2016年08月29日

下北沢X物語(3106)〜解放、開放、大会報122号〜

image1(一) 「今度のは第122号ですか。へぇ、驚いたな、よく続いたもんだ…」
 会報を印刷して事務局の「邪宗門」に昨日届けた。マスターの作道さんが言う。自分では毎月の仕事としている。会報の原稿を起こし、三軒茶屋のキャロットタワー三階の市民活動支援コーナーで印刷をする。言ってみればルーティン、深く考えたことはなかった。
「そうか、毎月一回だから計算すると十年二ヶ月となるわけだ!何とも恐ろしいことだ!」
 十年一日という諺がある。「長い年月の間、何の変化もなく同じ状態であること」をいう。繰り返し繰り返し同じことを行っていると、その間に月日が経ったことに気づかないでいる。
「もう十年も経ってしまったんだ!」
 気分として会報の玉手箱を開けたような思いがしたものだ。開けたとたんに透明の煙が立ち昇ったようだ。それで何だか急に歳を取ってしまったような気がする。
 そういえば資料を探していると会のみんなと撮った写真が出てくる。安吾文学碑の完工、横光利一文学顕彰碑の建立、比べると老けてみえる。人は気づかないうちに歳を取っていくのだ。


 会報では毎月の街歩きを案内している。この九月は「駒沢給水塔の水路を歩く」、これは120回目、これも十年目を迎える。正確な数は分からない。が、折に特番行事なども入れていた。参加人数は延べで2000人ぐらいにはなるのではないか。

 十年目を迎えるのは幾つもある、来年「戦争経験を聴く会、語る会」、また、「世田谷の戦跡を巡る」も同じだ。研究紀要も今年度発行するがテーマは「ダイダラボッチ」、第5号となる。発刊して五年が経つことになる。またついこの間始めた、「北沢川文化遺産保存の会・研究大会」は三回目を迎える。

 しかし、会があったらばこそ自分がある、と言える。人間死ぬまで何をするかということは大きな問題だ。動いて、考える、これが人間である。我らの会はこれを実践している。まず動く、これは歩くことだ、歩き回ってその土地を知る。文化探査である。

 これだけではない、戦争経験者の話、古老の話を聞いて過去を考える。大事なことである。歩いたり、考えたりを常に私たちはしている。これが活動の原動力ではないだろうか。

続きを読む

rail777 at 08:24|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月27日

下北沢X物語(3105)〜疎開学童資料に見る戦争の断面検

P1060095(一)世田谷の疎開学童の手紙、葉書、そして証言が近代戦争史をあぶり出した。それは浅間温泉に数多くの特攻隊員がいたことを証した。昨秋、長野県護国神社境内に特攻勇士の像が建立された。これには世田谷の疎開学童と彼らとが触れ合ったことが刻まれた。除幕式では当会が調べ上げたことが機縁になったとの挨拶が述べられた。

 武剋隊、武揚隊、ともに浅間温泉で一月余りの滞在を強いられた。偶然当地には都会から来た大勢の疎開学童がいた。未来ある命は彼らには輝かしく目に映った。死に逝く命が彼らに思いを託したのは自然だ。昭和二十年三月二十八日に武剋隊後発組六名はは松本飛行場を発って各務原飛行場に降り立った。そして航空路兵站宿舎に落ち着いた。時枝宏軍曹はこの日千代の湯の松本明美さんに、「元気な明ちやん達とお別れして急にさびしくなつてしまいました」と葉書を書いた。翌、二十九日、佐藤正伍長は梅の湯の石井貴和子さんに「貴和ちやんもお元気で書きたい事は山々あれど書かん」と書いて葉書を出した。後者には拗ねたような思いが見て取れる。

 時枝宏さんの葉書は四年前の2012年の「戦争と平和展」で展示された。松本から飛び立った特攻隊員が一人の女児に葉書を出した。人々の関心を惹くものだった。見学者がガラスに顔をくっつけて懸命にこれを読もうとした。このときの学芸員の毎日の仕事は顔の脂をぬぐうためにガラスを拭くことだったと。

 今回は佐藤正伍長の葉書が展示されている。「葉書と書簡をめぐる物語については、きむらけん氏の著書『忘れられた特攻隊』に詳しい」とある。これを読まないと経緯は分からない。今回の展示では脂汗がつくようなことはないようだ。

 武剋隊後半組の二人が、それぞれに各務原から浅間温泉にいる女児に葉書を送っている。思慕を綴ったものだ。四十日近くともに過ごしたことでその子に情が移ったということはあるだろう。当初、250キロ爆弾を装着する予定だったがそれが500キロ爆弾に変更になった。これが滞在を長引かせる結果となった。

「その装着変更がなかったら我々もこうやって毎年、浅間温泉で鉛筆部隊同窓会を開くこともなかったですね」
 24日夜、皆で集まった。鉛筆部隊の田中幸子さん、鉛筆部隊の故鹿子木幹雄さんの奥さん、真理子さん。武揚隊遺墨発見のきっかけとなった安曇野の丸山修さん。そして鉛筆部隊の手紙類を手に入れた山梨市の矢花勝己さんだ。それともうすっかりおなじみとなった目の湯の主人中野さんだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月26日

下北沢X物語(3104)〜疎開学童資料に見る戦争の断面掘

P1060093(一)24日、松本博物館で開催されている「戦争と平和展」を見に行った。寄贈した佐藤正伍長の遺品がケースに収められ展示されていた。「疎開児童と特攻隊員」というタイトルがそれにはつけられていた。学童と隊員との深い交流を示す証拠である。

 この夜、「鉛筆部隊と特攻隊」の取材で知り合った人たちと出会った。浅間温泉目の湯旅館である。武剋隊将校が宿とした旅館で今もそのままの佇まいで残っている。彼らが宴席を張ったであろう部屋で皆とは一献を傾けた。

「どうも新京からここにやってきた特攻は本部直轄部隊で別格だったようですね……昭和二十年二月に発足しています、第二航空軍は盛大な壮行会を開いていますね…」

二月十日  新京にて特攻隊四隊の編成及集結完了。満州
         国皇帝に拝謁、記帳、恩賜品の下賜、建国神
         廟の参拝等行う。関東軍、第二航空軍主催の
         編成及出陣式並びに特攻四隊の全員出席して
         盛大な壮行会を開催。
「読谷村史」第五巻 資料編四 「戦時記録下」 2004年刊


「この特攻四隊のうち武剋隊と武揚隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて長逗留してしまうのですよね。ところがこの二隊だけが長逗留してしまうのです。浅間温泉に疎開してきた学童たちは温泉に宿泊していた彼らと顔見知りになっています。ところがほとんどその名前は覚えていないのですね。滞在が短かったからでしょう。ところが武剋隊と武揚隊の隊員の名前は覚えていました。滞在が長かったことで接触する時間も多かった。それが理由ですね。でもここに謎があるのですね。彼らはどうして長くここに泊まっていたか?」
 
「段々分かってきましたが、特攻二隊は特別仕様の爆弾をつけようとしたみたいです。特攻機に装着する爆弾は250キロ爆弾が普通だった。ところが彼らの場合は違っていたようなんです…」

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月24日

下北沢X物語(3103)〜疎開学童資料に見る戦争の断面供

CCI20140511_0013(一)世田谷の疎開学童の日記や手紙から埋もれた戦争史が見えてくる。東大原小の疎開学童だった太田幸子さんの日記には昭和二〇年『三月二十八日(土)午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかへりもした』と記録している。武剋隊後半組が先陣の大戦果の報を聞いて、「いざ沖縄へ」と旅立った日である。ここにそれぞれの戦隊の明暗がみてとれる。

 すなわちこの吉原さんは、武剋隊の兄弟隊である武揚隊の隊員である。武剋隊が大手柄をたてた。一段と気がはやる。一刻も早く特攻突撃をしたい、が、全機の整備ができていない。隊長山本薫中尉は分散出撃はしなかった。隊の一員、吉原香軍曹は同宿している疎開学童に腕を見せてやろうと富貴の湯上空で宙返りを見せた。この記述は、まだ武揚隊が浅間温泉に滞在していたことを示す。

 一方、武剋隊後半組は前半に続けと、二十八日各務原を発った。六機のうち一機佐藤正伍長は編隊から離れて浅間に飛んだ。この編隊機の長は誰かという問題はある。小林勇少尉か、金尚弼少尉か。これは大きな論争になっている問題だ。

 いずれにせよ、後半隊の隊長に断っての離脱だ。単機での分散行動を許したのは彼の思いを長は知っていたからだろう。佐藤正伍長は浅間に別れがたく、ここに飛来してきた。低空で急降下をして何度も梅の湯上空を旋回した。ところが偶然、これを見ていた少年が日記に絵と文字を書き残していた。三月二十八日とある。

 けふは朝、ねつがさがったのでおきました。そしておひるからみんなかわにあそびにいきました。そしてみずのひっかけっこをしました。そしたら飛行機がすごくてい空をとんできては急こうかをします。ぼくたちは夢ちゅうでようふくをふりました。

 飛行機好きの少年だけに絵は巧い。単発、複座、機首を巻いている帯、そして特徴的なことは操縦席真上のアンテナ、この先端から尾翼へアンテナ線が繋がれている。これが描き込まれている。
CCI20150912_0000

 彼らの搭乗機は、九九式襲撃機である。「主翼前縁にスラット」、「視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計」されている。それらの特徴が絵と符合する。偶然、大槻さんは、女児に別れを告げにきた佐藤機を描いたのでないか?

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月23日

下北沢X物語(3102)〜疎開学童資料に見る戦争の断面〜

CCI20130815_0000(一)世田谷の疎開学童たちが残した日記、手紙などに近代戦争史が埋もれている。今回、その一部が松本博物館で開かれている「戦争と平和展」で展示されている。この資料の価値づけを含めて、戦争史の一端に触れてみたい。展示されているのは誠第三十二飛行隊、武剋隊隊員佐藤正伍長の遺品である。彼は、昭和20年4月3日、宮崎新田原飛行場から特攻出撃し帰らぬ人となった。
 
 昭和二十年(1945)二月十日、満州新京で特攻隊四隊の編成が行われた。扶揺隊、蒼龍隊、武剋隊、武揚隊だ。後者の二隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて、ここで特攻機用に仕様を変えるための改修を行った。四十日あまりの滞在期間中に彼ら隊員は浅間温泉に疎開していた学童と出会って交流を重ねた。死地に赴く彼らと若い命とが出会ってドラマが生まれた。

 武剋隊の動向については隊付きの整備兵佐藤曹長が手記を残している。これに満州新京から行程が記録されている。が、この武剋隊十五機は整備の遅れが生じたことから前半九機、後半六機に別れて松本から飛び立っている。佐藤曹長は前半に付いた。それで後半の隊の動向は詳らかではない。ところが疎開学童資料がこれを記録している。

 今回の展覧会では、当方が寄贈した佐藤正隊員の遺品四点が展示されている。そのうちの一枚が葉書である。まずはその表書きだ。

長野県松本市外浅間温泉梅の湯旅館内玉川国民学校
  石井貴和子殿
 
 岐阜県稲敷郡那珂町各務原航空路兵站宿舎内 
          佐藤  正
三月二十九日


  後半隊は六名である。浅間温泉の三つの旅館に分宿していた。この手紙、梅の湯に疎開していた女児に宛てられたものだ。ここには少年飛行兵組の三人が宿泊していた。佐藤正伍長、佐藤英實伍長、古屋吾朗伍長である。千代の湯には航養組の時枝宏軍曹が、また目の湯に将校の小林勇少尉、金尚弼少尉がいた。

 後半組六名は、陸軍松本飛行場を飛び立ち、一旦各務原飛行場に立ち寄った。それが「航空路兵站宿舎」である。

 当時、新田原、各務原、立川などには、特攻隊員を主とする空中勤務者専用の航空兵站宿舎があった。いずれも食糧事情の悪いところだけに、国民大衆にたいしていささか申しわけない感がしたが、宿舎ではできうる限りのご馳走をつくって最大限のもてなしをしてくれた。 「特攻隊の裏方」 飛行第一○八戦隊 菱沼俊雄 
 「会報 特攻」 平成一三年二月刊
 
 
 こうやって引用しているが不思議だ。双発高練に搭乗して菱沼大尉は各務原に飛来してきた。そして、昭和二十年三月「二十九日と三十日は那珂町(岐阜と各務原のあいだにある)の航空兵站に泊まったのであった」(「特攻隊の裏方」)と記している。つまりは佐藤正伍長と同じ宿舎にその日泊まっていたということだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月21日

下北沢X物語(3101)〜夏再び「戦争と平和展」松本博物館〜

CCI20160819_0000兵は、いくさびとのことだ、兵器は、いくさびとが用いる武具、人間が敵を倒すための道具である。大事なことは人間が関わるものだという点だ。いくら兵士が勇敢だとしても使えば自分までが消滅するものを果たして兵器と呼んでいいのか?「核兵器」はこれに当たる。広島、長崎の経験は、残酷な核への認識ではなかったか。赤ちゃんも、子どもも、女も、爺さんも婆さんも一緒くたに皆殺しにするものだ。落とされた瞬間にすべては吹き飛ぶ。驚いたことに途中の建物一切合切が無くなり、広島湾に浮かぶ沖合の似の島が見通せた。戦慄する恐怖の爆弾だった。核は兵器ではない。あんなにも酷い武具だ。兵器ではなく、人類抹殺機、人類破綻装置だ。兵器と呼称するから平気でこれを使おうとする。核の使用を世界全体で禁止しようという「報告書」への採否が国連で行われたが日本は棄権をした。根幹は日本が米国の「核の傘」に依存しているからだ。人間抹殺機ということを知りながらこれによって自分を守っているのは根本的な疑問だ。アジアでは絶対に使わないとの他国との交渉を主導して核の傘から脱却すべきだ。唯一の被爆国の責務ではないか?、原爆被害者への誓いは、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」だった

(一)終戦記念日を迎える夏は、戦争戦争でたて込む。六日は原爆忌だった。この日、「戦争と平和展」が松本市博物館でオープンした。この式典に招かれていたが私たちの主催する研究会と重なったために欠席をした。

 四年前の夏、博物館を訪れたときにびっくりしたことがある。
 この頃、世田谷の疎開学童の取材を続けていた。その関係で下馬の太田幸子さんのお宅に伺った。彼女は東大原小の疎開学童だった。往事の克明な日記を見せていただいた。富貴の湯の上空で吉原さんが宙返りしたと書いてあった。調べていくと、この彼は、誠第31飛行隊、武揚隊の吉原香軍曹だった。特攻隊員の彼は旅館富貴の湯に宿泊していた。
「その時の写真です」
 彼女は一枚を差し出した。富貴の湯の庭で東大原小の女児たちと特攻隊員の数名が一緒に記念写真に収まっていた。その瞬間歴史の秘密に触れたように思ったことだ。
P1030097

 びっくりしたというのはこの写真のことだ。博物館玄関の右に大きな立て看板があった。これにこの写真が堂々と飾られていたからだ。まさに日の目をみた写真だ。

ところがここに写っているのは武揚隊の隊員ではなかった。これは写真照合で分かった。では、誰だったのかこれはいまだに分からない、謎である。

 つい二三日前、博物館から今回の展示の写真目録が送られてきた。これを見て私が寄贈した遺品が展示品として飾られていることを知った。

続きを読む

rail777 at 20:50|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月20日

下北沢X物語(3100)〜「カスバの女」と帝国音楽学校検

P1060088(一)人は時を生きる、このブログも時とともにある。今回の記事の回数は、3100である。多くの人と出会い、多くの話を聞いてきた。その証言を載せてきた。始まりを調べると2004年8月31日だ。間もなくで12年なる。出会った人は千人は超えるだろう。証言された方で亡くなられた方も少なくない。年月はそっと過ぎてゆく、「時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」と詠んだのは白秋だ、この結びは、「時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく」だ。「時は逝く、ブログのアラビア数字の一つ一つが増えゆくたびに…」…。

 エト邦枝、一旦は歌手として華やかなスポットライトを浴びた。が、レコードは1776枚しか売れなかったと。すぐに歌手は廃業して下北沢で歌謡教室を開いて糊口を凌いだ。臥薪嘗胆、「カスバの女」が突然に脚光を浴び、本家本元の彼女は舞台に立ってこの歌を歌った。「苦節十二年、エト邦枝が歌う、『カスバの女』です」と紹介されてマイクを握る。スポットライトはきるんと目に光った涙を一瞬に映した。最高の時だったろう。

 が、栄枯盛衰、盛者必衰、人は老いて亡くなる。一人の女性の軌跡を追った。終焉の場所へ赴いた。そこは深沢五丁目十三番地、長谷川病院である。本通りの江戸道から脇道に入る、その左手に大きな建物があった。三階建てである。診療科目は、「内科、消化器科、肛門科、外科、整形外科」とあった。総合病院だ。しかし、何となく佇まいが静かである。人の出入りがない。不思議に思って玄関を覗きこむ。すると張り紙があった。
P1060089

