2013年02月

2013年02月28日

下北沢X新聞(2269)〜バーレスQ「シモキタ駅前伝説」3〜

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(一)
 文学とは何か、さすらいである。あっちからこっち行き、またこっちからあっちへ行く。そういう場として下北沢鉄道交点というのはあった。偶然的に無頼派も当地へ来ては暴れている。

 小田急線、そして井の頭線の異線区交わりは重要だ。三鷹住まいの太宰治も中央線の裏線区として帝都線が頭にあり、『犯人』では、この線を使っての逃亡を試みている。こっそりと逃げ延びていく線の交差だ、相棒は、「いっそ小田急で逃げましょう」だ。

 「バーレスQ」での無頼派は、坂口安吾、太宰治、田中英光、織田作之助である。太宰治の場合は、こっそりと帝都線で過ぎていた。

 今朝の新聞たまたま見ていたら、「悲劇の急流、遠い面影」という見出しが目についた。「当時の玉川上水は急流で知られ、いったん落ちると二度と浮かんでこない。『人食い川』と怖れられていたんです」

 太宰治もこの上水で入水自殺している。「昭和23年6月、愛人の山崎富栄とその急流に身を投げた。2人の遺体もまた、発見されるまで6日かかった」とあった。とすれば、かなり下流で発見されたのではないか?。
「笹塚のどんどん橋辺りで発見されてね、大騒ぎになりましたよ。」
 なんてあったかもしれない。が、調べてみると二キロぐらい下手の新橋でみつかったようだ。

 下北沢文士町文化地図、第五版裏面は、この玉川上水を入れるために中野図の半分を入れている。下北沢のすぐ北辺をこれが流れている。イメージ的には帝都線、井の頭線で彼を下北沢に来させることになる。しかし、霊魂が駅前伝説に加わるためにこれを伝わって来るというのもありうることだ。

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2013年02月27日

下北沢X新聞(2268)〜バーレスQ「シモキタ駅前伝説」2〜

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(一)
 よじれたXには言葉が吹きだまってくる。それも異質な言葉だ。文士や芸術家など、徒党を組んできていないだけに一方に偏しない。新感覚派、四季派、プロレタリア、そして、無頼派などしっちゃかめっちゃかであった。

 「シモキタ駅前伝説」に田中英光と水上勉とが出てくる。これは事実に基づいた逸話である。戦後、活字に飢えた国民に出版物を提供するということで小出版社が一帯につぎつぎに出来た。焼けなかった一般民家を活用しての出版業である。

 北沢八幡神社近くにあった文潮社もその例だ。修行時代の水上勉はここに勤めていて田中英光らと知り合う。彼は「普通の住居を連れ込み風の宿に改造した」旅館、「名月」に泊まりこんで田中英光などは「自叙伝全集太宰治」をここで執筆していた。

 戦争突入から敗戦へ、その余波が、この一帯にひっそりと起こっている。こんなこともあった。代沢国民学校のとあるクラスに入って来た和服姿の奥さんが、「明日から官邸に参ります」と挨拶にきたという。当校に通わせていた子ども一緒にいくから今日でお別れだということだろう。

 陸軍大臣の東條英機が第40代内閣総理大臣に任命されたのは1941年(昭和16年)10月18日である。それから二ヶ月後に開戦している。戦争一色に染まった。始まると異色はゆるされない。戦争の風だ。

 志田歩さんはこのことについて触れ,作業員Bに言わせる。
「バカ言っているんじゃねぇ。そりゃ俺は神風なんてみたことはねえ、けどお上が大丈夫と言っているんだから大丈夫なんだ」
 意図的に風を吹かせてその風の色に染めさせる。分かり憎くはあったが、時代の断絶を丁寧に追っていた。
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2013年02月25日

下北沢X新聞(2267)〜バーレスQ「シモキタ駅前伝説」〜

P1030537
(一)
 昨日、北沢タウンホールで行われた劇を観た。言葉がふきだまる街という新しい設定での実験劇だった、自身の感想だ。

 行きも帰りも、間もなく地下化する下北沢、そして東急渋谷駅をじっくりと見て通った。
風景の喪失も間もない。

 今物質的な便利さよりも心の充足が求められている。が、近代化は物と心との乖離を大きくさせるばかりだ。地下化の利便性が説かれるが、対象を視覚から奪い、閉塞的な空間に人を追いやるという欠点もある。

 私は終わりに近づいた渋谷高架橋C曲線の響きを聴きながら帰宅したが、車中で劇を思い返した。

 劇とは何か、一つは演じ手が楽しむものだと考えてよい。そのことが観客に伝われば、観る方も楽しめる。そういう尺度からすると参加した者たちがどうおもしろがっていたかだ。こがれ評価のポイントにはなる。フィナーレは、ト書きにある、「全キャストが壇上にあがる。全員で歌を歌う」と。踊りもした。ここは楽しんでいたようだ。

 「劇団ほぼ無職」の旗揚げ公演だ。演じ手は「劇団ほぼ素人」だ。その彼らが楽しく踊っていた。少々台詞をとちったとしてもよい。文化とは楽しむものでもある。

 劇でもっとも肝要なのは声だ。伝わってこそせりふだ。これはそれぞれだったが、総体に伝える楽しさが加わってくるともっと面白くなるはずだ。

 劇とは、その場に、言葉の小宇宙を創り出すものだ。ここの実験が面白い。脚本志田歩さんの試みだ。大胆にも、下北沢駅前という場に、多くの文士たちを登場させた。それは『北沢川文学の小路物語』世界でもある。

 彼の解説によるとバーレスQはバーレスク、つまりは寸劇、パロディだという。「小路物語」のパロディだと言ってもよい。続きを読む

2013年02月24日

下北沢X新聞(2266)〜渋谷高架橋C曲線最終楽章5〜

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(一)
 明治期に起こった私鉄鉄道ブームには凄まじいものがあった。熱に浮かされた、言い換えれば、金に踊ったともいえる。『東京急行電鉄50年史』は、「私鉄出願のため、陸地測量部発行の地図が品切れになったという伝説があったのもこのころである」と述べている。明治三十八年である。

  これで思い起こすのは国木田独歩『武蔵野』だ。「大体明治三十年頃の東京郊外を中心とした叙景文である」、私鉄ブームが起こる前の武蔵野がここに書かれているということになる。そして、この東京西郊に、一気に私鉄高速鉄道が敷設されはじめる。つまりは、武蔵野自然の消滅の始まりだともいえる。

