2016年09月26日

下北沢X物語(3125)〜代官山:文化遺産をまちづくりの核に検

P1060131(一)三田用水の流れは、基本的には自然地形が決定づけている。興味深いことは多摩川左岸から始まる荏原内陸部の河川が概ね南行していることだ。第一が国分寺崖線であり、つぎが矢沢川、呑川、目黒川崖線となる。崖線として深いのは国分寺崖線、目黒川崖線である。この川の左岸崖線に三田用水は流れている。言えば崖線は東京都心に並行するラインである。都市が肥え太っていくときに順次真ん中から同心円状に広がっていく。このとき崖線というのは大きな結節点であり、際である。


「三田用水台地を一つの望郷ラインとして捉えていくという考えを持っているのです」
ステキ総研の一人が懇親会で言われた。
「道玄坂に建っている歌碑、与謝野晶子のは望郷の歌ですよね…」
  「母遠うて 瞳したしき 西の山 相模か知らず 雨雲かヽる」と石碑に刻まれている。淀橋台地の尾根筋からは西の山々が見える。彼女の故郷は大阪堺だ。このとき残念ながら大山に雲がかかっていて眺望はよくなかったようだ。
「そうなんですか?」
「私は目黒に住んでいてここの土地が横に長く見えるのは知っています。資料で読んだ記憶があるのですけども世田谷の奥にお嫁に行った人がここに建っている長い煙突を見ると東京が恋しくてならないと書いていました。間違いなく望郷ラインですよね」
「なるほどそうだったのですか…」
「三田用水数え歌というのがあるのですよ。この辺りのことも詠まれていますよ。私たちダイダラボッチ音頭を作ってユーチューブで流しています。これが結構評判で、当地小学校でも踊ろうかという話があります。『三田用水音頭』っていうのはどうですか?」
「おもしろそうですね…」
 
ようすい、ようすい、みたようすい、かつてたまがわのあゆもものみゆさんに
 だいみょうやしきにあらわれて、あらわれて、こしもとびっくり
 それ、それ代官山にはみたようすい
 そうそう、それそれ、ハヤはすいすい、やつめうなぎも目をぱちくり、ぱちくり……


 「三田用水音頭」を作って踊るというのも面白いではないか?。

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2016年09月25日

下北沢X物語(3124)〜代官山:文化遺産を核としたまちづくり掘

P1060133(一)玉川上水や三田用水は今はない。しかしこれらが活用されて地形は残っている。世田谷代田の南から眺めると屏風状の台地が望める、今日改めて、荏原台の背尾根を歩いた、そのときに三田上水を流している淀橋台の分岐丘陵がやはり屏風状に品川へと流れているのが眼ではっきりと見えた。


 三田用水を考えるにあたって地図や資料などを見た。講演でも指摘したが本流の玉川上水と違って、三田用水は南東に向かう、わかりやすく言えば南に向かっている。淀橋台の南端は御殿山である。

 明治の音はどうだったか。御殿山に南北に横たわる台地は邪魔だった。鉄道を通すためにここを掘り下げ切り通しを作った。ちょうどそこに権現山がある。タヌキのすみかだったここを壊して鉄路を敷いた。難工事だった、これの間接的な影響が鉄道線路に出ているかた楽しい。

 品川を出て八ッ山のガアド下を過ぎれば、先ずその辺りから汽車は速くなる。座席の椅子のバウンドの具合も申し分ない。(新潮文庫版)


 百鬼園先生「第一阿房列車」に記している。彼が乗っているのは特別阿房列車「はと」とのと一等車である。淀橋台の南端を過ぎて、目黒川橋梁を「ごぁぁぁ」と渡るとトタンに速度が速くなる。すると先生もう相好を崩す。講演中、この淀橋台は南端御殿山まで行っておりまして、かつて明治時代はタヌキが自分のすみかを鉄道敷設で壊されて化けよう化けようとしたのですが、化けられない、どうしてか相手は青い眼をしたお雇い外国人、怖くてばけられたものではありません…この逸話はよぎっただけである。

 面白い逸話は楽しい、「三田用水の水を使っていた台所で鮎が出てきたという話」これは三田用水を知っている人がいるだけに多くの反応があった。懇親会のときの話だ。
「三田用水のところに土管があって深くなっていて夏には泳いだ、そうするそこにハヤが一杯いた…」
「記憶ではヤツメウナギもいたよ」
「シジミもいた…」
 三田用水から鮎の話は、土管からハヤの逸話を掘り起こした。
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2016年09月23日

下北沢X物語(3123)〜代官山:文化遺産をまちづくりの核に供

CCI20160923_0000(一)小説の書き出しは苦労する、話をする場合も同じだ、どんな枕を振るのかさんざん考えた。先週行われた講演から入った。「世田谷代田で話をしました。あそこは地形が面白いところです。北の代田橋駅が約48メートルぐらい、南の世田谷代田駅が約40ぐらい。それでここの駅前にビルを持つオーナが言うのです。「ほら、北の空が狭いでしょう。西から走ってきた台地が東へ屏風状に連なっているのですよ」と。淀橋台のことですね、そこに玉川上水が流れていました。もう少し東へ行って笹塚で三田用水は別れ南東方向に向かいます。この方向が大事ですね。本流とは違い、三田用水は都心を回り込んでいく……」


「私は日々歩いて地形を眺めています。環状七号の大岡山小学校辺りは荏原台の背尾根です。東がよく見えます。丘陵が横に連なって南へ延びています。この上を三田用水が通っているのですね…」
 玉川用水や三田用水の地形景観が今も遠望できる。
「地形に関連して用水の話をしたものですからこれにからめて逸話を披露しました。『三田用水から水を引いていたお屋敷で、樋の口から鮎が出てきたというのです』と。私はおもしろいと思ったのですが、これへの反応がない。まず、三田用水を知らないという人が多いのです」

 十年前、北沢北端で聞き込みをすると三田用水の話が必ずでてきた。「恵比寿のビール工場に行ってビール瓶の洗浄に使われていた…」、「用水の上をホタルが飛んでいた」とか、用水への思い出は尽きなかった。ところが今は、知らない人が多い。こちらが街歩きをして説明するとお年寄りが耳を傾けるのです。地元の人で「そんなものあったのか?」と言う人もいいる。
CCI20160923_0001

「しかし鮎の話は面白いですよね、多摩川を下るはずの鮎がひょいと玉川上水に紛れ込んだ。そしてまた笹塚に来て、どちらに行くか迷った揚句、三田用水に入り込んで大名屋敷の台所の樋にひょいと現れた。女中さんびっくり『あれ、鮎!』…よくもまあ長い旅をしてきたものです。しかし、三田用水を分からない、知らないというのは普通です。私自身、これを知るのに半世紀ほど掛かったのです…」

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2016年09月22日

下北沢X物語(3122)〜代官山:文化遺産をまちづくりに〜

IMG_2823(一)代官山では新しいまちづくりが構想されている。当地区を貫通する文化遺産、三田用水の文化を掘り起こし、これを核に据えて「緑の文化十字路」として打ち出す。2020年には東京オリンピックが開催される。メイン会場も近いところから単なる代官山ではなく文化都市代官山としてアピールしていく。その基軸になるものが三田用水である、320年間に亘って江戸、東京を支えていた水路だ。人を街に誘うには単におしゃれな商業施設があることでは活性化しない。新たな構想は、用水を基軸にして人と歴史とが交わる「十字路」とし、これを全国、そして世界へと発信していこうというものだ。


 その活動の一環として昨日、講演会と懇親会とが作夕、代官山ヒルサイドテラスで行われた。きむらたかしが地域史家として、きむらけんが文化探査者として講演を行った。

 まず、長年三田用水の調査を手がけてきたきむらたかしが登壇する。320年間の歴史を彼は資料をプロジェクターに映しながら説明した。長年手がけてきて収集してきた資料だけに圧巻である。古文書や絵図は細流まで及ぶ、詳細を究めている。
P1060123

 三田用水は日本の近代化に大きな貢献を果たしている。火薬製造、ビール醸造、精米、製粉などなくてはならないものだった。東京という都市が膨張し、成長するにつれ用水は次第に廃れていって、三田用水組合は解散した。跡地は用地と化し痕跡はほとんどなくなってしまった。廃止から年月が経つに連れ貴重な文化遺産は記録そして記憶からも消えつつある。それらを丹念に調べ上げてきたきむらたかし氏の功績は大きい。今回の発表は、これまでの研究調査の集大成である。

  三田用水の歴史は、きむらたかしが担う、とすれば私に残されている分野は、文学方面しかない。が、これは容易ではなかった。これまでの講演では興味深く、面白く話していれば良かった。今回は、三田用水研究の第一人者小坂克信先生なども参加されることから面白いだけではすまない、学術的な観点を持って臨むしかない。

 さんざん考えた揚句、テーマを「近代文学の空間としての三田用水」としたことだ。
難題を選んでしまった。さてまたどうなることか?
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2016年09月20日

下北沢X物語(3121)〜近代水道、渋谷町水道をゆく供

17I(一)文明の恩恵に最初に浴したときは感動する。電気が点った、水道の蛇口から水がほとばしった、ガスに火がついて青く燃えた。ところがこれが日常化してしまう。電気、水道、ガスが出ているのが当たり前となって、そのありがたさなども感じなくなる。慣用句として「湯水のように使う」がある。「金銭などを、あるに任せて乱費することのたとえ」をいう。エネルギーは無限だと思ってついつい使っている。煮炊きするときに鍋を二つ、ときに三つも使うときがある。個々人がこんなに燃料使っていいのかとふと思うときがある。このところ絶え間なく台風の影響を受けている、異常も異常、超異常である。その原因は地球温暖化にある。人間の絶えざる欲望が世界の気候を目に見えて変動させつつある。個々人はどのようにしたらいいのだろうか?水道道を歩きながら考えた。

 渋谷町水道は多摩川の砧から取水していた。電動ポンプで水をくみ上げて駒沢給水塔へ送る。途中の難関は国分寺崖線である。この段丘を越えるには隧道が必要だということで岡本隧道を掘った。長さ百二十メートルもあるものだ。高さ二メートルの隧道跡は今も残っている。石組みのアーチがしっかりと組まれている。西側の隧道には「岡本隧道」と石を彫った扁額が掲げられている。
17H

 水道用のトンネル、イメージしたのは水路一杯に流れていく水だ。どんな水音がしていたのか?ところがそういう水は流れていなかった。
「直径80センチの導水管を通すためのものです…」
 案内役の新庄さんが言う。
「そうなのか琵琶湖疎水を通すトンネルみたいに水は流れていないんだ…」
 鉄製の導水管が穴蔵に通されているだけだった。
「どこかで開渠部分があって、そこでは水音がしていた、なんていうのは夢だった」
 用水の調べをしているゆえに誤った先入観を持っていた。かつての用水は音楽を奏でていた。
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2016年09月19日

下北沢X物語(3120)〜近代水道、渋谷町水道をゆく〜

17(一)鉄道の交差による利便性の高まりは町を繁華にする。一寒村渋谷に明治18年(1885)に南北に鉄道が貫通する、日本鉄道だ。つぎに明治40年には西から玉川電鉄が、明治44年には東から東京市電がやってきて十字クロスの鉄道が完成し、谷底の渋谷は急速に発展していく。渋谷道玄坂の夜店は人で溢れるほどに賑わった。『放浪記』には林芙美子がここで「二十銭均一」のメリヤスの猿股を売った、大正12年4月のことだ。繁華になればなるほど人の口は増える。人が生きるには「水」が必要だ。この当時の渋谷町は、これを確保するために単独で水道事業を興す。多摩川から取水し、渋谷まで送った。この完成が大正13年のことだ。東京の一つの町が水道事業を興す、繁栄あらばこそだ。このシンボルが今も残る駒沢給水塔である。高さは30メートルこれが二基聳え建っている。あの当時の渋谷の賑わいの象徴でもある。


「この間、ニュースになりました。駅の乗降客数で渋谷は新宿、池袋に次いで三番目に多い、この三位は定位置だった。ところが、これが五位に転落したとのこと。『原因としては、東急東横線の渋谷駅が地下化され、東京メトロ副都心線と相互乗り入れし、地上駅のJRに乗り換える客が減少したためであるとされ』ています。が、地下化によってますます不便になり、迷路化した。通過客の問題ではない、渋谷の魅力が薄れたのではないか。かつては単独で町営水道を興すほどに賑わった街、その街がさまよい初めています。我らは、街の歴史の痕跡を探して歩く、それで渋谷町水道跡を歩きます。案内人は駒沢給水塔保存の会の新庄靖弘さんです……」
 今度の街歩きで、第120回となる。9月17日に実施した。タイトルは「駒沢給水塔の水道を歩く」だ。

 田園都市線桜新町に集まった我々は、ここから取水口の「砧下浄水場」まで歩いた。途中、地形の難所がある。国分寺崖線である、取水した水を段丘上にあげる必要がある。これを越すために長さ120メートルのトンネルを掘った。今もアーチ型の石組みの岡本隧道が残っている。
17A
 
 水道水を通すための隧道を掘った。高さ二メートル、幅二、五メートルと聞いていた。この隧道へのイメージがあった。他の人もそれは同じだった。国分寺崖線のトンネルを豊かな水がとうとうと流れている様を。しかし、それは間違いであることが分かった。フィールドワークは足で実際を確かめるものである。行ってみて分かることが多い。


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2016年09月17日

下北沢X物語(3119)〜雑感的文士町文化概論検

12月24日 018(一)文化とは土地固有の臭いを語りあって楽しむものだ。地域の謎を解くのは面白い。「普通は文士村というのにわざわざ文士町としたのはなぜでしょう?」。そう普通文化人や芸術家が集まった箇所は文士村と称される。中心となる人が介在しこれは形成される。ところが当地では自然にこれが形成されていた。文士町文化地図は初版を作り、今度は七版を創る。が、いくら作っても切りがない。「文士町」の謎だ。これをみんなで考えてみたい。


「私は通り道だから三軒茶屋はよく行きます。ここにいた文士を調べたことがあります山田風太郎はここに住んでいました。これは分かったのですが、この他にはあまり見あたらない。町としての区域や地域、下北沢と較べるとどうでしょう。どちらが大きいでしょう」
「三軒茶屋!」

 三軒茶屋は国道246号、その上を走る首都高とで町は分断された。が、この南側にも、また道沿いにも、そして北側の太子堂まで含めると町という地域は広く大きい。ところが文化人の旧居密度は圧倒的に文士町の方が濃厚だ。
「日本でも類例をみないと思います。なぜ地図に示したように文士や芸術家が多いのでしょうか?

「その大きな原因は何か?」
「鉄道!」
「何線」
「小田急線と井の頭線」
「鉄道の交差というのは大きいですね。昭和二年に小田急が、続いて昭和八年に井の頭線が開通しました。鉄道の利便性が増したのですね。しかし、これだけではないと思います、他に理由は?」
「………?」
「起点、終点も大事ですね、東にある街です」
「そう新宿、渋谷がある、これは大きいですね」
 芸術文化がなぜこんなに集まったのか、ともに考えていきたい。他は。
「地代、土地が安い」
「それはありましたよね。そもそもが雑木林や畑だった。この一帯は昔からの地主がいて畑などを作っていた。先祖伝来の土地は売らずにみな貸したようですね。それでも地代は安い。畑の作物のあがりよりも人に貸す方がよほど実入りはよい」
 かつては明治の殖産振興でお茶の作付けがなされた。が、全国に鉄道が普及するにつれ宇治などの産地から大量にお茶が入ってくるようになり、茶業は廃れた。そういう土地は人に貸した方がよほどいい。

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2016年09月16日

下北沢X物語(3118)〜雑感的文士町文化概論掘

P1060120(一)近代鉄道文化論というのは一つの楽しい視点だ。小田原急行鉄道開業時における東北沢駅の構造と路線配置というのは大事だ。「今は地下化してしまって分かりませんが、前は面白い構造でしたよね。どうなっていました?」、「急行通過線が真ん中にあった!」「そうそう各停が追い抜かれたのですよね」、小田原急行開業時の交通戦略がここに端的に表れている。近くよりも遠くの乗客を速く運ぶ、郊外への速達性を重んじた。市電ようにのろくはない、郊外へ流れるように一直線に向かう、「だから駆け落ちができるのですね」、いつも言っているジョークだ。

 東北沢の駅構内に設置された急行通過線は、新幹線でも同構造の線路敷設方が採用されたという。最近気づいた、これが東横線にもできるようだ。渋谷駅で地下鉄と繋がり東武、西武などとも相互乗り入れするようになった。これによって日比谷線への相互乗り入れは廃止された。中目黒では地下鉄が着く度に人が吐き出される。「ホームから人があふれそうだ」と。実際、「中目黒駅の乗降客の多さによる停車時間の増大」があるようだ。その対策だろうか祐天寺駅に急行通過線を作っている。が、真ん中に複線を通すほどの余裕はない。一線のみの急行通過線だ。

 ということは上り下りも利用する。機械的に分岐を切り替えるのは容易だ。が、一歩間違えば正面衝突ということになりかねない。小田急の東北沢駅の通過線は開業当時から複線で設備されている。

「初手から小田原まで複線で開通させた、創業者の発想はすばらしいものがありますね。沿線にはしゃれた家が建っていくのですが、郊外速達性という速さにあったモダンな家が建っていく、成城学園などはそうですね…」