 休院のお知らせ
 当院は昭和28年開院以来、皆様に多大なご支援を賜り診療にあたらせて頂きましたが、院長体調に不安を生じ、平成27年10月31日(土)をもって当分の間休院することになりました。
 患者さまには都合で休院することに対しお詫びいたしますとともにこれまでご愛顧賜りましたことをスタッフ一同感謝申し上げます。


 院長の高齢化による引退で病院を閉めたとのことだ。が、この張り紙によって分かったことがある。開院は昭和28年であるということだ。彼女は、昭和62年(1987)3月13日に亡くなっている。恐らくは救急搬送でこの病院に下北沢から運び込まれたものだろう。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月18日

下北沢X物語(3099)〜「カスバの女」と帝国音楽学校掘

P1060050(一)文士町には人の盛衰物語がひっそりと隠れている。先だって六日、北沢タウンホールで研究会を開いた。二人の古老の話を聞いた。一人は伊藤文学さんだ。当地で親から引き継いだ出版業を続け、従来の文芸路線から脱却し際物へと舵を切った。これが大成功する、雑誌『薔薇族』である。が、インターネットの普及によって売れ行きが悪くなり、とうとう廃刊の憂き目に遭ったと。
 
 最盛期には儲かりに儲かって西洋アンティークを飾る美術館まで作ったほどだった。文学さんの出版は土地の文化と結びついている。出版辺境の地ゆえの男色という新手のジャンルを見出し成功した。興隆物語のなれの果てだ。いつだったか住む家まで小さくなったと嘆いていた。

 エト邦枝の場合は、これとは反対に事業規模が大きくなっていったようだ。「カスバの女」で打って出たがヒットせず、発売後三ヶ月で芸能界を引退した。そして下北沢で歌謡教室を開いた。恐らくは細々と始めたのだろう。しかし、段々に人気が高まっていった。杉村京子さんは、「練習場所は三室ありました」という。当初は一室だったが繁盛するにつれ、次第に部屋を増やし三室まで確保したのだろう。

 彼女は、歌謡教室で教えるだけでなく、「後は観光バスガイドの指導を10年間務め」(ウィキ)たという。全国から観光バスガイドが東京に研修にやってくる。このときに歌唱指導などを行った。帝国音楽学校で声楽をみっちりと習った彼女は、教え方も確かだったのだろう。持ち歌を若いバスガイドにきっちりと仕込んだ。

 バスガイドらは先生であるエト邦枝に実地指導では誉められた。こぶしまわしがすばらしいとか、音感が優れているとか。田舎に戻った彼女らは先生に誉められた歌声をバスの中で披露する。

 ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く

 と歌った。函館で、金沢で、長崎で、鹿児島で、すると地方の観光地ではこれが流行るようになった。辺境を歌った音楽は深く人々の印象に残る、高度経済成長期にあった男たちは忙しい、日常から抜け出てさすらってみたい、彼らの願望でもある。これがカラオケで歌われるようになる。するとそれを聞いた女がまた歌う。次第次第にこの歌は全国に行き渡った。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月17日

下北沢X物語(3098)〜「カスバの女」と帝国音楽学校供繊

P1060078(一)文士町という呼称は都市文化論への問題提起である。普通は、村だが、町と形容している。人との関係性が濃厚なのは村だ、が、町の場合はこれが希薄である。偶然的要素によって人が集って生活をしている。大元は分かっている、電鉄線の交差が大きな要因だ。機械が作り出した因縁はなかなか分からない。が、それがふとした機会に分かることがある。町物語のおもしろさだ。
 
 文士町は都鄙境物語である。知られなければ永遠に埋もれる、これが偶然分かることがある、「へぇ、そうだったか!」と。「マコト」の話も、マコトに面白い。故松林宗惠監督「ここに『マコト』という喫茶店があった」と下北沢駅北口の一角を指しながら教えられた。だいぶ探し回った揚句、「マコト」はまことにあった。多くの映画人、芸能人が出入りしていた喫茶店である。この「マコト」とつながりの話はひょっこり、ぽっこりとマコト不思議に後になって掘り起こされる。

 北沢四丁目の古老、三十尾生彦さんは、座間キャンプを慰問した。このときにプロモートに加わっている。慰問団は、灰田勝彦とその楽団、コメディアン坊や三郎。そして日本舞踊の名取藤間間七龍師匠であったと。
「浦島太郎物の早変わりの踊りに米兵は度肝を抜かれていました」
 この踊りの師匠に渡りをつけたのは三十尾さんだった。すぐ近くに住んでいたからだ。
「灰田勝彦と坊や三郎に渡りをつけたのは『マコト』のマスターだったと思います」
 これはついこの間、聞いた話だ。マコトのマコトだ。

 「シモキタらしさのDNAを語る」という研究会を行ったが、打ち合わせのときに聞いた話だ。エト邦枝のことも偶然杉村京子さんから得た話だ。「カスバの女」を歌ったエト邦枝の逸話だ。

「カスバの女」は、昭和30年(1955)に発表された。このときの経緯を「早すぎた流行歌 「カスバの女」〜大高ひさを作詞 東京・下北沢〜2010年4月9日(朝日新聞)は記す。

 テイチクは歌手にエト邦枝を考えていました。低いアルトと日本人離れした顔立ちが、この歌のイメージと重なったのでしょう。けれど、不幸なことに、映画主題歌として発売された「カスバの女」は、肝心の映画が中止になったため、社内の話題にもなりませんでした。失意のエトは3カ月後に芸能界を去り、小田急線の下北沢駅近くに歌謡教室を開きました。

  その歌謡教室はどこにあったのだろう。ネットで調べてみると、ここに通っていた人が、「東北沢4号または5号の踏切に近い場所にあった歌の教室」と記している。いまや踏切はすっかりなくなった。が、こういう踏切話に出くわすと俄然興味が湧いてくる。
「踏切の警報音とセッションをしながら『カスバの女』が歌われていたのでは?」
 すぐに妄想が湧いてくる。しかし、この人踏切のことについてやけに詳しい。踏切を号数で言う人めったにいない。
 4号は、交番前の踏切だ。5号は路地踏切だ、ここでは轢かれたり、自殺したりして何人もが死んでいる。
「あそこはおばちゃんの踏切と呼んでいました」
 鉛筆部隊の立川裕子さんの姪御さんから聞いた。叔母が自殺したからだ。これで思い出したのはここを渡ろうとして急に立ちすくんで動けなくなった子がいた。確か大月文子おばあちゃんの孫だったと思う。その話を聞いた霊媒師がたまたま大月菓子店に来ていて、「えぃ、やっ」とたちどころに気合いを掛けたところ、悪霊は消え去ったと…。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月15日

下北沢X物語(3097)〜終戦記念日、核兵器は人類絶滅機〜

CCI20150805_0000(一)
「つくづく敗戦の惨めさを目前に見せつけられ、戦争などという事は孫末代までも生涯かけてすべきものにあらず」
 世田谷の代沢小学校の学童は信州に疎開した。その疎開先のお寺、真正寺のお上さん、橘弥生さんが日記に書き残されていた文言である。このお寺には、音楽好きの子が集まって毎日音楽に明け暮れていた。が、彼らは昭和二十年十一月一日、ここを発って東京へ引き揚げた。それまでは毎日学童たちが演奏する音楽が賑やかに鳴り響いていた。去った後には、今度は、「ドカン、ドカン」という響きが聞こえてきた。進駐してきた米兵が陸軍松本飛行場に残されていた数多くの日本軍の重爆撃機や戦闘機をダイナマイトで破壊した。彼女の息子たちは飛行場へ動員で駆出されこの虎の子を懸命に守っていた。それが敵の手に渡り、つぎつぎに壊されていく、聴くに堪えない音だったと。

 「戦争はどうあってもやってはならぬ」、一旦始まった戦争は何人死のうとも終わらない、人の生き死によりもメンツが重んぜられた。負け方の体裁を整えるためだ。国民はその間ただただ殺される。特攻に行って飛行機が不調で帰ってくると「どうしてお前は死ななかった。仲間に申し訳ないではないか」と問い詰められた。最後の本土決戦になって、竹槍で迎え撃て、それが駄目だったら敵の金玉を蹴り上げろ。全く無茶も無茶、戦略も何もあったものではない。

 わたしたちは戦争経験を聞く会、語る会を九回続けてきた。動員学徒の人々に来ていただいて話を聞いた。彼ら知性ある者が、「物力には負けるが精神力では日本は敵の何倍もの力がある」と信じて戦ったと言われた。

 しかし、現実にはどうころんでもまともに戦えない敵の圧倒的な力を見せつけられた。墜落したB29に備えられた給湯器は紅茶か珈琲を好みによって選べるものだった。搭乗員は全員パラシュートを装着していた。海上への不時着に備え救命ボートまで備えられていた。救急バックには何と釣り針まで備えてあった。

 以前、元特攻隊員だった久貫 兼資さんにお話を直接伺ったことがある。特攻機に乗って敵艦撃沈に向かったが機の故障で不時着して生還した方である。
「特攻は最も安上がりの戦法だった」
 と言われた。中古機に爆弾を装着し人間が操縦して敵艦に体当たりをする。そして死んだものは神様にする。機材は低廉、死んだ後には神になると言葉でいえばよい。間違いなく低廉で安上がりだ。戦争末期劣勢は明らかだった。本土の諸都市は空襲によってことごとく破壊された。が、国家は自殺に等しい本土決戦を声高に叫んだ。とことん追い詰められた揚句、国家存亡の危機とか言い、ついには特攻戦法に切り替える。作戦の不手際を人間爆弾という最後の手法として使った。兵士という駒を人間としては見ていなかった。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月14日

下北沢X物語(3096)〜「カスバの女」と帝国音楽学校〜 

P1060076(一)一昨日元疎開学童の松本明美さんから葉書が来た。「あと二日で十二日です、七十二年前、浅間に出発した日がきます」と。世田谷の代沢国民学校は昭和二十年八月十二日に下北沢駅を発って、浅間温泉に向かった。当事者には忘れがたい日である。都会育ちの彼らが音楽会や演芸会で芸を披露する、地元の人は度肝を抜かれる、歌にせよ、踊りにせよ、巧みだった。当地、下北沢鉄道交点の芸能文化の反映である。ピアノを習ったり、日本舞踊や洋舞をたしなんだりした子がいた。いとも簡単に芸を披露してみせた。

 再疎開先の洗馬真正寺での音楽会に見事に日舞「絵日傘」を舞った子どもがいた。学区域には藤間流名取藤間勘七龍が教室を開いて教えていた。
「多分、そこに踊りを習いに行っていた子でしょう」
 北沢の古老三十尾生彦さんが言う。彼は戦後に米軍厚木基地を慰問している。灰田勝彦、坊や三郎、そしてこの藤間勘七龍が芸を披露した。大受けに受けた、下北沢に戻ってジープ一杯の戦利品をほくほく顔で山分けしたという。

 先日六日、北沢タウンホールの12階を一日借り切って研究大会を開いた。「シモキタらしさのDNAを語る」がテーマだった。この準備会を旧東北沢六号踏切前の大庄水産で行った。このときに居合わせた杉村京子さんから聞いた話がある。
「『カスバの女』を歌ったエト邦枝さんは一番街の八幡湯のマンションに住んでいました」
 その歌手の名前はメモした。が、何でもすぐになくしてしまう。ところが「カスバの女」は覚えていた。
 
 調べるとすぐにエト邦枝だと分かった。元演歌歌手が八幡湯のマンションに住んでいた。そう驚くべき話ではない。ところが興味を惹く点があった。この彼女「帝国音楽学校」卒業生だった。
東演納涼会A 
 学校は、下北沢の西隣世田谷中原(代田)にあった。昭和六年に創設されたこの学校は、戦争中の昭和二十年五月二十五日の空襲で焼失してそのまま廃校となった。高圧鉄塔64号のそば建っていた。
伝説の音楽学校だ。先だって世田谷代田の和菓子の老舗「香風」が閉店した。かつてここの二階に喫茶室があって音楽学校の学生がよく出入りしていた。やはり、音楽家を志しているゆえに服装もおしゃれだったようだ。しかし、音楽で身を立てることは容易ではない。ぼろぼろの服を着た苦学生もいた。

 エト邦枝も「香風」に来ていたろう。仲間と将来を語りあった。彼女、音楽があらばこそ数奇な運命を辿る。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月12日

下北沢X物語(3095)〜青春18切符で旅にさ迷う供繊

P1060075(一)青春18切符に対置される旅は、豪華客船の旅だ。後者は人気があるらしい。巨大な船の設備は豪華だ。劇場やプールなどもある、酒池肉林、酒は飲み放題、肉も魚も食べ放題。が、こんな旅に私は我慢できない。やはり青春18切符程度の質素さがよい。何と言っても豪華なのはめくられる景色である。移りゆく景色を眺めながらぼんやりとしている時間は、何物にも代えがたい。

 民族学者宮本常一は、父親から「旅の十訓」を授かった。その第一、これがよい。

一、汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か藁葺きか、そういうことも良く見ることだ。

 移動していく汽車からは土地が観察できる。家の造り、屋根の瓦の色、畑の作物、お墓の弔い方など。その土地その土地の固有性が出ていて面白い。
P1060073

 さて、さすらいの話だ。当日、浅間山南麓小諸市塩野あたりをさまよい歩いた。仲間の別宮さんからは、コメントがあった。「古道歩きには事前の調べは欠かせない」と。が、自分には漂流願望がある、必ずしもそこに行き着かなくてもよいというのがある。途中、藁葺き屋根の古民家には幾つも遭遇した。偶然ゆえに得がたいものだ。あてずっぽうの流離い旅の醍醐味だ。

 地方では歩行に価値はない、都会からの酔狂人がほっつき歩く程度だ。田舎にはすっかり車社会が定着している。かつてはどこに行っても道しるべはあったが今はない。カーナビの普及で必要がなくなったからだ。思えば迷った道にほとんでしるべはなかった。そしてまた道を聞こうにも人がいない。結局、十数キロ歩いたところでコンビニ辿り着き、タクシー会社に電話して車で駅までは乗っていった。小諸駅だ。

 信越線、小海線、中央線経由はもう昔から乗り慣れている。車窓を楽しむコースとしては一番よい。信越線はなくなって18切符が使えないJRバスやしなの鉄道に乗らなくてはなならない。これはこれでまた異文化を味わえる。ところが、この味わいのある各停旅行の小海線、ひところよりも乗客が減った。

 もっとも特徴的だったことは野辺山から団体が乗り込んできたことだ。彼らはつぎの清里まで高原列車の旅を楽しんで降りてしまった。バスのツアー客である。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月11日

下北沢X物語(3094)〜青春18切符で旅にさ迷う〜

P1060074(一)このところずっと気を張って生活をしてきた。やっと仕事が一段落したことで旅心が湧いてきた。「山国の古街道でも歩いてみようか」と。それで、一昨日の九日、まずは新宿湘南ラインで高崎に向かった。ここからは信越本線の残存路線で横川まで向かう。かつて碓氷峠に材をとった物語を書くために何度も通ったところだ。鮮明に残っている記憶がある。

「トンネルの幕を引くときは釜をおっかぶせるにようにロープを操るんだ!」 

 碓氷峠には二十六箇所ものトンネルがあった。隧道番がここに居て、機関車が隧道に入ったとたんに幕を被せる。そのコツを隧道番の息子さんだった人から取材した。
煙害を防ぐための幕引きは危険な仕事だった。一歩誤れば命を失いかねない。が、この話そんな昔のことではない。碓氷峠に鉄道が敷設されたのは1893年だ。わずか123年前のことだ。116年前にはこんなことで人は自慢していた。これは小田原のことだ。

「ついこの間までは駕籠か草鞋がけだったんだからな。それがどうも芝居見物にでも行くようなこしらえで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでお午後時分には着いて仕舞おうてんだかから大層なものさ。」   「熱海線私語」 牧野信一

 熱海と小田原の間に人が押す人車鉄道が開通した。そのときの喜びだ。時の移ろいの速さを思う、私は車窓からぼんやりと妙義山の山並みを眺めながら思った、ここ百十数年の間に驚嘆すべき交通の進歩の発展を。自身の記憶にある六十年だって恐ろしいほどの変化だった。速く、速くという貪欲さはとどまるところを知らない。外は見えなくても地下を潜ってでも名古屋や大阪にたちまちに着くというリニアを建設し始めた。旅は車窓にこそある、が、これをも抹殺してしまおうというのだ。

 横川から軽井沢までの在来線は廃止された。この間をJRバスが運行している。碓氷バイパスを通っていく。思い起こされるのは事故だ。今年1月15日、ここの入山峠で起こった「軽井沢スキーバス転落事故」である。痛ましい事故だ、乗客の多くは若者だ、15人が亡くなった。路線バスはその現場を通っていく、峠を上りきったあたりに痕跡があった。献花台に花束が見えた、現場は、いまだにガードレールが曲がっている。魂がうめいた痕跡だ。が、大事故の現場は一瞬にして過ぎる。そして車内には軽井沢へ向かう満員の乗客の安息感がある。自分も含めて事故とは無縁な日常を我らは生きている。
P1060071
 軽井沢からは「しなの鉄道線」に乗る、するとすぐに「中軽井沢駅」となる。昭和31年、「沓掛駅」だったものを変更した。味わいのある地名だが、経済宣伝を優先した結果これは消えた。「旅人が草鞋や馬の沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれる」地名だ。

