郷を過ぎたあたりから、山峡の勾配を縫うように走った。一乗谷、越前高田、市波とジーゼルは車体をふるわせて谷を巡り、川を渡った。時折、線路の行く手が見渡せた。露で濡れた萱が、赤錆びてかぼそげな二本の軌道に両側から覆いかぶさっていた。その露に、山の斜面から転げ落ちてきた朝日が反射してきらめいた。が、露払い役の下り一番列車が巻き起こす風圧は、瞬く間に露を蹴散らした。そして、飛沫となって消え散る露に、光が当たってほのかな五色の光彩を放った。  
 秋・山陰本線、分岐を渡ると、列車は急な制動をかけ、やがて、長嘆息をついて身ぶるいし、ひっそりと小さな駅にとまった。気が遠くなるような静けさが訪れる。が、それも一瞬のことだった。座席のそこかしこに潜んでいた虫が一斉に鳴き出したかと思われるくらいに、かしましくその音が車内に響き渡ってきた。晩秋の夕暮れ、閑散とした車内を照らす明かりが心もち暗くなったように思えた。人恋しく思えたのだろうか。斜向かいの席に座ってじっと暮れなずむ空を見ていた老人が「どちらまで」と声をかけてきたのが、いまもって印象に残っている。

  冬・長井線、未明の赤湯駅を荒砥ゆきのジーゼルカーはひっそりと離れた。ぼくは、水蒸気で曇った窓ガラスを何度もぬぐっては、外の闇に目を凝らした。やがて、田野に潜むものみな、その形状をおぼろげに現し始めた。天空が微かな光芒を大地に注ぎはじめたのだ。夜が明け行くにつれ、広大な自然を埋め尽くした雪は濃紺から紫紺へ、そして淡紫へと、その色調を微妙に変化させた。その雪の海を列車は音もなく滑るように走った。旅人はこの異様な景色の下を、列車がこのまま無限に駆け抜けてゆくのではないかと思って戦慄した。 (「旅と鉄道」掲載)
  
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2022年08月22日

下北沢X物語(4532)―驚き、桃の木、芝街道―

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(一)歩いていているとそこはかとない屈曲のある道に出会う、古道である。どこへ行くのだろう?想像が刺激される。行き交った人が想われる。品川道を抜けて深沢に入る。かつてはタケノコ名産地だった、下馬に野砲兵連隊ができた。馬を飼っているここからは大量のボロができた。深沢の農民はこれをもらってきて竹林に播いた。丸々と太ったタケノコは新宿や京橋の市場に運ばれた、竹を作る場は、竹山と荒山があった。前者からは出荷用のタケノコが作られた。後者ではのりしびに使う竹も作られた。当地には大森の漁民がきて、ケヤキの枝と竹とを買いにきた。ここ深沢は今でも欅や竹林がある。鬱蒼とした木々が生えているのは旧家秋山家(写真)だ。この脇を通っている道が江戸道だ。世田谷吉良氏は横浜の蒔田地区を所領していた、蒔田城と世田谷城を結ぶ道が、「江戸道」である。

 世田谷内陸部にある道は、江戸道もそうだが海へと繋がっている。ここでは芝街道を取り上げているが、思い出されるのが芝道である。
かつては三軒茶屋から東南東に行く古道があった、下馬の砲兵連隊を斜めに横切っていた。名の通り、芝へ行く道である。吉良氏はここを所領していた。これは海の道である。

 文化探訪は、長きに亘る、その中でタンチ山の狸の話があった。弦巻にあった長徳寺の逸話である、この寺は吉良氏が世田谷城南方を守る砦であった。これも芝村の芝湊へ移転させられている。吉良氏が海の拠点が大事だと判断したからだろう。

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2022年08月21日

下北沢X物語(4531)―古道・江戸道、芝街道、八反坊―

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(一)文化の根底には人の行き交いがある、その核となるのが道である。人はどこを通ってどこへ行っていたのか?これを知ることで往昔が見えてくる。しかし、その根幹となる古道は消えている。合理性を追う近代は直線を求める。その反対に古代は曲線を求める。しかし、曲線は駆逐される。近代の機械が均してしまったからだ。それで過去は分からなくなる。が、それでも味のある二間道の古道に出会う。そこはかとなくカーブしているからたまらない。つい最近、愛着のある二間道に芝街道という名がついていることを知った。駒沢に始まり、野沢で終わり他道路と交わる。そこがハッタン坊と呼ばれていた。奇妙な名称、これは何か、調べて行くと「八反坊」なる単語が出てきた、何と「祟りの神」だという。怖い、が、これがなんとも南京玉すだれ、探訪に出かけたである。

 古道巡りだ、まずは自宅近辺からだ。近くには八雲氷川神社(写真)がある。参道を進むとやがて左に抜ける斜めの路地がある。玉垣が巡らされてたそれは数十メートルで終わる。じつはこれは古道である。西隣の深沢へ行く品川道である。面白いのは道に沿って築かれている玉垣(写真)には寄進者名が刻まれている。多くは大井町や大森の人だ。

 品川道が深沢になぜ通じているか、理由は簡単だ、深沢村は品川宿の助郷村であったからだ。参勤交代で各地大名が品川に宿を取るとかり出された。農民は品川道を辿って大井町へ向かった。

 短い品川道をゆくすると学校がある。八雲学園だ。古道は消えてしまう。ここはかつては衾町と呼ばれた地域だ。西は「玉川全円耕地整理」地帯だ、やはり隣の事業は大きな影響を及ぼす、当地でも耕地整理がなされた。それで古道は消えてしまった。

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2022年08月19日

下北沢X物語(4530)―世田谷東西文化との遭遇 了―

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(一)世田谷西郊に住んだ徳冨蘆花は「東京が日々攻め寄せる」、「東京がます/\西へ寄って来る」(『みみづのたはこと』)と述べている。首都東京の西征である。当然時間差がある。言えば玉川地域は東京西端、占領される前の時間を使って対応した。それが「玉川全円耕地整理事業」だ、戦いを有利に進めるためだった。その作戦は当たった、完工後に地域の人口は急増している。一方東だが敵に近接しているだけに侵攻は早かった、すでに太子堂あたりには江戸期に流浪人が流れこんでいる。土地開発が先に進んでいた。例を言えば玉川地域には古墳が多く残っている、が、東では残す暇もなく潰された。現昭和女子大には大塚という古墳あった。が、前身の砲兵連隊の創設に当たって除去されている。東西文化の差異は、首都東京との距離によって生まれた。首都の侵攻が遅れた分、文化が多く残った。このことが「玉川地域活動団体連絡協議会」、いわゆる地団協の石碑建立活動に結びついたとも言える。

 記憶というものは面白いものを覚えている、「岡本に嫁にやるな」というものがあった。現地に行ってなるほどと思った、多摩川左岸の国分寺崖線に位置する地域だ。急峻な崖がある。耕地としては不向きだ。四国の祖谷を連想した。崖地の耕作は大変だった。
「鍬を入れるときは一段上に土を盛るようにする」
 重労働が思われる、崖線の耕作は大変だった、それで嫁にやるなと。が、今は一等地だ。眺望抜群で富士がよく見える、高級マンションとなっている。

 東部西部での差は、景観である。玉川地域での眺望は東と比べると広い、国分寺崖線
上からは全円的な眺めが得られる。丹沢や富士、景色は見放題である。

 東の地域で言えば、代田、北沢である、代田円乗院の墓地の裏手が富士の観望ポイントとしては知られている。富士は南西に見られる。代沢の聖三一教会のベランダからもよく見える。これも方向は南西だ、が、見えにくい。それは崖線が東西に延びていることに起因するように思われる。

 東の玉川地域は崖線は南北方向に流れている、が、北沢川や烏山川は崖線が東西方向に走っている。その差ではないか。ただやはり東は建物が混み合っていて富士は見えにくくなっている。その点、玉川地域での富士眺望獲得率はかなり高い。

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2022年08月18日

下北沢X物語(4529)―世田谷東西文化との遭遇 4―

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(一)独歩『武蔵野』は素晴らしい、とくに好きな箇所は、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落合って、緩やかにうずを巻いているように思われる」だ。玉川地域には、その都鄙境に石碑がいくつもいくつも建っている。言えばそこに哀れ深い物語が刻まれていると言ってよい。「あれは、どうやって建てたのですか、一基五六万はかかると思うのですが?」推進者の飯田恭次さんに尋ねると、「あれは、全部協賛金なのです、全部使いきれないので、保守費用として残しています」と。驚きである、玉川地域一帯の人々が活動に対して惜しみなく財を寄付していた。風光豊かな土地への愛着があったらばこそだ。玉川という土地への思いの深さを表す逸話だ。

 世田谷ふるさとめぐり「てくたくぶっく」がある。石碑をめぐっていくためのガイド本である。六冊ある、飯田恭次さんから「用賀・馬事公苑コース」を戴いた。そのトップである。

ゞ姪斗儔豈慇廖〕儔譯粥檻

 明治40年(1907)4月、この道に玉川電車(タマデン)が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。
 石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。
 用賀駅には電車の折返しもでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くのこども達もよく遊びました。
 数々の出会い、別れの思い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車の廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。