 世田谷代田駅も同じだ。玉電沿線から当地に移ってきた安岡章太郎は、この様子を次のように描いている。

 大橋、三宿、池尻など、ジャリ運びの玉川電車の沿線の古ぼけた所と較べて、こちらは新しく発展した中流階級の住宅地らしい明るさが、生垣をめぐらせた家並みの道傍にも何となく漂っていた。 家屋の亡霊<代田>

 「東京行進曲」が流行った昭和四年、「その三四年前」だから昭和八年頃のことである。その彼の家は、駒沢鉄塔65号下あたり、戦災で焼失している。そして、ここにはオリンピック道路ができて激変した。ここへ訪ねてきた安岡章太郎は、思い出のある土地に「いきなり広漠たるアメリカ大陸のハイ・ウェイの突っ込んできたような七環」と描いている。即ち今の環状七号線のことだ。世田谷代田の激変を述べている。

 ここの堀内道沿いにあった中原大通り商店街も消えていた。戦前にあったビリヤード・カフェやレコード屋には帝国音楽学校の学生が出入りしていた。ここでは中国語や台湾語も飛び交っていたろう。街道筋の尾根に世田谷中原駅ができたことによってここは発展を遂げた。かつては下北沢よりも賑やかだった。
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2016年09月14日

下北沢X物語(3117)〜雑感的文士町文化概論供

P1060118(一)視界的歴史観というものはあるだろう。目で見える風光や風景が起点となってそこから歴史が始まったとするものだ。「文士町」は、まさにこれだ。その原初的風景は文学に描かれている。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった」(『風と光と二十の私と』)と。坂口安吾が代沢小の代用教員を務めていた大正14年頃のことだ。辺りには何もなかった。そこが出発点だった。その一部だった「大根畑」ににょっきりと音楽学校が出現していた。地域一帯の文化の嚆矢だった、一人の研究者との出会いからこの認識を深めた、文化探訪十数年の後の今になってのことである

 駒沢線鉄塔64号の下、世田谷中原駅側に「帝国音楽学校」が設立された。開校は昭和3年4月だ。小田原急行鉄道の開通は1年前だった。前年から画策されたことを考えると鉄道の開業を見込んでのことだ。大根畑に建った二階建ての音楽学校、そしてその隣にそびえていた銀色の高い鉄塔。まさに近代郊外風景を絵にしたようなものだ。

 この学校の研究者、博士の久保絵里麻さんが講演を聴きにきていた。せっかくの機会だということで講演の最後のところで話をしてもらった。彼女は消滅した学校のことを子細に克明に調べあげている。その彼女と話をした。聞いていて、「あっ」と解けた謎がある。

 講演をするのに資料を持って来ていた。「小田原急行電車」開通時の絵だ。鳥瞰図師吉田初三郎が描いたものだ。富士の麓を走っていく路線、小田原から先の鉄路、交通路までもが描かれている。西の果ては下関、そして門司だ。そして遙かむこうには釜山、上海、台湾まで描かれている。

 我々は世界を地図で認識している。日本地図は脳に刻まれている、南北に細長い日本列島を。しかし、かつては朝鮮半島、満州、そして台湾まで含まれていた。大日本帝国だった。「帝国音楽学校」は、その帝国だったのだ。驚きだった、台湾、朝鮮、満州からやってきた学生も来ていたと。
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 下北沢静泉閣には、満州国皇帝溥儀の弟、愛新覚羅溥傑が一時寄留していた。極めて特殊なことだと思っていたが、満州、台湾、朝鮮から帝国音楽学校にきて、付近に彼らは下宿していた。文士町の文化認識を改めなくてはならない。
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2016年09月13日

下北沢X物語(3116)〜雑感的文士町文化概論機

P1060114(一)昨日、世田谷代田区民センターで講演をした。二時間半の長丁場、どんな切り口で何を話すのか? 最も問われるところである。講義だと人は飽きてしまう、必要なのは問い掛けだ。「なぜ?」、「どうして?」と振っていく、聞き手への刺激である。文士町文化概論は「文化とは何か?」という問いかけから入っていこうと決めていた。


 ところが「さんさん会」主宰者の長谷川直樹さん、冒頭で『特攻隊と鉛筆部隊』を例にして私の紹介をされた。彼との出会いはこれがきっかけだった。本も読み、ラジオ深夜便での放送も聞いていた。彼は山崎小学校の疎開学童だった。浅間温泉小柳の湯にいて宿泊していた特攻隊員ともふれ合っていた。昭和20年4月3日づけの葉書を彼はもらっている。近々出撃する、きっと新聞に載るからと書いてあった。宮崎佐土原紫明館から出されていた。

 私は、その紫明館を探すために現地へ行ってその場所を突き止めた。が、彼らがなぜに特攻出撃に行かずに満州に戻ったか、それは分からない。山崎小の学童と満州に戻った彼らとは手紙でのやりとりが続いている。この小柳の湯隊と名づけている隊、全くいまだに正体が分からない。

 しかし、はっきりと分かったことがある。小柳の湯隊の滞在は短かったことだ。一方、素性が知れた武剋隊や武揚隊は滞在が長かった。

「満州新京からやってきた武剋隊や武揚隊は一月近く滞在しました。なぜこんなに長くいたかというと、普通は250キロ爆弾を装着するのですが、この隊は500キロ爆弾を積載するために仕様改装を行いました。それで長引いたというのです。滞在が長ければ情が移る。東京からやってきた可愛い子には思いが深まりますね…」
 武剋隊や武揚隊は中央指令の直轄隊だった。それだけ重い使命を帯びていた。小柳の湯隊は二隊のように盛大な見送りを受けてきたわけではなく、満州から直接やってきていた隊だ。

「世田谷の疎開学童が作文や手紙を疎開先で書いたのです。これによって明らかになったのは陸軍松本飛行場、神林飛行場が沖縄戦の後方支援の基地だったことです。学童の記録が近代戦争史の一ページを紐解いているのですが、あまり社会では認知されていないのです…」

 当初の、枕はどこかに行ってしまって、だいぶ経ってからようやく文化論へと入っていった。
「文化とは何か?」
「?」
 返答はない。
「文化と名のつく言葉は?」
「文化包丁!」
「文化鍋!」
「そうそう、そういえば文化住宅というのがありましたね」
「あったあった」
「そういえば絵がありました。ほらここに映っている赤い住宅は、文化住宅ですね。丘上に緑の木々、そこにこぎれいな赤い屋根がみえる。これはどこでしょう?」
「世田谷の田舎!」
「そうまさにそうなんです」
「では、どこでしょう?」、
「世田谷松原!」
「鋭い!、松原も丘陵地帯ですね、こんな雰囲気はあったと思います。ここの世田谷代田も似たような景色が当時ありました。ここの台地の西側は崖線があってしゃれた赤いお家が建っていました。だからこの絵は当地一帯の様子を象徴的に表すものです…」

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2016年09月11日

下北沢X物語(3115)〜謎解き:将校夫人主催音楽会〜

2シアトル市長など代沢小へ楽器寄贈(一)将校夫人達が銀座Wanright Hallに集まって、「ミドリ楽団」の演奏を聞いた。始まりは三時である。終わりは四時過ぎとなる。火曜日ゆえ彼女らの主人たちは働いている。この後どうしたろうか?この教文館ビルのはす向かいが松屋だ。ここも米軍に接収され地階と二階までが将校クラブとなっている。想像するに連れ合い、ハズバンドを交えてのお別れ会はここで行われたのではないだろうか。お別れパーティを含んでの音楽会だったとすれば身につけているものが違う。
 「今も印象に残っているのが笑みです、私たちを笑みを浮かべて見てくださっていました」と片山さん。
 将校もだいぶ階級が上の人たちだったのではないかと思う。笑顔に人生の円熟味があった。が、着ているものは派手である。香水がにおい、指輪の宝石がきらめきもしていた。

 
 プログラムの続きだ。

3、Cockoo Waltz
4、Selection from Stefen Fosuter`Songs
5、Medley:Americana
6、Selecton from "Show White and Seve Dwarfs"
a.Whistle While You Work
b.Heigh Ho!
c.Dwarfs Yodel Song
7、Medley:Music of Waves and Streams
8、Xylophone:Turkish March
9、March of Kewpi Dolls
10、Medley:American Melodies


 これらの曲目から何が分かるか。いつもの演奏では日本の曲の演奏がある。ところがここには入っていない。アメリカの曲を中心としたプログラムとなっている。なぜだろうか。
 
 1945(昭和25年)はアメリカ占領政策の節目の年だ。日本の敗戦をきっかけに米軍は進駐してくる。が、施策も安定してきて増える一方の進駐軍もこの年を境に多くが復員していく。そんな中で行われた「Sayounara」である。

 誰とのお別れなのか、推測として仲間の夫人が帰国するに当たって開いた会ではないかと述べた。が、アメリカ中心の曲目を見ると、帰心矢の如し、故国アメリカへは誰もが帰っていく。望郷の念が一層募る頃だ、あるいは夫人倶楽部の解散を控えてのものだったのではないか。

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2016年09月10日

下北沢X物語(3114)〜誰か「蒼い海の物語」を知らないか?〜

13jpg(一)手元に珍しいプログラムがある。1945年(昭和25年)5月10日(火)に開かれた音楽コンサートのプログラムである。場所はWanright Hall、ウェンライトホールである。調べるとこのホールは今も存在する。銀座の教文館ビルは有名だ。ここの九階にあった。今も貸しホールとして営業中である。戦後銀座の焼け残ったビルは米軍によって接収された。この教文館ビルはタイム・ライフ社が使っていた。この上にあるホールは、ウェンライト・ホールと名づけられ、米軍の関係者が使っていたようだ。

 ウェンライトは人名に違いない。米国陸軍大将、 ジョナサン・ウェインライトからとったものだろう。戦中ではダグラス・マッカーサーを補佐していたようだ。日本の降伏直後に彼は大将に昇進した。戦後接収米軍が教文館ビルのホールをWanright Hallと名づけ、それがそのまま今も使われているのだろう。

 コンサートのプログラムは、『ミドリ楽団物語』を書いているときに片山淳子さんから頂いたものである。彼女は「ミドリ楽団」の指導者浜館菊雄先生のお嬢さんである。

 このプログラムの表紙には、「Sayonara」と記されている。片山さんから頂いたメモには、「騎兵第八旅団夫人クラブ主催」とある。が、米軍の第八軍はあるが第八旅団というのはみつからない。東京に進駐してきて名を馳せたのは第一騎兵師団である。

 小田急線下北沢二号踏切側で無蓋車に乗って進駐していく米兵を目撃した人がいる。手に手に銃を持っていたという。その彼らの袖には馬をあしらったワッペンが縫い付けられていたf。第一騎兵師団だ。敗戦後、東京および横浜に進駐してきたのがこの師団である。音楽会の主催は「Women`s Club」とある。騎兵師団夫人クラブ主催であったようだ。

 このコンサートのプログラム冒頭には次のようにある。

Concert by The Daizaw School Chidren's Band

 代沢小「ミドリ楽団」がこの日、ウェンライト・ホールでコンサートを行った。出席者は全員が女性だったという。将校級の奥さんの集まりだった。

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2016年09月08日

下北沢X物語(3113)〜「ミドリ楽団同窓会」〜

第三回目アニーパイル(一)「ミドリ楽団物語」が関係者に知られてきているようだ。三ルートから聞いた話なので多くの人がそうしているのだろう。本を手に入れたら中身は読まない。まず天眼鏡なり、拡大鏡なりを持ってくる。これで表紙や本文に載っている写真をチェックする。「映っていた!」、「影も形もなかった!」、「よくみたらちっこく映っているの!」など一喜一憂していると聞いたことだ。

 昨日、代田の「邪宗門」を訪れた。マスターの作道さんがいう。
「この間電話が掛かってきましてね、代沢小の卒業生が集まったらしいのです。そのときに先生の『ミドリ楽団物語』が話題になって会が大層盛り上がったそうなんです…」
 この中には「ミドリ楽団」に在籍してした人もいるようだ。
「茶色の液体が入ったビンをもらったの。ジュースだとかいうんだけど、栓を開けてもらって飲んだら苦いのね、今で言えばなんのこともないんだけども、炭酸と苦みは今でも忘れられないわね。コカコーラなん今じゃ普通でしょ…」
 米軍の施設に行って遭遇したできごとを仲間に話しているらしい。
「米軍のバスが迎えに来てさ、みんながステップをとんとんとんって登っていくところはかっこよかった。おそろいの制服着ていたんだよね」
「みんなさ、胸にミドリバンドのMというバッチをつけていたんだ。あれは羨ましかった…」
 思い出を語り合ったようだ。
 自分でももう書き終わったものだがその情景やイメージは鮮明に浮かんでくる。

「今度の場合には、場面場面を絵として描くようにしました。物語ですから楽しんで読めるように工夫したのです。だから映画とか放送劇になると思うのです。ぜひ作ってほしいものです」
「それはね、卒業生も期待していると言っていましたよ」
 邪宗門のマスター作道さんが肯う。
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 マスターとそんな話をしていると偶然、「下北沢文士町文化地図」を手にした女性二人が入ってきた。「どこでそれを手に入れたのですか?」、「北沢タウンホールのラプラスで」との返答。「何かこの地図をもとに歩くと面白いかと思って…」彼女ら二人は代沢地区を歩いてきたらしい。文学に詳しい二人づれだった。が、彼女らが手にしているのは旧版だった。早速に新版をあげた。「うれしい!」との返答。

 「下北沢文士町地図」を持って、「ここがそこらしい」とか、「あそこが旧居跡ね」とか歩いている人が出てきていることは嬉しい。この夏休み、やはり中学生がこの地図を手に入れて自由研究のテーマを探しにきていた。文化地図が浸透している。

  会合があって出かけるところだったので詳しくは説明できなかった。短時間だったが目を輝かせて町の文化についての説明を聴いてくれた。




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2016年09月07日

下北沢X物語(3112)〜駒沢線と帝国音楽学校〜

P1010865(一)鉄道がクロスする街の形状を見事に捉えたのは小説『街の座標』(清水博子著)である。この座標は鉄道線路を軸としたものだ。小田急線であり、井の頭線である、が、彼女はこれを「ひしゃげた座標軸」と形容している。実際、ゆがんだ形状は地図上から明白である。座標はもう一つあった。世田谷代田における線と線との交わりである。この場合のY軸は小田急線であり、X軸は駒沢線である。この交点直下に帝国音楽学校は建っていた。位置としては絶妙である。そこにあったのは鉄塔64号である。

  この鉄塔、現在は環境調和型のパイプ状の鉄塔に建て替えられている。旧来の鉄塔もこの南に行けばまだある。私たちが「代田の丘の61号鉄塔」と呼ぶこれは敷設往事の鉄骨である。銘板には昭和元年十二月とある。帝国音楽学校脇の64号も同じ頃に建ったと考えてよい。

 これから程なくして昭和三年四月に帝国音楽学校は開校した。最寄り駅は世田谷中原である。学校はすぐ側だ。駅を降りると大根畑の中に鉄塔が高々と聳えていた。学校の学生や、また彼らの親はここに着くと誰もが銀色のこれを見上げた。

 帝国音楽学校校舎と鉄塔64号、風景としてはすっかり失われものだ。しかしこれをどのように見たかというのは興味深い。抜きん出て高い構築物は目につく。人の心理に反映するものだ。

 鉄塔61号についての印象は今日文学作品に書き残されている。これは「世田谷区地域風景資産」に選定された。その決め手になった記述である。

あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした。この土地を洋之助と見に来た時、私はまだ小学生だったのに何となく暗い予感のようなものが、私の頭をかすめたのを覚えている。いまはその予感の正体が何であったのか分かったのだ。

 萩原葉子『蕁麻の家』(講談社学芸文庫)の一節である。丘上に高々と聳え建つ鉄塔は彼女には不安だった。小説冒頭に「私は、竹の子を見ていた眼を今度は外に向けると、すぐ目の前に高圧線の高い鉄塔が見えた」と描いている。この時は「まだ小学生」とあるが彼女は東大原小学校に通っていた。
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2016年09月05日

下北沢X物語(3111)〜文士町の芸術の源泉:帝国音楽学校供

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(一)文士町の芸術文化の源泉は帝国音楽学校にある。一流の教授や講師陣、そして300名近くの音楽志望の学生が通ってくる。この彼らが付近に下宿したり、音楽の専門家としての教師も近隣に住まったりした。このことが街に影響を与えないわけはない。この音楽学校の近くに下北沢静泉閣というアパートがあった。ここに住んでいたのは作家の中山義秀である。「下北沢には作家や詩人志望の青年達が、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた」(「台上の月」)と彼は述べている。昭和十年頃のことだ。間違いなく音楽志望者もいた。

 学校設置申請をする際に出された書類がある。これから学校の規模が分かる。(旧漢字は新漢字に直した)

 一、目的 汎ク音楽ニ関スル学術技能教授及ヒ研究ヲナシ併セテ音楽教員ヲ養成スル所トス

 二、名称 帝国音楽学校

 三、位置 東京府下荏原郡世田谷町字代田七百壱番七百弐貳番

 四、校地校舎 添付図面ノ通リ

 五、校地地質 高燥ニシテ赤土ナリ

 六、飲料水 井水 別紙分析表ノ通リ


 一の目的の中で「音楽教員ヲ養成」は最も大きなウリだ。ここを出れば音楽教員になる資格を得られる。子どもを送る側の親にしてみれば、音楽家になるだけでは納得がいかない。ただ私立は官立と違って卒業しただけでは資格は得られないとあった。ここでは音楽教員としての資格が得られたのだろうか。

