2006年09月01日

下北沢X物語(674)〜さすらいの大空詩人永井叔(上)〜

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  浮き世から逃れて旅空に遊んでみたい、誰もが思うことである。自分自身の荏原回遊行もその一つである。つい誘われて、品川ジェームス坂の「レモン哀歌」文学碑を見に行ったり、世田谷岡本公園の古民家を訪れたりする。

 文学の根幹にはさすらいがある。出会ったり、別れたりする情調が詩である。詩人というのは根本的なところはさすらい人である。北沢川文学の詩人で言えば萩原朔太郎、三好達治、加藤楸邨などである。彼らは旅を好んでしていた。が、朔太郎は旅好きではない。三好達治は、追悼詩「師よ、萩原朔太郎」では彼を「旅行嫌いの漂泊者」と述べている。朔太郎は魂の漂泊者であったと言える。

 北沢川文学の領域に「大空詩人」と呼ばれた漂泊のマンドリン弾きの永井叔がいた。前から彼のことは聞いていた。一番はじめに聞いたのは東條由布子氏だった。彼女は本人に直接会って取材をしている。「邪宗門」の大奥さん、貴久枝さんからも聞いていた。
「うちの裏に空き地があったのですよ。そこにやってきてはマンドリン弾いて歌っていましたね。紙切れに歌詞というか、詩みたいなものが書いてあるのですよ。それはね、近くに紙屋さんがいて、裁断した残りをもらって行ってそれに印刷していましたね。ひげもじゃでね、てくてく歩いては、辻辻に立って流しのようにして歩いていましたね」

 萩原朔太郎に師事した慶光院美沙子の書いた「朔太郎の三つの顔」にも永井叔のことが出てくる。詩人志望の彼女に対して彼女の母は大空詩人のことを引き合いに出してやめるように諭したと言う。

 「すべてはエスペラントのように……すべては大空のようにー」と書いたタスキをかけた、マンドリン弾きの哀れな詩人のことなど例にとっては、あの哀れな詩人の姿こそ、多くの詩人の辿るはかない運命だ。だから、女、女は詩など書けません。女は、女という宿命に生きる女であり、詩人であってはならないのです。
 慶光院美沙子 萩原朔太郎 日本文学研究資料叢書 有精堂 昭和46年刊

 朔太郎と幼なじみの美沙子の母は代々木山谷に住んでいた。よくここを朔太郎は訪れていた。その度に山谷駅前の煙草屋に美沙子は煙草「敷島」を買いに行かされたようだ。その山谷近辺にも大空詩人は現れていたようだ。



    先日、太子堂の豆腐屋、伊勢屋の主人に付近の丘上に住む軍人のことを教わった。彼は永井叔が居住していたところも知っていた。それで地図に印をつけてもらった。

 ついさっき間、その永井叔が居住していたところを探した。彼の書いた「大空詩人 自叙伝・青年篇」(同成社 1970年刊)で調べもしていた。昭和二年頃のこととしてつぎの記述があった。

 その頃から、愈々東京を根城に大空運動をおこそうと心に決め、世田谷区太子堂一二三(間もなく五の二五の○=一一六)へ陋居を借り、”大空詩聞の家”と名づけ、福岡及び東京(支部)の大日本家庭音楽会の支援を得て、こまかい六号活字で埋めた大空時間六千部を毎号発行することにした。

 今日の夕方、ここに記してあった番地を探した。が、正確な居住地点が分からずにまた豆腐店「伊勢屋」で聞いた。ちょうど夕暮れどきだった、ご主人も奥さんも忙しくしていた。
「ここら辺の人みんな知っているよ。青いタスキをかけていてね、あごひげ生やしていてさ、マンドリンを持っているんだよ」
  バイクに乗って配達に出かけようとする主人が相手をしてくれた。
「ああ、マンドリンおじさん、なつかしいわねぇ」
 豆腐を買いに来ていた老女が言う。
 ひとしきりその話で店頭が盛り上がった。ついでに地図を書いてくれと主人に頼んだら快く応じてくれた。(写真は永井叔が住んでいた太子堂のとある路地)

