2020年02月16日

下北沢X物語(3945)―興奮:駒沢ダイダラボッチ探索劇―

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(一)劇は三軒茶屋駅から始まった。「民俗学者の柳田国男は、まず、代田に残っていたダイダラボッチの足跡を探訪しました。つぎに南下して駒沢村にあった二箇所のダイダラボッチを検証しています。今日はその二つの場所を歩いて調べます。私自身は何度も歩いていてその場所は探し当てています。しかし、独善的な調査で間違っているかもしれません。それで今日は、なぜそこがそうだと言えるのか、具体的な根拠を提示します。それでお願いですが、今日は皆さんに検証者となっていただきます。そして私の考えが正しいかどうかを皆さんぜひチェックしてほしいのです」ということでダイダラボッチ探索ドラマは始まったのだった……

 昨日土曜日午後、三軒茶屋駅に6人は集まった。資料を配付する。

1、民俗学者柳田国男は昭和二年「ダイダラ坊の足跡」を発表した。その冒頭文だ。 

巨人来往の衝
 東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたのである。しこうして何(なん)人(びと)が記憶していたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。

,泙座膸なことは、大正9年1月12日に荏原のダイダラボッチの探訪にきた。このことによってこの東京が日本の巨人伝説の一箇の中心地だと知った。

△海猟敢困砲茲辰討呂襪昔、ダイダラボッチが往来していたことを知った。
 それを「巨人来往の衝」と表した


「まず、彼は代田のダイダラボッチを調べました。そしてつぎに駒沢村のダイダラボッチを検分しました。ここで彼は発見しました。何と足跡の向きが違っていたのです。驚きも驚いたり、予想では一人が歩いて足跡をつけたと思ったら、そうではなかった。彼は空を見上げるわけです。『何とまあこの東京の空をあの大きな巨人が、行ったり来たりしていたんだ』と衝撃を受けるわけなんです。ここには比較がありますね、代田とこちらのを比較して事実がわかったわけですから。ここの検証がいかに大事か。

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2020年02月15日

下北沢X物語(3944)―肖像の研究:岩野亮介展―

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(一)彫刻家によって彫り出された等身大女性には人格がある。一番苦労するところは顔だという。人体は米ツガだが、顔はヒノキだと。全体の核に当たるところで作品のできばえを決定づけるところだ。鑑賞者は顔を見て印象を深める。ヒノキは細部の表情を描き出すのに材料としてはもってこいのものだ。能面も檜材を使っている。彫った作品には魂が宿る。私はそれは心に宿るものと思っていたが、人間の魂は表情に宿るものだと知った。「確か学校時代にはこういう子はいたなあって」と一人の見学者が言っていた。どこにでもいるうちの一人、それが口でご飯を食べ、目でものを見てきた、恋もしてきたろう。人格全部が面に現れる。彫る側は作品を作るのだが、彼にとっては心象の反映だろう。

「できあがった瞬間から存在感がありますね。確か彼女はしまってしまったなと思っていたら、アトリエに立っているんですよ。なんかぎょっとしますよ」
 作品を作った本人もそんな思いをするとのこと。

「ここに二人の女性を並べているでしょう、一人はモデルの人で日本人です。もう一人は北欧人なんです。やっぱり顔の造りが違うんですね、耐寒性というのでしょうか、顔の凸凹が少ないのですよ。人間の造りが風土によって作られているということを実感しました」
 身体の構造が寒さに耐えるようになっている。ということは熱帯人は、熱帯人で暑さに強いようになっているのだろう。肌の色や目の色が太陽に関係してくると思った。

 日本人が汽車と遭遇してどのように変わったのかは深く興味を持っている。夏目漱石に『三四郎』という作品がある。冒頭すぐのところだ。

女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色であった。

主人公の三四郎は、熊本から東京へ上京する。列車が東に行くにつれ女の肌色が変わっていく。九州女の黒に慣れていたのにみな女性が白くなる。それで寂しいと。車中風景文化論だ。

 北欧女性は太陽光線が弱いゆえにメラニン色素の量が少なくて青色の瞳になる。肌も白い。これによって美人が形成される。

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2020年02月13日

下北沢X物語(3943)―彫刻家の芸術論:岩野亮介展― 

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(一)芸術家は作品がどう人に伝わるかということを常に考えている。画家は一筆一筆に彫刻家は一彫り一彫りに精魂を込め作品を創り上げている。老練な画家からは絵には哲学がなくてはならないと言った。昨日会った彫刻家からはその勘所は聞かなかった。しかし、人に感動や感銘を与えようと腐心していることはよく分かった。画家も彫刻家も作品を創り上げているときの時間はおもしろい、緊張する、充実していると。芸術には作家の命を燃焼させるものがあるのだと思った。一方文学も言葉との闘いだ、どの語を選び、どの接続詞を使うか?しかし、絵にせよ彫刻にせよ、こちらは一目で感動は伝えられる。

 昨日、世田谷上馬で開かれている岩野亮介展に行った。我等の間で話題になっている等身大の女性像が展示されている。
 この人形を使って邪宗門で写真を撮った。店のtwitterでは新しく来たアルバイトの〇〇ちゃんと紹介していた。
「邪宗門もいよいよ若い子を使うようになったのか?」
 後で分かったのはこれが彫刻作品であることだった。

「彫刻家というのは二系統ありますね。何に基づくかということです。一つは、デッサン力です。もう一つは漫画力です。こちらは現物というかモデルがなくても想像で描けてしまうのです。私は、現物がないと駄目ですね、モデルを使っています。この女性もやはりモデルです。本人そっくりに作ったのですよ。当人が気味悪いと思ったほどなんです」

「この作品をどうして作られたのですか?」
「まず本物のモデルを使ってまずデッサンを描いて、それから彫刻に掛かるのです。潤沢に金があればずっと雇っておけますがそうは行きませんね。基本的な形ができると今度は細部にかかりますね。服を着せた場合、どのような膨らみが出るとか、皺の陰翳がどうでるとかは大事なんです。モデルをずっと雇っていればそれも観察できますが。資金がつづきません。大元を作ってしまえば、その細部はこれを使ってできますからね」

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2020年02月12日

下北沢X物語(3942)―言葉と文化と人間― 

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(一)人が文明にどう接したか?深く興味を持っている。村垣淡路守範正は、万延元年遣米使節団に加わり、初めてパナマで汽車に遭遇する。彼が著した「航海日記」には「鐵路とて車道は薪を割りたる如き木を横に並べ」と記す。枕木などは知るわけもない、あり合わせの言葉で記録している。動き出した汽車に乗ったとき、「凄まじき車の音して走り出たり、直に人家をはなれて次第に早くなれば、車の轟音、雷の鳴はためくごとく」と、その恐怖を語っている。あれから160年、鉄道はすっかり定着した。今、この鉄道、保育園児は大好きだ。各線の陸橋は子どもの電車観望台となっている。通りかかる電車を眺めては歓声を上げている。

 子どもは電車は好きだが花には関心を持たない。梅の花の下へ来て先生が上を見なさいと言った。しかし、子どもらはダンゴムシに夢中で花を見ようとはしなかった。が、陸橋の上ではまず電車を見る。何にせよ子どもは動くものが好きだ。ゴミ収集車を見ても喜ぶ、おまけに「またきてね!」と清掃作業員に声援を送る、すると彼等も喜んで手を振る。

 子どもは動くものに興味を持つ。すると見分けもつくようになる。「先生、急行が来たよ」と。ここまでは分かる。が、「みなとみらい線が来たよ」という声には驚いてしまう。東横線に乗り入れている電車を区別しているということだ。これは男の子だった。

 対象に関心を持つと、対象が見分けられるようになる。もしかしたらこの男の子、東横線に乗り入れている西武線や東武線の電車も知っているのかもしれない。

 言葉の問題でいえば、この2020年度から、小学3,4年生から英語教育が行われるとのことだ。そう言えば思い出した。戦争中の疎開は3,4年生からだった。鉛筆部隊に入った子どもは日記や手紙を書かされた。
 3年生の段階は具体的思考から、抽象的な思考へと移行する時期だと言われる。この抽象的思考というのは、言葉を使って考えるものゆえに言葉をしっかりと覚え込ませる必要がある。疎開学童も見よう見まねで手紙を書いていたようだ。ようやっと三年の終わりなって手紙らしい手紙になってきた。

 この時に毛色の違う、英語を導入して大丈夫なのかという危惧を持つ。

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2020年02月10日

下北沢X物語(3941)―鉄道忌避としての雀の食害―

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(一)鉄道を通せば雀の食害を招く、そういう理由で京浜電車の敷設に不入斗の地元農民は反対した。ここで興味深いのは反対農民の予見である。鉄道が敷設されれば雀の大群が飛来する。これによって食害が起こると考えた。が、根拠なしに反対はできない。何らかの体験や経験があって反対運動は生まれた。アプリオリである、その先見は官鉄である。まず鉄道が新橋横浜間が開通した。つぎにこれに並行する形で京浜電車は敷設された。二つの鉄道線路は一キロぐらい離れている。先行した官鉄線で雀による食害があった。それを知っていた農民は反対運動を起こしたと推測できる。

近代の機械、汽車の威力は強烈だった、「この怪物の力で距離が縮まる、時間が縮まる、手間が省ける」(『現代日本の開化』夏目漱石)、これの出現によって大激変が起こった。便利なものは旧来のものを駆逐する。それで馬車の御者、人力車は鉄道に反対した。「草鞋が売れなくなる」ということで雑貨屋も反対したという。

 「草鞋が売れなくなる」というのは意味深い、産業革命による激変を象徴するようなものだ。汽車に乗れば歩かずに済む。それで人々は草鞋は不要になる。細々と草鞋を編んで生計を立てていた者は退場を迫られる。それで「鉄道敷設反対!」を唱えた。

 さて、大森不入斗の農民だ。京浜電車が走ることで危惧されたのは雀による食害だ。引用の続きだ。

 雀はね、一羽や二羽じゃねえんだ。ずーっと下りてくると、もう一ぺんに一升ぐれい食っちゃうでしょう。それだからね、もう稲が実が入ってね、垂れているのがね、それが食われちゃうと、すっと立つようになっちゃってね。だから、荒らされるといけねえって、ずいぶん反対運動があったけどね。
「大田区の文化財」 第二十二集 口承文芸 (昔話・世間話・伝説)
               大田区教育委員会 昭和六十一年刊


 電車線が敷かれると架線が張り巡らされる。が、ここで言っているのは架線のことではない。鉄道沿線に設けられる電線、電柱のことである。昔、これをはえ叩きと言った。まさにはえ叩きの恰好をしていた。電柱に無数の碍子が据え付けられ、ここに電線が張られた。こちらの場合、架線のように電車が通るたびにトロリーポールで追い払われることはない。電線に思い思いに停まって獲物を狙う。一回に一升も食われたのではお手上げだ。


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2020年02月09日

下北沢X物語(3940)―鉄道忌避の理由としての雀害―

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(一)機械近代、とくに汽車と電車とに人がどう遭遇したか、かねてより深い興味を持っている。中央線を敷設するに当たり、甲州街道沿いが計画された。が、沿線農民と商人は反対した。理由として農民は汽車の煙による農作物への煙害を、宿場町は鉄道による旅客の減少を挙げた。が、中央線が開通して逆に沿線は取り残された。それで京王電車が甲州街道沿いに敷設されるときは、むしろこれを歓迎したという。一方、荏原南部、現大田区では京浜電車が敷設されるときに農民は反対した。理由として挙げられたのはチュン害である。雀による被害を恐れてのことだ。文化史の一端として非常に興味深い例だ。

京浜電気鉄道の開通は早い、明治34年(1901)年2月に大森停車場前と川崎駅間が開通している。開通して線が延伸されるに連れ旅客需要が急激に伸びた。電車本数を増やすためには電力が必要だった。それで甲州で起業された桂川電力に頼んだ。

 鹿留発電所および送電設備の完成を受けて,1913(大正2)年6 月から桂川電力は最大の供給先である日本電灯への送電を開始した。
 (「関東の電気事業と東京電力」 2002年刊)


鹿留発電所で起こされた電気は、六郷線で六郷変電所に送電された。これは京浜電気鉄道に電気を供給するためである。この六郷線は現在も残っている、世田谷地区を南北に貫いている高圧線、駒沢線である。

 京浜電気鉄道敷設への反対が起こったのは明治三十年代だと思われる。この時の様子が逸話として語り伝えられている。

 電車(京浜)が敷けたときのこと。ここは農家が多いでしょ、だから電車なんか敷けるとだめだって、そいで、で、どういうわけでだめだっていうと、スズメがうんと飛んで来ちゃう。電信(線)へね、雀がみんな止まって、それで追えばサッと逃げて、そいでだれもいなくなれば、サーッと下りて来て、みんなカラカラに食べちゃうんですよ、稲を、田んぼを荒らしちゃうんだよ。それがためにね、電車なんか敷けちゃだめだって、ずいぶん反対があったんだよ。だけど、どうにもしょうがねぇんで、敷けることになったって。

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2020年02月07日

下北沢X物語(3939)―ダイダラボッチ跡巡礼行―

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(一)ダイダラボッチは人々の想像力の産物だ。我々は生まれて以来時を重ねてきた。が、人間には手がかりが必要だ、手近な例でいえば、柱の傷だ、「ここまで伸びましたよ」という記しだ。歴史を持たなかったまっさらな中を生きてきた人々が考えついたのは手がかりだ。古代人は祝宴のときの鯛の骨を屋根裏の藁に突き刺したという。これも柱の傷だ、言ってみれば覚えである。自ら付けたものではないが大きな足跡を人は見つけた。手がかりだ。これは何だというときに大地の眺めを眺めながら想像する。富士がある、丹沢がある。巨人と山、着想の出発点だ、山と同じ大きさの巨人がいた、その巨人が山を運んだのではないか。その足跡がここにある、と、想像したとき、足跡は崇める対象となった。

 民族学者柳田国男は、世田谷代田のダイダラボッチ跡を検分した後、更に南下して駒沢村の跡へと向かった。「この日さらに地図をたどりつつ、そちらに向かって巡礼を続けた」(『ダイダラ坊の足跡』)と記述している。巨人の足跡をたどることを「巡礼」と彼は称している。

 今年になって、私もまた、巨人の足跡を探訪し続けている。矢畑、摺鉢山、狢窪、洗足大池、池上警察署、代田である。これら一つ一つたどりながら巡礼の意味を思った。

 ネットの「コトバンク」で解説されている意味は、こうである。


順礼とも書く。神聖な場所,寺院などをめぐって巡拝すること。宗教上の行為の一つの型としては,宇宙の創造の起った場所,すなわち宇宙の中心の象徴化としての聖地への回帰である。聖地に到達することによって,人は俗から聖へ,死から生へというように,古い身分として死に新たな身分として再生できるとする宗教的感情を背景としている。


 この巡礼を深く考えることはなかった。が、たどることによって生じてきたのは巡礼意識である。つい二三日前も、狢窪から摺鉢山をたどった。赤松小学校の裏手には深い凹みがある。狢窪だ。地元の人の話だと電柱に「狢窪」の銘があったという。が、今はもうなくなっている。それでも凹みの中心に立つと感銘が湧いてくる。「聖地到達」という感慨はないが、太古から続いた時間を思った。その地に立つとなにがしかの感情が湧いてくる。

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2020年02月06日

下北沢X物語(3938)―ダイダラボッチを町の起爆剤に―

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(一)日々歩いている、ついこの間は、ダイダラボッチが住んでいたという池上警察署へ行った。「ここにダイダラボッチが住んでいたんですが?」、「知らん!」、「間違いありません!」と食い下がったら「妄想罪で逮捕する!」。そんな想像を警察署前でしたことだ。ともかくダイダラボッチはおもしろい。スケールがでかい、ダイダラボッチが土を掘り、山を築いた。掘った跡は琵琶湖になり、その土で富士ができた。太古の因縁は今に生きている。この伝説が元になって近江八幡市と富士宮市は「夫婦都市」として契りを結んだ。町の活性化の一つの方策だ。代田はダイダラボッチを語源としている、強力なアピールポイントだ、歴史文化が濃厚な世田谷代田も隣り町に攻められて影が薄くなりつつある、起死回生、伝説をテコにして町をアピールする、今地元は徐々に盛り上がってきている。

 先だって、羽根木の「在林館」で開催されている「ダイダラボッチと守山小学校」の見学に行った。開催趣旨はこうである。

 代田の地名の由来とされるダイダラボッチ。守山小学校裏庭の窪地はその大男の足跡だったのです。
 柳田国男をはじめとする民族学者の著作や地形図、そして守山小学校卒業生の記憶や古写真をもとに、かつての風景を蘇らせたいと思います。
 どうぞ守山小学校の裏庭に思い出を教えてください。


来春、世田谷代田駅前広場が完成する、ダイダラボッチ広場(仮称)にはダイダラボッチの足跡がお目見えする。地域のシンボルをかたどった広場だ、地元では駅前広場開場記念事業実行委員会を設けて今から準備をしている。当会もこれに協力している。

 昨年末に「下北沢文士町文化地図」改定8版を当会は発行した。これは「世田谷代田駅前広場完成記念」(2020年度春)として現在無料で配布中だ、この裏は、「代田のダイダラボッチ」〜民族学者柳田国男の探訪と発見〜とした特集記事を載せている。

 当初予定では、この春にも広場が完成するはずだったが、オリンピック関係の工事などの影響もあって完工は遅れる。来年春には開場するだろう。これまでには間ある、そんなことから中間イベントをとの話があって、今、案として上がっているのは4月11日(土)である。様々なイベントが行われるが、我等は、来場者に地図を配ることにしている。

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2020年02月04日

下北沢X物語(3937)―ダイダラボッチとドンガラ様―

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(一)池上警察署裏のドンガラ様を訪ねたのは十年ぶりだった。そこに特異な風景は残存していた。回りよりも四、五メートルほど高い、五、六十坪ほどの土地はそのままだった。階段を登っていくと門があったが、これは閉ざされている。一匹の三毛猫が番をしていた。ここは馬頭観音教会という日蓮宗のお寺だった。が、境内は枯れ草ぼうぼう、人の気配はない。お堂は残っていたが朽ちかけている、廃寺となっていた。前に来たときは一月で池上七福神詣でをする人がいた。が、年月転変、十年という時の流れが空気まで含めて一切を古びさせていた。時の流れは何もかも過去に追いやってしまう。茫然としていると、「ニャー」と猫が鳴いた。

 十年前に訪問したときのことがブログに残されている。

 ドンガラ様のある馬頭観世音教会はそこだけ周りの時間から切り離されていた。全くの別時間、古代時間が流れていた。近代人間時間ではなく、古代馬時間である。
「今はね、隣の警察署はこんな高いビルになっているんですけどね、昔は平屋だったですよ。ここからそこの死体安置所が見えたんですね。そこに死体が安置されているときなんか風もないのにお堂の扉がぎぃぃと音を立てて開いたり、突然におりんがちぃりりんと鳴ったりしていましたね。」
 話し好きの住職がそんな逸話を話してくれた。


 慶応3年徳川慶喜は大政を奉還したが幕臣たちの中には反旗を翻すものもいた。その一人、渡辺健蔵は近くの霊山橋で惨殺された。首と胴体は別々になったという。その胴体が葬られて胴殻様と言われるようになった。曰く因縁のある土地だ。

