2017年07月22日

下北沢X物語(3324)―試案「日本偽物語紀行」―

DSCN0206(一)なぜ狐狸は汽車が大好きなのだろうか、彼らは全国各地で汽車に化けて現れている。ところがこれが悉く敗退している。討ち死にである。これによって汽車化けの術が近代今日に伝わらなくなった、惜しいことだ。が、この偽汽車現象は興味深い、古代と近代との境目に起きた事象である。狐狸が次々に汽車に化けて現れた、しかし、それは狐狸の目に映ったものではなく人間が目にしたことである。「おお不思議だ」、「おお恐ろしい」、「おお面白い」と当時の人々は思った。この心のありようにこそ問題点が含まれている。人々の共同幻想である、背景に潜んでいる謎を解くこと、これによって我々が依拠している文化が紐解かれるのではないか?

 六郷高畑で狸が頻繁に汽車に化けて現れた事例について報告した。現地を歩いたとき高畑地区では東海道線や京浜東北線は高架になっている、それで往時は築堤ではなかったかと述べた。これについて地形上の指摘が、きむらたかし氏からあった。すなわち、明治十三年の一帯の古地図では、鉄道線路は切り通しになっているとのことだった。

 狐狸がなぜ汽車に化けて現れるか、その理由として言われていることがある。鉄道敷設によって巣穴が壊された、彼らはその仕返しをしようと化けて現れた。六郷高畑の例でいえば、鉄道敷設には切り通しを作るという大きな土木工事があった。小高くなった畑地を掘り下げる必要があった。まさにそこが狸たちのねぐらだった、そこを壊されて立ち上がった。

 『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(現代民話考 珪消みよ子)では、愛知県の例を引いている。

 明治三十年であった。豊川鉄道が初めて長篠へ通じたときである。川路の正楽寺森の狸が、線路工事のために穴を荒らされた仕返しに、ある晩機関車に化けて走ってきて、こちらからゆく汽車を驚かせた。

 明治五年の新橋横浜間の鉄道開通によって鉄道建設ブームが沸き起こった。それで各地で線路が敷設された。車と違って汽車は勾配に弱い。これを緩やかにするために隧道をうがち、切り通しを作った。近代の機械を通すために自然破壊が行われた。

 鉄道の敷設は金がかかる。街道筋に鉄道を通せば安上がりである。それで当初は街道沿いに線路を敷設するはずだった。ところが、そういうわけにはいかなかった。

 その当時鉄道にたいする一般人の理解も同じように排斥的なものであった。鉄道なんかが敷設されると、宿屋に泊まる者がなくなって町がさびれる、汽車の煙が桑の葉につもってカイコが全滅するとか、汽車の轟音でニワトリが卵を生まなくなるとか、根も葉もないデマがそれからそれへと言いふらされて鉄道敷設が妨害された。『明治の汽車』 永田 博編 交通日本社
 
 人々の反対によって街道筋に鉄道を敷設することは困難であった。それで田畑や原野を切り開く必要があった、そこはまさに狐狸たちが死守してきた住処だった、ここを破壊する鉄道近代に狐狸たちは立ち上がった、懲りることなく汽車に化けて現れた……

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2017年07月20日

下北沢X物語(3323)―「太子堂の空襲」梅津迪子 供

CCI20170720 (2)(一)言葉の基本は伝えだ、しかし、今この言葉が崩壊しはじめている。狐狸的で珍妙な問答が公の場で繰り返されている。スーツを着た広報担当者は、お尻にしっぽが出ているのに、それを指摘すると気のせいですと応える。国民の目にもしっぽが見えているのにかまわずに見間違いですと。社会を支えている言葉が崩れかけている。戦争中は、もっとひどかった末期になると大本営は嘘に嘘を塗り固めた情報を流した、支配者が皆、狸や狐になっていた。明白な事実が捕まえられているにも関わらず、「そういう事実はない」と言う。国家は言葉で成り立っているがこれも崩壊しつつある。

 「太子堂空襲」の経験をコツコツと集めてこれを小冊子にして梅津迪子は人に配った。聞き書きという経験をした。これによって気づいたのは、「日本人の家庭生活のやさしさ、気持ちの豊かさだった」と後記に書いている。

 戦争中の苦しい辛い生活の中で互いが互いを思って暮らしていた、人々の紐帯感が強かった。広島の被爆者から聞いたのは、仲間の女子学生の行方を捜そうと原爆投下後の市内に入って懸命に友を探したという、裸足である。暑いさなか溶けたアスファルトが足にくっついたという。この人たちは入市被爆を結果的にすることになる。

 太子堂二丁目の萩原さんから聞いた話を梅津さんは記録している。昭和二十年五月二十四日のことだ。落下してきた焼夷弾につぎつぎに火が点く、それを皆と協力して一晩中消し続けた。

 やれやれ今日は何とか無事に終わったと思って井戸水を汲んでいると、離れの屋根上から煙が出ている。「お父さん」と呼びながら上に登って瓦を剥がしてみると中が燃えている。火の粉が入って燃えだしたのだろう。大声で助けを求めると大勢のご近所の方がきてくださり、バケツリレーで消すことができた。

 三月十日の東京大空襲はなすすべもなく下町はあらかた燃えた。しかし、これによって学んだのは焼夷弾は消せるということだ。この後類焼を防ぐために建物疎開、防火帯が作られたり、また防火用水が設置されたりした。

 常日頃防火の大事さを説いていた警防団長が焼夷弾が落ちてきたら真っ先に逃げた、この話は面白おかしく語られる。が、人々が懸命に協力して焼夷弾の火を消し止めたというのは警防団長逃亡の話よりも何百倍も多い。

「代田三丁目の自宅で西の方を見ていたらB29が高射砲に撃たれて火を噴いたんですよ。それでみんなで拍手をしたのです。ところがその飛行機がこちらへやってきて焼夷弾を落とす、というよりか捨てるんです。それで家に火が燃え移ったんですよ。でもこれは皆で協力して消し止めましたよ……」
 亡くなってしまった代田の古老、今津さんから聞いた話だ。
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2017年07月19日

下北沢X物語(3322)―「太子堂の空襲」 梅津迪子―

CCI20170719 (2)(一)私達はすべてを忘却して生きている。近隣で更地によく出くわすが、どんな家があったのかほとんど思い出せない。ましてや過去のこととなると雲を掴むようなものだ。しかし記録があると確認ができる。偶然、風景資産の交流会で梅津迪子さんと出会った。彼女は「太子堂の空襲」をこつこつと記録してきたという。それを自分で印刷し、折りたたんで製本したという。すべて自分の手で行っている。ささやかでも伝えを伝えようとすることは大切だ、なかなか難しいことだが一歩踏み出せば誰でもできる。こういうことは世のため、人のためになることだ。彼女はこういう。

 昭和二十年五月二十四・二十五日の山の手大空襲では、池尻・太子堂・三軒茶屋は総なめにあい、旭小・多聞小・区役所は全焼、東大原・三宿小は半焼の被害にあいました。太子堂の四丁目はほとんど燃え、二丁目は梅津さんの下の川まで焼け、三丁目は富塚さんの烏山川まで焼け広がりました。

 池尻、三宿、三軒茶屋は野砲兵聯隊の兵営、そして軍事演習地としての駒沢練兵場があってこれが狙い撃ちにされた。これによって近隣の街はその余波を食らって甚大な空襲被害を受けた。彼女はいう「この歴史を風化させてはならない、今記録しなければ失われてしまう」ということから人から人を辿って「太子堂の空襲」を記録したという。こういう地道に努力する人がいてこそ歴史は支えられるものだ。その聞き書きだ。

岡崎さん(下の谷)

 私は、四月に池袋で焼け出されて、母の住んでいた下の谷に移ってきました。
 大空襲の時は、昭和女子大のところは兵隊の場所だったから、あそこから、焼けてきました。下の谷は低いから、焼夷弾や焼けた材木などが飛んできたですよ。もう死ぬかと思ったですよ。そしたら急に風が変わって命拾いしました。急に風が変わって真っ暗になったのです。下の谷の池田屋さんの側は全部焼けました。爆弾が雨あられと降ってきて逃げようたって、逃げられなかったのです。


 ここで証言されていることで重要なのは風向きだ。証言者は下の谷に住んでいた。昭和女子大は南に位置する。ここに近衛野砲兵聯隊の兵営と厩とがあった。B29はここに焼夷弾攻撃を仕掛けた。しかし、事実としては近衛野砲兵聯隊の兵舎は一部は焼けたが多くは焼け残っている。昭和女子大も当初はこの焼け残った兵営を校舎に使っていた。戦災地図でみると昭和女子大辺りは緑色になっていてその南手の下馬が赤で示されている。

 下の谷から上手に当たる下馬や三軒茶屋がB29の焼夷弾攻撃によって焼けた。折からの南風にあおられて投下された焼夷弾やまた火の点いた材木の木っ端などが飛んで来て下の谷地区は焼けたのだろう。
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2017年07月17日

下北沢X物語(3321)―第130回街歩きは地下街探訪供

DSCN0199 (2)(一)十年間街歩きを続けてきた。時代は確実に変化している、一つ目は風だ、二つ目は臭いだ、三つ目は緑だ。人をなぎ倒しそうなビル風が吹くようになった。街から住宅地から臭いが消えた。まず鼻をつまんで通ることもなくなった。メンマ工場もドブもなくなった。木々の緑は確実に減っている。こんもりと木々が生えていたお屋敷がまるごと更地になってマンションが建つ。都心を歩いてみて思ったのは風景にとっかかりがなくなったことだ。
DSCN0190
「いつの間にかこうなっちゃったの」
 久方振りに日比谷公園にきた向井さん、景色の変貌ぶりに驚いていた。
 聞くところによると日比谷公会堂によく通ってきていたという。それを聞いて思い出した。かつては何かというとここで集会が開かれていた。日比谷野音も同じだった。彼女は何十年かぶりに来て回りについたてのように建っているビル目を瞠っていた。

 都会は変貌している。まず地上の変化は大きい。当方、散歩途中に大岡山小学校脇の環七の歩道橋をよく渡る。東に都心方向がよく見える。ここ数年で著しく変わった。淀橋台地が北から南へと下っているがその上や、もうっと向こうの台地につぎつぎと高層ビルが建った。林立するビル。壁だ、東京湾から入ってくる南風がこの衝立に遮られて、内陸部へ吹いて行かない。それで高温化現象も起こっているという。

 高層化という変貌は見える。が、地下化というのは見えない。しかし地下街はどんどん広がっている。丸の内の地下道を通ったがここにも地下の街、通りができていた。

 日比谷から地下に降り、東京駅に向かう。丸ビルではエレベーターで六回まで、ここのテラスからの東京駅全体がよく眺められる。
「色がシックになったね、前の赤色がよかった」
「もけいのお家をみているみたいだ」

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2017年07月16日

下北沢X物語(3320)―第130回街歩きは地下街探訪―

DSCN0196(一)昨日、15日、第130回目の街歩きを行った。月一回ゆえ、10年と八ヶ月にもなる。この間の変化は大きい。景観が著しく変わったこと、長大な地下街が形成されたこと、そして地球温暖化が一層に加速したことである。人間の生理に影響を与えていることだ。まず、高層ビルが林立し威圧感が増した。つぎに迷宮のような地下街ができ人は自己存在を失った。そしてとどめだ、地球温暖化により都市が高温化、高熱化し、夏の街歩きができなくなくなったことだ。
 
 七月の行事は、十年来駒沢練兵場を歩くを行ってきた。しかしこれも危険になってきた。街歩き行軍で熱中症が予想されるようになった。もう少し気持ちよく歩けるところはないか。

「都心の地下道は案外に涼しいのではないか?」
 ふと思いついたことから地下道を通っての街歩き、お江戸東京を巡るという企画に結びついた。

ー尊飮廚いけず地下道は涼しかった。
風景が新鮮に見える。
 穴蔵の地下道を歩いていってようやく階段を上って地表に出る。するとそこには日比谷公園の緑とビルによって区切られた青空があった。新鮮な感動を覚えた。
C浪爾箸いΧ間も四角い箱一辺倒ではなく、曲がっていたり、通路が細くなっていたり、地下街があったりと変化がある。
っ浪竺垢任麓を澄ますと通行人の足音が聞こえる。繁華な地点ではせわしく、過疎化した地下道ではのんびり聞こえる。
ッ鷲修暴个襪燭咾膨垢こ段を上らねばと思っていたがエスカレーターやエレベーターが思いの外備わっていてその危惧はなかった。


今回は東京駅を中心とする地下道を歩くことにした。日比谷に集合して、そして地下道を巡り、ポイントになるところで地表にでて旧跡を見学するという方法だった。
 通例の街歩きにはない新鮮さを参加者は感じた。結論として次年度も、これを実施することにした。

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2017年07月14日

下北沢X物語(3319)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか掘

DSCN0188[2](一)偽汽車の主人公は狸だ、しかし狸にとっていいことは何一つない、最後は悲劇的な結末でおわる。機関車にひき殺されて死ぬ、希望がまるでない。当人たちにとっては得にもならない話だ。ゆえに仲間内で流行ったわけではない、人間どもが勝手に作っては面白がっていた。ひき殺された狸は狸汁にして食ってしまったという例もある。そんなことを考えていくと機械近代における人間の冷酷さが見えてもくる。偽汽車現象は深くかんがえてみる必要がある。

 近代を近代たらしめたのは鉄道である。この出現によって「時間と空間の衝突」を招来させた。それは衝撃的だった。人間ももちろんだが狸もこれと遭遇したとき度肝を抜かれた。六郷川橋梁が開通した。ガラガラと雷が鳴ったと思ったら忽然と黒い物体が現れてこちらへ向かってくる。土手の草むらでこれを見ていた狸たちは震え上がった。二千年の眠りから覚めた狸社会は大騒ぎとなった。

 一連の記事を書いていたところ、SNSで「偽汽車の話は古代と近代の境目に起こった超常現象で意味深いものがある」との指摘。この事実の背後には時代の境目に生きた人々の思いが潜んでいる。偽汽車は当時の人々の願望を鏡のように写し出している。人々の共同幻想が生み出したものではないか。

 さて、六郷川橋梁に現れた狸の話だ。

 汽車に化けた狸
 
 狐だか狸かしらないけど。東海道、今の六郷橋ね、六郷橋の上ぃ、橋の真ん中で、ボーボーって鳴っているんだね、そうすると、汽車の機関士がさぁ、びっくりして汽車を止めたってこと聞いてらぁね。それが二回、三回、四回つづいているうちにね、機関士がね、「こんちきしょう」と思って、狸ということがだいたい分かってきたんで、そいでまあ、思い切って機関車走らせた。走らせてあくる日行ったらば、狸が死んでいたと。
 そういうことは、よく聞いたよね、子どもの時分、年寄りから。
【八幡塚 男 明治31年生】(中島)
 「大田区の文化財 第22集」 口承文芸 昔話・世間話・伝承 
著者名 大田区教育委員会編 1986年3月


 話者は八幡塚に居住していた。高畑の南側に当たる。この場合は平地ではなく鉄橋上に狸が現れた例だ。しかし、汽車の姿は見えていないようだ。橋梁にさしかかると汽笛の音が聞こえる。機関士は不思議に思って汽車を止めた。

 この場合単線か複線かは説明されない。偽汽車の場合のお約束がある。舞台として使われる線路はみな閉塞区間である。つまり単線で起こることになっている。この場合も単線で汽車を走らせていたところ向こう側から機関車が走ってくる音がする。
「ぶつかるぞ!」
 反対側から汽車が走ってくるのを確認して運転士がパニックに陥る。これも決まり切ったパターンだ。

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2017年07月13日

下北沢X物語(3318)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか供

DSCN0189[2](一)狸が汽車に化ける、いわゆる偽汽車の民譚は全国各地に分布している。この話不思議な点が二つある。なぜ狸が汽車に化けるのか、普通は人に化けて出てくるが、が、彼らは機械に化けて出てくる。もう一つだ、機関車に化けた狸は、本物の汽車に必ずと言っていいほどぶつかっていく。「ギャオー、ぶつかるぞ!」と人は恐怖に陥る。ところが衝突時の反応が「コチン」と軽い、ここにおかしみがある。何だと調べてみると狸が死んでいた……という結末だ、化けた狸は悉く敗退して討ち死にしている、なぜみんな死ぬのか。

 まず第一点である。従来だと狸は人に化けて現れる。人語を操って人をたぶらかす。ここには他者との交流があった。が、機械ではそんなことは成り立たない。即物的である。文明の最先端である汽車になぜ化けたかという点は謎だ。

 つぎの第二点である、汽車に化けた彼らはほとんど突撃死している。民譚は語り伝えられてこそ生きる。ところが当事者は次々に殉教者のように汽車に飛び込んでいく。もったいないのはこれでは汽車化けの術が後代に伝わらないことだ。伝えられてこそ民譚は生きる、が、この話狸たちが討ち死にしてしまい。民譚としてはいまや死にかけている。

「真夜中、終電後に新幹線に化けた狸が走っていった。証拠は最後尾がふわふわとした狸の尻尾になっていて、毛のの間から赤いテールランプがぼんやりとみえていた!」
 こういう話、あれば面白いが新幹線に化けた狸の話は聞かない。

 狸はなぜ汽車に化けたか、近代文明論的観点で考えると面白い。ここに時代の割れ目の秘密が潜んではいないだろうか?

