2017年05月27日

下北沢X物語(3287)−第十回戦争経験を聴く会・語る会−

戦争経験を聴く会、語る会 恒例の「戦争経験を聴く会・語る会」を本日、午後一時半から下北沢東京都民教会で開催する。あの戦争からどんどんと遠ざかっていくばかりだ。平和がどんなに大事かはそれに伴って忘れていくばかりだ。七十二年前の五月二十四日、五日、この東京西部の空を大型爆撃機B29が空を覆い尽くした。恐ろしいほどの数の爆撃機が空を覆った。いわゆる山手大空襲だ。3月10日の東京大空襲では、飛行機279機。爆弾投下トン数は1665トンだ。一方、5月24日、25日の山手空襲の場合飛行機の数は1056機。爆弾投下トン数は6900トン、いずれも三倍だった。これには大きな狙いがあった首都東京を壊滅させるためだった。山手地域は焼き払われその狙いは達成された。それで東京は爆撃リストからはずされた。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。広島に長崎に原爆が落とされてそしてようやっと終わった。

 一旦戦争が始まったら終わらない。どうあっても戦争はするなというのが戦争体験者の伝言である。これを伝えるためにこの会を開いてきた。

 今回は、記念となる十回目の大会だ。これまでの経験を通して学んできたことがある。

戦争経験を聴いて学んだこと

 一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでも  いつまでも続く。
 二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
 三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言が いえなくなる。
四つ、いざ戦争となると人間が人間でなくなる。
  命は毛ほどに軽くなり、軍隊では虫けら同然に扱われ、果ては人間が武器の代わりに使われるようになる。
 五つ、心ない大人が出て来て、学童や子どもを裏切る。


学んできたことは、力と力が対峙すると必ず戦争が起こる。起こったら、もう殺し合いだ、ルールはなくなる。憎しみと憎しみがぶつかって際限もなく続く。

 やはり戦争をしてはまずいのではないか、ということで、この会を開催してきた。今年も行う。本日行う。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」
 
・と号第三十一飛行隊の軌跡             きむらけん
・山本薫中尉について                 山本 富繁さん  武揚隊隊長山本薫中尉の甥御さん
・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん  武揚隊隊員高畑少尉の甥御さん

期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
会費・定員 無料、先着順70名
主催:北沢川文化遺産保存の会
後援:世田谷区教育委員会
協力:世田谷ワイズメンズクラブ


疎開学童というのは、東大原小学校のことである、特攻隊は誠第三十一飛行隊だ。
 戦争の陰に眠っていた話が今日解き明かされる。



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2017年05月26日

下北沢X物語(3286)―戦跡を十年も歩けば棒に当たる―

DSCN0080(一)石川啄木の『一握の砂』に「乗合の砲兵士官の剣の鞘がちゃりと鳴るに思ひやぶれき」という一首がある。ここで場面情景を生き生きとさせているのは「砲兵士官の剣」である。車が揺れた拍子に剣の鞘が「ガチャリ」と音を立てた、うとうととして心地よく眠っていたところを起こされた。ここが輜重兵士官だと土臭くなる、海軍士官だと体裁が良すぎて歌の味がなくなる、「砲兵士官」だと一首は弛緩しない、ピリリと生きてくる。砲兵士官はかっこいい、砲兵士官で貴公子だったら若い女性だったらきっと胸ときめかすだろう。早世した場合はなおさらだ。昭和十五年(1940)九月四日にモンゴルで航空事故に巻き込まれ事故死した皇族がいた。北白川永久王殿下だ。三十歳の貴公子だ。

 何回目の戦跡歩きだったろう、何時も参加していた川口信さんから「仰徳集」という短歌集を戴いた。北白川永久王殿下の薨去を悼む歌集である。驚いたのは全国の数百の女学校の生徒たちが貴公子の死を悲しんで歌った作品が載っている。
例えば、「府立堺高等女学校 二年生」の歌

餘りあるかしこさなりき悼みまつる言葉もなくて唯涙しぬ
 
 名前は橋田壽賀子とある。彼女は、大阪府堺市西区出身である。脚本家の彼女に違いない。

 2009年7月30日のブログには、「仰徳集」に載っている糸賀 公一氏の短歌をアップした。以下である。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

 貴公子は、芝御殿の下の品川駅から見送りを受けて出征していったようだ。昭和十九年三月のことであった。そのときのことを貴公子の妹多恵子殿下が長詩で書き残している。その一部を引用する。

汽笛一声品川の 空にひゞけば兄宮を
のせまつりたる汽車は今 すべるがごとく走りでぬ
  さらばいさをを樹てませと 唯ひたすらに祈りつヽ
  声を限りに万歳を    われら叫びて見送りす

過ぎ行く汽車のステップに ちぎるヽほどの日の丸を
ふりて立たせし兄宮の  その過ぎし日のみすがたの
瞼の内に浮かび来て  あヽ我永久に忘れ得ず


 この陸軍大尉糸賀 公一氏は、シンガポールに本拠地をおく第七方面軍の作戦参謀であった。

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2017年05月25日

下北沢X物語(3285)〜「今度会ふときは九段の花の下」〜

DSCN0085(一)23日、打ち合わせのためある社を訪ねた、行くと靖国神社の真ん前にその会社はあった。大きな鳥居を見て即座に思い起こしたのは「今度会ふときは九段の花の下」という言葉である。ちょうど今、「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡を追って」をまとめている。隊員の一人、飯沼芳雄伍長は松本出身だ。彼は慰問に来た同級生にこう書き残して故郷を去った。この十三文字は「また九段で会おう」という意味だが、故郷の期待を背負った十九歳の強い思いがあることを私は知っている。もう花の時期は過ぎて今は新緑だ。拝殿して柏手を打ってくるか?ためらった。彼がここにいないように思えたからだ。

打ち合わせが終わって外に出る、好天、千鳥ヶ淵の新緑が目に染みる。北の丸公園を散歩していこうと思った。
 お堀を見ながらいくとすぐに「千鳥ケ淵戦没者墓苑」がある。多くの戦死者の遺骨、そして魂がここに眠っている。
「お参りしていこう」
 礼拝所となっている六角堂は質素だ。神はいない、自分の行為だけが問われる場だ、お寺や神社だと自然に祭壇に向かい賽銭を入れ、そして拝む、ところがここは自分で一つ一つを決めて行う。
『神がいれば便利で手軽だ』
 そんなことを思ったどんな拝み方をすればよいか考えなくてすむ。
 菊の一輪、100円を買ってそれを祭壇に手向け祈った。ここに眠っている人は皆平等だ、これでいいのだと思った。

 この三月には知覧に詣でた。陸軍特攻戦死者1036柱はかっきりと特攻平和会館には収められている。彼らの御霊を祀る観音堂もあった。丁寧に、丁重に扱っているのはよい。しかし、特攻で行っても戦果確認がなされなければ特攻扱いとはならない。

 武揚隊の場合は、遠路はるばると老朽機に乗って台湾まで前進した。15機は途中で不具合を起こしたり、敵機に遭遇して撃ち落とされてもした。また出撃したが戦果確認がなされなかった者もいた。それが飯沼芳雄伍長である。ゆえに彼は知覧には記録されていない。彼の出撃は七月十九日だった。
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2017年05月23日

下北沢X物語(3284)〜下馬、三宿、池尻、戦跡を歩いて十年〜

DSCN0068(一)戦後七十二年を迎える。執念深く戦跡を歩いている、これももう十年経った。何が変わったか?、振り返ってみて言えること三つ、一つ目、「古びたなあ」、建物の風化だ、もう朽ちかけて倒壊してしまいそうだ。二つ目、「みんな忘れ始めた」、戦争の記憶の風化だ。三つ目「戦争を想像できなくなった」、想像力の劣化だ。七十二年経って、あの戦争はすっかり忘れ掛けられている。しかし、戦跡を歩けばいやでも思い出す、やはり二度と戦争はやってはいけない。人間は本然的に好戦的である、やられたらやりかえす。かっとなって銃をぶっつぱなしてしまうと戦争が始まる。一旦戦争になると殺し合いだ、ところが戦争の惰性というものはある、止めるためのエネルギーが必要になる、歴史ある国家だけて負け方というものがある。戦争はなかなか終わらなかった。

 五月は、戦争月間として二つの行事を行う。まず、一つ目が「世田谷の戦跡を歩く」だ、二つ目が、「戦争経験を聴く会、語る会だ。後者は5月27日に下北沢東京都民教会で開く。今回で十回目となる。
 なぜに五月なのか?、「山手空襲を忘れないため」にこれを開いている。
 
 昭和二十五年五月二十四日、二十五日、このあたり山手一帯は大空襲に襲われる。
爆撃機が長い列を作って侵入してくる。根津山から見ていた人がいる。「今夜はいったいどうしたんだろう、敵はどうしてこんなにも多くの飛行機を飛ばすのだろう、いくら考えてもわからなかった。」(『東京空襲』一色次郎)大型爆撃機B29が空の果てから数珠つなぎであらわれる。後から後から湧くように現れる。この恐怖への想像も必要だ。

 気持ちが悪くなるくらいに爆撃機が押し寄せたのはなぜか。それは、

東京を壊滅させるためだった

 三月十日の東京大空襲はよく知られている。これは279機のB29が飛来してきて、1665トンの焼夷弾を落とした。一方山の手大空襲の場合は、五月二十四日が558機、二十五日が498機「両日で6,900トンの焼夷弾に見舞われ、約30平方キロの市街地が焼かれた」と。

 東京大空襲の倍の爆弾が落とされた。どれだけ戦略的な価値があるのか、飛来機数と爆弾投下トン数がそれを端的に証明している。この狙いは、東京の中枢を徹底的にたたくことだった。これが成功したことで、「東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」、いえば日本軍はこてんぱんにやられてしまったということだ。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。

 軍服を着た者は、軍服の脱ぎ方にこだわる。メンツだ。国家の体裁、負け方を言っているうちに広島に長崎に原爆が落とされてた、多くが死んだ。そしてようやっと終わった。
 
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2017年05月22日

下北沢X物語(3283)〜会報第131号:北沢川文化遺産保存の会〜

戦争経験を聴く会、語る会
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第131号       
     2017年6月1日発行(毎月1回発行)
     北沢川文化遺産保存の会 
      会長 長井 邦雄(信濃屋)
      事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、消滅した武揚隊隊歌の復元を試みる

  下北沢一帯の文化を長年掘り起こしている。情報はイレギュラーバウンドして掘り起こされる。ひょうたんを調べていたら中から駒が出てきて驚く。そんな体験は度々してきた。当地一帯の疎開学童の調べから多くの事実が発掘された。

昭和十九年八月、代沢国民学校と東大原国民学校の学童は浅間温泉に疎開した。翌二十年二月陸軍松本飛行場に特攻隊が飛来してきた。武揚隊と武剋隊だ。沖縄へ特攻に行くためには飛行機を改修しなければならない。爆装改修という。このためには三四十日間当地にとどまった。この間に疎開学童と深くふれあった。

 この特攻隊は、満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊である。大本営直轄の隊である。蒼龍隊、扶揺隊、武揚隊、武剋隊である。直轄隊だけにプライドが高い。分かってきたことは、彼らはそれぞれに隊歌を作っていたことだ。そのうちの扶揺隊のは今日に残されている。

若桜の歌
  一 さらば最後ぞ またの日は 桜花咲く九段ぞと
    笑みつつ 悲し つはものが 清らに交わす 盃や
  二 神治(かみしろしめ)す 国なれば 神勅 相違なきものを
    戦友(とも)よ 戦の理(ことわり)は 国亡びなば 山河なし
  三 人生意気に感じては 朝露(ちょうろ)の命 なにかせん
    大和 島根の 男児(おとこ)ゆえ ああ君は征く 若桜
『読谷村史』第五巻資料編4 『戦時記録』下


 浅間温泉にやってきた武揚隊と武剋隊も隊歌はあったはずだ。しかし、これは残っていない。このうち武揚隊については意外なことが発見された。
 武揚隊は浅間温泉では富貴の湯に滞在した。ここには東大原国民学校の学童が疎開していた。彼らは四十日あまり滞在する。この間、一人の隊員と親しく接したグループがある。その隊員は長谷川信少尉だ。この彼のことは後で分かってくる、「きけわたつみのこえ」に手記を残している長谷川信であった。
 東大原国民学校は浅間温泉では七つの宿に分宿して生活をしていた。そのうちの一つが
富貴の湯である。ここには「187人」の学童が暮らしていた。浅間では一二を争う大旅館だった。疎開学童と特攻隊を泊めても余裕があった。が、ここで注意を要することがある。この旅館にいたのはすべてが女児だった。
 これも一つのドラマだ、特攻隊隊員は若い、多くは田舎から出てきたあんちゃんたちだった。それが都会からやってきたおしゃまでかわいい子たちに遭遇した。ここ浅間温泉には後に映画監督となる降旗康男少年が住んでいた。この女の子に遭遇して大カルチャーショックを受けている。「東京から来た女の子はだれもが白いふっくらした顔をしていた。私にはまるで外国人に見えてしまった」(『松本平タウン情報』第六号 一九九九年)と。特攻隊のあんちゃんも同じだったろう。

 そういった思いを歌ったのが「浅間温泉望郷の歌」である。「塵にまみれた飛行服脱げば/かわい皆さんのお人形」という歌詞である。これをたまたま覚えていたのが秋元佳子さんである。彼女の覚えていた節をもとに作曲家の明石隼汰さんがこの歌を復元してくださったことはここでは度々述べてきた。今までは言葉の感性からして長谷川信少尉が作っていたのではないかと思っていた。ところが昨年、十一月、武揚隊隊長の山本薫中尉のご遺族が上京されて、「山本薫君の霊前に捧ぐ」という菱沼俊雄氏の手記を持ってこられた。

 私は、宮崎県新田原まで武揚隊の足取りを追って旅をした。彼らは新田原を飛び発ち、九州山地を飛び越え、大陸に渡り、それからさらに台湾の旅に着いた。この間、苦闘特攻三千里だ。彼の乗機は全部で十五機あった、長途の旅でほとんどを失い、たった三機が台湾に着いた。が、彼らは誇りを失わない、めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。知られていない事実だけに深い興味を覚える。

 数年にわたる調べで武揚隊のことが分かってきた。菱沼手記は、クロスワードパズルを読み解くような面白さがあった。注目したのは、次の箇所だ。

 高畑少尉はすぐれた山本君の部下達の中でも最も優秀で頼もしい将校でありましたし、五十嵐君と共に武揚隊歌を作りました。

高畑少尉は大学出の優れた隊員だった。音楽的才能があって武揚隊歌を五十嵐少尉と協力して作ったという。その音楽的な感性は、「浅間温泉望郷の歌」の歌詞にも感じる。その高畑少尉は、求められて浅間温泉で書を遺している。慰問に来た女学生の和綴じ帳に記した。それにはこう書いてある。

以武揚愛国 武揚隊 高畑少尉

ふと思ったことは、この高畑少尉が書いた言葉は武揚隊の歌の一節ではないかということだ。武揚隊のいわれを言葉にしたものだ、決してそれは突飛な連想ではない、その歌詞は、「武を揚げ以て 国を愛しむ ああ 武揚隊」だ。

 実は今回、この高畑さんの甥が参加される。驚いたのはこの池田宗祐さん、音楽的感性を引き継いでいるようだ。叔父を偲ぶ歌「拝啓 三角兵舎」を作詞作曲している。今回かれはそれをギターで弾いてくれる。ついでにと思って、「浅間温泉望郷の歌」をもと頼んだら快諾された。ならば、武揚隊隊歌のワンフレーズを手がかりにこれの再現もと考え、彼に提案したところチャレンジしてみたいと、眠っていた「武揚隊隊歌」が再現される。
その一番だ。「いざ往かん 散って九段の花と咲く/大和ますらを 神鷲の/武を揚げ以て國を護らむ/あァ 我らは 神鷲武揚隊」これを彼の作曲で、弾いてもらうことにした。期待されたい。
 なお、当日は、武揚隊山本薫中尉の甥御さんご夫妻が四国小松島から上京される。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

 主催:北沢川文化遺産保存の会  後援:世田谷区教育委員会
 ・と号第三十一飛行隊の軌跡    きむらけん
 ・山本薫中尉について        山本 富繁さん
 ・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん
 ・参加者による情報交換 

 期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
  会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
 会費・定員 無料、先着順70名
 
*当日、手伝ってくださる方は、一時に会場に集まってください。

○参考資料 武揚隊の特攻までの飛行コース
 ・新京から松本へ 新京→平壌、大邱(たいきゆう)、この後は、大刀洗飛行場→各務原→松本
・松本から台湾へ 松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊

2、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合  山手線恵比寿駅南口近く
 恒例 三田用水跡を歩く(第2期第4回) キュレーター きむらたかしさん  
コース:同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→ 銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→ 旧三田用水普通水利組合事務所跡→ 山手線目黒驛南水路橋跡 →鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡 → 旧上大崎村溜井新田跡 →日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡 → 午後5時 JR五反田駅解散 ○先号の通知で申し込みは既に30名を超したので今回は告知だけに…。


第130回 7月15日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
日比谷駅→二重橋前駅→東京駅→大手町駅
第131回 9月16日(土) 午後一時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
 案内人 きむらけん (新企画)駒沢代田のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→下北沢駅
第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第132回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲今年度世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」に応募し書類を提出した。事業計画としてはDrオリバー・オースチン写真を軸に「下北沢の戦後アルバム」の発行と紀要第六号
「下北沢文士町の発展と形成」を予定している。
▲街歩き今年の計画では12月が空いている。コースの要望、あるいは案内志願、こちらに連絡を。なお、案内者には参加費用500円×参加人数分をそのまま差し上げます。
▲第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年05月20日