 いつもここを通る度に、味気なさを感じる、ところが、この隣の駅名はそのまま残っている。「信濃追分」だ、地名からして詩的で素敵だ。名峰浅間山と信濃追分、ことばの響きを聞いただけでもうきうきとしてくる。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月09日

下北沢X物語(3093)〜都市下北沢の興隆史研究供

P1060047都市興隆史は面白い。しかし興って隆盛する様を見ていた人がいなくてはいけない。その経過をじっくりとみて観察していた人の証言は貴重である。しかし今回の反省である、歳を重ねた人を古老だとすぐに形容しないことだ。伊藤文学さん、古老と言われて驚いたと言われる。女性の胸元に熱い魅力を今も感じ続けていると言い切った。そんな人にはあまりいい言葉ではなかったようだ。古老、人生の熟成者とでも言い換えようか。

(一)
 街の発展と衰亡、見た目には栄えてはいるが生活はしにくくなっていると。かつて生鮮三品は多くあった街だが今はこれがない。それで隣町の三軒茶屋まで当地から買い物に行っている。三軒茶屋と下北沢とを結ぶ小田急シティバスは繁盛している。下61は自分でも愛用している。野沢から三軒茶屋に着くとシルバーパス該当者と思われる人たちが長蛇の列をなしている。
「あの三軒茶屋に行くと、まず食べ物のにおいがする。それと売り手の声が聞こえる」
 古老の三十尾さんはそう言っていた。そう太子堂の商店街は揚げたての天ぷらを売っている。そしてそのはす向かいでは今日はスイカが安いよとの声。

 一月に続いて再び、三十尾生彦さんに今回も話していただいた。脳という記憶箱に抽斗があってそこに逸話を眠らせておられる。そして自分の講演日が近づいてきたらパソコンに向かって要点を打ち込んでいく。日常への緊張感だ。

 今回、第二回研究大会の課題としては記録がある。研究会を開いたというだけでなく、その記録が役立つように公開の必要がある。そのためにはどうするか。対処としてはICレコーダーに撮る。もう一つはビデオ撮影をする。後者についてはユーチューブに公開したらどうかと提案している。

 後半の研究会の発表は高く評価できる。一帯の交通史の形成過程などは、これほど詳しく論じられたのは初めてのことだったのではないか。いずれにしても古老の話、研究会、いずれも記録するに値する貴重なものだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月08日

下北沢X物語(3092)〜都市下北沢の興隆史研究〜

P1060064(一)八月六日、北沢川文化遺産保存の会は、北沢タウンホール十二階、スカイサロンを一日借り切って第2回研究大会を開いた。大会コンセプトは「シモキタらしさのDNAを語る」だ。街がどのようにして生まれたのか、その歴史的な経緯を語る会だ、ねらいは、「消えゆく街の歴史を遺そう」というものだ。一番の不安は、長丁場の大会にどれほど人が集まるのかということだった?

「そんなに人は来ないでしょう椅子は少なめでいい」
 ところがドラマは起こるものだ。
「人間、継足すことに幸福を覚えますね、椅子をどんどん足してくださいと言うときは嬉しさがこみ上げてきますね」
 基本、人は衰退よりも興隆を好む。幸いにして事前の不安は吹き飛び、盛況だった。一部、二部、三部の参加者を総計すると五六十名にもなる。第三部の懇親会でもお弁当が足りず、ついに下北沢「オオゼキ」まで走って買いに行ったほどだ。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが研究大会のコンセプトだ、午前第一部は、下北沢の古老、三十尾生彦さん、伊藤文学さんの話、午後は、研究発表二本、「下北沢を中心とする交通網の変遷」(きむらたかしさん)、「東京セロファン世田谷工場の歴史」。それと「下北沢文士町を巡る問題提起」、どうして芸術文化が濃厚に存在するのか、それと戦後下北沢の貴重なカラー写真の映写と解説だった。

 できるだけ参加者で街を語ってもらいたいと思っていたが、時間がなくてかなわなかった。

 研究大会の入場料は500円とした。昨年は300円だった。値上げしたわけだがこの点で主催者は、「対価に見合うだけの質と内容だったのか?」と自らに問わなくてはならない。しかし、古老たちの熱意のこもった弁舌、そして発表者の質の高いプレゼン、参加者の声、これらを総合すると「五百円」取っただけのことはあったと評価してよい。

・参加された方々が熱心に聞かれていたこと、発表の後にはつぎつぎに手が上がって多くの質問が出されたこと。
・第一部、第二部、途中で席を立って帰るという人がいなかったこと。
・予定していた時間が足りなくて準備していたものをカットするほどだった。
 

 大会を通して何を学んだのか?
 東の都市東京が市域を拡大するにつれ縁辺にあった当地域は大変貌を遂げていく。とくに東から延びてくるバス路線、鉄道路線による影響が大きい。雑木林、畑地だった当地が住宅地に変貌した。文明生活の拡大によって大きく変化しそして今日がある。

 大都会東京の膨張による大きな影響を受けて街は変化発展した。この裏には人間のドラマが渦巻いている。欲得や好奇心、人間の生の感情が吹きだまってきていた。
 思ったことは、温故知新である。過去を見詰めなおしてこそ未来が見えてきもする。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月05日

下北沢X物語(3091)〜刊行『ミドリ楽団物語』〜

ミドリ楽団物語戦中から戦後、価値が一気に転変する激動の時代だった。その中を駆け抜けた児童楽団がいた。世田谷代沢小のバンド部員たちだ。音楽に関わっていたからこそ彼らは濃縮された時代をくぐり抜けた。ゆえに副題は「戦火をくぐり抜けた児童楽団」とした。味方の日本軍を見舞い、そして敵の米軍を慰問した類い希な楽団だ。なかんずく現象として興味深いのは、下北沢鉄道交点の芸術文化がこの楽団において見事に映し出されている点だ。彼らの戦後における活躍は華々しい。映画やテレビを通して世界デビューまで果たしている。歴史の陰にひっそりと埋もれていた逸話だ、これを物語化したものだ。

(一)大海に出会って感動する、人間誰しもこれは一回こっきりである。子どもというのはそういう新たなものへ出会って次第に成長していくものだ。この児童楽団は価値や環境が激変する中を生きた。戦争があったらばこそである。当面したのは飢餓である。ゆえに食べ物との出会いは強烈だった。戦中、彼らは厳冬期、本土決戦に備えて訓練する決部隊を慰問した。そのときに大釜でぐつぐつ煮えているお汁粉を振る舞われた。戦後、アニー・パイル劇場では大きなハンバーガーに出会って驚いた。タマネギのみじん切りは食い放題、ケチャップも好きなだけかけられた。中には角砂糖まで挟み込む者もいた。食ショックだ。

 作品というのは一つの小宇宙である。書いている最中は、全体像は見えない。が、これを書き終わって作品になる。それが本として手に持てるようになったときに初めてその世界を掴んだ気になる。今回のは、聞き書きを素材にした物語だ。言えば歴史事実と自分の想像力が織りなしたものである。それだけに感銘が深い。あの場面、この場面が思い起こされる。描いた風景に対する郷愁である。

 学童たちのいる風景、彼らが潜っていく風景のトンネル、はスリリングだ。疎開列車の窓にはドラマが映る。、「海だ!」、「違うよ、山の中に海があるわけないよ」、「そうだよそうだよ、これは諏訪湖だよ!」、このあたりの会話が楽しい。こういう彼らの道行きは丁寧に書いた。提灯に照らされた夜の道をゆく場面も美しい。これが二箇所ある。

 一つは、下北沢駅南口の通りを行く彼らだ。提灯の光に先導されてここの坂を上る、バンドの部員が砂利道を歩いていくと背中にくくりつけたタンバリンの鈴が鳴る。ずっくざっく、じゃらり、すると歌の旋律が喚起されて少国民兵士たちは気持ちが鼓舞される。この夜は全町民あげての見送りだった。その人々に送られ疎開地に向かう。学校では三本杉校長に激励されたばかりだ。勇ましい歌の一つも出てこようというもの。昭和二十年八月十二日の夜のことである。

 もう一つある、提灯に照らされた道を歩く、それは帰郷の日である。これは昭和二十年十一月一日だ。洗馬村真正寺から中央本線洗馬駅まで約十キロの道を歩いていく。中山道との合流点付近から振り返ると曲がりくねった道を後方集団の提灯が揺れ動いている。そして谷間には星の光に照らされてぼんやりと銀色に光っている川が見える。奈良井川である。辛い疎開生活だったがいざ別れるとなると切ない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月04日

下北沢X物語(3090)〜文化遺産保存の会の研究大会に来たれ!

DSC02598文化とはよって立つところの固有のにおいである。例えば、鉄道が交差していた下北沢にはブレーキシューが削った鉄粉が匂っていた。近隣のどぶも独特のにおいがあった。沢筋のにおい、そして丘上のにおい、これは日向くさい。これらが芸術感覚に影響していたと考えることもできる。街をそんな視点で捉えようという試みだ。面白がれば面白くなる、老若男女来たれ、我らの研究会へ。若者の参加費はただだ。先だって、武蔵中学の生徒が文士町を訪ねてきて、「坂口安吾文学碑」を見て、自由研究のテーマゲットと言ったそうだ。若者よ、中学生、高校生、大学生よ、来たれ、大歓迎だ。

(一)このところOliver L. AustinS Collectionで話題が沸騰している。鳥類学者だった彼が占領下の日本各地の風景をカラー写真に撮っている。この中に十数枚が下北沢の街を撮ったものである。鮮明なカラー映像は往事の空気感まで描いていて見事である。沸騰しているのはその写真がどこを撮ったものなのか、聞き込みや調査でここがほとんど分かってきた。これらは街を記録したものとしては貴重である。八月六日、第二回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会を行うが、これをプロジェクターに映し、参加者に当時の街を語ってもらおうと計画している。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが今回のテーマでもある。第一部は、10時から古老に聞くを予定している。下北沢の戦前と戦後を、三十尾生彦さん(93歳)、伊藤文学さん(84歳)に語っていただく。
CCI20160627_0001
 第二部は、13時30分から、まず、「シモキタの歴史研究」ということで、「下北沢を中心とする交通網の変遷」をきむらたかしさんが発表される。下北沢に多くの文化価値が集まってきた最大の原因は交通の発展、進歩である。これの経過が発表される。

 つぎに、北沢4丁目にあった「東京セロファン世田谷工場」の歴史について木村康伸さんにはなしてもらう。これも古老三十尾さんがその記憶を語ったことが発端になった。これを「知りたい」と言う話しになって今回の発表へ結び付いたものだ。

 東京近郊工業発展史として位置づけられ、記録されるべきものだが全貌はほとんど分かっていない、セロファンを作るには水が必要だ。推測されるのは地下水、それと用水だ。ここには三田用水の分流が流れていた。ここからの取水か?

続きを読む

rail777 at 09:39|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月03日

下北沢X物語(3089)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』供

film416(一) 「昨日新聞に、原子爆弾で死んだ者二十八萬人と書いてありました。幸子はくやしくてくやしくてたまりませんでした。この尊い日本の国民を殺していういうと入って来るアメリカ兵、必づうらみは晴らさなければなりません。今の子供はいちばんせきにんが重いのです。」 

 昭和二十年「八月二十五日夕」と記された手紙の一節だ、東京世田谷東大原国民学校の六年の女子学童が下北沢野屋敷の実家に送ったものだ。原爆被害の過酷さを新聞は述べているが、犠牲者「二十八萬人」というのは過度な虚飾、プロパガンダだ。被害を水増しすることで国民の敵意を煽った。事実、彼女は敵への悔しさをぶつけている。

 被害者実数は正確にはつかめていないが、「昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計」とされている。たった一発で十数万人が死んだ。が、アメリカ国民の間では、「原爆のおかげで第二次大戦が終結した」とされている。しかし、もうこの時、全国の諸都市は大型爆撃機で廃墟と化していた。敗戦は時間の問題だった。そんなときに新型爆弾を敢えて用いた。「一発で十万人を殺す」ことはいかに言い繕っても正当化することはできない。惨殺である。

 この八月一日のニュースとして広島市長が、「原爆の日」の平和記念式典で読み上げるスピーチのことが伝えられていた。

 オバマ米大統領が5月に広島を訪問した際の演説から「核を保有する国々は恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」との訴えを引用する。

 大統領演説は素晴らしい。2016年5月に生きていた人々は深い感銘を受けた。しかしこれを引用すると聞いたとき釈然としないものを感じた。「勇気」は必要だ。が、思うに、過去にさかのぼって核を使用しない「勇気」を持つべきだっのではないか?

 通常爆撃ならまだしもだ。「警戒警報」が鳴って、「空襲警報」に切り替わる、人々は覚悟を決めて逃げたり、防空壕に入ったりした。ところが、原子爆弾はこのプロセスがない。ドングワラワラと爆発したとたんに命が消える、溶けもした。何万人も半殺しの火傷を負いもした。こういう被害への想像力を持ち得たろうか。広島、長崎原爆からの教訓はこうではないか?

人類は絶対に原爆を落とさないと誓う勇気が必要だ。続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年08月01日

下北沢X物語(3088)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』〜



(一)原爆忌がまた近づいてきた。あの八月六日がまた巡ってくる。以前、これをテーマとした物語を書いた。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』である、かつては、広島原爆資料館の売店でも売られていた。ところがこれも絶版となってしまった。私にとっては思い出深い本だ。2000年1月「読売新聞」書評欄に載った。

 ◆「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」 きむらけん著

 ヒロシマの悲劇をテーマにした児童文学はいくらもあるが、大人にこそ読んでほしいと思わせる作品はそう多くない。戦争が嫌いで電車が好きな人に、本書は忘れえぬ一冊となるだろう。
 男の多くが出征していなくなった戦争末期、広島電鉄の路面電車を運転した十五、十六歳の女学生がいたこと。被爆三日後の八月九日に一部で運転が再開され、それが地獄の底にいる市民に無言の励ましを与えたこと。二つの事実から、瞬く星の光のようなこの物語が生まれた。
 運転士の姉、電車好きの弟。ひもじい毎日でも仲良く、笑顔を忘れない四人姉弟のささやかな幸せが、一瞬の閃光(せんこう)で奪われる。独りぼっちになった弟は、死屍累々(ししるいるい)の廃墟で思いがけない電車の警鐘を聞いた……。  その年に生まれた著者は東京の高校教師。擬音、擬態語が鮮やかで、少年の心理描写も見事だ。綿密な調査・取材の跡がうかがわれるが、読む者の心を打つのは<想像力だろう>(顕)


 あの惨劇からは遠ざかっていくばかりだ。それでもあの悲劇は時代を超えて伝えていかなくてはならない。本は絶版となってしまった。しかし、これを生かす方はある。ネット時代はこれが容易である。アマゾンキンドルでは気軽にこれを作れる。

 このところひと月余り長編小説の校正に追われていた。日々文章との格闘だった。ようやっと終えて安堵する暇もなく、つぎのに取り掛かった。性質、タチとしてぼんやりとできない、それでつぎの仕事を見つけ出してしまう。ちょうどあの時節がすぐにめぐってくる。それでこの作業に取り掛かった。

 まずは、テキスト捜しから始まる。ところが書籍での発行は、1999年である。16年も前のことだ。さて原稿がどこにあるかだ。パソコンやUSB、DVDなど心当たりを探してみる。書籍での発行年は1999年だ。探しに探してようやっと見つかったのはフロッピーである。かろうじてこれに残っていた。

 旧作をネットで公開する、これも容易ではない、編集、校正、デザインなど全部自分でやらなくてはならない。表紙にはイラストレーターの著作権がある。前に広島に行って撮ってきた写真をあしらってこれは作った。

 本文は、書式を整える。刊行本を見ながらルビを改めて入れ直す。単語としては、運転士が頻繁に出て来る。が、チンチン電車の運転士である、やはりこれは運転手だろう。こんな問題は簡単だ一括変換で行えばすぐにできる。

 が、改版といっても大きく変えたわけではない。てにをはが中心だ、それでも何か所かの表現は変えた。大きな点は、最後に『電鉄家政女学校の記憶』という長編詩を載せたことだ。

 「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」は、事実を元にした物語だ。細かなところで事実と違う部分がある。それで真実詩とでも言っていいこの詩を載せた。

 前にも述べたが、ドキュメンタリー映画「皇国少女」の最後は、この長編詩がスクリーンに出てきて延々と流される。



続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月31日

下北沢X物語(3087)〜ぽけもんぼけもん近代文明批評〜

100NIKON-DSCN0011_DSCN0011 (2)(一)ぽけGO人気はとどまるところを知らない。今朝の新聞、「ぽけGO人気懸念も〜国内推計一千万人超・相次ぐ削除要請〜と伝えている。夏休みに入ってさらに熱気は増しているようだ。希少キャラのいる聖地へ聖地へと向かっていると。異様なエネルギーである。彼らはさすらった挙句どこへ行くのだろうか。ふと思い起こすのがエミール・ゾラの小説を思い起こす。「獣人」の主人公は「アル中と狂気の血故に、発作的に人を殺す」、機関車を運転中に助士に襲い掛かり、二人は機関車ら落ちてしまう。操作する人間のいない機関車は遮二無二突っ走る。「おい、いいスピード出しているじゃないか!」と後の車両に乗った「兵士どもは、すっかり酔っぱらっていて、自分たちに迫りつつある運命には気づいていない」という話だ。 

  ゲーマーたちは面白がってキャラを夢中で捕まえているが、機関車の運転士に当たる人のことは誰も問題にしない。こちらも凶暴な奴で、人に襲い掛かって殺し、そしてゲーム総体のシステムを勝ってにいじってしまう。

 ハメールンの笛吹男も思い出す。笛吹男は意のままに子供をあやつり百三十人の少年少女を洞窟に導きそしてこれを封印してしまった。人間、善意の人ばかりではない、昨今はドロップアウトした凶暴性を秘めた男たちが増えている。どう悪用するか分からない。

 問題は、人が夢中になってしまうことだ、自分自身の考えで行動するのならまだしも、案内者は機械である。機械的にあっちこっちにキャラをばらまいている。新聞では、「原子力発電所でカメ型のポケモン『ゼニガメ』がみつかった」と記す。ファンにとってはたまらないお宝、平気で施設に入っていくだろう。

 電車内でちらりと見かけた見出し、ぽけGOの情報はCIAに集約されると、実際これは悪用されかねない。今朝の新聞だ。

 情報の管理についても警戒する声がある。
 ポケモンGO配置情報を利用するため、プレイヤーの行動範囲や自宅、勤務先までが分かってしまうリスクがある。


 このことは商売に直結する情報だ。この社会ともかく儲かることが最優先となっている、この情報は金目筋のものとして重宝されるだろう。ぽけもんGOの位置情報で漏れた情報がどこに回ってしまうか分からない。知らないうちにつけねらわれるかもしれない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月29日

下北沢X物語(3086)〜ぽけもんぼけもんれんぺいじょう〜

DCIM0060(一)つい数日間に始まった、革命的なゲームをマスコミは大勢として肯定的に報道している。しかし、この現象本当に人間にとっていいことなのか?