 解説文である、漢字には全部ルビが振ってある。
 ここから「てくたくぶっく」を造った狙いと石碑を建てた意図が汲み取れる。

 石碑を通して、地域の物語を子どもに伝えたい、つまりは、土地土地に眠っている逸話を学習の材料としてもらいたい、そんな願いがこめられている。

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2022年08月17日

下北沢X物語(4528)―世田谷東西文化との遭遇 3―

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(一)文化探訪を長年続けてきた。が、フィールドワークにも経過がある、まずはAから始めてBやCへと範囲は広がってくる、すると「あっち」と「こっち」という比較意識が生まれてくる。世田谷東部における目印としては鉄道線路である。例えば下北沢における鉄道クロスXとか、三軒茶屋における鉄道分岐Yとか……たまたま西部に行く機会があって土地の古老から文化の起点は「水」だと聞かされた。記号を当てはめると「V」になる、つまりは谷である。X、YからVだ。しかし前二つは近代交通機関だ、時代とともに変わる、現に地下化によってXもY地図からは消えた。三茶の髭は世田谷線だ。ところがVは先史から続いていて今もVのままだ。郷土意識なるものは変わらないものがあるゆえに愛着が湧く、玉川ナショナリズムもここに因があるのではないかと思った。

 世田谷上用賀の地主系の血を引く飯田家、現八代目当主の飯田恭次さんは、玉川文化の根幹は「水」だと言われた。自分にはコトンと胸に落ちるものがある。

 自身が散歩でよく通るのは、兎々呂城跡、都立園芸高校の裏手だ、駒沢公園通りが西に突き抜けている。城は舌状台地にあって道はここを横切る。尾根を越すと、玉川領域となる。馬の背を越すかたちになるが、この小峠越えは面白い、越えた途端、眺望が開けてくる。ずっと西には丹沢山塊があって左端には大山が聳え立つ。

 飯田さんが言われるのは「水」、すなわち川である、川が流れていて景があるのが玉川である。兎々呂城峠を越すと川がある、矢沢川である、用賀方向から流れてきている。一帯が段丘になっていて、もう一つ丘がある、いわゆる国分寺崖線である。この崖が転げ落ちたところに多摩川がある。

 言えば、ここに不思議さがある。東部における川は、北沢川に烏山川である。この川は東西を貫いて流れている。
 
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2022年08月15日

下北沢X物語(4527)―七七年目の八月十五日に―

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(一)戦争は、はじまりがあって終わりがある。1941年12月8日開戦、1945年8月15日終戦、こちらは戦没者を悼む日だ。開戦の火蓋が切られて戦争が起こった。この間に多くが死んだ。その合計は三百十万人以上だと言われる。戦争がなければ死ぬことはなかった。なぜ愚かな戦争を始めたのか、本当は始まりが問題だ。が、なぜ始めたのかは追求しない。前に学徒出陣した人に話を聞いた。「アメリカは物質的に豊かだが、精神力では日本に劣る」と、開戦への傾きはそういう楽観的な見方があったからだろう。戦争の敗因を当時の代沢国民学校の六年生は「日本は科学がおくれていたのとあまり日本の人がゆだんしていたからだと思ひました」と。その分析は鋭い、勝つ見込みがあっての開戦だが、負けた。どう負けるかも大きな問題だ、が、国のメンツを考えるあまり、終戦は遅れた。力を持つものは粋がる、「一億総特攻」とまで言っていたが無惨な終わり方をした。計り知れない犠牲を払った。我らはあの戦争を忘れたのか?今与党は、軍事費と言ってもいい「防衛費二倍に」と言っている。また戦争への道を歩もうとしている。

 以前に原爆被爆者から体験を聞いた。藤井照子さんである、彼女は元広島電鉄の電車運転手をしていた、広島駅に到着したときに被爆した。凄まじい閃光が走ったと言う。それでも命は助かった。ところが放射能は命を蝕む、彼女はずっと原爆の後遺症に悩まされていた。亡くなった方も気の毒だが、生き残った人も大変だった。後遺症が余生を苦しめた。

 その彼女も亡くなり被爆者名簿に登載された。彼女、生前終戦番組に出演した。そして原爆の製造に関わった物理学者と対峙したことがある。
 
 藤井照子さん、物理学者に「謝れと」詰め寄った。ところが、彼はそれを頑なに拒んだ。原爆によって途方も犠牲者が出た。が、彼をはじめ多くのアメリカ人は、原爆投下によって第二次世界大戦が決着を見たと信じている。

 よく言われるのがリメンバー、パールハーバーである、真珠湾を奇襲攻撃されたことへの憎しみだ、ジャップと蔑称し、日本への憎しみを募らせた。

 真珠湾こそ戦争の発端だった、敵国は怒りを貯めた。戦争は憎しみを高めるものだ。奇襲攻撃は、日本人への憎しみを増幅をさせた。B29による徹底した絨毯爆撃、さらには広島、長崎への原爆使用、これらへの口実を与えたと言える。

(二)
 戦争では、巨大なエネルギーが働く。一旦これに染まるとか弱い人間はすべて侵されて
しまう。何としてでも敵をやっつけなければならない。破れかぶれになっても戦おうとする。「一億総特攻!」と唱えた軍部はその好例だ。

「いいか、精神力だ、敵はいずれ攻めてくる徹底して抗戦しろ、竹やりがないときには、もう意を決して突っ込むしかない、相手の金玉を蹴り上げるんだ!」
 そのように言いのけた将官もいた。

 戦争では、二つしかない。勝つか負けるかである。ここにプロパガンダが生じてくる。勝つためにはなんでもする、常套的には大きく負けても勝ったという、何がなんでも嘘をついてでも誇大に言って、戦意昂揚を図る。

 日本は、戦争末期になって特攻を行った。
 多くの特攻兵が口にしたり、書き残したりしている。「大きいのを一つやっつける」と。願い望みだった、航空母艦を沈めるというものだ。が、特攻によって沈んだ母艦は皆無である。特攻隊員は上層部の意を汲んで「母艦撃沈」を願った。

 ここ十数年、特攻のことを調べてきた。兵員もろとも敵艦にぶつかって行くという戦法はむごいものだ。最前線の特攻隊員は自分が行くことでアメリカを打ち砕くと考えていた。しかし、上層部は勝つことは考えていなかった。いわゆる一撃講和だ。

 敵を特攻によって叩いて、少しでも敗戦を有利に進める。そんなもののために多くの若い命を戦闘機に乗せて沖縄に送りこんだ。むごいとしか言い様がない。
戦争末期ではもうまさに破れかぶれだった。

(三)
 始められた戦争を収めるのは難しい。もったいない精神が働く、戦費をつぎ込んだから、まだ多くの戦闘機が残っている、むざむざ敵に渡すことはない。広げた領土を失うのももったいない。

 一番の心配は、国体護持であった。歴史ある、品格のある我が大日本帝国が潰え去るのは忍びない。とくに上層部はこれにこだわった。負け方を考えているうちに広島、長崎に原爆が落ちた、敗戦を受け入れざるを得なくなった。

 戦争をするとなにもかもがメチャクチャになる。道徳もない、倫理もない、すべて問答無用だ、戦争指導部は、兵のことを思ってはいない、単に歯車の一つに過ぎない。

 と、思い出した、確か南洋戦線だったか、日本軍とこれに加勢していた他国の兵隊たちが捕虜になった。が、他国の兵隊は「これで助かった」と大喜びだったという。ところが日本兵は青ざめた。日本軍人には「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓があった。

 戦争の火蓋を切るのは簡単だ、が、戦争という得体の知れないもの、これを鞘に収めるのは難しい。我々は、熱しやすくて冷めやすい、プロパガンダに弱い国民だ。
 「わが国もミサイルを持て」、「わが国も核を持て」、とんでもないことを平気で言うようになった。今度日本人が武器を持って戦えばほろびるに違いない。
「何があっても、戦争はするな!」
 戦争を潜り抜けてきた人の遺言であるが……。
 苦しいことだが、戦争にならないように、平和への道を探るべきである。




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2022年08月14日

下北沢X物語(4526)―世田谷東西文化との遭遇 2―

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(一)村夫子という言葉がある、村の知者。悪い意味でいっているのではない、風格を持った田園の知識人、旧家の重鎮ということを飯田恭次さんに感じた。なぜなら玉川に住まう人ならではの郷土観を持っておられたからだ。このところYの歴史に凝っている。そんな中で飯田さんに出会った。Tショックを受けた。思うに今まで荏原の北東端を渉猟してきた。ここは堀が境界である、手前側で育った人は、向こうは異界だったと。御亡に出会って死ぬほど怖かったという人もいた。そう言えばKの向こうはT、豊多摩郡である。このほど巡り会ったのもTだ。玉川である。そしてこの土地の文化の特色を、彼、飯田さんはたった一言でいわれた、「それはMだね」と、とたんにその意味が納得できた。