 三の位置は、701番と702番とに掛かるもので従来のイメージよりも区画は広かったと想定される。

 四にある図面は、添付されているが二階建ての校舎と講堂から成っている。音楽学校の場合、楽器の練習場、あるいは発表会場として後者は必須のものだっと思われる。

 五の水質検査表は確かに添付されている。当時は水道水ではなく井戸水だった。大勢が飲料に使用するところからこれは欠かせないものだった。
 
 当地は丘陵部にあるために水量は充分にあった。評価としは「無色透明」、「異種味ナシ」、「微弱アルカリ性」とある。「東京都衛生試験所」の適否結果は、「飲料ニ適スモノトス」とある。
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 当地の水で思い出すのは、近くにあった「関豆腐店」だ。当初は豊富な井戸水で作っていた。おいしい豆腐として知られていたが、オリンピック道路、環七ができて丘陵に切り通しができた。道路の下にヒューム管を通したらしい。これによって大腸菌が増え、水質が悪化した。関さんはやむなく水道水に切り替えた。
「消毒水臭くなるんだよ。井戸水の方がどれだけおいしかったか!」
 関さんは残念がっていた。が、豆腐屋が店を閉めてもうだいぶ経ってしまった。

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2016年09月04日

下北沢X物語(3110)〜文士町の芸術の源泉:帝国音楽学校〜

CCI20160904_0000(一)「下北沢文士町文化地図」の改訂6版のキャッチを「文学と芸術と巨人伝説のまち案内図」としている。いわゆる「ウリ」だが、実質である。第一級の近代文学が編まれた場であり、巨人伝説の中心地であることは既に言い尽くしてきた。十数年に亘ってこのことは調べてきた。が、一つの存在が次第に明らかになるに連れ、この学校こそは当地域の芸術文化の鉱脈の基盤になるものではなかったか?それは帝国音楽学校である。
 
 物事に気づくということはある。発端は「帝国音楽学校の歴史」だ、wikiにはこの学校の沿革が記され「1931年 - バイオリニスト鈴木鎮一らによって設立された」、昭和六年に設立されたものだと書いてある。この記事に拠ったところ、wikiの記事は不正確だとの指摘があった。確かめてみると昭和2年に12月に都に学校の「指令案」、設置案が出されていた。

またこの学校の歴史に関しては、創設から廃校まで、その途中の内紛を含めて一人の芸術学博士が克明に調べあげていることを知った。久保絵里麻氏である。彼女が明治学院大に出した博士論文「鈴木鎮一と才能教育―その形成史と本質の解明」はネットでも閲覧できる。ぜひ参照されたい。

 典拠は資料に当たること、思い知らされたことから先日、世田谷区玉川にある東京都立公文書館に行き、学校の設置に関わる「指令案」を閲覧してきた。「昭和二年十月二十日付申請帝国音楽学校設置の件」とされたものだ。都知事宛「指令案」や「文部大臣宛」並びに「世田谷町長宛」の書類もある。町長宛末尾には備考とあり、次のように記されている。

 位置校地 小田急世田谷駅北方約三十間ノ大根畑地土地高燥付近ハ新開地ニシテ住宅疎ラ校地トシテ支障ナシ

 昭和2年12月の申請だとすれば駅は「世田谷中原駅」、三十間は駅北方58メートルというところだろうか。この当時、辺りには何も無い、大根畑が広がっていたということだ。「土地高燥」と申請者は記している、「東京府志料」には、世田谷代田の特色として「形成 高燥ナリ 南ハ高ク北ハ低シ」とある。これを参考としたものか。付近はまだ開けたばかりで住宅は疎らである。従って学校校地として全く差し支えないということだろう。

 音楽学校が出来れば楽器の騒音が聞こえてうるさくなる。今だったらそんな苦情を想定しなくてはならない。ところが、付近は大根畑が広がっているだけで住居はまばらだ。少々音を出しても全く問題ないということだろう。

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2016年09月02日

下北沢X物語(3109)〜検証:帝国音楽学校伝説供

CCI20160901_0001(一)人間存在に音楽は欠かせない、いい歌声を聴くと心が解放される。昨日、銀座王子ホールにリサイタルを聴きに行った。オペラ歌手の岡田尚之である。歌声を聴きながら地形的音楽論を思った。日本の音楽は「沢の音楽」、が、「オペラは峡谷音楽」ではないかと。山々にテノールが鳴り響くと、麓の家の重い木の扉がギィィイと鳴って開き、ふくよかな女性がその歌声に聞き惚れる、オペラを聴くとイタリアの原風景が浮かんでくる。それを彼は否定しなかった。今回、イタリアから帰ってきての凱旋公演、声量膨らみ、高低の出し方など一段と成長した。艶が出てきた。原語が分かるとか分からないという問題ではなくて、音楽はこちらに伝わってくる感動に他ならないと思った。しかし、その背後には絶えざる訓練や練習が横たわっていると想像された。

 自身では、帝国音楽学校での一コマを想像したことだ。
 駒沢線64号の鉄塔下の木造教室、歩くと床がギシギシと鳴った。ここで教授陣は、自分の理論を語った。その一人にモギレフスキー先生もいた。バァイオリンの大家である。
「君達いいか、これをこういうふうに稽古してくるように」
 先生は学生に課題を出した。ところが、その通りにやっていくと叱られた。それが学生たちには不満だったようだ。「一つなんとか鈴木先生からモギレフスキー先生に話してもられないか」と鈴木鎭一は頼まれた。それでただしたところ。

「スズキさん、昨日の私はね、今日の私ではないのです。一日たつと今日の私になっているから前にいったことに間違いや不備な点があれば、今日の私はそれを訂正するのです」
 私は感激して、
「あなたはすばらしい」
 と思わず先生の手を握りしめたことでした。
鈴木鎭一全集 第六巻 研秀出版 一九八九年刊


 音楽家としての絶えざる努力があらばこその話だ。舞台での晴れ姿の裏には間違いなく想像の及ばない訓
練がある。

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2016年09月01日

下北沢X物語(3108)〜検証:帝国音楽学校伝説〜

P1060102(一)日本でも第一級の、極めて濃密な音楽文化を伝授していた施設がある。世田谷代田にあった帝国音楽学校だ。一流の教授によって高度な音楽理論や演奏法などが伝えられてきた場であり、また音楽関係者の出会いの場でもあった。が、戦争を契機に学校が消滅したことですべてが忘れられている。当地域の文化を調べていくと大人だけでなく学童の音楽的感性の豊かさに行き当たる。バックボーンがあらばこそだ、つまり、音楽へ素養、理解、親和が戦前からあった。これには音楽学校の存在も深く関係していたようだ。ところが、この帝国音楽学校が何時発足し、何時無くなったのか、経緯が詳らかでない。

 下北沢、旧東北沢6号踏切脇の飲み屋でふと小耳に挟んだ情報だ。
「下北沢一番街の八幡湯のマンションにはエト邦枝が歌謡教室を開いていました。『カスバの女』を歌っていいました」
 女性歌手が住んでいたなどというのはこの街ではあり得る話だ。しかし興味をそそられたのは彼女が帝国音楽学校の卒業生であったことだ。調べてみると心打つ感動話だった。それでこの経緯を、「エト邦枝と『カスバの女』」という題でブログに書いた。その際、学校の歴史をウィキに拠った。するときむらたかしさんからこう指摘された。

  Wiki に書かれている、昭和6年設立の「帝国音楽学校」は年鑑のデータを含めても「存 在 し な い」うえ、昭和6年が、いわゆる「節目の年」でも何でもないことになるので、まず、その記述の信ぴょう性自体を疑ってかかる必要があり、そのまんま、それを敷衍してゆくのはやはり危険です。

 これ以来、学校の創設と廃校については調べなくてはと思っていた。

 つい先だって、松本を訪れた、ここには鈴木鎭一記念館がある。彼の足跡の果てである。
「全部の話が何でもかんでもみんな信州信濃に繋がります」
 信州に縁戚のある我らの会員の自慢話である。

 この音楽家の足跡はまさにそうである。世田谷代田、木曽福島、そして松本である。鈴木鎭一は、スズキ・メソードの元祖である。ここ松本で花開いている。バァイオリン奏者でもある彼は帝国音楽学校の校長を務めていた。それで記念館を訪れた際、館長の結城賢二郎さんに代田時代のことを尋ねた。が、詳しいことは分からなかった。それでも廃校についてはヒントが得られた。
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2016年08月30日

下北沢X物語(3107)〜会報第122号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第122号 
   
            2016年9月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、「北沢川文化遺産保存の会」第2回研究大会終了 

 先月8月6日、北沢タウンホール12階、スカイサロンを一日借り切って大会を開いた。「シモキタらしさのDNA」を語るをコンセプトに掲げて行った。ねらいは「消えゆく街の歴史を遺そう」というものだ。世田谷区教育委員会への後援申請も通り、広報「せたがや」にも掲載された。他団体、下北沢グリーンライン、世田谷ワイズメンズクラブの協力を得ることもできた。しかし、午前、午後、夜と三部からなる研究大会にどれだけの人が集まるのか正直不安であった。

 当初、10時から始まったとき、椅子は少なめに並べた。しかし、時間になると参加者が増えてきて、椅子をつぎつぎと継足した、安堵したことだった。一部から三部参加者の延べ参加人数は70名近くとなった。大盛況だったと言ってよい。

 まず午前は、下北沢の古老に語ってもらうという企画だった。三十尾生彦さん、伊藤文学さんがそれぞれに街の歴史を語った。三十尾さんは街の変化をつぶさに語られた。九十三歳の話は興味深い、かつては物売りの声が充ち満ちていたという。「いわしこー、いわしこー」という声が響いて聞こえてきたという。東京湾で採れたいわしを商う声だったと。金魚屋、風鈴屋、季節季節に街にはその声が響いていたと。
 伊藤文学さんは下北沢で興した出版業の盛衰を話された。都市中央の出版業から離れた地点で、独特の売れ口を探しあて、それが最後に凋落していくという話は、街の物語を聞くようでこれも面白いもののであった。

 午後は、研究会、本当に純粋な研究会だった。まずは、「下北沢交通史」(きむらたかしさん)、近世時代の道も含めての下北沢一帯の交通史を図表、写真などを使いながら詳しく発表された。恐らくはこれほどに詳しい交通史は当地域一帯では初めてことではなかったか、高く評価できるものである。

 二つ目の研究発表は「東京セロファン世田谷工場」(木村康伸さん)の歴史である。この工場のことは三十尾さんが初めて証言されたことから皆の知るところとなり、今回の発表に至った。地域の忘れられた歴史を掘り起こしたという点ではよかったと。
 このことから意外なことがわかった。世田谷工場ではなかったがこの会社に勤めていたのが当会の会員であった。セロファン工場は廃水が出る。それで近隣住民の苦情を聞くというのが仕事でもあった。やはり廃液の問題がどうしてもでてくる。よって北沢工場の移転は近代日本における公害史の一ページを飾るものかもしれないと彼はいう。その彼は苦情を聞いているうちに奥さんと出会って結婚されたという。

 今後のことである。この研究会をどうして行くかは課題だ。意義あることは間違いない。一つ言えば、いつまでもボランティア出演では済まされないということだ。今回は話していただいた方には、納涼会は招待とした。また研究発表された方には資料作成代として薄謝をさしあげた。高額謝礼は考えてはいないが一定の額は考えるべきではないか。
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 研究会や講演の謝礼は難しい問題だ。しかし、無償の奉仕活動というのもどうなのか。また、会場使用料や備品借用料金も経費としてかかる。今回の全日借り切って北沢タウンホールスカイサロンを会場として使った。部屋の使用料は31160円である。機器使用料7600円である。これは会の基金を活用して支払った。こういう経費をどのように生み出していくかは課題である。(左、当日の懇親会での記念写真)

 今後の展望  

 第3回目となる来年の研究会について決定したわけではないが、「三田用水」を研究テーマとした会を開こうと考えている。が、今回のようなベーシックな街の歴史を残そうという試みについては多くの方が興味を持たれた。今回、The Oliver L. Austin Photographic Collection の映写を行った。戦後の下北沢の街を鳥類学者がカラー写真で撮っていて往事の町並みが驚くほど鮮明に残されていた。空気感や臭いまでが伝わってくるものだった。この撮影された場所がどこであったかをきむらたかしさんが説明をする。すると会場から驚きの声が上がった。ビジュアルに街の変化がこれによって捉えられた。これを見て多くの人が過去風景を懐かしがっていた。
 終わった後に、自分も話してもいいという人が現れたり、また我らの関係者に小劇場を運営していた人がいたりしてびっくりしたものだった。
 今回会場として使ったスカイサロンは、改修工事に入る。来年夏は使えないようだ。それで一つの企画であるが、第四回ではやはり同じくテーマを「シモキタらしさのDNAを語る」にするのもよいのではないかと思う。
 長くこの街で店をやってこられた方、また、石坂悦子さんのように小劇場のオーナーをやって来た人などに街の隆盛を語ってもらう。計画としてはそんなことを考えている。

2、三田用水をめぐる会の開催

 代官山ステキ総合研究所は、まちづくりの一環として「緑の文化十字路」を構想されている。路の一端は、ここを通り抜けている三田用水を象徴されている。この用水は玉川用水を取り入れることから始まっている。その取り入れ口は我らのフィールドである北沢五丁目にある。そういう点でいうと縁が深い。今回九月に当会の二人、きむらたかしときむらけんとが招かれて話をすることになった。以下はその概要である。

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NPO法人代官山ステキ総合研究所 
                            地域の歴史を深堀する


代官山ステキサロン&懇親パーティ
<320年間、代官山エリアを流れていた三田用水の概要>

日時:2016年9月21日()開場6:00.開演6:30。
場所:HILLSIDE TERRACE E棟ロビー
参加費:お一人様3,500円


 渋谷・恵比寿・中目黒・池尻大橋。この矩形の広域代官山エリアに小さな用水(上水)が江戸時代、初期から流れていました。玉川用水から分枝し、西渋谷台地、白金台地の稜線を縫うように流れ続け、時代の要請を受けた役割を各地で果たしました。それが320年の歴史を持つ三田用水です。

 2020年には4000万人の外国人観光客が日本に訪れるといわれますが、江戸・東京の記憶が残るこの地の歴史を語れる方が少なくなっていることも事実です。それどころか、その存在さえ知らない方が増えているのは残念なことです。
 お話は三田用水研究の第一人者の方々です。皆様、お誘い合わせの上、ご参加ください。

三田用水の概要(敬称略) 

〇暗塚竸紊粒詰廖    〔畋次々А  |楼荵鵬函κ杆郢
 三田用水やその前身、三田上水と細川上水を国立国会図書館など蔵の絵図などをベースに解説。これまで膨大な三田用水関連資料を蒐集した動機、経過、結果の概略をお話しいただきます。また、三田用水研究の先行事例。さらに現状と今後の研究課題についても触れていただきます。                      
 
◆”景地形物語:三田用水        きむらけん  文化探査者・作家    
 風景や地形的な観点で三田用水を物語的視点で捉えてみようという試みである。日々近郊の荏原を歩き、都市荏原に眠る多くの物語を掘り起こしている。


 懇親パーティ(軽飲食あり8時頃〜)
     会員の方も当日参加の方も自由に名刺交換・意見交歓していただきます。


出欠表 (北沢川文化遺産会員、及び一般の参加希望者は掲出した参加票を印刷してください。)

 送付先:NPO法人代官山ステキ総合研究所 事務局
     〒150-0033 渋谷区猿楽町30-8 ツインビル代官山B-601 
 筺03−3496−1616 Fax: 03−3496−1604  E-mail: iwakin@aspi.co.jp


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3、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 共催 駒沢給水塔保存会・北沢川文化遺産保存の会
 〇都市東京の発展の礎、渋谷町単独の水道事業の痕跡を歩く。
 桜新町駅→大山道追分→真福寺→フラワーランド(トイレ休憩)→小坂邸(武家屋敷)→岡本隧道出口→岡本隧道入口→岡本民家園(トイレ休憩)→野川水道橋→砧下浄水所 →多摩川取水口→ 砧元村(バス停) 16時30分頃 終了の予定。


・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅南口改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
 芥川龍之介旧居跡→香取秀真旧居跡→與楽寺→天然自笑軒跡→東覚寺赤紙仁王→堀辰雄下宿跡→萩原朔太郎旧居跡→小杉未醒(放庵)旧居跡→田河水泡・小林秀雄旧居跡→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡 →山本鼎旧居跡→板谷波山旧居跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→室生犀星旧居跡→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→童橋公園→田端文士村記念館 
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口
下北沢の古写真の痕跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
 The Oliver L. Austin Photographic Collection には戦後の下北沢を鮮明なカラー写真で撮ったものがある。その現場を探し当て、昔と今とがどう変化しているかを皆で観察する。初めての試みだ。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記