26日の日、会報を届けに邪宗門に行ったところ。
「家の主人が後ろからきた自転車にぶつけられて転んでしまったのよ。その子助けもせずに逃げちゃったのよ、ゲームをしながら走っていたのね……」
 身近な例だがこの追突全国規模ではかなりの被害があるようだ。

 時間の近代化は人に時間の概念を植え付けた、身体の近代化は他者との共通の動きを学習させた。システムを管理する上では好都合だった。昨今出現したゲーム機は指先の近代化ではないか?

 誰か分からない機械の親玉の指令で皆が街に繰り出す。そしてそろって指先を動かして獲物をゲットしていく。この夏ヒートしている。が、キャラクターの配置などは人間が介在して機械が場所を割り振っていく。

 悪用されないのか。例えば、最強のキャラヒトラーマンが〇〇に出ると設定して、多くの若者をここに集める。万人ほどの人が集まったときに「ヒトラーマン」がでてきて、「この社会は不公平にに満ちている、特に君ら若者は一番の被害者だ。よって今、機が熟してきた。今こそ攻撃の時だ」と煽る。ゲーマーたちは「ワオー」と叫んで、彼の術に乗せられて暴徒と化す、ありえないことではないだろう。

 SNSを見ていたら、「世田谷公園」が、聖地となって大変なことになっているとあった。いつもの荏原逍遥のついでだと昨日ここを見に行った。

 行くと確かに人が大勢いた。皆スマホをかざしている。指を駆使して獲物を捕まえているのだろう。この風景からして異様である。人が随所に林立して画面に見入っている。そして指先を動かす。「ゲット」とかの声は聞こえるが総じて静かである。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(3)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月28日

下北沢X物語(3085)〜会報第121号:北沢川文化遺産保存の会〜

20057,16 041
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第121号                 2016年8月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1
                                                      03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、全国級の地域文化を記録に(地域の絆ネットワーク支援事業認可)

 28年度、世田谷区地域の絆ネットワーク支援事業へ、北沢川文化遺産保存の会は申請していた。これが認可されたとの連絡を受けた。我々の会は、代田、北沢、代沢に眠る文化を掘り起こし、これを記録することを狙いとして創設した。活動を続けて十一年目を迎える。北沢川緑道に四基の文学碑を建て、「北沢川文学の小路物語」をはじめとする多くの冊子、また四号を数える研究紀要を発行して着実にその成果を上げてきた。今回、これの認可が下りたことから二点の事業を行いたい。

 峅舎迷文士町文化地図」改定七版の発行

 下北沢鉄道交点一帯には文化人が多く居住した。日本でも第一級の作家や詩人である。萩原朔太郎、横光利一、三好達治は、その顕彰碑を緑道に建立したが、彼が当地に生き、多くの作品を創った、土地固有の事象が作品に染み出ている。が、この三人だけではない。驚くほどの作家、詩人、俳人、歌人たちが居住していた。彼らがどこに住んでいたのか。長年に亘ってこれを調べてきた。そしてその旧跡を地図に記してきた。文学者のみならず芸術家、画家、作曲家、彫刻家の旧居まで記してきた。極めて限定的な地域に、驚くべきほどの文化人が居住していた。いわゆる旧来的な文士村を凌駕している。親玉が呼びかけて「来たれ!」と呼び掛けたわけでもない。今になって気づいてみると、あの人もこの人も居住していた。従来の「文士村」という物差しで形容することのできない文化現象が当地一帯にある。それで我々は「文士町」と評している。あらゆる価値が集まってきている。演劇や音楽も含めて多岐にわたっている。近代の日本文化形成史に記録されるべきものだ、質、量において引けをとるものではない。

 「下北沢文士町文化地図」は改定に改定を重ねて今日まできた。しかし、この全貌はまだよくわかっていない。例えば、北原白秋が祖師谷大蔵に住んでいたことからここに近い下北沢に後に著名となった弟子筋が数名いるがその居住場所は分からない。調べに調べを続けていて、意外な人が住んでいた。ついこの間も北村透谷の奥さんが当地で亡くなっていることを知った。
 この文士町は、鉄道開通がきっかけだった。昭和二年の小田急、続いて昭和八年の井の頭線、これが交差することで利便性が高まり、多くの人々が集まってきた。人の集まりは文化をも集めた。芸術ばかりではない、教会も集めた。文士町の形成に鉄道は深くかかわっている。が、最近になって明治期に活躍した作家、生田葵山が代沢一丁目に住んでいたことを知った。今回は新たに分かったことを新版第七版に記入し、記録したい。従来どおり一万部を刷って配布したい。これまでのを加えると五万八千部に達する。

紀要第五号の発行

 北沢川文化遺産保存の会は、研究紀要を発行してきた。昨年は戦後七十年を記念して、第4号『戦後70周年記念戦争記録集』を発行した。全国からの要望があって200部弱を発送したことだ。
 今年度、地域の絆予算が下りたこともあって発行したい。去年から引き続き世田谷の高射砲陣地についての調べがまとまってきた。「世田谷の高射砲陣地」をテーマと考えていた。しかしこれは極めて特殊的である。それで今回は地域に密着したものをテーマにしようと考えた。
 民族学者柳田国男の著述に「ダイダラ坊の足跡」がある。その書き出しは、「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」と述べる、すなわちこここそが世田谷代田である。このことはあまり知られていない。我々はこの埋もれている文化を発掘してきた。これを劇にしたり、また「ダイダラボッチ音頭」にして伝えてきた。後者は昨年世田谷代田児童館の協力を得て作った、これをユーチューブに載せて公開している。すでに再生回数は750回を超えている。
 また、この六月には、日本経済新聞には、このわれらの活動が紹介されもした。これらのことから今回の紀要は、東京府巨人伝説の中心地「代田のダイダラボッチ」として発行したい。

2、北沢川文化遺産保存の会第二回「研究大会」消えゆく街の歴史を残そう 

大会テーマ シモキタらしさのDNAを語る

主催 北沢川文化遺産保存の会
共催 下北沢グリーンライン 協賛 世田谷ワイズメンズクラブ
後援 世田谷区教育委員会
開催期日 8月6日(土)北沢タウンホール、スカイサロン
     会費 500円(資料代) 若者学生は 200円
第一部 午前十時から十二時まで
 シモキタの昔を古老に聞く
・戦前の下北沢       釣り名人    三十尾生彦さん(93歳)
・戦後の下北沢       元薔薇族編集長 伊藤文學さん (84歳)
第二部 午後十三時半から午後十六時半
 シモキタの歴史研究 前半
・下北沢を中心とする交通網の変遷(きむらたかし氏)
・報告:東京セロファン世田谷工場の歴史(木村康伸)
 シモキタの歴史研究 後半

〇シモキタの街を参加者で語る 司会石坂悦子さん
 街の歴史を参加者が語り、街の記憶を共有し、未来につなげる。
 問題提起に向けての資料提示
・下北沢文士町文化地図をもとに なぜ文化がこの街に集まってきたか?
参加された方が自由に発言をして進行させていく、この際、昔の写真を映写し、街の形成過程を参加者で討議していく。
第三部 懇親会、納涼会 17時30分より
  会費3500円 豪華「ミドリ楽団物語弁当」つき
 イベント マジック 作道明・藤井理嗣さん
〇 懇親会参加者は必ず申し込んでください。お弁当を発注するので8月1日まで
 米沢邦頼 090−3501−7278 に連絡を。
 ・懇親会は夏恒例行事、できれば楽しい飲み物が食べ物を一品持参
 ・オークション 家にある物品で要らないものを これはオークションにかけて
  会の資金にしている。
*当日、会場設営や運営にボランティアで協力してくださる方がいれば助かる。
  その場合は会場に9時30分に集合。


3、『ミドリ楽団物語』〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜刊行
 
 世田谷代沢小に戦前、昭和14年器楽バンドが発足した。当校に赴任してきた浜館菊雄先生がこれを発足させた。全国でも先駆けとなる先進的な試みである、が、調べていくとこれが地域の文化と深くかかわっている。音楽的素養、芸術的な素養が登校してきている子どもたちにあったらばこそである。この学童音楽集団の活躍は当地、下北沢地域の文化を映し出す鏡である。音楽、文学、舞踏などいわゆる芸術にたしなみのある親がいてこれら子弟の多くがこのミドリ楽団に加わっていた。戦中における陸軍部隊の慰問、そして戦後における華々しいデビューは強烈だ。
 例えば、アメリカン、アメリカの軍人たちがどれほど彼らの演奏に驚いたことか。大劇場アニーパイルでの公演では、全員がスタンディングオベーション、拍手は鳴りやまなかった。この楽団の指導者は単に猿真似ではない、音楽、アメリカ物がうまく演奏できるだけではだめだ。クラッシックにも挑戦して、器楽演奏でこれも合奏できるんだと訴えた。日本人としての誇りを持たせようとして学童たちに多ジャンルを学ばせていたのではないかと思う。
 知られざる地域史であり、また知られざる戦後史、そして、児童音楽文化史である。今回のものはともかく「楽しい」、それは音楽物語であるからだ。ノンフィクションではなく事実を元にした物語として書いてまとめた。八月六日の研究会に発行が間に合うはずだ。会場でこれを販売したい。2000+税だが、税は割り引く、ぜひ購入を。

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 共催 駒沢給水塔保存会・北沢川文化遺産保存の会
 〇都市東京の発展の礎、渋谷町単独の水道事業の痕跡を歩く。
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く: 桜新町駅→大山道追分→真福寺→フラワーランド→岡本隧道→岡本民家園→野川水道橋→砧下浄水所


・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
萩原朔太郎の居住痕跡を歩く     案内者 きむらけん
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記

▲終戦記念日特別行事〜下北沢周辺の戦争痕跡を歩く 募集したところ3名しか集まらなった。それでこれは行わない。先の例示は、こういうコースで歩けるという提示でもある。要望があれば日を改めて開催したい。
▲先月、七月「第九回 駒沢練兵場を歩く」を実施した。「世田谷平和資料館」ができたことからこれをコースに入れて組んでみた。が、トピックとはならない。今後どうするか。地道に続ける努力が必要だとのこと。装いを改め、「第十回 世田谷の戦跡を歩く」として継続することにした。簡単に言えば、下馬の野砲兵跡、下代田の陸軍病院跡、陸軍獣医学校跡、駒場の輜重兵跡などを、つまり、三軒茶屋から池尻大橋までの間の南と北の戦跡を歩くということにして、継続する。季節は「戦争経験を聴く会・語る会」と同じく五月にしたい。七月は暑いことから「地下街を辿ってお江戸東京を歩く」を計画したい。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。(今はなくなった下北沢エグンザス)



rail777 at 00:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月26日

下北沢X物語(3084)〜改定七版へ:下北沢文士町文化地図供

14 107(一)「今度のものの中に『真正寺ミュージカル劇場』というところがあるんですよ。お宅の寺の本堂で音楽会を開催するのです。境内の庭に面した障子戸を開けると、日傘を持った女の子が出てきて、『絵日傘』を踊るのです、するとムシロ持って集まってきた村人がびっくりするんですよ。踊りが決まっているんでしよ。手つきとか、表情とか、もう村人は大騒ぎで……」
「何か目に浮かびますね…」
 真正寺の住職さんが言われる。
 物語の最終校正を行っていて、先代住職とか現住職さんの名前が出て来る。間違ってはいけないと確認の連絡を、塩尻市洗馬の寺に電話しての話だ。
「そうそう、それとようやっと復活した『真正寺学寮歌』も記録として本に載せておきましたから」
 この歌は、物語の中で大きな役割を果たしている。
「そうですか…」
「いやね、何しろ音楽物語ですから、映画向きなんですよ。映画にすればいいですよね。そうして、疎開学童が演ずる『真正寺ミユージカル劇場』をそこで撮るといいですね」
 昨年、『鉛筆部隊と特攻隊』の一部が劇化されて放映された、これよりも絵になる部分が多い。

 徳光君のスピーチも絵になる。「ミドリ楽団」が初めてワシントンハイツのアメリカンスクール向かう。このバスに彼が乗っていた。団員ではないのに「なぜ?」と皆はいぶかる。ところがいよいよ音楽会が始まる時に彼が舞台に出てくる。そして、なんとまあ滑らかな英語であいさつをした。これから演奏をしようというときに団員は緊張していた。もう度肝を抜かれてしまって、皆口はあんぐり。

 この二つの事例、地域とかかわってくる。前者の話で言えば、北沢の古老、三十尾生彦さんの話を思い起こす。彼は、日本舞踊の大家藤間勘七龍とともにアメリカ軍に慰問したという。思い出したのは、真正寺で巧みな踊りを披露したのはこの藤間勘七龍の稽古場に通っていた子ではないか。

 徳光君の親は、英語が堪能だったという。言えば学区域知性であり、文化でもある。真正寺は再疎開先だ。その前の浅間温泉でも音楽会を開いたとき、兵隊服を着た女子が現れて巧みに洋舞を披露した。これも地元民に強烈な印象を与えている。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月25日

下北沢X物語(3083)〜改定七版へ:下北沢文士町文化地図〜

CCI20160725_0000(一)「下北沢文士町文化地図」第七版の発行を決めた。われ等の会、北沢川文化遺産保存の会は、平成28年度、世田谷区地域の絆ネットワーク支援事業に応募していた。このほど採用決定通知があった。それで重版発行を推進することにした。

 今回、地域の文化を再興するということで二つの事業を考えていた。一つが「下北沢文士町文化地図」七版の発行だ。これは改定に改定を重ね、四万八千部を発行していた。次七版では総数、五万八千部になる。「文士町」がまた広く認知される。

 地図は七版だが、実は初版の前に零版がある。2006年5月31日に発行した「北沢川文学の小路物語」の表紙の裏にこれが印刷されている。デザインを担当した東盛太郎さんが作成したものだ。彼はこの後に急逝してしまう。

 地図は彼が遺した遺産だ。現今のものはこれを基にしている。毎版ごとに順次見つかった文芸人の旧居などを書き込んできた。改版は時の経過を表わすものだ。

 こういうこともあった。五版目ぐらいだったろうか。地図を見た人が驚いていた。
「こんなに著名人が住んでいたのか知らなかった。しかし、これ以上は探すな…」
 そんな忠告をした人がいた。地図作りを進めていくと、地点やポイントを集めようという気持ちが働く。彼が言うのは、これ以上調べると「同人誌級の作家となる」と。つまり、記録してきたものの価値が薄まっていくという指摘である。

 しかし、この改版の背景にこそ、「文士町」の特異性がある。この認識も十年に及ぶ経験からきている。旧居調べは隣接する区域にまで及んでいる。隣町の三軒茶屋もそうだ。最近見つけたのは山田風太郎旧居だ。

 文化的な観点での比較でいうと、三軒茶屋は商域や街としては下北沢よりも広い。が、旧居密度は後者が断然濃厚だ。このことによって文士町の特異性が浮かび上がってくる。

 端的に言えば、文士町の全貌は分かっていないことだ。改版を重ねていくうちに少しずつ分かってきて、それが改版につながっていることだ。版を重ねられる街、そういう観方ができる。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月23日