 荏原北西端では、近代交通路としては鉄道が重要だった、が、興味関心がもっと南のYに移るにつれ、鉄路よりも道路が大きな役割を果たしていたことを知った。大山道である。

「三軒茶屋にどうして追分ができたか?これに関心を持っています。一般的には江戸時代中期、大山詣でが盛んになったことで新道ができたとされています。けれどもそれだけでは説明がつかないように思います。一つは物流ですね、脇往還である大山道はこれが増えています。非常に面白いのは相模川の鮎ですね、これを運ぶための物流システムができているのですね、新鮮な鮎を運んでいた。もう一つは幕府の見方、大山に対する警戒感があって、速達性が必要だったのでは……」

「そうですね、大山に対する警戒感はありましたね。そうそう、戦国時代に小田原の支城山中城を守ったのは大山の修験者でしたからね……」
 用賀の村夫子は見識が深い。

 大山道は大切な道であった。もう江戸期から肥えだめを運んでいたという。資料を読んでいると、「寛政元(1843)年等々力村では田畑の肥料として、江戸より下肥を人馬によって毎日運んでいる」とあって驚いた。その道は二子道か、大山道のどっちかに違いない。

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2022年08月12日

下北沢X物語(4525)―世田谷東西文化との遭遇―

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(一)中島敦の『山月記』は多くが知っている、教科書で学んでいるからだ。町歩きをしているとき、作家はここで亡くなったのですと聞かされて驚いたことがある。ボロ市通りにある世田谷病院だった。記には「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」という名文句がある。自身、文化を知ろうとしているが、知るには時間が短すぎると感じる。今年になって文化探訪地点をXからYへシフトした。後者の歴史は深い、が、はたまた今度はT地区を探訪する機会があった。かつての「玉川」区域である。昭和7年、世田谷区が成立するが、このとき玉川村は、世田谷町と合併に猛反対し独自に「玉川区」創設を主張した。言えば玉川ナショナリズムである。今回、玉川用賀の名主の現8代目の飯田恭次さん宅を訪れて、当地の地政学的な素晴らしさを聞き、認識を改めた。

 居住地から玉川地区は近い、毎日と言っていいほど通りかかる。随所に石柱が建っていて、その場所に何があったかが石碑に彫られている。その数は何と173箇所にも及ぶ、この石柱に何度も出くわしてそこの歴史や文化の片鱗をどれほど知ったことか。この運動に深く関わっておられたのが飯田恭次氏である。

「桜田門外の変のとき、大老の井伊直弼が暗殺されたでしょう、井伊家はこの世田谷に地領を持つ大人物ということで当地の大場代官と飯田代官とが急報を聞いて桜田門にともにはせ参じたというのです……」
 飯田家訪問を取り図ってもらった当会の新会長谷亀冢困気鵑言っていた。
(写真、飯田家で飯田さん、谷亀さん、わたし)

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2022年08月11日

下北沢X物語(4524)―第一師範附属の疎開学童と特攻隊員 了―

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(一)特攻隊員と仲良くなった疎開学童は、「戦闘機で飛んで来てよ!」とねだった。誠第31飛行隊の長谷川信少尉はその女児の求めに応じた、この彼は「きけわだつみのこえ」に手記が載っている。残念ながら浅間温泉滞在時のことはない。日記本体にはあるはずだと調べ始めたところ、取材記者が日記を紛失していたことを知って落胆した、昭和20年4月初旬、隊は台湾行きを命ぜられる。遺書ともなる日記は宮崎県新田原の陸軍飛行場前の郵便局から会津若松の実家へ郵送されている。松本を発ったのは3月末だった、浅間の記録は載っていたに違いない。つい数日前、彼に飛んで来てとねだった人に電話をした。88歳の彼女、先月浅間へ行ってきたばかりだと。往時との変わりようにびっくりしていた。「思い出の富貴之湯は跡形もありませんでした」と。そう言えば井筒の湯もほんの少し前まで建物は残っていたが、これも全部壊された。隣は「ホタル」を撮った降旗康男監督の実家だ、これはそのままだったが。(写真)

 特攻を主題とした映画は数多くある、が、私はほとんど見ていない。危ういものを感じるからだ。さきの「きけわだつみのこえ」の中に市島保男少尉の手記が載っている。

 昭和20年4月21日、零戦に搭乗した彼は谷田部飛行場を発った。海軍第十四期飛行予備学生の同期たちが八重桜を手折って操縦席まで持って行ったという。そのときの様子を、「市島は八重桜の花で埋まっているようであった」と書かれていた。何とも美しい別れの場面だと感動したことがあった。が、その後にこう聞かされた。
「零戦の操縦席には花を飾るところはありません、だから風防の溝に小枝を差し込みました。花で埋まるなんてことはありません」
 同期生の人から聞かされて、自分の美化されたイメージは一瞬に吹き飛んだ。我々は特攻隊員を美しく飾ろうとするいう情念がある。これに流されないで書くことは至難である。

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2022年08月09日

下北沢X物語(4523)―第一師範附属の疎開学童と特攻隊員 2―

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(一)今日は長崎原爆忌だ、が、戦後77年被爆伝承の風化は深刻だ。自身、「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を書いた。市電乗務員の被爆経験だ、長崎にも路面電車は走っていた。同様なことが長崎でもあったことは知っていた。それで『長崎にチンチン電車の鐘が鳴る』という朗読台本を書いた。一人の女優から演じてみたいとの反応があった。が、コロナが再び猛威をふるいはじめている。今夏の公演は断念されたのだろう。が、希望は持ちたい、いつか劇が上演されることを。昨日、用賀の名主の血を継ぐ8代目の飯田恭次氏宅を訪問した。玉川地域の文化復興に尽力された方である。一帯の名所旧跡に170余もの石碑を建てられた、別れ際に互いに言い合ったことは伝承だ、戦争、そして文化、これら大事なことは今人々の記憶から消えつつある、歴史文化をどうしっかりと語り伝えていくか、そのことが今強く問われている。(旧用賀名主邸前で飯田恭次氏*撮影谷亀冢沙瓠

小さな歴史の真実を追い求めている。世田谷から七校の国民学校が浅間温泉に疎開した。
分かってきたのは特攻隊員と学童たちの交流である。六校ではそれがあったことは確認できた。これが何を意味するかである。戦争末期米軍に追い込まれた大本営は特別攻撃作戦を取った。両翼に250キロ爆弾を装着した戦闘機を乗員もろとも敵艦船にぶつけるという特攻戦法である。これを行うには戦闘機の改造が必要だった。

 終戦末期制空権は失われていた。もともとは太平洋側で、いわゆる爆装改修を行う予定だったが、これを断念し、山岳地帯にある松本陸軍飛行場で行った。

 疎開学童と特攻隊員とのふれ合いが多かったのは当地にそれだけ多くの特攻機が飛んできていたことを意味する。終戦末期においては枢要な飛行場で、沖縄特攻陰で支えていた。近代戦争史の一端を証明するものである。
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2022年08月08日

下北沢X物語(4522)―第一師範附属疎開学童と特攻隊員―

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(一)戦時中、世田谷から松本市外浅間温泉に七校の学校が疎開をした。偶然、このうちの一校、代沢国民学校の学童と特攻隊員とがふれ合っていたことを知った。一つあれば二つあるとの推理から、他六校を当たった。その結果、代沢に加えて東大原、駒繋、山崎、二子玉川の計五校が特攻隊員たちとふれ合っていた。ところがつい最近になって第一師範附属(学大世田谷)も彼等と交渉があったことが分かった。五校のことは著作に記録してきた。今回の新たな発見は言えば記録の落ち穂拾いである。第一師範附属は、東京第一師範学校男子部附属国民学校と呼ばれていた。学校は往時は下馬にあった。今は、東京学芸大学附属世田谷小学校となり、世田谷区深沢にある。

 世田谷から七校の国民学校が浅間温泉に疎開した。区立は六校、国立は一校だ。疎開行政は区立と国立では扱いが違っていた。

 昭和20年になって松本浅間温泉も安全ではなくなってきた。3月2日には近隣の里山辺に爆弾が落とされた、また中京地区から疎開してきた工場の従業員に旅館が割り当てられるようにもなった。

 以上のことから世田谷の各校は安全な地帯へ学童を移動させることに決めた。それがいわゆる再疎開である。
 
 代沢国民学校は浅間温泉では六つの旅館に宿泊していた。4月10日にここ浅間を発って塩尻市一帯のお寺などに行った。

 第一師範は管轄が違うために世田谷の学童と同じようにはしなかった。そのまま浅間温泉に居残る形となった。滞在旅館は、亀の湯、菊の湯、東石川、西石川の四館である。区立校が再疎開に出た後、宿舎替えをした。その一つが井筒の湯であった。ここは代沢国民学校が使っていた旅館である。
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2022年08月06日