下北沢X物語(3282)〜自由と平和そして狸〜

DSCN0064(一)太宰治の墓前で田中英光は命を絶った。「さようなら」と言い残して……、彼の下北沢駅前逸話がある、戦後北口駅前の屋台で水上勉と焼酎を飲んでいた。が、親父と口論になった、元オリンピック選手の六尺男は、カウンターを両手で持ち上げてひっくりかえしてしまった。ガリンパリンと一升瓶が転がって音を立てる。そうした後、脱兎ごとく駅へ向かう。「下北沢駅は階段がすぐであった。その階段へ英光さんの巨体が隠れるのを追いかけた」(『私版 東京図絵』水上勉)と。ここでのイメージは大切だ、下駄を履いた田中英光はコンクリートのタタキを行ったのか、木製跨線橋の木の階段を上ったのか。どうもカタカタクットントンと足音を高く響かせて地下道に消えたというのが正解らしい。

 下北沢駅の地下道はどうなったか?興味深い問題だ、が、大事なことは、田中英光の「さようなら」論である。彼は昭和二十四年十一月に自殺するがその月の雑誌に掲載されたもの、遺稿である。この冒頭で述べる、

 「グッドバイ」「オォルボァル」「アヂュウ」「アウフビタゼエヘン」「ツァイチェン」「アロハ」等々――。

別れの言葉は多くある、これらはまた会おうなのど祈りが願いがこもっている。が、
我々が使う「さようなら」は、「敗北的な無常観に貫ぬかれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、いままでの日本人らしい」言葉だと彼は言う。その核心は何か。彼はこう述べる。

 「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。

 さようならは、「左様ならば」の「ば」が略されたことばだ。意味としては「では、そういうことで」、「そういうことならば」という意味だ。伝えたいことの中心をぼかしている曖昧な言葉だ。「そういうことならば、ここでお別れしよう」となるが、意味の核は隠される。何でもかんでも「さようなら」という断絶を意味するこの言葉しか使わない日本人の寂しさを彼はいう。寂しい死に方しかできない日本人。

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2017年05月19日

下北沢X物語(3281)〜戦争、平和、共謀罪〜

DSCN0063(一)平和という普段着は綻びやすい、しかしそれを着ているものはなかなか分からない。戦争から遠ざかるに連れ、平和という感覚に麻痺してしまう。それで社会をちょっと面白くしてしまおうとプロパガンダが始まる。ところがこれが平静を装っているから始末に悪い。どう考えても異常なのは、北朝鮮のミサイル発射場面を繰り返し繰り返ししつこく流していることだ。おかしなことにこれは北朝鮮が提供しているものだ。彼らは居丈高かに国威発揚するために国営放送でこれを行っている。つい笑ってしまうほどだ。「彼らの術中にはまっているのが日本のテレビではないか!」、繰り返しミサイル発射場面を流し、いまにも北朝鮮がこちらへミサイルを発射して多くの死ぬのではないか。刷り込みへの危惧へは全くと言っていいほど考えられていない。ミサイルが発射されたとの報を受けて、地下鉄が停まった。噴飯ものではないか?

 私たちはとおに戦争を忘れてしまった。もう十年にもなるだろうか。戦争を巡るシンポジウムがあった。妹尾河童さんの言葉は今も覚えている。
「戦争というのはドンパチから始まらないのです。最初の印象ですけどね、トタン屋根にパラパラって小石が降ってくる感じなんですよ、おかしいなと思っていると戦争がはじまる……」
 なんともないことが段々に大きくなってくる。そうすると人々は敏感になってくる。そこを付け狙うように、必ずといっていいほど、使われる常套句がある。

まず、『敵が攻めてくるぞ!』

つぎに、『いいか、住民、国民というものは基本的に、これは動物だから怖がりなんだ、そこを心得て時を捉えて言葉を効果的に使う、ここぞというときに使うと、絶大な効果がある。』

そして、『自分の座敷に他人が土足で入ってきたらじいさん、ばあさんでも怒る。これが国土となったらどうか。他国のやつらが入ってきて財産を奪い、女子を陵辱する、断じて許せない、皆銃を持って戦うんだ!』
 
 戦争になったら戦時一色に染まる。異論は挟めない、皆くちをつぐむ。

 敗色が濃くなると、一層に檄が飛ばされる。

 昭和十八年九月二十二日に情報局から「国内体勢強化報告」が発表された。いわゆる一億総動員令である。その一だ。

官民を挙げて常に今次聖戦の本義に徹せしむると共に、その容易ならざる大業なることを覚悟せしめ、いよいよ必勝の信念を持って不撓不屈、尽忠報国の誠を致さしむ。

 石にかじりついてでも戦え。以前話を聴いたことのある望月輝正さんは本土決戦に備えての対処法を准尉に教わったと。

 『本土決戦に備えて、敵の兵士が上陸してきたら卵の殻に胡椒と唐辛子をまぜたのをつめた≪新兵器≫のめつぶし弾をたたきつけやつらのひるんだすきに刺し殺す。』

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2017年05月17日

下北沢X物語(3280)〜古老は犯罪を語らず帰国を語る〜

DSCN0031(一)十年間の文化発掘で大勢の人と会ってきた。いわゆる仕事として会ってきたわけではない。主にはその人の体験や経験に興味を持って接してきた。ゆえに位階とか出自は問題ではない。それでも何年か経って彼の職業を知って驚くということはよくある。野沢の古老、生きてきた九十六年間は濃厚なものだと今になって知ったことだ。

 昭和二十五年シベリア抑留から戻って坂部正晴さんは、法務事務官となった。その経歴は豊かだ。戦争犯罪にも関わっていた。事件はどれこれ大きな話題となったものだ。雑誌のインタビューでそこを聞かれている。

――戦犯の事件で思い出に残るような事件や苦労したことはどのようなことですか。

坂部:5年間で私が関係した事件は多岐に渡り、その中には遠藤周作氏が名作『海と毒薬』に結晶させたB29乗員に対する「生体解剖事件」、中国人労務者の暴動鎮圧に端を発し、いまだ未解決の問題を残している「秋田花岡鉱山事件」、映画『戦場にかける橋』の舞台になった、泰緬鉄道建設に伴う英・豪・印度の『捕虜虐殺事件』、病院船撃沈のかどで元公爵(元小松宮)で海軍中将の小松輝久氏が第四艦隊指令長官として責任を問われた「インド洋潜水艦事件」、昭和20年8月15日、敗戦の当日、福岡市郊外油山で米兵捕虜を殺害した「油山事件」等などが含まれていました。
研究誌『更生保護と犯罪予防』第138号 平成14年3月


 どれもこれもが社会的に有名な事件だ。これら事件に関わっておられたのは後で知ったことだ。その一つ一つについてどうだったかと聞いてみたいところだ。しかし、本人はこう最後を結んでいる。

 個々の事件について具体的語る自由はありませんが、私にとってはとても重い深刻な5年間だったと思います。

 いわゆる公務員の守秘義務である。話そうにも話せない。

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2017年05月16日

下北沢X物語(3279)〜野沢の古老は沖縄を語る〜

DSCN0053(一)文化探訪はイレギュラーバウンド、筋違いなことから真実が発見される。昨日も驚いたことがある。「今朝の世田谷の広報に載った戦争経験を聴く会、語る会ですけど…」と電話での問い合わせだ。「疎開の方のお話ですか?」、「いえちょっと違いますが、ということは疎開された方?」、「ええ、はい」、「え、どこの小学校ですか」、「駒沢です」、「え、いつ行かれたのですか」攻守逆転する。「昭和二十年三月三年生で新潟県に行きました」、「ちょうどその頃、学校のすぐそばに高射砲陣地あったでしょう?」「ありましたありました。建物も覚えています」、「へぇ、弾を撃つと学校のガラス戸がびりびり鳴ったでしょう」、「うん鳴った鳴った」しばし、彼女と高射砲で燃え上がった。が、興奮しているのはこちらだった。

 駒沢小学校は、調べると昭和十九年八月三十一日に新潟県長岡市古志上組村に二百六十三名が疎開している。これは三年以上だ、翌年からは一年生二年生も加わった。三年生になった彼女はこのときに疎開した。
 彼女は、自分の辛かった疎開経験を九歳になる孫に話しておきたいとの思いがある。が、覚えている疎開経験が果たして正確なのか自信がない、そんなときに広報を見て電話をしてこられた。「疎開学童ゆかりの特攻隊」とあったが多分「疎開」の文字しか目にしなかったのではないか。当方も似たようなものだ。「高射砲」と聞くと俄然聞き耳を立てる。質問してきた女性に、「高射砲で覚えていることはないか」としつこく聞いていた。

 戦争の経験を自分の孫に伝えるというのはとてもいいことだ。長岡に疎開した駒沢国民学校の児童は長岡空襲を目撃している。飛来してきたB29は百二十五機だ。地方都市の空を埋めて大量の焼夷弾を落とした。
「ヒュウヒュウという音がして怖かった、そして家々がたちまちに燃え上がったのよ。生きた心地はしなかった。戦争の怖さは体験してみないと分からないのよ……」

 最近思うことがある。昨日もそうだった、テレビのニュースでは北朝鮮のミサイルの発射場面を、繰り返し繰り返し写していた。子どもが見たときにこれをどう思うのか。やはり異常である。視聴者の恐怖をあおり立てているようにしか見えない。

 マスコミも政府のいう危険意識、いつミサイルが空から飛んでくるかわからない。だからこちらの防備を固める必要がある。必要以上に緊張を煽っている。
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2017年05月14日

下北沢X物語(3278)〜野沢の古老に昔を聞く供

DSCN0059(一)野沢の古老、坂田正晴さん、来月になれば97歳になると、おおよそ百年、近代日本の激動期を、時代の境目を生きてこられたのだ。それは言い換えれば風景である、一つはた子ども時代の野沢風景だ、近隣には雑木林が広がっていてカブトムシなどの昆虫を採るのに心わくわくさせた。その後の人生は波乱含みだ、「ハルビン学院、建国大学、大同学院を卒業後、満州国官吏を経て関東軍司令部に勤務中終戦を迎え、5年間の抑留生活を終え、帰国後は法務省に勤務」したという。価値観が錯綜する中で生きてこられた。満州、ロシア、そして戦後では沖縄にも勤務したという。それぞれの土地においての風景の記憶があった。

・野沢の風景について
「鶴ヶ久保公園は藪でした木々がびっしり生えていました。木が多かったですね、野沢稲荷神社には大きな松の木があって上ると品川の海が見えた。これもだいぶ遅くまで切り株がありました……」
「野菜作りが盛んだったと聞いていますが、練兵場から出る馬糞で潤ったと……」

 馬糞が大量に産出され、農家の肥料需要のうえに、大きな供給源となっていたので、下馬地区の野菜栽培上、一大転機となった。馬糞は持久肥料として、肥料の三大成分をよくあわせ保有している。その馬糞が大量にかつ安価に入手できたので、きゅうり、なす、かぼちゃ、すいか、まくわうり、トマト、大根、白菜、ねぎ等が、世上一般不作の年でも方策が続いた。『しもうま』

 野沢は下馬に隣接している。練兵場の馬糞で潤ったはずだ。
「畑はあるにはあったがあんまり記憶にありませんね。覚えているのはこの辺りが植木だめだったことです。方々にありましたね……」
 確かにそうだ堀之内道の尾根筋のところにはこれが数多くあった。今も一二箇所残っている。都市の膨張と耕地利用の変遷はある。馬糞で畑の作物は丸々と肥え太った。近隣の市場では評判だった。が、植木に転換したのは野菜よりも儲かるからだ。観賞用の植木は都会人のストレスを発散するのに必須だった。

「道元坂の賑わいというのは大変なものだったらしいのです。それで上の方には植木やがずらりと並んでいたそうなんです。この辺りから大八車で運んだのでしょうね」
「うん、そうだろうね」と坂田さん。

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2017年05月13日

下北沢X物語(3277)〜野沢の古老に昔を聞く〜

DSCN0061(一)新橋ステンショでピリリと笛がなった、箱がゴットンと動いた。ガラスに横縞が流れた、そしてゲッポンと停まったら、「ヨコハマ!」だった。目が眩んだ。これは汽車の話。今は飛行機だ、この間、知覧に行った。羽田を離陸するとき床下でガリボリンと鳴った。すぐに富士の頂が窓をかすめた。それからいくらも経たないうちに「カゴシマ」とのアナウンス。汽車の時代を生きた自分は魔法に掛かったように思った。今、時は高速でめくられていく、その時その時のことはうっちゃらかして猛然と突っ走っていく、どこへ行くのだろうか?テコテン坂はどうなったか?代田窪はあったのか?上馬のうなり石はどうなったか? が、そんなことはかまっちゃいられない。近代は恐ろしい。テレビを見ているとミサイルが放たれて東京で地下鉄が停まった。今にも人が死滅しそうことを言う、プロパガンダの恐ろしさだ。ささいなことだが、ノドンよりもテコテン坂に興味を抱く、そこにこそ人々の生きた歴史があるのではないのか?

 昨日のことだ電話が鳴った。取ると、即座に「間もなく都議選が行われますが行かれますか。その場合は一番を押してください」、「バカヤロウ!」とガチャンと切ってしまった。いわゆる電話アンケートだ、これほどぶしつけなものはない。世論調査なるものが出される。その結果は実感とかけ離れている、アンケートに答えている人はよほど暇な人なのではないか。おかしな結果を踏まえてどんどん国家は右傾化していく、情報操作の恐ろしさを思う。

 この間、桜祭りで野沢から来られた古老に会った。大正9年生まれの96歳、坂田正晴さんだ。聴くと、駒沢ダイダラボッチ、すなわち鶴ヶ久保公園のすぐそばに住んでいるという。

 昨日、その野沢のお宅を訪れた。野沢稲荷神社のすぐ側だた。お宅で話を伺った後に、公園に一緒に行った。入り口に「東京市鶴ヶ久保公園」 、「昭和十三年四月開園」と左書きで記されている。

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2017年05月11日

下北沢X物語(3276)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考供

DSCN0046(一)「ダイダクボ」という言葉はいつから用いられていたのか。言葉としては大正期から昭和期に書かれた記録や絵図にこの言葉が二例見つかっている。沢筋の凹みが「ダイダクボ」と呼称されてきていたことは事実である。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み」ということだろう。言葉そのものに伝説性がある。ここの字名は「鶴ヶ久保」である。これは徳川吉宗公によって「この地を鶴ヶ窪と名付け、そこに弁財天と、水神を祀り、鶴ヶ窪弁財天と名付けられた」(『しもうま』)ことに由来している。江戸時代の伝説に基づいたものだ。

 当該地区の下馬や野沢は北から南へと連なる荏原台の東端に位置する。環七と野沢通りが交差する龍雲寺交差点辺りを起点にした舌状台地が東に延びている。代田窪はこれの北側の谷懐に当たる。地形的には沢の伏流水が自然に湧き出てくるところだ。弁財天を祀ったところ忽然と水が出たというのではない、遙か昔から水は湧いていたに違いない。

 ここで興味深いのは地形である。東に延びた舌状台地の先端に駒繋神社がある。見事な舌状台地である。その縁を舐めているのは蛇崩川である。こんもりとした丘が形成されていてここに大国主命が祀られている。興味深いのは、この舌状台地は「子の神丸」という字名がついている。有り難い神社を台地が頂いているからだ。この神社のホームページではこう謳う。

駒繫神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。
 
 「鼠に助けられて、難を逃れた大国主命」というのは有名である。「子の神」もここから来ている。しかし、面白い話がある。子は十二支のことだが方角をいうものでもある。北である。

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2017年05月10日

下北沢X物語(3275)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考〜

DSCN0050(一)荏原域内に「代田窪」、「ダイタクボ」と呼称する地名があった。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み(足跡)」だと考えてよい。個別野沢にあった窪みだけをいうのでなく汎用的だった。碑衾村谷畑の、千束村の狸窪は、ダイタクボの一つではなかったか。窪みが都市化によって見えなくなり自然に消失した。もう一つは地名に対する都会的センスが生じてきて、音韻的には不細工だとして退けられたのではないか?