 独歩『武蔵野』の眼目は、都鄙の間(はざま)の詩趣である。そして言えば、それは時代の間だったともいえる。古代から近代への端境である。が、彼が思慕する武蔵野の敵はやはり鉄道だった。次のようにいっている。

 東京の南北にかけては武蔵野の領分が甚だせまい。殆どないといってもよい。これは地勢の然らしむる処、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路に由て武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。

 この鉄道こそ日本鉄道品川線だ。明治18年(1885)3月1日に開業している。旅客線ではなく貨物線だ。生糸の生産地・高崎と輸出港・横浜とを結ぶ「シルクロード」であった。蚕食の大食い、これが武蔵野を蝕んだともいえる。が、近代化が進むにつれ、東京の市街地が拡大し、この線は物から人を運ぶようになった。都市の基幹交通機関へと変身していく。

 開業時の品川線の駅は、渋谷、新宿、板橋だ。特に前者二駅は、後に私鉄ターミナル駅として飛躍的に発展する。ここを起点にして武蔵野のど真ん中に高速鉄道が敷設されていった。続きを読む

2013年02月22日

下北沢X新聞(2265)〜私鉄踏切に関する考察〜

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(一)
  sakurajousuiconfidentialの岡本克行さんからメールをいただいた。
 このところ武蔵野圏に属する地域では鉄道の地下化を中心とした交通網の大変革が起こっている。そういう変化をさまざまな視点で考えたり、観察したりすることは重要だと思う。たまたま寄せられたメールだが、批評性の高いものだと思い、本人に断ってここに掲載するものである。

ご無沙汰しております

 北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる如く、無くなる小田急の踏切たちが、関係がないと思われる桜上水の踏切に、その存在が微妙に生きながらえる。

 今週末から京王線が早朝、深夜,、そして日中に特急を増発します。特に日中は、これまで一時間に6本だった特急、準特急を一時間に特急9本と大増発を謳う文句は、むろん顧客利便性ですが、小田急立体化完成に伴い、直接競合する多摩線沿線、調布ー成城学園など、従前の競合バランスの変化に事前に対応せんとする意図が、一部あるでしょう。

 ところが、われわれの地元の踏切は立体化されていませんから、特急の増発により、開かずの踏切は、さらに負荷を受けることになる。
 考えてみれば、前回一時間あたり三本の準特急増発も、小田急の梅が丘ー和泉多摩川間立体化に対応するものだったでしょうから、小田急立体化は、我が地元に相当の影響を与えていることになります。
 特急大増発は、京王線立体化計画への世論形成にも微妙に影響するでしょう。
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2013年02月21日

下北沢X新聞(2264)〜渋谷高架橋C曲線最終楽章4〜

P1030499
(一)
 渋谷高架橋C曲線は私鉄の宿命だった。強引に曲がって国鉄ターミナルに乗り入れる。その象徴がこの急カーブに現れている。ここでは大きな音がした。クキュン、クキュン、ガウ、ガウ……という騒音だ。今回の東横線の地下化は、この騒音からの解放という意味もある。前近代的な音からの脱却だ。

 しかし、路線そのものは現行の高架橋の下に掘られているわけだから、今度は地下で、音楽を奏でることになる。どんな響きを立てるのだろうか。

 先だっての、歩く会では、最後は体験乗車を試みた。120円払って、渋谷から代官山まで往復した。渋谷高架橋C曲線音楽を聞くためだ。ところが、全員、渋谷駅の自動改札で引っ掛かった。
「もう最後となるこの渋谷駅ホームを見ておこうと思いましてね」
 有人改札でのいいわけだ。これは難なくパス。

 当日体験乗車をしたときに参加者の別宮通孝さんが音を取ってくれていて早速にメールで送ってこられた。

 先週末の「東横線C曲線街歩き」ありがとうございました。
当日、スマホで録音しておりましたが、まずまずの録音が出来ていました。
C曲線でのレールと車輪の軋る音を聞くことが出来ます。
若い頃、北海道のSL(C62重連)の音を録りに約5kgのテープ録音機を
担いで津軽海峡を渡ったことが昨日のように思い出されます。
昨今は、スマホをひょいと取り出し録音出来てしまうんです。
クリックして頂くとWindowsのメディアプレイヤーで聞くことが出来るかと思います。


 録音機材の重さの歴史までが記されてあった。なんともいやはや便利になったものだ。送られてきたこれを聴くと、確かによく聞こえる。うぅるるるんるん、がぁうがぁう。
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2013年02月20日

下北沢X新聞(2263)〜渋谷高架橋C曲線最終楽章3〜

P1030487
 便利になればなるほど、一人一人の存在は希薄化する。鉄道が地下化して、運ばれる荷、人間は便利になるが、人間そのものは荷物と化す。漱石は、『草枕』の汽車論の中で、「人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑けいべつしたものはない。」、汽車は、電車と言い換えられる。運搬の利便向上は個性をないがしろにし、人は単なる荷物と化してしまう。

(一)
 東横線は、神奈川線、渋谷線とに分けて建設された。後者の場合、「特記すべき工事は、渋谷高架橋、渋谷隧道」である。これは言ってみれば地形克服の難関工事だ。

 渋谷高架橋
 延長1,803については、鉄筋コンクリート高架橋で構築されたが、渋谷駅構内構内を含む150メートルは、土盛りで築堤した。(「50年史)」


 高架橋にしたのは山手線を越えるためだ。ここにトラス橋を架けた。つぎは川、渋谷川という地盤軟弱な地帯に進入する。渋谷ターミナルに進入するにはこの川に沿って北上するしかない。これはコンクリート高架橋で抜けた。とくに川に面した方の脚はより深く埋め込んでいる。この部分の曲線設定は川との関連でできたといってよい。
 現行、頭端式ホームのあたりは土盛りの築堤だったという。今のかまぼこ形屋根の新しいものは昭和三十九年に完成したものだ。
「昔、終点の車止めのところは、確か土だったという覚えがある」
 こんなことを覚えている人がいた。

 渋谷隧道

 代官山〜中目黒間には、延長157、9mの渋谷隧道が建設された。この隧道は、地表から隧道天端までが約3,3メートルほどの土覆りで浅いため、地上から開削してトンネル覆工を行い、後から埋め戻して仕上げる、開削工法が採用された。

 掘削作業は、ショベルによる人力土工であった。現場付近に8,250平方メートルの土地を買収して、埋め戻し用土砂をストックするとともに、残土は、トラックによって遠く等々力方面に残土した。 (「50年史})