下北沢X物語(3082)〜都市論としての「夜霧の第二国道」供

DSC_0021(一)「夜霧の第二国道」は、名前がいい。一級から落ちる点がローカルで裏さびれている。落魄行である。物寂しさや哀れさが滲み出ている。フランク永井の大ヒット曲である。昭和三十一年の高度経済成長時代、金銭的には潤ってきた。しかし、庶民の多くは心が満たされないでいた。かろうじて生きながらえている者もいた。ネットで見ていると、やはり、この曲は懐メロとしては人々の心に生きている。とある人が、「むしろ、ある喪失感、下降する人世の、辛い、甘美な肌合いだけは、いまも鮮明に僕の心に残っています。」と書いている。働けど働けど、思いは報われない。ネオン街で恋人を見つけることもできない。社会を支えている男たちの郷愁歌であったのだろう。恋もままならぬ青年たちがせめてこの歌をうたうことで憂さを晴らしていたのかもしれない。

 ネオン街に後ろ髪を惹かれながらもそれを捨てて第二国道を行く、これも男気の一つだったのかもしれない。そういうことでは、ここのサビは泣かせる、「バック・ミラーに あの娘の顔が 浮かぶ夜霧の ああ 第二国道」である。気温の差があって、海岸部の第一国道では霧が出ないのかもしれない。武蔵野の起伏には多摩川からの川霧が押し寄せ霧が出たのかもしれない。

 彼が乗った車、コロナか、二国を走っていく。折々にミラーを眺める。後続車のヘッドライトの向こうには都会の明かりも見える。そこに捨ててきたはずの「あの子の顔」が浮かぶ。本当は好きだったのだけど行きがかりで、「オレはおめえなんか嫌いなんだから」と粋がってみせてしまった。が、二国まできて思う。関心は深かっただけにその女を思う。バックミラーに彼女の横顔が浮かんでくる。「おお、幸子!」とか、ところが無惨にも夜霧がこれをさえぎってしまう。

 バックミラーの守備範囲はある。彼女の顔が浮かび、都会のネオンの光彩映る。距離でいうと環七ラインでないだろうか。つまりは都鄙境である。物語が湧いて消えるところだ。具体的な場所を言えば、松原橋だ。環七を越えていく橋だ。東京外郭環状線である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月22日

下北沢X物語(3081)〜都市論としての「夜霧の第二国道」〜

DSC_0019〇今日から都市の風景が変わった。街や公園の一角に大勢がたむろしている。若者が中心だ。それぞれがスマホをかざして懸命に画面を見ている、折に画面を見せ合う場合もあるが、個々別々の作業にふけっている。その場に居合わせている人間同士だが、つながりは希薄だ。その彼らは探すことに熱中している。得体の知れないものがこの人々をどこかで操っているのではないか。空を見上げるが黒幕は見えない。社会は何か恐ろしいものに引っ張られているのではないか?今日、駒沢公園で出会った異風景である。

(一)テレビチャンネルを回していたら懐メロが聞こえてきた。「夜霧の第二国道」である。これを聞きながら思った。
「なんだあ、これは荏原都市論じゃないか!」

 歌謡曲は情緒性が必要だ、名前はとくにそうだ。これは地理的には「中原街道」でもよい。しかし、「夜霧の中原街道」ではあまりにも田舎臭い。一国はどうだ、「夜霧の第一国道」、これはおしゃれ度が過ぎてフィットしない。やはり抒情といのはある種、臭みが必要だ。場末的な情緒である。一級酒よりも二級酒が訴える。が、これに足を取られると心もおぼつかなくなる。飲酒運転ではまずかろう。ところが「夜霧の第二国道」をゆく運転手は素面のようだ。

 歌にうたわれる、「夜霧の第二国道」はどこだ。国道二号というのがある。これは山陽道を走る、国道だ。この第二国道は、国道一号のうち、東京都品川区西五反田から神奈川県横浜市神奈川区までの区間における道路通称名である。つまり、第一国道の補完道路である。それで人々は「ニコク」、「第二京浜」と呼びならわしていた。

 この「夜霧の第二国道」昭和三十一年(1956)に発売されている。高度経済成長が始まった時期と重なる。また二年後には映画として昭和三十三年(1958)年二月に封切られている。主演は小林旭だ。歌手のフランク永井も、芸名で出演し歌を歌っている。作詩:宮川哲夫 作曲:吉田 正である。

つらい恋なら ネオンの海へ
捨てて来たのに 忘れてきたに
バック・ミラーに あの娘の顔が
浮かぶ夜霧の ああ 第二国道


鉄道にしても車線にしても上り下りというのがある。この車の運ちゃんはどちらへ向かっているのか。これは間違いなく下りである。彼、主人公の男は「ネオンの海へ」つらい恋を捨ててきた。「バカ野郎、おめえなんか嫌いだよ」と言って車に乗り込んだ。車種はコロナだ。ひたすら西へ向かう。まずは桜田通だ。五反田手前の坂を下っていく。山手線のガードを潜り、目黒川の橋を渡り、山手通りを過ぎてやっと「第二国道」に入る。

 都心から遠ざかれば遠ざかるほど「あの娘」が思われる。折々に彼はバックミラーを覗いてみる。このあたりでは明りが見える。

 不図見ると、東京と思う方は、宛然火事でも有るかの様に、明るさが空に映じて居た。瓦斯燈、電気燈、軒に並ぶ街燈、道行く提灯、虚飾と実用とに論なく、戸外に於て輝き合せ、夜の東京をして一層多忙ならしめて居る。その集団の遠き火光が、自づから大いなる背景を造つて、近き大崎田圃の発電所の大煙突二本を、切組絵の様に浮出さして居た。
 明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」


 明治四十年発行の「蛇窪の踏切」である。大体位置的には二国に入ったあたりのである。都心の明かりが煌々と空を染めている。この時代は煙突の煙がガスとして舞っていた。が、昭和三十年では、多摩川の川霧が漂ってきたのだろうか。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月19日

下北沢X物語(3080)〜第10回「世田谷の戦跡を歩く」〜

P1060039(一)駒沢練兵場を歩く、いつの間にか九回目を迎えた。恒例行事である、野砲兵、そしてけん引する馬、人馬が汗した場だ。ここの近衛野砲兵は皇居の「午砲」(ドン)の担当をしていた。昼時をこの砲兵たちが知らせていた。また三軒茶屋に繰り出して憂さを晴らした第一野砲兵連隊の兵士はレイテに行ったまま帰ってこない。忘れ去られた彼らを追慕する行事だった。来年は十回目となる。

 先の「戦争経験を聴く会語る会」、九回目だった。十年は一つの大きな区切りである。しかし、われらは義務ではやってこなかった。これがねばならないというと辛くなる。先が持たない。
「必ずしも十回目を開催する必要はないと思います」
 これは私の意見だ、先の五月の「戦争経験を聴く会語る会」は、多くの方々が支えてくださった。準備会も何度も行い、反省会までした。
「地域の子どもが入って会をやることは素晴らしい。しかも彼らが自分たちの古い先輩方が歌った疎開学童歌をうたったんだから意味がありますよ」
 サポートした人々の意見だ。それで、来年第十回は目は、五月二十七日に開くことを決め会場も予約した。

 「駒沢練兵場を歩く」はどうするか。九年間行ってきてマンネリ化している。追悼、追慕というベーシックなものがあるゆえに致し方がない面はある。が、続けてくることで知ったこと、発見したことは多くある。今回は、世田谷平和資料館ができてこれをうまく活用できればトピックになりうると。最後にここに着いてここのホールで戦争経験者から一帯の昔の様子を聴くことを考えていた。が、できないらしい。

 継続するとすればどんな工夫があるだろうか? 
「この駒沢練兵場は大体がフラットで歩きやすい、反面景観性に欠けているように思います。」
 蛇崩川と北沢川とに囲まれた台地の上にここは広がっている。それで練兵場と兵営を築いたのである。歩いていくときの楽しみは景観である。これまでので言えば、今も往時の兵舎が残る韓国會館は歩きの中でのトピックだ、年々朽ち果てていくさまがみられる。哀れである。駒沢練兵場の西、昭和女子大構内の記念碑、そして木造兵舎、馬魂碑は戦跡景観としては見るだけの価値はある。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

下北沢X物語(3079)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場供

image006(一)戦後71年、戦争の風化は著しい、昨日、疎開学童連絡協議会の長谷川直樹さんからメールには、「疎開体験を語り継ぐという活動に、展望が見えてきません」とのこと。疎開経験者の老齢化で語り継ぎの継承は崖っぷちにあると。活動を辞めたとたんに歴史も消え去ってしまう。疎開学童関係については当事者が亡くなりつつある。彼らが所持している日記や手紙は戦時資料として貴重だが、遺品はごみとして処理される。が、これらを体系的に収集している資料館はない。この保存を含めてきわどいところに来ている。
 
 世田谷からは多くの学童が松本市を中心とした地域に疎開している。その時に書いた日記や手紙は貴重な資料だ。軍関係の記録は多くが焼却されていてない。戦争末期、沖縄戦の後方支援基地だったここには数多くの航空兵が出撃待機で浅間温泉には滞在していた。その時の学童の日記や手紙を丹念に読んでいくと具体的なことが分かってくる。誠隊の所在、あるいは振武隊の所在、この間は、湯本屋にこれが滞在していたことが分かった。

 世田谷区域には歴史記録が多く眠っている。近代戦争史の片鱗がこっそりとある。疎開学童の絵日記には具体的な機影が描かれ、そしてまた最新型重爆撃機の飛来記録までもがある。

 また一方、広大な軍事施設が置かれていた。近代戦争史を支えた場である。砲兵、輜重兵、騎兵などが一帯の施設には駐屯して訓練を重ねてきた、そして大陸や南方に派遣され多くが亡くなっている。玉砕した隊も少なくない。
P1060036
 九年間、私たちは駒沢練兵場を巡ってきた。毎月街歩きを行っているが時代の変化とともに衣替えをして継続している。駒沢練兵場を歩くは基本を変えないでこれを継続してきた。夏の暑い盛り、戦跡を歩こうと呼びかけても人が集まらない。

 九年間行ってきたから、次に来年十回目もやろうとは考える。しかしどうしても義務として行わなくてならないこともない。今回は、一つの期待があった、新しくできた世田谷平和資料館を軸に、戦跡歩きと古老からの聞き取りをセットで開催することを。しかし、施設側は冷淡だった。この行事、断念することも選択肢の一つとしてあると思った。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月17日

下北沢X物語(3078)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場〜

P1060038(一)回数を重ねて九回目となる戦跡歩きだ。ところが戦争の風化を足が感じた。戦後71年、あの戦争から大きく遠ざかってしまった。しかし、時間の経過だけではない、風化には空疎感があった。なぜだろう、今朝新聞を読んでいて出会った、「現代世界におけるあらゆる信用が揺らぎつつある」と。「そうだ人間への信頼がなくなりつつある」と思った。相次ぐテロ事件、これが日常化して普通に人々が死んでいく、過去の戦争の酷さ、今のテロにおけるひどさ、今日的価値観から戦争の無謀さへの想像力が希薄となってきたように思った。
 
 昨日、119回目となる街歩きの案内者はせたがや道楽会の上田暁さんだ。例によってまず最初は、昭和女子大構内にある近衛野砲兵の記念碑から見て回る。具合よく昭和女子大の教授永山誠先生も参加されていて、建物の中にさりげなく飾ってあるトルストイの絵を見せていただいた。レーピンの手になるものだ。

 近衛野砲兵連隊跡から、第一野砲兵連隊跡へ、この行事の大きなトピックとなるものがここにある。今もなお兵舎がここに残っているのである。韓国会館として使用はされているが、東半分は使われていない。年々朽ちていくだけである。

 明治31年に建てられたとする貴重な歴史建物遺産

 上田さんはこう資料に記していた。

「詳細は調べなくてはなりませんがこの建物の設計が、全国の学校の校舎建築に影響を与えている可能性はあります」
 永山先生の指摘だ。現存する貴重な建造物、保存をとここ数年訴えてはいるが共鳴する動きはない。貴重だということの意味を具体的に示唆する意見だと思った。

「明治時代のものだとすればどのようにして作られたかというのも考えなくてはなりません」とも。先生の指摘でわれらは壁材の板に目を向けた。
「長尺寸ではなくて短寸(1、5メートルぐらい)だから運ぶのに具合よいのでしょうね。当時のことだから馬車で運んだのでしょうね。だとすると日本鉄道の渋谷駅からでしょうか?」と私。

「この材をどこから運んだかということもありますね。往時だと多摩川のいかだ流しがあったから奥多摩とかの材がきているかもしれません。そうなると二子玉川辺りに製材所がなくてはなりませんけどね」
 永山先生は想像力が豊かだ。多摩川のいかだ流しで運ばれたなどというのは今回九回目で初めて出会った示唆だ。

 しかし、この建物年々朽ちていくばかりだ。ちょっとした地震でも崩壊するのではないかと思う。部材などでも保存できないか、街並み保存の会の丸山さんと訴えたこともあるが、その彼も亡くなってしまった。

続きを読む

rail777 at 09:55|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月16日

下北沢X物語(3077)〜「ミドリ楽団」と地域文化〜

DSC01906(一)代沢小のミドリ楽団の興隆と発展、戦争を挟んでの活動であった。敵味方に慰問活動をした児童楽団というのは稀有である。戦争という時代を彗星のように駆け抜けたこの楽団は地域文化と深く結び付いている。そこに固有性がある。鉄道交点文化を映し出す鏡だともいえる。
 
  13日、山崎小OBの長谷川直樹さんと会った。彼も疎開組である。浅間温泉では小柳旅館に滞在していた。彼らも満州から飛来してきた特別攻撃隊と親しくなっている。昭和二十年三月末、出撃していく戦闘機を見送った。翌4月3日、九州新田原近くの佐土原から手紙が届いた。近々出撃するから新聞を注意と。ところが、どういうわけか満州に原隊復帰して、その彼らとまた手紙で交流をする。この正体は分かっていない。

 山崎小と代沢小、そう遠くはない。が、背尾根一つ越えたところにある。前者の最寄り駅は梅が丘駅、後者は下北沢だ。が、学校の環境や雰囲気が異なる。

「代沢小ではさまざまなジャンルがあったみたいですが、信じられません。わたしたちの場合は軍歌だけでしたから…忘れもしません昭和二十年十一月、疎開から帰ってきて梅が丘駅に整列して歌ったのは『勝利の日まで』だった。戦争に負けたのになんであの歌を歌ったのか後々の語り草だ」
 
 山崎小学校には代沢小とは違う不自由さがあった。保守的であった。それでここに漂っていた不自由さがあったようだ。生内泰子さんは、四年生のときに、教室で数え歌をした海苔が焼けたのを三畳焼けた、四条焼けたとうたのがある。彼女は順に行って「九条焼けた」とうたった。このことによって問い詰められた、なぜ歌ったのか。
「九条焼けたは宮城焼けたにつながることからとがめられた」
 彼女は今でも苦い思い出だという。

 都会の田園地帯にある学校はどうも不自由であった。軍隊上りのいばった教師がいてのさばっていたこともあるようだ。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月14日

下北沢X物語(3076)〜「ミドリ楽団」とワシントンハイツ供

CCI20160714_0000(一)昨日のことだ、会の事務局で人と待ち合わせをしていた。三軒茶屋で街歩きの掛け金を振り込んだ後、代田まで散歩がてら歩いた。途中、太子堂富士見湯の前を通りかかったときに一人の女性と目があった。
「お風呂が開くのは二時からなの、でもね、いつも早くから来て待っているの、こうして待っているのがとても楽しいのね」
 自分では待つのは嫌いだ。行列に並ぶことはない。しかし、待ちながらオープンまでの時間を楽しめるというのはいい。
「道を人が通るのを見たり、待っている人同士で話したり、そしてときにあなたみたいな人が来て、私に知らないことを教えてくれるの。今日はね、とても幸せでしたよ。私が知らないことを教えてくださったのだだもの…」

 彼女は生まれてこの方、この近隣で過ごしていたようだ。小さい頃、今の世田谷公園辺りではよく遊んでいたそうだ。
「あそこはね、駒沢練兵場だったのです。広々とした原っぱがあったでしょう。風が吹くともう大変でした土煙がもうもうと立って目を開けてはいられないし…」
「そうそう埃はすごかったですね。窓を閉めていてもだめなんです。掃除が大変でした、掃除機なんかないしね」
「世田谷公園の西側は野砲兵の兵営がずらりと並んでいました。ここからするとこの坂を上ったところが国道246号です。その向こうが兵舎、そこの溝から流れてきた水がほらそこのドブに流れてきていたんですよ」
「私は、ずぅっと住んでいますけど、そんなこと知らなかったわ、ありがたいことですよ」
 彼女はしきりに感心していた。

 246沿いの世田谷区社会保険事務室に街歩きの保険を提出した。係担当の女性も驚いていた。
「道の向こうに兵営がずらりとあったんですか、そんなこと考えたこともなかった…」
 この一帯、街の歴史が各所で眠っている。が、人はそれを知らない。

 私たちは皮相的な面でしか生きていないのではないか。土地固有のものを知らないで生きている。そして、その最新時間だけがどんどんと人を連れていく。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月13日

下北沢X物語(3075)〜ワシントンハイツと「ミドリ楽団」〜

4024e099(一)建物名称からみる都市考現学、日々歩いていて思うことがある。単数が住まう家の名はほとんどが日本名だ、が、これが複数になると外国名となる。ハイツは多い、パークハイツ、スカイハイツ、グリーンハイツなどだ。朽ちかけたアパートまでがメゾンなどとついている。そんなときに梅花荘とか出会うと感動してしまう。しかし、問題は単純ではない。先に起こった猟奇事件はマンションで起こった。立地しているのは世田谷区野沢だが建物の名には、目黒区の柿の木坂がかぶせられている。販売価格では柿木坂である方が、一万三千二百五十八円高いらしい。かつて多数を占めていた〇〇荘、〇〇アパートはない。パレスやハイムなどにどんどん侵食されている。われら日本人のレーゾンデートルはどうしたのか?

