2006年05月11日

下北沢X物語(585)〜奥沢二丁目の「海軍村」を訪ねて(上)〜

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 荏原の里には戦争の物語が至る所に転がっている。
   東條由布子氏から「祖父東條英機『一切語るなかれ』」(文春文庫、2000年)を頂いて読んだ。そこにこうあった。

 昭和十六年七月十八日第三次近衛内閣が誕生したが、引き続き祖父は陸軍大臣に任命された。日米和平工作も不調に終り、第三次近衛内閣はわずか三ヶ月で総辞職し祖父も陸軍大臣の職を引いた。
 しかし、思いがけず「…時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。この際海陸軍はその協力を一層密にすることに留意せよ…」との勅命を受けた祖父は、昭和十六年十月十八日、近代政治史の中でも最も激動の時代に組閣した。

 「陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ」との勅命を受けて組閣したとある。陸軍と海軍とが密に連携を取って和平の道を探れという意味合いがあったようだ。が、結局は戦争への道を選んでしまった。

 東條由布子氏は先の文に続けてこう述べている。

 十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気づいた。その声は次第に慟哭に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。
 和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申し訳なさで身も心もちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。

   陸海軍が緊密な共同歩調を取るように、そして開戦ではなく和平にもっていけという意を東條英機は受けていた。強力な指導性である。ところがその意に添うことができなかった。それが慟哭の涙だった。

 東條英機は陸軍である。それでその多くが住んだ北沢の自宅での出来事だったと思っていた。が、東條由布子氏は「用賀の私邸でした」と教えてくれた。そこは武蔵野の舌状台地上にある日本家屋だった。西面する家からは夕冨士が綺麗でしたと由布子氏は言った。冨士の見える用賀の丘上での慟哭、それは用賀の丘上にいた宰相のエピソードである。陸軍と海軍の溝を埋めて和平に持っていく、それは至難だったのだろう。
 「海軍村」という碑の存在を知って、そのことが想像力を肥え太らせる結果となった。海軍、陸軍、それぞれにムラ社会を構成していたのではないかと思った。二つのムラ社会を一本化するのは一筋縄ではいかないのだろうと。

   去年、テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演した東條由布子氏は司会の田原宗一郎氏のの質問、「何故戦争になったのだ?」という問いに答えていた。
「大きな戦争の流れがあってそれはもう祖父には止められなかったのでしょうね」
    おおよそそんなこと述べていたことを覚えている。
    その戦争は真珠湾奇襲ではじまった。海軍が開戦へのキーだったようだ。



  志賀直哉と和辻哲郎が「戦争と平和」を巡って対談をしている。そこに近衛文麿の内輪話を和辻哲郎が紹介している。昭和十九年の秋荻窪の近衛邸で聴いたと言う。

 海軍がずるかったんだということを頻りにいってましたね。海軍がどうしても戦争をやれないのだと言い切ってくれれば、戦争を防ぐことが出来たんだと言っていた。
                  志賀直哉全集 第十七巻 昭和四十九年 岩波書店

   「海軍村」の話をしようとして話題は戦争の話になってしまった。荏原の谷の戦争物語はきりがない。実は用賀の谷の裏にあったのが深沢七丁目の「長尾よね」邸である。そこへ出入りしていたのが和辻哲郎であり、志賀直哉であった。近衛文麿も荻窪の自邸で自殺する前はこの家に滞在していた。「わかもと」創業者の長尾よねから青酸カリをもらったとされている。

 この長尾よね邸は現在は都立深沢高校となっている。その脇を流れているのが呑川である。この川は下って緑が丘に達する。そこで西から流れてきた支流の久品仏川と合流する。実は「海軍村」というのはこの久品仏川に面した丘上にある。

  入り組んだ荏原の谷の一枚一枚に戦争の話が転がっている。それで話が複雑になる。そうしたのは自分だ。けれども「海軍村」がありましたでは面白くない。何かあるはずである。その土地固有のものが転がっていて、それが自分を誘う。実際今日も行ってみた。すると今に残る特質が一つ見つかった。

 その話をする前に「海軍村」の碑のことを話しておくことにしよう。碑はあった。奥沢二丁目三十三番十四番地にである。電信柱の陰にかくれてひっそりとあった。(写真)

○記録
 今日5月11日午後、「北沢川文化遺産保存の会」は世田谷区役所を訪問した。まず世田谷区教育委員会事務局を訪れ教育次長の庄司衞氏と面会した。つぎに世田谷区政策経営部を訪れ、広報広聴課長の本橋安行氏と主査の野口章仁氏と面会した。また、地域コミュニティ活性化支援事業の18年度分を申請した。
○戦艦「武蔵」とともに沈んだ巡洋艦「矢矧」の乗組員、その奥さんだった人が世田谷の施設に居られると聞きました。戦争の記憶としてできれば話を聴いてみたいと思いました。どなたかその施設の名をご存じであればご教示ください。

 



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