 「ダイダクボ」は、その地固有の地名ではなく汎用的なものであった。恐らくは荏原各所で言われていた。が、これは伝承されなかったことで消滅した。が、今もこの地名が残っているところがある。それは埼玉県浦和市、いまのさいたま市だ。ここに太田窪が残っている。

 角川日本地名辞典(11) 「埼玉県」で調べるとこうある。

 だいたくぼ 太田窪 <浦和市>

 太田窪(郡村誌・新編武蔵)・大多窪とも書いた。県東南部、芝川右岸の大宮台地上に位置する。地名はダイダラボッチ(伝説上の巨人)に由来するという。地内には縄文前期の太田窪貝塚、縄文中期・後期の大在家遺跡・善前北遺跡がある。


まず第一点、興味深いことは、「だいたくぼ」を「太田窪」と表記していることだ。
 つぎに第二点、「ダイタクボ」の名称の起こりだ。これはダイダラボッチに由来するという。窪はそのダイダラボッチによってつけられたへこみをいうのであろう。つまりは巨人の足跡だ。
そして第三点だ、ダイダラボッチに対する考察を行ってきたが「古蹟」は重要なポイントだ。つまり古くからの遺跡の存在だ。当地には縄文時代からの貝塚などが存在するという。

 「ダイタクボ」は、「ダイダラボッチがつけた窪み」、窪みゆえに水が湧出する。この水は生活にとって欠かせないものだった。それでダイダラボッチに湧出する水源を古代人はとても大事にした。
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2017年05月08日

下北沢X物語(3274)〜近傍の民俗学:代田窪考掘

DSCN0049(一)昭和の初期頃まで、今の鶴ヶ久保公園は「ダイダクボ(代田窪)」と呼ばれていたようだ。この言葉はかなり古くからあったものだと考えてよい。意味としてはダイダラボッチが刻んだ窪地・足跡という意味だろう。この土地、典型的なダイダラボッチである、三つのKを見事に満たしている。まず、くぼんだ地形(巨人の足跡とされる)であること、次に神が祀られていること(湧水を護る鶴ヶ窪弁財天)、そして付近に古蹟があることだ。
 
先に、雑誌『武蔵野』、第二巻第二号(大正八年七月発行)の「駒澤行」を紹介した。ここに「明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある。」とある。明大の運動場は明薬大に譲渡されたようでここの遺跡は「明治薬科大遺跡」とされている。ところが東京都教育委員会の遺跡地図によるとここは、「鶴ヶ久保遺跡」とされている。時代は、[旧石器時代][縄文時代(中期〜後期)]で数多くの出土品があると。

距離がやや離れているのになぜ「鶴ヶ久保遺跡」としたのか。住居跡が発見されているころからここの水源が鶴ヶ久保だったのではないかとも想像される。考古学的には代田窪という名称の方が価値があるように思えるが「鶴ヶ久保」の名をかぶせている。

 昭和十一年四月、鶴ヶ久保公園は開園した。名称論議というのはあったはずだ。公園に関わったのは土地区画整理組合だ。土地の持ち主が中心ゆえに構成員は土地の名をよく知っているはずだ。

「あそこは代田窪と言われているから代田窪公園ではどうか?」
「いやあ、それはあまりに土臭いですよ。近隣に師範学校もでき、先生たちの家なんか赤い屋根瓦でかっこいいじゃあありませんか。これからこの土地は発展しますよ」
「そうそうそういえば今年の正月に大井町線の蛇窪駅が、戸越公園駅に変わったじゃないですか、人気が出て土地の値段もあがったそうですよ……」
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2017年05月07日

下北沢X物語(3273)〜近傍の民俗学:代田窪考供

DSCN0042(一)「いやあ、全く聞いたことはありませんね」と。鶴ヶ久保公園のベンチに座っていた二人のお婆さんに聞いてみた。「ダイダクボ?。それも聞きません」と。だいぶ前から近隣の人に尋ねているが色よい返事はない。しかし、文献から二例、ここを「ダイダクボ」、「代田窪」と呼称していることを知っている。


 かつて「鶴ヶ久保」は代田窪として呼ばれていた、ダイダラボッチの窪みという意味だろうと思う。このことが知られていたことから当時の人々はここを「ダイタクボ」と呼んでいたものだろう。

  柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』ではダイダラボッチの痕跡を訪ねたことを記している。まずは代田のダイダラボッチを訪ね、そして、次に駒沢村にあるこの痕跡に向かった。このときのことを回想して書いている。

 足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあつた。道路のすぐ左に接してこれも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれてゐる。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、なんでもこれから東南へなほ七八町も隔てた雑木林のあひだであった。附近にはいはゆる文化住宅が建とうとして、盛んに土工をしてゐたから、或ひはすでに湮滅したかも知れぬ。
 「柳田国男集」現代日本文学大系 20 筑摩書房 昭和四十四年


 まずこの場所を特定するのに時間がかかった。「玉川電車から一町ほど東」に惑わされた。しかし分かってみると何のことはない。「小学校と村社との中程」とあるが、前者は旭小学校であり、後者は野沢稲荷神社である。玉川電車の通っていた大山街道から南に向かっていくと学校を右に見ていくと、野沢神社への坂へかかる左手に沢がえぐれた窪地がある。現在の世田谷区野沢二丁目四番の区立鶴ヶ公園である。

 柳田が訪ねた時期は、「七年前に役人を罷めて気楽になったとき」とあるから、貴族院書記官長を辞した大正八年(1912)十二月以後のことだ。しかし、記述からも分かるとおり公園にはなっていなかった。「草生の斜面を畑に切り拓いて」いた。畑や野っ原があって窪みには湧水が湧き出ていた。古老の記憶によるとそこには幹の太い藤の木があったという。
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2017年05月05日

下北沢X物語(3272)〜近傍の民俗学:代田窪考〜

DSCN0041(一)世田谷代田の語源はダイダラボッチである。巨人の足跡が残っていたことからこの名がついた。地名の起こりとしては極めて珍しいものだ。当地には今もこの伝説が色濃く残っている。代田のダイダラボッチを広く世に知らしめたのは柳田国男である。彼は、代田のダイダラボッチを実際にフィールドワークした。そしてその足で駒沢のダイダラボッチを調べた。ここで彼は、ゲホッ!と驚いた。代田と駒沢とでは足跡の向きが違っていたのだった。ダイダラボッチは一人ではない、複数の巨人がいて東京の空を縦横に闊歩していた。ある日、どっしんという音が響いた、その瞬間大地が震えた。そして次に上空でバビュンと空気を切る音がした。間をおかず屋根にバラバラと音がした。「巨人が通っていったぞ!」、村人はびっくりして空を見上げた。これらの現象を柳田国男は「巨人来往の衝」と述べた。

 世田谷代田では巨人の足跡はよく知られている。地下化した世田谷代田駅は駅前広場の整備をしていく。この整備コンセプトは、「富士山が見えるダイダラボッチの駅前広場」だ。素晴らしい、地上駅に出たとたん、眼の前にでっかい巨人の像「そうだったか、ここは巨人伝説のふるさとだったのだ」と下車した人々が感動する。イメージにあるのは茨城県水戸市にある「大串貝塚ふれあい公園」のダイダラボウ像であった。ところが像を造る予算はない。残念、が、それでも広場に「ダイダラボッチの足跡」が刻まれると。

 一方である、駒沢のダイダラボッチは知られていない。理由としては地名として生きていないという点はあるだろう。ところが地形形状は今もそっくり残っている。絵になるほどだ。昨年、某新聞社の記者がダイダラボッチ伝説を調べにきた。世田谷代田では絵になるところはない。それで絵が写せるところの野沢までそのために歩いて行ったことだ。

ここには絵がある、くぼんだ池があって、湧水がこんこんと湧き出ている(今は循環水だ)そして池のそばには弁財天が祀ってある。ダイダラボッチのお約束が三つそろっている。すなわち3Kだ。Kubomi Kami Kosekiである。窪み、守り神の弁財天、そして古蹟だ。このすぐ北に旭小学校がある。北丸遺跡といって縄文時代中期の土器や石器が出土している。

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2017年05月04日

下北沢X物語(3271)〜近傍地域の民族学を訪ねる供

DSCN0036(一) 「名前は土地に 波動をあたえる」(詩「地名論」)と言ったのは大岡信である。「この坂は何というのですか?」と聞いたら、「テコテン坂というのです」と返ってくる。とたん、「ゲホッ!」と叫ぶ。地名の波動だ、「テコテン」、聞いたとたんに手が動き出しそうになる。「月夜の晩にタヌキが出てきてテコテンと踊っていたそうなんですよ」と聞くと、「やはりなあ」と笑みがこぼれる。しかし、テコテン坂で、何度も人に聞いたが反応は全くない。地名は波動力を失っている。

 テコテン坂の南は深く沢が切れ込んでいる。今はそこに鶴ヶ久保公園がある。この地名には由来がある。

 鶴ヶ久保は、八代将軍徳川吉宗が狩りに来て傷ついた鶴を追ってくると、湧水池で鶴がきずをいやしていたことからいうようになったとされます。
 『ふるさと世田谷を語る』(上馬・下馬…編)


 よくある話である。地名の波動をうまく使った例だ。しかし、どうもこの逸話は牽強付会だと思われる。このような創作地名が、本質をはぐらかす。

 『武蔵野』という雑誌がある。その第二巻第二号(大正八年七月発行)に「駒澤行」(武蔵野会遠足記)という記事がある。一行は、駒繋神社から西澄寺を経てさらに西に向かったところで蛇崩川を渡り、坂道に掛かる。

 その箇所の見出しは、「包含屬ダイダラボッチと檢知碑」だ。

 明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある。鳥居、大野、村高の諸先輩の詳細説示されてゐる場所である。その先にダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池があり古来灌漑用にの水源となつてゐる。伝説に曰く、此処はダイダラボッチの足跡でこの凹地に入り土地を堀り木を伐ると罰が当たると、蓋し水源保護のためだろうと。

 大正時代の話だからこの説明ではちんぷんかんぷんだ。この「坂道」は今もある。西に向かって坂を上ると左手が「アクティ三軒茶屋」という大きなマンションだ。ここがかつての「明治大学運動場」だった。ここは「明治薬科大遺跡」でもある。ダイダラボッチのあるところに遺跡がある、これはこの当時のお約束だった。

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2017年05月02日

下北沢X物語(3270)〜近傍地域の民族学を訪ねる〜

DSCN0040[1](一)荏原逍遙では、ダイダラボッチ跡をよく回る。南に行っても北に行ってもぶつかる。この頃思うのは伝承の濃度である。この濃淡が大きい。前にダイダラボッチ伝説のある洗足池そばの児童公園を通り掛かった。と、男児が「ダイダラボッチ!」と唱えて飛び跳ねた。「オヒョウ!」、心底驚いた。しかし、これは伝承性は薄い、偶然唱えたところに自分が行き会わせただけだ。やはり濃度が濃いのは代田である。多くの文献に記録され、また古老が覚えてもいる。一方、濃度は薄いのだが間違いなくダイダラボッチ跡だというのは野沢である。その鶴ヶ久保公園はよく通る。昨日も通った。古老に出会うと聞くことにしている。「あそこはダイダラボッチか?」と。その答えはいつもノンである。
 
 下馬や野沢は面白い、が、まだまだ分からないことが多い。これは上馬の話だが、一丁目に「うなり石」があったという。これも心惹かれる。記憶にあることは二つ、年老いた母親を大山方面へ捨てにいこうとしたところうなり石が唸った、「やばい!」と息子は母を連れ帰ったと。もう一つ、旭小学校に通っていた子が途中にこれがあったので避けて通ったと。味のあるいい話だ。が、このうなり石はみつからない。

「『うなり石』は知らないけれど、二二六事件の首謀者安藤大尉の家のあったところは知っている」
 石探訪中真中で聞いた。文化探訪はイレギュラーバウンドである、本命はわからなくても筋違いの真実に行き会うことはよくある。
 
 筋違いといえば鉄塔とダイダラボッチだ。この頃は街歩きは案内する方は降りて、企画に専念している。九月行事の調整をしている。先に品川用水を歩いたとき、「取水口へ行こう」との声があった。それで渡部一二先生に連絡したら体調不良とのこと。さてどうするか?そんなときにふと新企画を思いついた。

 「駒沢・代田のダイダラボッチを歩く」である、荏原二大ダイダラボッチ訪ねるというものだ。ところが間が持たない。野沢から代田へ、ダラダラダイダラボッチをしても気合いが入らない。
「が、待てよ、この二つを結んでいるのは線ではないか!」
 すばらしい思いつきだ。二つのダイダラボッチを駒沢線沿いに歩く。
「皆さん見てください、新型火力特急が走っています。原発事故を契機に新しい火力発電所ができて、それが今どんどん駒沢線に走るようになったのです」
 この冗談は通じるか?野沢は駒沢線、39号、代田は70号である。

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2017年05月01日

下北沢X物語(3269)〜会報第130号:北沢川文化遺産保存の会〜

戦争経験を聴く会、語る会
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第130号    
           2017年5月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、5月は戦争月間・催しを二つ開催 

 昭和二十年(1945)五月二十四日、二十五日、当地一帯は重爆撃機B29による空襲で大きな被害を受けた。いわゆる山の手大空襲と呼ばれるものだ。三月十日の東京大空襲はよく知られている。これは279機のB29が飛来してきて、1665トンの焼夷弾を落とした、一方山の手大空襲の場合は、「両日で6,900トンの焼夷弾に見舞われ、約30平方キロの市街地が焼かれた。そして東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」と。東京大空襲の倍の爆弾が落とされた。これがどれだけ戦略的な価値があるのか、飛来機数と爆弾投下トン数が如実にそれを端的に証明している。この狙いは、東京の中枢を徹底的にたたくことだった。これが成功したことで、東京は焼夷弾攻撃のリストから外された。いえば日本軍はこてんぱんにやられてしまったということだ。
 ところが、戦争は終わらなかった。八月六日に広島に、八月九日に長崎に原爆が投下されてようやっと日本は降伏をした。もっと早くに戦争を終わらせていれば、多くの悲劇は生まれなかった。はり戦争指導者の責任は問われるべきものだ。
 当地でも被害はあった、代田や大原は焼け野原となった。代田在住の知り合いの一人は、「私の祖母も、この山手大空襲の犠牲者。享年47。世田谷だけで、88名もの命が失われました。3月10日の東京大空襲の莫大な数がため、光があたっておりませんが、忘れてはいけない世田谷の歴史です。」と。
 昨今は、日本近海での国際的な緊張の高まりで場合によっては戦争になるかもしれないとの報が行き交っている。しかし一旦綻んだ平和は、なかなか繕えない。戦争が始まると憎しみは増幅するばりで、その間市民の犠牲が増えていく。それを知る戦争体験者はこう語ってきた。「どうあっても戦争はするな」と。
 戦争をすることよりも、しない方の選択肢を選び、粘り強く平和を求めていくべきである。これを伝えることは大事だ。今年は戦後七十二年目を迎える、改めて平和のありがたさを見直すために二つの戦争関連の催しを開くものだ。

\づ鎮の戦跡を歩く

 ここ数年、駒澤練兵場を中心に街歩きを続けてきた。当地一帯、三宿、下馬、三軒茶屋そして駒場には広大な軍事施設が存在した。しかしこのことはすっかりすっかり忘れ去られている。現在の昭和女子大は、かつては近衛野砲兵の兵舎と馬屋とがあった。
 例えば、「近衛陸軍砲兵二等兵」門屋 古寿 昭和五十三年刊)があって近衛野砲兵営でのエピソードが書き綴られている。

「馬は利口だぞ。きさまらが、こわがっていると馬になめられる。きさまらに馬をわりあてるから、可愛がってやれ。朝、昼、夕方、夜と、一日四回対面するんだから、そのうち可愛くなるよ。(馬の「たてがみに」や尾に、白い布をつけたのがいるが、何の印かと質問したところ「たてがみ」はかみつく、尾は、けとばすくせの馬だ。馬は、おく病だからけっして、だまって近づいてはいけない。まして、こんな印のある馬においてはなおさらだ、とのことである。)」

馬と人とがともに生活をしていた。ここには多くの苦労があった。日々訓練に明け暮れ、そしてここから前線に兵士たちは出ていった。世田谷下馬には野砲兵聯隊が三つあった。そのうち、野砲兵第一連隊は、フィリピンレイテで玉砕している。
 そういう忘れられた歴史を追悼するためにこの行事をずっと続けてきた。それがいつの間にか十年も経ってしまった。 開催期日は5月20日だ。午後1時に田園都市線中央改札口に集まって、出発する。詳細はこの後に出てくる街歩きの案内で確認されたし。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

 私たちは下北沢一帯の文化を掘り起こしてきた。ところが一つのことに気づいた。すべてのことが戦争に関わっていたことだ。この街は戦争を契機に大きく変わった。その原点が太平洋戦争である。このことからやはり当地の文化を知るには戦争経験を聞く会を開くべきではないかと思ってこれを始めた。最初は気軽なもので特に続けるつもりはなかった。が、思えば、この会が眠っていた近代戦争史を掘り起こしたと言える。
 大きなトピックで言えば、「鉛筆部隊」である。戦争中、世田谷の代沢国民学校は浅間温泉に疎開した。ここで分宿して生活をするがその一つの旅館の引率担当の先生がいた、その柳井達雄先生は受け持った学童を「鉛筆部隊」となずけ、ひたすらに鉛筆で文章を書かせた。そんな彼らのところに特攻隊がやってくる。思いがけないふれあいだ。
 これらのことは地元でも知られるようになり、2015年10月に松本市の護国神社に建った「特攻勇士の像」には次のように碑に刻まれている。
 
 松本市内には、出撃を待つ多くの特攻兵が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立っていきました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童たちと暖かい交流もありました。

 これは我らの会の戦争エピソードの掘り起こしに端を発したものである。これは誇ってよいことである。
 今回十回目は十年目ということである。節目でもある。「疎開学童ゆかりの特攻隊」とした。この話も近代戦争史の中にひっそりと埋もれていたものだ。いわゆる疎開学童と特攻隊のふれあいは「鉛筆部隊」代表される。この場合は代沢国民学校の疎開学童と彼らとの物語だ。が、今回のは違う。学校は東大原国民学校である。浅間温泉ではやはり複数の旅館に分宿していた。そのうちの一つが富貴之湯である。浅間一の大旅館で東大原小の女児が宿泊していた。ここにやってきたのは武揚隊である。やはり代沢国民学校の学童と接した武剋隊と同様、満州第二航空師団で編成された兄弟隊である。
 この隊の歴史の全貌が最近になってようやっと分かった。たぐいまれな特攻を行っていることが分かった。彼らの乗機は当初15機だった、ところが遠距離特攻へ旅立つ過程においてつぎつぎに機数が銃撃を受けたり、事故に遭ったり、壊れたりしてついには三機となってしまった。が、三次にわたって最後の最後まで出撃していった。この歴史が明らかになったのは東大原小機縁である。