 
 渋谷隧道が開削工事だったのは知らなかった。とすれば、ここの部分、三田用水が通っていたが、このための仮架橋をしつらえたと想像できる。
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2013年02月18日

下北沢X新聞(2262)〜踏切惜別哀惜劇「バーレスQ」〜

P1030521
(一)
「クワン、クワン、クワン」
 昨日、夕刻、踏切警報器から思索の知恵を授かった。
 下北沢スーパーオオゼキ前、東北沢6号踏切の警報器は鳴っていた。「何を食わないと言っているのか?」、遮断機が開くのを待ちながら考えた。

 もう踏切がなくなったら人は食わない?。あなた方の時間は食わない?、踏切は人を瞑想させる場だ。そこにドラマが生まれる。ところがこれら下北沢を中心とした踏切群が3月23日に撤去される。「9個所の開かずの踏切が除却されます」と工事側は高らかに謳う。

 踏切は邪魔ではあるが、それほど邪険に「除却」というほどのものか。
「街がのっぺらぼうになりますね」
 渋谷高架橋の地下化を目前に一昨日そこを皆で探訪した。参加者の感想だ。
 街がどんどんのっぺらぼうになる。邪魔なものがなくなる代わりに特徴がなくなる。それは、どういうことか、固有性の希薄化である。街を特徴づけているものが消え去ることだ。これへの共感は少なくない。志田歩さんもその一人だ。

 この24日、夕刻、北沢タウンホールで“バーレスQ〜シモキタ駅前伝説〜”と名づけられた劇が演じられる。今、下北沢演劇祭が開かれているが、その参加作品でもある。この脚本担当は、志田歩さんである。彼は我らの手になる『北沢川文学の小路物語』に想を得て、書いたという。「“バーレスQ〜シモキタ駅前伝説〜”によせて」と題して次のように書いている。

 小田急線の地下化工事により、2013年3月から下北沢地区の小田急線の踏切は姿を消す。
 そんな時期だからこそ、下北沢の駅前をテーマにした脚本を書いてみたかった。
 そもそものことの起こりは2012年の春。
 「劇団ほぼ無職」の座長いわいゆうきと知り合ったばかりの僕は、彼から2013年2月の北沢タウンホールで、漫読家の東方力丸の協力を得た芝居を計画していることを伝えられ、即座に自分が脚本を書き下ろしたいと申し出た。

 すでにある程度の構想はあった。
 きむらけんさんが、“北沢川文化遺産保存の会”から出版した『「北沢川文学の小路」物語』というブックレットが、そのヒントである。
 これは下北沢にまつわる文士達の記録を簡潔にまとめた労作で、音楽の街、演劇の街などといわれるようになる前の下北沢が、文士達の闊歩する街でもあったことを伝えてくれる。
 そうした文士達の中でも、僕は特に太宰治の弟子で、終戦後に下北沢駅前の屋台で暴れていたという田中英光に興味をそそられた。
 活字に飢えていた終戦後の日本では、“出版ブーム”が起き、当時は下北沢にも小さな出版社がたくさんあった。それは僕のイメージでは、下北沢にいろいろな音楽レーベルや音楽事務所が生まれていた音楽の世界で起きた80年代の“インディーズ・ブーム”に似ているような気もする。
 ならば現在の下北沢駅前で活躍している東方力丸を、終戦後の下北沢駅前に放り込み、田中英光をはじめとする文士達と出逢わせてみよう、さらには戦前に萩原朔太郎が下北沢を原型として描いた妄想の「猫町」にも足を踏み入れてみようという形で、執筆は進んでいった。

 思いついてから書き出すまでには、かなりの量の文献の読み込みが必要で、前述のブックレットを頼りに様々な資料を探していった。この脚本に登場する文士達のセリフの多くは、実際に残されている作品からの引用(音楽でいうところのサンプリング)である。
 そこでこの芝居にはバーレスクをもじってバーレスQというタイトルを付けた。

 この脚本の真の主役は、ひょっとしたらこの街にずっと響いていた踏切の音なのかも知れない。

 なお敗戦の衝撃や労働運動の盛り上がりと衰退、東日本大震災と原発事故を巡る様々な動きなど、当時と現在では時代は違うが、価値観の軸がグラグラと揺れている点では、奇妙に通じ合うものがある。
 そこに下北沢というキーワードを入れると、もうひとつ興味深い事実と遭遇する。
 じつは現在下北沢で進行しているのは、小田急線の地下化だけではない。それと連動して補助54号線という新しい道路計画、区画街路10号線という名前の駅前広場の計画も進められている。このうち補助54号線は、なんと終戦翌年の1946年に計画されたものの、ずっと手つかずだったものが、小田急線の地下化決定と連動する形で、21世紀になってから改めて浮上してきた都市計画道路なのである。
 僕は街のど真ん中を分断する補助54号線には、自ら名付けた“Save the 下北沢”というチームの一員として、2003年から異議申し立てをしてきた。
 この脚本“バーレスQ〜シモキタ駅前伝説〜”は、それからちょうど10周年というタイミングで発表するものとなった。
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2013年02月17日

下北沢X新聞(2261)〜渋谷高架橋C曲線最終楽章2〜

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(一)
「えっ、ここを走っている電車がすっかり無くなってしまうんですか?」
  歩く会の冒頭場面で、参加者の一人が気づいた。そしてもう一人、渋谷高架橋の曲線部を観察しているときに別の人が同じことを言った。

 東急東横線が地下化するということは情報としては知っている。ところが、その具体的なイメージを持っていない人も数多いことを象徴した例である。

「(無くなるから見ておくという)郷愁というのではなく都市交通文化史のエポックとして見ていくとより面白いと思います」
 最初の場面で私はそういうことを言った。

 『東京急行電鉄50年史』は渋谷代官山間の高架橋について次のような説明をしている。

 渋谷線が山手線を横断して渋谷駅にはいるため、神奈川線における横浜市街地乗り入れの場合と同様に、延長1,803メートルに及ぶ鉄筋コンクリート高架橋を構築したが、渋谷駅構内構内を含む150メートルは、土盛りで築堤した。

渋谷高架橋の建設意図は、国鉄線の山手線を越えるためであった。西から来た東横線は、東北方向に斜めにトラス橋で複々線を跨いでいる。それから半径160メートルのカーブで大きな曲線を描いて北上し渋谷駅に向かっている。