「ここもね長くはもたないと思うんですよ。前は信者さんも多くいたんですけどね、段々にいなくなってね。もうそれも残りわずかですよ。地所は大体五六十坪ぐらいですかね。ここだけ取り残されているから他とは五、六メートルほど高いんですよ。でもね、ご覧のとおり周りがビルでしょう。基礎工事やって深く掘るでしょう。地下水なんかがそれで変わってしまうんですよね。だからだんだんに崩れて来ているんですよ。改修とかするに何億とかかるみたいなんですよ。それはできないですね。それで建築基準法が変わったでしょう。この地所に木造二階建てとかの建物はもうだめですよね。今のこの古い家は改正前に建てたものですからいいですけどね、これはね、二階は都立大学の寮として使われていたんですよ。ええ、八雲にあった都立大学ですよ」
 自身が八雲から来ていることは言わなかった。話が横道に逸れてしまうからである。
 「馬頭観世音」と書かれたこの寺院の境内には六角の観音堂がある。「池上七福神」のうちの一つになっていて大黒様も祀ってある。折々、七福神巡りの人が訪れて来る。みな地図を持っている。
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2020年02月03日

下北沢X物語(3936)―池上警察署のダイダラボッチ―

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(一)「ダイダラボッチという手の長い途轍もない巨人達が今の池上警察署あたりに住んでおった」と言う。それが「火を使っていなかったそんな大昔」だと。これ数万年前だよ、なのに突然、現今の池上警察署が出てくる。こっちは昭和24年に開設だ。なんともいやはや、この伝説、恐ろしく長い時間をごちゃ混ぜにして語られる。もっと驚くのはダイダラボッチは何人もいた。踊り始めたら大変だ、池上警察署の署員だけでは鎮められない。「ダイダラボッチ諸君、フラダンスをするのはやめたまえ、東京中の人々が君らの震動でふらふらになっている」とDJポリスがなだめにかかる。この話、大人のメルヘンだ、やっぱり頭の中で想像して書いてはいけない。池上警察署は巡礼しておく必要がある。昨日は自宅を出て呑川をひたすらに下って現地へ行ったのだった。

 伝説では、ダイダラボッチが住んでいたのは「池上警察署あたり」という。ここがおもしろく興味深い。実は、私はここへ何度か来ている。そのときのことは記事にアップしている。自ブログ検索をすると、期日は2009年1月23日とある。何と十年前のことであった。

 まあ、そのことはテレビ番組「小さな村の物語 イタリア」でのナレーション手法でよく使われる言い方で転換しよう。

「アドリアーノ爺さんは、65歳の漁師ですが、やっぱりダイダラボッチには出会ったというのです。が、このことはまた後でお話しましょう」
 気を持たせたような言い方をして話題を転換する。これに習う。

 さて、先に「新大田区の民話」の冒頭を紹介した。その次の箇所も紹介しよう。

(今の池上警察署あたりに住んでおった)
ザブッ ザブッと海に入っては
長い手で貝を採り漁っては食べ
貝殻を穴に捨てておった
その跡が久が原の貝塚だ


 まず大事なのは巨人がいる場所だ、現在の池上警察署辺りだ。この北側には久が原台地が連なっている。つまり、警察署は台地から延びた舌状台地の先端部に当たる。かつては海岸がここのすぐ下まできていた。

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2020年02月01日

下北沢X物語(3935)―荏原ダイダラボッチ伝説―

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(一)東京はダイダラボッチ伝説の一箇の中心地だ、柳田国男は「ダイダラ坊の足跡」の冒頭で述べている。理由は、実際に巨人の足跡の痕跡があったこと。(世田谷代田)また当地域一帯に伝説地が多く残っていたことを根拠としたものだ。地域は荏原である。その伝説地は、世田谷は二箇所、目黒は二箇所、大田は四箇所となる。数字だけでいうと南部が多い。印象批評的にいうと北部には口承伝説の残存が認められるが、南部ではほとんど認められない。やはり代田ダイダラボッチが一番で、こちらでは古老の多くが知っている。南部では、さんざん歩き回って聞いて居るがいまだに証言は得られていない。ところが、こちらには北部にはない特徴がある。海に近いゆえにこれ関連の新手の伝説がある。

 洗足池図書館で「新大田区の民話」という本を見つけた。これにダイダラボッチの伝説が紹介されている。

火を使っていなかったそんな大昔
ダイダラボッチという
手の長い途轍もない巨人たちが
今の池上警察署あたりに住んでおった


 「火を使っていないそんな大昔」、どきりとする。何時なんだ? 旧石器以前か?調べるともう12万5千年前には火は使われていたという。気が遠くなるような昔だ。
 しかし、そんな古いのに話なのに突然、池上警察署が出てくる。

「確かこの警察署は新しいはずだ」
 思い出したのは坂口安吾である。ここの警察に捕まっていた。
 昭和24年8月に「アドルム中毒の発作が再発し,池上警察署に留置される」と年譜にはあった。戦後のことである。
 
 坂口安吾は蒲田に住んでいた。ここの家にあった門柱を譲り受けて、代沢小に坂口安吾文学碑を建てた。この関係で現地には何度も訪れた。そこは池上警察署からも近い。

 坂口安吾の代表作の一つは、「白痴」である。戦時中、昭和20年4月15日、一帯は空襲を受けた。蒲田空襲とも言われる、このときのことが作品には記される。印象深く覚えているのは「蒲田署管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集れ」という記述だ。
 矢口国民学校は地理的には池上警察署に近い、が、当時は蒲田署管内だった。やはり前者は新しい。

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2020年01月31日

下北沢X物語(3934)―会報第163号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第163号  
          2020年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、歩きを楽しもう きむらけん

 歩きには発見の面白さがある。行き行くとそこはかとなく道が曲がっている。すぐに直感が働く、古道に間違いない。毎日あるいると分かるようになる。古道には趣や風情がある。この曲線をたどって人は旅をしたのだな。そんな想像が湧いてくる。
 歩きには物語を発見する楽しさがある。家と家の間にずっと続く金網に囲われた道、かつてのドブであり、小川だ。こんもりと茂った小さな森、空き家だ。そこに人が住み、子が産まれた。が、皆年老いてちりぢりになったしまった。どういう人たちだったのだろう?おやおや向こうからちぃちゃい子がやってくる、目が合うとバイバイをする、この子たちはこれから未来を生きて行く、大人達がさんざんに浪費した資源、財産、思えば先々は厳しいと思う。が、笑って見送るしかない。
 この間擦れ違った夫婦、「お父さん、十時間もテレビ見てちゃだめよ」と奥さん。それはそうだ、ボォッとテレビ見ていたらチコちゃんに叱られる。人間は、営為の動物だ。大事なことは、動かすことだ。ここで大事なのは二つだ、たった二つしかない。身体を動かし、頭を働かせることだ、もっとも基本とされることだ。
 人間、血の巡りは大事だ、ボォッとしていると人間、覇気がなくなる、気持ちも沈む、免疫力も低くなる。血を循環させることは大事だ。簡単なのは動くことだ。歩きまで繋がるとベストだ。萩原朔太郎は、こう言っている。
 
 私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。

素晴らしい!人間は等しくみな時間を与えられている。この時間をどう生きるかだ。やっぱり歩きに尽きる、歩いていると自然に時間が経ってしまう、自然にお腹も空いてくる、かつまた歩いていると犬や猫や子供に出会う。新しい風景にも出会う。これほどすばらしいことはない。会員からはこんな手紙を戴いた。

 「散歩は万能薬」「日々歩いているとあまり遠くへ旅をしようと思わなくなる」に深く共感しております。区内でも初めての道を歩いていますと旅をしているような気分になります。 ( 尾崎由実さんより)

 素晴らしい感想だ。このところ新聞広告は海外旅行のオンパレードだ。飛行機にぎゅうぎゅう詰めされて、現地へ行ってバスで回って景色を見る。運搬されていくばかりが海外旅行だ。自分の力で歩いて景色を発見する、近間でもいい、自分の足で歩いて発見を。何十万掛けて旅行するよりも五百円玉一枚でよい。
 来たれ!我等の町歩きへ!
(このところ参加者が減っている。ぜひ参加してこの行事を継続させたい)

2、いつか六郷用水で 木村康伸

 今年の「都市物語を旅する会」の初回は「六郷用水物語を歩く」と題して1月18日(土)に実施する予定であったが、当日はあいにく雪まじりの雨となり、歩きは中止となってしまった。今回の案内役として昨年末から準備を進めてきた私としては残念でならなかったが、気温も3.8度までしか上がらない寒い日であったから、いずれにせよ歩くには不向きであった。
 ところで、今回歩く予定だった六郷用水は、江戸時代の初めに徳川家康が家臣の小泉次太夫に命じて整備したものである。当時の六郷領(現在の大田区南部)を灌漑するためのものであり、小泉次太夫は十二年の歳月をかけて六郷領全体を潤す用水路を完成させた。これにより、それまで水の乏しかった六郷領は豊かな水田地帯へと生まれ変わり、江戸幕府を支える「城南の米蔵」になった、とされている。
 しかし、会の準備のため六郷用水周辺を何度も歩き回り、この地域の歴史をいろいろと調べていくうち、はたして六郷用水の評価はそれだけで良いのか、と思うようになった。
 六郷領は、多摩川に面した地域である。多摩川と言えば、昨年十月の台風19号による周辺地域の水害が記憶に新しいが、前近代における多摩川は「暴れ川」として度々氾濫を起こし、今よりもはるかにひどい水害を頻繁にもたらしてしていたという。徳川家康が江戸に入府した天正十八年(1590)から江戸幕府終焉の慶応四年(1868)の279年間に、わかっているだけでも計116回の河川氾濫が発生しているそうだ。そのような状況の中で当時の人々はどのように用水を守ったのか、そしてまた川や水とどのように向き合っていたのか。災害の多い現代を生きる我々にとって考えるべきことであるように思う。
 そんなことも踏まえて、いつか季節の良い時に改めて皆さんを六郷用水沿いへご案内する機会があれば幸いである。

3、≪下北沢の凮月堂と森茉莉さん≫

        エッセイスト 葦田 華

 下北沢駅の北口から階段を降りると、真ん前が果物屋さんで、その左隣が“凮月堂”だった。
凮月堂の洒落たガラス戸の一階は和菓子屋で、大切なお客様が来る日には、祖母に言いつけられ
て、決まってここの和菓子を買いに来たものである。
 ここの和菓子は実に美味しくて、甘みも程よく上品であった。
 ある日のこと、大学のクラスメートに、「あなた、下北沢の凮月堂を知っている?」と尋ねられた。
「もちろんよ。いつも和菓子を買っているわ」と言うと、友人は「二階に上がったことある?」と尋ねた。
「二階?上がったことはないわ」と言うと、友人はしたり顔で、「二階はね、喫茶店なのよ。そこへね、
森茉莉さんが毎日来てね、ずっと原稿を書いているんですって! ねえ、二階の喫茶店に行ってさあ、二人で森茉莉さんを見てみない?」と言った。
「森茉莉さんて下北沢に住んでいるの?」
「そうよ!南口から少し歩くと森茉莉さんが住んでいるアパートがあるの。あたしも同じアパートに住んでいるのよ。」
 彼女はそう言った。
 私は森鷗外に失礼な気がして、「私は二階の森茉莉さんを見物するなんてこと、絶対に嫌だわ!」と断った。
 軍医総監にして文豪であった森鷗外が、限りなく愛していた令嬢、森茉莉さんが、自分の書斎も持てずに、喫茶店で原稿を書いている姿は目にしたくなかった。
 森鷗外の次女・小堀杏奴さんのエッセイに、「姉の茉莉さんと兄の不律;フリツ…生後半年)さんが百日咳に犯され、不律さんは亡くなり、茉莉さんもあと24時間と医者に告げられた時、父鷗外は茉莉さんの枕許に座ったまま、後から後から涙のこぼれるのを膝の上に懐紙を広げてうつむいていて、その紙の上にぼとぼとと涙が落ちる」と書いてあり、私は非常に心打たれた。
 茉莉さんがあまりにも苦しむので、モルヒネなら10分で安楽死させられると某医者が言い、そうしようかと夫妻が決めかかったその時、妻しげさんの父上が見舞いにきて、「馬鹿な!」と一喝し、「人間には天から授かった命というものがある。天命が自然に尽きるまではどんなことがあろうとも生かしておかなくてはならない。」と叱ったそうである。
 そのことで、某医者は、「こういうことは他人に知られたら注射は出来ない」と言い、モルヒネの件は中止になったそうだ。その後 茉莉さんの容態は変わり、ずんずんと良くなったのだそうだ。
 森鷗外という人は、実に優しい人で、書き物をしているところに杏奴さんが駆け込んでも、すぐに筆を置いて優しい笑顔で相手になってくれたし、犬が苦手な夫人に代わって、夕食後に新聞紙を持ってくると、真ん中にご飯を置き、家族の残したおかずを乗せて、新聞紙の四隅を持って台所にまで持って行き、犬に与えたと書いてあった。
 私は鷗外の短編“高瀬舟”を読んだ時、作者の人格の高潔さが、主人公の心に投影されていることを痛感して、いたく好感を持った。
 森鷗外は死に臨んだ時、家族を遠ざけて、親友の賀古鶴所のみに遺言を託したそうだ。
 墓石には“森林太郎の墓”とだけ彫り、決して余分な事を印すなと伝えた、ということを何かの本で読んだ記憶がある。
 “森林太郎の墓”は奇しくも“太宰治の墓”と同じ三鷹の禅林寺の墓地にあり、私は歩けるうちに、是非お訪ねして、美しい花を手向けたいものだと願っている。

4、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16時頃としている。前日の天気予報で雨の場合は中止する。中止連絡は行う。

第158回 2月15日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋中央改札前
 駒沢ダイダラボッチ探訪会 案内人 きむらけん
 2020年度に世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった広場ができる。大きなニュースとなるはずだ。柳田国男は、代田ダイダラボッチを訪ねたことからこの東京が巨人伝説の一箇の中心地だと認識する。この決め手となったのが駒沢ダイダラボッチとの比較だ。世田谷代田のダイダラボッチ跡は残っていない、が、駒沢ダイダラボッチは今もひそかに残っている。その駒沢ダイダラボッチを探訪し検証する散歩会を行う。
・駅→鶴ヶ窪遺跡跡(アクティ三軒茶屋)→テコテン坂→鶴ヶ久保公園(ダイダラボッチ)→駒沢第二のダイダラボッチ(清水丸弁財天跡) 行程四キロぐらいで短い。
 解散場所は、野沢龍雲寺バス停(野沢サミット)ここから下北沢行きのバスがある。


第159回 3月21日(土) 13時 東急東横線代官山駅中央口前広場
キュレーター きむらたかし 「三田用水ツアー第2期最終回」
〜旧朝倉家住宅内水路と鉢山分水跡を歩く〜
コース:〔重文〕旧朝倉家住宅*−同庭園内水路**−(同住宅内見学 14:00まで)猿楽塚ー猿楽分水口跡―朝倉水車跡―西郷山水車跡−鉢山分水口跡−(鉢山交番)−鉢山分水路跡−並木橋(伝鉢山分水放流口)―渋谷駅
*入場料:60歳以上は身分証明書提示で無料、その他100円
**庭園内はハイヒール・サンダルは危険につき不可
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代) 参加申し込みについて(必ず四日前まで連絡してください。資料部数と関連します)  きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278


■ 編集後記                                  
▲夏の研究会・納涼会について。期日は8月8日としました。場所は北沢タウンホールです。2月1日に金子善高さんが会場予約申し込みに行ってくださいます。スカイホールと思ったのですが、値段が倍になるので二階集会室にしました。計画としては始まりのところで研究会ができたらよいと思います。一時間設定して、20分で三人、30分で二人、何か発表してくれる人を募集します。応募がなければ納涼会のみとします。ぜひ、応募をテーマは問いません、ご自分の興味あることであれば何でも、会員でなくとも構いません。
▲原稿募集:今、若い人たちがどう人生を生きたらよいのか?悩み、苦しんでいます。そういう人たちへのメッセージをいただけるとありがたいです。この会報や東京荏原都市物語資料館のブログなどに掲載します。どなたでも結構です。当方のメルアドへ。
▲会員は、年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
ただ、振り込み手数料が掛かる。それで会員名と住所とを封筒に書いて、中に会費を入れて歩く会のときとか、または邪宗門に立ち寄ったときに払ってくだされば助かります。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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2020年01月29日

下北沢X物語(3933)―黒澤信男画伯の風景哲学2―

海岸風景
(一)漱石、『草枕』の冒頭で、「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」と述べる。我々が生きている世の中はつまらないもので煩わしい、ところが、生きてていくことは素晴らしいことで夢も希望もある、それを描出して見せるのが詩であり、絵画なんだ。詩と絵は人間を勇気づけるものだ。黒澤画伯はご自分の師匠から「絵には哲学がなくてはならない」と教わった。彼は努力を傾注して精魂込めて絵筆をとり続けている。絵筆の一刷一刷きに精神を集中し見えない哲学を絵に描き続けている。人が懸命に努力を傾注する様は素晴らしい。万人が画家になる必要はない、ここの生活においてここだけは譲らない、そういうものを持って生きることは大事である。

 「山湖展望」(藤原湖)という画伯の作品がある。藤原湖は、「利根川水系上流ダムでも最も古い藤原ダムの建設によってできたダム湖」である。この作品、やはり雪景色である、手前に雪に埋もれた集落がある。その屋根の向こうに湖があって、湖を包むように連なっている山々も雪に埋もれている。

「ただ風景を写したものでは意味がありません、深みですね」
 そういうことを画伯は言っていた。何を描こうとしていたのだろうか。
「絵というのは人間を描くものです」とも言われた。
 湖や山には人の気配はない、とすれば、手前に書かれている七、八軒の家がポイントである。深い雪に埋もれた家々の中では人々の暮らしがある。どんな生活をしているのだろうか?
 単純に云えば冬景色だ。が、そこにきざしが見えているように思う。集落の家々で手前にある家が大きい。藁葺き屋根であるようだ。子細に見るとこの家の軒先の雪の端が崩れている。冬ではあるが少し気温が緩んできて軒先の雪が落ちたのではないだろうか。

 そう言えば、山々を被っている木立もほのかな色合いが見える。枝枝が霞んだように薄茶色に塗られている。木々の芽吹きなのかもしれない。春の兆しをそれとなく描いてこれを絵の魅力としているのだろうか?
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2020年01月28日

下北沢X物語(3932)―黒澤信男画伯の風景哲学―

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(一)人生をどう生きるのか?若い人が今悩んでいる。私は、常日頃人生の熟達者に出会う機会がある、そんな人から若い人に伝えられるメッセージを拾えないかと考えている。そのチャンスが巡ってきた。日曜日に会があった。この時に同席したのは風景画の大家、黒澤信男画伯だった。もう九十歳になられるという練達の師だ。今も毎日カンバスに向かい筆を揮っておられる。「やっぱり、好きだからでしょうね」と。声調は表現できないが味がある。その言葉を聞いて、「人生とは好きなことを見つける旅である」と私は思った。もっとシンプルに言い換えれば、「おもしろがって生きる」ということだ。

 画伯は風景画の大家である。“リアルな雪景”という作例を樹立された画家である。アトリエ派ではなく、戸外派である。
「実際にそこに行かなきゃだめですね」
「分かります、その現場に流れている空気とか匂いがありますね。そこに行って風景を見るのは私も好きです。汽車が好きでして方々回って風景を見てきました」
「今は汽車とはいいませんね」
 黒澤画伯が言われる。
「ほんと汽車とはいいませんね」
 そう言って笑った。が、この汽車という言葉ほど思い出深いものはない。

 かつては原風景や自然風景は至るところにあった、どこに行ってもふんだんに見られた。ところが今はこれが無くなってきた。海岸はコンクリートの護岸で固められてしまった。また山も高速道や新幹線で切り崩されてしまった。今痛切に感じることは、私たちは心の拠り所である自然風景をどんどん失いつつあることだ。

 黒澤画伯は、自然風景を描くことを得意とされている。山があって田園風景がある、多分、そういうところを求めて、イーゼルとキャンバスを担いで渡り歩かれたのではないだろうか。
「画伯は何年生まれですか?」
「昭和5年です」
「とすると疎開されたのですか?」
「私のところは田舎ですから受け入れる方でした。埼玉の本庄ですから」
「ああ、なるほどね、戦争末期には北関東にはB29が航空機工場を徹底的に爆撃していましたね。本庄でもB29の編隊は見られたでしょう」
 戦争を体験されたゆえに風景には愛着があるのではないか?と思った。