 明治五年、日本最初の鉄道は新橋品川間に走った。この区間で狸が化けて現れた例は一つは品川道灌山だ。二つ目が鶴見駅近辺、そして今回大田区の地域資料で見つけたものが三つ目だ。これは六郷高畑の例である。前二つは丘陵地のものだが高畑は多摩川河川敷に近い。全体に土地がフラットで狸が棲息するにはあまりふさわしいようにも思えない。それで土地の様子を観察するために、矢口渡駅で降りここから高畑まで歩いてみた。
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2017年07月11日

下北沢X物語(3317)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか―

DSCN0186[1](一)狸は汽車が大好きだ、じゃぼじゅぼと煙を上げて走ってくる汽車をみると化けたくなる。狸が汽車に化けて現れたという民譚は数多くある。日本で初めて汽車が走った区間では品川権現山の話はよく知られる。これ以外、大田区六郷高畑でもこの類例が認められた。このことから現地探訪に及んだ。

(高畑の)国鉄のところにはね、ほんとに狸がいたんですって。国鉄がまだ開通したばっかりのころね、こっちから行くんですってね、汽車が。そうすると、向こうからも来るんですって。運転手はこわくなってね、そいでね、急いで止めるんですって。そうするとパッとなくなっちゃうんですって。三台待ってて、あるとき、とても元気のいい運転手が、「えーいっ」て、ぶつかったもかまわないってね。そうしたら、それが狸だったんで。明くる日、狸が死んでたってね。【八幡塚 女 大正六年生・大正11年生】(中島)
 「大田区の文化財 第22集」 口承文芸 昔話・世間話・伝承 
著者名 大田区教育委員会編 1986年3月


 いわゆる偽汽車とされている民譚の典型例だ。大事な点を整理する。
・時期 国鉄が開通したばかりの頃 当時の鉄道を所管したのは「工部省鉄道寮」だ。
 新橋と横浜駅間の鉄道が営業運転を開始したのが明治五年(1872)十月十五日だ。
この鉄道開業に近い頃ということだ。
・場所 高畑 当時六郷村があってその一つが高畑であった。地名は残っていないが。神社や建物に名を残し ている。高畑神社、高畑小学校である。
・偽汽車
 営業運転をしていた汽車が走っていると向こうからも同じ汽車が走ってきた。単線上を走っていたことから運転手は衝突の危険を感じて汽車を止めた。同様のことが二回も三回も起きた。度々汽車が現れるので怪しいと思っていた。また再び現れた、そのときは元気のいい運転手だった。「よし」と、その汽車に突っ込んだところ、何かにぶつかった。分かってみるとその正体は狸だった。いわゆる偽汽車民端の多くがこの形式で語られる。そういう意味では典型的な例だ。
 なお、資料の大田区の口承文芸では他にも数例同じような話を載せている。


 最も興味深いのは場所である。当該場所は、東海道線六郷川橋梁の東側に位置する。多摩川左岸である。この一帯を高畑と呼んでいた。
 もっとも単純に考えればその箇所は小高くなっていて畠が多くあったということになる。果たしてそうなのか。

 日本で最初に汽車が走った区間で狸が化けて出てきたのは品川の道灌山だ。名のとおり山になっている。狸が棲息していた場としてはふさわしい。高畑の場合は多摩川の氾濫原に接しているところから住処としてどうなのか、ここに興味がある。小高い畑で一帯は雑木林だったとなると狸が住むのにはふさわしい。狸の出没についても信憑性がある。

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2017年07月10日

下北沢X物語(3316)―核兵器禁止条約になぜ日本は加盟しないのか―

DSCN0182(一)「振り上げた拳をどのように下ろすのか」、戦いをどう収めるのか、困難な問題だ。今九州新田原飛行場のことを触れておきたくて戦史をしらべている。レイテ戦に向かう機の日本本土の最後の寄港地だった。数多くの戦闘機、そして兵員がしばし休んだ、時間が取れた隊は宮崎神宮に参拝した。最後のお別れ、死出の旅路だ、が、手を広げすぎた南方戦線の収拾はどうにもならなかった。メンツから矛を収められない、特攻機を繰り出したが泥沼にはまり込むだけだった。特攻というと沖縄という認識が固定化されている、しかしこのレイテ特攻も悲惨だった、このことを我々は忘れ掛けていると思った。

 七月七日国連で「核兵器禁止条約」が採択された。究極の「振り上げた拳の下ろし方」である。この条約は、核兵器の使用、開発、移転などを幅広く禁止したものだ。核は一切使わないようにしようという国際条約だ。根本は、これを使うと地球が亡ぶからだ。条約は人間の英知が生み出した賢明な方策だ。しかし唯一の被爆国である日本は加わらなかった。

 七月八日の新聞(『朝日新聞』)は論調でつぎの見出しを掲げている。
・「核の傘」に頼る唯一の被爆国
・「橋渡し役」かすむ日本

 日本は安全保障を米国の核抑止力に頼る。北朝鮮が核・ミサイル開発を加速させるなか、「核の傘」の重要性は以前よりも増して強調されている。日本政府関係者は「日本の核抑止政策が核保有国の核を前提としている以上、核拡散条約は基本的に相いれない」と話す。


 日本は米国の核の傘によって護られているから「核兵器禁止条約」には賛成しないという。「虎の威を借りる狐」そのものではないか?

 根本、基本、虎は核兵器だ、敵を威圧するものである。「かかってくるならかかってこいよ、きたらお返し、倍返しでお前の国をふっとばしてやるから」ということだ。目には目を歯には歯をという力づくの戦略だ。これをよしとするのが日本だ。核を使ってもかまいませんというものだ。この考え方は間違っている。広島、長崎の被爆の実態を忘れた脳天気な考えではないか。
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2017年07月08日

下北沢X物語(3315)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて検

DSCN0184(一)当地一帯は土地の起伏に富んでいる。谷あり、沢あり、坂あり、一つ一つの窪みに物語が隠れている。斜面には詩がある、音があり、臭いがあり、色がある。しかし、かつての武蔵野はすべて均一化しつつある。稜線の膨らみすら剥ぎ取られ、そこにどでんとマンションができると過去は一切に消えてしまう。この頃、大木は災難だ、初夏には新緑を秋には紅葉を楽しませていた欅が、あるとき行くと忽然と消えている。大木は都市人が快適な生活を送るには邪魔である。昨今の様相は、垣根や雑木や古木が消えてそこに瀟洒な家が建つ。都会では風景の奪い合いが起こっている。風景は人の心をくつろがせるものである、それを都会人は悉く潰して幾何学模様の建物を建て偉いだろうという。

 風景や風光で曲線に勝るものはない。古里の山というのは懐かしい。興味深いのはどこから見るかという点はある。懐かしい山が近づいてくる、そして、とある一点にさしかかると「心がツゥンとしてくる」、懐かしさは数値的に正確なものだ。何度何度も見た風景は記憶が角度まで覚えている。

 三好達治は、世田谷代田に住んでいて亡くなった。当地では『駱駝の瘤にまたがつて』という詩集を著している。代田小路のひっそりとした家に住んでいて隠遁的な生活を送っていた。日々時間のあるときは近隣を歩き回っていた。ご愛用の銭湯は太子堂「清水湯」だ。彼のエッセイに『東京雑記』というものがある。その中の『薄暮の新緑』の冒頭は、

 裏町の銭湯の入口に傾きかかった柳の緑が美しい。やはり五月はいい。色のさめたポストの脇に鼻緒の切れた下駄が片足裏がへって捨てられている。こんな貧しい街角のつまらぬ一もと柳であるが、萌え出たばかりのやつと緑の浮きたつやうになつたのがすゐすゐとして風がないからまたその輕やかな曲線がそよりともしない。身なりのよごれた子供たちが三五人その下で何かわめき散らしてゐる。
 三好達治全集 10 筑摩書房 昭和39年刊


 「清水湯」はとうに店を閉めた。跡にはマンションが建ってしまってここに描かれた下町風情はもうない。

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2017年07月07日

下北沢X物語(3314)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて掘

DSCN0096(一)風景を作り出すのは時代精神である、巨大構造物が作られいくとき人々は感動を持った。昭和四年、北原白秋は『海豹と海』の中の「鋼鉄風景」の中で、冒頭で「神は在る、鉄塔の碍子に在る」と鋼鉄風景を讃えている。そびえ立つ鋼鉄の塔への賛嘆だ、また彼は歌集『白南風』の序の末尾に「砧村の雲と鉄塔の下に」と記す。居宅の南にそびえ立つ鉄塔への敬意を払っている。緑の木々に覆われた武蔵野に建つ鉄塔は自然と調和するものだった。白秋は機械近代を象徴する塔には同意的だった。

白秋、そしてまた朔太郎も同じだ。詩人は深い山中に「ふと見いだした一脚の白いベンチは、どんなに我らの気分を爽快にするか」(『新しき欲情』)という。「一つの人工物は沈鬱の影の深い自然の中で、いつも賑やかで明るい都会の幻影夢みさせる」(同)とも。郊外の丘上にそびえ立つ銀色の鉄塔は明るい人工物である。「明るい都会の幻影」でもあった。その鉄塔との関わりにおいて彼は世田谷代田の丘に自らの設計による家を建てた。

 今回の街歩きは、地域風景資産を歩くというものだ。ゆえに資産の風景のある場はコースのハイライトだ。まず、北沢川緑道に建てた碑のところに行く。
「ここから見ると鉄塔が丘上にそびえ立っているのがよく見えます。今は近辺に建物が建ってしまってあまり目立ちません、が、萩原朔太郎が自宅をここに新築した昭和八年ではひときわ目立つ塔ですね。緑の中に立つ銀色、それが空を突き刺していました。塔の高さは二十八メートルあります」
 詩的光景であることは間違いない。

「この高圧線は、駒沢線といいます。ずっと南の方まで行っています。私は目黒に住んでいるのでよく知っていますが、あちらでは鉄塔は低いのです。いびつに見える鉄塔もあります。鉄塔が格好よくないのです」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。うちらの方は線は六本なんです。だから低くていびつになるのです」
「線の数で鉄塔の高さは違うのですか?」
「ええ、ほら、ここは違うでしょう、数を数えると十二本あります。とても都合いいですよね。よく鳥が留まっていますよ、そのときは様になりますね。彼らは、規則的には留まりません。ばらけて留まる。ここがミソですね、ランダムにとまると思いがけない曲が生まれるます。ここら辺りは作曲家などの音楽家は数多く居住しています。電線に留まった鳥をみて曲がひらめくのですね……」
「ほんとかよ?」
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2017年07月05日

下北沢X物語(3313)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて供

DSCN0180(一)風景とは、五体で感じ取る立体物である。そう思わせる事例をテレビ・ドキュメンタリー番組で観た。原発事故で避難指示が出ている区域では十五歳以上にしか一時帰宅は認められていない。十五歳になった機会に故郷を訪ねるという。慣れ親しんだ故郷風景との再会だ。その帰宅者の後を追った番組だ。六年ぶりの帰還での感想、「道が狭くなったね!」、「学校の靴箱に友達の上履きがそのままある!」、「おばあちゃんの軽四の運転席の臭いが懐かしい!」と十五歳の女子。

 まず思ったことは、原発過酷事故が人から風景を奪っていたことだ。これによって心理的バランスを崩して死んだり、病気になったり、自殺したり、悲惨な結果を招いている。罪深いものだ。

 そうであるのに根本的なことが解決していない。それは至る所に山積みになっている黒いビニール袋だ。異様、異常な風景である。これら放射性廃棄物、低レベルも高レベルのものの始末をどうするか見通しが立っていない。そういう中で原発を再稼働することには憤りを感じる。人は自分を育んでくれた風景の中で自由に振る舞うことができる権利がある。それを根こそぎ奪ってしまった。

 十五歳の一人の女子にとっておばあちゃんの軽自動車の運転台の臭いは懐かしくてたまらない。人間にとって風景というのは臭いも含んでいることを表している。空気に故郷の臭いがすると言っていた。思うに臭いも、音も、色もあったはずだ。時節時節でこれらが違っていて、その中で人は成長していく。人間は風景を潜り抜けて成長するものだ。

 大きな過誤あったときにその原因を突き止めるべきだ。なぜあの戦争は起きたのか、なぜ原発過酷事故が起きたのか、責任を追及して、そこから再生すべきものを人は考える義務がある。

さて地域風景資産を巡る旅だ。当方は、今、「代沢せせらぎ公園と北沢川緑道」、「代田の丘の61号鉄塔」の二つを受け持っている。先だって風景資産の交流会ではこんな提案をしたものである。

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2017年07月04日

下北沢X物語(3312)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて―

DSCN0178(一)風景は人の心のよりどころである、地域にはこの風景や痕跡が残っている。しかし、往時はもう偲びようがないほどに変化している。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった」(『風と光と二十の私』)と大正十四年(1925)頃の様子を坂口安吾は描いている。学校とは代沢小のことだ。が、この二年後昭和二年(1927)、学校の近くの土地が売りに出された。「清風園土地分譲」として昭和二年十二月の朝日新聞の広告に載った。

 七月二日、北沢地域の風景資産を歩いて案内した。主催は、日本建築家協会 関東甲信越支部世田谷地域会である。朝十時からの街歩きだが、北沢川文化遺産保存の会が担当したのは午後だ。淡島のせせらぎ公園から下北沢駅までである。

「九十年前は、いわゆる武蔵野でうねうねと丘があって、そこに竹藪、麦畑、そして茶畑だったんですよ。昭和二年の末にここの一角を売り出す広告が載ったのですね。「清風園」といいます。土地のことについてこんなことが書いてあるんですよ。

 此の地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になつて居りますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂「近代郊外風景」が居ながら恣にされます。
 渋谷急行線はすぐに停車場を設置されます。水道、瓦斯、電熱の整ふた珍しい安い処分物です。


「この辺りが開けたのは鉄道が大きいですね、もうすでに小田急線は開通しています。これにくわえて渋谷急行線、これは井の頭線ですこれが近々できるからお買い得ですよというのでしょうね……」

 この広告に使われている「近代郊外風景」というのは土地をアピールするポイントだ。まず電気水道瓦斯というインフラが整っている。そこに家を建てれば居間から武蔵野の自然風景が堪能できる。
「赤い松林の向こうに青々とした丘が見えて、それがどこまでも続いています。何しですね敷地は皆雛壇式ですから隣の家に眺めを遮られることはありません。天気のいい日には雪をかぶった富士も見えるのですよ」
 住宅案内人はそんな説明をしたのではないだろうか。

「ところでみなさん、ここに家を新築すると屋根は何色にしたんでしょう?」
「?????」
「松林に生える色です」
「赤ですね、ほら」
 私は手に持っていた「下北沢風景」参加者に見せた。尾根筋に赤い屋根の家が建っている。作者は高須光治、彼は風景に詩情を感じたから描いたに違いない。

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2017年07月02日

下北沢X物語(3311)―論考「邪宗門について」 松原征男

写真1
邪宗門について― ときがわ町東光寺の版木を中心に ―
               松原 征男

 北沢川文化遺産を保存する会の事務局である茶房“邪宗門”の名前が気がかりでした。時の権力者にとって好ましくない宗教を邪の宗教として禁制したことは広く知られていますが、昨年の春に仏教宗門による他宗教を邪教として防御していたことを示す版木と出会いした。
 本稿では邪教を、世に害毒を流すような不正な宗教。邪教。特に江戸時代、吉利支丹(切支丹・キリスト教)を邪宗門と称し(広辞苑)、他宗教に対峙するときや、国家権力や統治者等が特定の宗教を、敵性宗教であるとみなし弾圧目的で使用する用語というほどに使用します。
 具体的には、権力者による二つの邪宗門制札(高札)と、ときがわ町東光寺の版木から読み取れる仏教宗門による邪教に対する防御について、取材できた資料3点を基に紹介します。
*冒頭に掲げた写真は、小澤家所蔵の切支丹制札87‘玉川村政要覧より転載したものだ。



1 小澤家所蔵の切支丹制札(戦国時代)

「戦国時代天文十八年(一五四九)ごろ伝来した切支丹宗に対し織田信長は保護したが、豊臣秀吉は国情に合わぬとこれを禁じ、徳川家康は一層きびしくこれを禁じた。寛永一四年(一六三七)、島原の乱が起こると、幕府は信徒を絶滅するため全国津々浦々に制札を掲げた。この制札はその一つである」。と87‘玉川村政要覧32-33頁に掲載しています。

小澤家所蔵の切支丹制札 87‘玉川村政要覧より転載
〔玉川小沢文雄氏所蔵 町指定文化財。『たまがわ』p.32-33 (87‘玉川村政要覧)玉川村役場 昭和62年3月〕。
また、『ときがわ町文化財ハンドマップ』7頁(ときがわ町文化遺産活用実行委員会 平成26年3月(2014)発行にも、「戦国時代に伝来したキリスト教は、当初織田信長の保護等により各地に広がりましたが、江戸時代になって徳川幕府は、その教えや外国の侵略を恐れて禁制としました。特に寛永14年(1637)の原島の乱以降は厳しく取り締まられ、切支丹の制札が掲げられるようになりました。(ときがわ町)根際地区の小澤家には天和2年(1682)のものも含む計4枚の切支丹制札のほか、多数の貴重な古文書が所蔵されています。」と説明しています。
執筆にあたり、小澤眞明氏(文雄氏長男)宅を訪問して確認しました。

2 邪宗門の制札(江戸時代後期) 

日高市高麗郷民俗資料館には、邪宗門に関する3点の制札が常設展示公開されています。そのうちの1点が江戸後期、慶応4年の邪宗門の禁制(太政官高札)です。
写真2
邪宗門の禁制高札  平成28年春 日高市高麗郷民俗資料館にて 撮影 松原

