2017年09月24日

下北沢X物語(3367)―会報第135号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第135号   
           2017年10月1日発行(毎月1回発行) *ネット版
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、いとしなつかし昔の代沢

 北沢川文化遺産保存の会は、十二年前に発足した。考えてみるとあの時代は、昔ばなしの宝庫だった。古老の誰を捕まえても昔の話を覚えていた。三田用水のことなんかは、相好を崩して語った。「昔は恵比寿まで流れていってビール瓶を洗っておった。もっと昔はこの水を使って水車を回し、海軍の火薬を作っていた……蛍も飛んでいた」などと。
 あれから十数年、当たり前のことだが古老も年を重ねていく、現古老は転入者が多く、昔をあまり知らない。逆に聞かれて、話をすると皆驚く。昭和は遠くなりにけり。

 古い地域紙は面白い。昭和五十九年発行の「みにこみ7」には、何と、鳴瀬速夫さんがエッセイを書いている。代沢小鉛筆部隊の隊員だった。疎開先では起床のラッパを吹いていた人だ。ラッパ隊員にはお握りの特配があって、「それがすばらしく旨かった」と。
 これは「みにこみ」に載った「幻のぼうけん山」と題された鳴瀬さんのエッセイだ。
 
 ピュー!パチン、「痛え、やったなあ!」土合戦である。土くれの投げ合いで、顔に当たって泣き出す子もいる。両軍土手の上と下とにわかれての戦いだ。草むらから姿を現して、ヒューッと投げる。
 合戦上は急斜面の土手の草むら、雑木もまばらに立っている。テレビももゲームマシンもない戦中派の子どもたちには、この通称「ぼうけん山」は実に楽しい遊園地であった。
 こんなすばらしい子ども世界が、わが代沢にあったのである。それは現在、梅ヶ丘通りと一つ南の通りの間で四丁目三一番地のあたりだった筈である。
 今では立派な住宅が建ち並び、昔を偲ぶよすがは何もない。坂道の傾斜のみがぼうけん山の「史跡」である。だが、あれから四十年も経ったのに今もこのあたりを散策すると、『トロッコ』(芥川龍之介)の良平のように、「なんの理由もなく」ふと、往時の土手や草むらが思い出される。
物質に恵まれた今の子どもには、こんな素朴な楽しさを味わうことはできない。かわいそうな気もする。物は消えるが思い出は消えない。


 確かにそうだ。買ったゲームのソフトなどは古びるとゴミになる。が、少年時代の思い出は永く記憶に残る。芥川龍之介の『トロッコ』の引用は興味深い。ここに出てくる良平少年は、大人になっても思い出す。トロッコで遠くまで連れられていく。ところが突然に土工にもう返れと言われて、暮れかけた線路道を懸命に走る。その寂しい線路道を……
 思い出深い、その場所はすっかり消えてしまったが、「坂道の傾斜のみがぼうけん山」の史跡として残っているという。さてそこはどこか、地図で調べて驚いた。何と代田七人衆の末裔柳下政治さんの裏手の山だった。
 私は、二○○五年一月柳下政治さんにインタビューをしている。それをブログに「代沢の古武士から聞いた話」として記録している。その彼も亡くなられた。代田七人衆のうち柳下、清水家が本村から分家し、下代田を開拓した。
「わたしはここが本家でここで生まれました。代田は向こうが本拠地だけどうちと清水さんなんかがこちらを開墾してきてこちらの方に土地は広がってきた。私のところは柳下だけど、山の下にあるものだからその方が通りがよくて『山下』という字名がついてしまったのですよ。」
柳下さんが言う山の、その斜面のことを鳴瀬さんは言っていた。柳下家の裏山は少年たちの「冒険山」だった。ちょうどその冒険山の下に大きな欅の木があった。柳下家の大欅である。この欅こそ文学に関係してくる樹木である。
 昭和十六年二月に世田谷区下代田二二八番地に越してきた俳人がいた。加藤楸邨である。新しい環境のところへ来て刺激を受けた。それを次のように書いている。

 見なれぬものの中に身を置いて、その中から激しいものを感じ取る気持ちがよびさまれてしまった。こころひそかに前の欅を仰ぎ、裏の櫟を見る朝夕に、この心の向きどころが定まりかけていた。
 旅おもふ欅を春の露走り 『加藤楸邨』 田川飛旅子著 桜楓社


 山下にある大欅こそは俳人加藤楸邨を旅に誘っ樹だ。ちょうどこの坂は北向きだ。北風が吹いては虎落笛を慣らした。これが俳人を漂泊に誘った。そして孤島で詠んだ絶唱

隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな

 後鳥羽院が流された隠岐の島へ旅をした。そして歌人の一人心を突き止めようとしたのである。この時期に詠まれた俳句作品に「転校の子に泣かれゐる雪の中」というのがある。代沢小に通っていた楸邨の息子、加藤穂高さんのことだ。「代沢に転校してきたが勉強はこちらの方が進んでいるのです。追いつかなくて泣きました」と。その現地の子の筆頭は鳴瀬速夫さんである。同級生である。この二人、浅間温泉に疎開した。鳴瀬さんは千代の湯だ、ここで満州からやってきた特攻隊武剋隊のお兄さんたちと一月暮らした。一方、加藤穂高さんは、桐の湯だ、重爆撃機飛龍に乗った隊員が度々旅館に来ていたという。

2、池上線を旅してみませんか

 東急池上線をご存じですか。近隣の私鉄幹線は十両編成で快速で突っ走っている。が、池上線の編成は三両だ、これが荏原南部をことことと走っている。都会ののどかなローカル線だ。五反田と蒲田の間を結んでいる線である。この線に関するイベント情報が流されている。

 東急池上線、10月9日は無料に 開通90周年イベントを沿線で開催
当日は、池上線の駅改札付近で「1日フリー乗車券」を無料で配布。これを利用すると池上線内が1日乗り降り自由になります。東急電鉄は「電車を1日無料でご利用いただくという試みは、首都圏の鉄道会社では初めての取り組み」といいます。


十月九日は体育の日だ。この日が全線無料だという。これを使って沿線を見学してまわるというのはどうだろうか。まず、五反田に集まる、最初は戸越銀座駅で降りて、関東有数の長さの商店街を覗く。つぎが洗足池、ここは池を一周する。勝海舟の墓もある。その次は、石川台駅だ、映画舞台としてよく使われる。見学したいのは池上線切り通しだ。ここに駒沢線のNO1がある。
 池上線でぜひ降りたいのは池上である。本門寺に参拝する。最後は蒲田駅だ、ここは蒲田撮影所跡を見学する。蒲田で解散し、再度個人的好きなところへ行く。

10月9日(月・体育の日)五反田駅JR東口改札前
13時集合。(東急は混雑が予想される)
 会費 無料 保険代なし 何となくみんなで行く。
 五名集まれば実施しようと思う。締め切りは10月6日、なるべく早く連絡をしてもらうといい。米澤かきむらに


3,代田を知ろう!学ぼう!講演会

 八月の当会の研究会、納涼会に秋元正美さんが出席され、宣伝されていた。
 代田図書館講演会。タイトルは、「昭和10年代20年代の代田」だ。
 期日 10月14日(土) 13:30〜15:00
 場所 代田区民センター第3会議室
 定員:30名 直接会場へ、先着順
講師
  秋元一男氏 ふるさと世田谷を語る。代田編話者・中原出身
  秋元正美氏 代田北町会会長          中原出身
  柳下隆氏  美土代会代表幹事         本村出身
 

4、都市物語を旅する会 
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前 案内人 松山信洋さん
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟


第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
 案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
 新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会と連携関係にある団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498


5、市民活動体験喫茶パオ
 10月22日(日) 11:00〜18:00
 キャロットタワー三階 市民活動コーナー
  市民活動支援コーナー登録団体が活動をする 地図配り、紀要展示
  きむらが詰めていて活動します。おいでください。

6、古老の話を聞く(下北沢地下道)

 下北沢地下道のことをよく覚えている昭和二年生まれの石川寿男さん。一度話を伺ったが図を新しく書いたとの連絡。また資料も見つかったと。話を聞きにいくことにした。
期日は、10月7日(土)午後二時から石川さん方自宅。
 できれば同道して駅へ行き、往時の痕跡を調べる。参加希望あれば当方へ。なお、自宅は旧代沢小近く。

■ 編集後記
▲先月「世田谷のダイダラボッチを歩く」は、台風余波の雨との報で中止しました。コース再検討しました。柳田国男がダイダラボッチ探訪のために歩いた道を辿ろうと。それで代田橋駅集合にしました。途中は代田五丁目からバスに乗り野沢銀座まで乗ります。ここから駒沢村にあった二つのダイダラボッチ跡を歩き、解散を学芸大学にします。実施期日はまだ決めていません。いずれ計画に組み込もうと思います。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
▲当会も発足し十二年になるがどのように継続するのか、大きな課題となってきた。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。(写真は、池上線電車)



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2017年09月23日

下北沢X物語(3366)―駒沢第3のダイダラボッチは?―

DSCN0127(一)柳田国男はダイダラボッチの痕跡を求めて、代田から南下し駒沢村にあったその跡を探訪した。その第二が鶴ヶ窪である。その理由の一つは、ここはかつてダイタクボと呼ばれていたことだ。言えばダイダラボッチの窪みということだろう。記録としては資料に二例みつけている。が、これまでだいぶ人に当たってきたが、「ダイタクボ」と呼ばれていたという証言は得られていない。しかし、もう細かくは典拠は記さないが、駒沢村の第一のダイダラボッチは、現、鶴ヶ丘公園と考えてよい。

 街歩き「柳田国男の巨人探訪跡を歩く」は、終着地点を学芸大学駅としたい。鶴ヶ窪からはさらに南下するからだ。何のためか、これは駒沢村の第二のダイダラボッチを探訪するためだ。彼は、「ダイダラ坊の足跡」で、これについてこう述べている。

 それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、なんでもこれから東南へなほ七八町も隔てた雑木林のあひだであった。附近にはいはゆる文化住宅が建とうとして、盛んに土工をしてゐたから、或ひはすでに隠滅したかも知れぬ。

第二ダイダラボッチは、第一からそんなに遠くないということである。
‖莪譴虜跡からは東南方向にある。
距離としては「七八町」ほどである。900メートル弱というところだ。
J顕十斬陲どんどんと立ちつつあるところである。


 「ダイダラ坊の足跡」の発表年は昭和二年四月である。この時期というのは重要である。「文化住宅」がどんどん建つ。住宅需要の高まりがあって、一帯の雑木林が切り開かれそこが宅地化されつつあった。住所でいえば今の下馬三、四丁目辺りだ。これはこの辺りの土地需要が高まりを背景としている。

 理由のあることである。この近辺で重要な鉄道路線は、大山厚木街道を走る玉川電車であった。ところがこれを並行する形で南に郊外鉄道が敷設されつつあった。渋谷横浜を結ぶ東横線であった。宅地造成はこの開通に合わせて行われたものだろう。東横線の開通は、昭和二年(1927)八月である。
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 下馬近辺は軍人の居住が多い。吉村昭の『陸奥爆沈』を読んでいたとき、彼は海軍関係者に会って話を聞いていた。この記述の中に、「渋谷駅から大森行きのバスに乗って図書館短大前という停留所で下りた」とあった。陸奥爆沈の原因とされたのは当初三式弾であった。その開発者が居住している家があったからだ。その安井保門氏の家は「戦前の文化住宅の作り」だったという。読んでいておもしろいなと思ったのはこれである。「図書館短大」はいまはない、この隣にあった学芸大学附属高校はある。この辺りが下馬だ。
 東横線は横浜と直結している、それで下馬は海軍軍人が多く居住した。連合艦隊司令長官の旧居も鶴ヶ窪のすぐ近くだ。

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2017年09月21日

下北沢X物語(3365)―太古ロマンとダイダラボッチの謎―

DSCN0139(一)ダイダラボッチ比較論、代田と野沢の足跡とを比べたことでの柳田国男は発見した。足の向きが一致していなかったことだ。「なんてことだ、巨人は、複数いてあっちこっちと行き来していたんだ!」、これが彼には大きな衝撃だった、「巨人来往の衝」だ、つまり「大昔かつてこの京の青空を、南北東西一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像」したのだった。それは消滅した説話物語の存在の可能性を示唆した。

 今は昔、大男ありけり、荏原の里の空を行き交いけり、折にはらはらと音を立てて土、小石降りけり。大男空を跨ぎゆきけるときに足裏に付きけりそれらが落ちきたるとなん伝へたり、ときに多きなる布ぞ降りかかりたる。巨人のふんどしとぞ。

 柳田国男はダイダラボッチ跡を実踏して得た知見は、両者の足跡の向きは違っていたことである。代田ではその跡は「長さ百間もあるかと思ふ右片足」だった。では、野沢のはどうだったか、(代田と)「ほぼ同じくらいの窪みだつたが、草生の斜面を畠などに拓いてもう足形を見ることは困難であった」という。

 当、野沢ダイダラボッチの脇に住む坂田正晴さんとこの鶴ヶ窪公園に行ったことがある。
「ここら辺りは昔は草ぼうぼうでな、この池の脇に大きな藤弦があった。子どものころよく探検して遊んだものだ」
 九十七歳の彼はそう証言をした。柳田国男が実踏したのは昭和の初めだ、1927年頃、坂田さんが遊んでいた時期と一致する。その頃一帯は草ぼうぼうだった。足跡の所在はっきりとは分からなかった。それでも代田とは向きが違うと判断した。現行の地形から考えると左足で西を向いていたように思う。柳田はこう述べている。
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 代田と駒澤とは足の向いた方が一致せず、おまけにみな東京を後ろにしてゐるが、これによつて巨人の通った路筋を考へてみることは出来ぬ。地下水の露頭のために土を流した場処が、通例かういふ足形窪を作るものならば、武蔵野は水源が西北にある故に、ダイダラ坊はいつでも海の方または大川の方から、奥地に向いて闊歩したことになるわけである。

まず、 代田と駒沢は足跡の向きが一致していなかった。このことから巨人が一人いたわけでなく、複数存在していて行き来していた。
「なんとまあ、この東京の空を巨人が行ったり来たりしていたんだ!」
 感動的な発見だ。
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2017年09月20日

下北沢X物語(3364)―柳田国男の巨人探訪跡を歩く2―

DSCN0142(一)柳田国男は、「私は到底その旧跡に対して冷淡であり得なかつた」、ダイダラボッチの足跡を放ってはおけないと述べた。なぜそう思ったか。理由は三つである。

ゝ録として留めおきたい。今ダイダラボッチ跡は残ってる。が、いずれは消えていく運命にある、これを後世のためにしっかりと留めておきたい。
⊆惰Г砲茲訖靴燭蔽慮への期待。ダイダラボッチは代田の地名起源となっている。ここをフィールドワークすることで新たな発見が得られるのではないかと考えた。
F本人のルーツへの興味。ダイダラボッチ民譚は、単純な伝説ではない。数千年の時を経て今日に伝えられているものだ。この起こりを考えることで日本人の源流を探ることができるかもしれない。


 今に残る「ダイダラボッチ」跡は貴重なものだ。学者は、それで民族の歴史の一端が残っている「ダイダラボッチ」跡を実踏した。
 まず、代田のダイダラボッチを探訪した。そしてこの後に、隣村の駒澤村に向かった。ここに二つの跡が残っていたからだ。

 「巨人探訪跡を歩く」だが、彼にならって代田のを見学した後に、「駒沢村の二つの跡」を訪ねる。途中ダラダラ歩きはカットして「ダイダラボッチ連絡バス」、代沢五丁目バス停から小田急の「下61」に乗り、「野沢銀座」で降りる。

 さぞかし賑やかな商店街がと思うが、停留所名はかつての面影を言うだけだ。バス停の反対側は野沢テプコだ、かつて富士山麓酒匂川で起こした電気を野沢の変電所へ送っていた。それがここだ。富士紡績が起こした余剰電力、それがここから玉電に供給された。

 本筋に戻ろう。『ダイダラ坊の足跡』はこう続ける。
DSCN0140
 足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。

まず野沢のダイダラボッチ跡だ。玉川電車は、大山厚木街道を走っていた。ここから一町、つまり百八メートルというのは、長年悩まされてきた問題だ。が、これは無視した方がいいという結論に達した。

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2017年09月18日

下北沢X物語(3363)―柳田国男の巨人探訪跡を歩く―

CCI20170918(一)「世田谷のダイダラボッチを歩く」を16日に予定していた。が、予報では台風の余波で雨の降る確率が高いとのこと、それで中止した。その予報は当たらなかった、探訪はできた、案内人は自分である。今回初めて計画したコースだ。集合駅は駒沢大学駅で解散駅は新代田を予定していた。大きなポイントは二つだ、一つは代田、もう一つは駒沢のダイダラボッチ跡である。しかし、このコースを辿った柳田国男は我等とは逆に歩いている。その点が自分にはしっくりしていなかった。参加を希望されていた方には、再度コースを検討して実施したいとの連絡をした。そのコースを再検討である。

 まずしっくりしていなかったところをまとめてみる。
|桔コースが柳田国男とは逆であること。
途中コースの見せ場がないこと。(どうしても設定したトピックとかけ離れる)
J發距離が長い(そのわりには見所が少ない)

 
 柳田国男のダイダラボッチ探訪行は、彼の論考、『ダイダラ坊の足跡』に記録されている。まず、冒頭で、

東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。

 と切り込む。そして代田には「現に大きな足跡が残っている」とし、「私は到底その旧跡に対して冷淡であり得なかった」と、確かめたくてたまらなかった。

 その時期だが、「七年前に役人を罷めて気楽になったとき、早速日を卜してこれを尋ねて見たのである」と。彼は大正8年12月に貴族院書記官長を辞任している。また『ダイダラ坊の足跡』の発表は「昭和二年四月」であることから、探訪の実施は大正から昭和に変わった頃だったと考えてよい。

 まず、代田のダイダラボッチだ。

 ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。 『ダイダラ坊の足跡』 現代日本文学大系20 柳田国男集
DSCN0123 (2)
 これによると下車駅は代田橋駅であった。この時、柳田は旧代田橋跡を確かめたのかどうかは分からない。が、代田橋を下車してこの跡は見学したいものだ。
・代田橋駅(集合)→代田橋跡→現存する玉川上水跡をたどる。

