2006年03月03日

下北沢X物語(518)〜池ノ上の町のたたずまい1〜

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     朝は下北沢を通って行く。東北沢5号踏切だ。茶沢通りを横切る4号踏切とは数十メートルしか離れていない。なのに5号が開いているときが多い。今朝もそうだった。5号を渡って路地を抜けて4号の前に出る。すると人や車が踏み切り待ちしている。間隙を衝いて踏切を仕留めたような快感がある。

 帰りは、東北沢駅そばの東北沢2号踏切を抜けて池ノ上に向かう。この道は古い。途中に延命地蔵が左手に、右手に冨士を五十度参詣したという記念碑が建っている。道の両側の家には木造の古い作りの店が今も残っている。下北沢よりもこちらの方が早く開けた。

 大正十三年の頃のこの池ノ上の様子を細東佐多夫著による小説「静」ではこう述べている。回想談である。

 当時、駅‥‥今の池ノ上駅‥‥近くには、ぼつぼつと七軒の商店がありましたが、六時になると商店は火を消し、八時になると真っ暗になりました。今と違って、下北沢に住んでいる人も、買い物には池ノ上までやってきていました。三角橋乗合バス自動車株式会社という、バスの本社があり、同級生の女性がそこに勤め、バスの衝突事故で亡くなったなどということもありました。

  大正十三年というと小田急線も井の頭線も開通していない。それでも三角橋乗合バスが運行されていたようだ。三角橋は現在の東北沢駅の南にある。そこから池ノ上を通り、淡島の富士見坂下に抜けて、そこから滝坂道を渋谷まで行っていたのだろう。鉄道も何もないときにもう七軒も店があったとすると、こぢんまりとした町が形成されていたということだ。下北沢からも買い物に人がやってくるほどだった。その往事の雰囲気が今も町を通ると匂ってくる。ことに豆腐屋さんには独特の味がある。

 新居近くをせっせと歩き廻って漸く探し当てたのがこのお豆腐やさんである。近代的な外装を誇る店々の間に挟まって、意地を張り通すように建つすすけた木造二階建ての屋根の上の、白地に黒文字のI豆腐店という看板を見つけた時には、「あったぁ」と小躍りするほど嬉しく感じた。入口の傍にステンレス張りの水槽があり、その中で長方形に切られた何丁もの、真白なお豆腐が肩を寄せ合うようにひっそりと沈んでいる。薄暗い店の奥で、黒い大きなゴムの前掛けをした年配の小柄な男性が、おおざるを手に何かを洗っている。

 とあるエッセイにこう書かれた池ノ上の豆腐屋さんに立ち寄った。



「絹はね、売り切れてしまったよ」
 小柄なご主人からは前に話を聞いたことがある。
「確か、昭和三年からお店始めたと覚えているんだけど‥‥」
「そうそう、井の頭線もないときだからね」
 小田急線が昭和二年に開通した。その翌年にお店はできた。横光利一がこの地にやってきたのも昭和三年だ。彼もここの豆腐を食べたに違いない。かつてここの豆腐は井戸水で作られていた。
「Hさんは今もここに買いに来られますか?」
「ああ、あの人ね、豆腐好きだね。踏切向こうのYにうちで卸しているから、そっちが近いもので、そこでいつも買ってくれているよ」
 目印のハンカチはもうやめたようだ。先ほどのエッセイの続きはこう書いてあった。

 絹ごし一丁を買って、殆ど毎日欲しいのだが、と切り出すと、住所を訊いて、
「あの辺りは四時頃廻るから、なにか目印になるものを出しておいて下さい」
 とその人が答えた。それ以後、門扉にハンカチを結えつけておくと、定休日以外にはバイクを停めてチャイムを鳴らしてくれるようになった。
 半藤末来子「夏目家の糠みそ」PHP文庫 2003年

 代沢二丁目九番地の眼鏡女史に紹介されて半藤さんの本を買った。そこにI豆腐店のことが出ていてつい笑ってしまった。I豆腐店の佇まいに魅せられて豆腐ファンになったのは横光利一ばかりではない。漱石の孫もそうであった。けれども店の佇まいは豆腐の味を物語っている。外装に金をかけないでステンレス張りの水槽に金をかける。古い町で長年豆腐屋をやっていくはそれだけのものがないとやっていけない。買って来て食べた木綿は大豆の味が舌に絡まってくる。心憎い豆腐だ、醤油なしでも充分食べられる。
(写真はI豆腐店である)



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