▲「ミドリ楽団物語」〜戦火を潜り抜けた児童楽団〜えにし書房刊 2000+税
 8月9日に刊行。ネット通販が一番手に入るようです。ぜひお読みください。
▲8月13日、会員の発案で東演の「月光の夏」を北沢タウンホールで観劇した。この後の懇親会にも参加し若手の団員と交歓した。会員は他に呼びかけて調査や歩き、観劇などできる。当方に連絡があれば計画を会報に掲載したい。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2016年08月29日

下北沢X物語(3106)〜解放、開放、大会報122号〜

image1(一) 「今度のは第122号ですか。へぇ、驚いたな、よく続いたもんだ…」
 会報を印刷して事務局の「邪宗門」に昨日届けた。マスターの作道さんが言う。自分では毎月の仕事としている。会報の原稿を起こし、三軒茶屋のキャロットタワー三階の市民活動支援コーナーで印刷をする。言ってみればルーティン、深く考えたことはなかった。
「そうか、毎月一回だから計算すると十年二ヶ月となるわけだ!何とも恐ろしいことだ!」
 十年一日という諺がある。「長い年月の間、何の変化もなく同じ状態であること」をいう。繰り返し繰り返し同じことを行っていると、その間に月日が経ったことに気づかないでいる。
「もう十年も経ってしまったんだ!」
 気分として会報の玉手箱を開けたような思いがしたものだ。開けたとたんに透明の煙が立ち昇ったようだ。それで何だか急に歳を取ってしまったような気がする。
 そういえば資料を探していると会のみんなと撮った写真が出てくる。安吾文学碑の完工、横光利一文学顕彰碑の建立、比べると老けてみえる。人は気づかないうちに歳を取っていくのだ。


 会報では毎月の街歩きを案内している。この九月は「駒沢給水塔の水路を歩く」、これは120回目、これも十年目を迎える。正確な数は分からない。が、折に特番行事なども入れていた。参加人数は延べで2000人ぐらいにはなるのではないか。

 十年目を迎えるのは幾つもある、来年「戦争経験を聴く会、語る会」、また、「世田谷の戦跡を巡る」も同じだ。研究紀要も今年度発行するがテーマは「ダイダラボッチ」、第5号となる。発刊して五年が経つことになる。またついこの間始めた、「北沢川文化遺産保存の会・研究大会」は三回目を迎える。

 しかし、会があったらばこそ自分がある、と言える。人間死ぬまで何をするかということは大きな問題だ。動いて、考える、これが人間である。我らの会はこれを実践している。まず動く、これは歩くことだ、歩き回ってその土地を知る。文化探査である。

 これだけではない、戦争経験者の話、古老の話を聞いて過去を考える。大事なことである。歩いたり、考えたりを常に私たちはしている。これが活動の原動力ではないだろうか。

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2016年08月27日

下北沢X物語(3105)〜疎開学童資料に見る戦争の断面検

P1060095(一)世田谷の疎開学童の手紙、葉書、そして証言が近代戦争史をあぶり出した。それは浅間温泉に数多くの特攻隊員がいたことを証した。昨秋、長野県護国神社境内に特攻勇士の像が建立された。これには世田谷の疎開学童と彼らとが触れ合ったことが刻まれた。除幕式では当会が調べ上げたことが機縁になったとの挨拶が述べられた。

 武剋隊、武揚隊、ともに浅間温泉で一月余りの滞在を強いられた。偶然当地には都会から来た大勢の疎開学童がいた。未来ある命は彼らには輝かしく目に映った。死に逝く命が彼らに思いを託したのは自然だ。昭和二十年三月二十八日に武剋隊後発組六名はは松本飛行場を発って各務原飛行場に降り立った。そして航空路兵站宿舎に落ち着いた。時枝宏軍曹はこの日千代の湯の松本明美さんに、「元気な明ちやん達とお別れして急にさびしくなつてしまいました」と葉書を書いた。翌、二十九日、佐藤正伍長は梅の湯の石井貴和子さんに「貴和ちやんもお元気で書きたい事は山々あれど書かん」と書いて葉書を出した。後者には拗ねたような思いが見て取れる。

 時枝宏さんの葉書は四年前の2012年の「戦争と平和展」で展示された。松本から飛び立った特攻隊員が一人の女児に葉書を出した。人々の関心を惹くものだった。見学者がガラスに顔をくっつけて懸命にこれを読もうとした。このときの学芸員の毎日の仕事は顔の脂をぬぐうためにガラスを拭くことだったと。

 今回は佐藤正伍長の葉書が展示されている。「葉書と書簡をめぐる物語については、きむらけん氏の著書『忘れられた特攻隊』に詳しい」とある。これを読まないと経緯は分からない。今回の展示では脂汗がつくようなことはないようだ。

 武剋隊後半組の二人が、それぞれに各務原から浅間温泉にいる女児に葉書を送っている。思慕を綴ったものだ。四十日近くともに過ごしたことでその子に情が移ったということはあるだろう。当初、250キロ爆弾を装着する予定だったがそれが500キロ爆弾に変更になった。これが滞在を長引かせる結果となった。

「その装着変更がなかったら我々もこうやって毎年、浅間温泉で鉛筆部隊同窓会を開くこともなかったですね」
 24日夜、皆で集まった。鉛筆部隊の田中幸子さん、鉛筆部隊の故鹿子木幹雄さんの奥さん、真理子さん。武揚隊遺墨発見のきっかけとなった安曇野の丸山修さん。そして鉛筆部隊の手紙類を手に入れた山梨市の矢花勝己さんだ。それともうすっかりおなじみとなった目の湯の主人中野さんだ。

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2016年08月26日

下北沢X物語(3104)〜疎開学童資料に見る戦争の断面掘

P1060093(一)24日、松本博物館で開催されている「戦争と平和展」を見に行った。寄贈した佐藤正伍長の遺品がケースに収められ展示されていた。「疎開児童と特攻隊員」というタイトルがそれにはつけられていた。学童と隊員との深い交流を示す証拠である。

 この夜、「鉛筆部隊と特攻隊」の取材で知り合った人たちと出会った。浅間温泉目の湯旅館である。武剋隊将校が宿とした旅館で今もそのままの佇まいで残っている。彼らが宴席を張ったであろう部屋で皆とは一献を傾けた。

「どうも新京からここにやってきた特攻は本部直轄部隊で別格だったようですね……昭和二十年二月に発足しています、第二航空軍は盛大な壮行会を開いていますね…」

二月十日  新京にて特攻隊四隊の編成及集結完了。満州
         国皇帝に拝謁、記帳、恩賜品の下賜、建国神
         廟の参拝等行う。関東軍、第二航空軍主催の
         編成及出陣式並びに特攻四隊の全員出席して
         盛大な壮行会を開催。
「読谷村史」第五巻 資料編四 「戦時記録下」 2004年刊


「この特攻四隊のうち武剋隊と武揚隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて長逗留してしまうのですよね。ところがこの二隊だけが長逗留してしまうのです。浅間温泉に疎開してきた学童たちは温泉に宿泊していた彼らと顔見知りになっています。ところがほとんどその名前は覚えていないのですね。滞在が短かったからでしょう。ところが武剋隊と武揚隊の隊員の名前は覚えていました。滞在が長かったことで接触する時間も多かった。それが理由ですね。でもここに謎があるのですね。彼らはどうして長くここに泊まっていたか?」
 
「段々分かってきましたが、特攻二隊は特別仕様の爆弾をつけようとしたみたいです。特攻機に装着する爆弾は250キロ爆弾が普通だった。ところが彼らの場合は違っていたようなんです…」

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2016年08月24日

下北沢X物語(3103)〜疎開学童資料に見る戦争の断面供

CCI20140511_0013(一)世田谷の疎開学童の日記や手紙から埋もれた戦争史が見えてくる。東大原小の疎開学童だった太田幸子さんの日記には昭和二〇年『三月二十八日(土)午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかへりもした』と記録している。武剋隊後半組が先陣の大戦果の報を聞いて、「いざ沖縄へ」と旅立った日である。ここにそれぞれの戦隊の明暗がみてとれる。

 すなわちこの吉原さんは、武剋隊の兄弟隊である武揚隊の隊員である。武剋隊が大手柄をたてた。一段と気がはやる。一刻も早く特攻突撃をしたい、が、全機の整備ができていない。隊長山本薫中尉は分散出撃はしなかった。隊の一員、吉原香軍曹は同宿している疎開学童に腕を見せてやろうと富貴の湯上空で宙返りを見せた。この記述は、まだ武揚隊が浅間温泉に滞在していたことを示す。

 一方、武剋隊後半組は前半に続けと、二十八日各務原を発った。六機のうち一機佐藤正伍長は編隊から離れて浅間に飛んだ。この編隊機の長は誰かという問題はある。小林勇少尉か、金尚弼少尉か。これは大きな論争になっている問題だ。

 いずれにせよ、後半隊の隊長に断っての離脱だ。単機での分散行動を許したのは彼の思いを長は知っていたからだろう。佐藤正伍長は浅間に別れがたく、ここに飛来してきた。低空で急降下をして何度も梅の湯上空を旋回した。ところが偶然、これを見ていた少年が日記に絵と文字を書き残していた。三月二十八日とある。

 けふは朝、ねつがさがったのでおきました。そしておひるからみんなかわにあそびにいきました。そしてみずのひっかけっこをしました。そしたら飛行機がすごくてい空をとんできては急こうかをします。ぼくたちは夢ちゅうでようふくをふりました。

 飛行機好きの少年だけに絵は巧い。単発、複座、機首を巻いている帯、そして特徴的なことは操縦席真上のアンテナ、この先端から尾翼へアンテナ線が繋がれている。これが描き込まれている。
CCI20150912_0000

 彼らの搭乗機は、九九式襲撃機である。「主翼前縁にスラット」、「視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計」されている。それらの特徴が絵と符合する。偶然、大槻さんは、女児に別れを告げにきた佐藤機を描いたのでないか?

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2016年08月23日

下北沢X物語(3102)〜疎開学童資料に見る戦争の断面〜

CCI20130815_0000(一)世田谷の疎開学童たちが残した日記、手紙などに近代戦争史が埋もれている。今回、その一部が松本博物館で開かれている「戦争と平和展」で展示されている。この資料の価値づけを含めて、戦争史の一端に触れてみたい。展示されているのは誠第三十二飛行隊、武剋隊隊員佐藤正伍長の遺品である。彼は、昭和20年4月3日、宮崎新田原飛行場から特攻出撃し帰らぬ人となった。
 
 昭和二十年(1945)二月十日、満州新京で特攻隊四隊の編成が行われた。扶揺隊、蒼龍隊、武剋隊、武揚隊だ。後者の二隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて、ここで特攻機用に仕様を変えるための改修を行った。四十日あまりの滞在期間中に彼ら隊員は浅間温泉に疎開していた学童と出会って交流を重ねた。死地に赴く彼らと若い命とが出会ってドラマが生まれた。

 武剋隊の動向については隊付きの整備兵佐藤曹長が手記を残している。これに満州新京から行程が記録されている。が、この武剋隊十五機は整備の遅れが生じたことから前半九機、後半六機に別れて松本から飛び立っている。佐藤曹長は前半に付いた。それで後半の隊の動向は詳らかではない。ところが疎開学童資料がこれを記録している。

 今回の展覧会では、当方が寄贈した佐藤正隊員の遺品四点が展示されている。そのうちの一枚が葉書である。まずはその表書きだ。

長野県松本市外浅間温泉梅の湯旅館内玉川国民学校
  石井貴和子殿
 
 岐阜県稲敷郡那珂町各務原航空路兵站宿舎内 
          佐藤  正
三月二十九日


  後半隊は六名である。浅間温泉の三つの旅館に分宿していた。この手紙、梅の湯に疎開していた女児に宛てられたものだ。ここには少年飛行兵組の三人が宿泊していた。佐藤正伍長、佐藤英實伍長、古屋吾朗伍長である。千代の湯には航養組の時枝宏軍曹が、また目の湯に将校の小林勇少尉、金尚弼少尉がいた。

 後半組六名は、陸軍松本飛行場を飛び立ち、一旦各務原飛行場に立ち寄った。それが「航空路兵站宿舎」である。

 当時、新田原、各務原、立川などには、特攻隊員を主とする空中勤務者専用の航空兵站宿舎があった。いずれも食糧事情の悪いところだけに、国民大衆にたいしていささか申しわけない感がしたが、宿舎ではできうる限りのご馳走をつくって最大限のもてなしをしてくれた。 「特攻隊の裏方」 飛行第一○八戦隊 菱沼俊雄 
 「会報 特攻」 平成一三年二月刊
 
 
 こうやって引用しているが不思議だ。双発高練に搭乗して菱沼大尉は各務原に飛来してきた。そして、昭和二十年三月「二十九日と三十日は那珂町(岐阜と各務原のあいだにある)の航空兵站に泊まったのであった」(「特攻隊の裏方」)と記している。つまりは佐藤正伍長と同じ宿舎にその日泊まっていたということだ。

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2016年08月21日

下北沢X物語(3101)〜夏再び「戦争と平和展」松本博物館〜

CCI20160819_0000兵は、いくさびとのことだ、兵器は、いくさびとが用いる武具、人間が敵を倒すための道具である。大事なことは人間が関わるものだという点だ。いくら兵士が勇敢だとしても使えば自分までが消滅するものを果たして兵器と呼んでいいのか?「核兵器」はこれに当たる。広島、長崎の経験は、残酷な核への認識ではなかったか。赤ちゃんも、子どもも、女も、爺さんも婆さんも一緒くたに皆殺しにするものだ。落とされた瞬間にすべては吹き飛ぶ。驚いたことに途中の建物一切合切が無くなり、広島湾に浮かぶ沖合の似の島が見通せた。戦慄する恐怖の爆弾だった。核は兵器ではない。あんなにも酷い武具だ。兵器ではなく、人類抹殺機、人類破綻装置だ。兵器と呼称するから平気でこれを使おうとする。核の使用を世界全体で禁止しようという「報告書」への採否が国連で行われたが日本は棄権をした。根幹は日本が米国の「核の傘」に依存しているからだ。人間抹殺機ということを知りながらこれによって自分を守っているのは根本的な疑問だ。アジアでは絶対に使わないとの他国との交渉を主導して核の傘から脱却すべきだ。唯一の被爆国の責務ではないか?、原爆被害者への誓いは、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」だった

(一)終戦記念日を迎える夏は、戦争戦争でたて込む。六日は原爆忌だった。この日、「戦争と平和展」が松本市博物館でオープンした。この式典に招かれていたが私たちの主催する研究会と重なったために欠席をした。

 四年前の夏、博物館を訪れたときにびっくりしたことがある。
 この頃、世田谷の疎開学童の取材を続けていた。その関係で下馬の太田幸子さんのお宅に伺った。彼女は東大原小の疎開学童だった。往事の克明な日記を見せていただいた。富貴の湯の上空で吉原さんが宙返りしたと書いてあった。調べていくと、この彼は、誠第31飛行隊、武揚隊の吉原香軍曹だった。特攻隊員の彼は旅館富貴の湯に宿泊していた。
「その時の写真です」
 彼女は一枚を差し出した。富貴の湯の庭で東大原小の女児たちと特攻隊員の数名が一緒に記念写真に収まっていた。その瞬間歴史の秘密に触れたように思ったことだ。
P1030097

 びっくりしたというのはこの写真のことだ。博物館玄関の右に大きな立て看板があった。これにこの写真が堂々と飾られていたからだ。まさに日の目をみた写真だ。

ところがここに写っているのは武揚隊の隊員ではなかった。これは写真照合で分かった。では、誰だったのかこれはいまだに分からない、謎である。

 つい二三日前、博物館から今回の展示の写真目録が送られてきた。これを見て私が寄贈した遺品が展示品として飾られていることを知った。

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2016年08月20日

下北沢X物語(3100)〜「カスバの女」と帝国音楽学校検

P1060088(一)人は時を生きる、このブログも時とともにある。今回の記事の回数は、3100である。多くの人と出会い、多くの話を聞いてきた。その証言を載せてきた。始まりを調べると2004年8月31日だ。間もなくで12年なる。出会った人は千人は超えるだろう。証言された方で亡くなられた方も少なくない。年月はそっと過ぎてゆく、「時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」と詠んだのは白秋だ、この結びは、「時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく」だ。「時は逝く、ブログのアラビア数字の一つ一つが増えゆくたびに…」…。

 エト邦枝、一旦は歌手として華やかなスポットライトを浴びた。が、レコードは1776枚しか売れなかったと。すぐに歌手は廃業して下北沢で歌謡教室を開いて糊口を凌いだ。臥薪嘗胆、「カスバの女」が突然に脚光を浴び、本家本元の彼女は舞台に立ってこの歌を歌った。「苦節十二年、エト邦枝が歌う、『カスバの女』です」と紹介されてマイクを握る。スポットライトはきるんと目に光った涙を一瞬に映した。最高の時だったろう。

 が、栄枯盛衰、盛者必衰、人は老いて亡くなる。一人の女性の軌跡を追った。終焉の場所へ赴いた。そこは深沢五丁目十三番地、長谷川病院である。本通りの江戸道から脇道に入る、その左手に大きな建物があった。三階建てである。診療科目は、「内科、消化器科、肛門科、外科、整形外科」とあった。総合病院だ。しかし、何となく佇まいが静かである。人の出入りがない。不思議に思って玄関を覗きこむ。すると張り紙があった。
P1060089