 ”靈搬發論間温泉富貴之湯に滞在していた。ここには東大原国民学校が疎開していた。
 東大原小の疎開学童を探したところ当時五年生だった人が二人見つかった。彼女らの証言から分かったことは武揚隊の長谷川少尉と深い接触があることが分かった。この彼は『きけ わたつみのこえ』に手記を残している学徒出陣した長谷川信であった。
 ネットで長谷川信のことを調べて載せていたところ、「武揚隊 信州」で当ブログを 探し宛てた人がいた。安曇野の丸山修さんである。彼はかかりつけの歯科医に自宅にある資料の調べを頼まれていた。何とこの人は武揚隊の遺墨持っていた。
 せ郵餾濬擦良靈搬眤眥垢琉簑欧資料を上京して持参された。「山本君の霊前に捧ぐ」という菱沼敏雄氏の手記ほか手紙である。新資料である。


 これらのことを通してこの隊の悲劇的な全貌が分かった。波乱万丈特攻三千里である。まずは苦難の旅だ、新京、各務原、松本、各務原、新田原、済州島、上海、杭州、そして台湾海峡を越えて八塊へ。この間につぎつぎに機を失っていく。しかし、残存部隊の九名は八塊飛行場から三次にわたって出撃をしていく。第三次は終戦間際の七月十九日だ。これは陸軍最後の特攻であった。
 彼らを指揮する第八航空師団は、六月に入って特攻作戦が効果を上げてないことからこの総括に掛かった。しかし、それでもは七月十九日に敢行した。戦史叢書は記録している。「第八航空師団では牽制等の目的」でこの日に行ったとする。言ってみればデモンストレーションである。見方によってはみせしめ特攻と言えないか。
 当日、藤井清美少尉と飯沼芳雄伍長の二名が出撃した。が、前者は特攻戦死が認められたが、後者は戦果確認ができずに陸軍特攻戦死者名簿には載っていない。いわゆる陸軍特攻戦死者にもくわえられていない。言えば、武揚隊の苦闘は「波乱万丈特攻三千里」だ。

 期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
 会費・定員 無料、先着順70名


2、都市物語を旅する会
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前  
 第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで


第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合  山手線恵比寿駅南口近く
 恒例 三田用水跡を歩く(第2期第4回) キュレーター きむらたかしさん  
コース:同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→ 銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→ 旧三田用水普通水利組合事務所跡→ 山手線目黒驛南水路橋跡 →鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡 → 旧上大崎村溜井新田跡 →日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡 → 午後5時 JR五反田駅解散
第130回 7月15日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
日比谷駅→二重橋前駅→東京駅→大手町駅

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲「下北沢文士町文化地図」改定七版は現在無料配布中である。この地図と紀要第5号「代田のダイダラボッチ」は世田谷邪宗門でも手に入れられる。なお、紀要は公的な研究機関などが所蔵したい場合には寄贈したい。当方に連絡を。26行×33文字、20ページ。二段組み
▲第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
▲図書の寄贈 大阪市北区に住まわれる猪伏 昌三氏から本が送られてきた。
 平和の空よ 永遠に 〜東満の地に果てた幾万同胞と現地の人々に捧ぐ〜
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。




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2017年04月29日

下北沢X物語(3268)〜桜受難2017年春〜

DSCN0028(一)今年の春の天候は異常だった、端的に表れたのは桜だ、咲き方が変だった。満開とはなったが枝の先端のつぼみは開かない。変な咲き方をして今年の桜は終わった。受難はまだ続く、満開を最後のとして老木はお役ご免、次々にばっさばっさと伐られつつある。我が家の前にある呑川上流でのことだ。「こんな立派な桜の木を切るやつがあるか!」、カンカンに怒って抗議する人もいる。が、桜にも寿命がある。ほとんどが染井吉野である。人間の手によって作られた木、園芸種のこの樹はひ弱だという。耐性を持たないこれは今各所で枯れ始めている。

 日本人が最も好むものは桜と鯛だという。正宗白鳥に「花より団子」というエッセイがある。

洗足池畔の私の家の向ひは、東京近郊の桜の名所である。私は、終戦の前年軽井沢に疎開して以来十数年間、毎月一度は必ず上京してゐたが、盛りの短い桜時には、一度も来合せたことはなかつた。この頃、こゝに居を定めることになつたので、久振りに花の盛りを朝夕たつぷり見ることが出来た。急速に温くなつたので、見る/\咲揃ふやうになつた。「細雪」のなかの或女性は、花のなかでは何が好きかと訊かれて、「それは桜やわ」と答へた。たべ物としての魚類のうちでは何が好きかと訊かれて、それは鯛であると答へた。日本人としての平均した好みはさういふところなのだらう。
 
 洗足池にはよく行く。この池畔に正宗白鳥が住んでいたといのはつい最近知ったことだ。谷間の丘上にあって向かいの「桜山」がよく見えるところだ。
 ついこの間、満開のときに洗足池へ行った。が、往事の面影はここにはない。老木だらけのそこにはロープが張られている。枯れて倒れてくるときもあるのだろうか。それにしても老桜はみすぼらしい。「桜の名所」というには木々が貧弱だ。
しかし、花より団子、桜が咲いていなくても出店が花を広げている、人々は桜をみずに食い物を探索して、気に入ったものがあればぱくぱくと食っていた。
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2017年04月28日

下北沢X物語(3267)〜文化探訪12年:歴史の落ち穂拾い〜

P1050734(一) 「あなたたちのような人もいないと世の中回っていかない」地図配りを通して街の歴史を拾っている。この我らの活動を知っている人がいた。代沢小学校の警備のおじさんだった。人々が取りこぼしたものを拾っていく、こういうことも社会には必要なのだと思う。この代沢小の「鉛筆部隊」も落ち穂拾い活動で発見されたものだ。これによって人に知られるようになった。満州から飛来してきた特攻隊員と疎開学童とが接触していたという逸話だ。実はこの物語まだ終わっていない。鉛筆部隊では武剋隊が主であった。ところがこの陰にはもう一隊がいた。武揚隊だ、この情報が新たに入ってきて追跡を続けている。編成時の機数は十五機だった。それが特攻出撃の過程で次第に数がどんどん減っていく。それは惨憺たるものだった。戦闘機はついに三機となってしまう。故障破損、接触事故、撃墜と続いた挙げ句のことである。これも知られざる逸話だ。

 文化探訪は、イレギュラーバウンドだ。求めようとしたわけではないのに別の真実に行き着く。忘れがたいことがある。だいぶ前、自転車で梅丘を通り掛かった。旧家でケヤキの枝を伐っていた。その宇田川家はぐるりと大欅に囲まれていた。その剪定である。
「昔はね、この枝を大森の漁民が買いに来ていたものだよ…」
 当主が教えてくれた。
「へぇ、そうだったのですか?」
 感心する話であった。ところがこの話、充分に理解していたわけではない。このときからしばらく経って偶然にこの話の真実が、「ことん」と胸に落ちた。

 文化探訪は、のべつまくなしではなく、その時期、その時期にトピックがある。例えば、高圧鉄塔駒澤線もその一つである。思い入れが強く調べに夢中になる。この鉄塔には番号が振ってある、数字の少ない方を「若番」、多い方を「老番」いう。

 不思議なものだ、鉄塔は青春を惹起する。「誘われて若番へ」との冒険だ、NO1はどこにあるのか。ずんずん行ってしまう。とたどり着くと別線、千鳥線だ、やはり番号が付いている、その鉄塔から鉄塔へ、鉄塔千鳥線紀行というのもまた心惹かれるテーマだ。

 鉄塔線をたどれば真実が見えてくる。駒澤線の前身は桂川電力だ、山梨県の桂川で起こした電気を高圧線で東京に運ぶ、駒澤線、千鳥線をたどっていくと六郷に着く。そばに京浜急行が走っている。ここの変電所に電気を送るために長距離の送電線が敷設されたのだった。


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2017年04月26日

下北沢X物語(3266)〜下北沢駅の地下道の話を聴く会供

DSCN0020(一)古老とは風景の長いトンネルを生きてきた人だ。その記憶に街の歴史が刻まれている。今年90歳になる石川寿男さんは当地で生まれ育った人だ、彼の記憶風景の中で駅は重要である。親とともにお出かけしたり、奥さんを出迎えたり、また子どもを見送ったりもした。彼は写真の片隅に写った駅の架線柱を見て、小田急線か井の頭線か容易に判断がついた。橋脚や踏切、風雪に耐えてきた駅という風景が彼の記憶に残っている。図を描いてほしいという要望に石川さんは、かつての駅を略図に再現してくれた。そこには地下道があり、踏切もある。そんな中埋もれた踏切も見つかった。

「お地蔵さん踏切があったな」
 かつての小田急線下北沢2号踏切だ。この側に電車に轢かれた人々の慰霊碑がある。踏切がなくなってもこれは今も存在している。
「その下北沢寄りもう一本、そして駅ホームの端にもう一つあった…」
「ああ、跨線橋になっていた踏切、あのラブホテルの裏ね、あれが下北沢1号踏切だったんだ。それは知っているけどもう一つは知らない。」
「井の頭線の橋脚に沿って一本あったんだよ」
「ああ、あれあれ富安好恵さんがよく子どもを連れていったという跨線橋ね、あの代わりになるものがあったんだ」
 これは米澤さんだ。
「ということは、下北沢零号踏切にあたるんだ。おもしろいのだけど、小田急線乗客が増えるにつれて車両を増やしていくそうするとホームが足りなくなるので延ばす。それで踏切を潰してしまうんだ。

 0号踏切の写真を石川さん持っていた。『小田急開業80周年記念特集』だ。ここに「1957年、4両ホームの下北沢駅」とキャプションにはある。こういう記録は大事だ。 にる、昭和32年では四両編成しか止まれない。この後に延伸されて0号はホームに食われなくなってしまった。
 この写真、下北沢駅の井の頭線から小田急線のホームへ跨線橋が架かっているのが見える。その向こうには下り線をまたぐ建物が写っているように見える。あるいはこれが小田急をまたぐ自由通路なのかもしれない。

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2017年04月25日

下北沢X物語(3265)〜下北沢駅の地下道の話を聴く会〜

DSCN0023(一)その駅の地下道には郷愁がある、薄暗く小便臭い、独特の雰囲気があった。時に潜り抜けるときに頭上に「グドングドン」と電車の車輪が響きもした。そこは旅立つときの一つの結節点であった。例を挙げる、すなわち、昭和十九年八月十二日夜の十時過ぎ、代沢国民学校を出た学童の行列はここにさしかかった。リュックを背負った子どもたちが下北沢駅南口の地下道の階段を下りていく。暗く薄汚い穴蔵だ。「ここをまた潜るときがくるのかなあ?」一人が言った。疎開に行ったらもう帰ってこられないかもしれない。普段何とも思わなかった地下道がこのときは特別に思えた。

 しかし、この地下道の歴史はよく分かっていない。ついこの間、BS放送「TOKTYOディープ」という番組でこの地下道のことが取り上げられた。「生まれも育ちも下北沢南口」というレコード店店主の椿正雄さん(58)がインタビューの中で答える。店を南口で35年間営んできたという。

「下北沢の「南口がなくて北口しかなくて南口の住人は、そこらへんにトンネルがあって線路の下くぐって反対側に(行った)」
「じゃあ、駅降りてもこちらには簡単にこれなかったんですね?」
「そうです」
 南口に出るには地下道を潜っていかなくてはならない。それで開発が遅れていたと。
「南口の人間は北口のことに明るくなくて(北口に)行くと緊張して…同じ街なのに違う街にいくみたいだった…」


 この椿さんの話は戦後の話である。地下道がだいぶ後まであったことを証言しているわけだがいつまであったのか分からない。人によって記憶がまちまちだ。

 地下道が南と北とを分ける境界だった。ゆえに北と南とではとらえ方が違う。この間、北口の一番街を通りかかったので薬屋のご主人に聴くと地下道があったことを知らない。分かったことは北口方面にいる人はこれを覚えていない。だからこれを聞くには南口領域に住んでいた人に聞くに限る。

 「東京ディープ」のディレクターはこの地下道の話が証言者の口から出てきたことで方々に当たったと。小田急にも京王にも問い合わせたが分からなかったと彼女は言っていた。裏を取るために念入りに調べても不明だったと。それ以来、こちらも多くの人にこの問題を問いかけていた。そんなとき地下道をよく知る古老がいるとの情報を得た。

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2017年04月23日

下北沢X物語(3264)〜文化を求めて漕いで歩いて12年供

DSCN0095(一)物事に夢中になる性格だ、だいぶ前に鉄塔を懸命にたどっていったことを書いたら、「まるで鉄塔少年のよう」と言った人がいた、そういつも少年のように夢中になる。しかし鉄塔たどりが一つの文化ラインの発見につながった。高圧鉄塔駒沢ラインは、都鄙境界ラインである。わかりやすく言えば「場末」だ。駒沢線鉄塔57号脇に住んでいた三好達治は、そこを寓居といい、場末と言った。この都会との間合いが大事だ、田園と都市の境にこそ芸術文化は生まれる。当文士町の根幹である。
 
 「生まれる」と述べたがこのプロセスに物語がある、昭和六年、鉄塔61号下に土地を検分にきたのは萩原朔太郎だ、このときに娘の葉子もついてきていた。彼女はここへ来て「竹の子を見ていた」(『蕁麻の家」)その「眼を今度は外に向けると、すぐに眼の前に高圧線鉄塔が見えた」と。候補地は竹の子のできる竹藪だった。そこに詩人自身の設計による家が建った。高い鉄塔は必ずや意識されているはずだ。そして完成した家は「南側から見ると中世の城と寺院とを取りまぜたような急勾配の屋根が高く見え、遠く方からもすぐそれと分かった」、竹藪に忽然と「東ヨーロッパ風の新鮮な感覚」の家が建った。土地の人々にとっては驚きだ。家は二階屋である。

 かつては平屋がほとんどだった。五六十代の人に聞くと家の中に階段のある家は珍しかった。友達の家の二階からよく外を眺めていたという。こんな例がある。


 我が家の新築現場は、距離を隔てて南面に根津山の鬱蒼たる樹木が遮っているほかは、三面黒々とした火山灰土の畑が起伏を伴い、その間間に藁葺き屋根の農家が点在する僻村に似た環境だったから、そこに突如として建てられた二階屋は商店や農家に興味尽きない話題を提供したようなものだった。
 『代田とわたし』小谷野修 昭和59年刊


 時期は昭和三年三月であるようだ。当時の状況が眼に浮かぶ、周りは黒土の畑ばかりだった、「僻村に似た環境」こそは都鄙境である。前年の昭和二年に小田急線が開通して急速にこの一帯は開けてきた。

 亡くなった代田の古老、今津博さんは当地に越してきたのは昭和六年だった。

 ひ弱な兄弟の生育に不安を持っていた両親は、郊外住宅地への移転を考え、開通間もない小田急線沿線に目をつけたのだろう。連れていかれた世田谷中原駅(世田谷代田)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前、そして道の両側にはぼちぼち商店はあるものの、畠…竹藪…こんもりした林…。それより巨大な鉄塔が建ち、線路の上空をまたいで通る高圧線。こんな物は山の中にあるものと思っていたのに。
 ぼくはこんな田舎に住むの! 『昔の代田』 今津博 2007年

 
 少年は「僻村に似た環境」に出会って衝撃を受けた。周りじゅう畠や竹藪ばかりだ。閉口したのは肥だめのにおいが、あちこちにあって銀蝿がたかっていた。

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2017年04月22日

下北沢X物語(3263)〜文化を求めて漕いで歩いて12年〜

DSCN0247(一)当、ブログの初回の01は2004年9月13日だ。始めてもう12年超、文化探訪を続けて一回り、固有のにおい追い求めての旅である。当初は、自転車だった、途中から徒歩に変わった。ひたすら漕ぎ、そして歩いてきた。総距離は分からない、苦闘三千里である。数え切れないほどの人から話を聞いて聞き、万巻もの資料に当たってきた。このプロセスにおいて眠っていた歴史を掘り起こしもした。この頃になっての新たな気づき、それはイレギュラーバウンドが文化なのではないかということだ。筋違いの情報に真実は眠っていると…

 今、考えると「小耳に挟んだこと」、「ふと聞きさしたこと」の集積から多くを発見してきた。その土地固有のにおい、文化は12年の年月を経ることで熟成してきたように思う。経年ということは大事だ、資料を得ても最初は分からない。時間が経って、「ああ、これはあれだったのだな」と筋がようやっと分かってくる。

 手元に手書きの地図がある。自身、人に話を聞いたときに、そこの場の略図を書いてもらうことがよくある。書いてもらったのは2012年のことだ。もう五年ほど経つ。忘れないようにピンで留め壁に貼ってある。それを今取り出して見ている。

 世田谷代田二丁目に古くから住む木幡俊子さんに書いてもらったものだ。彼女のすぐ裏手が萩原朔太郎の家だった。詩人は臨終間近に「苦しい、苦しい」と言っていたと、それが聞こえてきて怖くて布団に潜ったと彼女は言っていた。

略図には代田円乗院そばの寺前橋たもとに「橋本八百二アトリエ」と記してある。当地との関連を調べると、「1936年(昭和11年) 文展招待展「沼畔」世田谷の自宅に橋本八百二絵画研究所を開設する」とある。弟子筋もここに出入りしていたのだろうか。