 カーブで曲がってターミナル駅をめざす。私鉄の宿命のようなものだ。歩く会の途中でも小田急代々木八幡の急カーブが話題になった。こちらはR200だという。これよりもC曲線はもっときつい。
 
 このカーブこそ「渋谷高架橋C曲線」である。ここに差し掛かると電車は響きを発する。カーブがきついため線路と車輪とが擦れ合い音楽を奏でる。地下化するとこの音も聞かれなくなる。それで「C曲線最終楽章」とした。

 私達は、行きには線路の東側、帰りは西側を、観察しながら行った。仕上げは、渋谷、代官山間を往復してこの音を車内から聴くというコース設定だ。
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2013年02月16日

下北沢X新聞(2260)〜渋谷高架橋C曲線最終楽章〜

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(一)
 『東京急行電鉄50年史』には心底驚いた。
 自身のイメージにあったのは、『小田急五十年史』であり、『京王電鉄50年史』である。こちらには何度も接していた。よって、これと同じものぐらいだろうと高をくくっていた。それで買い物に行く途中に図書館に立ち寄った。目黒区立八雲中央図書館だ。検索すると書庫に入っていた。出してもらった本がカウンターに置かれるとどたりと音がした。
「えっ!」
 予想もしていないことだった。
「重いですよ」
 本当に重い!、こんなに分厚いとは思わなかった。装幀も凝っている。背は革張りだ。しかも驚いたことに絵巻物のカラー写真が表紙にあしらわれている。御簾のうちにいる貴公子と女房とが描かれている。本をめくってみると解説があった。「国宝 源氏物語絵巻 夕霧」(平安時代)とある。五島美術館所蔵のものだ。なるほどである。この美術館の創立者は、東京急行電鉄株式会社の元会長・五島慶太であった。

 国宝源氏物語絵巻を所蔵する美術館をも持つ電鉄会社だ。社史は会社のステータスを表すものである。戦中は、いわゆる大東急時代があった。その傘下に、小田急や京王は入っていた。東急は、いわば私鉄の親玉である。その大東急は、社史にも全力投球をしていた。

 三月十六日、東横線渋谷駅が地下化して、地下鉄副都心線と繋がる。これとともに現在の渋谷駅の頭端式ホーム、そして、代官山と渋谷間の高架橋も廃止となる。後者は山手線を跨ぐために設けられたものだ。地形を勘案して造ったものだが急曲線は避けられなかった。それがC曲線である。

 電車はここを通るときに擦過音を立てる。この音はよく知っている。かつて高校生時代、代官山25番地のアパートに住んでいた。まずはキン、キキンと鉄を打ち付ける音が響いてくる。やがてコウコウ、ククックと鳴って、つぎに、ドガダン、ドガダンと車輪が響く。山手線を跨ぐ橋梁を電車が渡っていく音だ。青春の思い出音楽だ。

 この音は、電車で通るときもよく聞こえる。ところが、地下化によってこれが無くなる。東急C曲線最終楽章は、もう秒読みに入った。
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2013年02月14日

下北沢X新聞(2259)〜北沢川沿いの文学痕跡を歩く3〜

P1030482
代沢橋欄干は歌舞伎花道

(一)
 人が減って行く時代だ。少人数ではなく大人数だとどういうことが起こるか。ふと気づくと、私は何やら演じ手になったように思う。

 面白い話があるところでは面白い話ができる。
「では、ここで立ち止まってください。そこに駐車場がありますね。ここに代澤湯という銭湯がありました。ちょうどここは彼女のアパートからも近く、ここによく入りに来ていました。森茉莉御用達の湯屋ですね」

「さぁて、お立ち会い、時は2006年4月のこと、森茉莉の愛した銭湯、代沢湯、『贅沢貧乏』の中で描かれておるのが、これがまあなんと壊されると聞いて、慌てて急いでここへ来た。不動産屋の許しを得て中に入った。男湯から女湯に抜けていく。その間、男湯などには目もくれない。まっしぐらに突き進んで女湯の脱衣場へ。するとそこには籐籠などがあちこちに転んでいる。浴場には、ケロリンと広告の入った桶もある。

『まあ、ここにあるものはゴミとして捨てるだから持って行っていいよ』

 そう不動産屋は気前のいいことをいう。女風呂の宝の山に入って手当たり次第、そこらにあるものを手にいれた。脱衣場の鍵、下駄箱の鍵など含めて数点、うはうは拾いも拾ったり」
 私はマイクもなしに熱弁をふるっていた。いつの間にか代沢橋欄干の上に立って役者よろしく演じていた。

「女湯のかおりを懐かしんで、手当たり次第に集めて帰ろうとしたときに、不動産屋のおやじさん『あれはいいのか』と指さす、なんとまあ女と書かれた磨り硝子。『いいんですか?』、『いんだよ』という答えを聞くが早いか、それを取り外しにかかった。『よっしゃ、よっしゃ』と持って行くときに、『あれは?』と、男湯の磨り硝子を彼は指さす、『いやいやそれは結構』とここを出ていった。ゆうゆうと引き揚げましたね」
 欄干の上に乗った役者も得意満面。
「先生!」
「はい?」
「ここは代沢橋、代沢湯のあったのはつぎの中下橋のたもと」
 ぎゃふんである。千両役者も、たちまちに一両役者に。続きを読む

2013年02月13日

下北沢X新聞(2258)〜北沢川沿いの文学痕跡を歩く2〜

P1030476
(一)
「参加された方々は心年齢が若いですね」
 私は、フォーラム代表の佐伯京子さんに言った。
「測定データーでも若いのですよ」
 歩きは身体を活性化し、脳の働きをよくする。参加している人たちは、歩きの効用を知っている。

「おもしろがればおもしろくなる」
 梅ヶ丘駅頭で八十三名の皆さんに言った。この言葉は、私の聞き書き遍歴から拾ったものだ。代田七人衆の末裔、古老柳下政治さんである。「せせらぎ公園」の近くに橋がある。北沢川に架かる稲荷橋だ。このそばにお稲荷さんがある。柳下家所有のものだ。

「よくすればよくなる」
 古老の言葉だ。お稲荷さんの手入れをし、祈りも欠かさない。そういうことをしていると善を授けられると言っていた。このフレーズから思いついたのがこの箴言だ。