下北沢X物語(4521)―映画:「太子堂物語」との再会 3―

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(一)「太子堂物語」は歴史伝承だ、この中で「山と川」の符牒を語ったとの証言があった。大震災時に朝鮮人暴動の噂が広まり検問所が設けられた。住民は符牒を使って関門を通ったと。伝えねばならない逸話だ、今日は8月6日第77回目の原爆忌、伝承が最も必要な悲惨極まりない被害だ、その惨状は絵にも言葉にも書けない。たった一発の原爆で約14万人が犠牲になった、投下されたとたん地表は地獄と化した。人類が知を持つのならば、核は絶対に使ってはならない。が、今、「ロシアは他国にない兵器を保有している。必要なら使う」とプーチンは脅している。かつてないほどに脅威が高まっている。国内ではこれには目には目をとの強硬論の声が大きい、危険極まりない。我々は覚悟を持たねばならぬ。全世界に「我らに三度目の核を撃つのか?」という言葉弾を撃って対抗する、そういう度量が必要だ、これを武器とするなら、核の傘からは脱却し、正々堂々と論陣を張るべきだ。

 「太子堂物語」では、近代における糞尿闘争の顛末を知りたかった。18年前に聞いたときは大筋しか理解できていなかった。それでその場面のナレーションはしっかりとメモを取った。

 (太子堂)、この田園地帯にも近代化の波が押し寄せてきた。大正初期太子堂村を南北に貫いている道、今の茶沢通り、ここに高圧送電線を通そうという計画が進められている。我々は元名主の森家に残された古文書の中からその経緯を探り出した。工事をするとは限らないから測量だけはさせてくれという業者の書簡(東京電灯)がある、すでにある道を利用すれば建設費が安くつく。それだけの理由で村の中心に高圧送電線を敷設しようという。村の了解もなしに既に逓信大臣が許可を与えているという。送電線が通過するという世田谷、駒沢、碑衾、平塚、大井の町村が同盟し、大正六年三軒茶屋の石橋楼に集まって連合相談会を開き、飽くまで反対をすると決議する。農民達の伝統的な糞尿闘争、測量を強行しようとする会社側との果敢な闘い、長年に亘る反対運動はついに送電線計画を挫折させ今日の繁栄の基礎を作った。この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない。

 いわゆる高圧線敷設問題である。今は、駒沢線と呼ばれている。
 まず、この高圧線とは何か?

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2022年08月05日

下北沢X物語(4520)―映画:「太子堂物語」との再会 2―

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(一)上下巻に分かれた「太子堂物語」の後半のテーマは疎開である。映画監修者の思いが込められている。当方も疎開を十数年追ってきた。調べと重なることがあって興味深く観た。太子堂国民学校は浅間温泉組である。1944年8月13日、浅間温泉本郷小学校で世田谷からきた疎開学童の受け入れ式が行われた。太子堂、代沢、大原、駒繋などの学童が集まった。高原の強い陽ざしが都会の子を襲った。が、村のお歴々はここぞとばかり長広舌、その間に学童はつぎつぎに倒れていった。この中に太子堂国民小学校の四年生に森安彦君はいた。その彼こそは、「太子堂物語」全体の監修者だ。長じて日本史学者となった。なるべくしてなったと言える。太子堂の歴史を語るには欠かせない人物である。昨日、世田谷郷土博物館に行った、休館だった、が、インターホンで「北沢川文化遺産保存の会の者」と伝えたら入れてもらえた。「森安彦先生存命ですか?」「ええ、存命ですよ」と学芸員の方。昭和9年生まれ、88歳である。

 昭和21年11月、疎開学童は東京に引き上げてくる。渋谷に着いた彼等は玉電に乗って三軒茶屋に辿り着いた。皆、驚いた、一帯は焼け野原になっていた。そのときの思い出を森先生はこう語っている。

 私の実家は、茶沢通りの太子橋を越えたところにあり、学生時代までずっと住んでおりました。私にとって三軒茶屋というところはとても懐かしいところです。もう今とは全然違いまして、三軒茶屋で一番強く覚えているのは、昭和二十年に日本が戦争に負けるまで学童集団疎開で長野県へ行っておりました。その疎開から帰ってきて、はじめて三軒茶屋へ降り立ったら、まったくの焼け野原で、駅からまっすぐに私の家がじかに見えるんです。たまたま私の屋敷の周りケヤキの大木が、当時五、六十本くらいでしょうか、鬱蒼とし、こんもりとしていました。屋敷の中に焼夷弾は落ちましたが、庭の中だったので家は焼けませんでした。ケヤキの大木が火を逆流してしまって、私の家だけが残り、あとはまわり全部が焼けてしまったのす。ですから三軒茶屋から私の家がすぐに見えたのです。本当にびっくりしてしまって、こんなに変わってしまったのかと。
 講演 本会学術顧問森安彦先生を迎えて(平成七年度講演から) せたかい53号

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2022年08月03日

下北沢X物語(4519)―映画:「太子堂物語」との再会―

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(一)数えてみると「太子堂物語」との再会はなんと18年ぶりであった。上映会は継続して行われていた。参加資格に優先順位があって太子堂住民が一番である、上映会は明らかに「伝承」として行われている。小学校四五年生ぐらいの女子が参加していた。内容は難しい、が、一帯の歴史文化の勉強にはなる。映画の中では、一つの逸話を巡って、「この事実を知る者は今やこの町にもほとんどいない」とあった、高圧鉄塔を敷設しようとした東京電灯と地元住民とがぶつかって、農民は「糞尿弾」を投げつけて当局に抵抗した。この運動は功を奏した、地域に起こった大正デモクラシーである。この映画を見ると近代化の波を真っ先に受けていたのは太子堂地区である、村のできはじめが聖徳太子をゆかりとしたことから始まり、地域に聖なる泉が湧いていたことから寺名は円泉寺となったと。

 世田谷の中で最も早く近代の洗礼を受けたのは太子堂である。まず村の出来初めだ。

 文禄四年(1595)には阿闍梨法印賢恵和尚が、十一面観音菩薩像と聖徳太子堂像を背負って、大和久米寺から関東に下って、村の民家に一泊しましたが、そのときに夢に聖徳太子が現れて「この地に霊地あり、円泉ヶ丘という常に霊泉湧き出づ。永くこれに安住せん汝も共にとどまるべし」と告げられたといわれます。
ふるさと世田谷を語る 池尻、三宿、太子堂編 1994年 世田谷区生活文化部


 円泉寺が定められたときの逸話である。宗教的な意義づけである。が、実際は地の利を選んでいる。土地は、いわゆる「根」にあたる。寺の北は台地で谷頭にあって湧水が出ていた。烏山川左岸の崖の根本に位置する。川沿いは水田でその縁は畑で、陸稲を作っていた。

 寺の周囲に村はできた。生業としたのは農業である。「それ以後栄えたので、村の名を太子堂」とした。この地名伝説が「太子堂物語」の皮切りである。
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2022年08月02日

下北沢X物語(4518)―地団協設置碑を巡る―

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(一)昨日、用賀の「東条英機邸跡」に行った、が、様子が変だ、脚立が多くあってそこには人が屯している、報道陣のようだ「なるほど戦後七十七年、戦争回顧番組で誰か大物が来るのか?」と。自身はここに建つ「東条英機邸跡」の写真を撮る。が、記者たちは全く無反応だ、「戦争はすっかり遠くになってしまった」と思った。件の碑には「玉川地団協」と彫ってある。この石碑、至るところに建っている。この朝方、メッセがあった、新会長の谷亀冢困気鵑ら、「建立当時の推進役は、旧用賀村名主家当主の『飯田恭次』氏」だと、その方に会ってみないかとの連絡だ、碑は至る所で見て知っている。有名なものばかりではない、「三島の洗い場」とか、「火の見櫓」とかある。言えば、世田谷西南部の「文化の在処」をことごとく網羅している。昔、何があったか?人々は見向きもしない、が、地団協石碑がかつてを喚起してくれる。とても大事な石碑である。

 かつて東条家を代表しておられたのは東条由布子さんである。事務局の『邪宗門』の隣に住んでおられたことから顔見知りとなった。最も印象深かったのは北沢の旧東條英機邸を案内してくださったことだ。そこは代沢小の学区だった。

「かつ子夫人が挨拶に見えました、教室につかつかつかと入ってこられて『明日から官邸に参ります』と言われました。お子さんが代沢小に来ておられて私は一人の子の同級生だったので、その場面はよく覚えています」
 代沢小の卒業生の証言だ、北沢から官邸に越して、首相を退陣してからは用賀の地に住んでいた。東条英機邸は、矢沢川に突き出した舌状台地の先端に位置する。

「夕富士がよく見えていて祖父と祖母はよく見ていたと……」
 東条湯布子さんから聞いた話だ、退陣してからの話だ。
「東急に敷地は売り払いました、ホテルを建てるとか聞いていましたが、結局は立正佼成会に売られて、世田谷教会になったのです」と湯布子さん。
「あそこで泊まり込みの研修がありましてね……」
 故廣島文武さんは言っていた。世田谷区議だった時の話だ。
 宗教団体と政党との結びつきが問題になっているが、その宗教団体主催の研修には政治家が参加するのは当たり前だったようだ。

「東条の家族なんかに売るものはない」
 東条由布子さん家族は伊東に疎開した。農家に買い出しに行ってそう言われたという。
 敗戦を招いた宰相として人々に憎まれていた。
 元首相には憎しみのエネルギーが集中するのだろうか?つい先頃の事件も似たような一例だ。