 休院のお知らせ
 当院は昭和28年開院以来、皆様に多大なご支援を賜り診療にあたらせて頂きましたが、院長体調に不安を生じ、平成27年10月31日(土)をもって当分の間休院することになりました。
 患者さまには都合で休院することに対しお詫びいたしますとともにこれまでご愛顧賜りましたことをスタッフ一同感謝申し上げます。


 院長の高齢化による引退で病院を閉めたとのことだ。が、この張り紙によって分かったことがある。開院は昭和28年であるということだ。彼女は、昭和62年(1987)3月13日に亡くなっている。恐らくは救急搬送でこの病院に下北沢から運び込まれたものだろう。

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2016年08月18日

下北沢X物語(3099)〜「カスバの女」と帝国音楽学校掘

P1060050(一)文士町には人の盛衰物語がひっそりと隠れている。先だって六日、北沢タウンホールで研究会を開いた。二人の古老の話を聞いた。一人は伊藤文学さんだ。当地で親から引き継いだ出版業を続け、従来の文芸路線から脱却し際物へと舵を切った。これが大成功する、雑誌『薔薇族』である。が、インターネットの普及によって売れ行きが悪くなり、とうとう廃刊の憂き目に遭ったと。
 
 最盛期には儲かりに儲かって西洋アンティークを飾る美術館まで作ったほどだった。文学さんの出版は土地の文化と結びついている。出版辺境の地ゆえの男色という新手のジャンルを見出し成功した。興隆物語のなれの果てだ。いつだったか住む家まで小さくなったと嘆いていた。

 エト邦枝の場合は、これとは反対に事業規模が大きくなっていったようだ。「カスバの女」で打って出たがヒットせず、発売後三ヶ月で芸能界を引退した。そして下北沢で歌謡教室を開いた。恐らくは細々と始めたのだろう。しかし、段々に人気が高まっていった。杉村京子さんは、「練習場所は三室ありました」という。当初は一室だったが繁盛するにつれ、次第に部屋を増やし三室まで確保したのだろう。

 彼女は、歌謡教室で教えるだけでなく、「後は観光バスガイドの指導を10年間務め」(ウィキ)たという。全国から観光バスガイドが東京に研修にやってくる。このときに歌唱指導などを行った。帝国音楽学校で声楽をみっちりと習った彼女は、教え方も確かだったのだろう。持ち歌を若いバスガイドにきっちりと仕込んだ。

 バスガイドらは先生であるエト邦枝に実地指導では誉められた。こぶしまわしがすばらしいとか、音感が優れているとか。田舎に戻った彼女らは先生に誉められた歌声をバスの中で披露する。

 ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く

 と歌った。函館で、金沢で、長崎で、鹿児島で、すると地方の観光地ではこれが流行るようになった。辺境を歌った音楽は深く人々の印象に残る、高度経済成長期にあった男たちは忙しい、日常から抜け出てさすらってみたい、彼らの願望でもある。これがカラオケで歌われるようになる。するとそれを聞いた女がまた歌う。次第次第にこの歌は全国に行き渡った。

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2016年08月17日

下北沢X物語(3098)〜「カスバの女」と帝国音楽学校供繊

P1060078(一)文士町という呼称は都市文化論への問題提起である。普通は、村だが、町と形容している。人との関係性が濃厚なのは村だ、が、町の場合はこれが希薄である。偶然的要素によって人が集って生活をしている。大元は分かっている、電鉄線の交差が大きな要因だ。機械が作り出した因縁はなかなか分からない。が、それがふとした機会に分かることがある。町物語のおもしろさだ。
 
 文士町は都鄙境物語である。知られなければ永遠に埋もれる、これが偶然分かることがある、「へぇ、そうだったか!」と。「マコト」の話も、マコトに面白い。故松林宗惠監督「ここに『マコト』という喫茶店があった」と下北沢駅北口の一角を指しながら教えられた。だいぶ探し回った揚句、「マコト」はまことにあった。多くの映画人、芸能人が出入りしていた喫茶店である。この「マコト」とつながりの話はひょっこり、ぽっこりとマコト不思議に後になって掘り起こされる。

 北沢四丁目の古老、三十尾生彦さんは、座間キャンプを慰問した。このときにプロモートに加わっている。慰問団は、灰田勝彦とその楽団、コメディアン坊や三郎。そして日本舞踊の名取藤間間七龍師匠であったと。
「浦島太郎物の早変わりの踊りに米兵は度肝を抜かれていました」
 この踊りの師匠に渡りをつけたのは三十尾さんだった。すぐ近くに住んでいたからだ。
「灰田勝彦と坊や三郎に渡りをつけたのは『マコト』のマスターだったと思います」
 これはついこの間、聞いた話だ。マコトのマコトだ。

 「シモキタらしさのDNAを語る」という研究会を行ったが、打ち合わせのときに聞いた話だ。エト邦枝のことも偶然杉村京子さんから得た話だ。「カスバの女」を歌ったエト邦枝の逸話だ。

「カスバの女」は、昭和30年(1955)に発表された。このときの経緯を「早すぎた流行歌 「カスバの女」〜大高ひさを作詞 東京・下北沢〜2010年4月9日(朝日新聞)は記す。

 テイチクは歌手にエト邦枝を考えていました。低いアルトと日本人離れした顔立ちが、この歌のイメージと重なったのでしょう。けれど、不幸なことに、映画主題歌として発売された「カスバの女」は、肝心の映画が中止になったため、社内の話題にもなりませんでした。失意のエトは3カ月後に芸能界を去り、小田急線の下北沢駅近くに歌謡教室を開きました。

  その歌謡教室はどこにあったのだろう。ネットで調べてみると、ここに通っていた人が、「東北沢4号または5号の踏切に近い場所にあった歌の教室」と記している。いまや踏切はすっかりなくなった。が、こういう踏切話に出くわすと俄然興味が湧いてくる。
「踏切の警報音とセッションをしながら『カスバの女』が歌われていたのでは?」
 すぐに妄想が湧いてくる。しかし、この人踏切のことについてやけに詳しい。踏切を号数で言う人めったにいない。
 4号は、交番前の踏切だ。5号は路地踏切だ、ここでは轢かれたり、自殺したりして何人もが死んでいる。
「あそこはおばちゃんの踏切と呼んでいました」
 鉛筆部隊の立川裕子さんの姪御さんから聞いた。叔母が自殺したからだ。これで思い出したのはここを渡ろうとして急に立ちすくんで動けなくなった子がいた。確か大月文子おばあちゃんの孫だったと思う。その話を聞いた霊媒師がたまたま大月菓子店に来ていて、「えぃ、やっ」とたちどころに気合いを掛けたところ、悪霊は消え去ったと…。
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2016年08月15日

下北沢X物語(3097)〜終戦記念日、核兵器は人類絶滅機〜

CCI20150805_0000(一)
「つくづく敗戦の惨めさを目前に見せつけられ、戦争などという事は孫末代までも生涯かけてすべきものにあらず」
 世田谷の代沢小学校の学童は信州に疎開した。その疎開先のお寺、真正寺のお上さん、橘弥生さんが日記に書き残されていた文言である。このお寺には、音楽好きの子が集まって毎日音楽に明け暮れていた。が、彼らは昭和二十年十一月一日、ここを発って東京へ引き揚げた。それまでは毎日学童たちが演奏する音楽が賑やかに鳴り響いていた。去った後には、今度は、「ドカン、ドカン」という響きが聞こえてきた。進駐してきた米兵が陸軍松本飛行場に残されていた数多くの日本軍の重爆撃機や戦闘機をダイナマイトで破壊した。彼女の息子たちは飛行場へ動員で駆出されこの虎の子を懸命に守っていた。それが敵の手に渡り、つぎつぎに壊されていく、聴くに堪えない音だったと。

 「戦争はどうあってもやってはならぬ」、一旦始まった戦争は何人死のうとも終わらない、人の生き死によりもメンツが重んぜられた。負け方の体裁を整えるためだ。国民はその間ただただ殺される。特攻に行って飛行機が不調で帰ってくると「どうしてお前は死ななかった。仲間に申し訳ないではないか」と問い詰められた。最後の本土決戦になって、竹槍で迎え撃て、それが駄目だったら敵の金玉を蹴り上げろ。全く無茶も無茶、戦略も何もあったものではない。

 わたしたちは戦争経験を聞く会、語る会を九回続けてきた。動員学徒の人々に来ていただいて話を聞いた。彼ら知性ある者が、「物力には負けるが精神力では日本は敵の何倍もの力がある」と信じて戦ったと言われた。

 しかし、現実にはどうころんでもまともに戦えない敵の圧倒的な力を見せつけられた。墜落したB29に備えられた給湯器は紅茶か珈琲を好みによって選べるものだった。搭乗員は全員パラシュートを装着していた。海上への不時着に備え救命ボートまで備えられていた。救急バックには何と釣り針まで備えてあった。

 以前、元特攻隊員だった久貫 兼資さんにお話を直接伺ったことがある。特攻機に乗って敵艦撃沈に向かったが機の故障で不時着して生還した方である。
「特攻は最も安上がりの戦法だった」
 と言われた。中古機に爆弾を装着し人間が操縦して敵艦に体当たりをする。そして死んだものは神様にする。機材は低廉、死んだ後には神になると言葉でいえばよい。間違いなく低廉で安上がりだ。戦争末期劣勢は明らかだった。本土の諸都市は空襲によってことごとく破壊された。が、国家は自殺に等しい本土決戦を声高に叫んだ。とことん追い詰められた揚句、国家存亡の危機とか言い、ついには特攻戦法に切り替える。作戦の不手際を人間爆弾という最後の手法として使った。兵士という駒を人間としては見ていなかった。
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2016年08月14日

下北沢X物語(3096)〜「カスバの女」と帝国音楽学校〜 

P1060076(一)一昨日元疎開学童の松本明美さんから葉書が来た。「あと二日で十二日です、七十二年前、浅間に出発した日がきます」と。世田谷の代沢国民学校は昭和二十年八月十二日に下北沢駅を発って、浅間温泉に向かった。当事者には忘れがたい日である。都会育ちの彼らが音楽会や演芸会で芸を披露する、地元の人は度肝を抜かれる、歌にせよ、踊りにせよ、巧みだった。当地、下北沢鉄道交点の芸能文化の反映である。ピアノを習ったり、日本舞踊や洋舞をたしなんだりした子がいた。いとも簡単に芸を披露してみせた。

 再疎開先の洗馬真正寺での音楽会に見事に日舞「絵日傘」を舞った子どもがいた。学区域には藤間流名取藤間勘七龍が教室を開いて教えていた。
「多分、そこに踊りを習いに行っていた子でしょう」
 北沢の古老三十尾生彦さんが言う。彼は戦後に米軍厚木基地を慰問している。灰田勝彦、坊や三郎、そしてこの藤間勘七龍が芸を披露した。大受けに受けた、下北沢に戻ってジープ一杯の戦利品をほくほく顔で山分けしたという。

 先日六日、北沢タウンホールの12階を一日借り切って研究大会を開いた。「シモキタらしさのDNAを語る」がテーマだった。この準備会を旧東北沢六号踏切前の大庄水産で行った。このときに居合わせた杉村京子さんから聞いた話がある。
「『カスバの女』を歌ったエト邦枝さんは一番街の八幡湯のマンションに住んでいました」
 その歌手の名前はメモした。が、何でもすぐになくしてしまう。ところが「カスバの女」は覚えていた。
 
 調べるとすぐにエト邦枝だと分かった。元演歌歌手が八幡湯のマンションに住んでいた。そう驚くべき話ではない。ところが興味を惹く点があった。この彼女「帝国音楽学校」卒業生だった。
東演納涼会A 
 学校は、下北沢の西隣世田谷中原(代田)にあった。昭和六年に創設されたこの学校は、戦争中の昭和二十年五月二十五日の空襲で焼失してそのまま廃校となった。高圧鉄塔64号のそば建っていた。
伝説の音楽学校だ。先だって世田谷代田の和菓子の老舗「香風」が閉店した。かつてここの二階に喫茶室があって音楽学校の学生がよく出入りしていた。やはり、音楽家を志しているゆえに服装もおしゃれだったようだ。しかし、音楽で身を立てることは容易ではない。ぼろぼろの服を着た苦学生もいた。

 エト邦枝も「香風」に来ていたろう。仲間と将来を語りあった。彼女、音楽があらばこそ数奇な運命を辿る。
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2016年08月12日

下北沢X物語(3095)〜青春18切符で旅にさ迷う供繊

P1060075(一)青春18切符に対置される旅は、豪華客船の旅だ。後者は人気があるらしい。巨大な船の設備は豪華だ。劇場やプールなどもある、酒池肉林、酒は飲み放題、肉も魚も食べ放題。が、こんな旅に私は我慢できない。やはり青春18切符程度の質素さがよい。何と言っても豪華なのはめくられる景色である。移りゆく景色を眺めながらぼんやりとしている時間は、何物にも代えがたい。

 民族学者宮本常一は、父親から「旅の十訓」を授かった。その第一、これがよい。

一、汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か藁葺きか、そういうことも良く見ることだ。

 移動していく汽車からは土地が観察できる。家の造り、屋根の瓦の色、畑の作物、お墓の弔い方など。その土地その土地の固有性が出ていて面白い。
P1060073

 さて、さすらいの話だ。当日、浅間山南麓小諸市塩野あたりをさまよい歩いた。仲間の別宮さんからは、コメントがあった。「古道歩きには事前の調べは欠かせない」と。が、自分には漂流願望がある、必ずしもそこに行き着かなくてもよいというのがある。途中、藁葺き屋根の古民家には幾つも遭遇した。偶然ゆえに得がたいものだ。あてずっぽうの流離い旅の醍醐味だ。

 地方では歩行に価値はない、都会からの酔狂人がほっつき歩く程度だ。田舎にはすっかり車社会が定着している。かつてはどこに行っても道しるべはあったが今はない。カーナビの普及で必要がなくなったからだ。思えば迷った道にほとんでしるべはなかった。そしてまた道を聞こうにも人がいない。結局、十数キロ歩いたところでコンビニ辿り着き、タクシー会社に電話して車で駅までは乗っていった。小諸駅だ。

 信越線、小海線、中央線経由はもう昔から乗り慣れている。車窓を楽しむコースとしては一番よい。信越線はなくなって18切符が使えないJRバスやしなの鉄道に乗らなくてはなならない。これはこれでまた異文化を味わえる。ところが、この味わいのある各停旅行の小海線、ひところよりも乗客が減った。

 もっとも特徴的だったことは野辺山から団体が乗り込んできたことだ。彼らはつぎの清里まで高原列車の旅を楽しんで降りてしまった。バスのツアー客である。
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2016年08月11日

下北沢X物語(3094)〜青春18切符で旅にさ迷う〜

P1060074(一)このところずっと気を張って生活をしてきた。やっと仕事が一段落したことで旅心が湧いてきた。「山国の古街道でも歩いてみようか」と。それで、一昨日の九日、まずは新宿湘南ラインで高崎に向かった。ここからは信越本線の残存路線で横川まで向かう。かつて碓氷峠に材をとった物語を書くために何度も通ったところだ。鮮明に残っている記憶がある。

「トンネルの幕を引くときは釜をおっかぶせるにようにロープを操るんだ!」 

 碓氷峠には二十六箇所ものトンネルがあった。隧道番がここに居て、機関車が隧道に入ったとたんに幕を被せる。そのコツを隧道番の息子さんだった人から取材した。
煙害を防ぐための幕引きは危険な仕事だった。一歩誤れば命を失いかねない。が、この話そんな昔のことではない。碓氷峠に鉄道が敷設されたのは1893年だ。わずか123年前のことだ。116年前にはこんなことで人は自慢していた。これは小田原のことだ。

「ついこの間までは駕籠か草鞋がけだったんだからな。それがどうも芝居見物にでも行くようなこしらえで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでお午後時分には着いて仕舞おうてんだかから大層なものさ。」   「熱海線私語」 牧野信一

 熱海と小田原の間に人が押す人車鉄道が開通した。そのときの喜びだ。時の移ろいの速さを思う、私は車窓からぼんやりと妙義山の山並みを眺めながら思った、ここ百十数年の間に驚嘆すべき交通の進歩の発展を。自身の記憶にある六十年だって恐ろしいほどの変化だった。速く、速くという貪欲さはとどまるところを知らない。外は見えなくても地下を潜ってでも名古屋や大阪にたちまちに着くというリニアを建設し始めた。旅は車窓にこそある、が、これをも抹殺してしまおうというのだ。

 横川から軽井沢までの在来線は廃止された。この間をJRバスが運行している。碓氷バイパスを通っていく。思い起こされるのは事故だ。今年1月15日、ここの入山峠で起こった「軽井沢スキーバス転落事故」である。痛ましい事故だ、乗客の多くは若者だ、15人が亡くなった。路線バスはその現場を通っていく、峠を上りきったあたりに痕跡があった。献花台に花束が見えた、現場は、いまだにガードレールが曲がっている。魂がうめいた痕跡だ。が、大事故の現場は一瞬にして過ぎる。そして車内には軽井沢へ向かう満員の乗客の安息感がある。自分も含めて事故とは無縁な日常を我らは生きている。
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 軽井沢からは「しなの鉄道線」に乗る、するとすぐに「中軽井沢駅」となる。昭和31年、「沓掛駅」だったものを変更した。味わいのある地名だが、経済宣伝を優先した結果これは消えた。「旅人が草鞋や馬の沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれる」地名だ。

