2010年11月

2010年11月30日

下北沢X新聞(1704) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅7〜

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(一)
 下北沢の詩人痕跡を巡る旅、実際に歩いたときからだいぶ遠ざかってしまった。間に多くのエピソードが入り交ざる。ブログは未定の物語を編み上げていく。

「ぼくの親父が『世田谷文学散歩の会』を興し、文人たちの足跡を調べあげましたが、きむらさんが、立派に花を咲かせてくれました。親父もよろこんでいることでしょう。」  

 銀座での出版記念の会を前に伊藤文学さんから先日手紙をいただいた。そうだった、文学さんのお父さんに多く教わった。下北沢一帯の文士旧居を探して歩き回っていた先達は、伊藤祷一さん、彼が「世田谷の文学」を中心になってまとめた人だ。

「第一書房の長谷川巳之吉はわたしの叔父なんですよ。第一書房ってご存じですか」
 詩人痕跡巡りのとき、清水乙女、篁短歌会跡に差し掛かったときに一人の女性と出会った。これを聞いて思い出したのが伊藤祷一さんである。第一書房の編集者をしていた。
「親父は、代田の萩原朔太郎の家に行って、印紙のハンコを捺したと言っていました」
もうだいぶ前に文学さんから聞いた話である。そのときは、具体的な書名は浮かんでこなかった。しかし、今になってみると、「氷島」ではなかったろうかと思う。これは第一書房刊、この初版発行日は昭和9年(1934)年6月1日である。美装本発行元としてのこの出版社は著名である。北原白秋も「短歌文学全集」の第一巻をここから出している。

(二)
「わたしはこの家の女主人を知っていますから……」
 その女の人は呼び鈴を押した。すると清水乙女さんの娘さんが出て来られた。忙しそうだった。
「一つだけ質問したいのですが。ここに北原白秋先生は来ておられたのですか」
「ええ、わたしの小さい頃のことですが、何度かお見えになりましたね。息子さんの北原隆太郎さんはしょっちゅう来ておられました。川端康成先生もお見えになりましたよ。」
 清水乙女旧居は北原白秋の歌風、新幽玄体を継承する篁短歌会の発行所となっている。この下北沢野屋敷の乙女旧宅には当人が来ていたという。詩人は昭和17年11月に亡くなっている。

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2010年11月29日

下北沢X新聞(1703) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅6〜

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カダンスと詩歌文学

(一)
 近代の牽引役は鉄道であったことは疑う余地がない。これがもたらした速度変化は驚嘆すべきものだった。「時間と空間の抹殺」と表現される。

 「歩く」から「乗る」という変化は途方もないほどの変革だった。
 音の変化も見逃せないものだ。歩く音は、しゃ、しゅ、しょ、あるいは、さっぷ、すっぷなどと形容される。これが荷馬車になると、「ガタリ、ガタリ」(「赤痢」石川啄木)、「ゴロゴロ」(「潮干狩」原民喜)となる。汽車や電車が走る音は、さまざまに表現される。森鴎外は市電の音を「どつどつ、ごう。どつどつ、ごう」(「電車の窓」)と書き表している。横揺れしながらジョイントを打ち付けていく様を巧みに言い表している。

 がたりがたりから、どっどっごうへ、これは、cadences、カダンスの変化だと言える。音律、リズムの変化だ。市内線は人と車とが一緒であるだけに速度はさほど出せない。鴎外の言う、「どっどっ、ごう」というのもその速度の鈍さをも表している。

 路面電車の通る市電沿線地域には、この、のどかな音があった。庶民的であったとも言える。荏原区域における市電的鉄道は、京王電気軌道であり、玉川電気鉄道であり、京浜電気鉄道である。これらは明治期に開業していて、その敷設が古いだけに沿線は時代が経つに連れ、古びてくる。例えば、安岡章太郎は玉電沿線に住んでいて、「大橋、三宿、池尻など、ジャリ運びの玉川電車の古ぼけた所」(「家屋の亡霊」)と述べている。

 京王線も開通が早く、例えば、下北沢地域では、この線が通る笹塚の方がにぎやかだった。ゆえにみな笹塚へ行っていた。「京王電車の笹塚駅のすぐ傍に笹塚演芸館という常設の映画館があった。」(「運河のある風景」福田達夫)映画は笹塚だった。

(二)
 荏原地域、東京西部の交通網は、東京が膨張するにつれ、大きく変化してくる。市電系統の鉄道から、近郊型鉄道に変わってくる。つまりは、道路併用ではなく、専用の軌道を敷設されていく。電車を高速化させ、人々を郊外へ導いた。

 先に引いた安岡章太郎は玉電沿線からこの郊外鉄道沿線、小田急世田谷中原(現、世田谷代田)へ越してくる。「こちらは新しく発展した中流階級の住宅地らしい明るさが、生け垣をめぐらせた家並みの道傍にも何となく漂っていた。」(同著)と形容している。これは高須光治が描いた「下北沢」風景そのものである。
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2010年11月27日

下北沢X新聞(1702) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅5〜

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試論詩論〜詩歌の源泉を鉄道に探る〜

(一)
 鉄道の音と文学というのはかねてから深い興味を持っている。継ぎ目を打ち付けていくジョイント音は近代詩歌の一つの源泉だと考えられる。が、今日その音源となったレールの継ぎ目は溶接されていて幹線では聴かれなくなった。ロングレールは楽音を響かせない。

 先だって北原白秋の生の痕跡を確かめようと小田原伝肇寺に行った。この境内に「木菟の家」を建てて詩人は住んでいた。その箇所は思いがけず高いところにあった。白秋は「伝肇寺より」という文章の冒頭で、「樹高山伝肇寺(でんでうじ)は小田原箱根口のとある山上にある廃寺である。」と書き、その寺に流れていた谷の響きをこう記している。

 いかにも山の上だけあつてシインとしてゐる。それでも電車の音や汽車のカダンスが幽かにきこえて来る。それもいヽものだ。波のおとも幽かになつたり、近くなつたりする。早川口へその音が寄つてゆくと、明日は晴れるが、酒匂口の方で騒立つと雨になるといふ話である。
 白秋全集35 小編一 所収 一九八七年刊 岩波書店

 行間から音が響いてくる、立体的な景色も浮かび上がってくる。いい文章である。電車は、小田原電気鉄道であり、汽車は熱海鉄道であろう。谷間に響くカダンスはどのような音だったろうか。電車と汽車とでは音が違っていたはずだ。

(二)
 カダンスとは、cadences、詩などの韻律、リズムを言う。白秋は詩として谷間に響くこれに耳を傾けていた。

 このカダンスはもともとは馬術用語である。つまりは、馬が進む際の、歩と歩の間に一定の時間的間隔を持った規則正しい繰り返しの音をいうものである。荷物運搬はかつては馬だった。産業革命によって蒸気機関車が生まれ、牽引役はこれに変わった。