 夢野久作の小説「人間レコード」にはこんな場面が出てきた。

 列車の速力がダンダン緩ゆるくなって来て、蒼白いのや黄色いのや、色々の光線が窓硝子ガラスを匐い辷った。やがて窓の外を大きな声が、
「小郡イ――イ。オゴオリイ――イ」
 と怒鳴って行った。


 「オゴオリイ――イ」は、懐かしい、駅ホームでの案内の声、旅路で出会った旧知の地名、小説を読んでいても切なくなる。この響きのいい地名、いつしか消えて、「新山口」となった、後年、「シンヤマグチー」と呼ぶ声に出会ってどれほど落胆したことか。旧来の地名や名前に人々はこだわらなくなった。沓掛などはいい名前だ、が、中軽井沢の方が通りがいい、だいぶ前にこれは改名された。

「世田谷代田も隣の東松原や下北沢にどんどん侵食されてきているのですよ」
 歴史ある地名なのに松原コートとかメゾン下北沢とつけているらしい。地元の人の話だ。

 建物名前の欧米化、全東京が侵されている。この現象、どこから始まったのか。例えば、ハイツなどは駐留米軍がつけた居留地の名前だ、グランドハイツ、ワシントンハイツなどだ。西欧に対するあこがれはハイツから始まっている。

ワシントンハイツの存在は日本人の住空間を大いに変えていく。
芝生を駆け回る犬と白い家……。
日本人が立ち入ることのできないフェンスの中の「アメリカ」をモデルに、日本人は畳や床の間を捨て、リビングに応接セットを並べて、何の疑いもなく大量消費時代へと邁進していくのである。 
『ワシントンハイツ』 秋尾沙戸子 新潮社 二〇〇九年刊

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月11日

下北沢X物語(3074)〜土壇場のショック:ミドリ楽団物語〜

CCI20160710_0000(一)戦前の昭和十四年に発足し、戦後の高度経済成期時代に消えた児童楽団がある。戦火を潜り抜け、そして戦後になって世界デビュー、全米でのテレビ中継までされた楽団だ。地味な努力とそして華々しい活躍、彗星のような軌跡を描いた音楽集団だ、児童音楽文化史に記録されるべきだと思う。地域の文化発掘をし続ける中でこの話と出会った。すなわち、世田谷区代沢小学校の「ミドリ楽団」だ。何とかしてこれを記録しておきたい。その一心から「ミドリ楽団物語」〜戦果を潜り抜けた児童楽団〜を書き上げた。今校正段階に入っているが、ここに至って思いがけない事実に遭遇した。

 昨今の溢れかえる情報の中で個人的に驚いた情報がある。東盛太郎さんがこの「ミドリ楽団」の団員だったことだ。十数年前、2004年、彼との出会いがきっかけとなってわれ等の「北沢川文化遺産保存の会」が創立された。創設メンバーであった。

 彼と二人で最初に手掛けたのが「北沢川文学の小路物語」である。彼がデザインを担当し、私が文章を書いた。下北沢地域一帯に眠る文化を掘り起こして何とか伝えたい、そんな思いからだ。

 現在、我々は「下北沢文士町文化地図」を作って配布している。改定に改定を重ね、今では六版となった。今年度中に七版を出すつもりだ。実は、この原型を作ったのが他ならぬ彼、東盛太郎さんだ。

 われ等は個々人の経歴についてはあまり話題にしない。生きている今が大事だからだ。しかし、共に奉仕的に活動してきた彼は急逝してしまった。下北沢で彼のお別れ会があった。このときに初めて知ったのが本職のデザイナーだったことである。

 彼との協働でできたのが「北沢川文学の小路物語」だ、お別れ会ではこれが遺作となったと紹介されて改めて感銘を受けた。

 しかし、そういわれるだけの評価はあった。発行すると「朝日新聞」と「毎日新聞」二紙で大きく取り上げられた。前者は2006年6月24日朝刊の東京版に載った。あれからもう十年以上が経つ、このところ「ミドリ楽団」の調べをずっと続けていた。関係者は高齢化し、証言を得ることがとても難しかった。が、あろうことか灯台下暗し、身近なところに関係者がいたのだった。しかし、彼から話をもう聞くことはできない。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月10日

下北沢X物語(3073)〜鉄塔とダイダラボッチと弁天池事件〜

P1060035(一)私たちはつぎつぎに入ってくる情報に翻弄されている。国内では相次ぐ殺人事件、国外では止まることのないテロが続く、力による暴力だ。道徳や倫理は全くの無力だ。世界や社会が閉塞化しはじめている。資本主義の金権至上主義の行き詰まりでもある。ドロップアウトした人々がやみくもに人を殺し始めている。多くは疎外者だ。体制は殺人やテロには敢然と立ち向かうというが根絶は不可能だ。便利、金権至上主義は人の心を破壊し始めている。

 昨日雨の中をいつも通り散歩した。弁天池殺人事件の犯人は逮捕されたが池はまだ立ち入り禁止となっていた。ここから北上すると取材陣が大勢いた。ネタに群がるハゲタカのようなものだろう。一連の報道の展開は、マンション内部での遺体解体の可能性が高いことを全国津々浦々に流していた。田舎のじいちゃんばあちゃんまでが殺人事件の推理に加わり「マンションの住人が怪しいね」と嫌疑をかけていた。一番胸をなでおろしたのは住民だろう。

 散歩では池からいつも北上する。西から緩やかに流れている浸食谷が東へと続いている。これが細長い半島を形成している。この最東端に駒繋神社がある。よってこの地区のあざ名は「子の神」である。

 緩やかな坂を上っていくと、報道カメラが並んでいた。犯人の居住マンションを写しているらしい。ドンピシャリ、そこは背尾根に当たる、すぐそばには小学校がある。中丸小学校だ。「中丸」は地名をとったものだ、「丸」は、丘だ。ゆえに背尾根にあることを示している。当然丘を向こうに下れば低湿地がある、そこが鶴が窪だ。すなわちダイダラボッチ伝説のある池である。

 この一帯民俗学的には面白い箇所である。西丸、中丸、東丸、これは尾根筋ラインをいう。東端の東丸の地形は丸っこい、駒繋神社が鎮座している。「子の神」は、大国主を祀ってあることからついているが、さらに古代に遡れば、「子」は星、北斗星を遥拝するところではなかったかともされている。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月08日

下北沢X物語(3072)〜弁天池事件の現場をゆく〜

P1060026(一)昨日、碑文谷警察署から電話があった。例の殺人事件の現場は散歩コースでよく歩いている。それで聞き込みかと思った。
「碑文谷公園には家からだと呑川支流の左岸を越えていくのです。背尾根が境界です。ここに古道堀之内道が走っています。現在の環七ですね、ここが境界で向こうが碑文谷、こちらが衾です。地形的には碑文谷の方がフラットです。しかし、あの碑文谷の弁天池は交通的には不便ですよね。南の目黒通りと北の駒沢通の間にあるでしょう。車で行く場合は、一方通行路などをよく知っていないとスムースにはいけませんね」

「碑文谷弁天池の南端には子育て地蔵尊がありますね。被害者を悼んで花束も手向けられているようですが、あれは踏切地蔵です。かつて東横線の踏切があってここで多くの子供が電車に轢かれて死んだのです。それを供養するために作られたものです。今は、すぐ上を東横線が走っていますね。高架下になってもかつての犠牲者をいまも供養しつづけているのですが、何かの理由で子をなくした人がお参りしているみたいです」

「現場一帯にはマンションがありますが、学芸大学と名付けているものも少なくありません。理由は最寄り駅のことを指しています。あの地域から学大を最寄り駅としていたとすれば道には精通するはずです。」

土地の発展と形成と鉄道ということはある。碑文谷地域を東横線がぶち抜いている。注意すべきは北東から南西に走っていることだ。道は耕地整理して作られている。これは南北を基準に作られている。よって最寄り駅、学芸大駅に行くとすれば真直ぐにはいけない、角角をまわりながら向かう。したがって学芸大学を最寄り駅としていれば自然と碑文谷公園あたりの道には精通してくる。

 池があるとすれば周りに傾斜があるはずだ。碑文谷公園弁天池は立会川の源流となっている。実際池を取り巻く北側は坂となっている。現場となったマンションは背尾根ある。よってここから池に行く場合は傾斜を下ることになる。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月07日

下北沢X物語(3071)〜自由、平和、そして憲法が危ない〜

DCIM0053(一)日々の荏原逍遥ではいくつか目を楽しませてくれるものがある。一つは保育園児だ。遊歩道で、彼らは無心に遊んでいる。あどけないしぐさを見ていると心和む。が、ふと過行くと大人たちの顔写真が貼られた看板に行きつく。参議院選のポスターである。公約の中に「核武装推進」を掲げている者もいる。これらが子供たちの未来につながるのか?。

 この子供たちの問題では格差が広がっている。高所得者の子弟はいい学校に入れて、高い学力を身に着けて社会に出ていく。が、低所得者は学費が壁になって大学までいけない。何とかしようと奨学金を借りる。ところが、学校出たとたん容赦なく返済を迫られる。人生のスタート時にすでに数百万、中には一千万を超える借金を背負って社会への船出となる。が、甘くはない、女子大生などは到底返せそうにないということで風俗に転職していくという。すべてにわたって若者への支援は薄い。

 今朝の新聞のトップの見出しは、「改憲勢力3分の2に迫る」と与党の優勢を伝えている。他紙でも同じようだ。このところ与党の野党批判はすさまじい、野合だ、政策がないなどと徹底的に攻めまくっている。多くの皆さんの票を得て決められる政治を行っていく、経済政策も道半ばです、これからさらにエンジンを吹かして景気をよくしていきますと。

 危ない、危ないと思う。権力や権勢はのさばり、おごる、これは目に見えている。彼らは力に頼んでどんどんと国民を攻めて来る。何はともあれ国家大事、最優先で、個々人の自由な考えなどはどんどん狭めていく。
DCIM0055
民主社会における勢力の拮抗は大事だ。こここそが緊張関係を生む。自由というものも勢力拮抗があって生み出されるものだ。この拮抗を過ぎて、多くの票を得ると、がぜん与党は張り切る、数に頼んで何でもありだ。やりたい放題で説明などはしない。

憲法について、「憲法解釈変更を閣議決定 集団的自衛権の行使容認」というのは二年前の新聞の見出しだ。そして、去年、とうとう「安保関連法案、衆院可決」となる。十分な審議も尽くされないままである。「集団的自衛権」の閣議決定は違憲だと論議もあったが。今回の参院選では与党は憲法について争点にしないという。

 しかし、多数の議席を確保すれば間違いなく憲法改正へと動く。それで今日の新聞のようにに「改憲勢力3分の2に迫る」と見出しを打つ。

 権力の常套手段は、外国の敵が攻めて来るだ。これであおって票を集める。まとまるとまたさらに強硬手段に出る。戦争することも選択肢に入ってくる。それが目に見えている。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月05日

下北沢X物語(3070)〜下北沢文士町の発展と形成〜

P1060019(一)異質なものによって本質が見えてくる。下北沢文士町の核は昭和期文学である。昭和初期に開通した二本の鉄道がクロスすることによって町が形成された。詩人、俳人、歌人、文士が交通の利便性の高まりから集まってきた。ここ十数年の調べからわかったことは彼らの関係性である。人同士の派閥的、党派的な関係性が希薄であることだ。ゆえに文士村ではなく、文士町だと呼称している。

 この文士村の領域に新たに一人の文士が見つかった。明治期に活躍した生田葵山である。彼は鉄道開通以前の大正十年から住んでいたようだ。下代田、陸軍獣医学校の裏手の小ぎれいな庭のある二階家である。隆盛期には稿料が入ったがこれを過ぎての生活は苦しかったように思える。都鄙境に越してきたのは家賃が低廉であったからではないか。

 下北沢文士町が形成された背景の一端は沢尾根一つ隔てて東大があったことも大きい。文学ではないが北沢の世田谷カトリック教会は、東京帝国大学航空研究所長中西不二夫教授の邸宅の二階で発足している。やはり北沢池ノ上駅に近いところに住んだ森敦は東大生で学校に近く、そして彼と関係の深かった横光利一も住んでいた。

 生田葵山がどのような関係で当地に来たのかは分からない。しかし、彼が借りていた小ぎれいな二階家は、下代田の近隣にある学校の教員向けに建てられた家だったと推測できる。彼が越してきたとき、いわゆる民家はほとんどが平屋だった。二階家というのはめずらしかったと古老は言う。

 彼は、巌谷小波の門下生だった。麹町に住む小波が主催する文学サロンが木曜会である。ここに集ってきて、永井荷風と知り合ったようだ。

 下北沢文士町地域では「水曜会」というのが知られていた。亡くなった映画プロジューサーの森栄晃さんはここに通っていた。横光や川端康成にこれからは映画だと言われて映画界に入ったと本人から直接聞いた。今でも彼が語ったエピソードは鮮明に覚えている。

「木曜会のときでした、雨過山房に野鳥が飛んできましてね、綺麗な色をしていました。『いいかい、今鳥が飛んできたのを見て皆はっとしたろう、これが文学なんだ』と先生は言っていました。これは彼の小説の一場面に出てきた覚えがあります。『鳥』という題だったような」

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月04日

下北沢X物語(3069)〜文士町の成り立ちと生田葵山検

P1060028(一)常日頃、荏原を逍遥している、今日、ひょいと路地から出ると数名の人だかり、テレビカメラを据えていた。管内警察署の裏手だ。さては猟奇殺人事件に変化があったのか、家に戻ってテレビを点けたがその報道はなかった。さて、何だろう?

 自身が歩き回っている地域は、江戸見坂地点だ、小高いところに上れば都心の繁栄、進展が目で見える。明治末年、この地点から都心方向を眺めると煌々とした明りが見えた。一人の自殺志願者は、「激烈な生存競争」と見えた。そしてこういう「如何(いかん)とも仕様の無いのは生存競争の結果、倒れる者は如何(どう)しても倒れるのであろう」(江見水蔭『蛇窪の踏切』)と。
 

 現今はどうか、まず林立するビルによって都心方向は見えない。ビルの上階に登ってみると林立する高層ビル群、華やかな光は見える。しかし、今は都市の繁栄は目では見えない。ビル群の地下には網の目のように張り巡らされた地下鉄があり、道路があり、また街もある。都市なるものの全貌は目では見えない。華やかであるが、実際的にこれは虚構的だ。

 明治末年と同じように「激烈な生存競争」はもっと激しくなっている。が、内実が違ってきている、「富めるものはますます裕福に、貧しいものは一層貧乏に」、格差の広がりがどんどん大きくなっている。後者はどんどん疎外されている。そして、今また都市の虚構の明かりはもっと光を増そうとしている。燃料が尽きかけているのに残余のエネルギーを使おうとしている。このきらびやかな明かりは一気に消滅してしまわないかと思う。

 明治末年、「激烈な生存競争」に敗れた人々の処し方は自死だった。生田葵山はこの時期にまさにこの名の通り、『自殺』と題した短編を書いている。そして、彼自身、昭和二十年十二月三十一日、播磨灘で自ら命を絶って死んだ。

 『自殺』の巻頭辞にはこうある。、

黒き蝶の来て止まりたる夕より
清き香失せし白百合の花


 とある夕暮れ、不吉な黒い蝶が飛んできた。すると清らかな香りを放っていた白百合の花は輝きを失ってしまった。白百合は彼が愛していた妻のようだ。

 昭和二十年十二月、世田谷下代田の家で、生田葵山は妻に向かって「祈れよわが手くださむ」と言い残し出ていったのかもしれない。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年07月01日

下北沢X物語(3068)〜会報第120号・北沢川文化遺産保存の会〜 

CCI20160627_0001
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第120号 
               2016年7月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
一、北沢川文化遺産保存の会第二回「研究大会」  

 大会テーマ 

シモキタらしさのDNAを語る 

 今年、一月、古老の話を聞く会を開いた。北沢在住の古老、九十三歳の三十尾生彦さんが下北沢が切り開かれたばかりのころの話をされた。話される昔、その多くは忘れ去っていたしまったことに気付いた。「街のベーシックな歴史をきちんと聞いて、遺そう」という声があがり、今回の研究大会のテーマは決まった。
消えゆく街の歴史を残そう