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2020年01月26日

下北沢X物語(3931)―自由が丘・矢畑のダイダラボッチ―

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(一)毎日歩かない日はない、考えに耽りながら町を観察していく。このところ思うのは街が平板化してしまったことだ。その場所固有の匂いがしなくなった。薬屋にせよ食べ物屋にせよ同じ看板の店が並んでいる。チェーン店だ、看板の色合いも同じだからどこへ行っても同じである。人はとっかかりを求めて生きている、が、それがなくなってきた。あそこのお饅頭、あそこのお豆腐、あそこの漬物、かつてあったものがすっかりなくなってしまった。空間的とっかかりもないし、時間的とっかりもない。この間緑丘へ行く途中新築現場に行き会った。柱だけ立っていた家だったが、帰るときには外壁がすっかり整っていた。トラックで運んできた壁をクレーンでおろしたちまちに組み立ててしまった。我々は近代という時間を手がかりやとっかかりを失いつつ生きている。

谷畑のダイダラボッチの話だ。先にこの話は、雑誌「武蔵野」に載っていたと紹介した。書き手の谷川磐雄は、鈴木堅次郎から谷畑のダイダラボッチのことを教わったと記している。堅次郎は歴史家であったようで荏原のダイダラボッチについて相当に詳しかったようだ。大正八年六月一日に武蔵野会主催の「駒沢遠足」が行われている。このときの報告を大正八年七月に発行された「武蔵野」特別号に報告記事を書いている。ここにこうある。

 由来ダイダラボッチ話は巨人伝説として取扱はれてゐるが此の足跡は荏原郡碑衾村大字衾より此處を経て世田谷村大字代田に飛んでその間隔半里以上ある

 この記述、野沢の稲荷神社脇のダイダラボッチのことを記している。鈴木は、ダイダラボッチの足跡のことを言っていて、まず碑衾村のダイダラボッチ(これは谷畑のダイダラボッチに違いない)を起点にして、次に野沢に、そして代田へと足跡が飛んだと言う。その間の距離が、大体半里、ということから巨人の足跡の間隔は2キロぐらいあったとしている。
 鈴木堅次郎は、歴史研究家で荏原一帯のダイダラボッチは隈無く渉猟していたようだ。
谷畑のダイダラボッチも間違いなく確認しているだろう。

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2020年01月25日

下北沢X物語(3930)―谷畑界隈散策・目黒区海軍軍人名簿―

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(一)確実に人間不信の時代に陥っている、十五年間、聞き込みを続けてきた。が、このところ私に人は不審の目を向けるようになった。「谷畑のダイダラボッチ?」という質問に対し三人のうち二人が「知らねぇ」と。加えて「こいつは怪しい」とばかりに当方をねめ回してくる。「こいつはダイダラボッチという妙な言葉で釣り込んでくる新手の詐欺ではないか?」、初手から引いているその目つきで分かる。聞き込み暦一万人、痛感するのが聞き込み力が錆びてきたことだ。古老の脳の中に眠っている文化を掘り起こすことが極めて困難な時代になってきた。 

 灯台もと暗し、一歩離れたところの事象は分かる。が、界隈のことあまり知らない。近すぎるゆえに放置していた。石坂洋次郎「日のあたる坂道」の坂は何のこともないっつも通っているところだった。それで、改めて近隣を歩いてみた。居住地に隣接するのは自由が丘、緑丘である。かつての字名は谷畑である。

 昨日は、隈無く歩いた。まずは自由が丘3丁目からだ、ここは九品仏川左岸崖線、「日のあたる坂道」と同じで南面する丘には燦々と太陽光線が降り注いでいる。この一画に広大な緑地がある。かつての武蔵野を彷彿させる木々がここにはびっしりと生えていた。大きな門柱があってここには「白日荘」と名の記された表札が掲げられていた。千坪もある豪邸である。

 屋敷の主は、故平岩 米吉である。動物学者で作家である。ここで多くの野生動物を飼って観察をしていたようである。

 自宅から九品仏に行くときはよくここを通った、近隣には「白日荘を守れ」という旗が立っていた。が、昨日行くとその敷地にはシートがかかっていて工事が始まっていた。確かこの土地は遺族から目黒区に遺贈の申し入れがあったはずだ。それで近隣区民はここを
公園にしてぜひ保存をと訴えていた。ところが区は遺贈の申し出を受けなかった。理由は遺贈の条件に敷地の一部を非公開にするなどのことがあり、また維持管理に多額の費用がかかるためだとしている。

 住んでいて分かるが目黒区は貧乏だ、住民の福祉などには金を掛けない。常々図書館に行っていてこれを感じている。あるべき全集がない。また必要があって調べたところ文庫の最新版はほとんど無かった。腰を据えて、住民とともに環境保全をしようというのは行政側にないように思われる。
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2020年01月23日

下北沢X物語(3929)―「陽のあたる坂道」のモデル―

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(一)「陽のあたる坂道」は戦後の代表的新聞小説である。昭和31年(1956)12月から読売新聞に掲載された。戦後十一年、戦争の影を引き摺っていた時代だ、題名の「陽のあたる坂道」は時代の暗喩も含まれる。人々がこれから生きて行く明るい未来への希望である。この作品冒頭では、主人公のたか子は自由が丘駅で下車する、そして緑が丘の静かな住宅街を歩いて行く。自由が丘は旧名九品仏駅とも言った、抹香臭い駅名だ、緑が丘もかつては矢畑と言った、これは土臭い名である。土俗的な名から変換されて一帯が一気に明るくなった。「自由が丘」近くの「緑が丘」、人々に希望を与える地名としてはうってつけだった。改名によって土地は輝く、自由が丘と大井町線で繋がる戸越公園はかつては蛇窪駅だった。「蛇窪駅下車三分新築」ではあまり家は売れないだろう。

 小説冒頭では、主人公のたか子が緑が丘のお屋敷を訪ねていく場面から始まる。

 両側には、大きな邸宅が並び、ヒバやサツキやジンチョウゲなど、垣に植えられた木々の緑が、目に沁みるように美しかった。将来、家庭をもち、子供を生み、年齢にして四十か五十になるころには、自分もこの程度の家に住むようになりたいものだ……。たか子は、そんな思いで、両側の家を、一つ一つ念入りに眺めながら、明るい坂道を上っていった。
て 石坂洋次郎 日本文学全集 集英社 昭和56年


九品仏川左岸崖線は西から東へと続いている。ここの斜面は邸宅やお屋敷である。まず庭が広い。頃は「九月の末」だ、花は咲いてはいない、垣根にはサツキやジンチョウゲが植えられている。お屋敷に植えられる典型的な木々だ。しかし今はこれらを植えている庭は少なくなった。

 ここの丘の斜面は今も邸宅街だ、敷地は100坪や200坪と広い。ゆえに木々が植えられている。かつては海軍軍人が多く住んでいた。それで洋風の家も少なくなかった。
 大学生のたか子は「四十五十になるころには、自分もこの程度の家に住みたい」と思ったとある、ふと笑ってしまう、若い女が四十五十の頃の自分を具体的に思い浮かべるわけはない、作者の老練な思いがつい入ってしまったのだろう。

 ここでは結婚願望が描かれる。これも戦後の解放と大きく関係する。恋愛は不自由だった。が、戦後になってあらゆる束縛から人々は解き放たれた。恋愛の自由への明るさを読者はここに見たのかもしれない。

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2020年01月22日

下北沢X物語(3928)―緑ヶ丘:陽のあたる坂道―

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(一)「陽のあたる坂道」は、「陽の当たらない線路」ではなかったか?夢幻に終わったのが「東京山手急行」である、これを調べていたときに予定線のところに立源寺とあった。「陽のあたる坂道」を登っていくと道は突き当たりそこにこの寺がある。再度検索で調べてみるが「東京山手急行 立源寺」では引っ掛からない。もう一つ思い出したのが「緑ヶ丘」は海軍村だったことだ。ここに隣接するのが世田谷の奥沢だ。こちらは「奥沢海軍村」としては有名だ。ここの北側、目黒区緑ヶ丘、柿の木坂、中根も海軍村だった。

 前は散歩中に出会った人によく聞いた。この頃は聞き込みをしなくなった。土地のことを知っている人が少なくなったこともある。自分が年を取って古老級の年齢に近づいていることもある。年上だと思って聞いてみるとずっと年下だったりもする。

 以前、奥沢では海軍の末裔に話を聞いたことがある。
「関東大震災があったでしょう。あれで東の方の下町にいた海軍軍人もだいぶやられたみたいなのです。地震による人材の損失は大きかったのですね。それで海軍は飛行機を飛ばして地盤強固な土地を探したというのです、それでここが見つかって海軍の親睦団体水交社が窓口となって斡旋し、将校たちがここへ集まってきたというのです……」

 私鉄近郊鉄道が開通したことも大きい。奥沢を通るのは目蒲線だ。大正12年(1923)の末には開通している。東横線も昭和2年に開通している。海軍の港のある横浜や横須賀にも、また海軍省にも行けるということで一帯に海軍軍人が多く引っ越してきた。

緑丘という町名は緑の木立の多い高台ということに由来している。目黒区緑丘となったのは昭和7年だ。

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2020年01月20日

下北沢X物語(3927)―坂と文学:陽のあたる坂道―

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(一)常日頃、近隣を歩き回っている。が、付近のことを知っているようで知らない、いつも通っている坂が「陽のあたる坂道」だったということをつい最近知った。この坂というのはおもしろい。萩原朔太郎は「坂」という詩を書き、「坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる」と言う。坂上と坂下では別世界がある。坂はその二つを繋ぐものだ。「陽の当たる坂道」を昨日、改めて歩いてみた。やはり下と上とでは違う。前者はかつての湿地帯で、後者の丘上には陽が降り注ぎ明るい。選ばれた人が住むところだ。

 中村汀女という俳人がいる。彼女は仙台から引っ越してきて世田谷北沢の家に住む。当初、この家が分からなかった。ところが邪宗門に来ているお客さんが、それは今の自分の家だと教えてくれた。俳人に家を貸していたとのこと。早速に調べに行った、なるほどと思った。

 俳人は引っ越してきてすぐに句を詠んだ。昭和十二年のことだ。

時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ

子等のものカラリと乾き草枯るる  中村汀女俳句集成 東京新聞出版局


その場所は坂の上、丘にあった。
 まず最初の句だ、当時、家庭の水源は井戸である。これが豊富か、貧弱か、家庭の主婦である彼女は心配だった。ところがポンプからの水は豊かだった。「ああ良かった!」という感動が込められている。そこは丘陵末端、いかにも水脈が豊かそうな地形だった。

 次が二句目だ、当地へ越してきて初めて洗濯物を干した、夕方にならないうちにカラリと洗濯物は乾いた。これも「ああ良かった!」だ。南面する丘上で、陽がさんさんと降り注ぐ場所である。

 このところ崖線をたどることが多い。日蔭と日向では寒さが違う。日向を選んで歩いて行く。丘陵部はやはり陽当たりがよい、富士も遠望できる。しかし、この頃では山も建物で塞がれてなかなか見えなくなった。代わりに見えるのが味気ない高層ビルだ。

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2020年01月19日

下北沢X物語(3926)―戦争の記憶は消滅するばかり―

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(一)戦後75年、年月が経つに連れ、戦争は忘れられていくばかりだ。当時を生きた人がどう思い、どう考えたのかを知ることは大事だ、昨日、会の仲間のきむらたかしさんから資料の送付があった。「学童集団疎開の研究」(星田言 平成四年四月十二日 於荻窪地域区民住民センター 体験的研究報告資料)である。これによって知ったのは戦時において学童の命を守るということは政策としては考慮されていなかったことだ、それを野上彌生子が新聞で衝いた。「親はひたすら次代を与えるために戦って、残すために死んでいくんだから、受け継ぐ子供達の教育・健康・情操には重大性が加わってくる」と批評した。国家は子供もろとも討ち死にする積もりであったのか?

星田言氏は、この論考の最後にこう記している。

 この『学童集団疎開』は単に教育史の一部分ではなく'広く現代史の中で、都市学童に対する国家的大事業としての位置付けをすべきものと考察するものである。
 
現実には、疎開当事者が高齢化し疎開という歴史事実を伝えていくのが困難になってきている。「全国疎開学童連絡協議会」が疎開伝承を続けていた。が、ここのホームページを見るとこうあった。

 全国疎開学童連絡協議会(疎開協)は,会報『かけはし』87号(最終号)の発行を機に、会としての活動に幕を閉じました。32年間の長きにわたりご支援・ご協力をいただいた皆様に心より感謝し、御礼を申し上げます。

ここでいう、「かけはし87号」(最終号)は2018年12月13日発行された。閉鎖されてもう一年が過ぎてしまった。現実には疎開経験者の多くが高齢化して次々に亡くなりつつある。私が親しかった鉛筆部隊の田中幸子さんも昨年4月に85歳で亡くなられた。

 疎開当事者は、疎開先で手紙や日記を書いた。書かせられた、建前としては書かせることで学力が伸びるというものではあった。が、これは指導する側の作戦でもあった。
 作文や日記を書くことは、一種の消閑法であった。何もしないでいると父母が思われる、故郷が思われる。「帰りたい」という気持ちが強く湧いてくる。それを防止するためでもあった。

 間違いなく言えることは疎開体験者の多くが遺品としてこれらの資料を持っている。これは疎開の実情を記す歴史資料だ、が、このことが分からぬままに多くがゴミとして捨てられている。郷土資料館や地域の博物館ではこれを受け入れている。ぜひそこへ連絡を。続きを読む

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2020年01月17日

下北沢X物語(3925)―吉田 絃二郎の戦争観―

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(一)恒例の「戦争経験を聴く会語る会」で海軍第14期飛行予備学生の話を聞いた。学徒動員組の一人は、「アメリカには物量では劣っている、しかし精神力では日本は勝っている、だから戦争には勝つ」と証言していた。戦時下日本は特別な国だという考えがあった。今でこそ、「日本は神国だということなんか信じて居なかったよ」と体験者は言う。が、国家を特別視する風土は今なお残っている、つい最近、副総理が「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。よい国だ」と述べた。言葉は鏡である、国家の底に潜むものを彼は言葉の鏡に映してみせたのだ。この島国は民族として愛国に染まりやすい気質がある。

 吉田弦二郎の『静かなる思惟』は、戦争中の昭和18年1月に新潮社から発行された。言論統制下にあったゆえに検閲があった。それで奥書欄外に「出文協承認」とあり、360225号と番号が付されている。「出文協」は、内閣情報局の下部組織で正式名称を「日本出版文化協会」という、これを省略した言い方である。

 出版するには「出文協」の事前検閲がある、これを通らないと紙は支給されない。戦争の真っ只中に発行されたものゆえ、政府のプロパガンダにも利用された。

 自序の一節にははこうある。玉川瀬田の自宅で書いたものだろう。

 時は神武天皇以来の大きな国難の時代である。竹林を掠めて哨戒の飛行機が飛んで行く。合掌したい気持ちになる。

 冒頭章段は、「戦捷の春」に始まり、詩が詠まれている。

今朝、鶯いと静かに鳴けり
春浅く雪なほ残れる木立のほと
不図仰ぎ見る空の青さに
真白き富士かがよふ
祖国、尊きかな日本のすがた

今朝鶯いとおほどかに鳴けり
春なり、春来れり、大御戦、勝ちて勝てる朝
静かなる朝なり、いとその平和なる光たゆたふ朝なり


 玉川瀬田の自宅は国分寺崖線のヒルトップにあった。富士がよく望見できるところだ。
(写真)気高い富士、この姿も戦争に利用された。祖国の象徴だ、西下する特攻機の操縦士は黙礼をしたり手を挙げたりしてこの山に別れを告げた。
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2020年01月16日

下北沢X物語(3924)―国民的作家はなぜ忘れられたか?―

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(一)世田谷瀬田の吉田 絃二郎旧居を探し回った。広大な居を構えていたが近隣の人の記憶にはない。彼は王道を歩いてきた、島村抱月や坪内逍遙に育てられ日本文学を代表する作家となった。大正10年発行の『小鳥の来る日』は、版を200も数えたほどの驚異的なベストセラーだった。昭和6年から8年に掛けては『吉田絃二郎全集』全18巻(新潮社)も出されている。が、終戦時59歳、油の乗りきった時期である。戦後に出された作品は主には小出版社からの発行だ、下北沢の出版社第二書房からのものは10冊ほどに及ぶ。大手からは注文がなかったのだろう、そこに目をつけたのが第二書房の伊藤祷一さんではなかったか?

 非常に興味深いことがある。戦後下北沢に小出版社が興った、ここから彼は多くの本をを出している。まず第二書房からは十数冊出している。住所は世田谷区北沢一丁目一一七五番地である。
 つぎに万葉出版社だ、住所は世田谷区代田一丁目七六三にあった。ここからは二冊出している。『旅の町旅の人』(1947)、『吉田絃二郎作品集』全4巻(1951)だ。
 斎藤書店は、世田谷区代田一丁目六五二だ、ここからは三冊出している。『山河に思ふ 紀行選集』(1947)『旅より旅へ 紀行選集』(1947)『続々・わが旅の記』(1948)

この三社は地理的にも近い、社主、第二書房、伊藤祷一。万葉出版社、森前。斎藤書店、斎藤春雄である。この三人は知り合いであった。伊藤祷一さんが瀬田の吉田 絃二郎邸に通って彼を口説き落とした。そして第二書房は最初の本を出した。
「原稿はいくらでも書くから出版社を知っているのなら紹介してほしい」
 吉田絃二郎が伊藤さんに頼んだ。
「うちの近所に斎藤書店と万葉出版社がありますから、書いてくださるのなら紹介しますよ」
 伊藤祷一さんはそう応えた。
 
 作家の仕事は書くことである、書くことで生きていられる、書いたものを出すことで人々に現況を知らせることができる。しかし、戦後になって出版状況も大きく変わった。吉田 絃二郎は戦前は人気作家だった。ところが戦後になると大手からは出していない。その多くは小出版社からである。事情があったのだろう。

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2020年01月14日

下北沢X物語(3923)―「今日は文学碑を磨きに行きます」2―

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(一)碑を一番目に磨いたのは萩原朔太郎、二番目が三好達治だ、二人とも第一級の詩人である。この二人が世田谷代田で終焉を迎えている。このことはほとんど知られていない。今回、意外なことを知った。Googleで「三好達治文学碑」と検索すると何とトップページの右に「三好達治文学顕彰碑」と出てくる。星は五つつけられ、観光名所とされていた。嬉しいことである、詩人は昭和24年疎開先の福井三国から世田谷代田に越してくる。そして昭和39年4月5日に亡くなった。15年間、彼が寓居とした家に住んで詩作もし執筆もした。詩人にとっては心地のよい所だった。彼は当地を場末と言った。都鄙境、田園と都会の間だ、詩が湧き出づる場である。

 三好達治の文学碑は全国各地にある。故郷である大阪、そして疎開先の福井三国などだ。ここ東尋坊に建てられている「荒天薄暮」を刻んだ詩碑はとても大きくて立派である。これに比すると東京世田谷にある「三好達治文学顕彰碑」は小さいものだ。

 我等は四基の文学碑を建てたが三好達治の碑は最も誇ってよいものだ。世田谷代田の土地の風合いがこれによく出ているからだ。詩集『百たびののち』は当地で編まれたものだ。ここには代田が匂う詩が幾編かある。それを嗅ぎつけるのがおもしろい。例えばこれだ。