 パカパカという長閑な音は、カタンカタンというせわしい響きに変わった。機械の出現によって速度が大きく変化する。これに伴ってカダンス、韻律、響きも変わった。速度論的な、詩歌論である。

 交通論的な文学論、下北沢詩歌人参集もこの観点から考えるとよけいに楽しい。
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2010年11月26日

下北沢X新聞(1701) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅4〜

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(一)
 下北沢になぜ詩人が多く集まっていたのか。その理由はいまだによくわからない。しかし、長い間考えていた課題も少しずつ糸口が見えてきたように思う。

 沢の凹凸の多い武蔵野に都市郊外鉄道が敷設された。緑なす雑木林と畑地、そこに赤土が剥き出しの鉄道の切り通し、そして、赤い屋根の新しい建物が作られた。青空と緑と土、高須光治が描くところの「下北沢風景」である。新しく出来した郊外風景、田園と都市のはざまである。それは絵に描かれた詩情である。その清新さを求めて人は集まったように思う。詩人参集の背景には郊外都市の発展プロセスが潜んでいるのではなかろうか?。

 このブログは時間の旅をしている。一回一回読み切りの形にしている。ところが、日々時間を亘っていくゆえに、情報が重なってくる。すると当該項目に対する認識が深まってきて、当初と後とでは辻褄が合わなくなってもくる、時間矛盾をしばしば感じる。

(二)
 「下北沢の詩人痕跡を探る旅」と題した。が、これは歩いた日だけでは終わらない。詩は余韻、いつまでも尾を引くものだ。

 昨日は、新丸子へ行った。オークションで競り落とした古本の代金を払うためとその古本屋にある資料を買いに行くためだ。ここの古書店「甘露書房」には前に行ったことがある。何の本を買ったのか覚えていない。それで、「東京荏原都市物語資料館 甘露書房」と検索してみた。するとたちどころに結果がわかった。ちょうど一千エントリー前の、七百回目にこのことを記していた。「横光利一の文学と生涯」を買いに行っていた。

 文士町の核となる作家のエピソードが記された書籍だ。これを買い求め、そのときから時間が経過して、この間に一千回もの記事をエントリーした。文士町を知ろうとするプロセスだった。今回も同じで、文士町の源流を探ろうと、「評伝 北原白秋」と「追想・福田正夫〜詩と芸術〜」手に入れるために出かけたものだ。

 自身では一千回の知識の隔たりを感じる。七百回あたりでは、北原白秋や福田正夫はまだ網にかかっていなかった。ところが今になってみるとこの二人は、文士町詩人の核をなすものだと分かってきた。
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2010年11月24日

下北沢X新聞(1700) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅3〜

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(一)
 詩とは、書き手の資質の千分の一を言語リズムに表したものだ。短いものだけにどう言い表すかが勝負だ。この詩の命は伝わることである。独善的なものは伝わらない。異なった資質同士がぶつかってよりよいものが生まれる。詩歌人が多く集って言葉がぶつかったところが詩歌の中心地帯である。

 詩人たちが多く寄り集った箇所、出入りした箇所、よく来ていた場所が下北沢の詩人たちの中心地だったのではないだろうか。それは下北沢野屋敷の「北中通」と「いなり通」の交差部あたりだったと推理される。このすぐ近くにあったのが福田正夫旧居と清水乙女旧居である。前者の29番地には俳句仲間が集う「北沢どんぐり会」があり、後者の28番地には短歌雑誌「たかむら」の発行所があった。また27番地には村田句会も開かれたと聞いている。また近くにはウタリ出身三大歌人の一人の満岡照子が「月代」という歌会を主宰していたという。

 これらは戦後のことである。大原で焼け出された福田正夫はこの地の二間の家に越してきた。清水乙女も焼け残った持ち家に疎開先の桑名から引き上げてきた。空襲で焼け残った家が歌会や句会の拠点となった。駅からも近く便利だったことも人が集まるのには好都合だったように思われる。

(二)
 「だんだんわかってきたのですけどここに住んでいた福田正夫は多くの詩人と接しているのですね。小田原出身で詩詩『民衆』を起こした人ですね。民衆詩の首領ですね。ちょうど小田原にやってきた北原白秋とも接していますね。」
福田正夫旧居でこう説明したことだ。

 大正六年六月に出された「新潮」には、「新進詩人四家」として福士幸次郎、萩原朔太郎、福田正夫、白鳥省吾が取り上げられている。この四人が下北沢に関係している。
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2010年11月23日

下北沢X新聞(1699) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅2〜

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(一)

 下北沢一帯に詩人が多く集っていた。近郊鉄道の開通が契機だ。まずは小田原急行鉄道、つぎが帝都線である。二つの路線の交差による利便性、新宿へも渋谷へもすぐに出られる、が人を、詩人を集めた。しかし、詩歌は鋼鉄直線を本質的には好まない。むしろ曲線緑水を好むものだ。

 その緑や水、ためやたまり、これが鉄道交点の随所にあった。地名にも現れている沢である。地域一帯の固有性である。鉄、それに緑と水が詩人や文人を集めた。

「東京というところは文士とかいうのはどこにでも住んでますよね。でも、ここは層をなしていますよね。時代時代によって違うし、そこが面白いですよね」
 この間うちから文士町歩きの場合、必ず参加するようになった原さんが言う。彼は、全体像が掴めなくて、折々に自分でも歩いているという。地形と文学に深く興味を見出したようだ。その彼は鋭い批評眼を持っている。
「ここの特徴は背景に映画文化があることですよね。それが他との違いですよね」
 全くその通りである。映画製作者と文学の関わりはある。
「松林宗恵監督が、下北沢の映画痕跡というテーマで一帯を案内してくださったのですよ。今にして考えると、この映画人も随所に住んでいましたね。文士町を形成する大きな要因だったと思いますね」

 この映画と文学の結びつきも鉄道と関わる。都心と砧の撮影所の間にあって、地理的には中継点となっていた。砧東宝撮影所の前身はPCLである。この「写真科学研究所」の開設が昭和4年である。小田急線開通は昭和2年、この鉄道の開業と映画産業勃興は大きな関係がある。

「これから先文学ではなく映画だね」
 先頃亡くなられた森栄晃映画プロジューサーは雨過山房の水曜会に通っていた。こう横光利一に言われた。それで映画界に入ったと生前の彼から直接わたしは聞いた。文士町の背景をなす映画文化の一端を象徴するエピソードだ。

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2010年11月21日

下北沢X新聞(1698) 〜下北沢の詩人痕跡を巡る旅1〜

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(一)
 詩は人間の資質を短い言葉にくっきりと描いて見せる。創造的であり、独創的である、描き手の存在が一層に濃厚に感じられる。