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2017年09月17日

下北沢X物語(3362)―定年を考える:北沢地域交流会から―

DSCN0121(一)会に出て意外なことを知った。当地おける戦争の記憶で最大の事件は赤堤に墜ちたB29のことだった。地域の担い手をどう育てるかということを話しているときに赤堤にあった四ッ谷軒牧場の話になった。「あそこってB29が墜ちたでしょう」と言ったら、回りの人の何人もが「そうそう」と応じた。小さい頃の記憶であったり、親からの伝聞だったが、皆にとって強烈だった。地域における戦争の記憶はB29墜落事件だった。

 戦争の記憶で個々別々に記憶がある。最大のものは山手空襲である。昭和二十年五月二十四日、二十五日のことだ。方々で大火災が発生した。焼夷弾の直撃を受けて亡くなった人もいる。家が丸焼けになった人も多い。
「焼夷弾は爆弾ではない、ガソリンの塊だ、だから水、水だ、水を掛けて奮闘して火事をせき止めた。あのときのことは今も記憶にある」
「火事が起こって家が燃えだしたんだ、最初は南風だった。ぼうぼう火が燃えていたんだけど懸命に消火活動をやった、もうだめかと思ったとき風向きが変わったんだよ」
 個別個別には戦争の記憶は違う。しかし、多くが強烈なこととして覚えているのはB29の墜落である。これは昭和二十年五月二十四日の夜のことだ。
・まず千歳高射砲陣地の高射砲隊がこれを補足して撃った。そうしたところ第四エンジンに当たって火を噴いた。傷手を負ったゲームクックチャーリーはそのまま飛行し、搭載していた焼夷弾を全部捨てるようにして落とした。火がついたまま代田上空まできたときに右旋回した。「私の正面で右旋回していたが、その間にも火の玉はぐんぐん膨らんだ。一旋回終わらないうちに、爆撃機の頭と右翼の先端へ同時に火が走り、そして機体は音もなく数千の破片に爆発してしまった。」(『東京空襲』作者の一色次郎は根津山の上からみていた)。巨大な花火が経堂上空で爆発した。とんでもない大きさだった。
・赤い火の玉を背にしていくつかの落下傘が開いた。「敵だ!」家々を焼かれた人々はいきりたって竹槍を持って現場に走った。
・B29が墜落した、「四ッ谷軒牧場だ、川を遡ればよい」と北沢川ぞいを野次馬が列をなして走った。すると機首と胴体とが別々の箇所にあった。
「恐ろしいほどでかいな。こんな敵さんにかなうわけはない」
 空から墜ちてきた黒船だった。給湯器があってコーヒーも紅茶も飲める。国領に墜ちたB29は機体に裸の女性が描かれていた、「見てはいけない」と子をたしなめた親もいた。
 なにもかもが日本とは全く違う。
「金髪の敵さんが経堂駅のところに並べられていた、一人は女だった!」
「なぬ!、敵さん女も乗せているのか」、この噂は広まり、男達の野次馬は一層に増えた。
 人々にこれらは強烈な印象を残していた。

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2017年09月15日

下北沢X物語(3361)―街の盛衰:北沢地域交流会から―

DSCN0120(一)日々さるきを歩いている、街が大きく変貌していることを実感している。昨日、14日夜、北沢タウンホールで地域の絆交流会が開かれた。街の組織を作っている人と街について話し合った。人の構成もまた大きく変化していると知った。街を受け継ぐ人材の払底、高齢化による人と人との関係性の希薄化、下手をすると地域が崩壊しかねない。今より求められているのはプロボノ、公共善のために人が社会や地域にどうコミットしていくか?話し合いから見えてきたことは高齢化による街の変化の深刻さだ。

 街が変化している。このところ福島、栃木、静岡、神奈川を歩く機会があった。一番目立ったのは地方の商店街の衰退である。地方に行ったとき必ず街を歩く、楽しみはその地方ならではのものを見つけることだ、しかし、その商店街がない、またシャッター街になっていて、アーケード街すら閑散としている。郊外に出来た大型店舗に人々は買い物に行くようだ。両毛線伊勢原には商店街がみつからず駅前の大型店に入ってみた。商品内容は東京と全く変わらない。地方色はすっかり消えていた。

 東京も近隣の街は歩いている。よく知られているのは武蔵小山商店街である。
「武蔵小山に行けば何でもあるのよ」
 そんな評判があって人を惹きつけていた。ついこの間、この街を歩いてみた。今、ここは駅前の再開発が行われている。飲み屋街のあった地域が壊されて、跡地に高層マンションが建築されている。新聞の折り込みにここ建つ高層マンションの広告がよく入っている。都心に近く便利だ。が、売り出し価格は高い。マンション購入層と武蔵小山商店街を訪れる庶民階層とは隔たりがあるように思えた。

 アーケード街の一つ一つの店を眺めながら通った。かつては武蔵小山ならではの個人商店が多かった印象がある。が、今はほとんどがチェーン店であった。これが多くなれば街の固有性は消えて行く。印象だが、ここには雑多なものがあって、それが猥雑感を醸し出していた。が、今はそれがなくなった。商店街を散策する楽しみがなくなった。
 駅前再開発が終わるとビルの下層には商店が開店されるだろう。しかし、庶民が集ってくるようなものになるのか、ビルに入るには高いテナント料をはらわなければならない。やすくてうまいものを前は売っていたが……

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2017年09月14日

下北沢X物語(3360)―日本偽汽車紀行:山北、線守稲荷2―

DSCN0115(一)線守稲荷伝説は、厳密に言えば「偽汽車」に当てはまらない。通例的なパターン、狐が汽車に化けて現れてぶつかったという話ではない。化けて出てくるのは女、それも髪を振り乱した女が手を振ったという。また蓑傘を身につけた人が赤いカンテラを振ったり、線路上に大きな牛が寝そべっていたりすることもあった。狐が様々なものに化けて意図的に汽車の運行を阻もうとした。他の偽汽車伝説はお話として漠然としているが、山北の狐伝説は固有的で地元と密着した話となっている、何よりも具体的である。いわゆる5W1Hでかっきり説明できる伝説だ。

・誰が この場合、被害者と加害者とに分かれる。
 被害者は おきつねさんだ。加害者は鉄道当局ということになる。

 事件の主役は、 おきつねさんである。
 狐は「先祖代々の土地を守ってくらしておった」常日頃は、大きな岩の上にいて「名主みたいな顔をして畑仕事の様子を眺めていた」、そして時に坂道を上るに難儀しているおじいさんをみつけてはその荷車の後押しをしてあげた。善良な狐で、地元の人々からは「おきつねさん」と言って親しまれていた。

・その場所はどこか? 足柄上郡山北町
 ここに齣の子というところがあった。「駒の子と瀬戸は酒匂川を見おろす斜面にある小さな部落である」、ここに住んでいて常日頃村人の生活を見守っていた。
場所は、箱根山塊のとっつきにあって急峻な山々に囲まれていた。

・いつのことなのか? 明治の頃である。もっと具体的言えば明治二十年頃のことだ。

 当地に鉄道が敷設されることになった。今は御殿場線と呼ばれるが、かつてこの路線は重要幹線東海道線であった。これが敷設されたのは明治二十二年だ。この箱根峠を越える路線が敷設されて東西を結ぶ東海道線は完成をした。

 当地足柄の山北は自然豊かなところだった。そこに鉄道建設の話が降って湧いてきた。
町の役人と鉄道の人がやってきた。
「この辺りに鉄道を通すので皆さん、ぜひ協力をしてください」
「鉄道って何ずら?」
 部落の人は分からない。
「まずですね、鉄で出来た大きな車が先頭についています。これに石炭をくべると蒸気の力で動くのですよ。後ろにはお客さんを乗せる列車がついていて、これに沢山の人が乗せられるのですよ」
「言っていることがわからない」
「ほら、皆さんは国府津に行ったことあるでしょう。ときどき沖合を蒸気船が通るでしょう、あの船が丘に上がったようなものです、だから丘蒸気というのです」
「船が山北にやってくるというのか!」
 ちんぷんかんぷんだった。
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2017年09月12日

下北沢X物語(3359)―日本偽汽車紀行:山北、線守稲荷―

DSCN0094(一)鉄道近代は天下の険を越えることで叶った、それには二つの難関があった。一つには険しい勾配を越えること、もう一つは狐狸との闘いがあった。前者は、「汽車ぽっぽ」で歌われる。「機関車と機関車が 前引き 後押し なんだ坂 こんな坂 なんだ坂 こんな坂」と。本務機と補機とで列車を押し上げて箱根峠を通行させた。後者は、一匹の古狐ととの闘いがあって、これを打ちのめした。村人と鉄道関係者はその狐を弔うために線守稲荷大明神を建て、末永く鉄道の安全を祈った。偽汽車のはしりある。これが今なお箱根峠のとば口に祀られていて存在する。

 この線守稲荷の最寄り駅は御殿場線の山北駅だ。この線の前身は大幹線の東海道線である。その時の要衝駅だ、ここから箱根越えの難所に挑む、そのための支援基地だ、扇形の機関庫があり、転車台があった。構内には無数の側線があって無数の蒸気機関車がひしめいていた。機関車が吐き出す煙で「山北の雀は真っ黒だ」と言われたほどだ。

 何年か前に取材に来たことがある。今度も駅脇にある鉄道公園に行った。ここにはD5270が展示してある。かつてこの機関車は御殿場線を走っていた。前にここに来たときに瀬戸志津夫さんに出会った。
「うちの親父はこのD52に乗っていたんですよ。そのときの苦労話はよくしてくれたものです。ほら、この山北から御殿場までは急勾配がずっと続くでしょう。カマ焚きをやっていましたけど仕事はきついのですよ。出発のときはカマに目一杯石炭をくべるわけです。ところが連続して隧道が続くわけです。ここから七つも続くのですよ。隧道ではいぶされるのですよね、炎熱地獄に煙り地獄、荷が重かったりすると速度が出ないのです。すると煙にまかれるのですね。濡れタオルに水を含ませたものを口に当ててひどいときは這いつくばっていたといいます。あんまり煙が濃くなると汽車が進んでいるのか、停まっているのか分からなくなるらしいのです。そんなときは外に手を伸ばして隧道の壁に手を押し当てたといいますね」
 箱根越は大変であった。トンネルが幾つも続くのは当地が険しかったことを明かすものだ。この箱根山中で偽汽車が出現した。これは開業当初の話だ。

 東海道本線は明治二十二年に全通した。東京と大阪とがこれによって結ばれ、飛躍的に便利になった。しかし、多くの苦難があった。急勾配を上るときに鉄道乗務員は常に逸走の危険にさらされた。

 今回山北に行くと、駅前のふるさと交流センターに「山北鉄道資料館」がオープンしていた。係員がいて説明にあたっていた。
「ほら、この地図には奇妙な側線が描かれているでしょう?なんだかわかりますか」
 山から下ってきた線路の一本が右手の山に食い込むように敷かれていた。
「暴走してきた列車を導く側線でしょう!」
「そうそう、そのとおり。だけどねこれは一度も使われなかったというんだ」

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2017年09月11日

下北沢X物語(3358)―機械と神・航空神社と鉄道神社―

DSCN0079(一)長い人生、時の舟に乗ったり、道をさすらったりするうちに、おやと思うものに出会いもする、それは航空神社と鉄道神社である。機械を祀る神社があることは不思議である。機械神を設けたのは飛行機や鉄道にも神が宿ると思ったからだろう。しかし、無機質な金属にどうして神は宿るのだろうか?

 旧来の旅は、歩きの旅が中心だった。途中の道々の四つ辻、峠のいただきに神が祀ってあった。旅人はそこに立ち止まって手を合わせた。
この歩行旅は、自分自身の力での移動だ、足を制御するのは自分である、険しい峠道を歩き切ったときに自然に感謝の気持ちも湧いてくる、旅の安全を護ってくれる道祖神や地蔵尊には心底祈りを捧げた。

 路面を行く自力歩行で明確なのは行き先である、自分の意志で決定してそこへ向かう。が、他人に我が身を預けての機械旅は先行き不透明だ。芥川龍之介は『機関車を見ながら』というエッセイで、「我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない」という。つまり、機関車は、鉄路がどこまでどう続いてその先どうなっているのか分かっていない。これに乗っている人間も同じだ、とりあえず運転士に命を運命を預けているだけだ。
DSCN0078
 ここで思い出されるのがエミール・ゾラ『獣人』である、人は遺伝と環境とによって決定づけられているということを前提とした連作の一つだ、主人公エチエーヌは「彼は先祖から受け継いだアル中と狂気の故に、発作的に人を殺したなるときがある」というのだ。事実鉄道の機関士となった彼は運転中に助士に襲いかかり、彼らはもつれ合ったまま機関車から転がり落ちる。運転するものもいない汽車は突っ走っていく。ところが後ろに乗っている兵士たちはすっかり酔っ払ってしまって、自分の運命に気づかないでいる。

 こういう場合機械は機械だ、燃料が燃え尽きるまで走り続ける。列車に乗った酔っぱらいは今にも襲ってくる破滅的な結末も知らずに飲んだくれている。

 飛行機の場合、これは具体的な事故があった。副操縦士が機長をコックピットから閉め出す。自殺願望の彼は百四十四名の乗客を道連れに機を墜落させた。2015年にあった。暴走する飛行機は止めようがない。機械と人間の心には繋がりがない。機械と人間の間に神は入り込む余地はないように思うが、現実には航空神社があり、鉄道神社がある。

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2017年09月09日

下北沢X物語(3357)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ2―

DSCN0081(一)偶然に「鉛筆部隊と特攻隊」の話に行き会った。当ブログに飛び込んできたコメントが発端だ。確認すると「2007年12月14日」だった、もう丸々十年近く追い続けている。今になって分かってみると機と時とが偶然に重なったことで生まれた話だと思う。言えば機の熟成だ。とくに航空兵にとっては大事なものである。昭和十八年陸軍航空士官学校卒業した陸士五六期生は進振りで四つに分けられた。同年六月四日、鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場に入校してきたのは軽爆に振り分けられた三十名である。実はこのほとんどが特攻で戦死している。戦争に間に合ったから死んだと言える。

 飛行機乗りにとって大事なのは練度である、どのくらい飛行機に乗ったかということが腕前と直結する。沖縄航空作戦は昭和二十年三月に始まる、飛行操縦の練度が特攻作戦と合致したことから選ばれたとも言える。多くの特攻戦死者を出したのはいわゆる航養一四期組である。武剋隊、武揚隊の伍長や軍曹のほとんどはこの組である。彼らは昭和十八年九月に逓信省航空局 航空機乗員養成所に入所している。そして、昭和十九年七月に卒業している。軍部からすれば使える頃合いの球だったといえる。それで多くが特別攻撃隊の隊員に選ばれた。

 「原町戦没航空兵の記録」(白帝社 1998年)では当地、原町での「陸士五六期生」の事績をまとめている。

 昭和十八年五月二十六日、航空士官学校を卒業し、襲撃班の実施学校である鉾田陸軍飛行学校原町分教場に入校したものは三○名、さらに転科学生が四名いた。
DSCN0066
 三十四名、その彼らが教育を受けたという旧軍飛行場に行ってみたい。
「昔の、原ノ町の旧陸軍飛行場の跡地へ行きたいのですが分かりますか、ほら格納庫のコンクリートの擁壁が残っているじゃないですか?」
 駅前に停まっていたタクシーの運転手に聞いた。
「飛行場の跡ですか?」
 彼はピンとこないらしい。
「まず今も残っているという正門跡に行きたいのですよ」
「あったかなあ?」
 持ってきた地図を示すが心許ない。年の頃は三四十代である。
「あっ、知っている人来ました」
 後ろにもう一台のタクシーが着いた。年配の運転手だ。
「陸軍飛行場ってわかりますか?」
「ああ」
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2017年09月08日

下北沢X物語(3356)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ―

DSCN0067(一)世田谷代沢小、東大原小は浅間温泉に疎開した。昭和二十年二月、学童らは思いがけない出会いをする。それは突然に当地にやってきた飛行機乗りである、子どもらにその正体は分からない。が、彼らは、「と号第三十二飛行隊(武剋隊)」と「と号第三十一飛行隊(武揚隊)」の隊員だった。前者の隊長は、広森達郎中尉、後者は山本薫中尉だ。発足から特攻突撃するまでこの隊の歴史を追ってきた。この頃分かってきたことは、武剋隊、武揚隊が発足する前に、両隊長の運命は決まっていたと知った。二人は陸士五十六期生である。卒業しての進振で軽爆に配属された。これによって搭乗する機種も決定した。事実、二人が陸軍松本飛行場にやってきたとき飛行機は、軽爆、九九式襲撃機であった。この機に乗るべく訓練を受けていたのが「鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場」である。この因縁の飛行場は前々から訪ねたいと思っていた。

 原ノ町へ来たのは二度目だ。常磐線原ノ町、思い出深い駅だ、三十数年前、ここの駅前旅館に泊まったことがある。汽車に乗るためだ、この駅から青森行きの普通列車が出ていた。時刻表を紐解くと「233レ」だった。原ノ町を朝六時に出て終着の青森には夕方の五時に着いた。まる一日中汽車に乗って外を眺めていた。夏なのに寒かったのを覚えている。この一帯浜通り北部は冷害の元凶、「やませ」によく襲われる。太平洋側で春から夏に吹く冷たく湿った東よりの風のことだ。とくには稲作では大きな影響を受ける。地理的に厳しい環境のところだった。当地に飛行場ができたのは地元が率先して誘致に動いたことが大きいようだ。国策施設を置くことで地域の活性化を願った、背景には稲作だけで食べていくことの困難さがあったからだろう。後年浜通りでは原発を誘致するが要因としては同じものがあったと考えられる。
DSCN0084
常磐線は、今は寸断されている。原発過酷事故による影響だ。竜田駅と浪江駅の間の帰還困難区域はJRの代行バスが運行されている。しかし、本数が少なく常磐線経由は難しいことが分かった。東京から行く場合、新幹線で福島まで行き、ここから原ノ町行きのバスに乗る方がてっとリ早い。

 そのバスに乗って原ノ町に着いた。ここからはタクシーに乗って旧軍飛行場へ行くつもりだ。が、その前にするべきことがある。地方に行って取材をする場合、私は必ず図書館に行く。そして地域資料コーナーのぞくことにしている。その地域でしか見られない資料が必ずあるからだ。幸いにして駅前に南相馬市立中央図書館がある、書棚に見つけたのは「原町戦没航空兵の記録」(白帝社)だ。見ていくと広森隊長の日記があった。
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2017年09月06日