 地図には萩原朔太郎家のはす向かいには「中島中将」とある。著名な軍人として木幡さんは書き込んだものらしい。調べると中島今朝吾であるようだ。wikiには「日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。」とある。
 いわゆる南京事件において彼の日記は、事件を証明するものとして重要視されている。当人は第十六師団長として南京攻略戦に参加した。そのときの日記には、攻略戦において捕虜を取らない方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて「処理する予定」「そのためには大きな濠を要する」との記述があるとのことだ。彼は終戦直後の昭和二十年十月に病死している。代田が臨終の場だったのだろうか。
○注記 この中島中将については、きむらたかしさんから記事をアップした後に、コメントに指摘があった。日本紳士録には代田在住の陸軍中将として、「中島鐵藏 陸中将、世田谷、代田一ノ六三五▲松澤二〇七一」が記されている、この彼だと。
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2017年04月20日

下北沢X物語(3262)〜第127回街歩きは山梨ツアー了〜

DSCN0014(一)文化とはイレギュラーバウンドである。ひょんなところから情報が発掘される。甲州市塩山放光寺の住職から紅梅キャラメルの話が飛び出て話題になった。「へぇ、松原にそんなキャラメル工場あったの?」と。街歩きの歩きでは込み入った話はでない、しかし、車中だとひょんなことから地元文化が発掘されもする。ツアーに参加された原さん、「家の近くに明本京静という音楽家が住んでいました」と。作詞家であり、作曲家である。調べると「あゝ紅の血は燃ゆる」など、数多くの戦時歌謡の作品を残している。「湖上の尺八」は明本の作曲だ。歌っているのは伊藤久夫である。帝国音楽学校出身だ。明本は代田二丁目住まい、帝音のつながりがここでも出てきた。住所を調べると今も教わった番地に明本の名が認められる。また新たな発見だ。

 今回は山梨探訪だった。当地は文化濃厚である。我らのフィールドとも密接な関連がある。それは線でつながっている。今で言う高圧鉄塔駒沢線だ。かつてこの線は「桂川電力」の送電線だった。すなわち、山梨県を流れる桂川で電気を起こし、これを東京に送っていた。東京西郊の都鄙にこれは敷設された。高圧線鉄塔下は空き地だった、東からせめてきた東京という都市はこの縁辺まで迫ってくる、線沿い空き地は音楽に活用された。防火帯というのがあるが防音帯でもあった。少々音を出してもかまわない、音楽学校ができ、作曲家が住み、ピアノをかき鳴らしては軍歌を作りもした。「駒澤線軍歌ライン」と呼んでいる、あるいはイレギュラーバウンドで知ることとなった明本京静の場合もそうかもしれぬ。

 旅に出て知ることは多い。案内人の矢花克己さんは、笛吹市在住だ。居住区の真ん中を笛吹川が流れている。雁坂峠方向から流れてきて谷を削って甲府に流れていく。幸田露伴の『雁坂越』にはこんな記述がある。

 こういうように三方は山で塞ふさがっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合いが闊(ひろ)くなって、川が太って、村々が賑やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会甲府に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の人が甲府甲府と思っているのも無理は無いのである。

 辺鄙な山間から下っていくと、甲斐の国の都会に出るというのがよい。甲府の町が人々にとってはきらびやかな町だった。笛吹川をたどると甲府がある、川はその方向を示す重要な目印だったと分かる。
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2017年04月19日

下北沢X物語(3261)〜第127回街歩きは山梨ツアー掘

CIMG2787(一)甲斐路の旅は、少年時代に始まって今に至っている。愛着の深い路だ。しかし、現今では旅の形態が大きく変化した。かつてのメインは中央本線であった。が、今は中央高速である。景色の見え方がまるで違う。鉄道の場合、座席の右か左かでは違う。私は下りでは左を選んだ。列車から眺められる甲府盆地、南アルプスの景観がよく眺められる。心豊かになる風景だ。

 車窓は横の景色である。時に長坂あたりの線路際に桔梗を見つけて気持ちが明るんだ。が、中央高速の旅はチューブの中をぐんぐんと潜っていくだけだ、景色の味わいが少ない。汽車のように各駅で止まることはない。しかたなしにパーキングエリアで降りて用を足す。高速化時代では、プロセスが省略される。思うところに行けるという便利さはあるが、車の旅には途中の楽しみがない。

 今回のツアーに行った人からメールをもらった。

普通の観光旅行と違って、行きたいところにも降ろして頂き、最高の桃源郷、フルーツのフラワーラインは感動と興奮が冷めずです。
大井俣窪八幡神社の見学は思いがけず最高の収穫、宮司さんの説明や資料はとても分かりやすく勉強になりました。盛り沢山の観光を有り難うございました。


 やはり誰の目にもフルーツラインコースは感動だった。笛吹市から山梨市へ甲府盆地北斜面の果実園帯を抜けるのがこのコース。眼下に見下ろすサラダボールはあっちこっちがピンク色に染まっている。すべてが桃の花だ。
 遠くに目を転じると甲府盆地の山並みの北斜面が望める。そこの沢を銀色のドームが横切っている。リニア新幹線だ。自然風景の中にあって無粋だ。

 東京から地下を潜って、グゥグゥという音を聞いたかと思うと、地上に抜け出て「名古屋に着いた」という。こんな旅にどんな意味があるのか。この線、ほとんどがトンネルだ。掘れば掘るほどズリが出る。これの捨て場がない。南アルプスのどてっぱらをぶちぬいて隧道を掘る、あの山は人々の魂が還っていく場だ。一企業の裁量でこんな大工事をさせていいものか、かつまた、リニアは電気を多く食う。それで原発稼働を前提としている。原発そのものは既に破綻してしまっている。何かこの頃世の中がおかしい。

 高校時代、中央本線に乗って旅をしたことがある。勝沼から見える甲府盆地、空の青、山々の緑、お盆を突き抜ける川、大自然に圧倒された。が、今は中央高速が盆地を走り抜け、北辺にはリニア新幹線もできようとしている。自然の里が人工の里になりつつある。

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2017年04月17日

下北沢X物語(3260)〜第127回街歩きは山梨ツアー供

DSCN0009(一)高速道、パーキングエリアにおける人の表情は興味深い。談合坂では上りと下りとでは違いがある。飛躍するが品川駅で汚れたわらじの山があったと。お江戸に入るには新品に履き替える、装いを改める、上り談合坂での女子のトイレ使用時間が長いという。田舎の空気を落として都会時間に戻る。能における鏡の間だ、「私田舎臭くないかしら?」と点検するらしい。甲府盆地では人は固有の文化に色づけられる。景色であり、宗教であり、空気である。それを落とすために男子は、トイレでしずくをきっちりと切るという。


「山梨というが山ばかり…」、参加者の感想だ。
 フルーツラインを走った。笛吹市から山梨市へ甲府盆地北斜面の果実園帯を抜ける道だ、眼下に広がる紅色の絨毯が美しく眺められる。そればかりか遙か向こうの南斜面まで俯瞰できる。こういうところで育った人々には独特の世界観が育つのではないか。

 当地の観光パンフレットには、「風林火山」、「戦国の名将夢の足跡」と謳う。武田信玄の名言だ。

風林火山 –疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。

名将の世界観が端的に表される。泰然自若とした武将を思う、彼は高楼の座敷に座って甲州の山々と川とを眺めている。そのときにふと思いついた言葉だ、静けさの中で案出された、そこで思いついたのは山間哲学だ。海を眺めていてはこういう発想は生まれないのではないかと思う。

 我らは寺社を巡った、乾徳山恵林寺、高橋山放光寺、大井俣窪八幡神社の三つである。恵林寺は、「信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定め」たという。武田信玄の墓所がある。

 寺の「明王殿」には、「武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという、等身大の不動明王が安置されており、『武田不動』として尊崇されている」
 
 武将像である、作り手は「らしく」造る。しかし、人間、出会ったときの表情で分かることがある。生き生きとしている人は表情が違う、目が生きている。像は眼光鋭い、思うに、戦国武将は信仰に厚い、心を定めるところが不動明王だったのか。心に造形を信じることは大事だ。
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2017年04月16日

下北沢X物語(3259)〜第127回街歩きは山梨ツアー〜

CIMG2722(一)長く続けてきた街歩き、初めての県外、かつ車を使ってのツアーだった。行き先は山梨だ、我々は地球温暖化による異変に預かった。驚くなかれ桜も桃も満開だった。春爛漫と中央線特急電車に降りかかる桜吹雪、見渡す限りピンクの絨毯に覆われた甲府盆地、誰もが目を見張った。某旅行社の観光バスと出会ったが、「趣味が広がり、仲間が増える」というキャッチが目についた。しかし、我らのツアーは完全な手作りである。

 当初は観光バスを仕立てるつもりだった。が、これだとどうしても高くなる。また事務手続きが煩雑だ。それで考えたのは大型乗用車をレンタルで借りてのツアーである。運転手米澤さんを入れて定員は十名だ。申し込みを締め切ったあとに「空きがないか?」と。残念ながらキャンセルは出なかった。

 北沢川文化遺産保存の会、活動を続けてきて多くのつながりができた。今回もツアーの案内役は会友の矢花克己さんだ。これももう『鉛筆部隊と特攻隊』でおなじみとなった人だ。山梨県護国神社の境内で、偶然古手紙の山を見つけて購った。ところが不思議なことにその手紙ははがきには「鉛筆部隊」と判が捺されている。「これは一体何なのか?」とネット検索で調べたところこの私のブログがヒットした。鉛筆部隊の行方を追っていた私は彼から送られてきたその複写によって多くの事実を知った。

 戦中の古手紙は、内容よりも、貼られた切手や消印、そこに郵趣的な価値がある。矢花さんが購ったものは近代戦争史の一端を表した歴史資料である。彼はこれを昨年、市立松本博物館に寄贈した。今年も当館で「戦争と平和展」が開かれるがあるいは展示されるかもしれない。

 山梨県笛吹市住まいの矢花さん、我らを案内することを楽しみしておられた。地域の歴史に詳しい。自治会の組長、石和八幡宮の氏子総代を務めている人だ。事前に得た彼からの事前情報である。

 昨夜の雨で 満開の桜も足踏状態です 土曜日は桃源郷間違いなしだと思います 天気も曇りの予報 気温22度まで上がる模様です 予定には入っていないのですが 以前行った 樋口一葉ゆかりの慈雲寺の糸桜も満開を迎えております 恵林寺の櫻は池に散った花弁がきれいではないでしょうか 盆地東部を北から南からの眺望は真に桃源郷かと

 その彼が予想した「桃源郷」にまさにぶち当たった。
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2017年04月14日

下北沢X物語(3258)〜穴ぼこ論争:地下道の消滅はいつ?〜

CCI20170414_0001(一)都市は貪欲だ、変化をむさぼり食って街を変貌させている。鉄道線のクロスによって特徴づけられていた街もたちまちに消滅した。これによって一人の小説家はずっと悩まされていた頭痛から解放された。この症状は興味深い。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわとしめつけてくる」(清水博子『街の座標』)ものだった。いびつな座標軸が街のシンボルだった。それが地下化によって消えた。ゆがみ、変形交差がなくなったことで街は溜を失ったように思える。

 ゆがみにも物語がある。下北沢における鉄道交差のゆがみは、明大前での京王線との交わりにある。すなわち、明大前は東西を横断している淀橋台が最も薄いところだ。ここを切り崩して線路を敷設する。鉄道を敷設するに当たって工費が最も低廉で済む。しかも京王線は他社である、彼の線に敬意を払って、十字クロスで下を潜らせていただく。後発組の井の頭の礼儀である。かつてこの線は小田急系列の会社だった。他社は正攻法でせめて十字クロスを通す、自社は仲間内、ゆがんだりいびつになったりしても大目に見てくれる。

 ゆがんだ座標軸、これが街をねじ曲げていた。まず降りたときに方向を狂わせる。今はなくなったが、下北沢で井の頭線を降りて小田急に乗る。動き出したとたん「逆!」に走り出す感覚があった。ひしゃげた座標軸のマジックだ、吉増剛造風に言えば次元の穴のなせる技でもある。

 井の頭線から小田急線への乗り換えは一種独特で、いわゆる胎内くぐりのような感覚があった。あっちこっちを巡って小田急のホームに着く。ひしゃげた鉄道線路の交差は駅の構造を複雑にした。しかもかつては地下道が二つもあった。

 『小田急五十年史』には、コラム記事に「下北沢の二つの地下道」という題で説明がある。この地下道を使った中学生の作文が引用されている。しかし、何度読んでみてもわかりにくい。それでも理解できるのは、「駅の中と外に地下道が一本ずつ」あったことだ。つまり一つは小田急線に乗る場合に改札を通って「地下道をくぐってホーム出」るもの。もう一つは、「小田急の下をくぐる公衆通路」である、これが南口と北口とを結ぶ地下道であろう。

 先だっての地図配りのときにNHKの番組「TOKYO ディープ」のデレクターが来て質問された。

「番組で下北沢を取り上げるのですが、駅の地下通路がいつまであったのかわかりません、いつまであったのでしょう?」
 番組名 TOKYO ディープ!下北沢
 放映日は、4月17日(月)19:00〜19:29 の予定だということだ。
 放送波 NHKBSプレミアム
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2017年04月13日

下北沢X物語(3257)〜二大穴ぼこ論争:ダイダラボッチ&地下道〜

小田急下北沢地下通路(一)「きらめく星は天の穴ぼこだ」という比喩がある、穴ぼこに対する人間の興味は果てがない。まず一つはダイダラボッチの穴ぼこだ、世田谷代田にその痕跡が残っていたことから柳田国男は当地をフィールドワークした。この場所は分かっている。ところが次に行ったダイダラボッチはどこか分からないでいた。彼の論考にいう「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった」という箇所だ。が、これは武蔵野会の遠足行事「駒澤行」で見当がついた。すなわち小学校は旭小学校であり、村社は野沢稲荷神社である。とすればその箇所は自明である。

 この駒澤にはダイダラボッチが二つあった。その一つは具体的に描かれている。『ダイダラ坊の足跡』ではこう記す。

 道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。

 ここは現在の鶴ヶ久保公園に当たる。駒澤のダイダラボッチである。根拠は他にもある。ここが「代田窪」と称されていたことによる。すなわちダイダラボッチの窪みということだ。これは「野沢を主とした大正末期より昭和初期の略図」(『ふるさと世田谷を語る』上馬他編)にちゃんと記されている。
井の頭線線路下


 また、先ほど述べた「駒澤行」(雑誌『武蔵野』特別号、大正八年七月発行)にも記述されている。まず、「明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある」という。この明大運動場跡は今は、UR都市機構の「アクティ三軒茶屋」という大型マンションになっている。この坂道は野沢へと行く古道である。途中、テコテン坂を経由して行くと、「その先にダイダクボといふ凹地がある」とある。

 現在の鶴ヶ久保公園はダイダラボッチであること。まず第一点、ここが代田窪と称されていたことを田中正雄さんという古老が描いた地図に載っていること、次に第二点、武蔵野会の「駒澤行」にも「ダイタクボ」と記されていること。これらから結論づけたものだ。


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2017年04月11日

下北沢X物語(3256)〜ダイダラボッチの里、世田谷代田が熱い供

DSCN0264(一) 「ダイダラボッチっていうのはお話ではないのですね。私はずっと絵本に出てくるダイダラボッチを信じていました。学術的に意味のあるものだとは全く知りませんでした」と。教育委員会の女性はびっくりしていた。今回我らは、紀要第五号を発行した。タイトルは「代田のダイダラボッチ」である。副題は「東京の巨人伝説の中心地」である。この間の土曜日に地域の重鎮のところに米澤さんと持って行った。あいにく、当主は不在であったが後に電話が掛かってきた。紀要ダイダラボッチや七版地図は大きな話題を投げかけたようだ。加えて帝音もある。
「大根畑に突然にわかに出現した音楽学校から楽器の音やテノールやソプラノが流れてきたのです。衝撃的なできごとだった…」
「そうそう、あそこは大根畑だった!」
 斉田家当主の孝さんは記憶がよみがえったらしく興奮しておられた。
 

「世田谷代田は、西の松原から、東の下北沢から攻められてやせ細ってきています。当地の歴史の本拠地は世田谷代田ですよね。私は代田には二大巨人がいると言っています。一人は超大物巨人、詩界のドン、萩原朔太郎です。彼が放つオーラに近代詩人は今も影響を受けています。『下北沢や代田には至る所に次元の穴が空いている』と言われているほどです。そのもう一つの穴が、ダイダラボッチの穴なのです、これが二人目の巨人です。とんでもなくおもしろい話なんです」
いろんなところで世田谷代田二大巨人伝説を吹聴している。

 世田谷代田のムラの歴史を作ったのは三土代会だ。できれば8月の研究会に協力をしてもられないかと三土代会や町会にとお願いに行った。その翌日になって紀要と地図とを前者は会員に配布したいので150部ほどもられないかとの連絡があった。会の米澤さんが要望通りの冊数を届けてくれた。

 ダイダラボッチに朔太郎に帝音、伝承、詩歌、音楽、幅の広い文化があった。が、これらも消えて行こうとしている。とくに帝音は廃校になったこともあって人の記憶から消えている。今日手にした本に次のような記述を見つけた。

 昭和4年頃の話で世田谷中原に名物おばあさんがいた。

 当の婆さんは、音楽に興味があったらしく、今の小田急線世田谷代田駅の近くにあった東洋音楽学校の玄関脇によく立ち止まっては、暫くの間、教室から聞こえてくる楽器の音に聞き惚れていた。 『代田とわたし』 小谷野修