      定
一 切支丹宗門之儀者是迄御禁制之通り固く相可相守事
一 邪宗門之儀者固く禁止之事  
慶応四年三月   太政官

 
墨書された制札を、日高市役所の担当職員は、
一 キリシタン宗門の儀は これまで御制禁の通り 固くあい守るべきこと
一 邪宗門の儀は固く禁止のこと と、読み下しました。

上記2点は、権力者による邪宗門(邪教)の禁制であった。

3 邪教防御の版木(明治時代中期)

 ここに紹介する版木は、仏教宗門による邪教に対する防御です。
ときがわ町日影にある日蓮宗東光寺所蔵の明治中期の制作と推測できる版木には、邪教(邪宗門)に対峙する文言が彫り込まれている。同版木は両面彫りで他面は絵馬(『有志芳』8号裏表紙に掲載)である。方形の版木の大きさは、縦27.1僉横30.2僉厚さ2.3僉 
文言は、題名1行、本文7行、説教日・場所3行、主催者2行の13行です。 
写真3    
邪教への防御  東光寺所蔵の版木  刷り 松原

 東光寺28代目住職濱島文明氏は「西哲の語(かたる)に云う、邦国の為に職事を勤むるは是(こ)れ我が本分なり。此言(このこと)実に然り。故に今回、各宗同盟し和信会と号(な)ずけ、毎月演説説教を修(しゅ)し、以て国俗を挽回し、邪教蔓延の防御をなし、真正仏教の大理(だいり)を覆載(ふうさい)間の衆生に注入せんとす。伏して乞う護法の諸君随喜あらん事を」。と読み下しています。
また、意訳として「西洋の哲学者が言うには、自国の為に仕事に励む事は自分の役割であり当然のことである。だから、この度、それぞれの仏教各宗の僧が同盟し、それを和信会と名づけ、毎月、演説説教を行い、日本の風俗習慣を取り戻し、キリスト教が広まるのを防ぎ本当に正しい仏教の大いなる教えを天地の間にいる人々に教化しようとする。
仏法を守る諸君が大いなる喜びに満たされることを心より祈ります」。と解説しています。
更に「内容から見て、和信会都幾川組の事務局が、各会員寺院に通知したものと思われる。時期は明治22年大日本帝国憲法発布によりキリスト教の伝道が自由になった危機感から仏教各宗が同盟し、キリスト教の蔓延阻止を図ったのではないかと思います」。と明治中期制作の版木と推測できる説明でした。(東光寺の所在地 埼玉県比企郡ときがわ町日影821番地) 

4 邪宗門について

 多くは、時の権力者及び宗門間で邪宗(邪宗門)の用語が使われています。
鎌倉時代の中ごろ、日蓮が立正安国論を唱え、正法とする『法華経』に対し、他宗派を邪教としています。しかし、時の権力者執権北条時頼は、政治批判と受け止め、宗祖日蓮を伊豆に配流している。  
室町末期から日本へ流入したキリスト教に対して、江戸幕府の初代将軍徳川家康が国家統治の観点から警戒感を示すようになり、1612(慶長17)年の禁教令を皮切りに、キリシタン(隠れキリシタン)を邪教とし、徳川幕府の出す命令に対して、日蓮宗の非服従を貫く不受不施派や宗教統制に入らなかった宗教を幕府は「邪宗門」として厳しく取り締まった。先に述べた小澤家(ときがわ町)や高麗郷民俗資料館(日高市)の邪宗禁制の高札などもこうした状況下で出現したと考えられます。
 明治政府は五榜の掲示の第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ㇸ可申出」と記し、引き続きキリスト教および日蓮宗不受不施派などの信仰を禁止した。しかし、1871(明治4)年の寺請制度廃止、1873(明治6)年の 太政官布告「禁制高札の撤去」によりキリスト教の禁止は解除されている。更に、同22年の大日本帝国憲法(第28条)により、信教の自由(信じる自由、信じない自由)が認められ、形の上ではキリスト教は邪教の縛りからから解放されたことになります。
一方、明治政府は神道の国教化を目指し、神道と仏教の分離を求めている。この過程で修験系武藤家(武蔵国の藤原家・ときがわ町西平)の往古多武峯大権現には明治2年、復号願を出し「多武峯神社はそのなごりを留めている」(武藤重慶氏談)。
 ある宗教を信仰したり布教したりすることを禁ずる「禁教令」では江戸幕府が、キリスト教を「邪宗門」と呼んで、権力者として強制改宗の対象とした一方、(ときがわ町)東光寺の版木に見られるように、明治中期に説教・演説という方法ではありますが宗門間でも同じ用語を使って邪宗門に対峙していたことを取り上げました。比企地方における宗教史の一部分として本版木の貴重性を留めておきたいと思います。
茶房主作道明氏が命名されました“邪宗門”のいわれを改めてお伺いできますことを楽しみにしております。
本執筆にあたり、ときがわ町、日高市市役所、小澤眞明様、濱島文明ときがわ町東光寺住職様、武藤重慶多武峯神社神主様のご協力に感謝申し上げます。

*松原 征男  当会会員 埼玉県ときがわ町在住 研究家

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2017年07月01日

下北沢X物語(3310)―会報第132号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第132号    
           2017年7月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、江戸東京の地下道を歩いてみませんか  木村 康伸                                 
                                            
 当会の活動の一つである「都市物語を旅する会」は、盛夏の八月を除く毎月開催されている。季節によっては、寒風に吹きさらされたり、強い日差しに照らされながら旅をすることもある。それでも、私たちの文化探求の気持ちは、そんな寒風や日照りに負けたりはしない。とは言え、気候の厳しい時期は、どうしても旅の参加者が少なくなってしまうものである。
 一年前の七月も、そうであった。
 七月と言えば、梅雨が明けていなければムシムシとして雨が降る。梅雨末期の豪雨に見舞われることもある。また、梅雨が明けていたり、梅雨の晴れ間があれば、強い日差しが出て気温もかなり高くなる。いずれにしても、旅をしづらい季節だ。
 そういうときに、旅をしやすい場所はないものか。一年前の旅する会を終えたとき、参加者の間でそんな話になった。
 博物館見学はどうだろうという提案も出たが、この会で大事なことは、風景の移ろいである。博物館見学ではそれが叶わない。
 そこで考え出されたのが、地下道を歩いて旅をする、という方法である。都会の地下に張り巡らされた地下道なら、空調が完備している。また、雨や日差しにさらされることもない。七月に旅をするにはもってこいだ。
 そこで今年七月の「都市物語を旅する会」は、地下道を巡る旅を企画した。
 では、どこの地下道を旅するか。真っ先に想起されたのは東京駅周辺である。周辺の大手町・二重橋前・日比谷・銀座といった地下鉄の各駅との間で、地下道が縦横無尽に張り巡らされている。歩き甲斐のある地下道である。
 また東京駅周辺は、江戸時代からずっと、江戸・東京という大都市の中心であり続けている。それだけに、歴史や文化の濃厚な地域である。
 ただその分、見どころが多過ぎてしまう。
 そこで今回は、当会の拠点である世田谷との関連を念頭に巡ってみたいと考えている。
 そもそも江戸という地名は、入江の入口を意味する。平安末期、その江戸に最初に館を築いたのが秩父平氏の一族であった江戸氏である。江戸氏はここを拠点に水陸交通を支配し、後に「八ヵ国の大福長者」と呼ばれるまで力を蓄える。しかしその後江戸の地を去り、戦国時代には世田谷を治めた吉良氏の有力な家臣として活躍することとなる。次いで江戸時代には世田谷喜多見二万石の大名喜多見氏となる。つまり、この世田谷喜多見氏が江戸の祖とも言える。
 また江戸時代、世田谷のうち二十ヵ村は井伊家の彦根藩世田谷領となる。世田谷領の領民は江戸城桜田門外にあった彦根藩江戸上屋敷へ年貢を納入するとともに、人足として彦根藩に調達され、世田谷と江戸を頻繁に行き来することがあった。江戸は彦根藩との関わりで、多くの世田谷領民が足跡を残した場所でもあった。
 そんな江戸と世田谷の関連を想いながら、この地下道を巡る旅の案内をさせていただきたいと考えている。
 ところで先に、旅する会では風景の移ろいが大事だと書いたが、地下道を歩くだけでは風景の移ろいが感じにくいかもしれない。そこで当日は要所要所で地上に出て、江戸東京の風景を眺められるようにする予定である。
 涼味を求めて行く、そんな地下道を巡る旅に、おいでください。7月15日実施。

2、ゲリラ的な探訪会の薦め 

 日々、私は街歩きをしている。感づいていることは当地一帯の土地需要が高いことである。風情ある日本家屋が壊され、そこに数棟の家が建つ。また、ビルが壊されて新しいマンションが建つ。ごくごく普通のことだ。
 しかし、人間の記憶はあやふやだ、散歩中に更地に出会うことはよくある、が、そこに何があったのかは思い出せない。歴史はこうやって潰えていく。「昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ」というのは『方丈記』の一節だ、日々変転、すべてが今消滅しつつある。

 先だって三四人集まったときに、にわかに話が持ち上がって下北沢駅の地下道について古老に聞いてみようということになって実現した。かつては街の南北をつなぐ通路はこの公衆地下道一本だった、いわば文化の関門だった。しかし、この構造や歴史がつまびらかではない。それで古老に聞いた。が、それでもすべてが分かったわけではない。謎が多く残った。今では別の人がここをよく知っているとも聞いた。第二回地下道の話を聞く会をしようかとも。
 我らは毎月、街歩きを実施している。この場合は、多くの箇所を巡っていく。話題は網羅的だ、それで一つのことを聞いてみるというのもいいのではないか。地下道のことも一つだが、他にも多くありはしないか。
 かつて近隣には測器の会社が多くあった。今はほとんど無くなった。懸命にレンズ磨きをしていた人もいる。そういう人から話を聞くのもよい。
「レンズ磨きのこつは、なんといっても手触りだな、機械計測なんかは当てにならない。磨きに磨いて、手を当てると肌触りでわかる。おや、おかしいなと思って計測するとやはり0,001ミリ違っていた……」
 この間、誰かから聞いたがあの有名なメンマ工場の話、日本人でなく中国からきた人が作っていたらしい。どうやって作っていたのか、メンマ工場について聞く会。
 この間、山梨にみんなで旅行したときに突然、「紅梅キャラメル」の話が出た。これを買ってカードを集めると野球道具がもらえた。部員が懸命にくってくいまくって多くの券を集めたところ、その会社潰れたと、紅梅キャラメルをよく知っている人に話を聞く。
 鉄道交点には歴史文化の秘密が埋まっている、それらを一つずつ掘り起こしていくと、近代日本文化史の片鱗が見えてくる。
 一つことをよく知っている古老は数多くいるはずだ、いつだったか、代沢で「どうしてこの道は広いのか?」とたまたま聞いたところ、「おれはこの半世紀お前達が来るのを待っていた」といわんばかりに道の由来を話してくれた。
 ゲリラ的な、聞き書き会を提唱したい。さて、さては、南京玉すだれ?

3,第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会
北沢川文化遺産保存の会   第3回研究大会 余白小


研究会テーマ 世田谷代田の音楽学校の歴史を知る
開催日時 2017年8月5日(土)1時30分より
場所   北沢タウンホール12階 スカイサロン 
会費 500円 申し込み不要 先着順70名
主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会
協力 三土代会・代田自治会・代田北町会・世田谷ワイズメンズクラブ


昭和2年(1927)4月、小田急線が開通した。この年の暮れ、世田谷中原駅 (現世田谷代田駅) 北の大根畑だったところに二階建ての音楽学校が出現した。帝国音楽学校だ。開校したとたんピアノやバイオリンの楽器、そしてテノールやソプラノの歌声が響いてきた。大根畑に忽然と現れた近代に人々は文化的ショックを受けたに違いない。これが当地における芸術文化の始まりといえよう。
学校の名にある帝国とは、満州、樺太、朝鮮、台湾などを含めた旧領地を指し、実際にこれらの地域出身学生も数多くいた。戦争末期に廃校となるが、学校が一帯に与えた音楽文化には、大きなものがあると思われ戦争の前後を通じ、当地に音楽関係者が住んだり、歌劇団が創設されたりしたのもこの影響だろう。
講師の久保絵里麻氏は、当地の世田谷代田でもほとんど知られていないこの学校の史料を発掘し、これをテーマの一環とした研究で芸術学博士号を取得した、この学校の研究の第一人者だ。学校は世田谷代田の誇りといえる。ぜひおいでください。

第一部 講演「帝音」の歴史     13時30分〜15時30分
講師:久保 絵里麻 (芸術学博士)  
第二部 世田谷代田の音楽文化を語る  15時30分〜16時30分
   参加者による自由討議 司会:きむらけん
第三部 懇親会・納涼会(申込み必要)  17時30分〜21時20分
会費3.500円「帝国音楽学校弁当」飲物 付き
イベント プロマジシャン出演予定 作道 明氏 等
*恒例不用品オークション・一品おみやげ持参(強制ではない)
問合わせ先 米澤邦頼 090−3501−7278

◎なお、第三部 懇親会への参加を希望される方は弁当を発注する都合上
【8月1日必着】で会の連絡幹事 米澤 090-3501-7278宛 必ず連絡を。    
*懇親会への当日参加表明・8月1日以降の参加取り消しは出来ません。


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2017年06月30日

下北沢X物語(3309)−坂道論:境界結界魔界&行人坂−

DSCN0165(一)土が反り返ったところが坂だ、平坦な道で人は警戒しない、が、坂では気を抜かない、心身の安定性を失うからだ。それでつい登り切ると安心して手向けの神に手を合わせる、やはり坂は結節点、結界だ、すなわち「特殊なエネルギーを保持した神秘空間としての界」である。人間と坂の関係は斜度で決まってくる、斜度が強ければ強いほど人間の畏怖の念は増してくる。険しい坂を越えて彼岸に達する。近代は、これら坂道、峠道との闘いだった、険しい関門を越えることで古代を克服できた。

 明治初期には、至る所に魑魅魍魎が住んでいた。近代の機械がこれに難渋したことは忘れられている。以前、峠を調べ、「峠の鉄道物語〜天険鉄道伝説〜」(JTB)にまとめた。天険とは二大難関峠、箱根峠であり、碓氷峠である。機械近代はこの峠を克服する。が、一筋縄ではいかない、すみかを追われた狐狸が鉄道を襲ってきた。この狐狸との闘いであった。これら化け物を鎮めることによってようやく平穏を取り戻した。旧箱根第二号トンネルの上に祀られているのは「線守神社」である。wikiはこれを記事に載せているが「峠の鉄道物語」を参考文献としてあげている。

 難関は峠だけではない、坂もそうである。今ではこれらは名所として残っているに過ぎない。が、ついこの間までは、明瞭な境界であり、結界であった。国木田独歩は『武蔵野』を論じて、「東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ」と言う。そしてこう述べる。

しかしその市の尽つくる処、すなわち町外はかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂かの近傍、目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神あたりの町、新宿、白金……
 『武蔵野』 岩波文庫


東京という都市の辺境こそはまさに武蔵野であるという。坂は道玄坂、行人坂である。坂ベストテンというのはあるのだろうか。調べてみるとあった。一位は、「八幡坂 北海道函館市」だった。二位以下にこれは入っていない。が、近代の難関坂といえば必ず入ってくるの道玄坂、行人坂だろう。そして何といっても坂道ベストワンは「行人坂」だろう。

 魔界伝説行人坂だ、実際に『行人坂の魔物』という町田徹のノンフィクションもある。

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2017年06月28日

下北沢X物語(3308)−鉄道交点物語・映画文学:岩倉政治−

DSCN0148(一)文化探査を続けてもう十数年にもなる。歩く、聞く、調べる、多くの人から話を聞き、多くの資料も当たってきた。この経験は蓄積される。よくあるのは本筋から離れて全く意外な情報に行き着くことだ。岩倉政治もその一つだ。彼は研究対象として多くの人に関心をもたれている。それは彼の本が古書店で驚くほど高く取引されていることからわかる。彼の作品の中で「空気のなくなる日」は有名だ、ネットにも論文が載っている。「作品把握上の問題点−岩倉政治の『空気がなくなる日』」もその一つだ。「日本の戦後児童文学作品の中で『空気のなくなる日』を越える作品があるのか」という問題提起だ。

 この岩倉政治情報は、やはり筋違い情報によって得られた。プロレタリア歌人渡辺順三を調べていて知ったものだ。その岩倉政治は、当地北沢に昭和十三年から昭和二十年頃まで居住していた。興味深いのは奥さんが歯科医をしていて、彼は小説を書いていたことだ。

『烈風の中を』(渡辺順三著 東邦出版 昭和四十四年)には北沢在住時代のことを記録した順三宛ての手紙が紹介されている。

 私が検挙されたのは北沢一丁目在住時代(十三年)で、重症の心臓脚気で深夜払い下げになり、そのまま就職も外出も禁じられ、軟禁の中で生活に窮して小説を書き出した(もちろん原稿は、検事の検閲の上でした)のが小説家への始まりです。

 彼は左翼活動家だった。日頃から特高に目をつけられていた。この年は国家総動員法が施行され戦時体制が一気に強まった年だ、それで彼は検挙された。北沢一丁目は「大地堂」に近い。恐らくは二子道沿の家にいたのだろう。軟禁状態にあってどうにもならないから小説を書いたというのは面白い。小説なら金になったのだろう。手紙は続く。