下北沢X物語(3355)―旅での瞑想:原発と特攻2―

DSCN0087(一)「原爆被害は言葉に言い表せません」と被爆者から聞いた。原発過酷事故の被害も同じだ、が、前者には圧倒的な破壊があった。後者にはそれがない、目に見える風景はかつてと同じだ、山があり、沢があり、谷がある、が、測ると空気は放射能で汚染されている。言ってみれば無形被害だ、言葉は形あるものを言い表して成立する、が、形のないものは言い表せない。原発過酷事故は人間が持っている言語観をも破壊した。

 常磐線は、浪江駅と竜田駅の帰還困難区域を代行バスが走っている。国道6号線である。バス席はあらかた埋まるくらいの乗客が乗っている。皆、沿線に流れる景色を懸命に眺めている。店や工場や住宅など、六年前そのままだ、地下道の出口は葛の葉で覆い尽くされていた。飲み屋の暖簾はぼろぼろ、ショウウインドウは割れている、看板だけが色鮮やかな店、が内部は朽ち果てている。
「帰還困難区域では絶対に窓を開けないでください」
 女性車掌がアナウンスをする。外は線量が相当に高いということだ。
 バスは死の街を走る。食い入るように乗客は眺めているが誰も声を発しない。息を潜めて窓外をただただみつめている。
「人がいねいよ」
 たった一人が感想を漏らした。言われて気づいた。街には色合いがある、が、人気が全くない。対向車ですらあまり通らない。
DSCN0085
 避難解除となった飯館村を通るときも人を見かけなかった。報道などによると除染によってとりあえずは数値が低減したという。どの家でも玄関前は七八割りの数値になったらしい。ところが、裏手は数値が高い、高線量のままだという。
 当地一帯は、家の裏手に「居久根」という屋敷林を持っている。ここの除染は一部しか行われない。土の剥ぎ取りも行わないので高いままだという。とりあえず表側が下がったから帰れということなのだろうが、高線量のままではみな不安だ。
 一番大きいのはどうやって暮らすかだ。山林の除染は行わないという。帰還は故郷に愛着のある高齢者が中心だだという。じっちゃんばっちゃんは帰っても孫は戻らない。親が健康被害を危惧して戻らない。

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2017年09月05日

下北沢X物語(3354)―旅での瞑想:原発と特攻―

DSCN0063(一)原発事故は六年前、特攻は七十二年前、いずれも風化が言われる。が、旅で実感したのは前者の風化の深刻さだ。遠い戦争時代のことよりもつい数年前に起こった原発過酷事故の方がより風化が進んでいる。が、被害の実情は恐ろしいほどに深刻だ。なぜだろう?そのことが認識されにくい、それは人間の能力の限界がここにあるのではないかと思った。人間の記憶は形あるものは心にとどめるが、しかし形にないものはどんどんと記憶から漏れてしまう。特攻は国の命令で若者が飛行機に爆弾を抱え敵に突っ込んで死んだ。今回の旅でも特攻勇士の像が何体か見られた。形あるものだから形にできる。しかし、原発過酷事故の被害に遭った現場では、茫漠とした、つかみ所のない被害の実態が延々と広がっている。耕作放棄地、除染袋の山、これらがどこまでも続いている。もう一つ、どこまで行っても人がいない。それは「寂しい」という形容語で表す、しかしこの語は人の気配を意識して使われる語だ。原爆過酷事故による人の退去は「寂しい」という言葉では表現できないものだ。「人がいなくて寂しい」ではなく、「人がいなくて寒い」、そういう新しい表現を使う必要があると思った。つぶさに眺めた現場は何とも表現しようがない。被害の深刻さが広がっているけれども、それは目に見えないもので伝えようがない。とらえどころのない無形の被害だ、それで原発過酷事故は風化していくのではないか?

 福島への旅に出た。原発過酷事故の現場を見ておきたい。もう一つ、偶然手がけることになった特別攻撃隊に関わる現場を見ておきたいというのがあった。別々にと思っていたが一緒になってしまった。南相馬市、原ノ町訪問である。

 松本浅間温泉には戦時中、特攻出撃待機中の武剋隊と武揚隊が滞在していた。前者の隊長は広森達郎中尉、後者は山本薫中尉だった。陸士五十六期の同期生だ。陸軍航空士官学校を卒業した後、いわゆる進振が行われ、この二名を含む三十名が「軽爆」要員となって、陸軍原ノ町飛行場に置かれた鉾田陸軍飛行学校に入校してくる。

 入校は、昭和十八年五月二十六日、航空士官学校を卒業し、襲撃班の実施学校である鉾田陸軍飛行学校原町分教場に入学する。広森、山本の両隊員は、昭和十八年六月から十一月までの六ヶ月間、ここで訓練に励んでいた。
DSCN0058
 松本に滞在していた特攻二隊は、新京から飛来してくるが機種は九九式襲撃機である。陸士を卒業して鉾田の襲撃班に入ったことは、襲撃機の乗員になることが運命づけられていた。実際この機種に乗って松本にやってきた。原ノ町飛行場で既に運命が決まっていたとも言える。
 この飛行場には今もいくつかの痕跡が残っている。これを一度見て置きたかった。
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2017年09月03日

下北沢X物語(3353)―日本偽汽車紀行:鶴見―

DSCN0047(一)
 偽汽車伝説は全国各所に存在する。しかし、新橋と横浜間の伝説は別格だ、日本で初めて鉄道が開通した区間だからである。狸が汽車に化けて現れたのは、鉄道敷設によって巣穴が壊されたことが原因だという、復讐譚である。最初の開通区間であればその伝説は最も早かったと考えてよい。この区間では三箇所、伝説が書き留められている。品川道灌山、六郷高畑、そして鶴見である。日本偽汽車三大名所である。今回は鶴見である。

 自宅の目黒から鶴見へは行きにくいところだ。東急で蒲田まで出てJRに乗り換える、あるいは東急で武蔵小杉へ行ってJRに乗り換える、いずれにても二回の乗り換えがある。ふと思いついたのは鉄道から川へ乗り換えだ、これだと一本でいける。すなわち、綱島まで行きここから鶴見川に沿っていけば鶴見に行き着く。面倒はないが、川土手を延々と歩くことになる。しかし、大事なのは鶴見まで直接行って鶴見をみても伝説の深いところはわからない。遠地点でおりて当該場所を攻めることで分かってくることがある。

 鶴見という地名は、鶴見川に拠っていることは間違いない、よって川沿いに下れば分かることがあるに違いない。綱島で降りて鶴見川の土手沿いを歩いて行く。

・川は南下するに連れ、東に大きく湾曲している。理由は西から押し寄せる丘陵が川にせり出しているからだ。分かったことは川の右岸が高いことだ。右岸は大きな舌状台地でこの先端に鶴見駅があると想像された。
・川を下っていくと東海道線にぶつかった。この橋梁の西、800メートルくらいのところに駅はある。やはり線路は丘陵南端にある。そこに片切り通しを作って敷設した。住み家の破壊に繋がるわけだ。


 鉄道唱歌の五番はこうである。

5.鶴見神奈川あとにして ゆけば横濱ステーション 湊を見れば百船の 煙は空をこがすまで

鶴見を抜け、神奈川に後にするといよいよ横浜ステーションだ。狸は賑やかな街のまっただ中では出にくい、丘陵南端の鶴見辺りが容易に化けられたか。

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2017年09月02日

下北沢X物語(3352)―森茉莉散歩案内人募集―

P1010839(一)当会事務局の代田邪宗門には「森茉莉感想日記」が置いてある。この設置を提案したのは私だ、2005年11月20日に最初の感想が記されている。ようやっと二冊目ができたことから一冊目を借りてこれを読んだ。十数年分の資料だ。読み取る価値のあるものだ。感じたことは森茉莉愛好家の層の厚さだ。また彼らの知的好奇心の強さをも感じたことだ。感想を書いた多くの人が森茉莉が歩いた足跡に郷愁を持っている。それは下北沢の街であり、住まいのあった淡島の町である。長年来たい来たいと思っていて、ようやっと念願が叶って当地を訪れた感動も描かれていた。

 私達は地域文化に目を向けている。地域固有のにおいやあじわいである。森茉莉感想日記を通して思ったことは知的資源の存在だ。森茉莉は淡島に住み、ここから下北沢へよく行った。買い物籠を提げ心持ち前屈みになってゆっくりと歩く姿がよく目撃された。『贅沢貧乏』で彼女はこう記す。

 魔利が殆ど毎日のように歩く、淡島から下北沢の駅の先の北沢二丁目辺の通りまでの繁華な道筋では、魔利の素性を知っている人がかなり殖えて散在している。稀に雑誌なぞに短い文章が載るからでも、それがうまいからでもない。毎日行く風月堂で五六年前に兄の手紙を落として帰った。そこでそこのボオイが素性を知った。

 この情報は瞬く間に駆け巡った。
「おい、あの籠を持った婆さん誰か知っているか?」
「いや、そんなのわかるわけないよ」
「お前な、高瀬舟っておぼえているだろう」
「いや、知らない」
「じゃあ、高三のときに習った『舞姫』は知っているだろう」
「ああ、あれは覚えているよ、最初から何書いてあるか分からなかった。『石炭をば早や積み果てつ』なんてちんぷんかんぷんだった……」
「あの『舞姫』を書いたのが彼女のお父さんだ」
「ぎょへっ、森鴎外の娘なのか?」

 『贅沢貧乏』では、

 父親の欧外という人間が、小学校へ行ったものには全部名を知られていて誰も一度聞いたら(へええ……)と驚いて、忘れることのない、馬鹿馬鹿しく有名な、肩書きの多い文学者と来ている。

 と記す、このことから彼女の通い道の「二個も三個も裏通りに住む人々に至るまで顔と名とを覚えこまれた」という。

 そう誰もが知っていた、東北沢六号踏切の踏み切り番まで知っていて、踏切の線路でつまづきはしないかといつも見張っていたほどだという。

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2017年08月31日

下北沢X物語(3351)―会報第134号:北沢川文化遺産保存の会〜

北文保会納涼会2017 800
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第134号    
           2017年9月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、第3回研究大会 北沢川文化遺産保存の会

 八月五日、世田谷代田にあった「帝音」をテーマとした研究会を開催した。長年、「帝音」について研究を続けてこられた久保絵里麻先生(芸術学博士)の講演を中心にして会を開催した。一言でいえば、非常に好評であった。
 印象に残っていることがある。当日、久保さんが師事されたという帝音出身者の會則道氏(NHK交響楽団ヴィオラ奏者。才能教育研究会スズキ・メソード指導者)のお嬢さんが来ておられた。
「自分の家では、小さい頃から『テイオン』というのはずっと聞き慣れていて、ごくごく普通に存在するものと思っていましたが、この地元世田谷代田ではほとんど知られていないということを聞いてびっくりしました」
 そんな感想を言っておられた。これが現実である。

 久保先生の講演が意義深かったことは、「テイオン」の存在を当地に知らしめたことにあった。ただ学校が存在していたということではない。わかってみると当地の、芸術文化に深い関わりがあったことが、講演を聴いておぼろに浮かんできたことである。
 一帯に文学者は多くいた。しかし、そのことが当地の文化性にたちどころに繋がっていくわけではない。
「最近越してこられた人は、物書きさんなんですって、ほら時々夜中になると、大きな声を出しているでしょう、まあ、ものかきさんなんかみなそうかも」と、うわさする。
 しかし、音楽というのは誰の耳にも届くものである。帝音では、楽器、声楽なども教えていたという。そういう声を聞きに近所の人も来ていたという。
「音楽学校があることで子どもの音感に影響を与えていたことはあるのではないか。学区内の代沢小では戦争前からバンドがあって練習をしていた。音楽に対する感度が高い、戦後そのバンドが『ミドリ楽団』となってアニー・パイル劇場で何度も公演をしている。主メンバーの一人は安倍圭子さん、マリンバの世界的奏者だけど、代田という音楽的感性の豊かなところで育ったことも遠因の一つではないか」と、これは私がそう思ったのだ。

 講演会の後に、「研究協議・情報交換」を行った。タイトルは、「世田谷代田の音楽文化を語る」である、「帝国音楽学校と地域文化」を話し合うものだが、活発に意見が出された。
  具体的な話としてこんなことがあった。
 帝国音楽学校があった時代に、学校の近くに「平間聲学研究所」があった。学校の教官であった声楽の平間文寿が運営していた私塾のようだ。戦後になってこの跡に「長門美保歌劇団」ができている。夫の鈴木雄詞とこの劇団を結成し、昭和二十一年(1946)十一月に「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。同じ声楽同士だから平間文寿と長門美保との間には関連があったのではないかと思われる。
 当日、この近くに長年住んでいた当会会員の川田正義さんが参加された。昔の地図を描いてくれた。それによると戦前は平間聲学研究所のすぐ近くに長門美保は住んでいた。ということは彼女と平間とは近所同士だったといえる。

 戦後になって音楽が解禁され歌劇団を作り、練習を開始しようとした。「平間聲学研究所」の建物は残っていたのだろう。それを平間に相談して歌劇団としたという推察が、川田メモによって分かった。帝音の陰翳が戦後にも生きていた例である。
 川田さんの家は駒沢線62号の近くだ。周りには音楽家が多くいた。古関裕而、明本京静、同年では安倍圭子さん。
「阿部さんは音楽的な感性にすぐれていましたね。家にピアノがありましてね、近隣に音楽をやっている人が普通にいましたからそんなところで影響は受けたでしょう」
 帝国音楽学校の陰翳が今も何か残っているのではないだろうか。
 講演をしてくださった久保先生は、四歳から會則道先生にバィオリンを師事されたという。この先生のエピソードをたまたまみつけた。
 戦争末期はその耳の良さを買われ、近づいてくる戦闘機を、固有のエンジン音で敵機かどうか聞き分け、どの方角からやってくるかも勘案し、防空壕に避難すべきどうかの判断を求められたという。
  會則道先生は、帝音時代も周囲の音に耳を傾けていた。すぐ側を小田急線が通っていた。
「あのね、そこを電車が通るのだけど、電車によって音が違うんだ。甲号車はカタタントンって軽い音がする、乙号車は、少し重くて、グットンガットンという。君らが新宿から乗ってくるのは乙号車だ、電車にも靴があって種類が違うと音も違ってくる……」
 音楽家は音に敏感だ、タイフォンを聞いただけで急行か各停かが分かったのかも。
 次年度以降の研究会については、「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとして、「世田谷代田の音を巡って」ということで土地の人に代田囃子の伝承、また、久保さんにも出てもらって話をしていただいてはという案がある。
 講演で「帝音」が話題になったが、それがどこにあったのか。その場所及び関連する跡を巡る散歩をとの声も上がっている。これについては順次会報で連絡することにしたい。

2、帰ってくるロス・コンパニェロス

 我々にとって懐かしい歌声がある。ラテンバンドのロス・コンパニェロスである。納涼会や忘年会でもうおなじみである。また毎月出演している下北沢テピートに聞きに行かれた方も多いはずだ。
 長年に亘って演奏してきた彼らの歌声、また演奏はいぶし銀の年季を感じる。その彼らがまた帰ってくる。12月2日(土)、午後五時半から北沢川文化遺産保存の会の忘年会を開催する。ここで歌声を披露してくれることになった。ぜひおいでください。

 文化は楽しくなければ文化ではない、基本的な考えである。それで楽しむためにこれまで納涼会や忘年会を催してきた、夏の納涼会も三十名以上の出席があり楽しめた。手品についても作道明さんの手づるでプロの手品を堪能できた。我等は芸能を心底楽しんだ。
 しかし、問題が生じた。何の問題か、後始末である。北沢タウンホールは団体が発生させたゴミは団体の責任で始末することになっている。お弁当カラ、空き瓶などがゴミとして出る。これについては一部の人に負担を押しつけていた。大量に出たゴミを持って帰ったり始末したりしていた。会を楽しくしていくにはやはりこの問題を解決すべきである。基本自分が出したものは自分で、お弁当の箱は各自が持ち帰って処分をする。まずこれが一番ではないか。席に一枚一枚ビニール袋を置く、自分の分は持ち帰るようにしよう。
 先般、片付けのときのトラブルで「若い人を使え」という意見が出された。ビン類などについては若者(何歳までかは微妙だ、歳を取っていても気分は若いという者も多い)に持って帰ってもらう。私もリュック持参で来ようと思う。
・当日の各自持参品について、これは今は義務ではなくなっている。私はいつも自分で作ったパンを持ってきている。ちょっと面白いから何か持って行こう。これはこれでいいのではないだろうか。
・オークションについては、家庭にある自分の家で使わないものを持ってきてもらっている。しかし、これも義務ではない。この売り上げは会の活動資金としている。
 
忘年会 12月2日(土)  北沢タウンホール二階集会室 5時30分より
参加費   3000円 

 
 なお、以上を提案したが、それぞれ意見があるかもしれない。これはメールなどで当方に知らせてほしい。当会は、2004年に発足した。もう十二年も続いている。会の運動から歴史が発掘された、過言ではない、しかし、会の運営について感じることは世代交代をしていかないと運営が難しくなるということだ。会報の発行、歩く会の立案、戦争経験の運営、研究会の立案、紀要の編集、執筆など多くのことがある。人間限りある命、私もいつまでもやれない。できれば徐々に仕事を譲っていきたい。各部署のここはやってもよいという人がいれば助かるのだが。
 
3、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第131回 9月16日(土) 午後1時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
 案内人 きむらけん (新企画)世田谷のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→新代田駅 


第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前 案内人 松山信洋さん
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
 案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
 新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会恒例の三田用水を歩くでお世話になっている団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲2017年は、2月、3月の街歩きの計画が決まっていない。希望を寄せてください。今年の車での山梨訪問は好評だった。山梨富士を巡るコースへのチャレンジが候補としてあがっている。他にこんところがあればという意見はこちらへ。
▲長年、会の活動を通して疎開学童のことを調べてきた。『鉛筆部隊と特攻隊』をはじめとする三冊の著書はこの成果だ。これですべてを書き上げたと思っていたらまた新しい資料が寄せられた。武揚隊の案内誘導をした菱沼氏の手記だ。<信州特攻隊物語最終章>として四巻目が十月に上梓される。『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』(えにし書房)
CCI20170830
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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2017年08月30日

下北沢X物語(3350)―森茉莉と代田「邪宗門」3―

P1010008(一)「感想文」には森茉莉のことが綴られている。そこから見えてくることがある。

1,茉莉が歩いていたという淡島や下北沢への郷愁を持っている。
2,彼女の生き方のスタイルについて多くが憧れを持っている。
3,こだわりを持っている。森茉莉全集を買っても、これには手をつけず、作品は文庫本で読むとか。
4.ファン年歴が長い。森茉莉一筋という人も多い。
5.総じて言えることは、森茉莉愛好家は知的教養レベルが高い。
6.自分の飼っている猫、さらには自分の子どもに茉莉の名をつける。