 小谷野さんの家は二階屋だったという。当時は多くは平屋だった。帝国音楽学校も大きな二階屋だった。それがにょっきり出現してそこから音楽が流れてきた。やはりそれを聞きに来ていた聴衆もいたことだ。

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2017年04月10日

下北沢X物語(3255)〜ダイダラボッチの里、世田谷代田が熱い〜

DSCN0263(一)今、どこへ行ってもダイダラボッチで熱い、今日教育委員会へ後援申請を届けに行ったところ受付の人は、ダイダラボッチの話を聞いて興奮していた。「いやいや仕事上地域の文化に興味を持つことは大事ですよ」と。彼女の熱を評価したほどだった。

 今、世田谷代田がおもしろい。我らもは、地図や紀要を地域に配っては、あちこちで長話をしてしまう。
 八日土曜日、歩きながらのゲリラ的地図配りを敢行した。この攻めの戦法では意外な発見があった。代田八大龍王のそばに住む中村さんは相好を崩し、「新しい地図、これはいいねえ。もらうとさ、二三日は楽しめちゃうんだよ!」と。居住人にとって新たな街の発見が楽しめるようだ。「おお、やっぱりマークが増えている」、もう喜色満面だ。彼のところにくる前に代田二丁目でおばあさんに会った。昭和六年以来ずっと当地に住んでいたという中島さんだ。米澤さんと私は記憶の黄金を掘り当てた。

「それなら萩原朔太郎さんに会ったことあります?」
  昭和八年(1933)から詩人は彼女のすぐ近くに住んでいた。
「ええ」
「ほんとですか、どんな印象でした?」
「どうでしたかって?」
 彼女は困惑していた。人間は八十年前のことを覚えている。そんな先入観を持つものだ。それでも記憶を振り絞って、
「ああ、通りかかると会釈はしましたね」と。
 朔太郎は、「ふわふわと体が浮くような早足で、あやつり人形のように」(『父・萩原朔太郎』)歩いていたと娘葉子は回想している。ひょこひょこと歩いてきた詩人が少女を見て少しびっくりして目礼をする。そんな場面を思い浮かべた。
「今度の地図に武満徹さん家を入れましたが、すぐ側ですね」
「そうそう、そこにいたのよ」
 旧居は確証がなくて、「推定」と入れた。が、古老の証言でこれは外してよいことが分かった。
「ひまわり公園覚えていますか」
 近所の若者が集まってここでコーラスで歌った。そのときに武満徹が指揮をしたという。崖線の上からは緑の武蔵野が青空のもとに見えていた。空の緑と歌は、戦後の青年には希望だったろうと思う。
「滑り台を覚えているわ、長い長い滑り台ね」
 そう北沢川になだれ込む崖には滑り台とはしご段とがあった。詩人の娘、萩原葉子が東大原小から帰るときここで痴漢に出会った。

 私は身をひるがえして、十メートルの急なはしご段を無我夢中で、矢のようにとびおりたのである。ちびで敏捷だった私は、毎日この遊園地できたえていたのが思わぬ時に役立ったのだ。

 北沢川左岸物語だ。一帯の左岸は高い。急傾斜がずっと下流まで続いている。この坂が軍馬を鍛えた。そう輜重部隊の荷や野砲の砲車を牽引する馬を鍛えた。人間の少女も痴漢撃退力を鍛えていた。ここでいう遊園地は「ひまわり公園」である。
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2017年04月08日

下北沢X物語(3254)〜地図配りは最高の文化活動だ検

DSCN0257
(一)年寄りは歴史を記憶をため込んだ知恵者だ、二人の古老と出会った。お一人は大正十二年(1923)年生まれの九四歳だ。東京大学からの学徒出陣兵だった。入営したのは東部十七部隊、駒場にあった近衛輜重兵連隊である。
「入営して三ヶ月は蹴ったり、殴られっぱなしでした…」と辻さん。
「以前、海軍第十四期飛行予備学生だった人に話を聴いたことがあります。やはり東大からの学徒出陣兵でした。『アメリカは確かに物量的に勝っているけれども、精神力では負けていない』と言っていました。実情としてはどうなんでしょう?」
「そういうふうな分析はしませんでしたね。大きな時代の流れがあってそれに対してなすこともなく身を任せていたように思います…今はドイツにいることが多いのですが、やはりよそから見ていると日本全体は顕著に右傾的になってきていますね。知識人もそれをはっきりと感じとっていますけどもね、皆黙っていますね…」
 確かに言われてみると右傾化している。ドイツ文学者それを危惧していた。
昨日の新聞報道では、

 義家弘介文部科学副大臣は7日の衆院内閣委員会で、幼稚園など教育現場の毎日の朝礼で子どもたちが教育勅語を朗読することについて、「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思います」と答弁した。

 このところ「教育勅語」を肯定するような発言が与党から続いている。辻氏は軍隊では殴られたといった。この勅語も暗記させられた少しでも違っているとビンタが飛んだ。完全に上から押さえつける教育である。個々人の自由はない。

 肝心な部分は、次だ。口語訳を示そう。

 万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。

即座に思い起こすのは特攻である。「皇国の御楯となって自身の肉体を捧げて散る」、まさにこのことと軌を一にしないか?多くの若者が命令によって爆弾を機体に装着して敵艦船に突撃した。個々の人権などは顧みられない。

 そしてまたこれが失敗すると1036柱に入れられないで、記録もされない。交戦戦死、事故死は犬死にだ。
 思うに、現今は人の命よりも、金だ、金、金、金に尽きる。

 原発は施策として破綻している。国民の多くが再稼働は危険だからやめてほしいと思っている。が、世界最高水準の規制をしているから安全だと、が、避難すら危ういのに再稼働に突き進んでいる。

 福島原発被害者の自主避難にもこの三月で援助を打ち切った。後は、「自己責任」だと声を荒げて復興相は言い放つ、国民をゴミ扱いだ。

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2017年04月07日

下北沢X物語(3253)〜地図配りは最高の文化活動だ掘

DSCN0242(一)経年的に得られた情報を文化地図に落とす。改版七版地図にはその情報が凝縮している。裏面の古地図も毎回入れ替えている。今度のは旧番地が記載されている。これを見て北沢住まいの青木友栄さん、「昔は四丁目四○九番地でしたので、五百番台でどこかな位の記憶でしたが、今度頂いた地図で場所が分かりました」と、旧番地は過去風景を当人の脳裏に浮かび上がらせる。確か?五百番台に二二六事件の首謀者が住んでいたはずだと。

 「文士町文化地図」領域における旧軍関係情報は得ている。が、やはり文学や芸術を中心としたこの地図に旧軍関係のものは似合わない。知っていてもこれは省いている。しかし、旧軍の枢要な人物がどこに住んでいたかを記録にとどめておくことは必要である。

 地図配りで出会った青木さん、下北沢に居住していた二二六事件の首謀者の資料を約束通り送って頂いた。そのタイトルは「世田谷と二・二六事件(第三回)」であった。記事の作者は小池泰子氏である。『駒場の二・二六事件』を書いた人だった。

 記事は二枚の複写だ、末尾に「本会会員」とあることから「世田谷区誌研究会」発行の「せたかい」ではないかと思われる。論文のまず冒頭だ、見出しは「下北沢駅近くの丹生誠忠中尉」とある。この彼は事件前日、昭和十一年二月二十五日北沢の家を淡々と出でいった。家には新婚の妻がいた。以下は引用文だ。

 二・二六事件の首謀者として処刑された丹生誠忠中尉が、世田谷区北沢四丁目五百六十八番地に住むようになったのは、結婚してからだった。
 丹生中尉は昭和十年四月、山口美奈子さんと結婚をしたのを機に、夫人の実家にある下北沢駅北口近くに新居を構えた。
 この家は同志の連絡によい位置にある。代沢通りを、南に下れば、中橋基明中尉の家のある三軒茶屋に至る。途中の代沢十字路を東に行けば、駒場の栗原安秀中尉が住んでいる。中橋中尉の三軒茶屋から西方の上馬には、香田清貞大尉と安藤輝三大尉が住んでいる。特に栗原中尉や中橋中尉とは隊外での夜の交遊は繁しいものがあったと、仏心会(二・二六事件遺族の会)会長だった河野司氏は話していた。


 北沢四丁目五百六十八番地はどこか?わかりやすい目印でいえば、現在もある銭湯「石川湯」近くだ。古老の三十尾さんところのすぐそばだ。彼いう「元スリ横町」近辺だ。森厳寺川沿岸の貸家か貸間ではなかったか。

 丹生中尉の家は、「同志の連絡によい位置」にあったのは確かだ。謀略や密議をする場合は隠密行動を行う。駒場や三軒茶屋は密かに歩いていける距離だ。ただ今のように茶沢通りはない、三茶へは行きにくかった。「代沢十字路」は近代のものだ。南にはまっすぐつながっていない。が、駒場へは淡島通りをたどれば容易に行けた。
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2017年04月05日

下北沢X物語(3252)〜地図配りは最高の文化活動だ供

DSCN0260(一)文化地図は鍬である、これが人々の脳裏に埋まっている情報をざくざくと掘り起こす、文化という原義、耕すに直結する、やはり文化地図配布は最高の文化活動だ。しかし、である、大きな問題がある、怒濤のごとく押し寄せる情報をどう整理するかである。ジャンルは多彩である。そのお一人はドイツ文学の第一級の研究者だった。偉いから偉いというものでもない、大事なことは、光彩を持った人と出会うことによってこちらの感性がスパークする、刺激を受けて新たな見方が生まれる。認識が深まりを得られる。


 人々は頭脳に記憶を持っている。それが地図をみてふとよみがえる。文化地図は時間の集積が記されている。例えば、薄ピンクに塗られているところは、戦災で焼けたところである。
「そうかあ、家の近くまで燃えていて消えたんだけど、ここまで燃えていたのか!」
 戦災箇所の表示に気づく人はいないが、たまにこれを見て感動する人もいる。

「しかしね、もう昔のことなんかわかっちゃくれないね、若い人は話をしても通じないものなあ」
 伊藤文学さんが嘆くように言う。「屋根のない井の頭線の電車乗った」という彼も、「おれは古老と言われるようになってもうびっくりだよ」
 去年タウンホール開いた研究会で、「古老の話を聴く」に出てもらった。85歳は古老である。

「おれはね、都バスの筋をやっていたんだ。バスで言えば最前線は、品川や深川だね、なにしろダイヤが過密だから、混み合って数珠つなぎになるともう大変で、パソコンにでてくる筋を直接見ながら、それをちょっとずつ動かして指令するんだ。○○停留所で30秒待機とかね、ところがね、いわゆる筋屋が育たないんだ、それでおれは定年なってからも長く引き留められたんだ…今は杉並に住んで毎日こうやってあるいているんだ…」
 退職したスジ屋はバスに乗らずに方々を歩きで回っているようだ。
「いいですよね、歩きは万病の薬、シルバーパスに乗ってはいけませんよ」
 これは私。ところが帰りしな仲間の別宮通孝さんと三茶まで一緒になった。
「えっ、街道歩きの達人がシルバーパスを買ったって?それは堕落ですよ」
「なんか元を取るためについ乗ってしまうんですよ。あははは…」

 池の上から来た人はおもしろいエピソードを知っていた。
「酒屋の三勝の親父さんの話なんですけどね、横光利一のところによくお使いに行かされたのですよ。行くとチョコレートをくれることも……それで突然にピアノの音が鳴り響いてくることもあったって…」
 この話を聞いて思い出した。彼は、北沢の丘の土地を見に来たときのことを小説『睡蓮』で書いている。

 周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。

 何かの瞬間に、大声を出したり、また急にピアノが弾きたくなったり、自分を制御できない衝動が走る。それで人に迷惑をかけないように当地にきた。その一端を語っているようでおもしろい。
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2017年04月04日

下北沢X物語(3251)〜地図配りは最高の文化活動だ〜

DSCN0253(一)地図配りでは幾十人もの市民の物語がひもとかれる。我々の文化地図は、人の思いを刺激するようだ。地図がきっかけとなって人は戦争を、旅を、人生を、土地を、恋などを語る、それは目前での生のドラマだ。ときめいたり、戦慄したり…長年続けてきた地図配りは我らの文化活動の根幹をなす、わかってきたのは文化地図が人々の心の扉を開く鍵であることだ、いったん開けられたドアからは情報が洪水のようにあふれてくる。

 4月2日、3日、二日続けて恒例の「文化地図」配布活動を行った。場所は、我らが建立した代沢小安吾文学碑前である。一日目は、800枚、二日目は400枚ぐらい。
 今回は予定していた1日が雨で中止、それで一日順延して日曜、月曜に配った。月曜日に配ったのは初めてだ。が、日曜日に比べると人出は少ない。ところがここがおもしろい。

 日曜と月曜日では空気感がまるで違う。日曜日は人の波がとぎれなかった。折々に人と話をするが皆気も心も流れに押されて落ち着きがない。どうしても話が断片的になる。ところが月曜日はのんびりゆったりだ。ついには九十歳を過ぎた人の人生を聞いてしまった。一人はシベリア抑留者で、もう一人は学徒出陣兵である。。

 長年地図を配っていて、多くの人がこれを知っている。
「新しい版ですよ」
 そういうと皆寄ってくる。
「昨日ね、一枚もらってね、おもしろかったのね、それで人にあげようと思ってまたきたのよ」
 月曜日に来た女の人だ。
DSC07854s
 今回の地図で話題になったのは代田連絡線だ。というよりもこちらが説明をしたからだ。二人の子どもを連れたお母さんに。
「ほら、裏をめくると地図が載っていますね。戦後の地図ですね。あれあれ、妙な線路が載っていますね。世田谷代田と新代田を鉄道線路が結んでいますね。これは何でしょう?、あのね、戦争中、井の頭線の車庫が空襲で焼けてしまって電車を動かせなくなったんですよ。それで井の頭線は電車の運行が困難になったのですね。それで小田急さん、電車を分けてくださいよとお願いしたのです。ダイダラボッチに頼めば簡単だったけど……」
 自分ではここで勝手に想像をしはじめる。ダイダラボッチさんにお願いすれば簡単だった。巨人は片腕で軽々と小田急線の電車を掴んで、井の頭線に置く。たちまち開通だ。
『ダイダラボッチさんありがとう!』
 
……そんなことにはなりませんね。やはり線路を引かないとね、鉄道連隊の工兵がやってきて二週間ほどでたちまち線を引いて、電車をこれで送ってめでたし、めでたし。井の頭線はまた動き出したのですよ」
「おもしろい!」
 若いお母さんが感動して目を潤ませる。
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2017年04月02日

下北沢X物語(3250)〜紀要第5号&新地図第7版〜

代田のダイダラボッチ(一)のっけから館員は冷たい言葉でいう。「ご寄贈戴いても必ずしも受け入れるとは限りません」と。我らの会の紀要第5号「代田のダイダラボッチ」と「下北沢文士町文化地図」第七版ができた。その翌日、30日世田谷中央図書館にこれを持って行ったときのことだ。それで即座に思い出したことがある。我らの会がデビューするきっかけとなったのは『北沢川文学の小路物語』だ。これをデザインした東盛太郎さんがこれを寄贈しようとしたときに冷たくあしらわれた。『なんだと、地域文化の粋が詰まったものを受け入れない?とんでもない、責任者を呼べ!』と恐ろしい剣幕になったと。実際これは我らの会のデビューとなった。今となっては語りぐさだ。

「朝日、毎日の東京版トップに載ったときは大変でした。店の前で大久保良三さんが何しろ交通整理をしたくらいなんですから…」
邪宗門マスターの作道さんが当時を思い出していう。
 もうあれから何年経ったろう。『北沢川文学の小路』の表紙に裏に書かれた地図が、「文士町文化地図」となって昇格し、以来ずっと続けて改版をしてきた。それが今回の、第七版である。途中から研究紀要も出すようになって、今回のは紀要第五号である。

 行政側の窓口をいくつか訪れて地図と紀要を差し出した。が、総じて事務的でクールであった。が、郷土学習室では違った。ダイダラボッチや代田連絡線で盛り上がった。

 図書館に寄贈した後、帰ろうとして気づいたのは二階にある「郷土学習室」だ。学童が郷土学習でここに訪れる。伝承で大事なのは次代に受け継ぐことだ。
「よくおいでくださいました。ここにお名前を…」と受付の人。
「いいえ、今日は郷土学習に関係するものを寄贈しに来たのです」
「あら、それはそれは、では係の人を呼んできます」
 現れたのは室長だ。そしてまた続いて男の人が来た。ものを取り出して差し出すと、「あら」と顔をほころばす。興味を引くものであったようだ。
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2017年04月01日

下北沢X物語(3249)〜知覧の語り部、峯苫さん〜

DSCN0221(一)小さいときから怖がりだった。物陰からひょいと幽霊が出てくる妄想に悩まされていた。特攻ものを書くのなら知覧詣では欠かせない、が、ずっと行かなかった。なぜなら、怖いからだ。彼らのお化けに出会ったわけではない、偶然に疎開学童と彼らが浅間温泉で接していたことを知った。ここから調べが始まった。今にして思うと不思議だ。芋づる式という言葉がある。一本の蔓を引っ張ると次々に芋が掘り起こされる。同様に一本の糸を発端に次々に埋もれていた真実が掘り起こされた。もしや特攻で逝ってしまった人の霊魂が取り憑いたのではないか?不思議なことが次々に起こった。なおさらに本山詣ではためらわれる。