 いつもここを通る度に、味気なさを感じる、ところが、この隣の駅名はそのまま残っている。「信濃追分」だ、地名からして詩的で素敵だ。名峰浅間山と信濃追分、ことばの響きを聞いただけでもうきうきとしてくる。
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2016年08月09日

下北沢X物語(3093)〜都市下北沢の興隆史研究供

P1060047都市興隆史は面白い。しかし興って隆盛する様を見ていた人がいなくてはいけない。その経過をじっくりとみて観察していた人の証言は貴重である。しかし今回の反省である、歳を重ねた人を古老だとすぐに形容しないことだ。伊藤文学さん、古老と言われて驚いたと言われる。女性の胸元に熱い魅力を今も感じ続けていると言い切った。そんな人にはあまりいい言葉ではなかったようだ。古老、人生の熟成者とでも言い換えようか。

(一)
 街の発展と衰亡、見た目には栄えてはいるが生活はしにくくなっていると。かつて生鮮三品は多くあった街だが今はこれがない。それで隣町の三軒茶屋まで当地から買い物に行っている。三軒茶屋と下北沢とを結ぶ小田急シティバスは繁盛している。下61は自分でも愛用している。野沢から三軒茶屋に着くとシルバーパス該当者と思われる人たちが長蛇の列をなしている。
「あの三軒茶屋に行くと、まず食べ物のにおいがする。それと売り手の声が聞こえる」
 古老の三十尾さんはそう言っていた。そう太子堂の商店街は揚げたての天ぷらを売っている。そしてそのはす向かいでは今日はスイカが安いよとの声。

 一月に続いて再び、三十尾生彦さんに今回も話していただいた。脳という記憶箱に抽斗があってそこに逸話を眠らせておられる。そして自分の講演日が近づいてきたらパソコンに向かって要点を打ち込んでいく。日常への緊張感だ。

 今回、第二回研究大会の課題としては記録がある。研究会を開いたというだけでなく、その記録が役立つように公開の必要がある。そのためにはどうするか。対処としてはICレコーダーに撮る。もう一つはビデオ撮影をする。後者についてはユーチューブに公開したらどうかと提案している。

 後半の研究会の発表は高く評価できる。一帯の交通史の形成過程などは、これほど詳しく論じられたのは初めてのことだったのではないか。いずれにしても古老の話、研究会、いずれも記録するに値する貴重なものだ。
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2016年08月08日

下北沢X物語(3092)〜都市下北沢の興隆史研究〜

P1060064(一)八月六日、北沢川文化遺産保存の会は、北沢タウンホール十二階、スカイサロンを一日借り切って第2回研究大会を開いた。大会コンセプトは「シモキタらしさのDNAを語る」だ。街がどのようにして生まれたのか、その歴史的な経緯を語る会だ、ねらいは、「消えゆく街の歴史を遺そう」というものだ。一番の不安は、長丁場の大会にどれほど人が集まるのかということだった?

「そんなに人は来ないでしょう椅子は少なめでいい」
 ところがドラマは起こるものだ。
「人間、継足すことに幸福を覚えますね、椅子をどんどん足してくださいと言うときは嬉しさがこみ上げてきますね」
 基本、人は衰退よりも興隆を好む。幸いにして事前の不安は吹き飛び、盛況だった。一部、二部、三部の参加者を総計すると五六十名にもなる。第三部の懇親会でもお弁当が足りず、ついに下北沢「オオゼキ」まで走って買いに行ったほどだ。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが研究大会のコンセプトだ、午前第一部は、下北沢の古老、三十尾生彦さん、伊藤文学さんの話、午後は、研究発表二本、「下北沢を中心とする交通網の変遷」(きむらたかしさん)、「東京セロファン世田谷工場の歴史」。それと「下北沢文士町を巡る問題提起」、どうして芸術文化が濃厚に存在するのか、それと戦後下北沢の貴重なカラー写真の映写と解説だった。

 できるだけ参加者で街を語ってもらいたいと思っていたが、時間がなくてかなわなかった。

 研究大会の入場料は500円とした。昨年は300円だった。値上げしたわけだがこの点で主催者は、「対価に見合うだけの質と内容だったのか?」と自らに問わなくてはならない。しかし、古老たちの熱意のこもった弁舌、そして発表者の質の高いプレゼン、参加者の声、これらを総合すると「五百円」取っただけのことはあったと評価してよい。

・参加された方々が熱心に聞かれていたこと、発表の後にはつぎつぎに手が上がって多くの質問が出されたこと。
・第一部、第二部、途中で席を立って帰るという人がいなかったこと。
・予定していた時間が足りなくて準備していたものをカットするほどだった。
 

 大会を通して何を学んだのか?
 東の都市東京が市域を拡大するにつれ縁辺にあった当地域は大変貌を遂げていく。とくに東から延びてくるバス路線、鉄道路線による影響が大きい。雑木林、畑地だった当地が住宅地に変貌した。文明生活の拡大によって大きく変化しそして今日がある。

 大都会東京の膨張による大きな影響を受けて街は変化発展した。この裏には人間のドラマが渦巻いている。欲得や好奇心、人間の生の感情が吹きだまってきていた。
 思ったことは、温故知新である。過去を見詰めなおしてこそ未来が見えてきもする。

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2016年08月05日

下北沢X物語(3091)〜刊行『ミドリ楽団物語』〜

ミドリ楽団物語戦中から戦後、価値が一気に転変する激動の時代だった。その中を駆け抜けた児童楽団がいた。世田谷代沢小のバンド部員たちだ。音楽に関わっていたからこそ彼らは濃縮された時代をくぐり抜けた。ゆえに副題は「戦火をくぐり抜けた児童楽団」とした。味方の日本軍を見舞い、そして敵の米軍を慰問した類い希な楽団だ。なかんずく現象として興味深いのは、下北沢鉄道交点の芸術文化がこの楽団において見事に映し出されている点だ。彼らの戦後における活躍は華々しい。映画やテレビを通して世界デビューまで果たしている。歴史の陰にひっそりと埋もれていた逸話だ、これを物語化したものだ。

(一)大海に出会って感動する、人間誰しもこれは一回こっきりである。子どもというのはそういう新たなものへ出会って次第に成長していくものだ。この児童楽団は価値や環境が激変する中を生きた。戦争があったらばこそである。当面したのは飢餓である。ゆえに食べ物との出会いは強烈だった。戦中、彼らは厳冬期、本土決戦に備えて訓練する決部隊を慰問した。そのときに大釜でぐつぐつ煮えているお汁粉を振る舞われた。戦後、アニー・パイル劇場では大きなハンバーガーに出会って驚いた。タマネギのみじん切りは食い放題、ケチャップも好きなだけかけられた。中には角砂糖まで挟み込む者もいた。食ショックだ。

 作品というのは一つの小宇宙である。書いている最中は、全体像は見えない。が、これを書き終わって作品になる。それが本として手に持てるようになったときに初めてその世界を掴んだ気になる。今回のは、聞き書きを素材にした物語だ。言えば歴史事実と自分の想像力が織りなしたものである。それだけに感銘が深い。あの場面、この場面が思い起こされる。描いた風景に対する郷愁である。

 学童たちのいる風景、彼らが潜っていく風景のトンネル、はスリリングだ。疎開列車の窓にはドラマが映る。、「海だ!」、「違うよ、山の中に海があるわけないよ」、「そうだよそうだよ、これは諏訪湖だよ!」、このあたりの会話が楽しい。こういう彼らの道行きは丁寧に書いた。提灯に照らされた夜の道をゆく場面も美しい。これが二箇所ある。

 一つは、下北沢駅南口の通りを行く彼らだ。提灯の光に先導されてここの坂を上る、バンドの部員が砂利道を歩いていくと背中にくくりつけたタンバリンの鈴が鳴る。ずっくざっく、じゃらり、すると歌の旋律が喚起されて少国民兵士たちは気持ちが鼓舞される。この夜は全町民あげての見送りだった。その人々に送られ疎開地に向かう。学校では三本杉校長に激励されたばかりだ。勇ましい歌の一つも出てこようというもの。昭和二十年八月十二日の夜のことである。

 もう一つある、提灯に照らされた道を歩く、それは帰郷の日である。これは昭和二十年十一月一日だ。洗馬村真正寺から中央本線洗馬駅まで約十キロの道を歩いていく。中山道との合流点付近から振り返ると曲がりくねった道を後方集団の提灯が揺れ動いている。そして谷間には星の光に照らされてぼんやりと銀色に光っている川が見える。奈良井川である。辛い疎開生活だったがいざ別れるとなると切ない。

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2016年08月04日

下北沢X物語(3090)〜文化遺産保存の会の研究大会に来たれ!

DSC02598文化とはよって立つところの固有のにおいである。例えば、鉄道が交差していた下北沢にはブレーキシューが削った鉄粉が匂っていた。近隣のどぶも独特のにおいがあった。沢筋のにおい、そして丘上のにおい、これは日向くさい。これらが芸術感覚に影響していたと考えることもできる。街をそんな視点で捉えようという試みだ。面白がれば面白くなる、老若男女来たれ、我らの研究会へ。若者の参加費はただだ。先だって、武蔵中学の生徒が文士町を訪ねてきて、「坂口安吾文学碑」を見て、自由研究のテーマゲットと言ったそうだ。若者よ、中学生、高校生、大学生よ、来たれ、大歓迎だ。

(一)このところOliver L. AustinS Collectionで話題が沸騰している。鳥類学者だった彼が占領下の日本各地の風景をカラー写真に撮っている。この中に十数枚が下北沢の街を撮ったものである。鮮明なカラー映像は往事の空気感まで描いていて見事である。沸騰しているのはその写真がどこを撮ったものなのか、聞き込みや調査でここがほとんど分かってきた。これらは街を記録したものとしては貴重である。八月六日、第二回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会を行うが、これをプロジェクターに映し、参加者に当時の街を語ってもらおうと計画している。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが今回のテーマでもある。第一部は、10時から古老に聞くを予定している。下北沢の戦前と戦後を、三十尾生彦さん(93歳)、伊藤文学さん(84歳)に語っていただく。
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 第二部は、13時30分から、まず、「シモキタの歴史研究」ということで、「下北沢を中心とする交通網の変遷」をきむらたかしさんが発表される。下北沢に多くの文化価値が集まってきた最大の原因は交通の発展、進歩である。これの経過が発表される。

 つぎに、北沢4丁目にあった「東京セロファン世田谷工場」の歴史について木村康伸さんにはなしてもらう。これも古老三十尾さんがその記憶を語ったことが発端になった。これを「知りたい」と言う話しになって今回の発表へ結び付いたものだ。

 東京近郊工業発展史として位置づけられ、記録されるべきものだが全貌はほとんど分かっていない、セロファンを作るには水が必要だ。推測されるのは地下水、それと用水だ。ここには三田用水の分流が流れていた。ここからの取水か?

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2016年08月03日

下北沢X物語(3089)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』供

film416(一) 「昨日新聞に、原子爆弾で死んだ者二十八萬人と書いてありました。幸子はくやしくてくやしくてたまりませんでした。この尊い日本の国民を殺していういうと入って来るアメリカ兵、必づうらみは晴らさなければなりません。今の子供はいちばんせきにんが重いのです。」 

 昭和二十年「八月二十五日夕」と記された手紙の一節だ、東京世田谷東大原国民学校の六年の女子学童が下北沢野屋敷の実家に送ったものだ。原爆被害の過酷さを新聞は述べているが、犠牲者「二十八萬人」というのは過度な虚飾、プロパガンダだ。被害を水増しすることで国民の敵意を煽った。事実、彼女は敵への悔しさをぶつけている。

 被害者実数は正確にはつかめていないが、「昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計」とされている。たった一発で十数万人が死んだ。が、アメリカ国民の間では、「原爆のおかげで第二次大戦が終結した」とされている。しかし、もうこの時、全国の諸都市は大型爆撃機で廃墟と化していた。敗戦は時間の問題だった。そんなときに新型爆弾を敢えて用いた。「一発で十万人を殺す」ことはいかに言い繕っても正当化することはできない。惨殺である。

 この八月一日のニュースとして広島市長が、「原爆の日」の平和記念式典で読み上げるスピーチのことが伝えられていた。

 オバマ米大統領が5月に広島を訪問した際の演説から「核を保有する国々は恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」との訴えを引用する。

 大統領演説は素晴らしい。2016年5月に生きていた人々は深い感銘を受けた。しかしこれを引用すると聞いたとき釈然としないものを感じた。「勇気」は必要だ。が、思うに、過去にさかのぼって核を使用しない「勇気」を持つべきだっのではないか?

 通常爆撃ならまだしもだ。「警戒警報」が鳴って、「空襲警報」に切り替わる、人々は覚悟を決めて逃げたり、防空壕に入ったりした。ところが、原子爆弾はこのプロセスがない。ドングワラワラと爆発したとたんに命が消える、溶けもした。何万人も半殺しの火傷を負いもした。こういう被害への想像力を持ち得たろうか。広島、長崎原爆からの教訓はこうではないか?

人類は絶対に原爆を落とさないと誓う勇気が必要だ。続きを読む

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2016年08月01日

下北沢X物語(3088)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』〜



(一)原爆忌がまた近づいてきた。あの八月六日がまた巡ってくる。以前、これをテーマとした物語を書いた。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』である、かつては、広島原爆資料館の売店でも売られていた。ところがこれも絶版となってしまった。私にとっては思い出深い本だ。2000年1月「読売新聞」書評欄に載った。

 ◆「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」 きむらけん著

 ヒロシマの悲劇をテーマにした児童文学はいくらもあるが、大人にこそ読んでほしいと思わせる作品はそう多くない。戦争が嫌いで電車が好きな人に、本書は忘れえぬ一冊となるだろう。
 男の多くが出征していなくなった戦争末期、広島電鉄の路面電車を運転した十五、十六歳の女学生がいたこと。被爆三日後の八月九日に一部で運転が再開され、それが地獄の底にいる市民に無言の励ましを与えたこと。二つの事実から、瞬く星の光のようなこの物語が生まれた。
 運転士の姉、電車好きの弟。ひもじい毎日でも仲良く、笑顔を忘れない四人姉弟のささやかな幸せが、一瞬の閃光(せんこう)で奪われる。独りぼっちになった弟は、死屍累々(ししるいるい)の廃墟で思いがけない電車の警鐘を聞いた……。  その年に生まれた著者は東京の高校教師。擬音、擬態語が鮮やかで、少年の心理描写も見事だ。綿密な調査・取材の跡がうかがわれるが、読む者の心を打つのは<想像力だろう>(顕)


 あの惨劇からは遠ざかっていくばかりだ。それでもあの悲劇は時代を超えて伝えていかなくてはならない。本は絶版となってしまった。しかし、これを生かす方はある。ネット時代はこれが容易である。アマゾンキンドルでは気軽にこれを作れる。

 このところひと月余り長編小説の校正に追われていた。日々文章との格闘だった。ようやっと終えて安堵する暇もなく、つぎのに取り掛かった。性質、タチとしてぼんやりとできない、それでつぎの仕事を見つけ出してしまう。ちょうどあの時節がすぐにめぐってくる。それでこの作業に取り掛かった。

 まずは、テキスト捜しから始まる。ところが書籍での発行は、1999年である。16年も前のことだ。さて原稿がどこにあるかだ。パソコンやUSB、DVDなど心当たりを探してみる。書籍での発行年は1999年だ。探しに探してようやっと見つかったのはフロッピーである。かろうじてこれに残っていた。

 旧作をネットで公開する、これも容易ではない、編集、校正、デザインなど全部自分でやらなくてはならない。表紙にはイラストレーターの著作権がある。前に広島に行って撮ってきた写真をあしらってこれは作った。

 本文は、書式を整える。刊行本を見ながらルビを改めて入れ直す。単語としては、運転士が頻繁に出て来る。が、チンチン電車の運転士である、やはりこれは運転手だろう。こんな問題は簡単だ一括変換で行えばすぐにできる。

 が、改版といっても大きく変えたわけではない。てにをはが中心だ、それでも何か所かの表現は変えた。大きな点は、最後に『電鉄家政女学校の記憶』という長編詩を載せたことだ。

 「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」は、事実を元にした物語だ。細かなところで事実と違う部分がある。それで真実詩とでも言っていいこの詩を載せた。

 前にも述べたが、ドキュメンタリー映画「皇国少女」の最後は、この長編詩がスクリーンに出てきて延々と流される。



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2016年07月31日

下北沢X物語(3087)〜ぽけもんぼけもん近代文明批評〜

100NIKON-DSCN0011_DSCN0011 (2)(一)ぽけGO人気はとどまるところを知らない。今朝の新聞、「ぽけGO人気懸念も〜国内推計一千万人超・相次ぐ削除要請〜と伝えている。夏休みに入ってさらに熱気は増しているようだ。希少キャラのいる聖地へ聖地へと向かっていると。異様なエネルギーである。彼らはさすらった挙句どこへ行くのだろうか。ふと思い起こすのがエミール・ゾラの小説を思い起こす。「獣人」の主人公は「アル中と狂気の血故に、発作的に人を殺す」、機関車を運転中に助士に襲い掛かり、二人は機関車ら落ちてしまう。操作する人間のいない機関車は遮二無二突っ走る。「おい、いいスピード出しているじゃないか!」と後の車両に乗った「兵士どもは、すっかり酔っぱらっていて、自分たちに迫りつつある運命には気づいていない」という話だ。 

  ゲーマーたちは面白がってキャラを夢中で捕まえているが、機関車の運転士に当たる人のことは誰も問題にしない。こちらも凶暴な奴で、人に襲い掛かって殺し、そしてゲーム総体のシステムを勝ってにいじってしまう。

 ハメールンの笛吹男も思い出す。笛吹男は意のままに子供をあやつり百三十人の少年少女を洞窟に導きそしてこれを封印してしまった。人間、善意の人ばかりではない、昨今はドロップアウトした凶暴性を秘めた男たちが増えている。どう悪用するか分からない。

 問題は、人が夢中になってしまうことだ、自分自身の考えで行動するのならまだしも、案内者は機械である。機械的にあっちこっちにキャラをばらまいている。新聞では、「原子力発電所でカメ型のポケモン『ゼニガメ』がみつかった」と記す。ファンにとってはたまらないお宝、平気で施設に入っていくだろう。

 電車内でちらりと見かけた見出し、ぽけGOの情報はCIAに集約されると、実際これは悪用されかねない。今朝の新聞だ。

 情報の管理についても警戒する声がある。
 ポケモンGO配置情報を利用するため、プレイヤーの行動範囲や自宅、勤務先までが分かってしまうリスクがある。


 このことは商売に直結する情報だ。この社会ともかく儲かることが最優先となっている、この情報は金目筋のものとして重宝されるだろう。ぽけもんGOの位置情報で漏れた情報がどこに回ってしまうか分からない。知らないうちにつけねらわれるかもしれない。

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2016年07月29日

下北沢X物語(3086)〜ぽけもんぼけもんれんぺいじょう〜

DCIM0060(一)つい数日間に始まった、革命的なゲームをマスコミは大勢として肯定的に報道している。しかし、この現象本当に人間にとっていいことなのか?