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2022年07月31日

下北沢X物語(4518)―会報第193号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第193号    
           2022年8月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 冢
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、戦争の夏:七十七回目(下馬馬魂碑について)

 私たちが、フィールドワークしている一帯には旧軍の施設が数多くあった。しかし、1945年8月15日を境にして廃止された。当会、発起人メンバーだった獣医の故廣島文武氏はこう語っていた。
「終戦後、しばらく経ってからGHQ,占領軍の係官が来て、図面を見ながら、一帯の敷地割をした『あそこは学校、向こうは公園、こっちは公団住宅』などと指示をし、そこにロープを張らせていましたね』と。その敷地が再び軍事施設として使われるのを恐れて強制的に平和施設にしてしまいました」
 現在の駒場地区や太子堂、下馬地区は指示どおりに今は使われている。このことはほとんど知られていない。
 広大な軍事施設は、指示どおりに学校、公園、住宅団地となった。見事という他はない変貌ぶりだ。が、そこに何があったかという案内看板はない。「臭いものには蓋」という考えがあるように思えてならない。
 しかし、丹念に調べて行くと、旧地を記念しての碑などは残っている。一つの例だが、下馬の都営団地の一角にあった「馬魂碑」がある、今年になってそこは更地になり、都立青鳥特別支援学校の仮設校舎建築用地となった。碑は建築の障害となるということで、用地の北東端に移築された。
 この「馬魂碑」は、近隣一帯の歴史を証すものとして貴重である。とくには裏に刻んである碑文である。原文は、文語文で書いてあって読みにくい、それでこれを現代仮名遣いにし、また旧仮名は新仮名づかいにし、漢字も平易なものに書き換えてある。

 わたしたちが今、保管して厩(うまや)で飼っている軍馬のことである。このわたしたちの隊の馬は、将校と兵士にとっては無くてはならぬものである。生死をともにするまたとない戦友である。ふだんにおいてもまた戦時にあっても、苦しいとかつらいとか言うことなく、黙々と任務を果たし、日本国内や国外においても多くの功績を残しているが、その一つ一つは数えきれないほどである。任務に就いている間に、不幸にして敵弾に倒れた者のもいるし、また思いもしなかった事故に遭って無くなった者もいる、そして病気なってついには死んでしまった者もいる、その馬たちの最後の様子を思うにつけ、とても悲しく哀れに思われてしかたがない。その彼等を想う気持ちからここに犠牲になった馬たちの霊を祀り、その冥福を祈ったものである、また加えていうならば、わたしたちがこれからも接するであろう現役の馬たちをいっそうに愛しんでほしい、そういう願いを広く知ってもらおうとここに碑を建てたものである。

   野砲兵第一連隊留守部隊長
   陸軍砲兵中佐正六位勲四等 原 捷吉
   昭和十四年十二月


 この地区には、三つの連隊があった。 野砲兵第一連隊、近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第八連隊である。各連隊では砲車を牽引する馬を飼っていた。

 歴史を知るときに時代というのは大事である、この碑が建ったのは昭和十四年である。ちょうどこの年に制定された法律がある。

 1939年(昭和14)4月に軍馬資源保護法が公布され、毎年の検査で軍用保護馬に指定された馬の所有者は、一定の管理や「鍛錬」への参加などを行ない、大日本帝国陸軍による徴発にそなえる義務を負うようになった。

 いわゆる機械近代化で馬の需要は減ってきたのではないかと想定されるが、そうではない、この法律が制定されたことは軍馬としての需要が多くあったことを示している。
 前線においては環境は過酷であった。戦いの最前線は泥濘地帯、荒れ地では軍馬は欠かせなかった。

 すでに二年前の1937年(昭和12)7月は、北京郊外で盧溝橋事件が起き、日中戦争は始まっていた。さらに1939年(昭和14)9月には、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。風雲急を告げる時代だった。それゆえに碑文はその緊張、すでに当地から外地の戦場へ渡った馬たちも戦争の危難に遭っていた。
 人間も戦争では斃れるが馬もまたそうである、人間に慣れ親しんだ馬であったが、その彼等は苦しみや痛みを口にすることはない、が、野砲兵第一連隊留守部隊長は、馬たちの訃報を聞いて、碑建立に至ったものだろう。

 下馬二丁目に建っている「馬魂碑」は、当地の歴史を物語る貴重なものである。先に碑文を引用したが、原文そのものだと意が通じないと想ったので、碑が言わんとしていることを意訳したものである。

 心掛けたのは、子どもにも分かるように書きまとめたものである。下馬、この世田谷の地にある「馬魂碑」は、学校での地域教育に欠かせないものではないか。そう思ってこのようにまとめたことである。
 単に馬の死を悼むだけでなく、動物愛護精神が述べられている点も大事である。「馬魂碑」を教材にという理由の一つにこのことがあったからである。

2、三軒茶屋の大宮館の思い出
 三軒茶屋には「大宮館」(たいぐうかん)という演芸館があった。これは古くから続く家系の堀江鉄拡氏(太子堂地区連合町会 太子堂四町目西山町会会長)から伺った。

 246三軒茶屋交差点より約150メートル位渋谷寄り北側
 やはり、昭和30年代まであったのではないか。演芸場で芝居や寄せの様なものをやっていた。大正年間には、有った様で、関東大震災後、広沢虎造が、浴衣姿で浪曲を披露しているのを私の父親が見たと言ってました。


 演芸館太子堂のことは何人かから聞いている。
 三軒茶屋大衆演芸が盛んだった。太子堂の古地図には、烏山川八幡橋近くに、「太子堂演芸館」があったことが記録されている。ネットで調べてみるとこうある。

 戦前には太子堂に「大宮館」と「太子演芸場」と言う寄席もあったと六代目三遊亭圓生さんの「寄席切絵図」に載っている。

 「大宮館」についてはたまたま貴重な記録をみつけた。

 色物をやる「大宮館」という芝居小屋もあった。こちらは子供が入れるところではなかったけれども。土地の人や文士崩れの人が集まっていて。 親父が好きだったから連れていってもらった。
 旅芸人が股旅ものや人情ものをやっていて、「あなたと別れるくらいなら、この小指を切りしゃんせ」なんて泣かせたね。
  芝居小屋といっても風がびゅうびゅう通る畳敷きだったから、書割が風で風邪でくるり返り、奥で三味線を弾いていた女衆の着物がはだけて腰巻き姿になって、必死で手拭いで隠しながら弾いていたこともあったけ。「大宮館」は、大正7年から昭和10年頃まであったと思う。 その後は戦争のせいでだめだった。
『三軒茶屋の本』 世田谷区企画部企画課編集 1991年刊


 戦前の町の様子が見えて興味深い。
 「大宮館」は、大衆演芸館であった。落語や劇が演じられていた。「文士崩れの人が集まっていて」はおもしろい、やはり流浪の町だ、文士崩れの人がいたという。
「あの近くに銭湯があって、役者がドーランを落とすのを見たことがある」
 と証言してくれた人もいた。
「富士見湯ですか?」
「銭湯はもっと近くにありました。確か銀座湯ではなかったか?」
*大宮館 ご存じの方は、ぜひ当会に連絡を。      

3、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、

1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

 第177回 9月17日(土) 三軒茶屋の戦跡を巡る(ファンド関連行事)
 案内者 上田 暁さん  田園都市線三軒茶屋駅改札前 13時集合
概要:三軒茶屋は軍都であった。昭和女子大構内→現存兵舎(韓国会館)・馬魂碑・野砲兵兵営跡を巡る→「下馬兵舎時代の思い出の地図」の痕跡を辿る→世田谷平和資料館
・昭和女子大構内入構:近衛野砲兵連隊跡、新体祈念碑、河井酔茗詩碑、トルストイ像などの文化的なものも見学する。(これも許可を得た)
・世田谷平和資料館:特別に見学することを申し出て許可を得た。満州国皇帝溥儀から頂いた恩賜の煙草を包んでいた布きれ。これに武剋隊今西修軍曹が疎開学童に「特攻出撃の思いを書いて」贈呈した。これを今回特別に見せてもらう。


第178回 10月15日(土)大山詣
案内者 別宮通孝さん 下北沢駅9時9分発の小田原行快速急行に乗る(最後尾)
 丹沢大山フリーパス切符 下北沢から2470円が便利 
下北沢9:09→9:55伊勢原秦野10:05→10:32大山ケーブル
 まず、ケーブル終点から阿夫利神社下社を見学。ここで休憩を取り、弁当を食べる。そしてケーブルで下りて途中大山寺駅で下車、大山寺参詣、ここからは女坂をゆっくりとくだって大山ケーブルバス停へ向かう。
〇行程は、基本的に電車、バス、ケーブルを利用する。
ケーブル山頂駅から大山山頂を考えていたが、この往復がかなり厳しいとのこと。それで阿夫利神社参拝、大山神社参拝に切り替えました。希望者が4名集まったら行うことにしていますが、すでに希望者は4名おりますので行います。が、天候との関係があります。
雨の場合は、翌日可能ならば順延とします。詳細については次号に掲載します。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090-3501-7278
■ 編集後記
▲事務局「邪宗門」の夏休み:8/10(水)〜8/18(木)土日は17時頃まで営業
平日は16時頃ですが、早めに締まることがあります、要望があれば電話下さいとのこと。
▲先号では、「三軒茶屋の歴史文化を巡るシンポジウム」を予告しました。しかし、今、コロナ感染者がかつてないほど増えています。開催は難しいのではないかと思います。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ


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2022年07月30日

下北沢X物語(4517)―女流汽車文学:林芙美子 4―

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女流汽車文学:林芙美子を連載していた。間遠になったが、今日は、それの四回目である。

 四国通いの汽船が波頭を蹴って、鶴湾の方へ消えてゆくかとみれば、赤い旗を立てて遠泳の群れが西瓜のように小さく泳いで行くのが見えたり、松風の音のように響くと共に、下り列車や上り列車が、忙しく行き来する。
 『港小景−女詩人の旅』 「週間朝日」昭和二年十月二日号


 尾道は港、船が行き交う、が、何と言っても忘れがたいのは汽車だ。海と山に挟まれたここには幹線の山陽本線が通っていた。上りや下りの機関車が頻繁に通って行った。上りの夜行は窓窓に灯火を点けてカタタンと去って行き、そして赤い後尾灯がスッと消えて行く。上りの先にはまだ見ぬ世界がある、果ての果てには東京があった。
下り列車は寂しい汽笛を鳴らして山の向こうに消えてしまう。こちらは芙美子の過去に繋がる。自身が点々と放浪した下関、長崎、佐世保、久留米、門司、鹿児島、直方などがある。
 『風琴と魚の町』という作品がある。生まれて初めてこの尾道入りしたときのことが書かれている。

 私達たちは長い間、汽車に揺られて退屈していた、母は、私がバナナを食んでいる傍で経文を誦しながら、泪(なみだ)していた。「あなたに身を託したばかりに、私はこのように苦労しなければならない」と、あるいはそう話しかけていたのかも知れない。父は、白い風呂敷包みの中の風琴を、時々尻で押しながら、粉ばかりになった刻み煙草を吸っていた。
 私達は、このような一家を挙(あ)げての遠い旅は一再ならずあった。
 父は目蓋をとじて母へ何か優しげに語っていた。「今に見いよ」とでも言っているのであろう。
 蜿蜿とした汀を汽車は這っている。動かない海と、屹立した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋にしまいながら、立ちあがった。
「ほんとに、綺麗な町じゃ、まだ陽が高いけに、降りて弁当の代でも稼ぎまっせ」
 で、私達三人は、おのおのの荷物を肩に背負って、日の丸の旗のヒラヒラした海辺の町へ降りた。 「日本の文学」 林芙美子 中央公論社 一九六八年刊


山陽本線糸崎駅を過ぎた汽車は、海岸縁に出て左手に瀬戸内海を見せながら走って行く。私はバナナを食べながら海を眺めていた。となりの母は、経文を取り出し一心にこれを唱えている。ときどき汚れたハンカチを取り出しては涙を拭く。向かいの父も退屈そうだ。脇においた風呂敷に包んだ手風琴を腰で押している。そしてキセルに粉粉の刻み煙草を詰めてマッチを点ける。青い煙が昇る、汽車がぐらりと揺れる。
 相変わらず汽車は海辺を走っている、カタトッテ、トタトッテ、車輪の響きは単調である。が、それでも私は飽きることなく車窓を眺めていた。白い雲と青い空、そして紺色の海は春の陽を浴びて照り輝いている、その向こうには自分の未来が広がっているように思えた。そんな時に向こうの島が迫ってきて海は川のようになった。すると汽車は汽笛ぽぉうと鳴らした。家並みが見えてくる、その家々に赤い日の丸が掲げられている。
 向かいの席で眠っていた父が起き上がって窓辺を覗いた。急に元気がでたようで窓を下ろして顔を外に出した。
 ココクック、コロコロクック構内の分岐器を汽車は踏んだ。じきに駅に着くらしい。
「賑やかできれいな町だ、お祭りでもやっているみたいだ、よし降りよう」
 やがて汽車速度を落としてホームに入った。
「おのみちぃ、おのみちい……」
 駅員の呼ばう声が響いてきた。
「そうか尾道じゃ」
 父はそういって風琴を肩に担いだ。

  一家三人はこの町に腰を落ち着けることになった。それで尾道尋常小学校に入学するために父と行った。



 


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2022年07月28日

下北沢X物語(4516)―ネット発信満19年 2―

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(一)人はまっさらから始まる、歌人の若山牧水は子どもの頃、美々津で初めて海に遭遇してその大きさに圧倒されたと、成長の奥には無が潜む、私たちは何も知らない、一つ一つに出会って世界が分かってくる、ネットもそうだ、これに出会ったときは恐る恐るだった、日記のようなものだと言うが、そんなものではない。発信されたら伝わる、どこの誰から何と言われるか分からない。ともあれ当初はならし運転だ、2004年08月18日は「久品仏川源流紀行」、19日「北沢川探索行」、20日「日々の旅は川を渡って」と続く、当初は沢に目をつけていた。番号がついたのは2004年9月13日からだ、NO1は「下北沢X物語〜下北沢の土くささ〜」としている、当地の固有性に目を向け始めた。「下北沢には踏切が多い。小田急下北沢駅の東側には五つ,西側には二つ。そして,井の頭線は東には三つ、西には二つ,計十二もある」と始まる、通勤途上何度もゆくてを遮られた。これも文化発掘の端緒だった。

 ブログもメディアの一つだ、が、大きな違いがある。記事をみた人がダイレクトに感想を当方に伝えてくる。いわゆるコメントである。このコメントはブログに残っている。たどるのが大変だ、『ページ」を一つ一つが、「前へ」にクリックしていく。膨大な数があって辿り着くのに30分ぐらいかかる。

 いりきもとき 2004/10/12 14:44

 こんにちは,いつの間にか30回目になりましたね。下北沢周辺の文化が中心を支えているという主張よく分かりました。このところ力を入れておられますね。
 のんびりはできないでしょうが,たのしんでやってください。楽しみにしております。


 いりきもときさん、09/21日にすでにコメントを戴いている。

 ひと味違う見方で街の特徴を書いておられますね。知らないことが書いてあってびっくりします。たのしみに読んでおります。下北沢の音楽っていうのも一つの見方かも知れません。

心したのは、やはり、人と同じことを言ってもつまらない、それで町の文化に斬り込んでいった。それがすぐに三十回を越していた。

下北沢X物語(6)〜頭と足に見る文化〜ここでは当町の迷路性をのべている。

 下北沢一番街のT字路を通っているとき、前から来た女の子の一人が「迷っちゃうわ」と連れに言っていた。だが、とくに困ったふうでもない。「迷っちゃう」ことを楽しんでいるように聞こえた。坂があって、路地があって、踏切がある。歩いているうちに迷ってしまう。間口のがそれほど広くもないお店がそれぞれ趣向を凝らして並んでいる。
 ついついよそ見してしまう。店先のカバン、あれよさそう。帽子も、あれしゃれてんじゃん。などと思っているうちに別の路にぶつかる。まあいいやと歩いている内に本当に迷ってしまう。それでもかまわないのが下北沢である。
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2022年07月27日

下北沢X物語(4515)―ネット発信満19年―

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(一)世界には始まりがあって終わりがある、こう書いたのは全体を俯瞰するところに来たからだろう。とは言っても全貌はよく分からない。が、自身がアクションを起こしたことで一つの世界が築き上げられ、活動が始まった。その証左は多くある、地図や冊子や著作などの発行物群、構築物としては文学碑四基、これに加えられるのが会の開催だ。その活動は広範囲に亘っている、が、尽きるところ2004年08月31日にブログを開設して発信を始めた、すべての活動の根幹はここにある。ネットでの繋がりだ、が、特記すべきはネットを通して多くの人々に出会ったことが一番大きい、何千人?何万人?もの人々との出会った。ブログ活動と人の出会い、それともう一つは調査だ、これも万巻を超える。今日のエントリー数は、4515である。一回単位、約1200字これを掛け合わせると、5,418,000字となる、活動の片鱗は文字でアップされ、ネット世界をさまよっている、そこから世界の誰かが一語を拾い上げ、コンタクトしてきて物語が始まる。

当初のブログの名称は、「浮遊的物語世界的日記」である。
 何にしても初めは、すべてがよく分からない。ブログを始めたときに、何をしようとしているのか分からなかった。が、漠とした世界があることは分かっていた。

 世界は浮遊しているものだ、その中にあって自分もまた世界に漂っている、そんな意味合いがあったように思う。しかし、何度もアップするうちに世界が見えてきたように思う。

 日々自転車を乗り回し、また歩き回った。やはり大切なのはどこに立っているかだ。段々分かってきたのが武蔵野だ、なかんずくは荏原である。

 今は、歩きだが、かつては自転車だった、散々走り回った。これによって筋肉がついてきた。とくには思い出深いのは多摩川左岸崖線だ、いわゆる国分寺崖線である。何百回と上り下りした。これによって筋肉が地形を覚えて込んだ。

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2022年07月25日

下北沢X物語(4514)―荏原学は、ありや、なしや 2―

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(一)昨晩のネットへの与太飛ばし、大成功だ、今朝、表題をGoogle検索に掛けるとトップに来ていた。googlebotは、ネット空間を絶えず巡回していて、少しの異変も見逃さない、「荏原学」は、たちまちに掬い取られて膨大な検索語体系に位置づける。具体的には100万以上のサーバーをデーターセンターで運用しているとのことgooglebot世界中をくまなく巡回し情報を収集している、この過程で「荏原学」は機械的に拾い上げられ認知された。機械が機械の感性によってこの語を拾い上げた、面白いことだ、この学の可能性を示唆するものである。特異性は間違いなくある。「東京荏原都市物語資料館」に潜む価値体系だ、現段階では混沌としている、ここには都市のカオスが匂う、突き詰めていくと東京西郊都市論……究極の都市論でもある、荏原都市はどういう都市であったのか?