寒庭

このうずたかき枯れ草に火を點ずべし
とて盃をとりあげぬ
霜の朝 庭の鶲 ふくらなる黄金の胸を輝かす
場末どおり三丁目 パン屋の角を北に折れ
去年のままに破れたる垣根をくぐりきましたり
                 定本三好達治全詩集 筑摩書房 昭和37年刊


 冒頭の一節である。要するに三好大人は酒を飲んでいるのである。信濃屋で付けて持ってきてもらった日本酒だ。寒い朝だから熱燗だ。これを飲んでいると小鳥がやってきた。胸は金色に染めている黄金鶲だ、チッチと歌いながら誇らしそうに胸の金色の毛並みを見せびらかす。
 お前もここへ飛んで来る道をよく覚えたな。すぐそこの木村屋パンのところの路地から北に折れてくると、な、ここの岩沢さんちだ、木々が鬱蒼としげっているが剪定はしない。垣根に穴があってみんなそこからひょいひょいやってくる。お前さんもそうだ、いつもどおり垣根の穴をくぐってやってきましたよ。
 
 詩人三好達治は庭に飛んでくる小鳥をとても気に入っていた。鶲は森に住む鳥だ。
「な、お前は、明治神宮の森から飛んできたんだな。ふらっと西の方に向かうと頃合いのところにとまるには具合のよい電線がある。そこに留まっているとすぐそばに木々の生えた庭がある。あそこの主人は酒飲みで鳥好きだというんでついひやかしていこうという気になる。それでお前はきたんだろう。

 鳥を相手に詩人はここで過ごした。文学碑に立てて記したものも世田谷代田の寓居生活をそのまま書いたものだ。
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2020年01月13日

下北沢X物語(3922)―「今日は文学碑を磨きに行きます」―

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(一)「どちらへ行かれるのですか?」と聞かれて、「ええ、今日はちょっと文学碑を磨きに」と答えたら、かっこいい。昨日11日、これを実行した。出掛けるときに「どちらへ?」と聞く人もいなかった。ともあれ散歩がてら文学碑四基を磨きに家を出た。約六キロぐらいか、北沢川緑道まではぽくぽくと歩いた。なぜ行ったか、年末31日に人に求められて我等が建てた文学碑の案内をした。そのときにいずれもがとても汚れていることに気づいた。年が明けたら早々に行こうと決めていた。

 人は後先考えないで行動する。15年前、「北沢川文化遺産保存の会」の立ち上げ総会を世田谷代田で開いた。
「下北沢を中心とする北沢川地域には文学者が多く住んでいる、このことをアピールするために文学碑を建てようと思います!」
 最後は「賛成、賛成!」という声と拍手、これで会は立ち上がり今日まで来た。
 まず行ったのは文学碑建立運動である。これが功を奏した、15年経ってみると何と四基も完成していた。

 建てたら保守をしなくてはならぬ。発足当時はほとんど考えてもいなかった。が、時が経ってみるとこれをどうするか?課題が現実的な問題として生じてきている。文学碑の保守整備は個人のボランティアで今は持っている。当会の金子善高さんが折々見回って植栽の手入れをしている。ところが文学碑の碑文の汚れまでは手が回らない。

 まず最初に手をつけたのが次である。

萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔

ここ鶴ヶ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。
 この塔のすぐ下に昭和八年、自らの設計による家を建て、居住したのは萩原朔太郎(1886〜1942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は、鉄塔を意識して設計されたものだろう。
 詩人は、故郷前橋で電線の青い閃光(せんこう)を眺めては東京を恋い慕った。『定本青猫』の「自序」にはこうある。

   都会の空に映る電線の青白いスパークを、
  大きな青猫のイメーヂに見てゐる
               萩原朔太郎     

 かつては当地の高圧線の碍子(がいし)も青く仄(ほの)めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語だ。父は、ポエヂイを子は怖れを感じた。娘葉子(1920〜2005)は自伝小説『蕁麻(いらくさ)の家』で「あの高い鉄塔」と描写し、これに「暗い予感」を持ったという。
 今となっては詩人と小説家とを偲(しの)ばせるたったひとつの風景だ。このことから鉄塔は「世田谷区地域風景資産」として選定された。日本では他に類例をみない文学モニュメントだといえる。

           二〇一二年 十月六日
         北沢川文化遺産保存の会

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2020年01月11日

下北沢X物語(3921)―吉田弦二郎の故郷は佐賀― 

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(一)もう64年も前に亡くなった作家の面影を求めて瀬田通いをしている。惹かれるのはなぜか?一つは、妻を亡くした彼は武蔵野の自然を友として日々を生きていた。もう一つは、私が少年時代に見た景色を眺めて彼が成長していたことだ。彼は俳人でもある、九州佐世保弓張岳に「ふるさとの春の山こそなつかしき」という句碑がある。この心を短歌に「武蔵なる多摩の川原をあがゆけばふるさとに似し山を見るかな」と詠んでいる。内容は同じだ、瀬田在住時代、付近を歩き回りながら故郷の山を恋い慕っていた。この山こそは、天山である、私自身にも切なく、懐かしい山である。

吉田弦二郎の出身地は佐賀である。「故郷遠く」というタイトルで記されたものだ。

 秋の筑紫平野はとてもすばらしいと思った。が、深い郷愁を少年の心に刻みつけた。
 筑紫平野は行けども行けども稲田であり、堀の水であり、つつましやかに屯せる部落であり、竹の藪である。畦を埋めて咲く野菊、こほろぎの声も少年をして秋のよさとわびしさを感じさせた。
 『詩をうたはぬ詩人』 第二書房 昭和二十四年刊


これを読むと涙が出て来そうだ、自身の少年時代の風景が重なるからだ。筑紫平野はどこまで行ってもフラットだ、ずっと稲田が広がっていて、その間にあるのがクリーク、掘り割りだ。集落は散在することなく、数十軒が道沿いに固まっていた。これを部落と呼んでいた。

 こう書いてきて思い出すのは、北原白秋の『思ひ出』だ。この冒頭で「わが生ひ立ち」を記し、「私の郷里柳河は水郷である」と述べる。この地も筑紫平野の一画だ。

 わが街に入り來る旅びとはその周圍の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして歩むにつれて、その水面の隨所に、菱の葉、蓮、眞菰、河骨、或は赤褐黄緑その他樣々の浮藻の強烈な更紗模樣のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。
新選 名著復刻全集 『思ひ出』 日本近代文学館 昭和56年5月


 ここでいう人口的河水は、掘り割りのことだ。夏になると水面に色彩が鮮やかな花が咲く、「淡紫のウオタアヒヤシンスの花」だ、筑紫平野の代表的風景の一つだ。和的ではなく西洋的で、エキゾチックである。
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2020年01月10日

下北沢X物語(3920)―瀬田の吉田弦二郎追慕行― 

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(一)新年以来、多摩川左岸国分寺崖線へ散歩へゆく。このラインは古代人の魂の安息場所だ、数珠繋ぎに古墳が連なっている。なぜか富士を眺望できる高台であるからだ。死者は富士を抱いて永遠の眠りに就いている。が、近代はそういう浪漫にお構いなしに次々に高層ビルを建ててて眺望を遮っている。永遠の富士を夢見た墳墓の主は墓の中で怒り狂っていることだろう。人々は死後の安寧を願う。が、今はこれが保証されなくなった。地球の未来が危機に瀕してきたからだ。地球温暖化による環境崩壊、また核兵器開発競争による戦争の危険が高まってきた。核戦争が起きれば地球は破滅は破滅するだろう。世界終末時計は「核兵器と気候変動のリスクで『終末2分前』となった。人は安心して死ねなくなってきた。

 今日は朝から天気がよい、それでまた崖線へと行く。やはり富士は見えた。(写真1)
 散歩途中地元の人と出会った。
「ここに住み始めてもう50年になります。確かに年々富士が見えなくなります。ちゃんと見られるところも数が少なくなりました。行善寺の裏手、それと五島美術館わきの富士見橋はよく見えます。今日はどうかしら?」
「富士見橋は今行ってきました、よく見えていました」
「富士を見にきたんですか?」
「瀬田四丁目に住んでいた文学者吉田弦二郎が住んでいた家をこのところずっと探しているのです。どうしてかというと彼は自宅近辺の崖線あたりの武蔵野を毎日散歩していてその記録を沢山残しているのです。となると出発点である家が分からないとイメージが湧かないのです。それで何度もここへ来ては調べているのです」
「へぇ、おもしろいことをやっておられるのですね。私も似たようなことをやってはいますが……」
 彼は物書きであるようだ。
「ここら辺って遺跡だらけでしょう。古墳もあるし、旧石器や縄文の遺跡もありますね」
「ああ、いますぐそこのゴルフ場跡の遺跡は確か発掘しているはずですよ」
 瀬田遺跡・瀬田城跡のようである。旧石器、縄文時代からの遺跡だ。
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「何千年前に人がすでにいて、ここら辺を歩いていたと想像するとどきどきしますよ」
 全く同感である。
「吉田 絃二郎もここから見える景色は万葉集に詠まれていて感動であると言っています」
「吉田 絃二郎、わたしも知らないですね。家に帰って調べて見ます」

 彼に教わった通り瀬田遺跡は掘り返されていた。(写真2)

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2020年01月08日

下北沢X物語(3919)―瀬田の吉田弦二郎旧居探訪― 

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(一)言葉には匂いがあり、手がかりがある、「妻は静かな木立の間の離房を愛していた。そこには樹齢百年を数ふるほどの欅を中心に樫や栗が鬱蒼と生い茂つてゐた」。吉田絃二郎がエッセイに記した一文だ、今なら欅の枝が虎落笛を鳴らしているかもしれぬ。実際、「世田谷下代田228番地」の前には大欅があってこれが一人の俳人(加藤楸邨)を隠岐の旅へと誘った。その大欅のありかは土地の古老に教えてもらった。が、弦二郎旧居は分からない。彼自身ここを起点に付近の武蔵野を日々歩いていた。彼の文章には土地の逸話が多く記されている。その場所はどこか?知りたいと思っていた。が、何のことはない、資料を見ていたら地図があって、「文学者吉田弦二郎」と家の場所が図示されていた。

文学を多少かじったものであれば作家の名は大概が知っている。が、吉田 絃二郎の名は知らなかった。伊藤文学さんとの繋がりでようやっと知った。それで弦二郎の作品に触れるようになった。逸話の捌き方、筆遣いなどが巧みだ。文学者としての生き様にも共鳴、共感するようになった。

 彼もまた、さすらい歩く人だった。

 武蔵野の見知らぬ町を歩くのもいい。或ひは東京の真ん中に立つのもいい。ただ一人で歩くといふことは旅らしい感じ、旅人らしいわびしさを味はふにはいいことだ。
 自分の心さへ旅人になつてゐれば、一里歩いても旅の味は感じられるものである。
千里の遠きを旅しても、旅人の心を失つた人には旅のあはれは味はへない。
 『梅の咲く頃』 新潮社刊 昭和10年


 武蔵野、自身が今毎日歩いている荏原はまさに武蔵野である。彼が言うように見知らぬ町を歩くのは楽しい。どんな人が住んでいるのか、どんな地形があるのかを観察しながら歩くのがおもしろい。起伏があったり、古道があったり、これを見つける楽しさがある。

 もう一つは空気感である。荏原はいわゆる都鄙境である。田舎と都市との境だ、人の気配は感じられる。しかし、煩わしさはない。日々、毎日歩いている。が、知った人に出会って挨拶をすることは滅多にない。気楽さやのんきさがある。

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2020年01月07日

下北沢X物語(3918)―瀬田:吉田弦二郎旧居判明― 

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(一)戦後75年、あの惨劇も遠くなった。が、読んでいた文章に、「日々の新聞には『犬を殺せ』といふ記事がかかげられた。また『土鳩を撃ち殺せ』、『米を食ふ野鳥を撃て』といふ叫びも聴かれた」とあった。戦時中のプロパガンダだ、こういう時代があったことは覚えておくべきだ。戦争のためなら犬猫でも平気で殺してもいい。かつてとある知識人から「日本人は残酷という言葉を知らない」と聞かされた。犬猫など平気で殺していれば人を殺すことを酷いとも思わなくなる。それで敵国の市民を平気で惨殺し手当たり次第に、女を陵辱していたと彼は言っていた。今また戦争のきな臭い臭いが忍び寄りつつある。憎しみが憎しみを呼び戦争になる、犠牲になるのは常に無辜の女子どもだ、戦争を許すな!

 引用は「詩をうたはぬ詩人」、作者は吉田弦二郎、発行年は昭和二四年、発行元は第二書房である。伊藤文学さんの父、伊藤祷一さんが経営していた。彼は戦後下北沢で出版社を興そうとしていた。それで足繁く作家宅に通っていた。「世田谷区玉川瀬田三九九」だ。

 吉田弦二郎に興味を持ったのは偶然だ。先月会創立15周年記念祝賀会を行った。そのときに伊藤文学さんが古写真をプレゼントしてくれた。この中に若山牧水が瀬田に寄留したとされる家が写っていた。これがどこなのか調べているうちに吉田 絃二郎を知ることになった。作家が玉川瀬田に住んでいたことは分かっていた。が、どこに住んでいたのかは分からないでいた。これが偶然に分かって五日の日に行ってみた。

 伊藤文学さんの親父さんや吉田弦二郎評は手厳しい。まず、親父さんだ、作家に仕えていた女中のおはるさんに入れ込んでしまい、家業をほっぽってしまった。それでしかたなし家業を継いで社を再興した。自伝では「父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!」と言う。
しかし、第二書房の戦後における奮闘ぶりは高く評価すべきだ。文芸詩歌については驚くほどの数の出版物を出している。下北沢人士のジャーナリストとして評価されていい。 

 文学さん、吉田弦二郎についても女中に手を出していたなどと手厳しい。が、文学さんの批評も段々分かってくるにつれ疑問が湧いてきた。が、吉田弦二郎の存在を知ったのは文学さんがきっかけだった。作家は、作品がものを言う。いくつかの作品に当たったが彼は文学者らしい文学者だ。井伏鱒二が昭和五年の雑誌新潮に「吉田弦二郎氏の人間性」を描いているが、文章を読めばその人間性は分かる。古典教養に基づいたしっかりとしたものの見方をする人だと知った。自身の感性にも似ていると思ってきた。

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(二)
  先に引用した「詩をうたはぬ詩人」は、第二書房で扱った吉田 絃二郎作品の第二作目である。最初に扱ったのが「夜や秋や日記」、昭和23年発行だ。この「自序」にこう書かれている。

 友人伊藤祷一氏が、このたび自ら新たに出版界に出づる計画を樹て、その第一回の出版物として、「夜や秋や日記」及びその後のものをまとめて持参され、伊藤氏の熱意に動かされ、ここに「夜や秋や日記」を梓に上せることにした。ここに蒐められらたものは昭和十二年秋発表の「夜や秋や日記」以後、折につけ故人を憶ひつつこの十三年の間にものしたる物十九篇を、おほむね年代順に配列することにした。悉く悟らんとして悟らざる凡愚の愚痴であり、諦めんとして諦め得ざる下根の煩憫である。


 伊藤祷一さんは、第一書房の社員だった、戦後いち早く出版社を興そうとした。思いとしては高い評価を得ていた第一書房の再建だった。が、これは挫折した。奮起して出版社を興そうとして吉田 絃二郎にまず社運を賭けた。戦前の流行作家として名が知られていたということは大きい。第一書房時代からの知り合いでもあったようだ。

 「伊藤氏の熱意」は、具体的に想像できる。家は代沢小の近くだ、まず三軒茶屋まで歩いて行く。ここから玉電に乗って瀬田で下りて崖線沿いに行くと吉田 絃二郎宅についた。

 僕も子供の頃、父に連れられて吉田邸を訪ねたことがあったが、玉電の瀬田で降りて、多磨川が見渡せる千数百坪もある木々に囲まれた広大な家だった。
 
 伊藤文学さんの回想だ、「世田谷区玉川瀬田三九九」である。作家は昭和6年以来、亡くなる昭和31年までここに住んでいた。「故人を憶ひつつ」だ、奥さんのことである。最愛の妻である。彼女は昭和12年58歳で亡くなっている。

 その名は吉田 明枝、彼女俳号を持っている。明志女だ。祖父は著名な俳人蹄雪庵伯志で彼女は13歳で宗匠の代わりを務めていたという才女だ。旧姓は前田、士族出のお嬢さんだった。
 「夜や秋や日記」は亡妻追慕日記でもある。ひたむきに彼女を恋していた。

(三)
 吉田 絃二郎は三匹の犬を飼っていた。犬も飼い主の連れ合いを慕っていた。

 死後一年経っての秋、故人の衣を出して虫干ししたことがあった。すると三匹の犬どもは、衣の香を嗅ぐや狂ったやうになつて家中をさがしまわった姿をいじらしく思った。
「夜や秋や日記」

 
 エッセイには追慕と同時に「武蔵野」にある家の様子や近辺の風物が描かれている。読んでいるとそこはどこか知りたくなる。が、偶然に吉田 絃二郎旧居が分かった。五日の日再び玉川瀬田まで歩いて行った。途中、大井町線富士見橋からは富士がよく見えた。


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2020年01月05日

下北沢X物語(3917)―散歩は万能薬:認知症、地球温暖化、病気予防― 

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(一)歩きには発見の面白さがある。行き行くとそこはかとなく道が曲がっている。ああこれはあれだ、案の定四つ角に地蔵様、道は古道だった。前方にピンク発見、美人に違いないと思っていると婆さんだった。猫かと思ったらハクビシン、屋根の上に雲と思ったら富士山だった。よくひっかかるのが路地の行き止まり、問題は戻り方だ、何食わぬ顔してくるりとふり返ってバックする。と今度は夫婦と行き会う「父さん十時間もテレビを見ていちゃ駄目よ」と奥さん。それを頷きながらこちらも聞いている。「そう間違いなく惚けるよ」と思う。人間はとどまっていると気も滅入ってくる。散歩するとこれが解消し、血行も盛んになる。散歩にはどうして散がつくのか、ぶらぶらと歩くと気が散じて英気が蘇ってくる、生きる勇気だ、やっぱり散歩は最高だ。

 毎日歩いていて観察をする。例えば、男女の散歩考察、男は大概独りで歩いている。おばさんは多くが犬を連れている。女性一人で歩くのは様にならない。それで犬をお供にするのだろう。犬を連れていれば立ち止まっても不審者とみなされることはない。奥様の散歩に犬は好都合である。

 犬もこの頃では変わった。前は雑種や和犬が多かった。が、このごろはみな小さい西洋犬だ。そういう犬には大概スカートだとかズボンをはかせている。服装によって雌雄が分けられている。

 この頃大型犬はみなくなった。かつてはゴールデンレトリバーやシェパードの姿が見られた。この頃は見かけなくなった。それでもときたまシベリアンハスキーを連れている場合がある。これはめずらしい。
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2020年01月04日

下北沢X物語(3916)―迎春2020年:何たって歩きが最高!―

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(一)日々歩く、これには盆も正月もない、ひたすら歩く。歩きほど楽しいことはない。この三が日も歩きまくった。一日目、恒例の野毛山古墳詣でだ、残念ながら富士は望めなかった。おおよそ十キロぐらい崖線ぞいを歩いた。何千軒と通る、日の丸を掲げた家は三軒のみ、現象として興味深い。二日目、御嶽山経由東調布公園へ、これは富士詣とD51詣でだ。帰途は呑川をひたすら北上する、川には鴨が群れている、呑川の鴨レストラン、富栄養たっぷりの川底においしい藻がいっぱい。三日目は、呑川経由駒沢公園、正月料理を食い過ぎた人が、ランニングコースを懸命に走っている。その後ろ姿からカニ、牛肉、寿司、ハムなどが転げ落ちてくる。飽食時代のニッポン。

 自身凝り性である。以前は自転車に凝っていた。オーダーメイドの自転車まで作ったこともある。このときは、自転車で地球を何周したと自慢をしていた。が、これはきっぱりと辞めた。