 相寄る詩魂、詩歌がこれほど多く宿る街というのはそうないだろう。下北沢の街を巡る一万歩にも満たない、短い旅である。が、詩度100%、しかも派は多様だ。プロレタリア、民衆派、人間探求派、新幽玄体、アララギなどである。詩風を巡っていく、まさに旅だと言える。

 昨日、11月20日、午後、「下北沢の詩人痕跡を巡る」というテーマで街歩きを行った。まず、下北沢駅北口に集まった。ここから駅前の通りの一本西を真北に向かう。帝都線の駅で降りた中村草田男はこの道を辿って通勤していたはずだ。草田男道だ。
 彼が、下北沢野屋敷在住時に詠んだ一句にこういうのがある。

 崖上の醫者の窓よりマスクの人(「来し方行方」) 

 俳人は駅から南中通りを行く。これは一旦坂を下ってまた登る。その左手坂上に今も医院がある。家路へと急ぐときにマスク姿の医師がガラスにくっきりと写って見えたのかもしれない。
 「秋の航一大円盤の中」と詠んだのは彼だが、こういう詩人がここを行き交っていたのだと思うと楽しい。

 草田男道から、ひよいと左手に逸れるとすぐに萩原朔太郎旧居だ。たちまちに煙草「敷島」の臭いが漂う。玄関から懐手した朔太郎が出てくる。われら追跡者は彼の跡を追う。一旦、草田男道に出た彼は、北へ向かって坂を下る。するとそこが十字路になっている。角に「かどや」煙草店、ここで詩人は、敷島を買い求める。家に帰るのかと思いきや、本通りを東へ向かう。そして、北沢局のポストに封書と数葉の葉書を投げ込む。

 投函を終えると煙草を取り出して火をつける。そして、歩き出す。はす向かいの「やはた湯」の脇の道を北へと上っていく。「御殿山小路」である。
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2010年11月20日

下北沢X新聞(1697) 〜小田原と文士町の文学脈絡3〜

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(一)
 文士町はどういうところなのか。その全貌は自分にはわかっていない。が、一つ事実として言えることは、詩歌人が著しく多いことだ。
 
 詩人、歌人、俳人が何故多くこの地域一帯に参集したのか?。彼ら同士の交流はどうだったのだろうか?。これも全貌はわからない。が、小田原に文士町の脈絡を調べに来たことで一つの筋が見えてきたように思う。

 民衆派詩人福田正夫は文士町の詩人陰影の中核をなしていたように思えてきた。小田原城山の彼の詩碑の裏にはつぎのように記されている。

 雑誌?民衆?は福田正夫が主唱し、小田原を郷土とする若い詩人たちを同人として大正七年小田原で創刊された。民主主義思想の上に立ち、自由平明な表現をもって民衆の生活を歌った同人の作品は詩壇に新風を与え、民衆という言葉が社会全般に現れ、民衆詩、民衆詩人と言う言葉が生まれた。大正十年一月第十六号を出して終わったが、民衆は自由詩史上に大きな足跡を残した。碑面の字は表紙の題字で福田正夫が書いた。
          昭和三十三年秋 井上康文著
 

小田原で詩誌「民衆」は生まれた。虐げられたり、無視されていたりした民衆に光を当て、彼らの視点に立って詩を作った。正夫が主宰する詩誌「民衆」は、白秋が小田原に居住してきた大正七年に創刊されている。転地療養の地は健康的な空気がみなぎっていたばかりではなく人にとっての精神的な自由も満ちていたのかもしれない。小田原の進取性、先進性である。

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2010年11月18日

下北沢X新聞(1696) 〜小田原と文士町の文学脈絡2〜

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(一)
 小田原には独特の土と空気のにおいがある。地形風土がそれを育んだものだろう。海と山と川とがあってそれが景色に深みを与えている。南に広がる太平洋は果てしもなく続いている。そこから吹きつける風も穏やかで、気候も温暖である。長閑さが漂っている。

 坂口安吾を世に出すきっかけを作ったのがこの小田原出身の牧野信一だ。安吾がこの風土のことを「流浪の追憶」という文章に書き表している。

 小田原の山は蜜柑等の灌木だけで高い樹木が全くないから陰がない。そして空が澄んでゐる。牧野さんの精神の抒情には靄といふものが殆どないのは彼を育てたこの風景のせゐだらうと私は考へてゐる。 

安吾は、自身の故郷北国新潟の暗鬱さと対比して述べている。「空が澄んでゐる」というのは小田原という風土に接しての感銘でもあるはずだ。靄に包まれない、隈のない風光が文学を育んだ。他所から来てここに来た者もたちまちにゆるりと流れる時間に染まってしまう。

(二)
 北原白秋は大正七年に小田原に転居してきた。

○小田原はゆつたりしたいいところです。煩瑣な周囲から離れて、静かな落ち着きのあるいい生活に私は入つた。これからほんとうのいい芸術的生活ができさうです。幸せに喜んでいただきたい。
 小田原より(一) 白秋全集35 小編1 岩波書店 1987刊
 

葛飾から移り住んできた白秋の小田原住まいの感想である。「煩瑣な周囲」とは都会に近い煩わしさを述べたものだろう。
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2010年11月17日

下北沢X新聞(1695) 〜「九品仏道」道標の行方を追って〜

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(一)
 かれこれもう一年半以上前のことだ。散歩途中に、横倒しになった道標をみつけた。「どうしてこんなところにあるんだろう」と不思議に思った。場所は等々力だった。

つい最近、宮本百合子が駒沢新町に住んでいたときに書いたものを調べた。「金色の秋の暮」という作品に、「三井の横を抜け、竹藪を抜け、九品仏道と古風な石しるべについて行った」という一節があった。昭和元年十月三十一日に九品仏詣をしたときの記述だ。

 これを読んで、うち捨てられていた「九品仏道」の「石しるべ」を思い出した。彼女が通って行ったのは深沢、そして、等々力だ。道順に合っている。もしかしたら彼女が辿ったところにあった「石しるべ」かもしれないと思った。それで、もともとそれがどこにあったのかが知りたくなった。

 それが置いてあったのは学校の裏手だ。ここはかつては東横女子学園といっていた。地形的には九品仏川源流部にあたる。が、河川争奪によってこの水源は矢沢川へ引き込まれたようだ。

 そこには高橋園という看板が掛かっている。着くと、ちょうど人がいた。それで、早速に質問をした。
「いや、おれは、ここの者じゃないんだよ。そこにここの人がいるから聞いてあげるよ」 
 彼は、プレハブの家に入っていった。そして、もう一人の人を連れて現れた。
「ああ、あれはね、むかし、うちの畑のそばにあったもんだよ。うちの親父が知っているから聞いてあげるよ」
 若旦那だった。彼は、そう言って、母屋に入って行った。しばらくすると親父さんが現れた。ちょうど昼時でご飯を食べていたようだ。