 西小山の江戸見坂の逸話を紹介した。江戸の火事が遠望できた地点だ。夜空をまっ赤に染めるさまは、江戸の繁忙ぶりを映し出す。
一方、当地住民はほとんどが農民である、野菜を作って青物市場に出荷はしている。が、年貢を払うのもままならない。食うのでもかつかつであった百姓にとってはお江戸はやっかみの対象であった。

 江戸見坂からの火事場見物は、古代の話だ。これが明治に変わるとどうなるか。

 この江戸見坂の南手には稲毛道という古道が走っている。明治時代、この尾根道からは東京の繁栄ぶりが眺められた。

 不図見ると、東京と思う方は、宛然火事でも有るかの様に、明るさが空に映じて居た。瓦斯燈、電気燈、軒に並ぶ街燈、道行く提灯、虚飾と実用とに論なく、戸外に於て輝き合せ、夜の東京をして一層多忙ならしめて居る。その集団の遠き火光が、自づから大いなる背景を造つて、近き大崎田圃の発電所の大煙突二本を、切組絵の様に浮出さして居た。
 明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」 明治四十年


近代における東京の繁栄だ、これは美しいと景とも見える。が、手前には発電所の大煙突が東京の光を遮るように聳え建ち、黒い煙を吐き出していた。「切組絵」は、不気味に見える。

 『蛇窪の踏切』の主人公は若い女性露代だ、彼女は不治の病、肺結核に罹った。何とかしようと洗足家池畔の別荘に住む姉に助力を頼んだが、けんもほろろに追い返される。絶望した彼女は尾根筋道を通って品川へと向かう。このときに眺められた景色だ。決して明るいものではなかった。絶望している彼女には、繁栄が凄まじい生存競争として目に映る、

 作者、江見水蔭は、「如何とも仕様の無いのは生存競争の結果、倒れるものはどうしても倒れるのであろう」と述べる、実際に主人公はあ『蛇窪の踏切』で鉄道往生を遂げようとした。

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2022年07月24日

下北沢X物語(4513)―荏原学は、ありや、なしや?―

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(一)表題は、いつもの与太飛ばしだ、明日、「荏原学」が検索上位にくれば成功である、この言葉、先だって三軒茶屋で仲間内で納涼会を行ったときに言った言葉だ、「我らがフィールドワークをしているところが荏原だ、首都西郊のこの地域は、首都の中心部を眺め遣やる地点、東京を客体的な観点で眺められる地点である。ここがポイントだ、一帯の西郊都市の歴史をこの視点から眺めて再評価する、したがって荏原学というのは十分に成り立つ可能性を秘めている!」とアドバルーンをぶちあげた。皆、酔っ払っていたので、その反応が思わしかったのか、そうでなかったのか、よく分からない。が、荏原学というのは一つの観点としては存立しうるものである、と、考えている。

 徳富蘆花は、東京を逃れ千歳村粕谷に住んだ。彼は、明治39年(1906)ロシアのトルストイの家を訪ねた折に「農的生活」を勧められ、この翌年青山から引っ越して田園生活を送る、隠遁生活である。が、巨大都市東京の影響は大きい、絶えず意識された。

東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。
  「みみずのたはこと」 岩波文庫 上 1938年刊


 東京西郊の田園に暮らしたものの絶えず東京の影響にさらされた。彼の都市がどんどんと攻めてくる。安穏な生活を求めての転居だったが、それすらも侵そうする。この書き方には、首都から一歩退いて東京を眺め遣る観点が働いている。

 千歳村の場合は、東京から三里、約十二キロ地点だった、この距離というのは大事だ、荏原学にとっては東京との間合いは勘所だ。三軒茶屋などは東京から二里、約八キロ程度だろう。彼は東京から三里離れて東京を感じていた、まして二里ともなれば影響はさらに大きい。

 千歳村粕谷は田舎だ、静かである、が、「四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く」(同著)と言い、近隣の音も聞こえてくるが、都会の音も混ざって聞こえてきた。

 東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響き。稀に聞く工場の汽笛。

電車汽車は、粕谷北方を走る中央線ではないか、面白いのは午砲の響きだ。東京と横浜のこの音が一瞬ずれて聞こえてきたという。

 実は、この午砲、近衛野砲兵の兵員が撃っていた。今の昭和女子大は太子堂一丁目にあるが、ここに近衛野砲兵連隊があった、ここが午砲を担当していた。午砲を鳴らすために太子堂から皇居まで行っていた。 音の速さは340メートルだ。

 正午にドンを放つと、六秒遅れて音が三軒茶屋に響いた。この間合いこそが荏原学のキーワードだ。

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2022年07月22日

下北沢X物語(4512)―太子堂・三軒茶屋の古き思い出 2―

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(一)三軒茶屋は魔法に掛けられた町だとも言える。短時日で衣替えをしたからだ。かつてはどこもここも兵隊だらけの軍都だった、が、1945年8月15日を境に豹変した。突然の衣替えだ、終戦からしばらく経って進駐軍が来て、すばやく軍用地の区画割をしたと獣医の故廣島文武氏から聞いた。係官は図面を見ながら「ここは公園、ここは住宅団地、ここは学校」というふうに指示をした。現今、その指示どおりになっている。米軍情報部の日本研究は行き届いている。「国民は仇討ちを好む」、復讐や仕返しを恐れた、それで軍用施設の使い道を強引に決めた。反面、東京から離れた沖縄には米軍施設が次々とできた。東京での軍用地撤去、そして遠隔地での軍用地接収、三軒茶屋地区の軍用地の強制転用は、基地問題と間接的に関わる、が、軍事都市が魔法を掛けられたちまちに平和都市になったこと、我らはこれを全部忘れている。

 堀江鉄拡さんの「太子堂、三軒茶屋の古き思い出」を続けよう。

3、野砲連隊跡

 昭和女子大付近より、世田谷公園、池尻境くらいまでであったそうで。この兵隊さんを相手にした、茶屋、飲み屋などが、現在の中里旧どおりに沢山あったようです。


 三軒茶屋は軍都だった、が、こつ然と衣替えをして平和都市になった。三軒茶屋から池尻までの南側は野砲兵営が連なっていた。
野砲兵第一連隊、近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第八連隊である、現在の世田谷公園や自衛隊三宿駐屯地は、元の駒沢練兵場である。

 軍用地は広大な面積を占めていた。ところがその痕跡はほとんど残っていない。昭和女子大や三宿駐屯地の中に碑は建っている。が、自由に出入りできるところではない。

 戦争の痕跡、辛うじて残っているものが二つある。
 一つは下馬の韓国会館の建物である。野砲兵第一連隊木造兵舎がそのまま活用されている。が、その右半分は使われていないので朽ちかけている。

「韓国会館の野砲兵第一連隊兵の残存兵舎、壊されて去年の半分になってしまいましたね。あれは文化財的には貴重なものですよね。このままだと後の部分も壊されてなくなってしまう恐れはありますね。少しでも声を上げていかないと」
2012年02月09日のブログにこう書いている。建物について話をしたときに出た意見である。このときにせたがや街並保存再生の会の丸山さんがいた、彼は保存に積極的だったが、亡くなってしまった。
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2022年07月21日

下北沢X物語(4511)―太子堂・三軒茶屋の古き思い出―

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(一)時間は刻々と過ぎていく、今日は昨日に一昨日にたちまちになる。そのときに思ったり感じたりしたこともすぐに消えてしまう。今、三軒茶屋にはキャロットタワーが聳え建つ。以前は、広い空き地があって、サーカスの小屋がけがあったり、お化け屋敷もあったりした。…サーカス小屋に入ると動物の臭いが鼻についた、ライオンが吠えたときは怖かった。空中ブランコのお姉さんが手を離したときはひやりとした。暗がりからお化けが現れてきて追っかけてくる、死ぬほど怖かったという。が、そんなことは遙か昔の話、昨日も三軒茶屋を歩いたが、夏空には人参色のビルが建っていて、その下の道を人々が忙しく歩いて行く、あの昔は影も形もない。現実の乾いた時間があるだけだった。

 7月16日、太子堂連合町会の堀江鉄拡さんが町の案内をしてくださった。そのときに「太子堂、三軒茶屋の古き思い出」というレジメをくださった。町の記録としてこれを掲げて置こう。