 その第一作が「稲熱病」(いもち)で、係警部から何カ所か書き直しを命じられたりしながらやっと十四年二月の『知性』に発表されたのです。これが好評で、アト順調でした。

 係警部は左翼関係担当だ、検閲も担当していたことから学識のあるものだったろう。文章に朱を入れる。当然、つじつまが合わなくなる、「そこはこうすればいいだろう」などという示唆もあったのか。

 文学は基本なめらかでなくてはならぬ。人が理解することが大事だ。特高から横やりが入って書き直しをする、その障害を乗り越える、このことも作家として鍛錬、訓練ともなったのではないか。特高が小説家を育てたのかもしれぬ。

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2017年06月27日

下北沢X物語(3307)−第129回街歩き「三田用水跡を歩く」供

DSCN0155(一)三田用水は地形上の特質がある。当方、散歩途中、目黒区大岡山小学校脇の環七をまたぐ歩道橋から東をよく望む。すると多摩の横山ならぬ、目黒の横山が南手の品川方向へずっと続いているのが見える。三田用水はこの尾根にしがみつく形で流れている。国木田独歩によれば本流の玉川用水は音楽を奏でる、が、支流の三田用水はごぼごぼとも音を立てないで流れていくという。そういう点でいうと三田用水には音楽がない。ところがこれには絵がある。尾根筋の高みから眺望が得られるからだ。

 尾根筋を辿る三田用水は、目黒川左岸崖線の頂部を流れている。根本的な疑問は、左岸の崖はなぜ高いかという問題がある。これは荏原南部の河川すべてに言える。先の歩道橋も呑川左岸崖線の頂部にあたる。それゆえに眺めがよい。

 先だって東海道筋に大雨が降った。このときに「湿った空気が海沿いの南斜面に当たって大雨を降らせました」と予報官が言っていた。なるほどと思った。左岸が高い理由をこれから連想した。この場合雨ではなく火山灰だ、いわゆる関東ローム層は富士箱根火山帯の噴火によって作られたという。かつてはここは噴火を繰り返していた。上空高く火山灰が舞い上がる。するとこれがジェット気流によって東に運ばれて荏原に降ってくる。左岸土手にぶち当たってこれが段々に高くなったのかもしれない。その高みと街道とが交差した場所こそは物語の宝庫である。

「ここら辺り一帯からはどこからでも富士は見えたはずです、しかし通行していく道からはとてもよく見えたのですね」
DSCN0156

 きむらたかし先生の行人坂での説明だ、崖線と道との交差部は尾根が削られていて向こうがよく見通せたのだろう。ここには富士見茶屋があって、名峰富士を望む一等地だった。
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2017年06月25日

下北沢X物語(3306)−第129回街歩き「三田用水跡を歩く」−

DSCN0153(一)都市を巡る小さな旅を続けている、24日は恵比寿を起点に「三田用水跡」を歩いた。この行事は六月の定番コースだ、これまで何回歩いたか定かではない、七回も八回も歩いたような気がする。来年以降もとことん続けることにしている。命のある限り……。

 この行事も間もなくで130回を超える。八月だけは行わない、それで年11回行っている。すると十二年続けてきたことになる。その中で三田用水の痕跡歩きが長く続いた。その理由、.ュレーター、きむらたかし先生の熱意。∧發きれないほどのコースの多彩性。少なからず興味を持つ人がいる。この三つに尽きる。

 この街歩きは、旅である。三木清は「どのやうな旅も、遠さを感じさせるものである。この遠さは何キロと計られるやうな距離に關係してゐない。」(『人生論ノート』)という。距離的なものでいうとほんの数キロだ。しかし私達は通っていく道で「はるけさ」や「とおさ」の感情を味わった。

 三田用水、その痕跡はほとんど残っていない。しかし、ところどころに礎石が残っていて水路があったことを教えてくれる。やはりなんといっても面白いのはわずかな痕跡から水路を想像することだ。「水路をとうとう流れていく水」これがビール工場に流れていったり、海軍の大水槽を満たしたりした。そう思うと遙か昔が想像される。ラインに運ばれていくビールビンに洗浄水がゴボゴボと注がれる。また、戦艦大和や武蔵の模型が、水槽で波を蹴立てていく様も思われる。

「学術調査なんですか?」
 大日本麦酒への水路を調べているときに近所のおばさんが通りかかった。
「そこのガーデンプレイスにビール用の水を送っていた水路がここにあったんですよ。その跡を調べているんですよ」
「ええ、そんなことを!」
「ほら、この山の手線を越えたところに恵比寿長者丸線があったでしょう」
「そうそう、あったわね」
「電車の留置線に古い電車が置いてあって、そこに引き揚げてきた人たちが住み込んでいましたね?」
 電車の窓には洗濯物、オープンデッキの運転台には炊事場、そんなことが思い出される。
「ああ、私は見ていないのですけど、うちの主人がそんなこと言っていましたね」
昔日のことを土地の人から聞き出すのも楽しい。

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2017年06月24日

下北沢X物語(3305)−X文学物語の極み:岩倉政治−

DSCN0145(一)下北沢南口にあった「大地堂」は伝説の古書店だ。井上光晴がこう言っている。「一九四四年の秋、駅に近い古書店『大地堂』に、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』(改造文庫版)がひっそりとおかれていたなどといっても、信用するだろうか。あとで知ったのだが、古書店の主人は『プロレタリア歌人』の渡辺順三氏であった。」(「東京セレクション」花の巻住まいの図書館出版局)井上光晴がここを訪ねた少し前、一九四四年夏の夜、店の前を大勢の子供たちが通っていった。代沢国民学校の疎開学童である。「暗い町をのろのろ歩いて行く姿はあわれであった」と書き、そのときの思いを歌にして詠んでいる。ちょうどこの学童の行く末を当方は追っていた。この記録は大いに役立った。去りゆく哀れな学童への思いが彼の自伝の中に描かれていた。これが『鉛筆部隊と特攻隊』の話に結びついていく。X街には密かな営みが密かに記録される。

 下北沢における渡辺順三は興味深い。それで調べたことがある。亡くなった富安好恵さんはこの渡辺順三のことをよく知っていた。北沢三丁目の家を教えてくれたのも彼女である。北沢の古老の三十尾生彦さんもこの歌人とは旧知の間柄だったという。

 渡辺順三は左翼運動に関わっていた。昭和十六年十二月九日、すなわち開戦の翌日特高に検挙され世田谷署に留置されている。特高に追われる身、古書店主人というのも一つの便法だったのだろうか。あまり目立たずに住んでいた。しかし文芸人として彼を知る人は多い。当地における人脈もあった。彼はそのことを自著『烈風の中で』書き記している。岩倉政治はその一人である。戦中において彼は北沢で執筆活動を続けていたようだ。

 岩倉政治は、富山県出身の小説家だ。富山市立図書館には「岩倉政治文庫」があって、これを図書館がホームページで紹介している。ここでプロフィールを紹介している。

 明治36年(1903)富山県東砺波郡高瀬村(現南砺市高瀬)に生まれ、大谷大学哲学科で、鈴木大拙に師事。
昭和14年(1939)「稲熱病」により芥川賞候補となる。「村長日記」により第3回農民文学有馬賞を受賞。
戦後は富山市に住み、「田螺のうた」「無告の記」などの作品を著す。
昭和59年(1984)北日本新聞文化賞を受賞。平成12年(2000)富山市にて永眠。
『日本宗教史講話』『親鸞』『冬を籠る村』『空気がなくなる日』『ニセアカシアの丘で』『草むらの語り』『大伴家持』『ハトムギの夏』など多数の著作がある。


渡辺順三と岩倉政治とは、北沢で行き来をして親しい間柄だった。

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2017年06月22日

下北沢X物語(3304)−疎開引き揚げ帰着の考察−

CCI20170622_0001 (2)(一)代沢校の疎開学童、下北沢駅からの出発は昭和十九年八月十二日十時過ぎだった。帰りは何時だったのか。この小さな歴史的事実というのは自分の物語風景としては重要な部分だ、「提灯に先導されて学童たちが南口の坂を上って駅に向かっていきますね。そしていよいよ電車が出るというときに見送りの親たちが火の出るような声で我が子の名前を叫びますね。あの場面には涙しました」、そんな感想を聞いた。

 旅立ちの情景があれば、帰着風景もある、それで疎開物語も完結する。いつ帰ったのか、
「去年の十一月七日に東京へ帰りました」と疎開から帰った立川裕子さんが友人の木村みどりさんに手紙を出している。この手紙が残っているのは宛先不明で戻ってきたからだ。

 その木村みどりさんは、満州からの引き上げ途中だった、難行苦行、飢えの苦しみ、ソ連兵から暴行の恐怖、盗賊集団から襲われる危険、そんな中を必死に日本に帰ろうとしていた。この木村みどりさんは、青森県に住んでいる。偶然に『鉛筆部隊と特攻隊』を読んだ。すると驚いたことに自分宛の手紙がここに載っていた。このことから彼女は出版社に連絡を取り、私と結びついた。彼女の苦難の脱出行は『芙蓉の花―北朝鮮引揚げの記録』(天内みどり著 近代文芸社)に詳しく書き記されていた。

 この話辿っていくと陸軍獣医学校の話に繋がる。彼女のお父さんがここに勤めていたことから代沢校区に住んでいた。父は獣医師として満州にいたことから当地へ渡った。悲惨な逃避行である、彼女は常に青酸カリを携え事があれば飲む、十二歳の少女は覚悟を決めていた。

 代沢校の疎開学童は、昭和二十年十一月七日に東京に引き上げてきた。これについては大いなる勘違いをしていた。発駅の広丘駅を六日夜に発って翌日七日朝に着いたと思っていた。しかし、これは昼間の列車だということが分かった。

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2017年06月21日

下北沢X物語(3303)−北沢4の353発の終戦時の手紙供檗

CCI20170613_0001(一)北沢四丁目三五三に住んでいた立川裕子さんの母親が終戦直後に、娘が疎開している広丘村郷原の聖が丘学寮に手紙を出している。当時の街の様子、暮らし向きなどがこの文面から読み取れる。戦争が終わって市民が自由を得た喜びが見える。戦争がいかに人々の暮らしを束縛していたかが分かる。

畠もみなが大層熱心にやりますさうで楽しみなことでせうね。真黒になって丈夫そうな様子が目に浮かびますよ。これからはいよいよ増産にもはげまなければなりません。家に帰へつても一生懸命やってくださいね。
 とうとう戦争は終りました。誠に残念でございますがやむを得ません。これからは新日本の再建に進まなければなりません。そうして立派な国民にならねばなりませんね。
 お母さんはこの頃は毎日防空壕の中にしまっておいたお荷物を出して虫干しやら掃除やらで一日中かかっています。


 学寮長の柳内先生は、赤紙が来て八月十四日甲府六十三部隊入隊した。が、翌日が終戦だ、即刻召集解除となった、広丘に戻らずに北沢に戻った。それで学童の保護者を集めて鳴瀬宅で会を開いた。
「学童たちは日々農作業にかり出されていますが、みんな元気でもう土地の子と変わりがないくらいに真っ黒になってしましましたよ」
「あら、まっくろ!」
 と応えて笑う人がいた。戦争が終わって安堵し、そんな受け答えができるようになった。そんな中でこれからどう生きていくのか、それは、「新日本の再建」だ、一人の主婦がこう述べているが、当時の人々が当面した課題だった。

 しかし、日常生活で手足を伸ばせる自由が得られた。戦争中は何時空襲を受けるか分からない、外着をまとって寝ていた。しかし、もう空襲はない。

 防空壕が用済みになったことは大きい。空襲の度に逃げ込んだり、荷物を運んだり、大きな苦労だった。そのことが解放されたことがどれほど大きかったことだろう。

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2017年06月19日

下北沢X物語(3302)−北沢4の353発の終戦時の手紙− 

DSCN0135(一)時代はめくられて駆けていく。手元に北沢4の353から出された手紙を数通持っている。当地に住んでいた立川さん夫妻がここから疎開している娘に出した手紙だ。この旧番地を手がかりに土曜日歩いてみた。そのときにこの番地を今も掲げている家があった。この家のご夫妻に声を掛けてみたところ、立川さんの母とその娘さんのことはよく覚えていた。この北沢4の353から、昭和二十年八月二十一日に出された手紙がある。終戦六日後のことだ。娘が疎開している広丘村 代沢聖丘学寮に出したものだ。

 裕子ちゃん

八月六日付けと十五日に出したお手紙が今とどきました。お母さんがしばらく手紙を書かなかったので病気をしてゐるかと思って心配だったとのこと本当にごめんなさい。
 毎日裕子ちゃんのことを思ったり話したりしてゐるのですが隣組長になつてからは隣組の用事やらそれに先頃までは毎日の空襲で気が落ち着かなかったり、多忙のためつい手紙が書けなかったのです。お父さんもお母さんも元気ですから安心してください。それに鳴瀬さんのお宅で柳内先生におめにかかりそちらの様子をお聞きして本当に嬉しく思いました。


 広丘村にいる娘は戦争が終わったことで不安になり母親に手紙を出したものだろう。それに対する母の返事だ。何でもない手紙だが、読み解くと「へぇ、そうだったのか」と分かることがある。
この手紙に出てくる柳内先生は、広丘村代沢学寮の監督官、柳内達雄先生のことである。鉛筆部隊を引率している長である。ここから分かることは、8月20日に先生は下北沢にいたということである。どうして当地にいたのか、「『学童集団疎開』濱舘菊雄 太平出版社」を読むと分かる。
 
 八月にはいって、ここにわれわれにとって重大な問題が起こった。それは我々の同僚で郷福寺学寮長であるY先生に、召集令状がきたことだった。

Y先生は、柳内先生のことだ。
 このことについては、北沢4ノ353に裕子さんが出した手紙によっても分かる。七月三十一日づけの手紙にこうかいてある。

 今日は晴天でも、今朝私達が掃除をしてゐると突然柳井先生に召集令状が来ました。私達はびっくりしました。あまり突然なのでいろいろ気持ちが混ざり合って何んていっていいかわかりません。広丘校の先生もお二人この間召集令状が来て出発されました。柳井先生は八月十四日甲府六十三部隊に入られるそうです。

 裕子さんたちが寺の境内を掃除していると郵便局員が入ってきた。「柳井さん、召集令状です」と呼ぶと先生が出てきた、その封筒には赤紙が入っていた。

この出征に「一四日にはわたくしと古川学寮のA先生が、甲府まで同道」したという。私というのは濱舘菊雄先生だ。
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2017年06月18日

下北沢X物語(3301)−宮脇俊三と北沢4の354掘

DSCN0138(一)昨日、地域風景資産の「風景づくり交流会」が北沢タウンホールで行われた。七版地図を持参し参加者に配布した。「もうこれで六万部」だと紹介したところ、感嘆する声が上がった。そして、終わった後、駅前市場が閉じられるいうことイベントが行われていた。下北沢北口駅前には大勢の街歩きスタイル人がいた。何と驚いたことにみな手に手に「下北沢文士町文化地図」を持っている、「どうして皆さん、これを持っているのですか」と感動して声を掛けた。「あなたが、きむらけんさん」、「はい」、「この方が地図を作られた方です」というと「ああらびっくり」とひとしきりざわめいた。予期せずに自分たちが作った地図が活用されているのは嬉しいことだ。

 このところ北沢四ノ三五三、三五四、ここを話題にしている。改めて地形を検証することにして訪れた。建物が大分建て込んでいて景色を塞いでいる。戦争時代、鉄道はダイヤ通りに動かすことができなかった。それでも現業職員は懸命に列車を動かそうとした。これへの感動が彼の文学の核である。

 昭和二十年三月十日、東京大空襲では大きな被害を受けた。夕べは上空を通り過ぎるB29の大群を見た。鉄道は各所で分断されたのたのではないかとの心配がある。ところがそれは案に相違した。

 私は驚いた。小田急や井の頭線が走っていることは私の家から見えるので分かっていたが、山手線や上野からの汽車が動いていることが不思議だった。
宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店


晴光園後に行ってみた。当時の区画はそのまま残っていた。茶沢通りに並行して暗渠が走っている。森厳寺川だ、その左岸の段丘に家はある。が、今はすっかり高いビルに囲まれて周りの景色が見えない。当時、宮脇俊三は二階から外を眺め、井の頭線も小田急線も走っていることを確認した。鉄道は空襲にめげることなく走っている。

 今は建物が高層化したことで両線は見えない。十字架さえ見えなくなった。
 世田谷カトリック教会は戦後に立った、屋根の十字架は小田急線からも井の頭線からも見えた。
「電車の窓から十字架を見てやってきた人っていますよね」
「ああ、いたいた」と関根神父は言っていた、ところが今は十字架も見えなくなってしまった。
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2017年06月16日

下北沢X物語(3300)−宮脇俊三と北沢4の354供

P1050265(一)『時刻表昭和史』には感動の核がある。宮脇俊三にとっては昭和は戦争の時代だった、家々が焼かれ、人々も多くの被害を蒙った、親や子を亡くした人も何人もいた。忘れがたい時代だった、そんな困難な中で鉄道はめげずに動いていたというのが彼の大きな感動だ。三月十日、東京大空襲のとき彼は北沢の家にいた。

 頭上にはB29の群れが、これまでにない低空で、つぎつぎに現れ、探照灯を浴びながら東へゆっくりと旋回していた。低空を飛ぶ、B29は、冬空を高高度で飛んでいた銀一点のそれとはちがって、怪鳥のように大きかった。しかも後から後から絶え間なく、轟々とやって来た。ちょっと途切れてホッとすると、すぐまた新しいB29が続々と現れた。それはもはや「お客さん」ではなかった。やっぱり東京を焼く気か、と私は思った。
宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店