「怪しいという漢字がありますね。おもしろがることは不思議がることです。左側は立心偏、又は手です。下は土です。……土塊を手に持って、これって一体何だろうと心に問う、これが不思議がることの意味です。私達がいるここも面白いですよ。どっちに行っても坂があるんですよ。ということは……」
 駅頭での話はつい長引いた。ウォーミングアップがあるというので途中で切り上げた。

 羽根木公園に行く、梅祭りが開催されているがまだあまり咲いていない。やはりここでも代田半島羽根木岬、地形の話をした。いつもの少人数での歩きだとどこでも立ち止まることができた。が、これだけ大勢だと場所も限られてくる。
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2013年02月11日

下北沢X新聞(2257)〜北沢川沿いの文学痕跡を歩く〜

P1030457
(一)
 「今日は、地形の物語を旅します。実は、私達はいまかつての武蔵野のまっただ中にいます。それは歴史を辿れば、分かります。この一帯が開けたのは、小田急の開通が大きいですね。この線は昭和二年に開通しました。ところが、開業当初、駅はありませんでした。この駅は昭和九年に開業しています。なぜ遅れたか。理由は簡単です。武蔵野度が高かったからです。つまりは田舎だったからです。肥だめが臭っていたのです…」
 今日は、世田谷ウオーキングフォーラムの歩く会の催しがある。集合は梅ヶ丘駅である。北沢川沿いを下って各所にひそむ文学痕跡を訪ねるという歩きだ。

 この文章は、朝書いたものだ。予習をするつもりで、書いている。だから、この通りに話したのかどうかは分からない。私自身のイメージトレーニングである。

「ここの地形は擂り鉢を想像するといいと思います。サラダボールでもかまいません。太宰治はシルクハットを逆さまにしてそこに万国旗を立てたのが甲府の町だと言っています。ここ梅ヶ丘の場合は、ベレー帽を逆さにして、そこに梅を生けたぐらいなイメージでしょうか?…」
 
「イメージとしては、こちら西から順に、梅ヶ丘サラダボール、次が代田サラダボール、そして代沢サラダボールがある感じです。距離にして二キロぐらいだと思いますが、ここに昭和近代文学史の逸話が数多く埋まっています。それを訪ねていく旅です。」

「サラダボールには底があります。地形を形成する上で重要なものがあります。それは川です。今日の場合は北沢川です。これを辿っていきます」

「地形としては左岸が高いというところが一つのミソですね。それは一体何を意味するでしょうか。最後に、皆さんに聞いてみたいと思います。」
 北沢八幡神社をゴールとしている。境内で、どんな回答が出るのか?。
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2013年02月10日

下北沢X新聞(2256)〜除却踏切にも五分の魂2〜

P1030437
(一)
「踏切がなくなっても最初のうちは車は一時停止しますね。ところがしばらく経つともう踏切のあったことなんかすっかり忘れて、突っ切っていきますよ」
東急目黒線の踏切が無くなった後、ここを探訪した。そのときに不動前2号踏切のそばに住んでいる人から聞いた。
踏切は通行を遮断するものだ。その邪魔なものは記憶される。しかし、そこが踏切ではなくなった瞬間からその場は忘れ去られていく。

「すぐそばが桐ヶ谷ですからね、霊柩車はみな一時停止していました……」
 同じ人が言った言葉は印象的だった。霊柩車はリアリティがある。黒塗りの車、生者も死者も一旦停止する。そして、遮断棒が上がると、動き出す。線路でバウンドしたとたん、あるいは死者が息を吹き返したということもあったのかもしれない。踏切があればこそのイマジネーションである。

 霊柩車も等しく停まった。と、そう思ったときに、「ああ、彼もこの踏切を通っていったのではないか?」と思った。ネットで見てみる。『驛夫日記』だ。ざっと見ると、「先刻さっき、目黒の不動の門前を通った」とあった。主人公の行動だ。「夜はもう二時を過ぎたろう、寂寞ひっそりとしてまるで絶滅の時を見るようである。」とあって、次が印象的な場面だ。

 おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢こずえには巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠の色をした空を蛇窪村の方に横切っている。


 この作品、青空文庫によると初出は、「新小説」1907(明治40)年12月とある。目黒線、当時でいえば目蒲線、この開通は、1923年(大正12年)だ。「驛夫日記」の主人公は、踏切は渡っていようもなかった。
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2013年02月08日

下北沢X新聞(2255)〜除却踏切にも五分の魂〜

P1030447
(一)
 踏切は人がものを思う場である。文学が生まれ出る空間でもあった。俳人増田豊子が詠んだのは次の一句だ。

待つてゐる開かず踏切枯蟷螂

 遮断機が下りて踏切で待たされた。そんな折に眼の前の棒に年老いたカマキリを見つけた。それがゆっくりと動いて行く。

 「下北沢文士町文化地図」、現在は改訂五版が発行され、今では総発行枚数は、三万六千にもなる。そもそものこの文士町探訪もきっかけは踏切だった。ここで待たされたことが発端だった。茶沢通り、東北沢4号踏切である。

 この踏切を自転車で越えて十数年もの間、勤め先まで通っていた。必ず待たされた。ときに十数分ということも珍しくなかった。そのうちに気づいたのは、4号と5号とでは開き方にずれがあることだ。それで4号に入る路地の角で待って踏切を待つ、小田急線を渡るコツだった。

 待たされているときに街を観察した。路地に漂う臭い、傾斜地形の不思議さ、踏切に漂う空気感、そんなことに興味を覚えた。このブログの第一回目は、2004年09月13日となっている。これには小田急地下化工事のことが触れられている。

 小田急線はこの町を演出するには欠かせない存在だ。ところがいま下北沢には再開発の波が押し寄せている。線路沿いの土地が立ち退きにあって虫食い状態になり始めた。立ち退いた店の後には小田急複々線化工事用地と書かれた看板が立っている。地表にある線が地下化するという。 

 このときから八年ほどが経過した。そしてこの工事が完成し、いよいよ地下化を迎える。
このときのブログの末尾はこう記している。

  少々不便だけど、それも文化である。緩やかに流れるとき、それも個別ローカル時間がそこにある。谷間のドブの臭い、丘の上の光の匂い、都会と田舎が渦を巻いている。動物の臭いがするところだ。

 第一回目で、既に土地の文化について触れていた。その固有性は沢の臭いである。丘上と川筋の光と影である。踏切で遮断される時間にこそローカルな緩やかさがあった。こういう街の記録というのも必要ではないかと思う。続きを読む