「ああ、あれね、うちの畑のところに横倒しにしておいてあったんだ。場所か、等々力小学校のそばだよ。あそこはね、深沢と等々力の境になるんだ」
 道標などの類は土地の境目に置かれる。ゆえに情報の信頼性が高い。そしてまた、作家が辿っていった道に、見事に符合する。

「あの道標は、今も残っているんですか?」
転がされていた道標は確かめずに来ていた。
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2010年11月15日

下北沢X新聞(1694) 〜小田原と文士町の文学脈絡〜

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小田原の白秋

 そこへ行こうと思った旅ではない。それでも目的地からさほど遠くはない。それで、よし行ってみようと思って行った、小田原である。

 ここには一時、三好達治と坂口安吾が居住していた。そのことを調べようと小田原を訪れたことがある。ところが調べるにつれここには文士町に関係する人が他にも多くいた。民衆派詩人の福田正夫、井上康文である。ともに小田原生まれである。

 気になっていたのは北原白秋である。だんだんとわかるにつれ文士町における白秋の存在は大きくなっていく。例えばこんな一例もある。無名時代の詩人たちの数名が文士町に住んでいた。「三人の弟子たちがとぐろを捲いている家を、師匠がまるきり知らないでは済まされないからな……」(「評伝北原白秋」藪田義雄)と言ったのは白秋である。砧村西山野在住時代、祖師谷大蔵からその弟子がいる下北沢に出張して来たという。

 この北原白秋は、小田原には約八年ほどいた。転居を繰り返していた彼にしては、ここでの滞在は長い。そこには何かのわけがあるのではないか。行ってその土地の様子を見たり、空気のにおいを嗅いでみたりしたいと思っていた。

 11月14日、小田原へ出発した。が、この日、朝方に用事があった。広島で語り部をしておられる藤井照子さんが親戚の結婚式が東京で行われて、上京して来られるという連絡があった。それで銀座のホテルのロビーで待ち合わせをし、三年ぶりに再会したことである。自身との出会いがきっかけとなって語り部をはじめられた。小中校生に話をしているという。が、身体もきつくなって「お断りする場合もある」とのことだった。それでも80歳を迎えたという彼女は元気ではあった。

「そうですね、広電の電車の運転が始まったのは昭和十九年の秋からでした。最初は体格のいい人から選ばれてはじまったんですよ……」
 昭和十九年六月江波線の開業がきっかけだったようだ。徴兵で男性運転手が払底していた上に新線が開通した。それで電鉄家政女学校の二年生の十五歳を使わざるを得なかった。試験登用したところ彼女らは思いの外頑張った。そのことから順次他の女学生も運転を任されるようになったのだろう。
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2010年11月14日

下北沢X新聞(1693) 〜駒沢新町から九品仏へ〜

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百合子の九品仏詣道をたどる2

 荏原の沢を自転車で、そして、徒歩で、何万キロと巡ってきた。多くの人と出会い、地域に埋もれていた話を聞いたり、調べたりしてきた。その過程の中で、思いがけない事実を知ることがある。地形の襞に眠っている話である。

 武蔵野の地形は複雑だ。台地高位面が半島状に南東方向に延びている。その縁辺を水路が巡っている。台地脊梁部には大概古道があって斜めに向かっている。その半島形状の一つ一つには凹凸がある。出っ張りは舌状台地である。駒沢新町を載せた台地にもそれらがある。

 呑川に面した箇所は崖になっているところから都立深沢高校も一つの小さな舌状台地のようである。これは台地が東に突き出ている。この反対側、西にも川がある。矢沢川だ、ここにも舌状台地が突き出している。この左岸崖上にかつて東条英機邸があった。

 近代史のプライベートな話がこの台地東西の舌状台地にあることは面白い。旧長尾邸には近衛文麿首相が自裁直前に滞在していたと言われる。路上でばったり出会った鈴木氏の話は、東条英機邸の話だった。

 興味深い話だった。書けば面白い。が、週刊誌的な興味本位な話に陥りそうな危惧がある。鈴木氏本人は非常に好意的で、その時の写真も自宅にしまっているので前もって連絡してくれれば見せますよとのことだ。

 戦後65年は経過した。が、戦争に対する総括がきちんとなされていない。ゆえに軍指導部に対する評価が左右両極存在する。触れると危ないという情報もまだある。対象を客体的に捉えて批判や批評をする。宮本百合子のような批評精神が市民レベルまで育って来ていないように思う。政治の話をすると肩が凝る。政治の鼓動を聞くよりも、古道の話をする方がよほど面白い。
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2010年11月12日

下北沢X新聞(1692) 〜駒沢新町風景と文学・建築2〜

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百合子の久品仏参詣道をたどる

 武蔵野風景変遷史というものはある。部分部分は記録はされているが、体系的に記録されたものはないだろう。その原初的な風景を形として記録したのが国木田独歩の「武蔵野」だとも言える。

 宮本百合子が駒沢新町に居住したのは大正末年から昭和初年にかけての一年余である。短期間の居住であったのに一帯の風景を作品では詳細に描写している。それは単に描写だけにとどまらない。批評をもなしている。

 彼女は批評眼が鋭い。例えば、宇野千代の文学を、「峰から峰へとぶのに、弁天様の着物のように沢山の襞や彩りが翻るようなのだ。」(「読者の感想」1925)と。この比喩批評は尋常ではない。言葉での抉り方が巧みだ。

 「下北沢文士町」に宇野千代は関係する。もう一人網野菊もそうだ。地図には彼女の旧居を記している。網野菊と土地との関わりについては詳らかではない。現在の下北沢一番街にあったお茶の「住吉園」に女流がよく集まっていて、その一人に彼女がいたという。

 その網野菊と宮本百合子は懇意だったようだ。昭和元年九月に網野菊が駒沢新町の家に訪れた。久し振りの出会いで話が弾んだようだ。遅くなって何かを食べようということになって百合子がマカロニを食べようと言い出す。それで二人して買い物に出かける。

 雨があがった桜並木の食料品屋へ行ってみた。戸がたっている。中で起きている気勢なので声をかけ、開けてもらった。鑵づめはなく、
「これがよろしいでしょう。お湯を煮たててお入れになれば直です、イタリーのですから品はいい品です。フランスのは太いですが、イタリーのマカロニ、フランスのマカロニ、云々をきかせた。
 「九月のある日」 宮本百合子全集 第十七巻 新日本出版社 1981年刊
 

昭和初年当時の話としては極めて面白い。すぐ側の大山街道沿いには玉電が走っていた。この街道には朝方野菜を積んだ荷車が、帰りには汚穢を運んできた。道路のあちこちには馬糞すらある。そういう時代だった。かなりの田舎であるのに食料品店には外国製のマカロニがある。それで商店主は、各国のマカロニの特徴に通暁している。