一例だ。

 初めて伺いました。清瀬から娘の茉莉花(六歳、もちろん森茉莉さんから勝手にお名前を頂きました)を連れて来ました。一歩お店に入るなり暖かい雰囲気が伝わってきて、とても居心地がよかったです。茉莉さんが一日中こちらで原稿を書いていたというのもよくわかる気がしました。マスター、お店の方もとても親切でいろいろなお話や本を見せて頂、ありがとうございました。……このあと、茉莉さん旧居跡を見て帰ります。(MM) 

茉莉という名はよく見かけるがもしや森茉莉にあやかってのことなのか。猫などは多く居そうだ、「ジュリエットやこのチョコレエート食べるかい」という場合の猫の名ジュリエットは間違いなく「黒猫ジュリエット」から取ったものだ。
 この人若いときからの森茉莉ファンだったろうと想像される。彼女が歩いた街を、娘と歩いてみたいと思ってきたのだろう。

 退職記念に森茉莉全集を購入したという人は多い。つぎはそうだ。

 長年の森茉莉さんの大ファンです。私の退職記念は茉莉さんの全集を入手したことです。今日は念願かなって主人とここへ参りました。
 幸運にもご主人の作道さんや伊藤文学さんにお会いでき、種々のお話をゆっくりうかがうことができ大変うれしゅうございました。一生の思い出になることと思います。ありがとうございます。(YK)

 
退職したらすぐ問われるのは何をするかだ、この人は森茉莉をじっくり読もうときめたようだ。そして念願の聖地へ。これに付き合う旦那さんもステキだ。

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2017年08月28日

下北沢X物語(3349)―森茉莉と代田「邪宗門」2―

代沢湯女湯(一)邪宗門「森茉莉感想日記」を読むと、「森茉莉にかぶれた」という人が多いことに気づく。特異な現象だ、下北沢文士町に居住した他の女流で「かぶれる」という場合、あるのだろうか。「私は宇野千代にかぶれましてね」というのは言いにくい、男から男へ渡り歩くイメージがある。「私は大谷藤子にかぶれましてね」というのは玄人過ぎて意味をなさない。唯一存在しうる一人がいる。「私は萩原朔太郎にかぶれていまして、今もここに空いているという次元の穴を求めてうろついているのですよ」と、これは成り立つ。しかし、これは男性だ、森茉莉の場合は多くは女性である。

 感想文を読んでいると人一人一人の人生が浮かんでくる。例えば、「私は森茉莉さんに救われました」という感想があった。

 昔、函館白百合学園高等学校を受験しみごとに落ちました。
その下の科に入れたもののやややけっぱちになって生きていました。そんなある日茉莉さんの作品と出会い「求めていたものはこれだ」と思いました。それから「大学はせめて東京の大学に行きたい。」と思いました。
 大学は念願通りに進み茉莉さんの研究をしました。大学院にも進み又茉莉さんの研究をしました。
 希望した夢もかなった私に道を与えてくれた茉莉さんに感謝です。
  あなたに一目会いたかった! (RA)


 森茉莉が人生の指南役だった、彼女に出会ったことで自分を見つけることができたという。またこんな感想もある。

 教科書の『父の帽子』ではじめて森茉莉に出会い本の中で夢を膨らませ、実在の人であるのか、遙か遠くの人でありました。邪宗門でいろいろお話をうかがい確かに「居た」と実感できました。鳥海山のふもと。最上川の河口の地、酒田のMでした。

 森茉莉との出会いは高校時代だったというのが多い。この彼女の場合も、教科書教材として森茉莉の作品が収められていて、これに触れて彼女を知った。
 高校時代は進路に悩む場合が多い。誰もがそうだがこの時期に社会というものを知ってくる。人生のハードルは高い、けども森茉莉のように気兼ねなく自由に生きているのを見て救われるというのはあったのではないか。
 彼女は遙か地方にいる。その彼女は東京に住んでいた森茉莉に思いをはせた。空想の人物だった者が、「邪宗門」を訪れることで彼女の実在を感じられたと。

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2017年08月27日

下北沢X物語(3348)―森茉莉と代田「邪宗門」―

DSCN0057(一)脳よりも舌、精神的な生き方よりも味覚が優先される、そんな時代ではないだろうか。昨日身近に感じたのは「贅沢貧乏」よりも「境界の彼方」だった。灯台もと暗しだ、足下で起こっている文化現象を捉え損ねていた。アニメと文学の境界で起こっていることだ。ひところ代田邪宗門は森茉莉の面影を求める人が多かった。しかし、今はアニメ『境界の彼方』の聖地として多くのfファンが全国から訪れている。

「森茉莉ノートはようやっと一冊が終わり、二冊目に入ったところです。『境界の彼方』は後になるんですけどね、ノートはどんどん増えていきますね。もう五六冊にもなりました」
 邪宗門のマスター作道さんがいう。
それを見せてもらった。「ずっと来たかった聖地、やっと来られて嬉しい」、「あんみつコヒーがおいしかった」などと書かれている。若い人が圧倒的に多い。

 一方の森茉莉ノートだ、これの発案者は私だ。確認すると最初の人の記述が、2005年11月だ。我等の会の発足が2004年12月だ、一年経った頃に『森茉莉感想ノート』を作った。この趣旨は自分で書いてノートに貼り付けた。ところがその文字も風化してしまい。すべてが消え去ろうとしている。
 最初の方に書いてある感想で目についたものはつぎだ。

 高校生の頃に森茉莉さんの作品を幾つか読んで「セーターをつくろうことができなくて川にこっそり捨てに行った」というエピソードが何となく残っていたのですが、今その川の近くに住んでいるというのは不思議な縁だなと思いました。(M)

 この場面『贅沢貧乏』に書かれているエピソードだ。

 魔利の場合、実行と思考との間には雲烟万里の隔りがある。穴があくと綴くれないから、そっと捨てる。夜更けの十一時四十分頃に魔利の住むアパルトマンの近くを通る人は、かさばった新聞紙の包みを抱えて川辺の方へ歩いて行く、怪しげな女の姿を見るのだ。
 現代日本のエッセイ 『贅沢貧乏』文芸文庫


 確かにここは印象に残る場面だ、ボロアパルトマンを出るときにこっそりと左右を覗き、人がいないのを見ると「いひひひ」と魔法の杖を持った老婆よろしく夜闇に紛れてドブ川の北沢川に行き、セーターをこっそり捨てる。
「えっ、ここがセーターを捨てた川ですか!」
 文学散歩で案内すると驚く、この場面は多くが印象に残しているようだ。

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2017年08月25日

下北沢X物語(3347)―代沢・東大原運命の経路は中央線供

DSCN0053(一)特記しておきたいことがある。一人の女性の記憶が近代戦争史の一ページを開いたことを。それは東大原国民学校の疎開学童だった秋元佳子さんである。彼女は浅間温泉富貴の湯旅館にいてここにやってきた「と号第三十一飛行隊」、武揚隊の隊員と交流していた。彼女の記憶は飛び抜けている。彼らが温泉を立ち去っていくときに大広間で壮行会が開かれた。そのときに彼女らを恋い慕う歌をうたった。この歌詞を彼女はソラで覚えていた。一晩で消える命だったものが繋ぎ止められた。先だって、テレビ信州、八月十五日の終戦特集番組ではこの歌詞がテロップで流された。この彼女は、「きけ わだつみのこえ」に出てくる長谷川信少尉の記憶も確かだった、彼女の証言が端緒となって武揚隊員が揮毫した遺墨が、そして彼らの苦難の台湾行を記録した。菱沼俊雄手記が見つかった。これらのことは記録として残す責務があると思い、「と号第第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」をまとめた。この十月には上梓される。

 東大原は、信越線で松本に向かったのか、これは秋元佳子さんに聞けば分かる。
「八月十二日に疎開で浅間温泉に行くでしょう。東大原は信越線で行ったことになっているんですが……」
「そんなことはありません」
 彼女は言下に否定した。
やはり東大原は中央線で疎開に行ったのだ。
「あの日のことはよく覚えています。まず学校に集まりますね、私に弟がいたのですよ。小三の、きっとみんな校庭に集まったので興奮したのでしょうね、肋木に登って落ちて気絶したんですよ。それでこれでは疎開に行けないと思っていたら息を吹き返したんです。その弟のせいで姉の私は先生から叱られたんですよ」
「あのときは学校を出て今の一番街を行ったのですね?」
 疎開学童の隊列の行進は一つのデモンストレーションだ、ヒトラー・ユーゲント一行が下北沢に来たときにメインストリートを通った。それを思い出していた。 
「一番街から栄通を通って駅へというのですか、違います」
 この質問も一蹴された。
「どういうルートを通ったのですか」
「私の家は、あのときに一番街にありました。だから通れば覚えています」
「とすると?」
「学校を出ると鎌倉通りにぶつかるでしょう。まっすぐに行くと一番街です、けれども私達は角の成徳のところを右に曲がったのです、そしてまっすぐ行きました。そのままいくと踏切にぶつかるでしょう」
「ああ、今の井の頭線の踏切ですね」
「そうでも、あれよりもずっと手前を左に折れていくと今の北口の坂の上にでます。そこを下っていって駅前の広場に行きました」
 またもや彼女の記憶は鮮明だ。

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2017年08月24日

下北沢X物語(3346)―代沢・東大原運命の経路は中央線!―

IMG_0001(一)一つの疑問から分かったことがある。歴史の質というのは人によって違うことだ。七十二年前の疎開経路など誰も覚えてはいないと思っていた。ところが、探せば分かる。驚きだ、そのときのことを正確に覚えていた人がいた。昭和十九年八月十二日、代沢と東大原の国民学校は下北沢駅から疎開に出発した。記録では経路が違ったとあった。前者は中央線、後者は信越線だというのだ。が、どうもこの事実は腑に落ちない。当時の客車の定員は一両あたり八十名だ、代沢、東大原合わせて一千名程度だ、十二三両編成で一気に中央線で運べたのではないか、別々ではなく一緒だったのではないか?。

 疑問に思うことは大切だ。そこから道が開けてくる。昭和二十年二月二十五日、この日も疎開学童にとっては忘れがたい日である。受験を控えた六年生が疎開地を去っていく日だ。前日の二十四日、松本の田町国民学校では送別式が挙行された。「代沢国民学校生徒総代 山本一代」、彼女の名演説に多くが涙した。その冒頭だ。

 田町国民学校の諸先生、ならびに児童のみなさま。いよいよお別れの時が参りました。私たち六年生は明日午後五時三十分、松本駅発の汽車で空襲下の帝都へ帰ります。


 時代が経っているが伝わってくる、この一文を読んだだけでも講堂内のぴりりとした空気が如実に感じられる。彼女は「帰ります」と言って間をおいた。在校生、とくに疎開残留組にこの言葉は響いた。疎開していた旅館に同宿していた特攻兵からも「おめえら東京に帰るんだってな、また靖国で会おうな」と声を掛けられてもいた。

 さて、汽車の話だ。当日、松本発十七時三十分発の列車で六年生は帰京するという。ところが実際は、十分早い、十七時二十分発だ、着駅は新宿、その列車番号は、「3402」である。世田谷に帰る六年生は各校乗り合わせだ。東大原174名、代沢125名、北沢91名などとある。その総計は、1,192名である。中央線の一列車編成は千二百名は乗せられるということである。

 こういうことも記録が残っているからこそ分かる。「集団疎開児童帰京輸送計画表」である。「世田谷区教育史 資料編六 平成五年発行 世田谷区教育委員会」に載っているものだ。これには各校の帰着先も記してある。東大原と代沢は下北沢だ。第一師範は、「第一師範」だ、すなわち東横線第一師範駅、今の学芸大学駅だ。二子玉川は「読売遊園」だ。すなわち、玉電の読売遊園電停である。

 中央線列車一編成で千二百は運べる。とするなら代沢校と東大原校合わせて一千名程度、一緒の列車で運べる、運んだはずだ。

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2017年08月22日

下北沢X物語(3345)―代沢・東大原運命の出発日’44.8.12◆

CCI20170822_0001(一)東京から地方へ疎開が始まったのは昭和十九年八月四日だ。二十万人規模の大移動だ。旅慣れない学童を運ぶ、戦時輸送における鉄道員の苦闘があった。世田谷から松本市、及び浅間温泉への疎開したのは、北沢、太子堂、東大原、代沢、第一師範、駒繋、中里、三宿である、八校の総計は四千二百名だ。昭和十九年八月十一日、十二日、十三日、十四日の四日間でこれを終えている。一大事業だった。記録されていない苦労があった。

「当時私は、EF13の機関車を運転しておりまして、新宿から甲府まで疎開、団臨は何度も運転しましたよ。何しろ乗せるのが学童だけでしょう。旅慣れていない子ですよね。だからね、やっぱり気を遣いましたよ。あの頃は、旅客にせよ、貨物にせよ、満載でしたね、乗客の気もたっていれば、こちらも同じですよ。だから着発なんかは乱暴でしたね、ダイヤも乱れていましたから焦るのですね、急発進、急停車なんかよくありました。乗客が将棋倒しなるなんてことはありましたね。でもね、親から離れて長野に行くっていうのに恐ろしい思いをさせたてはいけないと思いました。極力、驚かさないように、ゆっくり出発し、そして駅に着くときはゆっくりと止めました……」

「中央線は、スイッチバックがあったでしょう。小淵沢までは、初狩、笹子、勝沼、韮崎、新府、穴山、長坂に。私らの場合は勝沼まででしたからね、でもね、最初でしたか、初狩でバックしはじめると客車から『キャー』とかの声が聞こえたんですよ。坂で暴走し始めたと思ったのですね。子どもはスイッチバックなんて初めてだから、後ろ向きに走れば怖くなりますね。まあ、それから推進運転する場合は、適度汽笛を少し長めに鳴らすようにしましたね」

「中央線は甲府から先は蒸気機関車でしたから違う苦労があったようです。トンネルですね、夏ですから窓開け放しですから煤煙がどんどん入ってきます。隧道に入るときは合図の汽笛を鳴らすんですが、疎開団臨のときはやはり適度汽笛を少し大きく鳴らしたと聞いていますね。普通列車だと少々乱暴に運転しても大人は慣れていますから大丈夫ですけどね、急停車して学童がころんだなんてことになるかわいそうですからね、学童団臨は本当に慎重に運転しましたよ……」

「そういえば帰京団臨も運転しましたが、まず驚いたのは子どもたちの表情ですね、さすが家に帰れるとあって嬉しそうな顔をしていました。行くときは青ざめていましたからね。やっぱりね、親から子を引き離すというのは大きな無理がありますよ。そうそう思い出した。松本に向かうとき、上りとの交換があるでしょう、子どもから見ると自分らと違ってあっちは東京へ戻るんだと分かるんですね。それで上りを見ては泣いている子もいましたよ。あの頃のことを思い起こすと子どもが可愛そうでした。やはり戦争はやっちゃいけないんですよ……」
 中央線のEF15を運転していた甲府機関区の某氏に創造的インタビューをしてみた。
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2017年08月21日

下北沢X物語(3344)―代沢・東大原運命の出発日’44.8.12―

CCI20170821 (4)(一)戦後72年、戦争も遙か遠くになった。が、今夏、長野のテレビ二局と中央紙読売新聞で疎開学童と特攻隊の関わりが報じられた。この話は埋もれていた近代戦争史の一齣である、地元でも把握されていなかった事実である。具体的には世田谷の小学校二校、代沢小学校と東大原小学校の疎開学童が松本飛行場に飛来してきた特攻隊と深く接していた。これは関係者からの聞き込み、また取材過程で手に入れたと手紙や遺品などから明らかになった。

 代沢小と東大原小の学童は浅間温泉に疎開した。この子ども達と偶然に出会った特攻隊があった。満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊だ。武剋隊と武揚隊である。彼らは松本飛行場に飛来してきて一月余り温泉に滞在した。このときに二校の学童と交わった。これからを生きる命と死ぬ運命にあった者との出会いだ。

 つい最近になって知ったことがある。この二校の出発日は同じだったことである。すなわち、昭和十九年八月十二日だ。代沢校はこの日だということは分かっていた、が、東大原校も同じだった。この日に下北沢駅を旅立った二校の学童が、二隊の特攻隊と出会っていた。

 東大原小学校同窓会発行の『古きを温ねて−第三荏原から東大原へ』(平成十九年)に疎開に関する記述がある。

 世田谷区では、八月十日に北沢・太子堂が先発、東大原は十二日の夕刻学校を出発、下北沢駅から新宿へ、列車に乗り換え信越線経由で翌朝九時に松本着、浅間温泉行きの電車で本郷小学校へ、同校児童との対面式を済ませて正午に宿舎に到着、五百余名の児童を収容する東大原小学校集団疎開学園がスタートしたのでした。

 運命の八月十二日だ。この日、駅が見送りの人でごった返したことは間違いない。疎開出発の日、順序としてはまず学校で壮行式を行った。父母の見送りは学校までと決められていた。しかし、戦況は逼迫していた。何時東京も空襲を受けるのか分からない。親と子、離ればなれになったらもう二度と会えなくなる、今生の別れだ。それで親は駅まで行って学童らを見送った。

 この日、 昭和十九年八月十二日はとんでもなく大変な日であった。これほど悲嘆に暮れた日はない。別れといえば小田急線下北沢駅地下化を翌日に控えた二〇一三年三月二十二日、地表電車を送る人々で構内はごった返した。が、戦時中の八月十二日の騒ぎを超えるものではない。この日悲しみの塊が爆発するほどに叫び声が、泣き声が上がった。
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2017年08月19日

下北沢X物語(3343)―偽汽車亀有狢塚総括―

DSCN0026(一)偽汽車は人間が狐狸に仮託して描いた伝説だ、文明に初めて出会った日本人の驚きを戯画化して描いた。根底にあるのは人と汽車との遭遇だ。曲折化した一種の文明論である。偽汽車が本物と衝突したときは思いがけず「コチン」と軽い音がする。創作伝承話として必要なオチである。話の核である、これがないと伝わらない。