 まず、事実として言えることは上空がB29の通り道だったことだ。いわゆる中央線コースだ。富士をめがけて北上し、回り込んで中央線沿いに東へ向かう。その飛行ルートに当たっていたのが世田谷だ。
 当初は、高高度で飛んでいたが地上高射砲隊の貧弱さを知って、この日は始めて超低空で飛んできた。北沢の丘からその機影がはっきりと見えた「怪鳥のように大きかった」というのは実感だ。その高度は、「1600–2200メートル程度の超低高度」であったという。

 「冬空を高高度で飛んでいた銀一点」というのはこれは昭和十九年十一月一日のことだ。宮脇俊三もこれを見ていた。北沢の家で見ていたのだろうか。彼の家の隣に住む立川繁さんが銀一点のことを書いている。目撃した日の夜に疎開先の子供にハガキで知らせている。

 今日東京には敵の空襲があったがたった一機でそれに爆弾も落とさなかった。とても高いところを飛んで居た。大凡七、八千メートルも高い所で、富士山の二倍半もある高さだったが飛行機が大きいのでよく見えた。父も羽田の上を飛ぶのを見た。発動機が四つあって飛行機雲が四本出来た。非常によく晴れてゐたよ。ポスターは一生懸命に心配しているがむつかしいよ。

 東京中を震撼させたB29の発来襲だ、いわゆる偵察機だ、精密なカメラを積載し東京をくまなく撮影し、これが東京を二次に亘って空襲するときの基本情報となった。


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2017年06月15日

下北沢X物語(3299)−宮脇俊三と北沢4の354−

b55f3a48言語の基本は繋がりだ、が、今これが崩壊しつつある……私たちの伝統的な言葉観というものがある。歌や言葉が人々の幸福をもたらすという考えだ、まず、力を入れることなく世界を動かし、次に、人の目に見えない鬼神も感動させ、そして、男女の仲をやわらげ、さらに猛々しい武士の心さえも動かす、これは歌であり、言葉である。今から千百年も前に成立した『古今和歌集』は、言葉への賛歌を高らかに述べている。が、現今の政治や社会では、こういう言語観はまったくない。特に政治の世界で跋扈しているのは言葉が人々の不幸をもたらすという、逆行現象が起きていることだ。政府の責任者は後ろに狸の尻尾がまるまる見えているのに「私が尻尾を出して居るって?あんた、気のせいですよ」と煙に巻く、この国家では言葉なるものが崩壊している。言語教育というのは教育の根幹だ、「青年よ大志を抱け、これからの世界は嘘こそ命だ、嘘に命を張って生きていくのだ」と言っているようなものだ。共謀罪は言葉を一層に危うくする、これには反対だ。

(一)鉄道紀行作家、宮脇俊三は北沢四の三五四に住んだ。感受性の豊かな青年期にここで過ごしている。そのことが彼の鉄道観に何らかの影響を残しているのか、文士町は鉄道の街であるゆえに深い興味が持たれる。彼が著したもので誉れ高いのは「時刻表昭和史」である、時刻表を軸に昭和史を概観しているところは素晴らしい。この中に北沢の家でのことが記されている。「北沢の家鉄道昭和史」をちらりと覗いてみる。

 まず事実として、北沢四の三五四に何時から住んだのか。「自筆年譜」(『宮脇俊三鉄道紀行全集6)にはこうある。

昭和十年(一九三五)六月 父は世田谷区北沢に新居を建てる。私は帝都電鉄(現在の井の頭線)で通学。

 この地がどのようにして選ばれたかはわからない。しかし、二年前の昭和八年に帝都電鉄が開通している。これによって利便性が増した。都心に出るのは容易になった。これに伴って一帯に新築ブームが起こった。この頃の商店街のあちこちに「ポンプ屋」というのがあった。井戸掘り屋、井戸を掘ってそしてポンプを取り付ける。水は井戸水でまかなっていた。地番三五四は森厳寺左岸尾根筋から水が流れてくるところである。
「いい水が出るところですよ」
 これが決め手となったかもしれない。

 二・二六事件(昭和十一年)の朝、小学三年生の私はいつものように帝都電鉄(現在の京王帝都井の頭線)の池之上(現在は池ノ上)から渋谷行きの電車に乗った。
 その前年の六月に私の家は渋谷から池之上に引っ越していて、帝都電鉄と市電とを乗り継いで青山五丁目(現在の青山三丁目)まで通うようになっていた。
宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店


 往事、は井の頭線とは言わずに帝都電鉄と言った、近隣の古老はいまでも「帝都線」という。そのように言う人は古くからこの沿線に住んでいる人だ、井の頭線よりも、こちらのほうが重みがある。

 宮脇俊三は、青山師範学校の附属小に通っていた。小三の子には帝都線と都電とを乗り継いで学校に行くことはきっと面白かったろうと思う、いわゆる鉄ちゃんである。

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2017年06月13日

下北沢X物語(3298)−記録&空襲:ふりかけ街論−

CCI20170613(一)文化は筋違い情報から発掘される、すなわち情報がイレギュラー・バウンドして意図していないことが発見される。もしかしたら「ふりかけが歴史の小天使」なのかもしれない。街の断面を解く鍵か?
 
 戦争中の昭和二十年六月七日づけで北沢四ノ三五三から疎開先の寺に送られた手紙があった。父親の立川繁さんが娘の裕子さんに出したものだ。その末尾に、「高島さんのお母さんにことづけてふりかけを八十個送つた。では元気でね」とあった。戦時中なのによくもたくさん手に入ったものだ、小包で簡単に送れたのかなと疑問に思っていた。そんなところに今朝、鉛筆部隊の田中幸子さんから連絡があった。旧姓は高島である。その彼女と電話で話して、七十二年ぶりに「ふりかけ」の顛末が分かった。

「古い手紙を見ていたら田中さんのお母さんにことづけて疎開先のお寺にふりかけ八十個も送ったと書いてあるんですよ。それがちゃんと届いていているんですよ

 高島さんのお母様が持ってゐらっしゃったふりかけは今日のお昼のおべんたうにかかつてゐました。それからこの間から朝や昼のおべんたうにかかつてゐたりしてしました。とてもおいしいです。 昭和二十年七月二十三日の消印のある広丘村郷福寺から出された手紙だ。北沢四丁目三五三に住む父親の立川繁さんに出されたものだ。

「受け取った方の連絡では、早速に昼の弁当とか朝ご飯にかかっていたそうなんですよ。今みたいに小袋に分けたものではなくて大きなものなんですね」と私。
「そういえば郷福寺に、下北沢から母が慰問にきたことがあるんですよ。そのときに『ふりかけ八十個』持って来ていたんですか?」
 歴史真実の解明だ。
「うん、みんなの分ですから相当ありますね、持っていくのに大変だったと思いますよ」
「あのとき帰りに旅行証明書持っていなかったもので甲府で下ろされてしまったのです。親戚が甲府の憲兵隊に勤めていて、その人に頼んでようやっと東京に帰れたと言っていましたね」
「立川さんところと高島さんところは家は近いのですよね」
「そうそうあちらはお屋敷でこちらは下町です」
 立川家は北沢四ノ三五三、宮脇家は、三五四だ。地番は並びで丘上に当たる。前者は羽田空港支所長宅で後者は衆議院議員宅である。丘上ステータスである。カトリック世田谷教会の並びである。ちょうどこの教会から旧道二子道に沿った商店街が眺められる。ここの神父さんと話していたときに。
「おめかけさんなどがあの通りに住んでいましたね……」と。
 それはちょうど高島さんのあたりになる。
 ここのお上さんである高島さん、慰問に行くにあたって学童たちへの慰問品を託された。大荷物だったがそれを持参運んだ。下町的な世話好きがこの行為に出ている。

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2017年06月12日

下北沢X物語(3297)−記録:山手空襲による北沢の被害−

CCI20170612(一)別個に話題にしていたことが後で分かってみると実は隣同士だった。資料を整理していて今知ったことだ。鉛筆部隊の立川裕子さんのことはここで何度も話題にしたか分からない。また、紀行作家宮脇俊三の下北沢時代のことも多く取り上げてきた。何のことはない、前者は「北沢四ノ三五三」で後者は「北沢四ノ三五四」である。今、この辺りにある建物で目印になるのは頌栄教会である、森厳寺川左岸段丘の上、ここは戦災では燃えなかった。

 まだ覚えている人も多いが、池ノ上に「晴光園」という旅館があった。下北沢駅ホームにもこの看板があった。この旅館について紀行作家の宮脇順三がエッセイを記している。

  井の頭線で渋谷から三つ目の池ノ上で下車し、線路の北側を西へ三分ほど歩くと、下北沢の繁華街を見下ろす斜面に出る。
 そこに樹木の鬱蒼と茂った二千平米の一角があり、「旅館・晴光園」の表札がかかっている。門内の砂利は右へと曲っているので玄関は見えない。ひっそりと静まりかえっているし、入りにくい旅館だ。
 茂みのなかに避雷針を立てた二階建ての古びた西洋館と、それにつづく日本建築の長い瓦屋根がわずかに見える。一見して戦前に建てられたものとわかる邸宅で、建坪は五百三十平米もあるが、旅館のつくりではない。
 この邸が建ったのは昭和十年六月、売りに出たのが敗戦直後の二十年十月、買い主が旅館を開業したのは同年暮れであった‥‥
 宮脇俊三 「池ノ上」。(「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 1988年刊)


 その家は宮脇長吉の家だった、彼が宮脇俊三の父だ、衆議院議員である。陸軍軍人から政治家になった人だ。軍人を辞めた理由が面白い。最後の階級は航空兵大佐であったが、「気球が誤って宮城の上を飛んでしまった責任を取らされてのものだ」という。

 昭和二十年になって米軍のB29爆撃機による攻撃は執拗だった。三月十日の東京大空襲をはじめとして都内各所がやられた。ことときのことを宮脇俊三はこう述べている。

 私はB29の来襲を待ち望んでいる自分に気がついていた。異常な時代と状況に慣らされて意識が狂ってきていたのだろうが、当時の東京にいて、「まだ家を焼かれないでいる」人たちの多くが、そうだったのではないかと私は思う。東京の大半が焼けたのに、自分の家が焼けずに温存されているのが、どうにもうしろめたいのである。
 宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店


 時代時代に特別な空気が醸成される。戦時においてはなおさらだ。人の家はやられて皆苦労しているのに自分の家は焼けなくてもいいのか。早く焼けてほしいというのはやはり異常だ。

 今般、共謀罪なるものが審議されている。さっぱりよく分からない法律だ。犯罪を計画した段階で罪に問われる。何がどのように取り締まれるのか分からない。場合によっては人に密告されるかもしれない。

 実は、私は毎日異常な行動をしている。近隣の遊歩道や公園でヤブガラシ見つけると引っこ抜いている。それで呑川上流の遊歩道はこれが一本もない。誰かが監視していて自身の行動は見張られているのかもしれない。時々妄想する、誰かに「やぶがらしを引き抜かないか?」と誘ったら、何かの嫌疑が掛けられて逮捕されるかもしれない。

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2017年06月10日

下北沢X物語(3296)−記録:一等無武装国を作り上げませう−

P1030364(一)人間は意志的に欲望する動物だ、所有欲、一つ持ったら二つ目、三つ目を持ちたくなる。武器においてはなおさらだ。多ければ多いほど他者を威嚇できる。そしてやっかいなことに持てば使いたくなる、その場合、人々の恐怖を煽る、「他国が侵略してきているぞ」と、すると理性は働かなくなる、「敵をやれ」、「ぶっぱなせ」、「殺せ」となっていく自然の理だ。力は力を呼ぶ、ところが、一旦戦火を交えれば、途中でやめられない。メンツがあって武器を鞘に収められない。その間に、殺し殺されるということが続く。すると互いに憎悪が深まっいき、対立は収まらなくなる。そうしているうちにだんだんと正気を失う、人間を武器にした特攻を命ずる、さらには本土決戦を唱え、「竹槍で立ち向かえ」、だめなら「上陸してきた敵の金玉を蹴り上げよ」となる。それが戦争の歴史だった。

 ここで一通の手紙を紹介しよう。
封筒の表書きは「広丘村郷福寺 鹿子木幹雄様」とある。お寺は、世田谷の代沢国民学校の疎開先だ、鹿子木幹雄さんは疎開学童だ、後に広島修道大の先生になられたが物故されている。この手紙のことは奥さんから教えられて知ったものだ。

 封書には投函された日が記されている。昭和二十年十月十七日である。差出人は「東京都世田谷区下代田町二二一 渡部徹」である。推測するに先に疎開から引き上げた、鹿子木君の先輩であるように思われる。
 
 終戦から二ヶ月経って、書かれている。敗戦と同時に国が大きく変わった、また、街もどんどん変化している、その様子がつぶさに書かれている。

長い間、ご無沙汰致しました。
 八月十五日以来も皆、前と同じように明るく楽しい生活をして居る事と思ひます。君達も愈、復員兒童として歸京される日も迫り、あの楽しい疎開生活をはなれて、又狭い代澤の校庭で遊ぶ事も出来るでしょう。
 しかし僕達も君達もそれが嬉しい事ではありません。疎開が何年續いても勝利の日が来さえすればその時こそ本當の嬉しい遊びでせう。
 十五日以来日本は第四等國と言ふ一つの谷底へ落ち入りました。日本には武器も領土も何もなく唯目の前には多くの苦労があるだけです。


 戦争が終わり、戦地に出ていた兵士たちが数多く復員してきている。「復員兵士」というのもよく言われた用語だ、これに掛けて、「復員兒童」と呼んだのだろう。銃後にあって労働を惜しまず、飛行場への勤労奉仕ににも、また数々の農作業にも従事した、小さな兵隊たちだ。
 やはり負けたことは悔しい。敗戦はどうにもならない、が、何とか挽回できないかという思いは強い。「勝利の日まで」が待たれる。

 昭和二十年十一月、山崎国民学校は疎開先の長野から引き上げてきた。着いた駅は、小田急線梅ヶ丘駅だ。広場には大勢の父母が迎えにきていた。そのときに歌われたのが「勝利の日まで」だ。
「日本が負けたのになぜにあのときに『勝利の日までを』を歌ったのだろう」
 疎開学童の語り草だった。引率教員の思いを代弁したのかもしれない。

 しかし、現実には日本は戦争に負けた、ついこの間まで一等国だったのが四等国となってしまった。戦艦も戦闘機もすっかり失い、武器まで没収された。

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2017年06月08日

下北沢X物語(3295)−文士町文学論:疎開出立と帰着を詠んだ詩人二人供

IMG(一)清水博子は街を「ひしゃげた座標軸」(『街の座標』)と形容した。小田急線と井の頭線が交差する形状をシンボル化したものだ。記号化されたゆがんだXを想起すると「頭蓋骨を締めつけてくる」そうだ。興味深い症状だ。明大前で井の頭線と京王線もやはり交差しているが、それは十字形で美しい、これを思い浮かべても苦しくなることはない、ところが、いびつなXは思い浮かべるだけで頭痛がしてくる。素晴らしい街論である、そうゆがみやたわみに数多く秘密が埋まっている、ついこの間、仲間からメールをもらった。

今回の同窓会だよりに書いたのですが、私は担任されたことないのですが、旧姓大西先生と言う方が昨年亡くなられました。そのことを知らせてくれた同窓生が渡辺(大西)先生の父親は特攻隊生みの親の大西瀧治郎だと教えてくれました。3期下の彼は先生の家に遊びに行った時大きなお仏壇があったと話してくれました。いろいろな話がうまっています。

発信者は及川園子さん、北沢小の出身者だ。これによると北小には大西先生という人が勤めておられた。その方が亡くなられたらしい。父親は大西瀧次郎だという。先生の家に遊びに行ったときにびっくりするほど大きい仏壇があったという。大西瀧次郎海軍中将は、「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」言ったという。特攻の生みの親と言われる。その彼は、昭和二十年八月十六日、終戦の翌日「渋谷南平台町の官舎にて遺書を残し割腹自決した」、その彼の住まいが北沢小学区内にあった。どこだろう?