26日の日、会報を届けに邪宗門に行ったところ。
「家の主人が後ろからきた自転車にぶつけられて転んでしまったのよ。その子助けもせずに逃げちゃったのよ、ゲームをしながら走っていたのね……」
 身近な例だがこの追突全国規模ではかなりの被害があるようだ。

 時間の近代化は人に時間の概念を植え付けた、身体の近代化は他者との共通の動きを学習させた。システムを管理する上では好都合だった。昨今出現したゲーム機は指先の近代化ではないか?

 誰か分からない機械の親玉の指令で皆が街に繰り出す。そしてそろって指先を動かして獲物をゲットしていく。この夏ヒートしている。が、キャラクターの配置などは人間が介在して機械が場所を割り振っていく。

 悪用されないのか。例えば、最強のキャラヒトラーマンが〇〇に出ると設定して、多くの若者をここに集める。万人ほどの人が集まったときに「ヒトラーマン」がでてきて、「この社会は不公平にに満ちている、特に君ら若者は一番の被害者だ。よって今、機が熟してきた。今こそ攻撃の時だ」と煽る。ゲーマーたちは「ワオー」と叫んで、彼の術に乗せられて暴徒と化す、ありえないことではないだろう。

 SNSを見ていたら、「世田谷公園」が、聖地となって大変なことになっているとあった。いつもの荏原逍遥のついでだと昨日ここを見に行った。

 行くと確かに人が大勢いた。皆スマホをかざしている。指を駆使して獲物を捕まえているのだろう。この風景からして異様である。人が随所に林立して画面に見入っている。そして指先を動かす。「ゲット」とかの声は聞こえるが総じて静かである。
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2016年07月28日

下北沢X物語(3085)〜会報第121号:北沢川文化遺産保存の会〜

20057,16 041
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第121号                 2016年8月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1
                                                      03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、全国級の地域文化を記録に(地域の絆ネットワーク支援事業認可)

 28年度、世田谷区地域の絆ネットワーク支援事業へ、北沢川文化遺産保存の会は申請していた。これが認可されたとの連絡を受けた。我々の会は、代田、北沢、代沢に眠る文化を掘り起こし、これを記録することを狙いとして創設した。活動を続けて十一年目を迎える。北沢川緑道に四基の文学碑を建て、「北沢川文学の小路物語」をはじめとする多くの冊子、また四号を数える研究紀要を発行して着実にその成果を上げてきた。今回、これの認可が下りたことから二点の事業を行いたい。

 峅舎迷文士町文化地図」改定七版の発行

 下北沢鉄道交点一帯には文化人が多く居住した。日本でも第一級の作家や詩人である。萩原朔太郎、横光利一、三好達治は、その顕彰碑を緑道に建立したが、彼が当地に生き、多くの作品を創った、土地固有の事象が作品に染み出ている。が、この三人だけではない。驚くほどの作家、詩人、俳人、歌人たちが居住していた。彼らがどこに住んでいたのか。長年に亘ってこれを調べてきた。そしてその旧跡を地図に記してきた。文学者のみならず芸術家、画家、作曲家、彫刻家の旧居まで記してきた。極めて限定的な地域に、驚くべきほどの文化人が居住していた。いわゆる旧来的な文士村を凌駕している。親玉が呼びかけて「来たれ!」と呼び掛けたわけでもない。今になって気づいてみると、あの人もこの人も居住していた。従来の「文士村」という物差しで形容することのできない文化現象が当地一帯にある。それで我々は「文士町」と評している。あらゆる価値が集まってきている。演劇や音楽も含めて多岐にわたっている。近代の日本文化形成史に記録されるべきものだ、質、量において引けをとるものではない。

 「下北沢文士町文化地図」は改定に改定を重ねて今日まできた。しかし、この全貌はまだよくわかっていない。例えば、北原白秋が祖師谷大蔵に住んでいたことからここに近い下北沢に後に著名となった弟子筋が数名いるがその居住場所は分からない。調べに調べを続けていて、意外な人が住んでいた。ついこの間も北村透谷の奥さんが当地で亡くなっていることを知った。
 この文士町は、鉄道開通がきっかけだった。昭和二年の小田急、続いて昭和八年の井の頭線、これが交差することで利便性が高まり、多くの人々が集まってきた。人の集まりは文化をも集めた。芸術ばかりではない、教会も集めた。文士町の形成に鉄道は深くかかわっている。が、最近になって明治期に活躍した作家、生田葵山が代沢一丁目に住んでいたことを知った。今回は新たに分かったことを新版第七版に記入し、記録したい。従来どおり一万部を刷って配布したい。これまでのを加えると五万八千部に達する。

紀要第五号の発行

 北沢川文化遺産保存の会は、研究紀要を発行してきた。昨年は戦後七十年を記念して、第4号『戦後70周年記念戦争記録集』を発行した。全国からの要望があって200部弱を発送したことだ。
 今年度、地域の絆予算が下りたこともあって発行したい。去年から引き続き世田谷の高射砲陣地についての調べがまとまってきた。「世田谷の高射砲陣地」をテーマと考えていた。しかしこれは極めて特殊的である。それで今回は地域に密着したものをテーマにしようと考えた。
 民族学者柳田国男の著述に「ダイダラ坊の足跡」がある。その書き出しは、「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」と述べる、すなわちこここそが世田谷代田である。このことはあまり知られていない。我々はこの埋もれている文化を発掘してきた。これを劇にしたり、また「ダイダラボッチ音頭」にして伝えてきた。後者は昨年世田谷代田児童館の協力を得て作った、これをユーチューブに載せて公開している。すでに再生回数は750回を超えている。
 また、この六月には、日本経済新聞には、このわれらの活動が紹介されもした。これらのことから今回の紀要は、東京府巨人伝説の中心地「代田のダイダラボッチ」として発行したい。

2、北沢川文化遺産保存の会第二回「研究大会」消えゆく街の歴史を残そう 

大会テーマ シモキタらしさのDNAを語る

主催 北沢川文化遺産保存の会
共催 下北沢グリーンライン 協賛 世田谷ワイズメンズクラブ
後援 世田谷区教育委員会
開催期日 8月6日(土)北沢タウンホール、スカイサロン
     会費 500円(資料代) 若者学生は 200円
第一部 午前十時から十二時まで
 シモキタの昔を古老に聞く
・戦前の下北沢       釣り名人    三十尾生彦さん(93歳)
・戦後の下北沢       元薔薇族編集長 伊藤文學さん (84歳)
第二部 午後十三時半から午後十六時半
 シモキタの歴史研究 前半
・下北沢を中心とする交通網の変遷(きむらたかし氏)
・報告:東京セロファン世田谷工場の歴史(木村康伸)
 シモキタの歴史研究 後半

〇シモキタの街を参加者で語る 司会石坂悦子さん
 街の歴史を参加者が語り、街の記憶を共有し、未来につなげる。
 問題提起に向けての資料提示
・下北沢文士町文化地図をもとに なぜ文化がこの街に集まってきたか?
参加された方が自由に発言をして進行させていく、この際、昔の写真を映写し、街の形成過程を参加者で討議していく。
第三部 懇親会、納涼会 17時30分より
  会費3500円 豪華「ミドリ楽団物語弁当」つき
 イベント マジック 作道明・藤井理嗣さん
〇 懇親会参加者は必ず申し込んでください。お弁当を発注するので8月1日まで
 米沢邦頼 090−3501−7278 に連絡を。
 ・懇親会は夏恒例行事、できれば楽しい飲み物が食べ物を一品持参
 ・オークション 家にある物品で要らないものを これはオークションにかけて
  会の資金にしている。
*当日、会場設営や運営にボランティアで協力してくださる方がいれば助かる。
  その場合は会場に9時30分に集合。


3、『ミドリ楽団物語』〜戦火を潜り抜けた児童音楽隊〜刊行
 
 世田谷代沢小に戦前、昭和14年器楽バンドが発足した。当校に赴任してきた浜館菊雄先生がこれを発足させた。全国でも先駆けとなる先進的な試みである、が、調べていくとこれが地域の文化と深くかかわっている。音楽的素養、芸術的な素養が登校してきている子どもたちにあったらばこそである。この学童音楽集団の活躍は当地、下北沢地域の文化を映し出す鏡である。音楽、文学、舞踏などいわゆる芸術にたしなみのある親がいてこれら子弟の多くがこのミドリ楽団に加わっていた。戦中における陸軍部隊の慰問、そして戦後における華々しいデビューは強烈だ。
 例えば、アメリカン、アメリカの軍人たちがどれほど彼らの演奏に驚いたことか。大劇場アニーパイルでの公演では、全員がスタンディングオベーション、拍手は鳴りやまなかった。この楽団の指導者は単に猿真似ではない、音楽、アメリカ物がうまく演奏できるだけではだめだ。クラッシックにも挑戦して、器楽演奏でこれも合奏できるんだと訴えた。日本人としての誇りを持たせようとして学童たちに多ジャンルを学ばせていたのではないかと思う。
 知られざる地域史であり、また知られざる戦後史、そして、児童音楽文化史である。今回のものはともかく「楽しい」、それは音楽物語であるからだ。ノンフィクションではなく事実を元にした物語として書いてまとめた。八月六日の研究会に発行が間に合うはずだ。会場でこれを販売したい。2000+税だが、税は割り引く、ぜひ購入を。

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 共催 駒沢給水塔保存会・北沢川文化遺産保存の会
 〇都市東京の発展の礎、渋谷町単独の水道事業の痕跡を歩く。
 桜新町駅から多摩川の取水口まで歩く: 桜新町駅→大山道追分→真福寺→フラワーランド→岡本隧道→岡本民家園→野川水道橋→砧下浄水所


・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線東北駅西口前
萩原朔太郎の居住痕跡を歩く     案内者 きむらけん
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記

▲終戦記念日特別行事〜下北沢周辺の戦争痕跡を歩く 募集したところ3名しか集まらなった。それでこれは行わない。先の例示は、こういうコースで歩けるという提示でもある。要望があれば日を改めて開催したい。
▲先月、七月「第九回 駒沢練兵場を歩く」を実施した。「世田谷平和資料館」ができたことからこれをコースに入れて組んでみた。が、トピックとはならない。今後どうするか。地道に続ける努力が必要だとのこと。装いを改め、「第十回 世田谷の戦跡を歩く」として継続することにした。簡単に言えば、下馬の野砲兵跡、下代田の陸軍病院跡、陸軍獣医学校跡、駒場の輜重兵跡などを、つまり、三軒茶屋から池尻大橋までの間の南と北の戦跡を歩くということにして、継続する。季節は「戦争経験を聴く会・語る会」と同じく五月にしたい。七月は暑いことから「地下街を辿ってお江戸東京を歩く」を計画したい。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotil.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。(今はなくなった下北沢エグンザス)



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2016年07月26日

下北沢X物語(3084)〜改定七版へ:下北沢文士町文化地図供

14 107(一)「今度のものの中に『真正寺ミュージカル劇場』というところがあるんですよ。お宅の寺の本堂で音楽会を開催するのです。境内の庭に面した障子戸を開けると、日傘を持った女の子が出てきて、『絵日傘』を踊るのです、するとムシロ持って集まってきた村人がびっくりするんですよ。踊りが決まっているんでしよ。手つきとか、表情とか、もう村人は大騒ぎで……」
「何か目に浮かびますね…」
 真正寺の住職さんが言われる。
 物語の最終校正を行っていて、先代住職とか現住職さんの名前が出て来る。間違ってはいけないと確認の連絡を、塩尻市洗馬の寺に電話しての話だ。
「そうそう、それとようやっと復活した『真正寺学寮歌』も記録として本に載せておきましたから」
 この歌は、物語の中で大きな役割を果たしている。
「そうですか…」
「いやね、何しろ音楽物語ですから、映画向きなんですよ。映画にすればいいですよね。そうして、疎開学童が演ずる『真正寺ミユージカル劇場』をそこで撮るといいですね」
 昨年、『鉛筆部隊と特攻隊』の一部が劇化されて放映された、これよりも絵になる部分が多い。

 徳光君のスピーチも絵になる。「ミドリ楽団」が初めてワシントンハイツのアメリカンスクール向かう。このバスに彼が乗っていた。団員ではないのに「なぜ?」と皆はいぶかる。ところがいよいよ音楽会が始まる時に彼が舞台に出てくる。そして、なんとまあ滑らかな英語であいさつをした。これから演奏をしようというときに団員は緊張していた。もう度肝を抜かれてしまって、皆口はあんぐり。

 この二つの事例、地域とかかわってくる。前者の話で言えば、北沢の古老、三十尾生彦さんの話を思い起こす。彼は、日本舞踊の大家藤間勘七龍とともにアメリカ軍に慰問したという。思い出したのは、真正寺で巧みな踊りを披露したのはこの藤間勘七龍の稽古場に通っていた子ではないか。

 徳光君の親は、英語が堪能だったという。言えば学区域知性であり、文化でもある。真正寺は再疎開先だ。その前の浅間温泉でも音楽会を開いたとき、兵隊服を着た女子が現れて巧みに洋舞を披露した。これも地元民に強烈な印象を与えている。
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2016年07月25日

下北沢X物語(3083)〜改定七版へ:下北沢文士町文化地図〜

CCI20160725_0000(一)「下北沢文士町文化地図」第七版の発行を決めた。われ等の会、北沢川文化遺産保存の会は、平成28年度、世田谷区地域の絆ネットワーク支援事業に応募していた。このほど採用決定通知があった。それで重版発行を推進することにした。

 今回、地域の文化を再興するということで二つの事業を考えていた。一つが「下北沢文士町文化地図」七版の発行だ。これは改定に改定を重ね、四万八千部を発行していた。次七版では総数、五万八千部になる。「文士町」がまた広く認知される。

 地図は七版だが、実は初版の前に零版がある。2006年5月31日に発行した「北沢川文学の小路物語」の表紙の裏にこれが印刷されている。デザインを担当した東盛太郎さんが作成したものだ。彼はこの後に急逝してしまう。

 地図は彼が遺した遺産だ。現今のものはこれを基にしている。毎版ごとに順次見つかった文芸人の旧居などを書き込んできた。改版は時の経過を表わすものだ。

 こういうこともあった。五版目ぐらいだったろうか。地図を見た人が驚いていた。
「こんなに著名人が住んでいたのか知らなかった。しかし、これ以上は探すな…」
 そんな忠告をした人がいた。地図作りを進めていくと、地点やポイントを集めようという気持ちが働く。彼が言うのは、これ以上調べると「同人誌級の作家となる」と。つまり、記録してきたものの価値が薄まっていくという指摘である。

 しかし、この改版の背景にこそ、「文士町」の特異性がある。この認識も十年に及ぶ経験からきている。旧居調べは隣接する区域にまで及んでいる。隣町の三軒茶屋もそうだ。最近見つけたのは山田風太郎旧居だ。

 文化的な観点での比較でいうと、三軒茶屋は商域や街としては下北沢よりも広い。が、旧居密度は後者が断然濃厚だ。このことによって文士町の特異性が浮かび上がってくる。

 端的に言えば、文士町の全貌は分かっていないことだ。改版を重ねていくうちに少しずつ分かってきて、それが改版につながっていることだ。版を重ねられる街、そういう観方ができる。