 往事、駒沢新町には洒落た家が多く建っていた。例えば、「外壁に面白い鉄唐草の窓をつけたスペイン風の建物」(「二つの庭」宮本百合子)である。外国製のマカロニが豊富に取りそろえてあるのはそういう家に住む人からの需要があるからだろう。
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2010年11月11日

下北沢X新聞(1691) 〜駒沢新町風景と文学・建築〜

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都の西方に位置する武蔵野の谷や沢には数え切れないほどの逸話が眠っている。それは地形の襞に隠されたストーリーである。起伏に富んだ地形は、その高低、向き、角度、植生、それぞれによって趣が異なる。それが文学や建築にどう反映されているのか、これを読み解くのも楽しい。

 先だって、都立深沢高校内に保存されている「清明亭」を見学する機会があった。「せたがや街並保存再生の会」が主催する≪桜新町〜新町住宅地・清明亭≫という街歩きの会である。まず、新町の街並を丸山澈氏が案内をし、最後に学校に着いた。そして、「わかもと」創業者長尾欽彌邸の「清明亭」を見学した。

 この「清明亭」のある都立深沢高校近辺は、自分の家から近く、常々歩き回っている。一帯は呑川上流部に当たり、左岸には志賀直哉が居住していた。その直哉もこの長尾邸に出入りしていたようだ。この邸の近くには一時、宮本百合子が住んでいる。全集年譜にはこうある。

 一九二六年(大正十五年・昭和元年) 二十七歳
 六月二十日、東京府荏原郡駒沢新町(現世田谷区)の借家に湯浅とともに転居。
  宮本百合子全集 別巻年譜


 彼女が当地に居住していたのは一年余りだ。この後、昭和六年に竣工された「清明亭」とは時代が重ならない。が、彼女が描いた新町風景の一角にこれが建ったことは確かだ。

 宮本百合子の小説は深く読んだことはない。それでも薄々気づいていたのは彼女が車窓風景をよく描いているということだ。女流プロレタリア作家は風景に対する批評精神を持っている。そこが興味深い。

 「清明亭」と宮本百合子には結びつきがない。が、建築と文学という視点で考えたときに一つの切り口が見つかる。
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2010年11月09日

下北沢X新聞(1690) 〜映画、文学、戦争、豪華三本立ての小旅行4〜

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日々歩いたり、記録を調べたりして、過去を渉猟している。するとわかってくることがある。たかだか数十年の間に、とんでもない驚くべきほどの変化、進歩を遂げていることである。

「世田谷通りを屎尿を運ぶ馬車がぱかぱか足音を立てて通っていく音がうるさかったですね」
 確か、これは、北原白秋の息子さんが言っていたように思う。世田谷文学館のビデオで見た覚えがある。

 軍馬の群この夜とどとし来て居りと思ふだによしを千葉聨隊の馬

 北原白秋、歌集「白南風」の中の「世田ヶ谷風塵抄」に詠まれた一首だ。昭和三年である。家は世田谷若林、世田谷通りに面していた。たかだか八十年程前のことだ。その軍馬も農馬も、道筋からいなくなり、今は車が行き交っている。

 一昨日、その若林の旧居へ行って、時代の変わり様を思った。歌集に詠まれた自然はほとんど残っていない。それでも残り香はある。その場所を確認すると丘上だった。馬込も、祖師谷大蔵も、喜多見成城も同じだった。台上の展望のいいところに居を構えていた。

 世田谷若林の旧居跡は台地尾根筋を抜ける古道世田谷通り沿いにある。当然のことながら風も強い、赤土が舞って風塵まみれだったろうと思う。「世田ヶ谷風塵抄」は地形と結びついている。


戦争2 

 わたしの小さな旅も終わりを迎えた。それは思いがけない結末である。目的地の「大宅壮一文庫」に行って、調べたいと思っていた週刊誌の閲覧を申し込んだ。ところが…。

「ちょうどその号だけが欠けているんですよ」
 係の人の返答である。
「……………」
 わたしは言葉もなかった。
 館員は、資料がなかったということで入館料は返却してくれた。
「その号だけがないというのは不思議ですね。貴重だから盗まれたのでしょうか?」
「いや、『欠』とあるのでこれは最初からなかったということです……」
  欠号週刊誌への想像が膨らんだ。売れに売れてなくなったのかと思った。
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2010年11月08日

下北沢X新聞(1689) 〜子どものための感動ノンフィクション大賞〜

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・文学賞の応募の結果について

 「鉛筆部隊の子どもたち」〜書いて、歌って、戦った〜 

 わたしのブログを発端にして発掘されたのが鉛筆部隊の話である。この一連の話は、できれば一冊の本にしてまとめ後世へ記録として伝えたいと思っていた。

 簡略なあらすじを言うとこうである。

 あるときに突然このブログにコメントがあった。長野県広丘村に郷福寺という寺があった。そこに代沢小の学童が疎開していた。ここで歌われていた寮歌があるはずだ、それを知らないかという質問だった。旭正章さんである。

 これがきっかけとなってわかったことがある。鉛筆を手にして懸命に戦っていた学童がいたこと、その学童たちと特攻隊の深い関わりがあったことである。とくに印象的なことは、彼らが「鉛筆部隊の諸君」と冒頭に書いて送った手紙が寮歌発見のキーワードとなった。それは特攻に飛び立つ基地から子どもたちに送っていた遺言だった。

 骨董市で「鉛筆部隊」と捺された手紙の束を購入した人がいる。矢花克己さんである。さっそくにネット検索をかけたところわたしのブログに引っかかった。これによってこちらが寮歌を探していることも知った。手紙の束を全部紐解くと、なんとまあ、寮歌の楽譜もあったことである。

 これに端を発して不明だった過去が資料によって、人の証言によってつぎつぎに証されていった。現実のドラマの進展だった。これは活字として残して置きたいと思った。
 
 そのことから日本児童文学者協会が主催する「子どものための感動ノンフィクション大賞」に応募していた。昨年、このあらすじのみを提出しての第一次審査には通過をした。第二次審査に向けて、原稿用紙120枚にまとめてこれを5月末に送っていた。
 その審査結果については7月末に、優良作として入選したとの連絡が伝えられていた。昨日届いた「日本児童文学」11,12月号に選考結果が公表された。正式発表である。
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2010年11月07日

下北沢X新聞〜画像情報(鉄道交点)〜

08_下北沢X交点

写真解説 

 小田急ロマンスカー最後尾から撮った写真、下北沢駅構内を通過中。2010年11月3日撮影。
この風景も地下化によっていづれは消え去る。
(読者提供の写真) 読者提供の写真も受け付けます。