2013年02月07日

下北沢X新聞(2254)〜暴力、教育、文化〜

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(一)
 電車内教育というのがかつてはあった。例えば、戦前の帝都線の例である。宮脇俊三は小学生のときこの線を使って池之上駅から渋谷まで通っていた。そのときのことをつぎのように記している。

 戦前の乗客は、いまのように押し黙ってはいなかった。何かと他の乗客に指示を与える人が多かった。「押すな」とか「もっと奥へつめろ」とか、すぐ大声を出した。学生が坐り年寄りが立っていれば、かならず誰かが「きみ、席をゆずり給え」と注意した。
 宮脇俊三鉄道紀行全集 2 増補版 昭和時刻表史


 小田急線の例もある。こちらは恐い。宮本百合子が「私の感想」としたエッセイの中で紹介している。その見出しは、「女を殴る」とある。その一節だ。

  小田急の電車の中で、パーマネントの若い女の髪をつかんで罵りながら引っぱっている男を、ぐるりから止めることもできないような雰囲気で、実にこわかったということをもきいた。
 日本がずっとまだ未開だったころは、男は自分の女房をなぐって何がわるいと思っていただろうし、癪にさわるものなら男でも女でも暴力に訴えてもかまわないと思っていただろう。一種の乱世であった明治初年の殺伐な気風の時代にはそういうことがらも多かったろうと思う。


  この文章初出は、青空文庫によると「信濃毎日新聞」、1940(昭和15)年11月27日号だという。すでに日中戦争に突入していた時代だ。
「お前、大陸では兵隊たちが頑張って戦っているんだぞ、それなのにパーマなんかかけてチャラチャラしやがって!」
 男はそんなふうに言って殴りつけたのだろう。小田急に乗り合わせたモダンガールが男の餌食になった。乗客衆目の中でなされた暴力である。「ぐるりから止めることもできない」と記してあるが、背景には暴力が日常的に潜んでいたことだ。

 後段には日常的に暴力が振るわれていたことを彼女は指摘している。これは近代化以前から行われていた。説得や言い聞かせなどはほとんどなく、即座に体罰を加え、その痛みによって言うことをきかせる。そういう風潮は古代からずっとあった。
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2013年02月05日

下北沢X新聞(2253)〜渋谷・下北沢、街が変わる3〜

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(一)
 「広い宇宙のなかで、今現在、地球以外の天体では生命は確認されていません。」ということはよく知られていることだ。このことは、太陽と地球との距離に関係する。太陽系の惑星の中で地球はもっとも具合のいい場所にある。遠からず、近からずという距離である。奇跡的ともいえる位置にあって生まれた星だ。

 中心との距離というのは大事なものである。典型的な例は、国木田独歩の『武蔵野』だ。彼は言う、「東京は必ず武蔵野からは抹殺せねばならぬ」と。東京中心は太陽である、武蔵野はそこから距離をおいた惑星的な位置にある。間合いをおいた好ポジションである。

 東京都市の発展と形態、明治以来首都東京は膨張し続けてきた。時代時代によってほどよい距離は変わった。田山花袋が東京中心部との距離をおいて執筆に励んだのは代々木山谷であった。その好位置が順次西へ西へと広がっていく。

 私の仮説である。昭和十年台はもっとも程よい距離は、高圧鉄塔東京内輪線あたりにあった。これは「代田の丘の鉄塔文学論」で自身が述べている論だ。

 この高圧鉄塔は、下北沢の外縁部を南北に抜けている。今でも存在する駒沢線である。なんともである、これを境界とした場こそが、「下北沢文士町」である。この中心部に鉄道X交点があることは誠に興味深い。ここも副都心との距離である。

 下北沢文士町は、新宿と渋谷との距離において成立しえた。副都心からの遠からぬ場こそが微妙な間合いである。近すぎても遠すぎてもいけない。続きを読む

2013年02月04日

下北沢X新聞(2252)〜渋谷・下北沢、街が変わる2〜

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 都市構造を作り替えたり、新しくしたりする側は、それがすべてが善であり、幸福であるから為すのだという。だから踏切は除去するといい、急曲線は撤去するという。

障害物をすべて取り除いて直線化する。人様の生活を邪魔しないようにする。が、遮断される場、あるいは曲線という場こそは人間的な場ではなかったのか?。

 踏切警報器の音、急曲線の擦過音、これらの音がどう響くか、一方は、騒音であり、雑音だとする。が、もう一方は、音楽であり、合奏曲であると思う人もいる。

 雑音や夾雑音は、人間の溜(ため)だった。その固有性をすべてとりのぞいていくと、無味無臭の街になっていく。特徴のない街、機械の街だ。行き着くところはそこ,文化の不毛の街。

(一)
  その演劇脚本を目にして、シモキタというワールドは、鉄道によって染められていたということに改めて気づいた。

 作品のオリジナリティは尊重しなくてはならない。ゆえに公開前の劇の筋は触れるべきではない。が、しかし、『バーレスQ』〜シモキタ駅前伝説〜の脚本を手にして読んだとたん、初手からシモキタワールドの臍(ほぞ)に出くわして、ツゥンとしたことだ。劇の本筋に関わることではないのでほんの少し紹介することは許されるだろう。

 冒頭と末尾では、シモキタという街に生きている鉄道が描かれる。多分これでないと駅前という設定は成り立たないのではないかと思った。

 これは何か?。それは、踏切の警報音、電車の走行音、駅の案内放送、もちろん、最後のこれは「下北沢〜、下北沢〜」という駅名連呼だ。

この作品、第23回下北沢演劇祭参加作品だ。今月2月24日(日)夕方に北沢タウンホールで上演される。

 脚本は志田歩さんだ。昨年、この作品を書くにあたって戦後の下北沢駅前の文学風景の取材を受けた。無頼派が跋扈していた時代についてだ。

 このときほど人々の生気がみなぎっていた時代はない。彼はその断面を脚本に書き、その時代の空気感を描いている。その中味については触れない。

 私達は今に生きる動物だ。記憶貯蔵能力は低い。忘却することで生きているともいえる。ゆえにその時代、時代の空気感などすっかり忘れ去っている。が、たまたま音を聞いたり、臭いを嗅いだりすると、にわかにその時が鮮明に蘇ってくることがある。続きを読む

2013年02月02日

下北沢X新聞(2251)〜渋谷・下北沢、街が変わる〜

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(一)
 めまぐるしく、あわただしい。時代は超スピードで変化していく。人は恐くないのだろうか?、平気なのだろうか?。