1,キャロットビルの建つ前

 世田谷通りと三軒茶屋側と、太子堂側に同じような商店街がありました。太子堂側、商店街側、商店街の北側には、かなり広い空き地があり、昭和30年代初めには、サーカス小屋を掛けたり、季節になるとお化け屋敷などができた。その場所で豚を飼育いる人もいました。また6日には目青不動の縁日で世田谷通りには縁日が出て賑わいました。


 キャロットタワーは、商業・ホール・オフィスからなる複合ビルだ。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年に完成した。26階建ての高層ビルだ。当初は、風害やら日照の問題やらが心配された、地価高騰を招く危惧もあって反対運動も起きた。が、今は、キャロットタワーは三軒茶屋のシンボルとなっている。近代的なビルだ。

 これが建ったことで三軒茶屋は一変した、サーカス小屋があったり、お化け屋敷があったり、ヤギ小屋まであった。土臭い町だった、それが大変貌を遂げた。
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2022年07月19日

下北沢X物語(4510)―雨の三軒茶屋を古老と歩く 2―

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(一)三軒茶屋は尾根の町、道案内役の堀江鉄拡さんは、しばしばここの東西を横断する尾根筋道のことを言われる。その認識は土地っ子ならではの経験ではないか、子どもは動きが活発だ、尾根を境にして縦横に駈け回った。それが地形認識を深めたのではないだろうか。地図上で見る尾根道はゆったりと曲線を描きながら西へ延びている。一方、新道は南西方向へまっすぐに伸びている。本道は幾千年に亘って踏み固められてきた。動物や人間によってだ。しかし、新道は新たに作る道だ、まっすぐなのは測量機械の使用したからだと思われる。新道は近代の技術で開削されたものだろう。三軒茶屋は「ゆきわかれのちまた」となったが、近代が忍び寄っていたと考えると非常に興味深い。

 尾根状を走る矢倉沢往還に追分ができた。町の人々は、開通を記念して石碑を建てた。今、これは三軒茶屋三角地帯の突端に建っている。ところが最近になってこれが別の場書にあったことを知った。

 『ふるさと世田谷を語る』(池尻・三宿・太子堂など編 1994刊)には、
 
 大山街道沿いには寛延2年(1749)に建立された道祖神があって、当時道ゆく人の道しるべとなっていました。
 この道祖神は文化九年(1812)に再建されたものが今は三軒茶屋の分岐点に移された。


単なる石碑ではなく、道祖神として建てられた。これは辻などにあって悪霊や疫病などを防ぐ神として設えられたものだ。
 では、これはどこにあったか?。本文では図示されているのでそれを掲げる(写真)
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つまり初代は、道の向かい三軒茶屋1丁目38番地にあったようだ。国道246・大山道に面して建てられていたという。向きも問題だ、大山街道に面した道ばたにあった。正面は南を向いていたように思われるがどうか。碑の文言などは別宮通孝さんのブログ 三道楽ノートに詳しい。>http://blog.livedoor.jp/beckykusamakura/archives/46582027.html#commentsに詳しい。

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2022年07月18日

下北沢X物語(4509)―雨の三軒茶屋を古老と歩く―

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(一)文化とは言うが、何だろうか?今回太子堂八幡でお囃子の練習を見せていただいた。地域固有の伝承である。一昨日、好例の町歩きを行った。この途中で、まさに文化に出会った。わたしは、感想をこう述べた。「太子堂八幡神社はよく通ります。しかし、今日は偶然、皆様のお囃子と舞とを見せていただきました。あまり神様を感じることはありませんでしたが、笛の音を聞いたり、お祓いを受けたり、踊りを見たりして神を身近に感じたことです……」お囃子の構成員は子どもから大人までだった。何よりも楽しんでやっているところがよいと思った。このお囃子は古くからある神社の伝承ではない、二十数年前に発案されてそれが当地に生まれた「太子堂西山囃子保存会」の手によって受け継がれている。文化とは土の匂いのするもの、人々がこれに参加し、楽しんで行っていた。純粋に文化的だと思った。

 一昨日、町歩きを行った、「古老と歩く三軒茶屋」である。生憎当日は雨だった。集まったのは交番前である。第一の案内者は堀江鉄拡さん、太子堂四町目西山町会長である。

「太子堂の中心は、太子堂のある円泉寺一帯でした。あそこが本村でしたからね、家もそっちあってこっちに移ってきたのです……」
 重要な指摘だ、文禄四年(1595)阿闍梨法印、賢恵和尚が太子堂の地に寺を建てた。彼は大和の久米寺から十一面観音菩薩像と聖徳太子像を背負ってやってきた。そして当地に円泉寺を建てた。村人の多くはここに住んだ。中心になったのが七軒衆である。堀江家もこの一つである。

太子堂円泉寺は烏山川左岸の崖のつけ根、根は、山の尾根が立ち上がる麓の部分を指すものである。ちょうど谷頭にあってそこには泉が湧いていて、生活の場としてふさわしかった。それで本村がここに築かれた。(写真上は、「太子堂西山囃子保存会」の皆さんと記念撮影、中と下は踊りと舞)


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2022年07月16日

下北沢X物語(4508)―三軒茶屋は追分の町―

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(一)追分は古語である、「牛馬を追い、分ける場所」という意から発生したと言われている。追分は、道が二つに分かれる場所である。都内で有名なのは、一つは甲州街道と青梅街道とが分かれる新宿追分、もう一つは、中山道と日光御成街道とが分かれる本郷追分である。三軒茶屋も追分であるが、この語が被されることはない。検索で引くと当ブログが引っ掛かるが……、「三軒茶屋は追分の町である」ということは通例ではあまり意識されない。しかし、都市としての三軒茶屋を論じる場合、追分というのは重要なキーワードである。『わたくしたちの町世田谷』(世田谷区役所 1968年刊)に「三軒茶屋の名は、元禄(1688~1703)時代から記録にあらわれはじめています」とある。本当だろうか?

 三軒茶屋という地名はいつ頃できたのか、これは根幹の問題だ、都市形成の過程がここに関わってくるからだ。三軒茶屋という土地固有の名はない、追分ができてこの語が使われるようになった。

 ここが追分になることによって変化が起こった。もともとここを通る道は一本道、これは、「世田谷通り」、「津久井道」、「鶴川街道」などと呼ばれていた。やがて江戸時代中期なってここに分岐部が作られ、西下する新しい道ができた、相州道、大山道と言われる。

 追分は結節点だ、道程における節目であり、目印である。江戸を経っての初めて分か去れである。人々はここで憩うようになった。

その分か去れ地点である。三軒茶屋三角地帯の突端に今も道標が建っている。この碑の背面に建立された年が刻まれている。寛延二年(1749)とある。

 追分になったから三軒茶屋が生まれた訳ではない。追分ができて人が多く集うようになった。次第に賑わうようになって行った。その様子が文献に描かれる。

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2022年07月15日

下北沢X物語(4507)―鳥と散歩とビンボウカズラ―

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(一)ぼんやりしていると日々はあっと言う間に過ぎていく。その間、何かをしたか?ひたすら書きまくった、もう一つ誇れることはビンボウカズラを抜きまくったことだ。何本抜いたか分からない、これの繁殖力は凄いものだ、二三日、ほったらかしにしておくとニョキニョキ現れる。そして植え込みの景観を台無しにする。これを毎日散歩では抜いていく、まず、家の前の遊歩道を歩いて行く、約4500歩ほどで大山道に行き着く。途中駒沢通りまでが遊歩道で、その先は開渠式だ、後者では出て来ない。従って駒沢通りまでが自分の守備範囲?。ここまではひたすら抜きまくって行く。シーズンが始まってから五六千本?万本?は抜いているだろう。それで自分の守備範囲?の植栽はきれいに保たれている。

 抜いたビンボウカズラはゴミとなる、途中の家のおじさんは自身の奇癖を知っていて、遊歩道の決められたところに捨てて置くといつも片づけてくれる。

 習慣というのは怖ろしいものである。つい我を忘れて他所の家の庭のヤブカラシに手を出していることがある。敵は方々にいる、全滅は無理だ、それでなるべく見ないようにしている。それでもよく行く駒沢公園、守備範囲から外しているが、管制塔の北側のツツジの植栽だけは抜くことにしている。

 ビンボウカズラ抜き人は、不審者である。見ようによっては植栽荒しと見えなくもない。前は人が来ると止めていた。しかし今は堂々とやっている。やはり道というものはあるものだ、ビンボウカズラの抜き方だ、まず、先端を掴み、蔓の張り具合を確かめて奥まで手を延ばし、一気に引っこ抜く。やはり一つことを極めるには研究が必要だ。この頃手慣れてきたせいだろう。
「体育館に行くにはどういったらいいんでしょう?」
 公園の職員だと思って聞いてくる人がいる。
 
 ビンボウカズラ憎しという人はいる。
「これはね、すぐはびこるのよ。垣根の木々に巻き付いてさ、名前のとおりヤブを枯らしてしまうのよ。放っておくと心がビンボウになるから見つけ次第引っこ抜くの」
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rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化