2010年11月06日

下北沢X新聞(1688) 〜映画、文学、戦争、豪華三本立ての小旅行3〜

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戦争1

65年前の戦争は終わらない。
「ふしぎな話ですよね」
 元鉛筆部隊の田中さんの口癖だ。その彼女からこの月初めに松本浅間温泉に行ってきた。その報告の電話があった。また同行されたIさんからもメールでの連絡があった。この二人のふしぎな繋がりもこのブログが機縁だった。

 田中さんは代沢国民学校の学童として松本浅間温泉に疎開していた。そのときに陸軍松本飛行場にたまたま飛来してきた武剋隊兵士と巡りあった。その一人から愛された人である。Iさんは同じ隊にいた兵士を自身の生まれ変わりだと信じて慕っている。ともに特攻兵士への思いを今も携えている。不思議な運命の機縁をネットが結んだのである。

 特攻隊兵士が泊まっていたのは旅館「千代の湯」である。その今は普通のお宅となっている家に彼女ら二人は訪れた。Iさんからのメールにはつぎのようにあった。

 自宅におじゃまさせていただき、いろいろとお話を伺ったり、旅館の跡地に出て、ここがお風呂場、ここが玄関だとか当時の風景を思い起こさせてくれる説明もしていただきました。出戸さんたちが最後に過ごした想いの深い場所に、こうして私も立っている事に何とも感慨深い想いが湧き65年の月日を一瞬飛び越えたような感覚におそわれました。 

人生とは何か?、どれだけ自分に取っていい風景を貯め込むかではないかと思う。また、こうも言い換えられる。自分に取って愛着の深い人間の面差しをどれだけ貯め込めるかとも。可愛がってくれた祖父であり、忘れ得ない母であり、印象深い知己である。その中に自身の信ずる特攻兵士がいたとしても不思議ではない、むしろ熱く縋ることのできる人がいるということは嬉しいことだ。想うことのできる人がいることは幸せである。

 わたしの小さな旅も、忘れられない面影を求めてのものだった。同じ浅間温泉から飛び立って行った特攻兵士長谷川信少尉である。先月は、彼の面影を求めて会津若松を旅してきた。

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2010年11月05日

下北沢X新聞(1687) 〜映画、文学、戦争、豪華三本立ての小旅行2〜

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文学2 

 近代の文学詩歌に大きな影響を与えた北原白秋、祖師谷大蔵へはその旧居を求めての小さな旅だ。そこに行って空気を嗅いでくる。往事のにおいを感じるためである。

 かつての住所は「東京市外砧村西山野一八六九」だ。字名が「山谷」ではなく「山野」であることは大事だ。前者の字名は近隣の至る所にある。多くが沢の凹凸があるところだ。が、後者は趣が異なる。谷戸川の源流域でフラットな台地が南へと続いている。

 ゆきゆくと思いがけずその番地には「北原白秋住居跡」と記された表示板があった。世田谷区教育委員会が「白秋生誕百年を記念して」「昭和六十年二月」に建てたものだった。
つぎのように記されている。

 此の所砧六丁目十三番(旧大蔵の西山野)は、昭和三年からの住所であった今の若林三丁目十五番から、昭和六年初夏に移り住んだところで「砧村雑唱」と題した一連の短歌を詠んでいる。

案内板には、その短歌が三首記されている。そのうちの一首。

無線塔移ろふ雲の騒ぎ立てば眼にとめて涼し秋来たりけり

この無線塔は、旧居南側のずっと南に見えていた放送技術研究所のアンテナだ。ラジオ放送は大正十四年(1925)に始まった。その五年後の昭和五年(1930)に設置されている。果てしなく続く緑の中にすくっと建っていた。「ラヂオ研究所の対の無線塔」(「白秋全集10」の「砧村」所載)とあるところから対の二本である。郊外の近代風景だった。

「おいおいこれがつい最近できた鉄塔だぜ。おいらのところまで届くぐらいだからな」
 雲は噂していたのかもしれない。

 どこまでも続く緑、果てに聳える鉄塔、急ぎゆく雲、ふとした空気の変化に秋到来を見たのだろうか。居ながらにして眺め遣る、その眼には常に鉄塔があった。彼は、歌集「白南風」の序を「砧村の雲と鉄塔の下にて」書いて締めくくっている。

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2010年11月04日

下北沢X新聞(1686) 〜「私のヒロシマ・ナガサキ」中村美里LIVE〜

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 言葉は、現象を伝える道具として人間が考え出した記号である。人知が生み出したものだ。ところが、人知が生み出した核兵器は、記号を遙かに凌駕するものだった。言い尽くせない、語り尽くせない。それほどに酷く、強烈で甚大な被害を人々に与えるものだった。叡智の一欠片もない愚かな兵器である。このあるまじき兵器が爆発した「あのときのこと」を語る術を人類は持っていない。たった数秒のことを、億万語、兆万語を費やしても伝えられない。

それでも語り続けることは必要だ。が、この核兵器の被害をどのように次世代に残すのか。大きな課題である。

一つは、原爆被害の風化である。時が経つに連れて凄惨、過酷な原爆被害が忘れ去られつつある。被爆経験者の高齢化も大きい。直接に被爆経験をされた方の話が聞けなくなりつつある。誰がどのように核兵器被害を伝えていくかという大きな問題である。


 もう一つは、ジャーナリズムの衰退である。核兵器に対する批判力を失って行くのではないかという危惧である。いわゆるマスコミは不況の中で喘いでいる。広告料収入の落ち込み、出版不況、購読者の減少、いい材料はない。儲からない原爆に関しても矛先が鈍っていくことが想像される。

 核を平和利用したものとして原子力がある。我らはその恩恵を蒙っている。が、これは動かせば動かすほど高レベルの放射能廃棄物が出る。これをどうするのか。処理法の着地点が決まらないままに湯水の如くその便利さを享受している。廃棄物は後世にゴミを先送りするだけである。直面している大きな問題点だ。

 ジャーナリズムは、売って、儲かって成り立つ。消費を冷やすようなことは言えない。大きな弱点だ。これからは不都合な真実は隠されていく可能性はある。ここに必要なのは、本当は市民力だと思う。ジャーナリズムが衰退していく中でいっそうにこれは求められる。

 昨日、11月3日、「私のヒロシマ・ナガサキ」中村美里LIVEが三軒茶屋のカフェ&ギャラリー「まんまるの木」で開催された。一人の市民の力で、核廃絶を訴えるというものだ。

 歌をうたって、語りを入れ、核兵器による被害を伝えるというものだ。気取らないでさりげなく為すというそのスタイルに好感を持った。

 あの八月六日、広島駅前を発車したとたん青い閃光が走って被爆したという藤井照子さんは今も語り部を続けておられる。この間の電話では身体が弱ってきたと言われる。実際に被害を受けた人の話はリアリティ、説得力がある。が、いつまでもおられるわけではない。次世代の語り部が現れて、伝えて行ってほしい。