 特攻因縁は他にもあった。昭和十九年十月二十日、マニラの第一航空艦隊長官に着任した大西瀧治郎によって最初の神風特別攻撃隊に訓示と命名式が行われた。それは「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」である。この敷島隊の隊長が関行男である。
「特攻第一号の関行男は、この一番街の裏手の野屋敷に家があった、有名な話だよ」
 秋元金物店の主人にだいぶ前に聞いたがその家がどこにあったか分からない。

 戦争陰影は、この辺りにこっそりと存在している。硫黄島指令長官だった栗林忠道中将はやはり野屋敷に住んでいた。またすぐ近くの長屋では東条英機夫人がひっそりと亡くなったと聞いている。

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2017年06月07日

下北沢X物語(3294)−文士町文学論:疎開出立と帰着を詠んだ詩人二人−

P1030377(一)ムラ的集まりではなく、マチ的な文士集団が存在した。前者は文士村、後者は文士町だ。前者の場合は中心となる人がいてその人の下に参集する。後者の場合は人ではなく鉄道である。鉄道交差の利便性から知らぬ間に文士が集まってきている。気づいてみると当人同士は無関係なのに同じ素材を違う角度が詠んでいる。文士町を証明する好例だ。それは歌人であり、俳人だ。いわゆる詩歌である。この根本は「さすらい」だ、余所から流れてきてここに着いた。常に私はいう、鉄道の交差部は四方向からの出会いと、四方向への別れがあると。文士町文学論の根幹でもある。

文士町文学の教祖がいる、清水博子だ、文士町のシンボル的な鉄道交差を彼女は「ひしゃげた座標軸」と形容する、文学とは混沌だ、この軸を起点に文学が密かに営まれている。

 自身もさすらい人だ、長年さまよい歩いてきた。その中で学童疎開に行き会って、これを追ってきた。この疎開物語はどこと結びつくかは分からない。思いがけないところに結ついて新たなことを知る。

 疎開学童と出会った誠第三十一飛行隊、武揚隊のことを調べている。昨日意外なことを知った。どうやらこの隊、出撃するときに機体に描かれていた日の丸を塗りつぶしたらしい。人間はイメージを構築して生きる動物だ、先入観がある。彼らの最期は散華だ、ところが武闘精神をシンボル化した日の丸を消して行ったとすれば刷り込まれた画像が壊れてしまう。しかし、無国籍機に衣替えして行かねばならなかったとは哀れだ。

 代沢国民学校、ここの疎開の出発は昭和十九年八月十二日だ。そして帰ってきたのは昭和二十年十一月七日だ。出発時は偶然、歌人の渡部順三が見かけてこれを歌に詠んだ、帰着時はこの様を俳人加藤楸邨が詠んでいる。文士町の文学の一端だ。

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2017年06月05日

下北沢X物語(3293)−記録:代沢疎開先広丘小六年生の証言−

017 人の記憶は当てにならない、ささいなことでも覚えのためにその時々の記録をとっておくことは必要だ。故松林宗恵監督は「記録は大事だどんなことでも取っておきなさい」とよく言われた。生前下北沢の映画痕跡を案内してくださった。そのときに配られたレジメに「下北沢駅前のマコト」とあった。我らはこの「マコト」は「マコト」はあったのか、探しまくったが見つからない、しかし、「あった!」その「マコト」、まっことほんとうだった。戦後映画史の一ページを開いた喫茶店であったのだ。

 つい最近、市民の証言を聞き取る機会があったのでここに記録する。

(一)
「ああ、私は勤労動員で一番印象に残っているのは桑の皮剥作業ですね。何日行ったか分からないのですが、よく行かされました。まず近所の養蚕農家に行って桑の枝を刈り取った束をもらいに行きます。農家によっては集積場所に持ってきてくれる家もありました。皮を剥く作業です、木製のハシゴを横にして立てます。ハシゴの桟の部分を使って皮を剥ぎます。桑の枝は水に浸けてあって柔らかくなっています。桑の表皮の端部を少し剥いてから桟に引っかけて引っ張ると面白いほどに皮が剥けました……代沢小の学童は皮剥を競ってやっていました。剥いだ皮は業者の人が集めに来ていました。『剥いだ皮は兵隊さんの軍服にするんだから一生懸命にやってください』と先生に言われて本当に懸命に剥ぎましたよ」

 澤田(旧姓 熊谷)みち子さんは塩尻市郷原の出身だ。昭和二十年当時、広丘国民学校六年生だった。彼女の家は代沢国民学校の学童が疎開していた郷福寺の東二百メートルほどのところにあった。自宅は農家だった。
 桑の皮剥は全国各地で行われた。これに学童が動員された。集められた皮は業者が加工して布地に仕立て軍服などが作られたがごわごわと堅く不評だったという。
「勤労奉仕では、よく田の草取りに行きました。田植えのあと、田に生えるヒエなどの雑草を取り除くのですが子どもにはきついですね、『ヒエと田の苗を間違えるな』などと注意されていました。私なんか農家でしたから慣れていますからたいしたことはありません、しかし、疎開の子たちには大変でしたね……」

・勤労奉仕では、神林にある陸軍飛行場に行っていますが、覚えていませんか。この期日まで分かっている。昭和二十年五月十五日と十七日だ。広丘から飛行場までは二里半ほど歩いて向かった。男は土運び、女は木の根っこ掘り。
「ああ、行ったでしょうか、行ったような覚えもあるんですけどね……」

・当時の友達で覚えている人はいませんか?
「六年生の女の子は大塚、近藤、梶さんなどは覚えています」

・戦後になって会ったことはありますか?
「ええ、一度か二度郷福寺に来たときに家に寄っていきましたけどね」
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2017年06月04日

下北沢X物語(3292)−旅と人生、山道を歩くはよろし−

DSCN0129 (2)(一)分け入っても分け入っても青い山、種田山頭火のこの句は好きだ。が、齢を重ねてくると読みが変わってくる。迷妄が主題かと思っていたが、山道を歩いてきて気づいた。これには歩きの至福感があるのではないかと。行っても行っても青い山がどこまでも続いていく、私はみなぎる自然の気に包まれてどこまでも歩いていったよ。時に尾根筋に出ると相模湾が見え、また林を抜けると山々の向こうに紫色に煙る富士が見えたよ

 毎日、毎日歩きは欠かすことはない。萩原朔太郎は「文学には心理はあって生理がなく、表象があって運動がない」という。文章を書くのは好きだ、しかしずっと書いていると鬱屈してくる。手足を動かさないと鬱屈してくる。気が鬱積したとき歩きが一番よい。

 日々言葉に追われている、ことに夏前はせわしい。戦争物は八月にという出版事情がある。このところ戦争物の長編四冊を出した。今年も出す、「さまよえる特攻隊−誠第三十一飛行隊の軌跡」だ、今回はオンシーズンはやめて秋に出すことにした。締め切りは七月末、気分的に楽になった。どこかに行ってみようという気持ちが湧いてきた。

 自身に計画性はない、朝起きてみて、「さて」という場合が多い。昨日もそうだ、山道を歩いてみたいと思った。が、たどり着くまでが面倒だ、手軽に行けるところはないか。東横線が西武や東武と相互乗り入れすることで埼玉北部へは行きやすくなった。それでも時間が掛かる、調べてみると容易に行けるのが鎌倉だった。都立大学駅→横浜→北鎌倉は一時間で行ける。これだと思った。

 北鎌倉に着くと駅前は大勢の人がいた。明月院のあじさい見学に行くのだろう。こちらは花には目もくれずに歩いて行く。建長寺裏手の天園ハイキングコースへ向かう。境内には500円の拝観料を払う。
「皆さん、観光バスの方は集まってください……これは鎌倉建築を代表する建長寺の有名な山門です。ここを潜って参拝されると御利益があると言われています……」
「おお、そうか!」
 じいさんが応える、つい笑ってしまった。
 境内裏手の半僧坊からハイキングコースに入る。

 まったく不思議だ、北鎌倉駅前ではあんなに大勢の人がいた、挨拶を交わすわけはない。が、一歩山道に入ると来る人、来る人、「こんにちはー」と挨拶を交わす。山の気に触れて人は優しさを取り戻すのだろうか。

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2017年06月02日

下北沢X物語(3291)−浅間温泉疎開七校最終授業案−

CCI20150412_0003(一)組織は縦割りが主だ、横断的に情報を知るには聞き込みしかない。ここ数年、松本浅間温泉に疎開していた学童のことを調べてきた。当地には世田谷から七校の学校が疎開してきていた。昭和二十年三月、連合軍はいよいよ沖縄を攻めてきた。これを迎え撃つための天号作戦が命令された。これに伴って準備のために多くの特攻隊が松本浅間温泉に来ていた。一校の学童が飛来してきていた彼らと接していた。一つあれば二つある、しかし、学校の組織、同窓会は縦割りが主だ、横断的な情報は個別に当たらないと分からない。七校全部に一つ一つ当たって、戦争末期において松本が天号作戦の一つの本拠地だったことがようやっと分かった。
 
 疎開学童は数多くの資料を残している。手紙、日記、作文などだ。これらに当たると当時の軍の動きが分かる。例えば、飛行機好きの少年は重爆撃機キ67「飛龍」の飛来記録を克明に残していた。戦後、軍関係の資料はほとんどが焼却され残っていない、が、疎開学童が所持するものには多くの事実が書き残されている。これらを丹念に集めれば失われた戦争史がよみがえるのではないか。

 先の、戦争経験を聴く会、語る会で、今後、これを継続していくにはどのようにしたらよいか提案をしてもらった。元山崎国民学校の疎開学童長谷川直樹さんは一つの案を出された。

「浅間温泉へは、世田谷から七校の学校が疎開して行っている、もう多くの人が高齢化してきている、今まで、この人々が一堂に会することはなかった、これを一回開いてみてはどうか…」
 これまで十回会を行っていたなかで疎開のことは何度か取り上げた。それで疎開学童だった人が多く参加された、いつも参加されていた方がこられなくなったというのもある。この企画何度も開けない、行うとすれば最初にして最後となる。が、戦争史の一端を語るものになるかもしれない。行う価値はある。


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2017年06月01日

下北沢X物語(3290)−戦争経験を市民がどう伝えるか供

DSCN0126(一)昨今のニュースは世界は団結ではなく分断に向かっていることを知らせている。テロはその端的な例だ。昨日アフガンで起こった自爆テロによって90人が死亡したと伝えている。こういうテロが横行している、恐ろしいのはこれによる市民の死者の数が彼らの戦果となっていることだ。敵と味方の間に接点が全くなくなっている、ニュースに暗澹としてしまう毎日だ、世界は接点を失いつつある。

 戦争経験を聴く会、語る会は十年前に始めた。動機は平和の持続だ、過去の戦争を経験者に語ってもらうことで戦争の空しさを知ろうとの思いからである。が、この十年で世界は大きく変わった、人倫や道徳、人権や自由など意に介さない勢力が現れた。敵対する者に対してはあらゆる手段を使って殺しまくる。言葉というものが通用しなくなってきている。世界は大きく変化してきている。

 昨日は、常なる荏原逍遙は足を伸ばして、港横浜を選んだ。チケット店で購入した優待券の期限日だったからだ。横浜駅まで行き海岸沿いを山下埠頭まで歩いた。みなとみらい地区の高層ビル群の脇を通り抜けていった。が、林立する高層ビル群を見ても何の感動も感じない。
『膨張する近代は無機質なものになっていくんだ』
 富は富を構築し、下層にあえぐ人々は置いて行かれるばかり、世界における格差の広がりはどうしようもないところまで来ているという。

 時間論というものがある。時間は多様であり得た。例えば、チベットなどでは生まれた子の一人は僧侶にするという。ゆっくりとした時間の中で彼らは素朴に生きていた、緩い時間の流れの中で心豊かに生きていた。が、世界標準時間、資本主義的経済時間はその緩さを嫌う。時間の多様性を近代は許さない。北京標準時をおいてこれに会わせて生活をさせる。時間は時間で各地に文化的に存在しうる。しかし経済原理がこれを粉砕した。すべて世界標準時に合わせて人々を支配しはじめた。資本主義を基軸にした時間、この圧倒的な力にはかなわない。テロを生み出す温床となったのではと思う。
DSCN0125
 山下公園に着くと横浜大桟橋の埠頭が見えた。超大型の豪華客船が寄港するところだ。客船の大型化が進んでいて、劇場や舞台、エスカレーターやエレベーターがあってちょっした都市と同じくらいの規模があるという。以前に最貧国にこれが入港してテロに襲われた。一日食うや食わずの生活を送っている人のいるところにこれが来たときにどう思うかなどは全く考えない。資本主義の横暴さをニュースを見て感じたことがある。

 テロは許せない、誰も彼も、「テロとは徹底的に戦う」という。しかし、目には目を、歯には歯をではテロは根絶できない。ますますひどくなる貧富の差や格差に手をつけないでテロの根絶を言っても空しい、このまま行けば世界は終わりになるのではないか
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2017年05月30日

下北沢X物語(3289)−戦争経験を市民がどう伝えるか?−

DSCN0103(一) 「今日の試みはとても面白いものでした。この戦争経験を続けることはとてもとても大事です。しかし、何のために行うのかということをきちんとさせておかないいけません。ただ戦争は悲惨だから止めようという話では続きませんよね」と批評したのは、会員の松山信洋さんである。大事な指摘である。戦争のことを書いたり、話したりというのは難しいことではない。問題は何を伝えるかということである。会を終えて事務局の「邪宗門」へ行きお茶を飲みながらの話である。
「そう戦争の話になるとどうしても悲惨だったという話が中心になる。が、そんな話を聞きにくる人もいなくなりましたね」 実感だ、高齢世代には戦争の話は郷愁ともなっていた。ところがそういう人たちもいなくなりつつある。伝えが一層に厳しくなってきている。


 今回は、と号第三十一飛行隊:武揚隊のことはほとんど知られて居なかった。これが偶然に発掘された。惨憺たる苦難の末に台湾に辿り着き、そして助かった連中が順次出発し命を放擲した。この事実経過は新たな資料がみつかったこともありまとめられる。記録だから記録でよいという考えも成り立つ。そこは人によって読み方は違う、それぞれに読んでもらっていい。

「私は『鉛筆部隊と特攻隊』を読みましたが、ときどきほろりとしそうになる場面があったのですが、武剋隊の隊長がいよいよ出撃していくときに財布を出して中にあるお金を部下の整備員に渡すところがあるでしょう、あそこでついこらえきれなくなって泣きました」
 何年か前の話だ、市立松本博物館の学芸員をこの話に関わる展示を扱っていた。係ゆえに冷静でいたいと思っていたと。秋山かおりさんの感想だ。

 人々は戦争の惨劇を欲してはいない。つながりやふれあいを欲している。先の話、邪宗門の反省会である。
「私は、疎開学童が駅へ出て行くときの場面です、暗い夜道を静かに歩いていくと両脇にぎっしりいた親が必死になって我が子の名を叫ぶ場面がありますね、あそこはジーンとくるものがあります。疎開に行ってしまったらもう子どもとは会えないかもしれない、それで親は子どもの名を叫ぶのですね、親の子を思う気持ちがとてもよく出ていました……今回のことがあって薫手紙を読みました。今まで知らなかったことですけど、自分が特攻に行くことで親や子などが一日でも一分でも長く生きられる、そういうことに対して自らが犠牲になっていく、親が疎開学童を思う気持ち、そして彼らが何とかして親や子のために特攻していくというところは何か通じるようなことがあります。」
 山本薫中尉の甥御さんの奥さんはおおよそこのようなことを言われた。

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下北沢X物語(3288)−第11回戦争経験を聴く会・語る会へ向けて−

DSCN0101 (2)(一)米の原子力空母カールビンソンが巡洋艦を従えて北上する映像は度々テレビニュースで写された、勇壮である。ゆくりなくも思い出したのは半世紀前に見た月光仮面の登場場面だ。わらむしろに座った観客が、彼が乗った軽バイクが現れると一斉に拍手した。悪を懲らしめるヒーローの登場だ、この月光仮面の登場とカールビンソンとが二重写しになった、その前に度々北朝鮮ミサイルの発射場面を繰り返し見せられ、悪玉の所業が散々にすり込まれていた。北朝鮮は極悪非道で正義の味方の月光仮面によって処罰を受けなくてはならぬ、昨今はテレビ画面は大きい、大画面で空母が颯爽と現れると日本国民は「よくやってきたアメリカさん」、拍手するような感覚でこれを見ていなかったか?どうもこのごろはおかしい、マスコミや政府のプロパガンダじわりとボルテージをあげている。昨日だかおとといだかも首相や官房長官は北朝鮮とは「対話ではなく圧力」で対峙すると述べている。力の均衡が崩れたときに戦争となる、好戦的な言動である

 先の土曜日、5月27日、下北沢東京都民教会で「第10回戦争経験を聴く会語る会」を開いた。毎年山手空襲を記念してこの時期に開いている。十年も続けるつもりはなかった、が、気づいてみると十年経っていた。

 文化探訪は歴史の旅だ、我らのフィールド尋ね、調べていくと必ず戦争にぶつかる。昭和二十年八月十五日を境に、価値の大転変が起こっていた。墨塗教科書もその一つだ。
「いいかこれから言うところは皆、墨で塗りつぶしていくんだ、そこを読み上げる」
「せんせ、読み上げなくてもいいよ、ほとんど真っ黒だよ…」
 今まで価値をおいていたものがうち捨てられる。天地がひっくり返るほどの激変だ、おおもとはあの戦争である。

「私はね、九州の目達原飛行場で働いていました。八月六日と八月九日の原子爆弾投下の音は両方とも聞きましたね、長崎は近いから振動すら感じました……」
 第一回目ではそんな話を聞いた覚えがある。あれから十年、高齢化は食い止めようがない、戦争経験者が減ってきた。昨今では戦争を直接経験をした人はほとんどいない、会を開くのが困難になってきた。

戦争は人を狂わせる、どうあっても戦争はするな!」、十年間「戦争経験を聴く会、語る会」を催してきた、多くの戦争体験者の証言から学んできたことはこの一言だ、

 平和は決して破綻させてはならぬという先人の教えだ。しかしこの頃妙にきな臭い、力には力で対峙せよという世相が醸成されている。日本海は一触即発、今にもミサイルが飛んできそうな雰囲気がある、地下鉄が停まったり、学校に注意喚起の報が配布されたりと。

 そして日々、テレビでは連日ミサイルの話ばかり、異様と思うのは、ミサイルの発射場面の映像を飽きることなくくりかえしている。戦争をマスコミは煽っている、政府答弁も敵意を煽るようなものだ。いつの間にか戦時体制的になってきてはいないか。