 発端は病を患ったことにある。あるとき臀部が痛み始めた。徐々にこれは悪化した。初めての医院で診てもらう。臀部のずんずんずきずきとし痛みが止まらないと症状を訴える。その見立ては前立腺炎だとのこと。

 医師は早速に薬を処方してくれた。ところがこれがびっくりするほど多い。患部は薬が届きにくいところにあることで大量に処方するとのこと。抗生物質などの錠剤を気持ち悪いほどに飲む。案の定二三日して体中に湿疹ができた。

 現今の病院は薬物による対症療法で機械的に済ます。本人の体質などに気を配ることはない。儲かるからだろうどんどん薬を出す。
「眠れないのですが」
「ああ、睡眠薬を出しましょう」
 まったく安直だ。睡眠薬ほど危ないものはない。

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2020年01月01日

下北沢X物語(3916)―会報第162号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第162号    
           2020年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、2020年1月1日に

 あけましておめでとうございます。新しい年となりました。文化発掘16年目、おもしろがればおもしろくなる。今年もまた文化を求め、日々を楽しみましょう。

2、新しい年2020年

昨年12月、当会、北沢川文化遺産保存の会は創立十五周年を迎え祝賀会を開きました。ここではこの間の活動実績を次のように報告しました。

‖燭の歴史的発見をしたこと。(鉛筆部隊など)
下北沢文士町文化地図を創ってきたこと(8版)
J験愴蠅鬘幹襍立したこと
ぢ綸弔竜屬裡僑厩翕甘磴鮹楼萇景資産にしたこと
ッ楼菠顕修鬟董璽泙箸靴真堯垢虜子を出したこと(「北沢川文学の小路物語」、「下北沢X惜別物語」など)
戦争経験を伝承する会を開いてきたこと(12回)
ЦΦ羌要を発行してきたこと(7号)
町歩きの会を継続して開いてきたこと(155回)
研究大会を開いてきたこと(5回)
会報を継続して出してきたこと(最新161号)。特記すべきことはこれらの活動の基盤となったのがネットである。これを通して発信し続けたことが大きい、まもなくこれのエントリー数は3900回を迎える。


 これまで活動を続けてこられたのは皆様のおかげです。ありがとうございます。事務局長の作道明さんが「会報を送るのに費やしたお金は百万を超えた」と。これにはびっくりしてしまった。いつも手書きで宛名を書いていただいている、感謝、感謝である。多くの皆さんのサポートによって成り立っている。祝賀会ではロスコンパニェロスが演奏で盛り上げてくださった。これなども全くのボランティアである。

 今年もまた、これまで通りに楽しく活動を続けていきたい。この節目に一つ感じたことである。今、私たちはいわゆる組織を離れると行き場がないというのが現状だ、私自身、この会があることによって助かっている、自分の行き場であるからだ。
 行き場、生きがいの場としての我々の会である。どうかみなさん会においでください。そして好きなことをやってください。

 今年の計画

 ・町歩きは、継続したい。これについては別宮通孝さんに計画を考えてもらっている。とりあえず2020年12月までの計画はできている。順次発表していきたい。
 〇誰でも案内はできる。ぜひ案内人デビューをしてほしい。
 〇コースの要望はこちらにぜひお願いしたい。
 ・戦争経験を伝承する会、これは13回目となる。地道な活動だがこれは続けていきたい。「何があっても戦争をするな」という遺言を伝え続ける必要がある。
  今年5月のテーマは、「ヒロシマ」としたい。今は計画を練っている。

 ・研究会 年々規模が大きくなって運営に負担を感じるようになった。
つぎのように改革したい。まず月日は8月8日(日)とする。1日だと早い。
   ‐貊蠅亘迷凜織Ε鵐曄璽襦‘鶻集会室 17:30〜22:00 9,580円
   ⊂貊蠅亘迷凜織Ε鵐曄璽襦.好イサロン17:30〜22:00 21,590円
研究会は、会員や会員外で「北沢川文化遺産保存の会」の守備範囲内で
   一人20分程度で三人の人に発表してもらう。
   基本は、納涼会である、一応発表を募って集まれば行う。なければ納涼会
   例年行っていた区などの後援申請は行わない。
   自分達ができる範囲で行う。
   会場確保は、いつも金子善高さんにお願いしている。2月1日が申し込み日である。一応、研究会の改善案について上記ように提案した。これへの意見がほしい。従来のように1日会場を借りてやるというのも要望があれば行いたい。

3、随想 下北沢のひつじ屋さん。PART2                        エッセイスト 葦田華

 私が大学生になったのは昭和36年4月のことであった。下北沢の祖母の家から大学に通っていた。ある日、田舎の母から布団が届いた。布団包みを解くと、渋いオレンジ色の地に、カーネーションの柄が白く浮き織りになった、正絹の上等な布団が出てきた。すると祖母が「まあ、あんたのオッカサンは何を考えているんだろうねえ。こんな花嫁道具みたいな絹の布団なんか送って寄越してさ。いいかい華ちゃん、書生っぽというのはねえ、木綿の布団で十分なんだよ。あたしゃ呆れっちまったよ。」と言った。そして、「まあ、しばらくはその布団で寝るがいいよ。」と言った。
「あんたのオッカサン」というのは、祖母の長女、つまり私の母のことである。
 さてある日、学校から帰ってきたら、床の間のある奥の部屋のまんなかに、赤、青、黄、紫、ピンク、グリーン、百花繚乱の花がマッスになった、素晴らしい掛け布団が広げてあった。
「おばあちゃん!あの素敵な花の布団は誰の布団なの?」と聞くと、縫い物をしていた祖母が「決まっているじゃないかい。華ちゃんの掛け布団だよ。」と言った。
 私は嬉しくて嬉しくて、畳の上に寝て、その花の掛け布団を掛けてみた。
祖母が私を見下ろして、「どうだい?気に入ったかい?」と笑顔で言った。
「うん、素晴らしい!なんだか外国人になったみたいな気持ちがするよ。」と言うと、「そりゃあそうさね、ひつじ屋さんのさ、輸出用の木綿の布が出たからね、これは華ちゃんの布団にしようと思ってさ、真っ先に買い占めてきたのさ。」と言った。
「これから順次敷布団も中掛けも作るつもりだよ。あのお蚕ぐるみの布団はね、あんたがお嫁に行く
時に持ってお行き。あたしが預かっておくからね。」と言った。
 祖母は仕事の早い人で、次々と必要な布団を仕上げていってくれた。後日、5歳年下の妹と二人暮らしをしなくてはならなくなった時、母が作ってくれた絹の布団が有って助かった。
それを妹の布団にし、私はやっぱり、祖母の布団の方が好きだったから、それを自分の布団にした。“下北沢のひつじ屋さん”は、私の青春時代の、掛け替えのない布地屋さんだった。しかし、最近の下北沢の地図から“ひつじ屋”の店名が無くなっているのを知り、私はいたく落胆しているのである。

4、世田谷代田駅 駅前広場開場記念事業実行委員会への参画

この委員会は、昨年度発足して定期的に会合が開かれている。当会からは、きむらたかし氏、米澤邦頼氏、それに私の三人が加わっている。

・具体的に当会が関わったもの

 ♢代田ダイダラボッチ音頭
作曲 若桑比織 作詞 きむらけん
 これはYouTubeで見られる。検索語 「代田ダイダラボッチ音頭」

 ♢「下北沢文士町文化地図」8版の発行
  これについては「世田谷代田駅ダイダラボッチ広場完成記念(2020年度予定)としてすでに発行した。これも委員会の活動の一環として位置づけて関係方面にはこの地図を配布している。一般には、事務局の邪宗門や下北沢駅前の案内所でも配付している。会員で複数枚ほしい場合は邪宗門でもらってほしい。

 ♢ダイダラボッチ読本
  委員会の方から、子ども向けの冊子を作ってほしいと依頼を受けた。分かりやすく丁寧にということを心掛けてまとめた。これは近隣の小学校に配布を予定している。
  当初、広場開場は2020年春の予定だった、しかし、工事が遅れるようで2020年度末になりそうである。この冊子は、協賛金を集めてそこから費用を捻出するはずであった。が、工事が 遅れることから急ぐこともなくなった。それで2020年度の世田谷区の絆予算でこれを申請しよう思う。が、地図にせよ、読本にせよ、費用は十分でないので、不足分を協賛金で出してもらうように委員会に提案した。

 駅前広場の開場に当たっては大々的なイベントが計画されている。ところが開場が延期になったことで地元のモチベーションが落ちるのではないかということで間にイベントを行おうということで今調整がすすめられている。2020年4月ぐらいを予定している。
 当方は、いつもどおり桜祭りには代沢小安吾文学碑前で地図をくばりたい。また、4月に世田谷代田駅前で予定されている中間イベントにおいてもこの地図を配る予定だ。
 
5、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16時頃としている。前日の天気予報で雨の場合は中止する。中止連絡は行う。

第157回 1月18日(土) 午後1時 東急東横線多摩川駅
 六郷用水物語を歩く 案内人 木村康伸さん 
・コースの魅力:江戸時代初期、小泉次大夫によって武蔵国荏原郡六郷領(現在の大田区南部)に縦横に張り巡らされた六郷用水の痕跡を辿り、荏原の水の歴史について考える。
・コース:多摩川駅→復元水路→沼部駅→女堀→鵜ノ木八幡神社→下丸子南北引分→新田神社→矢口渡駅→蛸の手→蒲田駅


第158回 2月15日(土) 午後2時 田園都市線三軒茶屋中央改札前
 駒沢ダイダラボッチ探訪会 案内人 きむらけん
 2020年度に世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった広場ができる。大きなニュースとなるはずだ。柳田国男は、代田ダイダラボッチを訪ねたことからこの東京が巨人伝説の一箇の中心地だと認識する。この決め手となったのが駒沢ダイダラボッチとの比較だ。世田谷代田のダイダラボッチ跡は残っていない、が、駒沢ダイダラボッチは今もひそかに残っている。その駒沢ダイダラボッチを探訪し検証する散歩会を行う。
・駅→鶴ヶ窪遺跡跡(アクティ三軒茶屋)→テコテン坂→鶴ヶ久保公園(ダイダラボッチ)→駒沢第二のダイダラボッチ(清水丸弁財天跡)
第159回 3月21日(土) 13時 東急東横線代官山駅中央口前広場
キュレーター きむらたかし 「三田用水ツアー第2期最終回」
〜旧朝倉家住宅内水路と鉢山分水跡を歩く〜
コース:〔重文〕旧朝倉家住宅*−同庭園内水路**−(同住宅内見学 14:00まで)猿楽塚ー猿楽分水口跡―朝倉水車跡―西郷山水車跡−鉢山分水口跡−(鉢山交番)−鉢山分水路跡−並木橋(伝鉢山分水放流口)―渋谷駅
*入場料:60歳以上は身分証明書提示で無料、その他100円
**庭園内はハイヒール・サンダルは危険につき不可
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代) 参加申し込みについて(必ず四日前まで連絡してください。資料部数と関連します)  きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲会は人の居場所でもある。毎月月末に会報を持参する。第4日曜日の午後2時にはこれから行くようにしたい。皆さん気軽に文化談義などしませんか、あるいはテーマを設けてもよい。鉄道論、文学論、地形論、なんでもござれ、私にメールくださって、何について今度は話すからみたいなことでもよいのでは?
▲会員は、年度が変わりますので会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
ただ、振り込み手数料が掛かる。それで会員名と住所とを封筒に書いて、中に会費を入れて歩く会のときとか、または邪宗門に立ち寄ったときに払ってくだされば助かります。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。






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2019年12月31日

下北沢X物語(3915)―鉄道痕跡アニメと文学:鎌倉―

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(一)芥川龍之介の「トロッコ」は教科書に載っている作品で何度も扱ってきた。冒頭に「トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした」とある、大好きな一節だ、少年が初めて文明に接した驚きである。未来に対する希望でもあり不安でもある。鉄道の音「ごろり」が人と機械との出会いで、それが今日に続いている。彼の遺作となった「機関車を見ながら」には、「機関車は兎に角全然さびはてるまで走ることを断念しない」と述べる、言わばこれが不安の果ての正体ではなかったか?芥川の鉄道は哲学的だ、その残滓が残っているのではないかと鎌倉を訪ねた。

 彼に取って愛着の深い路線は横須賀線だ。鎌倉に下宿したり住まったりして横須賀の海軍機関学校にこの線を使って通っていた。小品「蜜柑」、「お時儀」、「寒さ」には鉄道場面が描かれる。これもやはり横須賀線が舞台だ。ことに印象深いのは、「或る阿呆の一生」に描かれている「先生の死」である。

十三 先生の死

 彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴を上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。
 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに歓びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……
 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡なびかせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

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自己の思いと風景とが見事に描かれている。「先生の死」の先生は夏目漱石だ、彼は対象五年(1916)12月9日に亡くなっている。
この年11月23日に鉄道省の鎌倉駅が改築され二代目駅舎が落成している。このときに島式ホームとなり、一面二線となった。「新しい停車場」は鎌倉駅に他ならない。
「ヤットンコラセー、トコショット……」
 鶴嘴を持った線路工夫が組になって線路を突き固めている。合いの手、かけ声が切れ切れに聞こえてくる。折から北風が彼らの歌と自分の感情とを吹きちぎった。心の中では先生の死を思い思っていた、吹き付けてくる風が悲しみと悼みとを粉々にして持ち去っていく。その折も折、上りの汽車がやってきた。
 横須賀線は鎌倉駅構内へはカーブを描いて侵入してくる。編成がうねるようにして近づいてくる。彼の思いはその上りに乗ろうとしている、が、彼が待っていたのは下りだ、勤め先に行こうとしていた。
 汽車機械は逡巡しない、が、「我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない」(『機関車を見ながら』)、文明は闇である。

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2019年12月30日

下北沢X物語(3914)―年の瀬の鎌倉文化探訪―

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(一)「富士山は登る山ではなくて見る山だね。ここの材木座海岸から富士山が本当によく見えるのよ。人間はさ、生きているとなんかかんかあるでしょう、でもね砂浜に下りて富士を見ると嫌なことなんか全部忘れちゃうのよ。あの山に何度助けられたかしら。でもね、一度だけ富士登山に誘われたのよ。行ってみてがっかりしてしまったのよ。富士山なんて登るものじゃないと思った。行ったって岩がごろごろあるきりで、登るのはつらいし、きついし、くるしいし、もう二度と登るもんかと思ったわ、ここからね、眺めている方が一番だよ」。鎌倉材木座で出会った羽太俊子さんが話してくれた。「いい話ですね、同感です。私なんかも一度も登りたいと思ったことはありません、富士は登る山でなくて眺める山ですね」と。が、生憎昨日は富士は見えなかった。

 鎌倉駅から歩いて由比若山(元八幡宮)へ立ち寄り、海辺に向かうと材木座に着いた。ここで昭和17年生まれの羽太俊子さんに出会った。珍しい苗字だ。
「はぶたって読むのね」
 初めて聞く名だ、調べると「徳川家に仕える幕臣羽太氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏」とある。鎌倉ならではの苗字だと思った。
 通る人皆が彼女に挨拶をしていく。
「海岸に行く通り道になっているからね。山の上に住んでいる人が散歩で海岸目指して歩いてくるのよ。そういう人が言うのよ『歩いて散歩しろと。でもね山の上まで歩いてもおもしろくもないでしょう」

「ああ、なるほど山の上に住んでいる人は海岸目指して散歩しながら歩いてくるけど、浜の人は山の上まで行こうと思わないんだ、それはおもしろい発見だね」
 山の人は下って浜辺に下りてくる、そして波を見たり、江ノ島の向こうに見える富士を眺めたりする、それなりの面白さがあるようだが、この反対は成り立たないらしい。

「おばさんも歩くといいよ、健康に一番いいのは歩くことだよ。私はこれから江ノ島まで歩いていくんだ。どのくらいかな、一里ぐらい?」
「一里ってわかんない」
「四キロだね」
「あんたね、四キロぐらいじゃないよ十二キロぐらいだよ」
「三里かたいしたことはないね」
「私には信じられません、江ノ島まで歩いていくなんて……」

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2019年12月28日

下北沢X物語(3913)―下北沢第二書房の盛衰物語―

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(一)「灯台もと暗し」、伊藤文学さんは当会創立メンバーだった。折々に人生経験を聞いてきた。が、身近な存在だったので話を聞き流してきた。今になって当地文化史のカオスが、伊藤父子が関わってきた第二書房にあると気づいてきた。「下北沢第二書房物語」はノンフィクションとしてとてつもなくおもしろい、出版社が生き残っていくために純粋文芸路線からエロ路線へ大転換を図った。その変遷経過は知られざる日本の裏文化史である。下北沢文士町文化を解き明かす糸口になるのではないか?

 戦後昭和二十三年(1948)に伊藤祷一は下北沢に第二書房を興した。ここでの処女出版は「夜や秋や日記」である。著者は吉田弦二郎である。彼は戦前の流行作家であった。伊藤祷一は彼を主軸に据えて出版社を大きくしようとした。この二人の繋がりはどこにあるか。伊藤祷一は、伝説の出版人といわれる長谷川巳之吉の第一書房に勤めていた。ここでは吉田 絃二郎の本を数冊出している。『山遠ければ』(1938)、『わが人生と宗教』(1939)などである。容易に想像がつくのは第一書房で手がけた吉田弦二郎の本の編集者は伊藤祷一だった。彼と懇意になったことから吉田に出版社を興すについて相談したと思われる。

 wikiには、「戦後、詩人の田中冬二、元社員の伊藤祷一らが、『第一書房』を再興しようと長谷川にかけあったが断られ、『第二書房』を設立している」とある。田中冬二は伊藤祷一のところに来て再興について相談をしている。冬二は四季派の詩人である。萩原朔太郎とも懇意だった。

 第二書房は吉田 絃二郎路線でいっていたが、多分、その売れ行きはあまりよくなかったようだ。出版社を興してから三年後、歌集出版へシフトしていく。

著者 伊藤保歌集
出版社 第二書房
刊行年 昭26
冊数 1冊
解説 初版 増補版 序歌・斎藤茂吉 帯文・宮本百合子

歌集 仰日
著者 伊藤 保
出版社 第二書房
刊行年 昭 26

歌集 中央街
著者 橘馨
出版社 第二書房
刊行年 昭 26


  伊藤保はハンセン病とたたかいながら作歌をつづけた歌人だ。「アララギ」に入り,斎藤茂吉に師事した。歌集に「白き檜の山」などがある。
山形から引き揚げてきた斎藤茂吉は、第二書房に近い代田に住んでいた。歌人は折々にここに訪れてもいた。伊藤保歌集の出版については茂吉も相談に乗ったのではないかと思われる。
 折からの短歌ブームにのって初版は売れた。それで再版を出すにあたって茂吉が序歌を記し、腰巻き文は宮本百合子が書いた。短歌と文芸の第一人者だ、これも売れたはずだ。
それで第二集の「仰日」が出版された。
 歌人、橘馨についてはよく分からない。「中央街」のほか「深巷」という歌集がある。
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2019年12月27日

下北沢X物語(3912)―下北沢の出版文化を担った第二書房―

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(一)下北沢で興った出版社は第二書房である。親父さんの稼業を息子の伊藤文学さんが受け継いだ、評判になったのは文学さんが創刊した「薔薇族」である。息子は初代については女に入れ込んでいて商売に身を入れていなかったと批評している。が、文学詩歌への貢献度は高い。詩歌は詠むだけでは伝わらない。これを作品にして発信してこそ伝わる。つい最近気づいたことがある。第二書房は戦後夥しい数の歌集を発行していた。往時、歌集出版では一つのステータスを築いていた、が、これら数多くの歌集、通常の図書検索では引っ掛からない。唯一古書店の検索で引っ掛かる、第二書房の歌集発行史は歌壇ではすっかり忘れ去られている。

