2005年11月10日

下北沢X物語(407)〜俳句と小説の北沢川文学物語〜

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    土地の色合いが文学に反映される、その土地での生活が詩に言い表される、その地域ならではの文化が文学に滲み出るというのは面白い。

  森厳寺というのは北沢川にとっては重要な文化発信源である。例えば、岡本綺堂の「半七捕物長」に「森厳寺へ灸を据えに来たのが運の尽き」(大阪屋花鳥)とある。

  リュウマチを治しに「森厳寺」の淡島様に来たのが犯人の運の尽き、こんな有名なところにのこのこ出てくるから、捕まる、それがあんたの運命だ、覚悟をせよということだろう。江戸時代における淡島のお灸の繁盛ぶりが言葉に染み出ている。その様子も狂歌に詠まれている。

灸すゑに来る参詣を見当にけふりをたつる北沢の茶や
                                                  有信亭

 「狂歌江都名所」(世田谷地誌集収載)には淡島の地が幾つも詠み込まれている。森厳寺門前には茶屋があって飯屋もあったと言う。近代のみならず江戸から文学文化が育っていたところだ。土地の色合いを文学に見つけ出すのは楽しいことである。狂歌作家たちは淡島に見物に来て、そして森厳寺前の茶屋で茶を飲んだ。代田茶の渋味で刺激された思考が狂歌を生み出す。その茶の湯は北沢川の伏流水である。

 新緑の頃に代沢サラダボールの谷を写真に撮った。北沢川を挟んだ谷がサラダボールに見えた。手前の欅の新緑、下った川の向こうに見える森の木々、それをボールに盛られた野菜サラダに見立てたことがある。手前のが加藤楸邨の旧居前の欅であり、その向こうの緑は北澤八幡宮の木々の緑だった。宮の隣は寺、森厳寺である。代沢サラダボールの水という捉え方も楽しい想像である。灸の治療を終えた者が飲む水、対岸の丘の麓では俳人の妻が引っ越してきた夜に井戸の水を飲んだ。まずくはなかったようだ。つぎの句も土地の色合いが反映されているように思う。

すいつちよの髭ふりて夜のふかむらし    加藤楸邨

 この句について中嶋鬼谷はつぎのように説明している。(「加藤楸邨」蝸牛俳句文庫34 1999年)

 この頃、楸邨は発想契機を中心とする「芭蕉発句評釈」の仕事に没頭していた。家族が寝静まった後、机に向かっているとどこから入ってきたのか部屋の隅に一匹の馬追(すいっちょ)がいた。体の二倍もある長い触覚をしきりに振って、何か話したそうである。
 『雪後の天』一九四一(昭16)年。三十六歳。(すいっちょ・秋)



    加藤楸邨の家は丘の中ほどにある。代田七人衆の末裔、柳下政治さんの家のすぐそばだ。近辺の開拓者の家であるだけに地盤がしっかりしている。近くに草原があってそこから忍び込んできた「すいっちょ」であろうか。

 じつは加藤楸邨の住んでいたところは森茉莉に近い。代沢4の31が俳人で、代沢4の32が作家である。住んでいた時代は重ならないが、極めて近い距離だ。150メートルほど離れているだけである。しかも並びは同じである。なのに土地の色合いが異なる。森茉莉は次のように書いている。

  魔利のアパルトマンのある邊りは湿地帯で、雨が續と疊に黴が生える。それに蜥蜴、守宮、蠍、蜘蛛、なぞ、訪れる昆蟲類は多士濟々である。蟲の嫌ひな魔利は、その度に水を浴びたやうになって立ち竦み、今度は誰に頼まうかと、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れる人々の心を忖度して、十數分間は考へ惱むのである。 森茉莉 「贅沢貧乏」 一九六三年 新潮社

 淡島のアパルトマン「倉運荘」のことを彼女はこう記述している。湿地帯というのは北沢川のそれである。加藤楸邨のところはやや高台にある。それで俳諧的昆虫がやっていくる。が、彼女のところには幾分低い。それでやや風情を欠いた、にょろにょろ系の小動物がやってくる。蜥蜴、守宮、それに蜘蛛である。北沢川の湿り気が文豪の娘を脅かす。
(写真は秋の代沢サラダボール、手前は加藤楸邨旧居近くの欅、向こうは北澤八幡宮の森)

 



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