 偽汽車は全国に流布している。発信源は東京である。新橋と横浜間に鉄道が開通しこの話は起こった。この区間では三例を把握している。品川、六郷、鶴見である。この三つがこの伝説の源流だ。これがまず都市近郊に流布する。「偽汽車」という呼称を生み出したのは佐々木喜善である。彼の著書『東奥異聞』では、「偽汽車」という見出しを設けこれを説明している。

ただしこの偽汽車だけはごく新しい最近にできた話である。ずっと古いころで明治十二、三年から二十年前後のものであろう。それにしては分布の範囲は鉄路の延びるにつれて長く広い。克明に資料を集めてみたなら奥は樺太、蝦夷が島の果てから南は阿里、台南の極みまでも走っているかもしれない。

 東京に始まって地方へ、果ては樺太や台湾まで伝播したという。鉄道延伸と偽汽車の流布、東京に始まったこれは全国津々浦々へと伝わった。このことについては分類ができそうだ。第一次はやはり新橋、品川間から始まった。次が東京近郊だ。山の手線が次位にくる。先だっては五反田の例を挙げた。孫引きになるが『江戸東京の噂話』(大修館書店 野村純一著 2005年)には渋谷恵比寿の話を載せている。

DSCN0027
 (恵比寿)発電所の踏切付近にいた狸は汽車の真似をして、本物の汽車の妨害をする。ゴーシーシューポーという音を立てて汽車に向かって進んでくる。本物の汽車が狸公ぶつかると、狸の汽車は消えてしまい、翌朝見ると狸の死がいが残っていたという。
             (渋谷区教育委員会『渋谷の昔ばなし』


 偽汽車の流布の仕方はある。鉄道延伸に沿ってだ。亀有狢の面白いところは、これが都鄙境譚であるからだ。音響譚、音楽譚であることはこれを象徴している。
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2017年08月18日

下北沢X物語(3342)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有4―

DSCN0003 - コピー(一)「えっまたか?」人々はその音を異様に感じた。日本鉄道の土浦線亀有駅近辺では、「ピィヒョウピィヒョウ」と汽笛が立て続けに鳴っていた、気持ちが悪くなるくらいに頻繁に聞こえていた。のどかな村ではただならぬことであった。ところがだ、ある日突然にそれがやんだ。折も折、線路脇を通った村人が線路上に「血だらけのけものが転がっている」のを見つけた。「ぎょっふぉ、狢だ!」、その死骸は見性寺に運ばれ葬られた。

「あんなにたくさん通った汽車は狢だったのだのお。」
「そういえば、むじながひかれた後はずいぶんと静かになったものだ。」
「むじなも汽車にはかなわなかったんだのお」
 その後、日が経つにつれて、汽車に負けたむじなをかわいそうに思い、だれ言うともなく、塚を作って供養してやろうということになり、ささやかな塚が作られました。
  『かつしか昔話』


 亀有狢の偽汽車伝説はいくつかの特徴がある。

1、狢が汽車に化けて現れた、が、その偽汽車の実像の目撃談はない。
 音響譚としての偽汽車であること。
2,近代の汽車と狢との力量の差を主眼にしている。
 機械近代の犠牲になった狢への同情が述べられていること。
3,狢塚が今も存在していて供養されていること。


 見性寺には偽汽車の検証に訪れた。この寺は、常磐線のすぐ脇にあった。狢と鉄路の関係性の深さが思われた。
 
 この境内には、狢塚があって、その近くに正岡子規の句碑がある。

病苦
林檎くふて 牡丹の前に 死なん哉


 明治三十二年作のようだ。病床にある自分の願いはたらふく林檎を食べて、そして、彩り豊かで美しい牡丹の花の前で死にたい、そういう意であろう。

 なぜこの句碑がここにあるのか、興味深い。見性寺と子規の関係いかに?
調べてみたところこの寺に埋葬されている寒川鼠骨に関係があるようだ。彼は、正岡子規門下の俳人だ。病中の子規を介抱し、没後の遺墨などの保存に尽力している。彼もまた松山出身者で子規を深く慕っていた。
 
 病臥している子規の相手をしていたのは鼠骨だ。恐らくは見性寺の狢塚の逸話を話したであろう。子規は狸には深い愛着を持っている。句にも多く狸を詠んでいた。
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2017年08月16日

下北沢X物語(3341)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有3―

DSCN0010(一)亀有の偽汽車伝承は幾通りかある。『かつしかの昔ばなし』では、狸の腹鼓の巧みさを中心にしたものだ。狢の親子三匹が技に夢中になって練習している最中に汽車がこの親子に突っ込んできた。機関士の方は日頃この狢にだまされていて、それを恨みに思って、「エィッ」とばかりにひき殺してしまった。「亀有村の人々は狢を哀れみ」狸塚を見性寺に建てて供養した。

 亀有狢はこころざしなかばに倒れ、多聞寺の狸塚までゆかず、地方名の狸塚で終わってしまいました。それだけに村人の同情は大きく……

 腹鼓の演奏家として亀有狢は懸命に練習してきた。ゆくゆくは第一級になって晴れて向島多門寺の狐塚で演奏することを夢見ていた。親はその晴れ舞台を思った。

 向島芸者衆がいる中で、ポンツク、ポンツクと小気味よく腹鼓を叩くと歓声があがった、『よう、日本一!』と。するとここぞとばかり、息を二呼吸、ぐっと腹を張る、すると音は跳ねて、月夜に転がっていくようだった。
「まあ、亀有狢さん音につやのあること!」
 ところが夢は無惨に打ち砕かれた。向島の名取りがただのど田舎の亀有狸で終わってしまった。村人はそれがかわいそうでならない。

 彼らを偲ぶために亀有の菓子屋は「腹鼓最中」を売り出した。こってりした田舎最中は、皮肉なことに汽車でやってきた連中が、「うまいうまい、ことに腹のところにたっぷり入っているあんこは口がとけるようにうまい」との評判だった。

 一方『葛飾のむかし話』(編集 葛飾区児童部児童課 一九八四年)にある「汽車になったむじな」は偽汽車の話を中心とする。この冒頭だ。

 常磐線が北千住から亀有、松戸方面へと、はじめて通った明治のころのお話です。
 その頃は田畑の中を走る単線で、汽車は一時間に一本くらいしか通らず、朝夕でもせいぜい二本くらいという、静かなものでした。


 偽汽車の舞台設定として大事なことがある。一つは、時代設定だ、汽車が走り始めたころというのはポイントだ。狸や狢が汽車に初めて接して起こったできごとだからだ。
 常磐線は、開通した当初は土浦線と呼ばれていた。明治29年田端と土浦間が開通している。東北線と同じ日本鉄道によるものだ。

 もう一つ、単線であることだ。偽汽車に欠かせない条件だ。複線だと落ちがうまくいかない。偽汽車と本物の汽車がすれ違いましたでは話にならない。やはり単線であることは重要だ、あっちから汽車がきて、こっちからも汽車がくる、「えっ、どうなるの」、とはいうもののぶつかるに決まっている。
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2017年08月15日

下北沢X物語(3340)―10年間戦争経験者の話を聞いてきて―

広島にチンチン電車の鐘が鳴る(一)世間ではAIがしきりにもてはやされる。人間の代わりに考えたり、動いたりしてくれる、重宝されるはずだ。が、体を動かしたり考えたりすることで人間が人間たりうる。そういう点でAI賛美もどうなのか?が、彼AIの観点については評価ができる。我欲がないからである。つい最近面白いことがあった。中国のAIサービスへ「共産党万歳」との書き込みをしたところ「腐敗して無能な政治に万歳ができるのか」と反論したという。即刻サービスは停止されたという。もっともAIに西欧一辺倒的な情報が入っていないともかぎらないが。

今日は、終戦記念日だ、試みにパソコンのコルタナさんに「太平洋戦争とは?」と聞いてみた。しかし何の返答もない。コルタナさんも手に余るのか?

 それでも AIが回答する太平洋戦争は、大体が予想がつく。

・全く勝ち目のない無謀な戦争でした。犠牲者はおおよそ三百万と言われていますが、結果としては同胞を無駄死にさせただけのものでした。戦争を指導した軍部は判断を誤ったのです。さらに本土徹底抗戦などと言って軍部は戦争終結を遅らせました。広島、長崎の原爆を受けようやっと戦争は終わったのです。

 AIは主観を排除して、合理的な判断に基づき回答をくだす。戦争前に聞いてみても同じだったろう。
「AIさん、これからアメリカと戦いますが、予想としてどうでしょうか?」
「アナタガタハマチガッテイマス。アメリカノブツリョウ、カガクテキナシンポハニホンヲアットウスルモノデス、センソウヲシテハナラナイ」
 しかし現実には戦争に突入した。そして今日はその戦争に負けた。敗戦記念日だ。

 AIは主観性を排除する、が、人間は我欲的だ、自己中心に物事を考える。

 私たちは、毎年戦争経験を聴く会、語る会を催してきた。今年五月は十回目だった。2012年の第五回では、「海軍第14期飛行予備学生の話を聞く」を催した。学徒動員組の七名が参加された。知的レベルの高い人たちである。

「確かに合理的に考えれば物量に勝っているのはアメリカの方でした。しかし精神力では日本の方が数段勝っていました。だから勝てると思っていました」
 動員組の一人の証言だ、精神力で戦えば勝機はある、軍部も同じだったろう、長期になれば勝ち目はない、が、短期決戦で望めば勝ち目はあると踏んだ。

(二)
 どうしても人間は自分を中心に都合良く考える。
「そのうちに神風はきっと吹いてくると思っていましたよ」
 多くの人から戦争経験を聴いた中で、この言葉には何度も出会った。神が助けてくれると。これは特攻隊の将校も同じような考えを持っていた。

 愈々戦局も超重大となって来ましたね。然し私は絶対に日本の必勝して不敗なるを信じます。神州必ずや天佑あり、神助のもと、我等の赤い血を捧げて始めて日本の必勝は期し得られるものであります。

 松本浅間温泉に約四十日余り滞在していた武揚隊山本薫中尉の言葉だ。彼は十四人の部下を率いていた。強い使命感と責任感を持っていた。天佑や神助は心からの願いだった。

 今だからこそ言えるというのはある、当事者やその渦中にある者たちは、勝つと信じて日々を暮らすしかなかった。武揚隊は二十年二月に松本飛行場に飛来してくる。前年十月この飛行場の完成に向けて松本一中の生徒は動員された。望月照正さんもその一人で懸命にツルハシを振ったり、トロッコを押したりしていた。

「丘にはためくあの日の丸を/仰ぎ眺める我等の瞳」で始まる「勝利の日まで」もよく歌った。これらの歌をうたっていると、胸が熱くなる思いがした。

 彼は、何とか日本は勝だろうと信じて懸命に力仕事に励んだ、そしてともに歌を歌った。「勝利の日まで」だ。望月さんにとってはそれが青春だったという。

 戦争経験者から聞いたのは、「戦争には負けると思っていたよ」という感想が多かった。この批評を聞いて、「そうだったろうなあ」と同意した。が、今は違う、あのときは戦時一色に染まっていた。普通の国民は「ニッポン勝て勝て、チャチャチャ」、戦勝を期待していた。

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2017年08月13日

下北沢X物語(3339)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有2―

DSCN0006(一)狸の腹鼓は高い音楽性を持っていた。これを向島の名手が打つと一帯にこれが響き渡り、多くの狸をうっとりとさせたという。亀有村の原に住まう狢一家も江戸の方から聞こえてくるこれに憧れた。「ああいう惚れ惚れするような腹鼓が打ちたい」と願った。それでひたすら練習に励んだ。すると「向島の名手のように音に色気がついてきた」との評。名人級に近づいてきた。

「よし、お前達もだいぶうまくなった。もう一息だ。それでな、近々お披露目をしたい。明日明後日が満月となる」
 亀有狢は、息子二人に伝えた。満月の夜はことさら腹鼓の音色が冴える。
「お父、どこでやるの?」と下の子が聞いた。
「お前達も知ってのとおり向島名人は荒川の土手で腹鼓を打っていた、やはり高いところがよい。それでな近頃できたろう、土手のようなお立ち台が……」
「お父、あれは、鉄道線路でねぇかい、我らの巣穴を壊して作ったものだよ」
 長男狢が怒りに満ちた声で言う。
「そうだ、我らの巣穴を壊した奴らに鼓を高らかに叩いて威嚇し、あわせて近所の人たちに我らの技を披露するのだ……」
 たちまちに満月の夜となった、煌々と月影が照っている。土手の上に敷かれた二本のレールも青く光っている。申し分ない夜だ。
「よし、行くぞ」
 亀有狢の親は右足をちょこんと線路に預けて、まず一発、「ぽん、ちょん、たん」と。すると月の光の降る野原に音が見事に響いた。つづけて二匹の子狸も父に続いた。
「ぽん、ちょん、たた、とん、ちょん、たんつん」
 親子そろっての腹鼓の合奏だ。月夜の青い光がいっそうに濃くなる。亀戸狢たちは合奏に聞き惚れ、うっとりして演奏に励む。
 この場面を『かつしかの昔ばなし』はこう描く。

 親狢が先ずポンと打てば、小狢がポンポンポンと調子を合せ、ポポンと拍手をあげて打つ切れのよさにポンポンポンポンと連れの打ち込みがあたりに冴えわたりました。


 そんなときに西の方から「ぴぃぴょ!」という音が聞こえてきた。汽笛だ、どうやら機関車が近づいてきたようだ。しかし、三匹は腹鼓に夢中になっていて、気づかない。
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2017年08月12日

下北沢X物語(3338)―日本偽汽車紀行 常磐線・亀有―

DSCN0002(一)「狸が汽車に化けるなんてあるの?でもそんな狸の話を追っ掛けるなんて楽しくてしょうがないでしょう。そうやっぱりね生きるっていうことはこの世の中に一つ面白いことを見つけてさ追いかけることだね」、狸の寺、向島多聞寺のそばで出会った八十歳になる女性は言った。
 
 何事もつい夢中になって追い掛けてしまう。昨日は二つの狸塚を訪ねて三万歩、下町を歩いた。亀有、そして向島である。狸伝説は痕跡はあまり残っていない、が、ここにはいずれも石碑が存在している。両地点は距離的には近い。しかし、結果として30キロ近くも歩くこととなった。地勢や地形の影響だ、一帯は川が多い。対岸から対岸へ容易には行けない。

 東京を歩き回るとき一日乗車券は重宝する。今回も「都営まるごと切符」を使った。しかし、東端は都営の交通の便は悪い、地下鉄や路線バスを綱渡り的に乗り継いでいく、が、これもまた、旅、楽しいものだ。

 一番の目的地は、常磐線亀有駅の側にある見性寺訪問である。地図で調べると常磐線に隣接してある。偽汽車のリアリティは鉄道が近くに走っていることだ。ただ現地に行くと想像とは異なる。寺と鉄道とはフラットな面で接しているだろうと思っていくと違っていた。常磐線は高架になっていた。
DSCN0014
 見性寺に行くとき駅前の地図で場所を確認した。寺の位置はすぐに分かった。が、ここで面白いことを発見した。寺の名の後に(狢塚)と記されていることだ。一般的に興味は持たれていないが玄人筋がよく来ているらしい。それでわざわざ注記したものだ。この狢塚、ネットではかなりの人が話題にしている。

 一般に偽汽車の痕跡はほとんど残ってはいない。が寺には「狢塚」がある。汽車にひき殺された狸を祀っている塚である。

 偽汽車の民譚を多く集めているのは、『現代民話考掘ゝ教ゼ屐αァ自動車の笑いと怪談』(松谷みよ子 立風書房)である。が、ここに採録されていない。その亀有見性寺「狢塚」へ行くという目的があった。が、もう一つ大事なのは地元図書館に行ってこの話の典拠を探しだすことだった。

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2017年08月10日

下北沢X物語(3337)―第3回「帝音」をめぐる研究大会総括―

DSCN0250(一)昭和二年十二月に世田谷中原に音楽学校が創設された。が、「帝音」は昭和十九年三月に廃校となった。この学校の存在はすっかり忘れられていた。が、今回、久保絵里麻さんがこれをテーマに取り上げ、帝音の歴史を語った。音楽学校の創設や維持には大きなドラマがあったことを知った。しかし学校を支えた教授陣は音楽関係の草分けで数々の功績を残している。また帝音出身の卒業生も音楽界で活躍をしている。また当校に入校してきた台湾、韓国、中国からの入学してきた者は祖国で音楽教育を担い、功績を残している。世田谷代田にあった「帝音」を地元講演で価値づけたことは大きいし、意義深い。

 久保さんの講演が終わった後に、研究協議を行った。「世田谷代田の音楽文化を語る」、具体的には「帝国音楽学校」と地域との関連を語るものであった。これはとても盛り上がった。音楽学校と地域との結びつきがどうであったかについては誰もが深い関心もった。実際廃校になった後も地域に影響を与えていた。それが今日の現代音楽に伝統が繋がって生きているのではないか、そういう議論がなされた。
DSCN0254
帝国音楽学校があった時代に、学校の近くに「平間聲学研究所」があった。学校の教官であった声楽の平間文寿が運営していた私塾のようだ。戦後になってこの跡に「長門美保歌劇団」ができている。夫の鈴木雄詞とこの劇団を結成し、昭和二十一年(1946)十一月に「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。同じ声楽同士だから平間文寿と長門美保との間には関連があったのではないかと思われる。
 今回、この近くに長年住んでいた当会会員の川田正義さんが地図を描いてくれた。それによると戦前は平間聲学研究所のすぐ近くに彼女は住んでいた。ということは彼女と平間とは近所同士だったといえる。
 戦後になって音楽が解禁され歌劇団を作り、練習を開始しようとした。「平間聲学研究所」の建物は残っていたのだろう。それを平間に相談して歌劇団としたという推察が、川田メモによって分かった。帝音の陰翳が戦後にも生きていた例である。
 川田さんの家は駒沢線62号の近くだ。周りには音楽家が多くいた。古関裕而、明本京静、同年では安倍圭子。
「阿部さんは音楽的な感性にすぐれていましたね。家にピアノがありましてね、近隣に音楽をやっている人が普通にいましたからそんなところで影響は受けたでしょう」
 安倍圭子さんマリンバの世界的奏者である。代沢小のミドリバンドの主要メンバーでもあった。遠い帝音陰翳といってもよい。自著
「ミドリ楽団物語」も帝音が地域にばらまいた音楽感性を反映している。
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2017年08月09日