主催 北沢川文化遺産保存の会
共催 下北沢グリーンライン 協賛 世田谷ワイズメンズクラブ
後援 世田谷区教育委員会
開催期日 8月6日(土)北沢タウンホール、スカイサロン

第一部 午前十時から十二時まで
 シモキタの昔を古老に聞く
・戦前の下北沢       釣り名人    三十尾生彦さん(93歳)
・戦後の下北沢       元薔薇族編集長 伊藤文學さん (84歳)

第二部 午後十三時半から午後十六時半
 シモキタの歴史研究 前半
・下北沢を中心とする交通網の変遷(きむらたかし氏)
・報告:東京セロファン世田谷工場の歴史(木村康伸)
 シモキタの歴史研究 後半
〇シモキタの街を参加者で語る 司会石坂悦子さん
 街の歴史を参加者が語り、街の記憶を共有し、未来につなげる。
 問題提起に向けての資料提示
・下北沢文士町文化地図をもとに なぜ文化がこの街に集まってきたか?
・下北沢古写真大映写会(総数百三十三枚 一挙映写)
第三部 懇親会、納涼会 17時30分より
  会費3500円 豪華「シモキタらしさのDNA弁当」つき
 イベント プロの出演予定
  ・マジシャン 作道明・藤井理嗣さん
〇 懇親会参加者は必ず申し込んでください。お弁当を発注するので8月1日まで
 米沢邦頼 090−3501−7278 に連絡を。
 ・懇親会は夏恒例行事、できれば楽しい飲み物が食べ物を一品持参
 ・オークション 家にある物品で要らないものを これはオークションにかけて
  会の資金にしている。


各部のねらい
・第一部は 古老に聞く会だ。小田急地下化を契機に街が大きく変わりつつある。かつての街の姿が人々の記憶から消えつつある。過去を長く生きてきた古老たちの記憶からDNAを引き出し、これを後世に伝えたいというものである。

第二部は、「シモキタの歴史研究」である。交通網の整備がこの街を変えてきた。その基礎的な話を、きむらたかさんがしてくれる。これは貴重報告となるものだ。二番目の東京セロファン工場は、今年初めの古老の話を聴くで大きな話題となった。関係の人々からの資料、またきむらたかしさん提供の工場史をもとに報告をしてもらう。

二、『ミドリ楽団物語』〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜完成記念販売

 私たちは、代田・北沢・代沢の歴史文化を掘り起こしこれを記録している。この過程において近代史に秘められた「鉛筆部隊の物語」がみつかった。昨年夏、戦後70周年の終戦記念特集のテレビ番組でこの一部が劇化されてテレビで放映された。
 今回の『ミドリ楽団物語』も鉛筆部隊の調査過程で発掘したものだ。今まで全く知られていなかった話である。
 昭和十四年に創部された代沢小のバンドは、戦争になって疎開するときに楽器を持参して技量を落とさなかった。これが功を奏し戦後、アニーパイル劇場で連続三日間の公演を行ったり、全米で活躍の様子がテレビ放送で流されるなどして華々しい活躍をした。これをもとに描いた物語だ。八日の研究会には間に合うとのこと、大長編物語の予価は2000円である。ぜひお買い求めください。当方への予約は大歓迎。

三、第10回、「戦争経験を聴く会・語る会」(2017年)

 毎年行っているこの会は、五月に無事に終わった。戦争と音楽という新趣向で、代沢小学校の協力を得て、疎開学童歌を再現させる合唱を代沢小、五六年生の協力を得て開催した。学童が参加して会場である下北沢都民教会の会堂を歌で響かせた。非常に新鮮な思いを私たちはしたものである。
 このことを受けて、来年度もこれを継続して行うかということを話題にした。先だって関係者七名が集まって総括をしたが、やはり次年度は、大きな節目であることから実施したいということになった。会場は、今まで通り、下北沢都民教会である。
  日にちは 2017年5月27日(土) 午後一時半から

 内容については、早速に山小の長谷川直樹さんから提案があった。軍歌というのが戦中に流行ったがこれが戦意高揚、若者を戦争に駆り立てる役割を果たしていなかったかというものだ。実際の軍歌を聴いてこれについて詳しい人に解説をしてもらうというものだ。
 企画としてはCDで聞くということだが、ボランティア団体を募集して生を歌ってもらうというのもいいのではないか。
 総括ででた一つの案が出た。戦争ものの群読を行って、戦争を伝えるというもの。市民が協力して戦争の悲惨さをそれぞれが伝えるというもの。
 「群読」ということで言えば、我々は「代田のダイダラボッチ」を行なった。これを同じ形はできる。一番良かったのは参加した人がこれに意義を見出したことだ。
 私の作品に『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』がある。これを十数年一人芝居として演じているのは女優の蒔村三枝子さんである。ふと思いついて今提案したことだ。
 第10回「戦争経験を聴く会・語る会」 市民朗読劇『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』はどうかと。市民が参加して群読を行い、広島原爆の惨劇を訴えるというものだ。
 いかがか?

四、終戦記念日特別行事〜下北沢周辺の戦争痕跡を歩く(再提案)
 
 第九回戦争経験を聴く会・語る会で近隣の戦争遺跡を歩いてみたいとの声があった。思いついたのはどうせ行うのなら私個人は8月15日に歩いてみようと思った。が、この期間はお盆で多くの人が帰省していない。歩く会も八月だけは休みだ。それで思いついたのは企画に賛成して、静かに歩いてみたいという人がいればやってみたいと思った。
結論から先に言うと、これに応じたのは三名だった。当日が、月曜日ということもあるようだ。「十名と言わないで七八名も集まればやるべきです」と幹事の米沢邦頼さん。この行事は義務で行うのはつらい。気が向いたらのんびりと行きましょうよという程度だ。
それで曜日を変えて再度提案する。

 期日 8月14日(日) 新代田駅前 13時集合。案内者 きむらけん
 会費 500円(保険なし)資料なし プライバシーに関わる部分もあるので口頭のみ。
コース:戦時応急連絡線跡(代田連絡線)→戦時歌謡作曲者旧居→代田円乗院空襲記念碑→戦争物語の宝庫代沢小→大東亜戦争戦勝記念碑→開戦記念日の俳句「十二月八日の霜の屋根幾万」作句場所→陸軍獣医学校跡→開戦時首相旧邸→終戦時の某元帥邸跡→池の上駅
申し込みが10人いれば開催。締め切り7月20日まで。開催不開催は掲示板にて。

五、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第119回 7月16日(土)午後1時 田園都市線三軒茶屋駅中央改札前
  第9回駒沢練兵場を歩く 案内者 世田谷道楽会 上田暁さん
  夏の恒例行事だ。当地戦跡に生きた人馬を偲んで歩くというものだ。
三軒茶屋駅→昭和女子大野砲兵碑→韓国会館(元兵営建物)→下馬馬魂碑→世田谷公園(駒沢練兵場跡など)→世田谷平和資料館→馬糧倉庫など


・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く
・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
シモキタ猫町文学散歩(仮)     案内者 きむらけん

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲保険について、このところ「行事保険」を掛けている。別途50円取っている。ここのところは承知されたい。保険はあらかじめ人数の点検をしてその実数に基づいて掛ける。しかし指定した日までの申し込みは集まらない。それで苦肉の策として予測して掛けている。これが20人である。この間は珍しく20人ピッタリだった。20名に達しない場合が多い。その穴埋め分は保険金を調整して行っている。よって50円まるまるを保険金に充てているわけではない。残余は不足分に充てている。交通経費も掛かるがこれは入れていない。保険はまず書類に記入し、つぎに掛け金を銀行に振り込む。そして社会福祉協議会に行って、加入手続きをする。保険を掛けるようになって事務負担が増えている。
▲松本博物館への寄贈。・武剋隊今野軍曹が本土最終寄港地健軍飛行場から実家宛に出した手紙。・武剋隊佐藤正さん関係、二子玉川小六年貴和子さんに揮ごうした布切れ。佐藤正さんの妹さんから手紙。佐藤正さんが貴和子さんに各務原から送ったハガキ。佐藤正さんが満州の飛行場で他の仲間と撮った写真。五点を会として寄贈した。今年も、博物館では「戦争と平和展」を行うとのこと。寄贈品の展示も考えているとのこと。
▲山梨市の矢花克己さんは、偶然鉛筆部隊の手紙の束を山梨護国神社で見つけられた。このことが契機になって「疎開学童史」の一端が明らかになった。家々で眠っている疎開学童の日記、手紙類、処分される場合には当方に連絡を。貴重なものは手続きを取って関係する博物館や資料館に寄贈手続きをしたい。
▲街歩きテーマは常に募集している。また他団体との共催街歩きも募集している。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 00:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月30日

下北沢X物語(3067)〜鉄塔と民主主義と猟奇事件〜

P1060027(一)このところ住まいの上空がうるさい。ヘリコプターである、単機ならまだしも、複数機がやってきて旋回する。猟奇的事件に群がるハエだ。上空から撮影された池の映像が全国に流されている。恐らくは地方の田圃のわきで、海岸べたで、日に焼けたじいさんやばあさんが真犯人への推理を巡らせている。報道も微に入り細に入り情報を伝える、現場となったマンションが映される。各戸訪問をする刑事の姿までが映し出される。知らず知らずのうちに視聴者が居住人全員に嫌疑をかけているのではないか。松本サリン事件が想起される。近隣に住んでいる怪しい人というだけで一人に嫌疑が掛けられた。が、それはまったくの冤罪だった。東京偏重の過剰な情報の垂れ流しだ。地方でも老婆が襲われて殺されている。が、その放送は一回限りで、その後どうなったかわからない。

 碑文谷は居住地の隣町だ。常日頃の荏原逍遥では碑文谷公園はコースに入っている。ここの弁天池わきの散歩道はよく通る。土日には貸しボートの営業が行われる。しかし、もっと南手にある洗足池を知っているだけに乗ろうと思ったことはない。ドブのような池である。荏原一帯の池にはダイダラボッチ伝説がある。が、ここの弁天池にはない。伝説を生じさせるほどの雰囲気はない。が、それでもシーズンには渡り鳥がやってくる。池畔には異様なほど大きく成長した亀が甲羅を干している。「池の中の亀(カメ)が遺体の一部を咥えていたとの情報もあります」とニュースが流されているが、さもありなんだ。

 荏原地域池比較論、やはりなんといっても景観が素晴らしいのは洗足池だ。池畔には勝海舟夫妻の墓もある。池を向いて建っている。広さといい眺めといいボートを乗るのならここだ。そういう点でいうと碑文谷公園の弁天池はあまりにも地味である。

 ここは川の源流部である。川が流れていて大井町へと続いている。立会川である。この池に目をつけて遺体を投棄したという。この池の存在そのものが地味で目立たない。それとここへ行く道も狭い。先の洗足池は中原街道沿いにあって明るい。が、この池は駒沢通と目黒通りに挟まれた地にあって交通的には不便である。報道では「土地勘」のある者の犯行とされているが、常日頃歩いている者からするとこれは当たっている。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月29日

下北沢X物語(3066)〜文士町の成り立ちと生田葵山掘

P1060023(一)偶然だろうが下北沢文士町繋がりの二人の「生田」が瀬戸内海で自殺している。一人は生田春月だ。瀬戸内海を航行する船から飛び降りている。この春月と深い親交があったのが萩原朔太郎だ。昭和十一年小豆島に春月の詩碑が完成したときに朔太郎は世田谷代田の自宅を出てここに向かっている。詩碑に刻まれたのは「海図」である。「今迄の世界が空白となつて、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。」と書かれている、すなわち遺書である。世田谷代田に住んだ生田葵山も瀬戸内海播磨灘で自殺した。都市に疲れた文士は、皆、瀬戸内に向かうのか?

 この生田葵山と永井荷風は親交があった。『荷風戰後日歴』にこういう記述がある。

昭和廿一年一月一日(熱海にて)

二月十七日。日曜日。晴。梅花開く。新貨幣發行。また本日より銀行預金拂戻停止の布令出づ。突然の發令なれば人心騷然たり。生田葵山去年十二月卅一日世田ヶ谷代田の家にて逝去の由。未亡人より通信あり。行年七十一と云。余生田氏とは十年來交を斷ちゐたりしが、木曜會俳席に行きし頃には巖谷撫象氏と共に時々その家を訪ひ、左の如き絶句を贈りしこともありき。

尋君偶到澁溪西。一路春風穿菜畦。
不問先知故人宅。竹林深處午□啼。

生田氏の家は去年空襲頻々たりし頃にも幸に火災を免れしが如し。


 故人の奥さんが永井荷風に訃報を知らせたようだ。「去年十二月卅一日世田ヶ谷代田の家にて逝去」と。自殺の件は伏せられている。

 生田葵山は昭和十年八月、『文藝春秋』に「永井荷風という男」書いた。荷風の財産と名声がうらやましいというようなことだったらしい、それで絶交をされてしまった。傍流作家の悲哀があったのだろうか。

 日記からすると荷風は下代田の家に度々訪れていたようだ。ここに出てくる「木曜会」というのは、巌谷小波主宰の文学サロンで、永井荷風もここに入っていた。折に吟行することがあったようだ。たまたま散策がてら渋谷の西の沢に遊びにいくと君の家があった。菜を畦に摘んだらしい。竹林があって鳥の声がしきりとしていた。隠棲人の住処の様子だ。

 生田葵山の家は、陸軍獣医学校の裏手あった。この学校は昭和二十年五月の空襲で焼けた。が、彼の家は消失からまぬかれたらしい。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月27日

下北沢X物語(3065)〜文士町の成り立ちと生田葵山供

P1060018(一)生田葵山は「自殺」という短編小説を書いている。彼にとって自死というのは生きていく上でのテーマだったのだろうか。戦争が終結した昭和二十年の年の暮れ、代田の自宅を出た彼は関西に向かい、播磨灘で入水自殺している。その彼は永井荷風と親交があったようだ。

 荷風の『断腸亭日乗』、大正十三年(1924)十一月六日に次の記述がある。」

「十一月六日。微隂。近郊の黄葉を見むとて午後玉川電車にて世田ヶ谷に下車し、道の行くがまゝに阪を下り、細流を渡り、野径を歩みて陸軍獣医学校の裏手に出でたり。生田葵山君の居遠からざるを思起し、道を問ふて遂に尋到ることを得たり。路傍に風呂屋あり。その側より小径に入り行くこと二三十歩。檜の生垣を囲らしたる二階づくりなり。門前に花壇あり。薔薇コスモスの花咲乱れ、屋後には一叢の竹林あり。蒼翠愛すべく、幽禽頻に鳴く。日暮相携へて道玄阪に至り、鳥屋に上りて飲む。帰途百軒店と称する新開町を歩む。博覧会場内の売店を見るが如し。支那雑貨を鬻[ひさ]ぐ店あり。水筆四五管を購ふ。」
 
 ここからわかることがある。

・世田谷代田とされた生田葵山の住まいが下代田だったこと。その家は陸軍獣医学校の裏手にあったこと。(「路傍に風呂屋あり」は過去を調べる際の手がかりだ)
・家の佇まい。まず二階家で檜の生け垣を巡らしていること。門前に花壇を置いて飾り立てていること庭の手入れがされていてコスモスが咲き乱れていたこと。ここの奥さんが手入れをしていたようだ。
・近隣の環境は、裏手には竹林があり、緑も多く、鳥などがしきりに鳴いていたこと。

大正八年に生田は結婚している。それ以来ここに住んだようだ。当地は郊外である。武蔵野である。敢えて当地に住んだのは田園を好むという嗜好があったのだろうか。

 家の様子からすると当地で一軒屋を構えここで家庭を築いて生活していた。小説家としての実入りがあってのことだろうか?。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月26日

下北沢X物語(3064)〜文士町の成り立ちと生田葵山〜

P1060015(一)都市文化論という観点から興味深い一例に遭遇した。ここ十数年文士町の文化や歴史を探訪している。これら調べたことを伝える場合、物事の始まりを示す物差しがあれば容易である。自身完全にこれに依っていた。つまり、嚆矢は鉄道開通にあるとしてきた。昭和二年に小田原急行鉄道が、昭和八年に帝都電鉄で開通して当地下北沢は鉄道がクロスする街となった。近代の鉄道の開通による利便性の高まりが文化を集めた。文士町第一号は横光利一である。彼の昭和三年からの北沢住まいは小田急開通によるところが大きい。

 しかし、つい最近これ以前から世田谷代田に住んでいた文学者がいたことを知った。生田葵山である。鉄道が開通していない大正十年からである。文士町の嚆矢を昭和二年からとしてきた従来のものさしが崩れたことになる。しかしとても興味深い。