伊藤祷一さんは美装本出版で知られる第一書房に勤めていた、戦後これを再興しようとした。しかしうまく行かず自ら第二書房を下北沢の自宅で興した。文芸詩歌をジャンルとしたがそのほとんどが歌集である。

 第二書房の発行物で興味深く思った出版物があった。

「小学生えんぴつ詩集」 著者 百田宗治 出版社 第二書房 刊行年 昭27
 

 戦時中に皇民化教育の一端として昭和17年に発刊されたのが「鉛筆部隊 : 少国民の愛国詩と愛国綴り方」である。これも書いたのは百田宗治である。

 代沢国民学校では綴り方教育で熱心だったのは柳内達雄である。学童を疎開させるに当たって自分が受け持った宿の子を「鉛筆部隊」と名づけた。これは百田の書「鉛筆部隊 : 少国民の愛国詩と愛国綴り方」に影響されたことは間違いない。

 先だって、代沢小で創立百四十周年記念式典が新装なった体育館で挙行された。正面の左手の壁に校歌を刻んだボードができていた。この作詞者が柳内達雄である。この先生は、元は東京市第三大島尋常小學校に居て、ここから代沢小に転勤でやってきた。
『だいざわ』(世田谷区立代沢小学校 創立90周年記念誌)に載っている対談の一節だ。

司会 代沢には自由教育の流れがあったようですが、それはいつ頃のことですか?
赤坂 三本杉校長が柳内、熊井、浜館などのソウソウたる先生を集めてからそういう雰囲気ができたのでしょう。


第三大島は綴り方教育の先進校だった。ここから引き抜かれて柳内達雄は来た。ここで彼は児童詩教育の推進者の吉田瑞穂に大きな影響を受けた。この吉田が師事していたのが百田宗治である。吉田瑞穂、柳内達雄、百田と繋がってこれが鉛筆部隊に結びつく。

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2019年12月25日

下北沢X物語(3911)―下北沢の詩人痕跡を歩く3―

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(一)「下北沢には作家や詩人詩人志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に出入りしていて、無聊の日を送っている」(『台上の月』中山義秀)、昭和10年代のことだ。詩や文学への希望を持って若者が大勢集まってきていた。なぜか?一つ詩が命を持っていた時代だったから、一つ同類が多く当地に集っていたから、一つ町には詩があったから、それは匂いであり、音である。武蔵野の残影が到る處にあった。北沢の古老、三十尾生彦さんは川に蛍がフナがいたと。回りの自然環境が昔のままに方々に残っていたことを指す。町には詩情を催す匂いや音がそこかしこにあったからだと。

 町歩きの途中に紹介した詩があった。北川多岐さんのだ。北川冬彦の奥さんだ。

あるとき
私がおいとましようとすると
横光さんは「そこまで一緒に」と玄関からお出になった
池ノ上近くの松林にさしかかると
つかつかと松林の中に入って行かれる
私は松の毛虫が苦手で足が鈍るのだったが
あとにつづかねばならなかった
横光さんは
松の新芽を摘まれながら
「奥さんこれで松葉酒を作るです。ぼくも作って飲んでいるが
とても体によいのです。北川君にも飲ませてあげてください。
「横光さんと私の子」 横光利一の文学と生涯 桜楓社 昭和52年刊


 非常に興味深い逸話だ、横光邸は丘上にあった。この西側は崖線で下北沢まで赤松林が続いていた。武蔵野の名残である、当地への阿佐ヶ谷からの転居は自然への渇望があったと思われる。横光利一は胃弱でこの松葉酒を愛用していたようだ。
 
 横光邸から白秋の門下生がたむろしている見晴荘は近い。おりに白秋が祖師ヶ谷大蔵から出張ってくることもあった。

 そこで三人の弟子たちは、裏の小松原に緋毛氈を敷き、赤いお膳をならべ俄ごしらえの肴を用意して、朝帰りの師匠をもてなしにかかったわけである。小松のあいだにゆったりとした草生があり、野の花が珠を綴っている。そうした屋外の小宴は昼すぎまでつづいた。
(『評伝 北原白秋』藪田義雄 玉川大学出版部)


 ここにも一帯の植生が見えて興味深い。「小松原」は崖線続きの赤松に違いない。武蔵野風景の残存である。時代は昭和6年頃だ、当地一帯が小田急開通によって次第に開け始めた。が、草原があったり、野花が咲いていたり、まだ自然は豊かだった。

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2019年12月24日

下北沢X物語(3910)―下北沢の詩人痕跡を歩く2―

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(一)改訂8版「下北沢文士町文化地図」には新しく旧居が判明した者を加えた。全体で詩歌人だけで20名ほどいる、加えて、詩歌関係では居住が分かっていても場所が分からない者もいる、宮柊二、吉田 一穂、伊藤信吉、別所梅之助、大岡竜夫、福田蓼汀、志田義秀、志田延義、志田素琴などだ。これとて氷山の一角だ、三十数人の上にさらなる人間関係を加えればどれだけ詩歌人が集まっていたかは分からない。「下北沢文士町」は詩人密度日本一というのははったりではない。なぜにかくほどに詩歌に関係する者たちが集ってきたのか?今は創られた街に魅せられて若者が集まってきている。が、詩は金ではない、心だ、かつてはこれに恋い焦がれて青年は集まってきていた。抒情の集まる街だった。

 我等は旧雨過山房をまずは見学した。ここで有名なのは石畳だ。「門から玄関まで、石畳になっているのは、遺作『微笑』に書かれている通りである」(「下北沢の思い出」大岡昇平)。また詩人の永瀬清子もこう記す。

 あの門をくぐって玄関の格子をあけるまでにはいつでも足がぶるぶるするような感じがあった。最後の作「微笑」の中で若い士官が駅から横光さんの玄関までの歩数を計って横光さんに告げるところがあるが、その足音をいつも聴き分けられるともある。
 「かく逢った」 編集工房ノア 1982年刊


 この石畳は会創立の頃からウオッチしていた。当初はそのまま残っていた。が、改築されたときに崩され、庭の隅にこの石が置かれていた。これを欲しいと思っていた。この思いがようやっと通じて横光家から寄贈された。

 北沢川緑道に「横光利一文学顕彰碑」を建てるときにこの石を置いた。が、一枚では不足だった。二枚ないと足音は生まれない、急遽横光家にもう一枚所望して戴いた。

 文士町の文学音伝統を象徴するものを文学碑に飾ることができた。北沢の雨過山房によく出入りしていたのは北川冬彦である。奥さんの北川多紀も昵懇だった。

 旧雨過山房には今も何枚かの石畳が使われている。「あれだあれだ」と言っているときに玄関のドアが開いた。
「まずい」
 そう思ったときに、ドアは閉まった。安堵したことだ。今もやはりこの石畳を見学に来る人がいるように思う。

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2019年12月22日

下北沢X物語(3909)―下北沢の詩人痕跡を歩く―

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(一)町歩き第156回は今年最後の行事だ、「下北沢の詩人痕跡をめぐる」を21日に実施した。新しくできた8版地図を片手にして歩いた。下北沢になぜ数多く詩人が集まったのか?謎である。当地は詩人密度日本一である。詩歌が沢陰に隠れている、「褌が金玉守る大南風」(上甲平谷)、「北沢の沢辺の蛙水田は無けど此処を瀬となくこゑ天に満つ」(尾山篤二郎)、「商店街曲れば静かなる屋敷町生け垣の中にピアノ響きて」(掘内通孝)などだ。これらが沢陰でひっそりと詠まれている。特徴は詩人同士の相互性がみられないことだ、沢陰に詩人たちが自己存在を示そうと言葉を産み出していた。詩とはさすらいの心を歌うものだ。その漂泊者がさすらいの果てに着き、詩という灯火を照らしていた。

 まず池ノ上駅に集まった。ここから南下する。道は大山鮫洲線だ。
「ここの道は古道で狭いのです、電柱に小学生が押しつけられて死んだこともあります。住宅街を行きましょう、道を挟んで左側が軍事ライン、右側が文学ラインです。とりあえず軍事ラインから行きましょう」
 敗戦直後杉山元元帥が市ヶ谷台で自殺したという報を得て、池ノ上に住む奥さんは短刀で胸を突いて自害した。その旧宅脇を通り、東條英機邸跡へと行く。地図を片手に行っていると三階の窓からこの様子をじっと見ている人がいた。手を挙げて挨拶する。

「なんかの調査?」
 彼は表に出て来た。
「いやね、昔ここに住んでいた人の旧宅を歩き回っているのですよ」
「それはね、もういっぱいだよ……あそこは最高裁長官、あっちは杉山元、こっちは東條英機……東條英機が車で家を出るときに運転手がここの側溝に前輪を落っことしてしまったんだ。そしたら即刻首になったと言うんだ……わしはね、植木屋でだいたいここら辺の大きなうちには皆入っているからね、半藤一利さんところも懇意だから」
「ああ、じゃあ、この地図を持っていってくださいよ」
「この裏に大きな欅がある、見栄えのするものでここら辺では一番だよ。あれはな、上で枝がきれいに分かれているだろう、わしがな剪定したんだよ」
「あの欅はいいですよね、横光利一が昭和の初めにここに越してくる、そのときのことを描いたのが「睡蓮」の一節だ。
 植木屋のおじさんにはまた日を改めて話を聞くことにした……

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2019年12月21日

下北沢X物語(3908)―下北沢人士としての伊藤文学・了―

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(一)伊藤文学さんは下北沢を拠点として文化を興した人である、彼において当地文化がどのような影響を与えたのかは興味深い、今でこそLGBTのことが話題になる、が、これに市民権を与えたのは彼でもある。今でもそうだが我等の社会は閉塞的である。下北沢にも関係している無頼派田中英光は「『さようなら』という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある」と述べた。自由になったとはいえ横並び世界の束縛は今でもきつい、女性も男性も暗い歴史の陰翳に今も生きている、が、文学さん苦難の末、同性愛誌『薔薇族』を発刊させた。男にしか興味を持てない一読者が、自身を精神異常者ではないかと思っていたが、この雑誌を目にして「世の中にホモがたくさんいると知って安心した」という。同性愛解放の端緒を開いたのは伊藤文学さんだ。
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 「父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!」と文学さんは言う。が、このたった十五文字に歴史背景が潜んでいる。

 父親は伊藤祷一さんだ、美装本で知られる第一書房の社員だった。戦後になってこの会社を再興させようと詩人の田中冬二とともに立ち上がった。が、これはうまくいかずに下北沢に第二書房という出版社を興した。

 社としての処女出版は『夜や秋や日記』(第二書房 1948年)だ、作者は吉田 絃二郎、戦前流行作家として名を上げていた。彼の愛妻看病日記だ。妻には先立たれる。男やもめは女中さんの世話になる。そんなことがあって作家は女中を養子にして財産を分与した。献身的に尽くした彼女へ報いたと美談として伝えられた。

 ここで文学さんは言う、「ぼくは美談というものを信用しない。必ず裏があるからだ」と。彼はこう言う。作家は奥さん思いで有名であったが、「なんのことはない、奥さんが生きているときから、おはるさんと男と女の関係が続いていたのだ」と。う〜ん、なるほどだ。その女中さん三十年増で魅力的だった。

 今度は、この女中さんに熱を上げたのが文学さんの親父さんだった。
「いやね、入り浸りで帰ってこなかったんだ」
 この話は前に何度か聞いていた。今になって分かる、年増の魅力に惹かれて商売そっちのけで色に走ってしまった。それで文学さんは途方に暮れた。
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(二)
 苦難の道をこう書いている。

 僕が大学を出て四年もすると、親父は家に寄りつかなくなってしまった。そうなると何かあった時に矢面に立つのはぼくしかいない。酔った勢いでわが家に押しかけ印税が少なすぎると文句を言う著者の相手をしたり、おやじがねんごろになった女流歌人の亭主がどなりこんできたらなだめすかす。そんな役目まで果たさねばならなかった。何もしない親父に、印刷屋などへの支払いが足りないと言われるのも癪だったから、とにかくがむしゃらに働いていた。
 「『薔薇族』編集長」 幻冬舎アウトロー文庫 平成十八年


 親父は、印税を削って経費を浮かせろと言っていた。売れている割には印税が少ないとねじ込んでくるもの、また本を出してあげるからと女流をくどいたものだろうかその亭主が「どうしてくれるんだ」といちゃもんをつけてきた。親父さんの尻拭いという損な役回りをこなした。そういう修羅場を潜ったことから活路は生まれてきたのだろう。

第二書房は文芸路線で出発した。活字に飢えていた戦後は本が売れた。が、生活が豊かになると人々の趣向が変わってくる、文学詩歌では難しくなる。事実、下北沢に勃興した小出版社は潰れていった。
「野垂れ死にするさまを見ていたからね……」と文学さんは回顧することがあった。
 親父は女に狂って仕事に励まない、文学さんは正念場を迎えた。これからをどう生きるのか?

 文学さん、代沢小出身だ、戦時中ではあったが自由な雰囲気があった、こういう場で教育を受けたことも彼自身の感性に影響を与えているのではないかと思う。あれこれ考えた上で生きて行く道をみつけた。

 伊藤文学さん、回顧録ともいえる「『薔薇族』編集長」を書いている。「運命の本」と題されたところでおもしろい逸話を紹介している。あるとき風変わりな男が訪ねてきた。原稿の売り込みだ、その中に「オナニーの正しいやり方」というのがあった。文学さん自身このオナニーで青春時代に苦しんだ。それで売れると思って「ひとりぼっちの性生活−孤独に生きる日々のために」と題をつけて売ったら、大当たり。
P1000576
(三)
 発信すれば応答がある、「銭湯の洗い場で他の男性のモノ見て興奮し、片隅でしこしことオナニーをしています」と。女性を思い描かないで男性を!彼には驚きだった。発見でもある、こういう人が多くいる、ならば「同性愛の人たちに向けて本を出したら、なおのこと気持ちがすっきりするはずだ。と思いつき、「薔薇族」を出した。これが大当たりだった。

 彼は下北沢人士、生まれてこの方当地には変な人は一杯いた。西洋乞食の婆さん、なんと森鴎外の娘だったり、マンドリンを弾いて子供たちに歌の歌詞を配る人など、どんな人でもきた。「オナニーの正しいやり方」要りませんかと商いくる人、なんでもござれだ。文学さんそういう場で育った、彼に培われた下北沢人士としての感性が彼を生かした。
(北沢川文化遺産保存の会、創立15周年記念祝賀会での様子)



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2019年12月19日

下北沢X物語(3907)―下北沢人士としての伊藤文学2―

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(一)「第二書房の興隆と衰退」は文化史としても興味深い、文化は土地固有のものだ、当初は文芸路線から始まり、エロに走った。伊藤文学さんは言う、「小さい出版社が生き残るにはエロ本しかない」(『薔薇族』編集長)と。戦後になって当地に小出版社が興った、が、活字に飢えていた人々も好みが変化する。その風を嗅ぎ分けて文芸路線からエロ路線へと舵を切った。そして因を「父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!」と言う。ここに色事が介在していた。この経過は物語だ、ここに土地が絡んでくる、下北沢と玉川瀬田である。戦後になって親父さんは事業を興そうと玉川瀬田へ日参したようだ。自宅から三軒茶屋まで行き、玉電に乗って瀬田まで行った。ここに吉田 絃二郎が住んでいたからだ。

 伊藤祷一さんは、生まれた息子に「文学」と名づけた。作家になることが夢だったということでこの名を付けたという。その祷一さんは吉田 絃二郎に心酔していたという。彼の文学に酔い痴れるものとは何か?興味を持ったことから吉田 絃二郎に触れたいと思った。図書館検索で調べてみた。が、一件もヒットしない。愕然とした、一世を風靡していた作家もたちまちに消え去ってしまう。愛おしくなって昨日家から瀬田まで歩いていき、「玉川瀬田339」近辺を歩いた。そこは国分寺崖線の高台、多摩川が見下ろせた。

(自身では以上のように書いていたが当方の入力ミスだ、吉田弦二郎としていたが、正しくは吉田 絃二郎である。これだと検索には多く出てくる)

 昨日、このブログには、さっそくに国立国会図書館のデジタルアーカイブで吉田弦二郎の作品が見られるとのコメントがきむらたかしさんからあった。片鱗に触れる機会だ。一冊、「梅の咲く頃」(新潮社 1935)を見た。味のあるエッセイを書いている。

 吉田 絃二郎は度々汽車で東海道を通った、沿線の島田に友人が住んでいる。東海道を上り下りするときに汽車の窓から友人を見ることにしているとのこと、通りかかるときにはあらかじめ電報を打っておく。「故郷」とされたその場面だ。

 大井川を渡って間もなく、私は田圃の中に五六人の黒い人影と手に手に降る白いハンカチーフを見た。
 Yを見た、Yの奥さんも、母堂も三人の子供たちも窓のわたくしを見て笑った。ハンカチーフは疾風のごとく揺れた。
時雨のような小雨が降ってゐた。六つの人影は雨と暗とにつつまれて、消えていつた。
秋の旅の侘しさががひしひしとせまつて来た。

 
巧みな逸話だ、車窓場面を切り取ってさりげなく読者に提示する。雨の中に佇む友人家族、その黒い影を車窓が動きながら消して行く、濡れ湿った旅情、ああ、なるほどこういう感性の持ち主か、伊藤祷一さんが心酔するという意味も、作品を読めば分かってくる。

(二)
「梅の咲く頃」には、玉川瀬田に越してきた理由を、「すぐ近くの川に行って釣りを楽しみたいため」だと書いている。ここに住んで犬を飼って暮らしていた。その犬を連れては付近を散歩していた。「武蔵野の秋」と題してこう書いている。

 武蔵野を歩いてゐて、いつか思ひもかけぬ草の中に都会的な住宅がぽつりと一軒建てられたのを見たことがある。そこにはいつも白いベットの上に若い人が眠つてゐた。二三ヶ月も経つ間に、その家からは白木の柩が担ぎだされて、後にはしばらく貸家札が貼られてあつた。その次にもまた若い病人らしい男が同じ家に引つ越して来た。いつも看護婦らしい人が庭の花を切つたりしてゐた。が、病人はどうなつたかつひに見えなくなつてしまつた。ふたたび貸家札が貼られて雨風に打たれてゐると思ふ間もなく、三度新たに病を養う人がそこに住んでいるのを見た。

 昭和一桁ぐらいの多摩川のほとりの様子である。不治の病を患った人が次々に入ってきては亡くなった。陽光降り注ぐ多摩川のほとりだ、療養の好適地として特別な貸家が作られていたのだろうか。都会風の家にはベットがあった。通り掛かるたびに白いシーツをひいてあるそれに目が行ったろう。終末期を迎えた若い人というのは結核療養だろうか。入れ替わり立ち替わり若い人が入ってきてやがては柩に収められて出て行く。印象的な光景である。絃二郎はこう結ぶ。

 つひには一度も聲をかけることもない間に、今度の若い男も何なったのか、門には貸家札が貼られて、庭の草は荒れて廃れてしまった。

 彼の書いたものを読んでいくと共感したり、親しめたりする場面がある。

 武蔵野の見知らぬ町を歩くもいい。或いは東京の真ん中に経つのもいい。ただ一人で歩くといふことは旅人らしい感じ、旅人らしいわびしさを味わふにはいいことだ。
 自分の心さへ旅人になつてゐれば、一里歩いても旅の味は感じられるものである。