下北沢X物語(3336)―第3回研究大会:世田谷代田「帝音」供

DSCN0254(一)今日、九日は長崎原爆忌である。忘れがたい思い出がある。中2のときに学校で長崎原爆資料館に行った。何の気なしに入って原爆の被害のすさまじさに衝撃を覚えた。当時私は不良だった。勉強などはばかにしていた。が、この衝撃は忘れがたく、遠足から戻っての感想には率直な思いを書いた。気づくと二十枚ほどになっていた。それを当時の担任の先生がガリ版に起こし、印刷し皆に配ってくれた。自分に目覚めた思いがした。長崎原爆が自分を覚醒させたのだと思う。現今の文化探査のきっかけとなった。あれから五十七年経った。昨日は終戦記念日の番組の撮影に、テレビ信州のデレクターとカメラマンが家にきた。

「戦争だと特攻で行った人にどうしても目が行きがちですけど、裏舞台にいて懸命に任務を果たしていた人がいるんですね。松本に来た特攻二隊、武剋隊や武揚隊の十五機には、全部に整備員がついていたのです。満州から最前線の沖縄や台湾にまでついて行っているんです。機は九九式襲撃機で中古です。くたびれた機の整備は大変だったのです。武揚隊などは台湾に行くまで機体不調で飛べなくなったり、不時着したりした機が多くあったのです。整備員は気が気ではなかったでしょう。しかし、中古機でも手がけていれば愛機ですね、彼らの多くは機とともに運命を共にすると覚悟を決めていました。出撃の段になって隊長に申し出るわけですが、『原隊に復帰せよ』と言われたのです。戦後、彼らは犠牲になって死んだ特攻兵士の家を訪れ、最後の様子を報告していますね。『飯沼伍長は所持金を国防献金しましてね、新聞に載ったのですよ』と武揚隊の整備員は遺族に報告しています。戦争の裏方、そういう人のことも私達は覚えておくことが必要ですね……」

 時代はめくられる。が、その時々で何であろうと与えられた仕事にを懸命に懸命に生き生きて存在したものがあった。しかし、時代とともにふっと消えてしまい。そのまま忘れられてしまうものもある。整備員もそうだ。彼らがいて苦闘したことはほとんどは知らない。

 今回の取材、『鉛筆部隊』が、童話作家高田充也さんによって童話化された。長野の地元ではこれが評判になっているようだ。この関連での取材でもある。

☆子どもたち、また戦争を知らない時代に向けて、メッセージをお願いします。

 鉛筆部隊の学童たちは鉛筆を握って戦いました。ひたすらに手紙や日記を書きました。それらが今残っています。それらを読んで、文章力の高さを思います。小学生のレベルを超えていると思いました。ひたむきに書くこと、大事なのは手で書くことですね。
 文章というのは面白いもので書く力がつくと思考力が高まります。物事の善し悪しがわかってきます。批評力ですね。あれはおかしい、これはよい。ものを見る目ができてくると世の中のことも分かってくる。思うに、この批評力こそが平和に結びつくものだと私は信じています。


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2017年08月07日

下北沢X物語(3335)―第3回研究大会白熱:代田「帝音」―

北文保会納涼会2017 800(一)日本の音楽文化史に大きな足跡を残していた代田「帝音」は歴史から消滅していた。この学校の事績を丹念に調べ、創立から廃校までのプロセスを明らかにした。それが久保絵里麻さんである。世田谷代田に存在した「帝音」を歴史上に蘇らせたことは大きく評価できる。地域の文化を語るとき「帝音」の存在は極めて重要なものだと認識した。芸術文化の先鞭の役割を担っていたことは、文士町の発展と形成を考える上でも極めて重要だ。参加者からは「極めて質の高い一級の研究会」という批評を得た。研究協議では議論が白熱した。

 八月五日、下北沢タウンホール、スカイサロンで北沢川文化遺産保存の会の第三回研究大会を開いた。「世田谷代田の帝音の歴史を知る」をテーマとした。メインは芸術学博士久保絵里麻さんによる講演「帝音の歴史」であった。彼女は誕生から廃校までの歴史を三期に分けて丹念に話した。二時間半にも及ぶ熱弁だった。

 この研究会は第三回目となる。開会に当たって、当会の説明をした。発足は2004年で十二年間に亘って北沢、代沢、代田の歴史文化を掘り起こしてきた。研究会はその成果を発表する場として設けた。第一回が「北沢川流域の文化を語る」、第二回が「シモキタらしさのDNAを語る」であった。地元に密着した研究テーマで行ってきた。これら延長上に第三回目を設定した。芸術文化の先駆けをなす帝音の講演だ。
DSCN0268
 講演者の久保さんは帝音ゆかりの人だ。開演に当たって紹介をした。

 久保 絵里麻(芸術学博士)
 4歳より、「帝音」出身者の會則道(かいのりみち)(NHK交響楽団ヴィオラ奏者。才能教育研究会スズキ・メソード指導者)にヴァイオリンを師事。明治学院大学大学院博士後期課程修了(芸術学)。専門は日本近代音楽史。研究テーマ:帝国音楽学校の研究、この研究の第一人者だ


彼女はバァイオリン奏者だった。彼女が師事したという會さんの娘さん二人も出席されていた。
「もう小さい頃から、帝音、帝音ということばは聞かされていました。帝音というのはすっかりなじんでいた語でした。しかし、地元の皆さんはほとんどご存じないことを今日知ってショックを受けました」
 世田谷代田における帝音の歴史評価が如実に表れている意見だと思った。
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2017年08月06日

下北沢X物語(3334)―核は人類殺戮器悪魔の兵器を許すまじ―

CCI20170711 (2)(一)「あのときは、ピシュッと青白い光が走ってドグゥワンという音がしたのです。私はブレカーが落ちたのかと思いました。しかし電車の中は真っ暗で何も見えません……。

 八月六日、朝、広島電鉄家政女学校の藤井照子は電車を運転して広島駅前に着いたときだった。
「手探りで前を進もうとしたところ、瞬間からだがふわっと浮いたと思ったら、ストンと落ちたのですよ。気づくと電車のモーターカバーが爆風で飛ばされていたんですよ。左足は蓋に引っ掛かり、右足はモーターかかり、そして床にどさっと落ちたのです。『おかあさん』と叫びました。それでもようやっと穴から這い上がって、後ろの車掌さんのところにいき、ドアのカギを上に持ち上げて、外にでました」

「もう辺りの風景は一変していましたね。何もかもが爆風で吹き飛ばされていてあっちでもこっちでも火の手があがっていました。そしたら男の人の声が飛んできて『伏せー』というじゃあありませんか。私は女の車掌さんと手をつないで、そこに伏せました。地面が熱いのですよ。そのときに初めて爆弾だということに気づいたのですよ。」

「しばらくして起き上がってみたんですけど家とか電車とか、なにもかもがなぎ倒されたりしていて、今まで聞いていた爆弾とは違うように思ったのです。」

「ところがそのとき、鉢巻きがないのに気づき車内に引っ返したところそれがみつかったのですよ」
 鉢巻きは皇国少女の命、これを締めて彼女らは懸命に電車を運転していた。自分を支えるものであった。
 彼女にとって広島駅前での被爆経験は忘れがたいことだった。火を噴いている家から子どもの姿が見える、が、どうにも助けようがなかった。何とも手の下しようがなかったことをずっと負い目として生き続けてきた。

 原爆投下で、広島電鉄家政女学校の生徒は三十名ほどが犠牲になった。藤井さんも右手にやけどを負った。が、命はとりとめた。結婚して子どももうけた。
 彼女の若いときの写真を見ると本当に美人だった。が、被爆したことが一生ついてまわってがんとのたかかいだった。美しかった顔は、被爆による影響から皺が増えていった。
彼女は、二十四年、八月十八日、八十六歳の生涯を終えた。被爆語り部だった。

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2017年08月04日

下北沢X物語(3333)―代田・北沢文士町の発展と形成供

CCI20170804(一)文芸、詩歌、音楽を牽引したのは鉄道だった。北沢の丘に高名な文学者が引っ越してきたのも、代田の丘に音楽学校が創設されたのも小田原急行鉄道が開通したからだ。前者は昭和三年十一月、後者は昭和二年十二月だ。鉄道の開通は昭和二年四月だ。この開業時の鳥瞰図を描いたのが吉田初三郎である。富士を基軸にしてその山麓を路線が小田原、相模の海まで一気に引かれている。デフォルメした富士、そしてこれを取り巻く山々や海が見事に描かれている。旅心を誘う図である。図の上には、「開通 最高速度」、「小田原急行鉄道」と惹句が記されている。高速度で走る、急行鉄道が一気に旅客を富士の裾野を駆けていく様が想像される。人間、動物は根本、漂泊への願望を持つ、この感情を強く刺激する絵図である。遙かなあなたまでもが記される。

 開通時に出された小田原急行鉄道の鳥瞰図は鉄道会社の世界観を表している。それが帝国音楽学校と結びつく。壮大なロマンである。

「吉田初三郎の鳥瞰図は遙か彼方まで鉄道が繋がっていることを描いています。小田原からは東海道に接続し、さらにこれが京都大阪に繋がって山陽道の終点下関までが書かれています。それでも終わらない、海の向こうには釜山が、そして上海や台湾までもが描かれています。一方北に目を転じると……」
 鉄道路線が描かれるが、初三郎らしい技がここで見られる。巨大富士の右を回り込んでいく中央線が書き込まれる。行き着く先は、「塩尻」だ、心憎い設定だ。ここで中央線は篠ノ井線に別れて、さらに信越線に行き、直江津へ、はたまた羽越線経由で青森へ。その先には北海道がある。が、ここで終わらない「樺太」までもが書かれている。
「東の果ての果てには樺太があるんですよ。そして西には、朝鮮、満州、そして台湾、これこそが大日本帝国、世田谷代田に創設された帝国音楽学校は、ここから名前をとっていますね。外地から留学してきていた久保さんから聞きました」
 帝国という名は、実質だった。台湾や朝鮮から留学してきた者もいるという。そんな学生が最寄り商店街に出入りしていた。

 会報133号では、今度の研究会で講演していただく久保絵里麻博士に寄稿していただいた。帝音生の話しとして「世田谷中原通りは常に帝都[音]生徒達のおかげで、今迄淋しい郊外の何等取り立てゝ云ふべき處ではなかったのが近頃急に活気を呈して、賑やかな街になって来ました。」[補足:筆者]という。

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2017年08月03日

下北沢X物語(3332)―代田・北沢文士町の発展と形成―

代田北沢文士町の発展と形成
(一)文芸と文学では影響力が違う。前者は個人的な営為だ。後者も同じだが大きな違いは、音が出ることだ、歌声や楽器の音である、五感、感受性に直ちに響いてくるものだ。

 今年度平成29年度も会として世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」に申請を出し、計画が認められた。要望した予算通りに補助金が認められた。これによる事業の一つは「紀要の発行」である。

 私達は2012年以来、研究紀要を発行してきた。

 創刊号は、『代田の丘の鉄塔文学論』だ、第二号は『北沢の丘石畳文学論』(2013年)、第三号は、『代田小路寓居文学論』だ、第四号は、『戦後70周年記念戦争記録集』(2014年)、第五号は、『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』(2015)である。

文士町の芸術文化について書いてきているが、あまり紀要の評判は聞かない。今年の春、三好達治の版権継承者の三好和子さんが当地に見えて「紀要には誰も書いていない当地における三好達治の行状がとても詳しく書かれていて評判です」と言われた。批評されることがないだけに嬉しかった。
CCI20170803
 つい最近、第五号『ダイダラボッチ』を読んだ詩人の伊藤真理子さんから手紙をいただいた。「すごい大論ですね、ヒタチの国風土記から柳田国男の論まで、すごい内容です。『紀要』というにはもったいないです」と。褒められることがないので嬉しい。

 この頃思うのは時間だ、生きることはついてはここに尽きる。自分が時間をどう過ごしてきたかではないかと思う。ふりかえるとしゃにむに生きてきた、行動で誇れることは、自転車で地球数周分ひたむきに走ったことだ。今は、ひたむきに歩いている。歩いて考える、これは自身の活力の源泉だ。

 これまでの時間を振り返って驚くことがある。毎月の会報は、133号、街歩きは130回、作り続けた地図は第七版、番外冊子は、『北沢川文学の小路物語』(2006年)、『下北沢X惜別物語』(2007年)、『安吾文学碑建立記念記録集』〜あんこ先生が帰ってきた〜』(2007年)の三冊。
 今計画を立てている紀要は第六号だ。
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2017年08月01日

下北沢X物語(3331)―世田谷代田「帝音」を巡るプレ研究会供

P1010723(一)帝国音楽学校と地域文化は興味深い問題だ。1944年に廃校となった。しかし、当地の音楽文化に陰翳を残している。「代沢小の『ミドリ楽団』は戦後、アニーパイル劇場で華々しいデビューをするわけですが間違いなく言えることは当地にあった音楽的感性なしには成り立たないと思います。子ども達が感性を環境の中で磨いていたのです。いつだったか代沢小の校長室でアルバムを見せてもらった。そのときに間からはらりと落ちてきたものがある。手作りの「花の詩集」だった、和田誠さんの詩もあった。小学生にしてはませているのですよ。詩というのは言葉の感性、音の感性と結びついている。音がよくなきゃ詩にはならない。和田さんは代田、つまり帝音のあるところは代沢小の学区域だったのですよ。音楽を志望する学生が出入りしたり、住んだりした。校舎からは音楽が聞こえてくる。音楽のあることが普通だったのです。感性を醸成されますね」

「世田谷中原教会と帝音というのはどこかで結びつくように思っているんですけどね」
 久保絵里麻さんが言う。
当地一帯に教会は多い。が、戦前からというのは少ない。「世田谷中原教会」が最も古い。昭和七年(1932)に原宿から移ってきている。
「先生方の中にもキリスト教の信者もいましたからね」
 音楽を学ぶということは家が裕福であったと思われる。帝音の遠足写真を久保さんから見せてもらったが服装などもしっかりしている。洋装の女性もいた。
 世田谷代田で当時目立つ風景とては、鉄塔、帝国音楽学校、中原教会の塔屋だった。私は以前にこんな記事を書いた。

教会のある風景はどのようにしてできたのか。昭和十四年、世田谷中原に三階建ての塔屋も備えた教会堂が建った。太陽が降り注ぐ緑の丘に十字架が天を突き刺す。西欧的なお洒落な風景の現出である。これを描きに画学生もくるほどだった。この教会は新会堂建設と同時に「同胞幼稚園」を開園した。十字架が聳える塔に通う園児というのもまた近隣住人にとってはハイカラだった。教会堂の建物風景が人を惹き付ける。信者も園児も増えた。

 塔屋はあこがれでもあった。画学生が来たり、音楽学校の学生が来たり、そして後者は演奏とか歌うことで関わりがあったのかもしれない。
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2017年07月31日

下北沢X物語(3330)―世田谷代田「帝音」を巡るプレ研究会―

IMG_0647(一) 「うちのお袋が帝国音楽学校にお化けが出ると言っていました。普段そんなことは言っていませんでしたから何かあったんだと思うな……」と帝音の側に住む米沢さんがいう。「帝音は空襲で焼けたんだけどまだその跡が残っていたんだね。内田百里離┘奪札い覇匹鵑正憶があるんだけど、焼けた小学校から夜になると音楽が聞こえるみたいなことを書いていたな。もしかしたら帝音の焼け跡から歌声とか楽器の音とか聞こえていたのかな?」と私。この話興味深い、帝音の地域における存在の意味を象徴していないか?

 29日土曜日、世田谷「邪宗門」に集まって8月5日に行われる研究会の打ち合わせをした。講師の久保絵里麻さんを交えての会だったが、やはり地元ネタだ。妙に盛り上がってプレ研究協議会のようになってしまった。

 昭和2年(1927)12月、帝国音楽学校は世田谷中原駅の側に創設された。
「大根畑に建ったというのは本当ですか」と米澤さん。
「本当です、創設時の書類に書いてあるんですよ」と久保さん
「もう鉄塔もあったはずです」
 鉄塔に二階建ての音楽学校、原風景としては大事だ。際だっていたはずだ。
 亡くなられた代田の古老今津博さんが『昔の代田』に書き残している。昭和六年に彼は当地に引っ越してきた。

 連れて行かれた世田谷代田中原駅(現世田谷代田)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前 そして道の両側にはぼちぼち商店があるものの、畠…竹藪…こんもりした林……。それより巨大な鉄塔が建ち、線路をまたいでいる高圧線。こんなものは山の中にあると思っていたのに。
 僕はこんな田舎に住むの。


 今津少年は世田谷中原駅で電車を降りたとたん、広がっている景色に驚嘆した。漫画の吹き出し風台詞では、「がびびびびびびびび〜ん」という気分だったろう。超田舎だった。
 すでに帝国音楽学校もあるはずだが、どう目に映ったのだろうか。しかし、真っ先に目に入ったのはおとろしく「巨大な鉄塔」だった。この風景は大事だ。とてつもなく高く大きい鉄塔だった。

「やっぱりね、鉄塔風景は大事なんですよ。この鉄塔はうちの方の目黒まで続いているんですよ。代田とは高さがまるで違うのですよ。いびつに見えるのですよ」
 当地では鉄塔のある風景というのは際だっていた。
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2017年07月29日

下北沢X物語(3329)〜会報第133号:北沢川文化遺産保存の会〜

北沢川文化遺産保存の会   第3回研究大会 余白小
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第133号  
           2017年8月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、また再び戦争の夏、戦後72年が巡ってくる

 太平洋戦争とは何だったのか?マスコミ取材で突きつけられた課題だ。国威を掛けた戦いに何がどうあろうと国民はしゃにむに走らされた、空元気を出して、最後には徒手空拳で戦った。敗戦が明白なのに戦争は終わらず、しまいには原子爆弾を投下されてやっと降参した。軍部は、敗走を転身、瓦解を玉砕、特攻戦死を散華と言葉で飾り立てた。精神力で戦えば活路は開けると叱咤された。最後は、竹槍で戦え、それでもだめなら敵の金玉を蹴り上げて倒せ号令を掛けた。その間、多くの犠牲者が出た、多くが無念の死を強いられた。犬死にさせられた無謀な戦いだった。

 原爆投下が戦争を終結させたとアメリカ人はこれを評価している。戦争末期では全国の諸都市はB29による爆撃で焦土と化していた。敗戦は明瞭だった。が、軍部は最後まで徹底抗戦を唱えた、そして負け方にもこだわった、「国体護持」である。軍部は国民のことは考えず、メンツにこだわった。五月二十四日、二十五日、B29の爆撃によって東京は廃墟となった。攻撃リストから外された。完璧に負けたのだ。が、戦争は終わらない。とうとう八月六日に広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下された。甚大な被害を受けてようやく敗戦が決定する。覚えておかなくてはいけないことは、「戦争が始まったらなかなか終わらないことだ」、人は戦を終えられない生き物なのだ。多くの経験者から戦争を聞いてきた、誰もが口をそろえて言った「戦争はするな!」だ。