 この間、東急線に乗ったら「渋谷駅が生まれ変わります」と吊り広告にあった。3月16日に、渋谷駅と代官山駅間が地下化し、副都心線と繋がる。ハッピー、幸福なこととして取り上げている。が、我ら市民はどうなんだろう?。

 隣り近所の話しか聞いていないので、この意見が一般的なのかは分からない。
「埼玉の奥から、横浜へ行こうと思う人なんているの?」
 近所のおばさんが副都心線との直通運転にいちゃもんをつけていた。
「渋谷駅、ただでさえわかりにくいのに、またわかりにくくなるわね」
「JRの乗り換えが不便になるな。」
 地下から地上へとまわらなくてはいけない。

 景色が見えなくなるというのもつまらない。一昨日だ、駒澤大学駅から電車に乗った。穴蔵のホームは鬱陶しい。ホームの端に青色の電気が点いていてブルーに染まっている。最近気づいたのは、これ自殺防止用だということだった。

 オープンな空間がなくなり。視界が狭められる。鉄道には、景色を眺めるという利点があった。が、速度至上主義となって、この方は切り捨ててしまった。

 東北線の各駅停車などもロングシートになった。ボックス席に座って、車窓にめくられていく景色を見るのが鉄道旅の醍醐味だったのに、進化はプロセスを抹殺する。
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2013年02月01日

消滅踏切への哀歌掲示版

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消滅踏切への哀歌掲示版

  3月23日に小田急地表線の地下化工事が完了し、電車は地下に潜ります。これまで地表にあった踏切群はなくなります。

 代々木上原3号踏切、世田谷代田2号踏切まで九つの踏切が消えます。
 
 踏切の除去、踏切除却と言われるが個々の踏切には、多くの思い出がありました。
 
 

  踏切は電車が走らなくなったとたん命を失い、その踏切で起こったことはすべて忘れ去られてしまいます。
 
 
  あの踏切ではこういうことがった、この踏切ではあんなこともあった。ぜひそれを記入して残してください。地表駅での別れなどでもかまいません。踏切の歴史を記憶に残しておきましょう。

 感想、思い、などをぜひ、コメント欄に、ご記入ください。ご意見でも結構です。

 写真は、下北沢2号踏切わきの、これまでずっと踏切を守ってきたお地蔵さんです。

〇ログインサインは私たちの会「〇〇〇〇文化遺産保存の会」の川の名です。ローマ字半角でいれてください。


下北沢X新聞(2250)〜第79号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第79号  WEB版
                2013年2月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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ニュース速報
  小田急電鉄は、1月31日に次のことをプレス発表した。


2013年3月23日初電から
東北沢、下北沢、世田谷代田3駅を地下化します
−代々木上原〜梅ヶ丘駅間上下線を地下化、9箇所の踏切を廃止−


 現在、地表線を走っている代々木上原から梅ヶ丘間の区間が3月22日限りで廃止され、この区間が地下化することを公表した。

1、街の風景が変わる

 新しい年を迎えて、新しい情報を知った。
 小田急の地下化工事がなされている。これが相当に進捗していることは知っていた。が、地下線への切り替えはまだ先だろうと高をくくっていた。ところが、ネットの「小田急線地下化工事情報ステーション」、シモチカナビで「2013年春 在来線を地下化します!」と発表された。2014年ぐらいに開通するのではないかと思っていたが、そうではない。不意を衝かれた形だ。

 前に「下北沢X惜別物語」を発行した。2007年のことだ。これは小田急が地下化する前に、地表線の記録を残しておこうとまとめたものだ。消えてなくなる一つ一つの踏切について、多くの人から話を聞いた。踏切のみならず駅についても、沿線でのエピソードについても調べまわった。

 2000部作って配ったがすべてなくなった。しかし、これは世田谷区の図書館全部に蔵書として収められている。これを閲覧して戴くしか他に方法はない。

  「下北沢X惜別物語」発刊以後、踏切などに関する新たな情報が寄せられた。これらをもとに新版でも作ろうと考えていたが、それも適わなくなった。
 思うに、踏切は、踏切として生きていてこそ踏切だ。無くなったとたんすべてが忘れ去られる。例えば、東北沢5号踏切といっても分からない、茶沢通り踏切の下北沢駅寄りにあるものをいう。かつてはこのそばに質「巴屋」の大谷石でできた蔵があった。線路際の目立つところにあったから目印になっただろうと思う。

 走っている車両にブレーキを掛ける。重要なことだった。かつてはハンドブレーキ、手動で止めていた。連結された車両の一両一両にこれがついていて車掌が扱っていた。私が書いた『峠の鉄道物語』という本がある。これを引用しよう。

「車掌の一番大事な仕事は制動機の取り扱い方だよ。制動といってもただやみくもにハンドルを回して車輪を締め付ければいいというものではない。どこそこでは何回まわす。それをな、覚え込むんだ。七号隧道の手前の曲線では何回まわす、それから谷峨の柿の木のある農家にくると何回まわす。どこそこの谷の三本松では何回まわす、というふうに覚え込まなくてはならないんだ。だけどな、夜になると目印がなくなるから大変だよ……じゃあ、どうするかというとな、音だな、どこそこを走っているというのは音で聞き分けるしかない。両側切り通し、片側切り通し、曲線、そんあとこじゃあ、ちょっとずつ車輪の響きが違ってくる、それを聞き分けてハンドル操作をするんだよ…」
 鉄道沿線にあるすべてのものが皆目印だった。人間にとって、そこは覚えだったと言ってよい。ゆえに恐らくは「巴屋」の大谷石は目標物だったと考える。

「下りで下北沢駅に進入していくときは、巴屋の大谷石の蔵のところでブレーキを掛ける。ちょっと上り勾配だから、ぐっと掛けて、すこし取っ手を遊ばせて、ホームに入ったらゆっくりと締める」
 そんなことが想像される。
とうの昔、小田急線には砂利運搬車も走っていた。夜中にこれが走ると家が揺れた。車両が重いからだ。
「世田谷代田逆一踏切を過ぎたら、ブレーキを必ずかます。あそこは25パーミルの下りだから、下手すっとスピードが出すぎて危ない、カーブだしな。抜けたところが下北沢3号踏切だ。あそこはあぶないんだ。見通しきかなくて、よく子どもが轢かれるところだからな」
 これは電気機関車の運転士が見習い機関士に教え込んだ。もちろこれも想像だ。
 ビジュアルに見えていた沿線風景が今度は地下に変わって、何も見えなくなる。また地上に戻るということはない。ゆえに永遠に消え去っていく。沿線風景は電車が走っているときによく見ておくことだ。