 遠くへの旅であっても近くであったも同じ、自分心さえ旅人になっていれば同じ、ということには深く共鳴する。

 彼の随想、随筆を読んでいて直感的に感じたことは、同じ風景を見て育った人ではないかと思ったことだ。彼は佐賀県神崎出身だ、佐賀平野、北方には天山や背振山が横たわっている。私自身幼少時を佐賀で過ごした。櫨の生えた土手を行くとどこまでも行ってしまう。漂泊者の心が芽生える場所だ。
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(三)
 玉川瀬田の吉田 絃二郎を訪れるきっかけとなったのは文学さんからもらった一枚の写真だ。文学的な興味関心といえば、若山牧水の瀬田の居留先だ。

 明治37年8月16日から9月18日まで玉川瀬田に滞在した。ここの居留先は詳しく分かっていない。伊藤祷一さんはそこを調べ上げて写真を撮った。ここは行ってみて確かめることができた。トタンをかぶせた家は瀬田4丁目2番15号である。ただ明治37年においてここの家があったかどうかは疑問が多々残るとの指摘だ。

 文学史的な価値からすると牧水のがわずか二ヶ月ほど寄留したとされる家よりも、吉田 絃二郎の終の棲家となった家の方に意味がある。彼は「私は武蔵野の孤独を愛する」と言っている。そこはどこか昨日、国分寺崖線の玉川病院あたりをうろついたが、そのあたりらしいのである。
(写真上、玉川瀬田の国分寺崖線、下、文学さん提供の写真、瀬田4丁目2番15号あたり)


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2019年12月18日

下北沢X物語(3906)―下北沢人士としての伊藤文学―

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(一)「北沢川文化遺産保存の会」が創設されて十五年となる。先だって祝賀会を行った。伊藤文学さんは招待者として参加された。彼は会の創設メンバーであった。もう長い付き合いである。が、人は長い年月ふれ合っていくのは大変だ、やはり彼とは何度もぶつかった。安吾文学碑の建て方を巡っては大喧嘩をしもした。しかし、時薬という言葉がある、月日が経てば憎悪は消える。むしろ文学さんには大変世話になった。「鉛筆部隊と特攻隊」はまとめはしたが出版元がみつからないで苦渋していた。文学さんに頼んだら彩流社を紹介してもらって即出版となった。この頃では文学さんと下北沢で合えば握手する。「親父の衣鉢を継いでいるのはきむらさんだね」と言う、それは確かだ、「北沢に住んだ文芸人」を祷一さんは書いた、その生原稿を私は、文学さんからもらった。

 伊藤文学さんは下北沢文学人士だ、ありきたりの言い方で切り込まない、人を惹きつける言い方をする。「父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!」と言う。これがおもしろい。

 祷一さんは吉田弦二郎と昵懇だった。それで昭和23年(1948)に第二書房を下北沢の自宅で興したときに最初の出版物が彼の『夜や秋や日記』であった。その後も第二書房からは数多く本を出している。

 吉田弦二郎は玉川瀬田邸宅を構えて住んでいた。
「親父は、吉田弦二郎のところに入り浸っていたんだよ」
 この話は前に文学さんから聞かされていた。祷一さんは弦二郎に心酔していたらしい。戦後下北沢で出版社を興すときに相談したのだろうと思う、それで第一作を第二書房から売り出した。これが昭和23年だ、戦後すぐのことで人々は本に飢えていた。それでこの本は売れた。それでつぎつぎに本を出すようになった。

 吉田弦二郎は戦前の流行作家だった。戦後に本が無かったころは余勢をかって売れはしただろう。しかし、文学さんが言うには、「世の中、変わってしまって戦後の読者には顧みられなくなっていた」という。

 作家の妻は明江は昭和十二年に亡くなっている。長く病身であったらしく、その妻の看護日記が「夜や秋や日記」だった。愛妻家であった。奥さんが亡くなってからは身の回りを世話をしていたのが女中のおはるさんだった。ところが吉田弦二郎も昭和34年に亡くなってしまう。献身的に世話をしたことからおはるさんは吉田家の養子になり作家の財産の相続人になったという。
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(二)吉田弦二郎に興味を持ったのは、一枚の写真からである、祝賀会のときに文学さんが古いアルバムを持ってきた。中心は作家の写真である。第二書房で使っていたものである。貴重な写真である、が、写真版権が生きているもので勝手に使うことはできないものだ。それでも何枚かは伊藤祷一さんが撮った風景写真がある。これはもらったものとして会で使って構わないものだ。この中に興味深いものがあった。裏書きがある。

明治三十七年夏、数え年二十歳の若山牧水が脚気治療のために間借りした玉川瀬田の長崎氏の家。左手のトタン屋根の家。

 歌人若山牧水が玉川瀬田に一時滞在していたことがある。その家だというのだ。研究書などでもここの番地を記録しているものはない。すわ、新発見か?と思った。

 興味深いことに地番表示の看板が写っている。かろうじて「玉川瀬田341」と読める。この旧番地はきむらたかしさんに教わって写真を持って行ったところすぐに分かった。しかし、考証を緻密に重ねるたかし氏多くの疑問が残ることから俄に信じがたいとする。それで「若山牧水寄留先」は置いておくことにしよう。

 これがきっかけで興味を持ったのは作家としての吉田弦二郎のことである。調べてみると彼の原作をもとに6本もの映画が撮られている。作品も数多く出ている。これらには武蔵野を描いたエッセイもある。

 読んでみようと思った、それで近隣の図書館の検索で調べてみた。驚いたのは一作品も引っ掛からない、地元世田谷ならとこれも検索に掛ける、が、引っ掛からない。
 吉田弦二郎は、ひとかどの文学者である。がもう図書館にその痕跡はない。
「作家はこうして忘れられていくのか?」

 僕も子供の頃、父に連れられて吉田邸を訪ねたことがあったが、玉電の瀬田で降りて、多磨川が見渡せる千数百坪もある木々に囲まれた広大な家だった。

伊藤文学さんは、ブログにこう書いている。瀬田の国分寺崖線にその敷地はあったようだ。そこは旧番地では「玉川瀬田町399」だ、無性に行ってみたくなった。家から歩いていけば一時間で行ける、今日も歩いて行った。

(三)
 歴史は忘れられていく。彼が多摩川が見渡せる書斎で書いた作品も消えつつある。また、その家すらもどこであったのか不明だ。私は崖線まで歩いて行った。あそこかここかと探してみる、が聞こうにも人がいない。

 尾根に出ると寺があった。慈眼寺だった。庭を掃いていた女性がいた。
「作家の住まいを調べている?優雅ですね。この寺にも作家が眠っていますよ」
 彼女、探偵小説の先駆者、甲賀三郎の墓に案内してくれた。

「亡くなられたここの住職山科芳一さんも零戦に乗って特攻に行くはずだったと言っていましたけどね……」
(上、慈眼寺、下、右文学さん、他二人は創設メンバーの長井邦雄さん、作道明さん)


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2019年12月16日

下北沢X物語(3905)―鉛筆部隊の後輩たちからの手紙・了―

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(一)私たちの住む国は記録を大事にしない。終戦時国の命令によって公文書を焼却した。過去を闇に葬っても平気だ、このところ話題になっている首相主催の「桜を見る会」の名簿廃棄も根は同じだ。資料請求があった日にシュレッダーに掛けた、なぜその日か?予約待ちだったと平然と答える官僚、噴飯ものだ。過去の開催名簿を平気で捨てて厚顔にも知らんぷり、記録の意味が全く分かっていない、記録は手がかりであり、とっかかりである。それを元にこれからの計画を立てる、重要なものだ。鉛筆部隊は疎開学童の記録だ、偶然この私的な記録が、公が焼却した記録の裏をとって埋もれていた近代戦争史の一端を明らかにした。代沢小の学童はこれを学ぶことによって自分達の歴史を知ったことだ。

 きむらさんへ
 先日は「言葉の力」と「鉛筆部隊」について教えていただきありがとうございました。きむらさんの鉛筆部隊の詳しいお話から更に鉛筆について知り、新たに疑問や興味を持つことができたのえとてもよい時間となったと思います。
 僕は後輩として先輩方のことを学んで、先輩方から「戦争の恐ろしさ」「食べ物の大切さ」「手紙のすごみ」「言葉の力」など色々なことを教えてもらいました。なのでこれからは食べ物をそまつしないために残さず食べたり、愛知県へ引っ越してしまった親友との手紙のやりとりをさらにしようと思いました。言葉には「相手に勇気を与える力」があることや鉛筆部隊の存在をより多くの人に知ってもらうために、引っ越してしまった親友に「僕たちの先輩はこのようなことをしたんだよ」と教えたり家族との団らんの話題にしたりと、様々な人に伝えていきたいと思いました。
 僕はきむらさんのお話のおかげで自分の人生が少し変わったような気がします。どんどんインターネットが普及して手紙が少なくなっているこの世の中で手紙を自分だけの字で書いていきたいです。
  6年1組 中村悟心


 きむらさんへ
 先日はとても貴重なお話をしてくださってありがとうございました。きむらさんからお話を聞き終えて「文字」について考えてみました。
 きむらさんは「文字に残すことは大切」と。おっしゃっていました。今はメールやSNSなおd自分の手で書くのではなく、機械でうつものがたくさんあります。
 私は日々の生活で手紙を書いたり日記を書くことがあまり有りません。だから今回こうしてお手紙を書けることは光栄です。だから日記や手紙を書くということはとてもたいせつだということを学びました他にも友だちの字を見て丸い字やとんがっている文字、筆圧の高い人、やさしくうすく書く人など色々のパターンが有りました。女の子は丸い字だったり小さい字だったりしています。こうやって字を見るだけでその人の性格や印象を想像することができました。
 そして文字は「ずっと残し、保管することができる」ということも分かりました。今、私が書いている手紙もこれからの未来に残るかもしれません。
 だから私はこれからどんなにAIが発達して手書きをすることがなくなったとしても自分の手を動かして、自分の「文字」を書いていきます。
   6年1組 高橋有咲


(二)
きむらさんへ
 こんにちは、お元気ですか。先日はいろいろな事をお話して下さりありがとうございました。私が心に残ったことは三つあります。
 一つ目は「思ったことは残らない。しかし書くことによって残る」ということです。よく思っていることがあったのに忘れてしまうことがあります。思っていることは忘れてしまいますが紙に書くことによって残るんだなと思いました。
 二つ目は、「手で文字を書くことはとても大切」ということです。今の時代は、パソコンやスマートフォンが普及して、手で文字を書くことが減っている人が多いと思います。でも自分の文字は世界に一つしかない個性であるこということがとてもよく分かりました。
 三つ目は「人に伝わるように書くことは大切」ということです。例えば「鉛筆部隊」と書いたとしても「〇△+8」と書いてあったら、何と書いてあるか分かりません。だから人に伝わるようにていねいに文字に書くのはたいせつなんだなと。大切なことを教えてくださって、ありがとうございました。
 6年2組 小林康太郎


きむらけんさんへ
 お元気ですか、この間はお忙しい中、学校へ来てくださり鉛筆部隊のお話をしてくださりありがとうございました。
 きむらさんは、鉛筆部隊の話だけででなく、アスリートは日記を書いて改善点などが記憶に残ると言ってくれました。きむらさんの説明は分かりやすいだけでなく、大事なことは大きい声で言うなど表現力が強く、戦争の大変さや文字を書くことの大切さが心に残りました。もし自分が戦争があった当時に生まれていたら大変すぎてたえられないと思います。
 鉛筆部隊は親たちを安心させたい、その一心で手紙を書き続けていました。なのでオリンピック、パラリンピックの選手などに字を書いて勇気づける事ができるといいなと思います。きむらさんもお元気で頑張ってください。
  6年2組 長田和己

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(三)
 きむらけんさま
 お元気ですか、ぼくは今回の学習で、平和のありがたさや言葉の大切さを知りました。いつもは何気なく書いている字も、なぜかきれいに書きたくなっています。きむらさんにいただいた詩にもあった、字は記号なんだよというところに、とても字の大切さを教えられました。なぜかというと字を書くと脳に直接信号をおくっていると書いているし、字は人に何かを伝えるために毎日書いているからです。
 今回きむらさと話しているときもずっとおっしゃっていたように今の人は平和がふつうだと思っていて、ぼくもこの学習がはじめる前はそうでした。けれど今回の学習を通して平和に感謝をしてだれかを励ましたりできるようになりたいと思いました。
 6年2組 江雜洞

 きむらけんさんへ
 お元気ですか。僕たちは普段平和な時を過ごしています。でも昔は毎日空襲で平和ではなかったのですね。僕は信じられないし、たぶんその時代を生きてもたえられないと思います。すこし話を変えますが、先日は、鉛筆部隊と特攻隊のお話をしてくださり誠にありがとうございます。あの日ぐらいから結構字をきれいに書けるようになってきて(昔はすごいきたなかった)自分でも嬉しいです。これからも字と友だちになれるように頑張ります。
 きむらけんさんは、ぼくたちにたくさんのことを教えてくれました。日付、内容、思いなどすごい正確でこれも調べたり、取材したりした成果なのですごく尊敬します。そしてそこまで鉛筆部隊に思いを持っているのですからすごいと思います。
 今はみんなで学校周辺のマップを作っているとおっしゃっていましたね、僕らはいつでもきむらさんを応援します。これからも頑張ってください。
            6年2組虻川海斗

(写真上、代沢小創立記念の日、校庭でダンスを踊る高学年、下、先生方の合唱)

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2019年12月15日

下北沢X物語(3904)―鉛筆部隊の後輩たちからの手紙2―

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(一)言葉は風土を背負っている、例えば山だ、象形文字は山を表している。中国大陸の連山の様子だ、我が国の山の多くは火山によって形成されている、独立峰が多い。よって日本だったら山は△になったろう。基本言葉は形である。「リンゴと言ったとたんに口からリンゴが飛び出してはこない」、言葉が記号であるからだ、この記号をしっかりと学ぶことが大事である。手で書いて字の形状を覚える、これを脳に教え込む。鉛筆部隊は知らず知らずのうちにこれを行っていた。言葉を操る疎開学童の子はませてもいた。そこに田舎の航空学校から来た特攻隊のあんちゃんたちは惚れた。

 きむらけんさんへ
 こんにちは、お元気ですか、私は元気に楽しく過ごしています。先日はおいそがしい中お話をしてくださりありがとうございました。
 私がきむらさんから聞いた話で一番心に残ったことは手で文字を書くことは大事なこと、ということと人に伝わるように字をかかないと意味がないといことです。なぜ心に残ったかというと私がいそいでいる時、ほとんど字がきたなくってしまうからです。なのでこの話を聞いて、これからはいそいでいても字をきれいに書こうと思いました。またこれからは思ったことや感じたことを日記や作文にしてたくさん文字を書きたいです。きむらさんお体に気を付けて、過ごしてください。
 今回はお話をしてくださり本当にありがとうございました。
  6年2組 榎本優凪


 発達過程にある子どもが気づくということは大事だ。この榎本さん、文字というものは人に伝えるためにあると知った。これからの人生を渡っていく上で大事なことだ。

「文字というのはふしぎなもので初めてもらった手紙に美しい文字が書かれていると、女の人であれば美人を、男であれば美男子を想像してしまうのです。だから字が丁寧に美しく書かれていると得をするのです……」
 授業ではそんな話をした。
 
 自身、入試において作文を採点したことがある。乱雑なものははねる。段落が全くないものは点数は著しく低くなる。場合によっては採点の対象にならない場合がある。

 いずれ学童たちは、小論文に挑戦することになるだろう、下手であっても丁寧に、きっちり書くことだ。文字は人に伝えるためにあるという認識は大事だ。
代沢小横田恒先生と
(二)
 きむらけんさん
 先日、鉛筆部隊や特攻隊のことを教えてくださったときとはうって変わり、はださむい日が多くなってきました。きむらさんにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

 私は、あのお話で今まで分からなかったことや、当時鉛筆部隊も知らなかったであろう特攻隊の秘密についてきむらさんがお話してくださり、とてもすっきりとした気持ちになりました。またきむらさんの研究に対しての思いを知ることができ、だからきむらさんの作った資料(図書館にありました)に感動したのでだと思いました。
 私はきむらさんの話で「言葉」の影響力について学ぶことができました。言葉は人を慰めたり、元気にできる救急箱です。しかし、一歩間違えれば人を傷つけるナイフにもなってしまいます。
 私は、言葉で人を傷つけることは絶対にしたくないです。その大切なことを教えてくださり、ありがとうございました。これからも言葉を大切に過ごしていきたいです。
 追記
 お話の後「おもしろい事を思えば物事はおもしろくなる。おもしろいと思える人になってください」という温かいお言葉をいただきとてもうれしかったです。このことばは、一生こころの中にとっておきたいです。おもしろいと思える人になれるように頑張ります。
      6年2組  岩瀬葵


 私自身、ずっと文化探査を続けてきた、その基軸は人の話を聞くことにあった。15年間ひたすらに人に聞いてきた。もう亡くなられたが代沢の代田七人衆の末裔から聞いたことは忘れられない。彼は家にお稲荷さんを祀っていた。
「よくすればよくなる」(お稲荷さんを大切に扱えばきっとその御利益が帰ってきてものごとはいいほうに向かう)ということを聞いた。

 このフレーズの援用である、「面白がれば面白くなる、これが学習というものの始まりなんだよ」と授業で述べた、それが子どもにとても印象的だったと。

(三)
 とても貴重なお話をありがとうございます。私は戦争についてとても興味があり、きむらさんのお話に聞き入ってしまいました。こどもで誰かの力になれるということがすごいと思いました。今みたいに平和ではなく、簡単に人が亡くなってしまう時代、そして、そんな時代を必死に生き抜く人どうしだからこそ、はげましあうことができたのだと思います。今のように平和だと、子どもは大した力にならないと思います。そう考えると、もしかしたら戦争中の方が人々の心がよりそい合っていたのかもしれません。こうやっていろいろ考えると奥が深いですね。
 今と昔、どちらの方がいいのかは分かりません。でも、わたしはどちらとものいいところを未来としてつくりだしたです。今すぐ鉛筆部隊のように力になれなくても、今は、今の私にできることをせいいっぱいしたいです。きむらさんのお話を聞かせていただいたおかげで何か見えたような気がします。私の心のどうくつに、少し光が入りました。これからどんどん光を入れていつかは外がみられるようにしたいです。そして自分なりに誰かの力になりたいです。
 本当にきちょうな話をありがとうございました。きむらさんがして下さったお話は、きっと私の未来に役立ちます。私も鉛筆部隊やきむらさんのように誰かのために何かをしたいです。     6年2組羶緲
 

思春期の最中にあって子どもたちは日々思い悩んでいるようだ。この彼女もこれからどう生きようかと思い悩んでいるようである。そんなときに鉛筆部隊の話をした。これが一つのきっかけとなって光明が見えてきたともいう。この彼女と出会えてよかったと私は思う。
(写真上、代沢小6年生、下、6年担任の横田恒先生と)

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2019年12月13日

下北沢X物語(3903)―鉛筆部隊の後輩たちからの手紙1―

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(一)子どもにとって大事なのは言葉である、子どもの頭脳世界は真っ白だ、そこに言葉が入ってきて次第に色づけられる。言葉が多く蓄積されると思考は深化する。「言葉の力」を身につけるには何が大事か?大切なことは書いて覚えることだ。言葉というのは形である。その形状を書いて手の神経に覚え込ませる、これが脳に伝わる。手で書くという繰り返しの訓練で言葉は自分のものとなる。鉛筆部隊の根幹は言葉だ、ひたすら書きまくったことで彼らは学力が向上した。現象や事象を捉えて表現する力が格段にうまくなった。ともかくどしどし書けと現役の子には伝えた。授業を受けた代沢小の子どもから感想文をもらった。鉛筆部隊の話を聞いたことで言葉の大事さを痛感したという。鉛筆部隊の話は歴史教育だけではなく国語教育としても意義深いと思った。