 戦争をしないようにするために何でもする覚悟が必要だ。しかし、今の社会、何でもするよりも対峙する方に傾いている。「敵がミサイルを撃ってくるから気をつけよ」と。敵のミサイル実験の映像ばかりが流れてくる。「国民への脅し」だ。解決法を考えたであろうか?「日本も危ないから軍備を増強しよう」、果ては「核兵器を持とう」とまで言い始める。核の核心は、人類の死滅だ、こちらがボタンを押せば、向こうも押す、敵味方なく人は死滅する。

 毎年、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いている。来年は十一回目となる。すでに算段をしていて協力してくださる方に打診をしている。概ね了解されていることからまず、タイトルを「歌と証言とで伝えるヒロシマ」とした。
 まず、国内外で被爆証言活動をされている村上啓子さん。(1937年生まれ)が健康が許せば講演してもよいとの朗報を得た。また合唱団体「すみれ会」代表の鈴木勢以子さんからは歌の合唱で協力をするとの嬉しい返事を得ている。やはり大事なことは戦争を語り継いでいくことだ。

 今年春、「僕のお嫁さんになってね−特攻隊と鉛筆部隊の子どもたち」という絵本が出版された。鉛筆部隊は当会の活動によって発掘された戦時秘話である。この話が現地長野で評判になっている。地元テレビ局が「子どもに戦争を伝える」という視点でこれを軸にニュース特集を計画しているということの連絡があった。

 また当会の活動とは直接関係しないが、会報編者は戦争伝承の物語を書いている。「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」は自著だが、姫路の劇団・プロデュースFでは、今夏の夏の朗読劇公演で当作品を劇の台本として使い、ヒロシマを伝えたいとのこと。
 我々の活動が、全国に輪となって広がり初めている。
 「何があっても戦争はするな!」、というのが戦争経験者の重ね重ねの戒めだ。

2、「帝音」と中原商店街
久保 絵里麻(えりあ)


 戦前、中原駅前にあった音楽学校、通称「帝音」の歴史は短いが波瀾に満ちている。創立早々、校長・教員・学生らが総退学して帝音を去るという悲劇的な幕開けのあと、空っぽの帝音校舎に他校から自主退学してきた血気盛んな音楽学生たちが帝音を再起へと導いた。その後の帝音は自由な校風と画期的な制度を敷いた異色の音楽学校として世間の注目を集めた。
 その頃の雑誌に載った“帝音生”による一節。
「……[帝音が]今やあらゆる方面から注目される所となり何んだかきまりが悪い様な氣がしてなりません。然かし、毎日學校へ行つて全校生徒の新興の意氣盛んなる空氣に浸ってゐると〔…略…〕一日も学校へ行かないではゐられない様な氣持になつてしまいました。この様な気持は全生徒の誰れでもが持つてゐる気持ちなのですから此の学校の賑やかな事、面白い事〔…略…〕從つて世田谷中原通りは常に帝都[音]生徒達のおかげで、今迄淋しい郊外の何等取り立てゝ云ふべき處ではなかったのが近頃急に活気を呈して、賑やかな街になって来ました。」[補足:筆者]

寄稿したのは帝音でチェロを専攻していた中澤良雄という学生。学校誌に創作小説を披露した筆が立つ人物だが、帝音が中原商店街の賑わいに一役買っていたことは彼の創作(フィクション)ではなかろう。
 例えば、帝音の教育・教授法の先生で、校長にも就任した田村虎蔵先生は言わずと知れた唱歌《金太郎》の作曲家であり視学官。彼は、「奥様もだいぶお困りのようでした」といわれるほどの撞球(ビリヤード)好きだった。それを知ってか知らずか、中原商店街には“ビリヤードカフェー”があった。田村先生だって此処で腕を磨いていたに違いない。
それから“帝音生”の愉しみといえばアミダくじ。敗者は全員にアイスをおごる、なんていう遊びをしていた。定番はスマックアイスクリーム。作曲家の大木正夫先生も「すまぬね」と学生にまぎれて“スマック”をほおばっていたとか。

さて、アイスが溶けない距離にあった帝音御用達のお店はどこか?情報求む。
(芸術学博士久保絵里麻さんは、八月五日の「帝音の歴史」を講義してくださる方だ。今回特別に地元ネタの帝音話を書いて頂いた。当日は、代田の帝音について情報をお持ちの方はぜひ参加されて情報を公開してください。お願いします)
 
3,第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会
研究会テーマ 

世田谷代田の音楽学校の歴史を知る

 開催日時 2017年8月5日(土)1時30分より
 場所   北沢タウンホール12階 スカイサロン 
会費 500円 申し込み不要 先着順70名
 主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会
協力 三土代会・代田自治会・代田北町会・世田谷ワイズメンズクラブ


昭和2年(1927)4月、小田急線が開通した。この年の暮れ、世田谷中原駅 (現世田谷代田駅) 北の大根畑だったところに二階建ての音楽学校が出現した。帝国音楽学校だ。開校したとたんピアノやバイオリンの楽器、そしてテノールやソプラノの歌声が響いてきた。大根畑に忽然と現れた近代に人々は文化的ショックを受けたに違いない。これが当地における芸術文化の始まりといえよう。
学校の名にある帝国とは、満州、樺太、朝鮮、台湾などを含めた旧領地を指し、実際にこれらの地域出身学生も数多くいた。戦争末期に廃校となるが、学校が一帯に与えた音楽文化には、大きなものがあると思われ戦争の前後を通じ、当地に音楽関係者が住んだり、歌劇団が創設されたりしたのもこの影響だろう。
講師の久保絵里麻氏は、当地の世田谷代田でもほとんど知られていないこの学校の史料を発掘し、これをテーマの一環とした研究で芸術学博士号を取得した、この学校の研究の第一人者だ。学校は世田谷代田の誇りといえる。ぜひおいでください。

第一部 講演「帝音」の歴史     13時30分〜15時30分
講師:久保 絵里麻 (芸術学博士)  
第二部 世田谷代田の音楽文化を語る  15時30分〜16時30分
   参加者による自由討議 司会:きむらけん
第三部 懇親会・納涼会(申込み必要)  17時30分〜21時20分
会費3.500円「帝国音楽学校弁当」飲物 付き
イベント プロマジシャン出演予定 作道 明氏 等
*恒例不用品オークション・一品おみやげ持参(強制ではない)
お弁当の手配があるので必ず申し込んでください。締め切り8月2日まで
申し込み先 米澤邦頼 090−3501−7278


4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第131回 9月16日(土) 午後1時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
 案内人 きむらけん (新企画)世田谷のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→下北沢駅 *9月1日の「せたがや広報」に募集掲載をします。が、会の方優先にしたいので早めに申し込んでください。


第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
案内人 松山信洋さん
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲*訂正とお詫び*『下北沢文士町文化地図』第7版の「帝音」年表に誤りがありました。右記のとおり訂正し、謹んでお詫び申し上げます。誤:1939.6→正:1939.2
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年07月28日

下北沢X物語(3328)―日本偽汽車紀行:塩尻玄蕃之丞狐―

DSCN0210(一)狐狸が汽車に化けた話は誰に話しても面白がられる、しかし、この話、一回こっきりの話である。返す返すも残念に思うのは汽車化けの術が伝わらなかったことである。なぜなら汽車に化けた狸たちは、真正面から本物の汽車とぶつかってことごとく討ち死にしているからだ。二三匹ぐらいはぶつからずに適当に化けて、その術を温存してほしかった。この伝承、一つには人間の自然破壊への戒めという側面もあるからだ。明治大正期に鉄道が次々に敷設されていって、その工事のために狐狸は住処を失った。それで人間に仕返しをしようと汽車化け術を考案し抗議に及んだのである。

 今日近代においては新たな鉄道が次々に敷設されている。九州新幹線、北陸新幹線、北海道新幹線だ、さらに超巨大工事としてリニア新幹線の敷設が開始されている。これらの工事は大規模化している。一山を削ったり、高山のどてっぱらをぶち抜いたりしている。狐狸たちのみならず野生動物たちは人間の仕業によってますます居場所を失っている。彼らは反撃に出てもいいはずだ。

 しかし、狐狸が新幹線に化けて現れたという話はとんと聞かない。あってもよさそうである。北陸新幹線「新親不知トンネル」は、7336メートルもあるという。『奥の細道』での旅の途次、苦労した地点だ、「今日は親知らず子知らず・犬もどり・駒がへしなどいふ北国一の難所をこえて疲れ侍れば……」(『奥の細道』)かつての名だたる難所だった。狐狸たちの活躍場所でもあったはずだ。

「新親不知トンネルからE7系新幹線がシュポッと抜け出たとたん真っ正面からですよ。同型のE7が現れて大騒ぎになったんですよ」
 新たなる民譚の萌芽が期待される。が、こういう新話はほとんど聞かない。ここも謎だ。

 狐狸的妄想譚である、「新幹線の高速性における偽汽車出現の可能性」という論文がある。本稿においては、偽汽車出現の困難性を次の三点に亘って説いている。

/郡汗が高速化して狐狸達の化け時間が確保できなくなった点。
 現物を視認して形を脳裏に刻んだ後、一念姿形を思い描き、エイッと術を掛ける。そういう間が取れなくなった。
△匹ε召鵑任盡せ場が確保できない点
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 偽汽車話の肝は衝突するまでのドラマだ。現業の運転士が偽汽車を視認して突っ込んでいく。そのときのプロセスがもっとも大事だ。電車運転士はのけぞるようにしてブレーキを掛ける。目の玉が飛び出るほどの恐怖、漫画では吹き出しに「ギャホホホホホホ……」と描かれる。ところがこの間がない。
8什人間の共同幻想へのモチベーションが低いこと。
 もっとも肝心な点だ、「偽汽車」は信じようとする人間の心が必要だが、
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2017年07月26日

下北沢X物語(3327)―戦時中の忘れ得ぬ思い出:戦闘機飛燕―

DSCN0234(一)「あのときのことは忘れられないね」浅間温泉で出会った岩越平八さんは言った。御年八十三歳である。当時は本郷国民学校の五年生、みんなを引き連れて陸軍飛行場へ行ったという、そして夢にまで見た戦闘機を見て、驚喜した。少年時代の大冒険である。

「陸軍松本飛行場とは言わなかった、あのときは笹部の飛行場とか言っていた。できたばかりの飛行場には飛行機が一杯いると噂では聞いていたんだ」
「神林にあって、神林飛行場とも言っていたんですよね」と私。
「そうそう、ここからは遠かった。直線で三里ぐらいかな」
「どうやって行ったんですか?」
「あのときはこの浅間温泉には兵隊が一杯あちこちにいたんだ。この上の方には松本五十連隊の将校が下宿していて馬で通っていたね。それで米のとぎ汁を用意していて通りかかるとこれを馬に飲ませてあげたんだよ。こっちは魂胆があってやっているんだ。だけどね、『馬に乗せて』と頼んでも一回も乗せてもらわなかったね」
「そうだったんですか」

「うんそれでね、この下の方の椿の湯に兵隊がいたことはこの目で見て知っていたんだ。あちこちに兵隊いたけど、そういうことを話してはいけなかったんだ。だけど椿の湯にいたのはこの目で見て知っているからね、飛行服を着て白いマフラーをした航空兵がここを出ていった。そしてトラックで飛行場に向かっていたのをこっちは知っていたんだ。」
「うんそうそう、椿の湯とここの小柳の湯は世田谷の山崎国民学校の疎開学童がいました。私はその学童から聞いて知っています。特攻隊は確かにいました、その連中が飛び発ったとき旅館上空までお別れに来ているんです」
 この彼らは何隊か分からない。彼らから疎開学童に送ってきた葉書には宮崎県佐土原町の紫明館とあった。消印は昭和二十年四月三日となっていた。
 私はこの料亭を調べに現地まで行ったことがある。痕跡は何もなかったが確かに紫明館はあった。
「あれは三月のことだね、椿の湯にトラックが来たんだ。来てまた戻るようだったんで、『兵隊さん飛行場まで乗せていってくださいよ』と頼みこんだんですよ。そのとき下級生が五名ほどいたんですよ。その連中も声をそろえて『兵隊さんどうかお願いします』と頼みこんだんだ。みんなで拝み倒して、ようやっと許可をもらったんだ。荷台に乗ると風が冷たかったんだ。山をくだっていくと向こうに北アルプスが見えて山はまだ真っ白だったね。でもみんなウキウキしていたんだ、何しろ飛行機を間近にみるのは初めてだから……」

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2017年07月25日

下北沢X物語(3326)―狐狸幻想:偽汽車と鉛筆部隊―

DSCN0240(一)旅の目的は、鉛筆部隊ゆかりの人と出会うことだった。しかし、本筋が横道に逸れて知らず知らずに狐狸に取り憑かれてしまった。気づくと三台の車に分乗した鉛筆部隊の関係者は安曇野の狐狸のふるさとを追っていた。そして玄蕃稲荷神社に行き着き狐に出会った。三台は別れて帰路についた。ところが皆と別れて帰る途中、狸が憑いたらしく山道で迷った。見知らぬ道を走るうちに出会ってしまった、それは道の真ん中に大の字になって転がっていた。狸である、どうやら車にひき殺されたようだ。「偽汽車ならぬ、偽車に化けて現れて死んでしまったのか?」、そんな噂をしたことだ。今回の旅、狐狸に始まって狐狸に終わった。

 例年の夏恒例行事となった浅間温泉への旅である。
 2012年に『鉛筆部隊と特攻隊』が発刊された。毎年関係者が集まって浅間温泉、目の湯で同窓会を開いている。続けようといって継続してきたわけではないのに数えてみると六回目となる。この二十二日に開催した。毎回顔ぶれが違う、今回は二人のご夫婦が加わられた。まず一組目は、武揚隊山本薫中尉の甥御さん山本富繁さんと山本喜美代さん夫妻だ。二組目は『私のお嫁さんになってね』、特攻隊と疎開学童とのふれあいを絵本にした童話作家高田充さんとその奥さんである。

 常々私達は、人知れぬ歴史・文化を追っている。今回の会も密かな出会いとなった。
 2012年、浅間温泉に滞在していた「と号」第三十一飛行隊・武揚隊の隊員が別れの言葉を記したサイン帳が見つかった。彼らの隊が当地にいたことを裏付ける資料だ。
 昨年、2016年、今度はこの隊の隊長だった山本薫中尉のご遺族から連絡があり、武揚隊の最後の旅路を記した手記があることを知らされた。思ってもない情報だ。

 資料を得て思ったのは、割り符である。すなわち二枚にわかれていた割り符だ、サイン帳と手記、これが合わさったことで今まで埋もれていた隊の歴史が明瞭となった。

 昭和二十年二月十日、満州国新京で大本営直轄の特攻四隊が編成された。武揚隊、武剋隊、蒼龍隊、扶揺隊である。すべて誠隊だ、第八航空師団所属の特攻隊だ。三月末敵機動部隊が沖縄に接近してきた。九州新田原へ誠隊は集結してくる。各隊は所属の台湾に行かずに九州から直接沖縄に突撃を敢行した。が、四隊のうち武揚隊だけが台湾へ行くことを命令された。中古機を駆っての遠距離飛行は惨憺たるものだった。これらの経過は、今回四国徳島の山本家資料を得て初めて分かったことだ。
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2017年07月23日

下北沢X物語(3325)―あわれな狸の提灯列車―

P1000768 明治期に鉄道排斥運動が起こった。理由の一つに「汽車の煙が桑の葉に積もってカイコが全滅する」からというのがあった。往時の重要な産業が絹織物だった。そのことを象徴するものだ。桑などはすっかり忘れられた存在だ。が、この間、散歩中に桑の実がなっているのをみつけた。紫色をした実を一粒つまんで口に入れた。口中に果汁が広がったとたん、何とも懐かしい思いに襲われた。味が記憶を喚起した。

 その日は星月夜、空には真砂をまぶしたような星が青く赤く輝いていた。田圃では蛙がグゥグルと鳴いている。と、遙か向こうに赤い光が灯った。一つ現れ、二つ現れる。ゆっくりと走って行く。ほおずき色の明かりが五つも六つも連なって動いていく。ちょうどその辺りには西に向かう本線が走っていた。
「ボッボッ、シャッシャッー、ボッボッ、シャッシャッー」
 耳を澄ますとそんな音が聞こえた。夜汽車がゆっくりと走っているようだった。それにしては遅い、その音もくぐもったようで切れが悪い。奇妙な汽車だ。
「あれはな、狸だよ」
 脇にいた爺さんが笑いながらいう。
「狸?」
「そう狸の提灯行列だよ、ほらなゆらりゆられて行くだろう、音だってのんびりだ。しかしな、きれいなものだ鬼灯の提灯がゆっくり進んでいく、狸たちはさぞかし嬉しいだろうなあ」
「そうなんだ、ということは小さい明かりは子狸?」
「そうそう親が汽車のまねをするから子狸は大喜びでついていくんだ。いっちょまえに、シュッシュッとやらかしてなあ」
「音も真似るの?」
「うん、あいつらは音を真似るのがうまいんだよ、真似てよろこぶんだ」
 爺さんがそう言ったときだ。
「ぽぉぉぉうーーーーーーーー」
 西の向こうで遠汽笛が鳴った。
「ありゃ、本物の汽車がやってきた」
「ほんもの?」
「うん、あの狸の提灯行列は偽物だ、やつらうれしがって汽車に化けて提灯行列をするのが好きなんだ」
「あれ、汽車だ!」
 狸の提灯行列の向こう、西に煙をもうもうとあげた機関車が現れた。機関室には人影が見える。一人が盛んに動いている。石炭を釜にほおりこんでいるのだろう。
「あれ、明かりがまるで違う。黄色く灯った窓辺が、狸のよりもうんと明るいよ」
 機関車に続いて客車が現れた、カタンタントン、コトトットと駆けていく。
「ありゃあ、あれは急行列車だ」とじいさんは言う。
「スピードが速いよ。このままだと轢かれちゃうよ」
 急行列車はみるみる速度を上げる。そして、ぼうぼうと汽笛を鳴らす。狸に気づいたようだ。
「ありゃま、狸たちは浮かれていて気づかないんだな」
「あ、どんどん近づくよ、あ、後ろの親狸と子狸がすっ飛んだよ」
「むごいことをするもんだ」
 急行列車は、狸たちを蹴散らしていく。ちょうちんが横に上に飛んだ。
 やがて汽車は駆け抜けていった。辺りはシーンと静まりかえった。ちょうちんのカケラも見えない。空には星が瞬いていた。

 この民話は伝えられている。

 何匹もの狸がチョウチンを提げて線路の上を一列に進んでいく。ところがすぐ後ろから。本物の急行列車が追いついてきてアッという間にこの狸列車をひきつぶしてしまったということだ。
 『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(現代民話考 珪消みよ子)


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2017年07月22日

下北沢X物語(3324)―試案「日本偽汽車物語紀行」―

DSCN0206(一)なぜ狐狸は汽車が大好きなのだろうか、彼らは全国各地で汽車に化けて現れている。ところがこれが悉く敗退している。討ち死にである。これによって汽車化けの術が近代今日に伝わらなくなった、惜しいことだ。が、この偽汽車現象は興味深い、古代と近代との境目に起きた事象である。狐狸が次々に汽車に化けて現れた、しかし、それは狐狸の目に映ったものではなく人間が目にしたことである。「おお不思議だ」、「おお恐ろしい」、「おお面白い」と当時の人々は思った。この心のありようにこそ問題点が含まれている。人々の共同幻想である、背景に潜んでいる謎を解くこと、これによって我々が依拠している文化が紐解かれるのではないか?