 伝え方のスタイルというものはある。パフォーマンスで行くか、地道に行くか、中道を行くかということはある。
「ミュージカルで取り上げてもらったんですけどね、最初に、貧乏だったから広島電鉄家政女学校に行ったんだと歌われたときはとても悔しい思いをしました…」
 前に藤井さんから聞いたことがある。パフォーマンスとして演じたものだろう。

 中村里美さんは声がいい。歌って語れるというのは武器のように思える。歌の合間に語りを入れる。アメリカでの経験である。
「アメリカと日本が戦争してどっちが勝ったのとホームステイ先の子どもに聞かれたときにアメリカと答えたら、『やった!』と言うのです。そのときにお父さんが、子どもに戦争は勝ち負けの問題ではないんだよと言ってきかせていました」
「最初か原爆の話をしてもまったく通じません。まずはコミュニケーションですね。さりげなく入って日本とはどういう国かとか話、折り紙などをして、慣れたところで原爆の話を切り出すのです」
 変にぶっていないというところは共鳴を覚えた。彼女の良さだと思った。
 原爆の様子を語る場面があった。そのときの様をリアルに二人の朗読で伝えていた。必要なことである。ここの部分は、個人的には工夫が必要ではないかと思った。

「とても大事なことをなさっていると思うのです。原爆をどう語るかは難しいものがあります。客体化して伝えるというのはとても大事だと思われます……。」
 語り手は素知らぬふりをして真実をたんたんと語ること。地道な苦労が必要だ。が、それを為そうとしている彼女にはエールを送りたい。

 中村さんはアメリカに明日アメリカに向かうという。ワシントンDCにあるカーネギー地球物理学研究所の庭に被爆アオギリを植え。そこで歌も披露するということだ。
(中村里美さん。本人には取材の許諾を得ている)




2010年11月03日

下北沢X新聞(1685) 〜映画、文学、戦争、豪華三本立ての小旅行〜

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映画

時は刻々とめくりめくられてゆく。新しい時のページはたちまち過去になって、つぎのページへと移っていく。しおりを挟んでも時はつなぎ止められない。

 バスでの旅は昨日のことだ。祖師谷大蔵に行こうと思い立って家から隣町の深沢不動まで歩いた。急いで行ったら、早く着いた。等11「祖師谷大蔵行き」に乗るつもりだったが、等12「成城学園行き」が先に来てしまった。が、待つよりもいいだろうとこれに乗った。

 終点まで行こうと思っていると、途中「つぎは東宝前です」と車内アナウンスがあった。そのバス停名を聞いて、ふと思い出したことがある。それで降車合図ボタンを押した。

「だいぶ昔のことですが、ここにマコトという喫茶店がなかったですか。」
 バス停近くの電器屋さんで早速に聞き込みだ。
「名前はわからないけど、喫茶店はあったね。だいぶ昔の話だね。わたしよりも隣の酒屋さんが古いから聞いてごらんなさい。」と店番の奥さん。

「マコトか、あったよ。その向かいの成城一丁目一番のうちの家作に入っていたな。それから今のバイク屋さんのところに移ったな。そこの主人が詳しいから聞いてみるといいよ」
 酒屋のご主人が教えてくれた。

 下北沢北口駅前にあった珈琲店「マコト」は、映画関係者が多く出入りしていて繁盛していた。これは生前に松林宗恵監督からじかに聞いていたことだ。後に、この「マコト」を手伝っていた潮田高雄さんにも巡り会って往事の話を詳しく聞くことができた。
『下北沢駅前では映画関係者が多く来てはやったものだから、店を東宝の前に移転して営業したのですよ。洋食屋もやっていたんですけど、後には喫茶店もやりましてね。それでわたしは撮影所の中に出張していくのです。お手製の小さな櫓に、お袋がネルで縫って作ってくれた袋を縛って、そこにコーヒーを入れて熱湯を注ぐのです。撮影の合間とか、終わった後に監督さん、役者さんが来て飲んでいましたね。』
 昭和二十年代の終わり頃だ。復興へと走りはじめた時代、人々の精神的な飢えを満たすには映画は恰好の娯楽だった。撮影所はフル稼働していたのだろう。潮田さんが淹れるコーヒー一杯が彼らの疲れをほぐしたことだろう。
 そういえば彼は、先日亡くなった俳優池辺良の付き人を一時期していたと言っていた。続きを読む

2010年11月01日

下北沢X新聞(1684)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第52号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第52号

                2010年11月1日発行(毎月一回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、「地形と文学」研究会構想

「地形と文学という点はあんまり考えられていませんよね。新しい見方ですよね」
「そうそう武蔵野の谷はでこぼこしていてそれが文学表現に関係していますよね」
 先だって代々木山谷を巡ったときにそんな話になった。
「地形と文学の研究会を作ればいいよ」
 自分がそういった。新しいまちあるきのスタイルだ。斜度計とコンパスを持って歩く。

 中村汀女は、昭和十二年に世田谷代田に仙台から越してくる。「十月末北沢の家に入る」として、四句詠んでいる。そのうちの二句はつぎのだ。
 時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ
 子等のものからりと乾き草枯るる
 当初、この「北沢の家」がどこなのか分からなかった。が、偶然にも家を貸していた人が自分の家だったと言う。その場所は代田二丁目の南のり面にある。その土地の恩恵に浴して彼女は喜びの句を詠んだのではないかと思った。
 まず、第一句。井戸の把手をこきゅこきゅと動かすといい水が出た。主婦にとっては嬉しいものだ。ここには地下水脈があっておいしい水が出ていた。丘の西には代田駅前の関豆腐店があってかつてはこれで豆腐を作っていたという。環七ができて地下にヒューム管が埋められ大腸菌が発生するようになって止めたという。
 第二句は、日当たりのいい場所だったことから洗濯物がカラリと乾いた。
 
 地形と文学の面白さである。荏原一帯随所に谷があり、沢がある。谷間で営まれる文学と丘上で営まれる文学は異なると思う。
 例えば、三島由起夫は緑が丘に住んでいて、都立大駅までよく歩いていたと言う。家の近くなのでそこはよく通る。坂を下って駅に行く、彼は下りの文学をものしたと思う。ヒルトップの谷間が俯瞰できるところにいて小説を書いていた。駅に行くときは下っていく。
 誰も考えなかった視点で、考える、そして面白がるというものだ。
 以上に述べたようなことで「地形と文学」とを調べて楽しむという研究会だ。

