2006年02月20日

下北沢X物語(507)〜池ノ上の日影山銘酒「松葉酒」(下の2)〜

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  文学や文化というものは生々しい人間のドラマでもある。書かれた言葉を通してその地に息づいていた人間が透けて見えてくる。そのことを通して現在の自分たちの生活を振り返ってみる。未来への指針を喪失しつつある我々が希望を見出せるのはそこではなかろうか。

 松村泰太郎は横光利一との息詰まる対話を頃合いのところで切り上げて辞去を申し出た。すると、「そうだね。僕もいっしょに出よう。一日家にいたので胃の具合が変だ」と応答した。彼のそういう話から作家の日常が浮かんでくる。書いたり、考えたりした後は散歩に出るということである。指先への神経の集中、当然それには頭脳の酷使もある。彼の場合はそのストレスが胃に来る体質である。

 横光利一の胃弱が彼をして北澤の地を選ばせた、物語的推論である。敵対するものから離れて武蔵野の一軒家で新しい文体に挑む。が、鬱積するものがある。そのときは大声を上げる。が、回りにはなにもない。せいぜい北澤八幡宮にいたハトが一瞬目をくるりと回すだけである。

 北澤の地に来たとき、思う存分に声を上げられると思ったと同時に、本能的にフィトンチッドの効用を感じたのではないだろうか。樹木が発散する物質が精神を安定させるというのはごく一般的に知られたことである。彼はその樹木の中にテレピンの匂いも嗅ぎつけていた。松の胃に対する効用である。「紋章」に描かれる松葉酒はそのあたりのことを反映しているように思われる。さきの松村泰太郎は横光利一の散歩についてこう触れている。

 先生の散歩コースは決まっていた。言葉一つなく、足は自ら例のコースへ運ばれていった。門を出て左折すると、板塀にそった細い道に出る。そこまで来ると、先生がきまって足を止めて見上げる朴の木がある。塀の上に、その長楕円形の広葉が西陽を受けて、橙色に映えていた。空の高い一角には茜色の鰯雲がかかっている。先生はよろけるように、空を仰ぐと、「僕はね、日に一度、この木をみないと寂しいんだ。この木の下に来ると、気持ちがなごむ、時間によって、葉の色が違って見えるんだ」
 私はちょっと見上げただけで、また自分だけの思いに沈んだ。さっき応接間で無遠慮に言った「旅愁」に対する考えにこだわっていたのだ。先生はもう、さっきのことは忘れたように明るい表情をしておられた。また道を左折して広い通りへ出た。

 松村泰二郎のエッセイには初めて接した。が、横光家の応接間でのやりとりが緊張をもってさりげなく描かれる。行間から二人の表情までが見えてきそうな文の機微が感じられる。文学者というものの生活の断面を鮮やかに切り取っても見せている。



  人間は孤独である。思いが積もって相手と話を交わしても通じることもあるが、通じないことも多い。去来する思い、それを受け止めてくれるのは樹木である。木には生きてきた確かさがある。年輪を重ねた公園の欅の幹に手を触れてみる。凹凸のある木肌から命が伝わってくるようにも思う。

 いい文章は想像力を刺激する。仕事が早く切り上げられたのを幸いに横光が見上げたという朴の木を探してみたくなった。「板塀に沿った細い道」は東側の三勝酒店に向かう道だ。朴を見た後、「また左折して広い通りへ出た」とある。とすると、途中の路地を左へ入ったことになる。そのまま行くと広い通りに出る。池の上の「魚春」前の通りだ。左へ下ると下北沢に行く道だ。イメージが自分の中にある道路地図帳と合致した。後は行くばかりだ。
(写真は代沢二丁目「魚春」である。邸宅の刺身というエピソードがいくらでも眠っている魚屋だ。今日、下北沢と出会う雑誌「ミスアティコ」の土方勇氏と会って話をした。いつもは年配の人と話をする。若い人は新鮮である。下北沢南口のざわめきに潜む若者の不安定さという視点はフレッシュに思った。)



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