 六郷高畑で狸が頻繁に汽車に化けて現れた事例について報告した。現地を歩いたとき高畑地区では東海道線や京浜東北線は高架になっている、それで往時は築堤ではなかったかと述べた。これについて地形上の指摘が、きむらたかし氏からあった。すなわち、明治十三年の一帯の古地図では、鉄道線路は切り通しになっているとのことだった。

 狐狸がなぜ汽車に化けて現れるか、その理由として言われていることがある。鉄道敷設によって巣穴が壊された、彼らはその仕返しをしようと化けて現れた。六郷高畑の例でいえば、鉄道敷設には切り通しを作るという大きな土木工事があった。小高くなった畑地を掘り下げる必要があった。まさにそこが狸たちのねぐらだった、そこを壊されて立ち上がった。

 『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(現代民話考 珪消みよ子)では、愛知県の例を引いている。

 明治三十年であった。豊川鉄道が初めて長篠へ通じたときである。川路の正楽寺森の狸が、線路工事のために穴を荒らされた仕返しに、ある晩機関車に化けて走ってきて、こちらからゆく汽車を驚かせた。

 明治五年の新橋横浜間の鉄道開通によって鉄道建設ブームが沸き起こった。それで各地で線路が敷設された。車と違って汽車は勾配に弱い。これを緩やかにするために隧道をうがち、切り通しを作った。近代の機械を通すために自然破壊が行われた。

 鉄道の敷設は金がかかる。街道筋に鉄道を通せば安上がりである。それで当初は街道沿いに線路を敷設するはずだった。ところが、そういうわけにはいかなかった。

 その当時鉄道にたいする一般人の理解も同じように排斥的なものであった。鉄道なんかが敷設されると、宿屋に泊まる者がなくなって町がさびれる、汽車の煙が桑の葉につもってカイコが全滅するとか、汽車の轟音でニワトリが卵を生まなくなるとか、根も葉もないデマがそれからそれへと言いふらされて鉄道敷設が妨害された。『明治の汽車』 永田 博編 交通日本社
 
 人々の反対によって街道筋に鉄道を敷設することは困難であった。それで田畑や原野を切り開く必要があった、そこはまさに狐狸たちが死守してきた住処だった、ここを破壊する鉄道近代に狐狸たちは立ち上がった、懲りることなく汽車に化けて現れた……

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2017年07月20日

下北沢X物語(3323)―「太子堂の空襲」梅津迪子 供

CCI20170720 (2)(一)言葉の基本は伝えだ、しかし、今この言葉が崩壊しはじめている。狐狸的で珍妙な問答が公の場で繰り返されている。スーツを着た広報担当者は、お尻にしっぽが出ているのに、それを指摘すると気のせいですと応える。国民の目にもしっぽが見えているのにかまわずに見間違いですと。社会を支えている言葉が崩れかけている。戦争中は、もっとひどかった末期になると大本営は嘘に嘘を塗り固めた情報を流した、支配者が皆、狸や狐になっていた。明白な事実が捕まえられているにも関わらず、「そういう事実はない」と言う。国家は言葉で成り立っているがこれも崩壊しつつある。

 「太子堂空襲」の経験をコツコツと集めてこれを小冊子にして梅津迪子は人に配った。聞き書きという経験をした。これによって気づいたのは、「日本人の家庭生活のやさしさ、気持ちの豊かさだった」と後記に書いている。

 戦争中の苦しい辛い生活の中で互いが互いを思って暮らしていた、人々の紐帯感が強かった。広島の被爆者から聞いたのは、仲間の女子学生の行方を捜そうと原爆投下後の市内に入って懸命に友を探したという、裸足である。暑いさなか溶けたアスファルトが足にくっついたという。この人たちは入市被爆を結果的にすることになる。

 太子堂二丁目の萩原さんから聞いた話を梅津さんは記録している。昭和二十年五月二十四日のことだ。落下してきた焼夷弾につぎつぎに火が点く、それを皆と協力して一晩中消し続けた。

 やれやれ今日は何とか無事に終わったと思って井戸水を汲んでいると、離れの屋根上から煙が出ている。「お父さん」と呼びながら上に登って瓦を剥がしてみると中が燃えている。火の粉が入って燃えだしたのだろう。大声で助けを求めると大勢のご近所の方がきてくださり、バケツリレーで消すことができた。

 三月十日の東京大空襲はなすすべもなく下町はあらかた燃えた。しかし、これによって学んだのは焼夷弾は消せるということだ。この後類焼を防ぐために建物疎開、防火帯が作られたり、また防火用水が設置されたりした。

 常日頃防火の大事さを説いていた警防団長が焼夷弾が落ちてきたら真っ先に逃げた、この話は面白おかしく語られる。が、人々が懸命に協力して焼夷弾の火を消し止めたというのは警防団長逃亡の話よりも何百倍も多い。

「代田三丁目の自宅で西の方を見ていたらB29が高射砲に撃たれて火を噴いたんですよ。それでみんなで拍手をしたのです。ところがその飛行機がこちらへやってきて焼夷弾を落とす、というよりか捨てるんです。それで家に火が燃え移ったんですよ。でもこれは皆で協力して消し止めましたよ……」
 亡くなってしまった代田の古老、今津さんから聞いた話だ。
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2017年07月19日

下北沢X物語(3322)―「太子堂の空襲」 梅津迪子―

CCI20170719 (2)(一)私達はすべてを忘却して生きている。近隣で更地によく出くわすが、どんな家があったのかほとんど思い出せない。ましてや過去のこととなると雲を掴むようなものだ。しかし記録があると確認ができる。偶然、風景資産の交流会で梅津迪子さんと出会った。彼女は「太子堂の空襲」をこつこつと記録してきたという。それを自分で印刷し、折りたたんで製本したという。すべて自分の手で行っている。ささやかでも伝えを伝えようとすることは大切だ、なかなか難しいことだが一歩踏み出せば誰でもできる。こういうことは世のため、人のためになることだ。彼女はこういう。

 昭和二十年五月二十四・二十五日の山の手大空襲では、池尻・太子堂・三軒茶屋は総なめにあい、旭小・多聞小・区役所は全焼、東大原・三宿小は半焼の被害にあいました。太子堂の四丁目はほとんど燃え、二丁目は梅津さんの下の川まで焼け、三丁目は富塚さんの烏山川まで焼け広がりました。

 池尻、三宿、三軒茶屋は野砲兵聯隊の兵営、そして軍事演習地としての駒沢練兵場があってこれが狙い撃ちにされた。これによって近隣の街はその余波を食らって甚大な空襲被害を受けた。彼女はいう「この歴史を風化させてはならない、今記録しなければ失われてしまう」ということから人から人を辿って「太子堂の空襲」を記録したという。こういう地道に努力する人がいてこそ歴史は支えられるものだ。その聞き書きだ。

岡崎さん(下の谷)

 私は、四月に池袋で焼け出されて、母の住んでいた下の谷に移ってきました。
 大空襲の時は、昭和女子大のところは兵隊の場所だったから、あそこから、焼けてきました。下の谷は低いから、焼夷弾や焼けた材木などが飛んできたですよ。もう死ぬかと思ったですよ。そしたら急に風が変わって命拾いしました。急に風が変わって真っ暗になったのです。下の谷の池田屋さんの側は全部焼けました。爆弾が雨あられと降ってきて逃げようたって、逃げられなかったのです。


 ここで証言されていることで重要なのは風向きだ。証言者は下の谷に住んでいた。昭和女子大は南に位置する。ここに近衛野砲兵聯隊の兵営と厩とがあった。B29はここに焼夷弾攻撃を仕掛けた。しかし、事実としては近衛野砲兵聯隊の兵舎は一部は焼けたが多くは焼け残っている。昭和女子大も当初はこの焼け残った兵営を校舎に使っていた。戦災地図でみると昭和女子大辺りは緑色になっていてその南手の下馬が赤で示されている。

 下の谷から上手に当たる下馬や三軒茶屋がB29の焼夷弾攻撃によって焼けた。折からの南風にあおられて投下された焼夷弾やまた火の点いた材木の木っ端などが飛んで来て下の谷地区は焼けたのだろう。
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2017年07月17日

下北沢X物語(3321)―第130回街歩きは地下街探訪供

DSCN0199 (2)(一)十年間街歩きを続けてきた。時代は確実に変化している、一つ目は風だ、二つ目は臭いだ、三つ目は緑だ。人をなぎ倒しそうなビル風が吹くようになった。街から住宅地から臭いが消えた。まず鼻をつまんで通ることもなくなった。メンマ工場もドブもなくなった。木々の緑は確実に減っている。こんもりと木々が生えていたお屋敷がまるごと更地になってマンションが建つ。都心を歩いてみて思ったのは風景にとっかかりがなくなったことだ。
DSCN0190
「いつの間にかこうなっちゃったの」
 久方振りに日比谷公園にきた向井さん、景色の変貌ぶりに驚いていた。
 聞くところによると日比谷公会堂によく通ってきていたという。それを聞いて思い出した。かつては何かというとここで集会が開かれていた。日比谷野音も同じだった。彼女は何十年かぶりに来て回りについたてのように建っているビル目を瞠っていた。

 都会は変貌している。まず地上の変化は大きい。当方、散歩途中に大岡山小学校脇の環七の歩道橋をよく渡る。東に都心方向がよく見える。ここ数年で著しく変わった。淀橋台地が北から南へと下っているがその上や、もうっと向こうの台地につぎつぎと高層ビルが建った。林立するビル。壁だ、東京湾から入ってくる南風がこの衝立に遮られて、内陸部へ吹いて行かない。それで高温化現象も起こっているという。

 高層化という変貌は見える。が、地下化というのは見えない。しかし地下街はどんどん広がっている。丸の内の地下道を通ったがここにも地下の街、通りができていた。

 日比谷から地下に降り、東京駅に向かう。丸ビルではエレベーターで六回まで、ここのテラスからの東京駅全体がよく眺められる。
「色がシックになったね、前の赤色がよかった」
「もけいのお家をみているみたいだ」

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2017年07月16日

下北沢X物語(3320)―第130回街歩きは地下街探訪―

DSCN0196(一)昨日、15日、第130回目の街歩きを行った。月一回ゆえ、10年と八ヶ月にもなる。この間の変化は大きい。景観が著しく変わったこと、長大な地下街が形成されたこと、そして地球温暖化が一層に加速したことである。人間の生理に影響を与えていることだ。まず、高層ビルが林立し威圧感が増した。つぎに迷宮のような地下街ができ人は自己存在を失った。そしてとどめだ、地球温暖化により都市が高温化、高熱化し、夏の街歩きができなくなくなったことだ。
 
 七月の行事は、十年来駒沢練兵場を歩くを行ってきた。しかしこれも危険になってきた。街歩き行軍で熱中症が予想されるようになった。もう少し気持ちよく歩けるところはないか。

「都心の地下道は案外に涼しいのではないか?」
 ふと思いついたことから地下道を通っての街歩き、お江戸東京を巡るという企画に結びついた。

ー尊飮廚いけず地下道は涼しかった。
風景が新鮮に見える。
 穴蔵の地下道を歩いていってようやく階段を上って地表に出る。するとそこには日比谷公園の緑とビルによって区切られた青空があった。新鮮な感動を覚えた。
C浪爾箸いΧ間も四角い箱一辺倒ではなく、曲がっていたり、通路が細くなっていたり、地下街があったりと変化がある。
っ浪竺垢任麓を澄ますと通行人の足音が聞こえる。繁華な地点ではせわしく、過疎化した地下道ではのんびり聞こえる。
ッ鷲修暴个襪燭咾膨垢こ段を上らねばと思っていたがエスカレーターやエレベーターが思いの外備わっていてその危惧はなかった。


今回は東京駅を中心とする地下道を歩くことにした。日比谷に集合して、そして地下道を巡り、ポイントになるところで地表にでて旧跡を見学するという方法だった。
 通例の街歩きにはない新鮮さを参加者は感じた。結論として次年度も、これを実施することにした。

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2017年07月14日

下北沢X物語(3319)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか掘

DSCN0188[2](一)偽汽車の主人公は狸だ、しかし狸にとっていいことは何一つない、最後は悲劇的な結末でおわる。機関車にひき殺されて死ぬ、希望がまるでない。当人たちにとっては得にもならない話だ。ゆえに仲間内で流行ったわけではない、人間どもが勝手に作っては面白がっていた。ひき殺された狸は狸汁にして食ってしまったという例もある。そんなことを考えていくと機械近代における人間の冷酷さが見えてもくる。偽汽車現象は深くかんがえてみる必要がある。

 近代を近代たらしめたのは鉄道である。この出現によって「時間と空間の衝突」を招来させた。それは衝撃的だった。人間ももちろんだが狸もこれと遭遇したとき度肝を抜かれた。六郷川橋梁が開通した。ガラガラと雷が鳴ったと思ったら忽然と黒い物体が現れてこちらへ向かってくる。土手の草むらでこれを見ていた狸たちは震え上がった。二千年の眠りから覚めた狸社会は大騒ぎとなった。

 一連の記事を書いていたところ、SNSで「偽汽車の話は古代と近代の境目に起こった超常現象で意味深いものがある」との指摘。この事実の背後には時代の境目に生きた人々の思いが潜んでいる。偽汽車は当時の人々の願望を鏡のように写し出している。人々の共同幻想が生み出したものではないか。

 さて、六郷川橋梁に現れた狸の話だ。

 汽車に化けた狸
 
 狐だか狸かしらないけど。東海道、今の六郷橋ね、六郷橋の上ぃ、橋の真ん中で、ボーボーって鳴っているんだね、そうすると、汽車の機関士がさぁ、びっくりして汽車を止めたってこと聞いてらぁね。それが二回、三回、四回つづいているうちにね、機関士がね、「こんちきしょう」と思って、狸ということがだいたい分かってきたんで、そいでまあ、思い切って機関車走らせた。走らせてあくる日行ったらば、狸が死んでいたと。
 そういうことは、よく聞いたよね、子どもの時分、年寄りから。
【八幡塚 男 明治31年生】(中島)
 「大田区の文化財 第22集」 口承文芸 昔話・世間話・伝承 
著者名 大田区教育委員会編 1986年3月


 話者は八幡塚に居住していた。高畑の南側に当たる。この場合は平地ではなく鉄橋上に狸が現れた例だ。しかし、汽車の姿は見えていないようだ。橋梁にさしかかると汽笛の音が聞こえる。機関士は不思議に思って汽車を止めた。

 この場合単線か複線かは説明されない。偽汽車の場合のお約束がある。舞台として使われる線路はみな閉塞区間である。つまり単線で起こることになっている。この場合も単線で汽車を走らせていたところ向こう側から機関車が走ってくる音がする。
「ぶつかるぞ!」
 反対側から汽車が走ってくるのを確認して運転士がパニックに陥る。これも決まり切ったパターンだ。

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2017年07月13日

下北沢X物語(3318)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか供

DSCN0189[2](一)狸が汽車に化ける、いわゆる偽汽車の民譚は全国各地に分布している。この話不思議な点が二つある。なぜ狸が汽車に化けるのか、普通は人に化けて出てくるが、が、彼らは機械に化けて出てくる。もう一つだ、機関車に化けた狸は、本物の汽車に必ずと言っていいほどぶつかっていく。「ギャオー、ぶつかるぞ!」と人は恐怖に陥る。ところが衝突時の反応が「コチン」と軽い、ここにおかしみがある。何だと調べてみると狸が死んでいた……という結末だ、化けた狸は悉く敗退して討ち死にしている、なぜみんな死ぬのか。

 まず第一点である。従来だと狸は人に化けて現れる。人語を操って人をたぶらかす。ここには他者との交流があった。が、機械ではそんなことは成り立たない。即物的である。文明の最先端である汽車になぜ化けたかという点は謎だ。

 つぎの第二点である、汽車に化けた彼らはほとんど突撃死している。民譚は語り伝えられてこそ生きる。ところが当事者は次々に殉教者のように汽車に飛び込んでいく。もったいないのはこれでは汽車化けの術が後代に伝わらないことだ。伝えられてこそ民譚は生きる、が、この話狸たちが討ち死にしてしまい。民譚としてはいまや死にかけている。

「真夜中、終電後に新幹線に化けた狸が走っていった。証拠は最後尾がふわふわとした狸の尻尾になっていて、毛のの間から赤いテールランプがぼんやりとみえていた!」
 こういう話、あれば面白いが新幹線に化けた狸の話は聞かない。

 狸はなぜ汽車に化けたか、近代文明論的観点で考えると面白い。ここに時代の割れ目の秘密が潜んではいないだろうか?

 明治五年、日本最初の鉄道は新橋品川間に走った。この区間で狸が化けて現れた例は一つは品川道灌山だ。二つ目が鶴見駅近辺、そして今回大田区の地域資料で見つけたものが三つ目だ。これは六郷高畑の例である。前二つは丘陵地のものだが高畑は多摩川河川敷に近い。全体に土地がフラットで狸が棲息するにはあまりふさわしいようにも思えない。それで土地の様子を観察するために、矢口渡駅で降りここから高畑まで歩いてみた。
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