 こういうときこそ冷静な目は必要だ、経験者が伝えるとおり平和は破綻させてはならない。

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2017年05月27日

下北沢X物語(3287)−第十回戦争経験を聴く会・語る会−

戦争経験を聴く会、語る会 恒例の「戦争経験を聴く会・語る会」を本日、午後一時半から下北沢東京都民教会で開催する。あの戦争からどんどんと遠ざかっていくばかりだ。平和がどんなに大事かはそれに伴って忘れていくばかりだ。七十二年前の五月二十四日、五日、この東京西部の空を大型爆撃機B29が空を覆い尽くした。恐ろしいほどの数の爆撃機が空を覆った。いわゆる山手大空襲だ。3月10日の東京大空襲では、飛行機279機。爆弾投下トン数は1665トンだ。一方、5月24日、25日の山手空襲の場合飛行機の数は1056機。爆弾投下トン数は6900トン、いずれも三倍だった。これには大きな狙いがあった首都東京を壊滅させるためだった。山手地域は焼き払われその狙いは達成された。それで東京は爆撃リストからはずされた。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。広島に長崎に原爆が落とされてそしてようやっと終わった。

 一旦戦争が始まったら終わらない。どうあっても戦争はするなというのが戦争体験者の伝言である。これを伝えるためにこの会を開いてきた。

 今回は、記念となる十回目の大会だ。これまでの経験を通して学んできたことがある。

戦争経験を聴いて学んだこと

 一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでも  いつまでも続く。
 二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
 三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言が いえなくなる。
四つ、いざ戦争となると人間が人間でなくなる。
  命は毛ほどに軽くなり、軍隊では虫けら同然に扱われ、果ては人間が武器の代わりに使われるようになる。
 五つ、心ない大人が出て来て、学童や子どもを裏切る。


学んできたことは、力と力が対峙すると必ず戦争が起こる。起こったら、もう殺し合いだ、ルールはなくなる。憎しみと憎しみがぶつかって際限もなく続く。

 やはり戦争をしてはまずいのではないか、ということで、この会を開催してきた。今年も行う。本日行う。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」
 
・と号第三十一飛行隊の軌跡             きむらけん
・山本薫中尉について                 山本 富繁さん  武揚隊隊長山本薫中尉の甥御さん
・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん  武揚隊隊員高畑少尉の甥御さん

期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
会費・定員 無料、先着順70名
主催:北沢川文化遺産保存の会
後援:世田谷区教育委員会
協力:世田谷ワイズメンズクラブ


疎開学童というのは、東大原小学校のことである、特攻隊は誠第三十一飛行隊だ。
 戦争の陰に眠っていた話が今日解き明かされる。



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2017年05月26日

下北沢X物語(3286)―戦跡を十年も歩けば棒に当たる―

DSCN0080(一)石川啄木の『一握の砂』に「乗合の砲兵士官の剣の鞘がちゃりと鳴るに思ひやぶれき」という一首がある。ここで場面情景を生き生きとさせているのは「砲兵士官の剣」である。車が揺れた拍子に剣の鞘が「ガチャリ」と音を立てた、うとうととして心地よく眠っていたところを起こされた。ここが輜重兵士官だと土臭くなる、海軍士官だと体裁が良すぎて歌の味がなくなる、「砲兵士官」だと一首は弛緩しない、ピリリと生きてくる。砲兵士官はかっこいい、砲兵士官で貴公子だったら若い女性だったらきっと胸ときめかすだろう。早世した場合はなおさらだ。昭和十五年(1940)九月四日にモンゴルで航空事故に巻き込まれ事故死した皇族がいた。北白川永久王殿下だ。三十歳の貴公子だ。

 何回目の戦跡歩きだったろう、何時も参加していた川口信さんから「仰徳集」という短歌集を戴いた。北白川永久王殿下の薨去を悼む歌集である。驚いたのは全国の数百の女学校の生徒たちが貴公子の死を悲しんで歌った作品が載っている。
例えば、「府立堺高等女学校 二年生」の歌

餘りあるかしこさなりき悼みまつる言葉もなくて唯涙しぬ
 
 名前は橋田壽賀子とある。彼女は、大阪府堺市西区出身である。脚本家の彼女に違いない。

 2009年7月30日のブログには、「仰徳集」に載っている糸賀 公一氏の短歌をアップした。以下である。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

 貴公子は、芝御殿の下の品川駅から見送りを受けて出征していったようだ。昭和十九年三月のことであった。そのときのことを貴公子の妹多恵子殿下が長詩で書き残している。その一部を引用する。

汽笛一声品川の 空にひゞけば兄宮を
のせまつりたる汽車は今 すべるがごとく走りでぬ
  さらばいさをを樹てませと 唯ひたすらに祈りつヽ
  声を限りに万歳を    われら叫びて見送りす

過ぎ行く汽車のステップに ちぎるヽほどの日の丸を
ふりて立たせし兄宮の  その過ぎし日のみすがたの
瞼の内に浮かび来て  あヽ我永久に忘れ得ず


 この陸軍大尉糸賀 公一氏は、シンガポールに本拠地をおく第七方面軍の作戦参謀であった。

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2017年05月25日

下北沢X物語(3285)〜「今度会ふときは九段の花の下」〜

DSCN0085(一)23日、打ち合わせのためある社を訪ねた、行くと靖国神社の真ん前にその会社はあった。大きな鳥居を見て即座に思い起こしたのは「今度会ふときは九段の花の下」という言葉である。ちょうど今、「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡を追って」をまとめている。隊員の一人、飯沼芳雄伍長は松本出身だ。彼は慰問に来た同級生にこう書き残して故郷を去った。この十三文字は「また九段で会おう」という意味だが、故郷の期待を背負った十九歳の強い思いがあることを私は知っている。もう花の時期は過ぎて今は新緑だ。拝殿して柏手を打ってくるか?ためらった。彼がここにいないように思えたからだ。

打ち合わせが終わって外に出る、好天、千鳥ヶ淵の新緑が目に染みる。北の丸公園を散歩していこうと思った。
 お堀を見ながらいくとすぐに「千鳥ケ淵戦没者墓苑」がある。多くの戦死者の遺骨、そして魂がここに眠っている。
「お参りしていこう」
 礼拝所となっている六角堂は質素だ。神はいない、自分の行為だけが問われる場だ、お寺や神社だと自然に祭壇に向かい賽銭を入れ、そして拝む、ところがここは自分で一つ一つを決めて行う。
『神がいれば便利で手軽だ』
 そんなことを思ったどんな拝み方をすればよいか考えなくてすむ。
 菊の一輪、100円を買ってそれを祭壇に手向け祈った。ここに眠っている人は皆平等だ、これでいいのだと思った。

 この三月には知覧に詣でた。陸軍特攻戦死者1036柱はかっきりと特攻平和会館には収められている。彼らの御霊を祀る観音堂もあった。丁寧に、丁重に扱っているのはよい。しかし、特攻で行っても戦果確認がなされなければ特攻扱いとはならない。

 武揚隊の場合は、遠路はるばると老朽機に乗って台湾まで前進した。15機は途中で不具合を起こしたり、敵機に遭遇して撃ち落とされてもした。また出撃したが戦果確認がなされなかった者もいた。それが飯沼芳雄伍長である。ゆえに彼は知覧には記録されていない。彼の出撃は七月十九日だった。
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2017年05月23日

下北沢X物語(3284)〜下馬、三宿、池尻、戦跡を歩いて十年〜

DSCN0068(一)戦後七十二年を迎える。執念深く戦跡を歩いている、これももう十年経った。何が変わったか?、振り返ってみて言えること三つ、一つ目、「古びたなあ」、建物の風化だ、もう朽ちかけて倒壊してしまいそうだ。二つ目、「みんな忘れ始めた」、戦争の記憶の風化だ。三つ目「戦争を想像できなくなった」、想像力の劣化だ。七十二年経って、あの戦争はすっかり忘れ掛けられている。しかし、戦跡を歩けばいやでも思い出す、やはり二度と戦争はやってはいけない。人間は本然的に好戦的である、やられたらやりかえす。かっとなって銃をぶっつぱなしてしまうと戦争が始まる。一旦戦争になると殺し合いだ、ところが戦争の惰性というものはある、止めるためのエネルギーが必要になる、歴史ある国家だけて負け方というものがある。戦争はなかなか終わらなかった。

 五月は、戦争月間として二つの行事を行う。まず、一つ目が「世田谷の戦跡を歩く」だ、二つ目が、「戦争経験を聴く会、語る会だ。後者は5月27日に下北沢東京都民教会で開く。今回で十回目となる。
 なぜに五月なのか?、「山手空襲を忘れないため」にこれを開いている。
 
 昭和二十五年五月二十四日、二十五日、このあたり山手一帯は大空襲に襲われる。
爆撃機が長い列を作って侵入してくる。根津山から見ていた人がいる。「今夜はいったいどうしたんだろう、敵はどうしてこんなにも多くの飛行機を飛ばすのだろう、いくら考えてもわからなかった。」(『東京空襲』一色次郎)大型爆撃機B29が空の果てから数珠つなぎであらわれる。後から後から湧くように現れる。この恐怖への想像も必要だ。

 気持ちが悪くなるくらいに爆撃機が押し寄せたのはなぜか。それは、

東京を壊滅させるためだった

 三月十日の東京大空襲はよく知られている。これは279機のB29が飛来してきて、1665トンの焼夷弾を落とした。一方山の手大空襲の場合は、五月二十四日が558機、二十五日が498機「両日で6,900トンの焼夷弾に見舞われ、約30平方キロの市街地が焼かれた」と。

 東京大空襲の倍の爆弾が落とされた。どれだけ戦略的な価値があるのか、飛来機数と爆弾投下トン数がそれを端的に証明している。この狙いは、東京の中枢を徹底的にたたくことだった。これが成功したことで、「東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」、いえば日本軍はこてんぱんにやられてしまったということだ。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。

 軍服を着た者は、軍服の脱ぎ方にこだわる。メンツだ。国家の体裁、負け方を言っているうちに広島に長崎に原爆が落とされてた、多くが死んだ。そしてようやっと終わった。
 
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2017年05月22日

下北沢X物語(3283)〜会報第131号:北沢川文化遺産保存の会〜

戦争経験を聴く会、語る会
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第131号       
     2017年6月1日発行(毎月1回発行)
     北沢川文化遺産保存の会 
      会長 長井 邦雄(信濃屋)
      事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、消滅した武揚隊隊歌の復元を試みる

  下北沢一帯の文化を長年掘り起こしている。情報はイレギュラーバウンドして掘り起こされる。ひょうたんを調べていたら中から駒が出てきて驚く。そんな体験は度々してきた。当地一帯の疎開学童の調べから多くの事実が発掘された。

昭和十九年八月、代沢国民学校と東大原国民学校の学童は浅間温泉に疎開した。翌二十年二月陸軍松本飛行場に特攻隊が飛来してきた。武揚隊と武剋隊だ。沖縄へ特攻に行くためには飛行機を改修しなければならない。爆装改修という。このためには三四十日間当地にとどまった。この間に疎開学童と深くふれあった。

 この特攻隊は、満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊である。大本営直轄の隊である。蒼龍隊、扶揺隊、武揚隊、武剋隊である。直轄隊だけにプライドが高い。分かってきたことは、彼らはそれぞれに隊歌を作っていたことだ。そのうちの扶揺隊のは今日に残されている。

若桜の歌
  一 さらば最後ぞ またの日は 桜花咲く九段ぞと
    笑みつつ 悲し つはものが 清らに交わす 盃や
  二 神治(かみしろしめ)す 国なれば 神勅 相違なきものを
    戦友(とも)よ 戦の理(ことわり)は 国亡びなば 山河なし
  三 人生意気に感じては 朝露(ちょうろ)の命 なにかせん
    大和 島根の 男児(おとこ)ゆえ ああ君は征く 若桜
『読谷村史』第五巻資料編4 『戦時記録』下


 浅間温泉にやってきた武揚隊と武剋隊も隊歌はあったはずだ。しかし、これは残っていない。このうち武揚隊については意外なことが発見された。
 武揚隊は浅間温泉では富貴の湯に滞在した。ここには東大原国民学校の学童が疎開していた。彼らは四十日あまり滞在する。この間、一人の隊員と親しく接したグループがある。その隊員は長谷川信少尉だ。この彼のことは後で分かってくる、「きけわたつみのこえ」に手記を残している長谷川信であった。
 東大原国民学校は浅間温泉では七つの宿に分宿して生活をしていた。そのうちの一つが
富貴の湯である。ここには「187人」の学童が暮らしていた。浅間では一二を争う大旅館だった。疎開学童と特攻隊を泊めても余裕があった。が、ここで注意を要することがある。この旅館にいたのはすべてが女児だった。
 これも一つのドラマだ、特攻隊隊員は若い、多くは田舎から出てきたあんちゃんたちだった。それが都会からやってきたおしゃまでかわいい子たちに遭遇した。ここ浅間温泉には後に映画監督となる降旗康男少年が住んでいた。この女の子に遭遇して大カルチャーショックを受けている。「東京から来た女の子はだれもが白いふっくらした顔をしていた。私にはまるで外国人に見えてしまった」(『松本平タウン情報』第六号 一九九九年)と。特攻隊のあんちゃんも同じだったろう。

 そういった思いを歌ったのが「浅間温泉望郷の歌」である。「塵にまみれた飛行服脱げば/かわい皆さんのお人形」という歌詞である。これをたまたま覚えていたのが秋元佳子さんである。彼女の覚えていた節をもとに作曲家の明石隼汰さんがこの歌を復元してくださったことはここでは度々述べてきた。今までは言葉の感性からして長谷川信少尉が作っていたのではないかと思っていた。ところが昨年、十一月、武揚隊隊長の山本薫中尉のご遺族が上京されて、「山本薫君の霊前に捧ぐ」という菱沼俊雄氏の手記を持ってこられた。

 私は、宮崎県新田原まで武揚隊の足取りを追って旅をした。彼らは新田原を飛び発ち、九州山地を飛び越え、大陸に渡り、それからさらに台湾の旅に着いた。この間、苦闘特攻三千里だ。彼の乗機は全部で十五機あった、長途の旅でほとんどを失い、たった三機が台湾に着いた。が、彼らは誇りを失わない、めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。知られていない事実だけに深い興味を覚える。

 数年にわたる調べで武揚隊のことが分かってきた。菱沼手記は、クロスワードパズルを読み解くような面白さがあった。注目したのは、次の箇所だ。

 高畑少尉はすぐれた山本君の部下達の中でも最も優秀で頼もしい将校でありましたし、五十嵐君と共に武揚隊歌を作りました。

高畑少尉は大学出の優れた隊員だった。音楽的才能があって武揚隊歌を五十嵐少尉と協力して作ったという。その音楽的な感性は、「浅間温泉望郷の歌」の歌詞にも感じる。その高畑少尉は、求められて浅間温泉で書を遺している。慰問に来た女学生の和綴じ帳に記した。それにはこう書いてある。

以武揚愛国 武揚隊 高畑少尉

ふと思ったことは、この高畑少尉が書いた言葉は武揚隊の歌の一節ではないかということだ。武揚隊のいわれを言葉にしたものだ、決してそれは突飛な連想ではない、その歌詞は、「武を揚げ以て 国を愛しむ ああ 武揚隊」だ。

 実は今回、この高畑さんの甥が参加される。驚いたのはこの池田宗祐さん、音楽的感性を引き継いでいるようだ。叔父を偲ぶ歌「拝啓 三角兵舎」を作詞作曲している。今回かれはそれをギターで弾いてくれる。ついでにと思って、「浅間温泉望郷の歌」をもと頼んだら快諾された。ならば、武揚隊隊歌のワンフレーズを手がかりにこれの再現もと考え、彼に提案したところチャレンジしてみたいと、眠っていた「武揚隊隊歌」が再現される。
その一番だ。「いざ往かん 散って九段の花と咲く/大和ますらを 神鷲の/武を揚げ以て國を護らむ/あァ 我らは 神鷲武揚隊」これを彼の作曲で、弾いてもらうことにした。期待されたい。
 なお、当日は、武揚隊山本薫中尉の甥御さんご夫妻が四国小松島から上京される。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

 主催:北沢川文化遺産保存の会  後援:世田谷区教育委員会
 ・と号第三十一飛行隊の軌跡    きむらけん
 ・山本薫中尉について        山本 富繁さん
 ・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん
 ・参加者による情報交換 

 期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
  会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
 会費・定員 無料、先着順70名
 
*当日、手伝ってくださる方は、一時に会場に集まってください。

○参考資料 武揚隊の特攻までの飛行コース
 ・新京から松本へ 新京→平壌、大邱(たいきゆう)、この後は、大刀洗飛行場→各務原→松本
・松本から台湾へ 松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊

2、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合  山手線恵比寿駅南口近く
 恒例 三田用水跡を歩く(第2期第4回) キュレーター きむらたかしさん  
コース:同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→ 銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→ 旧三田用水普通水利組合事務所跡→ 山手線目黒驛南水路橋跡 →鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡 → 旧上大崎村溜井新田跡 →日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡 → 午後5時 JR五反田駅解散 ○先号の通知で申し込みは既に30名を超したので今回は告知だけに…。


第130回 7月15日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
 案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
日比谷駅→二重橋前駅→東京駅→大手町駅
第131回 9月16日(土) 午後一時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
 案内人 きむらけん (新企画)駒沢代田のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→下北沢駅
第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第132回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

編集後記
▲今年度世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」に応募し書類を提出した。事業計画としてはDrオリバー・オースチン写真を軸に「下北沢の戦後アルバム」の発行と紀要第六号
「下北沢文士町の発展と形成」を予定している。
▲街歩き今年の計画では12月が空いている。コースの要望、あるいは案内志願、こちらに連絡を。なお、案内者には参加費用500円×参加人数分をそのまま差し上げます。
▲第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年05月20日