 しかし、知覧情報は密かに得ていた。鉛筆部隊の田中幸子さんは、5月の慰霊祭には必ず出席していた。彼女は1036柱の一つ、武剋隊今野勝郎軍曹の慰霊碑を寄贈している。そんなことから特攻平和会館の人とも親しくなっていた。武剋隊や武揚隊の記録も田中さんを通して知覧から得ていた。それは峯苫真雄さんである。先だって知覧を訪れたときに初めて彼にお目にかかった。長年館で語り部を続けてこられたが三月で退かれるとのことだった。この彼のことは『特攻基地 知覧』(高木俊朗著)を読んで知っていた。

 真雄は滑走路の方に行ってみた。十六歳の少年には、この飛行機と飛行場は、夢であり希望であった。滑走路には、たくさんのドラムかんや材木が置捨てたままになっていた。それはアメリカ空軍着陸のうわさにおびえて、妨害しようとして運びだしたものだ。飛行場の西のはしには、飛行機が三四十機、ならべてあった。一式戦闘機が多かったが、九八式直協機、九九式襲撃機などもあり、たった一機、海軍の零式艦上戦闘機がまじっていた。これらの飛行機が、再び特攻機となって飛ぶことは、もはや考えられなかった。三千年不敗の神国が負けたことが、現実であったのだ。少年は心に大きな衝撃と激しい混乱を感じた。 
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 昭和二十年八月十六日の陸軍知覧飛行場でのできごとだ。峯苫さんは当時十六歳、整備員として働いていた。彼には青空を飛ぶ飛行機が憧れだった。敗戦の日、十五日を境にその飛行機はすべて死に絶えてしまった。

 彼は一機一機を大事に整備してきた。それら飛行機が一朝にして無用物となってしまった。耐えがたいことだったろう。

「ああ、九九式襲撃機ね、私も何度も扱いましたよ…」
 武揚隊、武剋隊の搭乗機だった。
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2017年03月30日

下北沢X物語(3248)〜1036柱という価値軸への疑義〜

DSCN0214(一)昨日、鹿児島知覧の「特攻平和会館」から電話があった。先だっての訪問に対するお礼と問い合わせだ。「持ってこられた写真についてお返しすべきか」、「そちらで有効に使えるのなら使っていただこうと思って…」と答えた。持参したのは「武揚隊」の写真だ。浅間温泉で写した写真の数葉だ。十数名が写っている。が、知覧平和会館に関わる兵士としては五来末義軍曹、柄沢甲子夫伍長などの数名だ。武揚隊で知覧に収められているのは十五名のうちの六名だけである。特攻に行っても戦果が確認できなければ一般戦死扱いとなり、知覧では展示されない。


 知覧特攻平和会館に入って圧倒されるのは「若き特攻隊員の遺影コーナー」である。解説にはこうある。

 1036柱の隊員の遺影が出撃戦死した月日順に掲示されています。その下には家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆などが展示してあります。

 展示室の壁はその遺影で埋まっている。若くして逝った特攻兵の写真ばかりだ。圧倒され気圧される。しかし、基礎となるのは1036柱である。明確な数字として掲げられ、これ以外は扱われない。

 満州新京で編成された特攻四隊のうち二隊は、武剋隊と武揚隊は、運命流転、信州山中の陸軍飛行場へ飛来してくる。一月あまりを過ごしたのちに昭和二十年三月末に出撃する。折しも沖縄への米軍侵攻始まった。第八航空師団所属の武剋隊は台湾に向かうはずだったが危急の折、九州から沖縄への直行特攻を行った。武揚隊の場合は遅れをとったらしい。そのために大陸経由での台湾行きが命じられた。苦難の始まりだ。

 まず各務原でエンジン不調で一機を置いていく、また、新田原から大陸に向かう途中に不時着機が出る。また、大陸から台湾に向かう途中、敵機に遭遇して三機が撃墜された。のこりもほうほうのていでやっと台湾に辿り着く。

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2017年03月29日

下北沢X物語(3247)〜物語作家養成講座同窓会〜

DSCN0241(一)「最初にお会いしたときは宇宙人みたいでしたが、今日しばらくぶりに出会ったら先生は地球人になっていました」と高橋さん。この間の日曜日、物語作家養成講座の受講生だった四人の女性と会った。「だってね、十五年経ったんですもの、もういろいろありましたよ」と。介護していた家族が亡くなったり、子供が成人したり、職業を変わったり……それは予想できることだった。しかし四人のうちの一人が今、熱い恋をしているという告白は一番盛り上がった。やはり人生は恋あってのものか?

 月日が経ってわかることはある。
「あのときはまだ私も若かった。きっとまだ尖っていたんでしょうね。『この人何言うんだろう』と思ったから宇宙人のように見えたのでしょう…」
 志木市の図書館主催で物語作家養成講座が開かれた。ここに講師として招かれたのはいきさつがある。文学コンクールとの関わりだ。志木市は「いろは文学賞」という童話賞を設けていた。これに応募し1995年に佳作を得た。これが「ねえちゃんのチンチン電車」である。これを書き直して上梓したのが『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』である。不思議なものだ、これが代沢小で一人の女優によって演じられたこともある。
「もしかして北沢川文化遺産をやっているきむらけんさんと劇の原作者は同じですか?」そんな質問を受けたこともある。
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 私自身は汽車電車好きだ、『広島にチンチン電車』を演じる女優を中心に据えたドキュメンタリー番組が作られたことがある。この撮影をするために広電の電車を貸し切ってこの中で女優にインタビューする場面があった。自身の作品が臨時電車を動かしたのだと思ってうれしくなったことがある。作品因縁は不思議だ、今、主宰する会の演劇好きの会員が下北沢の劇場での公演を劇団に働き掛けている。

 人生はひたむきに挑戦することで活路が開けてくる。1995年の応募は佳作だった。翌、1996年は「サーブ文学賞」では「トロ引き犬のクロとシロ」でが大賞を取った。そして1997年、「いろは文学賞」で待望の大賞を受賞した。苦難を経ての受賞だったことから、図書館に招かれて「物語作家養成講座」の講師に招かれた。このときに講座に応募した人々と出会った。
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2017年03月27日

下北沢X物語(3246)〜会報第129号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第129号 
           2017年4月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、下北沢文士町文化地図改訂七版 

 長年改訂を続けてきた文士町地図、今回、世田谷区地域の絆の助成を受けて、第七版を完成させた。特徴的な点は、当地の音楽文化を重視したことである。
 当地一帯に文士が多く移り住んできていた。この事実に着目し、どんな文士がどこに住んでいたかを中心に調べてきた。当初は、文士町地図であった、しかし、調べていくうちに当地一帯の駅、踏切、神社仏閣、映画館、劇場など多くの施設との関連で文化が形成されてきたことを知り、それらを地図に落とし込むことにした。
 しかし、街は変化するものである。かつてあった映画館や店などはどんどんとなくなっていった。それらの痕跡を記録することも大事だ。それで、地図の名称を「文士町文化地図」としたことである。
 文士町の形成では昭和三年に横光利一が北沢の丘に居を構え、「雨過山房」と称して作家活動を始めたことが大きい。阿佐ヶ谷から移ってきた彼の場合、昭和二年四月に開通した小田原急行電鉄の開通が大きな理由である。が、作家の場合は個別の家での執筆が中心だ。ところが鉄道開通と同時に文化、芸術の営みは集団として既に始まっていた。それは昭和二年末に世田谷中原に開校した帝国音楽学校である。
 駅そばのその地所は大根畑だ、そこに二階建ての音楽学校ができて楽器が響き、歌声が響いた。武蔵野の丘に響いた音響は当地に清新な雰囲気を醸した。帝国とはインペリアル、大日本帝国だ、日本国内はもとより、外地、満州、台湾、朝鮮からの留学生も入学してきた。それら学生は近隣に下宿していた。随所で楽器の音が歌声が響いた。音楽的な音は居住人の感性を刺激する。一番は子供だ、戦前において代沢校区の学童たちが音楽的感性に優れていたことは、当校起こった奇跡とも言える楽団「ミドリ楽団」とも結びついていく。 音楽学校は敗戦とともに廃校になった。しかし、近隣に振りまかれた音楽的感性は残った。戦後になって長門美保歌劇団が当地で発足しオペラの歌声が響いた。武満徹が世田谷代田に越してきて、馬糞紙で作った鍵盤でエアー楽器を弾いていた。
 奥さんが帝国音楽学校に入ったことから作曲家の古関裕而は当地に住んだ、多くの歌を世に出している。一つ言えば、ここで最初に響いたのが「キンコンカン」である。それは、
「鐘の鳴る丘」だ。作詞は、菊田一夫、作曲は古関裕而である。

緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー子山羊も啼いてます
風がそよそよ丘の家
黄色いお窓は俺らの家よ


一世を風靡した歌だ、ラジオから流れたこの曲は全国津々浦々まで響いた。古関裕而は、世田谷代田の自宅で、何度もキンコンカンとピアノを鳴らした。曲のイメージは、代田の丘そのものである。時計台はなかったが他は全部あった。緑の丘に見え隠れする赤い屋根は随所にあった。丘を下ると牧場があってそこでは牛がモーモーと、子羊がメーメーと啼いていた。そう風そよいで丘の家や、鉄塔に吹き付けていた。窓は黄色のペンキ、塔は銀色に塗られていた。イメージに落ちる曲だ。
 我らの地図は、代田の古関裕旧居の近くに菊田一夫終焉の地を記している。二人はここで亡くなっている。きわめて象徴的だ、『鐘の鳴る丘』が言い表しているのは武蔵野の丘である、言えば都鄙境である。繁忙と牧歌という境でこそ音楽は、いや文学もうそうだ、ここでこそ生まれるものである。

 地図裏面は、毎版ごとに変更している。今回は内山模型製図社制作の「北沢警察署管内全図」から北東部を抜粋した。戦後の地図である、それで特徴的な点は、代田連絡線がくっきりと地図に残っている。番地表示はすべて旧番地である。この地図には川がくっきりと描かれている。「北沢用水」とある。暗渠化される前の川である。

 地図づくりは、十年間の情報の蓄積である。多くを加えることで地図が混み合ってきた。が、この背後にある文化、土地固有のにおい、おと、景、そして空気感だ、これらを想像してたのしむと二倍おもしろくなる。

2、北沢川文化遺産保存の会、紀要第五号「代田のダイダラボッチ」


 世田谷代田には二大巨人伝説がある。一人は詩人、詩界の巨匠、近代詩の父、萩原朔太郎である。彼が世田谷代田に住んで、そしてここで終焉を迎えた。彼をあがめる詩人は多い、朔太郎によって下北沢の各所には次元の穴が至る所に空いている、そう言っているのは吉増剛蔵である。朔太郎の放つオーラが一帯の空気を染めていると。それで彼は言う、「ああ/下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え/る、なぜ下北沢、なぜ」(吉増剛造詩集「黄金詩編」思潮社)と。詩界の巨人が今もなお一帯を支配しているゆえの雄叫びだ。
 もう一人の巨人がいる。それがこの代田の地に痕跡を残していた。それはダイダラボッチである。大事なことは何か、それは二つある。一つは巨人の足跡と言われる窪みが残っていたことである。もう一つはそれがダイダラボッチと言われていたことである。民族学者の柳田国男は「兎に角こんなをかしな名称と足跡」とがあったからこれが伝承されてきた。そしてそのダイダラボッチの頭三文字を取って代田と名付けられたという。呼称としてのダイダラボッチが残っているのはだと民族学者の柳田国男は評している。窪みがあってそれがダイダラボッチと言われて地名になっているのは世田谷代田しかない。今回の紀要はそのことを論考としてまとめたものだ。
 柳田国男は世田谷代田のダイダラボッチを踏まえ、当地を東京の巨人伝説の中心地だという。それは土地の誇りだ。が、かつて賑やかだった世田谷代田も環七ができることで街分断され現在ではその歴史ある存在が希薄になりつつある。
 今現在、新しくできる世田谷代田駅の広場のプランがある。その整備コンセプトが「おだやかな日常が歴史になるむら〜富士山が見えるダイダラボッチの駅前広場〜」とされている。このコンセプトを形にしたものとしては、駅前広場にダイダラボッチをかたどった足形を描こうというものだ。
 「ダイダラボッチの春」という合唱曲がある、「だいだらぼっち だらぼっち   だいだらぼっち だらぼっち  ひとりぼっちでどこにいる 出て来い 出て来い 山は春 山は春」、彼は今ひとりぼっちでどこかを歩いているらしい、どうやら地区の人は、「出てこい、出て来い」と彼の降臨を望んでいるようだ、が、この願いもまもなく実現するようだ。が、巨人は歩いている、どこからかやってきて、代田駅前に足跡を残し、また去っていく。彼は人に善意を施す、人々に幸福をもたらし、また去っていく。それは未来の人々へ希望を届けるものではないか、そんな空想を抱く。駅前の足跡がそういうものであったほしい。
 
3、桜祭りでの地図の配布 

 春の恒例行事となっている地図の配布活動を行う。今回は新版地図を配るものである。花見見物に訪れた人に配るものだ。毎年これで千部程度がさばけている。地図くばりは仕事ではない、配ることを通して人と話をする。そこから新しい情報がつかめたり、また、文化についての議論が深まったりもする。ゆえに地図くばりは楽しい娯楽である。
 地図配りを通して、楽しい、おもしろい会話ができる。それゆえに参加されてみなさん地図を配ってほしい。
 
 配布日時  4月1日(土)・4月2日(日)
        10時から15時30分まで
  場所    代沢小学校安吾文学碑前(北沢川緑道橋場橋たもと)
なお、いつも通り代沢小から机2脚、椅子12脚を借りて行う。校内から運び出すとき に人手が要ります。手伝ってくださる方、9時30分に安吾文学碑前に集まってください。とくに第一日目の人手が足りません。お手伝いをよろしく。
 

 当日、これまでに発行した紀要全部を並べます。今回新しくできた「代田のダイダラボッチ」も置きます。毎年紀要を発行しているがこれに寄付をしていただいたものを費用に充てるつもりです。一、二、三、五号については、300円、四号については500円寄付してくださるとありがたいです。地図は無料で配布します。なお、改訂7版地図と紀要第5号「代田のダイダラボッチ」は世田谷邪宗門でも手に入れられる。

4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第127回 4月15日(土) 午前8時20分 下北沢北沢消防署前
(茶沢通り「駅入り口交差点」昭和信金から南へ110M トヨタレンタカー)
 春の甲斐路を旅する 案内人 矢花克己さん
(予定)下北沢(中央道)…勝沼インター…甲州市塩山乾徳山恵林寺(300円)・高橋山放光寺散策…農協直売所・窪八幡神社・養老酒造昼食(ほうとう)…フルーツライン…山梨市笛吹市春日居町盆地一望…笛吹市石和町…笛吹市八代ふるさと公園・リニア・古墳散策…甲府市中道町山梨県立考古博物館…甲府南インター…下北沢
*今回のツアーは128号で予告した通り、3月20日で申し込みを締め切った。人数を勘案して大型乗用車を借り切って行くことにした。キャンセルがあるやも?


・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前  
 第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで
第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」
(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合
 三田用水ツアー 第2期第4回 試案 キュレーター きむらたかしさん

○同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→旧三田用水普通水利組合事務所跡→山手線目黒驛南水路橋跡→鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡→旧上大崎村溜井新田跡→日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡→午後5時 JR五反田駅解散(コメントに基づき3月28日情報を修正した)
第130回 7月15日(土) 午後一時 東京駅丸の内口
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲紀要第五号「代田のダイダラボッチ」については公的な研究機関などが所蔵したい場合には寄贈したい。当方に連絡を。26行×33文字、20ページ。二段組み
▲第十回記念大会「戦争経験を聴く会・語る会」は、5月27日、一時半から、場所は、下北沢東京都民教会。タイトルは、「疎開学童ゆかりの特攻隊(武揚隊)」
▲第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は道吉剛氏デザインによる紀要第五号)





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2017年03月26日

下北沢X物語(3245)〜緑の丘の赤い屋根、文士町の音楽風土〜

DSCN0093(一)馬糞紙に鍵盤を書いたものでピアノの練習をしていたという。が、それでは物足りない、その彼は世田谷代田近隣のピアノがあるお家に行っては弾かせてもらった。武満徹のよく知られた逸話だ。その彼は当地で奥さんと知り合った。戦災が機縁となったという。『作曲家・武満徹との日々を語る』(小学館)で奥さんが語っている。「第1章出会いの頃」には思い出が語られる。昭和二十六年のことだ、彼女は二十一歳だった。

近所の若い人たちが集まってコーラスをやっていました。コーラスといってもそんな大勢ではなく、10人ぐらいが集まってコーラスをやっていたのです。そうしたら「何か音楽が好きな人がこの隣組にいるよ」って言うので、それで徹さんが仲間に入って指揮をしたのね。 

 若い男女が集まってコーラスをやっていたというのも興味深い。昭和二十六年だと学区域にある代沢小の「ミドリ楽団」がアニーパイル劇場で三日間の連続公演をしていた頃だ。この地区にも楽団員はいた。そのコーラス仲間も彼らのことは知っていたろう。

 音楽の解放、敗戦が大きな契機となった。武満徹の出現を瀧口修造は「焼け跡の向こうから、その人はやってきたように思われた。音の乏しいときに、音を求めてあるく少年」(『武満徹著作集』「余白に」)だと述べている。食料はない、しかし音は至るところにあった。壊れた水道管から滴り落ちる水の音、デンゴロンと響く電車の音、夜中中、人が囁くように音を立てていたという北沢川、ホウホウと啼いていたフクロウ。近隣の音が音楽の肥やしになったようだ。