 下北沢という街のシンボルは、鉄道Xだった、地図でみるときにこの交差を最初に確認し、これを手がかりとして目当てのところを探した。その交点という手がかりがなくなる。イメージの中でXとして捉えていたものが今度は単なる斜め線になってしまう。

 このように考えているのは何も私だけではない。『街の座標』という清水博子さんの文学作品はまさにこれである。下北沢という街が、座標として捉えられて認識されている。彼女の次のフレーズは見事にそれ描いている。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締め付けてくる」という件だ。

 時代は変転する、空転してもいるのではないかと思う。今まで見慣れていた風景ががらりと変わることはたしかだ。ある日こつ然と、踏切警報音が聞こえなくなり、遮断棒もなくなってしまう。電車が全くこないという事態だ。

 地下化への切り替え日は3月23日と決定した。22日の終電を持って地表線運転は終わりとなる。かねてより、踏切群が無くなるというときにはツアーを行おうと言っていた。それでこれを廃止一週間前に実施することにした。

2、消え去る踏切見ておくツアー

 三月の街歩きは、いつも森茉莉ゆかりのところを歩いていた。今年も、経堂フミハウスから代沢ハウスまでを巡って行こうと考えて予定を組んでいた。ところが、「2013年春」に小田急線が地下線へ切り替わると予告された。

 このことから三月は、消え去る踏切を見ておくツアーに変更することにした。前に一度だけこれは実施したことがある。

 東北沢駅に集まり、まず駅の東側にある代々木上原3号踏切を見る。この脇をかつては三田用水が流れていた。
 つぎに、順次、西へ向かう。東北沢二号踏切に始まり、東北沢六号まで行く、この最後の踏切は、下北沢駅のホームの手前にものをさす。鷺澤萌が『遮断機』という短編に書いているものだ。
 下北沢からは、二号、三号とゆく。二号脇の「踏切地蔵」は消滅する踏切の中でも群を抜いているものだ。この側にあった踏切では多くの子どもが亡くなっている。その霊を慰め、踏切安全を呼びかけるものだ。地下化すれば宙に浮いてしまうものである。
 この踏切はどうなるのだろうか?。
 ともあれ、もう見ることのできない踏切をしっかりと見届けておきたいものだ。

 現在地下化工事が進んでいて現役の踏切には警備員が立っている。あまり邪魔にならないようにしたい。二十名程度が限界なのではないかと思う。先着順としたい。

3、都市物語を旅する会
 
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第81回 2月16(土) 午後1時 渋谷ハチ公前
〜東急C曲線最後の曲を聴く〜
東急東横線地下化!渋谷代官山間。山手線を跨ぐカーブで電車は音を奏でていたが、永久にその音も聞けなくなる。きゅきゅん、くきゅんという東急C曲線音楽最終章を聴く。小田急地下化もこの春に予定されている、3月は、無くなる踏切ツアーを予定。
渋谷駅→旧並木橋駅→山手線跨線橋→代官山→猿楽橋→渋谷駅
渋谷駅→行きは代官山まで東横線東側→代官山から渋谷まで東横線西側
 ◎乗車経験、体験
  眺めるだけではつまらないので実際に乗ってみる。最後は、JR乗り換え口から120円の切符を買って、構内に入る。そして、代官山駅まで行って、折り返し、渋谷に引き返す。その間に東急C曲線音楽の、最終楽章に耳を傾ける。そして、ターミナル、終端の改札から出る。そんな案をつけくわえてみた。

 終わった後は、渋谷の喫茶店でお茶して散会。 

・日時:2月16日(土)午後1時〜4時30分
 ・集合場所:渋谷駅ハチ公前
  

・第82回 3月16日(土)午後1時 東北沢駅改札前
  消えてなくなる九つの小田急踏切を歩く
  この13年春にも世田谷代田、東北沢間の踏切が消えてなくなるようだ。一旦地下化したら元に戻ることはない。そこで今まで地上にあって存在していた踏切をしっかりと見ておく、それぞれの踏切にまつわるエピソードを記憶する。思い出踏切ツアーを行いたい。
地下化工事中であることから、大勢で行くと、通行の邪魔になる。できるだけ少人数でいきたい。申し込み先着20名としたい。早めに連絡を。

・第83回 4月20日(土)午後1時 日暮里駅北口橋上駅舎改札前
上野のお山の文化探る
  11月の特番で原敏彦講師の案内で谷中墓地を巡った。時間切れで回れなかった。今 回趣向を変えて、墓より団子、まず、羽二重団子を食べに行き、その後根岸の子規庵に行き、それから上野のお山の見残したお墓などを見に行く。定例会初の上野のお山探訪。
・第84回 5月18日(土)午後1時 幻影の下北沢猫町散歩
 恒例行事。萩原朔太郎が亡くなった五月には毎年、彼が居住した下北沢、そして代田。彼の小説『猫町』の舞台を訪ねながら行くコースだ。最終地点は、世田谷区地域風景資産となっている「代田の丘の61号」鉄塔だ。ここには念願の「鉄塔由来碑」を建立した。これの見学会も兼ねている。
・第85回 6月22日(土)午前10時 代田橋駅改札前
  下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」でラーメンを食べようと行ったがお休みだった。ところが、つい最近、テレビ番組でここが営業していることを知った。再チャレンジしたい。
・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
  まんまるの木がなくなりました。 三宿辺カフェご存じありませんか?。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
  参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲「下北沢文士町文化地図」改訂五版については近隣の小中学校に配布しました。富士中の先生からは地域学習でぜひ使わせていただきますとの連絡があった。文学散歩あるいは、関連地域の講座で配りたいという場合には協力したいと思います。当方に連絡をしてください。例年通り安吾文学碑前で「桜まつり」のときに配ります。期日未定です。
▲納涼会について、例年、八月の第一土曜にしておりました。が、八月から会場が工事に入ることを聞きました。それで今回は、七月最終土曜日としました。7月27日(土)タウンホール二階集会室で行います。時間は、5時半からです。今からぜひ予定に入れておいてください。踏切惜別納涼会というのもありうるテーマです。
▲小田急の消滅踏切の一つ一つの思い出募集。是非お寄せください。
▲会費納入のお願い。新しい年になりました。一応年単位の会費ですので期限がきれることになりますので未納の方、1000円を納めてください。よろしくお願いします。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。