代沢小での授業は10月25日に行った。対象は6年生、テーマは鉛筆部隊である。冒頭、このようなことを述べた。

「鉛筆部隊は、鉛筆で言葉を書きまくった学童たちの話です。君たちの先輩にあたります。鉛筆部隊は言葉がキーワードです」

「言葉は何かというと、手がかりであるということです。私達は日々生活を送っていますが、その時々に考えたことはたちまちに消えていきます。ところが書いておくと残ります。最近オリンピックを控え、アスリートのことがよく話題になります。彼らの多くは日記を付けています。朝何時に起きて何をしたというようなことではなく、練習のポイントを記します。『出足が悪い』とか、『打点がフィットしてない』とかの反省点を書いておくと残ります。これが次への手がかりになるのです。日々日記を書いて、改善点を捜していく、とても大事なことです」

「言葉は、手がかりです。鉛筆部隊は手紙や日記を書きました。これによって歴史に埋もれた事実が明らかになりました。彼らの言葉が手がかりになって埋もれていた歴史が発掘されたのです。書いた日記は自分の歴史にもなるし、場合によっては社会の歴史にもなります……」

〇私は、授業を行った。そのときの感想を6年生は書いてくれた。真剣に真面目に書いている。それを紹介したい。公表するに当たって匿名としようと思ったが、書かれたことにプライベートな秘密もない、むしろ鋭い観察が生きている。誰の誰が書いたか、記録にもなることから名は記すことにした。

(二)
 きむらさんお元気ですか。僕は先日代沢小できむらさんのお話を聞いた者です。さっそくですが、この代沢小に、僕たちが戦争の歴史の中の鉛筆部隊のくわしいお話をしに来てくれてありがとうございました。僕たちは、その後小学生の言葉の力とはどのようなものなのか、そしてその力は今どうやって使えるのかを考えていると、きむらさんへの感謝の手紙を書く、ということになり、今書かせてもらっています。
 僕がお話を聞いて分かったことは、言葉の力というのは、さびしいやつらいという気持ちを励まして勇気や希望を与えるものなんだなと理解しました。そして、僕はきむらさんが書いた本を読んだのでとても鉛筆部隊のつらさが感じたり、きむらさんが全国をまわるまでして鉛筆部隊と特攻隊を調べた意味が分かりました。たった一時間という短い時間でしたがとても興味深い時間でした。ありがとうございました。
      6年2組 久保田 真臣


 気づくということは大事なことだ、彼は『言葉の力』に関心を持った。そして言葉といのが人に励ましや勇気、そして希望を与えるものが分かったという。

 実際、疎開生活は辛いものだった、が、それでも学童たちは日記を書いた。書くことで自分にけじめをつけられた。書くことは自分を見つめることにもなるが、相手を思うことでもある。書くことで人と人の関係が分かってもくる。
 〇傍線を施した表現は評価できるというサイン。
CCI20191212 (2)

(三)
 こんにちは、お元気ですか、ぼくは元気です。
 先日はお話をしてくださってありがとうございました。ぼくはあの話でその当時のことがよくわかりためにもなりました。
 ぼくはお話から鉛筆部隊についてよくわかりました。その中でぼくが心に残ったのは特攻兵と鉛筆部隊の別れと、特攻したことをつげたラジオのシーンです。なぜなら別れのときは悲しいけど、しかたがない、どうしようもないことが感じられたからです。ラジオの時は男の子が喜び、女の子は悲しむ。この事はもともと男子と女子の戦争に対する思いがこめられているのではないかと考えて感じることができました。
 ぼくはこの時間で文字、文章、手紙の持っている力の強さを考えさせられました。きむらさんぼくたちに話をしていただきありがとうございました。
           6年2組 猪俣 茉玖


 言葉の力について感じとる、また考えを深めた点は高く評価できる。

(四)
 この度は、鉛筆部隊についての話をしてくださってありがとうございました。細かくその時の状況や様々な資料でより深く鉛筆部隊のについて知ることができました。
実際の葉書を見て、たくさんの文章が書いてありそれを毎日書いていたら文章力などはきたえられるなと思いました。また辛く悲しい戦争の中、両親と兵隊さんをはげましていた鉛筆部隊の人たちはすばらしいと感動しました。私もたくさんの先輩たちががんばってきたことを知り、小学生の言葉は人を笑顔にし励ますことができるのだと心から実感しました。私も「言葉」というものを大切にし、たくさんの人を応援したり笑顔にさせたりしたいと思いました。
   6年2組 阿部 美月


 子どもはこれからの未来を背負っていく者、溌剌とした元気さは人を勇気づける。若い特攻隊員たちは、鉛筆部隊と出会って生きる意味、死んでいく意味を深く考えたといえる。
(写真上は、創立記念日の日、学校玄関で、下は、記念誌の中の鉛筆部隊のページ)


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2019年12月12日

下北沢X物語(3902)―代沢小と北沢川文化遺産保存の会―

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(一)明治13年1月23日に開校した代沢小は、当地域一帯の文化の要である。その代沢小は、創立140周年を迎え、7日、校舎落成・創立記念式典を開催した。このときに、周年記念誌「140th『代沢』」が配布された。ちょうどこの日、我等の会も創立15周年を迎えた。ここに慶賀すべきことがある、記念誌には我々が関わって発掘したり、調べたり、また記念碑を造ったりしたことが4項目に亘って記録されている。それは、ミドリ楽団、鉛筆部隊、文士町の文豪、安吾文学碑である、これら一つ一つには地域の文化が濃厚に反映されている、音楽であり、文学である、さらに付け加えていうなれば土地の知性であり、感性である。下北沢文化の嚆矢となったのが代沢小である。

 今年の夏のことだ、代沢小に赴いて記念誌の編集に当たっている先生と打ち合わせをした。当方が関わったことについて先生方にレクチャーをした。
・坂口安吾の文学碑の建立までの経緯。
・「ミドリ楽団物語」のあらまし。
・「鉛筆部隊」の活動。
・「下北沢文士町文化地図」の内容説明。

 編集委員の先生は、140周年を迎えるに当たっては現近代のことを新しく加えたいとのことだった。それでいくつかの項目を列挙してそれを囲み記事としたいと。それが今回の周年記念誌にきっちりと生かされていた。それが「代沢コラム」である。

02「代沢コラム」 ミドリ楽団と安倍圭子さん

 戦後の器楽教育の嚆矢となったのが「ミドリ楽団」である。先だって電話があった。安倍圭子さんからである。マリンバの世界的な演奏者である。
「ミドリ楽団のレコードがコロンビアから出されていますが、あれは器楽演奏の模範として出されたものですね、器楽演奏は今は人気ですけど、源流はミドリ楽団にあるのですよね」と私。
「そうそう、本当にそうなんです、ミドリ楽団は知られていませんね。今度アメリカに私に関わる資料が集められることになりました」
「ミドリ楽団は戦後における日米友好の一つの証しですよね、日本でも知ってほしいのですがアメリカでも知ってほしいですね、『ミドリ楽団物語』はアメリカ大使館に寄贈すればよかったと思ったのですが送っていません」
「知られるといいですね」
「今度落成記念行事の一環としてコンサートされますね」
 2020年2月28日(金)3,4校時
「そう、小学校にはまた器楽演奏が復活してほしいと思います」
 ミドリ楽団と安倍圭子さんの関わりは、彼女にインタビューをして記録に残しておきたい。

*浜館菊雄先生系譜の音楽家

 「ミドリ楽団物語」のあとがきでミドリ楽団系譜の音楽人がいると述べた。その筆頭が安倍圭子さんである。ところが今回、個別浜館菊雄系譜の音楽家がいることを知った。
 祝賀会で梅村祐子さんが「記念演奏」の時にピアノを弾かれた。「浜館先生の指導がきっかけとなって音楽の道に入りました」と。気になって「ミドリ楽団」の団員だったかと聞いたところそうではないと。彼女の話によると浜館菊雄先生の感化を受けて何人も音楽方面に進んだと。有名な演奏者も何人も輩出していると。
〇参考『ミドリ楽団物語』(きむらけん著 えにし書房) 
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2019年12月10日

下北沢X物語(3901)―北沢川文化遺産保存の会創立15周年祝賀会―

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(一)7日祝賀会を開催した。15年は何だったか?言えることは文化発掘の広域化だ。下北沢から世田谷、そして日本全域へ、それは当地の歴史文化が底流ではあらゆるところに繋がっていることにある。「下北沢文士町」に吹き溜まっている事象を紐解いていくと日本近代文学史・近代文化史、そして日本の近代史が見えてくる。15年という長い月日が経ってこのことを認識したことだ。会が継続してきたのは我々が文化を楽しんできたからだ。今回も儀式的な式典はなく、飲んで食べて、音楽を聴いて15周年を楽しんだことである。いつも通り、ロスコンパニェロスが出演して花を添えてくれたことだ。
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 会の活動の広域化は記念碑の建立に繋がっている。三例が挙げられる。
・特攻勇士の像の建立 これは長野県護国神社に建立された。このときに私は招待されテープカットを行った。勇士の像の脇に碑にはこう記されている。

当神社のある松本市内には,出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し,陸軍松本飛行場から前線へと飛び立っていきました.また,当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。

 「鉛筆部隊と特攻隊」によって特攻隊の浅間温泉滞在が明確になった。その彼らが世田谷の学童達と深い絆を作った。その歴史的な事実は私の調査によって得られたことを典拠としている。

・歌碑の建立
 「鉛筆部隊と特攻隊」は、疎開先のお寺、塩尻郷福寺で歌われていた学寮歌が発端となって発掘された。この歌碑がここに建てられた。

・戦後70周年記念碑の建立
 富山県高岡市明円寺に「元伏木港防衛高射砲隊長 内藤悌三」と刻まれた鉄平石が建立された。当ブログを通して駒沢高射砲陣地の歴史が発掘された。隊は駒沢から伏木に移駐する、そのときの宿舎となったのが妙円寺だ。これを記念して元駒沢高射砲陣地の隊長だった内藤さんが寺に寄贈した。その彼は昨年、物故された。


 歴史発掘といえば最も印象深いのは宮崎神宮のことである。初代天皇神武天皇を祭神とするこの宮は歴史が古い。ここを訪ね、「特攻出撃に当たって多くの特攻兵がここに参拝しているはずだ?」と禰宜さんに問うた。後に送られてきた社報には、「隊員達が宮崎神宮にお参りしていたということは、恥ずかしながら初耳であった」と述べられていた。由緒ある宮崎神宮も特攻隊員の参拝については把握していなかった。それでこれをしっかりと記録したいと。

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2019年12月09日

下北沢X物語(3900)―鉛筆部隊は学校と世田谷と日本の歴史―

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(一)7日、代沢小学校校舎落成&創立140周年記念式典が開かれた。初手から驚いた。まず溝口校長の式辞があり、つぎに保坂区長のそれとなる。なんとここで話題がバッティングしたのだ。校長は6月に知覧特攻平和会館で開かれた「鉛筆部隊と特攻隊」の企画展を枕に振った。「鉛筆部隊は代沢小の子どもたちの話だから行きました」と。次に式辞に立ったのが世田谷区長保坂展人氏である。冒頭、「校長に先を越された」と。ご自身も鉛筆部隊の話をする予定だった。この重複には意味が潜む、何か?特攻隊は組成されて間を置かずに突撃する。が、偶然に東京から疎開してきた学童と出会って一月間生活を共にする。特攻といえば潔く散った彼らのことが語られる。ところが学童と共に生活をした彼らは命を語っている。建前的な特攻観に対するアンチテーゼでもある。その意味では、この物語は学校の、世田谷の、日本の歴史である。

 特攻隊と鉛筆部隊のふれ合いについて、更に考証を重ねられ、丹念かつ綿密な調査で纏められたことに敬意を表します。
 松本における特攻隊員と学童との物語は、他に類例を見ないお話であり、貴重な歴史の一場面であると存じます。


 先月上梓した改定新版「鉛筆部隊と特攻隊 近代戦争史哀話」は特攻隊戦没者慰霊顕彰会に送った。返礼にはこうあった、やはり特攻隊史の中でも稀な例である。

 知覧は特攻基地の最前線、表舞台である、が、陸軍松本飛行場は裏舞台である。ゆえに一般人との関わり、とくに子どもたちとの深い関わりがあった。

 知覧特攻平和会館は、今年初めて「子どもたちが見た戦争」をテーマとして、「鉛筆部隊と特攻隊」を取り上げた。特攻は伝承しなくてはならないものだ。その中で子どもたちと関わった特攻を加えた。特攻を幅広く知ってほしいとの思いからであろう。

 実際、私も行ってみた。知覧は日本最南端特攻基地だった、ここから出撃していった彼らの言葉は勇猛果敢に満ちている。が、そんな中にあって今回展示された学童たちの手紙には愛が生きている思った。
 
 鉛筆部隊と関わった一人は時枝宏軍曹だ。彼は特攻突撃して亡くなった。一人の女児が軍曹の家族宛に慰問の手紙を書いている。その一節だ。

 軍神加藤の勇ましい歌を教えていただきました。その歌をうたふと時枝がこひしくてこひしくてたまりません。
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2019年12月07日

下北沢X物語(3899)―やっぱり原爆は禁じ手だよ!―

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(一)先だってカトリック世田谷教会を訪れた、関根英雄神父さんは来日していたローマ教皇のスピーチをテレビで見ておられた。連日、テレビや新聞はこれを取り上げていた。圧倒的な信者数を誇る教団のトップの言動は大きく取り上げられる。「核の脅威に頼り平和提案できるか」と新聞見出しにあった。戦後74年にもなる。指摘されてハッとする、原爆の惨禍をすっかり忘れていた。法皇の一連の言動を聞いて思ったのは、戦争や原爆は常に言い募ることだ、そうでないと人間はすぐに忘れてしまう。あんな惨い物はない。「やっぱり戦争伝承は続けなくてはなりません。来年で13回目となりますがやりたいと思います。ぜひ会場を貸してください」と私は神父さんに御願いした。

 原爆の惨劇は自身の原点である。先月発行された「改訂新版 鉛筆部隊と特攻隊 近代戦争史哀話」では、こう述べている。

 中学二年のときに遠足でここを訪れた。高台にあるグラバー邸から長崎湾を見て、十四の心は青空に吸われた。ところが、長崎原爆資料館に入ったとたん暗黒地獄に突き落とされた。一発の原子爆弾によって一瞬にして七万余の人が亡くなった。累々と横たわる黒焦げの死体に終生忘れ難い強烈なショックを受けた。人間が人間でなくなるのが原爆だった。そのことを初めて知った。
 当時の自分は、世をすねていて、勉強を馬鹿にしていた。授業をサボり、机に向かうこともない、不良少年だった。
 遠足から帰ってきて感想を書かされた。私は夢中になって、熱線でひん曲がったラムネ瓶、うずたかく積まれた死体、それから受けた衝撃を率直に書いた。いつの間にか原稿用紙二十枚ほどにもなっていた。作文などまともに提出したこともない自分だったが一気に書き上げた。このとき国語の担当だった若い外尾醇子先生は、その悪筆をガリ版に起こして印刷し、冊子にして全員に配布してくれた。自分の行為が報われるということを初めて知った忘れ難い出来事だった。
 今にして考えるとこの長崎原爆から受けた衝撃は大きい。これによって、人生に目覚めたように思う。戦争への深い関心の始まり、その原点がここにあった。

 
ショックだった、誰も彼も見境なく、一瞬の閃光で焼き滅ぼしてしまう。原爆には全く救いがない。居合わせた人、爺さんも婆さんも、女子学生も子どもも幼児も、ことごとく焼き尽くして殺してしまう。罪悪とか罪障とかは全くない。この原爆被害を日本は二度も受けている。広島と長崎だ。

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2019年12月06日

下北沢X物語(3898)―15年間の出会いと文化発掘―

大月商店今日で閉店
(一)活動開始以来多くの人に出会った。何人か?分からない。が、千人では済まない。思うに一万人は優に超えているのではないだろうか。印象深く思われる人は何人もいる、その一人が下北沢生まれの下北沢育ち大月文江おばあちゃんだ。大月菓子店を一人で仕切っていた。彼女顔が広い、次から次に人が寄ってくる。自然に情報が集まってくる、下北沢の北の文化ステーションだ、彼女から多くを教わった、そればかりか人を紹介してくれた。記憶にあるのは今井兼介さんと森栄晃さんである。この人たちから多くを教わった。

「府下世田谷町下北沢新屋敷一〇〇八番地」は旧番地である、昭和6年に萩原朔太郎が当地に来て住んだ場所である。ところがここが今の番地のどこに当たるのかずっと分からないでいた。詩人萩原朔太郎の家である。

やはり下北沢の情報通だ、文江さんが聞き込みをしてくれてたちまちにその場所は分かった。ベースとなる居宅が分かることで詩人の行動範囲が分かってくる。「秋と漫歩」というエッセイで自身の日常をこう書いている。

 私が毎日家の中で、為なすこともない退屈の時間を殺すために、雑誌でもよんでごろごろしているのだろうと想像している。しかるに実際は大ちがいで、私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬のらいぬみたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。

 詩人は家に落ち着いていられない性分である。回り近辺をほっつき歩いていた。「私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っているのである」

 大月文江さんが教えてくれた場所は、丹念に観察した。「なるほど」と思った、朔太郎にはおあつらえ向きの場であった。ぐるりを路地で取り囲まれている。表口から出たり、裏口から出たり、それは自在であった。こっそりを身を隠しながら路地をゆくさまが想像できた。下北沢の路地町が彼漂泊者には似合っていた。

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2019年12月04日

下北沢X物語(3897)―活動15年トピックベストテン2―

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(一)産業革命による蒸気機関車の出現は衝撃的だった、目も眩むような速度で走った、「時間と空間の抹殺」というフレーズで驚嘆は表される。ネットは空間を抹消した、衝撃的だった、その一例だ、特攻と関わった疎開学童の話はネットに載せていた。聴き取った本人の娘さんが英国在住で、「きょうはきむらけんがお母さんのことをこう書いていたよ」とロンドンから送ってきたという。電脳世界の果てしない広さを思った。ブログを見て日本全国から数多くの情報が寄せられた。やはり鉛筆部隊に関わる情報が一番である。ベストスリーは、1、鉛筆部隊の生資料の発掘 2、特攻隊武揚隊の遺墨の発見 3、武揚隊隊長の資料取得である。1、は市立松本博物館に 2と3は知覧特攻平和会館に寄贈された。ネットを通しての戦争史発掘だった。

 昨日、当ブログにコメントがあった。埋もれた戦史情報の一端だ。

きむら けん 様
 ご無沙汰してます、内藤直人です。叔父梯三から眞井さん宅は大地主で獣医をしていたと聞きました。ある時、陣地で飼育していた豚が体調が悪くなり面倒みていただいたそうです。一般人は陣地には立ち入り禁止でしたが眞井さんは特別に入れていたそうです。
 叔父を駒沢高射陣地跡に案内できず残念に思っています。


ネットでの発信は、言ってみれば語彙の放流である、自身が見聞したことを記事として書く、このときに多くの言葉がネットの海に放たれる、今日は、3897回目だ、ここに何千何百もの単語を放出している、それを人々は検索で引っかけてくる。内藤直人さんもその一人だ。彼の検索語は何か、「駒沢高射砲陣地」である。

 この語については早くからネットに放出していた。かつて駒沢小学校に通っていた人がいた。大槻統さんである。
「学校のそばに高射砲陣地がありましてね、砲を放つとガラスがビリビリと鳴るのです」
 陣地は家の近くにある。それで何度も通っていた。が、この全貌は分からない。ところが思いがけない情報をもたらしたのはこの内藤直人さんである。
「叔父の内藤悌三は駒沢高射砲陣地の隊長でした。九十四歳ですが今も元気です」
 驚きの情報だ。これを聞きつけて長野県佐久穂町まで私は行った。

 元隊長と出会って、話を聞いた。当然のことながら証言はリアルだ。思いがけず「昭和20:戦争末期における高射砲陣地の配置と戦略」を知ったことだ。
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