 生田葵山はどこに住んでいたのだろう?調べてみると「世田谷代田」というのは、当該地域の西部ではなくて東部、下代田であることが解ってきた。

 昨日、下北沢北沢タウンホールの十二階、スカイサロンで世田谷区地域風景資産の交流会が行われた。お昼に終わったことから下代田方面を訪ねることにした。気になっていたのは旧番地「北沢四一八」である。あいにく資料は持っていなかったが大体わかっていたので歩いて池ノ上近くのその家に向かった。フラットなところだと思っていたが家の前の道は坂になっていて下っている。どうも見覚えのあるところだ。坂を下って左に行けば知り合いの家だ。ついでだと思って行くと、当のきむらたかしさんがおられた。
「家わかりますよね」
 何やら符丁のような会話を交わす。
「すぐそこですよ」
 また道を二人して戻っていく。角を曲がってすぐに白い塀の家をさす。北村透谷の妻の終焉の地である。
「知っていましたか?」
「いや全く知らなかった」とたかしさん。

 この家は、透谷の妻、石阪美那子の家だ。彼女の娘の嫁ぎ先だ。人がどこにどう住むのかということはある。彼女の場合は文学仲間の関係からとかいうのではない。母と娘という関係からの居住である。

 もうワンブロックほど離れたところに森敦旧居がある。この彼の場合は文学は関連深い、懇意にしていた横光利一の家に近い、そして通っていた東大に近いことが決め手だったように思われる。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(3)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月24日

下北沢X物語(3063)〜透谷の妻、北沢に死す供

b41cf28f.jpg(一)北村透谷は短命であったゆえに作品はそう多くはない。が、青空文庫には彼の鋭い批評文が数多く載っている。時代を言葉で抉って提示している。多くの若者が影響を受けた。考えや思想も自由で、美那子との恋愛は旧弊的なものをぶち破るものだった。

 『透谷の妻』で著書の江刺昭子はいう。美那子は超近代的な女性だったという。そしてこう記す。

 この時代、右にあげたような点の女の美質として認めた男が、どれだけいただろう。女はまず容姿であり、つぎが門地がものをいった。あるいは、労働力として役に立つ体力が評価された。性格はおとなしく、男に黙って従う女が好まれた。社会に尽くそうという理想などはむしろ女には邪魔であった。十八歳にして、そのような旧い女性観にからめとれれていない透谷…
 
その彼が熱く燃えた女性が美那子だった。彼女にはすでに許婚がいた。が、石坂家、北村家双方の反対を押し切って結婚した。明治二十一年(1888)十一月だ。美那子二十三歳、透谷十九歳である。

 ところがかの恋愛至上主義的考えは色褪せてくる。さきの「厭世詩家と女性結婚」ではこう結んでいる。

 嗚呼不幸なるは女性かな、厭世詩家の前に優美高妙を代表すると同時に、醜穢なる俗界の通弁となりて其嘲罵する所となり、其冷遇する所となり、終生涙を飲んで、寝ねての夢、覚めての夢に、郎を思ひ郎を恨んで、遂に其愁殺するところとなるぞうたてけれ、うたてけれ。

 暗転、明治二十六年(1893)十二月二十八日喉を切り付け自殺する。残された美那子は二十八歳六か月、英子一歳十一ヵ月だ。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月23日

下北沢X物語(3062)〜透谷の妻、北沢に死す〜

透谷の妻(一)若くして自死した北村透谷の詩文をひもとくとその調べは皆悲しみに満ちている。
「歓楽は長く留り難く、悲音は尽くる時を知らず。」は、『哀詞序』の冒頭だ。しかし、また活力に満ちた語もある。「恋愛は人世の 秘鑰 ( ひやく ) なり」は、『厭世詩家と女性』の冒頭文だ。鑰 は、鍵という意味だ。恋愛至上主義を表す一文は当時強烈な一撃だった。近代的自我の確立というのが彼には大きなテーマだった。その当の恋愛の相手、石坂美那子、透谷の妻は思いがけず北沢の地で亡くなっていた。


 当会の会員、及川園子さんを通して北沢小学校一期生の石渡さんの資料が手に入った。下北沢鉄道交点一帯の様々な事象がこの記録にはある。しばらくぶりにこれを見た。ここに「北沢に住んだ著名人」のリストがあった。坂口安吾、横光利一、大岡昇平、宇野千代とある。これらはよく知っていることだ。が、この最後に北村美那子とあった。誰だろう?

 昭和十七年四月十日北沢四の四一八にて死去。北村透谷の長女の婚家。

 北村美那子は、石阪美那子、透谷の奥さんで二人の間には長女英子次女愛子ががいた。長女の婚家が北沢四丁目にあって、最期をここで迎えていた。

 著名だった人がこっそりと亡くなっていたという例はまれではない。国木田独歩の孫にあたるのは三田隆だ。この映画俳優は下北沢の自転車屋の間借り先で哀れな最期を遂げたという。この情報は獣医の広島文武さんから得て茶沢通りのその場所を探したがわからなかった。

 国木田独歩の「武蔵野」の眼目は都鄙境には物悲しい物語が渦巻いているという。その一例だ。今の北沢4丁目と昔の北沢4丁目は違うが、前者の4丁目では開戦時首相夫人がひっそりと息を引き取っている。

 代田の町外れに住んだ三好達治はそこを場末と言った。そここそが都鄙境界だ。国木田独歩云うところに、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ち合って、緩やかにうずを巻いている」場である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月21日

下北沢X物語(3061)〜三田用水とダイダラボッチ:保存と継承供

P1060004(一)都市に埋もれた水路を探しての三田用水探訪行である。それは地形を求めての旅だ。ゴルフをする選手と同じだ。グリーン上では腰をかがめて傾斜を子細に観察する。地の傾きこそは命だ、用水もまたしかり、背尾根がどのように続いているか。折に腰をかがめて傾斜をじっくりと観察する。基本にあるのは自然地形である。

  三田用水とダイダラボッチ、二つに共通するのは、水、神、そして、景観や眺望だ。人それぞれ興味関心は違う。私自身は景観に深い関心がある。三田用水を描いた絵では、広重が描いた一枚だ。ウィキペディアの「三田用水」ではこの絵を掲げている。

  広重『名所江戸百景』より「目黒新富士」=現在の目黒区中目黒2丁目・別所坂上付近。三田用水は、できるだけ標高を維持するため尾根筋を選んで開削されており、とくにこのあたりでは“崖の上を縫って流れる”ような具合だった。画中にもその様子が見てとれる。なお、用水や崖の向きから言えばこの絵は南東を望んでおり、富士山を背後にもってきたのは広重の脚色である。

 確かにデフォルメされているが見事な絵である。三田用水の景観ポイントが見事に描かれている。まずは、目黒川左岸崖線、高所を流れる三田用水だ。高いところを流水が流れるというのは不思議である。次は、崖線の向こうに見えている目黒原である。今でも何かの加減で坂の下方に街の一部が見えるときがある。「いい坂だなあ!」と思って立ち止まることがある。三つめは富士である。用水と平野と富士、締めくくりだ。

 昔から三田用水ファンがいたようで日々点検がてら歩いていた人がいたと何かの記録に描いてあった。やはりこの三要素があるからであろう。楽しめる用水路である。

 崖線から俯瞰できるフラットな目黒原にはもう一つ品川用水があった。ここに沿って歩くことはよくあるが、眺めがよくない。右手が多摩川から数えての第二丘陵にさえぎられてあまり見えないのではないかと思う。

 「目黒富士」は、遠望される富士に比肩されるほど大きく描いてある。ふと思ったのはこの目黒富士をダイダラボッチに置き換えて描くと、絵になるのではないかと思った。絵は南西方向を描いている。ここには二か所のダイダラボッチの足跡が残っている。一つは大岡山の摺鉢山で、もう一つは衾の谷畑(現自由が丘)である。
続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月20日

下北沢X物語(3060)〜三田用水とダイダラボッチ:保存と継承〜

P1060008(一)都市東京の拡大と膨張はとどまるところを知らない。自然地形は日々更新されていく。過去の遺構はもはや風前の灯だ、六月十八日土曜日、われ等はそんな一つである三田用水の痕跡を求めて炎天下を歩いた。この行事、長年続けていて総回数はわからなくなった。保存とまでは言えないが近代化遺産の継承活動であることは間違いない。

 三田用水とダイダラボッチは無関係である。しかし、これまで何度も三田用水を歩いてきて、その案内記は記してきた。マンネリ化しないように新たな視点としてダイダラボッチを持ってきたものである。この二つは通常では結びつかない。

三田用水という水路遺構、ダイダラボッチという伝説、これらの遺構や記憶が急速に地表からは消えていきつつあることだ。今回は「外苑西通り」の延伸によって今里地区の遺構がいずれは取り壊されるということから「今のうちに見ておこう」ということでの再訪でもあった。白金台の南手にあった現今三田用水遺構では、水路幅の建物群、今里橋欄干、RC製水路などがこの計画にかかってなくなってしまうという。

 ダイダラボッチの遺構の埋め立てはもっと早くに進んでいて、この面影を残すものは、野沢の、鶴ヶ窪公園ぐらいなものである。

 三田用水とダイダラボッチはいずれも水路に関係する。用水は水を送り込む施設、そしてダイダラボッチのくぼ地は農業用水のためのハケ水を貯めておくところだった。インフラに関係することから大事にされた。いずれも水の神を祭った。三田用水は玉川上水から水を取り組んだがこの分岐点は弁財天が祭られていた。

 代田のダイダラボッチにはこの湧水池には弁財天が祀ってあったとの証言を得ているが記録としては、『羽根木』(細野巌著 昭和四十七年刊)に記録として書かれている。

 現在の環状七号道路の東側、千代田パンから守山小学校の北側一帯に出頭山という窪地があり、杉の百年以上もたった大木がたくさんあった。中ほどから水が湧き出しており、中央に弁天様が祭られてあった。

 巨人の足跡と伝えられる窪地は湧水いけで弁財天を祭ってこれをまもった。三田用水の場合は距離が長い。しかし沿岸ではこれに対する感謝の念からやはり弁財天を建立してた立てている。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月18日

下北沢X物語(3059)〜ダイダラボッチ伝説の保存と継承〜

イメージ (8)(一)「日経6月14日東京:首都圏経済・拝読しました」、我が会の会員、曾根瑛子さんから連絡があった。「世田谷・埼玉……巨人が足跡!?」きむら先生、素晴らしい!娘が帰宅して直ぐ新聞を見せつつ、きむら先生の記事が掲載されているのよ!と、差し出しつつ、記事を読んで呉れました!」と。記事が掲載されることは知っていたが、いつ出るのかはわかっていなかった。その他数人の人から連絡があった

これまで新聞には、会の活動や著作のことで何回か取り上げられた。今までの中で一番の驚きは、1999年8月5日に掲載された記事だ。「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を書いていたころ、広島から記者が取材にきた。彼からは広島版に載ると聴いていた。
 
 ところが、8月5日、知り合いから電話があった、夕刊の一面に記事が載っていると。さっそくに駅の売店まで買いにいった。
「夕刊きていますか?」
「あら、どうだったか?」
「自分のことが出ているらしいのでほしいのですよ」
「何か悪いことでもしましたか?」
「さあ、どうでしょう」
「あらあら、来ている来ている」
彼女はまだ束ねられている夕刊をほどいて私にくれた。早速に点検する、驚きだ、一面のトップ記事で載っている。
「強盗かなんか起こさない限り一面トップに載ることはなわね、あはは…」
 この記事は、東京だけでなく全国に配信されたと後で分かった。英字紙にも取り上げられ、これが発端となってドキュメンタリー「皇国少女」〜「The Emperor's Tram Girls」〜ができた。

日経の記事は、近くの図書館で確認をした。記事の末尾にはこうある。

 保存の会は巨人伝説を文化遺産とし、市民劇「代田の不思議・だいだらぼっち」を上演したり、「ダイダラボッチ音頭」を作りユーチューブで流したりと街づくりに役立てている。

 当会を始めて十一年、ダイダラボッチについては早くから調べたり、聞いたり、また、資料集めもしてきた。長い長い十数年だった。民俗学的には貴重なものである。つきつめていけば日本人起源説にまでつながっていく話だ。ところが、ここのことが忘れかけられていた。今考えれば、よくもまあ調べてきたものだと思う。

 この荏原には数多くのダイダラボッチ伝説が残されている。大田区、世田谷区、目黒区だ。世田谷代田のダイダラボッチに端を発してこれらも隈なく歩いて検証してきた。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月17日

下北沢X物語(3058)〜呑川物語、カモの恩返し〜

DCIM0050(一)緑道が暗渠化すると同時に川の物語も消えてしまう。凹みがあってこそ物語は生まれる。「よくどぶにはまったものです」、「蛍をみたことがありますよ」、「オタマジャクシもいました」、臭いけれどもとっかかりがある。しかし、緑道化してフラットになると物語は生まれなくなる。それでも旧河川の形を残した公園で一つの物語に出会った。

 日ごろの荏原逍遥のベースとなっているのが家の前にある呑川緑道だ。下れば大田区石川台、雪谷、上れば世田谷深沢、桜新町となる。上っていく場合が多い。区境はすぐだ。越えると「櫻並木と呑川緑道公園」世田谷区地域風景資産領域となる。ここの活動人のFさんにはよく出会う。一昨日も電話がかかってきた。前から呑川物語を書いてとの要望がある。

「お宅の区間だけだと短すぎて物語がないのです。もっと広げる、上流部だと宮本百合子が住んでいてそこの風景を描いているのです。下流に行けば石垣りんが住んでいたマンションがあってエッセイには呑川のことがでてきます…」

 私が現在のアパートに引越して来るとき、下見に来た友だちはいやだ、といいました。そばを流れている川がまるでドブ川ようだ、と申します。私は逆に、汚いながら低い瀬音をたてている川が気に入りました。その流れと十字に交わり、左右に長くのびる私鉄の線路を高く押し上げる形で土手が続いています。
『焔に手をかざして』 筑摩書房 1980年刊


 ドブ川は呑川だ、その近辺ではゆるく蛇行している。確かに水量が多いときは瀬音が聞こえる。向かいの土手には私鉄の線路、東急池上線の三両編成の電車がのんびりと通る。川と線路とが眺められて悪くはない。

「だから川をそこに限定しなければ一つ一つ物語が記せるのです。お宅のところの先、日体大のすぐそばに大橋があるんですけど、これは江戸道の橋なんです、すぐ南は坂で、これが万願寺坂、苦労して人が通ったんですよ…」
「きむらさんは、童話を書いておられますよね、いっそうのこと呑川を舞台にした童話を書いてほしいのです…」
「童話を書くためには、素材がなくては書けません。無理です」

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2016年06月15日

下北沢X物語(3057)〜第10回「戦争経験を聴く会・語る会」への提案を供

P1050334(一)風化という言葉がある、岩石が長い間、風にさらされて崩れ、土になる現象のことをいう。人とて同じだ、長い間時間にさらされると傷んできて、やがては骨になる。岩も人も風化するいかんともしがたい。71年も経つとなおさらだ。伝えるためには工夫が必要だ。イベント性を高めるための手法である。
 
ここ数年、会では運営法として「戦争と音楽」に着目して楽器と使ったり、歌を歌ったりとい工夫をするよになってきた。これだと戦争経験者でなくとも参加できるという点がある。音楽は人の記憶を喚起させる働きがある。ただ人の話を聞くだけでなく歌を聴いて記憶を蘇らせるというのはよい方法だ。しんねりと戦争経験を聴くのもつらいものがある。

 来年どうするのか?、第十回目という節目が来るがやらねばならないことはない。戦争伝承が困難になってきているからできないのならやならいということもありうると述べた。それにたいしてすぐに山崎小の長谷川直樹さんから企画の提案があった。これによって初めて知ったのは長谷川さんがテレビのプロジューサーであったことだ。

ヾ覯莪
第10回「戦争を聴く会・語る会」  長谷川直樹

軍歌を聴いて育った少国民

 「勝ちぬく僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教えた父母の・・・」昭ヒトケタ生まれ最後のわたしたちは、戦争真っ盛りのなかでラジオから聞こえる軍歌を聴きながら育った。

軍事色が一段と濃くなった昭和16年4月、尋常小学校は国民学校と名を改められた。初等科1年生のヨミカタ読本は、これまでの「サイタ サイタ サクラガ さいた」から「アカイ アカイ アサヒ・・・ヘイtクァイサン ススメ」に変った。
学童たちは少国民とよばれ、お国の役立つ人になれと教育された。昭和19年6月30日「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。米軍の爆撃を避けるため大都会の学童たちは、縁故疎開先がない国民学校初等科3年生以上が地方へ集団疎開した。

今回の「戦争を聴く会・語る会」では、昨年の「代沢小学校ミドリ楽団」に続く戦争と音楽の2回目として、1931(昭和6)年の満州事変から1945(昭和20)年8月15日の敗戦まで、当時流行った軍歌や軍国歌謡を柱に3
0数曲を聴きながら、少国民たちがどのようにあの戦争の中を軍歌と共に歩ん
だのかを聴く。そして、音楽が戦争に果たした役割を考えてみたい。

進行役は、少国民としてラジオから放送された軍歌や戦時歌謡をよく歌っていたという、昭和8年生まれの山田匡一さん(元NHKアナウンサアー)と昭和9年生まれ長谷川直樹さん(元テレビ朝日報道局プロデューサー)にお願いする。
 

  音楽が軍国主義をあおったこと、これに国民は飲み込まれた。興味深い点である。

続きを読む

rail777 at 20:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化