*このブログに度々登場していた東盛太郎氏が入院した。今日広尾病院に見舞いに行ってきた。かつて自分自身が入院していたこともある病院である。不思議な因縁を思った。彼は「下北沢の無頼派」を歩く会でやりたいと言っていた。それで十一月の予定には組み入れてある。彼の健康の回復を願ってやまない。  

なお、今日は森栄晃氏から話を聞くことができた。「雨過山房」の横光利一の様子、また坂口安吾のエピソードなど生々しい話を聞けた。



rail777 at 21:01│Comments(7)││学術&芸術 | 地域文化

この記事へのコメント

7. Posted by きむらけん   2017年09月07日 17:42
[大空詩人長井叔情報] 

 貴重な情報をありがとうございます。長井叔は世田谷太子堂に住んでいて、近隣をマンドリンを持って流浪していたようです。そうですね、ガリ版刷りの詩集は常に携えていたようです。テーマ曲があったようでそれをかき鳴らすと子どもたちは心得ていて集まってきました。おっしゃる通り、子どもと一緒になって歌っていたようです。都内随所に出没していたようですが、「佐竹商店街」に現れていたのですね。御徒町駅の近くですね、大空詩人の歴史の一端がコメントで分かったように思います。
6. Posted by 酒井孝昌   2017年09月07日 16:24
 私は現在83才、昭和8年の生まれです。現在の呼び名で台東区台東4丁目に生まれ、育ち、たぶん生涯を終えるだろうと。
明治時代からある「佐竹商店街」で商売をしていました。商店街はちょっと元気がないといわれますが健在です。
 この文に出てくる「マンドリンおじさん」に私は会っています。
記憶は遠のいていますが、休みのお店の店頭に腰を下ろし、マンドリンをかき鳴らして聞かせてくれました。当時の小学生が(私を含む)周りを取り囲んで聞いていました。メガネをかけて白い髭を蓄えておいでだったと、かすかな記憶です。決して物乞いではなく何を糧になさっていたのか全く不明です。近所の子供たちも戦災やら物資統制やらがあって、当時を知る子供はほとんどおらず、他界した人も少なくありません。きっと詩集を売っておられたのではないでしょうか。昔々の思い出がひとつ明らかになりました。ありがとうございました。
5. Posted by きむらけん   2014年03月02日 22:50
[永井叔の本]

永井叔の出没情報の一端ですね。東長崎まで出張っていたのですね。東條由布子さんは永井叔を取材していて、その本は持っているとか言っていました。が、彼女一昨年でしたか亡くなりました。

 永井叔を知る人も少なくなりました。証言情報です。
4. Posted by nalu   2014年03月02日 22:12
我が家に何冊か永井さんの自費出版本ありますよ。すごく分厚い。美空ひばりの映画に出たこともあるようで写真も貼ってあります。
彼の作った歌も載っています。
私は西武線の東長崎に今も住んでいますが子供のころ我が家に来たタスキをかけたマンドリンおじさんと歌を歌いましたよ。
3. Posted by 林哲夫   2008年05月06日 21:58
永井叔さんを描いた絵ではないでしょうか。
2. Posted by きむらけん   2007年10月17日 19:07
 コメントをありがとうございます。二重投稿状態だったので一つを削りました。
 太子堂の路地裏は確かにおっしゃるように昔のままの姿でアパートなどが残っておりますね。懐かしい匂いもします。大空詩人に相応しいところだと思います。
 大空詩人の居住地辺りの路地も趣きがあります。
1. Posted by 大空詩人を懐かしむもの   2007年10月17日 16:40
先日太子堂を散策しました。
太子堂123番地懐かしいです。
清水湯も昔のままでした。あの近辺は時代が止まったような感じがしました。

大空詩人永井叔さん懐かしいです。
よく父が知っていましたが、その父も広尾病院に3ヶ月入院しその後自宅で亡くなりました。
もう少し早ければ色々太子堂のこと大空詩人のことを色々語りたかったでしょう。今となってはかなわぬ話です。

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