 そんな彼が近所の歌好きのコーラスグループに誘われた。歌うという場合は、場所が必要だ。今のように代田南地区会館などはない時代だ。考えられることはのっぱらだ。近所の若者が気軽に集まって歌える場、真っ先に思ったのは「代田の丘の61号」鉄塔脇にあったひまわり公園である。長い長い滑り台があって子供たちには人気だった。公園の頂上からは眺めがよかった。地域の人はよくいう多摩川の花火を見るには格好の場所だったと。遠くの景色が見える高台で歌うというのは絵になる。

 私たちが何かつまらない歌を歌っていたら、「これにしましょう」って言って「マイ・ボニー・ライズ・オーヴァ・ジ・オーション」という歌があるでしょう。あれを徹さんが指揮したのです。『作曲家・武満徹との日々を語る』 

 近隣のコーラス好きの若者の前でスコットランド民謡を指揮した。歌詞は口伝えで伝えて歌ってもらったのだろう。やがて何回か歌ううちに様になってきた。歌が一帯に響き渡る。当地の学童たちが疎開先で歌を歌うと、田舎の子たちはびっくりした。が、音楽がどこからも聞こえてくる土地柄、あまり気にもしなかった。
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2017年03月24日

下北沢X物語(3244)〜校正大詰め:改訂七版地図供

DSCN0182(一)ここ数日校正に掛かって頭が混乱している。なぜか二つの世界を行き来しているからだ。やはり区切った世界にはそれぞれにイメージがある。一つ目は「下北沢文士町文化地図」であり、二つ目は「代田のダイダラボッチ」(紀要)である。いずれも共通するとことは濃厚な地域文化というものだ。しかし、時代が違う。地図は近代世界で、ダイダラボッチは古代世界だ。この両者を統括しているのが米澤邦頼さんである。彼は紀要のデザインをしている道吉剛氏のお宅に伺って「ダイダラボッチ」の進行具合を確認している。その足で飯塚嘉穂学寮の跡を探しに行っている。よく混乱しないものだと感心する。


 今回、作曲家旧居として武満徹を加えた。略図を元に加えたものだが、書かれている図の読み取りが難しかった。が、その印を落としてみるとイメージが落ちる。武満徹のよく知られているエピソードがある。「段ボールにピアノの鍵盤を書いて、それをピアノのかわりにしていた」というものだ。世田谷代田時代の話で、そこ彼が段ボールの鍵盤を持って出て行き、帰ってくるところがまさにその旧居跡だった。駒沢線鉄塔61号と62号の中間に近い。夕日に染まった銀色の鉄塔がどう見えていたか?塔に触発されて音は発想しなかったのか?彼は段ボール鍵盤の思いを「私の物言わぬ鍵盤からは、ずっと沢山の音が鳴り響いていたように思います」(「音、沈黙と測りあえるほどに」)と述べている。

 代田二丁目ではやはり景としては鉄塔が目立つ。昨今だとこの丘上からみると煉瓦色をした三軒茶屋のキャロットタワーがよく見える。丘上の景色が音にどう生きたか?そんなことの記録はほとんどない。が、イメージはある。

 世田谷代田二丁目に旧居が増えつつある。おかしなことに音楽だらけだ。今回、武満徹に加えて長門美保歌劇団跡も入れた。夫の鈴木雄詞とに歌劇団を作ったのは戦後のことだ。
そして、昭和二十一年(1946)年十一月「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。蝶々夫人で思い出すのは三浦環だ。戦後すぐに亡くなっているが、世田谷区代田二丁目六八一ノ五に住んでいたとの情報もある。

 つながりがつながっていく。武満徹旧居と古関裕而旧居も近い。できあがった地図を見ているとふつふつとイメージが膨らんでくる。
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2017年03月23日

下北沢X物語(3243)〜校正大詰め:改訂七版地図〜

DSCN0237(一)改訂七版地図トップのキャッチを変更した。「文学と音楽と巨人伝説のまち案内図」だ、芸術を音楽に変更したのだが意義は大きい。表図見出しも「文士町の文化の源泉は音楽にあり」とした。だんだんにわかってくると当地に創設された音楽学校の影響は計り知れないものがある。ここ数日校正の土壇場になって情報が交錯していている。当会の米澤さんは正確を期すために昨日現地聞き込みまでしたという。


 こちらは多くの注文をした。鉄塔に番号を振ってほしいというのもその一つだ。その箇所を言うときに便利なのは駒沢線鉄塔だ、川口慧海は「鉄塔62」そばというように指摘する、ところが全部に番号が振っていないのでいちいち数を勘定していた。これが解消される。

 鉄道交点には多くの寮があったことは知られていない。例えば、今の北沢タウンホールのところには海上保安庁寮があった。この他近辺には銀行寮とかも多くあった。今回は代表事例として地方所有の寮を入れてもらった。「七島学生寮」と「飯塚嘉穂学寮」である。前者は伊豆七島出身地が、後者は九州飯塚市出身者が入れる学生寮だ。島嶼や九州から上京してきた若者がここで青春時代を送った。潮と石炭とが都会にまみれてい行った。彼らが住むことで多くの物語が生まれている。ところがそこは時代の波に揉まれ消滅してしまった。

 飯塚嘉穂学寮は、昨日、場所を確認するために米澤さん現地取材したと、知っている人が教えてくれて正確な場所がわかった。我らの仲間は正確性を求める、が、歴史文化を遺すには不可欠なことだ。

 我ら文士町地図、この裏面は毎回古地図を変えて載せている。今回は、「内山模型製図制作の『北沢警察署管内全図』から北東部を抜粋したものだ。昭和二十年中頃のものである。代田連絡線が鉄道線路としてくっきりと描かれている。もちろん、ここに記載されている地番は旧番地である。

 思い起こすのは作家の旧居調べだ、年譜に載っている作家の住所はみな旧番地である。これが今のどこにあるかなかなかわからない。現新番地との照合も楽しめるものだ。

 この地図に銭湯のあった場所を書き入れたのはきむらたかし氏だ。驚くほどの数だ。これは地域文化と絡んでいる。交通至便の鉄道の交差部には寮が多く集まっていた。そこに生まれるのが銭湯需要である。これも鉄道交点特有の文化であった、が、ほとんどが跡形もなく消えてしまった。今回のには載っていないが銭湯の変遷地図というのも記録としては価値がある。

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2017年03月21日

下北沢X物語(3242)〜未来遺産・品川用水を歩く供

DSCN0233(一)桜新町は東京西郊でも早くに開けた場所である。ここのメイン、西から東へと向かう道路は古来からの旧道、大山道だ。呑川水系と蛇崩水系の分水嶺の尾根筋をゆく。明治になってここに近代化が押し寄せてくる。道には大山道と品川用水が通っていた。そこに明治三十六年(1903)に玉川電気鉄道が敷設される。そしてまた明治42年には石田水車が稼働し始める。町には近代がやってくる。その到来は音である、ごったんがったんという音、そしてこっとんかったんという水車の音だ。田舎町は急に都会的になっていく。さらには明治末年から大正にかけて「日本で初めての分譲住宅が東京信託会社によって『新町分譲地として造成された。」、おしゃれな町への変貌だ。


 作家宮本百合子は一時期ここに住んでいた。彼女の「日記」だ、期日は一九二六年(大正十五年・昭和元年)のことである。

九月一日(水曜)
 八時頃Yの部屋で訳して居るチェホフの手紙をよんで居ると、暗い玄関で人声がし、思いがけず網野さん来。私何だかぞっとした位うれしかった。小さい雨などふり、人が来などしようもない日であった故か。
 作品の話、その他。十時おなかがすき、二人で食糧品やに行ってマカロニを買って来た。私それをゆで、二人でトマトケチャップでたべる。アミノさん泊る。
 あの食糧品や、Y大キライだが、可笑しい男だ。このマカロニどの位にふえますかときいたら「フランスのはふえますが、イタリーのは大してふえません。直観したところはちがいませんが水分をふくみますから出デがあります云々」


 昭和初期のことだ、網野とは女流の網野菊のことだ。お腹が空いたというので電停通りに面した食料品店いく。そこではマカロニを売っている。外国のマカロニの在庫があり、それぞれの味もよく知っていて、フランスやイタリアの麺のゆで方にも堪能である。その食料品店はどこにあったか探したことがある。この町を象徴しているエピソードだ。

 桜新町という風合い今もある。用水が走る道と電車が通る道とがあった。が、このこともすっかり今は忘れられている。
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2017年03月20日

下北沢X物語(3241)〜未来遺産・品川用水を歩く〜

DSCN0235(一)連日、用水漬けだ、17日は三田用水の講演、18日は「品川用水を歩く」だ、後者は我らの会の第126回目の街歩きである。案内者は、渡部一二先生、間もなくで傘寿を迎えようとされる、「用水翁後ろ姿をひょうひょうと」、ふと立ち止まっては、「ここに面影が」と語られる、特に印象深かったのは桜新町駅で集まったときだ、開口一番「この品川用水は未来遺産に登録された」と。初耳だった、調べると「玉川上水・分水網」がユネスコの未来遺産に登録されたとのこと、その分水網には品川用水が入る。ということは昨日講演を聞いた三田用水も当然に入るのだと認識した。しかし、我ら三田用水や品川用水に慣れ親しんでいる者には「分水網」と一括されることには抵抗がある。親玉が玉川用水で、子分が分水だというのは分かる。が、支流にこそ真実は宿る。「玉川上水系水脈」とか、言い方に工夫はなかったのかと思う。

 品川用水を歩く旅、とは言っても痕跡はほとんどない。最初の痕跡もわずかに路傍に「石田氏水車」と標柱が建っているだけだ。が、つい最近この地所にマンションが建った、この玄関に模擬水車が復元されて動かされている、もちろん電動である。

 石田水車のすぐ前の道路はいわゆる大山道である、ここに明治40年に鉄道が敷設された、玉電である。「ゴッタンゴットン」と車輪が響いた。そして、石田水車は、「明治42年土地の石田槌太郎氏が許可を得、杵21本・挽き臼1を備えた水車を作った(「新修世田谷」)だという。「カッタンコットン」と水車が鳴った。その脇を白装束の人々が御詠歌を歌いながら通っていく、のんびりした時代であった。

「この尾根筋を品川用水が通っていて、そこから水を引込んでいたのは材木屋をやっていた秋山さんですね、そのうちに発電機を設置して電気を起こしていたんですよ。それで玉電が買い取って、自社に電気を引き入れたというのです…」
 初耳だ、水車で電気を起こしていたという。これは地元の人の話だ。何かこれを裏付ける典拠はあるのだろうか。

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2017年03月18日

下北沢X物語(3240)〜代官山大学2017:街研究と講演〜

DSCN0231(一)文化探訪を続けて十数年になる、何かの拍子に「これ知らないで死ぬところだった」という事例に遭遇する。昨日(17日)はその一つだ。昨晩、代官山ステキ総研のイベント、代官山大学2017が開催された。ここで特別講演があった「ヒルサイドテラス前史 『昭和の道はなぜ残ったのか』 講師は我らの仲間、三田用水研究家 木村孝氏である。代官山における『昭和の道』は代官山という街の形成に関わる重要な核である。そのことを氏は見事に指摘し会場を沸かせた。特に良かったのは、「代官山大学」で研究発表をした多くの若者に刺激を与えたことだ。

 自分でも半世紀前に抱いた疑問が講義を聴いて解けた、そう昨日参加していた大学生ぐらいの年齢のときに経験したことである。アルバイトとしてお中元の配達をした。その配達範囲に代官山があった。荷物運搬用の自転車にお中元を満載して配っていくものだ。このときに代官山を走る旧山手通りは何遍も走った。木々の緑が多く、お屋敷が連なる街だった。配達するものも高級品ばかり、この時に思ったことがある、なぜこの道はどうしてだだっ広いのだろうという疑問である。大きい通りなのに静かだ、お屋敷のセミの鳴き声がうるさいばかりだった。代官山の『昭和の道』は自分の青春だったように思う。懸命にペダルを漕いでデパートの高級品を届けていた自分の姿が思い浮かんでくる。

 木村孝氏は、昭和の道「旧山手通り」ななぜ残ったのか、その種明かしをする。
 旧山手通りはもともとは山手通り、すなわち環状六号線として計画されていた。ところが戦災を契機に道路の敷設計画が変更となり、六号線は目黒川右岸を通る道に変更された。これによって渋目陸橋 - 神泉 - 鎗ヶ崎交差点は支線に格下げとなって、それでここが旧山手通りと呼称されるようになった。
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 木村孝氏は、こう結論づける。幹線としての6号から亜幹線の25号に格下げされ「かえって旧・山手通りは拡幅などの大きな変化を免れて『昭和の道』はそのまま残った」という。このことが現在の代官山の街並形成に大きな影響を与えたと。

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2017年03月17日

下北沢X物語(3239)〜幻想的知覧探訪行掘

DSCN0222(一)死者の霊魂は生者に働きかけるものなのか?この疑問は絶えずあった、疎開学童と特攻兵とが偶然出会って、一ヶ月間共に過ごした。この事実をずっと取材している。が、とんでもなく遠い昔のことなのに隠れていた事実が次々に証されてきた。無念の思いを抱いて亡くなった兵の霊がそうさせるのか?今回も何かに取り憑かれたように思ったことがあった。灯籠に導かれて彼らに出会いに行ったことである。


 知覧で宿泊したのは富屋旅館である、戦中は陸軍指定の富屋食堂で当地を出撃していく特攻隊員が多く訪れた。特攻の母と言われる鳥浜トメさんが切り盛りしていた。戦後、特攻生き残りや遺族が当地を訪れてくるようになった。その彼らをもてなすために旅館に衣替えした。現在の女主人は、トメさんのお孫さんのお嫁さんだ。
「何としてでも戦争中の悲惨な作戦、特攻は後の世に伝えていかなくてはなりません」
 トメさんの思いを受け継いでおられる。

 着いたの日の夕暮れ、私は町の散策に出た。南国の静かな町を歩いてみようと思ってのことだ。すぐに帰ってくる積もりだった、が、大通りに出ると石灯籠が目についた。今回案内してくれる田中幸子さんもこの灯籠を寄贈している。ゆえに話には聞き知っていた。道の両側にどこまでもこれが続いている。特攻で行った人達の鎮魂のために建立されたものだ。一つ一つに霊がこもっているのかもしれない。

 夕暮れ時だ、段々に暗くなってくる。道路を通っていく車のライトがこれを浮き上がらせる。思ったのはどこで引き返すかだ、「あの信号のところまで」と決めて行くが、そこまで行くと足は帰らせてくれない。ずんずんと行く、心は引き返そうと思うが足がいうことをきかない。

 種田山頭火の有名な句がある。「分け入っても分け入っても青い山」、この南九州の山中でさ迷った様を描いたものだ。ここでは山ではない、「分け入っても分け入っても石灯籠」、どこまでも続いていく。道はカーブを描いて山に上っていく。

 その時にすべての灯籠に火が点った、連なったそれがぼぉうとどこまでも続いている。気づくと幻想世界を歩いていた。あの果てには何があるのだろうか、そう思ったときに今必死になってまとめている武揚隊隊長の遺詠が思われた。

 いざ行かん 浅間の梅を えびらさし わたつみはるか 香をとどめん

 浅間温泉に咲いていた梅の香りを沖縄の海に届け、その香りを永久に残したい。灯籠の果てまでいくとその香りが匂うのか?
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2017年03月15日

下北沢X物語(3238)〜幻想的知覧探訪行供

DSCN0209(一)鹿児島への旅で思ったことは、旅の激変だ。汽車の出現によって「時間と空間の抹殺」が起こった。さらに飛行機によって「時間と空間の消滅」が起こっている。鹿児島空港にはあっと言う間に着いた。自分の身体は鹿児島に着いているのに心はまだ到着していない。飛行機を降りたとき目眩がしたほどだ。偶然、里に墓参りに来たという隣の座席のの人と話したが鉄道での帰郷などは選択肢に全くないという。私の思いでは、終着駅西鹿児島だ、遙か遙か彼方にあった。特急寝台「富士」は三十一時間掛かった。「皆様ご乗車有り難うございました…」と案内放送を聞くと旅の抒情が一気にこみ上げてきたものだ。が、今は空港ロビーで自分を見失い、ふらふらするばかりだ。

 鹿児島空港から鹿児島中央駅へバスで向かう。満席で補助席に座る、やはり、新幹線を使っての鹿児島行きというのはほとんどないのだと知った。駅から知覧へはまたバスである。海岸を走った後、山間部に入り、手簑峠を越えてようやっと知覧に着いた。盆地にある静かな町だ。

 東京から遙か隔たった町、しばらくいるうちに感じたことは空気感が違うことだ。地方的空気感、まったりとした時間の流れ、そればかりではない南国的な空気感がある。明るく、暖かく、そして緩い。
「二日とも特攻漬けだと苦しいですね、今日は武家屋敷を歩きましょうよ」
 当初は、二日とも知覧特攻平和会館に行く予定だった。田中幸子さんは知覧へは度々訪れている。平和会館の参事をしておられる峯苫真雄さんにも到着し次第行くと伝えてあったがこれは断念した。
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 峯苫真雄さんは、間接的にはよく知っていた。田中幸子さんを通して多くの情報を得ていた。満州新京発足の特攻四隊のうち二隊が武剋隊であり、武揚隊である。もう一隊扶揺隊があった。この隊員だった久貫兼資軍曹は特攻出撃時に機が不調で不時着して助かっておられる。この人のことを紹介してくださったのが峯苫さんであった。

 彼は陸軍知覧飛行場で飛行機の整備をしていた人である。この三月で引退されることになっていて、それで会っておこうということもあった。

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