下北沢X物語(3282)〜自由と平和そして狸〜

DSCN0064(一)太宰治の墓前で田中英光は命を絶った。「さようなら」と言い残して……、彼の下北沢駅前逸話がある、戦後北口駅前の屋台で水上勉と焼酎を飲んでいた。が、親父と口論になった、元オリンピック選手の六尺男は、カウンターを両手で持ち上げてひっくりかえしてしまった。ガリンパリンと一升瓶が転がって音を立てる。そうした後、脱兎ごとく駅へ向かう。「下北沢駅は階段がすぐであった。その階段へ英光さんの巨体が隠れるのを追いかけた」(『私版 東京図絵』水上勉)と。ここでのイメージは大切だ、下駄を履いた田中英光はコンクリートのタタキを行ったのか、木製跨線橋の木の階段を上ったのか。どうもカタカタクットントンと足音を高く響かせて地下道に消えたというのが正解らしい。

 下北沢駅の地下道はどうなったか?興味深い問題だ、が、大事なことは、田中英光の「さようなら」論である。彼は昭和二十四年十一月に自殺するがその月の雑誌に掲載されたもの、遺稿である。この冒頭で述べる、

 「グッドバイ」「オォルボァル」「アヂュウ」「アウフビタゼエヘン」「ツァイチェン」「アロハ」等々――。

別れの言葉は多くある、これらはまた会おうなのど祈りが願いがこもっている。が、
我々が使う「さようなら」は、「敗北的な無常観に貫ぬかれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、いままでの日本人らしい」言葉だと彼は言う。その核心は何か。彼はこう述べる。

 「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。

 さようならは、「左様ならば」の「ば」が略されたことばだ。意味としては「では、そういうことで」、「そういうことならば」という意味だ。伝えたいことの中心をぼかしている曖昧な言葉だ。「そういうことならば、ここでお別れしよう」となるが、意味の核は隠される。何でもかんでも「さようなら」という断絶を意味するこの言葉しか使わない日本人の寂しさを彼はいう。寂しい死に方しかできない日本人。

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2017年05月19日

下北沢X物語(3281)〜戦争、平和、共謀罪〜

DSCN0063(一)平和という普段着は綻びやすい、しかしそれを着ているものはなかなか分からない。戦争から遠ざかるに連れ、平和という感覚に麻痺してしまう。それで社会をちょっと面白くしてしまおうとプロパガンダが始まる。ところがこれが平静を装っているから始末に悪い。どう考えても異常なのは、北朝鮮のミサイル発射場面を繰り返し繰り返ししつこく流していることだ。おかしなことにこれは北朝鮮が提供しているものだ。彼らは居丈高かに国威発揚するために国営放送でこれを行っている。つい笑ってしまうほどだ。「彼らの術中にはまっているのが日本のテレビではないか!」、繰り返しミサイル発射場面を流し、いまにも北朝鮮がこちらへミサイルを発射して多くの死ぬのではないか。刷り込みへの危惧へは全くと言っていいほど考えられていない。ミサイルが発射されたとの報を受けて、地下鉄が停まった。噴飯ものではないか?

 私たちはとおに戦争を忘れてしまった。もう十年にもなるだろうか。戦争を巡るシンポジウムがあった。妹尾河童さんの言葉は今も覚えている。
「戦争というのはドンパチから始まらないのです。最初の印象ですけどね、トタン屋根にパラパラって小石が降ってくる感じなんですよ、おかしいなと思っていると戦争がはじまる……」
 なんともないことが段々に大きくなってくる。そうすると人々は敏感になってくる。そこを付け狙うように、必ずといっていいほど、使われる常套句がある。

まず、『敵が攻めてくるぞ!』

つぎに、『いいか、住民、国民というものは基本的に、これは動物だから怖がりなんだ、そこを心得て時を捉えて言葉を効果的に使う、ここぞというときに使うと、絶大な効果がある。』

そして、『自分の座敷に他人が土足で入ってきたらじいさん、ばあさんでも怒る。これが国土となったらどうか。他国のやつらが入ってきて財産を奪い、女子を陵辱する、断じて許せない、皆銃を持って戦うんだ!』
 
 戦争になったら戦時一色に染まる。異論は挟めない、皆くちをつぐむ。

 敗色が濃くなると、一層に檄が飛ばされる。

 昭和十八年九月二十二日に情報局から「国内体勢強化報告」が発表された。いわゆる一億総動員令である。その一だ。

官民を挙げて常に今次聖戦の本義に徹せしむると共に、その容易ならざる大業なることを覚悟せしめ、いよいよ必勝の信念を持って不撓不屈、尽忠報国の誠を致さしむ。

 石にかじりついてでも戦え。以前話を聴いたことのある望月輝正さんは本土決戦に備えての対処法を准尉に教わったと。

 『本土決戦に備えて、敵の兵士が上陸してきたら卵の殻に胡椒と唐辛子をまぜたのをつめた≪新兵器≫のめつぶし弾をたたきつけやつらのひるんだすきに刺し殺す。』

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2017年05月17日

下北沢X物語(3280)〜古老は犯罪を語らず帰国を語る〜

DSCN0031(一)十年間の文化発掘で大勢の人と会ってきた。いわゆる仕事として会ってきたわけではない。主にはその人の体験や経験に興味を持って接してきた。ゆえに位階とか出自は問題ではない。それでも何年か経って彼の職業を知って驚くということはよくある。野沢の古老、生きてきた九十六年間は濃厚なものだと今になって知ったことだ。

 昭和二十五年シベリア抑留から戻って坂部正晴さんは、法務事務官となった。その経歴は豊かだ。戦争犯罪にも関わっていた。事件はどれこれ大きな話題となったものだ。雑誌のインタビューでそこを聞かれている。

――戦犯の事件で思い出に残るような事件や苦労したことはどのようなことですか。

坂部:5年間で私が関係した事件は多岐に渡り、その中には遠藤周作氏が名作『海と毒薬』に結晶させたB29乗員に対する「生体解剖事件」、中国人労務者の暴動鎮圧に端を発し、いまだ未解決の問題を残している「秋田花岡鉱山事件」、映画『戦場にかける橋』の舞台になった、泰緬鉄道建設に伴う英・豪・印度の『捕虜虐殺事件』、病院船撃沈のかどで元公爵(元小松宮)で海軍中将の小松輝久氏が第四艦隊指令長官として責任を問われた「インド洋潜水艦事件」、昭和20年8月15日、敗戦の当日、福岡市郊外油山で米兵捕虜を殺害した「油山事件」等などが含まれていました。
研究誌『更生保護と犯罪予防』第138号 平成14年3月


 どれもこれもが社会的に有名な事件だ。これら事件に関わっておられたのは後で知ったことだ。その一つ一つについてどうだったかと聞いてみたいところだ。しかし、本人はこう最後を結んでいる。

 個々の事件について具体的語る自由はありませんが、私にとってはとても重い深刻な5年間だったと思います。

 いわゆる公務員の守秘義務である。話そうにも話せない。

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2017年05月16日

下北沢X物語(3279)〜野沢の古老は沖縄を語る〜

DSCN0053(一)文化探訪はイレギュラーバウンド、筋違いなことから真実が発見される。昨日も驚いたことがある。「今朝の世田谷の広報に載った戦争経験を聴く会、語る会ですけど…」と電話での問い合わせだ。「疎開の方のお話ですか?」、「いえちょっと違いますが、ということは疎開された方?」、「ええ、はい」、「え、どこの小学校ですか」、「駒沢です」、「え、いつ行かれたのですか」攻守逆転する。「昭和二十年三月三年生で新潟県に行きました」、「ちょうどその頃、学校のすぐそばに高射砲陣地あったでしょう?」「ありましたありました。建物も覚えています」、「へぇ、弾を撃つと学校のガラス戸がびりびり鳴ったでしょう」、「うん鳴った鳴った」しばし、彼女と高射砲で燃え上がった。が、興奮しているのはこちらだった。

 駒沢小学校は、調べると昭和十九年八月三十一日に新潟県長岡市古志上組村に二百六十三名が疎開している。これは三年以上だ、翌年からは一年生二年生も加わった。三年生になった彼女はこのときに疎開した。
 彼女は、自分の辛かった疎開経験を九歳になる孫に話しておきたいとの思いがある。が、覚えている疎開経験が果たして正確なのか自信がない、そんなときに広報を見て電話をしてこられた。「疎開学童ゆかりの特攻隊」とあったが多分「疎開」の文字しか目にしなかったのではないか。当方も似たようなものだ。「高射砲」と聞くと俄然聞き耳を立てる。質問してきた女性に、「高射砲で覚えていることはないか」としつこく聞いていた。

 戦争の経験を自分の孫に伝えるというのはとてもいいことだ。長岡に疎開した駒沢国民学校の児童は長岡空襲を目撃している。飛来してきたB29は百二十五機だ。地方都市の空を埋めて大量の焼夷弾を落とした。
「ヒュウヒュウという音がして怖かった、そして家々がたちまちに燃え上がったのよ。生きた心地はしなかった。戦争の怖さは体験してみないと分からないのよ……」

 最近思うことがある。昨日もそうだった、テレビのニュースでは北朝鮮のミサイルの発射場面を、繰り返し繰り返し写していた。子どもが見たときにこれをどう思うのか。やはり異常である。視聴者の恐怖をあおり立てているようにしか見えない。

 マスコミも政府のいう危険意識、いつミサイルが空から飛んでくるかわからない。だからこちらの防備を固める必要がある。必要以上に緊張を煽っている。
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2017年05月14日

下北沢X物語(3278)〜野沢の古老に昔を聞く供

DSCN0059(一)野沢の古老、坂田正晴さん、来月になれば97歳になると、おおよそ百年、近代日本の激動期を、時代の境目を生きてこられたのだ。それは言い換えれば風景である、一つはた子ども時代の野沢風景だ、近隣には雑木林が広がっていてカブトムシなどの昆虫を採るのに心わくわくさせた。その後の人生は波乱含みだ、「ハルビン学院、建国大学、大同学院を卒業後、満州国官吏を経て関東軍司令部に勤務中終戦を迎え、5年間の抑留生活を終え、帰国後は法務省に勤務」したという。価値観が錯綜する中で生きてこられた。満州、ロシア、そして戦後では沖縄にも勤務したという。それぞれの土地においての風景の記憶があった。

・野沢の風景について
「鶴ヶ久保公園は藪でした木々がびっしり生えていました。木が多かったですね、野沢稲荷神社には大きな松の木があって上ると品川の海が見えた。これもだいぶ遅くまで切り株がありました……」
「野菜作りが盛んだったと聞いていますが、練兵場から出る馬糞で潤ったと……」

 馬糞が大量に産出され、農家の肥料需要のうえに、大きな供給源となっていたので、下馬地区の野菜栽培上、一大転機となった。馬糞は持久肥料として、肥料の三大成分をよくあわせ保有している。その馬糞が大量にかつ安価に入手できたので、きゅうり、なす、かぼちゃ、すいか、まくわうり、トマト、大根、白菜、ねぎ等が、世上一般不作の年でも方策が続いた。『しもうま』

 野沢は下馬に隣接している。練兵場の馬糞で潤ったはずだ。
「畑はあるにはあったがあんまり記憶にありませんね。覚えているのはこの辺りが植木だめだったことです。方々にありましたね……」
 確かにそうだ堀之内道の尾根筋のところにはこれが数多くあった。今も一二箇所残っている。都市の膨張と耕地利用の変遷はある。馬糞で畑の作物は丸々と肥え太った。近隣の市場では評判だった。が、植木に転換したのは野菜よりも儲かるからだ。観賞用の植木は都会人のストレスを発散するのに必須だった。

「道元坂の賑わいというのは大変なものだったらしいのです。それで上の方には植木やがずらりと並んでいたそうなんです。この辺りから大八車で運んだのでしょうね」
「うん、そうだろうね」と坂田さん。

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2017年05月13日

下北沢X物語(3277)〜野沢の古老に昔を聞く〜

DSCN0061(一)新橋ステンショでピリリと笛がなった、箱がゴットンと動いた。ガラスに横縞が流れた、そしてゲッポンと停まったら、「ヨコハマ!」だった。目が眩んだ。これは汽車の話。今は飛行機だ、この間、知覧に行った。羽田を離陸するとき床下でガリボリンと鳴った。すぐに富士の頂が窓をかすめた。それからいくらも経たないうちに「カゴシマ」とのアナウンス。汽車の時代を生きた自分は魔法に掛かったように思った。今、時は高速でめくられていく、その時その時のことはうっちゃらかして猛然と突っ走っていく、どこへ行くのだろうか?テコテン坂はどうなったか?代田窪はあったのか?上馬のうなり石はどうなったか? が、そんなことはかまっちゃいられない。近代は恐ろしい。テレビを見ているとミサイルが放たれて東京で地下鉄が停まった。今にも人が死滅しそうことを言う、プロパガンダの恐ろしさだ。ささいなことだが、ノドンよりもテコテン坂に興味を抱く、そこにこそ人々の生きた歴史があるのではないのか?

 昨日のことだ電話が鳴った。取ると、即座に「間もなく都議選が行われますが行かれますか。その場合は一番を押してください」、「バカヤロウ!」とガチャンと切ってしまった。いわゆる電話アンケートだ、これほどぶしつけなものはない。世論調査なるものが出される。その結果は実感とかけ離れている、アンケートに答えている人はよほど暇な人なのではないか。おかしな結果を踏まえてどんどん国家は右傾化していく、情報操作の恐ろしさを思う。

 この間、桜祭りで野沢から来られた古老に会った。大正9年生まれの96歳、坂田正晴さんだ。聴くと、駒沢ダイダラボッチ、すなわち鶴ヶ久保公園のすぐそばに住んでいるという。

 昨日、その野沢のお宅を訪れた。野沢稲荷神社のすぐ側だた。お宅で話を伺った後に、公園に一緒に行った。入り口に「東京市鶴ヶ久保公園」 、「昭和十三年四月開園」と左書きで記されている。

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2017年05月11日

下北沢X物語(3276)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考供

DSCN0046(一)「ダイダクボ」という言葉はいつから用いられていたのか。言葉としては大正期から昭和期に書かれた記録や絵図にこの言葉が二例見つかっている。沢筋の凹みが「ダイダクボ」と呼称されてきていたことは事実である。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み」ということだろう。言葉そのものに伝説性がある。ここの字名は「鶴ヶ久保」である。これは徳川吉宗公によって「この地を鶴ヶ窪と名付け、そこに弁財天と、水神を祀り、鶴ヶ窪弁財天と名付けられた」(『しもうま』)ことに由来している。江戸時代の伝説に基づいたものだ。

 当該地区の下馬や野沢は北から南へと連なる荏原台の東端に位置する。環七と野沢通りが交差する龍雲寺交差点辺りを起点にした舌状台地が東に延びている。代田窪はこれの北側の谷懐に当たる。地形的には沢の伏流水が自然に湧き出てくるところだ。弁財天を祀ったところ忽然と水が出たというのではない、遙か昔から水は湧いていたに違いない。

 ここで興味深いのは地形である。東に延びた舌状台地の先端に駒繋神社がある。見事な舌状台地である。その縁を舐めているのは蛇崩川である。こんもりとした丘が形成されていてここに大国主命が祀られている。興味深いのは、この舌状台地は「子の神丸」という字名がついている。有り難い神社を台地が頂いているからだ。この神社のホームページではこう謳う。

駒繫神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。
 
 「鼠に助けられて、難を逃れた大国主命」というのは有名である。「子の神」もここから来ている。しかし、面白い話がある。子は十二支のことだが方角をいうものでもある。北である。

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2017年05月10日

下北沢X物語(3275)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考〜

DSCN0050(一)荏原域内に「代田窪」、「ダイタクボ」と呼称する地名があった。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み(足跡)」だと考えてよい。個別野沢にあった窪みだけをいうのでなく汎用的だった。碑衾村谷畑の、千束村の狸窪は、ダイタクボの一つではなかったか。窪みが都市化によって見えなくなり自然に消失した。もう一つは地名に対する都会的センスが生じてきて、音韻的には不細工だとして退けられたのではないか?

 「ダイダクボ」は、その地固有の地名ではなく汎用的なものであった。恐らくは荏原各所で言われていた。が、これは伝承されなかったことで消滅した。が、今もこの地名が残っているところがある。それは埼玉県浦和市、いまのさいたま市だ。ここに太田窪が残っている。

 角川日本地名辞典(11) 「埼玉県」で調べるとこうある。

 だいたくぼ 太田窪 <浦和市>

 太田窪(郡村誌・新編武蔵)・大多窪とも書いた。県東南部、芝川右岸の大宮台地上に位置する。地名はダイダラボッチ(伝説上の巨人)に由来するという。地内には縄文前期の太田窪貝塚、縄文中期・後期の大在家遺跡・善前北遺跡がある。


まず第一点、興味深いことは、「だいたくぼ」を「太田窪」と表記していることだ。
 つぎに第二点、「ダイタクボ」の名称の起こりだ。これはダイダラボッチに由来するという。窪はそのダイダラボッチによってつけられたへこみをいうのであろう。つまりは巨人の足跡だ。
そして第三点だ、ダイダラボッチに対する考察を行ってきたが「古蹟」は重要なポイントだ。つまり古くからの遺跡の存在だ。当地には縄文時代からの貝塚などが存在するという。

 「ダイタクボ」は、「ダイダラボッチがつけた窪み」、窪みゆえに水が湧出する。この水は生活にとって欠かせないものだった。それでダイダラボッチに湧出する水源を古代人はとても大事にした。
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