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2016年07月23日

下北沢X物語(3082)〜都市論としての「夜霧の第二国道」供

DSC_0021(一)「夜霧の第二国道」は、名前がいい。一級から落ちる点がローカルで裏さびれている。落魄行である。物寂しさや哀れさが滲み出ている。フランク永井の大ヒット曲である。昭和三十一年の高度経済成長時代、金銭的には潤ってきた。しかし、庶民の多くは心が満たされないでいた。かろうじて生きながらえている者もいた。ネットで見ていると、やはり、この曲は懐メロとしては人々の心に生きている。とある人が、「むしろ、ある喪失感、下降する人世の、辛い、甘美な肌合いだけは、いまも鮮明に僕の心に残っています。」と書いている。働けど働けど、思いは報われない。ネオン街で恋人を見つけることもできない。社会を支えている男たちの郷愁歌であったのだろう。恋もままならぬ青年たちがせめてこの歌をうたうことで憂さを晴らしていたのかもしれない。

 ネオン街に後ろ髪を惹かれながらもそれを捨てて第二国道を行く、これも男気の一つだったのかもしれない。そういうことでは、ここのサビは泣かせる、「バック・ミラーに あの娘の顔が 浮かぶ夜霧の ああ 第二国道」である。気温の差があって、海岸部の第一国道では霧が出ないのかもしれない。武蔵野の起伏には多摩川からの川霧が押し寄せ霧が出たのかもしれない。

 彼が乗った車、コロナか、二国を走っていく。折々にミラーを眺める。後続車のヘッドライトの向こうには都会の明かりも見える。そこに捨ててきたはずの「あの子の顔」が浮かぶ。本当は好きだったのだけど行きがかりで、「オレはおめえなんか嫌いなんだから」と粋がってみせてしまった。が、二国まできて思う。関心は深かっただけにその女を思う。バックミラーに彼女の横顔が浮かんでくる。「おお、幸子!」とか、ところが無惨にも夜霧がこれをさえぎってしまう。

 バックミラーの守備範囲はある。彼女の顔が浮かび、都会のネオンの光彩映る。距離でいうと環七ラインでないだろうか。つまりは都鄙境である。物語が湧いて消えるところだ。具体的な場所を言えば、松原橋だ。環七を越えていく橋だ。東京外郭環状線である。

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2016年07月22日

下北沢X物語(3081)〜都市論としての「夜霧の第二国道」〜

DSC_0019〇今日から都市の風景が変わった。街や公園の一角に大勢がたむろしている。若者が中心だ。それぞれがスマホをかざして懸命に画面を見ている、折に画面を見せ合う場合もあるが、個々別々の作業にふけっている。その場に居合わせている人間同士だが、つながりは希薄だ。その彼らは探すことに熱中している。得体の知れないものがこの人々をどこかで操っているのではないか。空を見上げるが黒幕は見えない。社会は何か恐ろしいものに引っ張られているのではないか?今日、駒沢公園で出会った異風景である。

(一)テレビチャンネルを回していたら懐メロが聞こえてきた。「夜霧の第二国道」である。これを聞きながら思った。
「なんだあ、これは荏原都市論じゃないか!」

 歌謡曲は情緒性が必要だ、名前はとくにそうだ。これは地理的には「中原街道」でもよい。しかし、「夜霧の中原街道」ではあまりにも田舎臭い。一国はどうだ、「夜霧の第一国道」、これはおしゃれ度が過ぎてフィットしない。やはり抒情といのはある種、臭みが必要だ。場末的な情緒である。一級酒よりも二級酒が訴える。が、これに足を取られると心もおぼつかなくなる。飲酒運転ではまずかろう。ところが「夜霧の第二国道」をゆく運転手は素面のようだ。

 歌にうたわれる、「夜霧の第二国道」はどこだ。国道二号というのがある。これは山陽道を走る、国道だ。この第二国道は、国道一号のうち、東京都品川区西五反田から神奈川県横浜市神奈川区までの区間における道路通称名である。つまり、第一国道の補完道路である。それで人々は「ニコク」、「第二京浜」と呼びならわしていた。

 この「夜霧の第二国道」昭和三十一年(1956)に発売されている。高度経済成長が始まった時期と重なる。また二年後には映画として昭和三十三年(1958)年二月に封切られている。主演は小林旭だ。歌手のフランク永井も、芸名で出演し歌を歌っている。作詩:宮川哲夫 作曲:吉田 正である。

つらい恋なら ネオンの海へ
捨てて来たのに 忘れてきたに
バック・ミラーに あの娘の顔が
浮かぶ夜霧の ああ 第二国道


鉄道にしても車線にしても上り下りというのがある。この車の運ちゃんはどちらへ向かっているのか。これは間違いなく下りである。彼、主人公の男は「ネオンの海へ」つらい恋を捨ててきた。「バカ野郎、おめえなんか嫌いだよ」と言って車に乗り込んだ。車種はコロナだ。ひたすら西へ向かう。まずは桜田通だ。五反田手前の坂を下っていく。山手線のガードを潜り、目黒川の橋を渡り、山手通りを過ぎてやっと「第二国道」に入る。

 都心から遠ざかれば遠ざかるほど「あの娘」が思われる。折々に彼はバックミラーを覗いてみる。このあたりでは明りが見える。

 不図見ると、東京と思う方は、宛然火事でも有るかの様に、明るさが空に映じて居た。瓦斯燈、電気燈、軒に並ぶ街燈、道行く提灯、虚飾と実用とに論なく、戸外に於て輝き合せ、夜の東京をして一層多忙ならしめて居る。その集団の遠き火光が、自づから大いなる背景を造つて、近き大崎田圃の発電所の大煙突二本を、切組絵の様に浮出さして居た。
 明治大正文学全集〈第1-15巻〉「蛇窪の踏切」


 明治四十年発行の「蛇窪の踏切」である。大体位置的には二国に入ったあたりのである。都心の明かりが煌々と空を染めている。この時代は煙突の煙がガスとして舞っていた。が、昭和三十年では、多摩川の川霧が漂ってきたのだろうか。

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2016年07月19日

下北沢X物語(3080)〜第10回「世田谷の戦跡を歩く」〜

P1060039(一)駒沢練兵場を歩く、いつの間にか九回目を迎えた。恒例行事である、野砲兵、そしてけん引する馬、人馬が汗した場だ。ここの近衛野砲兵は皇居の「午砲」(ドン)の担当をしていた。昼時をこの砲兵たちが知らせていた。また三軒茶屋に繰り出して憂さを晴らした第一野砲兵連隊の兵士はレイテに行ったまま帰ってこない。忘れ去られた彼らを追慕する行事だった。来年は十回目となる。

 先の「戦争経験を聴く会語る会」、九回目だった。十年は一つの大きな区切りである。しかし、われらは義務ではやってこなかった。これがねばならないというと辛くなる。先が持たない。
「必ずしも十回目を開催する必要はないと思います」
 これは私の意見だ、先の五月の「戦争経験を聴く会語る会」は、多くの方々が支えてくださった。準備会も何度も行い、反省会までした。
「地域の子どもが入って会をやることは素晴らしい。しかも彼らが自分たちの古い先輩方が歌った疎開学童歌をうたったんだから意味がありますよ」
 サポートした人々の意見だ。それで、来年第十回は目は、五月二十七日に開くことを決め会場も予約した。

 「駒沢練兵場を歩く」はどうするか。九年間行ってきてマンネリ化している。追悼、追慕というベーシックなものがあるゆえに致し方がない面はある。が、続けてくることで知ったこと、発見したことは多くある。今回は、世田谷平和資料館ができてこれをうまく活用できればトピックになりうると。最後にここに着いてここのホールで戦争経験者から一帯の昔の様子を聴くことを考えていた。が、できないらしい。

 継続するとすればどんな工夫があるだろうか? 
「この駒沢練兵場は大体がフラットで歩きやすい、反面景観性に欠けているように思います。」
 蛇崩川と北沢川とに囲まれた台地の上にここは広がっている。それで練兵場と兵営を築いたのである。歩いていくときの楽しみは景観である。これまでので言えば、今も往時の兵舎が残る韓国會館は歩きの中でのトピックだ、年々朽ち果てていくさまがみられる。哀れである。駒沢練兵場の西、昭和女子大構内の記念碑、そして木造兵舎、馬魂碑は戦跡景観としては見るだけの価値はある。

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下北沢X物語(3079)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場供

image006(一)戦後71年、戦争の風化は著しい、昨日、疎開学童連絡協議会の長谷川直樹さんからメールには、「疎開体験を語り継ぐという活動に、展望が見えてきません」とのこと。疎開経験者の老齢化で語り継ぎの継承は崖っぷちにあると。活動を辞めたとたんに歴史も消え去ってしまう。疎開学童関係については当事者が亡くなりつつある。彼らが所持している日記や手紙は戦時資料として貴重だが、遺品はごみとして処理される。が、これらを体系的に収集している資料館はない。この保存を含めてきわどいところに来ている。
 
 世田谷からは多くの学童が松本市を中心とした地域に疎開している。その時に書いた日記や手紙は貴重な資料だ。軍関係の記録は多くが焼却されていてない。戦争末期、沖縄戦の後方支援基地だったここには数多くの航空兵が出撃待機で浅間温泉には滞在していた。その時の学童の日記や手紙を丹念に読んでいくと具体的なことが分かってくる。誠隊の所在、あるいは振武隊の所在、この間は、湯本屋にこれが滞在していたことが分かった。

 世田谷区域には歴史記録が多く眠っている。近代戦争史の片鱗がこっそりとある。疎開学童の絵日記には具体的な機影が描かれ、そしてまた最新型重爆撃機の飛来記録までもがある。

 また一方、広大な軍事施設が置かれていた。近代戦争史を支えた場である。砲兵、輜重兵、騎兵などが一帯の施設には駐屯して訓練を重ねてきた、そして大陸や南方に派遣され多くが亡くなっている。玉砕した隊も少なくない。
P1060036
 九年間、私たちは駒沢練兵場を巡ってきた。毎月街歩きを行っているが時代の変化とともに衣替えをして継続している。駒沢練兵場を歩くは基本を変えないでこれを継続してきた。夏の暑い盛り、戦跡を歩こうと呼びかけても人が集まらない。

 九年間行ってきたから、次に来年十回目もやろうとは考える。しかしどうしても義務として行わなくてならないこともない。今回は、一つの期待があった、新しくできた世田谷平和資料館を軸に、戦跡歩きと古老からの聞き取りをセットで開催することを。しかし、施設側は冷淡だった。この行事、断念することも選択肢の一つとしてあると思った。
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2016年07月17日

下北沢X物語(3078)〜追慕行事:九年目の駒沢練兵場〜

P1060038(一)回数を重ねて九回目となる戦跡歩きだ。ところが戦争の風化を足が感じた。戦後71年、あの戦争から大きく遠ざかってしまった。しかし、時間の経過だけではない、風化には空疎感があった。なぜだろう、今朝新聞を読んでいて出会った、「現代世界におけるあらゆる信用が揺らぎつつある」と。「そうだ人間への信頼がなくなりつつある」と思った。相次ぐテロ事件、これが日常化して普通に人々が死んでいく、過去の戦争の酷さ、今のテロにおけるひどさ、今日的価値観から戦争の無謀さへの想像力が希薄となってきたように思った。
 
 昨日、119回目となる街歩きの案内者はせたがや道楽会の上田暁さんだ。例によってまず最初は、昭和女子大構内にある近衛野砲兵の記念碑から見て回る。具合よく昭和女子大の教授永山誠先生も参加されていて、建物の中にさりげなく飾ってあるトルストイの絵を見せていただいた。レーピンの手になるものだ。

 近衛野砲兵連隊跡から、第一野砲兵連隊跡へ、この行事の大きなトピックとなるものがここにある。今もなお兵舎がここに残っているのである。韓国会館として使用はされているが、東半分は使われていない。年々朽ちていくだけである。

 明治31年に建てられたとする貴重な歴史建物遺産

 上田さんはこう資料に記していた。

「詳細は調べなくてはなりませんがこの建物の設計が、全国の学校の校舎建築に影響を与えている可能性はあります」
 永山先生の指摘だ。現存する貴重な建造物、保存をとここ数年訴えてはいるが共鳴する動きはない。貴重だということの意味を具体的に示唆する意見だと思った。

「明治時代のものだとすればどのようにして作られたかというのも考えなくてはなりません」とも。先生の指摘でわれらは壁材の板に目を向けた。
「長尺寸ではなくて短寸(1、5メートルぐらい)だから運ぶのに具合よいのでしょうね。当時のことだから馬車で運んだのでしょうね。だとすると日本鉄道の渋谷駅からでしょうか?」と私。

「この材をどこから運んだかということもありますね。往時だと多摩川のいかだ流しがあったから奥多摩とかの材がきているかもしれません。そうなると二子玉川辺りに製材所がなくてはなりませんけどね」
 永山先生は想像力が豊かだ。多摩川のいかだ流しで運ばれたなどというのは今回九回目で初めて出会った示唆だ。

 しかし、この建物年々朽ちていくばかりだ。ちょっとした地震でも崩壊するのではないかと思う。部材などでも保存できないか、街並み保存の会の丸山さんと訴えたこともあるが、その彼も亡くなってしまった。

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2016年07月16日

下北沢X物語(3077)〜「ミドリ楽団」と地域文化〜

DSC01906(一)代沢小のミドリ楽団の興隆と発展、戦争を挟んでの活動であった。敵味方に慰問活動をした児童楽団というのは稀有である。戦争という時代を彗星のように駆け抜けたこの楽団は地域文化と深く結び付いている。そこに固有性がある。鉄道交点文化を映し出す鏡だともいえる。
 
  13日、山崎小OBの長谷川直樹さんと会った。彼も疎開組である。浅間温泉では小柳旅館に滞在していた。彼らも満州から飛来してきた特別攻撃隊と親しくなっている。昭和二十年三月末、出撃していく戦闘機を見送った。翌4月3日、九州新田原近くの佐土原から手紙が届いた。近々出撃するから新聞を注意と。ところが、どういうわけか満州に原隊復帰して、その彼らとまた手紙で交流をする。この正体は分かっていない。

 山崎小と代沢小、そう遠くはない。が、背尾根一つ越えたところにある。前者の最寄り駅は梅が丘駅、後者は下北沢だ。が、学校の環境や雰囲気が異なる。

「代沢小ではさまざまなジャンルがあったみたいですが、信じられません。わたしたちの場合は軍歌だけでしたから…忘れもしません昭和二十年十一月、疎開から帰ってきて梅が丘駅に整列して歌ったのは『勝利の日まで』だった。戦争に負けたのになんであの歌を歌ったのか後々の語り草だ」
 
 山崎小学校には代沢小とは違う不自由さがあった。保守的であった。それでここに漂っていた不自由さがあったようだ。生内泰子さんは、四年生のときに、教室で数え歌をした海苔が焼けたのを三畳焼けた、四条焼けたとうたのがある。彼女は順に行って「九条焼けた」とうたった。このことによって問い詰められた、なぜ歌ったのか。
「九条焼けたは宮城焼けたにつながることからとがめられた」
 彼女は今でも苦い思い出だという。

 都会の田園地帯にある学校はどうも不自由であった。軍隊上りのいばった教師がいてのさばっていたこともあるようだ。

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2016年07月14日

下北沢X物語(3076)〜「ミドリ楽団」とワシントンハイツ供

CCI20160714_0000(一)昨日のことだ、会の事務局で人と待ち合わせをしていた。三軒茶屋で街歩きの掛け金を振り込んだ後、代田まで散歩がてら歩いた。途中、太子堂富士見湯の前を通りかかったときに一人の女性と目があった。
「お風呂が開くのは二時からなの、でもね、いつも早くから来て待っているの、こうして待っているのがとても楽しいのね」
 自分では待つのは嫌いだ。行列に並ぶことはない。しかし、待ちながらオープンまでの時間を楽しめるというのはいい。
「道を人が通るのを見たり、待っている人同士で話したり、そしてときにあなたみたいな人が来て、私に知らないことを教えてくれるの。今日はね、とても幸せでしたよ。私が知らないことを教えてくださったのだだもの…」

 彼女は生まれてこの方、この近隣で過ごしていたようだ。小さい頃、今の世田谷公園辺りではよく遊んでいたそうだ。
「あそこはね、駒沢練兵場だったのです。広々とした原っぱがあったでしょう。風が吹くともう大変でした土煙がもうもうと立って目を開けてはいられないし…」
「そうそう埃はすごかったですね。窓を閉めていてもだめなんです。掃除が大変でした、掃除機なんかないしね」
「世田谷公園の西側は野砲兵の兵営がずらりと並んでいました。ここからするとこの坂を上ったところが国道246号です。その向こうが兵舎、そこの溝から流れてきた水がほらそこのドブに流れてきていたんですよ」
「私は、ずぅっと住んでいますけど、そんなこと知らなかったわ、ありがたいことですよ」
 彼女はしきりに感心していた。

 246沿いの世田谷区社会保険事務室に街歩きの保険を提出した。係担当の女性も驚いていた。
「道の向こうに兵営がずらりとあったんですか、そんなこと考えたこともなかった…」
 この一帯、街の歴史が各所で眠っている。が、人はそれを知らない。

 私たちは皮相的な面でしか生きていないのではないか。土地固有のものを知らないで生きている。そして、その最新時間だけがどんどんと人を連れていく。

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