 まずは、最近壊された大岡昇平の言う下北沢の松林の辺りを文学と結びつけて調べるということを考えている。横光利一宅に小説作法を習いに行ったと言う。いわば、現代版古今伝授に通った道の点検からすると面白い。実地検分して、その後、皆でああでもないこうでもないと話をするものだ。
 会則なし。会費なし。思いついたときに会を行う。二ヶ月に一回ぐらいはしてみるのもよい。テーマとしては、小説の猫町舞台、尾山篤二郎北沢草堂、三好達治徘徊ルートなど坂と沢に関わるものを楽しんで研究するものだ。日取りは第四週土曜日午後かとも考える。
 やってみませんか。二三名でも同好の士が集まれば、やってみようと思う。
 一点にテーマを絞り、そこを歩き、最後は、カフェでお茶を飲むというものです。
 入会希望者はわたしに連絡をください。aoisigunal@hotmail.com

2、年忘れ会のお知らせ 

恒例の年忘れ会を行います。が、今回からは少し会の持ち方を変えたいと思います。せっかくの集まりですから、会の運営やお金のことについて確認をしたり、承認をしてもらったりということを初めに持ってきたいと思います。
 会計報告、役員の変更、会の在り方について皆さんに承認を頂いたり、意見を言っていただいたりするというものです。十数分で終わるのではないかと思います。
 これが終わった後、いつものお楽しみ会です。いつも他団体の方がこられて情報交換する場ともなっています。要は、皆が集まって、語り合って楽しむというものです。どなたでも参加できます。参加して楽しんでください。

日時12月4日(土)5時30分より 場所 北沢タウンホール集会室
・コップは各自持参してください。そしてまた、いつもの一品、なんでもいいです。自分で作ったサラダ、パン、家にあった怪しいお酒、話のきっかけを作るものです。これを持参してください。
 会費は3000円です。お弁当代や飲み物などの費用です。誰でも参加できます。
 当日の用意がありますので11月27日まで米澤邦頼までに必ず連絡をください。

3、「戦争経験を聴く会、語る会」について 

 薄れゆく戦争の記憶を残そうと毎年会を開いています。来年、2011年5月22日(日)、山手空襲から66年目に第四回目を開催します。
主催は、「北沢川文化遺産保存の会」です。「北沢3・4丁目まちづくり協議会」が後援をしてくださいます。場所は、北沢タウンホール、第1集会室(2F)です。
この会場については協議会の荒金紀雄さんの尽力で確保できました。
 今度の会は、「海軍第14期飛行予備学生の話を聴く」です。学徒動員で戦争に行かれた方々の話です。すんでのところで助かって今にある、その人たちの話を聞く会です。ネットに案内宣伝をしていますが千葉県に住む方から既に参加申し込みがありました。

4、定例会:歩く会について  

都市物語を旅する会
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10数名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が主体的に文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(4回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(2回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回) ・下北沢の踏切文化を検証する
・高須光治「下北沢風景」と近代日本文学 ・東京山手急行の痕跡を尋ねる
・北沢川を源流から歩く ・ 代々木山谷芸術村から下北沢文士町へ
 
・第53回 11月20日(土) 午後1時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く
北口駅前、萩原朔太郎旧居、渡辺順三旧居、尾山篤二郎旧居、中村草田男旧居、福田正夫旧居、清水乙女旧居(篁短歌会)、堀内通孝旧居、中村汀女旧居、北川冬彦(?)、萩原朔太郎旧居、三好達治旧居、加藤楸邨旧居、邪宗門 約3,4キロ歩きます


・第54回 12月18日(土) 午後1時 代田橋駅南口
地形と神社仏閣 代田半島と代沢半島の古寺社教会などを巡る
・第55回 1月15日(土) 午後1時 豪徳寺駅改札前
新春言祝ぎ紀行〜神社を巡って手と脚の健康を祈る〜
案内者 天羽大器 
豪徳寺駅スタート→世田谷八幡宮→烏山川緑道→松陰神社→若林天満宮→若林稲荷神社→若林稲荷神社→太子堂八幡神社→鎌倉通り→北沢八幡神社→邪宗門ゴール

○2011年2月 戦争月間 二回実施
・第56回 2月12日(土)午後一時 調布駅北口階段下
 旧軍調布飛行場の痕跡を求めて
案内者 天羽大器
・第57回 2月19日(土)午後一時 池尻大橋駅 
    「駒場の戦跡を歩く」 五六キロほど歩きます
案内者 米澤邦頼、天羽大器  
○コース概要 
氷川神社:陸軍境界石(裏手騎兵実施学校跡)→駒場天覧台→駒場高校:目黒一中(輜重兵第一大隊跡)→陸軍皆行社住宅跡→駒場エミナース→御用屋敷→警視庁機動隊→日通倉庫(屋内射撃場跡:近衛輜重兵大隊跡)→馬魂碑(騎兵第一連隊跡)→戦役戦死病没者表忠碑(騎兵第一連隊跡)→陸軍境界石→筑波大附属中高(近衛輜重兵大隊跡)→練兵場(休憩)→駒場学園(陸軍獣医学校跡)裏手に境界石(2本)→邪宗門
*かなりの距離があるということを記録しておく。余裕があれば陸軍病院跡も

・第58回 3月19日(土)午後一時 下北沢駅北口
    森茉莉の足跡を歩く
・第59回 4月16日(土)午後一時 明大前改札口 
  東京山手急行の痕跡を尋ねる  案内者 別宮通孝 好評だったので再度実施
・第60回 5月14日(土) 午後一時 下北沢駅北口
  シモキタザワ「猫町」散歩 萩原朔太郎「猫町」の舞台を歩くというもの
・第61回 6月18日(土)午後一時 代田橋駅北口
  下北沢地形学入門 淀橋台から森厳寺川崖線を歩く
◎申し込み方法、参加希望について
  参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
  米澤邦頼 090−3501−7278
   メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp

■ 編集後記
▲8月に作成した「下北沢文士町文化地図」改訂四版についてはとくに裏面の古地図が好評です。各方面で活用してください。学校単位での配布もできます。代田図書館に500部寄贈しました。
▲「観光資源としての文士町の可能性」を試みにネットで発信しました。密かな反響があるようです……。
▲「北沢川文化遺産保存の会」の広報担当を担っているのが編集者です。ネットに「東京荏原都市物語資料館」というブログを掲出しています。これが荏原一帯の資料館として検索活用されています。その頻度が高くなるとこの資料館の場所はどこにあるのかという疑問を持たれる場合もあるようです。そのことから頭に、「Web」とつけ、「Web東京荏原都市物語資料館」としました。このブログは市民の証言や記憶を大事にしています。体験談、経験談をぜひ投稿してください。また、過去記事で再度、取り上げてもらいたいなどというものがありましたら要望をこちらへ伝えてください。
▲当方には「劇部」があって、「代田の不思議 ダイダラボッチ」を公演しました。ボランティアで地域に出張して演じてみたいという気持ちもあるようです。学校や施設などで公演要望がありましたら連絡をください。
▲この会報、アナログ版とネット版があります。タイムラグがあるところから若干記述が違っている場合があります。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。(80×12=960)。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。